『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)

写真》「緑」

 「環境」という言葉が今のような意味合いで使われるようになったのは、そんなに遠い昔ではない。半世紀ほどにしかならないのではないか。ふと思いだすのが、小学生のころの床屋体験だ。椅子に座ると目の前に大きな鏡がある。その周りに目を転じると、壁の掲示に「環境衛生」の文字があった――そう、理髪業は東京都環境衛生協会会員の主要業種だ。「環境」の2文字は、理髪店の店内から子どもの意識に入り込んできたのである。

 

 ちなみに東京都環境衛生協会の公式サイトを開くと、協会は1954年に生まれた。「加入会員の業種」に挙げられているのは、理容のほか美容、クリーニング、公衆浴場、ホテルなど。ここで読みとれるのは、どれも衛生管理が求められるが、飲食店ではないということだ。食べもの、飲みものは特別扱いなのだろう。現に東京には食品衛生で同様の団体がある。裏を返せば、「環境」は特別なものを除く身の回りの一切を指していたことになる。

 

 語感が変わったのは、1960年代後半だ。日本列島のあちこちで、高度経済成長の副作用として公害が多発する。「環境保護」が反公害の訴えの一つとして口にされるようになった。1971年には、のちに環境省となる環境庁が設けられる。このころから、「環境」と言えば「自然環境」、すなわち山や川、海や空のことという受けとめ方が強まったように思う。そして今は、それを地球全体に広げてとらえるようになっている。

 

 環境保護の気運が反公害とともに高まった背後には、生態学すなわちエコロジーの思想があった。四大公害病の一つである水俣病では、工場から出る有害なメチル水銀がまず小さな海洋生物に摂取され、それがより大きな生物に次々食べられるうちに濃縮されていくという現象が起こっていた。食物連鎖による生体濃縮だ。その鎖の終着点が人間だった。人間もまた生態系(エコシステム)の一員であることがはっきりしたのである。

 

 「環境」はドイツ語で“umwelt”という。“welt”は「世界」であり、“um”には「周り」の意味があるので「環世界」とも訳される。当欄の前身でとりあげた『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート著、日高敏隆、羽田節子訳、岩波文庫)は、後者の訳語を採っている。この本には「動物はそれぞれの種ごとにそれぞれの『環世界』をもっている」という見方があった(文理悠々2010年6月3日付「日高敏隆『敬称は要らぬ』」)。

 

 これは、人間とほかの生物を対等に置くという点で今日のエコロジー思想に通じる。環世界は生物種ごとに違う。ただ、それらをかたちづくるものはたった一つの自然界の生態系だ。だから、人間の環世界は守ることは生物それぞれの環世界を守ることであり、即ち生態系を持続させることにほかならない。身の回りにあって種の存続を保障する最重要なものが自然ということだ。「環境」で「自然環境」を思うようになった流れもうなずける。

 

 で、今週の1冊は『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)。著者は、1962年に名著『沈黙の春』を著したことで知られる。『沈黙…』は、農薬などの化学物質が生態系を壊していくさまを事例やデータによってあぶり出した。ちょうど、第2次大戦後に戦勝国も敗戦国も工業化に突っ走っていたころのことだ。人類には経済成長とは次元の異なる価値があることを教えてくれる警告の書となった。

 

 著者は米国で1907年に生まれ、64年に没した。大学院で生物学を修めたが、そのまま大学に残って研究生活に入った人ではない。連邦政府の魚類野生生物局に専門官として勤め、かたわら海や海辺の生き物をめぐる著述活動を続けた。連想されるのは、都市問題の論客ジェイン・ジェイコブズだ(当欄2016年12月2日付「トランプに備えてJ・ジェイコブズ」)。ともに象牙の塔から離れ、自力で強いメッセージを発信した女性である。

 

 『センス…』は『沈黙…』とは異なり、社会派書籍の色彩が薄い。むしろ、人間の環世界を繊細な感覚で描きだした詩的作品と言うべきだろう。訳者あとがきによれば、1956年に雑誌へ寄稿した文章をもとにしており、題名は「あなたの子どもに驚異の目をみはらせよう」だった。著者は『沈黙…』刊行後、自らの死期が迫っていることを知って加筆をはじめ、それを仕遂げる前に生命が尽きたという。邦訳で本文40ページ足らずの小品だ。

 

 書きだしは「ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました」。舞台は、米東海岸メイン州にある著者の別荘周辺。それにしても、闇夜に雨風のなか幼子を抱いて海を見にいくのは危ない。だが、彼女は毅然として書く。「幼いロジャーにとっては、それが大洋の神(オケアノス)の感情のほとばしりにふれる最初の機会でした」。ここに、彼女の自然観がある。

 

 この本の中心にいるのは、幼年時代のロジャーだ。別荘に来ると、著者は森へ連れだした。なにかを教えようとしたのではない。「わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげる」。そうこうしている間に「彼の頭のなかに、これまでに見た動物や植物の名前がしっかりときざみこまれているのを知って驚いた」。たとえば「あっ、あれはレイチャルおばちゃんの好きなゴゼンタチバナだよ」というように。

 

 メインでは、とりわけ雨の日の森が美しいという。その描写は秀逸だ。「針葉樹の葉は銀色のさやをまとい、シダ類はまるで熱帯ジャングルのように青々と茂り、そのとがった一枚一枚の葉先からは水晶のようなしずくをしたたらせます」「カラシ色やアンズ色、深紅色などの不思議ないろどりをしたキノコのなかまが腐葉土の下から顔をだし、地衣類や苔類は、水を含んで生きかえり、鮮やかな緑色や銀色を取りもどします」

 

 別荘の窓には雨が打ちつけ、湾も霧に覆われている。「海に沈めてあるロブスターとりの籠(かご)を見まわる漁師やカモメの姿も見えず、リスさえも顔を見せてはくれません」。ここで気づくのは、漁師とカモメとリスが横並びにあることだ。著者は、人類も鳥類も齧歯類も一つに溶けあう世界を生きている。雨天も気にせず、「森へいってみましょう。キツネかシカが見られるかもしれないよ」。ロジャーとともに防水着をまとって出かけるのだ。

 

 著者によれば、子どもを連れての自然探検は「しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらく」という。それは視覚にとどまらない。嗅覚を例にとろう。早朝に家を出れば「別荘の煙突から流れてくる薪を燃やす煙の、目にしみるようなツンとくる透明なにおい」に出あう。引き潮の海岸に近づけば「いろいろなにおいが混じりあった海辺の空気」を吸うことができる。ここでも感じとれるのは、人の営みを自然界のそれと並べる世界観である。

 

 聴覚をめぐっては「風のないおだやかな十月の夜」のくだりが印象的だ。耳をそばだてれば、上方から「鋭いチッチッという音」「シュッシュッというすれ合うような音」が鳥の鳴き声に交ざって聞こえてくる。渡り鳥が仲間同士で交信しているのだという。著者は「彼らの長い旅路の孤独」に思いをめぐらせる。そして「自分の意志ではどうにもならない大きな力に支配され導かれている鳥たちに、たまらないいとおしさを感じます」と書く。

 

 この本は、大自然の讃歌に終わってはいない。都会人の生き方にもヒントを授けてくれる。「子どもといっしょに風の音をきく」のなら「森を吹き渡るごうごうという声」であっても「家のひさしや、アパートの角でヒューヒューという風のコーラス」であっても同じだ、と説く。町なかの公園で鳥の渡りを眺めても「季節の移ろい」を感じとれるし、窓辺の植木鉢を観察することでも「芽をだし成長していく植物の神秘」を見てとれる、という。

 

 あとがきによれば、ロジャーは「甥」ではなく実は「姪の息子」のようだ。著者を慕い、のちに母を亡くしてからは彼女のもとで育ったらしい。訳者が1980年に会ったときは音楽関係の仕事をしていたというが、この邦訳が出た96年時点の消息は「コンピュータ関連のビジネスマン」とある。今は60歳代なのだろう。自然と触れあう原体験が米国のIT社会を生きる人にどんな影響を与えたのか。本人にちょっと聞いてみたくなる。

 

 感覚を澄ませば、自分も生態系の一部とわかる。レイチェルはそう言い遺したのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算356回)

 

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『事件の年輪』(佐野洋著、文春文庫)

写真》65〜74歳(朝日新聞朝刊2017年1月6日)

 年明けにいきなり、「10年早いよ」と言われた。65〜74歳は高齢者ではなく准高齢者と呼ぼう、という日本老年学会と日本老年医学会の提言だ。新聞では1月6日に大きく報じられた。僕は去年、65歳になったばかりなので複雑な思いがある。この件で世に訴えたいことはWEBRONZAに書いた(2017年1月26日付「『准高齢者』が思う人生のワークライフバランス」、後段有料)。ここでは一歩退いて、老いの時間を考えてみたい。

 

 年をとると、時の進みが速くなる。これは、よく耳にする経験知だ。必ずしも年寄りの言いぐさとは言い切れない。若くても同じ感覚に囚われる人は少なくないだろう。僕自身も勤め人として数年単位の異動を繰り返していたころ、去りゆく職場を振り返って「あっという間だったなあ。小学生のころは1年があんなに長かったのに」という感慨に耽ったものだ。ただ、速くなったと感じる度合いが年齢を重ねるごとに強まっているようには思う。

 

 直近で言えば、その速さを暮れの年賀状書きで感じた。これは、その年の1月に届いた賀状の束をほどいて1枚1枚読み返しながら進めることになるので、そもそも心理面でタイムスリップしている。だから、添え書きや宛て名書きでペンを走らせていると「ついこのあいだも、こんなことをしていたなあ」と、前年同期の同一作業を思いだす。このとき、意識は春夏秋冬を飛び越えている。あたかも1年間、なにごともなかったかのように。

 

 ここで、準高齢の実感から一つの仮説が導かれる。人の記憶容量はパソコンのメモリーと同様に限られている。だから、記憶は忘却という削除や要約という圧縮によって整理される。その結果、生きてきた実時間が長くなるほど脳内時間は縮まっているのではないか。

 

 この仮説に立てば、高齢者の昔話好きも納得がいく。おじいさんやおばあさんの脳には長い時間幅の年表ができあがっていて、60〜70年前の記述も10〜20年前や1〜2カ月前のそれと同列に並んでいる。しかも、人は思いだしたいことを好んで思いだすので、いい思い出は想起の繰り返しで強まり、記憶の整理過程でも残存しやすい。だから、雑談となれば自慢話がこぼれ出る。この一点で老後の幸福は保証されているようにも見える。

 

 ところが、現実はそんなに甘くない。人は、ふつうにいやなことはどんどん忘れても、度外れていやなことは決して忘却できないということだ。だから、記憶の地層の底には、引っぱり出したくない出来事が眠っている。トラウマ――心的外傷の原因となる類いのものである。それらのあるものは、掘り起こされることなく墓場に持ち去られるかもしれない。だがときに何十年もたって突然頭をもたげ、意識の表面に這いだしてくるものもある。

 

 で、今週は『事件の年輪』(佐野洋著、文春文庫)という短編集。2001〜04年に雑誌に出たミステリー10編から成る。著者(1928〜2013)は心の綾を描くのが巧い。その一方で、新聞記者出身らしく社会性が漂う作品も多い。僕が好きな作家だ。当欄は2年前にも、短編集『墓苑とノーベル賞 岩中女史の生活記録』(佐野洋著、光文社文庫)を話題にした(2015年3月20日付「佐野洋アラウンド80のコージー感覚」)。

 

 二つの本には共通点がある。どちらもおもに、仕事や家事の繁忙期を過ぎた高年齢世代の話を扱っていることだ。『墓苑…』の短編群は主人公が同一人物の連作で、年配夫婦が暮らす住宅街の物語だ。殺人事件も例外的に出てくるが、なべて言えば、彼らが歳を重ねて手に入れた快い空間が舞台だった。これに対して『事件の…』には、封印された過去が老境の心理に顔をのぞかせる短編が収められている。そこには時間軸の苦さがある。

 

 僕が惹かれたのは「忘れ得ぬ人」。表題そのものに時間軸がある。D県でタクシー、ホテル、ゴルフ場などの事業を手広く展開する地場企業の会長内藤忠一に、フリーライターの「私」が地元雑誌の発注で取材する話だ。著名人に「忘れ得ぬ人」を語ってもらおうという企画。広報課は当初、難色を示した。「経済人としての抱負、展望」ならいいが「プライベートな問題」では、というわけだ。いかにもありそう。作者の記者経験が生きている。

 

 「とにかく会長に聞いて下さいよ」と粘ると翌日、承諾の返事が戻ってくる。取材の当日に「広報課長に従い、会長室におずおずと入った私」を、内藤は「人懐っこい笑顔で迎えてくれた」。トップに立つ者の高貴さ、ノブレス・オブリージュか。いやそうとばかりは言えない。「年寄りなので、話がくどくなるかもしれませんが」とことわって少年時代のことから切りだした。この人には自叙の物語ができあがっているんだな、と思わせる導入部だ。

 

 内藤の話が本題に近づいたのは戦後、旧制のD高商に入ったあたりからだ。下宿には自分のほかにも間借り人がいて、うち一人は「オンリーさん」だった。進駐軍の軍人に「囲われていた女性」である。「何とかという当時の有名女優のような感じ」だったという。その米軍将校は毎日のようにやって来る。下宿屋は、日本家屋の部屋を襖1枚で仕切るというようなつくりだったのだろう。彼らの情事の間は「外出して時間を潰していました」。

 

 ここまでくれば、忘れ難いのはそのオンリーさんかと思うだろう。だが、内藤はそれを否定する。続けて「これがまあ、ヤンキーゴーホーム事件の背景でして……」と、自身が若気の至りで起こした小事件に話題を転じる。ある日、D市の繁華街で酔って、米軍憲兵(MP)二人に「ヤンキーゴーホーム」のひと言を浴びせた。すると、その二人に取り押さえられて交番へ突きだされたという。「占領目的阻害行為処罰令」が適用されかねなかった。

 

 なぜ、反米の言辞を吐いたのか。内藤は、MPを見てオンリーさんを思いだしたからだと自己分析する。MPは体格がいい。あの将校も同様だ。「あんな大男に組み敷かれるのでは、彼女は大変だな……」。青春期の正義感と性的好奇心が入り交じった思いと言えようか。

 

 と、ここまで引っぱってようやく、内藤の回顧に「忘れ得ぬ人」が登場する。交番に現れた旧制高校生だ。英語が達者で、調停を買って出る。この青年は「ヤキゴメ」という名の友人を見かけて呼びとめただけ、それが「ヤンキーゴーホーム」に聞こえたのだ――そんな理屈でMPを言いくるめてくれた。その結果、この一件は大ごとにならずに済んだ。今の自分があるのもあの人のおかげと言って、彼を見つけてほしいと「私」に頼むのである。

 

 この先は詳述しない。ただ、「私」の調査は過去の断片を次々に掘りだしていく。それらをつなぎ合わせると、内藤にとっては都合の悪い筋書きも推察されてくる。忘れていたほうが無難なのに「忘れ得ぬ」――准高齢者や高齢者にはそんな昔もあるのかもしれない。

 

 この短編集には、科学報道に携わってきた者には見逃せない1編もある。「原爆を止めた男」。書きだしの話題は、まさに老いの心理。主人公の堀田75歳は電車に乗ったとき、席を譲られまいとする。そこで身につけた習慣は、本に読み耽っている人の前に立つことだ。この日も、それにぴったりの中年男を見つけて移動する。すると、その男が声をかけてくる。堀田が高校教師だったときの教え子だった。降車駅の駅ナカ喫茶店で旧交を温める。

 

 教え子は今、出版社勤め。学者からの頼まれごとで、古書店で古雑誌を買い入れた帰りだという。戦争直後に出た『真相』という「暴露雑誌」。堀田はそれを見せてもらって、目次に「原爆研究」「爆死の真相」の文言を見つける。「気のせいか、堀田の脈拍が早くなったようだ。そして、ある人物の顔が、はっきりと浮かんでいた」。記憶の底からなにかが立ち現れる瞬間は偶然に訪れる。そのことを電車、再会、古雑誌という流れで切りだしている。

 

 堀田の心の中では、戦後に聞いたある人物の告白をどう受けとめるべきかがずっと未解決だった。その霧を、たまたま手にした古雑誌の記事が払うという醍醐味。戦時の不確かな軍事情報にくっついた「尾ひれ」が思わぬ副産物をもたらしていた現実が見えてくる。

 

 佐野洋は戦後の混乱期、20歳前後の青年だった。もしかしたら自身にも痛みを伴う体験があって、その苦さを作中人物の記憶に投影させたのかもしれない。老境の圧縮された時間軸をトラウマ覚悟で掘り起こすのも、歴史からなにかを学ぶ一助にはなるだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算355回)

 

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『三枝博音と鎌倉アカデミア――学問と教育の理想を求めて』(前川清治著、中公新書)

写真》大学――ペンの力

 「見上げてごらん夜の星を」という歌がある。希望が胸の底から湧いてくるような旋律だ。1963年、坂本九が唄って広まった。のちに九ちゃんが空の事故で亡くなったことを思うと切ない歌でもある。作曲したのは、いずみたく。その人と一度だけ、僕は言葉を交わしたことがある。89年のことだ。いずみ(本名・今泉隆雄)は二院クラブ所属の参議院議員だった。その今泉議員に、科学記者として臓器移植のことで電話取材したのである。

 

 この年12月1日の参議院本会議では、臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)の設置法案が可決された。脳死移植を進めるかどうかで首相の諮問機関を設けることが決まったのだ。この問題は議員めいめいの死生観にもかかわる。政党が賛否を縛るのをやめようという動きもあったが、結局は、大半の会派が党議をまとめて賛成に回る。採決は起立方式。立たなかったのは一部の党、そして一部の人……その一人が今泉議員だった。

 

 僕は彼の不賛成を確認してその理由を問うため、議員会館に電話した。答えはもらえた。ただ、脳死や臓器移植に対する思いを聞きたいとの期待は外れる。記憶によれば「大勢になびくのは嫌い」というような話だったと思う。記者の力足らずもあって、その取材結果は紙面に生かせなかった。今、参議院公式サイトの記録をみても「可決された」とだけあり、賛否の人数すら残っていない。いずみの抵抗は、歴史の波間に隠されてしまった。

 

 脳死臨調は中身の濃い議論を重ね、答申時にも少数意見を併せて公表するなど画期的な有識者会議だった。だから、その設置法案に賛成しなかったことをもって英断と称えるつもりはない。むしろ僕が今でも感服するのは、付和雷同はいやだという反骨心だ。いずみは1930年生まれ。少年期は軍国主義の重圧下にあり、戦後一転、自由のすばらしさを知った世代だ。大政翼賛の構図がいやだったのだろう。その原点は、きっと青春期にある。

 

 いずみの母校は鎌倉アカデミア。僕はその存在を、いずみや放送作家兼司会者前田武彦(マエタケ)の出身校として知った。終戦直後の一時期、鎌倉の知識人が政府の定める大学の要件など気にもとめず、自律の精神で開いていたという学園だ。反骨心は、その校風によっても育まれたのだろう。文部科学官僚の組織的な私学天下りという報道に触れて真っ先に思い浮かんだのが、この学校だ。私学にあるはずの在野精神は今、どこへ消えたのか。

 

 そう思うと、この「大学」ならざる大学について書いた本を無性に読みたくなった。で、今週は『三枝博音と鎌倉アカデミア――学問と教育の理想を求めて』(前川清治著、中公新書)。著者は1934年生まれのノンフィクション作家。この本は96年に出た。

 

 まずは開学の端緒。この本には、1945年の晩秋に「鎌倉文化会が中心になって『鎌倉山に大学をつくろう』と動き出した」とある。注目すべきは、この文化会の構成メンバーだ。画家、音楽家、演劇人、宗教家など文字通りの文化人に交じって「町内会長」たちがいた。大学づくりの計画でも創立準備委員7人のうち4人が、その会長連だ。地元農家の人がいる。郷土史家もいた。鎌倉アカデミアは地域に根差したところから生まれたと言ってもよい。

 

 こうして翌1946年春、国の大学令に縛られない「鎌倉大学校」が開校した。準備委員の一人が鎌倉山の土地を提供するということだったが、とりあえずは仮校舎を材木座の名刹、浄土宗光明寺に設けた。教室には畳敷きの仏間などが使われ、仕切りはベニヤ板だった。まさに寺子屋だ。その後、運営をめぐるゴタゴタがあり、自前の敷地は夢と消える。2年後に校舎を近隣の横浜市西部へ移したとき、校名を「鎌倉アカデミア」に改めたという。

 

 この本によれば、専門学部にあたるものは開校時、産業科、文学科、演劇科の三つだった(のちに映画科も置き、産業科は経営科に改称した)。それぞれ学生50人を募ったという。違和感を覚えるのは「産業科」の開設だ。文学や演劇はいい。だが、産業は文化都市鎌倉に似合わないのでは……ところが読み進むにつれ、それが浅薄な偏見だとわかる。そこには深遠な文化観があった。その中心にいたのが哲学者、三枝博音(さいぐさ・ひろと)だ。

 

 三枝は産業科の教授兼初代科長。初年度途中から学校長になった。広島県生まれ、実家が寺だったのでいったん仏門に入るが、学問を志して東大の西洋哲学科に進んだ。私淑した学者の一人が、医史学の富士川游。このあたりから理系に対する関心が芽生えてくる。大学院を出て学究となり、唯物論哲学に共鳴するが、それに頓挫して技術史の著作活動を始める。日本科学史学会が1941年に誕生したときには発起人に名を連ねている。

 

 産業科長には三枝の後も科学史家が就いた。鎌倉アカデミアは、いずみやマエタケ、作家山口瞳、映画監督鈴木清順ら戦後文化の一線を担う人材を輩出したが、学園首脳陣は狭い意味の文系世界に閉じこもっていなかった。理系世界も包みこむ文化が、そこにはあった。

 

 源流の一つは三枝が敬愛した三浦梅園だ。江戸時代、東洋の思想とともに西洋の理系知に関心を寄せた人である。著者は三枝の論考「三浦梅園の哲学」を引く。文系の書物に天文の話を書き込んだことを「あなたには詩の世界と物理の世界は一つだった」と評している。

 

 三枝は科学のありようにも目を向けた。「明治以前の科学的研究における庶民性について」と題する論考で、日本には科学の「公開性」や「協同性」の流れもあったことを指摘している。ここに登場するのは、平賀源内だ。「彼及び彼の伴侶たちが志を同じくして『物産会』の如きを幾回か開き連絡をとり、しかも政治的に頼ること(頼られ得るものでもなかったが)は少しもせず企て通した」という。公開、協同のみならず自律の科学とも言えよう。

 

 こうした科学観を、三枝は鎌倉アカデミアで具現しようとした。ひとことで言えば「楽しい学園」をつくるという決意だ。この本が長く引用した学生自治会発行Academia Times第1号への寄稿に、その核心を見ることができる。「わたくしが『楽しい』というのは、楽々とした気もちになれるとか、のんびりした心もちに成れるとかいうのではない」とことわった後、理想の学園像を目に浮かぶようなかたちで描いている。

 

 「廊下や教室で目に入るもの、耳にはさむもの、すべてが先生や学生たちの教養が深まるようになっている。絵も貼る、表も出す。楽しい書物や珍しい書物を見せる。金がないなら各自書斎のものを短期に持ち出す。研究会は大小つねにもたれる。本を読むことは飯を食うようにする」。最後の一文は、梅園の「学問は飯と心得べし」という名言を意識したのだろう。学ぶとは自らの糧を得ることであり、ひけらかしのためではないとする警句だ。

 

 この学園像は、決して絵空事ではなかった。そのことをうかがわせるのが、鎌倉文化人の一人、作家高見順の講義だ。この本では、文学科に学んだ作家沼田陽一の文章を紹介している。それによると、高見は授業中に鞄から自分の蔵書を引っぱりだして「闇屋じゃありません」と笑わせた。学生は講義後も去らず、延長戦を求めて「本堂と庫裏をつなぐ渡り廊下の脇にある池のそばの芝生の上に先生を中心にして扇状に腰をおろした」という。

 

 あるいは演劇科では、学生たちがいくつかの演劇集団をつくり、互いに競いあった。その一つ、「かもめ会」の東京公演に触れたくだりに「舞台監督は今泉隆雄(いずみたく・作曲家)が担当した」とある。いずみは、母校にもしっかりと足跡を残していた。

 

 この本には、大学運営をめぐっても驚愕の事実が書かれている。一つは、入試の面接に学生を同席させたこと。背景には、三枝の「仲間は自ら選ぶことが大切」という考えがあった。また、自治会委員長経験者の証言によると、授業料値上げも学生主導で決めた。このとき、学生側の提案額は教授側のそれよりも高かったという。そんなこともあって学生たちは「経営収支に明るくない教授たち」を運営から遠ざけようとしたらしい。苦笑する話だ。

 

 鎌倉アカデミアは資金難で1950年に力尽きた。三枝も63年、鶴見列車事故で亡くなっている。「大学」ならざる大学の足跡を戦後民主主義の徒花と片づけるのは簡単だ。だが大学再生が求められる今、その「楽しい学園」の決意は断じて冷笑されるべきではない。

(執筆撮影・尾関章、通算354回)

 

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『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント』

(太田省一著、光文社新書)

写真》SMAPは何の略?

 暮れのあの騒動はなんだったのだろう。SMAP解散をめぐる報道ラッシュである。紅白歌合戦に出るのか出ないのか。そんな芸能ネタにとどまらなかった。ファンたちが朝日新聞の広告面8ページに“We Love SMAP Forever”などのメッセージを載せ、それがまた話題のタネとなった。年明けに別の音楽ユニット、いきものがかりの活動中止がさらっと報じられたが、あのくらいが適量ではなかったか。僕などはつい、そう思ってしまう。

 

 実際のところ僕たち60歳超世代にとって、SMAPはさほど身近な存在でなかったとも言えよう。ジャーナリストを名乗る者としては自慢にならないが、僕はグループの活動拠点となったテレビ番組「SMAP×SMAP」(フジ系列)を一度もまともに観ていない。調理場のセットが出てくる場面をちらっと見たくらいだ。彼らが世に出た1990年代は、僕たちがちょうど働き盛りのころだった。そのことも影響しているのだろう。

 

 気になる存在ではあった。たとえば、あの名前はなんだろう、と思っていた。芸能界のグループ名はふつう意味をもつ。ダークダックスがそう、ザ・ピーナッツもそう、嵐もそう、AKB48だって秋葉原が透けて見える。命名はイメージ戦略の一つだ。では、SMAPは? “Sports Music Assemble People”の頭文字からとったというのは、今回初めて知った。気にはなるがネット検索もかけないでいる。そんな距離感が僕にはあった。

 

 ではなぜ、気になったのか。それは、数少ないSMAP体験のなかに印象深いことがあるからだ。たとえば、メンバーの木村拓哉がテレビドラマに出たとき、台詞の語尾に「……でしょ」が多かったのは新鮮だった。あれは、2000年放映の「Beautiful Life――ふたりでいた日々」(TBS系列、北川悦吏子脚本)だったと思う。相手役は常盤貴子。「だろ」ではなく「でしょ」。それが、男女の立ち位置を水平に感じさせたのである。

 

 この言葉づかいは、たぶん脚本通りなのだろう。あるいは、制作陣の意向だったのかもしれない。ただどちらにしても、脚本家や制作陣は「だろ」よりも「でしょ」のほうがキムタクに似合うと感じたに違いない、と僕には思われた。ここにこそ、SMAP解散があれほどの衝撃をもたらしたことの理由が潜んでいるのではないか。フェミニズムのような時代精神を自然に体現する青年群像――その退場を彼らの同世代は惜しんだのである。

 

 で、今週の1冊は『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント』(太田省一著、光文社新書)。著者は1960年生まれ、社会学が専門で、戦後日本のテレビ文化に焦点を当て著述活動をしている。当欄の前身で『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)という著書を紹介したこともある(文理悠々2013年12月24日付「『紅白』改造計画を練ろう」)。今回のSMAP本は、きわめてタイムリーに2016年12月に出た。

 

 ここで、書名に「平成ニッポン」、帯の惹句に「平成史は、SMAP史である」とあることにも目をとめておこう。結成が昭和末期の1988年だったこと、解散の2016年末には天皇の退位や改元が取りざたされるようになっていたことを思うと、彼らは平成の申し子のように見える。現に、ほかにもSMAPをこの元号と結びつけた新刊書が出ている。彼らが発信した時代精神は、平成の空気と言い換えてもよいかもしれない。

 

 興味深いのは、昭和の終わり、平成の始まりという区切りがテレビ文化の転換期と同期していることだ。1989〜90年に「ザ・ベストテン」(TBS系列)、「歌のトップテン」(日本テレビ系列)、「夜のヒットスタジオSUPER」(フジ系列)といった歌番組が次々に看板を下ろした。歌謡曲の時代の終焉である。それに代わって台頭したのが、バラエティ番組だ。SMAPはそこに活路を見いだし、見事に成功したと言えるだろう。

 

 著者によれば、SMAPの楽曲群で平成色がにじむのは、1994年の「がんばりましょう」(小倉めぐみ作詞)からだ。そのころ僕は海外にいたので思いだせないのだが、「かっこいいゴール」のひと言があるという。前年のJリーグ発足に呼応しているようで同時代的だ。そのあとゴールの陶酔は一瞬に過ぎないと達観する歌詞がつづき、「血圧」「寝グセ」といった「かっこいい」とは無縁の言葉が出てくる。昭和の青春とはどこか違う。

 

 たしかにこの歌には「醒(さ)めた視線」がある。だがそれでも、喪失感のどん底にいる人々を励ます「応援ソング」となった。SMAPは1995年の阪神・淡路大震災のときも2011年の東日本大震災のときも、直後のテレビ番組でこれを選んで歌ったという。

 

 ここでも気づくのは、楽曲名の語尾「ましょう」だ。歌詞をみても、いつかもう一度幸せになろうと呼びかけるところが「なりましょう」となっている。これは、キムタクドラマの「でしょ」と同じではないか。あの台詞が喚起したのは男女の水平感だった。こちらは歌う人と聴く人の間の水平感だ。昭和の青春ドラマで「がんばろう」「幸せはつかみとるものだ」と檄を飛ばす熱血先生とはまったく違って、この歌から上から目線は感じとれない。

 

 SMAPの5人は団塊ジュニア世代とほぼ重なる。同年代人口が膨らんで競争が激しいのに、就職期にバブル崩壊の直撃を受けた。正社員雇用は狭き門で、非正規に甘んじても職を探すしかない。この社会状況は奇しくも芸能界事情と重なる。アイドルは新曲を出しつづけていれば安泰、とはいかなくなったのである。彼らも、新しい職場を見つけなくてはならなかった。だからこそ同世代の若者と同じ地平に立てたのではないだろうか。

 

 その職場となった番組「SMAP×SMAP」についての分析もある。歌とコントを織り交ぜた組み立てで、「夢であいましょう」(NHK)、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ系列)以来の「バラエティの王道」を踏襲しているが、同時にSMAPメンバーが「素」の姿を露わにする「ドキュメンタリー性」も具えていた、という。例に挙がるのは、メンバーが不祥事を起こして活動を自粛したとき、謝罪して復帰する場に使われたことだ。

 

 そう言えば、SMAPにも幾度か不祥事があった。たとえば、2009年にメンバーの一人が起こした泥酔全裸事件。この本は事件に触れつつも読み解きはしていないが、僕はあの顛末にSMAPと時代との共鳴をみる。夜中の公園で裸になる行為はほめられることではないが、このときは人に大きな危害や損害を与えていない。起訴猶予となったのも納得がいく。だから、世間は復帰を温かく受け入れた。そのこと自体が平成のおとぎ話だった。

 

 平成は、法令順守に突き進んだ時代である。バブルのころなら見えてこなかった不正や怠慢が厳しい経済環境と嘘のつけない電子管理によって露わになり、至るところで責任追及の嵐が吹き荒れている。そんななかで世間が珍しく見せた寛容。それを、僕はあの一件にみる。SMAPは、「しかたないね、これからはちゃんとしろよ」の叱責で済む逸脱の許容幅を身をもって示した。彼らが優等生ではなかったからこそできたことだろう。

 

 この本は、SMAPの「バラバラの個性」についても語っている。メンバーが別々の芸能活動をするだけではない。一緒に歌うときも「それぞれ異なる方向を見つめ歌い上げる構図」をとったりする。これは、僕も感じていたことだ。著者は、そこに「個人と集団の両立」をみる。「『昭和』の日本社会を支えてきた既存の集団の崩壊現象」を目の当たりにした人々には、バラバラと一緒を両立させる姿が「理想のコミュニティ」に見えただろうという。

 

 この本は、「公共」の一語も木村拓哉のエッセイ集『開放区』(集英社)から引いている。「“キムタク”って、どうやら公共物らしい」。それは「誰でも入れるし、誰でも出ていける、これといった建造物のない、がらんとした公園」のイメージだという。至言ではないか。「既存の集団」がもはや頼りにならず、一人ひとりがばらけて生きることを強いられた世代が、ようやく見いだした公共の空間。それが、SMAPのいる世界だった。

 

 最後に、SMAP騒動に冷淡だったことに対する自省。こんなにも同時代性を具えた偶像の存在にそれが退場してから気づく。年をとり隠居するとは、こういうことかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算353回)

 

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『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)

写真》六つの個性、一つの群れ

 1月20日は米大統領就任式の日である。4年ごとに巡ってくる行事だが、今回ほど胸騒ぎがすることはない。これは、あの人の政策がどうこうという話ではない。これからしばらく、見たこともない不釣り合いを見せつけられそうなことが怖いのだ。

 

 過去の大統領を思いだす。ドワイト・アイゼンハワーの記憶はおぼろだが、幼心にも「えらい人」とわかった。ジョン・F・ケネディは、とにかく若くて格好がよかった。リンドン・ジョンソンはベトナム戦争を、リチャード・ニクソンはウォーターゲート事件を思い起こさせるので印象はあまりよくないが、それでもそれぞれ重みがあった。後続の7人も保守リベラルの違いを問わず、首座の人にふさわしい平衡感覚はもちあわせていたように思う。

 

 では、あの人はどうか。人には隠された一面があり、職位についてからそれらしさが出るということもあるだろう。だが、有権者が今回の大統領選挙で票を投じるときに判断材料とした言動をみる限り、平衡を感じさせる因子が著しく欠如していたのは間違いない。

 

 当欄は、チェコの作家カレル・チャペックが米国に将来とんでもない政治体制が生まれるだろうと予想していたことを1年前に書いた(2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。1930年に世に出た空想記事で、『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(カレル・チャペック著、飯島周編訳、平凡社ライブラリー)に収められている。ギャングの頭目が最高権力を手にして、極端な排他政策を指揮するというのである。

 

 ただ、この話ではギャング自身が大統領に就くわけではない。米国では二大政党制ですら暴力に支配されるだろうとの見立てに沿って、陰の実力者としてホワイトハウスを操るだけだ。だから、チャペックが現在の米国社会のどこを突いているかと言えば、排他主義の強まりや銃規制の緩さだ。彼はロボットの台頭を芝居にしてみせた人だが、世界に冠たる民主主義国で極端な人物が正当な手続きで最高権力者になるとまでは思わなかったのだ。

 

  選挙は民主主義の礎と言われている。有権者に投票してもらえば、それぞれの思いを積分したものを見極められる、という理屈だ。ただ、一つ条件がある。この過程で一人ひとりの考えが歪められないことだ。ところが最近は、有権者が大小メディアの喧騒に影響を受け、自分自身の熟考にもとづく選択をしにくくなっているように感じる。その結果、投票箱を開くと本来の積分値とは別物のなにかが立ち現れてくるのではないだろうか。

 

 で、今週は『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)。著者(1841〜1931)はフランスの知識人。理系文系の諸学に手を染めたが、社会心理学者と言われることが多い。この本の刊行は1895年。120年余も前に今日的な表題がつけられたことに驚くが、考えてみれば当時のフランスは激動のさなかにあった。1789年の大革命以来繰り返された革命や内乱。群衆が歴史の表舞台に躍り出る時代だった。

 

 19世紀の論考なので弱点もある。社会科学は20世紀に入って科学らしさを高めていったが、この本はそれに乏しい。実験や統計に足場を求めず、社会観察や史実分析をもとに著者の洞察が披歴される。そのせいか、そこに展開される理論には批判もあるようだ。

 

 ただ本を開くと、「群衆の一般的特徴」という章で思わずうなずきたくなる一節に出会う。「人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える」「意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」

 

 だから、群衆はたった6人でも成り立ち得るし、何百人いても条件を満たさない場合があるという。この訳が「群衆」を「群集」としないでいる理由の一つは、そこにあるのかもしれない。ここで見落とせないのは、「離ればなれになっている数千の個人」も「ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある」としていることだ。ネットの炎上を目の当たりにすると、この見解は今日ますます的を射ているように思われる。

 

 この本には、いくつかキーワードが出てくる。たとえば「暗示」と「感染」。著者によれば、群衆は催眠術のように暗示にかけられる。その暗示は、群衆の内部で感染を繰り返して増幅される。そこにあるのは「意識的個性の消滅」と「無意識的個性の優勢」。暗示と感染が感情や観念の向きを一つに揃えて行動を促す。その結果、一人ひとりは「もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる」という。

 

 このことで著者が書き添えている指摘を二つ挙げておこう。一つは、群衆の想像力が事実を「変形」させるとしていることだ。「極めて単純な事件でも、群衆の眼にふれると、たちまち歪められてしまう」。もう一つは、そのようにして「集団的錯覚」が生まれるのは群衆のメンバーがたとえ教養人であっても変わらない、と断じていることだ。これも、近年のメディアの混迷やその怖さを予言するような卓見ではないか。

 

 「心象的思想(イデ・イマージュ)」という言葉にも遭遇する。群衆が暗示にかかる思想は「極めて単純な形式」の心象として現れる。だから「類似または連関のような論理的な関係」がなく、「矛盾した思想が相ついで生ずる」ことがある――。この記述で連想されるのも近年の世相だ。ツイッターのような短文投稿サイトの広まり、そしてワンフレーズ・ポリティクス。その根っこは新聞雑誌くらいしかメディアがない19世紀にもあったのだ。

 

 ここまで読んで感じるのは、昨年来見せつけられている想定外の事象の多くでは群衆心理が駆動力として働いたのではないか、ということだ。その作用は、著者の見解ではたった6人でも表れるというのだから人間社会が太古から経験してきた現象なのだろう。ただ、近現代になるとメディアが拍車をかけた。とりわけ最近はインターネットやソーシャルメディアが日常生活に浸透したことで、驚くべきパワーを手にしたように思う。

 

 なかでももっとも強烈だったのは、EU(欧州連合)離脱を問うた英国の国民投票と本稿冒頭で触れた米国の大統領選だ。両者の結果については「人々が第2次大戦後、これこそが人間社会の進化だと考えてきた方向性をいともあっさり一蹴してしまった」と当欄に書いた(2016年12月16日付「ひどい年」を清張の時代と対比する」)。時代精神を群衆心理が駆逐したのだ。それがどうして起こったのかを示唆する論述も、この本にはある。

 

 それは、群衆が幻想に惑わされないための方策を考察したくだり。著者は「群衆の精神に真実を確立し、あまりにも危険になりすぎた幻想を打破するために、有効な、ほとんど唯一の方法」は「経験」だという。経験知のみが誤りを防げるのか。ただ、そこには但し書きがある。「一世代(ジェネラシオン)によってなされた経験は、次の世代にとっては、おおむね無用」。戦時戦後の体験を語り継ぐのが難しい理由は、ここにもあるのだろう。

 

 この本は裁判の陪審員も群衆ととらえ、その制度を論じている。裁判員裁判が始まってまもない日本社会にとっては、これも参考になる。著者は、この制度が「法律の条文しか知らない裁判官」の「職掌柄の冷酷さ」を緩和するとみて、寛容な評決を期待する。ただ、それが今も通じるかどうかは疑わしいと僕は思う。「個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」という傾向は、メディアの増幅作用で不当な厳罰につながる恐れもあるからだ。

 

 議会についても著者は書く。議員集団は「ある瞬間に群衆となる」という。そんな立法府が陥りやすい「危険」の一つとされるのは財政支出が膨らむこと、もう一つは人々の自由を縛る法律をやたらにつくりたがることだ。後者については「議会は、その単純極まる精神から、それらの法律の結果を見誤り、しかもそれらを採決する義務があると自ら信じている」と見抜く。同感だ。現代社会に閉塞感をもたらしている元凶の一つがそこにある。

 

 僕たちも、ふだんは「意識的個性」として生きているのに「ある瞬間」に「無意識的個性」の大波にのみ込まれてしまう。だが肝心かなめの決断では「意識的個性」を取り戻さなくてはなるまい。恐るべし、ル・ボン。この本は、100年の隔たりを超えてなお新鮮だ。

(執筆撮影・尾関章、通算352回)

 

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『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』

(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)

写真》廃炉(朝日新聞2016年12月21日夕刊、翌22日朝刊)

 もんじゅの廃炉を政府が決めた。福井県敦賀市の半島部にある高速増殖原型炉。原発使用済み燃料から得られるプルトニウムを核分裂させ、消費分よりも多いプルトニウムを生みだそうという原子炉だ。資源小国の夢を叶えると言われた核燃料サイクル路線の象徴。1994年、連鎖反応が安定して続く臨界に達したが、翌95年に冷却材のナトリウムが漏れる事故を起こした。運転日数は20年余でわずか250日にしかならない。

 

 この実績をみれば、だれもが廃炉に納得するように思われる。まして3・11の原発事故で原子力の災厄が人々の暮らしを台無しにする現実をまざまざと見せつけられているのだから、なおさらだ。原子力エネルギーに執着する政権もそんな空気を察知したのだろう。

 

 ところが、この決定を不快に思う人がいた。福井県知事だ。廃炉に向かう動きが進むと「現状では受け入れがたい」と牽制し、結論が出た日にも「地元は国策に協力してきた」「唐突な方針決定に地元は大きな不信感がある」と反発した(朝日新聞2016年12月21日夕刊)。たしかに、突然梯子を外されたという構図はある。だが、事故があったときにもっとも深刻な打撃を受けるのは地元だ。報道を聞いて耳を疑った人も少なくないだろう。

 

 ただ、僕には違和感があまりなかった。それは、福井県の同時代史をふつうの県外人よりはよく知っているからだ。1977年、新聞社に入って最初の4年間を福井支局の記者として過ごした。事件事故や町の話題、経済分野を主に取材したが、それでも原発と無縁だったわけではない。とくに反原発運動に携わる人々の話を聴く機会は多かった。その苦闘を通じて、地元に原発志向のベクトルがどれほど強いかが身に染みてわかったのである。

 

 当時、福井県は県全体としてすでに原発受け入れに動きだしていた。たとえば県庁には原子力安全対策課という部署があり、高学歴の理系人材を集めて原発のトラブルに目を光らせていた(当欄の前身コラム、文理悠々2010年11月19日付「アトムとの向き合い方」)。これは、原発立地県が県民を守るために整えた体制としては全国に誇るものだったが、別の言い方をすれば県の未来は原子力とともにある、と腹を決めたことを意味する。

 

 僕は、原発が集中する県南部の嶺南地域に時折出かけた。そこで受けた印象も、人々の暮らしが原発を織り込み済みにしている、ということだった。原発のおかげで集落に舗装道路がつながった、身近な人が施設内の食堂や売店で働かせてもらっている……住人がそんなふうに感じる現実が進行していた。県内の原子炉は僕が福井にいる間で6基から9基にふえた。その後も増設が続き、最盛期には10基を超える密集地になったのである。

 

 で、今週の一冊は『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)。中日新聞の福井県版と中日新聞社が発行元となっている日刊県民福井が、2000年に紙面化した連載記事をもとにしている。

 

 福井県の対原発意識を知るという意味では、ほんとうは古巣新聞社の後輩支局員が書いたものをとりあげたかった。だが、それをやめてこれを選んだのには理由がある。2000年のタイミングに惹かれたのだ。3・11後の執筆では、あの大事故を見てから身につけた後知恵が影響してしまう。そうかと言って昔過ぎては、もんじゅナトリウム漏れ事故などの体験が反映されない。この本は、最適の断面を切りだしていることになる。

 

 業界人としての興味もあった。中日新聞社発行の東京新聞は今や、原発に筆鋒鋭いメディアの筆頭格だ。一方の日刊県民福井は、前身の日刊福井が1977年、地元ゆかりのゼネコン、熊谷組を後ろ盾に発刊されたという前史がある。そのころ、熊谷組元社長の熊谷太三郎さんは自民党の参議院議員で、発刊直後には科学技術庁長官に就いた。逆方向のベクトルが潜在していそうなメディアが2000年当時、どんな位置取りをしたかを知りたかった。

 

 原発立地で地域社会がどう変わったかがわかるのは「半島のくらし」という章だ。日本原子力発電の敦賀発電所がある敦賀市浦底からの報告を見てみよう。敦賀半島の集落で、戸数は記事連載時で16戸。国が敦賀1号機の設置を許可した1966年、半島の先までの県道が整った。「原発が来るまで、敦賀市中心部から浦底に通じていたのは軽自動車がやっと通れるくらいの未舗装道路だけ」で舟運が頼りだったから、生活は大きく様変わりした。

 

 集落はもともと半農半漁だったが、連載時点では全戸数の約半分が民宿を営んでいた。発電所で2号機が建設された前後にふえたという。滞在型の宿泊需要として「原発関連業者の利用」が見込めたのだ。住人は原発立地で土地や漁業権を失い、代わりに補償金を手にした。民宿女将の一人が前の世代から聞いた話を打ち明ける。「うちも部屋とか屋根の改修なんかにそうしたお金を使ったようやね」。設備投資の資本力を補ったのも原発立地だった。

 

 仕出し業に進出した民宿もある。発電所では定期検査の繁忙期、ふだんの倍を超える2000人余が働く。社員食堂はあるが、弁当需要も高まる。そこにいくつかの業者が参入していた。この本に出てくる1軒では、定検時に「アルバイトを増員」したり、夕食夜食の対応で「睡眠時間が2、3時間」になったりする。ちなみに、経営者の息子さんは「日本原子力発電の社員」。浦底の住人にも「原発関連の会社に勤めるサラリーマン」がふえていた。

 

 原発が、辺地を都会に結びつけて起業の種を撒き、雇用を生んで就業構造をすっかり変えてしまった。これがこの半世紀、原発を受け入れた地域社会で起こったことだ。福井県の嶺南地域には、そんな集落が海岸伝いに数珠のように連なっているのである。

 

 この本は、原発が地元の都市部にもたらした変化も照らしだす。敦賀市には、クラシック音楽に適した大ホールのある市民文化センターや福祉総合センター、総合運動公園などが揃っている。それを支えるのは、原子力施設の固定資産税などで潤う市の財源だ。ハコモノだけではない。電力会社が文化センターで著名音楽家の演奏会を無料で開いてきたという。その結果、皮肉なことに市民団体主催の演奏会の客が減った。本末転倒の感がある。

 

 読んでいて切なくなるのは、福井県にはすでに半生を原発に捧げてきた人が大勢いることだ。ある県内人は68年、工業高校を出て日本原子力発電に入った。没頭したのは、発電用タービンの振動を抑えること。「そのうち、タービンの覆いに触れたときの振動やタービンの回る音で、調子を見分けることができるようになった」。取材を受けた時点では東京勤務だが、「現場で感じ取るタービンの響き」を後継世代に伝えたいという気持ちでいる。

 

 県外から福井の原発にやってきた人も多く登場する。その一人は兵庫県の工業高校出身者で、関西電力に入社後しばらくして建設中の美浜原発にやって来た。最初に手がけたのは、運転手順の文書づくりだ。米国メーカーの炉。英文を訳し、火力発電所用の手順書を参考にしながら「後輩が『迷わんように』と考えて作った」。まさに原発草創期の大仕事。その背中を見て育ったからだろうか、「長男はいま原子力業界で技術者として働いている」。

 

 もう一つ、特記したいのは広報部門の第一線にいる人々の言葉だ。「正確にありのままの情報を提供しないと福井県での原子力はない」(関西電力)、「すべて公開すべきだった」(旧動力炉・核燃料開発事業団)。後者は、もんじゅナトリウム漏れ事故時に組織内でビデオ隠しがあったのを振り返っての述懐だ。真摯な思いは伝わってくる。だが、透明性を高めさえすれば原子力を是とすべきなのか。この問いを封印した社会がここにはある。

 

 この本は、原子力史をとことん地元の目で綴っている。率直に言って原子力そのものに対する批判は乏しいと感じるが、そこには別次元の教訓がある。大都市には3・11後に原発を嫌いになった人が大勢いるが、地元の人はそう簡単に心変わりできないということだ。

 

 原発をなくしたい。だがそれは、大都市に住む僕たちが勝手に決める話ではない。心苦しいが、既設地帯の人々に自らの意思で社会の再設計に踏みだしてほしいと頼むほかない。

(執筆撮影・尾関章、通算351回)

 

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『それから』(夏目漱石著、岩波文庫)

写真》賀春

 風雲急を告げる2017年である。太平洋対岸の大国ではトップがもうすぐ代わり、その人がいったい何をするのかが気がかりだ。隣国ではトップをめぐる混乱がすでに極みに達して、東アジアの安定を崩すことはないかと目が離せない。そして足もとでは改憲の歯車がカチカチと回りだし、戦後っ子が当たり前と受けとめてきた価値に「時代遅れ」の烙印が押されそうな雲行きだ。どこもかしこも不安だらけだが、ともかくも正月が来た。

 

 先々週の当欄「クリスマスには幽霊を呼ぼう」(2016年12月23日付)にも書いたように、日本では正月に、欧米ではクリスマスに家族のもとへ帰るという社会習慣がある。近代人は、自らの活動拠点を機能本位の組織ゲゼルシャフトに置くことが多くなったが、年に1度くらいは血縁地縁の共同体ゲマインシャフトに立ち戻りたくなるのだろう。最近は商店の元日営業もふえたが、コンビニくらいにとどめておいたほうがよいと僕は思う。

 

 さて当欄は、家庭内の私事にはなるべく触れないできた。60歳超の男の異端の主張や愚痴めいたつぶやきに家族を巻き込みたくないからだ。ただ、物故者については縛りを緩めてもよいだろう。僕の祖父母4人は、先週の当欄「今年は『坊ちゃん』の明治で年を越す」(2016年12月30日付)で明かした通り、みな明治生まれだ。内訳を言えば、商家出身一人、農家出身一人、士族出身一人、農商どちらか不分明が一人ということになる。

 

 もっとも親密だったのは、長く同居した父方の祖父だ。商店街で小さな和菓子店を開いていた。「まっすぐ」を「まっつぐ」と言い続けた江戸っ子である。子ども心に敬愛していたのは母方の祖母。電車の駅で三つめの屋敷町に住んでいて、よく遊んでもらった。背筋がぴんとしていていつも冷静沈着。晩年、「わたしは士族の娘だから」というひと言を聞いたときはちょっと退いたが、そんな時代錯誤の自負も彼女の支えだったのだろう。

 

 多民族ならぬ多階層のルーツをもつことは僕にとって一つの財産となった。幼少のころから、世の中はひと色ではない、と身に染みて感じることができたからだ。その意味では、家の釣りあいなどにこだわらずに婚姻を進めてきた先行の家族に感謝である。

 

 最近人気のテレビ番組にNHKの「ファミリーヒストリー」がある。著名人のルーツを制作陣が本人に代わってたどる、という趣向。ひと昔前なら差別を助長すると批判されかねなかったと思うが、世の中の受けとめ方がだいぶ変わってきたのだろう。さまざまなリスク含みではあるが、観ていると胸が熱くなるのは事実だ。人は自らも知らない過去を背景に生きている。その驚きは、正月に家族が集まったときに抱く感慨ともどこか通じあう。

 

 で、今週は新春恒例の漱石。暮れに『坊っちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)をとりあげたからではないが、今年は『それから』(夏目漱石著、岩波文庫)を選んだ。明治40年代の話だが、そこに描かれる人々は江戸時代の延長線上に見てとれる。日本社会は欧風資本主義の道具立てを整えたが、底流には封建主義の意識が残っている。それに抗して近代の自我をどう貫くのか。その葛藤が社会批評を交えた筆致で描かれている。

 

 書きだしはこうだ。「誰か慌(あわ)ただしく門前を馳(か)けて行く足音がした時、代助(だいすけ)の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下っていた」。眠りから覚める瞬間。ただ、門前の足音には現実感がある。読み進むと、主人公長井代助の家は東京・牛込神楽坂界隈にあるらしいとわかる。独身だが、同居の書生と「婆(ばあ)さん」が身辺の世話をしてくれる。当時の山の手には、こんな暮らしがあった。

 

 代助は高等教育を受けているが、仕事には就かない。「先生は一体何をする気なんだろうね」で始まる書生と「婆さん」の会話。ここで「先生」は代助だ。「まあ奥様でも御貰(おもら)いになってから、緩(ゆ)っくり、御役(おやく)でも御探しなさる御つもりなんでしょうよ」「いいつもりだなあ。僕も、あんな風に一日(いちんち)本を読んだり、音楽を聞きに行ったりして暮していたいな」。高等遊民とは、こんな人を指す言葉なのだろう。

 

 この境遇は、同時代の資本主義と前時代の封建主義の両方に乗っかっている。代助の父は役人勤めをした後、実業に手を染め、「自然と金が貯(たま)って」「大分(だいぶん)の財産家になった」。兄も、父のかかわる会社の幹部。父と兄のいる邸は東京・青山界隈にある。代助は、この実家に月1回ずつ生活費をもらいに参じて「親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている」。だから、経済面ではまちがいなく資本主義の子である。

 

 だが、こんなすねかじりの実態がありながら本人は平然と暮らしている。武家の名残が感じられる日常だ。実際に父は若かったころ、どこかの藩の武士であり、藩財政が逼迫したときに「町人を二、三人呼び集めて、刀を脱いでその前に頭を下げて、彼らに一時の融通を頼んだ」ということもあった。その功績は決して小さくはなかったようで、実家には「先代の旧藩主に書いてもらった」とされる書がありがたそうに掲げられている。

 

 この小説の筋は代助の秘められた恋心をたどるが、そこにも同じ構図がある。代助は、学生時代に知りあった菅沼三千代への思いを彼女が親友平岡常次郎の妻となった後も断てず、むしろ募らせる。そこにあるのは、近代の自我だ。だが、父や兄夫婦が縁談を用意しており、しかも先方の娘は父が藩士時代に恩を受けた人の家族だった。これは、武家意識を引きずっている。資本主義の力と封建主義の慣性。男女の心理にもそんな力学が見てとれる。

 

 この小説には三千代のほかにもう一人、魅力的な女性が登場する。代助の嫂(あによめ)梅子だ。彼が実家で客間にいると「ちょいと其所(そこい)らに私の櫛(くし)が落ちていなくって」と入ってくる。「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になって上げるから」。このあと二人が始めるのは、ファッション談議だ。彼女の胸元にのぞく半襟が話題になる。「此間(こないだ)買ったの」「好(い)い色だ」。成人男女の快活な心の通いあいがある。

 

 別の箇所で梅子は「天保調(てんぽうちょう)と明治の現代調を、容赦(ようしゃ)なく継ぎ合せたような一種の人物」と素描される。縁談話では義父の意向を代弁する。これは、天保調だ。だが代助から、兄が留守がちで淋しくないかと問われたときは、いったんは笑って受け流した後、「貴方が奥さんを御貰(おもら)いなすったら、始終宅(うち)にばかりいて、たんと可愛がって御上げなさいな」と言い切る。こちらは現代調の心情だろう。

 

 もう一つ、この作品の読みどころは明治末期の風俗だ。身近なところでは代助の朝食。「熱い紅茶を啜(すす)りながら焼麺麭(やきパン)に牛酪(バタ)を付けて」とあるから、洋風が広まりかけていた。代助の甥は「近頃ベースボールに熱中している」。姪も「近頃はヴァイオリンの稽古(けいこ)に行く」。梅子と雑談を始めた客間は「近頃になって建て増した西洋作り」とされている。いわゆる洋間だ。「近頃」は欧風文化のラッシュだった。

 

 都市のインフラも整いつつあった。たとえば、春の上野を描いたところで「電燈に照らされた花の中に這入(はい)った」という記述に出会う。代助が書生を住まわせるときには「風呂は水道があるから汲まないでもいい」と言う。その書生に「君、電話を掛けてくれませんか」と頼み、公衆電話へ走らせたりもする。夜に郵便を届ける「夜中投函(やちゅうとうかん)」という制度もあった。人々が昼夜を問わず通信を交わす時代はできあがっていた。

 

 代助が動きまわる足は路面電車だ。だが、実家を訪ねるときに「電車の左側を父と兄が綱曳(つなびき)で急がして通った」という描写もある。綱曳とは二人で引く急行の人力車らしい。東京市街では、電力と人力が競い合っていた。ここにも明治の位相がある。

 

 遊民は、封建の世とひと続きの近代を生きる明治人にとって一つの解だったのかもしれない。代助は「歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる」という生き方をする。なぜ歩くのかと思うこともあって、そんなときは「アンニュイ」(倦怠)に襲われる。たしかに、行動が目的になるというのは話が逆だ。でも、そういう遊民流だからこそ時代を超越できる。先が見通せない2017年、書きたいからから書く、と当欄も開き直ることにしよう。

(執筆撮影・尾関章、通算350回)

 

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『坊ちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)

写真》明治の名残

 「明治百年」といわれた年が僕の若いころにあった。1968年のことだ。明治元年から数えて100年となるのは67年のはずだが、そうではなく元号が明治となった時点から満100年の節目を祝ったことになる。印象に残るのは、この年にNHKテレビが放映した「明治百年」と題するドキュメンタリーシリーズ。今、NHKアーカイブスのウェブサイトを開くと「西洋文明が日本に移植される過程を海外取材で克明に描いた」とある。

 

 そのころだっただろうか。「明治は遠くなりにけり」という言葉もよく聞いた。もともとは中村草田男が昭和戦前に詠んだ句から上の句「降る雪や」を外したものらしい。逆に言えば、この感慨が通じるくらい昭和戦後も明治に近かったのだ。身近なところでは、僕の祖父母は4人とも明治生まれだった。町のあちこちにも明治を知る人がいた。年数の隔たりで言えば、高度成長期から振り返る明治末期は現在から顧みる高度成長期にほぼ相当する。

 

 その近さを物語るのは戦争の記憶だ。今ただ「戦争」と言うと、ふつうは1945年まで続いた昭和の戦乱期を思い浮かべることが多い。ところが高度成長期には、平和だった大正をはさんで明治に思いを馳せ、日清、日露の戦争を話題にする人も少なくなかった。

 

 年寄りたちは多かれ少なかれ、先の戦争に対して悔いの念を抱いていた。だが、日清、日露はそれと対比されるかたちで、さほど否定的なものとしては語られていなかったように思う。たぶん、これこそが戦勝というものの怖さなのだろう。戦争は罪深いが、勝ってしまえば国を挙げて勝利の美酒に酔う。他人から奪ったものも自らが奪われたものも忘れて、すべてを水に流そうとする。明治は日本人がそんな経験をした時代でもあった。

 

 こう考えてみると、あの45年間は矛盾に満ちている。江戸の世は、それなりに安定していて独自の近代が芽生えていたが、そこに欧米近代の大波が押し寄せた。科学技術はどんどん取り込まれたが、それと表裏一体のものとしてあった思想はなかなか伝わってこない。その位相のズレが表面化したのが明治後半ではなかったか。富国強兵がもたらした戦勝の無邪気さに覆い隠されるかたちで、近代日本の知性はズレの苦しみを味わっていた。

 

 で、今週の一冊は『坊ちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)。夏目漱石の人気作品「坊ちゃん」に登場する人物のその後の人生に空想を膨らませた長編小説。「その後」ではなく、別の名作の書名を借りて「それから」と続けたところが心憎いではないか。

 

 著者は1951年生まれ、仏文学が専門の大学教授にして文芸評論家。正直に告白すると、僕の高校時代の級友で今もつきあいがある。だからこの本は、今秋刊行後すぐに送られてきた。親しい友の著書を当欄で論評することにはためらいがあってしばし積ん読だったが、それが先日、新聞読書面で紹介されたのである。小説家星野智幸さんの書評には「超大型新人の登場」とある(朝日新聞2016年12月4日朝刊)。これは読まなくてはなるまい。

 

 漱石の「坊ちゃん」では、江戸っ子の主人公が大学を卒業して愛媛県松山の中学校教師となるが、ゴタゴタに巻き込まれ、なにごとにも筋を通す性格から1カ月ほどで辞めてしまう。最後は、同志の山嵐とともに東京まで戻ってくるという筋書きだ。それを受けた今回の作品では本文の冒頭が「新橋駅のホームにゆっくり止った列車から、二人の男が連れ立って降りてきた」。ここから坊ちゃんこと多田と、山嵐こと堀田の荒唐無稽な物語が始まる。

 

 僕の感想を率直に言えば、この小説は小説であって小説でない。文献引用が多い。統計データもある。筋はどこか唐突で、こじつけ感が拭えない。だが、それにつまずかないでほしい。合間に差し挟まれる社会科学書風の世相分析にこそ、汲みとるべきものがある。

 

 では、その世相はいつごろのものか。実はこの設定にも、著者による若干の操作がある。「坊ちゃん」は1906(明治39)年に発表され、そこには日露戦争(1904〜1905)への言及もある。したがって物語の中身はそのころのはずだが、著者は漱石が自分自身の松山生活を踏まえて執筆したらしいことを重くみて、それを1895(明治28)年の話とする。その結果、「…それから」の起点は19世紀末に置かれることになった。

 

 筋の唐突感も読みどころなので、それを追うのは控えよう。当欄は別の角度から、作品を解剖してみる。松山後の多田と堀田が引き込まれていくのは、二つの職域だ。刑事とスリである。この選択に僕は著者の創意を感じる。取り締まる側と取り締まられる側という取り合わせだが、どちらもふつうの人にできないことができる。一方は情報を、もう一方は金品を自在に手に入れられるのだ。この特権が、なんでもありの筋立てを可能にした。

 

 しかも明治中ごろまでのスリ事情は今の常識をはるかに超えていた。個々の稼ぎを親分がピンはねして、そこからタレと称する上納金が刑事に支払われる。「刑事とスリの世界は、半ば公然と癒着していた」。この作品では両者がときに手を結んで市井を歩きまわり、歴史の断面を目撃する。そこに顔を出すのは実在の著名人。とりわけ光をあてられるのが左翼運動の指導者群だ。片山潜、幸徳秋水、大杉栄と、オールスターの感がある。

 

 著者はスリと刑事に狂言回しの役を担わせて、明治後半の日本社会に現れたひずみをえぐり出していく。たとえば堀田が1897(明治30)年ごろ、群馬県の富岡製糸所で工員寮の監督になると、工場は民営化後で就労環境が厳しくなっており、食費も休みも削られていた。「女工たちは『同盟罷工』、つまりストライキを敢行した」。こうして山嵐の「松山で赤シャツらに感じた義憤」が、堀田の社会主義に対する傾倒へ進化していくのである。

 

 当時は、貧困の果てに娘たちが身売りすることもあった。この作品が焦点をあてる第三の職域が「娼妓」だ。多田も、坊ちゃんのイメージを壊すように東京・吉原の遊郭に通う。ここに出てくるのも統計だ。出典が定かでないのが残念だが、全国で1年間に「公娼利用者の延べ人数」が「約二千三百万人」という数字を引いて「成年男子が一年に一回ほど公娼を利用した格好」と書く。漱石が露骨には描かない裏面の世相を白日の下に曝したかたちだ。

 

 こう書いてくると、この作品は高踏派漱石の名作を社会主義リアリズムに接続させたのではないかと誤解されるかもしれない。だが、そうではない。たしかに左翼運動を題材にしてはいるのだが、それを漱石流の批評精神でとらえ、客観的に描いたという感じに近い。

 

 最大のヤマ場は、1905(明治38)年9月にあった日露講和(ポーツマス)条約反対の国民大会だ。東京・日比谷公園界隈では焼き打ちがある。このとき多田は、「坊っちゃん」本編にある通り「街鉄(東京市街鉄道)」に就職して運転士をしているのだが、乗務中の車輌が燃やされる。「おれの運転席が炎に包まれてゆく」「おれが好きになると、みんな消えてゆく」。母のように慕うお手伝いの清を病気で失ったときと同様の衝撃だった。

 

 この日、幸徳秋水は堀田に誘われて都心の群衆を見て歩く。革命につながるか、という堀田の問いにこう答える。「単なる狼藉ですな」。条約が戦勝国に報いていないことに対する「うっぷん晴らし」と断ずるのだ。「でも、いいものを見ました。市民にこういう力があるということは、新発見です」。この秋水の言葉が、どれほど史実に沿ったものかはわからない。ただ、左翼革命をめざす者にとって驚異の出来事だったことは間違いないだろう。

 

 印象深いのは、秋水を囲む新年会で後に大逆事件に名を連ねた取り巻きがブリキ缶を投げあい、「それ爆発だ」とはしゃぐ場面。居合わせた堀田は「とんでもないものを見た」と鼻白む。なんらかの「計画」が進行中なのか。秋水もそれを知っているのか。暴動を「狼藉」と切って捨てた人のはずなのに……「思いは千々に乱れた」。これも、どこまで史実かは不明だ。ただ、革命を叫ぶ人から革命に共感する人の心が離れる一瞬はあったのだろう。

 

 このくだりは1970年前後の風景と重なる。革命志向の若者が暴力の深みにはまっていった。左翼運動は過激化の末に墓穴を掘り、今は社会主義そのものが精彩を欠く。堀田の心理には、著者がかつて学園で経験した戸惑いが映されているように思えてならない。

(執筆撮影・尾関章、通算349回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『クリスマス・キャロル』(チャールズ・ディケンズ著、村岡花子訳、新潮文庫)

写真》メリー・クリスマス

 日本社会のクリスマスほど、奇妙な祝祭はない。当日、街を歩けばツリーやリースの類が飾られているものの、多くの人の気分はすでに1週間後の新年に向かっている。すべては前夜に終わった、というように。もちろん、キリスト教徒はそうではない。行事本来の趣旨を尊ぶ人もそうではないだろう。だが、暮れの風物詩とだけとらえている人々にとって、盛りあがりの頂点は12月24日のイブ。一夜明ければ、どこか白けている。

 

 10月の当欄では、国内で近年顕著なハロウィーン隆盛を論じて「夏休み気分が薄れてクリスマスまで間がある時季に、もう一つヤマ場を設けよう。そんな思惑が商戦を仕掛ける側にも、それに乗っかる側にも見てとれる」と書いた(2016年10月28日付「アガサ、ハロウィーンの世相考」)。裏を返せば、クリスマスは日本の風土にとうに根づいているということだ。新しい年を新しい気持ちで迎えるのに先だって、その前奏曲となる祝祭。

 

 と、ここまで書き進んで、以前にも似たような感想を漏らしたことがあるな、と思った。それで当欄の前身コラムに検索をかけたら、ずばり「いつのまにか日本社会に根を張った『イブがクリスマス』という倒錯した感覚のことも書いておきたい」という記述に出会った(文理悠々2012年12月25日付「クリスマスと新春、非日常のチカラ」)。その後段には、僕が3年ほど過ごしたロンドンでのクリスマス体験が綴られてあった。

 

 1990年代、現地在住のころの12月25日を思い起こして、こう書いている。「地下鉄は止まる。バスも止まる。店はどこもシャッターを下ろす。僕自身、その日買いそびれたものがあって近所を歩き回ったことを思い出す。ただ一つ開いていたのは、アジア人がレジで働くコンビニだった」。そこでは厳然として、クリスマス当日が特別な日だった。しかも人々は、賑やかさではなく静かさのなかで、その日を過ごすのである。

 

 ここで気づくのは、人は1年ひと巡りの循環に生きていて、その途中に1度は静寂へ立ち戻ろうとする性向があるのではないか、ということだ。英国では、それが12月25日だ。日本では、1週遅れの元日になる。電車まで止まるか、逆に初詣のために夜を徹して走るかは大きな違いだが、多くの人が仕事を控えて、家族がいればできる限り家庭に戻る、という共通項がある。だから、欧米のクリスマスと日本の元日はよく似ている。

 

 で、今週は『クリスマス・キャロル』(チャールズ・ディケンズ著、村岡花子訳、新潮文庫)。英文豪の名作で1843年に発表された。産業革命をまっしぐらに進む英国社会の只中でクリスマスがどう祝われ、どんな意味があったかをうかがい知れる一冊。村岡の訳は1952年に出たが、「古風な文体」を読みやすくするために「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」が原訳の雰囲気や語感をとどめるかたちで手を入れている、という。

 

 主人公のスクルージはロンドンの商人。「スクルージ・マーレイ商会」を営んでいたが、相方のマーレイが死んだので店名だけ残して主の座に収まっている。その人物描写は苛烈だ。「彼はひきうすを掴(つか)んだら放さないようなけちな男」(「掴」は旧字、「けち」に傍点)「貪欲(どんよく)な、がりがり爺(じじい)」「秘密を好み、交際を嫌(きら)い、かきの殻(から)のように孤独(こどく)な老人」(「かき」に傍点)とある。

 

 話の歯車が回りだすのはクリスマス前日。「市中の時計台は今しがた三時を打ち出したばかりなのに、もうすっかり暗くなっていた」「霧はどんな隙間(すきま)からも鍵穴(かぎあな)からも流れ込んで来た。外の小路は実に狭(せま)いのだが、それでも向う側の家々がぼんやりとまぼろしのようにしか見えないほどに霧は深かった」。日差しが乏しく、霧が立ち込め、日没も早いロンドンの冬。そんなどん底の季節に祝祭の日が迫ってくる。

 

 その日、主人公の甥フレッドが商会の事務所をふらりと訪れる。「クリスマスおめでとう、伯父さん!」。そう言われて、スクルージが繰り返すのが「ばかばかしい!」のひと言だ。フレッドから「親切な気持になって人を赦(ゆる)してやり、情ぶかくなる楽しい季節」「みんなが同じ墓場への旅の道づれだと思って、行先のちがう赤の他人だとは思わない」と諭され、翌日に自宅で催すクリスマスの食事会に招かれるが、強く拒む。

 

 次いで事務所に現れるのは、寄付を求める紳士たちだ。「貧しい人々に肉や飲みものや燃料を贈(おく)る資金」を集めているという。だが、スクルージには取りつく島がない。「私はクリスマスを祝いはしない。なまけ者が浮かれ騒ぐためにびた一文出しはしない」

 

 商会の従業員――この作品では「書記」とされている――とのやりとりにも、スクルージの吝嗇ぶりが反映されている。「明日は一日休みたいんだろうね?」「御都合(ごつごう)がよろしければ」「都合はよくないよ」。クリスマス1日を休みにするのはやむを得ない、ただその分の給与を減らせば不満が噴出するに違いない――そんな計算をして「次の朝はそのぶん早く出て来るんだぞ」と言い捨てる。これではまるで、ブラック企業ではないか。

 

 ここまでの導入部でわかるのは、当時の英国社会では何事もお金に換算する資本主義が町の片隅にも出現していたということだ。その冷たさを埋め合わせたのがクリスマスの温かさだったと言えよう。スクルージとその周辺の人々の対比が、この構図を見せつける。

 

 この作品の読みどころは、実はここからだ。スクルージが家に帰ると、なにものかがドアを通り抜けて立ち現れる。マーレイの幽霊ではないか。「めぐりゆく一年の中で、今のこの季節に私は一番苦しむ」「なぜ私は気の毒な人たちをかまわずに通り過ぎたのだろう?」「お前さんには、まだ私のような運命から逃(のが)れるチャンスと希望がある」。そう語りかけて、「チャンスと希望」をもたらすために別の幽霊3人が来訪すると予告した。

 

 幽霊3人は実際に来る。幽霊だから時空間を自在に移動できる。その能力をフル回転させてスクルージを連れ回し、さまざまな場面に立ちあわせてくれる。一人目の幽霊が連れていくのは過去の世界。二人目は現在、三人目は未来のそれぞれ案内役となる。

 

 たとえば、幽霊1はスクルージに少年のころの自分を見せつける。街では人々がクリスマスの挨拶を交わしている。ところが大通りから外れて赤煉瓦の古い建物に入り、奥の部屋の暗がりをのぞいたときのことだ。「一つの机にしょんぼりとたった一人で、ほたるのような火にあたって、男の子が本を読んでいた」。こうして大人の彼は「今の今までまったく忘れ果てていた遠い昔の、いじらしい自分の姿を眺(なが)めて泣いた」のである。

 

 幽霊2に連れられてスクルージが垣間見たのは、書記宅のクリスマス風景だ。妻や子が力を合わせて鵞鳥や馬鈴薯の料理をつくり、できあがると家族で食卓を囲む。食後に書記が神の恵みを乞う言葉を述べて「スクルージさんの御健康を祝します」と言い添えると、妻が痛烈な皮肉を口にする。「あんないやな、けちな、冷酷(れいこく)な、薄情(はくじょう)な人の健康を祝ってやるんですから、たしかにクリスマスにはちがいありませんわね」

 

 そして幽霊3は未来に入り込み、取引所で実業家が交わしている会話をスクルージに聞かせる。「いつ死んだのですか?」「昨夜らしいですね」「あの男ばかりは不死身だと思ってましたがね」。葬式の話になると「弁当が出るなら行ってもいいですがね」。別の場所では、もっと辛辣な悪罵も耳にした。「とうとうあの悪魔(あくま)め、くたばったじゃありませんか、ねえ?」。ここには「あの男」が生前、面と向かって言われなかった言葉がある。

 

 スクルージが幽霊に導かれたツアーによって、どう変わったかをここに記すのは控えよう。ただ、この体験が自らの姿を第三者の目でとらえ直し、生き方を改めるきっかけになったことだけは間違いない。幽霊は自己客体化の媒介だったと言えるのである。

 

 最近思うのは、人々が面と向かって批判をしあわなくなったということだ。世間に波風を立てないという意味では好ましいことなのだろうが、それによって自分を変える機会を逸してもいる。空想の幽霊を飛ばして、自らを省みる。そんなクリスマスもあっていい。

(執筆撮影・尾関章、通算348回)

 

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『松本清張ジャンル別作品集5――犯罪小説』(松本清張著、双葉文庫)

写真》古紙結わく

 2週続きで拙句から入る、というのは大いに気が引ける。だが、今の心境をそのまま言い表すなら、これしかないと思って暮れの句会に出した句をあえて載せる。

 年惜しむ気にもなれずに古紙結わく(寛太無)

 

 今回の句会では、一つの句に季語「年惜しむ」を用いよ、という縛りがあった。だが、惜しむ気にはどうしてもなれない。それがこんな苦肉の句となった。読み返したくもないニュースが詰まった古新聞を年の終わりに紐で束ねる。そんなイメージだ。

 

 そう言えば、と思いだすのは、英国のエリザベス女王が1992年11月の即位40年式典で口にしたひと言だ。「アヌス・ホリビリス」――1年を振り返り、ラテン語で「ひどい年」「怖い年」と嘆いたのである。英王室はゴタゴタ続きで、チャールズ皇太子とダイアナ妃の不仲は深刻になっていた。追い討ちをかけたのが、式典直前にあったウィンザー城の火事。気持ちは痛いほどわかる。僕はロンドンに赴任したその月に、この言葉に触れた。

 

 ことし2016年にアヌス・ホリビリスを感じている人は、きっと大勢いることと思う。僕も、その一人だ。だが、「ひどい」「怖い」をいちいち拾いあげるのはやめよう。それこそ、古紙を結わいて葬ったつもりになったことばかりだ。ただ、特記したい出来事が二つだけある。一つは、英国が欧州連合(EU)からの離脱を決めたという話。もう一つは、米国で「暴言王」とも言われたドナルド・トランプ氏が次期大統領に選ばれたことだ。

 

 どちらも、よその国の有権者の選択だ。結果は尊重しなくてはなるまい。しかも、これらには経済のグローバル化に抵抗するという共通項があって、ローカルな経済や文化を守る視点からみれば悪いことばかりではない。では、どうして「ひどい」「怖い」なのか。あえて言えば、人々が第2次大戦後、これこそが人間社会の進化だと考えてきた方向性をいともあっさり一蹴してしまったことか。戦後の価値が幻に見えるという怖さ。

 

 日本社会では、戦後民主主義の風化ということが言われて久しい。だが、今年を振り返ると、それよりもずっと大きな変化がずっと広い範囲で起こっているように思われる。日本ローカルではなく、万国グローバルの現象。そこには、異質なものを嫌う不寛容の方向性がある。あるいは、論理と議論を忘れた行動様式もある。それが国境なしに広がった背景には、20世紀末から21世紀にかけて人類が体験したなにものかが潜んでいるように思う。

 

 で、今週の一冊は『松本清張ジャンル別作品集5――犯罪小説』(松本清張著、双葉文庫)。なぜ清張かと言えば、戦後社会を生活の次元で切りだした断面が彼の作品から見えてくるからだ。当欄でかつてとりあげた『死の発送』という長編では、鉄道が融通の利くダイヤで運行されていた時代を垣間見るができた(2015年12月25日付「清張の鉄路、緩すぎるダイヤの妙」)。そこには、コンピューター以前ののどかさが確実に存在していた。

 

 今回の本には、小説6編が収められている。初出誌の号でみれば1958〜67年に発表された作品群だ。戦後とはいっても高度成長期に入ってからの日本社会が舞台となっている。とりあえず世は太平であり、人々の暮らしぶりもそこそこに豊かになっているから、現在につながる連続感があってもよさそうだ。だが、読み進むと断絶感のほうが強まってくる。ああ、そんな時代もあったなあ。2016年には通用しない物事に出会ってそう思う。

 

 所収作品は書名の通り、犯罪もしくはそれに準ずるものを描いている。それらの筋立てには今、成立しないものが少なくない。そこに断絶感がある。これは、公序良俗にとっては大変喜ばしいことだ。ただ、ここで書名を「善行小説」に改め、登場人物の振る舞いを悪行から善行へ逆転させたときのことを考えてみる。そうすると、善行もまた昔と比べてやりにくくなっているのではないか、と思えてくる。善すらも管理社会のもとに置かれている。

 

 どっちを向いても閉塞感がある。だから逃げ道が見つかると、みんなが一斉にそちらへ雪崩れ込む。「ひどい」「怖い」の根っこには、そんな社会心理があるのではないか。

 

 その閉塞感の裏返しで成り立っているのが、冒頭の「断線」。1964年に週刊誌に連載された中編だ。当欄は、この一編を中心に書く。都内の証券会社に勤める光夫が銀行の窓口で働く英子と結婚するが、クラブホステスの乃理子とも関係を絶てずに出奔する。彼女との同棲中に、こんどは自称貿易商の妻という関西在住の左恵子とも愛人関係になる――というとんでもない男の話。殺人含みではあるが、それよりも光夫の逃避行が読みどころだ。

 

 今では考えられないのは出奔の経緯。光夫は九州へ出張に行くと言い残し、トランク二つを提げて家を出る。1週間くらいとのことだったが、旅先からは「葉書一枚こなかった」。10日ほどたって勤め先に電話で問い合わせると、返ってきた答えは「一週間前に辞めましたよ」。妻は、新婚なのに10日間の音信不通でやっと夫の異変を悟ったのだ。今ならば、メールやラインの交信が途絶えればすぐ怪しむ。九州出張も日帰りが多いことだろう。

 

 光夫は本名と偽名を使い分ける。旧姓は「田島」だったが、結婚後は戸籍名を英子の姓の「滝村」に改める。だが乃理子の前では「友永」を名乗った。ところが左恵子に誘われて関西生活を始めてからは、「滝村」で通したのである。これが逃避行を続けるうえで大きな助けとなるのだが、今日ではこんな工作も難しい。名前の嘘は「運転免許証かパスポートを」「なければ保険証などの文書2点を」と本人確認を求められたとたんにばれるだろう。

 

 実際に光夫は、出奔後に幾度か就職で履歴書を出すことがあるのだが、いずれも本人確認は緩かった。乃理子と同棲していたころ、クラブのボーイの職を得たときは戸籍謄本が不要だったので、友永のままでいられた。大阪で中小の広告会社に本名で入ったときも、やはり謄本なしで済んだ。このあと在阪大手の製薬会社に転職したときは戸籍の写しが必要となったが、興信所員を巧妙に篭絡して身元調査による過去の詮索を避けることができた。

 

 身元のあいまいさは、光夫に何をもたらしたのか。大阪に移り住んでから、新聞記事で自らが犯した事件で警察が「友永」という男を指名手配したことに気づくが、自分は「滝村」なので別人のように思えた。一方、「滝村」を名乗っても身元確認が緩かったために、捨て去った家庭へ引き戻されることもなかった。これらのことそのものは法治や倫理に反していて許しがたい。だがそれを、当時の社会にあった開放感の副作用とみることもできる。

 

 犯罪や蒸発と直接にはかかわらないところでも、時代の緩さがのぞいて見える。乃理子の留守宅に預金先の銀行から電話がかかってくる場面。光夫が電話口で彼女の通帳の中身を尋ねると、先方はためらうことなく金額を教えてくれる。このとき銀行員が身元を質すために口にしたのは「失礼ですが、同居人の方ですか?」のひと言だけ。「そうです、同居人です」と答えると「内縁の関係と察した」ようで無警戒になった。今は、こうもいくまい。

 

 あのころは、身元のあいまいさが死者にもあった。この本に収められた「小さな旅館」という作品では、犯人が一組の男女を殺した後、死体を床下に埋めてこう述懐する。「初め大へんな仕事だと思っていたが、いざ終ってみると、嘘のように楽だった」。楽観の背後には「あと一年もすれば」「完全に白骨になってしまう」という見通しがあり、それで誰の骨だか突きとめられまいと高を括ったのだ。ここでも今ならば、DNA型鑑定がある。

 

 当欄で僕は、ノーベル賞作家パトリック・モディアノの『失われた時のカフェで』(平中悠一訳、作品社)をとりあげ、「モディアノで憂うマイナンバー時代」という一文を書いた(2015年7月17日付)。この小説には、パリのカフェにあだ名で通う女性が登場する。人はだれも、番号を付されるような特定から逃れたいと思うものだ。あのときに書いたように「ふつうに市井に生きるふつうの人々にも逃げ場は欠かせない」のである。

 

 ふと思うのは、「ひどい」「怖い」の元凶は科学技術かもしれないということだ。それは悪を封じる一方で人々の逃げ場を奪っている。今こそ緩やかさを尊ぶ知性がほしいと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算347回)

 

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