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当欄の後継「めぐりあう書物たち」は暮れのひと月、戦後の日本社会を振り返りました。

戦争の記憶の風化が言われますが、戦後の記憶もまた忘却されようとしています。

そんな思いで本を選んでいたら、こんなラインアップに――。

追放、パージというイヤな言葉」(2020124日)

小柴さんはアメリカに船で渡った」(20201211日)

野に咲く花、あの社会党はどこへ 」(20201218日)

もく星号はなぜ2度落ちたか」(20201225日)

20201228

尾関章

当欄の後継「めぐりあう書物たち」は晩秋、一冊の科学史本をとりあげました。

『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)

知的探究としての科学が私たちの人生とどうつながっているかが、そこはかとなく見えてきます。

「科学のどこが凄いかがわかる本」(20201120

「偶然のどこが凄いかがわかる本」(20201127

2020121

尾関章

当欄の後継「めぐりあう書物たち――『読む』『考える』のby chance」ではこの9月、新聞記者という仕事を話題にしました。元新聞記者として、先輩たちが活躍した時代に思いを馳せ、後輩たちが直面する苦難を察して、これからのジャーナリズム像を探ったのです。

新聞記者というレガシー/その12020911日)

新聞記者というレガシー/その22020918日)

新聞記者オールディーズ考2020925日)

 

もしよろしければ当欄過去記事から以下8点も、どうぞ。

ジャジャジャジャーンの事件記者201452日)

バルザック、ジャーナリズムへの愛憎201519日)

新聞人という絶滅危惧種2015731日)

ジャーナリスト失速を思い知った夏2016826日)

記者にマニュアルは似合わない2019426日)

「新聞記者」にはもう怖くて戻れない2019726日)

横山秀夫「64」にみる記者の生態学20191025日)

今どき、新聞を創刊するとしたら2020124日)

 

20201012

尾関章

当欄の後継「めぐりあう書物たち――『読む』『考える』のby chance」ではこの8月、3回にわたって戦争のことを考えました。コロナの夏であっても、忘れてはならないと。

コロナ禍の夏、空襲に思いを致す2020814日)
特別な8月、コロナと核の接点2020821日)

戦時の科学者、国家の過剰2020828日)

 

もしよろしければ当欄過去記事から以下4点も、どうぞ。

金子兜太「南方」のリアル2018323日)

太宰治、戦時の帰郷で見えたもの2018622日)

戦争の始まり方を山田風太郎に学ぶ2019830日)

サザエさんで終戦直後の平凡を知る202036日)

2020830

尾関章

当欄の後継「めぐりあう書物たち――『読む』『考える』のby chance」では、文理両道の人、寺田寅彦の話題を2週にわたってとりあげています。

寅彦のどこが好き、どこが嫌い?2020731付)

寅彦にもう1回、こだわってみる202087付)

もしよろしければ、当欄過去記事から以下2点もあわせてご参照を。

熊楠の「動」、ロンドンの青春201762日付)

かたち」から入るというサイエンス2016819日付)

20208

尾関章

 


当欄の後継「めぐりあう書物たち――『読む』『考える』のby chance」は、開店からまもなく2カ月。

これまでの拙稿は、下記の通りです。

ご高覧いただければ。

2020年6月

尾関章  

当欄の後継「めぐりあう書物たち――『読む』『考える』のby chance」がきょう、下記のサイトに開設されました。

https://ozekibook.com/

初回は、改装にあたっての所信表明。

当欄の経験を振り返り、再出発への思いを手短に述べました。

ご笑覧いただければ。

 

2020年4月17日

尾関章


当欄は、https://ozekibook.com/に移転します。

新しい看板は「めぐりあう書物たち――『読む』『考える』のby chance」。

現在、大改装の真っ最中(工事は公開しています)。

まもなく、開店の予定です。

これからも、おつきあいいただければ。

 

*当サイトは「本読み by chance」の保存庫として活用しつつ、もう一つの語らいの場に育てていきたいと考えています。

尾関章

『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)

写真》在でなく存、内でなく外

 大人になろうとするころ、僕の意識にどこからか舞い込んできた言葉に「実存主義」がある。いつだったかは思い出せない。だが、その語感になんとなく好感を抱いたことは覚えている。これから生きていくことに対する不安を軽減してくれそうな気がしたのだ。

 

 これには、1960年代の論壇状況が深く関係している。たいていの論調は、右か左か、保守派か進歩派か、という座標軸で位置づけることができた。この物差しは、政治経済の文脈では自由主義対社会主義に対応する。ただ、僕のようなへそ曲がりの少年には、そのどちらにも与したくないという思いがあった。あのころの実存主義は、左がかっているように見えてもゴリゴリの社会主義とは距離を置いていて、共感しやすかったのだ。

 

 字面の妙もあった。「実存」は、英語ではexistence(存在)だ。「実存主義」はexistentialism。これを、存在主義と訳さなかった先哲の言語感覚には脱帽する(日本版ウィキペディア=2020年2月21日最終更新=によれば、命名者は九鬼周造という)。実存主義は、実在論(realism)とは違う。主題は、モノが在ることではない。人が存在することにある。「実存」の二文字で、僕たちはその含意をうっすらと感じとっていた。

 

 もう少し、言葉にこだわってみよう。気になるのは、existenceの接頭辞exだ。「外へ」という感じか。哲学の常として興味の向かう先は人間の内面のはずだが、ここには外向きの志向性もある。邦訳「実存」は、その側面とも響きあっているのではないか。

 

 改めて思い返すと、1960年代は唯物論の優位が顕著だったように思う。これは、政治座標軸の左右を問わない。左の背後には、マルクス主義の唯物史観が控えているのだから当然だ。ところが、右にもモノ志向が強まっていたように僕は思う。とりわけ日本社会は高度経済成長まっしぐらのころで、大量生産が合い言葉だった。僕たちは、物質世界を無視できなかったのだ。世を挙げて、内にこもってはいられない心境にあったと言ってよい。

 

 ただ、当時の僕は実存主義に心惹かれるだけで、それを習得していたとまでは言えない。ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』やアルベール・カミュの『異邦人』を読みかじって空気感を味わったものの、それ以上は進まなかった。とくにカミュ自身は実存主義に批判的だったから、頭は混乱するばかりだった。(当欄2018年8月10日付「異邦人ムルソーのママンとは何か」、当欄同年11月30日付「いいねばかりの時代の不条理考」)

 

 だからもう一度、実存主義の本をきちんと読みたい、という思いが僕には強い。同世代には、そういう人が少なくないだろう。ここで心にとめておきたいのは、思想状況が大きく変わってしまったことだ。左右の座標軸はとうに消えかかっている。旧来の社会主義はすっかり色褪せてしまった。唯物論も、モノ志向も、かつてほどの勢いがない。物質よりも情報、モノよりもコトの時代である。そんなときに実存主義はどういう意味をもつのか。

 

 で、今週は、そんな問いに答えてくれそうな1冊。『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)。「ガブリエル著」としていないのは脱字ではない。「著」は表紙にも奥付にも見当たらない。理由は、著作権表示を見ればわかる。原題にby Markus Gabrielと添えられてはいる。だが各章には、それぞれ著作権を主張する筆者がいる。この本は、それらの論考をジョスラン・マクリュールという序論執筆者が編みあげたものだ。

 

 ガブリエルは1980年生まれ、現在、ドイツ・ボン大学で教授を務める哲学者。この本では、第1章「新実存主義――自然主義の失敗のあとで人間の心をどう考えるか」(この章題が本書全体の原題)で持論を展開、第2〜4章でカナダ、フランス、ドイツの学究に論評を委ね、第章で返信風の論考を執筆している。原著は2018年、邦訳は20年1月刊。当欄は第1章と第5章を紹介するので、ガブリエルを「著者」と呼ぶことにする。

 

 第1章の冒頭で書かれているのは、心を脳との関係でどうとらえるか、ということだ。この問いに、「実存」の文脈で光が当てられたのである。旧来の実存主義が華やかだったころと比べ、脳研究が進んだからこその新機軸だろう。生物学では、脳生理学が進んだ。情報科学では神経回路網(ニューラルネットワーク)の理論が生まれた。今や、脳の働きは人工知能(AI)に代行されようとしている。ところが、心は未解明ではないか?

 

 著者によれば、新実存主義の「心」観は単純ではない。「『心』という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしない」と考えるのだ。意識がある、警戒する、知性がある……といった「心的語彙」は、人間の「特異なあり方」を説明する語群にほかならない。「特異」とは「物理法則が支配する無生物」とも「生物学的パラメータによって突き動かされる動物」とも違うことを指している。

 

 これでは埒が明かないな、と戸惑っていると、著者は救いの手を伸ばしてくれる。「心的語彙には、それを取りまとめる不変の統一構造がある」として、「精神(ガイスト)」という用語を引っぱり出してくるのだ。それは「雑多で、多様な変化をみせる心的語彙の背景にある不変なものを説明する」。このあとに「精神は、長い歴史のなかで、人間と人間以外のものの区別をいろんなやり方で理解しようとしてきた」という記述にも出会う。

 

 ここで、「不変」という言葉に惑わされてはならない。著者によれば、精神が人間の行為の説明に一役買うとき、「歴史的に変転していく人間観」が参照されることがあるという。精神という枠組みは変わらないが、人間観は歴史軸のなかで変わるということだ。

 

 著者は、この視点に立って人間と自然界の事物(この本では「自然種」と呼ばれる)とを対比する。素粒子の世界にはフェルミオンと呼ばれる粒子群がある。それらは、粒子に具わるスピンという数値が1/2のような半整数になることで特徴づけられる。著者が指摘するのは、フェルミオンのスピンは「われわれの知識が正しいか誤っているかにかかわらず、現にある通りのもの」ということだ。自然種のありようは、人が誤認しても揺るがない。 

 

 この本の原題に「自然主義の失敗」とあるが、その「自然主義」は自然種還元論と読みかえてもよさそうだ。著者は、新実存主義が心と脳の問題に「正面から」向きあっていることを強調して、こう言う。「何千年ものあいだ志向的スタンスで記述されてきた現象、われわれが心のなかで起きるその経験を記録してきた現象が、自然のなかにその等価物を見つけることで、あますところなく理論的に統一できるなどと期待すべきではない」

 

 著者は、今日の「自然主義」の落とし穴も洗いだしている。それは、英国の医師レイモンド・タリスの論法にならって「ニューロン熱」と「ダーウィン炎」と称される。著者によれば、前者は「脳」または「神経回路」を「洗練した心的語彙に対応する自然種」とみることであり、後者は「人間のあらゆる行動」を「進化生物学や進化心理学」の立場から説明づけようとすることだ。これら二つは、互いに「関連する病気」であると位置づけている。

 

 新実存主義は旧来の実存主義の後、自然科学がたどった軌跡の難所を的確に見抜いている。それは、「ニューロン熱」をもたらした脳生理学と情報科学にとどまらない。分子生物学も視野に入ってくる。チンパンジーとヒトの違いがDNAレベルではごくわずかだという知見は「ダーウィン炎」と無縁ではない。著者がそうした人間観に対置するのが、人は歴史のなかで「志向的」という事実だ。僕たちは時間とともに変化する存在なのである。

 

 この本で著者は、心と脳をサイクリングと自転車になぞらえている。自転車はサイクリングにとって必要条件だ。だが、自転車とサイクリングは同じものとは言えず、そこに原因と結果の関係もない。「サイクリングは理論的、存在論的に自転車に還元できない」のだ。

 

 後段で著者は、旧来の実存主義から「人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決定するもの」という見方を引き継ぐことを明らかにしている。人は自分を変えるから人なのだ、そこが自然界の事物とは違うのだ――そう僕は理解した。

(執筆撮影・尾関章、通算517回、2020年3月27日公開)

 

《お知らせ》ちょっと休んで、新装開店します

 当欄は、私が新聞社に在籍中の2010年4月、記者ブログとして始めた「本読みナビ」を原点としています。以来、「文理悠々」(ブック・アサヒ・コム、2012年〜)、「本読み by chance」(個人ブログ、2014年〜)と看板をかえつつ、1週1冊のペースで読書の醍醐味を綴ってきました。今年4月、満10歳の誕生日を迎えることになります。

 さて、この機会に私は、当欄の大幅改装を決意しました。要点は、以下の二つ。

1)ブログの自前度を高める

2)ブログの自由度を高める

 1)については、新装ブログをWordPressで開設しようと考えています。これまではJUGEMのお世話になってきたのですが、これからはできる限り、自力で設計してゆくつもり。すでに着工していますが、ときにはコンピューター向けの人工言語世界にも踏み込まなくてはならないので、試行錯誤の連続です(「建設現場」の現況をご覧になりたい方は、こちらへ)。

 ということで、2〜3週の休業をお許しいただき、4月中の開店をめざします。

 2)については、再開時にその思いを語るつもり。

 これからも、ご愛読いただければ幸いです。

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『偶然世界』(フィリップ・K・ディック著、小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)

写真》テーブルの上の偶然

 カジノ誘致構想は、コロナ禍が勃発するまで経済再生の切り札扱いだった。これは「統合型リゾート(IR)」という訳がわからない名で呼ばれているが、皮を剥いでいけば中心に賭場がある。IRと言われて、カジノなしのリゾートを思い描く人はあまりいない。

 

 賭け事には、よほど強い吸引力があるのだろう。客全員の収支を足し合わせれば赤字になるはずだとわかっていても、賭場にやって来る人は後を絶たない。大損する客が多くても自分だけは違う、と思うのか。胴元が栄えれば地元も潤う。簡単な理屈である。

 

 もう一つ、賭けがらみでは最近、印象に残る言葉がある。ジャンボ宝くじのテレビコマーシャルで笑福亭鶴瓶が発するひとこと――「買わない、という選択肢はないやろう」だ。今昔の広告コピーを見渡しても、これほど強烈なメッセージはないように思う。買うしか選択の余地がないと断言しているのだから……。だが聞かされる側には、さほど抵抗感がない。宝くじがはずれて訴えを起こす人もたぶんいない。これも、賭けの魔力だろうか。

 

 私事を言えば、賭け事にはほとんど興味がない。若いころから、競馬、競輪、競艇のたぐいにハマったことはない。警察回りの記者だったころ、事件取材で競馬場に張りついたことはあったが、馬券を買う人たちの心理はついにわからなかった。馬は美しい。場内の開放感も高揚感も心地よい。なぜ、それだけで満足しないのか?――内心には、そんな思いがあった。とはいえ、世に競馬ブームが衰える気配はないから、僕は少数派なのだろう。

 

 話は飛ぶが、自分自身の原点に思いを馳せると、そこにも賭けがあったことに気づく。その物語は、父母の結婚に始まる。彼と彼女は戦後、見合いで結ばれた。言葉を換えれば、どちらにも不特定多数の候補がいたことになる。このうち、多数×多数の組み合わせのうち、たった一つが成立して、その結果、生を受けたのが僕というわけだ。人口に照らせば、当たりくじがめちゃくちゃ少ない宝くじで1等賞を引き当てたことに相当する。

 

 いやいや、もっとリアルに話そう。僕が生まれるにあたっては、もっとワイルドな賭けもあった。僕の源流の片方にある一匹の精子は膨大な数の仲間と競いあい、ついには逃げきって、もう一方の源流である卵子に飛び込んだのだ。その精子クンは、勝ち馬だった。それは、駿馬のように身体能力が高かったというだけではない。競争につきものの運不運が、すべてよい方向に転んだのだ。ここでも僕は、賭けに勝ったと言えるだろう。

 

 で、今週は『偶然世界』(フィリップ・K・ディック著、小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)。著者(1928〜1982)は、米国シカゴ生まれのSF作家。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などの作品で知られる。『偶然…』は1955年発表の長編第1作。原題は“Solar Lottery”。直訳すれば「太陽のくじ引き」か。邦訳は、早川書房が68年に『太陽クイズ』(ハヤカワ・SF・シリーズ)の書名で刊行、77年に改題、文庫化された。

 

 まずは、この小説の時代設定に注目しよう。最初の1行に「二二〇三年の五月初旬」とあるから、作品の執筆時点から見れば250年ほど先の未来だ。当然のことながら、世界の様相は、発表時の1955年とも現在の2020年ともまったく異なっている。

 

 地球には国というものがなお存在しているらしいが、その国際関係はもはや大問題でなくなっている。地球外にも「火星のワーク・キャンプ」など有人域があり、「九惑星連邦」という統治機構が生まれていた。最高権力者の職名は「クイズマスター」。クイズ番組の司会者というような意味がある。「執政庁」が置かれているのはバタビア。インドネシアの首都ジャカルタの旧名だ。太陽系の系都が、地球のアジアに置かれているのである。

 

 苦笑を禁じ得ないのは、バタビアを「インドネシア帝国の首府」としていること。1955年と言えば第2次大戦終結の10年後で、インドネシアはすでに独立しているが、それを「帝国」と呼ぶのはどうか。もっとも、同じ年にジャカルタ東方のバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開かれているから、第三世界の盟主というイメージが強まっていたのかもしれない。ただし、「バタビア」の名はオランダ領時代のものだから、チグハグではある。

 

 さて、「クイズマスター」という呼び名の謂れについては本文に解説がある。それは、壮大な世界経済史だ。人類の生産力は20世紀に過剰となり、しだいに購買力が追いつかなくなった。22世紀後半に広まったのが、余った商品をクイズの賞品として分配する方式だという。ここでクイズとは、くじ引きめいたものを指しているらしい。こうして、くじ引きの仕切り屋が最高権力者となり、ついにはその地位も、くじで決まるようになったのだ。

 

 この未来では、社会や経済のしくみが壊れただけではない。「人々は自然律に対する信を失った」。物事は因果律に従うという通念が消え、「偶然事象の連続」ばかりが見えてきた――その世界像は、20世紀前半に確立した量子力学が影響しているのかもしれない。

 

 この小説では、「ボトル」という装置がもたらす「出鱈目(ランダム)な権力転位」によって、クイズマスターが入れかわる。劇的な政権交代だ。残念なことに、本文には「ボトル」の詳述がない。もし、それが量子力学にもとづいているならば、原子の状態遷移のような現象が考えられる。ただ著者は、さほど物理学に踏み込んでいない。本人は、カジノに置かれたルーレット円盤のような素朴な機械を思い描いていたのかもしれない。

 

 こんな政治システムが、なぜ生まれたのか。その事情は、登場人物が語ってくれる。ただ、ストンと腑に落ちるほど明快ではないので、僕なりの解釈を織り込んで読み解いてみよう。背景にあるのは、第2次大戦後に広まった数学者ジョン・フォン・ノイマンらによるゲーム理論。そこでは、考えられる限りの最大損失を最小に抑えるという戦法がある。「ミニマックス」と呼ばれる。ここでものを言うのが、ランダムさなのだという。

 

 ランダムさには、戦略家の分析が通じない。クイズマスターが失脚後、刺客を送って政権を奪還しようとするとき、側近はこう助言する。「あなたがランダムに行動するなら、あなたの敵はあなたの行動を追跡することはできない」「あなた自身ですら次に何をするかわからない」。そのランダムさを制度化したのが、ボトル方式だ。これなら万人がゲームに参加できるし、結果にも納得しやすい。「合理的なやり方」になりうるという。

 

 250年後の未来にはもう一つ、ランダムさが威力を発揮する理由がある。それは、内心の透明性だ。前クイズマスターが側近の助言を聞いて「われわれは計画をたてることができない」と不満を漏らすと、側近は冷たく突き放す。「ティープにかこまれていて計画なんぞたてられますか?」。ここで「ティープ」とは、他人の心を覗ける人のこと。核戦争の放射線被害による遺伝子変異で、そういう能力をもつ人々が出現したというのである。

 

 この小説の筋書きは、ひとことで言えば未来の権力争奪戦なのだが、そこでは権力者が優位にある。執政庁の「テレパス機関」がティープ軍団を擁して守ってくれるからだ。実際、新クイズマスターがバタビアに着任しようとするとき、機関の幹部が前クイズマスターの移動先を告げ、「きっとあそこから采配をふるうでしょう。彼の計画の一部はすでにキャッチしました」と伝える。ティープたちは、いつも感覚を研ぎ澄ましている。

 

 もっとも、それに対抗する先端技術もこの作品には登場する。前クイズマスターが政権転覆のために用意した刺客ロボットだ。外見は一人の人間の姿をしているが、頭脳のほうは次々と入れ代われる。そうすることで、ティープの追跡を撒く強みがあるのだ。

 

 幸いにも今、ティープ軍団は存在しない。だが、類似の機能が社会に備わりつつある。温泉へ行こうかと検索エンジンに地名を打てば、旅心が察知され、ホテルの広告が続々と画面に現れる。そうかと思えば、ソーシャルメディアを内心の吐露装置のように使って、胸中を世に曝す人もいる。ディックは、そんな心が透明な世界が「出鱈目(ランダム)」になるだろうと見抜いていたのか。この小説は、ネット社会の行き着く先も暗示している。

(執筆撮影・尾関章、通算516回、2020年3月20日公開)

 

《お知らせ》ちょっと休んで、新装開店します

 当欄は、私が新聞社に在籍中の2010年4月、記者ブログとして始めた「本読みナビ」を原点としています。以来、「文理悠々」(ブック・アサヒ・コム、2012年〜)、「本読み by chance」(個人ブログ、2014年〜)と看板をかえつつ、1週1冊のペースで読書の醍醐味を綴ってきました。来月、満10歳の誕生日を迎えることになります。

 さて、この機会に私は、当欄の大幅改装を決意しました。要点は、以下の二つ。

1)ブログの自前度を高める

2)ブログの自由度を高める

 1)については、新装ブログをWordPressで開設しようと考えています。これまではjugemのお世話になってきたのですが、これからはできる限り、自力で設計してゆくつもり。すでに着工していますが、コンピューター向けの人工言語まで用いなければならないので、試行錯誤の連続です。

 ということで、2〜3週の休業をお許しいただき、4月中の開店をめざします。

 2)については、再開時にその思いを語るつもり。

 次週金曜日は、「本読み by chance」としての最終回。

 ちょっと早めに、お知らせしました。

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

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