『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』(石井好子著、河出文庫)

写真》自家製のオムレツ

 「庶民」という言葉には、どこか抵抗がある。たぶん、へりくだった語感があるからだろう。僕が子どものころは、新聞で「庶民には高根の花」という表現をよく見かけた。一流ホテルのスイートルームを紹介する記事などに添えられる文言だった。市井でつつましやかに暮らす人々には、うらやましくはあるがとても手が届かない、という感じだったのだろう。格差社会の今、同じ状況はあちこちにあるはずだが、「庶民」はあまり使われない。

 

 一つは、「庶」という字のイメージにある。手もとの辞書(三省堂『新明解国語辞典』)をみると、最初に「雑多な」という意味が出てくる。そういえば、僕が勤めていた会社でも、かつて「……庶務部」の部署名が「……総務部」に改められたことがあった。雑用係とみられてはたまらない、ということだったのだろう。ドラマ「ショムニ」(フジテレビ系、原作・安田弘之)の人気の秘密は、この思いをすくいとったところにあるのかもしれない。

 

 同じ辞書で「庶民」の項をみると「特別の地位・資格・機能などを持たない、一般の人たち」とある。専門家の対極にある一群ということだ。なるほど、と僕は思った。科学記者だったので「科学者とそうでない人の対話」というような言い回しを常套句のように口にしてきた。このとき「そうでない人」を別の言葉でどう表すかを思案して「一般の人」と言い換えることもあったのだが、代わりに「庶民」としてもよかったわけだ。

 

 「特別の地位・資格・機能などを持たない」ことを否定的にとらえてはいけない。分野の縦割りにこだわって横からの批判を受けつけない専門家偏重は、ときに不幸な結果を招くからだ。「雑多な」は「多様な」ということであり、尊重すべき価値の一つなのである。

 

 「庶」の字義は決して悪くない。それなのに今では疎ましがられるようになった。背景には、経済の高度成長によって世の中に中流意識が行き渡り、「雑多」を嫌って「特別」に目移りする人がふえたこともあるのだろう。では、その変化はいつごろ起こったのか。

 

 これは、日本社会の洋風化と深くかかわっているように僕は思う。日本社会には明治以来、庶民対上流がそのまま和風対洋風に置き換えられる構図があった。上流階層の家には、たいてい洋間があって壁に洋画が掛かっており、朝昼晩と洋食で洋楽を蓄音機で聴く習慣がある。洋式トイレも珍しくない。これは、和室、和食、和式トイレがふつうの「庶民」には「高根の花」だった――そんな図式が少なくとも僕が子どものころまでは続いていた。

 

 ところが1980年ごろに激変が起こる。ニューファミリー世代とも呼ばれた団塊の年齢層が核家族化して、洋風の暮らしが一気に広まった。洋風のダイニングキッチンで洋風の食事をとり、トイレも洋式が当たり前。そのころには円も強くなり、海外に出て本場の欧米文化に触れる人もふえた。収入の多寡と和洋の対立が、もはやぴったりと重ならなくなった。言葉を換えれば、洋風洋式をハイカラと言ってあがめる風潮が消えたのである。

 

 で、今週の1冊は『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』(石井好子著、河出文庫)。著者(1922〜2010)は、僕たちの世代には懐かしいシャンソン歌手。テレビ草創期の歌番組によく出ていた。そして、総理大臣の椅子を争った自民党の政治家、石井光次郎氏の娘さんということでも有名だった。1963年には「暮しの手帖」の連載を本にした『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』が、日本エッセイストクラブ賞を受けている。

 

 この本は、その『巴里の…』の姉妹編。同様に「暮しの…」の連載をもとにして1985年に出版された(暮しの手帖社刊)。今回手にとった文庫版は2011年に出ている。奇しくも、初出されたころは日本社会に庶民ばなれが起こっていた時期にあたる。

 

 では、著者と「庶民」の関係はどうだったのだろうか。父は保守の有力政治家、自身は戦後まもなく米国に留学し、パリ暮らしも経験している――どうみてもセレブで、庶民とは言い難い。ただ、父には新聞社勤めの経歴もある(なんと、僕の古巣で専務だったことがあるという)。自身も、シャンソンという民衆の歌をうたいつづけた。セレブではあるが、庶民が暮らす市井の事情にもそれなりに通じていたと言えるのかもしれない。

 

 これは、冒頭の1編「ロールキャベツは世界の愛唱歌」からも感じとれる。書きだしで「ロールキャベツとはいったいどこの国の料理なのだろうか」と問いかけ、それを著者自身はアメリカでもモスクワ(当時、ソ連)でもドイツでも食べたという話をさらっと書く。これで庶民はちょっと退くが、編の末尾2行でこの料理は「栄養のバランスがとれていて安くて、皆が好きな国際的おそうざい」であり、「世界の愛唱歌」のようだと評して締めくくる。

 

 ロールキャベツは、かつて日本の食文化で洋風献立の定番になるかならないか微妙な位置を占めていた。僕は1970年代初め、街に出て外食をするときにロールキャベツの専門店に入ったものだ。学生でもなんとか身銭を切れる価格帯。だが、カレーやスパゲティナポリタンよりは、高級感がある。近からず遠からずの洋食だった。著者を投手にたとえれば、この本の第1球では庶民のストライクゾーンの高めギリギリを突いてきたことになる。

 

 読み手を惹きつけるのは、著者が自分自身で調理しているとわかる点だ。これに一役買うのがオノマトペ――擬音語や擬態語だ。「ナスのキャビア」と呼ぶキャビアもどきの料理のつくり方を伝授するくだり。ナスの切り方は「ザクザク」、炒め方が不十分なら「ぐじゅぐじゅ」、食材を庖丁でたたくときは「トントントントン」、一緒に食べるトーストの焼き具合は「カリカリ」。著者が台所に立って、手を動かしている光景が目に浮かんでくる。

 

 ほかにも「くたっとなった野菜」「ヒタヒタのミルクに」「メリケン粉はざぶっと」……。「お砂糖少々入れて甘みをつける」など、わざと助詞を抜いた表現もある。著者が音楽家の感覚を生かして、食と調理の語りに音とリズムを付与していたことがわかる。

 

 この本を読んでいると、1980年代の僕たちにとって欧州は遠かったのだなあ、とつくづく思う。イタリア・ナポリのチーズ料理を紹介した箇所では「モッツァレッラはチーズの一種で、この頃はスーパーで売っているところもあるが」と、くどいほどの補足がある。今ならモッツァレッラがチーズのことぐらい、子どもでも知っていそうだ。チーズが種類別に認識され、それらが店頭に並びはじめたころの食の位相が見えてくる。

 

 「スペインのバレンシア風たきこみご飯パエリャ・バレンシアーナは、サフランご飯の最高傑作」と書かれた一節も同様。今の人が読めば「パエリアくらい知っているよ」と一笑されそうなほど懇切丁寧な説明だ。あのころ、スペイン料理はまだ馴染みが薄かった。

 

 食の変遷を痛感させるのが、「スパゲティとローマの思い出」と題された章。スパゲティという呼び方そのものが昔風だ。イタリア料理には、パスタという小麦粉素材料理の大きなくくりがあり、うち細長い麺を使うものがスパゲティという関係にある。最近では、パスタの呼び名のほうが優勢になった。「パスタでも食べようか」と言って店に入り、メニューを見てからスバゲティーを頼んだり別のパスタを選んだり、という感じになっている。

 

 この章では最後のほうにようやくパスタが登場する。リボン状の麺、タリアテッレをそう呼んでいる。著者はこれをジェノヴァ風に味つけたものを、イタリアにいる日本青年のアパートで食べた。つくったのは、彼の妻ら二人の女性。「台所にある机の布をさっと取りのぞいたら、大理石の調理台であった」「それはパスタをこねるための台なのだった」。日本社会でおしゃれに見えるものが、本場では庶民の手づくり料理だったというわけだ。

 

 この本によると、「暮しの手帖」創刊者の花森安治は「デパートなどの食堂に行って、じっと見ていてごらん、男はカレーライス、女はチキンライスを食べるよ」と話したという。バブル経済が膨らむまで、日本人の洋食の選択肢は限られていた。そんなときに著者は、洋風の味の多くがセレブの独占物ではなく、実は「一般の人たち」のものだと教えてくれたのだ。僕たちは1980年代、日本の庶民をやめて世界の庶民になったような気がする。

(執筆撮影・尾関章、通算399回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』

(津川康雄監修、実業之日本社じっぴコンパクト新書)

写真》都の木

 鬱陶しいと言えば、これほど鬱陶しいものはない。頭上に高速道路。東京には、そういうところがいっぱいある。たとえば、六本木通り。界隈はおしゃれな雰囲気を漂わせているのに表通りに出ると興ざめだ。あるいは、甲州街道。郊外ではケヤキ並木が美しいアーチを描いているが、都心に近づくと高速の高架が合流して上から威圧する。そんな不快な風景の極みが、都心の日本橋だろう。江戸の原点もやはり高速の蓋をかぶせられている。

 

 最近、これをなんとかしようという動きが出てきた。今夏、国土交通省と東京都が日本橋上方を通る首都高速道路の地下化を検討する方針を明らかにしたのだ。地元には「日本橋に青空を!」をうたう運動体もあって、署名活動が進んでいた。こうした声が政治を動かしたと言ってもよい。朗報だ。だが、これは数千億円規模の事業になりそうだともいわれている(朝日新聞2017年9月7日朝刊)。改めて、無駄なものを造ったんだなあと思う。

 

 首都高1号線の日本橋を覆う区間が開通したのは1963年。背景に、翌年の東京五輪に間に合わせようという切迫感があったことは間違いない。復興を遂げた首都が世界から国際都市として認められるには、クルマ時代に応える道路網が欠かせない。だが、市街地に用地を確保するのは難しい。そこで目をつけられたのが、公共の領域。既存の道路や水路である。それらを残したまま高架を載せる、というのは当座しのぎの巧妙な選択肢だった。

 

 思えばあのころ、「高架」は未来のイメージそのものだった。NHKが子ども向けに放映していた「宇宙家族」(原題邦訳は「宇宙家族ジェットソン」)という米製アニメを思いだす。うろ覚えだが、そこに描かれるのは空中の居住空間だ。建物がキノコのように聳え、それらを結ぶ通路が宙に浮かんでいる。これらを縫うように、マイカーならぬマイプレーンが飛び交うといった感じ。未来都市は立体的、という思い込みが強かったのだろう。

 

 僕たちの世代は、幼いころの子どもじみた都市像に生涯つきまとわれているのかもしれない。六本木を歩いていても、甲州街道を通っていても、日本橋に佇んでいても、こんなはずじゃなかったのに、と思ってしまう。考えてみれば、立体都市がカッコいいのは、遠方や上空から眺めたときだ。地面に立って辺りを見回したときに受ける印象は、それとは異なる。ここには、鳥の目をうっとりさせる街に虫の目で暮らすという皮肉な現実がある。

 

 1964年五輪に象徴される高度成長が東京をどう変えたのか。その検証は、僕たちの世代が引き受けなくてはなるまい。都市のデザインを誤れば元に戻すのに長い歳月と膨大な費用がかかる、ということを自身の半生と重ねあわせて実感しているからである。

 

 で、今週の1冊は『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』(津川康雄監修、実業之日本社じっぴコンパクト新書)。東京論の本というよりも、街歩きのためのガイドブックといった趣。奥付に表記されたのが監修者名のみであることからも、それはわかる。草稿は無署名のライターが「参考図書」(巻末に列挙)などの資料も漁りながら執筆し、そこに監修者の視点を反映させたのだろう。2011年刊。

 

 監修者は1953年東京生まれの人文地理学者。略歴欄には「景観研究の一環として、人間の空間認識を支えるランドマークに注目し、各種ランドマークの要件整理とフィールド・ワークを行なう」とある。この本も序章で、ランドマーク論から説き起こしている。

 

 ランドマークと聞いて、僕たちがまず思い浮かべるのは搭状の建造物だ。列車が目的地に近づいたとき、車窓に真っ先に現れて、さあ着きましたよ、と告げてくれるような役目を果たす。序章で名が挙がるのは、東京タワー、エッフェル塔(パリ)、ビッグベン(ロンドン)など。塔状でないものでは、天安門(北京)、凱旋門(パリ)、クレムリン宮殿(モスクワ)、ブランデンブルク門(ベルリン)なども言及される。共通点は目立つということか。

 

 だがこの本は、ランドマークの源流を欧州古代の「マイルストーン」に見いだす。里程標のことだ。ローマ帝国は紀元前120年ごろ、幹線街道に「1ローママイル(1000歩)ごと」の「距離標識」を置いたとある。旅人にどこまでやってきたかを教える目印がランドマークだった。本来は、塔でなくとも目印であればよいのだ。それが、近代技術によって建造物の3次元化が進み、「標識」の背丈も伸びていったとみるべきだろう。

 

 ローマ流の道づくりは日本にもみられる。江戸幕府は開幕翌年の1604年、「日本橋を起点として東海道や中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など主要な街道の1里ごとに、『一里塚』を立てることを命じた」。塚には約9m四方に土を盛り、「木陰をつくる樹木」も植えたという。平べったいランドマークだ。そのゼロ里の地点が日本橋だった。この木橋は「すべての道の目的地」として、全国版のランドマークになったと言ってよい。

 

 言葉を換えれば、日本橋は終着駅だったともいえる。現に界隈は、今のターミナル駅のように商業拠点ともなった。橋の近くでは1673年、伊勢出身の商人三井家が呉服店「越後屋」を開店、「店頭で現金決済による販売を始めた」。注文まずありきでなく、店で商品を選べる今流の商法だ。この店が後年、三越百貨店となる。一つの木橋のランドマーク性が明治を待たずに、日本自前の資本主義を芽吹かせたともいえるのである。

 

 こうしてみると、ランドマークに高架の蓋をかぶせたのは歴史の文脈の度外視にほかならない。1960年代は、景観と歴史の関係に無頓着だったらしい。この本にも、首都高建設は東京五輪を前に「都市景観を考慮せず短期間で無理やり進めた事業だった」とある。

 

 あのころの突貫ぶりで驚かされるのは、国立代々木競技場だ。設計者は丹下健三。体育館2棟の貝殻のような吊り屋根が美しい。この本によると、建設地が米軍宿舎のワシントンハイツ(当欄の前身、文理悠々2013年12月9日付「『嵐』の源流、金網の中のアメリカ」参照)だったので用地返還から始まった。「建設工事にこぎつけたのは、オリンピック開催まであと20カ月とせまっていた1963(昭和38)年2月のこと」という。

 

 高度成長を支える先輩世代が見せた五輪のバカヂカラは悪いことばかりではない。首都高高架の威圧感では負の側面が露わになったが、他方で新しい都市美も出現させた。東京はそんなバカヂカラの改造を繰り返して持続してきたのかもしれないと思えてくる。

 

 そのことを痛感させるのが、丸の内にある三菱1号館だ。三菱財閥は1890(明治23)年、一帯の陸軍用地を買収して近代風のビジネス街の建設に着手する。「ロンドンのビジネス街を模したレンガづくりの建築が並ぶさまは、『一丁倫敦(いっちょうロンドン)』と呼ばれた」。4年後に姿を現したのが1号館だ。設計したのは、お雇い外国人だった英国の建築家ジョサイア・コンドル。明治期日本の洋風建築に名を残した人である。

 

 ところが、この元祖オフィスビルが1968(昭和43)年に解体される。驚かされるのは、この68年が明治百年記念式典のあった年だということだ。僕の印象では、明治維新から1世紀の節目を祝おうという思いは保守陣営のほうが強かった。だが、そうした維新礼讃派の間にも日本近代化の記念碑的建造物を残そうという声は高まらず、跡地には今風のオフィスビルが建った。高度成長の効率志向が保守思想に勝ったともいえる。

 

 さらに驚くことがある。この建物がちゃっかりと「2010(平成22)年に三菱1号館美術館として復元された」のだ。僕も入ってみたが、居心地の良い空間ではあった。この本に載っている外観画像を美術館公式サイトにある初代1号館の写真と見比べると、ほぼそっくり。では、42年間の不在はいったい何だったのか。そこには、明治の文明開化→昭和の高度成長→平成の3次産業シフトという時流に忠実なスクラップアンドビルドがある。

 

 東京人はこれからも今まで通り、そのときそのときの改造を重ねていくのか。ここらで理想の都市像を見定め、それに向かって力を集中すべきなのか。考えどころだと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算398回)

 

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『量子コンピュータとは何か』(ジョージ・ジョンソン著、水谷淳訳、ハヤカワ文庫NF)

写真》0、1の重ね合わせ

 感涙ものの新聞記事に出会った。感動秘話でも美談佳話でもない。「国産量子コンピューター無償公開」という記事(朝日新聞2017年11月20日朝刊)。無機質感が漂うニュースになぜ心を震わせたのか。それが堂々、1面トップの扱いだったからだ。

 

 科学記者として、ぜひ見届けたいことがあった。自社の新聞が「量子」をめぐる記事を、その日のトップニュースにすることだ。ここで、量子の2文字は現代物理学の根幹をなす量子力学のことを指している。新聞の読者には、ほとんどなじみがない。だから、編集者からも「1面には不適、科学のページに載せればよいのではないか」という顔をされる。だが僕には、近未来を見通せばみんなで共有しておきたい言葉だと思われてならないのである。

 

 最もわかりやすい理由を、一つ挙げよう。今日のエレクトロニクスは、いずれ壁にぶち当たる。半導体チップに描き込む回路の配線幅を細くすることが、そろそろ限界に近づいているからだ。微細加工が難しいだけではない。極細の配線では、従来の回路理論が通用しなくなってしまう。量子力学ならではの効果が露わに見えてきて、別の制御法が求められるからだ。近未来の情報技術はもはや「量子」を避けて通れない、とみてよい。

 

 その「量子」は1990年代、科学の表舞台に躍り出た。量子情報科学の台頭だ。量子力学は、一つの粒子がA地点にいると同時にB地点にもいるといった複数状態の重なりを許容する。不在証明(アリバイ)が通用しない不可思議さだ。それが20世紀後半、極微や極低温の技術によって実験で実証されるようになった。この不可思議さをコンピューターや暗号システムの基本原理にとり込もうという研究が一気に広まったのである。

 

 1995年、僕は欧州に駐在していて、この動きを取材した。帰国後、新聞に連載して本にもまとめた(『量子論の宿題は解けるか――31人の研究者に聞く最前線報告』講談社ブルーバックス)。このとき話題の中心にあったのが量子コンピューターだ。それは、超高速の情報処理を可能にする実用技術であるだけでなく、量子力学の世界の常識外れをどう解釈するかという哲学の問いも提起していた。そのことが僕の心をとらえたのである。

 

 今回、僕の悲願を実現してくれた記事は、日本の国立情報学研究所などが開発した試作機を企業などに無償で使ってもらうという話。量子コンピューターが構想でしかなかったころを知る者には隔世の感がある。記事が巧妙なのは、この装置がどんなしくみで動くかについてほとんど触れていないことだ。それでいい、とにもかくにも量子の時代が到来したと伝えることこそが肝心なのだ。僕は後輩記者の快挙に、心のなかで拍手した。

 

 で、今週は『量子コンピュータとは何か』(ジョージ・ジョンソン著、水谷淳訳、ハヤカワ文庫NF)。著者は、1952年米国生まれのニューヨーク・タイムズ科学記者。僕にとっては同世代、同業の人ということになる。この本にも科学者とは異なる視点があって、そこに共感を抱いた。原著は2003年刊、翌年に邦訳が早川書房から出て、09年に文庫化された。前述の拙著同様、量子コンピューター草創期の記録として読める。

 

 本題に入る前に「コンピューター」の表記についてことわっておく。当欄は、新聞流を踏襲して「ター」と音引きしている。ただ、技術者の世界では「タ」派が大勢だ。この本の翻訳もそちらの方式をとっているので、地の文と引用箇所は一致していない。

 

 著者は「私は、科学的内容と科学者の人物像とが織り合わさった話を書いたり読んだりするのが好き」と打ち明けたうえで「この本では科学的な概念だけで話を進めていく」と宣言する。そこで「量子コンピュータは無数の計算を別の宇宙で実行していると信じる、夜行性のイギリス人物理学者の幽霊のような風貌(ふうぼう)には、今回は触れない」とあるのには苦笑した。デイビッド・ドイチュのことだろう。拙著冒頭に登場してもらった人だ。

 

 人物よりも科学そのものを描くという選択を支えるのは、少年時代の体験だ。著者はエレキバンドをやっていたが、演奏よりもメカにハマったらしい。回路図を見ながら「もともとギターやベースの音だった振動する電気信号が、迷路のように入り組んだ線のどこを通っていくかを、指で追えるようになった」。真空管は「梃子(てこ)」であり、「微小な電圧の変化」を受けて「別のより大きな電圧を制御する」。その仕掛けに魅せられた。

 

 別の箇所では、幼いころに遊んだ玩具「世界初の電脳マシン組立キット」も出てくる。「単にスイッチとランプをつなげたくだらない装置」だったが、その落胆が後年、「コンピュータは実は、スイッチがたくさん入った箱にすぎない」との認識につながったという。

 

 量子コンピューターの話は、米ロスアラモス国立研究所を起点に始まる。核爆発のシミュレーションに用いられるスーパーコンピューター・ブルーマウンテンと、同じ敷地でひそやかに研究される量子コンピューターとの対比だ。前者では、スイッチの集合体ともいえるプロセッサーが6000個余も働いている。これに対して後者の試作機では、スイッチそのものが7個しかない。それなのにスパコン後の高速計算マシンとして期待されている。

 

 これは、量子スイッチがオンオフの二者択一でなく「両方の状態を取れる」(「両方」に傍点)からだ。オンを1、オフを0として、スイッチが二つの場合を考えると、00、01、10、11の4状態が重なり合う。計算は、状態の数だけ同時並行で進められる。スイッチが13個なら8192状態。プロセッサー数6000をゆうに上回る並列処理能力だ。量子力学の不可思議さが既存エレクトロニクスの物量作戦を軽くしのいでしまうのである。

 

 どんな物理系の重ね合わせ状態が計算に使えるのか。この本は、いくつかの方式を紹介している。イオントラップ、共振空洞QED(QEDは量子電磁力学)、NMR(核磁気共鳴)……。1990年代から2000年代初頭にかけて盛んだった手法だ。ただ、どれも既存エレクトロニクスの回路のようには小型化できない。そんなこともあって、最近はチップ化できる手法の開発が進んでいる。だからここでは、十余年前の方式を詳述しない。

 

 著者も「門外漢が知るべきことは多くはない」として、手法の違いを超えた本質に迫る。「何か粒子を捕まえ、二つの量子状態に好きなように1と0を割り振る。使うのは、スピン、エネルギー、力学的振動、電荷、どれでもかまわない」(「スピン」は磁気的な向き)。計算では、これを別の粒子と相互作用させて「1と0からなるあるパターンを別のパターンに変換する」。このとき粒子が1、0だけでなく、その重ね合わせ状態もとれるのがミソだ。

 

 こうした系に大敵なのが「デコヒーレンス(干渉性の消失)」。重ね合わせ状態が「周囲からのわずかな攪乱」で壊されることをいう。量子コンピューターでは「重ね合わせ状態が壊れれば、そこで計算は失敗する」「すべての情報は計算が終わるまで厳重に隔離しておかなければならない」。そっとしておくのが大事なのだ。だから計算途上で誤りを修正するには、処理中の数値を「読み取ることなしにエラーを見つけ、訂正できなければならない」。

 

 この本は、量子世界と僕たちの常識との齟齬についても語っている。「人間の脳は進化の過程で、奇妙な量子効果が現れないような膨大な数の原子の集合体に適応してきた」。原子の数がふえるほど、デコヒーレンスは起こりやすくなるのだ。この見方に立って「原子や電子や陽子も必ず二つの状態のどちらか一方にあるはずだという人間の直感は、極小の世界を知らない生き物の持つ偏見にすぎない」と言い切る。人間を相対化した卓見だろう。

 

 量子力学の不可思議さについてはさまざまな解釈がある。前述のドイチュが主張する「多世界」論も、その一つ。状態の重ね合わせを並行世界に結びつける考え方だ。著者は、諸説紛々の状況をこう総括する。「どの解釈も、突き詰めれば次の言葉に集約される。『人間の脳は、量子の法則を直感的に理解するようにはできていない』。それに理由などない」。その不可解さを人類の知としてどう共有したらよいのか。ここが科学記者の悩みどころだろう。

 

 1面トップが量子の中身に踏み込まなかったことにも、この事情が窺えるではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算397回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『カタルーニャの歴史と文化』

(M・ジンマーマン、M=C・ジンマーマン著、田澤耕訳、白水社・文庫クセジュ)

写真》カタルーニャの味、クレマカタラーナ(自家製)

 この秋、にわかに国際ニュースの表舞台に躍り出てきた感があるのがスペイン・カタルーニャ自治州の独立問題だ。今の欧州で1地域が1国家から分離独立するという話ではスコットランドのことがまず頭に浮かぶ(当欄2014年9月26日付「とびきり見事なスコットランド騒動」)。そして、スペイン国内の民族問題としてはバスクのほうがメディアを騒がせてきたように思う。それが突然のカタルーニャ。情報を追いかけるのが大変だった。

 

 思いだすのは、1992年のバルセロナ・オリンピックだ。中継画面のまぶしい青空を見て「ああ、スペインっていいなあ」と思ったことを覚えている。バルセロナといえば、スペインそのものだった。首都の座はマドリードに譲るが、文化の発信源としては引けをとらない。あの五輪は、そういう印象をいっそう強めたのである。だが、この都市はスペインの顔であるまえにカタルーニャの顔だった。今になって、そのことに気づく。

 

 これは、スペインの事情通にとっては当たり前のことだったのかもしれない。今回の出来事に戸惑いながら、現代のカタルーニャ独立運動と密接不可分の関係にあるスペイン内戦(1936〜1939)についてもっと学んでおくべきだった、と後悔する。

 

 この内戦で人民戦線政府を打ち破ったフランシスコ・フランコ将軍(1892〜1975)は権力を手にすると、総統を名乗って独裁体制を敷いた。この政権下で、カタルーニャ語を母語とする人々はそれを使うことを禁じられた。そのフランコの時代を僕たちの世代は知っているのだ。少年期にテレビのニュースで老総統の姿をみて、欧州にもまだ独裁国があるのだと驚いたことがある。その陰でカタルーニャ対する抑圧があったことになる。

 

 僕が好きな作家に、カルロス・ルイス・サフォンがいる。その著『風の影』(木村裕美訳、集英社文庫、上下2巻)と『天使のゲーム』(訳者、文庫名とも同じ、上下2巻)を併せて読むと、内戦前後のバルセロナの空気を知ることができる(後者については、文理悠々2013年7月8日付「バルセロナの風、サフォンの書物」参照)。バルセロナ生まれのサフォンが登場人物に託した書物愛は、カタルーニャの陰翳ある風土が生みだしたのだろう。

 

 ここで、文理悠々の拙稿で引いた『天使のゲーム』の一節を再引用しよう。夏の日の空模様を描いたくだりだ。「この日の午後、空に散る黒い雲が海からぐんぐん押しよせてきて、バルセロナのうえに結集した。水平線にとどろく雷鳴と、土ぼこりや電気のにおいをはこぶ生温かい風が、かなり大きな夏の雷雨の到来を告げていた」。そして「都(まち)の真上で稲妻が砕け、轟音と怒りの痕跡を残すときだけ、闇がさえぎられた」とある。

 

 丘から緩やかに下る地形は地中海が運ぶ湿気にいつもさらされている。南欧の青空が一瞬翳り、人々の心を騒がせる。カタルーニャの人々は、そんな胸騒ぎに慣れっこだったのだろう。世の中が激動しても驟雨をやり過ごすようにそれを躱してきたのではないか。

 

 で、今週の1冊は『カタルーニャの歴史と文化』(ミシェル・ジンマーマン、マリ=クレール・ジンマーマン著、田澤耕訳、白水社・文庫クセジュ)。訳者あとがきによれば、著者ミシェルは、フランス・トゥルーズ学派の系譜にある歴史家でカタルーニャ史に詳しい。マリ=クレールは、カタルーニャの中世文学を専攻するパリ・ソルボンヌ出身の文学者だ。ともに1937年生まれ、同姓なので家族関係が想像されるが私的事情への言及はない。

 

 前半を占める「歴史」の詳説は、正直に言うと大変に読みづらい。日本人にとっては馴染みの薄い固有名詞が次から次に出てきて、話の筋を追えなくなるからだ。たとえば、3〜5世紀の記述でも、フランク族、アラマニ族、バンダル族、スエビ族、西ゴート族といった諸集団がカタルーニャやその周辺地域に出没して抗争を繰り返す。大河ドラマを10年分くらい見なければたどることができないほど戦乱続きだったことがわかる。

 

 カタルーニャ史の要約がまえがきにある。「周辺諸国に対抗して国としての意識を持ちはじめたのちにも、完全な主権を有無を言わさず認めさせる機会にはほとんど恵まれなかった」。自らの歴史が「隣国の歴史に束縛されたり、統合されたり、同化させられたり」ということが多かったのだ。だが、「敗れはしても、消滅することはなかった」「政治的に支配されれば、経済的成功によってその意趣返しをした」。したたかな「不死鳥」である。

 

 著者によると、カタルーニャが「連帯感や集団としてのアイデンティティーを持つようになった」のは1000年ごろだ。当時、一帯はフランク王国のもとで伯爵たちの領地となっていた。10世紀後半にバルセロナはコルドバのイスラム政権の進攻を受けるが、王国は救援に腰をあげようとしない。「カタルーニャ人は、孤立無援の状況を自覚するとともに、フランクとサラセンの中間的位置に自分たちがいることを悟った」という。

 

 こうしてフランク王国の支配が終わると、伯爵たちが権力を手中に収める。「カタルーニャの人びとは、自分たちの運命を自分たちで決められるようになると…(中略)…セプティマニアとトゥルーズに対して連帯感を強く持ちはじめた」。後者二つは南仏の地名。どちらもかつてカタルーニャとともに西ゴート族の支配域だった。「伯爵たちはピレネーの北から奥方を迎えた」ともある。スペインとフランスをまたぐ紐帯は強かったのである。

 

 このことは、後段「文学」の章に描かれた14〜15世紀ごろのカタルーニャ詩壇の様子とも符合する。「詩人たちは、トゥルーズの詩会議(一三二三年)で定められたところに従い、プロバンス語で詩を書いていた」という。バルセロナで1393年に「プロバンス起源の詩の競技会」が始まったとの記述もある。プロバンスも南仏の地域。文化の領域では、時がたつにつれてカタルーニャと南仏の結びつきが強まっていたのだろう。

 

 ただ、政治には別の様相もある。バルセロナは12世紀に領地を広げ、伯爵家は西隣アラゴンの王家と姻戚関係を結ぶ。バルセロナ伯爵イコールアラゴン国王の出現だ。この「カタルーニャ・アラゴン連合王国」では「それぞれの国の独立性は尊重された」らしいが、カタルーニャは連合によって「スペインと政治的かかわりを再び持つようになった」と著者は指摘する。南仏に親近感があっても、やはりイベリア半島の国だったということか。

 

 ここで注目したいのは、この体制のもとでカタルーニャに民主主義の道具立てが仕掛けられたことだ。13世紀、ジャウマ1世(ハイメ1世=征服王)の統治下で、「コルツ」という名の議会が設けられたのである。それは階層別の代表を集め、「財政、政治、立法」で議論を交わす場だった。「伯王は諸都市の代表を集め、三つの階層に協力させることで国の安定と団結の強化を図った」とある。この時点ではトップダウンの民主主義だった。

 

 ちなみに、「三つの階層」とは聖職者、貴族、都市市民を指している。13世紀末には、この「三本の『腕』」でかたちづくられる議会が「王権をチェックし、制限する機能まで持つようになった」。1283年のコルツでは「以後、すべての法律の成立には、コルツの承認が必要だということを決定した」という。立法府の確立だ。権力者から与えられた民主主義の装置を、その権力者に枷をはめるものにつくり変えてしまったのである。

 

 14世紀半ばには「ジャナラリタット」という機関がつくられる。三本の「腕」の代表が加わる「議会の常設代表部」で、「議会で決定されたことの執行」を担っていた。興味深いのは、この機関名が20世紀のカタルーニャ史に再び登場することである。

 

 1931年にカタルーニャが「イベリア連邦内のカタルーニャ共和国」を宣言、マドリード政権から拒まれ、代わりに自治権の強い州政府「ジャナラリタット」の復活が認められた。内戦の36年秋、そこには「反ファシスト勢力すべてが顔をそろえていた」とある。

 

 カタルーニャ独立運動の背景には、荒波にもまれた民族の歴史がある。したたかな民主主義の伝統もある。その帰趨は21世紀に「国」の姿はどうあるべきかのヒントとなろう。

(執筆撮影・尾関章、通算396回)

 

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『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫)

写真》線量の単位

 2011年3月11日の東日本大震災で、東京電力福島第一原発が水素爆発を続発させてからしばらく、周辺地域では放射性物質の飛散による低線量被曝が人々を大きな不安に陥れた。このあと、除染の当面の目安として「年間の被曝線量20ミリシーベルト未満」という話が出てきた。それを聞いて僕は一瞬耳を疑い、そして、とんでもないことが起こったんだなあ、と改めて痛感した。昔の常識とあまりにもかけ離れていたからだ。

 

 これには、自分の記者人生が反映している。1977年、新聞社に入ってすぐ、北陸福井の支局員になった。着任時、福井県南部には若狭湾沿いに原発がすでに6基あり、さらに新増設の計画が進行していた。僕は新人記者としておもに警察回りや郡部回り、さらには地場産業や都市問題などを取材していたが、原発関連の取材に駆りだされることも多かった。「線量」をめぐるあれこれは、そんなときにしばしば耳にする論点の一つだった。

 

 僕の記憶に刻みつけられたのは「500ミリレム」。1977年に国際放射線防護委員会(ICRP)が出した勧告では、一般の人が余計に浴びる放射線の量はここまでに抑えるという年間の線量限度として、この数値が定められていた。そして1990年の勧告では、それが5分の1に引き下げられる。これらの基準値は、原子力推進派が好んでもちだしていたように思う。我々は、この一線を守る。だから、原発は「安心安全」というわけだ。

 

 レムは、放射線量を生物体への影響という観点で測る単位。1980年代半ばからはシーベルトのほうがよく用いられるようになった。1シーベルト(Sv)=100レム(rem)。前述の「限度」は1977年勧告が5ミリシーベルト、1990年勧告が1ミリシーベルトである。3・11後に突然現れた「20ミリシーベルト」は、これらの勧告よりもずっと高い。非常時と平時という違いはあるにしても、このズレには愕然としてしまう。

 

 現に起こってしまった災厄のまえで、死守するはずの一線がかすんでしまう。安全神話の崩壊とはこういうことを言うのだろう。これこそが、僕が今回の事故で受けた最大の衝撃だった。原発増設時代の現地を見てきた者として、このことは伝えておきたい。

 

 今の日本社会は、科学技術の「安全安心」を標榜して細密な基準を設け、周到な手引書を用意して事にあたるのを得意としている。官僚制度が整っているせいだろうか、世の中は隅々までマニュアル化してしまった。だがいったん非常事態が起これば、平時の基準はいっぺんに吹っ飛んでしまう。福島では、線量限度をめぐってそういう現実があったということだ。大切なのは、基準とは破られやすいものであると心得ておくことではなかったか。

 

 で今週は、500ミリレムの時代にタイムスリップしてみる。とりあげるのは『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫)。もともと1979年に『原発ジプシー』(現代書館)として出版されたものが84年に講談社文庫に収められ、福島第一原発事故直後の2011年5月に書名と本文を改めて復刊された。著者は1948年生まれのフリーライター、記録作家。この本は自ら労働者として原発に入り、その実態を日記形式で伝えた体験記である。

 

 改題の背景にはたぶん、「ジプシー」が今では差別語扱いになっているという事情もあるのだろう。この一点だけでも歳月の流れを感じる。僕にとっては、なんと言っても福井で駆けだしの記者だったときに話題となった本だ。当時も、県内原発の様子が書かれているので一応は目を通した。ただ、同世代の著者が身ひとつで現場に飛び込む突撃精神に嫉妬めいた反発を感じて、きちんと読まなかったことを反省する。今回こそは熟読してみよう。

 

 まず感じ入ったのは、著者の書き手としての力量だ。関西電力美浜原発の定期検査で働くことになり、地元の人の小型トラックで原発へ向かうときの情景描写。「どこからこれだけ集まってきたのかと思うほどの数の車が、山肌にへばりついたような羊腸とした細い道を、騒音と排気ガスを撒きちらしながら原発へ原発へと進む様は、壮観というより、むしろ異様ですらあった」。巨大施設が労働力を吸い込む不気味さを的確に切りだしている。

 

 その一方で、原発が立地された一帯の自然描写も見事だ。作業後、宿への帰途のバスから見た風景。「夕陽が放つ光の矢が赤い一本の線となり、白い波頭を横切り、海面をまっすぐに私たちの方へとむかってくる。陽が沈むほどにその光の矢は細く短くなり、ある瞬間からそれは方向を変えると、水平線の一点へと凝集しはじめる」。敦賀半島西岸の日没が若狭湾の海原を刻々と変えていく様子を、鋭い観察力で繊細な感性をもって記述している。

 

 美浜原発の報告で驚かされるのは、「放射能の心配はない」とされた管理区域外の労働環境だ。機器類にピンホール(小穴)がないかどうかを調べる検査がそうだった。狭い空間に「キラキラと光る金属破片」や「ホコリ」が漂うなかを、口や鼻に「ウエス」と呼ばれる布きれを当てて動きまわる。著者は連日、そんな作業を続けた。宿で床に就いてから息苦しくなってタンを吐くと「ドス黒い」。それを見て「思わず身震いしてしまった」とある。

 

 管理区域に入っても、労働者は科学技術とほど遠いところで働かされる。一例は、美浜原発で「チェッカー」と呼ばれていた仕事。機器類やパイプの間を縫い、急階段を昇ったり降りたりしながら「作業中に出たゴミ類や、使用済みのゴム手袋・くつ下・マスクなどの回収と、新品の補充」をする。廃棄物をドラム缶詰めの作業室へ届け、洗いたての衣類は洗濯室から持ち帰るという往復だ。無機質のプラントにも人間臭い労役はつきまとう。

 

 では、いよいよ線量問題。この本に登場する原発では当時、作業員の被曝はここまでという「計画線量」が1日100ミリレム、週の合計300ミリレムと定められていた。ICRP1990年勧告で一般人の1年間の線量限度とされた値が1日の限度だったわけだ。著者は1日に浴びた線量を丹念に記録している。日本原子力発電敦賀原発の中枢部で働いたときはミリレム単位で10〜70台の日が続くようになり、80に達することもあった。

 

 当然、作業は短時間で交代となる。美浜原発での話。「六、七分後、突然、『ビィーッ』という重い連続音。五〇ミリレムにセットしたアラーム・メーターが“パンク”したのだ」。計器が警告を発して、若者が高線量の部屋から出てくる。次いで別の若者が飛び込み、今度は2〜3分で戻る。そして次が著者の番。パッキング10枚の取り付けだ。「九枚目がようやく入った。あと一枚。しかし、無意識のうちに足は出口にむかって走り出していた」

 

 彼らは、原発事業者傘下の雇用体制で最末端にいる労働者だ。中間に位置する元請け業者、下請け業者もそれなりに苦しい。著者が東京電力福島第一原発にいたとき、喫茶店に入ると業者の愚痴が聞こえてきた。「放射線量の限度がありますから、どうしても頭数(あたまかず)をたくさん確保しなければなりませんしねえ……」「で、確保するったって、地元の者だけでは限界がありますから、県外から引っ張ってこなければなりませんでしょ」

 

 このくだりで知ったことがある。東電の福島第一は沸騰水型だが、関電の原発は加圧水型で冷却水が一次系と二次系に分かれる――この違いが、労働者を送り込む業者には別の意味をもっていたことだ。「関電さんの原発だと、一次系、二次系と分けられてますから、線量をオーバーした労働者は放射能とは関係のない二次系(管理区域外)のタービン建屋などにまわすことができるんですけど……福島じゃあ、どこもかしこも管理区域でしょう」

 

 この本は、原発が労働者を見捨ててきた現実を告発する。著者は敦賀原発で定期検査の電源を用意するため、ケーブルの搬入作業に従事した。「定検のたびにそれ用の電気を管理区域内に付設するのは、私たち労働者だ。当然、被ばくをする。最初から定検用電源が確保してあれば、この被ばく分だけは少なくとも減少させることができるのだ」。原発は、想定外どころか想定内のリスクに対してもまともに向きあってこなかったとは言えないか。

 

 1970年代、原発まずありきの不条理は労働者が受けとめていた。それは今も続き、さらに敷地外の人々まで巻き込んだのである。最後にギクッとする符合を一つ。この本によると、79年3月11日にも福島で地震があった。日本社会の鈍感を叱るような偶然だ。

(執筆撮影・尾関章、通算395回)

 

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『アメリカ外交50年』

(ジョージ・F・ケナン著、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳、岩波現代文庫)

写真》朝日新聞2017年11月7日朝刊

 トランプ旋風が日本にも吹いた。大統領が昼食にハンバーガーをパクついた、首脳同士がゴルフをしながらグータッチした、娘や妻も次々に来日して高価そうなファッションを見せつけた――なにか、そんなふわふわしたことだけが脳裏に焼きついている。

 

 だが、背後で一つ実を結びそうなことがあった。米製の防衛装備品を日本が買うという話だ。米国トップが外交の舞台でこれほどあからさまに商談に熱中したことに僕は驚く。

 

 ここで言っておきたいのは、僕たちの世代にとって米国がずっと特別な国だったことだ。物心がついたころは、その国が「鬼畜」呼ばわりされていた戦時から約10年しかたっていない。戦争は、ほんの近過去の出来事。2017年の今から第1次安倍内閣のころを振り返るようなものだ。ところが、大人たちが元敵国の「鬼」たちに脅えている様子はほとんど感じられなかった。子どもの目にも、米国人はカッコいい存在に映っていたのである。

 

 街には駐留軍のジープが走り、長身の頭にGIキャップを載せた兵士たちがたむろしていた。ラジオのダイヤルを回すと、NHK第1、第2の次にFENが聞こえてきてポップスが流れていた。まさに『ワシントンハイツ――GHQが東京に刻んだ戦後』(秋尾沙戸子著、新潮文庫)が描いたような世界だ(当欄の前身、文理悠々2013年12月9日付「『嵐』の源流、金網の中のアメリカ」)。実際、僕が電車の窓から眺めたハイツもまぶしかった。

 

 この印象が市井に暮らす人々の心情だとすると、理念では逆のベクトルもあった。僕たちは小学生のころ、60年安保闘争のデモ映像でそのことを知る。そこには反米ナショナリズムの一面が間違いなくあったが、ただそれでも、15年前の敵国に対する怨念という色彩は帯びていなかったように思う。子ども心にも東西冷戦の一方に与して核大国の傘に入るという選択はよくないように思えたが、嫌米感情はまったく起こらなかった。

 

 この相反するベクトルの綱引きは、青春期にいっそうはっきりした。片方には米国で生まれたニューシネマがあり、アメリカ文学があり、そしてジャズやロックやフォークソングの旋律とリズムがあった。もう一方ではベトナム戦争が泥沼の様相を強めていて、それを推し進める政治体制を米帝国主義、略して米帝と呼ぶようになった。きわめて興味深いのは、後者が前者を触発して、その前者の発信に僕たちが共感していたことである。

 

 ここで痛感するのは、アメリカ合衆国の風通しのよさだ。ときの政権が国際社会でとった態度に同調しない人がいる。いやむしろ、反発をバネに魅力あふれる対抗文化を生みだすことすらある。これこそが、米国が「鬼」のレッテルを貼られても米国人自身は「鬼」と見られない最大の理由なのだろう。ではなぜ、そんな健全な社会風土があるにもかかわらず、米国の政治家は繰り返し戦争に手を染めてきたのか。その疑問がどうしても残る。

 

 で、今週の1冊は『アメリカ外交50年』(ジョージ・F・ケナン著、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳、岩波現代文庫)。著者(1904〜2005)は米国の外交官としてモスクワなどに駐在、第2次大戦後には国務省政策企画室長や駐ソ大使などを務めた人だ。

 

 原著は、1950年にシカゴ大学であった講演や当時の雑誌論文をもとに51年に刊行された。52年には邦訳が出ている(岩波現代叢書)。85年には最新の講演録を添えた増補版が米国で出され、この翻訳も岩波書店が86年に出版。今回の本は、その文庫版だ(2000年刊)。書名は最初の邦題を踏襲しているので、「50年」は本来20世紀半ばまでの半世紀。だが、増補されたことでベトナム戦争をも振り返る論考集となっている。

 

 有賀執筆の訳者あとがきによると、著者が国務省在勤時代、「フォーリン・アフェアーズ」誌1947年7月号に寄稿した匿名論文は「封じ込め政策」という言葉を広めたという。その「ソヴェトの行動の源泉」が、この本に再録されている。このなかには確かに「アメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連邦の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込め(コンテインメント)でなければならない」との記述がある。

 

 この一点からも、著者が戦後の米国外交を構想した一人だったことがわかる。冷戦の構図を描いた仕掛け人と言ってよいのかもしれない。ただ、ページを繰っていて思い知らされるのは、この人はただの官僚ではなく、策士でもないということだ。歴史をひもといて自国の外交の短所をあぶり出す。その筆致からは、タカよりもハト、思慮深い知識人としての横顔が見てとれる。この本には、冷戦が過ぎた今でも傾聴に値する教訓が詰まっている。

 

 冒頭の章「スペインとの戦争」に、それはすでに見られる。19世紀末の米西戦争でフィリピンは米領となったが、そこに植民地型の統治が生まれたことに批判の目を注ぐ。社会の構成員は「『市民』と呼ぶ人びと」に限られるべきであり「『被支配者』という異質のものを取り込もうとする」ことは「自らの本質的性格を汚す」とみるならば、「われわれの制度が及ぶ可能な範囲は限定されたもの」にとどめなくてはならない、と論じる。

 

 念頭にあるのは、米国自身の独立史だ。ここでは、米西戦争後に米上院議員の一人が「外国の領土を併合し、これをその住民の同意なくして統治すること」を「独立宣言の神聖な諸原則に全く背馳しており、また憲法の諸目的を推進するものでない」と断じた史実が参照されている。この議員は、建国者たちは子孫が「金ぴかの皇帝や安物の王様の古着を着込んでいばって歩き廻るようなこと」をするとは思ってもいなかったはず、と嘆いたともいう。

 

 ここで、僕はハッとさせられた。前述のように僕たちは若いころ、「米帝国主義」という言葉になじんでいたが、考えてみれば合衆国に昔も今も皇帝はいない。それがどうして帝国まがいの行動をとってきたのか。その謎解きが、この本の読みどころといってよい。

 

 ここで出てくるキーワードが「法律」と「道徳」だ。著者は、米外交史の「最も重大な過誤」は「法律家的(リーガリスティック)・道徳家的(モラリスティック)アプローチと呼ばれるもののうち」にある、と見抜く。これは「アングロ・サクソン流の個人主義的法律観念を国際社会に置き換え」「政府間にも通用させようとする努力」として表れるという。なるほど、米国が「世界の警察官」と言われるのも、むべなるかなである。

 

 感心するのは、この分析に冷戦後を予見するような洞察があることだ。著者は、法律家的な発想では「内戦は国内的のものに止まり、国際戦争にまで発展しない」と考えがちだと指摘する。国を個人のようにみなすからだろう。その結果、「国際社会は各々の国家の領域内において権力を主張する競争者のうちいずれを選択するかというような立場に置かれるようなことはない」と高を括ってしまう。それが破綻したのが局地紛争の多発ではないか。

 

 「アメリカとロシアの将来」と題する論考(「フォーリン・アフェアーズ」1951年4月号)で、早々とソ連崩壊に思考をめぐらせていることにも驚く。「過去のロシアに存在した系譜ほど立派な自由主義の伝統はない」として、ロシア人たちは「将来のロシアにおいて、その伝統を支配的な要素とするようにあらんかぎりの力をつくすであろう」という。執筆時点のロシアを「ソヴェト体制の時代という幕間」に位置づける長い目の歴史観だ。

 

 著者がここで強く戒めるのは「西側世界の民主主義の夢の複製を性急につくらせようとする」お節介であり、促すのは「どうみてもわれわれのものに似ておらず、しかも非難できないような社会構造と政府形態とが存在し得るということをはっきり認める」謙虚さだ。これは、ベトナム介入への反省につながる。ホー・チ・ミン政権は、米国の出方次第では「共産圏とわが国とに対してそのどちらにも偏らない関係」を保とうとしただろうともいう。

 

 この本にも出てくるが、米国の外交政策は戦後、核兵器の危険を抱え込むことになった。保有国同士は「互いに相手の人質となった」のである。だからこそ、冷静にものを考えられる人物が大統領のそばにいなくてはならない。現政権に第二のケナンはいるのだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算394回)

 

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『ぼくらの民主主義なんだぜ』(高橋源一郎著、朝日新書)

写真》草の根

 こうして週に1度、折々の話題を取り込んでブログを書いていると、ジャーナリズムの弱みを改めて感じることがままある。たとえば、今春の当欄ではオーストリアの大統領選でリベラル系候補が勝利した話を書いた(2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考」)。ところが10月の国民議会選挙では一転、移民難民に厳しい政策をとる中道右派が第1党になった。ジャーナリズムはどうしても一瞬の風景にとらわれてしまう。

 

 だから、記者にとって自分の過去記事を読むのはつらい。記述に間違いがなくても、今となってはピンと来ないことがある。先が読めていなかったのだと言われれば、反論のしようがない。ただ、だからといって切り抜きをポイ捨てできないのもまた事実だ。人はあるとき、あるところでしか生きられない。そもそもジャーナリズムの語源は「日々の」というラテン語にあるのだから、「あるとき、あるところ」の視点は宿命と言ってもよいだろう。

 

 こう考えてみると、過去記事にはそれなりの存在理由がある。僕たちは、過去を現在の視点から振り返り、今の自分に都合よく改変しがちだ。だが、記事をたよりにその時点に立ち戻れば、ウソがつけなくなる。ジャーナリスティックな文章の意義は、そこにある。

 

 近過去で言えば、人々の心にとりわけ強く印象に残るのは2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発の大事故だ。3・11からしばらく、日本社会では旧来の価値観が大きく揺らいだ。それは、科学技術の分野で原子力の安全神話が崩れたということにとどまらない。世の中のありようそのものに疑問符がついて、心ある同時代人は「自分たちはこれまで、いったい何をしてきたのか」と自問したのである。

 

 あのとき、僕の心をよぎった思いを呼び返してみよう。大都市では大量消費が口を開けている。田舎町には巨大施設が並び、都市圏の消費生活を支える電力を生みだしてきた。それは、原子核という自然界の安定基盤をたたき割る作業で得られるものだった。この電力需給システムが脆くも崩壊して、災厄を招いた。しかも、それによって平穏な生活を奪われたのは、もっぱら田舎町の側だった――この大都市優先の構図に疑念が生じたのである。

 

 あれほど強烈な過去が、たった6年でもうすでに風化してはいないだろうか。原発の再稼働に反対していても、自分の暮らしを見直そうという気持ちをもち続けている人はそんなに多くない。2020年東京五輪パラリンピックで一極集中がさらに進みそうだと辛口の批評をすると、空気の読めないやつだと冷笑されかねない。あのときの自問は、どこへ消えたのか。過去をその時点に立ち返ってとらえることが今こそ必要だと思えてくる。

 

 で今週は、『ぼくらの民主主義なんだぜ』(高橋源一郎著、朝日新書)。著者が朝日新聞「論壇時評」欄に執筆した連載にもとづく。収録されたのは、2011年4月から2015年3月までの掲載分。加筆したとあるが、1回読み切りのスタイルはそのままだ。

 

 著者は、もちろん今をときめく人気作家。略歴欄に「1951年生まれ」とあるのをみて、そうか、僕と同年生まれだったのかと驚いた。この本では「学生の頃、まったく授業に出なかった」「20歳だった頃、ぼくは、ある大手自動車工場の季節労働者として働いていた」といった昔話が出てきて、さらにデモ現場での逮捕歴に触れた箇所もある。1970年代初頭、時代の空気を思いきり吸って突っ張っていたカッコいい同世代の姿がそこにはある。

 

 僕が励まされたのは、「あとがき」で著者が時評執筆を引き受けるまでの内心の軌跡を披歴しているのを読んだときだ。「読者のことを考えるとき、目の前の読者、いま読んでくれている読者だけではなく、いつか読んでくれるかもしれない読者のことを考えるようになった」「未来の読者から、『あなたが生きていたその世界ではなにがあったのですか?』と訊(たず)ねられたら、『こんなことがあったんだよ』と答えたいと思った」とある。

 

 これこそが、ジャーナリズムにとって宿命の「あるとき、あるところ」という限定された視点がむしろ強みとなって現れる回路ではないか。当欄が読書ブログにもかかわらず、週ごとに直近の世情をなるべく切りとろうとしているのも、まったく同じ思いからだ。

 

 中身に入ろう。冒頭の1編は2011年4月28日付なので、東日本大震災と福島第一原発事故の混乱のさなかに掲載された。「3月11日以降、この国のあらゆる場所が『論壇』になった」として、いわゆる論壇の外部から「目が醒(さ)める」ような発信を拾いあげる。それが、「城南信用金庫の『脱原発宣言』」だ。ユーチューブにある理事長の言葉を紹介しながら、「そこに、わたしは『新しい公共性』への道を見たいと思った」と書く。

 

 実は僕もあのころ、論壇外の「論壇」に目を見開かされた。城南信金は地域の金融機関だが、もっとローカルな商店街でも同様なことが起こっていたのだ。僕お気に入りの昔ながらの理髪店。そのホームページをのぞいたら、店主が反原発を呼びかけていた。著者の言葉を借りれば「『原発』のような『政治』的問題は、遠くで、誰かが決定するもの」という「思いこみ」を破る言論が3・11からしばらく、列島のあちこちに花開いていたのである。

 

 2011年5月26日付も原発が主テーマ。ここでは、関曠野(「現代思想」2011年5月号)と中沢新一(「すばる」2011年6月号)の論考を読み解いている。著者によれば、前者は原子力が「ニュートン物理学の枠外」にあって「日常の感覚では理解できない」ことが人々を不安にさせる、とみていた。一方、後者には「原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系の安定を破壊する」との見立てがあったという。

 

 両論考は、僕が日ごろ物理学史を踏まえて論じていることと響きあう。――水力発電は重力のおかげだ。火力発電はどうか。燃焼は化学反応であり、電子がかかわっているので結局は電磁力に帰する。重力も電磁力も、人間が馴染んだものだ。ところが、原発はこれらと別の力で束ねられた原子核を壊してエネルギーを得る。その力は人類にとって長く未知の存在であり、20世紀も1934年になって湯川秀樹が理論によって導いたものだった。

 

 この2回の時評からわかるのは、3・11直後には真の意味での論壇が広く、深く展開されたことである。一方では、メディアとは縁遠いところにいた人々が壇上にあがって発言した。もう一方では、文系の論客がふだんなら理系マターとして片づけられがちなテーマに分け入って文明論の視点から批判を加えた。これこそが、「ぼくらの民主主義」だったと言えないだろうか。2017年の今、その熱気が残っているようには思えない。

 

 ただ著者は、3・11直後の気分にのみ込まれていたわけではない。当時の閣僚が、原発事故で住民がいなくなった地域を「死の町」にたとえて責められた一件では、自身も同じ言葉を口にしたことを告白して「あんな程度で辞任させられるわけ?」と問う。ここでは、東京新聞が2011年9月20日付の社説で「言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか」と自戒したことを引いている。

 

 ちょっと気になったのは、僕たちの世代特有の記憶が著者にも染みついているように見える箇所だ。それは、大震災を「増幅」したものは国の構造に潜む欠陥だったと論じた後、「『お上』には、この問題を解決する能力がないのではないかと疑ってもいる」と述べたくだり。この「お上」という2文字に僕は引っかかった。1970年前後、反体制の文化人がよく用いた表現だ。懐かしくはあるが、国イコール「お上」の誤解を招きかねない。

 

 「お上」ではない政権を設計して、それを樹立するのが民主主義ではないだろうか。

 

 著者は、若手論客の古市憲寿が著した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)という本をとりあげて、そこにある「『戦争を知らなくていい』という結論」に共感を示す。僕も、まったく同感だ。民主主義は、1945年直後の厭戦感情や1970年前後の反体制運動だけに存するわけではない。そのことに気づいたとき、それは「ぼくら」のものになる。3・11で草の根に広がった「論壇」を、僕たちはもう置き忘れてはいないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算393回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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「あなたに似た子」「朝靄が死をつつむ」

(『新装版 二人の夫をもつ女』=夏樹静子著、講談社文庫=所収)

写真》いくつもの可能性

 選挙が終わった。どの党が勝った、負けたという政局ばなしをするつもりはない。確実に言えるのは、これからしばらく憲法を変えるかどうかが大テーマになりそうなことだ。

 

 日本国憲法については、当欄の前身コラムでとりあげたことがある(文理悠々2013年9月17日付「日本国憲法を読むという読書」)。そこで僕は「昨今の改憲論議でもっとも気になるのは、戦争直後にできた憲法は今の時代の求めに応えていないという言い分だ」と書いた。新たに世間の関心事となったテーマをもちだしては、現憲法を「時代遅れ」と断ずる。その結果、改憲派主流がずっと主張してきた第9条の改定は陰に隠される。

 

 このときの新顔テーマの定番が環境と生命だ。軍事力保持を明文化するかどうかとなると改憲のハードルは高くなるが、環境保護や生命倫理の話なら抵抗感が小さいので、有権者も乗ってきやすいだろう――そんな思惑が見え隠れする。現に、右派ではなく中道寄りの勢力が改憲を口にするとき、検討項目に挙げられることが多い。だが、ここは熟考したい。これらの問題に対処するのに、ほんとうに憲法を変える必要があるのか。

 

 前述「文理悠々」の拙稿では『新装版 日本国憲法』(講談社学術文庫)を読んで、少なくとも環境権については「時代遅れ」とは言えない、と論じた。第25条で国民の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を認め、国に「公衆衛生の向上及び増進」の努力を義務づけていて、環境の保全や公害の回避は当然そこに含まれる、と僕には読めるのだ。先人が「健康で文化的」という幅のある言葉を選んだことに深い敬意を抱く。

 

 ということで今回は、生命観について考える。最近目にとまった話題に体外受精の広まりがある。日本産科婦人科学会が今年9月に公表した統計によると、2015年に国内ではこの技術を用いて5万1001人の赤ちゃんが生まれたという。出生児20人当たり1人の勘定だ。この手法が、不妊治療の一つとして日常化したと言ってもよいだろう。1980年代に医療分野を取材した経験がある元新聞記者にとっては驚くべき数字だった。

 

 日本で初めて体外受精児が生まれたのは1983年のことだ。そのころは生命誕生につながる受精を人工の環境下で代行する医療は好奇の目で見られ、拒否感を抱く人も多かった。だが30年あまりが過ぎて、いまや不妊に悩む夫婦の有力な選択肢になっている。このことからわかるのは、人々の生命倫理は時代とともに変わるということだ。だから、こういう問題は憲法になじまない。生命科学技術を改憲時点の倫理観で縛るべきではない。

 

 で、今週はミステリー。このジャンルは生命科学を扱うとき、執筆時点の最新知見をもとにする。それを今の視点で読んでみると、世の中の生命観の移ろいが見えてくる。

 

 話題にしようと思うのは、夏樹静子作品。この作家は本格推理の書き手でありながら、日々の生活に悪意がしのび込む様子を描きだすことに長けている。社会派ではある。ただ、松本清張の作品群に見られるようにマクロの悪をあばきだすのではなく、どちらかと言えば家庭や職場に潜むミクロの悪を切りだす、という印象が強い。今回は、そんな作品が並ぶ『新装版 二人の夫をもつ女』(夏樹静子著、講談社文庫)所収の2編をとりあげる。

 

 巻末に、この短編集は1980年に講談社文庫から出たとある。僕が手にとったのは、その改訂版で2014年刊。著者の作家デビューが1970年であることを考え合わせると、ここに収められた作品は70年代の最新知見を反映しているとみてよいだろう。

 

 まずは、冒頭の1編「あなたに似た子」。最初の段落には「午前十時台のこの団地の道路は、人通りが途絶えて、奇妙にシンとした感じになる」「大方の主婦たちが、夫や子供を送り出したあと、お茶を淹(い)れ、帯ドラマを視ている時間だからであろう」と書かれている。若い夫婦が「団地」にスイートホームを求め、そこには昼間の住人として専業の「主婦」たちがいる――それが、都市郊外の典型的な光景だった時代の話である。

 

 冬のある日、団地の歩道を、もとは自身も入居していたが今は近くの戸建てに移った梓若子が3歳の勝巳を連れて歩いている。すると、公園にたむろする女性たちが「いっせいに振返った」。幾人かの視線には「冷ややかな反感」がある。通り過ぎると「まったく似てるわねえ、勝巳ちゃん」「本当ねえ。近ごろますます似てくるみたい」。そんな言葉が聞こえてくる。この団地に住む慶田了介の子、寛とそっくりだというのである。

 

 不倫の詮索。団地コミュニティーにあっては井戸端会議の格好のネタだろう。おもしろいのは、その勘ぐりが一定程度に真実だったことだ。若子と了介はたしかに一線を越えていた。そして実際、勝巳と寛は似ている。だが、勝巳は了介の子ではなかった。「彼は三年半前に生まれ、妊娠当時若子は慶田という男の存在すら知らなかったのだ!」。世間の読みはズバリ的を射ていないが、自分のほうからは弁明しにくい状況がそこにはある。

 

 ここで出てくるのが、血液型だ。若子と了介の会話。「あなたは何型?」「ぼくはO型だ」「主人はA、私はB型なの。これで勝巳のを調べれば、はっきりするわけだわ」――そうだ、あのころは血のつながりを探るにはこれしかなかった。この作品では「血液型による親子鑑定」はABO式のほかにも多くの方式があり、それらを組み合わせて確度を高められることが書かれているが、まずは当事者がA、B、AB、Oのどの型かを知ることだった。

 

 この作品は、ここからの展開がおもしろいので筋に立ち入るのは打ち止めにする。一つだけ明かせば、ABO式の鑑定がもたらす疑心暗鬼がミステリーの核心にあることだ。両親の型によって、この型の子は生まれないと断定できるケースはある。だがその一方、たいていの組み合わせでは子の型が一つに決まらない。一つに決まる場合でも、それは血がつながっていても矛盾しないというところでとどまり、血縁の有無を確答できないのである。

 

 今ならば、DNA型鑑定がほぼ確実に生物学的な親子関係を判別できる。遺伝子を乗せたデオキシリボ核酸(DNA)の塩基配列の特徴は人物を特定できるだけでなく血縁関係もたどれるので、疑心暗鬼を追い払える。「あなたに…」には、若子が「両親の血液型の組み合せに応じて生まれうる子供の血液型を表にしたもの」を見ながら気を揉む場面があるが、それがミステリーのひとこまとして成立しなくなっているのである。

 

 「朝靄が死をつつむ」にも血液型が出てくる。主人公「私」の友人(27)がアパートの自室で死ぬ。ガス栓が全開になっていて自殺のようではあるが、事件の可能性もある。体内から精液が検出され、血液型を調べると彼女の婚約者のものと同じだったが、もしかしたら別人にレイプされたのかもしれない。疑わしい人物が浮かびあがっていたので、「私」はその男の血液型を知ろうとする。これも今なら即刻、DNA型鑑定に付されるだろう。

 

 余談だが、ここで時代を感じるのは、「私」がいともたやすく血液型情報を手に入れることだ。その男の実家でかつてお手伝いをしていた女性にあたると、「それなら、古木先生とこでうかがえばわかりますよ」と主治医の記録を看護師経由で聞きだしてくる。血液型が事件捜査で幅を利かせていたころ、個人情報の扱いも緩かった。昨今は捜査権をもたない素人探偵が事件に首を突っ込んでも、自力では情報をなかなか集められない。

 

 この2編からわかるのは、DNA科学が世の中のありようを変えたということだ。不倫話であれ、刑事事件であれ、血液型が頼りの時代はあいまいな部分が大きかった。ところがDNA型は、きっちりと答えを出してしまう。これは、ミステリーの土台を揺るがすだけではない。僕たちが日々の暮らしでもろもろの判断をするときにも影響を与える。世の中のしくみは、その変化を見極めながら再設計されなくてはならない。時間のかかる作業だ。

 

 人は今、DNAという生命情報の塊を手にした。だが、その賢明な扱い方をまだ見いだしてはいない。新しい生命倫理が熟するまえに、それを憲法に盛り込むのは拙速に過ぎる。

(執筆撮影・尾関章、通算392回)

 

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『海辺のカフカ』(村上春樹著、新潮文庫、上下2巻)

写真》アーシーな讃岐うどん

 10月が終わらないうちに村上春樹について語っておこうと思う。例年はノーベル賞がどうのこうのという話から入るのだが、今年はそれをやめる。賞のことをさておいても年に1度は、この作家のことを書いてみたいという気に駆られるのだ。

 

 僕は折に触れて、村上春樹の魅力は「普通」にあると言ったり書いたりしてきた。これはもちろん、一ファンとしての支持表明だ。ただ「普通」をもってほめ言葉とすることについては、親しい友人からたしなめられたことがあった。「普通」をいわゆるノーマルという意味でとらえると、その礼讃は少数派の異端視につながる。いや、それだけではない。人間ひとりひとりは異なるという多様性を軽んじているようにも見えてしまう――。

 

 たしかにその通りだ。「普通」が良いというような文言を安易に用いてはいけないと肝に銘じた。ただ、僕の真意を伝えるのに、それに代わる言葉がなかなか見つからない。ということで、ここでは自分が彼の作品に感じる「普通」の意味を再整理してみようと思う。

 

 ザクッと言うと、こうなる。日本の現代文学史を地図にして概観すれば、ノーベル賞作家の川端康成と大江健三郎が巨峰として聳える。前者は耽美派、後者は進歩派の代表と言えよう。両者の周りには、同様の系譜の作家群が山脈をなしている。それらと対峙するのは異質な山影。野坂昭如、五木寛之といった在野感の強い面々だ。これが、1970年代前半までの文壇の構図だった。そこに新生の活火山のように現れたのが村上春樹である。

 

 ひとことで括れば、村上春樹は権威と反権威を超えて新しい地平を切りひらいた。そこに、文壇の匂いはもはやない。このことを言い表すのに、僕の貧弱な語彙から引っぱりだしたのが「普通」だった。それがどう普通なのかを当欄の前身で考察したこともある。

 

 旅行記『辺境・近境』(村上春樹著、新潮文庫)に収められた「讃岐・超ディープうどん紀行」で、父子が営むうどん店を訪ねたくだり。そこでは、うどんを足でこねているのだという。息子が口にした言葉は「そうせんと美味(うも)ないねん」。それを受けて、こんな一文がある。「そのアーシーなパワーにただただかしこまってしまうしかないような気がする」(文理悠々2013年10月15日付「残念、でも村上春樹の『普通』がいい」)。

 

 「美味ないねん」と「アーシーなパワー」(訳せば「土臭い力」か)。方言の重さを今風の外来語で軽やかに包んでしまうのが村上春樹だ。そこには、下から目線の屈折も上から目線の衒学もない。権威は崩れ、それに盾突く反権威も意味を失っている。1970年半ば、対抗文化の嵐が去った後の風景だ。それをいち早く切りとってみせたのが村上春樹ではなかったか。自身は49年生まれ、反抗の世代のど真ん中なのにもかかわらず、である。

 

 で、今週は『海辺のカフカ』(村上春樹著、新潮文庫、上下2巻)。2002年発表の長編小説(新潮社刊)だ。05年に文庫化された。この本を選んだ理由は、主舞台の四国高松に惹かれたから。「美味ないねん」の地元である。僕自身の出張の記憶を呼び起こすと、海に近い市街のサンフランシスコのような明るさが印象に残っている。この作品は未読だったので、今回遅ればせに読んでみて、あの空気を再体験しようとも思った。

 

 うどんは、この作品にも出てくる。主人公の家出少年、自称「田村カフカ」15歳が夜行バスで高松に着いてまず飛び込んだのが駅前のうどん屋。「東京で生まれ育ったから、うどんというものをほとんど食べたことがない」とある。東京人としては、著者が関西人ゆえの偏見と言いたい! ともあれ、少年はそのうどんに「腰が強く、新鮮で、だしも香ばしい。値段もびっくりするくらい安い」(「だし」に傍点)と大満足で、おかわりを頼む。

 

 夜行バス→うどん屋というカフカ少年の高松第1日は、宿泊先がビジネスホテルだったことで完結する。「YMCAをとおすと料金がとくべつに安くなる」「ただしそのサービス料金は3泊で終わってしまう」という宿だ。ここにはデフレ感漂う今日の世相がある。

 

 だが、カフカ少年がホテルから通いはじめる場所は、それと対照的だ。「甲村(こうむら)記念」と銘打つ「旧家のお金持ちが自宅の書庫を改築してつくった私立図書館」だ。「門を入ると曲がりくねった砂利道がつづき」「植え込みのあいだに大きな古い灯籠(とうろう)がいくつかあり、小さな池も見える」――素封家が私財を投じて書画を愛で、文人を支えるという地域文化の伝統が見えてくる。ちなみに、これは実在の図書館ではない。

 

 そこには、謎めいた人物がいる。一人は、受付の大島さん。削りたての鉛筆を愛用していて「ハンサムというよりは、むしろ美しい」。スポーツカーのマツダ・ロードスターで高速を飛ばしながらシューベルトを聴くこともある。もう一人は館の責任者、佐伯さん。見たところ40代半ばくらいの女性で姿勢がよく、光沢のあるストッキングに細身のヒールを履いて階段を上がっていく。こちらは万年筆党で、愛車はフォルクスワーゲン・ゴルフ。

 

 夜行バスやうどん屋やビジネスホテルを現実だとすれば、この私立図書館は現実からはみ出している。実際にカフカ少年は、ここを起点に奇妙な体験を重ねる。大島さんに誘われて山深い森に入り、異界へ迷い込む。館に泊っていて深夜、少女時代の佐伯さんを眺めることもある。リアリズムの物語のつもりで読んでいると、いつのまにかおとぎ話や神話の真っただ中に立たされている自分に気づく。それが、この作品に奥行きを与えている。

 

 導入部では、カフカ少年の逃避行と並行して二つの物語が進行する。一つは戦時中、山梨県の山林で野外実習していた児童たちが集団で倒れた事件。戦後、米軍が調査した報告書は極秘扱いだったが、1986年に公開される。教師は直前、上空に「銀色のジュラルミンらしきもののきらめき」を見たと証言するが、米軍機飛来の記録はない。子どもたちはぐったりとして「どこか遠くにある風景を端から端まで見わたしているみたい」だったという。

 

 もう一つは、現代の東京が舞台。中野区在住のナカタさんという初老の男性が、猫と会話できる特技を生かして行方不明の飼い猫探しをしている。町で出会う猫たちとのやりとりが、なんとも長閑だ。「あんたは人間にしても、いささか変わったしゃべり方をするね」「はい、みなさんにそう言われます。しかしナカタにはこういうしゃべり方しかできないのです」。9歳のころ、「理由のわからない熱病のようなもの」に罹ったのが原因だという。

 

 すぐ気づくように、この二つの物語はつながっている。戦中、別世界に踏み込んだ少年が戦後、大人になって異界の不思議を現実世界にもち込む。そんな感じだろうか。それがカフカ少年ともかかわっているように見えるところが、サスペンスの趣をもたらしてくれる。

 

 下巻では、ナカタさんも高松にやってくる。ヒッチハイクを引き受けたトラック運転手の星野青年が神戸で積み荷を下ろした後も、旅の友となって同行したのだ。青年は中日ドラゴンズの帽子に柄物のアロハ、ナイキの運動靴といういで立ち。出会った富士川サービスエリアでは「一人で煙草(たばこ)を吸いながら漫画週刊誌を読んでいた」。どこか「美味ないねん」に通じる「アーシーなパワー」のある人物。彼の内面の軌跡が読みどころだ。

 

 星野青年の人生観は高松で、まるでうどんのようにこねまわされる。「カーネル・サンダーズ」を名乗るポンビキからは、警句もどきの言葉を浴びせられる。「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ」「宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ」。ふらりと入った喫茶店ではベートーヴェンのピアノ三重奏曲に聴きほれ、「ナカタさんは自分が空っぽだと言う」「じゃあ俺はいったい何なんだ?」(後者には傍点)と自問する。

 

 アーシーで心優しい精神が、聖と俗の間を行き来しながら自分流の哲学を見いだしていく。脇役に過ぎない星野青年の人物像に、僕は村上春樹イズムの真髄を見る。この作品がもしカフカ少年とナカタさんだけの物語で終わっていたら、読後の余韻は半減しただろう。

 

 ホシノちゃんこそが「普通」なのだ。彼のようなヤツがもっといてほしいと僕は思う。

(執筆撮影・尾関章、通算391回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『相対論の意味』(アルバート・アインシュタイン著、矢野健太郎訳、岩波文庫)

写真》測る

 重力波初観測がノーベル賞を獲った。この授賞は、僕が科学記者として見てきたここ数十年の物理学賞のなかで断トツの規模感がある。なんと言っても、あのアルバート・アインシュタインが一般相対性理論をもとに予想した人類未検知の波の存在を、100年たって1000人規模のチームが確認したのだ。一つの仮説の立証がときに世紀の大事業になる。そのことを、これほど力強く印象づけた事例はかつてなかった、と言ってよい。

 

 規模の大きさを物語るのは、その「100年」「1000人」だ。注釈をつければ、アインシュタインが重力波という現象を理論から導きだしたのは1916年、米国を拠点とするLIGOチームがその飛来をおととし秋にとらえ、論文にして発表したのは去年、即ち2016年だった。ジャスト100年後。しかも、その論文の著者数が約1000人。この規模感を踏まえて僕が心打たれるのは、最初の予言者が1人だったことである。

 

 僕は昨秋のノーベル賞シーズンに、LIGOチーム指導者たちの受賞が噂されたとき、重力波初観測にノーベル賞を贈るならまずアインシュタインにこそ、という小論を書いた(WEBRONZA2016年9月30日付「重力波ノーベル賞は、故アインシュタインに」、後段有料)。ノーベル賞はいま原則として故人へは授与されないからこれは暴論だ。だが、重力波の予言は、そのしきたりを破っても異論が出ないほどの偉業だと言いたかった。

 

 で、今週はそのアインシュタインの著作に挑む。ただ、事前に打ち明けておきたいことがある。ここでとりあげる本を、僕は完読したとは言えない。数式がたくさん出てくるが、それをきちんとたどってはいないということだ。数式スキップ方式である。

 

 そういう読み方が邪道であることは認めよう。ただ齢を重ねると、別の見方もするようになる。大部の著作や難解な専門書を手にとって、読まずに死ぬか、死ぬまえにちょっとでも読むか――そんな究極の選択で迷うことがあるのだ。たとえば、科学者の手になる数理系の書物ならば、数式が並ぶページを目にしてひるんでしまう。だが、僕はあえて自分に言い聞かせる。式の解読をあきらめても読み通したほうがよい、それでも得るものがある、と。

 

 数式の解読断念は、それを無視することではない。式を眺めていると、著者が言いたいことがほのかに見えてくる箇所がある。「わかった」と早合点はしないほうがよいが、四則演算の符号や等号、不等号などのイメージが論旨を読みとるうえで大きな助けにはなる。

 

 今回の1冊は『相対論の意味』(アルバート・アインシュタイン著、矢野健太郎訳、岩波文庫)。訳者のまえがきによれば、初版は1921年に米国プリンストン大学であった講義をもとにしており、翌年に大学の出版部門から刊行された。その後も改版が重ねられ、第5版が世に出たのは著者没年の55年。この邦訳は、58年に単行本として出版された(岩波書店)。文庫化は2015年で、脚注には最近の研究も反映されている。

 

 このまえがきには「相対性理論に対する、その創始者自身の手による、ある意味での通俗解説書として、非常な好評をはくした」ともある。このくらいの数式は「通俗」レベル? 僕にはそうとは思えない。たぶん、数式スキップ方式をとった読者も多いのではないか。

 

 冒頭部から伝わってくるのは、物理学者としての矜持だ。科学の目的を「われわれの経験を系統立て、それらを1つの論理的な体系のなかにもちこむこと」と宣言する。最初にもちだすのは時間論。「われわれの思い出す個々の事象は、“より前”および“より後”という規準に従って配列されていると思われる」と、まずは個々人の実感に言及する。だが、それらを突きあわせると「共通な感覚」に至る。人はこれを「現実のものと見なす」という。

 

 著者が強調するのは、自然科学なかんずく物理学はこうした共通感覚を扱うということだ。このくだりでは、主観の「より前」「より後」を数値化する手だてとして時計を使えることが書かれている。現実は、計量によってこそつかみとれると言いたいのだろう。

 

 科学の概念体系の当否は「われわれの経験の集成を表現するのに役立つ」かどうかにかかっている、とも主張する。返す刀で、哲学界の傾向に対して痛烈な言葉を浴びせる。「哲学者たちは、ある種の基本的な概念を、それを制御しうる経験領域から、“先験的必然”という捉え難い高所へ運ぶことによって、科学的思考の進歩に対して1つの有害な影響を与えたと私は信じる」。観念に溺れるな、経験に寄り添え、という立場だ。

 

 この本には、これだけはスキップしたくないと思う式がある。剛体内の2点間の距離をs、直交座標軸をx、y、z、2点のずれを座標ごとにみたものをΔx、Δy、Δzとすると、sの2乗=Δxの2乗+Δyの2乗+Δzの2乗(*1)になるというものだ(ここでは、文字の使い方などを改めた)。ピタゴラスの定理の3次元版と思えば、わかりがよいだろう。(当欄2017年7月7日付「重力波を世界観として受けとめる」参照)

 

 剛体とは、机や石ころや地球のように形の定まった物体をいう。前の段落で言っていることは、剛体の2カ所に印をつけたとすると、その2点間の距離は直交座標軸の向きをどう変えても同じになるということだ。著者は、これを「方向に関する相対性原理」と呼ぶ。では今度は座標系を走らせてみたらどうか。その系が等速直線運動するとき、即ち慣性系のときは同じ物理法則を適用しても構わないというのが「特殊相対性原理」である。

 

 さあ、ここからが相対論だ。ふつうの力学ならば特殊相対性原理はすんなりと成り立つ。ところが、電磁現象が入り込むと面倒になる。電磁波、即ち光の真空中の速度はどの慣性系でも変わらないことが実験でわかっている。だから、特殊相対性原理は光速不変と両立させなくてはならない。このために空間と時間を「互いに分離した実在」とする見方を捨てる必要があった。つまりは「4次元時空連続体」を考える。ここに特殊相対論が登場する。

 

 特殊相対論でも、上記の*1に似た式が成り立つ。sの2乗=Δxの2乗+Δyの2乗+Δzの2乗−cの2乗×Δtの2乗(*2)。ここでtは時間の座標だ。マイナス符号や真空中の光速cがやや目障りだが、空間と時間の同列感はそれとなく感じとれる。

 

 *1の左辺は2点の離れ具合を表していた。それがゼロなら2点は実は1点だったことになる。一方、*2の左辺は二つの「事象」の離れ具合。こちらのゼロは、事象同士が「真空中の光信号で結び得るための不変の条件」を意味するという。世界には光よりも速い通信手段はない。4次元時空にこの条件を満たす点の分布を描いたとすると、それは一つの事象に対して因果関係でつながる領域とつながらない領域との境目になる。

 

 *1と*2には、左辺が不変量という共通点がある。*1では座標系の向きによらず、*2では慣性系の違いによらず、それが言える。ただし後者では、慣性系の運動次第で時空の尺度が変わる。定速で真直ぐ走る列車では物差しが縮み、時計が遅れるのである。

 

 そして、いよいよ一般相対論。ここで著者は、自らが見いだした特殊相対論を批判する。一つは、等速直線運動を特別視したことだ。「ある特定の運動状態を他のすべての運動状態から区別する理由は1つも考えられない」という。もう一つ、時空を絶対視して「物理的条件によっては影響されない」とみていることにも修正を加える、時空は物質がもたらす重力場によって歪む。それがときには波となって広がる。これが、重力波である。

 

 興味深いのは、一般相対論でも*1や*2に似た数式が出てくることだ。時空の歪みをどう表すかをめぐって、微小領域の距離を考察することから始めて任意の座標系で成り立つ左辺不変の式を得る。2点間の距離測定のような日常の計量を4次元時空に転用して、さらにはその歪みまでも記述する道具にした。ここに、アインシュタイン相対論の醍醐味がある。それにしても、時空がグニャグニャな話の出発点が剛体にあるというのは愉快だ。

 

 数式スキップの読書で数式の凄さを知る。正攻法でなくとも、そのことだけはわかる。

(執筆撮影・尾関章、通算390回)

 

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