『社会学の考え方〔第2版〕』

(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)

写真》社会科の時間

 土曜の晩、ニュースに続いて「ブラタモリ」(NHK)を観るというのは一つの習慣になった。この番組はもともと、タモリが東京近辺の町をぶらぶら歩きするというものだった。当人が連日出演の民放昼番組から解放されると、首都圏を離れて列島各地を歩きまわるようになったが、それでますます波に乗ってきた感じがする。彼は、名うての起伏フェチ。先日の神戸編でも、坂道に対する偏愛が歴史への知的好奇心と巧くかみ合っていた。

 

 こんな話題で始めたからと言って、街歩き談議をしようというのではない。この番組は8時15分に終わるのだが、問題はそれからだ。次に控えているのが、このあいだまでは「超絶 凄ワザ!」だった。NHK公式サイトに「高い水準を誇る日本のものづくり」「不可能を可能にする技術者の『凄ワザ』が世界を変える!」とある。バリバリの科学技術番組だ。力作も多いようだが、夕食後のまったり気分でいる僕の視聴欲はとたんに失せた。

 

 NHKが今春の番組改編で「凄ワザ」の時間枠を変えたのは、そんな理科敬遠派の心理を読みとったからなのか。社会科の授業が終わって理科の時間になると頭が痛くなるという人は多い。僕もその一人だった。それがどうして、理系に進むことになったのだろう。

 

 ひとつ考えられるのは、高度成長期に蔓延した世界観だ。1960年代には、モノの豊かさこそが幸福をもたらすという確信が広まっていた。世の大勢はマルキストではなくても、唯物論者だったのだ。そういう環境下で、僕も理系に誘導されたように思う。

 

 では、昨今はどうか。日々の暮らしを省みると、モノに囲まれながらもモノを超えたものと格闘していることに気づく。今この瞬間も、パソコンに向かってなにかを書いている。スマホでメールを点検したり、タブレットでニュースをチェックしたりというのも日常だ。それらの機器を動かしているのは半導体というモノの塊だが、僕が働きかけたり働きかけられたりしている相手はモノではない。ネットワークという社会そのものだ。

 

 で、今週は『社会学の考え方〔第2版〕』(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)。バウマンは1925年にポーランドで生まれ、71年からは英国リーズ大学で教授を務めた。今年1月に死去している。メイは英国の現役研究者。本のカバーには「碩学と若手の二人の社会学者」が「日常世界はどのように構成されているのか」「日々変化する現代社会をどう読み解くべきか」という問いに「挑んだ」とある。

 

 書名からわかるように、この本には第1版がある。1990年刊のバウマンの単著だ。その邦訳も、同じ訳者の手で93年にHBJ出版局から出ている。第2版の原著は2001年刊。メイの序文によれば「第1版の最良の部分を維持しつつ、その全体的な魅力をもっと高めるように、新たな内容を付け加えた」。付加した「新たな題材」には「グローバル化」や「ニュー・テクノロジー」が含まれる。その新訳が、この文庫版(2016年刊)だ。

 

 僕は碩学バウマンが執筆した大著を若手メイが当世風に微調整したくらいに考えていたが、どうも違うらしい。後段の章で「ハイテク機器」を話題にしたくだりに「著者二人は、PCで原稿を書いているが、互いに、異なるシステムを使っているので、本書の執筆に際して異なるシステム上の要求に対処しなければならなかった」とある。大御所はすでに70代だったはずだが、新世代とやりとりしながら自ら論考を書き改めていたらしい。

 

 この本に現代を見抜く力があることは、序章を読んだだけでもわかる。社会学が「人間の世界」を読み解くときの「鍵(キー)」は「動機づけられた個人」よりも「多方面にわたる人間の相互依存の網の目」にあると言い切っているのだ。ネットワークの重視である。

 

 ネットワーク社会については、「秩序と混乱」と題した章に的確な指摘がある。現代は「情報が物体と離れて自由に移動できる」ので「コミュニケーションは、事実上、瞬間的なものとなり、距離は意味を失う」ようになった。「空間の価値喪失」だ。かくて、「いまここ」と「遠く離れたそこ」の間に境界線を引けない「脱領域的」なコミュニティが現れた。そんな「グローバル化」が「権力の存在形態や分配構造にも影響を及ぼしつつある」という。

 

 1980年代末に東欧の社会主義独裁体制が崩壊したのも、いまポピュリズムの嵐が吹き荒れているのも、その例だろう。この本がとりあげるのは「多数が少数を監視」という状況だ。英国の哲学者ジェレミー・ベンサムは近代の管理方式として、目に見えぬ少数が多数を一望する「パノプティコン」という監視施設を提案したが、その逆の構図が見えてきたという。透明性が高まったとも言えるが、ネットの炎上や報道の過熱のような怖さがある。

 

 この本によれば、グローバル化が進んだことで権力が支配に使う手段も様変わりした。支配される側は、支配する側の目が届くところに引き寄せられて管理されるのではなく、むしろ突き放される。最近の企業は「特定の場所に縛られることはなく、いったん緩急あれば、どこかに拠点を移す準備がいつもできている」。従業員が経営陣のやり方に反発しようものなら「職場の閉鎖」や「会社の売却」などの仕打ちが待ち受けている、というわけだ。

 

 グローバル化で「わたしたちの行為は、地球上のどこかに住む、だれとも知れない人々に影響を及ぼす」ようになった。では、「道徳観」はそれに追いついているのかという問いも投げかけられる。人々は漠然とした不安に襲われると「身近な、目に見え、触れることのできる標的」に意識を向ける。だから、防犯カメラの取りつけなどには熱心だ。だがこれは不安解消のローカルな「はけ口」に過ぎない。グローバルなリスクは残ったままだ。

 

 地球温暖化は、この文脈の延長線上にあると言えよう。著者は、それを「能率の向上や生産の増進の名の下に大量のエネルギーを使用しようとする無数の努力の予期しない結果」とみる。こうした営みは、各々の分野で「それぞれ飛躍的前進や技術的進歩として称賛され、短期的目標に照らして正当化される」。ところが地球規模で見れば、その「努力」が大気の二酸化炭素濃度を高めて平均気温を押しあげ、気候を変動させるというわけだ。

 

 遺伝子工学も同様に批判される。遺伝子を改変されたウイルスや細菌は「明確に規定された目的と、果たすべき個々の有用な仕事をもっている」が、使ってみて「有害な副作用」が見つかれば、その時点で役立たずになる。これも、短期のことしか見ない正当化だろう。

 

 近代の行動様式は「全体を、多くの小さな当面の仕事に切り分ける」。これで費用対効果は高まるように見えるが、実は「気にも留めない費用」がついて回る。それは、当該の仕事と無関係の人々が引き受けることになる。だから「部分的・個別的な合理的行為が多数あることの最終的な帰結は、非合理性の減少ではなく増加である」。思い浮かぶのは、原発事故だ。被災地の人々が背負う苦難は、事業者が無視した「費用」だったのではないか。

 

 テクノロジーの章では、供給が需要を生む現実が描かれる。その駆動力は「このような技術があるが、それを何に使おうか」という論理だ。日常生活の「問題」があげつらわれ、「解決策」として買い物が促される。そんな消費活動が「私化」をもたらすという。「公共交通機関の衰退に対処するために皆が自動車を購入すると、それによって騒音、大気汚染、交通混雑、ストレスなどの問題が悪化する」。ここにも無関係な人々への無関心がある。

 

 読み終えると、科学技術が人間社会のスケールを混乱に陥れたのではないかと思えてくる。それは一人ひとりの悩みを解消する一方で、世界全体に及ぶ難題を再生産している。巨大技術は地球環境を左右する存在となり、情報技術(IT)は地球全体を網で覆った。ところがそれを考案した人間は、時間軸でも空間軸でも遠くを見通せない。それどころか、問題はグローバル化するのに人間は私化するばかり、という皮肉な現象が起こっている。

 

 この本には、社会科の先生が理科の話をしている感じがある。理科がそれだけ肥大化して、影響力を強めたということか。今や、理科の肥満を癒すためにも社会科は欠かせない。

(執筆撮影・尾関章、通算365回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ユリイカ』(復刊第1巻第1号、1969年7月1日発行、青土社)

写真》「折々のうた」再掲(朝日新聞朝刊2017年4月6日)

 心にズシンとくる訃報が多い春である。3月には、ミュージシャンのムッシュかまやつさんが逝った。俳優の渡瀬恒彦さんも旅立った。そのたびに、当欄はゆかりの本をとりあげて故人をめぐる記憶を紡いだ(2017年3月10日付「どうにかなるか、ムッシュに聞こう」、2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ」。そして4月に入り、詩人の大岡信さんである。切ないが、同じ行為をもう一度繰り返すことにする。

 

 訃報に触れてなにかを語るというのは決して後ろ向きのことではない。いやむしろ、死者との間に新しい関係を結ぶ前向きの企てとは言えないか。ただそれは、死の直後に限るべきではないだろう。本という、時の猶予を与えてくれるものがあるからだ。僕たちは読書によって、生物としては去った人を精神世界に呼び戻して語りあうことができる。古典を読むとは、そういうことだ。訃報は新たな古典の誕生を告げる知らせでもある、と僕は思う。

 

 大岡さん逝去を伝える報道では、新聞連載の「折々のうた」に触れたものが多かった。掲載元の朝日新聞のみならず、ほかのメディアも触れていたから、国民的なコラムだったと言えよう。1日1編、古代から現在までさまざまな詩歌を選びだし、その魅力を約200字ですくいとるという宝石箱のような記事。1979年に始まって2007年まで続いた。計6762回。万葉集の収録歌数を超える、と朝日新聞の記事にはあった。

 

 この連載は、僕が朝日新聞社に在籍した36年間にすっぽりと収まる。最初のころ、大岡信という筆者名を見て幾分の違和感があったことを覚えている。現代詩畑の難解な文章が新聞という媒体に耐えるだろうか、と訝しんだのだ。だが読んでみると、その書きぶりは簡潔にして平易で理と情を兼ね備えていた。それは、その後に社内で見かけたご本人の姿と重なる。どちらかと言えば、詩人というよりは折り目正しい知識人という感じだった。

 

 ことわっておくと僕の先入観は、現代詩は難しいから嫌い、というのではなかった。むしろその逆で、難しいからこそ畏れ敬うという類いのものだ。学生時代を振り返ると、二つの雑誌が思い浮かぶ。『現代詩手帖』(思潮社)と『ユリイカ』(青土社)。ともに今も健在だが、1970年前後には言語芸術の枠を超えて若者の心をとらえていた。そこには、言葉の解放が社会の呪縛から解き放たれることにつながる、という確信のようなものがあった。

 

 僕が大岡信の名を初めて目にしたのは、両誌のうちのいずれかだったと思う。天沢退二郎、吉増剛造といった名前といっしょに目に飛び込んできた。彼らの作品を読みまくったという記憶はないのだが、言語空間を自ら構築している様子がうらやましく思えたものだ。

 

 で、今週は『ユリイカ』(復刊第1巻第1号、1969年7月1日発行、青土社)。当欄が雑誌をとりあげるのは、前身のコラム時代を通じて初めてだが、今回はそれが許されるだろう。この号が「復刊」と銘打たれた理由は、1956〜61年の第1期があるからだ。創刊した伊達得夫の早世とともにいったん途絶えた。彼を慕う清水康雄が青土社を起こして蘇らせたのが、この1冊だ。編集後記には「復刊は私の夢であった」とある。

 

 当欄で触れようと思うのは当然、そこに掲載された大岡作品だ。ただ、それに先立って復刊第1号を素描しておきたい。なによりも驚かされるのは、詩の世界にとどまっていないことだ。綺羅星のような書き手の一群がいる。広義の文化の横溢がある。

 

 巻頭は、種村季弘「アナクロニズム」の第1回。人類の宇宙観は球殻宇宙→無限宇宙→膨張宇宙と変遷してきたが、近代になっても球殻にこだわる「地球空洞説」があったという話だ。「球体の内壁に沿って海や大陸がへばりついている」という珍説である。水平線から船が現れる様子も、もっともらしく理屈づけたらしい。「中世にはこれに似た宇宙模型図の構想がいくつもあったのではないか」と問い、「人間のあくなき母胎還帰願望」を顧みる。

 

 次は、植草甚一「コミック・ワールドの異端者と人気者をたずねて」第1回。登場するのは、19世紀末〜20世紀初めに活躍した英国の挿絵画家ヒース・ロビンソンだ。機械仕掛けを笑いのタネにした絵が多い。画集の解説文を「訳してみよう」との記述もあり、どこまでが植草本人の弁かがわかりにくいが、巨大な土木工事などを描いた後期作品群について「人間がコントロールできなくなった世界の一部分のように見えてくる」と評している。

 

 2編からわかるのは、この雑誌が理系の話題を好んで取り込んでいたことだ。地球空洞説は、今日の宇宙物理学から見れば検証に耐えない奇説に過ぎない。だが、人間の想像力がへんてこな宇宙も思い描けると知ることは科学者の思考の柔軟体操にはなるだろう。「へばりついている」の連想で言えば、最近話題のホログラフィック宇宙論――3次元世界は2次元の面に記された情報から立ち現われるという理論――に、そんな柔らかな発想を見る。

 

 ヒース・ロビンソン論も、技術社会史として読める。これが執筆されたころはコンピューターの台頭期で、それから20年ほどして情報技術(IT)全盛期に突入する。この一文が「最近の『パンチ』や『ニューヨーカー』に見られるコンピュターをつかった皮肉なユーモア」(原文のママ)をロビンソンの系譜と位置づけているように、すでに情報社会を斜めから見る批評の先行例もあった。『ユリイカ』は、その匂いを感じとっていたわけだ。

 

 目次を見ると執筆陣には、英文学者にして元宰相の息子吉田健一がいる。哲学者で実存主義の紹介者として知られる松浪信三郎もいる。ドイツの巨匠ギュンター・グラスの詩抄も載っている。ひと色に染まらない、目くるめくような文化世界がそこにはあった。

 

 では、大岡信はこの号に何を書いたのか。それは、全7ページの「断章〔1〕」だ(1は原著ではローマ数字)。書きだしは「動きというものがどういうものであるかを知るためには、超高速の宇宙空間ロケットを思い浮かべる必要はないし、競走馬の疾走を思い浮かべる必要もない」。パリの画廊の一室では、「パネルにとりつけられたボールや針金、あるいは鋼鉄片や木片が、じつにゆっくりした速度で、少しずつ前後左右に動いている」。

 

 モーター仕掛けのオブジェで、「私」は「ありありと、『ものが動く』ということの異様さを思い知らされた」とある。「超高速」ではなく、「停止状態に無限に接近しつつ、なおかつ動きつづけているもの」。その姿がもたらす「深い嘔吐感」は「たぶん、生命というものを対象化して眺めるときに感じるであろう嘔吐感と同質のものなのだ」という。自分はきのうの自分と同じだが、きのうとはかすかに違う。そのことを見事に言いあててはいまいか。

 

 僕は、ここで準静的という熱力学用語を思いだした。物質系の状態が熱平衡からほとんど踏みはずすことなくおそるおそる変化していく過程を言う。可逆的であって、完全には実現できない。人生は非可逆なので準静的ではないが、それに限りなく近いのだろう。

 

 この1編の主役は、「言葉」だ。夢はもともと平板だが、それを語るときに「深さ」や「奥行き」が出てくることを指摘して、その源泉は「語り手の意識の中にあるのか?」「言葉の中にあるのか?」「意識は言葉ではなかったか?」と畳みかける。言葉に魔力を感じているのだろう。一方で、その弱点にも言及する。「類として同一視」することだ。電柱は1本ずつ異なるのに、「電柱」という言葉で括ったとたん「類概念として単一化されてしまう」。

 

 最大の読みどころは、詩人の役目を要約した箇所だろう。それは「異質な諸要素を結び合わせる」ことよりも、「言語宇宙という、かれの内面にあり、同時にかれをその内面に包みこんでいるところの、この豊饒な組織的活性体を、何かしら不思議な力の助けによって、一瞬切り裂き、解体させる」ことにあるという。詩は「ある大きな全体」から突き出た部分の「断面」が集まってできており、「断面からしか、全体は始まらない」とも言い切る。

 

 まとめあげるのではなく切る――。あの温厚な知識人がそんなことを……と一瞬たじろぐ。だが「折々のうた」6762編は、そうした断面を掻き集める作業の果実だったのかもしれないと思って納得する。断面の向こうに、詩人大岡信の全体が見えてくるようだ。

(執筆撮影・尾関章、通算364回)

 

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『電力と国家』(佐高信著、集英社新書)

写真》電力をはかる

 最近の国会中継で気になることが一つある。お役人がよく使う「……してございます」という丁寧表現だ。「そうです」を「そうでございます」と言うのなら、なんの違和感もない。ところが「してございます」となると、とたんに気持悪くなる。「しています」の敬語づかいなら、ふつうは「しております」でよいはずだ。どうして、こんなヘンな丁寧語を用いるのか。そこからは、「とりあえず低姿勢」という霞が関流の慇懃無礼が匂ってくる。

 

 この言葉づかいは、日本政治の二重構造に起因するというのが僕の見方だ。戦後の日本では、政治権力は首相を頂点とする政治家が担っている。だが、現実に政策の立案遂行を仕切っているのは高級官僚のように見える。かつては官僚が政治家を動かして、国の針路を左右するという構図すらあったように思う。官界は政界に比べるとエリート揃いだ。だからこそ、官僚が政治家を操縦するときに求められるのが、不自然なほどの低姿勢なのだろう。

 

 21世紀に入ったころから、官僚の低姿勢には別の意味合いも加わってきた。公務員の倫理規定は強まり、深夜まで働いて電車に揺られて帰る日々。だが、給料はエリートでもそんなに高くない……ようではある。昔なら天下り後の厚遇で過剰労働の元をとるという人生設計もありえたのだろうが、今はそれが通用しない。世間の目は冷ややかになるばかりで、身を守るために低姿勢の度合いがますます強まっていると言ってもよいだろう。

 

 ただ、官僚はしたたかだ。官僚政治の打破は今や政治スローガンの一つになったが、それを言う議員の経歴をみると元官僚だったりする。官僚とは無縁のところから描きだす社会設計を僕たちはもちえないのか。そんな愚痴の一つも言いたくなる。

 

 僕の古巣について言えば、新聞記者には役人とつきあいがある人が多い。朝から役所の一角にある記者クラブに詰めて昼間は庁内を回り、夜は公務員官舎を夜回りする――そんな1日を送っていると、役所の空気に自然となじんでしまうということがあるのだろう。僕は幸いにも、かけだし時代の警察回りや数カ月間の県政担当を除くと、官公庁の記者クラブに常駐する役回りにはならなかった。役所臭さに染まらないという点ではよかったと思う。

 

 で、今週の1冊は『電力と国家』(佐高信著、集英社新書)。もともとは東京電力福島第一原発事故から6年の節目ということで手にとったのだが、読み進むうちに、これは官僚体制批判の書であるとわかった。著者は1945年生まれ。だれもが知る辛口の評論家だ。経済ジャーナリズム出身の人だが、最近はリベラル派の論客としてメディアで活躍している。『週刊金曜日』編集委員の一人でもある。この本は、2011年10月に出た。

 

 前半部で焦点があてられるのは、1938(昭和13)年に成立した電力国家管理法だ。翌年には「日本発送電株式会社(日発)」が発足する。発電、送電、配電のうち前者二つを担う国策企業。「電力会社が築き上げてきた事業をあらかた奪って」の国営化である。著者は、この法律が「『国家総動員法』とともに」「セットにして公布」された点を特記する。当時、日本の国家体制は人々とエネルギーをひとくくりに自らの統制下に置いたのである。

 

 電力国営の絵は、当時の「革新官僚」が描いた。著者は、逓信省出身で内閣調査官だった奥村喜和男の『電力国策の全貌』(1936年)という著書を引用する。奥村は、電力民営の短所として「料金を低廉ならしめ且つ有効適切なる料金政策を実行し難きこと」「国防目的の達成に支障あること」などを挙げる。そして、国営になれば「国家の意思通りに発送電事業を管理し得る」「民間資金の豊富且つ自由なる調達を図り得る」と主張する。

 

 気づくのは社会主義体制との酷似だ。そのころの若手官僚には計画経済への傾倒があった。当欄「岸信介で右寄りのを知る」(2014年10月3日付)で紹介した『絢爛たる醜聞 岸信介伝』(工藤美代子著、幻冬舎文庫)にも、岸が戦前に商工官僚だったころ「ことあるごとに統制経済の重要性と市場経済の行き過ぎを批判していた」という話が出てくる。彼は日本の息がかかる「満州国」の5カ年計画も「ソ連のまね」とみていたようだ。

 

 この潮流を『電力と…』はこう分析する。「世界的な恐慌が吹き荒れた中、資本主義、自由経済の限界、不便さをどの国も痛感しており、一九三〇年〜四〇年代は、私益を否定し公益ならぬ国益を優先する『統制経済』こそが、国の未来を切り開く最良の手段として認知されていた」。米国のニューディール政策も同様だという。これを読むと、日本では「公益ならぬ国益」の様相が際立っていたように思える。それが国家主義を暴走させたのである。

 

 この本が敬意をもってとりあげるのは、その電力国営論と対峙した二人の経済人だ。「電力の鬼」と言われた松永安左エ門と、後に東京電力社長となる木川田一隆。松永は1875(明治8)年、長崎県生まれ。慶應義塾に学び、福沢諭吉翁から直接の薫陶を受けた。翁の「『民』と『野』の伸長」を重んじる教えに従って、官僚嫌いになる。木川田は大正末期、松永と競争関系にある電力会社に入るが、戦後は行動をともにするようになる。

 

 松永の電力人生は明治末期に始まる。九州北部で水力発電や路面電車の事業にかかわった。その後、名古屋以西を営業域とする電力会社を設立、関東にも子会社をつくって既存大手と争う。この首都圏商戦は昭和初期に両社が合流して収まるが、次いで電力国営化との闘いが始まった。民間企業の活動を引きはがすことを「法的に不合理」と訴えていたことが当時の出版物に記されているが、抵抗むなしく敗れ、隠棲生活に入ったという。

 

 第二幕は戦後の反国営論だ。この本によれば、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は「産業支配の分散」をめざして日発解体を求めるが、日本側は「全国一社」「国策としての電力事業」にこだわる勢力が強かった。ここで松永が提唱したのが、全国9分割の私案だ。1949(昭和24)年、東京・銀座に「銀座電力局」とも呼ばれる個人事務所を構えて「民の自由精神を奪った体制へのリベンジ」に乗りだした。木川田も銀座局の常連となる。

 

 翌50(昭和25)年、GHQは松永私案を受け入れて政府にその実施を命じる。銀座局の働きかけが功を奏したのだ。ここで着目したいのは、私案が電力会社の「発送電併業」を前提としていたことだ。GHQの当初案は地域分割のみならず、発電と送電も分ける構想を盛り込んでいたが、そこは松永に譲ったのである。福島第一原発の事故後、電力自由化の声が高まったとき、しきりと言われた発送電分離の芽は、実はここにもあったのである。

 

 この本は、3・11の半年後に刊行された。日本の電力を原発漬けにした愚を追及する姿勢は強く感じられる。だが、その責めは単純には官僚体制に負わせにくい。国策はあったが、現に原発建設に邁進したのは電力会社だ。木川田はもともと原子力を「悪魔のような代物」と嫌っていたようだが、「原子力発電の主導権」を官に渡さないとの一念から東電経営陣の一人として郷里福島県への原発立地を進めたという。その経緯の記述もこの本にはある。

 

 ただ、ここから先は僕の意見だが、日本列島が原発だらけになった背景には、やはり官僚の存在があると思う。その影響力を増幅したのは科学ジャーナリズムではなかったか。自省を込めて、そう言いたい。科学記者は本来、科学全般を見わたして論評力を高めるべきなのに、科学技術庁が力を注ぐ原子力の開発に目を奪われるばかりだった。戦後しばらくは今ほど技術のリスクが問われなかったので、それらを無批判に報道してしまったのだろう。

 

 この本で、著者は松永・木川田の民営論に大いに共感している。週刊金曜日の編集委員と言えば、左派で私企業は大嫌いだろうと思うが、彼はそうではない。そこにあるのは反統制の公共重視だ。たとえば、歴史学者網野善彦の言だという「領海の外に公海がある」を引いて、「公」は国家の外にあるので「国家イコール公ではない」という。そのうえで「電力会社がパブリックを念頭において行動しているとは、とても思えない」と批判している。

 

 佐高信という人の立ち位置を知って思うのは、右に資本主義、左に社会主義を置いて政治を論ずることのばかばかしさだ。いま必要なのは、まず自由であり、私的自由を分かちあいながら公、即ちパブリックの幸福を追求する人々がふえることではないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算363回)

 

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『ロベスピエールとフランス革命』(J・M・トムソン著、樋口謹一訳、岩波新書)

写真》トリコロール

 海の向こうで、有権者は今どんなことを考えているのだろうか。米国の話である。新大統領が内に外にお騒がせのタネをまき散らしている。それを増幅するように、指が軽々しくつぶやく癖もある。とはいえ、この人はきちんとした手続きを経て選ばれた人だ。今になって「こんなはずじゃなかった」と後悔しても、簡単に辞めさせることはできない。これが最高権力者を直接投票で選ぶ大統領公選制の短所であり、長所でもあるのだろう。

 

 よその国の話だから、軽々しいことは言えない。ただ、切に願っていることはある。なによりも、人の生命を奪う行為だけは絶対に避けてほしいということだ。僕たちの世代にとって忘れがたい出来事に、1963年に米国からの初の衛星中継で伝えられたジョン・F・ケネディ大統領の暗殺がある。銃弾をもって理性に刃向かう愚行を、人生の開幕期に見せつけられてしまった。同じような惨劇を閉幕期にもう一度見るのはゴメンだ。

 

 幸い、いま米国に広がるのは非暴力の抵抗だ。人々がデモに出る、裁判所がもの申す、メディアも批判する――それぞれがそれぞれの立場でできることをやっている。さすが、民主主義の国。ただ、政権を追い詰めるまでには至っていない。1974年にリチャード・ニクソンが自ら大統領職を辞したときはウォーターゲート事件という疑惑があった。これに対して現大統領の難点は、いわば理想主義の棚上げだ。情に訴えてくるので攻めにくい。

 

 こんなはずじゃなかった――。これは、決して米国だけの話ではない。国民投票で欧州連合(EU)離脱を決めた英国の人々にも、同様の思いはあるだろう。フランスでまもなく始まる大統領選挙でも、似たようなことが起こるかもしれない。共通項は「情」。世間の感情を浮揚力とするポピュリズムが席巻して変化をもたらすが、冷静になって理性に立ち戻ると「賢明ではなかったな」と悔いるような選択が、世界に蔓延しかねない様相だ。

 

 で、ふと思うのは、史上最大の「こんなはずじゃ……」は18世紀末のフランスにあったのではないか、ということだ。フランス革命は人類史の視点で見れば、封建主義と絶対王政を打ち破って近代の市民社会に道を開いた転換点として燦然と輝いている。だが、革命が起こって数年の混迷に着目すれば大きな汚点を残した。市民たちが立ちあがり、人権の旗を掲げたところまではよかったが、そのあとにとんでもない恐怖政治に陥ったのである。

 

 昨今のポピュリズム台頭とフランス革命とを比べて、大きな違いを言えば、前者は最初から最後まで情が支配しているように見えるが、後者は情に理が絡まっていることだ。いやむしろ、理が勝っているとさえ言えよう。人は理想主義に走っても後悔することがある。

 

 今週は、その歴史を振り返って『ロベスピエールとフランス革命』(J・M・トムソン著、樋口謹一訳、岩波新書)。著者は1878年生まれの英国の歴史家。訳者は政治思想史の学究で、翻訳当時は京都大学に在籍していたようだ。原著は1952年、邦訳は55年刊。

 

 この本は書名に人物と事象を並べて、人間と歴史の相互作用を浮かびあがらせている。巻頭「はしがき」で桑原武夫が書いているように、そこからは「人間は歴史の流れに規制されつつ、一方、この流れの速度を何ほどか加減し、またこれを何ほどか変向せしめる力をもつ」という歴史観がみてとれる。著者は、1789年に始まる革命で独裁色をしだいに強めたマクシミリアン・ロベスピエールの個人史を89〜94年の政治史と重ねて描いている。

 

 ロベスピエールは、フランス北部アラス出身の弁護士で、言葉には「なまり」があり、見てくれは「みすぼらしい」。カッコいいとは言い難い男だったらしい。実家は中産階級下層の「プティット・ブルジョワジー」。いわゆるプチブルだ。この階層の人々は、ささやかな土地をもつと苗字の前に「ド」をつけることができた。彼自身も「革命がすべてのフランス人を『市民』(シトワイヤン)にかえてしまうまで、署名にドを書きつづけた」という。

 

 1789年7月に革命が起こる直前、「三部会」の選挙に地元から出馬して当選する。三部会とは175年ぶりに開かれた議会で、「僧族、貴族、平民(第三身分)の三院」があった。彼はもちろん「第三身分」だ。こうして5年間に及ぶ政治家としての生活が始まる。

 

 このころのロベスピエールは、今で言えばリベラルな人権派だった。1791年に立憲議会がつくった憲法が、選挙の有権者を「三日分の賃金にひとしい税をはらう人々」に限ったのには反発したという。「主権は人民のうちに存在し、人民の一人一人によって分ちもたれるのであり、この主権は投票する権利を必然的に含む」という論理だ。宗教面では、僧侶も「人民の選挙」で選び、俸給制にして結婚も認めるべきだ、という立場をとった。

 

 特記すべきは、死刑に対する態度だ。アラスの弁護士時代から、この刑罰に「嫌悪の情」を露わにしていたらしい。1792年の共和政移行後は、王政終結を完了させるために前国王ルイ16世の死を求めたが、93年初めの処刑後は「これ以上死刑はあるべきではない」との考えを表明したという。それなのに彼は、自身の良心や理性よりも「国家理性」を優先させた、と著者はみる。その結果、人権派の志とはまったく逆方向に進みはじめた。

 

 ロベスピエールが率いる勢力は1793年秋、穏健路線ジロンド派の処刑に手をつける。翌94年春には急進路線のエベール派、次いで寛容なダントン派の面々を相次いで刑場に送る。ちなみにジョルジュ・ダントンは、彼が「愛情にとんだ献身的な友」とまで呼んだ盟友である。そして皮肉なことにその夏、彼――ロベスピエール自身が政敵の糾弾に遭って断頭台の露と消えた。処刑の連鎖という愚。そこには、どんな心理が働いていたのか。

 

 著者によれば、ロベスピエールには自分は「過渡期」にいるという認識が強かった。彼には「自由と平等とを平和に楽しむ」という目標があったが、それが達成されるまでに求められるのは「政権の継続」だとして、そのことに気をとられ、革命勢力が人々の権利を「管理」することと「独裁」することの違いについて考える余裕がなかった、という。「恐怖政治」は、彼自身にとって「徳の治世への控えの間であった」との分析もある。

 

 その犠牲になったのは皮肉にも理想だ。フランス革命は今でも色褪せない政策を提起していた。中央集権体制を壊して自治体に分権しようとしたのも、その一つだ。ところが、すぐに集権型に戻そうとする。この逆コースの背景にも過渡期の意識があったのだろう。

 

 「ジャコバン」をめぐる記述も印象に残る。ジャコバン派はロベスピエールが率いるようになった党派で、集会場所の修道院名からこう呼ばれる。急進派のイメージが強いが、もともとは議員や市民が「議会に提出されている諸問題」をとりあげて「あまり公式でない討論」ができる会費制のクラブだった。競争相手の「コルドリエ」などよりもずっと穏健だったらしい。それがロベスピエールとともに恐怖政治の牽引車に様変わりしたのである。

 

 この本で教えられるのは、フランス革命で起こったことが一度では終わらなかったという卓見だ。著者のまとめ方とは若干異なるのだが、僕なりに整理してみると、1830年の7月革命以降のブルジョワ主導王政→共和政→帝政の流れは、1789年の革命勃発から1804年のナポレオン1世皇帝即位までの15年間の焼き直しだ。もし革命政権がもうちょっと寛容であったなら、こんな無駄な繰り返しはなかったようにも思う。

 

 フランス革命の混迷は、僕たちが若かったころに目の当たりにした学生運動のそれと重なって見える。活動家はみな、社会変革をめざしていた。ただ、党派がその実現のために闘うには指導力の「継続」が必要だ。そのことが仲間内の制裁を招いたり、他派への暴力を引き起こしたりした。愚かなことだった。そこにもロベスピエール同様、過渡期意識があったのだろう。(当欄2016年2月12日付「2月の青春、日本社会の縮図」参照)

 

 人生に過渡期はない。人類の理想も不変ではない。バラ色の未来を掲げて同時代人の生を台無しにするのは、将来世代にとってもハタ迷惑なはずだ。僕たちがすべきは現在を慈しみながら、いま信じる理想をめざして世の中をちょっと変えてみることではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算362回)

 

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『アリバイの唄――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、日文文庫)

写真》TAXI

 どうでもいいことだと冷笑されそうだが、あえて言う。2H、即ち2時間ミステリーが今、存亡の危機にある。報道によれば、老舗のテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」(土ワイ)がまもなく終わる。テレビ東京系「水曜ミステリー9」も消えるようだ。テレ朝は土ワイ枠を日曜午前に移すらしいが、どうもピンとこない。あのまったり感は、夕食後のほろ酔い気分にこそなじむ。こうなれば朝に録画して、その冷凍ものを夜に解凍するしかない。

 

 ただ一つ、ゴールデンタイムで気を吐くのはTBS系「月曜名作劇場」だ。こちらは、開始時刻を午後9時から8時に早めるなど工夫が感じとれる。たしかに9時スタートは、コア視聴者の高齢層には遅すぎた。眠くなって、結末の大団円――海辺の断崖やビルの屋上などの場面――まで完走できないという人もいるからだ。ただ残念なことに、これは毎週ではなく、バラエティなどが放映される週も多い。がんばれ、ドラマのTBS!

 

 月曜はTBS系、水曜はテレ東系、土曜はテレ朝系。さらにかつては日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」(火サス)の大看板があり、フジテレビ系も金曜に枠をもっていた。そんな2H漬けの1週間はもはや夢のまた夢だ。今春、一つの時代が幕を閉じるのである。

 

 それに追い討ちをかけたのが。渡瀬恒彦さんの訃報だ。映画俳優としての実績は数えきれない。だが、同時にテレビの2H文化の支え手でもあった。代表作はTBS系の十津川警部ものだろうが、僕が惹かれるのはテレ朝系の「タクシードライバーの推理日誌」シリーズ。理由は、もっとも彼らしい役柄だったからだろう。そこには、美学がある。しかも、肩に力が入ったものではない。さらっとしていて一陣の風のようなダンディズムだ。

 

 主人公は、タクシー運転手の夜明日出夫(よあけ・ひでお)。警視庁捜査一課の刑事だったが、事件捜査でかかわった女性との間柄を疑われて職を辞したのである。事実無根なのに週刊誌に書きたてられた。妻とはこのあと別れたが、一人娘のあゆみを通じて心を通わせている。夜遅くまでハンドルを握るシフト勤務。帰ってくるのは外階段式のアパート。飄々としていて過去の敏腕ぶりなど微塵も感じさせない男を、渡瀬さんは好演した。

 

 このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある。

 

 シリーズ最近作では、犯人はドラマ冒頭、夜明のタクシーに2番目に乗る女性客というのが一つのパターンになっていたように思う。訳ありらしいが悪い人ではない。ところが、元同僚の刑事が担当する殺人事件で容疑者に浮かびあがる。夜明は、彼らしいやさしさから彼女をかばうが、最後は元刑事の習性のほうが勝って本人に告白を促す――という流れだ。余談だが、最初の客は奇妙ないでたちでわがままを言うオバちゃんというのも定番だった。

 

 ケーブルテレビなどで観ることができるチャンネル銀河では、今年2月から3月にかけてシリーズ前期の作品群が流れた。全39編は1992〜2016年に新作として世に出たが、うち2002年までの16編が再放映されたのだ。その期間中に主演者の生命が尽きたことになる。僕がこのうち数本を観て驚いたのは、初期にはまだパターンが固まっていなかったことだ。シリーズは四半世紀の歴史を重ねて、一つの型を練りあげたのだろう。

 

 このシリーズの見どころは、犯行がどうなされたかというハウダニット(howdunit)だ。そこでは、タクシーが道具立てになる。夜明は、営業所の仲間から「ロングの夜明」とうらやまれるほど、しばしば途方もなく遠い行き先を告げられる。疑わしい乗客は、乗車時間が被害者の死亡推定時刻と重なって鉄壁のアリバイを得るというわけだ。しかも視聴者にはうれしいことに、この仕掛けが旅情ミステリーの味わいも添えてくれるのである。

 

 で、今週は『アリバイの唄――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、日文文庫)という長編小説。副題にある「…事件簿」のシリーズが「…推理日誌」の原作という理解でよいようだ。ネットで調べると『アリバイの…』は1990年に講談社から単行本となった作品で、それが93年に講談社文庫に収められ、さらに99年に日本文芸社の文庫本として再刊行されたようだ。この本を読みながら、ドラマのおもしろさを再吟味してみる。

 

 まず、夜明が原作でどう描かれているかをみてみよう。38歳でバツイチ独身、子どもが一人いるというところまでは同じだ。事件被疑者の妹と不倫関係にあるという事実無根の話が広まって退職した点も変わらない。だが違いがいくつかある。

 

 一つには外見。勤務中の様子を後部席の乗客の視点で素描したくだりには「坊主頭(ぼうずあたま)のように髪を短く刈り込んでいる運転手が、大きな身体(からだ)のいかつい肩を揺すった」とある。すらりとしていて優男の趣もある渡瀬恒彦さんのイメージからは、だいぶずれる。どちらかと言えば、渡辺哲さんだろうか。頑健型の渡辺夜明もコミカルな魅力があって見てみたい気がするが、僕たちはもはや渡瀬夜明にすっかりなじんでいる。

 

 もう一つ、大きく異なるのは住環境だ。小説『アリバイの…』の夜明は、アパートではなく東京・目黒本町の一戸建てに暮らしている。「むかしはよく見かけた、という木造の家」で「構造も建築様式もアカ抜けがしない」。東京の古い住宅街に建て込んだモルタル塗りの家屋という感じだろうか。そこにはなんと、母タカ子という同居人もいる。ドラマで娘のあゆみが訪ねてきて家事を手伝うというのとは大違い。どこか、マザコンの匂いもする。

 

 この小説によれば、夜明は自由が丘で生まれた。今をときめくおしゃれな街である。目黒本町へ転居した後、父が急死したために大学を中退して警察官になったという。あの力みのない生き方は都会っ子の洒脱さがもたらしたものかもしれない、と納得した。

 

 では、この『アリバイの…』もドラマ化されたのだろうか。今回、チャンネル銀河で観た第6編「再会した女 湘南―松本500キロの殺人!?」(1995年)が、それに相当するらしい。ノーブルでセレブなヒロインを、ただの深窓の令嬢から、DJで人気の大学教授に移しかえるなど改変点も多いのだが、トリックの核心はなぞっている。その女性は、偶然にも夜明の幼なじみだった。演じたのは阿木燿子。ぴったりな配役である。

 

 小説では、この二人の関係性を時間軸の上に置く。夜明の生家は、富豪大町家の邸宅近くにあったが、「掘立小屋のようにみすぼらしかった」。それでも大町家の娘千紗は幼いころ、6歳年上の日出夫の家に遊びに来ては狭い庭で遊んだものだ。20代のころ、街でばったり会ってひととき談笑したことはあるが、それっきり。「所詮は、別世界に住む男と女であった」。戦後日本社会に生じた階層の平均化と、その再分岐を映したような思い出だ。

 

 この小説でタクシーがドラマ同様にトリックに使われているかどうかは、ここでは触れない。ただ著者が、この乗りものの特質を知り抜いていて、その運転手をミステリーの主人公にしようと思い立った理由は、書きだしの数ページを読んだだけでよくわかる。

 

 そこで乗り込んできた男女は、けんかの真っ最中。「夫婦か、それに準ずる関係」とみてとるが、聞こえてくる会話を聞いているうちに男は県議、女は女将かママだろうとわかってくる――運転手は客にとって黒衣(くろご)であり、無視される存在だ。だが、その黒衣もまた人間であり、耳とバックミラー経由の視線で後部空間の気配を感じとっている。作家笹沢左保はそこから物語を生みだし、俳優渡瀬恒彦はそれを見事に演じたのである。

 

 夜明が旅先のホテルを退室するときの描写で「もう、戻ってはこない部屋であった」とあるのを見て、はっとする。戻ってこないつもりで、いつも街を流している。それが彼の生き方なのだろう。今も手をあげれば、渡瀬夜明のタクシーがとまってくれそうな気がする。

(執筆撮影・尾関章、通算361回)

 

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『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)

写真》オーストリアワイン Heurigerは新酒の意

 世界情勢が騒がしい。そんななかで、もっと知りたいのにあまり深掘りされなかったニュースもある。去年12月のオーストリア大統領選もその一つだ。やり直しの決選投票でリベラル系の候補が右派ポピュリストといわれる候補を抑え、勝利したのである。

 

 この結果を受けて、英紙ガーディアンは「安堵のため息が欧州全域で聞かれるだろう」と書いた(デジタル版、2016年12月5日付)。英国の国民投票がEU(欧州連合)離脱を決めた。米国の大統領選でドナルド・トランプ氏が選ばれた。自国第一のポピュリズムが席巻するなかで、よその国との協調をうたう政治家が辛勝したことをこう表現したのである。この新聞が左派寄りであることを差し引いても、なるほどとうなずける。

 

 ただ僕が「もっと知りたい」と思うのは、それとは違う角度からだ。新大統領となったアレクサンダー・ファンダーベレンという人が気になる。苗字はvan der Bellen。分けて読めばファン・デア・ベレンだ。興味深いのは、緑の党の元党首ということである。

 

 そこに注目すると、この大統領選の格別の意義が見えてくる。それは、欧州政治の対立構図が保守主義対社会民主主義だけでないことを示した。今回で言えば、右派ポピュリズム対環境保護主義だ。しかもその選挙戦で、環境派が今をときめくポピュリストを制したのである。言い換えれば、彼の地には右派の暴走を止める安全弁が複数用意されているということだ。翻って此の地はどうか。社民勢力は力を失い、有力な環境派勢力も見あたらない。

 

 英紙デイリー・テレグラフのデジタル版にあるAFP電(2016年5月23日付)によると、新大統領はもともと社会民主党員だったが、1990年代初めに緑の党に加わり、その後、党首となった。社民から緑へ。それがどんな理由による転身かはぜひ知りたい。

 

 気になることはもう一つある。これも同じAFP電の受け売りだが、彼は1944年にウィーンで、ソ連のスターリン体制から逃れた「難民の子」として生まれたという。そのころのウィーンはナチスの支配下にあった。父はロシア貴族出身で、母はエストニア人。ユダヤ人排斥の嵐が吹き荒れるさなか、別の方向からやって来た異民族だったわけだ。複雑な思いがあっただろう。彼らがどんな境遇だったのか。それも、知りたいと思うことである。

 

 オーストリアという国は、今では中欧の小国として扱われがちだ。だが、歴史をさかのぼれば、一大帝国を築いた時代が長かった。文化の発信も、だれもが思いつくクラシック音楽など芸術領域ばかりではない。物理学でも哲学と重なる発展があり、実証主義のエルンスト・マッハや、その論敵ルートヴィヒ・ボルツマン、そして量子力学の建設者エルヴィン・シュレーディンガーらを輩出している。ひと言で言えば、奥が深いのである。

 

 で、今週は『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)。名門ハプスブルク家とともにあった中欧の3都市に焦点をあて、それが生みだしたものを紡いでいる。2009年刊。著者は1947年生まれ。略歴欄によればドイツ語、ドイツ文学の専門家だが、とりあげる話題は建築あり音楽ありワインありで、文化全般に対する造詣の深さがうかがわれる。欧州史を、西欧とは別の角度から照らしだした1冊だ。

 

 まずハプスブルク家の源流をさかのぼると、スイスの一領主だった「ライン川の支流アーレ川沿いに住む伯爵家」に行き着く。この本によれば、家名は鷹“Habichit”の城“Burg”に由来するので「鷹城家」か。ルドルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれてまもなく、ウィーンへ移った。皇帝は、ふつうの王よりも一格上だから今でいえば2階級特進の感じか。以来、ウィーンは1918年まで「ハプスブルクの都」だった。

 

 この名家は、神聖ローマ帝国に皇帝を多く送り込んだ。その帝国が消滅しても、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国を治めた。一族がこれほどの力をもった背景には「結婚政策」がある。15〜16世紀に皇帝だったマクシミリアン1世は、妻がブルゴーニュ公の娘だっただけでなく、子や孫の結婚相手もスペインやハンガリーの王家から選ばせた。その結果、「ヨーロッパの約半分」を「支配下」に置いたのである。

 

 町の話に入ろう。三都は意外と近距離にある。著者も「ウィーンの町を歩いているとき、ふと見かけた道路の行き先表示板に、片方はプラハ、もう一方はブダペストと書かれたものを見かけ、はっとした」と打ち明ける。オーストリアの首都ウィーンからみると、チェコの首都プラハは300km、ハンガリーの首都ブダペストは250kmほど。東京から名古屋へ行くのと大差がない。そして、いずれの町も川が流れる内陸都市という共通点がある。

 

 だから、橋をめぐる話題が多い。たとえば、ウィーンのドナウ川に1876年に架けられた橋は、ルドルフ皇太子橋→帝国橋→赤軍橋→帝国橋と名前を変えていった。皇太子の心中事件があった。第2次大戦後のソ連軍占領もあった。相次ぐ改名に歴史が刻まれている。1970年代には橋が崩れ落ちる事故があり、80年に再建される。その完成式典の話が印象的だ。そこにオーストリアの人々の「帝国」に対する相反感情がみてとれる。

 

 著者によれば、キルヒシュレーガー大統領はこう述べたという。「ウィーンは帝国の時代には、諸国民の間の『帝国の橋』であった。今日では、中立国オーストリアの首都として、ウィーンは再び諸民族間の橋を形成している」。かつて帝都は民族をつないだが、そこには支配被支配の関係があった。これからは平和共存の橋渡しをしよう――帝国主義への反省はにじむが、「帝国」への郷愁を中立国の理念に投影しようとしているようでもある。

 

 支配された側のブダペストはどうか。ドナウ川を挟むブダとペスト両地区の間に幾本かの橋がある。二重帝国時代の1896年に架けられ、皇帝のフランツ・ヨーゼフを地元読みしてフェレンツ・ヨージェフ橋と命名されたものは、代替わりして「自由橋」と呼ばれている。一方、妻エリーザベト妃に因むエルジェーベト橋の名は今も残る。彼女がハンガリーを愛したことで好感をもたれていたからだという。これも一つの相反感情だろうか。

 

 そもそも三都には異民族の混在があった。この本によれば、ウィーンはもともとローマ人が北方の脅威に対抗して築いた防御拠点だった。プラハはモルダウ川の浅瀬が隊商を呼び寄せ、11世紀にはドイツ人やユダヤ人が商いを営んでいた。ブダペストにはケルト人が先住していたが、一時ローマ軍の駐屯地となり、10世紀ごろにウラルからマジャール人が移って来た。この多様性の素地が、それぞれの町に彫りの深い文化を生んだのだろう。

 

 多様性は相対的な視点を生み、批評精神を高める。一例は、ウィーンで19世紀末に興った「分離派(セツェシオーン)」の芸術運動。当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという。

 

 著者の解説によれば、ウィーン分離派の作品は、同時期のアール・ヌーヴォーなどと比べると「幾何学性、直線性」が強調され、「実用的な機能性」も具えているという。欧州でもっとも鋭敏に近代を感じとり、それを文化に取り込んだのがこの都市ではなかったか。そう言えば、と思い浮かぶのはウィーン学団だ。そのメンバーが哲学と科学の垣根を超えて思想を深め、旧来の形而上学と対峙したのも、分離派の潮流と共振している。

 

 印象に残るのは、画家志望のアドルフ・ヒトラーが1907年にオーストリアの地方都市からウィーンに出てきたときの話だ。この本には「都市改造の終わっていたウィーンのリング通りの風景に非常に感激したといわれている」とある。将来の総統は、分離派の人々とは逆に重厚な装いの建築に魅せられたということか。この都には、多様な文化が交じりあって新しいものを生みだす力学と、大国の夢を追う力学が交錯しているように思える。

 

 では、僕たちの社会はどうか。後者のほうが勢いを強めているように見えるのが心配だ。

(執筆撮影・尾関章、通算360回)

 

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『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)

写真》ニット帽だぜ!

 春の訪れとともにムッシュが逝った。ムッシュかまやつ、即ち、かまやつひろしさん。1960年代以降、日本のポップス界を陰に陽に支えたミュージシャンだ。グループサウンズのザ・スパイダースでは兄貴分格のメンバーだった。センターはとらないが、そこにいないといけない人。これは、そのまま後半生につながる。自分自身はヒットを飛ばさなくても、ヒットを飛ばす後輩の後ろ盾となる。業界の精神的支柱だったのだと思う。

 

 かまやつ(以下、敬称略)は自らのアイデンティティーをどこに置いていたのか。そのことを巧く切りだした一文がある。昨夏の新聞記事だ(朝日新聞2016年8月27日朝刊「もういちど流行歌」、藤生京子記者)。「我が良き友よ」(作詞作曲・吉田拓郎)を歌うことになったとき、手ぬぐいや学生服や下駄や下宿が出てくる歌詞を見て「困惑を隠せなかった」という。「これオレが歌うの?」。それは、自分が生きてきた世界とあまりにも違った。

 

 かまやつのイメージは、おととし当欄が「『あなたとは世界が違う』という話」(2015年5月8日付)で描いた1970年前後の「イカシタ」若者と重なる。「戦前の上流階級とは違う。戦後の成金富裕層や高学歴エリートとも違う。いまどきのセレブでもない」。そんな一群が「進駐軍文化の名残のようなバタ臭さ」や「湘南文化に通じるお坊ちゃまお嬢様感」や「スパイスとしての適度の不良っぽさ」が混ざりあう文化を発信していた。

 

 ちなみに、その拙稿がとりあげた『安井かずみがいた時代』(島崎今日子著、集英社文庫)には、吉田拓郎がかまやつに誘われて安井邸で開かれたパーティーをのぞく、という場面がある。拓郎は、夜中に裸の男女がプールで泳ぐ様子に圧倒されて「これのためなんだよ、東京に出てきたのは」と思った、と率直に打ち明けている。あの時代に東京と東京以外の地方がどんな関係にあったかがうかがえる告白だ。その東京側に、かまやつがいた。

 

 ここで思いつくのは、戦後日本のポップス史の弁証法的展開だ。大都市には、進駐軍キャンプのクラブなどを通じて海外の風をじかに浴びているミュージシャンがいた。都会系の担い手だ。ところが高度成長末期になると、洋風文化は全国の若者に行き渡って独自の音楽活動を促す。「上京」後を題材とした四畳半フォークを含む地方系である。やがて、これら2系統が止揚されてニューミュージックが生まれ、Jポップにつながったのではないか。

 

 前者を代表するのが、かまやつや荒井由実(後に松任谷、愛称ユーミン)だ。後者には拓郎や井上陽水たちがいる。両者には、共通の壁として演歌主導の歌謡界があった。こう考えてみると、かまやつと拓郎のコラボは歴史的な意味を帯びてくる。

 

 で、今週の1冊は『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)。2002年に日経BP社から単行本が出て、09年に加筆文庫化された自伝だが、カバーの惹句にある通り「日本の音楽、風俗、芸能クロニクル」でもある。知らなかった話がいっぱい出てくる。

 

 「イントロ」の章の冒頭は、松任谷由実の口ぐせだったという「ムッシュの骨は私が拾ってあげるからね」だ。それを受けて「一九七〇年代以降のぼくの音楽生活には、何かとユーミンが絡んでいる」とある。ユーミンは著者が「仲居頭」と呼ぶほどの仕切り上手で、1999年にムッシュ還暦を祝うパーティーを六本木で開いて150人を集めたという。加藤和彦、井上陽水、泉谷しげる、今井美樹……その顔ぶれからも精神的支柱ぶりがわかる。

 

 著者はパーティー開会前、「飯倉の『キャンティ』でひと休み」した。このイタリア料理店は「イカシタ」一群が屯する六本木文化の拠点だった。自らの軌跡を顧みるひとときとなったことだろう。後段の章では六本木の戦後史に光をあてた『東京アンダーワールド』(ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳)にも言及しており、この街への思いが伝わってくる(文理悠々2011年12月9日付「『ガイジン』がアメリカ人だった頃」参照)。

 

 最初に書いておきたいのは、著者のバタ臭さが筋金入りであるということだ。父ティーブ釜萢(かまやつ)は米国生まれの日系2世。恐慌下に来日してジャズミュージシャンとなり、日本人女性と結婚、「日本語がうまく話せない」のに日本兵として中国大陸に赴いた。著者は、米国文化に触れて育ったのだろう。スパイダースの欧州旅行では「片言の英語を話せるのがぼくだけだった」ので「楽器の手配から何から、すべてひとりでやった」という。

 

 音楽の洋風志向も筋金が入っている。「ぼくの周囲はみな洋楽以外は聴かず、ちょっと日本の歌を歌おうものなら思いきりダサいと決めつけられた」とある。ただ、その環境がすんなりと著者の音楽活動を開花させたわけではない。そこが、この本の読みどころだ。

 

 たとえば、著者は1958年にロカビリーブームが高まったころ、水原弘、井上ひろしとともに「三人ひろし」の名で括られる。ほかの二人は歌謡曲のヒットを飛ばしたのに「ぼくだけが売れずに取り残された」。歌謡曲は「あまりやりたくない」が本音だったが、60年にテイチクの専属となってカバーだけでなくオリジナルの曲も出す。その曲名は「裏町上等兵」「結婚してチョ」……。「どれもまったく売れなかった。よかったね」と自嘲する。

 

 テイチク時代の逸話はすごい。歌謡界の大御所が来社すると社内放送で集合の号令がかかる。「ぼくのような青二才は、レコーディングの途中でも、スタッフと一緒に玄関まで出迎えなくてはならない」。著者がなじんだ洋楽界にはない「タテ社会」ぶりだった。

 

 著者が立派なのは、自らその世界を抜けだしたことだ。1962年、所属プロがもち込んだハワイの仕事を引き受ける。帰国予定の日が過ぎても帰らず、勝手に米本土へ渡ってニューヨークに足を延ばす。「グリニッジ・ヴィレッジには、当時、実存主義者みたいな人たちが集まっていて、ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグとか、公民権運動の高まりから生まれたボブ・ディランのフォークなどが人気を集め、街じゅうが熱気にあふれていた」

 

 帰国後、レコード店でビートルズの米国盤「ミート・ザ・ビートルズ」を見つけ、ジャケット写真に驚く。「彼らのビジュアル、伝わってくる雰囲気、すべてひっくるめて、あのグリニッジ・ヴィレッジの空気と同じだった」。さっそく買い込んで聴くと、そこには米国の音楽の「乾いた響き」とは異なる「全体に紗がかかったような、ファンタジックな音」があった。「近未来が見えた」「次に来るもののフックを捕まえた」と感じたという。

 

 「こういうのやろうぜ」。そう声をかけた相手が田辺昭知だ。メンバーを集め、「100%彼らを真似しよう」と、歌と演奏合体型のグループを旗揚げする。ザ・スパイダースの誕生である。田辺はリーダー兼ドラム奏者。この本で知ったのは、彼が「もともとジャズ系」だったことだ。左のスティックを「てのひらを上に向け」「その上に置くようにして持つ」のはジャズ流だという。これを読んで、僕はスパイダースの秘密を知った気がした。

 

 あのころの日本で、エレキギターと言えばベンチャーズだった。ロックの8ビートでテケテケとやる。僕はその軽快感を心地よく感じながらも、技量を競う職人気質で終わっているような印象を拭えなかった。だが、スパイダースは違った。「ベンチャーズの曲を演奏しても昭ちゃんはつまらないらしく、曲の途中であきてくると、フォービートの強烈なオカズを入れて遊ぶ」。それが情感を生みだして、おしゃれな音をつくりだしていたのだ。

 

 納得するのは「カントリーが自分の本質にいちばん合っているのかもしれない」という著者の自己分析だ。カントリー&ウェスタンは、3コード中心のわかりやすい旋律に朗らかさや伸びやかさ、そして幾分の哀愁が漂う。そこには、脱力系の魅力がある。僕がムッシュらしいと思う「どうにかなるさ」や「喫茶店で聞いた会話」(ともに著者が作曲、作詞は山上路夫)もスパイダース解散後、「カントリー系のサウンドに戻りつつあった」頃の曲だ。

 

 実力は間違いなくA級なのに「つねにB級ミュージシャンでいたいという願望を、ぼくは持っている」。これがムッシュ流の脱力だ。その大らかさで、自分とは異世界の手ぬぐいや下駄履きにだって心を開く。だから友だちがいっぱいできて「どうにかなる」のだろう。

《おことわり》『安井かずみがいた時代』の著者名にある「崎」は、つくりの上部が正しくは「立」です。

(執筆撮影・尾関章、通算359回)

 

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『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)

写真》梅の空気

 2月末に熱海へ出かけた。丘陵部の梅園に足を運ぶと、盛りはとうに過ぎていたが、それでも小ぶりの白や赤やピンクの花があちこちの枝に点在していた。空気はまだ冷たいのに、日差しはもう暖かい。早春の移ろいを巧く演出してくれる湯の町だとつくづく思う。

 

 箱根と熱海。これは、東京育ちの人間にとって定番温泉郷の双璧である。足を延ばせば、北関東にも甲信越にも名湯、秘湯の地は多い。だが、この2カ所には、それよりもずっと近いという地の利がある。新幹線に乗らなくても2時間ほどでたどり着ける。これは、週休二日になる前の勤め人には大いに意味があった。半ドンの土曜日、仕事を済ませてから列車にとび乗れば、宿に着いて夕食前にひと風呂浴びることもできたのである。

 

 もちろん最近は、都内にも深掘り井戸で汲みあげたスパ施設がある。町の銭湯で全身を伸ばしても、家風呂に入浴剤を入れることでも、「いい湯だな」の気分は味わえる。だが、これらは箱根や熱海の代役を果たせない。なぜなら、温泉の楽しみは湯に浸かることだけで完結しないからだ。海の幸山の幸の食もある。町のぶらぶら歩きもある。そしてなにより行き帰りの行程が重要な要素だ。あの2カ所は、それが片道で「2時間ほど」の適量だった。

 

 今回の熱海行きは新幹線を使わなかったので、昔と同じ2時間コースだ。東海道在来線は今、昔と違って通勤電車風の長椅子シートがふえている。往路、そこに座った時点では日常を脱していない。だが、車窓に海が広がりだすと旅情モードのスイッチが入った。

 

 箱根と熱海。ここまでは並べて書いてきたが、両者は実は好対照だ。まず、箱根は山に囲まれているが、熱海は海に面しているという自然の違いがある。そして、箱根は軽井沢に似て洋風の趣があるが、熱海は梅園にしても貫一お宮にしてもどこまでも和風の佇まいだ。箱根は子どもが林間学校で訪れたりして教育の場ともなっているが、熱海は大人の遊興地という印象が強い。ニュアンスを比べれば聖対俗、理対情という感じだろうか。

 

 いま熱海市観光協会の公式サイトを開くと、その魅力として「温泉」「グルメ」「お土産・特産品」「花と自然」「イベント」「歴史」の六つが挙げられている。これらは、いかにも今風の観光資源だ。ただ、モデルコースの一つには「熱海の美めぐり 芸妓さんに会おう!」もある。「全国2800人の芸者のうち1割を占める」「全国でも屈指の芸者街」なのだという。この統計の精度は吟味できないが、熱海は間違いなく大人の町と言えよう。

 

 で、今週の1冊は『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)。著者(1948〜2010)は1970年代前半に劇作家として本格デビュー、初期の代表作が「熱海殺人事件」だった。それを小説化したのが、この本だ。76年に文庫書き下ろしで世に出た。

 

 この作品は、熱海の海岸で若い女性が殺されたという事件の取り調べを戯画化している。被害者も容疑者も工場労働者。作中では「女工」「工員」「職工」などの言葉が用いられる。二人は地方出身、隣の村で育ったらしい。2次産業が農村から若者を吸い寄せていたころである。コンビニや外食チェーン、宅配といった3次産業はまだ市場を席巻していない。著者が意図したことではないだろうが、今になってみれば高度成長の総括としても読める。

 

 熱海はあの時代、人々の目にどう映っていたのか。それは、刑事たちの言葉の端々から察することができる。「落ちぶれ果ててゆく温泉場」「もはや海としてのサムシングエルスがありません」。たしかに当時は、そんな印象があったように思う。「中小企業の社長がバーのホステスを連れて一泊旅行に行くところ」「農協が団体旅行に来るとこだぞ」といった決めつけも出てくる。ひとことで言えば、オジサン臭さが充満した印象があったのだろう。

 

 そのオジサン臭さは捜査側の中心人物、木村伝兵衛部長刑事も発散する。そばをすする場面はこうだ。「割りバシをパチンと割り、おもむろに薬味とワサビをつゆに入れ」「ズルズルいわせては口いっぱいにほおばり、クックッといってはつゆをガブリと飲み」「空になった椀(わん)にお茶をついで、ガラガラとうがいをしたり、クチュクチュと口の中を洗ったり」と騒がしい。そして職場で「スイングのまね」もする。今風に言えばエアゴルフだ。

 

 人物も舞台も、1970年代前半の日本社会をあぶり出すのにもってこいのスウィートスポットに設定されている。では、そこにどんな作品世界をつくりあげたのか。ここで、著者の劇作家としての本領が発揮される。奇想天外な筋立てとドタバタの味付けだ。

 

 ハチャメチャという形容動詞がある。あまり好きな言葉ではないが、メチャメチャより激しい語感がある。この作品はハチャメチャのオンパレードだ。たとえば、伝兵衛が警視庁の刑事であること。そもそも、殺人は熱海で起こったのだから静岡県警が扱う事案のはずだが、警視庁捜査一課が容疑者を調べる。他府県警のヤマを奪わないという鉄則はテレビの2時間ドラマ(2H)ですら意識しているのに、著者はそれをいともあっさり破ってしまう。

 

 若手刑事が富山県警から警視庁に転任してきたというのも、あまりあることではない。警察官は、ふつうは警視庁や道府県警本部ごとの人事で異動する。もちろん、いわゆるエリート警察官は若くして全国を渡り歩いて出世していくのだが、この若手はそのようには見えない――。だが、著者にとって官僚の常識はどうでもよいのだろう。これは、日本の世相を某国に載せた話。そこに警視庁や静岡県警や富山県警という名の組織があるだけだ。

 

 ハチャメチャぶりは、取調室がミュージカルの舞台に一変する演出にも見てとれる。若手刑事の熊田留吉が先述のように「サムシングエルスが……」と言うと、伝兵衛は靴で床を叩いて「サムシン、サムシン、ボンボンボン」と歌いだす。女性警官の安田ハナ子も「サムシン、サムシン、シャバダバダバ」とスキャットとタップに乗ってくる。「そのときハナ子の帽子が落ち、豊かな黒髪が肩にかかり、かぐわしい匂(にお)いをまき散らした」

 

 照明効果もある。伝兵衛が「スポット!」と言えば「電球が消え、捜査室は一瞬にして闇(やみ)になった。そしてスポットライトが容疑者の胸から上を照らしだした」。音響効果もある。「留吉の耳に『カシャッ』というカセットレコーダーのスイッチの音が聞こえ、と同時に波の音と海水浴に戯れる人々の声が聞こえた」。本来なら小説になじまないはずのつくりものを敢えてはめ込むことで、強烈な映像を読み手の脳裏に構築するのだ。

 

 この作品は、市井の人々が夢想する世界を笑いのめしていると言ってもよい。夢想を代弁するのが伝兵衛だ。万一、警察が容疑者の自供を歪めることがあるとしても被疑事実が本当らしく見えるようにするだろうと思われるが、ここでは違う。伝兵衛には自らの審美眼に適う出来事のイメージがあって、熱海の事件をそれに合わせようとする。その情熱に留吉もハナ子も引き込まれ、容疑者本人までほだされてしまう。そこに、おもしろさがある。

 

 その美学を象徴するキーワードが「海が見たい」だ。伝兵衛は海辺に行くのに水着を持参しなかった理由を容疑者に問うて、「海が……」のひと言を被害者が口にしたという供述を得る。このときの伝兵衛の喜びようは半端ではない。「ハナちゃん、お車呼んでさしあげて。あとは言わなくてもいい」「そう、『海が見たい』と言ったの? いやあ、まいったまいった」。こうして、容疑者の芝居がかった独白を挟みながら歌謡曲風の妄想が膨らんでいく。

 

 だが、妄想はうわ滑りすることもある。男が「お酒飲もうか」と言うと、女は「肩をすぼめる」。そこで男は「原宿の小ぎれいなスナックに彼女を誘う」――そんな筋でまとめようとすると、容疑者は新宿の喫茶店で紅茶を飲んだだけだと言い張る。留吉は「おまえ『海が見たいな』、そんな言葉を喫茶店で吐けるわけねえだろうが」とブチ切れる。スナックがおしゃれに見えた時代の痕跡がそこにはある。それにしてもチープな美学ではないか。

 

 いま熱海の町を歩くと、文豪たちが愛した宿が観光名所となって開放され、香り高い文化を発信している。一方で路地裏をのぞくと、スナックの古びた看板がそこここにあった。時代と半周ずれた位相。それを残していることが、この町の魅力なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算358回)

 

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『Q&A』(恩田陸著、幻冬舎文庫)

写真》問いと答え

 気の早い話だが、「オルタナティブ・ファクツ(alternative facts)」が今年の流行語大賞を獲るかもしれない。「代替(もう一つ)の事実」だ。米国大統領にドナルド・トランプ氏が就いたとたんに広まった。就任式の盛りあがりを示す人の集まりをめぐって、メディアは前任大統領のときなどと比べて少ないと報じた。写真を見れば明らかなように思える。ところがトランプ側は、それに噛みついて自陣営の主張を「代替の事実」だとした。

 

 これで僕たちの世代が思いだすのは、ひと昔前のデモや集会の参加者数だ。発表される数字が主催者と警察で大幅に食い違っていた。主催者が2万人と言っているときに警察が1万8000人ならいいほうだ。主催者が1万人なのに警察は6000人というような大差もあったと思う。僕自身、40年ほど前に駆けだしの新聞記者としてこの種の催しを取材していて、いつも当惑した。人数にはどちらの発表かを明記することが原則必須だった。

 

 あのころは、主催者が多めに言う、警察は少なめに抑える、という性向を世の中も受けいれていた。運動を企てる側は、民衆が大勢集まったことをもってよしとする。ところが、治安を担う側は民衆があまり集まらないことに秩序の安定をみる。だから、主催者が頭数を知らず知らずに二度数えをしていても不思議はないし、警察は人影が重なって見えない人までは数えていないかもしれない。世間もそんなふうに受けとめていたのである。

 

 そう言えば、似たようなことはスポーツでもあった。少年時代に野球が好きになったころ、僕は捕手という守備位置にあこがれ、キャッチボールのときもよくしゃがんで球を受けたものだ。そんなとき、たまたま相手をしてくれた青年から教わったことがある。球を捕ったらミットを体の真ん前へずらせ、という鉄則だ。それからは、言われた通りにミット――と言っても実際はグローブだったが――をストライクゾーンに動かすようになった。

 

 昔はなにごとにも曖昧さがつきまとったのである。だから、人数推計の「多めに」「少なめに」が通用した。スポーツでも審判の目を惑わすことが技量のうちだった。ところが今は、画像や映像、電磁記録が物事を厳密に判定する。今回の就任式報道では、地下鉄駅の乗車データまでが引きあいに出されたようだ(朝日新聞朝刊2017年2月11日「Media Times」)。だから、事実は一つであるとして「代替の事実」論に猛反発が起こった。

 

 ただ――と、へそ曲がりの僕は思う。事実はほんとうに一つなのか。事実は確定したときに一つになる。それは間違いない。だが厄介なことに、一つに定まるまでは複数の候補が並び立って雲のようにもやもやしている。それらを代替事実群と呼んでよいのかもしれない。世の中のニュースを頭に浮かべてみると、雲状態にあるもののほうが多いように思う。代替事実群を前にしてどう生きるか。そんな問いが今、突きつけられているのでないか。

 

 で、今週は長編小説『Q&A』(恩田陸著、幻冬舎文庫)。著者は1964年生まれ、ついこのあいだ2016年下半期の直木賞受賞が決まったばかりだ。この作品は、04年に単行本が出て07年に文庫化された。全編から21世紀初頭の空気が強く感じとれる。

 

 本を手にしてまず気になるのは、その題名だ。これはふつうに“question”と“answer”のことらしい。最初から最後まで一問一答の形式で書かれた作品である。ただ、問う人と答える人は固定されていない。「章」と呼んでもよい小部分ごとに交代していく。問答をする二人の名前や横顔が地の文で明かされることはなく、ト書きも事物描写もない。言葉のやりとりだけでこれだけの作品世界をつくりあげたということに、僕はまず圧倒される。

 

 この作品の読み物としての主題は、大惨事の顛末だ。それは巧妙に描きだされる。一問一答のやりとりは、はじめのほうでは文字通りのQ&Aだ。一方がもう一方を問いただしている印象がある。ところが章が進むうちにQ&A色が薄れてふつうの会話のようになり、どことなくなごんだ雰囲気さえ出てくる。この変化が一つの効果をもたらしている。前段は直接の関係者の証言、後段は間接の関係者の解釈として読めるのである。

 

 では、それはどんな惨事か。冒頭の章でAの役回りにある「東都日報」社会部記者が明かした取材結果によれば、あらましをこうだ。連休最終日の昼下がり、東京郊外のショッピングセンターで非常ベルが鳴り、避難を促す館内放送も流れた。地上6階地下1階、大きなスーパーが入った建物だ。買い物客は階段やエスカレーターや出入り口に殺到、「あちこちで人波に強い圧力が加わる」事態となって69人が死亡、116人がけがをした。

 

 これには、型通りの解釈も用意されている。後段の章のQ&Aで、Qが巷間流布される読み解きをもちだして「集団パニックだって。何かの引き金が偶然重なって、それがみんなに伝染したんだって」と言えば、Aが「僕は、最初、サイバーテロかなと思った」と応じる。大型店はコンピューターに管理されている。エスカレーターが急加速急停止しても、空調が働かなくなっても一大事だ。「どこか一箇所システムが壊れれば、惨事は起き得る」

 

 上記2章で、すべてが言い尽されているようにも見える。だがそれは、一線記者が通りいっぺんの報道をして識者が利いた風の解説をするというメディアの予定調和に等しい。だが、事件や事故の実相はそんなにすっきりしていない。その場に居合わせた人の話を紡いでいくと、その人にしか見えない事実の証言がたくさんある。そこには思いもよらない物事の展開も隠されている。それを想像力で汲みあげたところが、著者のすごいところだ。

 

 4階婦人服売り場にいた41歳女性客。「おかしな夫婦がいたんですよ」。この店に場違いなほど上品な高齢男女だ。その女が不意に万引きを始める。店員が声をかけると、男が口を開く。「悔い改めなさい。我々は、あなたがたに許す機会を与えてあげているのです」。困惑する店員、興味津々の客たち。「その瞬間ですよ、ベルが鳴ったのは」。男はポケットのなにかに手をやった。「銀色の金属に見えました」。そして、みんなが一目散に逃げたという。

 

 71歳男性客は階段から1階の売り場を見下ろしたとき、あやしげな男に気づいた。その周りだけ人がいない。「で、いきなりその男が手に持っていた紙袋を床に投げたんだ」「ペしゃっ、という音がして」「液体が入っているという印象を受けたね」。男が足で袋を潰すと、客たちが顔を覆って階段に押し寄せたという。男性客は自分も刺激臭と目の痛みを感じたと主張するが、液体は犬の尿だったらしいとQ&AのQが明かす。

 

 これらの証言からわかるのは、別の階では別のパニックがあったということだ。万引き発覚後の逆切れと紙袋の「ぺしゃっ」。ともに異様な光景であり、通り魔事件や化学テロを連想させる。人々が恐怖に陥れられても不思議はない。それらの相乗効果が大惨事を招いたらしいが、では逆切れと「ぺしゃ」はたまたま同時に起こったのか、それともどこかにつながりがあるのか。人々の話を聞けば聞くほど、聞きたいことはさらにふえていく。

 

 Q&AのAには、今の世相を反映して監視カメラの録画を見た人の証言も出てくる。「無人になった店の中で、小さな子がちょろちょろ歩き回っていました」「何かをひきずっていたんです」「なんだろう。赤っぽくて、だらりとした」。後段では、この子の母親もAで登場する。彼女によれば、ひきずっていたのは娘のぬいぐるみで、そこに誰のものかわからない血がついていたという。女の子はけが一つなく生還して、メディアにもとりあげられる。

 

 作品の筋は、この子を狂言回しに繰り広げられる。そこには、犠牲者の家族たちが心の拠りどころとなる「隠れ家」をつくる、という話が出てくる。ところが、この活動の裏には主宰者が企てる利殖商法があり、隠れ家に集まる家族たちが次々に勧誘されているらしい、という疑惑も暴露されていく。悲しみにうちひしがれた人々が互いに支えあうという美談の陰にも欲得が渦巻いている――作者は、そんな事実の二面性も切りだしていく。

 

 最近は、事件事故の情報が大手メディアの報道だけでなく、つぶやきや映像の投稿としても拡散される。断片を見て判断すれば見誤る。片面を知って納得すればだまされる。僕たちは、本当か嘘かわからない代替事実群に囲まれている。そう覚悟しておいたほうがいい。

(執筆撮影・尾関章、通算357回)

 

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『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)

写真》「緑」

 「環境」という言葉が今のような意味合いで使われるようになったのは、そんなに遠い昔ではない。半世紀ほどにしかならないのではないか。ふと思いだすのが、小学生のころの床屋体験だ。椅子に座ると目の前に大きな鏡がある。その周りに目を転じると、壁の掲示に「環境衛生」の文字があった――そう、理髪業は東京都環境衛生協会会員の主要業種だ。「環境」の2文字は、理髪店の店内から子どもの意識に入り込んできたのである。

 

 ちなみに東京都環境衛生協会の公式サイトを開くと、協会は1954年に生まれた。「加入会員の業種」に挙げられているのは、理容のほか美容、クリーニング、公衆浴場、ホテルなど。ここで読みとれるのは、どれも衛生管理が求められるが、飲食店ではないということだ。食べもの、飲みものは特別扱いなのだろう。現に東京には食品衛生で同様の団体がある。裏を返せば、「環境」は特別なものを除く身の回りの一切を指していたことになる。

 

 語感が変わったのは、1960年代後半だ。日本列島のあちこちで、高度経済成長の副作用として公害が多発する。「環境保護」が反公害の訴えの一つとして口にされるようになった。1971年には、のちに環境省となる環境庁が設けられる。このころから、「環境」と言えば「自然環境」、すなわち山や川、海や空のことという受けとめ方が強まったように思う。そして今は、それを地球全体に広げてとらえるようになっている。

 

 環境保護の気運が反公害とともに高まった背後には、生態学すなわちエコロジーの思想があった。四大公害病の一つである水俣病では、工場から出る有害なメチル水銀がまず小さな海洋生物に摂取され、それがより大きな生物に次々食べられるうちに濃縮されていくという現象が起こっていた。食物連鎖による生体濃縮だ。その鎖の終着点が人間だった。人間もまた生態系(エコシステム)の一員であることがはっきりしたのである。

 

 「環境」はドイツ語で“umwelt”という。“welt”は「世界」であり、“um”には「周り」の意味があるので「環世界」とも訳される。当欄の前身でとりあげた『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート著、日高敏隆、羽田節子訳、岩波文庫)は、後者の訳語を採っている。この本には「動物はそれぞれの種ごとにそれぞれの『環世界』をもっている」という見方があった(文理悠々2010年6月3日付「日高敏隆『敬称は要らぬ』」)。

 

 これは、人間とほかの生物を対等に置くという点で今日のエコロジー思想に通じる。環世界は生物種ごとに違う。ただ、それらをかたちづくるものはたった一つの自然界の生態系だ。だから、人間の環世界は守ることは生物それぞれの環世界を守ることであり、即ち生態系を持続させることにほかならない。身の回りにあって種の存続を保障する最重要なものが自然ということだ。「環境」で「自然環境」を思うようになった流れもうなずける。

 

 で、今週の1冊は『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)。著者は、1962年に名著『沈黙の春』を著したことで知られる。『沈黙…』は、農薬などの化学物質が生態系を壊していくさまを事例やデータによってあぶり出した。ちょうど、第2次大戦後に戦勝国も敗戦国も工業化に突っ走っていたころのことだ。人類には経済成長とは次元の異なる価値があることを教えてくれる警告の書となった。

 

 著者は米国で1907年に生まれ、64年に没した。大学院で生物学を修めたが、そのまま大学に残って研究生活に入った人ではない。連邦政府の魚類野生生物局に専門官として勤め、かたわら海や海辺の生き物をめぐる著述活動を続けた。連想されるのは、都市問題の論客ジェイン・ジェイコブズだ(当欄2016年12月2日付「トランプに備えてJ・ジェイコブズ」)。ともに象牙の塔から離れ、自力で強いメッセージを発信した女性である。

 

 『センス…』は『沈黙…』とは異なり、社会派書籍の色彩が薄い。むしろ、人間の環世界を繊細な感覚で描きだした詩的作品と言うべきだろう。訳者あとがきによれば、1956年に雑誌へ寄稿した文章をもとにしており、題名は「あなたの子どもに驚異の目をみはらせよう」だった。著者は『沈黙…』刊行後、自らの死期が迫っていることを知って加筆をはじめ、それを仕遂げる前に生命が尽きたという。邦訳で本文40ページ足らずの小品だ。

 

 書きだしは「ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました」。舞台は、米東海岸メイン州にある著者の別荘周辺。それにしても、闇夜に雨風のなか幼子を抱いて海を見にいくのは危ない。だが、彼女は毅然として書く。「幼いロジャーにとっては、それが大洋の神(オケアノス)の感情のほとばしりにふれる最初の機会でした」。ここに、彼女の自然観がある。

 

 この本の中心にいるのは、幼年時代のロジャーだ。別荘に来ると、著者は森へ連れだした。なにかを教えようとしたのではない。「わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげる」。そうこうしている間に「彼の頭のなかに、これまでに見た動物や植物の名前がしっかりときざみこまれているのを知って驚いた」。たとえば「あっ、あれはレイチャルおばちゃんの好きなゴゼンタチバナだよ」というように。

 

 メインでは、とりわけ雨の日の森が美しいという。その描写は秀逸だ。「針葉樹の葉は銀色のさやをまとい、シダ類はまるで熱帯ジャングルのように青々と茂り、そのとがった一枚一枚の葉先からは水晶のようなしずくをしたたらせます」「カラシ色やアンズ色、深紅色などの不思議ないろどりをしたキノコのなかまが腐葉土の下から顔をだし、地衣類や苔類は、水を含んで生きかえり、鮮やかな緑色や銀色を取りもどします」

 

 別荘の窓には雨が打ちつけ、湾も霧に覆われている。「海に沈めてあるロブスターとりの籠(かご)を見まわる漁師やカモメの姿も見えず、リスさえも顔を見せてはくれません」。ここで気づくのは、漁師とカモメとリスが横並びにあることだ。著者は、人類も鳥類も齧歯類も一つに溶けあう世界を生きている。雨天も気にせず、「森へいってみましょう。キツネかシカが見られるかもしれないよ」。ロジャーとともに防水着をまとって出かけるのだ。

 

 著者によれば、子どもを連れての自然探検は「しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらく」という。それは視覚にとどまらない。嗅覚を例にとろう。早朝に家を出れば「別荘の煙突から流れてくる薪を燃やす煙の、目にしみるようなツンとくる透明なにおい」に出あう。引き潮の海岸に近づけば「いろいろなにおいが混じりあった海辺の空気」を吸うことができる。ここでも感じとれるのは、人の営みを自然界のそれと並べる世界観である。

 

 聴覚をめぐっては「風のないおだやかな十月の夜」のくだりが印象的だ。耳をそばだてれば、上方から「鋭いチッチッという音」「シュッシュッというすれ合うような音」が鳥の鳴き声に交ざって聞こえてくる。渡り鳥が仲間同士で交信しているのだという。著者は「彼らの長い旅路の孤独」に思いをめぐらせる。そして「自分の意志ではどうにもならない大きな力に支配され導かれている鳥たちに、たまらないいとおしさを感じます」と書く。

 

 この本は、大自然の讃歌に終わってはいない。都会人の生き方にもヒントを授けてくれる。「子どもといっしょに風の音をきく」のなら「森を吹き渡るごうごうという声」であっても「家のひさしや、アパートの角でヒューヒューという風のコーラス」であっても同じだ、と説く。町なかの公園で鳥の渡りを眺めても「季節の移ろい」を感じとれるし、窓辺の植木鉢を観察することでも「芽をだし成長していく植物の神秘」を見てとれる、という。

 

 あとがきによれば、ロジャーは「甥」ではなく実は「姪の息子」のようだ。著者を慕い、のちに母を亡くしてからは彼女のもとで育ったらしい。訳者が1980年に会ったときは音楽関係の仕事をしていたというが、この邦訳が出た96年時点の消息は「コンピュータ関連のビジネスマン」とある。今は60歳代なのだろう。自然と触れあう原体験が米国のIT社会を生きる人にどんな影響を与えたのか。本人にちょっと聞いてみたくなる。

 

 感覚を澄ませば、自分も生態系の一部とわかる。レイチェルはそう言い遺したのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算356回)

 

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