『アリバイの唄――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、日文文庫)

写真》TAXI

 どうでもいいことだと冷笑されそうだが、あえて言う。2H、即ち2時間ミステリーが今、存亡の危機にある。報道によれば、老舗のテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」(土ワイ)がまもなく終わる。テレビ東京系「水曜ミステリー9」も消えるようだ。テレ朝は土ワイ枠を日曜午前に移すらしいが、どうもピンとこない。あのまったり感は、夕食後のほろ酔い気分にこそなじむ。こうなれば朝に録画して、その冷凍ものを夜に解凍するしかない。

 

 ただ一つ、ゴールデンタイムで気を吐くのはTBS系「月曜名作劇場」だ。こちらは、開始時刻を午後9時から8時に早めるなど工夫が感じとれる。たしかに9時スタートは、コア視聴者の高齢層には遅すぎた。眠くなって、結末の大団円――海辺の断崖やビルの屋上などの場面――まで完走できないという人もいるからだ。ただ残念なことに、これは毎週ではなく、バラエティなどが放映される週も多い。がんばれ、ドラマのTBS!

 

 月曜はTBS系、水曜はテレ東系、土曜はテレ朝系。さらにかつては日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」(火サス)の大看板があり、フジテレビ系も金曜に枠をもっていた。そんな2H漬けの1週間はもはや夢のまた夢だ。今春、一つの時代が幕を閉じるのである。

 

 それに追い討ちをかけたのが。渡瀬恒彦さんの訃報だ。映画俳優としての実績は数えきれない。だが、同時にテレビの2H文化の支え手でもあった。代表作はTBS系の十津川警部ものだろうが、僕が惹かれるのはテレ朝系の「タクシードライバーの推理日誌」シリーズ。理由は、もっとも彼らしい役柄だったからだろう。そこには、美学がある。しかも、肩に力が入ったものではない。さらっとしていて一陣の風のようなダンディズムだ。

 

 主人公は、タクシー運転手の夜明日出夫(よあけ・ひでお)。警視庁捜査一課の刑事だったが、事件捜査でかかわった女性との間柄を疑われて職を辞したのである。事実無根なのに週刊誌に書きたてられた。妻とはこのあと別れたが、一人娘のあゆみを通じて心を通わせている。夜遅くまでハンドルを握るシフト勤務。帰ってくるのは外階段式のアパート。飄々としていて過去の敏腕ぶりなど微塵も感じさせない男を、渡瀬さんは好演した。

 

 このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある。

 

 シリーズ最近作では、犯人はドラマ冒頭、夜明のタクシーに2番目に乗る女性客というのが一つのパターンになっていたように思う。訳ありらしいが悪い人ではない。ところが、元同僚の刑事が担当する殺人事件で容疑者に浮かびあがる。夜明は、彼らしいやさしさから彼女をかばうが、最後は元刑事の習性のほうが勝って本人に告白を促す――という流れだ。余談だが、1番目の客は奇妙な格好でわがままを言うオバちゃんというのも定番だった。

 

 ケーブルテレビなどで観ることができるチャンネル銀河では、今年2月から3月にかけてシリーズ前期の作品群が流れた。全39編は1992〜2016年に新作として世に出たが、うち2002年までの16編が再放映されたのだ。その期間中に主演者の生命が尽きたことになる。僕がこのうち数本を観て驚いたのは、初期にはまだパターンが固まっていなかったことだ。シリーズは四半世紀の歴史を重ねて、一つの型を練りあげたのだろう。

 

 このシリーズの見どころは、犯行がどうなされたかというハウダニット(howdunit)だ。そこでは、タクシーが道具立てになる。夜明は、営業所の仲間から「ロングの夜明」とうらやまれるほど、しばしば途方もなく遠い行き先を告げられる。疑わしい乗客は、乗車時間が被害者の死亡推定時刻と重なって鉄壁のアリバイを得るというわけだ。しかも視聴者にはうれしいことに、この仕掛けが旅情ミステリーの味わいも添えてくれるのである。

 

 で、今週は『アリバイの唄――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、日文文庫)という長編小説。副題にある「…事件簿」のシリーズが「…推理日誌」の原作という理解でよいようだ。ネットで調べると『アリバイの…』は1990年に講談社から単行本となった作品で、それが93年に講談社文庫に収められ、さらに99年に日本文芸社の文庫本として再刊行されたようだ。この本を読みながら、ドラマのおもしろさを再吟味してみる。

 

 まず、夜明が原作でどう描かれているかをみてみよう。38歳でバツイチ独身、子どもが一人いるというところまでは同じだ。事件被疑者の妹と不倫関係にあるという事実無根の話が広まって退職したという点も変わらない。だが違いがいくつかある。

 

 一つには外見。勤務中の様子を後部席の乗客の視点で素描したくだりには「坊主頭(ぼうずあたま)のように髪を短く刈り込んでいる運転手が、大きな身体(からだ)のいかつい肩を揺すった」とある。すらりとしていて優男の趣もある渡瀬恒彦さんのイメージからは、だいぶずれる。どちらかと言えば、渡辺哲さんだろうか。頑健型の渡辺夜明もコミカルな魅力があって見てみたい気がするが、僕たちはもはや渡瀬夜明にすっかりなじんでいる。

 

 もう一つ、大きく異なるのは住環境だ。小説『アリバイの…』の夜明は、アパートではなく東京・目黒本町の一戸建てに暮らしている。「むかしはよく見かけた、という木造の家」で「構造も建築様式もアカ抜けがしない」。東京の古い住宅街に建て込んだモルタル塗りの家屋という感じだろうか。そこにはなんと、母タカ子という同居人もいる。ドラマで娘のあゆみが訪ねてきて家事を手伝うというのとは大違い。どこか、マザコンの匂いもする。

 

 この小説によれば、夜明は自由が丘で生まれた。今をときめくおしゃれな街である。目黒本町へ転居した後、父が急死したために大学を中退して警察官になったという。あの力みのない生き方は都会っ子の洒脱さがもたらしたものかもしれない、と納得した。

 

 では、この『アリバイの…』もドラマ化されたのだろうか。今回、チャンネル銀河で観た第6編「再会した女 湘南―松本500キロの殺人!?」(1995年)が、それに相当するらしい。ノーブルでセレブなヒロインを、ただの深窓の令嬢から、DJで人気の大学教授に移しかえるなど改変点も多いのだが、トリックの核心はなぞっている。その女性は、偶然にも夜明の幼なじみだった。演じたのは阿木燿子。ぴったりな配役である。

 

 小説では、この二人の関係性を時間軸の上に置く。夜明の生家は、富豪大町家の邸宅近くにあったが、「掘立小屋のようにみすぼらしかった」。それでも大町家の娘千紗は幼いころ、6歳年上の日出夫の家に遊びに来ては狭い庭で遊んだものだ。20代のころ、街でばったり会ってひととき談笑したことはあるが、それっきり。「所詮は、別世界に住む男と女であった」。戦後日本社会に生じた階層の平均化と、その再分岐を映したような思い出だ。

 

 この小説でタクシーがドラマ同様にトリックに使われているかどうかは、ここでは触れない。ただ著者が、この乗りものの特質を知り抜いていて、その運転手をミステリーの主人公にしようと思い立った理由は、書きだしの数ページを読んだだけでよくわかる。

 

 そこで乗り込んできた男女は、けんかの真っ最中。「夫婦か、それに準ずる関係」とみてとるが、聞こえてくる会話を聞いているうちに男は県議、女は女将かママだろうとわかってくる――運転手は客にとって黒衣(くろご)であり、無視される存在だ。だが、その黒衣もまた人間であり、耳とバックミラー経由の視線で後部空間の気配を感じとっている。作家笹沢左保はそこから物語を生みだし、俳優渡瀬恒彦はそれを見事に演じたのである。

 

 夜明が旅先のホテルを退室するときの描写で「もう、戻ってはこない部屋であった」とあるのを見て、はっとする。戻ってこないつもりで、いつも街を流している。それが彼の生き方なのだろう。今も手をあげれば、渡瀬夜明のタクシーがとまってくれそうな気がする。

(執筆撮影・尾関章、通算361回)

 

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『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)

写真》オーストリアワイン Heurigerは新酒の意

 世界情勢が騒がしい。そんななかで、もっと知りたいのにあまり深掘りされなかったニュースもある。去年12月のオーストリア大統領選もその一つだ。やり直しの決選投票でリベラル系の候補が右派ポピュリストといわれる候補を抑え、勝利したのである。

 

 この結果を受けて、英紙ガーディアンは「安堵のため息が欧州全域で聞かれるだろう」と書いた(デジタル版、2016年12月5日付)。英国の国民投票がEU(欧州連合)離脱を決めた。米国の大統領選でドナルド・トランプ氏が選ばれた。自国第一のポピュリズムが席巻するなかで、よその国との協調をうたう政治家が辛勝したことをこう表現したのである。この新聞が左派寄りであることを差し引いても、なるほどとうなずける。

 

 ただ僕が「もっと知りたい」と思うのは、それとは違う角度からだ。新大統領となったアレクサンダー・ファンダーベレンという人が気になる。苗字はvan der Bellen。分けて読めばファン・デア・ベレンだ。興味深いのは、緑の党の元党首ということである。

 

 そこに注目すると、この大統領選の格別の意義が見えてくる。それは、欧州政治の対立構図が保守主義対社会民主主義だけでないことを示した。今回で言えば、右派ポピュリズム対環境保護主義だ。しかもその選挙戦で、環境派が今をときめくポピュリストを制したのである。言い換えれば、彼の地には右派の暴走を止める安全弁が複数用意されているということだ。翻って此の地はどうか。社民勢力は力を失い、有力な環境派勢力も見あたらない。

 

 英紙デイリー・テレグラフのデジタル版にあるAFP電(2016年5月23日付)によると、新大統領はもともと社会民主党員だったが、1990年代初めに緑の党に加わり、その後、党首となった。社民から緑へ。それがどんな理由による転身かはぜひ知りたい。

 

 気になることはもう一つある。これも同じAFP電の受け売りだが、彼は1944年にウィーンで、ソ連のスターリン体制から逃れた「難民の子」として生まれたという。そのころのウィーンはナチスの支配下にあった。父はロシア貴族出身で、母はエストニア人。ユダヤ人排斥の嵐が吹き荒れるさなか、別の方向からやって来た異民族だったわけだ。複雑な思いがあっただろう。彼らがどんな境遇だったのか。それも、知りたいと思うことである。

 

 オーストリアという国は、今では中欧の小国として扱われがちだ。だが、歴史をさかのぼれば、一大帝国を築いた時代が長かった。文化の発信も、だれもが思いつくクラシック音楽など芸術領域ばかりではない。物理学でも哲学と重なる発展があり、実証主義のエルンスト・マッハや、その論敵ルートヴィヒ・ボルツマン、そして量子力学の建設者エルヴィン・シュレーディンガーらを輩出している。ひと言で言えば、奥が深いのである。

 

 で、今週は『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)。名門ハプスブルク家とともにあった中欧の3都市に焦点をあて、それが生みだしたものを紡いでいる。2009年刊。著者は1947年生まれ。略歴欄によればドイツ語、ドイツ文学の専門家だが、とりあげる話題は建築あり音楽ありワインありで、文化全般に対する造詣の深さがうかがわれる。欧州史を、西欧とは別の角度から照らしだした1冊だ。

 

 まずハプスブルク家の源流をさかのぼると、スイスの一領主だった「ライン川の支流アーレ川沿いに住む伯爵家」に行き着く。この本によれば、家名は鷹“Habichit”の城“Burg”に由来するので「鷹城家」か。ルドルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれてまもなく、ウィーンへ移った。皇帝は、ふつうの王よりも一格上だから今でいえば2階級特進の感じか。以来、ウィーンは1918年まで「ハプスブルクの都」だった。

 

 この名家は、神聖ローマ帝国に皇帝を多く送り込んだ。その帝国が消滅しても、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国を治めた。一族がこれほどの力をもった背景には「結婚政策」がある。15〜16世紀に皇帝だったマクシミリアン1世は、妻がブルゴーニュ公の娘だっただけでなく、子や孫の結婚相手もスペインやハンガリーの王家から選ばせた。その結果、「ヨーロッパの約半分」を「支配下」に置いたのである。

 

 町の話に入ろう。三都は意外と近距離にある。著者も「ウィーンの町を歩いているとき、ふと見かけた道路の行き先表示板に、片方はプラハ、もう一方はブダペストと書かれたものを見かけ、はっとした」と打ち明ける。オーストリアの首都ウィーンからみると、チェコの首都プラハは300km、ハンガリーの首都ブダペストは250kmほど。東京から名古屋へ行くのと大差がない。そして、いずれの町も川が流れる内陸都市という共通点がある。

 

 だから、橋をめぐる話題が多い。たとえば、ウィーンのドナウ川に1876年に架けられた橋は、ルドルフ皇太子橋→帝国橋→赤軍橋→帝国橋と名前を変えていった。皇太子の心中事件があった。第2次大戦後のソ連軍占領もあった。相次ぐ改名に歴史が刻まれている。1970年代には橋が崩れ落ちる事故があり、80年に再建される。その完成式典の話が印象的だ。そこにオーストリアの人々の「帝国」に対する相反感情がみてとれる。

 

 著者によれば、キルヒシュレーガー大統領はこう述べたという。「ウィーンは帝国の時代には、諸国民の間の『帝国の橋』であった。今日では、中立国オーストリアの首都として、ウィーンは再び諸民族間の橋を形成している」。かつて帝都は民族をつないだが、そこには支配被支配の関係があった。これからは平和共存の橋渡しをしよう――帝国主義への反省はにじむが、「帝国」への郷愁を中立国の理念に投影しようとしているようでもある。

 

 支配された側のブダペストはどうか。ドナウ川を挟むブダとペスト両地区の間に幾本かの橋がある。二重帝国時代の1896年に架けられ、皇帝のフランツ・ヨーゼフを地元読みしてフェレンツ・ヨージェフ橋と命名されたものは、代替わりして「自由橋」と呼ばれている。一方、妻エリーザベト妃に因むエルジェーベト橋の名は今も残る。彼女がハンガリーを愛したことで好感をもたれていたからだという。これも一つの相反感情だろうか。

 

 そもそも三都には異民族の混在があった。この本によれば、ウィーンはもともとローマ人が北方の脅威に対抗して築いた防御拠点だった。プラハはモルダウ川の浅瀬が隊商を呼び寄せ、11世紀にはドイツ人やユダヤ人が商いを営んでいた。ブダペストにはケルト人が先住していたが、一時ローマ軍の駐屯地となり、10世紀ごろにウラルからマジャール人が移って来た。この多様性の素地が、それぞれの町に彫りの深い文化を生んだのだろう。

 

 多様性は相対的な視点を生み、批評精神を高める。一例は、ウィーンで19世紀末に興った「分離派(セツェシオーン)」の芸術運動。当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという。

 

 著者の解説によれば、ウィーン分離派の作品は、同時期のアール・ヌーヴォーなどと比べると「幾何学性、直線性」が強調され、「実用的な機能性」も具えているという。欧州でもっとも鋭敏に近代を感じとり、それを文化に取り込んだのがこの都市ではなかったか。そう言えば、と思い浮かぶのはウィーン学団だ。そのメンバーが哲学と科学の垣根を超えて思想を深め、旧来の形而上学と対峙したのも、分離派の潮流と共振している。

 

 印象に残るのは、画家志望のアドルフ・ヒトラーが1907年にオーストリアの地方都市からウィーンに出てきたときの話だ。この本には「都市改造の終わっていたウィーンのリング通りの風景に非常に感激したといわれている」とある。将来の総統は、分離派の人々とは逆に重厚な装いの建築に魅せられたということか。この都には、多様な文化が交じりあって新しいものを生みだす力学と、大国の夢を追う力学が交錯しているように思える。

 

 では、僕たちの社会はどうか。後者のほうが勢いを強めているように見えるのが心配だ。

(執筆撮影・尾関章、通算360回)

 

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『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)

写真》ニット帽だぜ!

 春の訪れとともにムッシュが逝った。ムッシュかまやつ、即ち、かまやつひろしさん。1960年代以降、日本のポップス界を陰に陽に支えたミュージシャンだ。グループサウンズのザ・スパイダースでは兄貴分格のメンバーだった。センターはとらないが、そこにいないといけない人。これは、そのまま後半生につながる。自分自身はヒットを飛ばさなくても、ヒットを飛ばす後輩の後ろ盾となる。業界の精神的支柱だったのだと思う。

 

 かまやつ(以下、敬称略)は自らのアイデンティティーをどこに置いていたのか。そのことを巧く切りだした一文がある。昨夏の新聞記事だ(朝日新聞2016年8月27日朝刊「もういちど流行歌」、藤生京子記者)。「我が良き友よ」(作詞作曲・吉田拓郎)を歌うことになったとき、手ぬぐいや学生服や下駄や下宿が出てくる歌詞を見て「困惑を隠せなかった」という。「これオレが歌うの?」。それは、自分が生きてきた世界とあまりにも違った。

 

 かまやつのイメージは、おととし当欄が「『あなたとは世界が違う』という話」(2015年5月8日付)で描いた1970年前後の「イカシタ」若者と重なる。「戦前の上流階級とは違う。戦後の成金富裕層や高学歴エリートとも違う。いまどきのセレブでもない」。そんな一群が「進駐軍文化の名残のようなバタ臭さ」や「湘南文化に通じるお坊ちゃまお嬢様感」や「スパイスとしての適度の不良っぽさ」が混ざりあう文化を発信していた。

 

 ちなみに、その拙稿がとりあげた『安井かずみがいた時代』(島崎今日子著、集英社文庫)には、吉田拓郎がかまやつに誘われて安井邸で開かれたパーティーをのぞく、という場面がある。拓郎は、夜中に裸の男女がプールで泳ぐ様子に圧倒されて「これのためなんだよ、東京に出てきたのは」と思った、と率直に打ち明けている。あの時代に東京と東京以外の地方がどんな関係にあったかがうかがえる告白だ。その東京側に、かまやつがいた。

 

 ここで思いつくのは、戦後日本のポップス史の弁証法的展開だ。大都市には、進駐軍キャンプのクラブなどを通じて海外の風をじかに浴びているミュージシャンがいた。都会系の担い手だ。ところが高度成長末期になると、洋風文化は全国の若者に行き渡って独自の音楽活動を促す。「上京」後を題材とした四畳半フォークを含む地方系である。やがて、これら2系統が止揚されてニューミュージックが生まれ、Jポップにつながったのではないか。

 

 前者を代表するのが、かまやつや荒井由実(後に松任谷、愛称ユーミン)だ。後者には拓郎や井上陽水たちがいる。両者には、共通の壁として演歌主導の歌謡界があった。こう考えてみると、かまやつと拓郎のコラボは歴史的な意味を帯びてくる。

 

 で、今週の1冊は『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)。2002年に日経BP社から単行本が出て、09年に加筆文庫化された自伝だが、カバーの惹句にある通り「日本の音楽、風俗、芸能クロニクル」でもある。知らなかった話がいっぱい出てくる。

 

 「イントロ」の章の冒頭は、松任谷由実の口ぐせだったという「ムッシュの骨は私が拾ってあげるからね」だ。それを受けて「一九七〇年代以降のぼくの音楽生活には、何かとユーミンが絡んでいる」とある。ユーミンは著者が「仲居頭」と呼ぶほどの仕切り上手で、1999年にムッシュ還暦を祝うパーティーを六本木で開いて150人を集めたという。加藤和彦、井上陽水、泉谷しげる、今井美樹……その顔ぶれからも精神的支柱ぶりがわかる。

 

 著者はパーティー開会前、「飯倉の『キャンティ』でひと休み」した。このイタリア料理店は「イカシタ」一群が屯する六本木文化の拠点だった。自らの軌跡を顧みるひとときとなったことだろう。後段の章では六本木の戦後史に光をあてた『東京アンダーワールド』(ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳)にも言及しており、この街への思いが伝わってくる(文理悠々2011年12月9日付「『ガイジン』がアメリカ人だった頃」参照)。

 

 最初に書いておきたいのは、著者のバタ臭さが筋金入りであるということだ。父ティーブ釜萢(かまやつ)は米国生まれの日系2世。恐慌下に来日してジャズミュージシャンとなり、日本人女性と結婚、「日本語がうまく話せない」のに日本兵として中国大陸に赴いた。著者は、米国文化に触れて育ったのだろう。スパイダースの欧州旅行では「片言の英語を話せるのがぼくだけだった」ので「楽器の手配から何から、すべてひとりでやった」という。

 

 音楽の洋風志向も筋金が入っている。「ぼくの周囲はみな洋楽以外は聴かず、ちょっと日本の歌を歌おうものなら思いきりダサいと決めつけられた」とある。ただ、その環境がすんなりと著者の音楽活動を開花させたわけではない。そこが、この本の読みどころだ。

 

 たとえば、著者は1958年にロカビリーブームが高まったころ、水原弘、井上ひろしとともに「三人ひろし」の名で括られる。ほかの二人は歌謡曲のヒットを飛ばしたのに「ぼくだけが売れずに取り残された」。歌謡曲は「あまりやりたくない」が本音だったが、60年にテイチクの専属となってカバーだけでなくオリジナルの曲も出す。その曲名は「裏町上等兵」「結婚してチョ」……。「どれもまったく売れなかった。よかったね」と自嘲する。

 

 テイチク時代の逸話はすごい。歌謡界の大御所が来社すると社内放送で集合の号令がかかる。「ぼくのような青二才は、レコーディングの途中でも、スタッフと一緒に玄関まで出迎えなくてはならない」。著者がなじんだ洋楽界にはない「タテ社会」ぶりだった。

 

 著者が立派なのは、自らその世界を抜けだしたことだ。1962年、所属プロがもち込んだハワイの仕事を引き受ける。帰国予定の日が過ぎても帰らず、勝手に米本土へ渡ってニューヨークに足を延ばす。「グリニッジ・ヴィレッジには、当時、実存主義者みたいな人たちが集まっていて、ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグとか、公民権運動の高まりから生まれたボブ・ディランのフォークなどが人気を集め、街じゅうが熱気にあふれていた」

 

 帰国後、レコード店でビートルズの米国盤「ミート・ザ・ビートルズ」を見つけ、ジャケット写真に驚く。「彼らのビジュアル、伝わってくる雰囲気、すべてひっくるめて、あのグリニッジ・ヴィレッジの空気と同じだった」。さっそく買い込んで聴くと、そこには米国の音楽の「乾いた響き」とは異なる「全体に紗がかかったような、ファンタジックな音」があった。「近未来が見えた」「次に来るもののフックを捕まえた」と感じたという。

 

 「こういうのやろうぜ」。そう声をかけた相手が田辺昭知だ。メンバーを集め、「100%彼らを真似しよう」と、歌と演奏合体型のグループを旗揚げする。ザ・スパイダースの誕生である。田辺はリーダー兼ドラム奏者。この本で知ったのは、彼が「もともとジャズ系」だったことだ。左のスティックを「てのひらを上に向け」「その上に置くようにして持つ」のはジャズ流だという。これを読んで、僕はスパイダースの秘密を知った気がした。

 

 あのころの日本で、エレキギターと言えばベンチャーズだった。ロックの8ビートでテケテケとやる。僕はその軽快感を心地よく感じながらも、技量を競う職人気質で終わっているような印象を拭えなかった。だが、スパイダースは違った。「ベンチャーズの曲を演奏しても昭ちゃんはつまらないらしく、曲の途中であきてくると、フォービートの強烈なオカズを入れて遊ぶ」。それが情感を生みだして、おしゃれな音をつくりだしていたのだ。

 

 納得するのは「カントリーが自分の本質にいちばん合っているのかもしれない」という著者の自己分析だ。カントリー&ウェスタンは、3コード中心のわかりやすい旋律に朗らかさや伸びやかさ、そして幾分の哀愁が漂う。そこには、脱力系の魅力がある。僕がムッシュらしいと思う「どうにかなるさ」や「喫茶店で聞いた会話」(ともに著者が作曲、作詞は山上路夫)もスパイダース解散後、「カントリー系のサウンドに戻りつつあった」頃の曲だ。

 

 実力は間違いなくA級なのに「つねにB級ミュージシャンでいたいという願望を、ぼくは持っている」。これがムッシュ流の脱力だ。その大らかさで、自分とは異世界の手ぬぐいや下駄履きにだって心を開く。だから友だちがいっぱいできて「どうにかなる」のだろう。

《おことわり》『安井かずみがいた時代』の著者名にある「崎」は、つくりの上部が正しくは「立」です。

(執筆撮影・尾関章、通算359回)

 

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『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)

写真》梅の空気

 2月末に熱海へ出かけた。丘陵部の梅園に足を運ぶと、盛りはとうに過ぎていたが、それでも小ぶりの白や赤やピンクの花があちこちの枝に点在していた。空気はまだ冷たいのに、日差しはもう暖かい。早春の移ろいを巧く演出してくれる湯の町だとつくづく思う。

 

 箱根と熱海。これは、東京育ちの人間にとって定番温泉郷の双璧である。足を延ばせば、北関東にも甲信越にも名湯、秘湯の地は多い。だが、この2カ所には、それよりもずっと近いという地の利がある。新幹線に乗らなくても2時間ほどでたどり着ける。これは、週休二日になる前の勤め人には大いに意味があった。半ドンの土曜日、仕事を済ませてから列車にとび乗れば、宿に着いて夕食前にひと風呂浴びることもできたのである。

 

 もちろん最近は、都内にも深掘り井戸で汲みあげたスパ施設がある。町の銭湯で全身を伸ばしても、家風呂に入浴剤を入れることでも、「いい湯だな」の気分は味わえる。だが、これらは箱根や熱海の代役を果たせない。なぜなら、温泉の楽しみは湯に浸かることだけで完結しないからだ。海の幸山の幸の食もある。町のぶらぶら歩きもある。そしてなにより行き帰りの行程が重要な要素だ。あの2カ所は、それが片道で「2時間ほど」の適量だった。

 

 今回の熱海行きは新幹線を使わなかったので、昔と同じ2時間コースだ。東海道在来線は今、昔と違って通勤電車風の長椅子シートがふえている。往路、そこに座った時点では日常を脱していない。だが、車窓に海が広がりだすと旅情モードのスイッチが入った。

 

 箱根と熱海。ここまでは並べて書いてきたが、両者は実は好対照だ。まず、箱根は山に囲まれているが、熱海は海に面しているという自然の違いがある。そして、箱根は軽井沢に似て洋風の趣があるが、熱海は梅園にしても貫一お宮にしてもどこまでも和風の佇まいだ。箱根は子どもが林間学校で訪れたりして教育の場ともなっているが、熱海は大人の遊興地という印象が強い。ニュアンスを比べれば聖対俗、理対情という感じだろうか。

 

 いま熱海市観光協会の公式サイトを開くと、その魅力として「温泉」「グルメ」「お土産・特産品」「花と自然」「イベント」「歴史」の六つが挙げられている。これらは、いかにも今風の観光資源だ。ただ、モデルコースの一つには「熱海の美めぐり 芸妓さんに会おう!」もある。「全国2800人の芸者のうち1割を占める」「全国でも屈指の芸者街」なのだという。この統計の精度は吟味できないが、熱海は間違いなく大人の町と言えよう。

 

 で、今週の1冊は『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)。著者(1948〜2010)は1970年代前半に劇作家として本格デビュー、初期の代表作が「熱海殺人事件」だった。それを小説化したのが、この本だ。76年に文庫書き下ろしで世に出た。

 

 この作品は、熱海の海岸で若い女性が殺されたという事件の取り調べを戯画化している。被害者も容疑者も工場労働者。作中では「女工」「工員」「職工」などの言葉が用いられる。二人は地方出身、隣の村で育ったらしい。2次産業が農村から若者を吸い寄せていたころである。コンビニや外食チェーン、宅配といった3次産業はまだ市場を席巻していない。著者が意図したことではないだろうが、今になってみれば高度成長の総括としても読める。

 

 熱海はあの時代、人々の目にどう映っていたのか。それは、刑事たちの言葉の端々から察することができる。「落ちぶれ果ててゆく温泉場」「もはや海としてのサムシングエルスがありません」。たしかに当時は、そんな印象があったように思う。「中小企業の社長がバーのホステスを連れて一泊旅行に行くところ」「農協が団体旅行に来るとこだぞ」といった決めつけも出てくる。ひとことで言えば、オジサン臭さが充満した印象があったのだろう。

 

 そのオジサン臭さは捜査側の中心人物、木村伝兵衛部長刑事も発散する。そばをすする場面はこうだ。「割りバシをパチンと割り、おもむろに薬味とワサビをつゆに入れ」「ズルズルいわせては口いっぱいにほおばり、クックッといってはつゆをガブリと飲み」「空になった椀(わん)にお茶をついで、ガラガラとうがいをしたり、クチュクチュと口の中を洗ったり」と騒がしい。そして職場で「スイングのまね」もする。今風に言えばエアゴルフだ。

 

 人物も舞台も、1970年代前半の日本社会をあぶり出すのにもってこいのスウィートスポットに設定されている。では、そこにどんな作品世界をつくりあげたのか。ここで、著者の劇作家としての本領が発揮される。奇想天外な筋立てとドタバタの味付けだ。

 

 ハチャメチャという形容動詞がある。あまり好きな言葉ではないが、メチャメチャより激しい語感がある。この作品はハチャメチャのオンパレードだ。たとえば、伝兵衛が警視庁の刑事であること。そもそも、殺人は熱海で起こったのだから静岡県警が扱う事案のはずだが、警視庁捜査一課が容疑者を調べる。他府県警のヤマを奪わないという鉄則はテレビの2時間ドラマ(2H)ですら意識しているのに、著者はそれをいともあっさり破ってしまう。

 

 若手刑事が富山県警から警視庁に転任してきたというのも、あまりあることではない。警察官は、ふつうは警視庁や道府県警本部ごとの人事で異動する。もちろん、いわゆるエリート警察官は若くして全国を渡り歩いて出世していくのだが、この若手はそのようには見えない――。だが、著者にとって官僚の常識はどうでもよいのだろう。これは、日本の世相を某国に載せた話。そこに警視庁や静岡県警や富山県警という名の組織があるだけだ。

 

 ハチャメチャぶりは、取調室がミュージカルの舞台に一変する演出にも見てとれる。若手刑事の熊田留吉が先述のように「サムシングエルスが……」と言うと、伝兵衛は靴で床を叩いて「サムシン、サムシン、ボンボンボン」と歌いだす。女性警官の安田ハナ子も「サムシン、サムシン、シャバダバダバ」とスキャットとタップに乗ってくる。「そのときハナ子の帽子が落ち、豊かな黒髪が肩にかかり、かぐわしい匂(にお)いをまき散らした」

 

 照明効果もある。伝兵衛が「スポット!」と言えば「電球が消え、捜査室は一瞬にして闇(やみ)になった。そしてスポットライトが容疑者の胸から上を照らしだした」。音響効果もある。「留吉の耳に『カシャッ』というカセットレコーダーのスイッチの音が聞こえ、と同時に波の音と海水浴に戯れる人々の声が聞こえた」。本来なら小説になじまないはずのつくりものを敢えてはめ込むことで、強烈な映像を読み手の脳裏に構築するのだ。

 

 この作品は、市井の人々が夢想する世界を笑いのめしていると言ってもよい。夢想を代弁するのが伝兵衛だ。万一、警察が容疑者の自供を歪めることがあるとしても被疑事実が本当らしく見えるようにするだろうと思われるが、ここでは違う。伝兵衛には自らの審美眼に適う出来事のイメージがあって、熱海の事件をそれに合わせようとする。その情熱に留吉もハナ子も引き込まれ、容疑者本人までほだされてしまう。そこに、おもしろさがある。

 

 その美学を象徴するキーワードが「海が見たい」だ。伝兵衛は海辺に行くのに水着を持参しなかった理由を容疑者に問うて、「海が……」のひと言を被害者が口にしたという供述を得る。このときの伝兵衛の喜びようは半端ではない。「ハナちゃん、お車呼んでさしあげて。あとは言わなくてもいい」「そう、『海が見たい』と言ったの? いやあ、まいったまいった」。こうして、容疑者の芝居がかった独白を挟みながら歌謡曲風の妄想が膨らんでいく。

 

 だが、妄想はうわ滑りすることもある。男が「お酒飲もうか」と言うと、女は「肩をすぼめる」。そこで男は「原宿の小ぎれいなスナックに彼女を誘う」――そんな筋でまとめようとすると、容疑者は新宿の喫茶店で紅茶を飲んだだけだと言い張る。留吉は「おまえ『海が見たいな』、そんな言葉を喫茶店で吐けるわけねえだろうが」とブチ切れる。スナックがおしゃれに見えた時代の痕跡がそこにはある。それにしてもチープな美学ではないか。

 

 いま熱海の町を歩くと、文豪たちが愛した宿が観光名所となって開放され、香り高い文化を発信している。一方で路地裏をのぞくと、スナックの古びた看板がそこここにあった。時代と半周ずれた位相。それを残していることが、この町の魅力なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算358回)

 

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『Q&A』(恩田陸著、幻冬舎文庫)

写真》問いと答え

 気の早い話だが、「オルタナティブ・ファクツ(alternative facts)」が今年の流行語大賞を獲るかもしれない。「代替(もう一つ)の事実」だ。米国大統領にドナルド・トランプ氏が就いたとたんに広まった。就任式の盛りあがりを示す人の集まりをめぐって、メディアは前任大統領のときなどと比べて少ないと報じた。写真を見れば明らかなように思える。ところがトランプ側は、それに噛みついて自陣営の主張を「代替の事実」だとした。

 

 これで僕たちの世代が思いだすのは、ひと昔前のデモや集会の参加者数だ。発表される数字が主催者と警察で大幅に食い違っていた。主催者が2万人と言っているときに警察が1万8000人ならいいほうだ。主催者が1万人なのに警察は6000人というような大差もあったと思う。僕自身、40年ほど前に駆けだしの新聞記者としてこの種の催しを取材していて、いつも当惑した。人数にはどちらの発表かを明記することが原則必須だった。

 

 あのころは、主催者が多めに言う、警察は少なめに抑える、という性向を世の中も受けいれていた。運動を企てる側は、民衆が大勢集まったことをもってよしとする。ところが、治安を担う側は民衆があまり集まらないことに秩序の安定をみる。だから、主催者が頭数を知らず知らずに二度数えをしていても不思議はないし、警察は人影が重なって見えない人までは数えていないかもしれない。世間もそんなふうに受けとめていたのである。

 

 そう言えば、似たようなことはスポーツでもあった。少年時代に野球が好きになったころ、僕は捕手という守備位置にあこがれ、キャッチボールのときもよくしゃがんで球を受けたものだ。そんなとき、たまたま相手をしてくれた青年から教わったことがある。球を捕ったらミットを体の真ん前へずらせ、という鉄則だ。それからは、言われた通りにミット――と言っても実際はグローブだったが――をストライクゾーンに動かすようになった。

 

 昔はなにごとにも曖昧さがつきまとったのである。だから、人数推計の「多めに」「少なめに」が通用した。スポーツでも審判の目を惑わすことが技量のうちだった。ところが今は、画像や映像、電磁記録が物事を厳密に判定する。今回の就任式報道では、地下鉄駅の乗車データまでが引きあいに出されたようだ(朝日新聞朝刊2017年2月11日「Media Times」)。だから、事実は一つであるとして「代替の事実」論に猛反発が起こった。

 

 ただ――と、へそ曲がりの僕は思う。事実はほんとうに一つなのか。事実は確定したときに一つになる。それは間違いない。だが厄介なことに、一つに定まるまでは複数の候補が並び立って雲のようにもやもやしている。それらを代替事実群と呼んでよいのかもしれない。世の中のニュースを頭に浮かべてみると、雲状態にあるもののほうが多いように思う。代替事実群を前にしてどう生きるか。そんな問いが今、突きつけられているのでないか。

 

 で、今週は長編小説『Q&A』(恩田陸著、幻冬舎文庫)。著者は1964年生まれ、ついこのあいだ2016年下半期の直木賞受賞が決まったばかりだ。この作品は、04年に単行本が出て07年に文庫化された。全編から21世紀初頭の空気が強く感じとれる。

 

 本を手にしてまず気になるのは、その題名だ。これはふつうに“question”と“answer”のことらしい。最初から最後まで一問一答の形式で書かれた作品である。ただ、問う人と答える人は固定されていない。「章」と呼んでもよい小部分ごとに交代していく。問答をする二人の名前や横顔が地の文で明かされることはなく、ト書きも事物描写もない。言葉のやりとりだけでこれだけの作品世界をつくりあげたということに、僕はまず圧倒される。

 

 この作品の読み物としての主題は、大惨事の顛末だ。それは巧妙に描きだされる。一問一答のやりとりは、はじめのほうでは文字通りのQ&Aだ。一方がもう一方を問いただしている印象がある。ところが章が進むうちにQ&A色が薄れてふつうの会話のようになり、どことなくなごんだ雰囲気さえ出てくる。この変化が一つの効果をもたらしている。前段は直接の関係者の証言、後段は間接の関係者の解釈として読めるのである。

 

 では、それはどんな惨事か。冒頭の章でAの役回りにある「東都日報」社会部記者が明かした取材結果によれば、あらましをこうだ。連休最終日の昼下がり、東京郊外のショッピングセンターで非常ベルが鳴り、避難を促す館内放送も流れた。地上6階地下1階、大きなスーパーが入った建物だ。買い物客は階段やエスカレーターや出入り口に殺到、「あちこちで人波に強い圧力が加わる」事態となって69人が死亡、116人がけがをした。

 

 これには、型通りの解釈も用意されている。後段の章のQ&Aで、Qが巷間流布される読み解きをもちだして「集団パニックだって。何かの引き金が偶然重なって、それがみんなに伝染したんだって」と言えば、Aが「僕は、最初、サイバーテロかなと思った」と応じる。大型店はコンピューターに管理されている。エスカレーターが急加速急停止しても、空調が働かなくなっても一大事だ。「どこか一箇所システムが壊れれば、惨事は起き得る」

 

 上記2章で、すべてが言い尽されているようにも見える。だがそれは、一線記者が通りいっぺんの報道をして識者が利いた風の解説をするというメディアの予定調和に等しい。だが、事件や事故の実相はそんなにすっきりしていない。その場に居合わせた人の話を紡いでいくと、その人にしか見えない事実の証言がたくさんある。そこには思いもよらない物事の展開も隠されている。それを想像力で汲みあげたところが、著者のすごいところだ。

 

 4階婦人服売り場にいた41歳女性客。「おかしな夫婦がいたんですよ」。この店に場違いなほど上品な高齢男女だ。その女が不意に万引きを始める。店員が声をかけると、男が口を開く。「悔い改めなさい。我々は、あなたがたに許す機会を与えてあげているのです」。困惑する店員、興味津々の客たち。「その瞬間ですよ、ベルが鳴ったのは」。男はポケットのなにかに手をやった。「銀色の金属に見えました」。そして、みんなが一目散に逃げたという。

 

 71歳男性客は階段から1階の売り場を見下ろしたとき、あやしげな男に気づいた。その周りだけ人がいない。「で、いきなりその男が手に持っていた紙袋を床に投げたんだ」「ペしゃっ、という音がして」「液体が入っているという印象を受けたね」。男が足で袋を潰すと、客たちが顔を覆って階段に押し寄せたという。男性客は自分も刺激臭と目の痛みを感じたと主張するが、液体は犬の尿だったらしいとQ&AのQが明かす。

 

 これらの証言からわかるのは、別の階では別のパニックがあったということだ。万引き発覚後の逆切れと紙袋の「ぺしゃっ」。ともに異様な光景であり、通り魔事件や化学テロを連想させる。人々が恐怖に陥れられても不思議はない。それらの相乗効果が大惨事を招いたらしいが、では逆切れと「ぺしゃ」はたまたま同時に起こったのか、それともどこかにつながりがあるのか。人々の話を聞けば聞くほど、聞きたいことはさらにふえていく。

 

 Q&AのAには、今の世相を反映して監視カメラの録画を見た人の証言も出てくる。「無人になった店の中で、小さな子がちょろちょろ歩き回っていました」「何かをひきずっていたんです」「なんだろう。赤っぽくて、だらりとした」。後段では、この子の母親もAで登場する。彼女によれば、ひきずっていたのは娘のぬいぐるみで、そこに誰のものかわからない血がついていたという。女の子はけが一つなく生還して、メディアにもとりあげられる。

 

 作品の筋は、この子を狂言回しに繰り広げられる。そこには、犠牲者の家族たちが心の拠りどころとなる「隠れ家」をつくる、という話が出てくる。ところが、この活動の裏には主宰者が企てる利殖商法があり、隠れ家に集まる家族たちが次々に勧誘されているらしい、という疑惑も暴露されていく。悲しみにうちひしがれた人々が互いに支えあうという美談の陰にも欲得が渦巻いている――作者は、そんな事実の二面性も切りだしていく。

 

 最近は、事件事故の情報が大手メディアの報道だけでなく、つぶやきや映像の投稿としても拡散される。断片を見て判断すれば見誤る。片面を知って納得すればだまされる。僕たちは、本当か嘘かわからない代替事実群に囲まれている。そう覚悟しておいたほうがいい。

(執筆撮影・尾関章、通算357回)

 

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『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)

写真》「緑」

 「環境」という言葉が今のような意味合いで使われるようになったのは、そんなに遠い昔ではない。半世紀ほどにしかならないのではないか。ふと思いだすのが、小学生のころの床屋体験だ。椅子に座ると目の前に大きな鏡がある。その周りに目を転じると、壁の掲示に「環境衛生」の文字があった――そう、理髪業は東京都環境衛生協会会員の主要業種だ。「環境」の2文字は、理髪店の店内から子どもの意識に入り込んできたのである。

 

 ちなみに東京都環境衛生協会の公式サイトを開くと、協会は1954年に生まれた。「加入会員の業種」に挙げられているのは、理容のほか美容、クリーニング、公衆浴場、ホテルなど。ここで読みとれるのは、どれも衛生管理が求められるが、飲食店ではないということだ。食べもの、飲みものは特別扱いなのだろう。現に東京には食品衛生で同様の団体がある。裏を返せば、「環境」は特別なものを除く身の回りの一切を指していたことになる。

 

 語感が変わったのは、1960年代後半だ。日本列島のあちこちで、高度経済成長の副作用として公害が多発する。「環境保護」が反公害の訴えの一つとして口にされるようになった。1971年には、のちに環境省となる環境庁が設けられる。このころから、「環境」と言えば「自然環境」、すなわち山や川、海や空のことという受けとめ方が強まったように思う。そして今は、それを地球全体に広げてとらえるようになっている。

 

 環境保護の気運が反公害とともに高まった背後には、生態学すなわちエコロジーの思想があった。四大公害病の一つである水俣病では、工場から出る有害なメチル水銀がまず小さな海洋生物に摂取され、それがより大きな生物に次々食べられるうちに濃縮されていくという現象が起こっていた。食物連鎖による生体濃縮だ。その鎖の終着点が人間だった。人間もまた生態系(エコシステム)の一員であることがはっきりしたのである。

 

 「環境」はドイツ語で“umwelt”という。“welt”は「世界」であり、“um”には「周り」の意味があるので「環世界」とも訳される。当欄の前身でとりあげた『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート著、日高敏隆、羽田節子訳、岩波文庫)は、後者の訳語を採っている。この本には「動物はそれぞれの種ごとにそれぞれの『環世界』をもっている」という見方があった(文理悠々2010年6月3日付「日高敏隆『敬称は要らぬ』」)。

 

 これは、人間とほかの生物を対等に置くという点で今日のエコロジー思想に通じる。環世界は生物種ごとに違う。ただ、それらをかたちづくるものはたった一つの自然界の生態系だ。だから、人間の環世界は守ることは生物それぞれの環世界を守ることであり、即ち生態系を持続させることにほかならない。身の回りにあって種の存続を保障する最重要なものが自然ということだ。「環境」で「自然環境」を思うようになった流れもうなずける。

 

 で、今週の1冊は『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)。著者は、1962年に名著『沈黙の春』を著したことで知られる。『沈黙…』は、農薬などの化学物質が生態系を壊していくさまを事例やデータによってあぶり出した。ちょうど、第2次大戦後に戦勝国も敗戦国も工業化に突っ走っていたころのことだ。人類には経済成長とは次元の異なる価値があることを教えてくれる警告の書となった。

 

 著者は米国で1907年に生まれ、64年に没した。大学院で生物学を修めたが、そのまま大学に残って研究生活に入った人ではない。連邦政府の魚類野生生物局に専門官として勤め、かたわら海や海辺の生き物をめぐる著述活動を続けた。連想されるのは、都市問題の論客ジェイン・ジェイコブズだ(当欄2016年12月2日付「トランプに備えてJ・ジェイコブズ」)。ともに象牙の塔から離れ、自力で強いメッセージを発信した女性である。

 

 『センス…』は『沈黙…』とは異なり、社会派書籍の色彩が薄い。むしろ、人間の環世界を繊細な感覚で描きだした詩的作品と言うべきだろう。訳者あとがきによれば、1956年に雑誌へ寄稿した文章をもとにしており、題名は「あなたの子どもに驚異の目をみはらせよう」だった。著者は『沈黙…』刊行後、自らの死期が迫っていることを知って加筆をはじめ、それを仕遂げる前に生命が尽きたという。邦訳で本文40ページ足らずの小品だ。

 

 書きだしは「ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました」。舞台は、米東海岸メイン州にある著者の別荘周辺。それにしても、闇夜に雨風のなか幼子を抱いて海を見にいくのは危ない。だが、彼女は毅然として書く。「幼いロジャーにとっては、それが大洋の神(オケアノス)の感情のほとばしりにふれる最初の機会でした」。ここに、彼女の自然観がある。

 

 この本の中心にいるのは、幼年時代のロジャーだ。別荘に来ると、著者は森へ連れだした。なにかを教えようとしたのではない。「わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげる」。そうこうしている間に「彼の頭のなかに、これまでに見た動物や植物の名前がしっかりときざみこまれているのを知って驚いた」。たとえば「あっ、あれはレイチャルおばちゃんの好きなゴゼンタチバナだよ」というように。

 

 メインでは、とりわけ雨の日の森が美しいという。その描写は秀逸だ。「針葉樹の葉は銀色のさやをまとい、シダ類はまるで熱帯ジャングルのように青々と茂り、そのとがった一枚一枚の葉先からは水晶のようなしずくをしたたらせます」「カラシ色やアンズ色、深紅色などの不思議ないろどりをしたキノコのなかまが腐葉土の下から顔をだし、地衣類や苔類は、水を含んで生きかえり、鮮やかな緑色や銀色を取りもどします」

 

 別荘の窓には雨が打ちつけ、湾も霧に覆われている。「海に沈めてあるロブスターとりの籠(かご)を見まわる漁師やカモメの姿も見えず、リスさえも顔を見せてはくれません」。ここで気づくのは、漁師とカモメとリスが横並びにあることだ。著者は、人類も鳥類も齧歯類も一つに溶けあう世界を生きている。雨天も気にせず、「森へいってみましょう。キツネかシカが見られるかもしれないよ」。ロジャーとともに防水着をまとって出かけるのだ。

 

 著者によれば、子どもを連れての自然探検は「しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらく」という。それは視覚にとどまらない。嗅覚を例にとろう。早朝に家を出れば「別荘の煙突から流れてくる薪を燃やす煙の、目にしみるようなツンとくる透明なにおい」に出あう。引き潮の海岸に近づけば「いろいろなにおいが混じりあった海辺の空気」を吸うことができる。ここでも感じとれるのは、人の営みを自然界のそれと並べる世界観である。

 

 聴覚をめぐっては「風のないおだやかな十月の夜」のくだりが印象的だ。耳をそばだてれば、上方から「鋭いチッチッという音」「シュッシュッというすれ合うような音」が鳥の鳴き声に交ざって聞こえてくる。渡り鳥が仲間同士で交信しているのだという。著者は「彼らの長い旅路の孤独」に思いをめぐらせる。そして「自分の意志ではどうにもならない大きな力に支配され導かれている鳥たちに、たまらないいとおしさを感じます」と書く。

 

 この本は、大自然の讃歌に終わってはいない。都会人の生き方にもヒントを授けてくれる。「子どもといっしょに風の音をきく」のなら「森を吹き渡るごうごうという声」であっても「家のひさしや、アパートの角でヒューヒューという風のコーラス」であっても同じだ、と説く。町なかの公園で鳥の渡りを眺めても「季節の移ろい」を感じとれるし、窓辺の植木鉢を観察することでも「芽をだし成長していく植物の神秘」を見てとれる、という。

 

 あとがきによれば、ロジャーは「甥」ではなく実は「姪の息子」のようだ。著者を慕い、のちに母を亡くしてからは彼女のもとで育ったらしい。訳者が1980年に会ったときは音楽関係の仕事をしていたというが、この邦訳が出た96年時点の消息は「コンピュータ関連のビジネスマン」とある。今は60歳代なのだろう。自然と触れあう原体験が米国のIT社会を生きる人にどんな影響を与えたのか。本人にちょっと聞いてみたくなる。

 

 感覚を澄ませば、自分も生態系の一部とわかる。レイチェルはそう言い遺したのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算356回)

 

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『事件の年輪』(佐野洋著、文春文庫)

写真》65〜74歳(朝日新聞朝刊2017年1月6日)

 年明けにいきなり、「10年早いよ」と言われた。65〜74歳は高齢者ではなく准高齢者と呼ぼう、という日本老年学会と日本老年医学会の提言だ。新聞では1月6日に大きく報じられた。僕は去年、65歳になったばかりなので複雑な思いがある。この件で世に訴えたいことはWEBRONZAに書いた(2017年1月26日付「『准高齢者』が思う人生のワークライフバランス」、後段有料)。ここでは一歩退いて、老いの時間を考えてみたい。

 

 年をとると、時の進みが速くなる。これは、よく耳にする経験知だ。必ずしも年寄りの言いぐさとは言い切れない。若くても同じ感覚に囚われる人は少なくないだろう。僕自身も勤め人として数年単位の異動を繰り返していたころ、去りゆく職場を振り返って「あっという間だったなあ。小学生のころは1年があんなに長かったのに」という感慨に耽ったものだ。ただ、速くなったと感じる度合いが年齢を重ねるごとに強まっているようには思う。

 

 直近で言えば、その速さを暮れの年賀状書きで感じた。これは、その年の1月に届いた賀状の束をほどいて1枚1枚読み返しながら進めることになるので、そもそも心理面でタイムスリップしている。だから、添え書きや宛て名書きでペンを走らせていると「ついこのあいだも、こんなことをしていたなあ」と、前年同期の同一作業を思いだす。このとき、意識は春夏秋冬を飛び越えている。あたかも1年間、なにごともなかったかのように。

 

 ここで、準高齢の実感から一つの仮説が導かれる。人の記憶容量はパソコンのメモリーと同様に限られている。だから、記憶は忘却という削除や要約という圧縮によって整理される。その結果、生きてきた実時間が長くなるほど脳内時間は縮まっているのではないか。

 

 この仮説に立てば、高齢者の昔話好きも納得がいく。おじいさんやおばあさんの脳には長い時間幅の年表ができあがっていて、60〜70年前の記述も10〜20年前や1〜2カ月前のそれと同列に並んでいる。しかも、人は思いだしたいことを好んで思いだすので、いい思い出は想起の繰り返しで強まり、記憶の整理過程でも残存しやすい。だから、雑談となれば自慢話がこぼれ出る。この一点で老後の幸福は保証されているようにも見える。

 

 ところが、現実はそんなに甘くない。人は、ふつうにいやなことはどんどん忘れても、度外れていやなことは決して忘却できないということだ。だから、記憶の地層の底には、引っぱり出したくない出来事が眠っている。トラウマ――心的外傷の原因となる類いのものである。それらのあるものは、掘り起こされることなく墓場に持ち去られるかもしれない。だがときに何十年もたって突然頭をもたげ、意識の表面に這いだしてくるものもある。

 

 で、今週は『事件の年輪』(佐野洋著、文春文庫)という短編集。2001〜04年に雑誌に出たミステリー10編から成る。著者(1928〜2013)は心の綾を描くのが巧い。その一方で、新聞記者出身らしく社会性が漂う作品も多い。僕が好きな作家だ。当欄は2年前にも、短編集『墓苑とノーベル賞 岩中女史の生活記録』(佐野洋著、光文社文庫)を話題にした(2015年3月20日付「佐野洋アラウンド80のコージー感覚」)。

 

 二つの本には共通点がある。どちらもおもに、仕事や家事の繁忙期を過ぎた高年齢世代の話を扱っていることだ。『墓苑…』の短編群は主人公が同一人物の連作で、年配夫婦が暮らす住宅街の物語だ。殺人事件も例外的に出てくるが、なべて言えば、彼らが歳を重ねて手に入れた快い空間が舞台だった。これに対して『事件の…』には、封印された過去が老境の心理に顔をのぞかせる短編が収められている。そこには時間軸の苦さがある。

 

 僕が惹かれたのは「忘れ得ぬ人」。表題そのものに時間軸がある。D県でタクシー、ホテル、ゴルフ場などの事業を手広く展開する地場企業の会長内藤忠一に、フリーライターの「私」が地元雑誌の発注で取材する話だ。著名人に「忘れ得ぬ人」を語ってもらおうという企画。広報課は当初、難色を示した。「経済人としての抱負、展望」ならいいが「プライベートな問題」では、というわけだ。いかにもありそう。作者の記者経験が生きている。

 

 「とにかく会長に聞いて下さいよ」と粘ると翌日、承諾の返事が戻ってくる。取材の当日に「広報課長に従い、会長室におずおずと入った私」を、内藤は「人懐っこい笑顔で迎えてくれた」。トップに立つ者の高貴さ、ノブレス・オブリージュか。いやそうとばかりは言えない。「年寄りなので、話がくどくなるかもしれませんが」とことわって少年時代のことから切りだした。この人には自叙の物語ができあがっているんだな、と思わせる導入部だ。

 

 内藤の話が本題に近づいたのは戦後、旧制のD高商に入ったあたりからだ。下宿には自分のほかにも間借り人がいて、うち一人は「オンリーさん」だった。進駐軍の軍人に「囲われていた女性」である。「何とかという当時の有名女優のような感じ」だったという。その米軍将校は毎日のようにやって来る。下宿屋は、日本家屋の部屋を襖1枚で仕切るというようなつくりだったのだろう。彼らの情事の間は「外出して時間を潰していました」。

 

 ここまでくれば、忘れ難いのはそのオンリーさんかと思うだろう。だが、内藤はそれを否定する。続けて「これがまあ、ヤンキーゴーホーム事件の背景でして……」と、自身が若気の至りで起こした小事件に話題を転じる。ある日、D市の繁華街で酔って、米軍憲兵(MP)二人に「ヤンキーゴーホーム」のひと言を浴びせた。すると、その二人に取り押さえられて交番へ突きだされたという。「占領目的阻害行為処罰令」が適用されかねなかった。

 

 なぜ、反米の言辞を吐いたのか。内藤は、MPを見てオンリーさんを思いだしたからだと自己分析する。MPは体格がいい。あの将校も同様だ。「あんな大男に組み敷かれるのでは、彼女は大変だな……」。青春期の正義感と性的好奇心が入り交じった思いと言えようか。

 

 と、ここまで引っぱってようやく、内藤の回顧に「忘れ得ぬ人」が登場する。交番に現れた旧制高校生だ。英語が達者で、調停を買って出る。この青年は「ヤキゴメ」という名の友人を見かけて呼びとめただけ、それが「ヤンキーゴーホーム」に聞こえたのだ――そんな理屈でMPを言いくるめてくれた。その結果、この一件は大ごとにならずに済んだ。今の自分があるのもあの人のおかげと言って、彼を見つけてほしいと「私」に頼むのである。

 

 この先は詳述しない。ただ、「私」の調査は過去の断片を次々に掘りだしていく。それらをつなぎ合わせると、内藤にとっては都合の悪い筋書きも推察されてくる。忘れていたほうが無難なのに「忘れ得ぬ」――准高齢者や高齢者にはそんな昔もあるのかもしれない。

 

 この短編集には、科学報道に携わってきた者には見逃せない1編もある。「原爆を止めた男」。書きだしの話題は、まさに老いの心理。主人公の堀田75歳は電車に乗ったとき、席を譲られまいとする。そこで身につけた習慣は、本に読み耽っている人の前に立つことだ。この日も、それにぴったりの中年男を見つけて移動する。すると、その男が声をかけてくる。堀田が高校教師だったときの教え子だった。降車駅の駅ナカ喫茶店で旧交を温める。

 

 教え子は今、出版社勤め。学者からの頼まれごとで、古書店で古雑誌を買い入れた帰りだという。戦争直後に出た『真相』という「暴露雑誌」。堀田はそれを見せてもらって、目次に「原爆研究」「爆死の真相」の文言を見つける。「気のせいか、堀田の脈拍が早くなったようだ。そして、ある人物の顔が、はっきりと浮かんでいた」。記憶の底からなにかが立ち現れる瞬間は偶然に訪れる。そのことを電車、再会、古雑誌という流れで切りだしている。

 

 堀田の心の中では、戦後に聞いたある人物の告白をどう受けとめるべきかがずっと未解決だった。その霧を、たまたま手にした古雑誌の記事が払うという醍醐味。戦時の不確かな軍事情報にくっついた「尾ひれ」が思わぬ副産物をもたらしていた現実が見えてくる。

 

 佐野洋は戦後の混乱期、20歳前後の青年だった。もしかしたら自身にも痛みを伴う体験があって、その苦さを作中人物の記憶に投影させたのかもしれない。老境の圧縮された時間軸をトラウマ覚悟で掘り起こすのも、歴史からなにかを学ぶ一助にはなるだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算355回)

 

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『三枝博音と鎌倉アカデミア――学問と教育の理想を求めて』(前川清治著、中公新書)

写真》大学――ペンの力

 「見上げてごらん夜の星を」という歌がある。希望が胸の底から湧いてくるような旋律だ。1963年、坂本九が唄って広まった。のちに九ちゃんが空の事故で亡くなったことを思うと切ない歌でもある。作曲したのは、いずみたく。その人と一度だけ、僕は言葉を交わしたことがある。89年のことだ。いずみ(本名・今泉隆雄)は二院クラブ所属の参議院議員だった。その今泉議員に、科学記者として臓器移植のことで電話取材したのである。

 

 この年12月1日の参議院本会議では、臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)の設置法案が可決された。脳死移植を進めるかどうかで首相の諮問機関を設けることが決まったのだ。この問題は議員めいめいの死生観にもかかわる。政党が賛否を縛るのをやめようという動きもあったが、結局は、大半の会派が党議をまとめて賛成に回る。採決は起立方式。立たなかったのは一部の党、そして一部の人……その一人が今泉議員だった。

 

 僕は彼の不賛成を確認してその理由を問うため、議員会館に電話した。答えはもらえた。ただ、脳死や臓器移植に対する思いを聞きたいとの期待は外れる。記憶によれば「大勢になびくのは嫌い」というような話だったと思う。記者の力足らずもあって、その取材結果は紙面に生かせなかった。今、参議院公式サイトの記録をみても「可決された」とだけあり、賛否の人数すら残っていない。いずみの抵抗は、歴史の波間に隠されてしまった。

 

 脳死臨調は中身の濃い議論を重ね、答申時にも少数意見を併せて公表するなど画期的な有識者会議だった。だから、その設置法案に賛成しなかったことをもって英断と称えるつもりはない。むしろ僕が今でも感服するのは、付和雷同はいやだという反骨心だ。いずみは1930年生まれ。少年期は軍国主義の重圧下にあり、戦後一転、自由のすばらしさを知った世代だ。大政翼賛の構図がいやだったのだろう。その原点は、きっと青春期にある。

 

 いずみの母校は鎌倉アカデミア。僕はその存在を、いずみや放送作家兼司会者前田武彦(マエタケ)の出身校として知った。終戦直後の一時期、鎌倉の知識人が政府の定める大学の要件など気にもとめず、自律の精神で開いていたという学園だ。反骨心は、その校風によっても育まれたのだろう。文部科学官僚の組織的な私学天下りという報道に触れて真っ先に思い浮かんだのが、この学校だ。私学にあるはずの在野精神は今、どこへ消えたのか。

 

 そう思うと、この「大学」ならざる大学について書いた本を無性に読みたくなった。で、今週は『三枝博音と鎌倉アカデミア――学問と教育の理想を求めて』(前川清治著、中公新書)。著者は1934年生まれのノンフィクション作家。この本は96年に出た。

 

 まずは開学の端緒。この本には、1945年の晩秋に「鎌倉文化会が中心になって『鎌倉山に大学をつくろう』と動き出した」とある。注目すべきは、この文化会の構成メンバーだ。画家、音楽家、演劇人、宗教家など文字通りの文化人に交じって「町内会長」たちがいた。大学づくりの計画でも創立準備委員7人のうち4人が、その会長連だ。地元農家の人がいる。郷土史家もいた。鎌倉アカデミアは地域に根差したところから生まれたと言ってもよい。

 

 こうして翌1946年春、国の大学令に縛られない「鎌倉大学校」が開校した。準備委員の一人が鎌倉山の土地を提供するということだったが、とりあえずは仮校舎を材木座の名刹、浄土宗光明寺に設けた。教室には畳敷きの仏間などが使われ、仕切りはベニヤ板だった。まさに寺子屋だ。その後、運営をめぐるゴタゴタがあり、自前の敷地は夢と消える。2年後に校舎を近隣の横浜市西部へ移したとき、校名を「鎌倉アカデミア」に改めたという。

 

 この本によれば、専門学部にあたるものは開校時、産業科、文学科、演劇科の三つだった(のちに映画科も置き、産業科は経営科に改称した)。それぞれ学生50人を募ったという。違和感を覚えるのは「産業科」の開設だ。文学や演劇はいい。だが、産業は文化都市鎌倉に似合わないのでは……ところが読み進むにつれ、それが浅薄な偏見だとわかる。そこには深遠な文化観があった。その中心にいたのが哲学者、三枝博音(さいぐさ・ひろと)だ。

 

 三枝は産業科の教授兼初代科長。初年度途中から学校長になった。広島県生まれ、実家が寺だったのでいったん仏門に入るが、学問を志して東大で西洋哲学を学んだ。私淑した学者の一人が、医史学の富士川游。このあたりから理系に対する関心が芽生えてくる。大学院を出て学究となり、唯物論哲学に共鳴するが、それに頓挫して技術史の著作活動を始める。日本科学史学会が1941年に誕生したときには発起人に名を連ねている。

 

 産業科長には三枝の後も科学史家が就いた。鎌倉アカデミアは、いずみやマエタケ、作家山口瞳、映画監督鈴木清順ら戦後文化の一線を担う人材を輩出したが、学園首脳陣は狭い意味の文系世界に閉じこもっていなかった。理系世界も包みこむ文化が、そこにはあった。

 

 源流の一つは三枝が敬愛した三浦梅園だ。江戸時代、東洋の思想とともに西洋の理系知に関心を寄せた人である。著者は三枝の論考「三浦梅園の哲学」を引く。文系の書物に天文の話を書き込んだことを「あなたには詩の世界と物理の世界は一つだった」と評している。

 

 三枝は科学のありようにも目を向けた。「明治以前の科学的研究における庶民性について」と題する論考で、日本には科学の「公開性」や「協同性」の流れもあったことを指摘している。ここに登場するのは、平賀源内だ。「彼及び彼の伴侶たちが志を同じくして『物産会』の如きを幾回か開き連絡をとり、しかも政治的に頼ること(頼られ得るものでもなかったが)は少しもせず企て通した」という。公開、協同のみならず自律の科学とも言えよう。

 

 こうした科学観を、三枝は鎌倉アカデミアで具現しようとした。ひとことで言えば「楽しい学園」をつくるという決意だ。この本が長く引用した学生自治会発行Academia Times第1号への寄稿に、その核心を見ることができる。「わたくしが『楽しい』というのは、楽々とした気もちになれるとか、のんびりした心もちに成れるとかいうのではない」とことわった後、理想の学園像を目に浮かぶようなかたちで描いている。

 

 「廊下や教室で目に入るもの、耳にはさむもの、すべてが先生や学生たちの教養が深まるようになっている。絵も貼る、表も出す。楽しい書物や珍しい書物を見せる。金がないなら各自書斎のものを短期に持ち出す。研究会は大小つねにもたれる。本を読むことは飯を食うようにする」。最後の一文は、梅園の「学問は飯と心得べし」という名言を意識したのだろう。学ぶとは自らの糧を得ることであり、ひけらかしのためではないとする警句だ。

 

 この学園像は、決して絵空事ではなかった。そのことをうかがわせるのが、鎌倉文化人の一人、作家高見順の講義だ。この本では、文学科に学んだ作家沼田陽一の文章を紹介している。それによると、高見は授業中に鞄から自分の蔵書を引っぱりだして「闇屋じゃありません」と笑わせた。学生は講義後も去らず、延長戦を求めて「本堂と庫裏をつなぐ渡り廊下の脇にある池のそばの芝生の上に先生を中心にして扇状に腰をおろした」という。

 

 あるいは演劇科では、学生たちがいくつかの演劇集団をつくり、互いに競いあった。その一つ、「かもめ会」の東京公演に触れたくだりに「舞台監督は今泉隆雄(いずみたく・作曲家)が担当した」とある。いずみは、母校にもしっかりと足跡を残していた。

 

 この本には、大学運営をめぐっても驚愕の事実が書かれている。一つは、入試の面接に学生を同席させたこと。背景には、三枝の「仲間は自ら選ぶことが大切」という考えがあった。また、自治会委員長経験者の証言によると、授業料値上げも学生主導で決めた。このとき、学生側の提案額は教授側のそれよりも高かったという。そんなこともあって学生たちは「経営収支に明るくない教授たち」を運営から遠ざけようとしたらしい。苦笑する話だ。

 

 鎌倉アカデミアは資金難で1950年に力尽きた。三枝も63年、鶴見列車事故で亡くなっている。「大学」ならざる大学の足跡を戦後民主主義の徒花と片づけるのは簡単だ。だが大学再生が求められる今、その「楽しい学園」の決意は断じて冷笑されるべきではない。

(執筆撮影・尾関章、通算354回)

 

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『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント』

(太田省一著、光文社新書)

写真》SMAPは何の略?

 暮れのあの騒動はなんだったのだろう。SMAP解散をめぐる報道ラッシュである。紅白歌合戦に出るのか出ないのか。そんな芸能ネタにとどまらなかった。ファンたちが朝日新聞の広告面8ページに“We Love SMAP Forever”などのメッセージを載せ、それがまた話題のタネとなった。年明けに別の音楽ユニット、いきものがかりの活動中止がさらっと報じられたが、あのくらいが適量ではなかったか。僕などはつい、そう思ってしまう。

 

 実際のところ僕たち60歳超世代にとって、SMAPはさほど身近な存在でなかったとも言えよう。ジャーナリストを名乗る者としては自慢にならないが、僕はグループの活動拠点となったテレビ番組「SMAP×SMAP」(フジ系列)を一度もまともに観ていない。調理場のセットが出てくる場面をちらっと見たくらいだ。彼らが世に出た1990年代は、僕たちがちょうど働き盛りのころだった。そのことも影響しているのだろう。

 

 気になる存在ではあった。たとえば、あの名前はなんだろう、と思っていた。芸能界のグループ名はふつう意味をもつ。ダークダックスがそう、ザ・ピーナッツもそう、嵐もそう、AKB48だって秋葉原が透けて見える。命名はイメージ戦略の一つだ。では、SMAPは? “Sports Music Assemble People”の頭文字からとったというのは、今回初めて知った。気にはなるがネット検索もかけないでいる。そんな距離感が僕にはあった。

 

 ではなぜ、気になったのか。それは、数少ないSMAP体験のなかに印象深いことがあるからだ。たとえば、メンバーの木村拓哉がテレビドラマに出たとき、台詞の語尾に「……でしょ」が多かったのは新鮮だった。あれは、2000年放映の「Beautiful Life――ふたりでいた日々」(TBS系列、北川悦吏子脚本)だったと思う。相手役は常盤貴子。「だろ」ではなく「でしょ」。それが、男女の立ち位置を水平に感じさせたのである。

 

 この言葉づかいは、たぶん脚本通りなのだろう。あるいは、制作陣の意向だったのかもしれない。ただどちらにしても、脚本家や制作陣は「だろ」よりも「でしょ」のほうがキムタクに似合うと感じたに違いない、と僕には思われた。ここにこそ、SMAP解散があれほどの衝撃をもたらしたことの理由が潜んでいるのではないか。フェミニズムのような時代精神を自然に体現する青年群像――その退場を彼らの同世代は惜しんだのである。

 

 で、今週の1冊は『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント』(太田省一著、光文社新書)。著者は1960年生まれ、社会学が専門で、戦後日本のテレビ文化に焦点を当て著述活動をしている。当欄の前身で『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)という著書を紹介したこともある(文理悠々2013年12月24日付「『紅白』改造計画を練ろう」)。今回のSMAP本は、きわめてタイムリーに2016年12月に出た。

 

 ここで、書名に「平成ニッポン」、帯の惹句に「平成史は、SMAP史である」とあることにも目をとめておこう。結成が昭和末期の1988年だったこと、解散の2016年末には天皇の退位や改元が取りざたされるようになっていたことを思うと、彼らは平成の申し子のように見える。現に、ほかにもSMAPをこの元号と結びつけた新刊書が出ている。彼らが発信した時代精神は、平成の空気と言い換えてもよいかもしれない。

 

 興味深いのは、昭和の終わり、平成の始まりという区切りがテレビ文化の転換期と同期していることだ。1989〜90年に「ザ・ベストテン」(TBS系列)、「歌のトップテン」(日本テレビ系列)、「夜のヒットスタジオSUPER」(フジ系列)といった歌番組が次々に看板を下ろした。歌謡曲の時代の終焉である。それに代わって台頭したのが、バラエティ番組だ。SMAPはそこに活路を見いだし、見事に成功したと言えるだろう。

 

 著者によれば、SMAPの楽曲群で平成色がにじむのは、1994年の「がんばりましょう」(小倉めぐみ作詞)からだ。そのころ僕は海外にいたので思いだせないのだが、「かっこいいゴール」のひと言があるという。前年のJリーグ発足に呼応しているようで同時代的だ。そのあとゴールの陶酔は一瞬に過ぎないと達観する歌詞がつづき、「血圧」「寝グセ」といった「かっこいい」とは無縁の言葉が出てくる。昭和の青春とはどこか違う。

 

 たしかにこの歌には「醒(さ)めた視線」がある。だがそれでも、喪失感のどん底にいる人々を励ます「応援ソング」となった。SMAPは1995年の阪神・淡路大震災のときも2011年の東日本大震災のときも、直後のテレビ番組でこれを選んで歌ったという。

 

 ここでも気づくのは、楽曲名の語尾「ましょう」だ。歌詞をみても、いつかもう一度幸せになろうと呼びかけるところが「なりましょう」となっている。これは、キムタクドラマの「でしょ」と同じではないか。あの台詞が喚起したのは男女の水平感だった。こちらは歌う人と聴く人の間の水平感だ。昭和の青春ドラマで「がんばろう」「幸せはつかみとるものだ」と檄を飛ばす熱血先生とはまったく違って、この歌から上から目線は感じとれない。

 

 SMAPの5人は団塊ジュニア世代とほぼ重なる。同年代人口が膨らんで競争が激しいのに、就職期にバブル崩壊の直撃を受けた。正社員雇用は狭き門で、非正規に甘んじても職を探すしかない。この社会状況は奇しくも芸能界事情と重なる。アイドルは新曲を出しつづけていれば安泰、とはいかなくなったのである。彼らも、新しい職場を見つけなくてはならなかった。だからこそ同世代の若者と同じ地平に立てたのではないだろうか。

 

 その職場となった番組「SMAP×SMAP」についての分析もある。歌とコントを織り交ぜた組み立てで、「夢であいましょう」(NHK)、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ系列)以来の「バラエティの王道」を踏襲しているが、同時にSMAPメンバーが「素」の姿を露わにする「ドキュメンタリー性」も具えていた、という。例に挙がるのは、メンバーが不祥事を起こして活動を自粛したとき、謝罪して復帰する場に使われたことだ。

 

 そう言えば、SMAPにも幾度か不祥事があった。たとえば、2009年にメンバーの一人が起こした泥酔全裸事件。この本は事件に触れつつも読み解きはしていないが、僕はあの顛末にSMAPと時代との共鳴をみる。夜中の公園で裸になる行為はほめられることではないが、このときは人に大きな危害や損害を与えていない。起訴猶予となったのも納得がいく。だから、世間は復帰を温かく受け入れた。そのこと自体が平成のおとぎ話だった。

 

 平成は、法令順守に突き進んだ時代である。バブルのころなら見えてこなかった不正や怠慢が厳しい経済環境と嘘のつけない電子管理によって露わになり、至るところで責任追及の嵐が吹き荒れている。そんななかで世間が珍しく見せた寛容。それを、僕はあの一件にみる。SMAPは、「しかたないね、これからはちゃんとしろよ」の叱責で済む逸脱の許容幅を身をもって示した。彼らが優等生ではなかったからこそできたことだろう。

 

 この本は、SMAPの「バラバラの個性」についても語っている。メンバーが別々の芸能活動をするだけではない。一緒に歌うときも「それぞれ異なる方向を見つめ歌い上げる構図」をとったりする。これは、僕も感じていたことだ。著者は、そこに「個人と集団の両立」をみる。「『昭和』の日本社会を支えてきた既存の集団の崩壊現象」を目の当たりにした人々には、バラバラと一緒を両立させる姿が「理想のコミュニティ」に見えただろうという。

 

 この本は、「公共」の一語も木村拓哉のエッセイ集『開放区』(集英社)から引いている。「“キムタク”って、どうやら公共物らしい」。それは「誰でも入れるし、誰でも出ていける、これといった建造物のない、がらんとした公園」のイメージだという。至言ではないか。「既存の集団」がもはや頼りにならず、一人ひとりがばらけて生きることを強いられた世代が、ようやく見いだした公共の空間。それが、SMAPのいる世界だった。

 

 最後に、SMAP騒動に冷淡だったことに対する自省。こんなにも同時代性を具えた偶像の存在にそれが退場してから気づく。年をとり隠居するとは、こういうことかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算353回)

 

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『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)

写真》六つの個性、一つの群れ

 1月20日は米大統領就任式の日である。4年ごとに巡ってくる行事だが、今回ほど胸騒ぎがすることはない。これは、あの人の政策がどうこうという話ではない。これからしばらく、見たこともない不釣り合いを見せつけられそうなことが怖いのだ。

 

 過去の大統領を思いだす。ドワイト・アイゼンハワーの記憶はおぼろだが、幼心にも「えらい人」とわかった。ジョン・F・ケネディは、とにかく若くて格好がよかった。リンドン・ジョンソンはベトナム戦争を、リチャード・ニクソンはウォーターゲート事件を思い起こさせるので印象はあまりよくないが、それでもそれぞれ重みがあった。後続の7人も保守リベラルの違いを問わず、首座の人にふさわしい平衡感覚はもちあわせていたように思う。

 

 では、あの人はどうか。人には隠された一面があり、職位についてからそれらしさが出るということもあるだろう。だが、有権者が今回の大統領選挙で票を投じるときに判断材料とした言動をみる限り、平衡を感じさせる因子が著しく欠如していたのは間違いない。

 

 当欄は、チェコの作家カレル・チャペックが米国に将来とんでもない政治体制が生まれるだろうと予想していたことを1年前に書いた(2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。1930年に世に出た空想記事で、『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(カレル・チャペック著、飯島周編訳、平凡社ライブラリー)に収められている。ギャングの頭目が最高権力を手にして、極端な排他政策を指揮するというのである。

 

 ただ、この話ではギャング自身が大統領に就くわけではない。米国では二大政党制ですら暴力に支配されるだろうとの見立てに沿って、陰の実力者としてホワイトハウスを操るだけだ。だから、チャペックが現在の米国社会のどこを突いているかと言えば、排他主義の強まりや銃規制の緩さだ。彼はロボットの台頭を芝居にしてみせた人だが、世界に冠たる民主主義国で極端な人物が正当な手続きで最高権力者になるとまでは思わなかったのだ。

 

  選挙は民主主義の礎と言われている。有権者に投票してもらえば、それぞれの思いを積分したものを見極められる、という理屈だ。ただ、一つ条件がある。この過程で一人ひとりの考えが歪められないことだ。ところが最近は、有権者が大小メディアの喧騒に影響を受け、自分自身の熟考にもとづく選択をしにくくなっているように感じる。その結果、投票箱を開くと本来の積分値とは別物のなにかが立ち現れてくるのではないだろうか。

 

 で、今週は『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)。著者(1841〜1931)はフランスの知識人。理系文系の諸学に手を染めたが、社会心理学者と言われることが多い。この本の刊行は1895年。120年余も前に今日的な表題がつけられたことに驚くが、考えてみれば当時のフランスは激動のさなかにあった。1789年の大革命以来繰り返された革命や内乱。群衆が歴史の表舞台に躍り出る時代だった。

 

 19世紀の論考なので弱点もある。社会科学は20世紀に入って科学らしさを高めていったが、この本はそれに乏しい。実験や統計に足場を求めず、社会観察や史実分析をもとに著者の洞察が披歴される。そのせいか、そこに展開される理論には批判もあるようだ。

 

 ただ本を開くと、「群衆の一般的特徴」という章で思わずうなずきたくなる一節に出会う。「人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える」「意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」

 

 だから、群衆はたった6人でも成り立ち得るし、何百人いても条件を満たさない場合があるという。この訳が「群衆」を「群集」としないでいる理由の一つは、そこにあるのかもしれない。ここで見落とせないのは、「離ればなれになっている数千の個人」も「ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある」としていることだ。ネットの炎上を目の当たりにすると、この見解は今日ますます的を射ているように思われる。

 

 この本には、いくつかキーワードが出てくる。たとえば「暗示」と「感染」。著者によれば、群衆は催眠術のように暗示にかけられる。その暗示は、群衆の内部で感染を繰り返して増幅される。そこにあるのは「意識的個性の消滅」と「無意識的個性の優勢」。暗示と感染が感情や観念の向きを一つに揃えて行動を促す。その結果、一人ひとりは「もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる」という。

 

 このことで著者が書き添えている指摘を二つ挙げておこう。一つは、群衆の想像力が事実を「変形」させるとしていることだ。「極めて単純な事件でも、群衆の眼にふれると、たちまち歪められてしまう」。もう一つは、そのようにして「集団的錯覚」が生まれるのは群衆のメンバーがたとえ教養人であっても変わらない、と断じていることだ。これも、近年のメディアの混迷やその怖さを予言するような卓見ではないか。

 

 「心象的思想(イデ・イマージュ)」という言葉にも遭遇する。群衆が暗示にかかる思想は「極めて単純な形式」の心象として現れる。だから「類似または連関のような論理的な関係」がなく、「矛盾した思想が相ついで生ずる」ことがある――。この記述で連想されるのも近年の世相だ。ツイッターのような短文投稿サイトの広まり、そしてワンフレーズ・ポリティクス。その根っこは新聞雑誌くらいしかメディアがない19世紀にもあったのだ。

 

 ここまで読んで感じるのは、昨年来見せつけられている想定外の事象の多くでは群衆心理が駆動力として働いたのではないか、ということだ。その作用は、著者の見解ではたった6人でも表れるというのだから人間社会が太古から経験してきた現象なのだろう。ただ、近現代になるとメディアが拍車をかけた。とりわけ最近はインターネットやソーシャルメディアが日常生活に浸透したことで、驚くべきパワーを手にしたように思う。

 

 なかでももっとも強烈だったのは、EU(欧州連合)離脱を問うた英国の国民投票と本稿冒頭で触れた米国の大統領選だ。両者の結果については「人々が第2次大戦後、これこそが人間社会の進化だと考えてきた方向性をいともあっさり一蹴してしまった」と当欄に書いた(2016年12月16日付「ひどい年」を清張の時代と対比する」)。時代精神を群衆心理が駆逐したのだ。それがどうして起こったのかを示唆する論述も、この本にはある。

 

 それは、群衆が幻想に惑わされないための方策を考察したくだり。著者は「群衆の精神に真実を確立し、あまりにも危険になりすぎた幻想を打破するために、有効な、ほとんど唯一の方法」は「経験」だという。経験知のみが誤りを防げるのか。ただ、そこには但し書きがある。「一世代(ジェネラシオン)によってなされた経験は、次の世代にとっては、おおむね無用」。戦時戦後の体験を語り継ぐのが難しい理由は、ここにもあるのだろう。

 

 この本は裁判の陪審員も群衆ととらえ、その制度を論じている。裁判員裁判が始まってまもない日本社会にとっては、これも参考になる。著者は、この制度が「法律の条文しか知らない裁判官」の「職掌柄の冷酷さ」を緩和するとみて、寛容な評決を期待する。ただ、それが今も通じるかどうかは疑わしいと僕は思う。「個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」という傾向は、メディアの増幅作用で不当な厳罰につながる恐れもあるからだ。

 

 議会についても著者は書く。議員集団は「ある瞬間に群衆となる」という。そんな立法府が陥りやすい「危険」の一つとされるのは財政支出が膨らむこと、もう一つは人々の自由を縛る法律をやたらにつくりたがることだ。後者については「議会は、その単純極まる精神から、それらの法律の結果を見誤り、しかもそれらを採決する義務があると自ら信じている」と見抜く。同感だ。現代社会に閉塞感をもたらしている元凶の一つがそこにある。

 

 僕たちも、ふだんは「意識的個性」として生きているのに「ある瞬間」に「無意識的個性」の大波にのみ込まれてしまう。だが肝心かなめの決断では「意識的個性」を取り戻さなくてはなるまい。恐るべし、ル・ボン。この本は、100年の隔たりを超えてなお新鮮だ。

(執筆撮影・尾関章、通算352回)

 

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