『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)

写真》何キロか何日か

 科学記者を数十年間つづけてきて、いつのまにか身につけたのは「科学は万人のもの」という信念だ。ただ、それはそうあるべきだと考えているだけで、実際にそうであるとは言えない。科学をちょっとでもかじった人ならば、万人が科学に手を出すことがどれほどの難事業かはすぐわかる。数式をみても意味がわからない。実験を始めようにもどこから手をつけたらよいか見当がつかない。結局は「科学は専門家のもの」ということになってしまう。

 

 それでも「科学は万人のもの」を持論とするのは、そうでなければ基礎科学は持続できないと考えるからだ。応用科学は目先の利益に直結するから、投資を呼び込みやすい。これに対して基礎科学はすぐには役立たないから、公費で賄うしかない。ところが僕が科学記者になった1980年代くらいから、基礎科学は巨大化の傾向を強めてきた。今では数百億円、数千億円規模の実験装置が少なくない。だから、納税者の納得なしには先へ進めない。

 

 いわば基礎科学の必要条件として出てきたのが、「科学は万人のもの」という発想だ。もし、科学という知的営みに大勢の人が参加できるのであれば、それを税金で支えようという機運も起こってくる。こうしてみると「科学は万人のもの」は基礎科学の生命線なのだ。

 

 では、「科学は万人のもの」のイメージはどんなものか。真っ先に思い浮かぶ見本は、スポーツだ。それは、科学が専門家に囲い込まれるほどには選手だけのものとなっていない。これは、スポーツには取り巻きのファン層があり、選手たちを応援しているからでもある。さらに草サッカーや草野球に興じたり、市民マラソンに出場したりして、自分自身でスポーツを体感する人もいる。科学にも、こうした回路をつくれないものだろうか。

 

 実は、それが難しいのだ。科学界を見渡すと、アマチュアに活躍の余地がある分野がないわけではない。昆虫の新種を見つけたり、古生物の化石を掘りだしたり、新しい天体を発見したり。博物学的な収集活動で貢献しているのだ。ところが、研究の本筋――たとえば法則を探りあてることや理論を組みあげること――に目を向けると、科学者の独擅場となる。このことが、科学のアマチュアに疎外感を生みだしているように思われる。

 

 おもしろいのは、文系の学問のほうが「万人のもの」に近いことだ。一例は、古代史の邪馬台国論争である。国の在り処をめぐる畿内説と九州説の対立だが、ここにアマチュアも加わっている。もちろん、論陣を張るのは学者たちだ。アマチュアは解説書を読み、どちらか一方への支持を表明するくらい。だが、その肩入れは半端ではない。当事者意識をもって自己主張している風がある。そこには学問そのものへの参加意識が見てとれる。

 

 で、今週の1冊は、先週に続いて松本清張著『駅路――傑作短編集(六)』(新潮文庫)。と言っても、同じ所収作品について改めて、あれこれ書くつもりはない。このあいだは触れなかった一編、「陸行水行」に焦点を絞る。邪馬台国論争を主題とする短編小説である。

 

 今回、この小説を切りだすことにしたのは、それがアマチュアと学問の関係を考える一助になるからだけではない。巻末に収められた文芸評論家平野謙の一文に誘われたこともある。短編集全体の「解説」なのに、紙幅の大半を「陸行…」礼讃に費やしている。その解説によると、この作品は1962〜63年のものらしいが、それに先立つ55年ごろ、著者のノートに「『邪馬台国考』事件」「これはまだ捨てぬ」という書きつけがあるという。

 

 1955年と言えば、著者はすでに芥川賞作家ではあったが、勤め先の朝日新聞社をまだ辞めていない。「著者は職業作家として世に立つ決意にまで踏みきる以前から、ひとりのアマチュアとして邪馬台国論争を自分なりにコツコツ調べあげ、独自の意見を抱いていたかもしれない」と、平野は推察する。「陸行…」にはアマチュアの史家が登場するが、著者も似たような立場にあったのだ。アマチュア視点の学問論が、ここには埋め込まれている。

 

 本文に入ろう。作品冒頭の舞台は、大分県の安心院(あじむ)という田舎町。宇佐神宮に近い宇佐駅から鉄道とバスを乗り継いでたどり着く盆地にある。山裾に向かってとぼとぼ歩くのは「私」、川田修一。「東京の某大学の歴史科の万年講師」だ。「宇佐という一つの古代国家が曾つてこの地域に存在していたであろう」とみて実地調査をしている。宇佐は「日本古代史の中で一つのアナ」らしい。だから、研究者の野心をそそるのである。

 

 「私」が坂を登って神社に向かうと、「粗末な木で囲った垣の中に古い石が一個ぽつんと置かれてあった」。それがご神体。自然物を崇める古代信仰だ。一服しながら宇佐勢力圏のことなどを考えていると、坂の下に足音がする。30代半ばの長身の男。くたびれた装いに履きふるした靴。手帳と鉛筆をとりだして石のスケッチに余念がない。「もしかすると、九州のどこかの高校教師か郷土史家かもしれないと私はひそかに踏んだ」

 

 ここで二人は会話を交わす。「私」が名刺も差しだすと、男は「俄(にわ)かに敬意を表したように軽く頭を下げた」。肩書の「東京」や「大学」の威力か。一方、男の名刺には「愛媛県温泉郡吉野(よしの)村役場書記 浜中浩三」とある。「私」の読みはそんなに的外れではなかったが、四国在住とは。八幡浜から別府まで船で渡って来たのだという。これが、学界非主流の古代史学者と地方のアマチュア史家との出会いだった。

 

 「私」が「この辺の史蹟調査にでも」と尋ねると、浜中は「いや、私のような素人(しろうと)は、とても史蹟調査などといったような大それたことはできません」「歴史の基礎知識はございませんから」と答える。アマチュアのへりくだりの一典型である。

 

 話題はやがて、邪馬台国論争になる。浜中がもちだすのは、中国の史書「魏志倭人伝」に記された朝鮮半島から邪馬台国に至る旅程だ。これこそが論争の焦点でもある。「不弥(ふみ)国」と呼ばれる地点までは「…里」という里程で表されているのに、そこから先は「水行二十日」「陸行一月」のように日数月数の表記であることに浜中は注目する。「つまり中国の使者は里程をしるした所だけ歩いたのです。日数のほうは想像だと思うんですよ」

 

 これに「私」は「新説ですね」と応じる。ただの外交辞令ではない。着眼の新しさに心底「感心した」のである。「人が実際に自分で歩く場合は距離感を実感として受けとる」のに対し、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」。その違いに気づいたことを多とするのだ。

 

 浜中のほうは「先生」が興味を示してくれたことがうれしい様子で、学界批判を始める。「魏志…」の「解釈の混乱」についてこう言う。「各人各説で面白いのですが、どの学者も自分に都合の悪い点は『魏志』の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています」。ありそうな話だ。学者はいったん学説を立てると、それを守ろうとしてご都合主義の理屈づけに走りがちだ。これは自らの地位を保全する行為でもある。

 

 苦笑するのは、アマチュアにも同様の嫌いがあることを著者が皮肉っている点だ。浜中は、「不弥国」の「不弥」はアヅミであり、それがアジム(安心院)に訛ったとにらむ。中国人はアヅミをハヅミと聞きとり、ハには同じハ行の「不」の字を当て、ミは「弥」としたというのだ。「中のヅはどうなりますか?」と「私」が問うと、「写すときにうっかりとヅの漢字を脱かしたのだと思います」。誤写をもちだすことへの批判がブーメランで戻ってくる。

 

 考えてみれば、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」というのも、ちょっと強引だ。浜中の理屈では、日数表現は具体性がないから他人から聞いた話だろうというのだが、自分自身で旅したからこそ何日かかったかを言いたくなるということもあるはずだ。

 

 小説を先へ読み進むと、浜中が胡散臭い人物だとわかる。だが、隔たりの表し方に意味を見ようとした着眼は大したものだ。それを謙虚に受けとめた「私」の度量も認めたい。この一件では、アマチュアと学者が対等な関係にあるように僕には思える。

 

 アマチュアの着眼が科学者を唸らせる。理系でも、そんなことがあってよい。

(執筆撮影・尾関章、通算481回、2019年7月19日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)

写真》駅名

 私事だが、スマートフォンの保存フォルダーに、これぞ昭和という画像がある。ひなびた駅のプラットホームで写した集合写真。男女総勢10人ほどが並んでいる。働き盛りの20〜40代とみられる人々だ。背広姿で髪は七三分け、ネクタイを締めた男性たちがいる。スーツ姿でスカートをはいた女性たちがいる。画像に撮影年月日のデータはないが、この装いからみて昭和の高度成長期かその余韻が残るころに撮られたとみてよいだろう。

 

 職場の懇親旅行であることは、ほぼ間違いない。服装がカジュアルでないのは、推察するに週末1泊2日の旅程だったからではないか。あのころはまだ、週休2日制が日本社会に広まっていなかった。勤め人は、土曜日も出勤して昼まで働いた。この人たちもおそらく、土曜の昼過ぎにようやく仕事から解放され、通勤服のまま行楽地に赴いたのだ。だから、職場をそっくり切りだしたような雰囲気を旅先まで引きずっている。

 

 この画像は最近、親類の葬儀で披露された故人のスナップ写真をスマホの内蔵カメラで写し取ったもの。故人は1960年代から硬派の法人で働いていた。その堅実な職業人ぶりが偲ばれる1ショットを僕自身の記憶にもとどめておこう、と思ったのだ。

 

 で、その集合写真を見ているうちに故人の懇親旅行にもう一歩踏み込みたくなった。これはいったい何線の何駅なのか。そんな問いが頭をもたげたのだ。画像には、いくつかのヒントがある。背後の駅名表示板は大半が人々の陰に隠れているが、冒頭の1文字だけは見てとれる。ひらがな表記では「し」、漢字では「下」、ローマ字では「S」。ローマ字の2文字目上部が縦棒2本のこともわかる。「SH」? 「した」か「しも」で始まる駅名らしい。

 

 ヒントは、もう一つ。隣駅の名が、ひらがな表記で2文字見えるのだ。「はだ」である。そのローマ字表記も「HADA」の4文字がはっきりしている。5文字目は微妙で、左側に縦棒が1本あり、そこから右に横方向の枝が出ている。「F」とか「K」とか「P」とか「R」とか、そんな文字が思い浮かぶ。日本の鉄道で「下…」という駅が「はだ…」という駅と隣りあっているところはないか――こうして僕の探索が始まった。

 

 これは、まるでミステリーだな。不謹慎なことだが、2時間ミステリー(2H)ファンの好奇心がうずいた。今の時代はネットという最強の味方がある。なんとかなるかもしれない。そう思っていろいろ検索すると、最後は正解と思われる駅名にたどり着いた。そこは、東京のオフィス街で働く人々が1泊2日で気分を一新するのに手ごろな温泉地だったが、ここで種明かしするのは控えておこう。みなさんご自身の手でぜひ謎解きを。

 

 で、今週は『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)。表題作を含む短編10作品が収められている。奥付によれば、初版は1965年、そのあと改版されてはいるが、おおむね60年代半ばまでに発表されたものを集めているとみてよいだろう。

 

 ページを繰っていくと、むかし読んだことに気づく作品がある。著者の短編集は複数の版元から多様な組み合わせで出ているから、別の本で出会っていたのかもしれない。読んではいないが、ぼんやり筋を思いだせるものもある。テレビでも著者の作品を原作とするドラマが量産されているのだ。ミステリーが既読既視というのは謎解きの醍醐味を激減させるが、それでも読みたい気になるのは作品に筋書きとは別の魅力があるからだろう。

 

 その一つが旅情だ。著者の作品では、代表作『点と線』のように列車のダイヤが事件の謎を解くカギとなっていることがあるが、そうでなくとも鉄道が欠かせない。理由は、作品の主人公が東京の住人であっても事件は都内で完結せず、「地方」での出来事を伴うからだ。両者を結ぶ仕掛けとして鉄道がある。著者は、中央と地方を対比させる作家だった。そのモチーフが、旅情を呼び起こして読み手の心をつかむことにもなったのである。

 

 短編集『駅路』にも、表題作の題名に暗示されているように旅の話が多く出てくる。執筆年代は前述の通りなので、新幹線はまだない。だからこそ、東京からみると地方は途方もなく遠い。そのことで主人公には、東京とは別の座標系が用意されていることになる。

 

 新幹線の不在を痛感させられるのは、「ある小官僚の抹殺」という作品。「昭和二十×年」の話だ。このなかで、中央官庁の課長が岡山県内へ視察に出るときの旅程を見てみよう。東京駅20時45分発の下り急行「安芸」で旅立ち、翌朝10時37分に岡山到着。それから4日間をかけて県内6カ所の食品工場を見て回ることになっていた。今なら日帰りで済む出張がほぼ1週間がかり。この距離感は、僕が幼いころには間違いなくあった。

 

 この小説では、課長が予定を大幅に変える。岡山に着くなり、出迎えた工場関係者に「今日はどうしても東京に帰らねばならぬ」と言いだして、切符を用意させるのだ。その列車は岡山16時37分発の上り急行「さつま」。今日帰るとは、今夜の夜行で帰途に就くことを意味した。ちなみに急な予定変更の理由は、往きの夜行列車が姫路駅に着いたときに買った朝刊の記事にあったらしい。駅売りの新聞が最速の情報源という時代だった。

 

 新幹線は大都市間の瞬間移動装置に近いが、在来線には移動の途中がある。それを感じさせるのが「誤差」と題する一編。「宿は六軒ぐらいだった」の一文で始まり、「東海道線から私線で二時間ばかり山奥に入る湯治場である」と続く。そう言えば、在来線で旅行していると、停車駅に私鉄電車のホームが併設されているのを見かけることがある。地方都市はただの通過点ではない。そこから先にまた別の世界が控えていることに気づかされる光景だ。

 

 その「湯治場」は「H鉱泉」だ。近くは「仏法僧の棲息地(せいそくち)」。秋が深まれば「渓谷が紅葉に彩(いどろ)られる」という。こんな記述に触れると、読者はそれがどこだか知りたくなる。ただ、「H鉱泉」「仏法僧」を手がかりにネット検索をかけてみても、「下…」「はだ…」で駅を特定したようにはぴったりの地名が出てこない。もしかしたら架空の設定なのか。だが怒るまい。小説には虚実の空間をとり交ぜてもよい特権があるからだ。

 

 「捜査圏外の条件」という一編は、昭和20年代半ばに東京で銀行員だった男の話。事情があって山口県のセメント会社に転職する。「東京と本州の果ての海沿いの小さな町。銀行とセメント会社、環境の隔絶はまず申し分がなかった」。これこそが、著者がこだわる中央と地方の対比だ。興味深いのは、男が出発する日、東京駅で同僚たちに見送られることだ。当時、長距離列車のホームは人生の転機にある人に対する激励の場だった。

 

 「万葉翡翠」には昭和の駅の別の顔がある。登山客が夜行列車に群がる新宿駅。「乗客たちはホームから地下道の入口まで一列に坐(すわ)り込んで乗車を待った。ほとんどが若い人ばかりで、リュックの上に腰掛けたり、新聞を下に敷いて本を読んだりしていた」

 

 表題作「駅路」からも、あの時代の中央と地方の関係が浮かびあがる。失踪の物語。冒頭まもなく「この年の春、小塚貞一は、某銀行営業部長を停年で退職した。その骨休みというか、しばらく東京を離れて遊んで来る、と家人に言い遺(のこ)している」とある。

 

 捜索願が出されると、刑事たちが家にやって来る。そこで探りだされるのが、中央の銀行員の地方都市とのかかわり方だ。小塚は本社の部長職に就く前、広島と名古屋で支店長をそれぞれ2年間務めていた。出世の階段となる転勤によって地方を知ったのだ。そして、趣味は旅をして写真を撮ること。妻の説明によれば「独り旅で、勝手に出かけるのを好んでいた」という。果たして「骨休み」「遊んで来る」は漂泊願望の表れだったのか。

 

 アルバムを見せてもらうと、玄人はだしの写真がぎっしりと並んでいる。北陸の東尋坊、永平寺、中部の下呂温泉、犬山、木曽福島、蒲郡、関西の京都、奈良、串本……。この旅先を見て、刑事はあることに思い至る。ここが、このミステリーの読みどころだ。

 

 清張の旅情からは、中央と地方の昭和戦後的な結びつきがよく見えてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算480回、2019年7月12日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

●『ひとは生きてきたようにしか死なない』(草柳大蔵著、解説・下重暁子、祥伝社新書)

写真》週刊誌ジャーナリズム

 死とは何か。僕はずっと、生命が緩やかに先細りして最後にたどり着く終着点と思ってきた。病に冒され、余命をほのめかされれば、悶々と悩むに違いない。ならば苦悩を先取りして、生の危うさについてあらかじめ考えておこう。若いころ、喫茶店に入り、コップを見つめて「実存とは何か」と哲学青年を気どる――そんな習性が僕にはあったが、それもこの死生観に由来する(当欄2016年3月4日「フランクフルト学派で社会派になる」)。

 

 だが、実際は違う。死は遮断にほかならない。そのことを去年、僕は痛いほど思い知らされた。循環器系の発作で間一髪、落命を免れたのだ。緊急入院後の治療で血流を取り戻したのだが、そこに至るまでにいくつもの分岐点があった。一瞬一瞬の偶然がよい方向に振れた結果、救命された。分岐のどこかが逆に振れていれば、そこに死があったのだと思う(当欄2018年10月5日「遮断今週は「まくら」のみにて失礼」)。

 

 これは、突発の病に限った話ではない。おそらく、闘病の見通しが芳しくなく自らの最期に思いをめぐらせている人にも、死は予想の通りには訪れないだろう。大海に突然、疾風が吹く。そのとたん、小舟が転覆して没する。人が死ぬとは、そういうことではないのか。ならば、若いころにコップをにらんで実存を考えていたことが、ばかばかしく思われる。そんなことで死は避けられないし、人生の美しい幕引きを実現できるわけでもない。

 

 それで興味を覚えるのは、僕らの先行世代はどうだったのかということだ。親の世代は戦時中に思春期や青春期を過ごした。男子なら、いつ兵隊にとられてもおかしくない日々を送った。その先には「英霊になる」道筋が現実味をもって待ち構えていた。女子は「銃後の守り」に回ったが、それでも空襲に遭い、生命を落とす危険があった。若くしてすでに「遮断」の可能性が目の前にあったのだ。コップを見つめている場合ではなかっただろう。

 

 で、今週は『ひとは生きてきたようにしか死なない』(草柳大蔵著、解説・下重暁子、祥伝社新書)。著者(1924〜2002)は昭和戦後に一世を風靡した評論家、ジャーナリスト。著者略歴欄には「1948年、東京大学法学部政治学科卒業」とある。学徒出陣に引っかかった世代だ。自分の未来に「英霊」の影が重なっていたに違いない。この本は1999年に保健同人社から出た単行本を甦らせたもの。昨秋、刊行された。

 

 いま「一世を風靡」と書いたが、これには補いが要る。著者略歴欄にある通り、新聞記者出身だが、それを辞めてからの活動が注目に値する。『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年刊)によると、1958年にルポライターとなり、「一時、集団執筆によって週刊誌のトップ記事を作る“草柳グループ”を主宰した」。フリーの書き手によるノンフィクションは1970年代に全盛期を迎えるが、その草分けだったと言ってよい。

 

 この本の刊行を僕が知ったのは、著者のご子息と久しぶりに会ったことがきっかけだ。彼は高校時代の級友。「マスコミは虚業」と言い放って別の道に進んだ。今回再会して、その発言が話題になり、「あれは実は親父の考えでもあった」と打ち明けられた。戦後日本のメディアを切りひらいた人が業界の虚業性を見抜いていた。これは、本人が内省の人だからこそだ。「最近、親父の本が復刻された」と聞いて、それをぜひ読もうと思った。

 

 本の帯に「いかに老い、いかに逝くか」とある。この惹句の通り、著者が70代半ばになってまとめた高齢者向けの生き方指南だ。だが、そこにはジャーナリストの視点がある。

 

 第一章の冒頭は、親友だった陶芸家の死をとりあげた一編。がんで亡くなった後、本人が生前に書き残した書面が著者に届く。余命が短いこと、密葬を望むこと、香料供花の類いを遠慮することを告げ、自作の焼きものの「御愛用」に対する感謝の念が簡潔に綴られている。これを読んで著者は思う。「人生のあらゆる断面で、いつそこで人生が終わってもかまわないほど自己完結度が高い、そういう人生を送りえた人間がいるのではないか」

 

 この親友は、著者と同年の生まれ。尋常高等小学校を出て「南満洲鉄道(満鉄)」に勤めた。終戦時は陸軍飛行師団で兵役に就いていた。戦後、ほとんど独学で陶芸を覚える。「自己決定の連続」のような生活を送った人で、「『陶芸家』といわれるのを嫌って『オレは茶碗屋だ』と言ったが、そこに卑下する響きは少しもなかった」(引用部のルビは省略、以下も)。だからこそ、作品を愛でてくれた友人への謝辞にも「御愛用」とあるのだろう。

 

 自分の美学を貫いた人らしい。だが、肩肘を張った感じがしない、淡々と生き、淡々と死んでいった。昔はそんな人がたくさんいた。この一節で、僕は昭和戦後に引き込まれる。

 

 この交遊からもわかるように、著者は市井の人々を敬愛した。自分史の自費出版ブームを前向きにとらえたくだりにも、その片鱗がある。歴史小説は戦国武将や維新の志士を扱うことが多いが、「戦さをされるたびに迷惑した百姓町人のことはどうなのか。それを書いたのが、山本周五郎氏」という。「一所懸命生きてきた人は、その生きてきた時間そのものが歴史だから、公的な立場の歴史が曲がってしまうと、アレレということになる」は至言だ。

 

 本題に入ろう。まずは老い方の2分類。著者は「年なりに生きよう」型を高僧明恵上人、「まだ若いもんにも負けんぞ」型を旗本大久保彦左衛門になぞらえるが、どちらが良いとは決めつけない。年寄りの内面には明恵と彦左が「同居している」とみる。

 

 この本には、彦左型のがんばりを「老いの入り舞い」「穏座の初物」という言葉で形容するくだりもある。それは、歌舞伎役者が舞台からの退場間際にもうひと舞い踊ることのようであり、青果物と同様、時季遅れであっても捨てがたい、というのだ。

 

 だが著者本人は、どちらかと言えば明恵型寄りらしい。「私は年齢をとって、ただ単に『バカ』をやらなくなったばかりではなく、言葉も動作も“小ぶり”(関西でいう“かさを低く”)にまとめるようになったと思う」と告白している。対談で自分が話す分量を半減すれば相手から聞きだせることが倍増する。著述でも文章を短くすれば「伝えたいこと」がよく伝わる。なるほどと思うことばかりだ。自身の健康法も、ジョギングではなく速歩だという。

 

 この本は、死に方も2分類する。引きあいに出されるのは俳句だ。一方は「働きて忽と死にたや銭葵」(古賀まり子)、他方は「死に死にてここに涼しき男かな」(村上鬼城)。前者は忽然と訪れる死を素直に受け入れる思いの表れだが、後者は難解。著者は道元の思想に照らして「人間は死に向かって毎日を生きているのだから、根本のところは『死を生きている』」という解釈を導く。だが、そんなふうに死を意識した生き方はなかなかできない。

 

 ここでも著者は、どちらが良いとは断じない。「二つの句の間に、人々はその人なりの『死』を置くことになりはしまいか」。かんたんには答えの出ない問いをあえて示して、ああでもある、こうでもあると考察する。この思考様式に、僕は昭和戦後にはあった文人のバランス感覚をみる。ネット時代の今は、こうはいかない。文章の「小ぶり」化も極限にまで達して「伝えたいこと」は伝わるが、そこに熟慮の跡が刻まれることはめったにない。

 

 そして、話は特攻隊に及ぶ。著者は、隊員の遺書に「生きんとして生きがたく、死せんとして死しがたし」という言葉を見つけて、彼らは「『決死』の覚悟で飛び立ったのではない」と書く。「『生還』の可能性」があるから「死しがたし」なのだ。「生還」があるとすれば搭乗機の不具合で基地に戻るような「偶然」しかないが、それでも生き延びる未来が少しはあった。末期患者にも通じる心理だろう。死はいつも偶然と絡みあっている。

 

 僕がもっとも感銘を受けたのは、「墓場に持ってゆく話」と題する一節。世の中には、関係者が死ぬまで語らなかった秘話がやまほどある。だから書物を脱稿したとき、「あんたは、大事なことを知らないで仕事をしてしまったね」という声が床下から聞こえてくる――書斎にいて、そんな空想によく耽るというのだ。ここには、ジャーナリストとしての謙虚さがある。著者草柳大蔵にとって、「虚業」の「虚」は「謙虚」の「虚」ではなかったか。

(執筆撮影・尾関章、通算479回、2019年7月5日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算 回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

●「ゴーンショック――素顔のビシャラ」

(朝日新聞連載、2019年6月21日〜同月28日朝刊)

写真》南米中東欧州――朝日新聞2019年6月21日、22日、25日朝刊

 僕の勤め先は、東京下町の築地にあった。地下鉄日比谷線の東銀座駅で降り、新橋演舞場の角を曲がって市場方面へ向かう。これが、朝の通勤経路だった。粋筋の空気が漂う旧木挽町界隈。沿道には、今も老舗の料亭がある。だが、それだけの街ではない。10年ほど前まで、日産自動車の本社機能がここにあったのだ。演舞場が丸ごと入る高層ビルの上層階が、その向かい側にあるビルとともに「世界の日産」の本拠だった。

 

 20年ほど前のことだ。その一角が慌ただしくなった。日産自動車のトップが外国人に代わったのだ。1999年、フランスの自動車会社ルノーのカルロス・ゴーン氏が「最高執行責任者(COO)」となり、翌年「社長」の肩書を得て翌々年には「最高経営責任者(CEO)」に就いた。後に会長も兼務する。日産は、文字通り「世界の……」になった。僕の職場では、あのころから「ゴーンを見かけたよ」が自慢話の一つになったように思う。

 

 世間話にCEOとかCOOとかいう言葉が出てくるようになったのも、ほぼ同時期ではなかったか。日本の企業社会では、会長→社長→副社長→専務→常務→ヒラの取締役が経営陣の序列というのが通念だったが、そこに最高経営責任者や最高執行責任者という聞きなれない役職が紛れ込んできたのだ。勤め人の間では、その肩書をどう性格づけたらよいものか確信がもてぬまま、トップダウン型の上司を「CEO」と渾名したりしたものだ。

 

 いずれにしても、ゴーン氏の登場は日本の企業社会に衝撃だった。すぐに思い浮かぶ難題は、社内の意思疎通だ。社長がフランス人だからといって、フランス語が公用語になることはあるまい。だが、これまで通りに日本語で丁々発止の議論ができるとも思えない。結局は、国際語の英語を使うというのが妥協点だろう。英語力が海外駐在員のみならず、国内勤務の社員にも必修となった。人々にそう痛感させたのが、あのときのゴーンショックだ。

 

 日本の企業は1980年代くらいから、国際化の歩みを速めた。外国がただの輸出入先ではなくなったのだ。投資の舞台になった。生産の拠点にもなった。経済のグローバル化である。バブル経済の絶頂期には海外に進出する動きばかりが目立ったが、それが崩壊すると逆の流れが強まってくる。外国資本が日本列島に上陸するだけでなく、日本産業界のど真ん中にまで入り込んだ。そのことを象徴するのが、ゴーンCEOの出現だったと言ってよい。

 

 で、今週は新聞の連載記事から。朝日新聞が6月21日朝刊から始めた「ゴーンショック――素顔のビシャラ」だ。28日まで飛び石で5回続いた。同じ主タイトルの記事は、ゴーン氏が去年11月に金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕されて以来、断続して紙面に載っているが、今回は、彼の生い立ちにまでさかのぼった内容。副題は、本名「カルロス・ゴーン・ビシャラ」から採られた。当欄は、その連載の前半に的を絞る。

 

 ゴーン氏は1954年、南米ブラジルに生まれ、6歳からは一家のルーツ、中東レバノンで暮らした。フランスに移り住んだのは17歳のとき。エリート養成校で高等教育を受けるためだ。その後、フランスのタイヤ大手ミシュランに就職してもブラジルで仕事をしている。取材班の記者たちは、そんなグローバルな個人史を浮かびあがらせようと各地で関係者の話を聞いた。最初の3回は、ブラジル、レバノン、フランスの順に焦点を当てている。

 

 第1回の読みどころは、ゴーン氏の祖父ビシャラ・ゴーンさんの立志伝。ちなみに、氏の本名にある「ビシャラ」は祖父の名を継いだものだ。ビシャラさんはレバノン生まれだが、13歳でブラジルへ渡った。アマゾン川流域上流部にあるゴム集積地に住み、鉄道でゴム産地のボリビアに入って砂糖や塩を売り、帰路、青果類を買い込んで地元の町でも商いをしたという。裸一貫の起業家である。20世紀初めのことらしい。

 

 このくだりには、ビシャラさんが移住を選択した背景にスエズ運河があったという説明がある。この運河ができたのは1869年。記事によれば、そのことで「中国産品が欧州に流入するようになり、レバノンから欧州への輸出が減少。経済的に追い込まれたレバノン人は世界各地に移住した」という。遠隔地との交流や交易が海運中心だった時代、欧州とアジアを結ぶ近道の開通は世界を変える一大要因だった。なるほどなあ、と思う。

 

 記事によれば、ブラジルでは、レバノンからの移住者の多くがビシャラさんと同様、「商業で身を立てた」。そして今、大勢の子孫がブラジル人として暮らしている。その理由を、レバノンにあるノートルダム大学レバノン移民研究所のギータ・ホウラーニー所長は、こう解説する。「レバノン人は交易国家として栄えた古代フェニキア以来、商人としての伝統を受け継いできた」。レバノン、シリアの一帯は、かつてフェニキアだったのだ。

 

 この記事を読んでいると、ゴーン氏の系譜が乗りもののイメージとともに目に浮かんでくる。遠い祖先はフェニキアから〈船〉で地中海に出て、沿岸の港町で物品を売り買いしていたのではないか。祖父は新しい活路を求めて南米へ渡り、〈鉄道〉を頼りに商いを始めた。そして氏自身は〈自動車〉をつくっては売る仕事に携わって、〈飛行機〉で世界中を飛びまわる。そう言えば逮捕直前に日本に着いたときも、ビジネスジェットに乗っていた。

 

 連載第2回は、主舞台がレバノンだ。ゴーン氏は、ここでイエズス会系の名門一貫校コレージュ・ノートルダムに入り、高校まで勉学に励んだ。驚くのは、学園の国際性だ。記事によれば、在学時の教職員にはレバノン人に交じってフランス人、スウェーデン人、エジプト人もいた。授業では、公用語のアラビア語のほかフランス語と英語も必修で学んだ。ブラジル時代から家族とはポルトガル語で話していたから、この時点でもう十分に国際人だ。

 

 この学園生活は、地球上には異文化が並存するという意識をゴーン少年の心に植えつけたに違いない。記事には「この名門校で多言語を習得したことが、『多様性』を強調する『ゴーン流経営』の原点を形づくったようだ」という記者の分析が書き込まれている。

 

 この回は、学校時代のゴーン少年評も伝えている。「最優秀の生徒の一人だった」と、ある同級生が言う。「高校時代は負けず嫌いで知られていたそうです」と、現校長は語る。ゴーン少年が夢中になった遊びについての記述もある。「リスク」と呼ばれるボードゲーム。「世界地図の上で手駒の軍隊を動かしながら、敵のプレーヤーの領土を奪い、『世界征服』をめざす」のだという。世界市場の席巻をめざす後年の姿とだぶって見えるではないか。

 

 ところが連載第3回では、ゴーン氏の別の一面が見えてくる。パリで理系のエリート養成校2校に学んだころのことだ。当時の心模様を自著でこう打ち明けているという。「どこに行っても、みんなとまったく同化して集団のなかに溶け込めたと思えたことはありません」。知人によれば、フランス国籍の取得を促されても応じなかったらしい。ブラジルとレバノンの二重国籍にフランスの国籍を加えたのは、日本への赴任直前だったようだ。

 

 ゴーン氏の孤独から推察されるのは、フランスのエリート養成校の冷たさだ。自国の高級官僚や大企業トップの人材を育てようとするあまり、内向きの空気が支配的だったのではないか。そこに、レバノン系でブラジル出身の若者が飛び込んだ。たぶん、少年期の学び舎ほどには多様性志向がなかったのだろう。そのせいか、多言語が堪能でも人々と心を通わせられなかった。その疎外感は、上昇志向のバネにはなったかもしれないが……。

 

 今回の事件について、ゴーン氏が問われている刑事責任をどうこう言う資格は僕にはない。経営者の倫理をここで論じるつもりもない。ただひとつ言えるのは、次のような一般論である。大きな仕事をした人が大きな報酬を受けることは、悪いことではない。世間もそれを受け入れるだろう。だが、その度が過ぎて富のありかが極端に偏ると、人の心に歪みが出る――。今回の事件にも、そんな側面があるのではないか。

 

 ゴーン氏は、働き盛りが新自由主義の台頭期にぴったり重なる。富の分配が市場に委ねられ、成果が収入に結びつく時代は野心に歯止めがかかりにくい。そこに罠があったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算478回、2019年6月28日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『国際エピソード』(ヘンリ・ジェイムズ著、上田勤訳、岩波文庫)

写真》tea or coffee


 いつも昔話ばかりで恐縮だが、今回は中学生時代の思い出から。僕は1964年、中学校に進んだ。東京都内の公立中学校。ここで初めて体験したのが、英語の授業だ。たまたま東京五輪の年、国際化の喧騒が渦巻くなかで母語以外の言語に触れたのである。

 

 忘れがたいのは、その中学校であった英語教育をめぐる異変だ。ゴタゴタと言い換えてもよい。たぶん職員室では、英語教師たちが口角泡を飛ばす激論を重ねていたのだろうと推察する。もちろん生徒は、その内実を知る由もなかった。今からウラをとろうにも、半世紀余が過ぎているから困難だ。憶測を交えることを認めたうえで、何が起こったのかを跡づけておこう。そこに見えるのは、英国派と米国派の対立である。

 

 まずは外形的事実から。その中学校では、僕たちが2年に進級するとき、英語の教科書が突然かわった。1年のときは、いかにも教科書然とした堅苦しいものだったが、2年にあがると、主人公の日常を絵日記風に仕立てた軽快なものになった。今とは違って教師の権威は絶対だったから、学校側は生徒にも保護者にもなんの説明もしなかったように思う。ただ、それが英国流から米国流への転換であることは、子ども心にもうっすらとわかった。

 

 僕個人のことで言えば、英語の先生が1年と2年で違ったことも大きかった。1年のときの先生はダンディな雰囲気を漂わす中年紳士で、appleと言うときに口を縦に開けて「アポー」と発音した。英国流と呼んでよいだろう。ところが、2年のときの先生は大学を出てまもない青年で、appleはほとんど「エプー」だった。口を横に開く米国流だ。こうして僕は中学1、2年にして、英語が一つでないことを知ったのである。

 

 いま考えると、この教科書の取りかえが1965年の出来事だったのは興味深い。このころまで、日本人にとって英語は西洋文化を取り込むための教養だった。それなら本家に従ったほうがよいから、英国流が尊ばれたのだろう。ところが戦後の冷戦で米国が西側陣営を牽引するようになると状況は一変する。国際社会を生き抜く道具として米国流の英語が重宝されるようになったのだ。その潮目が見えたのが60年代半ばだったのではないか。

 

 後年、僕が新聞記者として英国に駐在したとき、米国流英語が英国人の耳にどう聞こえるかを職場の現地スタッフに尋ねたことがある。その返事を意訳すれば「訛りが耳に障る」という話だった。標準語しか知らない人が方言に対して抱く違和感に近い。それでもテレビを観ていれば、ニュースであれ、娯楽番組であれ、米国流があふれかえっている。その時代状況を甘受しつつ、あれは方言だね、と冷ややかに見ている感じなのだろう。

 

 で、今週は『国際エピソード』(ヘンリ・ジェイムズ著、上田勤訳、岩波文庫)という小説。巻末の訳者解説によると、著者(1843〜1916)は米国ニューヨーク生まれ、少年期から欧州経験を重ね、1875年にフランスのパリへ、翌76年には英国のロンドンへ移り住んだ。さらにイングランド南東部に転居、英国籍も得ている。この作品が世に出たのは79年なので、米国人の著者が英国人になりかかったころに書かれたと言ってもよい。

 

 実際、この小説は二部構成になっており、第一部は米国東海岸、第二部は英国ロンドンをそれぞれ主舞台にしている。米英を知る人が米英を描いた。だから米国小説とは呼びがたい。だが、英国小説でもない。文字通りの英米文学。だから題名も『国際…』なのだ。

 

 著者は、文学史の系譜で言うと「意識の流れ」派の先駆けとされることがある。この一群の作家たちは、作中人物の思考や心理を追いかける手法を得意とする。「意識の流れ」とは、著者の兄である著名な心理学者ウィリアム・ジェイムズが意識を動的にとらえようとしてもちだした概念なので、弟も影響を受けたのかもしれない。ただ、弟が本書を書いたのは、兄がそれを言いだすよりも前だ。この作品も、あまり「意識の流れ」的ではない。

 

 さて、話を戻すようで恐縮だが、僕が今回、どのようにしてこの本に出会ったかを打ち明けておこう。なぜなら今、新刊書店で岩波文庫の書棚を探しまわっても見つけるのは難しいからだ。この1冊は先日、当欄「町の店が消えるGAFAの時代」(2019年5月17日付)で話題にした古書店で手に入れた。その店は隣駅の商店街にあったが、4月末に閉業した。店じまいの間際に数回訪れたが、そのときに目にとまり、買い込んだのである。

 

 この文庫版は1956年刊。僕が手にしているのは、1974年の第16刷だ。したがって、手にとってもページを開いても古書感が漂う。漢字はまだ旧字体のまま。なおこれについては本稿で本文を引用するとき、新字体で記述することを許していただきたい。

 

 冒頭は1874年夏、英国侯爵のランベス卿とその従兄が船旅でニューヨークに到着した場面。二人は「際限なくつづく大通りには、さまざまな不調和なものが雑然と入りまじっていて、およそこれくらいイギリスの通りと似ていないものはない」との印象を受ける。いくつか例を拾いあげれば「はでな色彩の雑多な建物」「金めっきの飾り文字」「さまざまな形の日除(ひよ)け」……。町並みからも商業主義の息吹が感じとれるではないか。

 

 気になるのは、通りには「乗合自動車」が行き交っているとあることだ。当時は、内燃機関式の自動車が開発されたばかりのころ。これは蒸気機関のバスなのか。二人がビルに入ると「水力電気で動かしているこじんまりしたエレヴェータ」があり、「垂直の穴の中を矢のようにあがって行って、間もなく彼らを、その建物の八階へ下ろした」という。米国が20世紀に自動車と摩天楼の技術文明を花開かせる兆しは、すでにあったのである。

 

 この小説は、ランベス卿とボストン在住のベッシー・オールデンという未婚の男女が互いに惹かれあう様子を、それぞれ従兄との会話、姉とのやりとりで浮かびあがらせるが、当欄はその筋を追わない。それよりも米国人の英国観、英国人の米国観を切りだしてみよう。

 

 ベッシーの姉キティ・ウェストゲートはランベス卿に言う。「こちらにはお国の別荘生活はございません。昔のお城の廃墟も、広大な領地も、有閑階級も、何もかもございません」。ここでは「別荘生活」の原語が気になる。彼女がそれを口にしたのが、ロードアイランド州の避暑地ニューポートにある自身の別荘だからだ。米国にも別荘はあるが、英国のそれとは違う。貴族という「有閑階級」が享受する特権的な田園生活はない、ということか。

 

 余談だが、この避暑地は後年、ニューポート・ジャズフェスティバルで有名になる町だ。映画「真夏の夜のジャズ」(バート・スターン監督)でアニタ・オディが羽根飾りのある帽子をかぶり、「二人でお茶を」を唄った場所である。たしかにあの開放感は、英国郊外の館で繰り広げられる貴族たちの優雅な団欒とは趣が違う。そしてキティの夫は、妻を別荘へ送りだしても自分はニューヨークから離れない。「馬車馬みたい」に働くのだ。

 

 これは第二部で翌年、今度はキティが妹を連れて英国に着いたときの描写とも重なる。このときも夫は同行していない。そのことを鵜の目鷹の目でみる友人たちに彼女が主張したのも「アメリカには有閑階級がないという、遺憾ではあるが極めて特徴的な事実」だ。堅苦しく言えば、ここにあるのは封建主義対資本主義の構図ではないか。英国は産業革命を興しても前近代を引きずっていた。だが、米国は建国後すぐに近代を始動させたのである。

 

 この小説では、キティが社交のあり方を論じてこう言う。「あたしの国でやっているみたいに、同じ立場に立って交際がしたい」。ランベス卿がベッシーの気性をこう評するくだりもある。「物怖(ものお)じしないんだ。何でも率直に喋(しゃべ)る。誰とでも対等だと思っているんだ」。ただ、その米国の平等感覚には綻びがある。ウェストゲート家に黒人の使用人がいて「ございますだ」口調で来客に応対するのを読むと、そのことを痛感する。

 

 19世紀、欧米で国際交流できるのは貴族か富裕層に限られていた。それぞれの社会は暇もなく財もない階層に支えられていたが、これらの人々が表舞台に出るのは20世紀に入ってからだ。だから、この小説にみる英米の対照は米国台頭の世相の一断面に過ぎない。

(執筆撮影・尾関章、通算477回、2019年6月21日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『探検博物学者 フンボルト』(ピエール・ガスカール著、沖田吉穂訳、白水社)

写真》南米

 新聞記者暮らしが終わりに近づいたころ、僕はうれしい仕事にありついた。読書のページの書評委員。社外の人が委員となって新刊書を評するのだが、そこに社内記者が交じる。好きな本を選んで自分なりの視点でものを書けるのだから、望外の幸せだった。

 

 書評した本のなかで忘れがたいものの一つが、『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)。18〜19世紀のドイツ人科学者、博物学のアレクサンダー・フォン・フンボルトと数学、物理学のカール・フリードリヒ・ガウスを対比した本だ。著者は小説家であり、この作品も二人の人間像の彫りだし方が絶妙なのだが、それだけではない。その思考様式の違いを見事に際立たせている。

 

 書評欄に載った拙稿の冒頭部を引用してみよう。「なんでもかんでも集めて回る。物事の多様さが好きな科学者がいる」「なんでもかんでもひたすら考える。多様の裏に普遍をみようとする科学者もいる」「その違いは、理系と文系の区分けより大きいのかもしれない」

 

 あのとき、この本を読んですぐ僕は書評を書こうと思い立った。本の中身が、自分の科学記者体験と響きあったからだ。ひとくちに自然科学といっても、それはひと色ではない。自然界から新種生物を見つけだすことに血道をあげる博物学。自然界から普遍法則を探りだすことに熱中する物理学。この二つが対極だ。中間領域もある。たとえば、化学者は物質の多様さに興味を抱きつつ、そこに普遍のしくみをみようとしているように思える。

 

 生物系の研究者は、生物界に新種が登場しても、それを苦にする気配はない。物理系の研究者は、物質界に新しい粒子が次々に見つかると、世界にはもっと根源の粒子があり、それが生みだす仮の多様性を見ているだけではないかと考える。これが思考様式の違いだ。

 

 それなのに世間では、博物学も物理学もひとくくりに理系と呼び、文系と対立させる。これが、さまざまな副作用を及ぼしてはいないか。教育面で言えば、数学は苦手だが野外観察が好きな子が、前者を理由に「君は文系だね」と言われてしまう不幸。学術文化面では、人文社会科学にも「多様さが好き」派と「普遍をみよう」派がいて、それぞれ自然科学界の同志と共感しあえるのに、そのことが忘れ去られていることのもったいなさ。

 

 で、今週の1冊は『探検博物学者 フンボルト』(ピエール・ガスカール著、沖田吉穂訳、白水社)。前述『世界の測量…』とは異なり、フンボルト(1769〜1859)に的を絞った伝記である。訳者あとがきによると、著者は、1953年にフランス文学界で最高の誉れとされるゴンクール賞を受け、小説やエッセイを量産してきたが、70年代からは伝記文学に傾倒するようになった。本書の原著は85年に刊行、この邦訳は89年に出ている。

 

 フランス人の伝記作家がフンボルトをとりあげたのは、彼がドイツ人の枠に収まらない人物だったからだ。この本にも書かれているように、フンボルトの母方の曽祖父は16世紀末にナントの勅令で母国を追われたフランス人新教徒であり、曾祖母はスコットランド人だった。この系譜が「コスモポリタンの精神」に富む家風を生みだした。それが「曾孫アレクサンダーにおいて最高度に発揮されることになる」と、著者は書く。

 

 フンボルト家はドイツ・プロイセン王国の貴族だったので、アレクサンダーは兄のヴィルヘルムとともに高水準の教育を受ける。ただ、この兄弟は対照的だ。兄は言語学者であると同時に外交官であり、自国の官僚として王道を歩む。一方、弟は自然界に関心を抱き、探検博物学者となる。コスモポリタン度が高かったのは弟のほうだ。自由人としてフランス革命の精神に共感し、なにかというとパリを偏愛する様子を、著者は巧みに切りだしている。

 

 この本の冒頭に登場するのは、18世紀の後半、ベルリン植物園で威容を誇っていた竜血樹だ。南国の樹種であり、そもそもプロイセンの気候にはなじまない。寒気を避けるために塔状の建物のなかに収められていた。樹皮を切り刻むと赤い樹液がにじみ出てくる、という。その不気味さは「この木をただ単に遠く離れているだけでなく、やや超自然的でもある一つの世界に結びつけていた」。それに魅せられた一人が、若き日のフンボルトだった。

 

 そんな異世界の発見場所が、フンボルトにとっては南米だったと言えよう。この本は中盤で多くのページを割いて、その一部始終を活写している。巻頭の行程図によれば、1799年から1804年にかけて、彼は相棒の医学生エメ・ボンプランとともに大西洋を渡り、アメリカ大陸を旅した。ヤマ場は二つある。一つは、南米北部のオリノコ川流域の探検。もう一つは、アンデス山脈に聳えるチンボラソ(6310m)の登山である。

 

 チンボラソ登山については、もう少し触れておこう。フンボルトたちは残念ながら登頂には成功しなかった。標高5881mで行く手をクレバスと霧に阻まれ、退却を余儀なくされる。ただそれは、当時知られている限りでは人類が到達したもっとも高い地点だった。ここで見落とせないのは、高度が1の位まで記録に残されていることだ。一行は稜線をたどりながらも気圧計を携え、その測定値から高さを割りだしていたのである。

 

 このことがフンボルトを一躍有名人にした。この本によれば、一行が下山後、「ヨーロッパと北アメリカの諸新聞の社外通信員たちが、『アレクサンダー・フォン・フンボルト男爵、世界で一番高くまで登った男となる』、というニュースを先を争って伝えた」という。

 

 さてここでは、南米がそのころの欧州人にとってどんな存在だったかをみることで、フンボルト流の科学に迫ってみよう。探検に赴く直前の記述に彼の南米観が出てくる。そこは、農耕文化の手が入っていないので「この緯度に生育し得るあらゆる植物種が、その最も旺盛な姿で集まっている」。自然が「全貌をほぼ現し尽くす」、すなわち「その力を最大限に発揮する」ので、「自然を支配する法則が最もよく見えてくる」というのだ。

 

 その一端をフンボルトは南米に上陸後まもなく、クマナ(現ベネズエラの都市)の郊外で見てとる。「常軌を逸した植物」の横溢だ。銀色の花を咲かせるもの、樹皮がかぐわしいものがある。イネ科の草が高さ5mほどに伸びていたりもする。彼は「自分が今や身を浸し、どっぷりと漬っている自然の過剰さ、異常さ、巨大さに文字通り魅了されていた」が、一方で探究心も奮い立たせたという。それは、ロマン主義と近代科学精神の併存だったのか。

 

 自然の「全貌」が立ち現れたのは、オリノコ川流域の上流部だったようだ。水系は、アマゾン川流域の上流部にカシキアーレという川でつながり、錯綜している。一帯の密林でフンボルトは疎外感に襲われる。「自然は、地を這ったりその上を滑って行ったりする生物、障害物を跳び越えたり、飛翔したり、巨大な木々の間を枝から枝へと飛び移ったりできる生きものにしか開かれていない」。地上に、枝々が織りなす「もう一つの平面」があるとは。

 

 この本は、フンボルトの科学者としての目論見をこう書く。「『文明化された』人間がまだ一人も入り込んでいない土地へ行けば、人間とある種の動物の間に原始の親密な関係が残っているのを発見できるのではないか」。ここには、「人間の起源」に対する強い関心がある。著者によれば、フンボルトは「万物の調和」を重んじており、それを「原始の楽園」に見ようとしていたらしい。裏を返せば、近代に至る人類史が調和を壊したことになる。

 

 この本は、フンボルトの高所志向も説明している。高山は動植物が乏しく「地球が宇宙の他の部分と結びついていることが直接感じられ、星の支配する空間の息吹きを受けて、創造の本質を露わに見せてくれる」。これをもって著者は、その探検を「どこか形而上学的」と形容するのだが、僕には逆の感想がある。彼は植物も動物も星も人間もすべてを調べ尽くして世界の核心に迫ろうとしたのだ。フンボルトこそは形而下の哲人ではないか。

 

 『世界の測量…』の書評で、アレクサンダー・フォン・フンボルトを「物事の多様さが好きな科学者」と僕は書いた。ただ、それは「好き」で終わらなかったことが『探検博物学者…』からわかる。「多様さがもたらす調和」を見たくて、なにもかも知ろうとしたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算476回、2019年6月14日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『われらの時代に』(アーネスト・ヘミングウェイ著、宮本陽吉訳、福武文庫)

写真》ハートのエースが出てこない?

 数週間前、当欄がとりあげたソール・ベローの小説『宙ぶらりんの男』(太田稔訳、新潮文庫)では、主人公が冒頭でまず日記の効用を説いていた。第2次世界大戦のさなか、「非モラル化」の時代である。こんなときこそ、日記を綴って自分自身に語りかける行為が意味をもつのだという。ここで槍玉にあがるのが、そのころ勢いのよかった「ハードボイルド派」である(当欄2019年5月10日付「ソール・ベローのカッコよさは何か」)。

 

 その主人公によると、ハードボイルド派は人間の「内面生活」に興味を示さない。そんなものは「胸にしまっておけ」と言わんばかりだというのだ。ただ、この世の中に人の心に無関心な人々がいるというのは、ちょっと疑わしい。ハードボイルド派は、ほんとうに内面嫌いなのか。今回は、そのことを考えてみたい。過日の回で『宙ぶらりん…』の主人公に共感して、その辛辣な決めつけの尻馬に乗ったことに若干の負い目があるからだ。

 

 もともとハードボイルドとは、卵などの固ゆで状態を言う。それが、第1次大戦後の米国文学に現れた「簡潔な文体で現実をスピーディーに描く」手法を指すようになった(「デジタル大辞泉」)。ここで押さえておくべきは、あくまで文章作法の問題ということだ。

 

 「簡潔な文体」は、個々の文が短いこととほぼ同義だ。日本語ならば、主語→述語とか、主語→目的語→述語とか、主語なしで目的語→述語とか、そんな単純構造の文が連打される。そう言えば、僕の高校時代、国語の教師はハードボイルド文体の歯切れよさを称揚していた。ただそのころ、日本文学では軟派の野坂昭如、硬派の大江健三郎に代表されるような文を長々と続ける作家に人気があったから、僕もそっちの流派に魅力を感じていた。

 

 そうとばかり言っていられなくなったのは、新聞記者になってからだ。駆けだしのころから、記事は簡潔に、と叩き込まれた。だれが、いつ、どこで、なにをした、という骨格をまず書く。そこに、なぜ、どのように、という肉付けをする。whowhenwherewhatwhyhowの5だ。形容詞や副詞はできる限り削ぎ落とす。これが、記者の文章作法だ。原稿の書き方では、僕もすっかりハードボイルドに染まってしまった。

 

 ただ、俗にいうハードボイルドは文体論にとどまらない。行動様式や嗜好のありようを表すことがある。『宙ぶらりん…』の主人公が思い描くハードボイルド派のイメージは、こうだ。「飛行機を乗りまわし、猛牛と闘い、大魚(ターポン)を釣りあげる」。これは、どうみてもヘミングウェイを示唆している。前述のデジタル大辞泉にも、ハードボイルドの手法は「ヘミングウェイらに始まる」とあるから、この連想は当然か。

 

 で今週は、その文豪の短編小説集『われらの時代に』(アーネスト・ヘミングウェイ著、宮本陽吉訳、福武文庫)。ハードボイルドな行動様式の作家がハードボイルドな文章作法で書いた作品を精読して、そこに「内面」の片鱗がみてとれるか探ってみようと思う。

 

 まずは、本の成り立ちから。訳者あとがきによると、著者は1924年に戦場や闘牛場などの情景を断章風に素描する「スケッチ」集を本にした。25年にその一部を小説に改め、ほかの小説と併せて短編集にする。残ったスケッチは小説各編の間に挟み込んだ。30年の決定版は、序文代わりの小話と、小説14編、スケッチ16編を収めている。いくつかの作品の主人公は「ニック」で、同一人物のようにも読める。この邦訳文庫版は88年刊。

 

 著者(1899〜1961)の紹介欄をまず見ておこう。「狩猟好きな医者の父と音楽を愛する母の長男として、シカゴ郊外に生まれる」「幼少年時代は夏になるとミシガンのワルーン湖畔の別荘に行き、釣りや狩猟をしたり、インディアンにまじって遊んだりした」……。これらの記述は必読だ。この本は巻頭に「実在人物は存在しない」とあるから自伝として読むのは憚られるが、著者の軌跡を知っておかないと大変に読みづらい。

 

 たとえば、「インディアン村」という一編。ニックが父や叔父と湖岸にやって来ると、先住民二人が待ち構えている。「二そうのボートは暗闇の中で動き出した。ニックはずっと前の靄(もや)の中にオール受けの音を聞いた。このインディアンたちは素早く浅く水を切って漕いだ。水の上は寒かった」。これぞ、ハードボイルド。ただ、一行が対岸の村へ急な往診に出向く途上だという状況は、父が医師であるという予備知識がないとわからない。

 

 「あることの終わり」では、その著者紹介欄も助けにならない。この一編では、ニックがマージョリーという女性と船に乗って夜釣りに出る。マージョリーは湖岸の一角に目をやって言う。「製材所だったころを覚えてる?」。二人は、幼なじみなのだろう。だが、たどり着いた岬で交わす言葉はぎこちない。「なにもかもが、ぼくの中でめちゃめちゃになったような気がする」「恋愛もちっとも面白くないの?」「そう」。二人の間に何があったのか。

 

 答えは、次の一編「三日間のあらし」でようやく出てくる。ここでは、ニックが友人のビルとウィスキーを飲みながらひたすら語りあう。そのやりとりによれば、ニックとマージョリーは周囲が婚約中と見紛うほどの仲だったが、ニックのほうから「関係を切った」らしい。あの夜釣りは破綻の局面だったのだ。それなのに「あること…」は、「二人はたがいに体も触れあわずにすわって月がのぼるのを見つめていた」といった即物描写にとどめている。

 

 余計な説明をしない筆致。訳者あとがきは、これを「省略法」と呼ぶ。当時の文学者が印象派の画風から採り入れた手法で、著者は「氷山の原理」で説明していたという。氷山は、先端が見えるだけで大半は海面下に隠れている。小説もそれでいい、というわけだ。

 

 この短編集で、ハードボイルドの特徴がいっそう露わになるのは、小説よりもスケッチのほうだろう。前後の小説の筋とは直接関係のない場面が短く切りだされる。たとえば、戦争難民と思われる人々の行列。「水牛や家畜が泥濘をくぐって荷車をひいていた」「年をとった男たちや女たちはずぶ濡れになって、家畜を追いながら歩いていった」「女たちや子供たちは荷車の中で、マットレス、鏡、ミシン、包みといっしょにうずくまっていた」

 

 戦闘そのものもとりあげている。「おそろしく暑い日だった。おれたちは橋をいちぶのすきもないバリケードでふさいだ」。材料にしたのは、民家の玄関にあった鉄格子。唐草模様が施されたもので、そのすきまから銃撃もできる。「やつらがそれをのりこえようとすると、おれたちは四十ヤード手前からねらい撃ちにした」。戦争が殺傷行為によって成り立っていることが包み隠さず言語化されている。ここには、感情のかけらも混入していない。

 

 闘牛の描写はどうか。「マエラは腕に頭をのせ、顔を砂にうずめて動かなかった。出血のせいであたたかくねばつくのがわかった。いちいち角が刺さるのがわかった」で始まるスケッチ。闘牛士が闘いの末に命を落とす場面だ。「マエラ」には「『午後の死』に登場する実在のメキシコ人名闘牛士」との補足説明がカッコ書きで添えられている。訳注だろう。『午後の死』とは、同じ著者が後年に闘牛について考察したノンフィクション作品である。

 

 この描写でちょっと気になるのは、前述の引用部2番目と3番目の文が「わかった」で終わっていることだ。だれが「わかった」のか。「あたたかくねばつく」とあるのだから、闘牛士本人とみるのが妥当だ。英語の原文には、きっとheという主語があるのだろう。著者のハードボイルドは、ただ見たこと、聞いたことを書くだけで終わっていないのだ。瀕死状態にある男の内面に入り込んで、その皮膚感覚を照らしだしている。

 

 ここには「マエラはすべてのものがだんだん大きくなりつぎに小さくなっていくのがわかった」「すべてのものが映画のフィルムがはやくまわるときみたいに次第に速く走り始めた」との記述もある。著者は、瀕死の人の心模様まで外形事実のように叙述している。

 

 ハードボイルド派はぶっきらぼうだ。自分の心の内を冗舌に語ったりはしない。他人の心についてはなおさらだ。だが、人間の内面生活にまったく興味がないわけではなさそうだ。これはというときには内心にも踏み込む。「宙ぶらりんの男」にはそう言っておこう。

(執筆撮影・尾関章、通算475回、2019年6月7日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『超現実主義宣言』(アンドレ・ブルトン著、生田耕作訳、中公文庫)

写真》ミシンと傘

 朝のうちに書いてしまおう。というのも、これが夢の話だからだ。最近は毎日のように夢を見る。その余韻は目が醒めた直後には残っているのだが、たいてい急速に消えていく。ところが、けさ――正しくは過日の執筆時点――はどうしたことか、数時間を経てもなお、筋書きの輪郭が脳裏にとどまっている。せっかくだから、そのあらすじを記録しておこう。内面を人目に曝すことには躊躇するが、夢とは何かを考える素材にはなるだろう。

 

 それは、どうも会社の会議室のようだ。スーツでバシッと決めた若い男女が研修かなにかを受けている。僕は、受講者からみると先輩格のようで、世話係のような役目に就いている。そこに講師役とおぼしき会社幹部の紳士がやってきて女子の一人に声をかける。名札の氏名を読みあげて「君の名前は、すばらしいね」。そんなことを言っている。言われたほうは顔を赤らめ、戸惑いをみせて、つぶやく。「わたしがつけたわけではないのですが」

 

 で、僕はハッとする。やばいっ、これはセクハラではないか。幹部にそれとなく注意を促そうか。いや、待てっ、それほどではないかもしれない。身体の特徴をあげつらったのならアウトだが、今回は名前だ。しかも苗字を含めてほめているのだから性的要素は少ない。いやいや待てよ、この幹部は同じことを男子にも言うだろうか。言わないのならイエローカードか。いやいやいや、男子に向かって言ったとしても「余計なお世話」感がある……。

 

 僕は、こんなことをとめどなく考えつづける。夢のなかで、ぐだぐだと思い悩むのだ。会社から離れて6年近くたったというのに、早暁に脳空間を占める世界は、ここまで企業人の心理に囚われている。この夢は、間違いなく現実の地続きであるように思える。

 

 だが、夢にはもっとぶっ飛んだものだってあるはずだ。たとえば、空間が2次元の夢、そこでは地面を這う虫のような気分になるだろう。反対に、5次元空間にいる夢、写真を撮ったら立体像が現れるかもしれない。あるいは、時間が反転する夢、どんどん若くなるのは結構なことだが、このとき意識はどんな流れ方をするのか。時空の1次元プラス3次元という構造、時間の非可逆性といった約束事が壊れただけでも僕たちの世界は一気に広がる。

 

 残念なことに僕はそんな夢を見た記憶がない。ただ、もしかしたらそれは記憶がないだけで、実は夜な夜な荒唐無稽な世界に浸っているのかもしれない。なべて夢は忘れやすいのだ。覚醒時の現実と波長の近いものだけが日が昇っても生き残っているのではないか。

 

 で、今週は『超現実主義宣言』(アンドレ・ブルトン著、生田耕作訳、中公文庫)。著者がシュールレアリスム(超現実主義)運動の旗手として20世紀前半に発表した論考3編を収めている。「超現実主義宣言」(1924年)、「超現実主義第二宣言」(30年)、そして「超現実主義第三宣言か否かのための序論」(42年)だ。この本は、反骨のフランス文学者として知られる訳者の邦訳(94年、サバト館刊*)を99年に文庫化したものだ。

 

 略歴欄によると、著者(1896〜1966)は、フランス北西部ノルマンディ地方出身の詩人。パリでは医学教育を受けたらしい。実験研究にも馴染んでいたのか、この本の口絵に載ったフォトモンタージュの自画像では、手もとに顕微鏡が置かれている。

 

 さて、シュールレアリスムと言うと、すぐに思い浮かぶのが「ミシンとこうもり傘が解剖台で偶然出会う」情景だ。異質なものが思いがけなく交錯する、そこにリアリズムを超えた世界が立ち現れる、という感じか。この文言は、著者の「宣言」に盛り込まれた惹句のようにも思えるが、そうではない。19世紀の詩人ロートレアモンが作品のなかに織り込んだものだ。超現実主義が運動となる前から、シュールな人はいたことになる。

 

 本文に入ろう。1924年の「宣言」でまず目を引くのは、小説をとことん腐している箇所だ。出版や新聞の文化は「現実主義的態度」によって「愚かさと紙一重のわかり易さ」に堕しているとして、一例に「小説の氾濫」を挙げる。「誰も彼もがこまごました〈観察〉にかかりきっている」「味も素っけもない報告書の文体が小説のなかでもっぱら通用している」。新聞記者ならほめられることが、ここでは批判の的になっている。

 

 たとえば、こんな文章もこきおろされる。「青年が通された小部屋は黄色い壁紙が張られていた。窓ぎわにはゼラニウムの鉢植えとモスリンのカーテンが見られた。夕日がすべての上に強烈な光線を投げかけ……」。これは、ドストエフスキー『罪と罰』の一節である。

 

 これに対して、著者が目を向けるのが夢だ。世間では、夢が過小評価されているという。人間は目覚めると「己れの記憶に翻弄され」「記憶は夢の中の諸事件をわざとぼんやりとしか思い出させず」「夢は括弧のなかに閉じ込められる」。自己は覚醒状態をつないで継続感を保っているということか。だが著者は、醒めた精神状態を「深い闇から発する暗示に従っているだけ」とみる。もしそうなら、夢と覚醒の地位は図地反転のように逆転する。

 

 そうか。僕が「現実主義的」な夢しか見ないと思うのも、たぶんこんな事情からだ。ほんとうは羽目を外した夢をたくさん見ているのに、それらは早々と「括弧のなか」に封印されてしまった。「括弧」を取り払えば、それを追体験できるのかもしれない。著者自身は超現実主義者として、夢と現実は「一種の絶対的現実、言うなれば超現実(この3文字に傍点)のなかで溶け合う日がいつか訪れる」との信念を披歴している。

 

 1924年の「宣言」には、超現実主義を辞典風に定義づけた一節もある。おもに言語芸術を前提にしているように思えるが、引用しよう。「心の純粋な自動現象で、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用いて思考の真の働きを表現する方向を目指す。理性による一切の統御を取り除き、審美的また道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる思考の口述筆記」。つまりは覚醒時ならではの辻褄合わせや取り繕いを排除するということか。

 

 「超現実主義的魔術の秘訣」と題するくだりでは、心の自動現象をそのまま記述するための微に入り細を穿った指南がある。「できるだけ受け身の、つまり受容的な状態に自分を置くこと」「あらかじめ主題を考えずに、記憶したり読み返したりする気がおこらないほど速く書くこと」……。句読点が言葉の流れを邪魔することも指摘して「気が向くかぎり続けなさい。呟(つぶや)きの尽きせぬ性格に委せなさい」と言い添える。

 

 ミシンとこうもり傘を暗示する論及もある。とりあげられるのは、ピエール・ルヴェルディという人の論考だ(1918年)。「多少とも相隔たった二つの実在を近づけること」をイメージの発生源ととらえていた。著者はこれを受け入れつつ、ルヴェルディは「二つの実在」を「思い通りに接近させることが可能であるとは思えない」と書く。期待できるのは「偶然の接近」。超現実主義のイメージは人間が意図して呼び起こすものではないという。

 

 ここで興味を引くのが、この宣言の執筆が1920年代半ばということだ。まさに量子力学の建設期。原子世界の決定論が揺らぎ、どちらに転ぶか偶然が支配する確率論が取って代わろうとしていたころだ。超現実主義と量子論。そこに響きあう何かがあったのか。

 

 この宣言は、超現実主義の試みが幼いころの精神生活の「再体験」をもたらすことも強調している。「幼少期の想い出」からは「〈常軌を逸した〉印象が浮かび上がる」が、著者はそれを「この世の中で最も実り多い感情」とみる。幼少期こそが「『真の人生』に最も近づいている」というのだ。常軌逸脱の具体例は「人間の女の顔をした象」「空飛ぶライオン」……これらにも女性と大型哺乳類、天空と陸上生物という隔たりの接近がある。

 

 「第二宣言」によれば、夢や自動記述の産物は「われわれが送っていると思っている生活とは別にもう一つの生活が存在する」ことを証拠づけるという。毎夜見る夢の括弧を外して対岸の世界をのぞいてみれば、足もとの些事に煩わされずに済むということか。

 

*サバトの漢字表記は、サが「奢」、トが「都」、バはさんずいに雨冠、その下に革と月。

(執筆撮影・尾関章、通算474回、2019年5月31日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

映画「グリーンブック」の小冊子(東宝ステラ編集)

写真》小冊子も緑色

 また、映画で泣いてしまった。涙は眼鏡の内側にとどまったが、強い共感がこみあげた。これは情緒反応の一種だから、他人にひけらかすような話ではない。だが、もしその感情が公憤を伴うものであれば、それを書きとめ、人々の目に曝してもよいだろう。

 

 僕を泣かせたのは、アメリカ映画「グリーンブック」(ピーター・ファレリー監督)。今年のアカデミー賞では作品賞、助演男優賞、脚本賞の三つをとった。日本では、この3月から公開されている。僕は連れあいと5月半ばの平日昼間、都心のシネプレックスに座席予約なしで入ったのだが、予想に反してほぼ満席だった。派手なアクションや特撮はない。恋愛も不倫もない。それなのにこんなに込んでいるとは……それは、うれしい誤算だった。

 

 題名は、米国で1930年代から60年代半ばにかけて刊行された『黒人ドライバーのグリーンブック』からとっている。自らも黒人であるヴィクター・H・グリーンという人物が創刊した。当時、南部諸州では黒人を受け入れない宿泊施設や飲食店が少なくなかったので、この本では、泊れる宿や入れる店を列挙した。今の視点でみれば差別を容認しているようにも見えるが、無用ないざこざを避ける実用書だったのだろう。

 

 この映画は1962年の話。ニューヨーク・ブルックリン在住の白人トニー・“リップ(口八丁)”・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)が黒人ピアニストのドクター・ドナルド(ドン)・シャーリー(マハーシャラ・アリ)に運転手として雇われ、南部巡りの演奏旅行に付き添う。トニーはイタリア系、ナイトクラブに勤め、厄介事の処理をこなしていた。ドンはクラシック音楽の英才教育を受けた教養人。この二人の反発と友情の物語である。

 

 ちなみに、ここで「黒人」は「アフリカ系アメリカ人」と言い直したいところだ。ただ僕の記憶では、1960年代には差別反対の人々も「黒人」という言葉をふつうに使っていたように思う。そんな歴史的事情を映すために、あえて言い換えはしないことにする。

 

 さて、話のマクラをここまで引っぱってきたが、そろそろ本の紹介に入る頃合いだ。だが残念なことに、この映画には原作がない。映画を小説で再吟味することができないのだ。そこで頭に浮かんだのが、館内で買い求めた小冊子(東宝ステラ編集)。インタビューがあり、作品評もあるが、なによりも作中の場面を切りとったスティル写真が満載だ。それをよりどころに、僕がスクリーンを前に抑えきれなかった涙の意味を考えてみよう。

 

 小冊子の記述によると、この映画には実在のモデルがいる。トニー・バレロンガ(1930〜2013)とドナルド・ウォルブリッジ・シャーリー(1927〜2013)。スタッフ欄で目を引くのは、「ニック・バレロンガ/製作・共同脚本」とあることだ。ニックはトニーの息子。もともと映画人で、多くの作品の製作、監督、脚本などを手掛けてきたが、今回は、実の父の実生活をもとに小粋だが風刺の効いた人間物語をつくりあげた。

 

 スティル写真には、一見ありふれた場面もある。トニーが旅に出る前のことだ。自宅で屋内工事があった。黒人の作業員たちの仕事が一段落して、妻のドロレス(リンダ・カーデリーニ)が笑顔で冷たい飲みものを差しだしている。どこの家庭でも見かける光景だ。ところが彼らが引きあげた後、トニーは飲み干されたグラスを見つけ、汚いもののようにゴミ入れに投げ捨てる。当時は北部にもそんな差別感情があり、トニーもそれに囚われていた。

 

 スティル写真を1枚1枚眺めていると、ドンが南部で遭遇した差別の数々が次々に思いだされてくる。その一つは、演奏会の会場でトイレに入ろうとして、戸外の小屋で用を足すように給仕から促される場面。トイレも白人用、黒人用に分かれていたのだ。給仕の言葉づかいがバカ丁寧なことで差別のいやらしさがいっそう際立つ。演奏家としては丁重に遇しましょう、でもあなたはここに集う人々と一緒ではないのですよ、という拒絶。

 

 あるいは、町の紳士服店前でトニーがドンに陳列窓のスーツを買うよう勧める場面。そのころは二人の間に友情が芽生えていて、これは似合うよ、と助言したのだ。ところが、ドンがその気になって試着しようとすると店側に拒まれる。二人は、こんな目にばかり遭う。

 

 映画の主題が言語化されるのは、トニーが土砂降りのなかを運転しながら後部座席のドンと口喧嘩したときだ。いつもは冷静なドンが、このときばかりは激情を露わにする。ここには台本がないので、記憶をもとに要約するしかないが、トニーは、俺たちこそ現実には貧しく虐げられており、あんたは白人上流階層の仲間だ、と言い張った。これは今、トランプ大統領支持の白人低所得者層がオバマ前大統領に抱く思いに近いのかもしれない。

 

 これを聞いたドンは、車を止めさせて外へ出る。ずぶ濡れになって発した言葉にはこんな表現があった。not black enough”“not white enough……「じゃあ、教えてくれ。黒とも言えず、白とも言えないというのなら、僕はいったい何者なのだ?」

 

 そういえば、この映画は米国の人種差別がその多民族性によって増幅される現実も見せつけている。たとえば、イタリア系の男たちが仲間うちで黒人蔑視の会話を交わすとき、いつのまにか言葉はイタリア語に代わっていた。民族の坩堝は分断の芽に事欠かないのだ。

 

 この映画で心にとめておいたほうがよいのは、ドンの窮地を救うトニーの振る舞いがほめられたものばかりではないことだ。ドンがある町で警察官に身柄を確保されたときは札びらをちらつかせて彼らを懐柔する。君たちはしっかり仕事をしている、これはそういう立派な警察官への寄付だ……そんなことを言い連ねて金を渡し、ドンを取り戻す。買収だ。贈賄と言ってもよい。その話のもっていきようは、さすが“リップ”らしくもある。

 

 夜道を走っていて、パトカーに停められたときはトニーの拳が警察官を打ちのめした。黒人は夜間に外出できないという決まりに反するとして、ドンが摘発されそうになったからだ。結局、二人は留置所入りとなるが、ドンがロバート・ケネディ司法長官に電話した結果、州知事経由で警察署に釈放の指示が下る。この出来事がどこまで実話かはわからないが、ドンには東部知識人層の人脈があったから、ありそうなことではある。

 

 もう一つ強調したいのは、この映画で遵法精神をふりかざしていたのが黒人を差別する側だったということだ。その極みはアラバマ州でのひと悶着。ドンが演奏前に晩餐会会場へ入ろうとすると断られる。自らの尊厳をかけて、ここで食事できなければ演奏しないと突っ張るドン。このとき支配人らしき人物が、トニーの抗議にほうほうの体となりながら慇懃な言葉づかいで口にしたのが、これは決まり事なので、という趣旨の弁解だった。

 

 米国では1964年に公民権法が定められるまで、南部諸州ではジム・クロウ法と呼ばれる一群の黒人差別法が幅を利かせていた。悪を正当化する法律が善の前に立ちはだかっていたのである。こういうとき、その悪を打ち負かすために法を逸脱するのを見せつけられても嫌悪感はそんなに起こらない。カタルシスを体験することさえある。映画を観て僕のなかにこみあげてくるものがあったのは、そうした事情なしには説明しがたい。

 

 翻って、今の日本社会はどうか。悪法らしき法律はあるが、黒人差別法ほどには歴然としていない。勢いを増すのは、遵法精神(コンプライアンス)尊重の論調ばかり。人々は、法令の字面にばかり神経をとがらせている。僕はここで、トニーのように警官をまるめ込んだり殴ったりする行為をよいとは言わない。ドンのように有力者のコネにすがるのも潔くはない。ただ、自らの良心に照らして悪法を悪法という権利があることは忘れたくない。

 

 さて、涙が僕の目にあふれたのは、アラバマの一件で会場を出た二人が地元の酒場に飛び込んだときのことだ。店には1台のピアノがあった。ドンは、トニーにそそのかされてショパンを弾く。名曲「木枯らしのエチュード」が場違いなほど静かに始まるが、次第に熱を帯びてジャズのようになる。そして店専属のジャズコンボが加わり、即興演奏で盛りあがった。クラシックからジャズへの自然な移ろい。そこに多民族の心の通いあいを見たのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算473回、2019年5月24日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』

(スコット・ギャロウェイ著、渡会圭子訳、東洋経済新報社)

写真》古書店で見つけた本、通販で買った本

 商店街で、店先の張り紙に「閉店」の2文字を見つける。その頻度が昔よりも高まったように思う。それがフランチャイズの飲食店やコンビニなら、早めの撤退だな、と納得する。だが、その店が数十年も前から見慣れた老舗だとずしんと身にこたえる。

 

 今春は、そんな衝撃が相次いだ。一つめは、最寄りの商店街にある和菓子店。男子スイーツ部員をもって任じる僕にとっては近隣の最重要店の一つだったが、3月半ばに店を閉じた。家人が告知の張り紙に気づいたのが閉店日の直前。当日、僕も様子を見に出かけてみると、店の周りに行列ができていた。和菓子の賞味期限はそんなに長くない。それでも大量に買い求める人がいる。地元の「味」にこだわる人がこれほど多いとは。

 

 そうこうするうち、次の衝撃に見舞われた。4月末、隣駅の商店街にある古書店が店じまいしたのだ。僕が育った家のすぐそばにあり、学生時代はよく店をのぞいた。最近も、ときどき本を漁りに自転車を走らせていた。昨今の中古本ショップと違うのは、品ぞろえに店主の思いが感じとれたことだ。閉店の知らせに僕は幾度か店に赴き、新刊書店では手に入らない本をいくつも買い込んだ。先々週とりあげた乱歩本はその1冊である。

 

 和菓子店と古書店。どちらも生活必需品を供給する店ではない。だが、その存在によって、街にはゆったりとした空気が漂う。僕たちは、それに誘われてぶらぶら歩きしようという気持ちになる。そういう店が一つ、また一つと消えていくことが残念でならない。

 

 日本列島を見渡せば、今、商店街はズタズタだ。地方都市では、駅を降りたとたんシャッター通りに出くわすことが少なくない。大都市はさすがに人口が集中しているので、店じまいしたままの店舗がそんなに多くない。その代わり、そこに飲食店やコンビニ、スマホショップ、整体院などが割り込んでくるところが目立つ。これらは、店構えが全国一律のものが多い。個人商店ならではの佇まいは雲散霧消してしまったようにも思う。

 

 で、今週は『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』(スコット・ギャロウェイ著、渡会圭子訳、東洋経済新報社)。GAFAGoogle(グーグル)、Apple(アップル)、Facebook(フェイスブック)、Amazon(アマゾン)の4大IT企業を指す。2018年8月刊。僕が苦手なビジネス書の趣もあるが、あえて選んだのは、商店街衰亡の背後にはIT(情報技術)による産業の変容があり、それが世界そのものも変えつつあると思うからだ。

 

 著者は、巻末の横顔紹介によるとニューヨーク大学スターン経営大学院教授。MBAコースの教壇に立っており、YouTubeでは毎週、Winners & Losersという動画を公開している。経営学の語り部としてカリスマの域にあるらしい。だが、この人にはもう一つ、実業家の顔がある。これまでに企業9社を興した「連続起業家(シリアル・アントレプレナー)」。さらに新聞界の最高峰ニューヨーク・タイムズの役員を務めたこともあるという。

 

 著者は学究肌ではない。本文に綴られた自分史によれば「生まれたのは中流の下の上といった世帯」で「一家で高校を卒業したのすら私が初めてだった」が、大学へ進学(ニューヨーク大学の公式サイトには、カリフォルニア大学ロサンゼルス校を卒業、同バークレー校で経営学修士号を取得したとある)。そのことが「この上なく平凡な私に、世界でも一流の教育を授けて出世できる道筋を開いてくれた」。アメリカンドリーム風の回顧だ。

 

 自分史には、大学の学部を出て大学院の修士課程に入るまでの間、いったん就職したことも書かれている。「大学卒業後、成功して女性にモテたいという不純な目的のために、モルガン・スタンレーで2年間働いた」。この一文は、心にとめておいたほうがよい。「女性にモテたい」は、ただの軽口ではない。この本は一貫して、ビジネス戦略を人間の欲求とのつながりでとらえている。その大らかさには、ちょっと退いてしまうほどだ。

 

 この本の流れに沿って、四騎士めいめいについての記述を追っていこう。まずは、アマゾン。これこそが、世界中の商店街を窮地に追い込んだ「コマース」の巨人だ。その成功のカギは、最初の標的を本に絞ったことにあるらしい。「見つけやすく、すぐ捕まえられて、洞穴に持ち帰っても価値が下がらず、またうっかり毒を群れに持ち込むリスクのないもの」。消費者を狩猟で暮らす原始人に見立てれば、書物はそんな獲物に相当するという。

 

 アマゾンは、その特長を増幅する仕掛けを配備した。一つは「なか見!検索」の試し読み。本屋の立ち読みと同じことが画面上でできる。もう一つはブックレビューの書き込み。ネット世界とつながることで、玉石混交の書評をいちどきに読める。「見つけやすく、すぐ捕まえられて」を一歩進めて「どの本が食べる(読む)価値があるかを認定する」ことの手助けまでしてくれるのだ。これでは、僕が郷愁を感じるあの古書店はかなわない。

 

 アマゾンは、あらゆる物品販売に手を広げた。ただそれは、店舗販売を否定するものではない。通販は商品の保管や配送が欠かせないので、モノばなれができない。ただ、ヒトばなれはある。倉庫では無人化が進む。レジなしのコンビニ「アマゾン・ゴー」も生まれた。著者は、創業者ジェフ・ベゾスが最低限所得保障制度の必要を口にしたことをとりあげ、この商法が「破壊される雇用に代わるだけの仕事を新たに生み出すことはない」とにらむ。

 

 ここで注目すべきは、著者が、こうした起業がもたらす雇用破壊によって「おそらく私たちの社会は、中産階級を維持する方法を見つけなければならないという重荷を背負うことをやめてしまった」とみていることだ。ここで言う中産階級は、ロボットやAI(人工知能)に代替されうる部門の労働者を含む中間層のことだろう。大多数が所得保障に助けられ、ごく少数が富裕層をかたちづくる。そんな究極の格差社会の影がちらついて見える。

 

 アップルは、この話の延長線上にある。著者は、アップル製品には1970年代から「ぜいたくなムード」が漂っていたと書く。アップルは、使い手に「自分たちは社会の画一的な歯車の1つではない(“ではない”に傍点)」「他人とは発想が違う(シンク・ディファレント)」という自尊心をもたらした。その製品はやがて、より小さく、より美しく、より多機能になってセクシーさを帯び、「異性へのアピール度」を高めることにもなったという。

 

 著者は、アップルを「高級ブランド」の一つに分類する。それは、自分はただの中間層ではないと思う人の心をくすぐって、今までにない価値を生みだしたのである。「感情」まで売りものにするのだから「現在の事業はテクノロジーではない」。その結果、テクノロジー企業が直面する後続企業の追撃にそれほど脅えないで済むのは強みだ。アップルが「ぜいたく品ブランドとしての地位によって生きながらえる可能性は高い」という。

 

 残る2社はどうか。フェイスブックには「何十億」の人々の「個人情報」が登録される。グーグルには人々の「人目につかない」検索行為を通じて「世界中のすべての情報」が集まってくる。どちらも、それらを広告につなげて莫大な収入を得ることができるのだ。

 

 著者の「気がかり」は、両社が自らを「プラットフォーム」(情報交流の舞台)の提供者と位置づけていることだ。その裏返しで「メディア」としての「社会的責任」が置き忘れられているという。たとえば「真実と嘘を判別する義務」からは逃げ腰だ。あるいは、既存メディアのデジタル戦略に影響を与え、クリック数本位のコンテンツづくりに向かわせることもある。ネット情報はただで行き渡る強みがあるが、歪みかねない弱みもある。

 

 結語の章で著者は、四騎士がめざすのは「つまるところ金儲け」と言い切る。そしてもう一度、雇用破壊の側面を強調して「この調子だとアメリカは300万人の領主と3億人の農奴の国となる」と見通す。自分が「領主」になれる確率はきわめて小さい。

 

 翻ってみれば、商店街はそれと正反対だ。買う側と売る側が対等目線で言葉を交わす。噂話も交じるが無闇には拡散しない。そんな理想郷が失われるのを座視していてよいのか。

(執筆撮影・尾関章、通算472回、2019年5月17日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから