『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)

写真》六つの個性、一つの群れ

 1月20日は米大統領就任式の日である。4年ごとに巡ってくる行事だが、今回ほど胸騒ぎがすることはない。これは、あの人の政策がどうこうという話ではない。これからしばらく、見たこともない不釣り合いを見せつけられそうなことが怖いのだ。

 

 過去の大統領を思いだす。ドワイト・アイゼンハワーの記憶はおぼろだが、幼心にも「えらい人」とわかった。ジョン・F・ケネディは、とにかく若くて格好がよかった。リンドン・ジョンソンはベトナム戦争を、リチャード・ニクソンはウォーターゲート事件を思い起こさせるので印象はあまりよくないが、それでもそれぞれ重みがあった。後続の7人も保守リベラルの違いを問わず、首座の人にふさわしい平衡感覚はもちあわせていたように思う。

 

 では、あの人はどうか。人には隠された一面があり、職位についてからそれらしさが出るということもあるだろう。だが、有権者が今回の大統領選挙で票を投じるときに判断材料とした言動をみる限り、平衡を感じさせる因子が著しく欠如していたのは間違いない。

 

 当欄は、チェコの作家カレル・チャペックが米国に将来とんでもない政治体制が生まれるだろうと予想していたことを1年前に書いた(2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。1930年に世に出た空想記事で、『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(カレル・チャペック著、飯島周編訳、平凡社ライブラリー)に収められている。ギャングの頭目が最高権力を手にして、極端な排他政策を指揮するというのである。

 

 ただ、この話ではギャング自身が大統領に就くわけではない。米国では二大政党制ですら暴力に支配されるだろうとの見立てに沿って、陰の実力者としてホワイトハウスを操るだけだ。だから、チャペックが現在の米国社会のどこを突いているかと言えば、銃規制を徹底できずにいることまでだ。彼はロボットの台頭を芝居にしてみせた人だが、世界に冠たる民主主義国で極端な人物が正当な手続きで最高権力者になるとは思わなかったのだ。

 

 選挙は民主主義の礎と言われている。有権者に投票してもらえば、それぞれの思いを積分したものを見極められる、という理屈だ。ただ、一つ条件がある。この過程で一人ひとりの考えが歪められないことだ。ところが最近は、有権者が大小メディアの喧騒に影響を受け、自分自身の熟考にもとづく選択をしにくくなっているように感じる。その結果、投票箱を開くと本来の積分値とは別物のなにかが立ち現れてくるのではないだろうか。

 

 で、今週は『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)。著者(1841〜1931)はフランスの知識人。理系文系の諸学に手を染めたが、社会心理学者と言われることが多い。この本の刊行は1895年。120年余も前に今日的な表題がつけられたことに驚くが、考えてみれば当時のフランスは激動のさなかにあった。1789年の大革命以来繰り返された革命や内乱。群衆が歴史の表舞台に躍り出る時代だった。

 

 19世紀の論考なので弱点もある。社会科学は20世紀に入って科学らしさを高めていったが、この本はそれに乏しい。実験や統計に足場を求めず、社会観察や史実分析をもとに著者の洞察が展開される。そのせいか、そこに展開される理論には批判もあるようだ。

 

 ただ本を開くと、「群衆の一般的特徴」という章で思わずうなずきたくなる一節に出会う。「人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える」「意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」

 

 だから、群衆はたった6人でも成り立ち得るし、何百人いても条件を満たさない場合があるという。この訳が「群衆」を「群集」としないでいる理由の一つは、そこにあるのかもしれない。ここで見落とせないのは、「離ればなれになっている数千の個人」も「ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある」としていることだ。ネットの炎上を目の当たりにすると、この見解は今日ますます的を射ているように思われる。

 

 この本には、いくつかキーワードが出てくる。たとえば「暗示」と「感染」。著者によれば、群衆は催眠術のように暗示にかけられる。その暗示は、群衆の内部で感染を繰り返して増幅される。そこにあるのは「意識的個性の消滅」と「無意識的個性の優勢」。暗示と感染が感情や観念の向きを一つに揃えて行動を促す。その結果、一人ひとりは「もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる」という。

 

 このことで著者が書き添えている指摘を二つ挙げておこう。一つは、群衆の想像力が事実を「変形」させるとしていることだ。「極めて単純な事件でも、群衆の眼にふれると、たちまち歪められてしまう」。もう一つは、そのようにして「集団的錯覚」が生まれるのは群衆のメンバーがたとえ教養人であっても変わらない、と断じていることだ。これも、近年のメディアの混迷やその怖さを予言するような卓見ではないか。

 

 「心象的思想(イデ・イマージュ)」という言葉にも遭遇する。群衆が暗示にかかる思想は「極めて単純な形式」の心象として現れる。だから「類似または連関のような論理的な関係」がなく、「矛盾した思想が相ついで生ずる」ことがある――。この記述で連想されるのも近年の世相だ。ツイッターのような短文投稿サイトの広まり、そしてワンフレーズ・ポリティクス。その根っこは新聞雑誌くらいしかメディアがない19世紀にもあったのだ。

 

 ここまで読んで感じるのは、昨年来見せつけられている想定外の事象の多くでは群衆心理が駆動力として働いたのではないか、ということだ。その作用は、著者の見解ではたった6人でも表れるというのだから人間社会が太古から経験してきた現象なのだろう。ただ、近現代になるとメディアが拍車をかけた。とりわけ最近はインターネットやソーシャルメディアが日常生活に浸透したことで、驚くべきパワーを手にしたように思う。

 

 なかでももっとも強烈だったのは、EU(欧州連合)離脱を問うた英国の国民投票と本稿冒頭で触れた米国の大統領選だ。両者の結果については「人々が第2次大戦後、これこそが人間社会の進化だと考えてきた方向性をいともあっさり一蹴してしまった」と当欄に書いた(2016年12月16日付「ひどい年」を清張の時代と対比する」)。時代精神を群衆心理が駆逐したのだ。それがどうして起こったのかを示唆する論述も、この本にはある。

 

 それは、群衆が幻想に惑わされないための方策を考察したくだり。著者は「群衆の精神に真実を確立し、あまりにも危険になりすぎた幻想を打破するために、有効な、ほとんど唯一の方法」は「経験」だという。経験知のみが誤りを防げるのか。ただ、そこには但し書きがある。「一世代(ジェネラシオン)によってなされた経験は、次の世代にとっては、おおむね無用」。戦時戦後の体験を語り継ぐのが難しい理由は、ここにもあるのだろう。

 

 この本は裁判の陪審員も群衆ととらえ、その制度を論じている。裁判員裁判が始まってまもない日本社会にとっては、これも参考になる。著者は、この制度が「法律の条文しか知らない裁判官」の「職掌柄の冷酷さ」を緩和するとみて、寛容な評決を期待する。ただ、それが今も通じるかどうかは疑わしいと僕は思う。「個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」という傾向は、メディアの増幅作用で不当な厳罰につながる恐れもあるからだ。

 

 議会についても著者は書く。議員集団は「ある瞬間に群衆となる」という。そんな立法府が陥りやすい「危険」の一つとされるのは財政支出が膨らむこと、もう一つは人々の自由を縛る法律をやたらにつくりたがることだ。後者については「議会は、その単純極まる精神から、それらの法律の結果を見誤り、しかもそれらを採決する義務があると自ら信じている」と見抜く。同感だ。現代社会に閉塞感をもたらしている元凶の一つがそこにある。

 

 僕たちも、ふだんは「意識的個性」として生きているのに「ある瞬間」に「無意識的個性」の大波にのみ込まれてしまう。だが肝心かなめの決断では「意識的個性」を取り戻さなくてはなるまい。恐るべし、ル・ボン。この本は、100年の隔たりを超えてなお新鮮だ。

(執筆撮影・尾関章、通算352回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』

(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)

写真》廃炉(朝日新聞2016年12月21日夕刊、翌22日朝刊)

 もんじゅの廃炉を政府が決めた。福井県敦賀市の半島部にある高速増殖原型炉。原発使用済み燃料から得られるプルトニウムを核分裂させ、消費分よりも多いプルトニウムを生みだそうという原子炉だ。資源小国の夢を叶えると言われた核燃料サイクル路線の象徴。1994年、連鎖反応が安定して続く臨界に達したが、翌95年に冷却材のナトリウムが漏れる事故を起こした。運転日数は20年余でわずか250日にしかならない。

 

 この実績をみれば、だれもが廃炉に納得するように思われる。まして3・11の原発事故で原子力の災厄が人々の暮らしを台無しにする現実をまざまざと見せつけられているのだから、なおさらだ。原子力エネルギーに執着する政権もそんな空気を察知したのだろう。

 

 ところが、この決定を不快に思う人がいた。福井県知事だ。廃炉に向かう動きが進むと「現状では受け入れがたい」と牽制し、結論が出た日にも「地元は国策に協力してきた」「唐突な方針決定に地元は大きな不信感がある」と反発した(朝日新聞2016年12月21日夕刊)。たしかに、突然梯子を外されたという構図はある。だが、事故があったときにもっとも深刻な打撃を受けるのは地元だ。報道を聞いて耳を疑った人も少なくないだろう。

 

 ただ、僕には違和感があまりなかった。それは、福井県の同時代史をふつうの県外人よりはよく知っているからだ。1977年、新聞社に入って最初の4年間を福井支局の記者として過ごした。事件事故や町の話題、経済分野を主に取材したが、それでも原発と無縁だったわけではない。とくに反原発運動に携わる人々の話を聴く機会は多かった。その苦闘を通じて、地元に原発志向のベクトルがどれほど強いかが身に染みてわかったのである。

 

 当時、福井県は県全体としてすでに原発受け入れに動きだしていた。たとえば県庁には原子力安全対策課という部署があり、高学歴の理系人材を集めて原発のトラブルに目を光らせていた(当欄の前身コラム、文理悠々2010年11月19日付「アトムとの向き合い方」)。これは、原発立地県が県民を守るために整えた体制としては全国に誇るものだったが、別の言い方をすれば県の未来は原子力とともにある、と腹を決めたことを意味する。

 

 僕は、原発が集中する県南部の嶺南地域に時折出かけた。そこで受けた印象も、人々の暮らしが原発を織り込み済みにしている、ということだった。原発のおかげで集落に舗装道路がつながった、身近な人が施設内の食堂や売店で働かせてもらっている……住人がそんなふうに感じる現実が進行していた。県内の原子炉は僕が福井にいる間で6基から9基にふえた。その後も増設が続き、最盛期には10基を超える密集地になったのである。

 

 で、今週の一冊は『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)。中日新聞の福井県版と中日新聞社が発行元となっている日刊県民福井が、2000年に紙面化した連載記事をもとにしている。

 

 福井県の対原発意識を知るという意味では、ほんとうは古巣新聞社の後輩支局員が書いたものをとりあげたかった。だが、それをやめてこれを選んだのには理由がある。2000年のタイミングに惹かれたのだ。3・11後の執筆では、あの大事故を見てから身につけた後知恵が影響してしまう。そうかと言って昔過ぎては、もんじゅナトリウム漏れ事故などの体験が反映されない。この本は、最適の断面を切りだしていることになる。

 

 業界人としての興味もあった。中日新聞社発行の東京新聞は今や、原発に筆鋒鋭いメディアの筆頭格だ。一方の日刊県民福井は、前身の日刊福井が1977年、地元ゆかりのゼネコン、熊谷組を後ろ盾に発刊されたという前史がある。そのころ、熊谷組元社長の熊谷太三郎さんは自民党の参議院議員で、発刊直後には科学技術庁長官に就いた。逆方向のベクトルが潜在していそうなメディアが2000年当時、どんな位置取りをしたかを知りたかった。

 

 原発立地で地域社会がどう変わったかがわかるのは「半島のくらし」という章だ。日本原子力発電の敦賀発電所がある敦賀市浦底からの報告を見てみよう。敦賀半島の集落で、戸数は記事連載時で16戸。国が敦賀1号機の設置を許可した1966年、半島の先までの県道が整った。「原発が来るまで、敦賀市中心部から浦底に通じていたのは軽自動車がやっと通れるくらいの未舗装道路だけ」で舟運が頼りだったから、生活は大きく様変わりした。

 

 集落はもともと半農半漁だったが、連載時点では全戸数の約半分が民宿を営んでいた。発電所で2号機が建設された前後にふえたという。滞在型の宿泊需要として「原発関連業者の利用」が見込めたのだ。住人は原発立地で土地や漁業権を失い、代わりに補償金を手にした。民宿女将の一人が前の世代から聞いた話を打ち明ける。「うちも部屋とか屋根の改修なんかにそうしたお金を使ったようやね」。設備投資の資本力を補ったのも原発立地だった。

 

 仕出し業に進出した民宿もある。発電所では定期検査の繁忙期、ふだんの倍を超える2000人余が働く。社員食堂はあるが、弁当需要も高まる。そこにいくつかの業者が参入していた。この本に出てくる1軒では、定検時に「アルバイトを増員」したり、夕食夜食の対応で「睡眠時間が2、3時間」になったりする。ちなみに、経営者の息子さんは「日本原子力発電の社員」。浦底の住人にも「原発関連の会社に勤めるサラリーマン」がふえていた。

 

 原発が、辺地を都会に結びつけて起業の種を撒き、雇用を生んで就業構造をすっかり変えてしまった。これがこの半世紀、原発を受け入れた地域社会で起こったことだ。福井県の嶺南地域には、そんな集落が海岸伝いに数珠のように連なっているのである。

 

 この本は、原発が地元の都市部にもたらした変化も照らしだす。敦賀市には、クラシック音楽に適した大ホールのある市民文化センターや福祉総合センター、総合運動公園などが揃っている。それを支えるのは、原子力施設の固定資産税などで潤う市の財源だ。ハコモノだけではない。電力会社が文化センターで著名音楽家の演奏会を無料で開いてきたという。その結果、皮肉なことに市民団体主催の演奏会の客が減った。本末転倒の感がある。

 

 読んでいて切なくなるのは、福井県にはすでに半生を原発に捧げてきた人が大勢いることだ。ある県内人は68年、工業高校を出て日本原子力発電に入った。没頭したのは、発電用タービンの振動を抑えること。「そのうち、タービンの覆いに触れたときの振動やタービンの回る音で、調子を見分けることができるようになった」。取材を受けた時点では東京勤務だが、「現場で感じ取るタービンの響き」を後継世代に伝えたいという気持ちでいる。

 

 県外から福井の原発にやってきた人も多く登場する。その一人は兵庫県の工業高校出身者で、関西電力に入社後しばらくして建設中の美浜原発にやって来た。最初に手がけたのは、運転手順の文書づくりだ。米国メーカーの炉。英文を訳し、火力発電所用の手順書を参考にしながら「後輩が『迷わんように』と考えて作った」。まさに原発草創期の大仕事。その背中を見て育ったからだろうか、「長男はいま原子力業界で技術者として働いている」。

 

 もう一つ、特記したいのは広報部門の第一線にいる人々の言葉だ。「正確にありのままの情報を提供しないと福井県での原子力はない」(関西電力)、「すべて公開すべきだった」(旧動力炉・核燃料開発事業団)。後者は、もんじゅナトリウム漏れ事故時に組織内でビデオ隠しがあったのを振り返っての述懐だ。真摯な思いは伝わってくる。だが、透明性を高めさえすれば原子力を是とすべきなのか。この問いを封印した社会がここにはある。

 

 この本は、原子力史をとことん地元の目で綴っている。率直に言って原子力そのものに対する批判は乏しいと感じるが、そこには別次元の教訓がある。大都市には3・11後に原発を嫌いになった人が大勢いるが、地元の人はそう簡単に心変わりできないということだ。

 

 原発をなくしたい。だがそれは、大都市に住む僕たちが勝手に決める話ではない。心苦しいが、既設地帯の人々に自らの意思で社会の再設計に踏みだしてほしいと頼むほかない。

(執筆撮影・尾関章、通算351回)

 

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『それから』(夏目漱石著、岩波文庫)

写真》賀春

 風雲急を告げる2017年である。太平洋対岸の大国ではトップがもうすぐ代わり、その人がいったい何をするのかが気がかりだ。隣国ではトップをめぐる混乱がすでに極みに達して、東アジアの安定を崩すことはないかと目が離せない。そして足もとでは改憲の歯車がカチカチと回りだし、戦後っ子が当たり前と受けとめてきた価値に「時代遅れ」の烙印が押されそうな雲行きだ。どこもかしこも不安だらけだが、ともかくも正月が来た。

 

 先々週の当欄「クリスマスには幽霊を呼ぼう」(2016年12月23日付)にも書いたように、日本では正月に、欧米ではクリスマスに家族のもとへ帰るという社会習慣がある。近代人は、自らの活動拠点を機能本位の組織ゲゼルシャフトに置くことが多くなったが、年に1度くらいは血縁地縁の共同体ゲマインシャフトに立ち戻りたくなるのだろう。最近は商店の元日営業もふえたが、コンビニくらいにとどめておいたほうがよいと僕は思う。

 

 さて当欄は、家庭内の私事にはなるべく触れないできた。60歳超の男の異端の主張や愚痴めいたつぶやきに家族を巻き込みたくないからだ。ただ、物故者については縛りを緩めてもよいだろう。僕の祖父母4人は、先週の当欄「今年は『坊ちゃん』の明治で年を越す」(2016年12月30日付)で明かした通り、みな明治生まれだ。内訳を言えば、商家出身一人、農家出身一人、士族出身一人、農商どちらか不分明が一人ということになる。

 

 もっとも親密だったのは、長く同居した父方の祖父だ。商店街で小さな和菓子店を開いていた。「まっすぐ」を「まっつぐ」と言い続けた江戸っ子である。子ども心に敬愛していたのは母方の祖母。電車の駅で三つめの屋敷町に住んでいて、よく遊んでもらった。背筋がぴんとしていていつも冷静沈着。晩年、「わたしは士族の娘だから」というひと言を聞いたときはちょっと退いたが、そんな時代錯誤の自負も彼女の支えだったのだろう。

 

 多民族ならぬ多階層のルーツをもつことは僕にとって一つの財産となった。幼少のころから、世の中はひと色ではない、と身に染みて感じることができたからだ。その意味では、家の釣りあいなどにこだわらずに婚姻を進めてきた先行の家族に感謝である。

 

 最近人気のテレビ番組にNHKの「ファミリーヒストリー」がある。著名人のルーツを制作陣が本人に代わってたどる、という趣向。ひと昔前なら差別を助長すると批判されかねなかったと思うが、世の中の受けとめ方がだいぶ変わってきたのだろう。さまざまなリスク含みではあるが、観ていると胸が熱くなるのは事実だ。人は自らも知らない過去を背景に生きている。その驚きは、正月に家族が集まったときに抱く感慨ともどこか通じあう。

 

 で、今週は新春恒例の漱石。暮れに『坊っちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)をとりあげたからではないが、今年は『それから』(夏目漱石著、岩波文庫)を選んだ。明治40年代の話だが、そこに描かれる人々は江戸時代の延長線上に見てとれる。日本社会は欧風資本主義の道具立てを整えたが、底流には封建主義の意識が残っている。それに抗して近代の自我をどう貫くのか。その葛藤が社会批評を交えた筆致で描かれている。

 

 書きだしはこうだ。「誰か慌(あわ)ただしく門前を馳(か)けて行く足音がした時、代助(だいすけ)の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下っていた」。眠りから覚める瞬間。ただ、門前の足音には現実感がある。読み進むと、主人公長井代助の家は東京・牛込神楽坂界隈にあるらしいとわかる。独身だが、同居の書生と「婆(ばあ)さん」が身辺の世話をしてくれる。当時の山の手には、こんな暮らしがあった。

 

 代助は高等教育を受けているが、仕事には就かない。「先生は一体何をする気なんだろうね」で始まる書生と「婆さん」の会話。ここで「先生」は代助だ。「まあ奥様でも御貰(おもら)いになってから、緩(ゆ)っくり、御役(おやく)でも御探しなさる御つもりなんでしょうよ」「いいつもりだなあ。僕も、あんな風に一日(いちんち)本を読んだり、音楽を聞きに行ったりして暮していたいな」。高等遊民とは、こんな人を指す言葉なのだろう。

 

 この境遇は、同時代の資本主義と前時代の封建主義の両方に乗っかっている。代助の父は役人勤めをした後、実業に手を染め、「自然と金が貯(たま)って」「大分(だいぶん)の財産家になった」。兄も、父のかかわる会社の幹部。父と兄のいる邸は東京・青山界隈にある。代助は、この実家に月1回ずつ生活費をもらいに参じて「親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている」。だから、経済面ではまちがいなく資本主義の子である。

 

 だが、こんなすねかじりの実態がありながら本人は平然と暮らしている。武家の名残が感じられる日常だ。実際に父は若かったころ、どこかの藩の武士であり、藩財政が逼迫したときに「町人を二、三人呼び集めて、刀を脱いでその前に頭を下げて、彼らに一時の融通を頼んだ」ということもあった。その功績は決して小さくはなかったようで、実家には「先代の旧藩主に書いてもらった」とされる書がありがたそうに掲げられている。

 

 この小説の筋は代助の秘められた恋心をたどるが、そこにも同じ構図がある。代助は、学生時代に知りあった菅沼三千代への思いを彼女が親友平岡常次郎の妻となった後も断てず、むしろ募らせる。そこにあるのは、近代の自我だ。だが、父や兄夫婦が縁談を用意しており、しかも先方の娘は父が藩士時代に恩を受けた人の家族だった。これは、武家意識を引きずっている。資本主義の力と封建主義の慣性。男女の心理にもそんな力学が見てとれる。

 

 この小説には三千代のほかにもう一人、魅力的な女性が登場する。代助の嫂(あによめ)梅子だ。彼が実家で客間にいると「ちょいと其所(そこい)らに私の櫛(くし)が落ちていなくって」と入ってくる。「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になって上げるから」。このあと二人が始めるのは、ファッション談議だ。彼女の胸元にのぞく半襟が話題になる。「此間(こないだ)買ったの」「好(い)い色だ」。成人男女の快活な心の通いあいがある。

 

 別の箇所で梅子は「天保調(てんぽうちょう)と明治の現代調を、容赦(ようしゃ)なく継ぎ合せたような一種の人物」と素描される。縁談話では義父の意向を代弁する。これは、天保調だ。だが代助から、兄が留守がちで淋しくないかと問われたときは、いったんは笑って受け流した後、「貴方が奥さんを御貰(おもら)いなすったら、始終宅(うち)にばかりいて、たんと可愛がって御上げなさいな」と言い切る。こちらは現代調の心情だろう。

 

 もう一つ、この作品の読みどころは明治末期の風俗だ。身近なところでは代助の朝食。「熱い紅茶を啜(すす)りながら焼麺麭(やきパン)に牛酪(バタ)を付けて」とあるから、洋風が広まりかけていた。代助の甥は「近頃ベースボールに熱中している」。姪も「近頃はヴァイオリンの稽古(けいこ)に行く」。梅子と雑談を始めた客間は「近頃になって建て増した西洋作り」とされている。いわゆる洋間だ。「近頃」は欧風文化のラッシュだった。

 

 都市のインフラも整いつつあった。たとえば、春の上野を描いたところで「電燈に照らされた花の中に這入(はい)った」という記述に出会う。代助が書生を住まわせるときには「風呂は水道があるから汲まないでもいい」と言う。その書生に「君、電話を掛けてくれませんか」と頼み、公衆電話へ走らせたりもする。夜に郵便を届ける「夜中投函(やちゅうとうかん)」という制度もあった。人々が昼夜を問わず通信を交わす時代はできあがっていた。

 

 代助が動きまわる足は路面電車だ。だが、実家を訪ねるときに「電車の左側を父と兄が綱曳(つなびき)で急がして通った」という描写もある。綱曳とは二人で引く急行の人力車らしい。東京市街では、電力と人力が競い合っていた。ここにも明治の位相がある。

 

 遊民は、封建の世とひと続きの近代を生きる明治人にとって一つの解だったのかもしれない。代助は「歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる」という生き方をする。なぜ歩くのかと思うこともあって、そんなときは「アンニュイ」(倦怠)に襲われる。たしかに、行動が目的になるというのは話が逆だ。でも、そういう遊民流だからこそ時代を超越できる。先が見通せない2017年、書きたいからから書く、と当欄も開き直ることにしよう。

(執筆撮影・尾関章、通算350回)

 

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『坊ちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)

写真》明治の名残

 「明治百年」といわれた年が僕の若いころにあった。1968年のことだ。明治元年から数えて100年となるのは67年のはずだが、そうではなく元号が明治となった時点から満100年の節目を祝ったことになる。印象に残るのは、この年にNHKテレビが放映した「明治百年」と題するドキュメンタリーシリーズ。今、NHKアーカイブスのウェブサイトを開くと「西洋文明が日本に移植される過程を海外取材で克明に描いた」とある。

 

 そのころだっただろうか。「明治は遠くなりにけり」という言葉もよく聞いた。もともとは中村草田男が昭和戦前に詠んだ句から上の句「降る雪や」を外したものらしい。逆に言えば、この感慨が通じるくらい昭和戦後も明治に近かったのだ。身近なところでは、僕の祖父母は4人とも明治生まれだった。町のあちこちにも明治を知る人がいた。年数の隔たりで言えば、高度成長期から振り返る明治末期は現在から顧みる高度成長期にほぼ相当する。

 

 その近さを物語るのは戦争の記憶だ。今ただ「戦争」と言うと、ふつうは1945年まで続いた昭和の戦乱期を思い浮かべることが多い。ところが高度成長期には、平和だった大正をはさんで明治に思いを馳せ、日清、日露の戦争を話題にする人も少なくなかった。

 

 年寄りたちは多かれ少なかれ、先の戦争に対して悔いの念を抱いていた。だが、日清、日露はそれと対比されるかたちで、さほど否定的なものとしては語られていなかったように思う。たぶん、これこそが戦勝というものの怖さなのだろう。戦争は罪深いが、勝ってしまえば国を挙げて勝利の美酒に酔う。他人から奪ったものも自らが奪われたものも忘れて、すべてを水に流そうとする。明治は日本人がそんな経験をした時代でもあった。

 

 こう考えてみると、あの45年間は矛盾に満ちている。江戸の世は、それなりに安定していて独自の近代が芽生えていたが、そこに欧米近代の大波が押し寄せた。科学技術はどんどん取り込まれたが、それと表裏一体のものとしてあった思想はなかなか伝わってこない。その位相のズレが表面化したのが明治後半ではなかったか。富国強兵がもたらした戦勝の無邪気さに覆い隠されるかたちで、近代日本の知性はズレの苦しみを味わっていた。

 

 で、今週の一冊は『坊ちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)。夏目漱石の人気作品「坊ちゃん」に登場する人物のその後の人生に空想を膨らませた長編小説。「その後」ではなく、別の名作の書名を借りて「それから」と続けたところが心憎いではないか。

 

 著者は1951年生まれ、仏文学が専門の大学教授にして文芸評論家。正直に告白すると、僕の高校時代の級友で今もつきあいがある。だからこの本は、今秋刊行後すぐに送られてきた。親しい友の著書を当欄で論評することにはためらいがあってしばし積ん読だったが、それが先日、新聞読書面で紹介されたのである。小説家星野智幸さんの書評には「超大型新人の登場」とある(朝日新聞2016年12月4日朝刊)。これは読まなくてはなるまい。

 

 漱石の「坊ちゃん」では、江戸っ子の主人公が大学を卒業して愛媛県松山の中学校教師となるが、ゴタゴタに巻き込まれ、なにごとにも筋を通す性格から1カ月ほどで辞めてしまう。最後は、同志の山嵐とともに東京まで戻ってくるという筋書きだ。それを受けた今回の作品では本文の冒頭が「新橋駅のホームにゆっくり止った列車から、二人の男が連れ立って降りてきた」。ここから坊ちゃんこと多田と、山嵐こと堀田の荒唐無稽な物語が始まる。

 

 僕の感想を率直に言えば、この小説は小説であって小説でない。文献引用が多い。統計データもある。筋はどこか唐突で、こじつけ感が拭えない。だが、それにつまずかないでほしい。合間に差し挟まれる社会科学書風の世相分析にこそ、汲みとるべきものがある。

 

 では、その世相はいつごろのものか。実はこの設定にも、著者による若干の操作がある。「坊ちゃん」は1906(明治39)年に発表され、そこには日露戦争(1904〜1905)への言及もある。したがって物語の中身はそのころのはずだが、著者は漱石が自分自身の松山生活を踏まえて執筆したらしいことを重くみて、それを1895(明治28)年の話とする。その結果、「…それから」の起点は19世紀末に置かれることになった。

 

 筋の唐突感も読みどころなので、それを追うのは控えよう。当欄は別の角度から、作品を解剖してみる。松山後の多田と堀田が引き込まれていくのは、二つの職域だ。刑事とスリである。この選択に僕は著者の創意を感じる。取り締まる側と取り締まられる側という取り合わせだが、どちらもふつうの人にできないことができる。一方は情報を、もう一方は金品を自在に手に入れられるのだ。この特権が、なんでもありの筋立てを可能にした。

 

 しかも明治中ごろまでのスリ事情は今の常識をはるかに超えていた。個々の稼ぎを親分がピンはねして、そこからタレと称する上納金が刑事に支払われる。「刑事とスリの世界は、半ば公然と癒着していた」。この作品では両者がときに手を結んで市井を歩きまわり、歴史の断面を目撃する。そこに顔を出すのは実在の著名人。とりわけ光をあてられるのが左翼運動の指導者群だ。片山潜、幸徳秋水、大杉栄と、オールスターの感がある。

 

 著者はスリと刑事に狂言回しの役を担わせて、明治後半の日本社会に現れたひずみをえぐり出していく。たとえば堀田が1897(明治30)年ごろ、群馬県の富岡製糸所で工員寮の監督になると、工場は民営化後で就労環境が厳しくなっており、食費も休みも削られていた。「女工たちは『同盟罷工』、つまりストライキを敢行した」。こうして山嵐の「松山で赤シャツらに感じた義憤」が、堀田の社会主義に対する傾倒へ進化していくのである。

 

 当時は、貧困の果てに娘たちが身売りすることもあった。この作品が焦点をあてる第三の職域が「娼妓」だ。多田も、坊ちゃんのイメージを壊すように東京・吉原の遊郭に通う。ここに出てくるのも統計だ。出典が定かでないのが残念だが、全国で1年間に「公娼利用者の延べ人数」が「約二千三百万人」という数字を引いて「成年男子が一年に一回ほど公娼を利用した格好」と書く。漱石が露骨には描かない裏面の世相を白日の下に曝したかたちだ。

 

 こう書いてくると、この作品は高踏派漱石の名作を社会主義リアリズムに接続させたのではないかと誤解されるかもしれない。だが、そうではない。たしかに左翼運動を題材にしてはいるのだが、それを漱石流の批評精神でとらえ、客観的に描いたという感じに近い。

 

 最大のヤマ場は、1905(明治38)年9月にあった日露講和(ポーツマス)条約反対の国民大会だ。東京・日比谷公園界隈では焼き打ちがある。このとき多田は、「坊っちゃん」本編にある通り「街鉄(東京市街鉄道)」に就職して運転士をしているのだが、乗務中の車輌が燃やされる。「おれの運転席が炎に包まれてゆく」「おれが好きになると、みんな消えてゆく」。母のように慕うお手伝いの清を病気で失ったときと同様の衝撃だった。

 

 この日、幸徳秋水は堀田に誘われて都心の群衆を見て歩く。革命につながるか、という堀田の問いにこう答える。「単なる狼藉ですな」。条約が戦勝国に報いていないことに対する「うっぷん晴らし」と断ずるのだ。「でも、いいものを見ました。市民にこういう力があるということは、新発見です」。この秋水の言葉が、どれほど史実に沿ったものかはわからない。ただ、左翼革命をめざす者にとって驚異の出来事だったことは間違いないだろう。

 

 印象深いのは、秋水を囲む新年会で後に大逆事件に名を連ねた取り巻きがブリキ缶を投げあい、「それ爆発だ」とはしゃぐ場面。居合わせた堀田は「とんでもないものを見た」と鼻白む。なんらかの「計画」が進行中なのか。秋水もそれを知っているのか。暴動を「狼藉」と切って捨てた人のはずなのに……「思いは千々に乱れた」。これも、どこまで史実かは不明だ。ただ、革命を叫ぶ人から革命に共感する人の心が離れる一瞬はあったのだろう。

 

 このくだりは1970年前後の風景と重なる。革命志向の若者が暴力の深みにはまっていった。左翼運動は過激化の末に墓穴を掘り、今は社会主義そのものが精彩を欠く。堀田の心理には、著者がかつて学園で経験した戸惑いが映されているように思えてならない。

(執筆撮影・尾関章、通算349回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『クリスマス・キャロル』(チャールズ・ディケンズ著、村岡花子訳、新潮文庫)

写真》メリー・クリスマス

 日本社会のクリスマスほど、奇妙な祝祭はない。当日、街を歩けばツリーやリースの類が飾られているものの、多くの人の気分はすでに1週間後の新年に向かっている。すべては前夜に終わった、というように。もちろん、キリスト教徒はそうではない。行事本来の趣旨を尊ぶ人もそうではないだろう。だが、暮れの風物詩とだけとらえている人々にとって、盛りあがりの頂点は12月24日のイブ。一夜明ければ、どこか白けている。

 

 10月の当欄では、国内で近年顕著なハロウィーン隆盛を論じて「夏休み気分が薄れてクリスマスまで間がある時季に、もう一つヤマ場を設けよう。そんな思惑が商戦を仕掛ける側にも、それに乗っかる側にも見てとれる」と書いた(2016年10月28日付「アガサ、ハロウィーンの世相考」)。裏を返せば、クリスマスは日本の風土にとうに根づいているということだ。新しい年を新しい気持ちで迎えるのに先だって、その前奏曲となる祝祭。

 

 と、ここまで書き進んで、以前にも似たような感想を漏らしたことがあるな、と思った。それで当欄の前身コラムに検索をかけたら、ずばり「いつのまにか日本社会に根を張った『イブがクリスマス』という倒錯した感覚のことも書いておきたい」という記述に出会った(文理悠々2012年12月25日付「クリスマスと新春、非日常のチカラ」)。その後段には、僕が3年ほど過ごしたロンドンでのクリスマス体験が綴られてあった。

 

 1990年代、現地在住のころの12月25日を思い起こして、こう書いている。「地下鉄は止まる。バスも止まる。店はどこもシャッターを下ろす。僕自身、その日買いそびれたものがあって近所を歩き回ったことを思い出す。ただ一つ開いていたのは、アジア人がレジで働くコンビニだった」。そこでは厳然として、クリスマス当日が特別な日だった。しかも人々は、賑やかさではなく静かさのなかで、その日を過ごすのである。

 

 ここで気づくのは、人は1年ひと巡りの循環に生きていて、その途中に1度は静寂へ立ち戻ろうとする性向があるのではないか、ということだ。英国では、それが12月25日だ。日本では、1週遅れの元日になる。電車まで止まるか、逆に初詣のために夜を徹して走るかは大きな違いだが、多くの人が仕事を控えて、家族がいればできる限り家庭に戻る、という共通項がある。だから、欧米のクリスマスと日本の元日はよく似ている。

 

 で、今週は『クリスマス・キャロル』(チャールズ・ディケンズ著、村岡花子訳、新潮文庫)。英文豪の名作で1843年に発表された。産業革命をまっしぐらに進む英国社会の只中でクリスマスがどう祝われ、どんな意味があったかをうかがい知れる一冊。村岡の訳は1952年に出たが、「古風な文体」を読みやすくするために「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」が原訳の雰囲気や語感をとどめるかたちで手を入れている、という。

 

 主人公のスクルージはロンドンの商人。「スクルージ・マーレイ商会」を営んでいたが、相方のマーレイが死んだので店名だけ残して主の座に収まっている。その人物描写は苛烈だ。「彼はひきうすを掴(つか)んだら放さないようなけちな男」(「掴」は旧字、「けち」に傍点)「貪欲(どんよく)な、がりがり爺(じじい)」「秘密を好み、交際を嫌(きら)い、かきの殻(から)のように孤独(こどく)な老人」(「かき」に傍点)とある。

 

 話の歯車が回りだすのはクリスマス前日。「市中の時計台は今しがた三時を打ち出したばかりなのに、もうすっかり暗くなっていた」「霧はどんな隙間(すきま)からも鍵穴(かぎあな)からも流れ込んで来た。外の小路は実に狭(せま)いのだが、それでも向う側の家々がぼんやりとまぼろしのようにしか見えないほどに霧は深かった」。日差しが乏しく、霧が立ち込め、日没も早いロンドンの冬。そんなどん底の季節に祝祭の日が迫ってくる。

 

 その日、主人公の甥フレッドが商会の事務所をふらりと訪れる。「クリスマスおめでとう、伯父さん!」。そう言われて、スクルージが繰り返すのが「ばかばかしい!」のひと言だ。フレッドから「親切な気持になって人を赦(ゆる)してやり、情ぶかくなる楽しい季節」「みんなが同じ墓場への旅の道づれだと思って、行先のちがう赤の他人だとは思わない」と諭され、翌日に自宅で催すクリスマスの食事会に招かれるが、強く拒む。

 

 次いで事務所に現れるのは、寄付を求める紳士たちだ。「貧しい人々に肉や飲みものや燃料を贈(おく)る資金」を集めているという。だが、スクルージには取りつく島がない。「私はクリスマスを祝いはしない。なまけ者が浮かれ騒ぐためにびた一文出しはしない」

 

 商会の従業員――この作品では「書記」とされている――とのやりとりにも、スクルージの吝嗇ぶりが反映されている。「明日は一日休みたいんだろうね?」「御都合(ごつごう)がよろしければ」「都合はよくないよ」。クリスマス1日を休みにするのはやむを得ない、ただその分の給与を減らせば不満が噴出するに違いない――そんな計算をして「次の朝はそのぶん早く出て来るんだぞ」と言い捨てる。これではまるで、ブラック企業ではないか。

 

 ここまでの導入部でわかるのは、当時の英国社会では何事もお金に換算する資本主義が町の片隅にも出現していたということだ。その冷たさを埋め合わせたのがクリスマスの温かさだったと言えよう。スクルージとその周辺の人々の対比が、この構図を見せつける。

 

 この作品の読みどころは、実はここからだ。スクルージが家に帰ると、なにものかがドアを通り抜けて立ち現れる。マーレイの幽霊ではないか。「めぐりゆく一年の中で、今のこの季節に私は一番苦しむ」「なぜ私は気の毒な人たちをかまわずに通り過ぎたのだろう?」「お前さんには、まだ私のような運命から逃(のが)れるチャンスと希望がある」。そう語りかけて、「チャンスと希望」をもたらすために別の幽霊3人が来訪すると予告した。

 

 幽霊3人は実際に来る。幽霊だから時空間を自在に移動できる。その能力をフル回転させてスクルージを連れ回し、さまざまな場面に立ちあわせてくれる。一人目の幽霊が連れていくのは過去の世界。二人目は現在、三人目は未来のそれぞれ案内役となる。

 

 たとえば、幽霊1はスクルージに少年のころの自分を見せつける。街では人々がクリスマスの挨拶を交わしている。ところが大通りから外れて赤煉瓦の古い建物に入り、奥の部屋の暗がりをのぞいたときのことだ。「一つの机にしょんぼりとたった一人で、ほたるのような火にあたって、男の子が本を読んでいた」。こうして大人の彼は「今の今までまったく忘れ果てていた遠い昔の、いじらしい自分の姿を眺(なが)めて泣いた」のである。

 

 幽霊2に連れられてスクルージが垣間見たのは、書記宅のクリスマス風景だ。妻や子が力を合わせて鵞鳥や馬鈴薯の料理をつくり、できあがると家族で食卓を囲む。食後に書記が神の恵みを乞う言葉を述べて「スクルージさんの御健康を祝します」と言い添えると、妻が痛烈な皮肉を口にする。「あんないやな、けちな、冷酷(れいこく)な、薄情(はくじょう)な人の健康を祝ってやるんですから、たしかにクリスマスにはちがいありませんわね」

 

 そして幽霊3は未来に入り込み、取引所で実業家が交わしている会話をスクルージに聞かせる。「いつ死んだのですか?」「昨夜らしいですね」「あの男ばかりは不死身だと思ってましたがね」。葬式の話になると「弁当が出るなら行ってもいいですがね」。別の場所では、もっと辛辣な悪罵も耳にした。「とうとうあの悪魔(あくま)め、くたばったじゃありませんか、ねえ?」。ここには「あの男」が生前、面と向かって言われなかった言葉がある。

 

 スクルージが幽霊に導かれたツアーによって、どう変わったかをここに記すのは控えよう。ただ、この体験が自らの姿を第三者の目でとらえ直し、生き方を改めるきっかけになったことだけは間違いない。幽霊は自己客体化の媒介だったと言えるのである。

 

 最近思うのは、人々が面と向かって批判をしあわなくなったということだ。世間に波風を立てないという意味では好ましいことなのだろうが、それによって自分を変える機会を逸してもいる。空想の幽霊を飛ばして、自らを省みる。そんなクリスマスもあっていい。

(執筆撮影・尾関章、通算348回)

 

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『松本清張ジャンル別作品集5――犯罪小説』(松本清張著、双葉文庫)

写真》古紙結わく

 2週続きで拙句から入る、というのは大いに気が引ける。だが、今の心境をそのまま言い表すなら、これしかないと思って暮れの句会に出した句をあえて載せる。

 年惜しむ気にもなれずに古紙結わく(寛太無)

 

 今回の句会では、一つの句に季語「年惜しむ」を用いよ、という縛りがあった。だが、惜しむ気にはどうしてもなれない。それがこんな苦肉の句となった。読み返したくもないニュースが詰まった古新聞を年の終わりに紐で束ねる。そんなイメージだ。

 

 そう言えば、と思いだすのは、英国のエリザベス女王が1992年11月の即位40年式典で口にしたひと言だ。「アヌス・ホリビリス」――1年を振り返り、ラテン語で「ひどい年」「怖い年」と嘆いたのである。英王室はゴタゴタ続きで、チャールズ皇太子とダイアナ妃の不仲は深刻になっていた。追い討ちをかけたのが、式典直前にあったウィンザー城の火事。気持ちは痛いほどわかる。僕はロンドンに赴任したその月に、この言葉に触れた。

 

 ことし2016年にアヌス・ホリビリスを感じている人は、きっと大勢いることと思う。僕も、その一人だ。だが、「ひどい」「怖い」をいちいち拾いあげるのはやめよう。それこそ、古紙を結わいて葬ったつもりになったことばかりだ。ただ、特記したい出来事が二つだけある。一つは、英国が欧州連合(EU)からの離脱を決めたという話。もう一つは、米国で「暴言王」とも言われたドナルド・トランプ氏が次期大統領に選ばれたことだ。

 

 どちらも、よその国の有権者の選択だ。結果は尊重しなくてはなるまい。しかも、これらには経済のグローバル化に抵抗するという共通項があって、ローカルな経済や文化を守る視点からみれば悪いことばかりではない。では、どうして「ひどい」「怖い」なのか。あえて言えば、人々が第2次大戦後、これこそが人間社会の進化だと考えてきた方向性をいともあっさり一蹴してしまったことか。戦後の価値が幻に見えるという怖さ。

 

 日本社会では、戦後民主主義の風化ということが言われて久しい。だが、今年を振り返ると、それよりもずっと大きな変化がずっと広い範囲で起こっているように思われる。日本ローカルではなく、万国グローバルの現象。そこには、異質なものを嫌う不寛容の方向性がある。あるいは、論理と議論を忘れた行動様式もある。それが国境なしに広がった背景には、20世紀末から21世紀にかけて人類が体験したなにものかが潜んでいるように思う。

 

 で、今週の一冊は『松本清張ジャンル別作品集5――犯罪小説』(松本清張著、双葉文庫)。なぜ清張かと言えば、戦後社会を生活の次元で切りだした断面が彼の作品から見えてくるからだ。当欄でかつてとりあげた『死の発送』という長編では、鉄道が融通の利くダイヤで運行されていた時代を垣間見るができた(2015年12月25日付「清張の鉄路、緩すぎるダイヤの妙」)。そこには、コンピューター以前ののどかさが確実に存在していた。

 

 今回の本には、小説6編が収められている。初出誌の号でみれば1958〜67年に発表された作品群だ。戦後とはいっても高度成長期に入ってからの日本社会が舞台となっている。とりあえず世は太平であり、人々の暮らしぶりもそこそこに豊かになっているから、現在につながる連続感があってもよさそうだ。だが、読み進むと断絶感のほうが強まってくる。ああ、そんな時代もあったなあ。2016年には通用しない物事に出会ってそう思う。

 

 所収作品は書名の通り、犯罪もしくはそれに準ずるものを描いている。それらの筋立てには今、成立しないものが少なくない。そこに断絶感がある。これは、公序良俗にとっては大変喜ばしいことだ。ただ、ここで書名を「善行小説」に改め、登場人物の振る舞いを悪行から善行へ逆転させたときのことを考えてみる。そうすると、善行もまた昔と比べてやりにくくなっているのではないか、と思えてくる。善すらも管理社会のもとに置かれている。

 

 どっちを向いても閉塞感がある。だから逃げ道が見つかると、みんなが一斉にそちらへ雪崩れ込む。「ひどい」「怖い」の根っこには、そんな社会心理があるのではないか。

 

 その閉塞感の裏返しで成り立っているのが、冒頭の「断線」。1964年に週刊誌に連載された中編だ。当欄は、この一編を中心に書く。都内の証券会社に勤める光夫が銀行の窓口で働く英子と結婚するが、クラブホステスの乃理子とも関係を絶てずに出奔する。彼女との同棲中に、こんどは自称貿易商の妻という関西在住の左恵子とも愛人関係になる――というとんでもない男の話。殺人含みではあるが、それよりも光夫の逃避行が読みどころだ。

 

 今では考えられないのは出奔の経緯。光夫は九州へ出張に行くと言い残し、トランク二つを提げて家を出る。1週間くらいとのことだったが、旅先からは「葉書一枚こなかった」。10日ほどたって勤め先に電話で問い合わせると、返ってきた答えは「一週間前に辞めましたよ」。妻は、新婚なのに10日間の音信不通でやっと夫の異変を悟ったのだ。今ならば、メールやラインの交信が途絶えればすぐ怪しむ。九州出張も日帰りが多いことだろう。

 

 光夫は本名と偽名を使い分ける。旧姓は「田島」だったが、結婚後は戸籍名を英子の姓の「滝村」に改める。だが乃理子の前では「友永」を名乗った。ところが左恵子に誘われて関西生活を始めてからは、「滝村」で通したのである。これが逃避行を続けるうえで大きな助けとなるのだが、今日ではこんな工作も難しい。名前の嘘は「運転免許証かパスポートを」「なければ保険証などの文書2点を」と本人確認を求められたとたんにばれるだろう。

 

 実際に光夫は、出奔後に幾度か就職で履歴書を出すことがあるのだが、いずれも本人確認は緩かった。乃理子と同棲していたころ、クラブのボーイの職を得たときは戸籍謄本が不要だったので、友永のままでいられた。大阪で中小の広告会社に本名で入ったときも、やはり謄本なしで済んだ。このあと在阪大手の製薬会社に転職したときは戸籍の写しが必要となったが、興信所員を巧妙に篭絡して身元調査による過去の詮索を避けることができた。

 

 身元のあいまいさは、光夫に何をもたらしたのか。大阪に移り住んでから、新聞記事で自らが犯した事件で警察が「友永」という男を指名手配したことに気づくが、自分は「滝村」なので別人のように思えた。一方、「滝村」を名乗っても身元確認が緩かったために、捨て去った家庭へ引き戻されることもなかった。これらのことそのものは法治や倫理に反していて許しがたい。だがそれを、当時の社会にあった開放感の副作用とみることもできる。

 

 犯罪や蒸発と直接にはかかわらないところでも、時代の緩さがのぞいて見える。乃理子の留守宅に預金先の銀行から電話がかかってくる場面。光夫が電話口で彼女の通帳の中身を尋ねると、先方はためらうことなく金額を教えてくれる。このとき銀行員が身元を質すために口にしたのは「失礼ですが、同居人の方ですか?」のひと言だけ。「そうです、同居人です」と答えると「内縁の関係と察した」ようで無警戒になった。今は、こうもいくまい。

 

 あのころは、身元のあいまいさが死者にもあった。この本に収められた「小さな旅館」という作品では、犯人が一組の男女を殺した後、死体を床下に埋めてこう述懐する。「初め大へんな仕事だと思っていたが、いざ終ってみると、嘘のように楽だった」。楽観の背後には「あと一年もすれば」「完全に白骨になってしまう」という見通しがあり、それで誰の骨だか突きとめられまいと高を括ったのだ。ここでも今ならば、DNA型鑑定がある。

 

 当欄で僕は、ノーベル賞作家パトリック・モディアノの『失われた時のカフェで』(平中悠一訳、作品社)をとりあげ、「モディアノで憂うマイナンバー時代」という一文を書いた(2015年7月17日付)。この小説には、パリのカフェにあだ名で通う女性が登場する。人はだれも、番号を付されるような特定から逃れたいと思うものだ。あのときに書いたように「ふつうに市井に生きるふつうの人々にも逃げ場は欠かせない」のである。

 

 ふと思うのは、「ひどい」「怖い」の元凶は科学技術かもしれないということだ。それは悪を封じる一方で人々の逃げ場を奪っている。今こそ緩やかさを尊ぶ知性がほしいと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算347回)

 

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『八月や六日九日十五日』(小林良作著、「鴻」発行所出版局)

写真》来年の8月

 コスモスよ何処に隠したビッグバン(寛太無)

 10月の句会に出した拙句だ。コスモスは、秋桜とも呼ばれる草花の名であると同時に宇宙も意味する。涼やかな透明感があって可憐なたたずまい。それなのに時空のすべてを内に秘めているのだとしたら、なんと不思議なことだろう。宇宙誕生の大爆発、ビッグバンの灼熱をどこにどのように隠しているのか。そんな思いを込めて詠んだ。

 

 ただ、投句はためらった。似た詩句があるのではないかと心配になってきたからだ。ネットで検索をかけたが、それらしいものは出てこない。コスモスの花で宇宙を思う人はいても、ビッグバンに結びつけるのは科学記者出身の僕ぐらいか。そう思い直して提出した。

 

 著作権などの知的財産権に神経を使わざるを得ない時代だ。僕は去年、東京五輪・パラリンピックのエンブレム騒動があったときに「五輪『盗用』騒ぎで思う『いい歌は似てくる』」という一文を書いた(WEBRONZA2015年8月15日付=後段は有料)。すっきりしたデザイン、口ずさみたくなる歌を求めるなら、著作権にもうちょっと寛容であってもよいのではないか。そう考えての論考だった。そこでは俳句のこともとりあげた。

 

 要旨はこうだ。俳句の17音の並べ方がどれだけあるかと言えば、100を超える数の17乗になる。日本語には、仮名1文字が表す音やその濁音、半濁音のほかに「きゃ」「きゅ」「きぇ」「きょ」「ぎゃ」「ぎゅ」「ぎぇ」「ぎょ」……といった拗音があり、音の選択肢は100通りを上回るからだ。だが日本語として成立していて、味わいがあり、季語も含むとなると「選択の幅はいっぺんに狭まってくる」。無限の自由度があるとは到底言えない。

 

 だから、俳句の世界には似た作品が少なくない。いわゆる類似句である。ただ斯界の内情に疎いからかもしれないが、そのわりに盗作騒ぎとか、著作権紛争のような話をあまり聞かない。理由の一つには、俳句人口のかなりの割合が職業俳人でないことがありそうだ。きっと、句づくりを趣味道楽と割り切って知財に固執しない人も多いのだろう。もしかしたらこの芸術領域には、知財に寛容に向きあう文化の芽が潜んでいるのかもしれない。

 

 で、今週は『八月や六日九日十五日』(小林良作著、「鴻」発行所出版局)。扉には「俳句探偵 小林良作 衝撃レポート」とある。俳句雑誌「鴻」2016年1〜5月号の連載をもとにしているという。僕は、この本の刊行を朝日新聞デジタル版で知った。

 

 戦後の日本で8月は鎮魂の月だ。当欄でも、新聞記者の習性に触れて「8月に入ると、6、9、15という数列がさっと頭に浮かぶ。広島と長崎の被爆、そして終戦。この飛び石にタイミングを合わせ、1945年の夏をなぞるように『戦争もの』の記事を出す」(2014年8月8日付「『戦後』を語って戦争を知るという話」)と書いたことがある。今は、それに12日にあった日航ジャンボ機事故の記憶も重なる。だから、書名に吸い込まれたのだ。

 

 著者は1944年、東京生まれ。略歴欄には俳句活動歴のみが記されている。いわゆる結社のメンバーなので、僕のような半端な俳句好きとは次元が異なる。とはいえ、朝日新聞記事には「元法務省職員」とあった。硬い職業のかたわら、軟らかな世界を膨らませてきたのだろう。この本にはパラパラ動画の仕掛けもあって、頁をめくると探偵姿の人物が帽子を飛ばして驚く様子が見てとれる。別掲写真から推察すると、著者自身が扮装しているらしい。

 

 本文は、著者が「先行句」の謎を追って旅に出るという探偵小説仕立てのノンフィクションである。先行句とは、類似句があったときに先に発表されていたほうを指して言う用語らしい。冒頭は、著者自身が2014年初夏に「八月の六日九日十五日」という一句を「鴻」俳句会の大会に出したときの話。まもなく「選考委員から貴兄の句には先行句があるとの指摘があった」と通告される。「びっくりした。もちろん筆者の投句は取り消しとした」

 

 やがて大会事務局から送られてきた資料などで、永六輔さんが新聞への寄稿で一度ならず「八月は六日九日十五日」という句を紹介していることを知る。「詠み人不詳」と書き添えてあるものもあった。上の句の「の」と「は」が違うだけだ。「日本人として忘れることのできないあの八月の思い」を「どなたが、いつ詠まれたのであろうか」。先行句に気押されるのではなく、逆にこう問い返したところに著者の好奇心のたくましさをみる。

 

 著者の探偵活動は、永さんの記事を載せた新聞社にあたるところから始まる。「不詳」の事情を尋ねたのだ。「メディアの記事には相応のスタッフが動いて検証しているはずであろうから、何らかの情報を把握しているかもしれない」と考えたからだが、有益な答えは得られなかったという。「新聞社は読者側からのこうした個別の照会には対応しないのが普通なのかもしれない」と諦める。この社は僕の古巣ではないが、同業の徒として耳に痛い。

 

 結局、頼りになるのは自分自身だった。「予断を挟まず、インターネット等によりでき得る限り広範に検索し、関係する俳句団体等に問い合わせ、図書館に足を運んだ」。問い合わせと図書館通いは昔ながらの「足で稼げ」流だが、今はここにネットの援護がある。

 

 それでわかったことは、これまでに10人ほどが似た句を詠み、それらを紹介したり、批評したりした人もほぼ同数いるという事実だ。八月」の後は「や」が多く、「の」が続き、「は」や「尽」もある。「尽」は「みそか」を意味するから、この句は月末の感慨を詠み込んだのだろう。日にちの間に「・」を入れた句も散見された。これらのなかで最先行句と判定されたのが、諫見勝則という詠み手の「八月や六日九日十五日」である。

 

 著者は、その句碑が大分県宇佐市にあることをネットで知って現地に赴く。取材を通じて、諫見さんが広島県尾道市の開業医だったことも突きとめる。残念なことに直前に亡くなっていたが、医院を継ぐ子息康弘さんと文通が始まった。句は1992年に製薬会社情報誌の俳句欄で特選となっていた。康弘さんが父から聞いた話では「ある年の八月、診察室の前に掛けていたカレンダーを〈ある想い〉で見つめていた時に、ふっと出てきた言葉」という。

 

 著者の探偵魂は、ここで終わらない。尾道を訪ね、家族に会い、資料を借りて作句の思いに迫ろうとする。わかったのは、諫見さんが終戦当時、広島県江田島の海軍兵学校生だったことだ。6日の原爆投下時は熱力学の授業中。「突如稲光のような閃光と窓ガラスが割れるような振動の後、広島上空にそそり立った原子雲」と後年、県医師会の機関紙に記していた。そして15日には練兵場に並び、校長を通じて終戦を告げられたという。

 

 では9日はどうなのか。諫見さんは実は長崎県諫早市の出身。1945年秋の兵学校閉校で帰郷、翌春に長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入る。「在学中に原爆の凄まじい爪跡――物理的な惨状以上に、人々の心身の苦しみや深刻な苦悩――に直面したに違いなく、それが青年諫見氏の胸に深く刻まれたことは想像に難くない」と、著者は書く。カレンダーの6、9、15の数字の一つずつが強烈なイメージを呼び起こしていたのだろう。

 

 僕が想像するのは、日本中の多くの人がそれぞれの思いで8月のカレンダーを眺めており、そのことが類似句を多発させているらしいということだ。この本は、「Himagine雑記」というブログを紹介する。筆者Himagineさんも「八月や…」を思いついたが、先行句を知って投句を控えたという。そこに書かれた「互いに詩心が共有できたようでうれしくもある」のひと言に、著者は共感する。それこそが先行句探しの「動機の一つ」と打ち明ける。

 

 著者は、「およそ俳句作家をして自然な形で生じる類想句はあるとしても、意識した盗作などはあり得ない」と同好の友に信頼を寄せる。高名な俳人が講演で「八月や…」をとりあげたことに触れたくだりでは、「作者が多いなと感心した」という発言に賛意を表して、そこに「懐の深さ」を見ようとする。他者に広い心で向きあう。これは今の世の中でもっとも欠けているものだ。この寛容を俳句だけにとどめておく手はない。最後に拙句――。

 

 句心でもう一度見る古ごよみ(寛太無)

(執筆撮影・尾関章、通算346回)

 

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『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)

写真》スイートなアメリカ

 トランプ大統領が現実になる。当欄は昨秋、今年の米国大統領選について「当選するのは、たぶんあの人だと思うが、もしかしたら違うかもしれない」と書いた(2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。歴史の針は、その「もしかしたら」に振れたのである。有力メディアの多くはドナルド・トランプ氏の言動にあきれて批判を重ねたが、それが通じなかった。そして選挙終盤、世論調査の大勢も有権者の動向を見誤った。

 

 またも痛感するのは、既成メディアの凋落だ。人々の心に訴える力も、人々の心を読む力も衰えた。「ジャーナリストが世論を代弁して、権力と対峙するという模式図が通用しなくなった」のである(当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」)。8月の拙稿では、メディアが「世論の幻影」を求めて多様な主張の「当たり障りのない平均値」をはじき出そうとしていることに言及したが、その計算も難しくなってしまった。

 

 そんな現実への戸惑いを率直に打ち明けたのが、米国のリベラル派経済学者ポール・クルーグマンの論考だ。ニューヨーク・タイムズが11月11日に載せたものを抄訳で読んだ。「私は『その日』以降の大半はニュースを避け、個人的なことに時間を費やし、基本的に頭の中をからっぽにして過ごした」(朝日新聞2016年11月17日朝刊)。「その日」とは選挙結果が出た日だろう。この気持ちはわかる。僕も数日間は新聞を読む気分が萎えた。

 

 クルーグマンは「でも」と続けて、虚脱状態は「民主主義国の市民」らしくないと思い直す。「真実と米国の根本的な価値観のため」の抵抗が必要だとしたうえで「だが…(中略)…演説や文章が人の考えを変え、政治的行動主義が最終的に権力者を変えることも…(中略)…もはや期待できなくなっている」「だが、免れようがないと言って、この状況を受け入れるつもりはない」と右往左往する。「でも」と「だが」の連発に苦悩がにじむ。

 

 この当惑は、たぶんリベラル派だけのものではない。そう思うのは文中に「真実と米国の根本的な価値観」とあるからだ。人権、自由、平等。米国の指導者は独立以来、やせても枯れても理念とともにあった。独り善がりが余計なお節介となって国外の紛争をドロ沼化させることもあったが、彼らが建前の旗を降ろすことはなかった。それがただ“Make America Great Again(米国をもう一度、偉大に)”の本音だけに代わってしまうことへの違和感。

 

 で、今週は『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)。著者の卓見には、これまでも彼女の著作ではない本を語るときに触れてきた(当欄2014年10月17日付「今こそ宇沢経済学ではないか」、2016年8月19日付「『かたち』から入るというサイエンス」)。今度は本人の本をぜひ、と機会を狙っていたら、邦題『壊れゆく…』が目にとまった。2016年暮れの心象風景にぴったりくる書名ではある。

 

 著者(1916〜2006)は米国出身で、後年、カナダに移住した都市問題の論客。フリーの著述家として健筆をふるった。代表作は『アメリカ大都市の死と生』。アカデミズムから離れたところで思想を深め、社会に影響を与えた人だ。この一点で、僕は『沈黙の春』のレイチェル・カーソンとの共通項を見る。『壊れゆく…』の原題は“Dark Age Ahead”。2004年に出て、著者の遺作となった。この邦訳の刊行は2008年。

 

 一読してわかるのは、著者が母国と移住先をひと括りにとらえていることだ。邦題の「アメリカ」は北米と読んだほうがよい。米国、カナダの同時代史を考察している。文章は融通無碍にあちこちへ飛ぶが、そこには一貫した論理がある。その主軸は得意の都市論だ。

 

 著者が「倒壊」の兆しをみるものの一つが「家族」だ。だが保守派のように、家族の絆の緩みを嘆いているのではない。むしろ、孤立しがちな核家族が地域社会(コミュニティ)とどう関係するかに関心を寄せる。興味深いのは、地域社会のもっとも大切な機能は「友人や知人、近隣との会話によるかかわり」であり、その回路で知識や情報がもたらされれば核家族の人々が地域の一員として「責任を果たすことができる」と論じていることだ。

 

 「責任」とはどんなものか。著者が挙げるのは「軽い病気や怪我の場合に自宅で治療できるだけの知識と経験」「病気や怪我が自宅療養できないほど重症で命に関わる危険があるかどうかを、即座に正しく判断できる能力」「子どもが薬物に走らないように注意し、また他人を警戒しつつだれでも疑ってはいけないと子どもを訓練する能力と気配り」……。核家族が地域に支えられれば、救急車や警察ばかりに頼らない社会が生まれるということか。

 

 著者が危ういと感じる二つめは「大学」だ。北米では「教育を授けるのではなく、卒業証書を与えることが一義的なビジネスとなっている」と断じて、親がわが子の大学進学を「投資」とみる傾向を嘆く。日米の大学比較論で、日本では入試が難しくて卒業はたやすいが、米国では入学後の学業が厳しいので出るのが難しい、という話をよく聞くが、必ずしもそうではないらしい。1960年代から証書発行の場と化したという。

 

 著者によれば、学歴偏重社会は「一九三〇年代の大恐慌の、いわば間接的な遺産」だ。米国やカナダには働きぐちを得ることを最優先に考える文化が生まれた。その志向は教育を蝕んだだけではない。開発本位の政策も生みだした。一例は、米国が1950年代半ばから進めた「州間高速道路システム」だ。「高速道路建設によるアメリカの地域社会の破壊という意見は、完全雇用の創出という正当性によって簡単に打ち消された」と批判している。

 

 トランプ旋風の背後には、ラストベルト=錆びた工業地帯に根強い雇用喪失への危機感があったといわれる。著者は、大恐慌の記憶をたどって大量失業がもたらす苦難を描く一方、求職一辺倒、雇用一辺倒という妖怪が社会を歪めてきた現代史も見逃していない。

 

 印象深いのは「放棄されたサイエンス」という章だ。著者が1950年代、ニューヨーク・グリニッチビレッジの広場を分断する高速道路案に反対したとき、当局者は「交通は水のようなもの」と言い張ったという。せき止めた水が別の出口に流れるように、マイカー時代に幹線道路がなければ周りの小道が車だらけになる、という理屈だ。だが現実には「彼の不吉な予言はあたらなかった」。一見科学的な「水の仮説」が実は科学的でないという逆説。

 

 この章には、1995年夏に数百人が犠牲となったシカゴ熱波の話も出てくる。批判の的は、水分摂取不足、エアコンなしという引きがねばかりにとらわれた医療チームの調査。自己責任論に陥りかねないことを指摘する。むしろ著者は、社会学の大学院生が進めた研究に着目する。それによれば、高齢者の死亡率が低い地域では彼らの多くが商店主と顔見知りで、「ためらわず涼しい店中に入っていき、一杯の水を求めることもできた」という。

 

 この二つの事例からわかるのは、著者は都市問題に科学のメスを入れるとき、人間を不可欠の要素と位置づけていることだ。人は、道路事情が悪ければマイカーを使わずに出かけようという気になる。見知った顔を見かければ「ちょっと涼ませてくれるかな」と頼むこともできる。それが人間というものだ。流れるものならなんでも水にたとえ、生命体といえば生理作用しか思い浮かばない思考のありようは、本当の科学ではないということだろう。

 

 著者は、この章で科学の惰性を戒めている。そこでもちだすのは、科学史家トマス・クーンの論考で広まったパラダイムという概念だ。考え方の枠組みである。科学界でパラダイムは「非常に大切にされる傾向」にあるので、それを疑う「新しい知識や証拠」を突きつけられると「こじつけの説明」などで「潤色される」という。頭に浮かぶのは、3・11後の今も根強い原発必要論だ。ここでも、人間を織り込んだ新思考が求められてはいないか。

 

 「アメリカの郊外を数キロほどドライブしても、乗用車やトラックから降りた人や歩いている人影は見かけない」「地域社会が存在するためには、人々が本人同士で出会わなければならない」。これこそが、ジェイコブズ思想の核心だろう。米国社会が取り戻すべきは偉大さではなく、人が歩いて人と会い、言葉を交わす町ではないのか。よその国のことではあるが、その開放感のある文化が好きだからこそ、余計なお世話を焼きたくなる。

(執筆撮影・尾関章、通算345回)

 

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『小説読本』(三島由紀夫著、中公文庫)

写真》11月25日

 1970年11月25日のことはよく覚えている。東京はとにかく晴れていた。僕はまだ19歳で、白衣を着て実験室にいた。学友の一人がどこかで小耳に挟んだニュースをささやく。「あのミシマユキオが……」。理系学生の基礎実験と大作家の反乱。その交錯に当惑した。それが三島事件を知った最初の瞬間である。たぶんこの時点ではまだ、三島由紀夫は生きていた。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地への乱入がテレビで伝えられた直後だったのだろう。

 

 当日の報道で印象に残っていることが一つある。ニュース番組で、アナウンサーはみな「ミシマ」と呼び捨てにしていた。文学者は文芸記事にとりあげられるときは敬称略だが、テレビではふつう「さん」がつく。それを、いきなり剥奪されたのである。刑事事件の被疑者を今のように「……容疑者」とは呼ばなかった時代だ。高名な作家の芝居がかった振る舞いを世間の常識が犯罪の範疇に位置づけたのだ。そう実感したことを覚えている。

 

 三島由紀夫のイメージで、いつもつきまとうのは二面性だ。ひと言で言えば、作品群の整然としたたたずまいと現実生活の唐突感のある危うさ。華麗な文学者人生を終えるその日に事件報道の文脈で敬称が外れたという事実は、そのことを象徴している。

 

 当欄は、前身コラムも含めて三島作品を真正面から論じたことがない。右派思想を嫌ってのことではない。作品から思い詰めたような空気感が感じられて怯んでしまうのだ。だが、第三者の目がとらえた三島の横顔は好んでとりあげてきた(当欄2016年1月15日付「ノサカの文体でミシマを知る」、文理悠々2012年2月17日付「ミシマ、平凡パンチ&1960年代」)。そこには、お茶目ではあるがとことん孤独な知識人の姿があった。

 

 作家野坂昭如は『赫奕(かくやく)たる逆光』(文春文庫)で、20代の三島を街で初めて見かけたときの印象を書いている。「ライトブルーの上下に髪はリーゼント風」で「うらなり瓢箪(ひょうたん)」(原文の「箪」は旧字)のような感じだったという。

 

 一方、出版人の椎根和は『平凡パンチの三島由紀夫』(文春文庫)で、三島の意外な一面を切りだしている。帝国ホテルで「ハンバーグライスのおいしい食べ方」を伝授すると言って、挽き肉とご飯をごちゃ混ぜにしてみせたという話。新年会で皿を2枚手にとり、それらを時空の軸に見立てて「阿頼耶識というのはね」と唯識論を熱く語っていたら、同席者から「そりゃアラヤシキではなくて、サラヤシキ(皿屋敷)」と茶々を入れられたという話。

 

 どうやら、三島には文学作品そのものよりも、別角度から迫るほうが当欄の嗜好に合っているように思える。ということで今週は、小説論や創作活動の方法論を集めた『小説読本』(三島由紀夫著、中公文庫)。中央公論新社が2010年、単行本として刊行したものが今年10月、文庫化された。所収の13編は雑誌などのために執筆された。発表時期は1948(昭和23)年〜70(昭和45)年で、彼の文学者人生をほぼ覆い尽くしている。

 

 もっとも生々しいのは、「小説とは何か」という一編だ。著者最晩年の1968〜1970年に雑誌『波』に連載された。初出一覧に最終回が70年11・12月号とあるのをみてギクッとする。70年前半に執筆したと思われる部分にこうある。「つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した」「さらに難物の最終巻を控えているが、一区切がついて、いわば行軍の小休止と謂(い)ったところだ」

 

 このくだりで著者は、小説家には「作品内」と「作品外」の二つの現実があり、「私にとって書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張から生れてくる」と打ち明ける。「暁の寺」が終わったことで「一つの作品世界が完結し閉じられる」と同時に「それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になった」。だから、全4巻完成後の世界のことは「想像することがイヤでもあり怖ろしい」とも。暗示に富んだ述懐である。

 

 さらに読み進むと、「心が死んで、肉体が生きているとして、なお心が生きていたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであろう」という一文に出会う。このあたりの論理展開に、僕は納得がいかない。作品内外の相互作用が執筆の駆動力になることはよくわかるが、なぜ作品が閉じるとその外の現実が屑となり、心が死滅するのか。むしろ、これまで囚われていた作品世界から切り離されて自由を手にできるのではないか。

 

 三島事件の予感は、1966年に発表された「『われら』からの遁走――私の文学」にもある。「文学はもちろん大切だが、人生は文学ばかりではないということを知りはじめた」「文士が政治的行動の誘惑に足をすくわれるのは、いつもこの瞬間なのだ」「中年の文士の犯す危険は、大てい薄汚れた茶番劇に決っている」。ここにも「作品内」の現実と「作品外」の現実との相克が見てとれる。ただ、「外」に潜む「茶番」の罠を警戒はしていたのだ。

 

 この本が心地よいのは、著者が最初から「作品外」にいて軽快に文学を語っているからだろう。具体論がふんだんに盛り込まれている。たとえば「小説とは…」では、和風建築の「舞良戸(まいらど)」という板戸をどう表現するかで三つの案が提示される。

 

 1)「横桟のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」2)「横桟戸」3)「まいらど、というのか、横桟の沢山ついた戸」――僕は新聞記者としてわかりやすさ本位を強いられてきたから1)をとるが、著者によれば全部×。「すべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさ、責任のなさという罪名に於て弾劾(だんがい)する」。小説では、説明なしの「舞良戸」が正解という。言葉の自律を尊ぶ思想が、そこにはある。

 

 古今東西の書物を論じる箇所も、この本の読みどころだ。「小説とは…」で僕が感心したのは、柳田国男『遠野物語』評。老いた女の幽霊が現れる場面で、囲炉裏端に置かれた炭取という什器が彼女の裾に触れてクルクル回ったという描写に、著者は目をとめる。「炭取の廻転によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のほうが『現実』になってしまった」。なるほどと思われる読み方だ。

 

 著者の作品を僕が敬遠する理由は、そのスクエアさ、生真面目ぶりにあることをこの本は再認識させてくれる。「わが創作方法」では、自分は「方向」「目的」「道筋」を定めてからとりかかる作家だと表明する。添えられた自虐的な逸話が愉快。著者によると、メキシコ旅行を日程通りにこなして帰ってきたら、友人から「お前の見てきたのはメキシコではない」と揶揄された。「行き当りばったり」だからこそ見えるものがあるとの批判である。

 

 「小説の技巧について」では、「散文芸術の技術的条件のあいまいさ」が難解な筆致で論述されているが、末尾には、著者にとって「夢想の形態」である小説の姿がほぼ1ページを費やして示される。理想の作品像と受けとってもよいだろう。それは「汽車のダイヤのように正確」であり、「作品の内部では注意ぶかく偶然性が排除され、どのような偶然の出会いも偶然の動作もなされず、一度たりとも骰子(さいころ)の振られない小説」だ。

 

 これを読んで僕は、物理学者アルバート・アインシュタインが量子力学の確率論風の世界像に反発して漏らしたひと言を思いだした。「神は骰子を振らない」である。その後の物理学の流れを追うと量子力学の圧勝であり、僕たちが生きる世界のしくみのどこかには骰子が隠れているように思われる。そう考えると、著者が体験した「作品内」と「作品外」の「対立と緊張」は、決定論と不確定性の摩擦によってもたらされているのかもしれない。

 

 特記しておきたいことがあと二つ。一つは、著者が文体面で影響を受けたという作家たち。「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」で堀辰雄、レイモン・ラディゲ、スタンダールらとともに挙げられているのは森鴎外。夏目漱石ではない(原文で「鴎」は旧字)。

 

 もう一つは、著者が法科の学生として興味を抱いたのは刑事訴訟法だったということ。「汽車が目的地へ向かって重厚に一路邁進(まいしん)するような、その徹底した論理の進行」に惹かれたという(「法律と文学」)。ミシマは、どこまでもスクエアな人だった。

(執筆撮影・尾関章、通算344回)

 

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『伊香保殺人事件』(内田康夫著、講談社文庫)

写真》温泉まんじゅう

 今回は、湯けむりの話から。先週、一泊二日で北関東の温泉へ出かけたからだ。宿の滞在時間は20時間弱だったが、今回もよく湯に浸かった。大浴場へは夕食前に1回、夜更けに1回、朝食前にもう1回。部屋の窓際に置かれた内風呂は温泉水を含んでいないとのことだったが、そこにも入って眼前の紅葉に見惚れた。湯に身を沈め、体を伸ばして極楽気分――そんな快楽をもたらすのは湯の温みと成分のせいばかりではない。町の雰囲気もある。

 

 湯の町はかつて歓楽の地だった。夢千代のような芸妓が大勢いて艶っぽい空気を漂わせていたところも多い。高度成長期にはサラリーマンの懇親旅行先となって、雀卓の音が深夜まで鳴り響いた。そしてバブル期、レジャースポットの一つとして認識されたように思う。

 

 僕は最近、ケーブルテレビ経由で年代ものの2時間ミステリー(2H)を観ていて、思わぬ発見をした。地上波キー局で1980年代に混浴シーンを売りものにする2Hシリーズが始まったという史実だ。定番は、露天風呂でグループ旅行の「女子大生」や「OL」が上半身を曝し、じゃれあうように湯をぱちゃぱちゃと掛けあう、という場面。ロケ先は名湯の地ばかりなのに、旅の情緒は感じられない。まさにバブリーなバカ騒ぎ。

 

 ところが温泉地は今ふたたび、湯そのものの恩恵に自らの存在理由を見いだしつつある。僕がここ数年、会社勤めを離れた身軽さで平日の小旅行を重ねて感じるのは、バカ騒ぎの気配が消えたということだ。そういう宿を選り好みしているということもあるかもしれないが、同宿の人々には年配の夫婦、家族連れ、友人仲間が多い。考えてみれば、湯の町は歓楽地であると同時に保養地でもあったのだ。古来、湯治場という言葉もあるではないか。

 

 さて、この秋に僕が夫婦で小旅行したのは上州伊香保。山の北斜面に目抜き通りの石段街が延びていて、階段沿いにあるのぞき窓からは地中の温泉水も見てとれる。文字通りの湯の町。その湯治場としての自負を実感したのは、宿に入る前に町歩きをしていて徳冨蘆花記念文学館にふらりと入ったときのことだ。明治大正期の作家蘆花は1927(昭和2)年に病で没したが、その終焉の場所となった旅館の離れの様子が建物ごと再現されている。

 

 館の見学で思い知ったのは、蘆花が伊香保をどれだけ愛していたかということだ。定宿を決めて生涯に10回も逗留した。なかでも劇的なのは最後の1回だ。館内放映のビデオに収録された旅館関係者の証言によると、主治医が病状を診て止めたのに、言うことを聞かず看護陣を引き連れてやって来た。しかも、どうしてもひと風呂浴びたいと言い張る。周りの人々は彼を籐椅子に座らせたまま湯船に入れたという。その入浴の写真が残っている。

 

 僕の温泉小旅行も、蘆花と同様に歓楽でなく保養志向だ。ただ蘆花にあって僕にないのは、ゆったり感だ。彼の逗留記録では1〜2カ月の滞在は当たり前。こちらは20時間で数回、浴場に出たり入ったりする慌ただしさだ。温泉客の滞在様式も変わってしまった。

 

 もうひとつ言い添えたいのは、重病の蘆花を迎え入れ、わがままな求めにまで応じた旅館主人の寛容だ。もちろん、大作家に対する敬意や、定宿に選ばれたことへの誇りもあったのだろう。だが、それだけではあるまい。あのころ、温泉地の老舗旅館には自らが文化人を応援しているという自覚があったのではないか。それは、近年の町おこしにも通じるが、ただの観光振興とは異なる。経済効果抜きの社会参加の視野をもっていたように思う。

 

 で、今週は『伊香保殺人事件』(内田康夫著、講談社文庫)。浅見光彦ミステリーの一冊で、1990年の作品。浅見ものは2Hドラマの旅情シリーズとしては、西村京太郎の十津川警部と並ぶ人気企画で、複数の民放局が手がけ、それぞれ回を重ねている。当欄では僕が一昨年に鬼怒川温泉郷の湯西川温泉へ出かけたとき、十津川に登場してもらった(2014年10月31日「2時間ドラマの旅で考える鉄道論」)。だから、今回は浅見の番だ。

 

 はじめにことわっておくと、今回はこの本を読みながら列車に揺られ、旅を続けた。その結果、いつになく作品世界にどっぷり浸ることができた。おもしろかったのは、新幹線を高崎で降りて上越線に乗り換えたころ、作中の浅見が地元刑事とともに高崎市内へ聞き込みに入ったことだ。車窓を飛び去る町の景色の一点に、ミステリーの主役が立ち現れたかのよう。その一瞬、リアルな時間軸とフィクショナルな時間軸が交差したのである。

 

 目的地に着くころには半分ほどを読み終えていたので、この本は観光ガイドブックの役割も果たしてくれた。たとえば、石段街の描写は「町を見下ろす伊香保神社下からまっすぐ御関所(おせきしょ)まで、三百六十段、およそ三百メートル」とデータ入り。前述ののぞき窓についても「石段の三ヵ所に『こ満口=まぐち(小間口)』とよばれる分湯口があって、その一つはガラス張りで中が見られるようになっている」と書き込まれている。

 

 ミステリーの筋も、今回の旅で歩きまわったところと重なりあっている。小説では、伊香保の街区と物聞山を結ぶロープウェイの山上の駅近く、北関東の山並みをひと目で見わたせる見晴らし台のそばで第二の事件が発覚する。転落死亡事故だが、犯罪の匂いが漂っていた。僕自身もロープウェイで山へあがり、眺めを楽しんだ後、色づいた木々を愛でながら下りてくるという散策をしたので、現場はあのあたりだな、と思い浮かべることができる。

 

 浅見ものには、旅先に必ずヒロインがいる。この作品では、土産物店の娘で日本舞踊が得意な三之宮由佳だ。東京の学校で美術を学んだ後、地元へ戻って竹久夢二の記念館に勤めているという設定になっている。僕も今回、竹久夢二伊香保記念館を見学した。オルゴールの演奏が売りもの。作中にもその場面が出てくるから、ここをモデルとしているのだろう。由佳は館内でどんな仕事に就いていたのか……また、現実と虚構とが絡まった。

 

 浅見2Hの定番は「浅見刑事局長ドノの弟君」。地元刑事は当初、ルポライターが本職の光彦にいたって冷淡だが、兄の陽一郎が警察庁の幹部と知って態度を一変させるというギャグだ。この小説でも、それに相当するくだりがある。署長が部下をたしなめて言う。「きみねえ、気がつきそうなもんじゃないか、浅見さんといったら、警察庁刑事局長の名前だってことぐらいさ」。職位上下の違いでオロオロする官僚社会への皮肉にはなっている。

 

 例によって、小説の筋を追うことは控える。ただ、冒頭の一文は引用しておこう。「新潟(にいがた)の郷里で、一年ぶりの休暇を楽しんでいた須美子(すみこ)が、『これから出発しますので、遅くとも午後四時ごろまでには戻ります』という電話をかけて寄越(よこ)したのは、二月十六日――衆議院議員選挙戦の真っ最中――の朝のことである」。須美子は、賢くてはきはきした浅見家のお手伝いさん。光彦にほのかに心を寄せるキャラである。

 

 その須美子が帰省先から車で戻る途中、トラブルに巻き込まれて地元警察へ連行されることで、ミステリーの歯車が動きだす。それにしても痛感するのは、浅見家の優雅な暮らしぶりだ。光彦の兄だけではなく、この作品には出てこない亡父も高級官僚。母や長兄夫婦ら一族が同居していて、家事は地方出身で住み込みの未婚女性が手伝っている。もはや化石と言えそうな官僚エリートの貴族的な生活様式が、ここには生き残っているのである。

 

 唐突だが、僕の発見をもう一つ書いておこう。この作品を因数分解すると、松本清張と山村美紗が見えてくるということだ。一つの事件の背後では、新興のクレジット金融業者や開発志向の建設業者がうごめいていて政治家につながっている。もう一つの事件には、日本舞踊の流派がかかわっていて次期家元の座をめぐる争いが見え隠れする。ちなみに由佳に目をかけているのが現家元だ。前者は清張世界、後者は美紗世界に近いと言えよう。

 

 これは、浅見光彦シリーズ全般の強みと言えるかもしれない。浅見家は、山村美紗ミステリーの主舞台とは異なって東京にあり、一家の大黒柱は官庁街に通っている。松本清張ミステリーが好んでとりあげる権力欲と金銭欲の時空はすぐそばだ。その一方で、光彦は風来坊のように漂流して全国津々浦々の風土や伝説に触れ、情念の時空に足を突っ込んでいる。リアリズムとロマンティシズムの共住。恐るべし、浅見ファミリー。

(執筆撮影・尾関章、通算343回)

 

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