『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)

写真》在でなく存、内でなく外

 大人になろうとするころ、僕の意識にどこからか舞い込んできた言葉に「実存主義」がある。いつだったかは思い出せない。だが、その語感になんとなく好感を抱いたことは覚えている。これから生きていくことに対する不安を軽減してくれそうな気がしたのだ。

 

 これには、1960年代の論壇状況が深く関係している。たいていの論調は、右か左か、保守派か進歩派か、という座標軸で位置づけることができた。この物差しは、政治経済の文脈では自由主義対社会主義に対応する。ただ、僕のようなへそ曲がりの少年には、そのどちらにも与したくないという思いがあった。あのころの実存主義は、左がかっているように見えてもゴリゴリの社会主義とは距離を置いていて、共感しやすかったのだ。

 

 字面の妙もあった。「実存」は、英語ではexistence(存在)だ。「実存主義」はexistentialism。これを、存在主義と訳さなかった先哲の言語感覚には脱帽する(日本版ウィキペディア=2020年2月21日最終更新=によれば、命名者は九鬼周造という)。実存主義は、実在論(realism)とは違う。主題は、モノが在ることではない。人が存在することにある。「実存」の二文字で、僕たちはその含意をうっすらと感じとっていた。

 

 もう少し、言葉にこだわってみよう。気になるのは、existenceの接頭辞exだ。「外へ」という感じか。哲学の常として興味の向かう先は人間の内面のはずだが、ここには外向きの志向性もある。邦訳「実存」は、その側面とも響きあっているのではないか。

 

 改めて思い返すと、1960年代は唯物論の優位が顕著だったように思う。これは、政治座標軸の左右を問わない。左の背後には、マルクス主義の唯物史観が控えているのだから当然だ。ところが、右にもモノ志向が強まっていたように僕は思う。とりわけ日本社会は高度経済成長まっしぐらのころで、大量生産が合い言葉だった。僕たちは、物質世界を無視できなかったのだ。世を挙げて、内にこもってはいられない心境にあったと言ってよい。

 

 ただ、当時の僕は実存主義に心惹かれるだけで、それを習得していたとまでは言えない。ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』やアルベール・カミュの『異邦人』を読みかじって空気感を味わったものの、それ以上は進まなかった。とくにカミュ自身は実存主義に批判的だったから、頭は混乱するばかりだった。(当欄2018年8月10日付「異邦人ムルソーのママンとは何か」、当欄同年11月30日付「いいねばかりの時代の不条理考」)

 

 だからもう一度、実存主義の本をきちんと読みたい、という思いが僕には強い。同世代には、そういう人が少なくないだろう。ここで心にとめておきたいのは、思想状況が大きく変わってしまったことだ。左右の座標軸はとうに消えかかっている。旧来の社会主義はすっかり色褪せてしまった。唯物論も、モノ志向も、かつてほどの勢いがない。物質よりも情報、モノよりもコトの時代である。そんなときに実存主義はどういう意味をもつのか。

 

 で、今週は、そんな問いに答えてくれそうな1冊。『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)。「ガブリエル著」としていないのは脱字ではない。「著」は表紙にも奥付にも見当たらない。理由は、著作権表示を見ればわかる。原題にby Markus Gabrielと添えられてはいる。だが各章には、それぞれ著作権を主張する筆者がいる。この本は、それらの論考をジョスラン・マクリュールという序論執筆者が編みあげたものだ。

 

 ガブリエルは1980年生まれ、現在、ドイツ・ボン大学で教授を務める哲学者。この本では、第1章「新実存主義――自然主義の失敗のあとで人間の心をどう考えるか」(この章題が本書全体の原題)で持論を展開、第2〜4章でカナダ、フランス、ドイツの学究に論評を委ね、第章で返信風の論考を執筆している。原著は2018年、邦訳は20年1月刊。当欄は第1章と第5章を紹介するので、ガブリエルを「著者」と呼ぶことにする。

 

 第1章の冒頭で書かれているのは、心を脳との関係でどうとらえるか、ということだ。この問いに、「実存」の文脈で光が当てられたのである。旧来の実存主義が華やかだったころと比べ、脳研究が進んだからこその新機軸だろう。生物学では、脳生理学が進んだ。情報科学では神経回路網(ニューラルネットワーク)の理論が生まれた。今や、脳の働きは人工知能(AI)に代行されようとしている。ところが、心は未解明ではないか?

 

 著者によれば、新実存主義の「心」観は単純ではない。「『心』という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしない」と考えるのだ。意識がある、警戒する、知性がある……といった「心的語彙」は、人間の「特異なあり方」を説明する語群にほかならない。「特異」とは「物理法則が支配する無生物」とも「生物学的パラメータによって突き動かされる動物」とも違うことを指している。

 

 これでは埒が明かないな、と戸惑っていると、著者は救いの手を伸ばしてくれる。「心的語彙には、それを取りまとめる不変の統一構造がある」として、「精神(ガイスト)」という用語を引っぱり出してくるのだ。それは「雑多で、多様な変化をみせる心的語彙の背景にある不変なものを説明する」。このあとに「精神は、長い歴史のなかで、人間と人間以外のものの区別をいろんなやり方で理解しようとしてきた」という記述にも出会う。

 

 ここで、「不変」という言葉に惑わされてはならない。著者によれば、精神が人間の行為の説明に一役買うとき、「歴史的に変転していく人間観」が参照されることがあるという。精神という枠組みは変わらないが、人間観は歴史軸のなかで変わるということだ。

 

 著者は、この視点に立って人間と自然界の事物(この本では「自然種」と呼ばれる)とを対比する。素粒子の世界にはフェルミオンと呼ばれる粒子群がある。それらは、粒子に具わるスピンという数値が1/2のような半整数になることで特徴づけられる。著者が指摘するのは、フェルミオンのスピンは「われわれの知識が正しいか誤っているかにかかわらず、現にある通りのもの」ということだ。自然種のありようは、人が誤認しても揺るがない。 

 

 この本の原題に「自然主義の失敗」とあるが、その「自然主義」は自然種還元論と読みかえてもよさそうだ。著者は、新実存主義が心と脳の問題に「正面から」向きあっていることを強調して、こう言う。「何千年ものあいだ志向的スタンスで記述されてきた現象、われわれが心のなかで起きるその経験を記録してきた現象が、自然のなかにその等価物を見つけることで、あますところなく理論的に統一できるなどと期待すべきではない」

 

 著者は、今日の「自然主義」の落とし穴も洗いだしている。それは、英国の医師レイモンド・タリスの論法にならって「ニューロン熱」と「ダーウィン炎」と称される。著者によれば、前者は「脳」または「神経回路」を「洗練した心的語彙に対応する自然種」とみることであり、後者は「人間のあらゆる行動」を「進化生物学や進化心理学」の立場から説明づけようとすることだ。これら二つは、互いに「関連する病気」であると位置づけている。

 

 新実存主義は旧来の実存主義の後、自然科学がたどった軌跡の難所を的確に見抜いている。それは、「ニューロン熱」をもたらした脳生理学と情報科学にとどまらない。分子生物学も視野に入ってくる。チンパンジーとヒトの違いがDNAレベルではごくわずかだという知見は「ダーウィン炎」と無縁ではない。著者がそうした人間観に対置するのが、人は歴史のなかで「志向的」という事実だ。僕たちは時間とともに変化する存在なのである。

 

 この本で著者は、心と脳をサイクリングと自転車になぞらえている。自転車はサイクリングにとって必要条件だ。だが、自転車とサイクリングは同じものとは言えず、そこに原因と結果の関係もない。「サイクリングは理論的、存在論的に自転車に還元できない」のだ。

 

 後段で著者は、旧来の実存主義から「人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決定するもの」という見方を引き継ぐことを明らかにしている。人は自分を変えるから人なのだ、そこが自然界の事物とは違うのだ――そう僕は理解した。

(執筆撮影・尾関章、通算517回、2020年3月27日公開)

 

《お知らせ》ちょっと休んで、新装開店します

 当欄は、私が新聞社に在籍中の2010年4月、記者ブログとして始めた「本読みナビ」を原点としています。以来、「文理悠々」(ブック・アサヒ・コム、2012年〜)、「本読み by chance」(個人ブログ、2014年〜)と看板をかえつつ、1週1冊のペースで読書の醍醐味を綴ってきました。今年4月、満10歳の誕生日を迎えることになります。

 さて、この機会に私は、当欄の大幅改装を決意しました。要点は、以下の二つ。

1)ブログの自前度を高める

2)ブログの自由度を高める

 1)については、新装ブログをWordPressで開設しようと考えています。これまではJUGEMのお世話になってきたのですが、これからはできる限り、自力で設計してゆくつもり。すでに着工していますが、ときにはコンピューター向けの人工言語世界にも踏み込まなくてはならないので、試行錯誤の連続です(「建設現場」の現況をご覧になりたい方は、こちらへ)。

 ということで、2〜3週の休業をお許しいただき、4月中の開店をめざします。

 2)については、再開時にその思いを語るつもり。

 これからも、ご愛読いただければ幸いです。

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

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『偶然世界』(フィリップ・K・ディック著、小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)

写真》テーブルの上の偶然

 カジノ誘致構想は、コロナ禍が勃発するまで経済再生の切り札扱いだった。これは「統合型リゾート(IR)」という訳がわからない名で呼ばれているが、皮を剥いでいけば中心に賭場がある。IRと言われて、カジノなしのリゾートを思い描く人はあまりいない。

 

 賭け事には、よほど強い吸引力があるのだろう。客全員の収支を足し合わせれば赤字になるはずだとわかっていても、賭場にやって来る人は後を絶たない。大損する客が多くても自分だけは違う、と思うのか。胴元が栄えれば地元も潤う。簡単な理屈である。

 

 もう一つ、賭けがらみでは最近、印象に残る言葉がある。ジャンボ宝くじのテレビコマーシャルで笑福亭鶴瓶が発するひとこと――「買わない、という選択肢はないやろう」だ。今昔の広告コピーを見渡しても、これほど強烈なメッセージはないように思う。買うしか選択の余地がないと断言しているのだから……。だが聞かされる側には、さほど抵抗感がない。宝くじがはずれて訴えを起こす人もたぶんいない。これも、賭けの魔力だろうか。

 

 私事を言えば、賭け事にはほとんど興味がない。若いころから、競馬、競輪、競艇のたぐいにハマったことはない。警察回りの記者だったころ、事件取材で競馬場に張りついたことはあったが、馬券を買う人たちの心理はついにわからなかった。馬は美しい。場内の開放感も高揚感も心地よい。なぜ、それだけで満足しないのか?――内心には、そんな思いがあった。とはいえ、世に競馬ブームが衰える気配はないから、僕は少数派なのだろう。

 

 話は飛ぶが、自分自身の原点に思いを馳せると、そこにも賭けがあったことに気づく。その物語は、父母の結婚に始まる。彼と彼女は戦後、見合いで結ばれた。言葉を換えれば、どちらにも不特定多数の候補がいたことになる。このうち、多数×多数の組み合わせのうち、たった一つが成立して、その結果、生を受けたのが僕というわけだ。人口に照らせば、当たりくじがめちゃくちゃ少ない宝くじで1等賞を引き当てたことに相当する。

 

 いやいや、もっとリアルに話そう。僕が生まれるにあたっては、もっとワイルドな賭けもあった。僕の源流の片方にある一匹の精子は膨大な数の仲間と競いあい、ついには逃げきって、もう一方の源流である卵子に飛び込んだのだ。その精子クンは、勝ち馬だった。それは、駿馬のように身体能力が高かったというだけではない。競争につきものの運不運が、すべてよい方向に転んだのだ。ここでも僕は、賭けに勝ったと言えるだろう。

 

 で、今週は『偶然世界』(フィリップ・K・ディック著、小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)。著者(1928〜1982)は、米国シカゴ生まれのSF作家。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などの作品で知られる。『偶然…』は1955年発表の長編第1作。原題は“Solar Lottery”。直訳すれば「太陽のくじ引き」か。邦訳は、早川書房が68年に『太陽クイズ』(ハヤカワ・SF・シリーズ)の書名で刊行、77年に改題、文庫化された。

 

 まずは、この小説の時代設定に注目しよう。最初の1行に「二二〇三年の五月初旬」とあるから、作品の執筆時点から見れば250年ほど先の未来だ。当然のことながら、世界の様相は、発表時の1955年とも現在の2020年ともまったく異なっている。

 

 地球には国というものがなお存在しているらしいが、その国際関係はもはや大問題でなくなっている。地球外にも「火星のワーク・キャンプ」など有人域があり、「九惑星連邦」という統治機構が生まれていた。最高権力者の職名は「クイズマスター」。クイズ番組の司会者というような意味がある。「執政庁」が置かれているのはバタビア。インドネシアの首都ジャカルタの旧名だ。太陽系の系都が、地球のアジアに置かれているのである。

 

 苦笑を禁じ得ないのは、バタビアを「インドネシア帝国の首府」としていること。1955年と言えば第2次大戦終結の10年後で、インドネシアはすでに独立しているが、それを「帝国」と呼ぶのはどうか。もっとも、同じ年にジャカルタ東方のバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開かれているから、第三世界の盟主というイメージが強まっていたのかもしれない。ただし、「バタビア」の名はオランダ領時代のものだから、チグハグではある。

 

 さて、「クイズマスター」という呼び名の謂れについては本文に解説がある。それは、壮大な世界経済史だ。人類の生産力は20世紀に過剰となり、しだいに購買力が追いつかなくなった。22世紀後半に広まったのが、余った商品をクイズの賞品として分配する方式だという。ここでクイズとは、くじ引きめいたものを指しているらしい。こうして、くじ引きの仕切り屋が最高権力者となり、ついにはその地位も、くじで決まるようになったのだ。

 

 この未来では、社会や経済のしくみが壊れただけではない。「人々は自然律に対する信を失った」。物事は因果律に従うという通念が消え、「偶然事象の連続」ばかりが見えてきた――その世界像は、20世紀前半に確立した量子力学が影響しているのかもしれない。

 

 この小説では、「ボトル」という装置がもたらす「出鱈目(ランダム)な権力転位」によって、クイズマスターが入れかわる。劇的な政権交代だ。残念なことに、本文には「ボトル」の詳述がない。もし、それが量子力学にもとづいているならば、原子の状態遷移のような現象が考えられる。ただ著者は、さほど物理学に踏み込んでいない。本人は、カジノに置かれたルーレット円盤のような素朴な機械を思い描いていたのかもしれない。

 

 こんな政治システムが、なぜ生まれたのか。その事情は、登場人物が語ってくれる。ただ、ストンと腑に落ちるほど明快ではないので、僕なりの解釈を織り込んで読み解いてみよう。背景にあるのは、第2次大戦後に広まった数学者ジョン・フォン・ノイマンらによるゲーム理論。そこでは、考えられる限りの最大損失を最小に抑えるという戦法がある。「ミニマックス」と呼ばれる。ここでものを言うのが、ランダムさなのだという。

 

 ランダムさには、戦略家の分析が通じない。クイズマスターが失脚後、刺客を送って政権を奪還しようとするとき、側近はこう助言する。「あなたがランダムに行動するなら、あなたの敵はあなたの行動を追跡することはできない」「あなた自身ですら次に何をするかわからない」。そのランダムさを制度化したのが、ボトル方式だ。これなら万人がゲームに参加できるし、結果にも納得しやすい。「合理的なやり方」になりうるという。

 

 250年後の未来にはもう一つ、ランダムさが威力を発揮する理由がある。それは、内心の透明性だ。前クイズマスターが側近の助言を聞いて「われわれは計画をたてることができない」と不満を漏らすと、側近は冷たく突き放す。「ティープにかこまれていて計画なんぞたてられますか?」。ここで「ティープ」とは、他人の心を覗ける人のこと。核戦争の放射線被害による遺伝子変異で、そういう能力をもつ人々が出現したというのである。

 

 この小説の筋書きは、ひとことで言えば未来の権力争奪戦なのだが、そこでは権力者が優位にある。執政庁の「テレパス機関」がティープ軍団を擁して守ってくれるからだ。実際、新クイズマスターがバタビアに着任しようとするとき、機関の幹部が前クイズマスターの移動先を告げ、「きっとあそこから采配をふるうでしょう。彼の計画の一部はすでにキャッチしました」と伝える。ティープたちは、いつも感覚を研ぎ澄ましている。

 

 もっとも、それに対抗する先端技術もこの作品には登場する。前クイズマスターが政権転覆のために用意した刺客ロボットだ。外見は一人の人間の姿をしているが、頭脳のほうは次々と入れ代われる。そうすることで、ティープの追跡を撒く強みがあるのだ。

 

 幸いにも今、ティープ軍団は存在しない。だが、類似の機能が社会に備わりつつある。温泉へ行こうかと検索エンジンに地名を打てば、旅心が察知され、ホテルの広告が続々と画面に現れる。そうかと思えば、ソーシャルメディアを内心の吐露装置のように使って、胸中を世に曝す人もいる。ディックは、そんな心が透明な世界が「出鱈目(ランダム)」になるだろうと見抜いていたのか。この小説は、ネット社会の行き着く先も暗示している。

(執筆撮影・尾関章、通算516回、2020年3月20日公開)

 

《お知らせ》ちょっと休んで、新装開店します

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 さて、この機会に私は、当欄の大幅改装を決意しました。要点は、以下の二つ。

1)ブログの自前度を高める

2)ブログの自由度を高める

 1)については、新装ブログをWordPressで開設しようと考えています。これまではjugemのお世話になってきたのですが、これからはできる限り、自力で設計してゆくつもり。すでに着工していますが、コンピューター向けの人工言語まで用いなければならないので、試行錯誤の連続です。

 ということで、2〜3週の休業をお許しいただき、4月中の開店をめざします。

 2)については、再開時にその思いを語るつもり。

 次週金曜日は、「本読み by chance」としての最終回。

 ちょっと早めに、お知らせしました。

 

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『眼』(水上勉著、光文社文庫・水上勉ミステリーセレクション/長編推理小説)

写真》

 先日、当欄のまくらで触れたように、僕の新聞記者としての出発点は北陸福井だった。20代後半の4年間、福井支局員だったのである。(当欄2020年2月21日付「60年代東京の喧騒、地方の豊饒」、同28日付「四季の巡りも農の営みも能舞台」)

 

 2年間の警察回りや郡部回りを終えて、3年目からは一応、経済担当になった。「一応」としたのには理由がある。実態としては「なんでも屋」――業界用語では「遊軍」――だったのだが、経済関係の記者会見があるときは、それを優先させたのである。

 

 当時、福井県の地場産業と言えば、なんと言っても「糸へん」だった。繊維である。県内には有力な産地がいくつかあり、そこに織物工場が集まっていた。関連業種として染色加工などの企業も育ち、地元経済界に一つの生態系が生まれていたと言ってよい。

 

 そんなこともあって、地元の経済記者向けに報道発表する場として、県都に専門の記者クラブが置かれていた。福井市の中心街、大名町交差点に「繊協ビル」という建物があり、その一室がクラブにあてがわれていたのだ。そこには地元企業や業界団体のプレスリリースも届けられていたから、僕は日に一度はのぞくようにしていた。忘れがたいのは、よく居合わせた業界紙の記者だ。たぶん、50歳前後。地味な背広を着た温厚な紳士だった。

 

 記者会見では丁寧な言葉遣いで質問をして、自分を偉そうに見せたりしない。あのころの年長記者にはクセのある人も少なくなかったから、僕は敬意を抱いた。だからクラブで二人だけになると、いつもじっくり話を聴いたものだ。1979年の第2次石油ショックが産地に与える影響は?――そんなことを尋ねると、淀みなく業界の状況を解説してくれる。7月〜9月の四半期を「シチク」と呼ぶ経済用語なども、僕はそのときに覚えたのだ。

 

 いま悔やまれるのは、あの先輩からもっと多くのことを教えてもらっておけばよかったということだ。彼は年齢からみて、繊維産地の戦後をずっと見つづけてきた人なのだと思う。それは、どんな時代だったのか。1940〜50年代を想像してみよう。まだ、白物家電は広まっていなかった。自動車もマイカーとしては普及していなかった。半導体産業も集積回路の時代に入っていない。糸へんこそが、産業界の花だったのではないか。

 

 で、今週は、『眼』(水上勉著、光文社文庫・水上勉ミステリーセレクション/長編推理小説)。1960年前後の繊維業界を舞台にした作品だ。著者(1919〜2004)は1961年に『雁の寺』で直木賞を受けた人気作家で、その作品群は推理小説の枠に収まらないが、初期には「社会派推理作家」と呼ばれていた(巻末解題・細谷正充執筆)。この作品はそのころ、60〜61年に経済誌『評』に連載された『蒼い渦』を土台にしている。

 

 どんな事情で改題されたのか。説明は著者本人の「あとがき」にある。「連載時に考えていたことが変わってきていて、さらにああしてみたい、こうしてみたいという欲が出てきた」。それで『蒼い渦』250枚を「書き直し」、380枚を「追加」して「長編小説として完成させた」のだ。そうさせたのは「自分の文学への愛情」だったと顧みている。完成版は1962年にカッパ・ノベルス(光文社)として刊行され、2007年に文庫化された。

 

 著者は、繊維業界と因縁が深い。巻末解題によれば、1953〜54年に「繊維経済研究所に勤め、『月刊繊維』の編集に携わり」「友人と東京服飾新聞社を興した」。ここで「繊維経済研究所」は、繊研新聞社の前身(正式名称は財団法人日本繊維経済研究所)らしい。著者の出身地は若狭で、同じ福井県内でも繊維産業が盛んな越前ではないが、親近感はあったのだろう。ちなみに、前述の温厚紳士も繊研新聞の記者だったように記憶する。

 

 ではまず、本文の冒頭から。「国電秋葉原駅に近い神田岩本町は繊維業者の多い街で、軒なみに生地問屋や洋服問屋が並んでいる。両国(りょうごく)と岩本町を結ぶ都電通りは、近ごろになっていくつもビルが建てられた」。東京・下町の問屋街には路面電車が走り、沿道にコンクリート建築が並びはじめていた――終戦から10年余の風景だ。岩本町界隈は1945年の大空襲で被災しているから、焼け野原の痕跡が消えたころではなかったか。

 

 こんな描写もある。「灰色の空の光が、向かい側のビルの化粧煉瓦(れんが)をねずみ色にかげらせている。石畳をがたがたと音たてて満員電車が走る。架線でときどき青いスパークが起こる」。東京の空はどんよりと曇っていた、都電の線路は石畳に敷かれていた、電車が通ると架線に青い光が飛ぶこともあった――僕らの世代にとっては記憶の深層に眠っていることばかりだ。そんな街の婦人服問屋「ローヤル商会」で、この小説は始まる。

 

 ローヤル商会のありようはおもしろい。店には「番頭」がいる。だが、番頭が仕えるのは「社長」だ。社長はビル2階の社長室で「専務」と密談したりする。ただ、専務は「名ばかり」で個室すら与えられていない。畳の間の商いが似合う旦那―番頭―手代―丁稚系統と、応接室の商談がふさわしい社長―役員―社員系統が混在している。これが高度成長期の直前、繊維産業の川下(かわしも)部門であるアパレル流通業の偽らざる実態だった。

 

 この作品は、ローヤル商会が標的の取り込み詐欺事件と茨城県牛久町(現・牛久市)で発覚した殺人事件の謎解きを同時並行で描いている。捜査の一線に立つのは、警視庁の知能犯担当刑事と茨城県警の強行犯担当刑事。二人は畑違いで思考様式を異にするので、互いに牽制しながらの協力だ。その推理の展開こそが読みどころだが、ネタばらしになるので言及を控える。取り込み詐欺事件の構図を切りだすことで、当時の業界事情に迫ってみよう。

 

 事件の背景にあるのは、問屋にのしかかる在庫の重荷だ。ローヤル商会でも、専務にとって悩みのタネは「ストックの山」。きょうも大手百貨店から返品がどっと届き、地下倉庫へ。ストックは3000着だったが、それが4000着超に膨らむかもしれない――。

 

 著者は、さすが業界に通じた人だ。ここで、当時のストック対処法を解説してくれる。「既製品のストックはシーズンちゅうにさばいてしまわなければ、二束三文になってしまうことが多い」。そのまま安売りすれば銘柄の信用を傷つけるので、余力があれば倉庫に寝かせる。翌シーズン初め、新しい流行が定まるよりも早く一気に吐き出す手があるからだ。だが、「消費者というものはムラ気」だから、この目論見がうまくいくかはわからない。

 

 そんな窮状にあるローヤル商会に飛び込んできたのが、詐欺グループだ。最初に接触してきたのは、30歳前後の男。応対した社長が専務に明かしたところでは、男は雑品の販売会社に勤めているが、取引先が婦人服類を求めているので調達できないか、という話だった。社長にとっては、願ってもない申し出である。ただ、タイミングが良すぎる。まるで地下倉庫の「ストックの山」を見てきたかのような来訪。会社の内情が漏れていたのか。

 

 その答えは、専務が刑事にしっかり教えてくれている。百貨店では、コーナーごとに「同一会社の製品」が置かれていて、「そこに立っている売り子はデパートの制服を着てはいますけど、じつは問屋からさし向けた女の子なのです」。見る人が見れば、どこの問屋の勢力が強いか、一目瞭然だというのだ。そして「一挙に返品になれば、その女の子の姿は消えてしまいます」。たしかに、これならば店内偵察で問屋の在庫状況を推察できる。

 

 こうして詐欺グループはストックを手に入れ、手形は不渡りとなって、関係者は姿をくらます。商会ブランドの商品は、池袋の露店でたたき売りされていた。被害額900万円なり。いかにも1960年前後の犯罪に見えるが、ドンデン返しもあるから要注意。

 

 この小説で見えてくるのは、モノをモノとして売っていた時代の消費経済だ。今ならば、在庫を管理するにも売れ筋を察知するにもコンピューターが使われるが、それがない。ネット広告、ネット通販など夢のまた夢。モノに情報が紐づけられていなかった。

 

 生存の条件、衣食住の衣――繊維産業はあのころまだ、その供給源にとどまっていた。

(執筆撮影・尾関章、通算515回、2020年3月13日公開)

 

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『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)

写真》社会面の一角(朝日新聞2020年3月3日夕刊、同月4日朝刊)

 新聞の四コマ漫画は、不思議な存在だ。紙面の一角を占めていても報道ではない。作者の想像の産物だとしても芸術作品とは違う。これは、いったい何者なのか?

 

 一つには、「ほんわか」ということがあっただろう。四コマ漫画が載っているのは、たいてい社会面だ。世相を映すページで、事件事故を扱うことが多い。悲惨な話、げんなりする話がずらりと並ぶ日もある。一つぐらい、ほっとする話題がほしいではないか。

 

 もう一つは、「チクリ」。作者の風刺精神が問われるからだ。ただそれは、別のページに出てくる政治漫画とは趣が異なる。権力者の言動を皮肉って笑い飛ばすわけではない。市井の人々が自身の暮らしぶりを振り返って、自嘲気味に苦笑する雰囲気がある。

 

 「ほんわか」「チクリ」という大人びた役割があるからだろうか、四コマ漫画には、マンガだから子どもに受ける、という通念が成り立たないように思う。それは、幼年期を思い返してもわかる。当時、わが家では読売新聞をとっていたのだが、どんな漫画が載っていたかは思いだせない。小学校高学年のころ、朝日新聞に乗り換え、「サザエさん」(長谷川町子)や「クリちゃん」(根本進)を知ったが、それでも毎日読むことはなかった。

 

 四コマ漫画に馴染んだのは、むしろ、サラリーマンものの「フジ三太郎」(サトウサンペイ)からだ。1965年に朝日新聞夕刊で連載が始まり、79年に朝刊へ移り、91年まで続いた。開始時点で僕は中学生。会社の上下関係とはどんなものか、帰りがけの一杯は何のためにあるか、など知る由もなかったが、だからこそ興味を抱いた。さらに三太郎には、今ならアウトなほどエッチな一面があって、大人たちの本心をのぞき見た気もしたのだ。

 

 こうみてくると、四コマ漫画は新聞の必須品目であることがわかる。それは、記者の報道活動がすくいそこなった事実を「報道」しているのだ。サザエさんのような家庭人が日々体験していること、フジ三太郎のような勤め人が日々痛感していること――それらは、事件事故にはならない世相そのものだ。虚構の小話だからこそ切りだせる日常生活の実相を、読者は紙面の片隅で目の当たりにできるのだ。架空ゆえの真実が、そこにはある。

 

 で、今週は『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)。朝日新聞出版は、今年が著者の生誕100年にあたることから、シリーズ単行本の全68巻(姉妹社刊)を復刊することになった。この巻は、その第1弾として出された3冊のうちの1冊である。

 

 ここではまず、「サザエさん」の歴史を振り返っておこう。起点は1946(昭和21)年4月22日。連載は、朝日新聞ではなく九州・福岡の地方紙「夕刊フクニチ」で始まった。48年、東京の夕刊紙「新夕刊」に移り、49年には朝日新聞へ。最初は夕刊掲載だったが、51年〜74年、朝刊に連載された。第1巻所収の漫画はフクニチ時代のもの。46年4〜8月掲載分から選んでいる。並べ方は概ね時系列だが、必ずしも日付順ではない。

 

 特筆すべきは、これらの作品群の大半が終戦から1年未満のものということだ。とりあげられる話題には、引き揚げ、食糧不足、占領軍……と終戦直後ならではの物事が多く含まれる。当時、人々の心には苦い記憶が淀んでいたはずだが、作風はどこまでも明るい。

 

 あの戦争は、日本人だけでも内外で数百万人の生命を奪った。著者は終戦時に25歳。東京住まいだったが、戦時中、家族とともに福岡に疎開していた。その福岡も空襲に見舞われている。本人は西日本新聞社の編集局に勤めていたというから、戦禍の深刻さも知っていたはずだ。だが、サザエさんたちは大らかで、茶目っ気すらある。これは脚色ばかりではなさそうだ。人々がたくましく生き抜くには、そんな心のもちようが不可欠だったのだろう。

 

 第1回は、磯野家のご挨拶。母フネを真ん中にワカメとカツオがいる。フネが「サザエ!」と呼ぶと、ふすまの向こうから「ハーイ」と声がして、サザエさんが登場。湯気を立てた食べ物を手に、頬っぺたを膨らませて、もぐもぐ。オチは「どうも あんなふうでこまります」というフネのひと言。食べ物は焼き芋か、ふかし芋か。(新聞掲載では、せりふを原則としてカタカナ書きにしていたらしいが、この本ではひらがな主体に改められている)

 

 サザエさんのいでたちは、シンプルな洋装。長袖薄手のセーターに黒のベスト、スカートは黒の膝丈で裾先がチューリップ状に広がっている。ここで「黒」としたのは、絵がモノクロだからで、焦げ茶かもしれないし、濃紺かもしれない。なかなか、モダンではないか。そう、磯野家は驚くほど現代風なのだ。読み進むと、サザエさんが父波平のことを「ウチのパパ」と言ったり、母フネに向かって「ママ」と呼んだりする場面もある。

 

 ワカメとカツオが、俄か洋画ファンになる作品もある。「あたし タイロンパーワーすき」(ワカメ、原文のママ)、「ダービン 二どめのけっこんだってネ」(カツオ)。タイロン・パワーはアクション男優、ディアナ・ダービンは女優兼歌手だ。フネが困り顔でサザエさんの部屋をのぞくと、華やかな映画雑誌が散らばっている。終戦から1年を待たずして、日本の若者にはハリウッドへのあこがれが強まっていた。「鬼畜米英」の影はもはやない。

 

 サザエさんが街の書店で英会話本の看板を見かけ、さっそく買い求めるという作品もある。家に帰るのも待ちきれず歩き読みしていると、馬の頭とゴッツン。まだ、馬が荷車を引いていたのだ。彼女は、その最初の遭遇者に対して、さっそく「アイアムソーリー」。

 

 「戦後」を痛感させる作品も多い。まずは食糧難。サザエさんが「ひとつ めあたらしいだいよう食でもつくろかな」と、台所のラジオをつける。料理講座なのか、スピーカーからは「つぎに おいものきりくずやニボシのくずをいれます……」の声。言われるままに調理して糠を加え、攪拌して、さあ代用食のできあがりかと思うと「ただいまは ニワトリのえさについてもうしあげました」。食生活の水準が飼料並みだった現実がうかがえる。

 

 当時は、外地の人々が続々と帰郷していた。満州(現・中国東北部)からの引き揚げ家族を励ます会だろうか、サザエさんは接待係で、大荷物の夫婦とその子らの相手をしている。女の子が父親らしい人物にしがみついて「カアチャン」。連れの母親らしい人物が「きけんだったので だんそうしてきました」と説明する。引き揚げに身の危険はつきものだった。この話にはオチもある。母親もどきも実は父親の女装。「ボクは ようふくがないので」

 

 作品には、進駐軍も登場する。ワカメが買い物かごを提げて歩いていて「ねーちゃん パン一つおとした」。通りには「パン配給所」の看板を掲げた店。パンも配給制だったのだ。サザエさんは「よーく さがしてごらんよ」。二人がうつむいて地面を見回していると、1台のトラックが疾風のごとく走り抜ける。幌付きで、荷台の側面に「U..A」(原文のママ)。軍用車だ。路面にはパンがピザ生地のように広がり、そのうえにタイヤ痕がくっきり。

 

 米兵が顔を出すことも。どういういきさつかはわからないが、父波平が米兵と思しき男性を連れて帰宅する。客人ということだ。サザエさんは、庭先で二人が並んだ記念写真を撮った。その紙焼きを見て波平は驚く。長身の男性がにっこりほほ笑んでいる。だが、自分の姿は頭のてっぺんだけではないか。なるほど。ただこの作品からも、戦後日本社会がついこの間までの「敵」に対してさほど悪感情を抱いていなかったらしいことが見てとれる。

 

 戦後民主主義が市井にどう立ち現れたのかも、登場人物が教えてくれる。サザエさんが友だちと連れだって外出の途中、道に迷うという作品。友だちが交番の警察官に行き方を尋ねると、「かどをまがって四けんめです」。ここでは、「です」の2文字が重要らしい。「おまわりさんも民主化したわネ なんでもていねいにおしえてくれるワ」。戦前戦中を生き抜いたサザエさん世代には、巡査と言えば「おい、こら」という固定観念があったのだろう。

 

 サザエさんには歴史書からは切りだせない戦後がある。それは、平凡ゆえに力強い。

*引用した台詞には、読みやすいように本文にない半角アキを入れた。

(執筆撮影・尾関章、通算514回、2020年3月6日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》山形の米

 当欄前回のまくらで書いた福井の思い出を、今週ももう一度。先週は、記者2年生のころを振り返って「朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている」と書いた。だが、あとで気になったことがある。あれは、福井本来の風景だったのか――。

 

 1970年代の後半、僕がいた新聞社の福井支局では、新人が1年目の警察回りを終えると郡部担当になるしきたりだった。県内数カ所にはベテランの駐在記者がいるから、県域すべてを回るわけではない。県都・福井市周辺の町村を受けもたされたのだ。主な取材先は福井市北方の坂井郡。港町の三国、城下町の丸岡、温泉町の芦原など個性豊かな6町が肩を寄せあっていた。今は平成の大合併で、坂井市とあわら市に集約されてしまったが……。

 

 郡の真ん中には坂井平野が広がっている。僕が青々とした水田に心躍らせたのは、そこを走り抜けていたときだ。ジープは風通しが良いので、田んぼの水を撫でた風が運転席にも吹き込んでくる。都会育ちの青年は、これこそが農村なのだと思ってしまった。

 

 だがこれが、北陸農村部の原風景だとは到底言えない。僕がよく通った道は通称「嶺北縦貫道」。文字通り、まっすぐ延びていた。道路計画の詳しいいきさつは知らないが、マイカー時代の到来を受けて整備されたものであることは間違いない。今回、ネット検索で福井県文書館のウェブサイトに入ると、「嶺北縦貫道路(工事)」という写真が館に保存されているようだ。日付は「昭和47..16」。1972年。高度成長が極まったころである。

 

 そうだ。あの道は、もともとはなかったのだ。農村には、在所と呼ばれる集落が散らばっていた。それに寄り添うように鎮守の森もあった。人々は街道を行き交うか、畦道をとぼとぼ歩くだけだった。クルマで通り抜けてゆく闖入者などいなかったのだ。ところが、その原風景を縦貫道が貫いた。周りには福井空港。そして、半導体工場。まるで都会派のユーミン(荒井〈松任谷〉由実)が歌う「中央フリーウェイ」のように……。

 

 農村は変わった。高度成長によって変わったのだ。だから僕は、それ以前の農村を知らない。この一点は、忘れてはいけないと思う。今回、『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)を読んで、そう自戒した。この本に描かれた農村は、高度成長のために出稼ぎの人々を大都会に送りだしているが、村のありようは昔のまま。変容寸前だったのだ。だから、貴重な証言となっている。で、今週も、この同じ本を読む。

 

 1964〜65年に見たものが風前の灯火だったことは、著者も心得ている。たとえば、稲刈り後の田んぼを描いたくだり。「稲におが、人の立姿のように、何十本と田に整然と並んでいるさまは、この世で人の営みが作り上げた最も美しい光景の一つではなかろうか」と讃えて、こう続ける。「黒川のこの浄土のような風景は、十年も経たないうちにまったく消えてしまった」。ここで「稲にお」とは、刈った稲を円錐状に積み重ねたものをいう。

 

 代わって見えてきたのは「農地の基盤整備で一枚一反という田が格子状に広がる風景」だ。「スーパー農道が三本も出来、大型の農業機械が入る。ハーヴェスタが音を立てて唸り声を上げると、黄金の稲はたちまち刈り取られ、同時に稲籾の脱穀もされる」。田んぼが規格化され、収穫作業の一切をやってのける農業機械コンバインド・ハーヴェスタ(コンバイン)が広まったのだ。これを読んで僕は、縦貫道沿いののっぺりとした景色を思いだした。

 

 日本では、あのころから農村に中核農家を育て、一戸当たりの耕地面積をふやして農業の生産効率を高めようという方向性が強まっていた。それは「農地の基盤整備」や「大型の農業機械」に象徴される。その裏返しで昔ながらの農村文化が追い払われようとしていた。

 

 では、前週の予告通り、この本が紡ぎだす黒川村の四季を追いかけていこう。「王祇祭が終わった。さあ、日常の暮らしに戻らねばならない」で始まる一節に出てくるのは、雪の話だ。急を要するのは、家屋の雪下ろし。男たちが屋根の雪を「掘るように」搔きだし、投げ落とす。たちまち、家は雪の山に囲まれるから、それを越えられるように階段を刻む。ときには、高くなった山を切り崩して、その雪を用水路へ流すこともあった。

 

 それが済むと、もう農業の営みが始まる。雪に覆われた田んぼに「いくつもの真っ黒な小山」が出現する。「見ると、男たちが二人掛かりで何かを運んでいる」。橇に積まれているのは、村人たちが丹精込めてつくった堆肥だった。材料は、牛小屋や馬小屋に敷かれた藁。そこには牛馬の糞がしみ込んでいる。さらに落ち葉、生ごみ、米糠、そして下肥。その調合に自然界の循環がしっかり組み込まれている。エコロジーの原型である。

 

 そして三月、雪解けを待っていたかのように、村は婚礼の季節を迎える。背景には「春の農作業が始まる前に、この大事(おおごと)をすませたい」という農村ならではの事情があり、新婦を迎える側の家族には「春先からの農事の働き手が一日でも早く来るのがいい」という思惑もあった。結婚は、農の営みに根ざしていたのである。だが、そこにも時代の波は押し寄せる。「この頃、農村ではヨメ不足が問題になり出していた」と著者は記す。

 

 五月には田植え。「一軒の田植が終わると、明日はつぎの一軒に移る。大勢が集まって楽しいのが田植の結である。昼飯も小昼(コビル)もみんなで畦に坐って食べる」。ここで改めて教えられるのは、農作業には共同体が進める事業という一面があったことだ。ところが数年たつと、この光景は見られなくなる。田植えも草取りも機械を使った一人仕事となり、作業をてきぱき済ませると「また東京へ出稼ぎに戻る」人たちが出てきたという。

 

 夏はお盆。その一節では、意外なことに成人式会場の情景が描かれる。黒川村では、1月、即ち旧暦の年の瀬は王祇祭の支度で忙しい。どこの家族も「男たちの紋付や袴の心配はしても娘の晴れ着など思い浮かびもしない」。そこで、東京の工場などに就職した若者たちが盆休みの里帰りで戻ってくる機会に成人式が開かれるようになったのだ。なにごとも、まず王祇祭ありきで物事が決まっていく。風土に根ざした歳時記が、ここにはある。

 

 そして、いよいよ秋祭り。これは、字(あざ)ごとにそれぞれの氏神を祀る神社で次々開かれてゆくという。ここで著者がもちだすのが、「内場(うちば)」だ。近隣に住む10戸足らずの小さな共同体、血縁ではなく地縁の集団を指す言葉らしい。秋祭りでは、この内場が結束を強める。これこそが、新春の王祇祭を支える土台になる。王祇を迎え入れる家、即ち当屋は、内場の仲間たちの支援があるからこそ大役を果たせるのだ。

 

 黒川村では、季節が王祇祭、即ち黒川能を中心に回っている。同じことは、村人の人生についても言えそうだ。前回の当欄では、この本の記述から、子どもたちが能舞台で元気に足踏みする姿や、年長者が夜通し朗々と謡いあげる様子を切りだした。黒川能に、それぞれの年齢層に割り当てられた役回りがあることを伝えたかったからだ。著者が、この村には「年代ごとにつねに場があり、役割がある」と書くとき、それは能にとどまらない。

 

 黒川村では、家庭を営むこと、生計を立てること、地域に貢献すること――それらのすべてで、若者には若者の、壮年には壮年の、年寄りには年寄りの役目が期待されている。その構図が凝縮されているという一点で、黒川能はただの伝統芸能ではないのである。

 

 最後に、この本はIT(情報技術)世代にこそ読んでほしい、と僕は思う。ネットワーク技術は世の中をひと色に染める力があるので、地域の伝承を一掃しそうな気がする。だが、情報の流れを逆転させたらどうか。まず、伝承を蘇らせる。その一部始終をネットで発信する。さながら、著者船曳由美さんのように……。そこに立ち現れるのは、いくつもの文化が並び立つ世界だ。ITがあるのに、ネットがあるのに、今の僕たちは貧しすぎる。

(執筆撮影・尾関章、通算513回、2020年2月28日公開)

 

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『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》庄内風? 手前は地元産あさつき

 あの夕暮れは生涯忘れられない。1977年4月、新聞社に入って、初任地福井の土を踏む直前のことだ。特急列車が、福井市内を流れる足羽川を渡るころ、西空の陽光が斜めに車内へ射し込んだ。オレンジ色だが、どこか哀愁を帯びている。僕は心細かった。

 

 25歳。生まれてからずっと東京暮らしだった。入社試験の面接では、そこを突いてくる質問もあった。「入って数年は地方勤務だよ。やっていけるかなあ」。とりあえずは「その覚悟です」と答えたものの、そこで問答が打ち切られたので受かるまいと思った。ところが予想に反して、採用通知が届いたのだ。本当は「やっていけるかなあ」と脅えていたのは、だれよりも自分自身だった……。だから、北陸の薄暮がひときわ寂しく感じられたのだ。

 

 だが、それも一晩で吹っ飛んだ。翌朝からは警察回りの取材が始まって、慌ただしさのなかで心細さは雲散霧消した。それどころか、むしろ「地方」に心が躍るようになる。それを強く自覚したのは、2年目に郡部担当になったころだ。朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている。繊維工場からは織機の音が聞こえてくる。港町がある。城下町がある。温泉町も、門前町も。日々、東京にないものの発見つづきだった。

 

 とりわけ心惹かれたのは、九頭竜川河口の三国町(現・坂井市)。江戸時代、北前船の寄港地として栄えた歴史があるが、今はカニ漁や甘エビ漁などの水揚げ基地になっている。砂浜沿いにはラッキョウやスイカを栽培する農家があった。丘陵地では酪農も営まれていた。小さな町なのに多彩な顔がある。僕は20代半ばにして、大都市にはない小都市の魅力を知ったのである。(当欄2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)

 

 で、今週の1冊は『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)。山形県庄内の黒川村(現・鶴岡市)に伝わる黒川能に光を当て、1964〜65年に現地に赴いて、その一部始終を活写したノンフィクション。著者は集英社の編集者として海外小説の大作を発刊してきたことで知られるが、その前は、平凡社の雑誌『太陽』編集部に在籍していた。この本は当時の取材の記憶を核にして、近年の状況も盛り込んでいる。

 

 最初にことわっておくと、著者は僕にとって近隣の人だ。存じあげる限り、少女時代からこの町におられた。どの町かは個人情報にわたるので書かないが、東京のふつうの住宅街。この本からも、東京っ子が目の当たりにした農村文化の迫力が伝わってくる。

 

 著者の横顔を、もう少し紹介しておこう。本書に綴られた個人史によれば、東京大学3年生のとき、1960年の安保闘争に遭遇する。「あれは西洋史の講義であったか、階段教室に先生が現れると、後からひらり、と小鳥のように一人の女子学生が入ってきた」。その人こそが、まもなく国会周辺の反安保抗議行動で犠牲となる樺美智子さんだった。彼女はデモへの参加を呼びかけ、岸信介内閣の打倒を訴えて教室を後にしたという。

 

 記述からは、著者も当時、反安保を掲げる進歩派に共感を覚えていたことがうかがえるが、興味のありかがちょっと違った。ゼミの指導教授とのやりとりで、今読んでいる本の話になったとき、同級生の多くはマルクスやマックス・ウェーバーらの名を挙げたが、著者は『ものいわぬ農民』(大牟羅良著、岩波新書、1958年刊)を挙げた。大牟羅が行商のかたわら、岩手の山あいで農業に勤しむ人々から囲炉裏端で聞いた話を集めた本である。

 

 東京っ子なのに、なぜ農村なのか。理由の一つに「世田谷の多摩川に近い郊外」で生まれたことが挙げられている。同郷の僕にはピンとくる。そのころ、東京・世田谷は畑が広がっていた。都心部から見れば近郷近在。東京には「まち」と「むら」が共存していたのだ。著者は、その「むら」に愛着があったのだろう。そして、「むら」が東京から消えつつあった時代、その原型を列島の津々浦々に求めたのが雑誌『太陽』だった。

 

 世の中が1964年の東京オリンピックを前に沸いていたころ、『太陽』初代編集長の谷川健一は「日本列島に息づいて暮らしている人間の実像に迫ることが、なによりも大事」を口癖にしていたという。著者は、それに応えるように企画を練る。五輪景気で東京には出稼ぎの男たちがあふれている。東北の村は年寄りと妻子だけが残されているはずだ。だが、ときに男たちも帰郷して「村をあげて」盛りあがる行事があるのではないか――。

 

 著者は、山形の詩人、真壁仁の作品を通じて黒川村の王祇祭、即ち黒川能の魅力を知る。これは2月初め、地元春日神社のご神体として「王祇様」を村内の民家に迎え入れ、旧暦新春の到来を祝う催しだ。1964年晩秋から、なんども現地に赴くことになった。

 

 その夜行列車の情景がいい。二等寝台に乗り合わせた上段の客は大荷物。風呂敷からクマのぬいぐるみや金髪のフランス人形がのぞく。おそらく、東京土産なのだろう。ラクダのシャツ姿になり、「東京では一日中、土の中にもぐっていてよー」。地下鉄の工事現場で働いているらしい。清酒の1合瓶を開けて、ちびりちびりとやりだした。秋田県の象潟に帰省するというが、黒川村にも祭りのころ、同じような男たちが集まって来るのだろう。

 

 ではいよいよ、著者の現地体験。ヤマ場の一つは、1965年2月1日夜から2日未明にかけ、神の宿となった民家2軒――当屋という――で演じられる能と狂言にある。ただ、あいにく僕は能楽の知識が乏しい。細部に踏み込まず、空気感だけをお伝えしよう。

 

 なんと言っても、この祭りは黒川村というトポスと切り離せない。5歳前後の稚児が唱える寿詞(よごと)には「東に月山高くさん」「南にてふてふつらなって」「西に青龍寺ががんとして」「北に鳥海まんまんと」とある。ここで、青龍寺の所在地は金峯山。わが村こそは四方の山に守られた「神の嘉(よみ)する地」という郷土礼讃だ。見渡せば山々に囲まれ、冬になれば雪に閉ざされる村だからこそ、これほど濃密な祭事が育ったのだろう。

 

 稚児たちが舞台上で足拍子を「タンタタタン」と踏んだり、腰に差した太刀を扇で打ち鳴らしながら駆けまわったり、という場面もある。ここで著者は、「二軒の当屋の舞台から稚児の足踏みが波紋のように広がって、黒川の大地にその霊力は届いた」「深い雪に埋もれた大地にいま眠っている種子や草木の芽は、その音で目覚め、春を村にもたらすのだ」と書く。子らの健やかさは、新年を雪深い里で迎える人々の春への期待感を体現している。

 

 ただ、そんな子どもたちも間違いなく、高度成長期の少年少女たちだった。当屋を訪れた小学生の男の子に母親が小言をいう。「ダメだぁ、帽子取らねば」。だが、その子は野球帽を脱がない。「いいでねえか、だだちゃの東京からのみやげかぁ、巨人(ジャイアンツ)だのう」と声がかかる。別の箇所では、赤い手袋をはずさない女の子の姿も。だだちゃ(父親)が上野発の夜行で運んでくる「東京」が、子ども心を魅了していたことがわかる。

 

 年寄りの存在感も大きい。壮年期は舞台で主役(シテ)を務めていた世代が今は長老となって地謡座に並び、「肩衣を着け背筋を張って坐し、声朗々と明け方まで謡いあげていく」。中座あり、交代ありではあるらしいが、8人が「十時間近く全曲を謡い通し」というのだから敬服する。その一方で、謡いのかたわら、ワキ座にいる子らの足のしびれを気づかう様子の描写には思わず微笑んだ。孫世代の世話も決して忘れていないのだ。

 

 老若男女が入り交じって盛りあがるのが、王祇祭に先だって当屋で繰り広げられる豆腐炙り。祭り当日にふるまう豆腐料理の下拵えだ。当屋の火炉を村人20〜30人が囲み、串に刺した豆腐を炉の縁に立てて炙る。これは、男女の出会いの場でもあるらしい。「夕暮れ近く、風の如く一人の女性が入ってきた」。ちょっと目礼して炉端へ。「サッと男が一人追いかけてきて隣りに坐ると、しきりに話しかける」……。美しくも切ない場面である。

 

 東京の喧騒の陰で「地方」にはこんな豊かな世界があった。それは、五輪のように突然、誘致されたものではない。来る年も来る年も繰り返され、受け継がれてゆく暮らしとともにある。著者は後段で、その春夏秋冬も描いている。ということで、次回もまたこの本を。

(執筆撮影・尾関章、通算512回、2020年2月21日公開)

 

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『野村克也、明智光秀を語る』(野村克也著、プレジデント社)

写真》月見草逝く、1面トップでなく……(朝日新聞2月12日付朝刊)

 ノムラ逝く――。プロ野球人野村克也さんの訃報である。享年84。世間的には「ノムラ」ではなく「ノムさん」かもしれない。名伯楽にしてボヤキの名人、知性派にして情にも厚い指導者。そんな監督としての姿を覚えている人が大半だからだ。だが、僕は違う。拙稿表題にあるように1960年代、南海ホークス(現・ソフトバンク・ホークス)の四番打者であり、超一級の捕手だったころのことが忘れられないのだ。(以下、敬称略)

 

 野村克也という選手を知ったころ、僕はまだ小学生だった。東京の子どもたちは、圧倒的多数が巨人ファン。覚えている限りで言えば、僕の学級の半数、即ち30人近い男子児童のうち巨人以外を応援しているのは、たった3人だった。西鉄ライオンズが1人、東映フライヤーズが1人、そして南海が1人。その南海ファンが、ほかならぬ僕だったのだ。ちなみにあのころ、プロ野球好きを表明している女子は一人もいなかった、と思う。

 

 1960年代、テレビ各局はプロ野球中継にしのぎを削っていた。セ・リーグ中心でナイター(ナイトゲーム)が多かったが、ときに薄暮ゲームも生中継された。子ども心がときめいたのは、その美しさだ。真夏、夕暮れ、大阪球場の照明塔に灯がともる。後攻ホークスに好機が訪れ、野村が打席につく。丸顔の頭部を覆うヘルメットに照明の光がはね返り、きらめいている。なにかが起こりそうだ!――あの期待感は、今も僕の胸のうちにある。

 

 野村と言えば「月見草」。1975年、本塁打通算600本を達成したときのことだ。巨人のON砲を「ひまわり」にたとえ、自らを「人目に触れないところで咲く月見草」と形容した。南海ファンが1学級に1人という僕の原体験は、その比喩の的確さを物語る。

 

 そうだ、僕は筋金入りの月見草ファンだったのだ。だから、今回は予定を変更して、速報で野村本をとりあげる。かつて当欄の前身では『あ〜ぁ、楽天イーグルス』(野村克也著、角川oneテーマ21)を読んだことがある(文理悠々2013年9月30日付「マー君の陰にノムさんありという話」)。今度は、野球べったりでない本を選びたい。そう思って書店で見つけたのが、『野村克也、明智光秀を語る』(野村克也著、プレジデント社)である。

 

 刊行は、2019年12月24日。つい、ふた月ほど前のことではないか。世間では年明けから始まるNHK大河ドラマの影響で、明智光秀がブームになろうとしていた。このときを狙って「ノムさん」と光秀を結びつける本を出す。あざといと言えばあざとい。さすが、ビジネスパーソンの心、とりわけおじさんの心をわしづかみにするのに長けた版元だ。著者自身、この出版話をもちかけられたとき、「心底驚き、そして呆れた」と書いている。

 

 著者が「光秀なんて名前しか知らない」と応じると、プレジデント社の書籍編集部長は「知っている人間に明智光秀の話をさせますから、その話を聞きながら、その時々における光秀の心情を野村さんに語ってほしい」とたたみかけてきた、という。粘り腰だ。いや、ファウルで粘って狙い球を逃さないということか。ただ、この一文によって、本づくりの内幕が正直に明かされている。この本は、歴史通が楽屋裏にいて力を貸した一冊と言える。

 

 実際に本文は、光秀と著者それぞれの個人史が並行して進み、互いに絡みあうつくりになっている。ところどころに「俺のボヤキ」というひと言が挟まるのだが、これこそが著者の本音のように思われる。その一つに「光秀の話を聞いて、俺の思いを語っているけれど、かみ合っているかな?」とある。著者にも戸惑いがあったのだろう。実際、野村克也と明智光秀、この二人には似ているところもあるが、違うところがあり過ぎる。

 

 似ているのは、月見草ということか。たしかに、戦国絵巻の主役と言えば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。僕たちは当代著名人のキャラを比べるとき、この3人になぞらえる。だが、光秀の名は出てこない。これはまさに、王貞治、長嶋茂雄に対する野村の立ち位置だ。

 

 少年期、青年期の境遇も重なりあうところがある。光秀は美濃の武将の子として生まれるが、若くして郷里を追われ、越前の朝倉義景らに仕える。信長と出会うのは40歳の大台に乗ってから。苦労人だったことは間違いない。著者は、それと自らの生い立ちを重ねる。

 

 著者は1935(昭和10)年、京都府網野町(現・京丹後市)で生まれた。父は戦死、母や兄とともに暮らした。小学3年生のときから、新聞配達をして家計を助けたという。中学生時代に思いついたのが、歌手になって母の恩に報いること。音域を広げようと、放課後は浜に出た。「海に向かって大声を出し続け、本当に声が出なくなるくらいに叫んだ」。さながら、自主トレのようだ。野球部に入ったのは中3になってからだという。

 

 ここまでは、たしかに相通じる。だが、光秀が信長に登用されたころの心情を、自身がヤクルト・スワローズの監督に就任したころのそれとだぶらせる話には無理がある。光秀は、弱小球団を転々としてようやく人気球団にトレードされた選手という感じ。これに対し、著者は現役時代、すでに強豪チームの主砲であり、尊敬を集めていた。身が引き締まる思いだったことは共通していても、心の余裕は地と天ほどの差があっただろう。

 

 こうみてくると、著者と光秀を強引に対応させるのは賢明ではない。出版社の心理としては、既刊の著書群で披歴された野村イズムを別の角度から切りだそうとして光秀を引っ張ってきたのだろうが、その必要はない。野村イズムは二度三度聞いても鮮度が落ちない。

 

 僕がこの本で、さすが野村、と感銘を受けたのが「想像して、実践して、反省する」という言葉だ。なんの変哲もない人生訓のようにも見える。だが、これが「キャッチャーは一試合で三試合分の試合をしている」という著者の実感と結びつくと、輝きが増してくる。ここで「三試合」とは、プレーボール前の「想像野球」、試合中の「実践野球」、ゲームセット後の「反省野球」。想像と反省という知的作業が、実践の身体作業と不可分なのだ。

 

 捕手の仕事に即して言えば、試合前の「想像野球」で「相手打線の並びや打者のタイプを見極めて、どう攻めるか具体的に考える」。試合が終われば「一球一球の配球と結果を思い出し、反省野球をする」。これが、翌日の糧になるという。このくだりを読んで、ここにあるのは科学者の思考様式そのものではないか、と僕は思った。物事を観察して仮説を立てる、その当否を確かめるために実験する、その結果を分析して仮説を修正する――。

 

 大打者ならではの説得力ある言葉も、この本には出てくる。「野球とは、『間』のスポーツだ」というのである。投手の手を離れた球が捕手に届くまでの時間は1秒足らず。打者は、瞬時に「球を見極めて判断しなくてはならない」。だから、攻撃時のベンチは「休憩する場所」ではない。「準備をする場所」なのだ。打順を待つ間、マウンド上の投手がどんなときにどう投げるかをしっかり「観察」する――その時間を著者は「間」と呼んでいる。

 

 監督時代の話もある。1976年、南海の監督兼選手だったころ、移籍してまもない名投手江夏豊が肩の故障で苦しんでいた。本人も「もう先発完投は無理だ」と打ち明けたという。そこで抑え役となるよう促すのだが、まだ「先発完投するピッチャーだけが評価された時代」だった。監督として言い渡した言葉は「お前、リリーフ分野で革命を起こしてみい」。江夏は承諾した。著者は、投手の分業が当たり前になる流れを見抜いていたのである。

 

 野村克也は、選手としても監督としても「考える人」だった。これは、明智光秀との共通点かもしれない。光秀は花を咲かせずに散ってしまったが、野村は見事に開花させた。月見草の美学を貫いて……。その人のファンでありつづけたことを僕は誇らしく思う。

(執筆撮影・尾関章、通算511回、2020年2月14日公開、同月15日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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●英紙ガーディアン社説(デジタル版、2020年1月31日現地時間23時00分)

写真》ついに出口

 2月1日午前8時、目覚めてすぐ、タブレット端末でBBCのウェブサイトを開くと、そこにはユニオンジャックのうねりがあった。ロンドン・ウェストミンスターの国会議事堂前広場。いつのまにか僕は、そのただならぬ熱気を去年11月に皇居前広場であった天皇即位祝賀式典のテレビ中継にダブらせていた。画面には「英国はEUを去った」の大きな字幕。「去った」がhas leftと現在完了となっているところが生々しい。

 

 We are no longer EU citizens.――「私たちはもはや、EU市民ではない」とBBCのキャスターが言う。その言葉には、広場で旗を振る離脱派市民の熱狂とは異なる響きがあった。哀愁か、落胆か、あるいは大変な未来が待っているという覚悟か。

 

 広場の光景を見ていて、気づいたことがある。はためいているのが、一つの旗ではないことだ。英国、即ち連合王国(the United Kingdom)の国旗ユニオンジャックに交ざって、白地に赤の十字のイングランド国旗がある。国のなかに国があるという入れ子のナショナリズム。実際、スコットランドではEU離脱を苦々しく思う人々が多数を占めている。旗の混在は英国の多様性の証しではあるが、不安定な未来の兆しでもあるのだろう。

 

 もう一つ、あっそうか、と思ったことがある。離脱の瞬間が現地時間1月31日午後11時だったことだ。なぜ、2月1日午前零時ではないのか? だが、それは愚問だった。英国のEU離脱は、欧州連合(EU)本部があるベルギー・ブリュッセルの標準時で事が進んだのだ。考えてみれば、英国が1973年に欧州共同体(EC)に加わって以来、英国の人々は大陸の時刻を自国のそれに翻訳することにすっかり慣れてきたのである。

 

 で、今週は、英国がEUを去ったその日、英紙が掲げた社説をとりあげる。選んだのは、左派系の高級紙とされるガーディアン(The Guardian)。EU残留を主張してきた新聞だ。今回はデジタル版で読んだ。発信欄には、離脱その瞬間の時刻が記されている。

 

 その表題は、「英国のEU離脱に対するガーディアンの見解『なおも欧州の一部』」。本文冒頭には「我々は負けた。我々は抜け出た。厳しい言葉と寒々とした現実。英国は今、欧州連合を離れた。我々の旅立ちは、痛ましい国家の過ちであり、この新聞が一貫して反対を唱えてきたものである」。敗北宣言から入るのだから、辛い論説記事と言えよう。だがそれでも、EUからの離脱を「痛ましい国家の過ち」と言い切る姿勢を崩していない。

 

 負け惜しみめいた記述もある。国民のほぼ半数が離脱反対であること、たとえばスコットランド、北アイルランド、首都ロンドンでは反対が過半数であることや、若者の多くが反対していることを強調しているのだ。そして、反対派の人々も賛成派と同様、愛国心に満ちている、と書き添える。だが、国民投票と総選挙の結果がEU離脱を決定づけたことは動かしがたいので、「我々は負けた。我々は抜け出た」と繰り返している。

 

 次いで表明されるのが「英国はなおも欧州の一部」という認識だ。「晴れた日には、南の海辺からフランスが見える」「アイルランド共和国は、北アイルランドのあちこちから短いドライブでたどり着ける」「私たちの頭上には、同じ一つの空が生みだす同じ風が吹いている」。そして、英国にとって大陸欧州は人の往来がもっとも頻繁な地域であり、EUは最大の貿易相手であること。英国の安全保障は大陸欧州のそれに根ざしていること。

 

 こうした結びつきは、英国のEU離脱によって変わるのか。ガーディアン紙は、変わらないとみる。それは地理、歴史、気候、文化、商工業などにとどまらない。「言語の違いや国境を超えた共通の人間感情の膨大な蓄積もまた、そのまま残るに違いない」と断言する。

 

 ここで心動かされるのは、結びつきの一例に歴史認識を挙げていることだ。この1月にポーランドで、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の解放75周年を記念する追悼式典が開かれたことを受けて、「あのストーリーは欧州のストーリーであり、英国のストーリーでもある」と言い切る。戦争犯罪を戦時に敵味方に分かれた双方が語り継ぐ――それが敵対感情ではなく共通感情を生むまでになったということが示唆されている。

 

 ガーディアン紙は、こうした英国とEU、あるいは英国と大陸欧州との関係の深さを踏まえて、感極まったようにこう書く。「私たちは外に抜け出たのかもしれない。だが、どこかへ行こうとしているのではない。私たちは今もここにいる。私たちは欧州人なのだ」

 

 もう一つ印象深いのは、ガーディアン紙が自国の立ち位置を冷静に見抜いていることだ。そのくだりは、こう説きおこされる。「英国は重要な国だ。しかし、地球規模の大国ではない。ドナルド・トランプと習近平の時代に世界を動かす力は、英国にあてがわれていないのだ。それは、協力と連携と強制力のある法に委ねられている」。かつて大英帝国と呼ばれた国に、自国第一主義とは真逆の国際協調主義がしっかり根づいているのである。

 

 この社説は、世界がいま直面している課題を列挙する。気候変動、移民問題、サイバー犯罪、IT大手のデータ収集、テロリズム、民族主義の強まり。どの一つをとっても、一国だけで対処できる問題ではない。ガーディアン紙は、これらの解決策を探るとき、ジョンソン氏(ボリス・ジョンソン首相)は頼りにならないとの見方を示す。英国の現政権には、国際社会の「協力と連携と強制力のある法」に対する熱意が感じられないのだろう。

 

 英国が大陸欧州との間で、あるいは世界全体を相手に、なんの制約もない競争にさらされたら、どうなるのか。一匹狼になるしかない。「そんな英国には物事を混乱させる力はあっても、それを制御して方向づける力はない」。この社説は悲観的な展望を隠さない。

 

 終盤では、EUに対しても注文をつける。「背伸びする」「お節介をやく」「ひと色に染まる」――そういう方向をめざしてはいけない、というのだ。ここで示される「より良きEU」像は、加盟国が実際的な見地に立ち、妥協しあうことで成り立つ連合体である。これに続けて「そんなEUに、英国はたぶんいつの日か再加盟するだろう」と書く。これは、希望的観測ではある。直後に「その日は、すぐには来ないだろう」と認めているのだから……。

 

 そして最後は、ガーディアン紙自身の残留宣言。「私たちは、欧州の報道機関だ。欧州は、私たちの背後に広がっている。それは、私たちの心の内にあり、私たちのDNAの中にある」。結びは、Long live Britain. Long live Europe.「英国万歳、欧州万歳」である。

 

 情緒的な社説だ。文中、国際協調主義のくだりには論理があるが、全編を覆うのは欧州愛だ。1990年代の数年間を英国で暮らした者の実感で言えば、英国人はそんなに大陸欧州が好きだったっけ?――とイヤみの一つも言いたくなる。だが、この10年ほどで英国も欧州も変わったのだろう。欧州の全域で、EU懐疑の気運が自国第一主義とポピュリズムに後押しされて高まれば高まるほど、欧州愛を自覚する人もまたふえてきたのではないか。

 

 そんなことをふと思ったのも、英国離脱を前に欧州議会の議員たちが手をつないでスコットランド民謡「蛍の光」を唄う光景をネットで見たからだ。ここにはビートルズで育ち、対抗文化を共有した世代がいる。エコロジーに目覚め、環境保護運動を引っぱってきた世代もいる。同時代人だからこその「共通の人間感情」が、今は海峡を挟んで島国と大陸に根を張っているのだ。英国がEUから抜けても、英国の人々は欧州から抜けられない。

(執筆撮影・尾関章、通算510回、2020年2月7日公開)

 

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『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)

写真》シベリア

 お役所仕事のずさんさが次々に露呈しているが、あまりに多岐にわたるので目立たないものもある。第2次大戦後、抑留先のシベリアで亡くなった人の遺骨情報の「放置」が、その一つだ。だがこれは、死者の尊厳にかかわる話なので見過ごせない。

 

 この一件は昨夏、NHKの特報で発覚した。その後の朝日新聞の報道によると、厚生労働省の事業で1999年〜2014年にシベリアから引きとられた遺骨のうち、約600人分が日本人のものでないらしいとわかった。これを厚労省は公表しなかったという。

 

 ここで、遺骨が日本人のものかどうかを見極めたのはDNA型鑑定だ。厚労省の派遣団は、埋葬地の調査で日本人の遺骨とされたものを持ち帰った。昔なら、それでひとまず事業は完了したはずだ。もちろん、判定に対して懐疑的な見方は出たかもしれないが、決め手がないので、うやむやに終わっただろう。ところが今は、物証が手に入る。専門家が人骨に残るDNAを調べて、疑義を唱えたのだ。この結果を無視してよいわけはない。

 

 DNA型鑑定は1980年代に登場した。この技術は、血液型だけでは父親がわからない、犯人を絞れない、という近代小説の決まり事を吹っ飛ばした。それが今回は、埋葬記録のいい加減さをあばいたのだ。だが、そのことでシベリア抑留の霧はますます深まった。

 

 シベリア抑留とは何か。厚労省ウェブサイトにある公式データを見ておこう。シベリア抑留とは、戦争直後、旧満州(中国東北部)や樺太(ロシア・サハリン)、千島地域にいた旧日本軍人など57万5000人を、旧ソ連がシベリア地方やモンゴル国内に「強制抑留」したことを指す。うち約5万5000人が抑留中に亡くなったという。被抑留者の総数は鳥取県1県の人口に匹敵する。しかも、その1割ほどが生命を落としたことになる。

 

 戦後しばらく日本社会では、家族が、親類が、友人が海を隔てた極寒の異郷にいて、その生死すらわからないという状態がふつうにあったのだ。しかも厚労省サイトによれば、70余年後の今も、彼の地で死去したのは誰かという情報が確定されていない。

 

 そうでなくとも、僕たち戦後世代はシベリア抑留についてほとんど知らない。私事を言えば身内にも体験者がいたのだが、抑留期の思い出を聞いた記憶がまったくない。さぞ辛かったのだろう、尊厳を傷つけられることもあったに違いないと推察して、こちらもあえて聞きだそうとはしなかった。おそらく同様の家庭は津々浦々に多いはずで、その分の個人史が封印されている。こうして、民衆の戦後史に大きな穴がぽっかり開いてしまったのだ。

 

 で、今週は推理小説『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)。終戦直後のシベリア抑留地と今日の日本社会が、それぞれで起こった殺人事件の謎解きでつながってくる、という筋立てだ。著者は1961年生まれ。塾講師、出版社勤務、コピーライターなどの職歴を経て、2000年代にミステリー作家となる。06年、この作品によって江戸川乱歩賞を受けた。それが同年、講談社から単行本として刊行され、09年に文庫化された。

 

 題名の「ダモイ」は、「帰郷」「帰国」を意味するロシア語。シベリアの被抑留者たちはきっと望郷の念を募らせて、この外国語を真っ先に覚えたのだろう。彼らの帰還後、日本国内でも一時期、流行ったらしいが、1951(昭和26)年生まれの僕には記憶がない。

 

 作品のプロローグは、1947年11月、イルクーツク州タイシェトの第53俘虜収容所の話。ちなみに巻末のことわり書きによれば、この収容所は架空のものだという。本文は、鴻山隼人中尉のつぶやきで始まる。「寒波(マロース)だ、マロースが来る。明日はマイナス四十度を下回るかもしれん」。零下40度より寒ければ、作業は中止との決まりがある。だが、中尉は「帝国軍人の誇りを忘れるな」「ノルマに負けるな」と発破をかける。

 

 ここで浮かびあがってくるのは、被抑留者集団の複雑さだ。指示系統の頂点にソ連当局が君臨していることは間違いない。だが日本軍の階級はそのまま残っていて、それが指示系統の補完装置のように働いている。とはいえ、そこにも牽制が入る。「ソ連側は、抑留者たちに共産主義を植えつけるため、軍国主義をやめさせようと民主化教育を激化させていった」。集団内には、民主運動の活動家となった元日本兵がいて「アクティブ」と呼ばれていた。

 

 こうしたなかで、鴻山中尉の殺害事件が起こる。零下47度の朝、高津耕介二等兵が凍土の氷――融かして水にするのだ――を調達するために外へ出ていたとき、首を切り落とされた死体が見つかったのだ。高津は斧をもっていたので疑われたが、血がついていないので容疑はすぐに晴れた。「鋭利な刃物だ。日本(ヤポン)のカタナのような」と、収容所の医師ニコライが言う。そこには、マリア・アリョーヒナという看護婦の姿もあった。

 

 つづく第一章では、時代が一転、2005年に飛ぶ。ここで登場するのは、東京の出版社員、槙野英治。新幹線経由で山陰本線に乗り、京都府北部の綾部に向かっているところだ。勤め先は、自費出版本の刊行が専門。その依頼人が綾部に住んでいるのだった。氏名年齢は、高津耕介76歳。そう、あの高津二等兵だ。槙野が綾部駅で降り、たどり着いた家は川沿いの雑木林の中。丸太づくりで土間があるだけ、という質素な住まいだった。

 

 出版したいのは、シベリア抑留をテーマとする句集だという。奇妙なのは、高津が本の体裁などにはまったく無関心で、「宣伝に力を注いで欲しい」とだけ条件をつけてきたこと。新聞広告は写真入りの大きな扱いで、と強く求めた。そうしてくれれば出版代金と合わせて500万円支払うが、ダメなら依頼そのものを撤回する、という。「売れなくてもいいんだ」「私が句集を出したことを知らせたい」――そこはかとなく、訳あり感が漂う。

 

 この小説では、同じ京都府北部の舞鶴で事件が起こる。かつて収容所の看護婦だったマリアが扼殺されたのだ。83歳。埠頭で海から引きあげられたのだが、下着のなかに旧日本軍人の軍用時計を隠していた。旅の付き添いをしていたのは、東京の医師鴻山秀樹。鴻山中尉の孫だ。高津も事件が報道された後、舞鶴署を訪れ、遺体を見て慟哭している。そして秀樹も高津も行方不明となった。マリア殺害は58年前の中尉殺害につながっているらしい。

 

 これより先は筋を追わない。作品のところどころに織り込まれた高津原稿から、被抑留者の思いをすくいあげてみよう。そこには、句集と言っても散文がたっぷり綴られている。

 

 まずは、抑留の始まり。「戦地で終戦を迎えた我々は二ヵ月後、何も知らずに満州から貨車に詰め込まれていた」。日本の兵士たちの間には、これはダモイなのか、という期待もあったらしい。一人の兵士が停車中、小用を足しているふりをして夜空を見あげる。星の位置からみて、行く手は北らしいと知り、こう叫ぶ。「ダモイではない、シベリアに向かっている」。このときの一句。「椋鳥やいづこへ帰る夜半の月」(ルビは省く、以下の引用も)

 

 高津にとって、収容所では医務室だけがやすらぎの場だった。看護婦が優しかったのだ。関東軍時代の誤爆事故で体内に陶器片が残っていたので、土木作業で穴を掘っていて、首のあたりに痛みを覚えたことがある。医師の処方は湿布薬くらい。それも不足していて交換できないことがあったが、マリアは「追い返そうともせず」「一撮みの砂糖をくれることさえあった」。その甘さに故郷のつるし柿を思いだす。「手のひらの甘き白砂柿の色」

 

 1947年暮れ、高津たちもついにダモイを果たす。「無事乗船してからも多くの人間が姿を消したり、亡くなったりしていた」。船内には「兵士たちが将校に報復した」とか「アクティブが制裁の機会を狙っている」とか、噂話が飛び交った。一方に、軍国主義の残滓。もう一方に、歪んだ「民主主義」の工作。二つの抑圧を経験した人々の心には、舞鶴港への引き揚げを前にして、疑心暗鬼が渦巻いていた。「甲板で心に秘する舞鶴草」

 

 俳句は、17文字に幾つもの思いを重ねられる。だから、そこに真情を潜ませることもできる。それが抑留の闇を照らす灯となり、ミステリーの謎を解く鍵にもなっている。

(執筆撮影・尾関章、通算509回、2020年1月31日公開)

 

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『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)

写真》新聞――紙とデジタル

 思えば、青臭い日々だった。新聞社在籍時代のことだ。若いころは仲間同士、とんがった議論に明け暮れた。年長になってからは、社内で会議漬けに。日本社会では会議が上意下達の場になっていることが多いが、そこはやせても枯れても言論機関である。ブレインストーミング風に思いつきをぶつけ合い、あたかも学園祭を前にした学生たちのように盛りあがる機会も少なくなかった。紙面企画を練る会議などが、これに当たる。

 

 考えてみれば、新聞づくりという仕事はぜいたくの極みだ。来る日も来る日も、真っ白な紙が幾枚も与えられる。それを好きなように埋めていけ、という。ここでものを言うのは、新聞づくりの動力学。一方には、列島の隅々、世界のあちこちに散って情報を集めてくるボトムアップの流れがある。もう一方には、集まった情報を取捨選択してこれはというものを強調するトップダウンの制御がある。アップとダウンがぶつかり合うのが会議である。

 

 僕の記憶をもとに、新聞社内で日課となっている紙面設計の会議を並べてみよう。朝一番には、夕刊づくりのために各部の出稿責任者(デスク)が集まる。昔は、フロアに立ったまま手短に済ませたので「立ちあい」と呼んだものだ。朝刊に向けては、夕方から夜半にかけて複数回、デスク会を開く。こちらは時間をかけて議論する。デスクは自分の部が出そうとする原稿を、説得力をもって売り込まなくてはならない。口八丁がものを言うのだ。

 

 で今週は、『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)というイタリア小説。イタリア語の「ヌメロ」は英語の「ナンバー」、したがって書名は「ゼロ号」と訳せる。出版業界では雑誌を創刊するときに見本版の「準備号」を用意することがあり、それを「ゼロ号」と呼ぶ。この小説は、新聞の「ゼロ号」をつくるためにかき集められた記者たちが織りなす物語。とめどなく続く議論が元新聞記者の僕には懐かしい。

 

 著者は、イタリアの小説家。作品群には、『薔薇の名前』『フーコーの振り子』など話題作が多い。哲学、記号論などの学究でもあった。本書カバーの著者略歴欄には、「現代を代表する碩学」とある。1932年生まれ、2016年没。本作『ヌメロ…』は、原著が15年に出た。著者にとっては、80歳を超えて世に問うた最後の長編小説だ。邦訳は16年、単行本として河出書房新社から刊行され、加筆修正されて18年に文庫本となった。

 

 この作品で、記者たちが新聞のゼロ号づくりに奔走するのは1992年4月から6月まで。新聞を新たに創刊しようという話を小説の題材にするには、ギリギリ最後の時代だったように思う。インターネットが広まったのは95年ごろ。その直前だから、紙のメディアは先行き不透明になっていた。当時すでに新聞のデジタル化は予想されていた。だが、その先にソーシャルメディア全盛の世が控えていることを予感していた人はほとんどいない。

 

 1990年前後は、別の面でも新聞が転換点にあった。新聞批判が世論になるという現象は以前からあったが、その議論が成熟してくる。事実の捻じ曲げ、プライバシーの侵害、取材倫理からの逸脱……いくつもの難点が指摘され、批判する側から批判される側に回るという逆転が起こる。記者にとっては厳しい時代の始まりだった。この作品は、新聞づくりの曲がり角に照準を合わせ、その時点に立ち返って想像をめぐらせているのだ。

 

 作品の主人公コロンナは50歳。大学を中退して町から町へ移り住み、「ものを書き散らしてなんとかやってきた」。書いていたのは、地方紙に載る劇評など。出版社の仕事で百科事典の校正や持ち込み原稿の下読みをしていたこともある。結婚経験はあるが、妻から「二年ほどで愛想をつかされた」。要するに、ぱっとしないジャーナリスト。そして「いつの日か本を書いて、富と栄光を手に入れること」を夢に思い描くようになっていた。

 

 冒頭の章の日付は6月6日。「今朝は蛇口から水が出なかった」と書きだされる。断水ではない。アパートの自室で、流し台の下の止水栓が閉まっていたのだ。コロンナは、夜中に不審な出入りがあったと疑う。この猜疑こそが、全編の伏線となっている。

 

 そして、第2章は2カ月前にさかのぼって、以後、最終第18章まで時系列に物語が展開される。それは、コロンナがミラノで、シメイという人物――雑誌編集長の経験があるらしい――から仕事の打診を受けるところから始まる。シメイは「出ることのない日刊紙の準備にかけた一年間を語る本」を執筆してほしい、と頼んでくる。よく聞くと、あくまでもゴーストライターとして、という条件付きだ。表向きの著者はシメイ自身だという。

 

 おもしろいのは、その日刊紙『ドマーニ(明日)』には出資元があり、創刊話がまったくの絵空事ではないことだ。ただシメイは、結局は発刊できまい、と踏んでいる。「新聞が頓挫(とんざ)したら、本を出版する」。そのためにも、ゼロ号をつくろうというわけだ。

 

 翌日、記者6人が集められる。芸能界の「熱々の仲」を記事にしてきたマイア・フレジア、「スキャンダル暴露」専門のロマーノ・ブラッガドーチョ。ほかに、事件事故の取材に駆けまわってきた記者、クイズ・パズル誌の経験者、新聞社の元組版主任、そして出版関係の仕事をしていたというが、どことなく胡散臭い人物。多彩と言えば多彩、ただ、チームプレーは難しそうな陣容だ。コロンナには、出稿管理をする「デスク」の役割があてがわれた。

 

 この筋立てが絶妙だ。コロンナたちは紙面をどうするかで議論を重ねるのだが、それは現実の報道ではない。出るか出ないかもわからない新聞のゼロ号。試作だから、実際の記者活動に比べて制約が少ない。「いつの日付にしてもいい」ので、日々の事件に追い立てられることもない。過去の大事件を振り返って、あのとき自分ならこんなふうに報じただろうと大見えを切ることもできる。こうして編集部は、言いたい放題の活況を呈する。

 

 実際、部内の議論には新聞を出す側の思惑が表出している。シメイは「ニュースが新聞をつくるのではなく、新聞がニュースをつくる」と言って、持論を展開する。いくつかの記事に共通点を見いだして、それらを1カ所に集め、大見出しを打ったとしよう。読者は、個々の出来事に関心が薄くても「ひとつにまとめると、どうしても目を止めてしまう」。これこそが編集の妙味というわけか。それは同時に、危うさでもあるのだが……。

 

 用語をめぐる議論もある。ブラッガドーチョが、ある記事の「モスクワの怒り」という表現にかみついて「陳腐に響かないか?」と切りだした。これに対して、コロンナは「読者はまさにそういう表現を待ち望んでいるんだよ」と反論する。例示される常套句は「真っ向から対立」「冬の時代」「これからが正念場」「もはや待ったなし」「土俵際に立たされる」……イタリア語でどう言うのだろう? いずこの新聞も同じだと、僕は苦笑する。

 

 自由な立場にいることを満喫しているように見えるのは、ブラッガドーチョだ。コロンナを酒場に連れだし、「新聞は嘘(うそ)をつく。歴史家も嘘をつく。そして今、テレビも嘘をつく」とまくし立てる。「アメリカ人はほんとうに月に行ったのか」「湾岸戦争はほんとうに起こったのか」。真実は「疑うこと」で得られると説いて、科学を例に挙げる。それにコロンナが同意すると、今度は「科学だって嘘をつく」と卓袱台をひっくり返す。

 

 物語はしだいに、ブラッガドーチョの取材報告に焦点が当てられていく。彼が記事にしようとしているのは、イタリア戦後史の裏読みと言ってよい。ファシスト残党、カトリック教会、極左勢力の動向に冷戦期の東西対立が絡まって、さまざまな出来事が陰謀論に結びつけられていく。読んでいると、もっともらしく聞こえてくるから不思議だ。これは真実なのか、それとも懐疑を旨とするジャーナリストが懐疑の末に行き着いた妄想なのか。

 

 どんな結末が待ち受けているかについては触れない。ただ、そこにフレジアが見てとるジャーナリズムの落とし穴のことは言っておこう。謀を暴露しようとすると、その暴露そのものが謀と疑われてしまう、という皮肉な現実だ。ネット時代なら、なおさらだろう。

 

 碩学エーコは、新聞「冬の時代」の「土俵際」を見事に予言して逝ったのだった。

(執筆撮影・尾関章、通算508回、2020年1月24日公開、同月29日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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