『海辺のカフカ』(村上春樹著、新潮文庫、上下2巻)

写真》アーシーな讃岐うどん

 10月が終わらないうちに村上春樹について語っておこうと思う。例年はノーベル賞がどうのこうのという話から入るのだが、今年はそれをやめる。賞のことをさておいても年に1度は、この作家のことを書いてみたいという気に駆られるのだ。

 

 僕は折に触れて、村上春樹の魅力は「普通」にあると言ったり書いたりしてきた。これはもちろん、一ファンとしての支持表明だ。ただ「普通」をもってほめ言葉とすることについては、親しい友人からたしなめられたことがあった。「普通」をいわゆるノーマルという意味でとらえると、その礼讃は少数派の異端視につながる。いや、それだけではない。人間ひとりひとりは異なるという多様性を軽んじているようにも見えてしまう――。

 

 たしかにその通りだ。「普通」が良いというような文言を安易に用いてはいけないと肝に銘じた。ただ、僕の真意を伝えるのに、それに代わる言葉がなかなか見つからない。ということで、ここでは自分が彼の作品に感じる「普通」の意味を再整理してみようと思う。

 

 ザクッと言うと、こうなる。日本の現代文学史を地図にして概観すれば、ノーベル賞作家の川端康成と大江健三郎が巨峰として聳える。前者は耽美派、後者は進歩派の代表と言えよう。両者の周りには、同様の系譜の作家群が山脈をなしている。それらと対峙するのは異質な山影。野坂昭如、五木寛之といった在野感の強い面々だ。これが、1970年代前半までの文壇の構図だった。そこに新生の活火山のように現れたのが村上春樹である。

 

 ひとことで括れば、村上春樹は権威と反権威を超えて新しい地平を切りひらいた。そこに、文壇の匂いはもはやない。このことを言い表すのに、僕の貧弱な語彙から引っぱりだしたのが「普通」だった。それがどう普通なのかを当欄の前身で考察したこともある。

 

 旅行記『辺境・近境』(村上春樹著、新潮文庫)に収められた「讃岐・超ディープうどん紀行」で、父子が営むうどん店を訪ねたくだり。そこでは、うどんを足でこねているのだという。息子が口にした言葉は「そうせんと美味(うも)ないねん」。それを受けて、こんな一文がある。「そのアーシーなパワーにただただかしこまってしまうしかないような気がする」(文理悠々2013年10月15日付「残念、でも村上春樹の『普通』がいい」)。

 

 「美味ないねん」と「アーシーなパワー」(訳せば「土臭い力」か)。方言の重さを今風の外来語で軽やかに包んでしまうのが村上春樹だ。そこには、下から目線の屈折も上から目線の衒学もない。権威は崩れ、それに盾突く反権威も意味を失っている。1970年半ば、対抗文化の嵐が去った後の風景だ。それをいち早く切りとってみせたのが村上春樹ではなかったか。自身は49年生まれ、反抗の世代のど真ん中なのにもかかわらず、である。

 

 で、今週は『海辺のカフカ』(村上春樹著、新潮文庫、上下2巻)。2002年発表の長編小説(新潮社刊)だ。05年に文庫化された。この本を選んだ理由は、主舞台の四国高松に惹かれたから。「美味ないねん」の地元である。僕自身の出張の記憶を呼び起こすと、海に近い市街のサンフランシスコのような明るさが印象に残っている。この作品は未読だったので、今回遅ればせに読んでみて、あの空気を再体験しようとも思った。

 

 うどんは、この作品にも出てくる。主人公の家出少年、自称「田村カフカ」15歳が夜行バスで高松に着いてまず飛び込んだのが駅前のうどん屋。「東京で生まれ育ったから、うどんというものをほとんど食べたことがない」とある。東京人としては、著者が関西人ゆえの偏見と言いたい! ともあれ、少年はそのうどんに「腰が強く、新鮮で、だしも香ばしい。値段もびっくりするくらい安い」(「だし」に傍点)と大満足で、おかわりを頼む。

 

 夜行バス→うどん屋というカフカ少年の高松第1日は、宿泊先がビジネスホテルだったことで完結する。「YMCAをとおすと料金がとくべつに安くなる」「ただしそのサービス料金は3泊で終わってしまう」という宿だ。ここにはデフレ感漂う今日の世相がある。

 

 だが、カフカ少年がホテルから通いはじめる場所は、それと対照的だ。「甲村(こうむら)記念」と銘打つ「旧家のお金持ちが自宅の書庫を改築してつくった私立図書館」だ。「門を入ると曲がりくねった砂利道がつづき」「植え込みのあいだに大きな古い灯籠(とうろう)がいくつかあり、小さな池も見える」――素封家が私財を投じて書画を愛で、文人を支えるという地域文化の伝統が見えてくる。ちなみに、これは実在の図書館ではない。

 

 そこには、謎めいた人物がいる。一人は、受付の大島さん。削りたての鉛筆を愛用していて「ハンサムというよりは、むしろ美しい」。スポーツカーのマツダ・ロードスターで高速を飛ばしながらシューベルトを聴くこともある。もう一人は館の責任者、佐伯さん。見たところ40代半ばくらいの女性で姿勢がよく、光沢のあるストッキングに細身のヒールを履いて階段を上がっていく。こちらは万年筆党で、愛車はフォルクスワーゲン・ゴルフ。

 

 夜行バスやうどん屋やビジネスホテルを現実だとすれば、この私立図書館は現実からはみ出している。実際にカフカ少年は、ここを起点に奇妙な体験を重ねる。大島さんに誘われて山深い森に入り、異界へ迷い込む。館に泊っていて深夜、少女時代の佐伯さんを眺めることもある。リアリズムの物語のつもりで読んでいると、いつのまにかおとぎ話や神話の真っただ中に立たされている自分に気づく。それが、この作品に奥行きを与えている。

 

 導入部では、カフカ少年の逃避行と並行して二つの物語が進行する。一つは戦時中、山梨県の山林で野外実習していた児童たちが集団で倒れた事件。戦後、米軍が調査した報告書は極秘扱いだったが、1986年に公開される。教師は直前、上空に「銀色のジュラルミンらしきもののきらめき」を見たと証言するが、米軍機飛来の記録はない。子どもたちはぐったりとして「どこか遠くにある風景を端から端まで見わたしているみたい」だったという。

 

 もう一つは、現代の東京が舞台。中野区在住のナカタさんという初老の男性が、猫と会話できる特技を生かして行方不明の飼い猫探しをしている。町で出会う猫たちとのやりとりが、なんとも長閑だ。「あんたは人間にしても、いささか変わったしゃべり方をするね」「はい、みなさんにそう言われます。しかしナカタにはこういうしゃべり方しかできないのです」。9歳のころ、「理由のわからない熱病のようなもの」に罹ったのが原因だという。

 

 すぐ気づくように、この二つの物語はつながっている。戦中、別世界に踏み込んだ少年が戦後、大人になって異界の不思議を現実世界にもち込む。そんな感じだろうか。それがカフカ少年ともかかわっているように見えるところが、サスペンスの趣をもたらしてくれる。

 

 下巻では、ナカタさんも高松にやってくる。ヒッチハイクを引き受けたトラック運転手の星野青年が神戸で積み荷を下ろした後も、旅の友となって同行したのだ。青年は中日ドラゴンズの帽子に柄物のアロハ、ナイキの運動靴といういで立ち。出会った富士川サービスエリアでは「一人で煙草(たばこ)を吸いながら漫画週刊誌を読んでいた」。どこか「美味ないねん」に通じる「アーシーなパワー」のある人物。彼の内面の軌跡が読みどころだ。

 

 星野青年の人生観は高松で、まるでうどんのようにこねまわされる。「カーネル・サンダーズ」を名乗るポンビキからは、警句もどきの言葉を浴びせられる。「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ」「宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ」。ふらりと入った喫茶店ではベートーヴェンのピアノ三重奏曲に聴きほれ、「ナカタさんは自分が空っぽだと言う」「じゃあ俺はいったい何なんだ?」(後者には傍点)と自問する。

 

 アーシーで心優しい精神が、聖と俗の間を行き来しながら自分流の哲学を見いだしていく。脇役に過ぎない星野青年の人物像に、僕は村上春樹イズムの真髄を見る。この作品がもしカフカ少年とナカタさんだけの物語で終わっていたら、読後の余韻は半減しただろう。

 

 ホシノちゃんこそが「普通」なのだ。彼のようなヤツがもっといてほしいと僕は思う。

(執筆撮影・尾関章、通算391回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『相対論の意味』(アルバート・アインシュタイン著、矢野健太郎訳、岩波文庫)

写真》測る

 重力波初観測がノーベル賞を獲った。この授賞は、僕が科学記者として見てきたここ数十年の物理学賞のなかで断トツの規模感がある。なんと言っても、あのアルバート・アインシュタインが一般相対性理論をもとに予想した人類未検知の波の存在を、100年たって1000人規模のチームが確認したのだ。一つの仮説の立証がときに世紀の大事業になる。そのことを、これほど力強く印象づけた事例はかつてなかった、と言ってよい。

 

 規模の大きさを物語るのは、その「100年」「1000人」だ。注釈をつければ、アインシュタインが重力波という現象を理論から導きだしたのは1916年、米国を拠点とするLIGOチームがその飛来をおととし秋にとらえ、論文にして発表したのは去年、即ち2016年だった。ジャスト100年後。しかも、その論文の著者数が約1000人。この規模感を踏まえて僕が心打たれるのは、最初の予言者が1人だったことである。

 

 僕は昨秋のノーベル賞シーズンに、LIGOチーム指導者たちの受賞が噂されたとき、重力波初観測にノーベル賞を贈るならまずアインシュタインにこそ、という小論を書いた(WEBRONZA2016年9月30日付「重力波ノーベル賞は、故アインシュタインに」、後段有料)。ノーベル賞はいま原則として故人へは授与されないからこれは暴論だ。だが、重力波の予言は、そのしきたりを破っても異論が出ないほどの偉業だと言いたかった。

 

 で、今週はそのアインシュタインの著作に挑む。ただ、事前に打ち明けておきたいことがある。ここでとりあげる本を、僕は完読したとは言えない。数式がたくさん出てくるが、それをきちんとたどってはいないということだ。数式スキップ方式である。

 

 そういう読み方が邪道であることは認めよう。ただ齢を重ねると、別の見方もするようになる。大部の著作や難解な専門書を手にとって、読まずに死ぬか、死ぬまえにちょっとでも読むか――そんな究極の選択で迷うことがあるのだ。たとえば、科学者の手になる数理系の書物ならば、数式が並ぶページを目にしてひるんでしまう。だが、僕はあえて自分に言い聞かせる。式の解読をあきらめても読み通したほうがよい、それでも得るものがある、と。

 

 数式の解読断念は、それを無視することではない。式を眺めていると、著者が言いたいことがほのかに見えてくる箇所がある。「わかった」と早合点はしないほうがよいが、四則演算の符号や等号、不等号などのイメージが論旨を読みとるうえで大きな助けにはなる。

 

 今回の1冊は『相対論の意味』(アルバート・アインシュタイン著、矢野健太郎訳、岩波文庫)。訳者のまえがきによれば、初版は1921年に米国プリンストン大学であった講義をもとにしており、翌年に大学の出版部門から刊行された。その後も改版が重ねられ、第5版が世に出たのは著者没年の55年。この邦訳は、58年に単行本として出版された(岩波書店)。文庫化は2015年で、脚注には最近の研究も反映されている。

 

 このまえがきには「相対性理論に対する、その創始者自身の手による、ある意味での通俗解説書として、非常な好評をはくした」ともある。このくらいの数式は「通俗」レベル? 僕にはそうとは思えない。たぶん、数式スキップ方式をとった読者も多いのではないか。

 

 冒頭部から伝わってくるのは、物理学者としての矜持だ。科学の目的を「われわれの経験を系統立て、それらを1つの論理的な体系のなかにもちこむこと」と宣言する。最初にもちだすのは時間論。「われわれの思い出す個々の事象は、“より前”および“より後”という規準に従って配列されていると思われる」と、まずは個々人の実感に言及する。だが、それらを突きあわせると「共通な感覚」に至る。人はこれを「現実のものと見なす」という。

 

 著者が強調するのは、自然科学なかんずく物理学はこうした共通感覚を扱うということだ。このくだりでは、主観の「より前」「より後」を数値化する手だてとして時計を使えることが書かれている。現実は、計量によってこそつかみとれると言いたいのだろう。

 

 科学の概念体系の当否は「われわれの経験の集成を表現するのに役立つ」かどうかにかかっている、とも主張する。返す刀で、哲学界の傾向に対して痛烈な言葉を浴びせる。「哲学者たちは、ある種の基本的な概念を、それを制御しうる経験領域から、“先験的必然”という捉え難い高所へ運ぶことによって、科学的思考の進歩に対して1つの有害な影響を与えたと私は信じる」。観念に溺れるな、経験に寄り添え、という立場だ。

 

 この本には、これだけはスキップしたくないと思う式がある。剛体内の2点間の距離をs、直交座標軸をx、y、z、2点のずれを座標ごとにみたものをΔx、Δy、Δzとすると、sの2乗=Δxの2乗+Δyの2乗+Δzの2乗(*1)になるというものだ(ここでは、文字の使い方などを改めた)。ピタゴラスの定理の3次元版と思えば、わかりがよいだろう。(当欄2017年7月7日付「重力波を世界観として受けとめる」参照)

 

 剛体とは、机や石ころや地球のように形の定まった物体をいう。前の段落で言っていることは、剛体の2カ所に印をつけたとすると、その2点間の距離は直交座標軸の向きをどう変えても同じになるということだ。著者は、これを「方向に関する相対性原理」と呼ぶ。では今度は座標系を走らせてみたらどうか。その系が等速直線運動するとき、即ち慣性系のときは同じ物理法則を適用しても構わないというのが「特殊相対性原理」である。

 

 さあ、ここからが相対論だ。ふつうの力学ならば特殊相対性原理はすんなりと成り立つ。ところが、電磁現象が入り込むと面倒になる。電磁波、即ち光の真空中の速度はどの慣性系でも変わらないことが実験でわかっている。だから、特殊相対性原理は光速不変と両立させなくてはならない。このために空間と時間を「互いに分離した実在」とする見方を捨てる必要があった。つまりは「4次元時空連続体」を考える。ここに特殊相対論が登場する。

 

 特殊相対論でも、上記の*1に似た式が成り立つ。sの2乗=Δxの2乗+Δyの2乗+Δzの2乗−cの2乗×Δtの2乗(*2)。ここでtは時間の座標だ。マイナス符号や真空中の光速cがやや目障りだが、空間と時間の同列感はそれとなく感じとれる。

 

 *1の左辺は2点の離れ具合を表していた。それがゼロなら2点は実は1点だったことになる。一方、*2の左辺は二つの「事象」の離れ具合。こちらのゼロは、事象同士が「真空中の光信号で結び得るための不変の条件」を意味するという。世界には光よりも速い通信手段はない。4次元時空にこの条件を満たす点の分布を描いたとすると、それは一つの事象に対して因果関係でつながる領域とつながらない領域との境目になる。

 

 *1と*2には、左辺が不変量という共通点がある。*1では座標系の向きによらず、*2では慣性系の違いによらず、それが言える。ただし後者では、慣性系の運動次第で時空の尺度が変わる。定速で真直ぐ走る列車では物差しが縮み、時計が遅れるのである。

 

 そして、いよいよ一般相対論。ここで著者は、自らが見いだした特殊相対論を批判する。一つは、等速直線運動を特別視したことだ。「ある特定の運動状態を他のすべての運動状態から区別する理由は1つも考えられない」という。もう一つ、時空を絶対視して「物理的条件によっては影響されない」とみていることにも修正を加える、時空は物質がもたらす重力場によって歪む。それがときには波となって広がる。これが、重力波である。

 

 興味深いのは、一般相対論でも*1や*2に似た数式が出てくることだ。時空の歪みをどう表すかをめぐって、微小領域の距離を考察することから始めて任意の座標系で成り立つ左辺不変の式を得る。2点間の距離測定のような日常の計量を4次元時空に転用して、さらにはその歪みまでも記述する道具にした。ここに、アインシュタイン相対論の醍醐味がある。それにしても、時空がグニャグニャな話の出発点が剛体にあるというのは愉快だ。

 

 数式スキップの読書で数式の凄さを知る。正攻法でなくとも、そのことだけはわかる。

(執筆撮影・尾関章、通算390回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ著、小野寺健訳、ハヤカワepi文庫)

写真》受賞第1報(朝日新聞2017年10月6日朝刊)

 ポール・オースター、カズオ・イシグロ、村上春樹。この3人に共通するのは何か。それは、国境を超えて発信力のある同時代作家という点にあるだろうと僕は思う。同時代性は世代によって物差しが違うだろうから、厳密には「僕にとって」と限定をつけなくてはなるまい。ともあれ、その一角をなす日本出身、英国籍のイシグロさんが今年のノーベル文学賞受賞者に決まった。うれしいことだ。当欄は急遽、彼の作品について書く。

 

 イシグロについては7年前、当欄の前身で『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)という作品をとりあげたことがある(文理悠々2010年4月22日付「カズオ・イシグロ わたし《に》はなさないで」)。拙稿の表題は「私に話さないで」の意味を込めたもので、先端科学技術をめぐる深刻なテーマにネタばらしをしないで誘導していく作家としての巧妙さと文学作品としての繊細さに舌を巻いたからだ。

 

 そこで「なによりも泣かせる」として引用した一節を、ここでも紹介しよう。それは、主人公が少女時代、寮の部屋にひとりいて歌のテープを聴く場面。曲の題名は「ネバー・レット・ミー・ゴー(わたしを離さないで)」。「極(きま)り悪いことに、赤ちゃんに見立てた枕を抱いていました。そして、目を閉じ、リフレーンを一緒に歌いながら、スローダンスを踊っていました。/『オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで……』」

 

 今回の発表資料にある授賞理由を僕なりに訳せば、こうなる。「情緒豊かな小説を通じて、世界とのつながりという幻覚に潜む深淵を明るみに出してきた」。「情緒豊かな小説」とした部分の英語は、“in novels of great emotional force”。上記引用箇所の光景を思い浮かべると、その“emotional force”の強さを実感できる。

 

 で、今回は、『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ著、小野寺健訳、ハヤカワepi文庫)。1982年の作品で、著者にとっては20代後半に世に出した長編第1作。原題は“A Pale View of Hills”。直訳すれば「青ざめた山影」か。邦訳は、同じ訳者でまず84年に筑摩書房から単行本で出た。このときの邦題は『女たちの遠い夏』。それが後に、ちくま文庫に収められ、2001年に改題されてハヤカワepi文庫の1冊となった。

 

 この小説の舞台は2カ所。一つは、主人公の悦子が今住む英国の田園地帯。もう一つは、悦子にとって「遠い昔になったある夏」の長崎郊外。後者は著者の生誕地であり、「遠い昔」は1950年から53年まで続いた朝鮮戦争のころと書かれている。著者はその直後、54年の生まれで、5歳のときに英国へ渡っているから、この作品には幼少期に見た日本の原風景が投影されている、と言ってよいだろう。

 

 悦子がそのころ住んでいた場所の描写がある。川沿いの小さな村落だったが、原爆で「完全な焦土と化した」。そこに復興計画でコンクリート造りの集合住宅4棟が建てられ、うち一つに入居した。「この建物と川のあいだはどぶと土埃ばかりの、何千坪という空地だった。この空地は健康に悪いという苦情がたえず、事実その排水状態はひどいものだった。あちこちの穴には一年中水が溜っていて、夏の数カ月はものすごい蚊に悩まされた」

 

 これを読んで思いだすのは、僕自身の幼少期だ。1950年代半ば、日本の都市は概ねこんなものだった。僕が育った東京郊外の一角は空襲に見舞われなかったので焦土とはならなかったが、宅地開発のスプロール現象であちこちに空き地があった。下水道整備はほとんど進まず、小さな川はどぶと化していた。衛生環境は最悪で、あちこちにハエとり紙が吊るされている状態。たぶん著者は、そんな風景を脳裏に焼きつけて渡英したのだろう。

 

 話の筋に立ち入ると、この作品では三つの物語が絡みあう。

 

 一つめは、悦子自身の半生。彼女は今、英国の小村のはずれにある一軒家で独り暮らしをしている。そこに、死別した2番目の夫――英国人で新聞記者だったらしい――との間の娘ニキがロンドンから訪ねてくる。ニキには、長崎で生まれた父親違いの姉景子がいたが、景子は引きこもりの末に家を出て、マンチェスターの借り部屋で自殺していた。トラウマを抱えた母子だが、ニキの陽性な言動に支えられて、話は淡々と進められる。

 

 ここでひとことことわっておくと、「悦子」や「景子」などの日本人名はすべて漢字表記になっているが、これはもちろん英語の原文にはなかった。あとがきによると、訳者が「音を読みちがえる恐れがなく、その音にとってなるべく一般的な表記」を選んだという。

 

 二つめは、悦子が「遠い昔」の「ある夏」に長崎郊外で数週間ほど近所づきあいをした佐知子とその娘万里子の物語。二人はもともと東京にいたが、佐知子の夫が戦争で亡くなり、親類を頼って長崎にやって来たという。米国人男性フランクとつきあっていて、別れるの別れないのというすったもんだがある。万里子は思春期に入ったころで、母に反抗して猫に愛情を注ぐ。彼女たちの感情の起伏には、占領がもたらした世相が映しだされている。

 

 そして、もう一つの物語は悦子の前夫二郎の父、「緒方さん」をめぐるいくつかのエピソード。長崎では校長先生を務めていた名士だが、二郎が新婚生活を始めたころは出身地の福岡で独り暮らしをしていた。そして「遠い昔」の「ある夏」には長崎を再訪して、息子夫婦宅に泊っていたのである。その滞在は波乱含みではあるが、そこから穏やかな家庭像も見えてくる。僕は、この緒方の物語こそこの作品の読みどころのように思う。

 

 まず波乱のほうから書こう。緒方は長崎の図書館で、自分を批判する論文が雑誌に載っているのを目にする。執筆者は、二郎の旧友で今は高校の教師になっている男。戦後民主主義の風に乗って戦前の教育者を糾弾する内容だったのだろう、と推察される。緒方さんは二郎の同窓会が近いと知って、その友人も来るのではないかと問う。よほど腹の虫が収まらないのだろう。だが「まったく驚いたよ」というだけで、露骨にののしったりはしない。

 

 後段では、その友人と直接やりあう場面もある。「ぼくらは心から国のことを思って、立派な価値のあるものを守り、次の時代に伝えるように努力したんだよ」。別の箇所では、二郎の会社の同僚が来訪して、選挙の投票をめぐって夫婦喧嘩になったという話を打ち明けたのを聞きつけて、同僚が辞去した後に言う。「呆れるじゃないか。夫と妻で別々の党に投票するなんて」。緒方が戦前の思想から抜け出せないでいるのは確からしい。

 

 だがその緒方は、いま悦子が「さん」づけで思い返すほど心優しい人でもある。彼女が台所に立つと「何を作っているのかね」と聞く。「オムレツか。その作りかたを教えてもらわんとな。むずかしいかね」「とてもむずかしいですよ。今ごろになって覚えようとなさっても、無理ね」「しかし、ぜひ習いたいね。今ごろになってとは、どういうことかね。わたしはまだまだ若い。いくらでも新しいことを覚えるよ」「本気でコックになるおつもり?」

 

 別の場面では、悦子に対してこうも言う。「若夫婦が親とは別に暮らすというのは悪いことじゃない」「若夫婦は、老人にいつまでもいばられているのは嫌がるものだよ」

 

 僕は、この悦子と緒方の淡々とした会話を読んでいて、著者が小津安二郎映画を好んでいるとの報道を思いだした。あのころの日本社会には、どこにも小津映画を彷彿とさせる家庭があった。そこには手のひらを返すようには戦時下の意識を変えられない人もいたが、そういう人々の心にもリベラルな空気が静かに染み入ろうとしていた。それを5歳でこの国を離れて、日本語をほとんど話さない著者が描いたところがすごい。

 

 この小説では、謎めいたまま残された部分も多い。万里子がいると言う「川の向こう」のおばさん、今は亡き景子の部屋から聞こえてくる音、そして悦子がどんないきさつで再婚したのか、ということ。それらはすべて、読後も読み手の心を作品世界に引きとめる。

 

 余韻という言葉がカズオ・イシグロほど似合う作家はいないだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算389回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『紙の月』(角田光代著、ハルキ文庫)

写真》ペーパームーン

 自分は過渡期の世代だな。そう感じている人は多いように思う。たとえば1980年代生まれなら、後輩との飲み会で「俺たちは昭和世代だからなあ」などとつぶやくくせに、その昭和を生きてきた親とは距離を置いているように見える。高度成長の果実をまるごと味わってはいないが、幼いころ、ディズニーランドでバブリーな空気を吸うくらいのことはあった――そんなふうに自らを過渡期に位置づけているのではないだろうか。

 

 だから僕も、自分のような1950年代生まれが特別だというつもりはない。ただ、僕たちの過渡期感が強いのは確かだ。一例を挙げれば、先行世代はIT(情報技術)に疎い人が多い。ところが後続世代はIT漬けの暮らしぶりだ。この落差はあまりにも大きい。

 

 それを思い知らされたことがある。20年ほど前、日本のエレクトロニクス開発を牽引してきた老研究者から話を聴いたときのことだ。別れ際に「なにかあったら、遠慮せずにFAXをください」という言葉をもらった。そのころ、理工系の世界ではすでに電子メールが広まっていたから、FAXという言葉にちょっと驚いた。どんな通信手段を選ぶかといった生活習慣は、職域よりも年齢によって制約されるのだなと痛感したものだ。

 

 考えてみれば、僕の世代はITの出現前と出現後の両方を知っている。というよりも、どちらの環境にも適応を強いられてきたと言ってよい。自身の職業体験を振り返れば、記者になったころは原稿を藁半紙に3B鉛筆で書いた。ペンだこは、今もかすかに右手の親指に残る。それが、やがてワープロ専用機が普及するとキーボードの作業にとって代わる。そして最後のころは、パソコン一つで出稿のすべてが完結することになった。

 

 思えば遠くへ来たもんだとは、こういうことを言うのだろう。この隔世感は、ITの話ばかりではない。暮らしの隅々にまで広がっている。技術革新は大きな一因ではあるけれど、そこに経済や文化の様相が絡まって日本社会はいつのまにか大きく様変わりした。

 

 たとえば、食生活。高齢世代には、食事にどんな料理が出てきても醤油やソースをかけたがる人が多い。そう言えば、1960年代は家庭の食卓でも食堂のテーブルでも醤油差しやソース入れが鎮座していたものだ。ところが今は、なべて本格レストランに倣ったように料理にはあらかじめ味をつけて供することがふつうになった。これなどは80年代以降、海外情報に接する機会がふえて欧米の生活様式が浸透したことの表れだろう。

 

 僕たちの世代を境目にして日本社会は激変した。日本の現代史の転換点といえば、1945年の終戦ばかりが語られるが、そのあとも大きく変わった。大きな世代断絶は戦後にこそあるようにも思える。昭和から平成への流れのなかに、その亀裂は見てとれる。

 

 で、今週の1冊は長編小説『紙の月』(角田光代著、ハルキ文庫)。金融機関に勤める女性が不正に手を染め、東南アジアに逃避行するという筋立ては「そんなニュース、あったなあ」と思わせるリアルな虚構世界だ。だが一方で、小説ならではの強調や誇張があって読み手を引き込んでいく。筋そのものには、テレビで朝の情報番組を観ているような既視感があるのだが、それを肉づける登場人物たちの描き方にハッとさせられる発見がある。

 

 この作品は、もともと新聞小説だった。2007年以降、静岡新聞などの地方紙に次々に連載されたという。加筆されたものが単行本として世に出たのは2012年(角川春樹事務所刊)。14年に文庫化された。同じ年、テレビドラマ化(NHK)も映画化(吉田大八監督)もされている。僕は、原田知世が主演したドラマのほうを観ている。彼女の透明感は原作の主人公にぴったり合うと、後から小説を読んでつくづく思った。

 

 さて、ここからは中身に入るが、例によってネタばらしにならないよう筋は追わない。登場人物がいる世界の断面を切りとっていこうと思う。まず記しておきたいのは、主人公の梅澤梨花が属する世代。1986年、25歳で食品会社勤めの夫と結婚、夫婦は89年に横浜市緑区に建て売りを買って移り住んだ、とある。親たちは高度成長期のモーレツ世代、それに対して自分たちはバブル崩壊までに持ち家の獲得に間に合ったバブリーな世代だ。

 

 この世代像は、少女期の学園生活からも感じとれる。梨花が通ったのは「川崎にほど近い横浜の、田園都市線沿線にある中高一貫の女子校」。そこで彼女は、流行には無頓着なのに人目を引きつける生徒だった。「成績は優秀なのに優等生ではなく」「いじめに荷担することもなく」「だれにでも屈託なく話しかけ」「大人びて見えた」。ニュータウンの空気が漂う学び舎に、とりたてて派手ではないが良き趣味を身につけた女の子がいる。

 

 その梨花が、なぜ大胆な犯罪に手を染めるようになったのか。押さえておきたい場面がいくつかある。一つは、夫婦で誘われたバーベキューパーティーに自分だけが行くことになったときの夫の言葉。「おやつは五百円まで? お小遣いはいくらまで許されているの?」。遠足の思い出をもちだした冗談に過ぎなかったはずだが、夫の金を「つかわせてもらう」という現実を突きつけられた気がした。夫に家父長の匂いを感じた瞬間だったとも言える。

 

 もう一つは、デパートの買い物場面。夫への違和感を宿した梨花は、このときまでに銀行にパートで勤めはじめ、さらにフルタイムで働くようになっていた。化粧品売り場で選んだ商品の合計は5万円ほど。ところがうっかりしていて、財布には2000円しかない。「さっき顧客から預かった現金入りの封筒に、咄嗟(とっさ)に手が伸びる。鞄のなかに手を突っ込んで封筒から紙幣を取り出し、五枚揃えて梨花はカウンターに置いた」

 

 罪がないように見えるちょっとしたひとことが、心に淀みを生みだして人生の道筋を変える。一瞬立て替えてもらっただけとも弁解できる行為が、心の歯止めをとり払って道を踏み外す。そんな場面を随所に忍ばせているのが、著者の巧妙なところだ。

 

 その行き着く先は感覚麻痺だ。「梨花にとって金額を示す数字は何か意味のあるお金ではなくなった」。ブランド品に費やした数十万円が「いつ口座から落ちて、その口座には今いくらあって、引き落とし後はいくらになるのか」、そんな計算はしない。「どの銀行の、どの口座の、どのお金もつながっている」という錯覚に陥ったのだ。梨花が顧客回りをしながら着服した額は、1990年代半ばから2001年にかけて約1億円に膨らむ。

 

 こうした麻痺は、バブルを経験した世代に共通の落とし穴だった。それは、梨花に少なからぬ影響を与えた友人の中條亜紀にも見てとれる。バツイチで、夫の実家に引きとられた娘とは友だち同士のようにつきあっている。その亜紀の購買行動が凄い。膝丈パンツ3万8千円を試着して、紺か白か色に迷うと両方を買う。店員が「上に合わせるもの」をいくつか勧めると、それらも「まとめてもらっちゃうわ」。2時間で総計35万円ほどの買い物だ。

 

 彼女たちと対比されるのが、その親の世代。梨花が訪問する顧客は「八割が、定年退職後の老人」で、この年齢層にあたる。「愚痴や噂話(うわさばなし)、過去の自慢話や日々の思いつき」をひたすら聞き、電球の取り替えのような手伝いをすると、「あんたが独身だったらうちに嫁にきてほしかった」などと人気の的になる。かつてのモーレツ世代は孤独で、まったりとして無警戒だった。罠は、その手もとに潤沢な蓄えがあったことである。

 

 この2世代の断絶を鋭敏に感じとっている人物も登場する。梨花が昔つきあった山田和貴の妻、牧子。なにかというと子どもたちの境遇を自身の少女期と比べて「かわいそうだ」と言う。たとえば、今の住まいが「いい学校」への通学に不便なこと、合格祝いをしたレストランが高級ではなく「ファミリーレストランとかわらない店」だったこと。それらの一つひとつが彼女の心を曇らせ、深夜、キッチンでひとり酒を飲んでいたりする。

 

 思えば、闇雲に働いた高度成長から、右肩上がり幻想に踊らされたバブルへ、その崩壊から停滞へ、という変遷は、経済だけでなく人々の心理にも相転移をもたらした。この小説は娯楽作品であると同時に、市井の人々の内心に生じた軋みをあばく歴史書でもある。

(執筆撮影・尾関章、通算388回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『新版 荒れ野の40年――ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』

(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー著、永井清彦訳・解説、岩波ブックレット)

写真》心に刻む

 夏の終わりに麻生太郎副総理が口にした政治家論が批判の的になっている。「動機は問わない。結果が大事だ」「ヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」(朝日新聞2017年8月30日朝刊)。後段については、一般に仮定の話で「〜が正しくても」というとき「〜は正しい」と認めたことにならない。だから、これをもって直ちにナチスの動機を正当化したとはいえない。だが、それでも強い違和感を抱いた人は少なくないだろう。

 

 僕は、むしろ前段の「動機は問わない。結果が大事だ」に驚いた。政治家にとって「結果が大事」なのは論を俟たないが、より重要なのは「動機」だと思う。ここで副総理が「ダメ」な理由に挙げているのは、「何百万人も殺しちゃった」という「結果」だ。ただ、その大虐殺は、自然の成り行きや偶然のいたずらで起こったのではない。ナチス体制が優生思想や民族差別といった邪悪な「動機」に駆りたてられたからこそもたらされたものだ。

 

 たしかに、政治家の動機に過度の期待をかけてはならない。そこには権力欲、上昇欲がつきものだ。売名に駆られたり利権を追い求めたりするということもあろう。それらが許容の範囲内なら、しかたのないことだ。ただ一つ、僕たちが心しておきたいのは、もし動機に人道にもとる企みが紛れ込んでいたならば、それはなんとしても排除しなくてはならないということだ。ナチスドイツの負の歴史から学ぶべき最大の教訓は、その一点にある。

 

 当欄は先々週、ドイツの歴史に触れてみた(2017年9月8日付「ドイツという国の不思議を考える」)。ここで「不思議」と書いたのは、なぜ、あんなに善良な人々の間にあれほど邪悪な政治権力が出現したのかが解せなかったからだ。そこでとりあげた『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書*)にも、あの時代を指して「なぜ、これほど短期間に、ドイツ人は変わってしまったのだろう」と問う言葉があった。

 

 ドイツ人は戦後、厳しい心理状態に置かれた。自らの社会が邪悪な動機を許したことを悔いただけではない。内外の犠牲者、被抑圧者に対して、どう謝罪したらよいのか。それは悪しき当事者が退場した後、残された善き人々に課された難題だったと言ってよい。

 

 で、今週は『新版 荒れ野の40年――ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー著、永井清彦訳・解説、岩波ブックレット)。1985年5月8日、ドイツの第2次大戦敗戦から40年のその日に西ドイツ(当時)の連邦議会であった大統領演説を収録した本だ。ここにある「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という一文はあまりにも有名だ。新版は2009年刊。

 

 この本をとりあげようと思いたったのは、巻末の著者略歴に惹かれたからだ。「1920年生まれ」とあるから、戦時中は青春真っ盛りだった。大学生のときに「ドイツ国防軍に従軍」したという。戦後は大学を出て「実業界に入り」、連邦議会議員、西ベルリン市長を務めた後、84年から10年間、ドイツ連邦共和国大統領の座にあった。90年の東西統一を挟んで前半は西ドイツの、後半は全ドイツの元首だったことになる。2015年没。

 

 著者は、姓の「フォン」から推察されるように貴族の出身。長兄は著名な物理学者だ。そんなこともあって世俗にまみれることのない知識人なのだろう、と僕は思い込んでいた。たしかに、略歴欄に「ベルリン、オックスフォード、ゲッティンゲンの各大学に学ぶ」とあるから知識人には違いない。だが、ナチス体制下で軍隊生活を経験している。戦後は企業活動にも携わった。現実社会の変転を体感してきた人が、あの名言を吐いたのである。

 

 この演説の聴かせどころは、その「過去に目を閉ざす者は……」に至るまでの話の運び方だ。「五月八日は心に刻むための日であります」と切りだし、「あの戦いと暴力支配とのなかで斃(たお)れたすべての人びと」を思い浮かべるとした後、真っ先に挙げるのは「ドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人」だ。その次に言及するのは「戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者」である。

 

 このあとも、ロマなどの少数民族、同性愛者、精神病患者、抵抗運動家らが犠牲となったことを強調する。そして、労苦と忍耐を強いられた女性たちを「この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした」とたたえている。

 

 一つ言えるのは、大統領がまず心を寄せたのは被抑圧民族であり、弱い立場にあった人々だということだ。だが、演説はそこで終わらない。ここからドイツ国民の一人ひとりに対して語りかける。ナチスの時代、大衆の少なからぬ部分は自身が被害者でありながら、加害者に与したとなじられてもしかたのない立場に置かれていた。その人々にかける言葉には痛みが伴う。思いだしたくもない記憶を呼び起こすこともあえてしなくてはならない。

 

 たとえば演説は、ユダヤ人大虐殺について「この犯罪に手を下したのは少数」とことわったうえで、次のように言う。「ユダヤ系の同胞たちは冷淡に知らぬ顔をされ、底意のある非寛容な態度をみせつけられ、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました」。見て見なかったふり、聞いても聞かなかったふりが日常になっていた、ということらしい。

 

 一例は、ユダヤ人を収容所へ送りだす列車。「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら」「移送する列車に気づかないはずはありませんでした」。生々しい証言である。「良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました」。それなのに戦後、非人道政策の全容があばかれたとき、「一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かった」という。

 

 ふだんの生活で黙認とか看過とかいう態度をまったくとらないでいることがどれほど難しいかは、僕たちにもわかる。厄介ごとになりそうなら、首を突っ込まないという選択をすることも少なくない。これらは、世渡りの方便としては致し方のない面があろう。だがもし、そんな人間の習性につけ込む政治権力が現れたらどうなるか。トップダウンの悪がブレーキなしに暴走しかねない。このとき、黙認した人も看過した人も責任を免れまい。

 

 ここで特記したいのは、演説があえて「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません」と述べていることだ。「罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なもの」と断じて、ナチス時代にすでに大人だった人々に「一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたい」と呼びかける。「総ざんげ」で一気に幕を引こうとはしない。あくまで個人としての自省を促しているのである。

 

 この論理は、当時子どもだった人、まだ生まれていなかった人にはそのまま当てはまらない。後続世代について「ドイツ人であるというだけの理由で、粗布(あらぬの)の質素な服を身にまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません」としつつ、こう言う。「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」。こうして「過去に目を閉ざす者……」の警句にたどり着く。

 

 罪のない人も「過去に対する責任」からは逃れられないということだろうか。理屈を言えば、これは当事国の後続世代に限定されまい。おぞましい史実を知ったすべての人々に言えることだ。ただ、自らの社会がかつて罪深い過ちを犯したのであれば、その土壌を引き継ぐ人々はいっそう強く過去を「心に刻む」ことが求められる。悪の再発がないか、「現在」も警戒しなくてはならないからだ。このとき、負の遺産は正の役割を果たすことになる。

 

 巻末の訳者解説(「若い君への手紙」)によれば、「心に刻む」の原語は“erinnern”。-inner-を含むことからわかるように「内面化する」「血肉とする」の意味合いがあるという。

 

 ヴァイツゼッカー演説は、過去をもとに現在の心のありようを語っているのである。

*著者名にある「恵」は正しくは旧字体です。

(執筆撮影・尾関章、通算387回)

 

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『進化とは何か――ドーキンス博士の特別講義』

(リチャード・ドーキンス著、吉成真由美編・訳、ハヤカワ文庫NF)

写真》恐竜、今はおもちゃだが……

 宵闇に虫の音が聞こえる季節になった。ちょっと前までは、朝昼夕に蝉しぐれを聞いていたばかりだ。不思議と言えば不思議。どちらも、周りに自分たちより数十倍も大きな生きものがわがもの顔で暮らしているというのに、恐れを知らず大胆に音波を発している。

 

 この一点をもってしても、生物界がどれほど多様であるかがわかる。ヒトは、コオロギやスズムシやミンミンゼミやヒグラシにとって欠かせない存在ではない。むしろ自然破壊で棲み処を奪う迷惑な大動物だが、天敵というほどの悪役ではなかろう。逆に、これらの虫がヒトの生存に不可欠ということもない。せいぜい季節感をもたらしてくれるくらいの利害関係が薄い間柄だ。地球には、異種生物がたまたま居合わせたように共存している。

 

 だが、これは生物界をこの一瞬で切りとったときの話だ。人類が現れ、有史時代となり、西暦2017年某月某日を迎えた今の断面図では、ヒトはコオロギ、ミンミンゼミの仲間とまったくの別物だ。ところが、ここに時間変化の概念をもち込むと、その確信は揺らいでくる。ヒトは太古からヒトだったわけではなく、変身に変身を重ねてきたらしい。先祖をたどれば、ヒトもコオロギもミンミンゼミもみんな同じ種だったのかもしれない――。

 

 欧州で中世まで支配的だった人間観は、ヒトという生きものの時間変化に無関心だった。野蛮さが薄れ、文明を手にするということはあっても、ほかの生物種との間にある壁は不可侵のものと高を括っていたように見える。たとえば、旧約聖書『創世記』のアダムとイブを思い起こせばわかるように、人類は最初からヒトだったというわけだ。それを一変させたのが、19世紀半ばに英国の生物学者チャールズ・ダーウィンが提唱した進化論である。

 

 ここで僕が興味をそそられるのは、欧州で中世後、啓蒙思想と進化論が相次いで台頭したことだ。前者は人間の人間らしさを理性に見いだして、それを尊重しようとする。これに対して後者は、ヒトの起源に野性をみて、その軌跡を跡づけようとする。真反対の方向性がほぼ同期したのは、皮肉と言えば皮肉だ。ただ、それは偶然ではないだろう。人間の理性が科学的な思考を強めた結果、そこにヒトの野性が見えてきたということではないのか。

 

 この展開は含蓄に富んでいる。たとえば環境問題。現代のエコロジー思想は生態系(エコシステム)の存続をめざしており、人類は系の一員として系全体を守る立場にある。そこには、野性世界に対する深い敬意がある。ただ、生態系保全の必要を感じるのも、そのための方策を練るのも、先日当欄に書いたように理性をおいてほかにない(2017年9月1日付「もう一度、グリーン経済を考える」)。理性が野性を支えるという構図である。

 

 で、今週は『進化とは何か――ドーキンス博士の特別講義』(リチャード・ドーキンス著、吉成真由美編・訳、ハヤカワ文庫NF)。著者は英国の進化生物学者。著書『利己的な遺伝子』で有名なDNA時代の進化論の語り部だ。この本は、1991年にロンドンの英王立研究所で開かれた少年少女向けの講演「宇宙で成長する」をもとにしている。後段では、編訳者による著者インタビューも。単行本(早川書房)は2014年、文庫本は16年刊。

 

 冒頭部で目を引くのは、やはり時間軸のことだ。「宇宙が誕生してから一億四〇〇〇万世紀のあいだ、初めから一世紀ずつすべての世紀が、過去に『現世紀』であったことがある」と書く。宇宙史は途方もない数の時間断面の積み重ねであり、そのうちの「小さなスポットに、たまたままったくの偶然でわれわれが生きている」ということだ。ここにあるのは、人類の相対化。今の常識で宇宙の通史を論じてはいけないという戒めである。

 

 そのうえで第2章「デザインされた物と『デザイノイド』(デザインされたように見える)物体」を読むと、時間軸の意義がわかってくる。「デザインされた物」としては、時計や顕微鏡のような工業製品を思い描けばよい。「デザイノイド」は、それと似て非なるものだ。「一見デザインされたようにみえますが」「まったく異なるプロセスからそのような形になっています」――蛇や食虫植物などの生きもののかたちが、その典型らしい。

 

 この章では、その「まったく異なるプロセス」がダーウィン進化論の「自然選択」であることが明かされる。たとえば、オオカミの形態にも「生き残れるものが繁殖することになり、選択は自動的になされる」というしくみがみてとれる。「足が長すぎもせず短すぎもせず、よって速く走れるもの」や「歯が鈍すぎもせず鋭すぎもしないもの」が生き残る、という。ちなみに歯は鋭いほうが有利に思われるが、度が過ぎると割れやすくなるらしい。

 

 おもしろいのは、こういう「選択」が今はコンピューターで再現できることだ。一例は、P・フックスという研究者がつくったクモの巣のプログラム。巣づくりの「手順」に「遺伝的制御」を導入し、後続世代のクモがつくる巣を複数予想して、ハエ捕りにとって「最も効率の良い巣」を選びとる作業を繰り返すと、巣の形態が進化する。これは、クモ自身の進化も意味する。効率の高い巣をつくる遺伝子を具えたクモが生き残るからだ。

 

 親から子へ、子から孫へ、という代替わりが生物のありようを徐々に変えていく。図面1枚で完全な製品をえいやっとつくるわけではない。長い歳月をかけて少しずつ改良を加えていく。時間軸があってはじめて成り立つものづくりの方法と言えよう。

 

 これはもちろん、よいことばかりではない。デザイノイドには「デザインされたものにはありえないような『欠点』」がある。完全主義ではないのだ。ヒラメの仲間オヒョウは、海底にへばりついているうちに「ゆっくりとした進化の過程を経て、砂に面していたほうの目も頭の反対側に移動していき、上を見るようになった」。このため頭がデフォルメされ、「ピカソが描いた魚」のようだ。初めからデザインしていれば、こんな事態にはならない。

 

 その一方で、自然選択によるデザイノイドづくりは途方もない偉業を成し遂げてきた。第3章「『不可能な山』に登る」では、動物の目の進化を再現するコンピューター実験が紹介される。ダン・ニールソンという科学者の研究だ。その結果では、控えめにみても25万世代の代替わりがあるだけでレンズを具えた目をもてるようになった、という。動物の1世代を1年とみれば25万年。長いと言えば長いが、地球の歴史からみればほんの一瞬だ。

 

 この本が凄いのは、生きものがデザイノイドであるとの論陣を張るためにデザインという行為そのものまで進化の軸に位置づけたことだ。デザインは脳が進化してこそ可能になる。それまでは、デザインなしにかたちをつくらなくてはならなかったではないか!

 

 著者は、ヒトの脳に「飛躍をもたらした」ものとして、三つの要因を挙げる。一つは「想像力」。これは「起こったかもしれない事柄」まで扱うシミュレーション能力を高めた。もう一つは「言語」。個体間が言葉を交わすことで「脳同士のネットワーク」を築けるようになった。そして三つめが「テクノロジー」。それは、身体能力を拡張する道具とともに「すべては、必ず目的を持って作られている」という認識を生みだしたとみている。

 

 ここで僕が苦笑いしたのは、科学の実用偏重を思ったからだ。科学者は研究費を獲得しようと、成果が役に立つことを強調するのに躍起のように見える。これは、まず目的ありきのデザインを想定した発想だろう。だが、科学にもデザイノイド流の進化があるはずだ。

 

 訳者によるインタビューでは、この進化観は生物界を読み解くだけではないとの見方が印象に残る。著者は、生きものは遺伝子が存続するための乗りものに過ぎないという持論を文化現象にも広げて論じた人だ。たとえば、「野球帽を前後逆にかぶる」行為も「ミーム(模伝子)」の複製として説明する。ここでは「『自然選択』のメカニズムというのは、おしなべてどんな自己複製する情報記号にも働くということを言いたかった」と打ち明けている。

 

 この本を読むと、科学書を理科好きの占有物にしてはならないと痛感する。ドーキンスは、生物界を観察して情報化した人間社会の深層に潜むしくみまでも見いだしたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算386回)

 

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『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書)

写真》ベルリンはプロイセン、ヴァイスビアはバイエルン

 そう言えば……と思うのは、僕が初めて訪れた外国がドイツ(当時は西ドイツ)だったことだ。1984年、科学記者として初めての海外出張だった。まだ東西冷戦のさなかだったので、アンカレジ経由北極回りの空路でフランクフルトに降り、そこから列車に乗って最初の宿泊地ケルンに着いた。ホテルは質素で、小ぎれい。エレベーターは機械仕掛けを露わにしたようなつくりだった。清潔と武骨――それが、あの国の第一印象だった。

 

 もっとも心に残る町は、南部の大学町テュービンゲン。ホテルはさらに質素。カーテンも寝具も趣味の良い柄ものの布地で、家庭的な雰囲気だった。部屋係の可憐な面立ちに、ドイツ語の授業で習った「メートヒェン(少女)」という単語を思いだしたりもした。大学では老教授が、取材の合間でも定時のティータイムを欠かさなかった。町に漂うおとぎ話の気配。人々が繰り返す静かな日常。これらも、僕が感じたドイツらしさだ。

 

 総じて言えば、ドイツという国に僕は悪い印象をもっていない。東西統一後の足どりを追ってみても、そのバランス感覚は見事だ。右から左へ、左から右へと振り子を振るような政権交代。緑の政治勢力も強く、いったんは原発廃止を決め、そのあと揺り戻しがあったものの、3・11の東京電力福島第一原発事故を受けて再び脱原発路線に転換した。国際政治での立ち位置をみても、自国第一主義に走らずに協調路線を守りつづけている。

 

 だから不思議でならないのは、近現代史で最悪の政治体制を産み落としたのがそのドイツだったことだ。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は自民族の優越を主張してユダヤ民族などを目の敵にした。弱者を切り捨て、政敵には弾圧の限りを尽くした。標的とされた人々は人間性を否定され、その多くが心身の死に追い込まれたのである。あの落ち着いた社会風土から、どうしてそんな暴虐が生まれたのか。

 

 善き人々がいて善き文化があっても、邪悪は顔を出す。そんな悪しき変異を、20世紀のドイツ社会は体験した。いま再び、邪悪なるものが世界を揺るがしかねないように思われるとき、その悪例の主舞台となった大都市に目を向けることは意義があるに違いない。

 

 で、今週は『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書)。著者は日本の大学を出て、シュトゥットガルトにある音楽大学大学院のピアノ科で学んだ後、現地に住みついてドイツを日本に紹介する本を書いてきた。とりあげた題材は音楽から料理まで幅広い。ベルリンを本にしようと思い立ったのは、別の仕事でしばしば足を運ぶうち「この町に次第に夢中になっていった」からだという。刊行は2010年。

 

 プロローグでは、この本で焦点をあてるのが1871年と1990年の間であることが宣言される。前者はプロイセン、バイエルン、ザクセンなどの王国や領邦、自由都市が合流して一つの帝国を打ちたてたドイツ統一の年、後者は僕たちの記憶にも新しい東西統一の年だ。著者は、この間に「ベルリンは、その姿を極端から極端へと何度も変えている」と書くが、それと同期してドイツそのものも両端の間で揺れ動いたと言ってよいだろう。

 

 いきなり中盤の第5章に入って恐縮だが、ヒトラーが政権に就いていた1930〜40年代を描いたくだりをみてみよう。そこに、こんな一文がある。「この時代のことを調べていると、どうしてもわからなくなることが一つある」「なぜ、これほど短期間に、ドイツ人は変わってしまったのだろう」。ドイツそのものが宿す善と、ナチスドイツとなって体現した悪。その落差を前にしての戸惑いは、僕だけのものではなかった。

 

 著者は、ナチス時代の「ただ見て見ぬふりをしていただけではなさそう」な世相に着目する。世の中に、ユダヤ人差別を「笑いの種」にする傾向があったこと、医療従事者が精神病患者の命を絶っても、それを「彼らの仕事」とだけとらえる思考停止があったらしいこと。そのどれも「私の中にあるドイツ人のイメージとつながらない」。しかもこれは、古代や中世の話ではない。「何がこれらを可能にしたのだろう」と問いかける。

 

 この謎を解くには、近現代のドイツに働いた力学を知る必要がある。第1章の記述によれば、1871年の統一以前、一帯には35領邦、4自由都市が並び立っていた。19世紀初めまで遡れば、領邦数は300ほど。それらを合体させたのがプロイセン王国であり、その鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクだった。「パッチワークのような場所」に「突然、若く大きな、しかも、軍事力の突出したドイツ帝国という国が出現した」ことになる。

 

 中世以来の分権を強引に一つにまとめようとする無理が、最後はナチスに行き着いた。これは、幕藩体制を近代国家にあわててつくりかえた日本に軍国主義が芽生えた流れに似ている。もとからあった分権は封建制の名残にほかならないが、それはビール醸造元の数ほどある地域の生活文化を宿していた。僕がドイツで体感した人々の美徳は、こうした固有の文化の表れだったような気がする。帝国志向の過熱が、それらを麻痺させたのである。

 

 興味深いのは、ベルリンが帝国志向に素直に靡かなかったことだ。権力者から疎ましがられたこともある。ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が宮殿を構えたのはポツダム。首都ベルリンを「社会主義者という、王族の権利を否定しようとする不逞な輩(やから)の跋扈(ばっこ)する、不穏で恥知らずの町」と嫌ったからだ。帝国崩壊後の1919年に共和国が生まれたときも、制憲議会の開催地は「不穏なベルリン」でなく古都ワイマールだった。

 

 この二つの記述からわかるのは、ベルリンには権力が顔をしかめる喧騒があったことだ。19世紀には市民革命の先達フランスの影響を受けて、「民衆蜂起の中心地」になっていた。ワイマール体制に移ると、それが一気に花開く。この本にある1920年代後半の統計では、市内の映画館数が363に達し、映画会社37社が年に約250本の長編作品を制作している。朝刊紙45、昼刊紙3、夕刊紙14、出版社も約200を数えたという。

 

 この都市では旧来の倫理が揺らぎ、売春の蔓延や小児性愛の横行など由々しき事態も起こっていた。だが半面、「芸術家や科学者の精神を解き放ち、様々な芸術表現や技術の発展を可能にした」。町には新建築運動バウハウスの建物が現れ、物理学者アルバート・アインシュタイン、作家フランツ・カフカ、映画監督アルフレッド・ヒッチコックらもその空気を吸った。「ベルリンは、『現代文化(モダニズム)の実験場』になった」のである。

 

 ここで思いだしたのは、オーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンだ。『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)によれば、そこも帝都ではあったが、建築家たちが皇帝主導の街づくりに反発して「分離派」の芸術運動を起こした(当欄2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考」)。帝都は都市文化が成熟するからこそ皇帝にとって獅子身中の虫となる、ということだろう。

 

 記憶にとどめておきたいのは、ドイツには帝国志向と逆向きのベクトルもあったことだ。それは、自由な表現を追い求める方向性と言ってよい。後者は皮肉にも前者の都で芽吹き、前者の強まりとともに発信力を高めたが、最後は結局、前者の暴走に押し潰された。

 

 ベルリンでは、二つのベクトルのせめぎ合いが第2次大戦後も続く。ナチスが消えた後、帝国志向にとって代わったのは東西冷戦の斥力だ。町は二つに分断された。とりわけ西ベルリンは、文字通りに陸の孤島となったのである。この本によれば、発電所の資材一式が航空機で運ばれたこともある。1960年代に壁ができると、「西―東―西と突っ切る経路」を走る電車は東では検問所のある1駅を除いて「通過するだけ」になったという。

 

 斥力と逆向きのベクトルが爆発したのが、1989年11月9日の壁崩壊だ。この本では、著者の知人たちが経験したそのときが、アンゲラ・メルケル(現首相)の自伝にあるそのときと織り交ぜて綴られる。そこでの主役は国ではなく町、町というよりも人だった。

 

 一つのベクトルには必ず逆向きのそれがある。僕たちはそのことを忘れてはなるまい。

*著者名にある「恵」は正しくは旧字体です。

(執筆撮影・尾関章、通算385回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『グリーン資本主義――グローバル「危機」克服の条件』(佐和隆光著、岩波新書)

写真》色づいても枯れても緑は緑

 あの熱気はいったい、なんだったのか。そう思うのが、2000年代に入ってしばらく続いた脱温暖化の機運だ。二酸化炭素など温室効果ガスの排出減らしが世界的な関心事となり、主要国首脳会議(サミット)でも最優先議題の一つに挙げられたのである。

 

 そもそも、工業化社会から出る二酸化炭素が地球を暖めているという警告が広まったのは1980年代の後半だ。90年代からは「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」という科学者集団がほぼ5年おきに温暖化の予測を発表するようになっていた。92年には国連気候変動枠組み条約が採択され、97年に京都議定書がまとまって、2008年から5年間に先進国が温室効果ガスの排出をどれだけ減らすかの目標も課された。

 

 僕は新聞社在籍時代、2006年の暮れから論説委員となって環境問題の社説を担当した。そのころ、論説委員室に集う政治記者も経済記者もなべて温暖化問題に対する関心が高かったことが思いだされる。それは、国際情勢や政治経済を資本主義対社会主義の対立で読み解く冷戦型の思考様式がメディアでも政財界でも廃れてきたことの証しだった。人類が内部抗争に明け暮れるのではなく、共通の敵と闘うという構図が見えてきたのである。

 

 ここで共通の敵とは気候変動だが、その原因として人間自身の野放図な産業活動があった。それを抑えられるのは、理性しかない。人類は、武器を振りまわす流血の戦いを脱して、科学に支えられた理性の闘いの時代に入ったようにも思えたものだ。

 

 ところが、歴史はそれほど簡単には進歩してくれなかった。民族抗争や難民問題、グローバル経済があちこちで国際摩擦を引き起こしている。その結果、自国第一の潮流が生まれて、核戦争の危機さえ現実味を帯びるようになった。理性の闘いはまた遠ざかった感がある。

 

 国内に目を向ければ、3・11の福島第一原発事故の衝撃が大きかった。原子力災害による放射能飛散の怖さは、温暖化より差し迫っている。現実に原子力発電はいったん止まり、その後、再稼働が始まったが、電力供給では火力が大きな柱となっている。脱温暖化はいったん棚上げされた感がある。これは、急性病の回避を慢性病の予防よりも優先させるのに似て尤もなことだと僕は思う。ただ、だからと言って理性の闘いを忘れてよいはずはない。

 

 で今週は、3・11以前にメディアを賑わせていた論調を振り返ってみよう。脱温暖化は経済を停滞させたりはしない、むしろ新しい成長の種子を撒いてくれる――という見方だ。もし本当にそうならば、経済の舵を今からでもそちらへ切らなくてはならない。

 

 手にとったのは、『グリーン資本主義――グローバル「危機」克服の条件』(佐和隆光著、岩波新書)。著者は1942年生まれの経済学者。京都大学経済研究所長などを務めた。計量経済学を出発点に環境経済学を深めた人だ。数理を駆使する方法論、生態学(エコロジー)に対する造詣。いずれも、僕のような科学記者には親近感を呼び起こさせる。そんなこともあって僕は大阪在勤のとき、部内の勉強会にお呼びしてお話を聴いたこともある。

 

 この本は2009年に出た。副題に「グローバル『危機』」とあるように、前年に米国で勃発した「リーマン・ショック」とそこから波及した「世界同時不況」を強く意識している。そうした資本主義の行き詰まりを打開する方策として、グリーン、すなわち環境保護志向の経済活動が提案される。折から、日米で政権交代があり、市場原理主義一辺倒の政策が見直されようとしていたころだった。刊行時には、きわめて旬な本だったと言えよう。

 

 そこでは、自民党の麻生太郎政権が2009年に出した温室効果ガス排出削減の中期目標が俎上にあがる。20年に05年比で15%減らすというものだ。注目すべきは、基準年が国際標準の1990年と異なることだ。著者は、90年から05年までの実績が欧州連合(EU)は7%減、日本は7.7%増だったとして「これまでの試験の点数は帳消しにして、これからの試験の点数で成績をつけてもらう」のと同じではないか、と指弾する。

 

 2009年は民主党に政権が移った年だ。鳩山由紀夫代表は首相就任直前、新政権の20年目標を掲げる。1990年比でマイナス25%という大幅削減を「いち早く打ち出した」のだ。著者は「まことに意義深い」としているが、その目標値も今は消えてしまった。

 

 このころ、米国でもバラク・オバマ大統領が登場して「再生可能エネルギーやスマート・グリッドに巨額の公共投資をし、アメリカ経済再生の手掛かりにしようとする」。スマート・グリッドとは「情報通信技術」を活用した「送配電の安定化」を指している。彼は、それらの投資額や雇用増の目標も数字で示した。これは1930年代、フランクリン・ルーズベルト大統領が手がけた政策に因んで「グリーン・ニューディール」と呼ばれる。

 

 著者は、こうした流れを肯定する理由を産業経済史の観点から説明する。もっとも説得力をもつのは、日本では高度成長期(1950年代後半から73年)とバブル崩壊後(91年から2000年代)で、それぞれどんな商品が経済活動の牽引車となったかの比較だ。

 

 前者を代表するのは自動車やエアコン。著者は「自動車産業ほど、産業連関的波及効果の大きい産業は他に見当たらない」と書く。自動車1台ができるたびに、鉄、非鉄金属、石油化学製品、電子部品など1トン超の物財がそこに詰め込まれる。さらにはガソリンスタンド、駐車場、自動車ローン、自動車保険などクルマ社会に欠かせないサービスが生まれて「大規模な雇用を創出する」。その波及効果が高度成長に大きく寄与したと指摘するのである。

 

 では、後者はどうか。「携帯電話、パソコン、DVDプレーヤー・レコーダー、デジカメ、カーナビなどのデジタル製品」の普及が進んだが、「デジタル製品の産業連関的波及効果は、自動車のそれに比べれば、圧倒的に小さい」。なるほど、と思う。科学技術史で言えば、1980年代に情報科学の開花があり、ハードからソフトへの重心移動があったが、それはモノよりもコトに付加価値を見いだしたので工業生産の爆発的な連鎖は生まなかった。

 

 二つの時代は、政策面でも対比される。例に挙がるのは、1965年、東京五輪翌年の「昭和四〇年不況」。日本銀行の特別融資や赤字国債の発行によって克服された。当時は、カラーテレビなど家電製品の潜在需要があり、「公共事業の工事現場で働く人びとは、給料をもらうと、すぐさま電器屋さんに」という図式が成り立った。だが今、先進国では「財政金融政策によって容易に掘り起こせる潜在的な内需はもはや無きに等しい」という。

 

 読みどころは、経済成長に必須とされる技術革新をめぐる考察だ。その駆動力は1)「願望」の充足2)「不足」の克服3)「制約」の打破の三つだが、1)2)は20世紀に「あらかた達成された」ので、今は3)の比重が増している。それは、どんな制約か。著者によれば、人類が21世紀に課されているのは脱温暖化という「環境制約」だ。今日のニューディール政策が「グリーン」でなければならない最大の理由はここにある。

 

 前世紀までは、1)2)のように人間の欲望が経済を引っぱっていた。ところが今世紀の3)では、理性が介在する。だれかが人類の存続に必要な制約に気づき、それに対処するしくみを設計しなくてはならない。そこに排出量取引のように環境保護に努めれば得をするという市場原理を組み込むとしても、その枠を決めるという英断を支えるのは欲得抜きの理性しかない。グリーン資本主義の成否は、これができるかどうかにかかっている。

 

 著者は経済成長の不要論者ではない。ただ社会を次世代へつなぐため、「枯渇性資源を浪費する経済成長」はやめるべきだと主張する。3)に突き動かされて再生可能エネルギーやスマート・グリッドを充実させれば、適切な成長がもたらされるということだろう。

 

 印象に残るのは、官僚主導で出された麻生中期目標に対する批判だ。計量経済モデルという「ブラックボックス」を「『調整』する」ことで都合の良い数値をはじいたという。経済学は数字を弄ぶものではない。大切なのは歴史観。この本を読んで、僕はそう思う。

(執筆撮影・尾関章、通算384回)

 

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『孤独の発明』(ポール・オースター著、柴田元幸訳、新潮文庫)

写真》どちらに転ぶ?

 今年の夏、あなたはどんな本を読まれただろうか。これはという1冊に出会ったという方も多いだろう。「今年は何を読もうか」――そんな思いとともに人を俄か読書家にする魔力が、この季節にはある。魔力の理由は非日常の静寂か。夏休み、高原の緑陰に腰を下ろしていても、海辺の宿で横になっていても、だれにも邪魔されないでいられる。旅に出ずとも居間のソファで同じ気分に浸れる。その時間は、まるまる読書に充てることができるのだ。

 

 そう考えると、夏にもっともふさわしい本は長編小説だろう。なぜなら、小説を読むとは異なる世界に入り込むことだからだ。自分がいる「いま、ここ」とは別世界にしばし身を置いて、そこにいる気分になる。これは、読む側に心の余裕がなければできない。

 

 話は飛ぶが、このことには先般の共謀罪論議にあった「内心の自由」が関係してくる。政権を武力で転覆する、テロリズムに手を貸す、などということは現実の世界にあってはならない。だが、フィクションは別物だ。人は一定時間、自身の内心を虚構世界にそっくり移して登場人物になりきる。それは空想の域をはるかに超えるものだ。当事者の心の綾が自身のそれとぴったり重なってくる。この感覚をもてるところが人間のすごさだろう。

 

 それがなんの役に立つのか、と問われれば返答に窮する。犯罪を扱う小説ならば、読み手は作品世界に没頭して、被害者となって悲嘆にくれたり加害者となって罪悪感に苦しんだりする。その読書が、他人を思いやる気持ちを涵養するのは確かだろう。ただ、そこだけに収斂させると人間を矮小化して見ることになる。一つの人生なのに複数の世界を生きる――うち一つ以外は現実でないにしても――ということ自体に意義があるのだろう。

 

 で、今週は稀代のストーリーテラーに登場願う。米国の現代作家ポール・オースターだ。ちなみに、この人は作品に作中作の入れ子構造を組み込むのを得意としている。結果として、読んでいる側は一つの作品でいくつもの虚構世界を体験することになる。

 

 たとえば『幻影の書』(柴田元幸訳、新潮社)では、男性主人公の話だけでなく、たまたま見た無声映画の監督の個人史、その作品、そこに登場する人物が書く小説、というふうに入れ子が次から次に現れ、「幾重にも層をなして共鳴し合う」(朝日新聞2009年1月11日読書面の拙稿)。当欄でとりあげた『闇の中の男』(柴田元幸訳、新潮社)も作中作で読ませる小説だった(2014年9月19日付「オースターで読むもう一つの米国」)。

 

 今回選んだ1冊は『孤独の発明』(ポール・オースター著、柴田元幸訳、新潮文庫)。原著は1982年に出た。著者は47年生まれなので、30代半ばの作品。訳者あとがきによれば、そのころまで著者の本業は詩人だったので「散文作家として出発した一冊」にあたる。自伝的な中身だが、本人は「僕自身をモデルにして、自己というもののなりたち方について探った作品」と位置づけているという。邦訳(新潮社)は91年、文庫版は96年刊。

 

 この作品は、性格の異なる2部から構成される。第1部「見えない人間の肖像」は、亡くなったばかりの父について一人称の「私」が書く形式。それだけで独立した物語となっている。第2部「記憶の書」は、断章を並べたようなつくり。著者本人と思われる人物「A」の体験を縦糸に、交遊関係や書物の話を織り込んでいる。後者には、物語について語る物語という側面もある。その意味で、散文作家として再出発する宣言の書となっている。

 

 まず目を引くのは、第1部書きだしの巧さ。「ある日そこにひとつの生命がある。たとえばひとりの男がいて、男は健康そのものだ。年老いてもいないし、これといって病気の経験もない」「そしてそれから、突然、死が訪れる。ひとりの人間がふっと小さなため息をもらし、椅子(いす)に座ったまま崩れおちる。それが死だ」。これは普遍の真理だが、次の段落で個別の死と生が結合する。一人の非日常がもう一人の日常と交差する瞬間だ。

 

 「父の死を知らされたのは三週間前のことだった。日曜日の朝、私はキッチンで、幼い息子のダニエルの朝食を作っていた」「それから電話が鳴った。私はただちに、何かよくないことが起こったのを知った」。人は、往々にしてこのように近親者の死に出会う。

 

 その父の描写は、どこまでも客観的だ。ダニエル誕生直後の話。父は乳母車をちょっとのぞいて「私」の妻に言う。「可愛(かわい)い赤ちゃんだ。元気に育つといいね」。その言葉は「レジの行列で、他人の赤ん坊を見かけて言う科白(せりふ)」に似て「うわの空の口調」だった。「私」は「生涯にわたって、父はどこか別の場所にいた」と思う。父は孤独だった。それは「退却という意味の孤独」だ。ここで読者は、その背景を知りたくなる。

 

 糸口はいくつかある。一つは、父の遺品の家族写真。幼い父は「私」の祖母の膝に抱かれている。だが画面中央は破られ、かたちばかりの修正が施されて、祖父の姿はない。これは読者も、この本の口絵画像で確認できる。謎の示し方としては見事なほど衝撃的だ。

 

 もう一つは、「私」のいとこ経由で入った情報。彼女が国際線の機内で隣り合わせた老人と雑談を交わしていたときのことだ。その人が暮らす町が、父の出身地であることがわかる。実家の苗字を問われて「オースター」と答えると、「老人の顔色が変わった」。こうして「五十年以上前に起きた出来事」の概要が当事者の子孫に伝えられる。「祖父の死の真相」は、この「大きな偶然」がなければ「きっと永久にわからずじまいだったろう」。

 

 隣席の老人は帰国後、いとこに当時の新聞記事をコピーして送ってくる。「私」は、それをもとに家族の歴史を再現していく。そこでわかってくるのは、祖父と祖母の間に刑事事件にまで発展する確執があったことだ。当欄では、その詳細を明かすのは控えておこう。

 

 偶然の話は第2部にもある。1966年、Aの恋人が体験した話。春に自分のピアノで「真ん中のドの上のファ」の鍵盤が壊れる。その彼女が夏にAとともに旅をしたとき、田舎町の集会所で見つけたピアノを弾くと、まったく同位置の「ファ」が破損していた。「同じピアノが二つのちがった場所に存在する」とも思われる事態。A即ち著者がすごいのは、ここで偶然の一致はそれがどう書かれるかで受けとり方が違ってくることに気づいた点だ。

 

 小説として書かれれば「登場人物なり世界なりについて作者は何か言おうとしているのだ、と読者は当然考える」。これに対して「事実の物語はそれ自身の向こう側に何ひとつ意義をもたない」。A自身も、ピアノ2台の「ファ」の欠損のような「二つの断片」のつながりに「意味を探したい欲求に駆られてしまう」が、それがうまくいかないこともわかっている。だから、「意味の不在を第一原理として受け入れること」に徹しようとする。

 

 このくだりで、僕は著者の小説の極意に触れた気がした。オースターの作品世界には偶然がちりばめられているが、背後に必然を潜ませようという意図が感じられない。偶然を偶然と割り切る乾いた感覚。それが、思いもよらない筋書きを生みだすダイナミズム。Aの思考に沿って言えば、虚構を書いても「事実の物語」になる。僕たちが、その入れ子構造に引き込まれるのも、作中作がすべて「事実の物語」として活写されているからだろう。

 

 偶然をめぐっては「出来事同士が韻を踏む」という発想も興味深い。例示されるのは、Aの友人がパリで間借りしたら、そこはかつて彼の父親がナチスから逃れるための隠れ家だったという話。「両者を同時に眺(なが)めたときに生じる韻が、それぞれの現実を変革する」と書く。「韻」によって「世界のなかに新たな結びつきが生み出され」「もうひとつのシナプスがつけ加えられる」。シナプスは接続点。今日のネットワーク論に通じる洞察だ。

 

 最後に、巻末に収められた吉本ばななの一文から。ニューヨークで著者にインタビューしたとき、こんな言葉が返ってきたという。「自分にとっては今、何よりも、家庭の中で日々おこるハプニングこそが人生だと思う」。オースターは偶然を拾いだす達人なのだろう。

 

 今この瞬間、なにがどう転ぶかわからない。だから、僕は生きつづけようと思うのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算383回)

 

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『ゴルフ場殺人事件』

(アガサ・クリスティー著、田村義進訳、ハヤカワ・クリスティー文庫)

写真》人気スポーツ(朝日新聞2017年8月14日朝刊)

 スポーツのどれが好きで、どれが嫌いということはないのだが、ことゴルフに限っては距離を置いて眺めてきた。僕たちが幼かったころ、それは今と違って富裕層の象徴だった。だからこそ羨望の的ともなったが、一方で疎遠感も呼び起こしたのである。

 

 思いだすのは、テレビ草創期の人気ドラマ『ママちょっと来て』だ。日曜夜に日本テレビ系で放映されていた。ママは乙羽信子、パパは千秋実。二女一男の子どもたちがいた。豊かな中流家庭を描いた米国製ホームドラマの和製版と言ってよい。ウィキペディア(日本語版、2017年8月18日時点)には、1959年から63年まで続いたとある。当欄でも2016年8月12日付「TVのあの頃を風化させないために」で触れた。

 

 録画が手もとにはないので記憶によって綴るしかないが、あのドラマで千秋パパがどんな日々を送っていたか、その光景は鮮明に脳裏に残っている。会社では中間管理職の立場にあり、オフィスに腰かけて書類が回ってくるたびにハンコを押している。日曜日の朝も、妻子を残して家を出る。「また今週も?」。非難がましい視線を背後に浴びながら……。このとき、パパの肩にあったのがずっしりと重たそうなゴルフクラブ一式だった。

 

 このドラマは、当時日本の都市近郊でふえつつあった中流上層(アッパーミドル)の生活様式を映していたと言えるだろう。それは、僕自身が見た光景とも合致する。父親が大手企業に勤める友だちの家に遊びにいくと、庭にゴルフ練習用のネットが置かれているということがよくあった。ホワイトカラーの接待アイテム兼贅沢な趣味という感じ。ゴルフは、戦後経済が復興から成長へ向かうとき、その担い手の嗜みとなっていたのである。

 

 それは高度成長が進むにつれて、利権や乱開発と密接に結びつく。ゴルフ場はレジャー開発の目玉商品となり、その会員権が売り買いされて投機欲をそそった。そして、造成のたびに山肌が削られる。そこにあるのは、金権政治と自然破壊のイメージだった。

 

 一方で、ゴルフは大衆化もしていく。前述「TVのあの頃を風化させないために」では、深夜番組「11PM」(日本テレビ系)でレジャー情報の一つにとりあげられていたことを書いた。テレビの試合中継もふえて、スター選手たちが次々に現れた。ひとことで言えば、人気スポーツとして野球や相撲に並んだのだ。だが、後に新聞社に入ってみると、ゴルフ好きの同僚は少なかった。僕ら世代の青臭い記者精神とはそりが合わなかったのだろう。

 

 今は、そんな負のイメージが一掃された、と言ってよい。ただ、一つの時代に一つのスポーツが一つの記号となったことは記憶にとどめておくべきだろう。で、今週は、ゴルフというスポーツがどんな文化を背負ってきたかを英国の長編ミステリーで考察してみる。

 

 とりあげるのは、『ゴルフ場殺人事件』(アガサ・クリスティー著、田村義進訳、ハヤカワ・クリスティー文庫)。原著は1923年に出ているので、著者(1890〜1976)にとっては初期の作品だ。早川書房は詩人として著名な田村隆一の訳も文庫化しているが、今回の本は2010年代に入ってからの新訳である。会話文の「でも、それって、あんまりじゃない」といった言葉遣いは現代風。新旧訳者は同姓だが、特段のつながりはないらしい。

 

 原題は、“Murder on the Links”。辞書で「リンクス」を調べると「海岸・河岸に造られた比較的平坦なゴルフ場」(デジタル大辞泉)とあるから、邦題はほぼ直訳と言ってよいだろう。英英の辞典には“linksland”という言葉もあり、それは海沿いにあってなだらかな地形をなし、砂っぽい土壌が雑草に覆われているようなところを指しているらしい。ゴルフの本場スコットランドの自然を生かしたコースが目に浮かんでくる。

 

 この小説に出てくるゴルフ場は、スコットランドにはない。フランスの「メルランヴィル」という、おそらくは架空の田舎町。探偵エルキュール・ポアロと相棒ヘイスティングズが英国から赴くとき、港からタクシーで乗りつけているからドーバー海峡からそう遠くはない。後段で二人が互いの推理を語りあう場面には「われわれは海が見おろせる草地に腰をおろした」という描写がある。一帯は潮の匂いがして、リンクスランド風なのだろう。

 

 事件の発端は、こうだ。富豪ポール・ルノーがメルランヴィルの自邸から身の危険を訴え、助けを求める手紙をポアロに送る。そこで海を渡って屋敷に駆けつけると「ムシュー・ルノーは亡くなりました。今朝、殺されたのです」と告げられる――その死体発見場所が、隣接するゴルフ場の敷地に掘られた穴だった。コースはまだ造成中で、翌月にオープンの予定。作業員が早朝に見つけたという。以下、例によってミステリーの筋は追わない。

 

 僕が興味をそそられるのは、ここから当時の欧州社会の様相がどう見えてくるか、ということだ。まずは、ルノーの民族的背景のあいまいさ。家政婦は捜査陣に対して「旦那さまはお金持ちのイギリス紳士」と言う。実際、ロンドン市内やその北郊ハートフォードシャーにも邸宅を構えている。ところが秘書は、雇い主は「フランス系カナダ人」であると証言する。要は、彼は英国人らしくも見え、フランス系のようでもあったということだろう。

 

 これは、富裕層に限った話ではない。この作品の見せ場の一つに、ロンドンが拠点のポアロとパリ警視庁刑事ジローとのさや当てがあるが、そこに英仏の対立構図はない。前者が「灰色の脳細胞」を働かせれば、後者はとことん「物証」にこだわる。英国文化は経験論を重んじるから、入れかわったほうが自然のようにも思える。そうならないのは、ポアロが英国に住んでいても母語がフランス語のベルギー人、即ち大陸の人だからではないか。

 

 この作品に登場する謎めいた女性も、同様のあいまいさに満ちている。若かったころ、周りに出生をめぐる噂が立った。「ロシアの大公の非嫡出子であるとか、オーストリアの皇太子の正式の子だが、母が平民であったため、皇位につけなかったとか」。こんな都市伝説が成り立つほど、欧州人は国境を超越して交ざりあっていた。それは今の話ではない。欧州列強が角突き合わせていたころ、欧州連合(EU)などなかった時代のことである。

 

 ひとつ言えるのは、そういう国際性が蓄財につながり、富豪を生みだしたことだ。ルノーも、自らの経済活動の主舞台は南米だった。「これまでの人生の大半をチリとアルゼンチンで過ごしてきた」「南アメリカ関連の株を大量に持ってるんじゃなかったかな」。そんな巷間情報をヘイスティングズがポアロに伝える。チリもアルゼンチンも19世紀にスペインから独立していたが、欧州列強にとっては依然、資源の供給元にほかならなかった。

 

 とりわけ、チリ硝石と呼ばれる鉱物は20世紀初めまで垂涎の的だった。天然の硝酸ナトリウムで、火薬や肥料の原料となる。1910年代にアンモニアの人工合成法が確立するまで、それは工業国が手に入れておきたい品目の一つだった。さらにチリには銅鉱山もあって、こちらの採掘も盛んになってくる。鉱脈に賭ける経済は投機を呼び起こしたに違いない。ルノーが買いあさったという株は、きっとそんな産業構造に関係していたのだろう。

 

 当時の欧州人の一つの典型は、ルノーの秘書に見てとれる。初対面のとき、ヘイスティングズが受けた印象はこうだ。「見あげるような長身、運動選手のようながっしりとした体軀、顔も首も日に焼けていて、威風あたりを払っている」。英国生まれ、アフリカで狩猟する、朝鮮に出かける、米国で農業も営む……まさに「世界を股にかけている」という言葉の通りだ。今とは違って、欧州が支配する側にだけ回るグローバル経済がそこにはあった。

 

 さて、再びゴルフの話。隣地のリンクス造成も「ムシュー・ルノーの寄付金によるところが大」(地元の警察署長)というから、このスポーツはやはり富裕層の地位を代弁するものだったのだろう。皮肉なことに、その一角が当人の墓場となったわけだが……。

 

 アガサ・クリスティーの小説世界は、欧州の権勢で歪んだ地球儀の表面にある。そのことを彼女は表だってどうこう書かないが、僕たちはその歪みに気づいておくべきだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算382回)

 

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