『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)

写真》スイートなアメリカ

 トランプ大統領が現実になる。当欄は昨秋、今年の米国大統領選について「当選するのは、たぶんあの人だと思うが、もしかしたら違うかもしれない」と書いた(2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。歴史の針は、その「もしかしたら」に振れたのである。有力メディアの多くはドナルド・トランプ氏の言動にあきれて批判を重ねたが、それが通じなかった。そして選挙終盤、世論調査の大勢も有権者の動向を見誤った。

 

 またも痛感するのは、既成メディアの凋落だ。人々の心に訴える力も、人々の心を読む力も衰えた。「ジャーナリストが世論を代弁して、権力と対峙するという模式図が通用しなくなった」のである(当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」)。8月の拙稿では、メディアが「世論の幻影」を求めて多様な主張の「当たり障りのない平均値」をはじき出そうとしていることに言及したが、その計算も難しくなってしまった。

 

 そんな現実への戸惑いを率直に打ち明けたのが、米国のリベラル派経済学者ポール・クルーグマンの論考だ。ニューヨーク・タイムズが11月11日に載せたものを抄訳で読んだ。「私は『その日』以降の大半はニュースを避け、個人的なことに時間を費やし、基本的に頭の中をからっぽにして過ごした」(朝日新聞2016年11月17日朝刊)。「その日」とは選挙結果が出た日だろう。この気持ちはわかる。僕も数日間は新聞を読む気分が萎えた。

 

 クルーグマンは「でも」と続けて、虚脱状態は「民主主義国の市民」らしくないと思い直す。「真実と米国の根本的な価値観のため」の抵抗が必要だとしたうえで「だが…(中略)…演説や文章が人の考えを変え、政治的行動主義が最終的に権力者を変えることも…(中略)…もはや期待できなくなっている」「だが、免れようがないと言って、この状況を受け入れるつもりはない」と右往左往する。「でも」と「だが」の連発に苦悩がにじむ。

 

 この当惑は、たぶんリベラル派だけのものではない。そう思うのは文中に「真実と米国の根本的な価値観」とあるからだ。人権、自由、平等。米国の指導者は独立以来、やせても枯れても理念とともにあった。独り善がりが余計なお節介となって国外の紛争をドロ沼化させることもあったが、彼らが建前の旗を降ろすことはなかった。それがただ“Make America Great Again(米国をもう一度、偉大に)”の本音だけに代わってしまうことへの違和感。

 

 で、今週は『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)。著者の卓見には、これまでも彼女の著作ではない本を語るときに触れてきた(当欄2014年10月17日付「今こそ宇沢経済学ではないか」、2016年8月19日付「『かたち』から入るというサイエンス」)。今度は本人の本をぜひ、と機会を狙っていたら、邦題『壊れゆく…』が目にとまった。2016年暮れの心象風景にぴったりくる書名ではある。

 

 著者(1916〜2006)は米国出身で、後年、カナダに移住した都市問題の論客。フリーの著述家として健筆をふるった。代表作は『アメリカ大都市の死と生』。アカデミズムから離れたところで思想を深め、社会に影響を与えた人だ。この一点で、僕は『沈黙の春』のレイチェル・カーソンとの共通項を見る。『壊れゆく…』の原題は“Dark Age Ahead”。2004年に出て、著者の遺作となった。この邦訳の刊行は2008年。

 

 一読してわかるのは、著者が母国と移住先をひと括りにとらえていることだ。邦題の「アメリカ」は北米と読んだほうがよい。米国、カナダの同時代史を考察している。文章は融通無碍にあちこちへ飛ぶが、そこには一貫した論理がある。その主軸は得意の都市論だ。

 

 著者が「倒壊」の兆しをみるものの一つが「家族」だ。だが保守派のように、家族の絆の緩みを嘆いているのではない。むしろ、孤立しがちな核家族が地域社会(コミュニティ)とどう関係するかに関心を寄せる。興味深いのは、地域社会のもっとも大切な機能は「友人や知人、近隣との会話によるかかわり」であり、その回路で知識や情報がもたらされれば核家族の人々が地域の一員として「責任を果たすことができる」と論じていることだ。

 

 「責任」とはどんなものか。著者が挙げるのは「軽い病気や怪我の場合に自宅で治療できるだけの知識と経験」「病気や怪我が自宅療養できないほど重症で命に関わる危険があるかどうかを、即座に正しく判断できる能力」「子どもが薬物に走らないように注意し、また他人を警戒しつつだれでも疑ってはいけないと子どもを訓練する能力と気配り」……。核家族が地域に支えられれば、救急車や警察ばかりに頼らない社会が生まれるということか。

 

 著者が危ういと感じる二つめは「大学」だ。北米では「教育を授けるのではなく、卒業証書を与えることが一義的なビジネスとなっている」と断じて、親がわが子の大学進学を「投資」とみる傾向を嘆く。日米の大学比較論で、日本では入試が難しくて卒業はたやすいが、米国では入学後の学業が厳しいので出るのが難しい、という話をよく聞くが、必ずしもそうではないらしい。1960年代から証書発行の場と化したという。

 

 著者によれば、学歴偏重社会は「一九三〇年代の大恐慌の、いわば間接的な遺産」だ。米国やカナダには働きぐちを得ることを最優先に考える文化が生まれた。その志向は教育を蝕んだだけではない。開発本位の政策も生みだした。一例は、米国が1950年代半ばから進めた「州間高速道路システム」だ。「高速道路建設によるアメリカの地域社会の破壊という意見は、完全雇用の創出という正当性によって簡単に打ち消された」と批判している。

 

 トランプ旋風の背後には、ラストベルト=錆びた工業地帯に根強い雇用喪失への危機感があったといわれる。著者は、大恐慌の記憶をたどって大量失業がもたらす苦難を描く一方、求職一辺倒、雇用一辺倒という妖怪が社会を歪めてきた現代史も見逃していない。

 

 印象深いのは「放棄されたサイエンス」という章だ。著者が1950年代、ニューヨーク・グリニッチビレッジの広場を分断する高速道路案に反対したとき、当局者は「交通は水のようなもの」と言い張ったという。せき止めた水が別の出口に流れるように、マイカー時代に幹線道路がなければ周りの小道が車だらけになる、という理屈だ。だが現実には「彼の不吉な予言はあたらなかった」。一見科学的な「水の仮説」が実は科学的でないという逆説。

 

 この章には、1995年夏に数百人が犠牲となったシカゴ熱波の話も出てくる。批判の的は、水分摂取不足、エアコンなしという引きがねばかりにとらわれた医療チームの調査。自己責任論に陥りかねないことを指摘する。むしろ著者は、社会学の大学院生が進めた研究に着目する。それによれば、高齢者の死亡率が低い地域では彼らの多くが商店主と顔見知りで、「ためらわず涼しい店中に入っていき、一杯の水を求めることもできた」という。

 

 この二つの事例からわかるのは、著者は都市問題に科学のメスを入れるとき、人間を不可欠の要素と位置づけていることだ。人は、道路事情が悪ければマイカーを使わずに出かけようという気になる。見知った顔を見かければ「ちょっと涼ませてくれるかな」と頼むこともできる。それが人間というものだ。流れるものならなんでも水にたとえ、生命体といえば生理作用しか思い浮かばない思考のありようは、本当の科学ではないということだろう。

 

 著者は、この章で科学の惰性を戒めている。そこでもちだすのは、科学史家トマス・クーンの論考で広まったパラダイムという概念だ。考え方の枠組みである。科学界でパラダイムは「非常に大切にされる傾向」にあるので、それを疑う「新しい知識や証拠」を突きつけられると「こじつけの説明」などで「潤色される」という。頭に浮かぶのは、3・11後の今も根強い原発必要論だ。ここでも、人間を織り込んだ新思考が求められてはいないか。

 

 「アメリカの郊外を数キロほどドライブしても、乗用車やトラックから降りた人や歩いている人影は見かけない」「地域社会が存在するためには、人々が本人同士で出会わなければならない」。これこそが、ジェイコブズ思想の核心だろう。米国社会が取り戻すべきは偉大さではなく、人が歩いて人と会い、言葉を交わす町ではないのか。よその国のことではあるが、その開放感のある文化が好きだからこそ、余計なお世話を焼きたくなる。

(執筆撮影・尾関章、通算345回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『小説読本』(三島由紀夫著、中公文庫)

写真》11月25日

 1970年11月25日のことはよく覚えている。東京はとにかく晴れていた。僕はまだ19歳で、白衣を着て実験室にいた。学友の一人がどこかで小耳に挟んだニュースをささやく。「あのミシマユキオが……」。理系学生の基礎実験と大作家の反乱。その交錯に当惑した。それが三島事件を知った最初の瞬間である。たぶんこの時点ではまだ、三島由紀夫は生きていた。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地への乱入がテレビで伝えられた直後だったのだろう。

 

 当日の報道で印象に残っていることが一つある。ニュース番組で、アナウンサーはみな「ミシマ」と呼び捨てにしていた。文学者は文芸記事にとりあげられるときは敬称略だが、テレビではふつう「さん」がつく。それを、いきなり剥奪されたのである。刑事事件の被疑者を今のように「……容疑者」とは呼ばなかった時代だ。高名な作家の芝居がかった振る舞いを世間の常識が犯罪の範疇に位置づけたのだ。そう実感したことを覚えている。

 

 三島由紀夫のイメージで、いつもつきまとうのは二面性だ。ひと言で言えば、作品群の整然としたたたずまいと現実生活の唐突感のある危うさ。華麗な文学者人生を終えるその日に事件報道の文脈で敬称が外れたという事実は、そのことを象徴している。

 

 当欄は、前身コラムも含めて三島作品を真正面から論じたことがない。右派思想を嫌ってのことではない。作品から思い詰めたような空気感が感じられて怯んでしまうのだ。だが、第三者の目がとらえた三島の横顔は好んでとりあげてきた(当欄2016年1月15日付「ノサカの文体でミシマを知る」、文理悠々2012年2月17日付「ミシマ、平凡パンチ&1960年代」)。そこには、お茶目ではあるがとことん孤独な知識人の姿があった。

 

 作家野坂昭如は『赫奕(かくやく)たる逆光』(文春文庫)で、20代の三島を街で初めて見かけたときの印象を書いている。「ライトブルーの上下に髪はリーゼント風」で「うらなり瓢箪(ひょうたん)」(原文の「箪」は旧字)のような感じだったという。

 

 一方、出版人の椎根和は『平凡パンチの三島由紀夫』(文春文庫)で、三島の意外な一面を切りだしている。帝国ホテルで「ハンバーグライスのおいしい食べ方」を伝授すると言って、挽き肉とご飯をごちゃ混ぜにしてみせたという話。新年会で皿を2枚手にとり、それらを時空の軸に見立てて「阿頼耶識というのはね」と唯識論を熱く語っていたら、同席者から「そりゃアラヤシキではなくて、サラヤシキ(皿屋敷)」と茶々を入れられたという話。

 

 どうやら、三島には文学作品そのものよりも、別角度から迫るほうが当欄の嗜好に合っているように思える。ということで今週は、小説論や創作活動の方法論を集めた『小説読本』(三島由紀夫著、中公文庫)。中央公論新社が2010年、単行本として刊行したものが今年10月、文庫化された。所収の13編は雑誌などのために執筆された。発表時期は1948(昭和23)年〜70(昭和45)年で、彼の文学者人生をほぼ覆い尽くしている。

 

 もっとも生々しいのは、「小説とは何か」という一編だ。著者最晩年の1968〜1970年に雑誌『波』に連載された。初出一覧に最終回が70年11・12月号とあるのをみてギクッとする。70年前半に執筆したと思われる部分にこうある。「つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した」「さらに難物の最終巻を控えているが、一区切がついて、いわば行軍の小休止と謂(い)ったところだ」

 

 このくだりで著者は、小説家には「作品内」と「作品外」の二つの現実があり、「私にとって書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張から生れてくる」と打ち明ける。「暁の寺」が終わったことで「一つの作品世界が完結し閉じられる」と同時に「それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になった」。だから、全4巻完成後の世界のことは「想像することがイヤでもあり怖ろしい」とも。暗示に富んだ述懐である。

 

 さらに読み進むと、「心が死んで、肉体が生きているとして、なお心が生きていたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであろう」という一文に出会う。このあたりの論理展開に、僕は納得がいかない。作品内外の相互作用が執筆の駆動力になることはよくわかるが、なぜ作品が閉じるとその外の現実が屑となり、心が死滅するのか。むしろ、これまで囚われていた作品世界から切り離されて自由を手にできるのではないか。

 

 三島事件の予感は、1966年に発表された「『われら』からの遁走――私の文学」にもある。「文学はもちろん大切だが、人生は文学ばかりではないということを知りはじめた」「文士が政治的行動の誘惑に足をすくわれるのは、いつもこの瞬間なのだ」「中年の文士の犯す危険は、大てい薄汚れた茶番劇に決っている」。ここにも「作品内」の現実と「作品外」の現実との相克が見てとれる。ただ、「外」に潜む「茶番」の罠を警戒はしていたのだ。

 

 この本が心地よいのは、著者が最初から「作品外」にいて軽快に文学を語っているからだろう。具体論がふんだんに盛り込まれている。たとえば「小説とは…」では、和風建築の「舞良戸(まいらど)」という板戸をどう表現するかで三つの案が提示される。

 

 1)「横桟のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」2)「横桟戸」3)「まいらど、というのか、横桟の沢山ついた戸」――僕は新聞記者としてわかりやすさ本位を強いられてきたから1)をとるが、著者によれば全部×。「すべて『言語表現の最終完結性』についての小説家の覚悟のなさ、責任のなさという罪名に於て弾劾(だんがい)する」。小説では、説明なしの「舞良戸」が正解という。言葉の自律を尊ぶ思想が、そこにはある。

 

 古今東西の書物を論じる箇所も、この本の読みどころだ。「小説とは…」で僕が感心したのは、柳田国男『遠野物語』評。老いた女の幽霊が現れる場面で、囲炉裏端に置かれた炭取という什器が彼女の裾に触れてクルクル回ったという描写に、著者は目をとめる。「炭取の廻転によって、超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のほうが『現実』になってしまった」。なるほどと思われる読み方だ。

 

 著者の作品を僕が敬遠する理由は、そのスクエアさ、生真面目ぶりにあることをこの本は再認識させてくれる。「わが創作方法」では、自分は「方向」「目的」「道筋」を定めてからとりかかる作家だと表明する。添えられた自虐的な逸話が愉快。著者によると、メキシコ旅行を日程通りにこなして帰ってきたら、友人から「お前の見てきたのはメキシコではない」と揶揄された。「行き当りばったり」だからこそ見えるものがあるとの批判である。

 

 「小説の技巧について」では、「散文芸術の技術的条件のあいまいさ」が難解な筆致で論述されているが、末尾には、著者にとって「夢想の形態」である小説の姿がほぼ1ページを費やして示される。理想の作品像と受けとってもよいだろう。それは「汽車のダイヤのように正確」であり、「作品の内部では注意ぶかく偶然性が排除され、どのような偶然の出会いも偶然の動作もなされず、一度たりとも骰子(さいころ)の振られない小説」だ。

 

 これを読んで僕は、物理学者アルバート・アインシュタインが量子力学の確率論風の世界像に反発して漏らしたひと言を思いだした。「神は骰子を振らない」である。その後の物理学の流れを追うと量子力学の圧勝であり、僕たちが生きる世界のしくみのどこかには骰子が隠れているように思われる。そう考えると、著者が体験した「作品内」と「作品外」の「対立と緊張」は、決定論と不確定性の摩擦によってもたらされているのかもしれない。

 

 特記しておきたいことがあと二つ。一つは、著者が文体面で影響を受けたという作家たち。「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」で堀辰雄、レイモン・ラディゲ、スタンダールらとともに挙げられているのは森鴎外。夏目漱石ではない(原文で「鴎」は旧字)。

 

 もう一つは、著者が法科の学生として興味を抱いたのは刑事訴訟法だったということ。「汽車が目的地へ向かって重厚に一路邁進(まいしん)するような、その徹底した論理の進行」に惹かれたという(「法律と文学」)。ミシマは、どこまでもスクエアな人だった。

(執筆撮影・尾関章、通算344回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『伊香保殺人事件』(内田康夫著、講談社文庫)

写真》温泉まんじゅう

 今回は、湯けむりの話から。先週、一泊二日で北関東の温泉へ出かけたからだ。宿の滞在時間は20時間弱だったが、今回もよく湯に浸かった。大浴場へは夕食前に1回、夜更けに1回、朝食前にもう1回。部屋の窓際に置かれた内風呂は温泉水を含んでいないとのことだったが、そこにも入って眼前の紅葉に見惚れた。湯に身を沈め、体を伸ばして極楽気分――そんな快楽をもたらすのは湯の温みと成分のせいばかりではない。町の雰囲気もある。

 

 湯の町はかつて歓楽の地だった。夢千代のような芸妓が大勢いて艶っぽい空気を漂わせていたところも多い。高度成長期にはサラリーマンの懇親旅行先となって、雀卓の音が深夜まで鳴り響いた。そしてバブル期、レジャースポットの一つとして認識されたように思う。

 

 僕は最近、ケーブルテレビ経由で年代ものの2時間ミステリー(2H)を観ていて、思わぬ発見をした。地上波キー局で1980年代に混浴シーンを売りものにする2Hシリーズが始まったという史実だ。定番は、露天風呂でグループ旅行の「女子大生」や「OL」が上半身を曝し、じゃれあうように湯をぱちゃぱちゃと掛けあう、という場面。ロケ先は名湯の地ばかりなのに、旅の情緒は感じられない。まさにバブリーなバカ騒ぎ。

 

 ところが温泉地は今ふたたび、湯そのものの恩恵に自らの存在理由を見いだしつつある。僕がここ数年、会社勤めを離れた身軽さで平日の小旅行を重ねて感じるのは、バカ騒ぎの気配が消えたということだ。そういう宿を選り好みしているということもあるかもしれないが、同宿の人々には年配の夫婦、家族連れ、友人仲間が多い。考えてみれば、湯の町は歓楽地であると同時に保養地でもあったのだ。古来、湯治場という言葉もあるではないか。

 

 さて、この秋に僕が夫婦で小旅行したのは上州伊香保。山の北斜面に目抜き通りの石段街が延びていて、階段沿いにあるのぞき窓からは地中の温泉水も見てとれる。文字通りの湯の町。その湯治場としての自負を実感したのは、宿に入る前に町歩きをしていて徳冨蘆花記念文学館にふらりと入ったときのことだ。明治大正期の作家蘆花は1927(昭和2)年に病で没したが、その終焉の場所となった旅館の離れの様子が建物ごと再現されている。

 

 館の見学で思い知ったのは、蘆花が伊香保をどれだけ愛していたかということだ。定宿を決めて生涯に10回も逗留した。なかでも劇的なのは最後の1回だ。館内放映のビデオに収録された旅館関係者の証言によると、主治医が病状を診て止めたのに、言うことを聞かず看護陣を引き連れてやって来た。しかも、どうしてもひと風呂浴びたいと言い張る。周りの人々は彼を籐椅子に座らせたまま湯船に入れたという。その入浴の写真が残っている。

 

 僕の温泉小旅行も、蘆花と同様に歓楽でなく保養志向だ。ただ蘆花にあって僕にないのは、ゆったり感だ。彼の逗留記録では1〜2カ月の滞在は当たり前。こちらは20時間で数回、浴場に出たり入ったりする慌ただしさだ。温泉客の滞在様式も変わってしまった。

 

 もうひとつ言い添えたいのは、重病の蘆花を迎え入れ、わがままな求めにまで応じた旅館主人の寛容だ。もちろん、大作家に対する敬意や、定宿に選ばれたことへの誇りもあったのだろう。だが、それだけではあるまい。あのころ、温泉地の老舗旅館には自らが文化人を応援しているという自覚があったのではないか。それは、近年の町おこしにも通じるが、ただの観光振興とは異なる。経済効果抜きの社会参加の視野をもっていたように思う。

 

 で、今週は『伊香保殺人事件』(内田康夫著、講談社文庫)。浅見光彦ミステリーの一冊で、1990年の作品。浅見ものは2Hドラマの旅情シリーズとしては、西村京太郎の十津川警部と並ぶ人気企画で、複数の民放局が手がけ、それぞれ回を重ねている。当欄では僕が一昨年に鬼怒川温泉郷の湯西川温泉へ出かけたとき、十津川に登場してもらった(2014年10月31日「2時間ドラマの旅で考える鉄道論」)。だから、今回は浅見の番だ。

 

 はじめにことわっておくと、今回はこの本を読みながら列車に揺られ、旅を続けた。その結果、いつになく作品世界にどっぷり浸ることができた。おもしろかったのは、新幹線を高崎で降りて上越線に乗り換えたころ、作中の浅見が地元刑事とともに高崎市内へ聞き込みに入ったことだ。車窓を飛び去る町の景色の一点に、ミステリーの主役が立ち現れたかのよう。その一瞬、リアルな時間軸とフィクショナルな時間軸が交差したのである。

 

 目的地に着くころには半分ほどを読み終えていたので、この本は観光ガイドブックの役割も果たしてくれた。たとえば、石段街の描写は「町を見下ろす伊香保神社下からまっすぐ御関所(おせきしょ)まで、三百六十段、およそ三百メートル」とデータ入り。前述ののぞき窓についても「石段の三ヵ所に『こ満口=まぐち(小間口)』とよばれる分湯口があって、その一つはガラス張りで中が見られるようになっている」と書き込まれている。

 

 ミステリーの筋も、今回の旅で歩きまわったところと重なりあっている。小説では、伊香保の街区と物聞山を結ぶロープウェイの山上の駅近く、北関東の山並みをひと目で見わたせる見晴らし台のそばで第二の事件が発覚する。転落死亡事故だが、犯罪の匂いが漂っていた。僕自身もロープウェイで山へあがり、眺めを楽しんだ後、色づいた木々を愛でながら下りてくるという散策をしたので、現場はあのあたりだな、と思い浮かべることができる。

 

 浅見ものには、旅先に必ずヒロインがいる。この作品では、土産物店の娘で日本舞踊が得意な三之宮由佳だ。東京の学校で美術を学んだ後、地元へ戻って竹久夢二の記念館に勤めているという設定になっている。僕も今回、竹久夢二伊香保記念館を見学した。オルゴールの演奏が売りもの。作中にもその場面が出てくるから、ここをモデルとしているのだろう。由佳は館内でどんな仕事に就いていたのか……また、現実と虚構とが絡まった。

 

 浅見2Hの定番は「浅見刑事局長ドノの弟君」。地元刑事は当初、ルポライターが本職の光彦にいたって冷淡だが、兄の陽一郎が警察庁の幹部と知って態度を一変させるというギャグだ。この小説でも、それに相当するくだりがある。署長が部下をたしなめて言う。「きみねえ、気がつきそうなもんじゃないか、浅見さんといったら、警察庁刑事局長の名前だってことぐらいさ」。職位上下の違いでオロオロする官僚社会への皮肉にはなっている。

 

 例によって、小説の筋を追うことは控える。ただ、冒頭の一文は引用しておこう。「新潟(にいがた)の郷里で、一年ぶりの休暇を楽しんでいた須美子(すみこ)が、『これから出発しますので、遅くとも午後四時ごろまでには戻ります』という電話をかけて寄越(よこ)したのは、二月十六日――衆議院議員選挙戦の真っ最中――の朝のことである」。須美子は、賢くてはきはきした浅見家のお手伝いさん。光彦にほのかに心を寄せるキャラである。

 

 その須美子が帰省先から車で戻る途中、トラブルに巻き込まれて地元警察へ連行されることで、ミステリーの歯車が動きだす。それにしても痛感するのは、浅見家の優雅な暮らしぶりだ。光彦の兄だけではなく、この作品には出てこない亡父も高級官僚。母や長兄夫婦ら一族が同居していて、家事は地方出身で住み込みの未婚女性が手伝っている。もはや化石と言えそうな官僚エリートの貴族的な生活様式が、ここには生き残っているのである。

 

 唐突だが、僕の発見をもう一つ書いておこう。この作品を因数分解すると、松本清張と山村美紗が見えてくるということだ。一つの事件の背後では、新興のクレジット金融業者や開発志向の建設業者がうごめいていて政治家につながっている。もう一つの事件には、日本舞踊の流派がかかわっていて次期家元の座をめぐる争いが見え隠れする。ちなみに由佳に目をかけているのが現家元だ。前者は清張世界、後者は美紗世界に近いと言えよう。

 

 これは、浅見光彦シリーズ全般の強みと言えるかもしれない。浅見家は、山村美紗ミステリーの主舞台とは異なって東京にあり、一家の大黒柱は官庁街に通っている。松本清張ミステリーが好んでとりあげる権力欲と金銭欲の時空はすぐそばだ。その一方で、光彦は風来坊のように漂流して全国津々浦々の風土や伝説に触れ、情念の時空に足を突っ込んでいる。リアリズムとロマンティシズムの共住。恐るべし、浅見ファミリー。

(執筆撮影・尾関章、通算343回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『新潟湊の繁栄――湊とともに生きた町・人』(新潟市編、朱鷺新書、新潟日報事業社)

写真》新潟のコメ

 米国でトランプ旋風が吹き、ハリケーンにまでなって世界を愕然とさせた年、日本には角栄ブームがあった。伝記風の本が売れている。今夏にはテレビでロッキード事件の回顧ものも放映された(当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」)。

 

 田中角栄と言えば、著書『日本列島改造論』だ。1972年、政権に就く直前に日刊工業新聞社から刊行された。僕はまだ学生だったが、ぱらぱらとめくった記憶がある。山をトンネルでぶち抜けば幸福が見えてくる、と夢膨らませるような素朴な開発至上論にあふれていた。危うさを感じたが、それでもビジョンの力強さには引き込まれた。本当に危ういと思うようになったのは数年後、新聞記者となって地方の現実を見てからだ。

 

 で、今週は列島改造論を念頭に置きながら、田中角栄の郷里である新潟県を話題にしてみたい。というのも最近、所用があって新潟市へ赴く機会があったからだ。東京から新幹線でわずか2時間余。僕もトンネル貫通の恩恵を受けたことは認めなければならない。

 

 新潟での仕事は、とある会議に張りつくというものだったので、町歩きの余裕はほとんどなかった。ただ昼休み、信濃川の川べりにある新潟市歴史博物館を見学できたので、そう言えば、と気づかされる再発見もあった。一帯がいつも水とともにあったということだ。信濃、阿賀野両大河の河口部にあり、後背地から生産物が集まり、海には船が群れて、湊町は交易で栄えていた。それは、田中角栄から連想される雪深い農村のイメージとは異なる。

 

 当欄は、これまでに山形県の酒田(2015年10月30日付「藤沢周平の庄内ホワイトカラー世界」)と福井県の三国(2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)をとりあげた。ともに日本海側の湊町で、いち早く近代を芽生えさせていた。

 

 酒田、三国で見いだしたものは、たぶん新潟にもあるのではないか。そんな思いから今週の一冊は、歴史博物館の売店で手に入れた『新潟湊の繁栄――湊とともに生きた町・人』(新潟市編、朱鷺新書、新潟日報事業社)。「はじめに」に「新潟市総務局国際文化部市史編さん課の課員が共同で執筆」とあるからお役所臭さを予感したが、それは見事に裏切られる。生真面目なつくりではあるが、細やかな叙述によって湊の往時が目に浮かぶようだ。

 

 新潟の湊町としての歴史は古い。第1章は、平安時代から書き起こされる。そのころ、信濃川河口にあった湊は「蒲原津」と呼ばれていた。それは「貢納物の積み出し港」であり、「越後平野の各地で消費される物資の受け入れ港」でもあった。税の庸調として都向けに積み出されるものを並べると、白絹、布、木工品、鮭など。船荷は湊を出ると能登沖を回って敦賀で降ろされ、陸路と琵琶湖を通って京都まで運ばれたという。

 

 蒲原津は信濃川右岸と阿賀野川左岸の河口部にあり、両河川に挟まれている。その地勢から、14世紀の南北朝時代には両勢力が角突き合わせる舞台となった。「信濃川の西には南朝方」「阿賀野川以北には北朝方」という構図だ。越後平野は水系が豊かで、川や潟が密にある。このため蒲原津は軍事拠点ともなり、そこに集まる舟が軍用に充てられた。「南朝方は城を築いて蒲原津を守ろうとし、北朝方はそこを奪い取ろうとしたのである」

 

 戦国時代の16世紀には蒲原津の地位が相対的に下がり、信濃川左岸の新潟津、阿賀野川右岸の沼垂湊と合わせて「三か津」と呼ばれるようになった。三つの湊が並立したのである。このときにも一帯では、越後の内戦とも言える上杉景勝対新発田重家の争いがあった。興味深いのは、新潟や沼垂には武装商人がいたという話だ。いくさは、有力な町人を味方につけた景勝が勝った。湊の商いが強力な経済都市を生みだしていたことのあかしと言えよう。

 

 もう一つ、頭に入れておくべきは、川が生きものだということだ。江戸時代初め、信濃川、阿賀野川両河口の間にある蒲原には、加茂屋堀という水路があって両河川をつなげていたが、寛永年間の1631年にとんでもないことが起こる。「阿賀野川の洪水によって加茂屋堀が決壊して川幅が広がり、諏訪ノ尾川と呼ばれる川になった」。それだけではない。諏訪ノ川はどんどん成長して、こちらのほうが阿賀野川本流とされるようになる。

 

 沼垂湊は、こうした川のダイナミズムに直撃された。町域は阿賀野川の洪水後、浸食作用や堆積作用に苛まれて一度ならず移転を強いられる。対岸の蒲原側へ移ると今度は諏訪ノ尾川の浸食に遭って、河口から奥まったところへ追いやられる。17世紀から18世紀にかけて沼垂と新潟の間では争いごとが相次ぎ、双方が幕府に訴える事態となるが、判決は総じて新潟側を支持した。河口部の海運経済は、新潟湊一つが牛耳ることになったのである。

 

 この本の読みどころは、その新潟湊の繁栄だ。まず、「享保10(1725)年ごろの新潟町」という図を見ると、町割りの美しさに驚かされる。街路は直交。そこに堀が縦横7本通っている。商いの物品は「その堀を使って店先に荷揚げしたり、店から運び出したりした」。そんな光景は大正時代まで見られたという。そう言えば僕も今回、タクシーの運転手から「ここは、もともと堀だったんですよ。あの柳がその名残」という話を聞いた。

 

 この本には、元禄年間1697年の統計が載っている。それによると、新潟湊へ立ち寄った回船は約3500隻、船籍は40カ国余だったという。ここで「国」は、もちろん日本国内の「諸国」である。取り扱った商品の年間総額は46万両余。今の通貨でいくらかはひと口に言えない。ただ日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトを頼りに米価を目安とする換算を試みると、ざっと数百億円になる。当時としては、列島有数の商港だったのだろう。

 

 湊に集まる品々は多彩だ。全国各地の産品がある。入荷品のうち米穀類以外のものを金額順に並べると、トップ5は木綿・古着類、塩、鮮魚や塩漬け海産物類、縄・むしろ・竹細工・荒物、煎茶。リストには、未精製の綿や小間物、材木、酒、薪や炭、織物、紙、塗物、タバコ、畳表、魚油、紅花、瀬戸物、蕎麦なども載っている。近現代の生活から石油石炭電気の文化を取り除いて残るもののほぼすべてが流通していた、と言ってよい。

 

 驚かされるのは、港湾ビジネスの制度化だ。町には回船問屋(回船宿)がいくつもあって顧客船の世話をした。船頭を泊めるだけでなく、商品売買の仲立ちもする。業界は沖を見渡せる山のふもとに共同で小屋を建て、そこに手代を常駐させた。同業者の呉越同舟は、さながら記者クラブか。船が湊付近に現れると「手代を乗せた通辞船(つうじせん)が回船へ向かい、船頭に船主とその国名や積み荷、宿を務める回船問屋の名などを確認した」。

 

 ここの手代はただの奉公人ではない。沖にいる船のなかには商品相場次第で入港を決めるものもあるので「新潟の相場などを船頭に教え、新潟湊へ入るよう勧めることも手代の大切な仕事であった」。情報の担い手であり、営業の腕も試されていたことになる。

 

 業界のルールもあった。文字通りの掟(おきて)をはじめ保管料、手数料の規定など七つの決まり。1722年に「町奉行の承認を受けて成文化」とあるから、自治の色彩があったのだろう。掟によって「回船宿に落ち度がないのに、回船の船頭が勝手に宿を替えるのを認めない」「回船が通辞船に宿の名を告げる前に、その船へ手代をやってはならない」といったしきたりを整えた。市場経済よりも護送船団方式。これが日本式資本主義なのか。

 

 湊町新潟には、大型船を客とする大問屋、小型船相手の小問屋、幕府や藩の年貢米を預かる蔵宿が並んでいた。港湾には、水先案内の水戸教(みときょう、みとおしえ)とか、水深の制約で岸につけない船を助ける天渡船(てんとせん)持ちや艀下船道(はしけふなとう)という業種があった。船着き場では、荷物を運ぶ小揚(こあげ)という屈強の人々も働いている。大企業の周りに中小企業があり、それらが雇用を生みだしていたのである。

 

 明治になると日本海海運は廃れ、湊の賑わいをそのまま保ちつづけることが難しくなった。だが、市民経済の底力を別分野の産業振興につなげるという選択肢もありえたのではないか。それができれば東京一極集中はなく、列島改造論も不要だったはずなのだが……。

(執筆撮影・尾関章、通算342回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア著、安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫)

写真》スコットランドのチェック模様

 暮れまでにシェイクスピアを一冊、と思っていた。今年5月に演出家蜷川幸雄さんが逝ったときは、本人の手になるエッセイ集を話題にしている(当欄2016年6月3日「蜷川はあのころ、テレビの中にいた」)。だがそれでも心残りで、沙翁ものについて書くことを宿題にしていたのだ。で、マクベスの新訳本をぱらぱらとめくっていたら、追い討ちに遭った。「NINAGAWAマクベス」を主演した俳優平幹二朗さんの訃報である。

 

 僕は、別に演劇青年だったわけではない。英文学の研究者でもない。それがどうして、この歳になってシェイクスピアに心惹かれるのか。そのことでは、1年前の当欄に言い訳めいたことを記している(2015年9月11日付「ハムレットを2時間ドラマに重ねる」)。テレビの2時間ミステリー、すなわち「2H」ドラマをこよなく愛する立場で言えば、そこで露わとなる人間心理はシェイクスピア劇に原型を見いだせる、という話だった。

 

 補足すれば、2時間ミステリーでは人間社会の愛憎や欲望が素朴に描かれる。僕たちが日々経験している心模様は、ときにモヤモヤ、ときにフツフツとしてとらえどころがないが、2Hの典型例である家元もの、復讐ものなどは、わかりやすさがモットーなので話が単純化されている。家元襲名をもくろむ野心や、受けた仕打ちに対する怨みが、言葉として、あるいは行為として、視聴者の前にあからさまなかたちで呈示されるのである。

 

 シェイクスピア劇も、それに似ている。もちろん登場人物の内面は、そこに正義、勇気、信仰といった徳目も入り込んできて含蓄に富んでいるのだが、ただ野心、嫉妬、情愛、憎悪、裏切りなどの心理要素がスープの具のように伏在する。スープが台詞や筋立てによって濾され、それらが現れ出るところが作品の魅力ではないだろうか。人の振る舞いの動機に心理要素が見えてくるという一点で、2Hに通じているように思うのだ。

 

 最近は、陰惨な凶悪犯罪が後を絶たない。言葉にするのも心が痛むので、個々の事件に触れるのは控えよう。ただ一つ言えるのは、犯行の動機がはっきりしないとされる事例が目立つことだ。本当にそうなのか、それとも容疑者の心理が分析されていないだけなのか。

 

 この問いは奥が深そうだ。16〜17世紀に比べると、僕たちはいま途方もなく複雑な人間関係の網に絡めとられている。社会学風に言えば、血縁地縁の共同体だけでなく、機能本位の組織にも身を置く人が多い。20世紀末からは、それにITのネットワークが加わり、匿名社会の雲に覆われて戸惑うこともある。だから、現代人の凶行に動機があったとしても、その要素を紡ぎだす作業は、シェイクスピアの手にも余るほど難しくなっている。

 

 そんな現代社会に照らしながら、マクベスを読んでみよう。手にとったのは『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア著、安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫)。2008年の刊行だ。訳者は大学人でありながら舞台演出の実践家でもあったが、この本が出る直前に世を去った。巻末で、演劇活動を一緒に続けてきた俳優の橋爪功さんが惜別の文章を書いている。橋爪さんと言えば、2Hにも欠かせない名優だ。2Hはやはり沙翁につながっている。

 

 幕が開いてまもなく、スコットランド王ダンカンに士官の一人がマクベス将軍の武勲を伝える場面がある。逆賊が相手。「大太刀(おおだち)ふるって敵兵どもを薙(な)ぎたおしては血煙を立て、軍神の寵児(ちょうじ)のごとく決然と血路を開いて、ついに目ざす仇敵(きゅうてき)とあいまみえるや、もとより握手も別れの挨拶もなく、やにわに臍(へそ)から顎(あご)まで、真向(まっこう)さかさ幹竹(からたけ)割りに切り裂いた」

 

 血なまぐさいが、登場人物の顔ぶれから11世紀の出来事らしいので、中世の倫理尺度で測らなくてはなるまい。ダンカンも「おお、雄々(おお)しいわが血族、無双の勇士だ」と感嘆する。残忍な行為は、戦場の敵に対するものならば高い評価を受ける時代だった。

 

 これで、マクベスは上昇気流に乗る。そこに魔女を絡ませるところがシェイクスピア劇の妙だ。彼が雷鳴轟く荒野に現れると、彼女たちは次々に声をかける。一人目は「グラーミスのご領主様」、二人目は「コーダーのご領主様」。前者は現在の地位、後者はダンカンから褒美として授かるものだ。そして最後の一人。「やがては王様に、おなりになる方」。悪魔のささやきとはこのことだろう。武将の内心をよぎる野望を魔女に代弁させたのか。

 

 どうも、それは違うらしい。このときマクベスには連れがいて、魔女たちの言葉を傍聴しているからだ。将軍仲間のバンクォー。マクベスにとっては友人であり、競争相手でもある。その台詞が聞きどころだ。「わが畏敬(いけい)する友人」が予言にギクリとするのをみてとった後、「私にはなにも言わぬな」と不満を漏らす。「どの粒は芽を吹きどの粒は芽を吹かぬか言えるものなら、それならおれにも言え!」と彼女たちに迫るのである。

 

 これに応えて、魔女三人はバンクォーの未来も占う。一人目は「もっとずっと、偉くなる方」。二人目は「もっとずっと、幸せになる方」。三人目はもう一歩踏み込んで、先の先まで読む。「自分は王にはならずとも、代々の王様の、その父祖となる方」

 

 ここで僕が思い浮かべたのは、会社人間だった頃のことだ。仕事が終わって、同僚と街へ出たとしよう。場所が居酒屋であれイタリアンであれ、話題の定番は人事だ。ある役職に次に就くのはだれかという話では、ときに自分も抜擢の圏内にいることがある。ところが、同僚の口をついて出るのは別人の名ばかり。そういう体験に覚えがあるサラリーマンは少なくないはずだ。バンクォーの「私にはなにも言わぬな」は現代人の心にも宿る。

 

 登場人物の心のざわつきを魔女の言葉であぶり出すという仕掛けは、アフターファイブの居酒屋状況を再現したことに等しい。ポストを求める野心や競争相手に対する嫉妬は、人の内面だけでつくられるものではない。むしろ、小耳に挟む第三者の言葉によってそそのかされ、膨らんでいくものなのではないか。シェイクスピアは、そのことを見抜いていたような気がする。自我を駆動する要因を他者との関係性に見いだしているのである。

 

 マクベス夫人の存在も、この視点で読むことができる。彼女は、夫の手紙で魔女の予言を知って不在の彼に語りかける。そこで吐露されるのは「気にかかるのは、あなたの気性。人間らしい情愛という、甘い乳がありすぎる」との懸念。出世欲に不可欠の「毒気」が「あなたにはない」と断じる。怖がらずに獲りにゆけ。そんな感じか。自分も力になろうと心に誓う。極めつけの台詞は「あなたの耳に注いであげよう、私の胸の、この毒気を」である。

 

 今、サラリーマンの配偶者がこんなに毒々しい独白をすることはまずあるまい。ただ、勤め人が家庭に帰ったとき、これに似たメッセージを家族の視線に感じとることはあるかもしれない。しかも、その背後には隣近所の地域社会があり、友人知人の輪が幾層にも広がっている。本人は出世に無頓着でも、人々から向けられる目が野心や嫉妬を否応なく刺激してくるのだ。その効果を、マクベス夫人が体現しているとは言えないか。

 

 もう一つ、魔女の予言をめぐって僕が興味を覚えるのは、運命と意志の相克だ。マクベスはダンカンを裏切って王となった後、この下剋上はバンクォーの子孫を王位に就かせるための一里塚にすぎなかったのかと嘆いて、こう言う。「そんなことになるくらいなら、来い、運命よ。決闘の場に出てくるがいい。ぎりぎり最後の決着をつけてやる」。予言を「運命」と受けとめつつ、それは人間の意志によって可変とみているように思われる。

 

 唐突だが、僕がふと思ったのはマルキシズムだ。この思想は共産主義の到来は必然としつつ、しかも革命を促そうとする。運命の筋書きがあっても、そこに人間の意志を介入させたくなるのが欧州流なのか。シェイクスピアにもそれを感じてしまう。

 

 この作品の初演があったらしい1606年、イングランド王はスコットランド王を兼ねるジェイムズ1世で、バンクォーの子孫とされる人だった。王権の正当性が運命に裏打ちされるなら鬼に金棒だ。この筋書きは、シェイクスピアなりの処世術だったのだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算338回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『ハロウィーン・パーティ』

(アガサ・クリスティー著、中村能三訳、ハヤカワ文庫〈クリスティー文庫31〉)

写真》カボチャ

 なぜか知らないが、街がうきうきしている。八百屋にあるはずのカボチャが花屋にもあって、どうしてなのかと思ったらハロウィーンが近づいてきたのだ。今の子どもたちは、心の歳時記に10月末の仮装遊びをしっかりと刷り込んでいる。

 

 僕たちの暮らしにとけ込んだ片仮名表記の行事と言えば、昔は12月25日のクリスマスくらいしかなかった。ところがいつのまにか、2月14日のバレンタインデーが広まった。いつからかについては諸説あるようだが、僕の記憶では1960年代後半からではなかったか。背景には、チョコレートをつくって売る食品流通業界が格好の商機ととらえたということがある。似たような流れで、10月31日のハロウィーンが近年急速に広まった。

 

 ハロウィーンは、ケルトの民俗文化に由来するらしい。クリスマスやバレンタインデーと比べると、キリスト教との縁は薄い。英国にはケルト系の血を引く人が大勢いるのでさぞ盛んだろうと思えるが、僕のロンドン在住経験ではそれほどではなかった。11月5日にガイ・フォークス・デイがあり、むしろそちらの花火が町に響いていた。これは、17世紀初めにプロテスタント系王権の転覆計画が発覚、事前に封じ込まれたという故事に因む。

 

 では、現代版ハロウィーン再興の地はどこか。1年前の朝日新聞「天声人語」には、アイルランドなどに伝わる「死者が帰って来ると言われる収穫期、幽霊に変装して仲間のふりをし、食べ物を供えた」という風習が「19世紀に移民を通じて米国に伝わり、盛んになった」とある(朝日新聞2015年11月1日付朝刊)。英国のケルト文化はアングロ・サクソンやノルマンの文化に追われるようにして米国へ渡った、と言えないことはない。

 

 それにしても今の世の中、どうしてこうもたやすく異文化の催しを受け入れてしまうのか。日本社会だけではない。米国でも、ケルトという一民族の年中行事が多民族コミュニティーに浸透したのである。ひとつ言えるのは、現代人がハレの日中毒になっているのではないか、ということだ。夏休み気分が薄れてクリスマスまで間がある時季に、もう一つヤマ場を設けよう。そんな思惑が商戦を仕掛ける側にも、それに乗っかる側にも見てとれる。

 

 で、今週の一冊は長編ミステリー『ハロウィーン・パーティ』(アガサ・クリスティー著、中村能三訳、ハヤカワ文庫〈クリスティー文庫31〉)。地域の少年少女を集めてひらくパーティーの最中に起こった殺人事件の謎を、会に居合わせた探偵作家アリアドニ・オリヴァや、彼女の依頼を受けた私立探偵エルキュール・ポアロが解いていくという物語だ。発表は1969年。著者(1890〜1976)にとっては晩年の作品ということになる。

 

 事件が起こった「ウドリー・コモン」という町は架空の地名らしいが、ロンドンから30〜40マイルの距離にあるとされている。イングランドの大都市郊外なので、ケルト文化の痕跡はあまり残っていないと思われる。それなのに、やはりハロウィーンなのか。

 

 そう思っていたら、本文の2ページ目にヒントがあった。ミセス・オリヴァが、こんな言葉を口にする。「わたし、昔からカボチャとハロウィーンを結びつけて考えるんだけど、あれは十月の晦日(みそか)だったわね」。ハロウィーンのことはよく知っているが、それが何日かはすぐには確信がもてない。距離感のある口ぶりだ。米国に滞在していたとき、感謝祭のパーティーで「家じゅうカボチャだらけ」の光景を見た、という思い出話もする。

 

 1969年と言えば、第2次大戦後の国際社会で米英の力関係の逆転がほぼ確定した頃とみてよいだろう。そのころまでに米国から英国へ、ハロウィーンが逆輸入され、カボチャを飾りものにする習慣ももち込まれていた。そう考えると妙に納得がいく。

 

 さて、そのパーティーは、地元有力者ミセス・ドレイクの邸「リンゴの木荘」で開かれる。「箒の柄競争」「小麦粉切り」「リンゴ食い競争」といった余興が続く。おひらきが近づいて13歳の少女が姿を消し、閉会後、リンゴを浮かべたバケツの水で溺死しているのが見つかる。その子は「あたし、前に人殺しを見たことがあるのよ」と語っていた――そんな話なのだが、当欄は例によって筋には立ち入らない。別の視点で読みどころを探そう。

 

 なんと言ってもおもしろいのは、著者が「おばあさん」の目でとらえた1960年代末の世相だ。皮肉あり風刺ありで、機知にも富んでいる。老境定番の「いまどきの……」が飛びだすのは、ポアロの旧友である元警視の言葉。「いまどきの娘さんは、わたしの若いころよりも、ろくでなしの亭主と結婚してるような気がしますがね」。母親は娘のデート相手がどんな男なのか「知らないし」、父親もそれを「知らされていない」と嘆くのである。

 

 少年少女の早熟ぶりも、ちょっと意地悪く描かれている。ミセス・オリヴァがリンゴの木荘でトイレを探しあてたときのことだ。「彼女は階段をあがり、踊り場の角をまがると、男の子と女の子のカップルにあやうく突きあたりそうになった」。男子15歳前後、女子は12歳よりやや上か。濃密なキスの真最中だ。「ちょっとごめんなさい」を繰り返し、「すみませんけど、通してくださらない? このドアからはいりたいんですから」と畳みかける。

 

 ファッションにもうるさい。パーティーで魔女役を務めたミセス・グドボディはポアロを相手に、ハイティーン男子の服装を腐してこう言う。「着ているものなんか、とても旦那(だんな)はほんとと思やなさりませんよ。バラ色の上衣に、黄色のズボンですよ」。メンズウェアのカラフル化がピーコック革命と言われたりもした頃だ。返す刀で「女の子が考えつくのは、スカートを上へ上へあげることだけ」と、ミニスカートブームにもあきれている。

 

 女性を惹きつける男性の魅力が変わったことも、ポアロの心理描写を通して書き綴られている。彼は、若い男に対する褒め言葉が「美しい」から「セクシー」に代わりつつあることに思いをめぐらす。「セクシーな女はリュートを手にしたオルフェウスを求めはしない。彼女らが求めるのは、しゃがれ声の、色目使いの、ぼさぼさのむさくるしい髪をした流行歌手なのである」。もしかして、著者の頭にあったのはボブ・ディランの顔だろうか。

 

 ここで注目すべきは、著者の批評精神が風俗、流行の表層にとどまっていないことだ。それは、ミセス・オリヴァがポアロに投げかける言葉に託されている。「あなたのお話がなにに似ているか、わかってらっしゃる? コンピューターですわ」。情報を自らの頭脳に「供給(フィード)しておいて」「なにがでてくるか、見ようとしてらっしゃる」というのだ。ポアロがそれを認めて、コンピューターの無謬性を盾に開き直ると猛然と反論する。

 

 間違えないことにはなっている、だが現実はそうじゃない、それは自分に届いた前月分の電気代の請求書をみればわかる、という話をしてからこう言う。「人間の過ちなんて、コンピューターがその気になって犯す過ちにくらべれば、ものの数じゃありませんよ」

 

 当時、コンピューターが颯爽と現れ、なにごともインプット→アウトプットの図式でとらえられるようになった。今日では、社会の大部分がその管理下にあると言っても過言ではない。ただときに、脆さを見せつけられることもある。交通機関のシステム障害が一つ起これば影響が全国のダイヤに及ぶ、というようなことだ。人間の機転で問題を1カ所に抑え込めない。さらに人工知能(AI)が発達して「その気になって」の心配も出てきた。

 

 ミセス・オリヴァは著者の分身とも言える。そう考えると著者は、自らが生みだしたポアロという人物に違和感を抱きはじめていたのかもしれない。別のところでは彼女の言葉を借りて、彼が田舎でもエナメル革の靴を脱がないことを諫め、「あなたの困るところは、なにがなんでもスマートでいようとなさること」とたしなめる。あるいはポアロの部屋を「超モダンで、非常なアブストラクトで、なにもかもが四角と立体ばかり」と皮肉っている。

 

 アガサはモダニズムの翳りをみて、ポアロを置き去りにポストモダンへ乗り換えようとしていたのだろうか。だとしたら、その鋭敏で柔軟な時代感覚には驚くばかりだ。

(執筆撮影・尾関章、通算340回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『ボブ・ディラン――ロックの精霊』(湯浅学著、岩波新書)

写真》The Freewheelin’のようにジーンズ

 英国ウェールズにディラン・トマスという詩人がいる。1953年に死去しているから、「いた」というべきか。今から20年余り前、ロンドンに住んでいたとき、この人が英国人からどれほど敬愛されているかを知ったのだが、僕にはピンとこなかった。詩の真髄を感じとるのは外国人には難しい。やけっぱち気味に、僕のディランはアメリカにいる、と思ったものだ。そのボブ・ディランが今年のノーベル文学賞受賞者に決まった。

 

 「僕のディラン」とボブのことを言っても、その歌詞はやっぱり難しい。原語で読むと、わからないところだらけだ。訳があれば助けとなるが、それでも原意は完全には伝わってこない。なのにどうして、「僕の」なのか。たぶん言葉の連なりが、あのしゃがれ声で絞りだされてギターやハーモニカの調べに乗ると、意味は切れ切れでも胸に迫ってくるからだろう。この一点で、歌とは詩集の詩と似て非なる表現方式と言えるのかもしれない。

 

 報道をみていると、これが文学賞にふさわしいのか、という声は根強くあるようだ。今年の発表が理系3賞や平和賞よりも1週後ろにずれ込んだのも、この選考がもめていたからだろう。それでも、強行突破したのはなぜか。そこには、超大国米国へのメッセージという一面もあると僕は思う。大統領選を意識したとまでは言わないが、内に人種差別が残り、外へは排他主義が強まる現状に欧州の知識人はひとこと言いたかったことだろう。

 

 ただ、今回の決定を政治的な文脈だけでとらえるのは、おそらく正しくない。ノーベル賞は、これが文学かと言われるものをあえて文学の範疇に引っぱり込んだ、と僕は推察する。そこには、ポップカルチャーに対する謙虚な姿勢がみてとれる。20世紀以降、レコード、ラジオ、テレビ、CD、ネット配信と続くメディアの進化が、民族や文化の違いを超えて親しめる言語芸術を生みだしたことを、文学の側から認知したのだとも言える。

 

 ここで思考実験を一つ。ポップカルチャーにノーベル賞を出すとなれば、真っ先に思い浮かぶのはビートルズだ。音楽賞があれば、それは間違いない。ただ、文学賞を贈るとなれば、話は簡単ではない。歌づくりの中心にいたのはポール・マッカートニーとジョン・レノンだから、二人の作詩活動が吟味されることになるが、ジョンはすでに故人なので選考の圏外にある。さらに詞の詩らしさという文学性を問えば、ディランには及ばないだろう。

 

 こう見ると、文学賞の選考にあたる委員会はいいところを突いたように思えてくる。ディランがいたからこそ、音楽と不可分の言語芸術というジャンルを文学の一つのありようとして再確認することができた。それによって文学の定義を拡張したのである。

 

 で、今週は『ボブ・ディラン――ロックの精霊』(湯浅学著、岩波新書)。著者は1957年生まれの音楽評論家。ディランの自伝(邦訳は『ボブ・ディラン自伝』菅野ヘッケル訳、ソフトバンクパブリッシング)や元恋人の著作(邦訳は『グリニッチヴィレッジの青春』スージー・ロトロ著、菅野ヘッケル訳、河出書房新社)など多くの文献を参照しながら、その半生を跡づけた。この一冊で思い知るのは、彼が決して過去だけの人ではないことだ。

 

 刊行は2013年。ディランはここ数年、文学賞の有力候補に名が挙がることが多かったから、僕はいざというときのために買い込み、大部分を読み終えていた。今回、読み残しの章を開いて近年の様子を知るに至り、人間としての奥深さにさらに感じ入ったのである。

 

 まずは、ディランの生い立ちをこの本に沿って素描してみよう。本名は、ロバート・アレン・ジママン。1941年、ミネソタ州で生まれた。父母ともユダヤ人。父は石油会社に勤めていたが、病気で退職して、田舎町の電気店で働いていた。子どもたちにピアノを習わせようとしたというから暮らし向きは悪くなかったようだ。ところが、ロバートはレッスンを拒み、「弾きたいように弾かせろ」と自己流で学んだという。さすが、ではないか。

 

 「ボブ・ディラン」の誕生は1959年、ミネソタ大学に進んでから。ここで、もう一人のディランが出てくる。「自伝」によれば、歌手活動を始めようとした頃、たまたまディラン・トマスの詩に触れた。芸名の第一候補は「ロバート・アレン(Robert Allyn=本名はAllen)」だったが、ディラン(Dylan)はアレンに似ていて、しかもD音に強さがある。これにロバートの愛称ボブをくっつけたら字面の見栄えも音の響きもよくなった、という。

 

 このいきさつから僕が感じとったのは、ボブ・ディランが早くから詩に馴染んでいたこと、のみならず語尾の韻や子音の効果にも敏感な感性を備えていたことである。当時、ライブの場としては「コーヒー・ハウス」と呼ばれる店々があった。それらは「アーテイスト志向のボヘミアンたちの溜まり場」で、「詩の朗読やライヴなどが夜ごとおこなわれていた」。彼の出発点は、歌の詞が詩集の詩と交ざりあう文化土壌だったと言っても過言ではない。

 

 ディランの代表曲「風に吹かれて」では、“How many”の繰り返しが僕には印象的だ。それが英語圏外の人々の耳にも訴えかけてくる。これも、言語を音としてとらえる感覚があるからこそ埋め込まれた仕掛けと言えよう。著者はディランの曲の構造を「歌が詞と緊密に結束している」「ビートは歌唱の中から練り上げられる」と表現している。まさに詩集の詩ではない詞の開拓者だ。シンガーソングライターの面目躍如である。

 

 ディランのもう一つの側面は社会派ということだ。若いころに傾倒したのはフォーク界の先達ウディ・ガスリー。「世俗的犯罪、梅毒、砂嵐、ダム建設、労働組合運動、悲恋」と、世事をなにからなにまで歌の題材にした人だ。その影響は自作の詩に反映された。

 

 ここで感銘を受けるエピソードが一つ。ディランは、作詞のために「図書館に通い一九世紀中頃の新聞記事を読み込んでいく」という作業までしていたという。この本によれば、当時は世の中の出来事をストーリー仕立てにして、詞を「伝わっているフォーク・ソングの節にあてはめて歌う」という歌のつくり方があった。河内音頭新聞詠み方式だ。彼もそれを試みたが、ネタ探しを同時代にとどめず、過去の世相も掘り起こそうとしたのである。

 

 私事の懐旧談になって恐縮だが、僕自身も社会人になる前、歌詞づくりに没頭していた頃がある。そのときに一人で勝手に掲げた看板はルポルタージュソング。内心には、私小説風のフォークへの反発だけでなく、歌で伝えられるものは恋のあれこれに限らないという確信があった。記者生活を経た今でも、100の名文より1曲の歌詞のほうが人の心に素直に届くと思っている。これこそが、音楽と不可分の言語芸術の強みではないか。

 

 ディランのそんな歌づくりは、反戦反体制と表裏一体だった。1960年代初めには公民権運動が高まる。62年はキューバ危機の年だ(当欄2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」参照)。翌年に出たアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』には、風刺性の強い曲も収められようとしていた。その一曲にテレビの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」が難色を示したとき、ディランは憤然と出演を拒否した。

 

 結局、その曲は『フリーホイーリン……』に収められず、別のものに差し替えられる。ともあれ、このアルバムはジャケットの写真が出色だ。ニューヨークの街で撮られたのだろう。ディランがジャンパーにジーンズ姿で、ポケットに手を突っ込み、女性と腕を組んで歩いている。この相方こそが『グリニッチヴィレッジの青春』の著者スージー・ロトロ、愛称スーズだった。ジーンズによって象徴される解放の時代の匂いが全面から漂ってくる。

 

 最後の2章でわかるのは、ディランの歌に対する誠実な態度が歳を重ねてますます磨かれていることだ。2006年から09年まではラジオ番組のパーソナリティを務め、一つひとつの曲について、その歴史的、地理的、文化的な背景を解説したり、演奏家論を披歴したりしたという。分野もブルース、カントリー、ジャズからヒップポップまでと多彩で、「音楽的度量の広さ」は歴然。まっとうであり、柔軟でもある。頑固おやじではない。

 

 さて授賞式にはどう臨むのか。出席辞退か、歌をうたうのか。彼の選択が楽しみだ。

(執筆撮影・尾関章、通算339回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『長い長い眠り』(結城昌治著、創元推理文庫)

写真》クールミント60年、マーブル61年の新発売

 新任都知事がブラジルのリオで旗を手にしてから、東京五輪・パラリンピック問題がにわかに再燃した。よいことだと思う。いまの時代、巨大な建造物を建てまくるという強迫観念から解放されない限り、人類のおもてなし役など引き受けるべきではない。それが世界を震撼させた原子力発電所事故を引き起こしたばかりの社会ならば、なおさらだ。ホストになるのなら、大都市に富とエネルギーを集中させる愚を繰り返してはならない。

 

 思いだされるのは半世紀前のことだ。1964年のちょうど今ごろ、東京は初の五輪開催で非日常の極みにあった。なかでも開会式、10月10日の秋空は忘れがたい。僕はテレビにかじりついて観ていたくちだが、圧巻だったのは入場行進だ。古関裕而作曲の明快なマーチに胸を高鳴らせた。選手たちが踏みしめる地面のアンツーカーは目にまぶしかった。やがて飛行機の音がして、家からとびだして見あげると都心の方角に五つの輪があった。

 

 あれはあれで、時代の空気にぴったり合っていた。なんと言っても毎年毎年、家庭に家電製品がふえていったころだからだ。洗濯機、冷蔵庫、掃除機、テレビ……。東京には高速道路が通り、大阪とも新幹線で結ばれた。そこにあったのは、右肩上がりの世相である。だから、1951年生まれの僕やその上下5歳ほどの年齢層にとって、五輪は屈託なく心躍らされる祝祭だった。だが果たしてそれは、どの世代にも言えることだったのか。

 

 気になるのは「屈託なく」の一点だ。戦争終結は、わずか19年前。今に置き換えれば1997年、人々がケータイを使いだし、インターネットも広まりはじめたころに相当する。かなりの近過去と言えよう。しかも、開会式会場は戦時に出陣学徒を送りだしたのと同一地点。アンツーカーを剥がせば暗い歴史がある。成人にはきっと、「屈託あり」の人が多かったことだろう。(当欄2016年4月8日付「建築の『どや顔』、町の困り顔」参照)

 

 この歳になってわかるのは、子には子の視点があり、大人には大人のそれがあるということだ。たとえばITは今、幼い子がタッチパネル製品を手にすれば自然に指を滑らせるほど当たり前の環境となっている。だが、年長者はeメールやインターネットを使うとき、それらがなかった頃の記憶から逃れられない。歴史を引きずるのである。少年少女期に見ていたものが当時の大人の目にどう映っていたのか、それを探るのも意味があるだろう。

 

 で、今週は長編ミステリー『長い長い眠り』(結城昌治著、創元推理文庫)。1960年にカッパ・ノベルスの一冊として世に出た。奇しくも今と同じく、東京が五輪・パラリンピックを催す4年前だ。75年に中公文庫に収められ、2008年に再文庫化された。

 

 冒頭の一節は「明治神宮外苑、絵画館の上に月がのぼった」「月かげは花崗石(みかげいし)に表装された絵画館の円塔を明るく照らし、周囲をかこむ雑木林の葉群れの間からも、白いひかりを地上に降りそそいだ」。まさに、五輪主会場の国立競技場周辺。夜更けに恋人が寄り添って歩くのには格好の場所だった。その月光の明るみに中年男が横たわっている。そう、それは死体。殺人事件の発生だ。だが今回は、ミステリーの筋には立ち入らない。

 

 一つの関心事は、作中に出てくる町の散らばり方だ。新宿区内の地名が頻繁に顔を出すのは、主人公の郷原部長刑事が四谷警察署員だから当然だろう。信濃町の慶応病院に近い左門町、その北方の荒木町、繁華街の歌舞伎町、北新宿の柏木。刑事たちの聞き込み先は中央線や山手線の沿線が中心で、駅名で言えば東中野、大塚……。東京が郊外や湾岸域に広がる前、国電が交通の動脈となっていたコンパクトシティの姿が目に浮かんでくる。

 

 僕が1960年の世相を強く感じたのは、事件の被害者とはかつてつきあいがあった独身中年の犬猫病院長藪下計介の暮らしぶりだ。夜には、間借り人の若い女性、新海静子と並んでテレビのミステリードラマを観る。番組が終わり、スイッチを切ると、会話が始まる。「ちょっと物足らなかったな」「犯人の割れるのが早すぎたわね」「それに、動機に説得力がないし、俳優もミス・キャストだ。共犯が画面の外にいたというのも気に入らん」

 

 この家は焼け跡に建てられたものでバラック同然。敷地の地主が「この秋の台風で必ず倒れます」と見放すほどだ。計介は生活に困って部屋を貸すことにしたのだが、入居希望者が来るたびに断っていた。ところが、静子には敷金なしでOK。理由の一つは同好のよしみだ。「彼女の右手に覗いたビニール・カバーの推理小説の効用らしかった」。手にしていたのは、たぶんハヤカワ・ミステリー。あのころから透明カバー付きだったのか。

 

 テレビが置かれているのは、おそらく畳敷きの茶の間だろう。そこで年齢差の開いた男女が、貸し主借り手の間柄なのに一つのドラマに熱中する。さらに、いっぱしの評論家よろしく作品批評で盛りあがる。危ういように見えるが、住宅事情の貧しさが生みだした微温の友愛とも言える。そう言えばあのころ、僕の家にも下宿の大学生がいた。同じ食卓を囲んで一緒に相撲や野球の中継に見入ったものだが、それも当時としてはふつうのことだった。

 

 もうひとつ、1960年ならではの話。事件現場の近くにいたホームレスの男が「トランジスター・ラジオ」を隠しもっていた。「ター」と伸ばして表記しているところは、いかにもあの時代を感じさせる。男は路上のゴミ集めを生業にしていて、それは屑籠の底から見つかった。郷原が「どこで拾ったの?」と尋ねると「こわれているんです」。ところが電源を入れると、女性歌手の歌うジャズが聞こえてきた。どうやらどこかで盗んだらしい。

 

 ソニーの公式サイトによると、「日本初のトランジスタラジオ」は1955年に商品化されたとある。60年は、ちょうど半導体が真空管に取って代わろうとしていた頃だ。「トランジスター」という単語は電子回路の素子を指す原義から離れ、携帯可能という新しい価値の代名詞となっていた。ここで著者は、家を失った人がゴミを籠に入れて回るという戦後復興期の現実に、エレクトロニクスという高度成長の申し子を織り込んでいる。

 

 この作品には、米国ハードボイルドミステリーの趣がある。著者の作風なのだろう。ひと言で言えば、ある種のダンディズムだ。だが、その表現には1960年日本の空気が満ち満ちている。透明カバーの推理小説本もミステリードラマの辛口談議も、安普請の家屋とともにある。甘いジャズが流れる新商品のラジオは、まさに掃き溜めの鶴のように現れた。バタ臭いモダニズムを、戦争の荒廃と地続きのところに浮かびあがらせているのである。

 

 その地続き感がもっとも強く出た場面がある。郷原が宿直室で、聞き込みの合間に家族への土産のつもりで買ったバナナに触る一節だ。「なめらかである。南の国の、熱い太陽の匂いがする。戦時中に、召集されていった南方の島々の風景が思いだされた。苦しい毎日の中で、海の色だけが美しかった。死を眼前に見つめた者だけが知る、美しさだったかもしれない」。その戦場で「人間を信じてはならぬ」と思い知ったのだという。

 

 このくだりは、中辻理夫の巻末解説「“私性”が流れる初期長編」も引用している。それによれば、著者は戦地には赴いていないものの一時期、海軍の特別幹部練習生だった。戦後も軍法会議記録に触れる職業に就いたことがあるという。「一九六〇年はまだ戦後十五年しか経っていない頃だ。郷原部長は戦場へ行っていて当然の世代である」との記述に出会って、1964年東京五輪当時の大人たちには屈託があったはずだとの思いを再確認した。

 

 最後に思わず苦笑したこぼれ話。この小説で郷原が遠出したのは、埼玉県の野火止にある臨済宗妙心寺派の平林寺だけだ。聞き込みで、事件当日に被害者も出席したらしい句会があった、とわかる。その風景描写を読んで、僕は既視感を覚えた。先日紹介した『コーヒーと恋愛』(獅子文六著、ちくま文庫)の作中で、同時代にコーヒーの野だてが催されたのもここだったのだ(当欄2016年9月9付「『ほんとのコーヒーに憧れていた頃」)。

 

 郊外の禅寺でコーヒーを味わう、俳句をひねる。それが、1960年の東京人が手に入れた息抜きだった。空襲のトラウマは癒えず、まだ豊かでもなかったが、そのくらいの余裕は取り戻していたのだろう。そこにたどり着くまでに15年かかったとも言えようか。

(執筆撮影・尾関章、通算338回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『重力波は歌う——アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち』

(ジャンナ・レヴィン著、田沢恭子、松井信彦訳、早川書房)

写真》Lの快挙

 今年のノーベル賞予想は、物理学賞について言えば易しいようで難しかった。科学ファンならだれもが思い浮かべたのが、米国の重力波アンテナLIGOが成し遂げた重力波の初観測だ。ちょうど100年前、アルバート・アインシュタインの一般相対論が完成して、その帰結の一つとして予想されたのが重力場の波だった。ごくごく微小の時空の伸び縮み、という人類未体感の現象。それを突きとめたのだから無論、最大級の称賛に値する。

 

 だが、今年の授賞があるかどうかは微妙だった。物理学賞の推薦状受理は1月末で締め切られるが、LIGOの重力波報告は2月に入ってから。締め切り後、選考にあたる委員会が独自に候補を加える可能性はあるようだが、その手続きをとったのかどうか。

 

 もう一つ、LIGOグループのだれを選ぶべきかという問題もあった。初観測第1報の論文を見れば、著者数はザクッと1000人。物理の巨大実験では、それをアルファベット順で並べるのが常で、今回もB・P・Abbottさんに始まり、J・Zweizigさんで終わっている。物理学賞に団体受賞はなく、しかも授与される人は3人に限られる。だれにも文句を言われないように3人以下に絞り込むのは、それほどたやすいことではない。

 

 こんなとき、常識では組織論で考える。ただ、統括責任者は実験の元締めではあるが、それは学術とは別次元とも言える。装置の提案、準備、稼働のどの段階を重くみるかも考えどころだ。重力波初観測が大偉業でも、だからハイ、賞をどうぞとはいかないのだ。

 

 発表された結果は、別分野への授賞だった。賞を受けるのは、いずれも英国生まれで米国に渡ったデイビッド・サウレス、ダンカン・ホールデン、マイケル・コステリッツの3人。物質中の量子現象をトポロジー(位相幾何学)で理論づけた。一例は、測定値に整数性が現れる量子ホール効果だ。今日のエレクトロニクスの壁を破るには数学知が役立つことを示唆する仕事だった。重力波は先送りなのか、それともノーベル賞には馴染まないのか。

 

 来年の発表を占うために、重力波で受賞が有望な人々の足跡をたどってみよう。一冊のノンフィクションがある。『重力波は歌う——アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち』(ジャンナ・レヴィン著、田沢恭子、松井信彦訳、早川書房)。著作権の表示によれば原著は2016年刊で、邦訳も6月に出ている。重力波初観測に合わせたタイムリーな刊行だ。だがもちろん、取材はそれに先立っている。執筆も大方は初観測前だったのだろう。

 

 本の後半では、LIGO構想創始者の一人であるライナー(レイ)・ワイスの決意が繰り返し出てくる。「二〇一六年までに検出を達成するには働き続けなければなりません」。重力波をめぐるアインシュタインの初論文から100年の節目に間に合わせようと考えていたのだ。それがダメなら1918年の論文の100年後でも「まあいいでしょう」。そして最後の最後に初観測の事実が書き込まれる。急いで加筆したのだろうが、かえって劇的だ。

 

 著者は、物理天文が専門の米コロンビア大学教授。4次元を超える宇宙の理論研究などに携わっているようだが、一般向けの著作活動でも才能を発揮している。この本でも取材相手から聞きにくいことを聞きだし、科学者間の確執を大胆な筆致で綴っている。書き手が女性ということに意味を見いだして視点の性差を論ずるつもりは毛頭ないが、登場人物の多くが男性なので「嫉妬」の2文字が女偏であることの不当さにも気づかされる。

 

 描きだされた人間ドラマにはヤマ場が二つある。一つは1983年、重力波観測をめざしてマサチューセッツ工科大学(MIT)とカリフォルニア工科大学(カルテク)が協力体制をとりはじめたころだ。主要人物はMIT側がワイス、カルテク側がキップ・ソーン、ロナルド(ロン)・ドレーヴァー。国立科学財団(NSF)に予算を出させ、1辺がキロメートル単位のL字形アンテナを2カ所に造るという構想は、このトロイカ体制で動きだした。

 

 ソーンは理論家だが、ワイスとドレーヴァーはともに実験家だ。この本は、著者自身の取材録やカルテク当局の口述歴史資料にある二人の肉声を拾って、両者の摩擦を浮かびあがらせる。たとえば、ワイスは「ロン・ドレーヴァーがキップによって無理やり引き込まれていました」と同情気味。一方のドレーヴァーは、当時のワイスの印象を「この話に無理やり割り込んできて別なやり方を試して実行したがっているような感じ」と振り返っている。

 

 ワイスは、この推移の背後にノーベル賞の影を見る。「関係者の大勢がノーベル賞のことを考えていました」「あれはこの分野の罪悪です」。それが、ドレーヴァーの「扱いづらいふるまい」の一因になった、との見方だ。さらに、その賞狙いの思惑こそがNSFを動かしたとも指摘する。「検出がうまくいけば新しい分野ができ、ひいては彼らがノーベル物理学賞に一役買うことになる」「これは一政府機関にとってとても大事なことです」

 

 ノーベル賞の力学で予算面の恩恵を受ける科学者が、そこに「罪」を見ていることは記憶にとどめたい。賞への野心が研究費を生む一方で、仲間の和も乱す。その現実を率直に打ち明けているのは潔い。この賞は善いことばかりではないのである。ただ、どんなに不快な軋轢があっても、ワイスは協力体制の維持にこだわった。この事業が「一機関だけでは無理」と悟っていたからだという。ここに、巨費を投じて進める巨大研究の宿命がある。

 

 もう一つのヤマ場は、ロフス(ロビー)・E・ヴォートの登場だ。1987年にトロイカ体制を継ぐかたちで統括責任者になった。科学者であり、カルテク学務部長も務めた人物。したたかな政治力で議会対策などに腕をふるった。ただ対人関係には難ありで、ロン・ドレーヴァーとそりが合わなかった。真偽不明の話が多いので、ここでは紹介しない。このくだりの章題は黒澤明映画の“Rashomon”、邦訳は「藪の中」となっている。

 

 興味深いのは、そこにもノーベル賞が作用したという見方があることだ。この本は、学者仲間の推察をカルテクの口述歴史資料から引いている。「ロビーが何よりも許しがたかったのは、自分が前進の大きな原動力としてプロジェクトを仕切っていたのに…(中略)…ロンの手柄になりそうで、ひょっとしたらノーベル賞ももらってしまうかもしれないということだったのでしょう」。人の内心はわからないが、そんな嫉妬があっても不思議はない。

 

 この本は科学者の人間模様を赤裸々に曝す一方で、その一人ひとりの科学者精神、とりわけ実験家魂も見事に描きだしている。ワイスはもともとラジオ少年で、実験志向が強かったのに、MITの新米教授として一般相対論の講義を受けもたされる。「ダメ教師だとわかっていました」。それで「実験に重点を置く」という方針を思いつく。学生に思考実験の課題として示したのが「物体間で光線を往復させて、重力波を測定する」という着想だった。

 

 一つの光を二つに分け、直交する方向に行き来させてその位相のずれで時空の伸び縮みを見分ける。ワイスは、そんな実験を大学構内の木造棟に置いた1辺1.5mのL字形装置で始める。その経験から、雑音をしのぐ重力波信号を得るには「長さ数キロ規模の装置だけが現実的な選択肢」とわかる。こうして誕生したのが、LIGOが2カ所に置く1辺4kmのアンテナだ。「ビッグサイエンスは嫌いでした」「科学があれを要請したのです」

 

 ドレーヴァーの実験家魂もすごい。英スコットランド出身で、やはりラジオの修理に興じ、テレビさえも自作する少年だった。地元にいたころ、原子核の慣性質量が宇宙の物質分布に影響されるかどうかの検証を自宅の菜園で試みたという。「自動車のバッテリーをいくつかとワイヤーをいくらか使っただけ」の装置で溶液中のリチウムの核磁気共鳴を調べるという仕掛けだった。結果は、影響を検出できず。今でも精度の高い実験と評価されている。

 

 痛感するのは、今の科学者は昔ながらの科学者と同じ境遇にないという事実だ。創意や探究心にあふれていても合従連衡や政治工作と無縁ではいられない。僕たち部外者はただノーベル賞受賞者を礼讃するのではなく、そんな現実も認識しておくべきだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算337回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ

『カンガルー日和』(村上春樹著、講談社文庫)

写真》ハルキとヨシオ

 ノーベル賞の発表が来週は続く。10月3日月曜が医学生理学賞、4日火曜が物理学賞、5日水曜が化学賞。文学賞のみは日程を直前まで明かさないが、たいていはこの週の木曜(*末尾に注)。そして金曜に平和賞があり、経済学賞は翌週月曜ということになっている。

 

 当欄は毎年、この時季に合わせて村上春樹の本をとりあげてきた。ノーベル文学賞談議では不偏不党などと言わず、ムラカミハルキ党員であることを旗幟鮮明にしてきたことになる。理由は、折にふれて書いている。彼は日本の候補には珍しく、世の中のバルク部分と共鳴する作家なのではないか、ということだ。バルクには「大部分」の意味がある。語弊を恐れずに言えば、中間層の代表選手ということだ。エリートのそれではない。

 

 共鳴の度合いは、とりわけ僕の世代、すなわち団塊のしっぽや、その後続世代に強い。村上春樹自身は1949年生まれ。団塊の範囲内だ。それがなぜ、年下の年齢層と相性が良いのか。たぶん、同世代の典型から外れていたからではないか、と僕は思う。たとえば、学生運動の泥沼にはまり込んだりはしなかった。それをするりと抜けて、ひと足先に次の時代に進んでいた。作品世界にある軽快さをみれば、そのことがよくわかる。

 

 これは、ムラカミハルキ党員にとっては分が悪い話でもある。バルク部分との共鳴といっても、自身の世代とすらずれがある。自らが先行して導いた世代とのみ響きあったということではないのか。もしかしたら、世代限定のバルク代表なのかもしれない。たしかに彼を国民的な作家と呼ぶのは適切でない。だが、そこにこそ魅力があるとも言える。ある時代、ある社会の位相を同時代人の感覚で切りだしたという意味で、敬愛すべき作家なのだ。

 

 切りだされた位相のなかでなによりも目を引くのは、男女の関係性だ。村上春樹以前の文学では、それは情念や性愛のかたちをとって描かれがちだった。もちろん、対極には純愛小説の流れもあったが、純愛讃美が成り立つのも情念や性愛のドロドロが反面教師としてあったからだろう。ところが、彼の作品は違う。セックスの話はよく出てくるのだが、そこにはこだわらず、軽々とスキップしていく例が目立つように思う。

 

 村上春樹の情念性愛スキップは、まずは女性ファンを惹きつけたように思う。作中でストーカーやセクハラ男のような不快な人物に出くわすリスクが低いからだ。それは、男性の心をも動かした。彼が作家として飛躍したのは1980年代。雇用機会均等法の施行が86年だから、女性の社会進出と同期している。男子として女子とどう向きあうか。そんな問いが切実になったころだ。それにヒントを与えてくれる男女のありようが、そこにはあった。

 

 で、今週の1冊は『カンガルー日和』(村上春樹著、講談社文庫)という短編集。1981〜83年に百貨店の顧客サービス媒体だった雑誌に連載され、その直後、平凡社刊の単行本となった後、86年に文庫化された。佐々木マキのアメリカンな雰囲気の絵がところどころに差し挟まれている。消費文化の土壌で生まれた作品群なので、どの一編も時代の空気に敏感だ。ニューファミリーという言葉が広まったころの女と男を巧く切りだしている。

 

 冒頭に置かれた表題作は、若い男女が電車に乗って動物園へカンガルーを見にいく話。「我々は一月前の新聞の地方版でカンガルーの赤ん坊の誕生を知った。そして一ヵ月間、カンガルーの赤ん坊を見物するに相応(ふさわ)しい朝の到来を待ち続けていたのである」

 

 俗な興味では、ここで「我々」という二人の関係が訝しく感じられる。一月遅れになった理由が「ある朝には彼女の虫歯が痛み、ある朝には僕が区役所に出かけねばならなかった」とあるから、共同生活者らしいと推察される。ただ読み進むと、男が女の言葉に「女の子というのは実にいろんな可能性を思いつくものだと僕は感心する」と感慨を抱くくだりに出会うので、所帯じみてはいない。恋人とも夫婦とも言えない曖昧な関係がここにはある。

 

 電車での二人の会話を要約しよう。女「なんだか、この機会を逃すと二度とカンガルーの赤ちゃんを見られないような気がするのよ」。男「僕はキリンのお産だって見たことないし、鯨が泳いでいるところだって見たことがない。なぜそれなのにカンガルーの赤ちゃんだけがいま問題になるのだろう」。女が「カンガルーの赤ちゃんだからよ」と答えると、男は反論せずに「これまで女の子と議論して勝ったことなんて一度もない」と内心つぶやく。

 

 ここには、1980年代初頭の日本社会でふつうになった男女の描像が凝縮されている。一つは、女子と男子が議論に興じる光景だ。戦後民主主義の帰結、児童会や生徒会の延長とも言える。これに違和感はない。もう一つは、男子は論理にこだわるが、女子は感性でぶっ飛ぶというイメージ。こちらは、ちょっと気になる。女子は感性本位、と決めつけているようで今なら批判必至だが、あのころはそこまでフェミニズムが深化していなかった。

 

 それにしても、この短編は巧妙にできている。動物園にはカンガルーが4匹いて、雌が2匹、雄が1匹、もう1匹は赤ちゃんという構成。雌は「体つき」も「体色」も「顔つき」もほとんど変わらず、「どちらが母親だとしてもおかしくはない」。男「でも、どちらかが母親で、どちらかが母親じゃないんだ」。女「うん」。男「とすると、母親じゃない方のカンガルーはいったいなんだ?」。夫婦に縛られない関係が柵の向こう側にも鏡映されている。

 

 「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という長い題名の一編では、「僕」が街で「100パーセントの女の子とすれ違う」。顔立ちの印象は薄く、それほど美人でもないのに「僕の胸は不規則に震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう」。異性の魅力は直感されるもの、ということか。満点評価は、あくまで「僕にとって」だ。作中には「私にとって100パーセントの男の子」という表現も出てくる。

 

 この作品で「僕」は、もし彼女にナンパしたらどうなるか、というイフを妄想する。互いの身の上を明かして「すれ違うに至った運命の経緯のようなもの」を探る。「どこかで昼食をとり、ウディー・アレンの映画でも観て、ホテルのバーに寄ってカクテルか何かを飲む」。そして「うまくいけば、そのあとで彼女と寝ることになるかもしれない」。この「寝る」の使い方がいい。情念や性愛とは距離のある、男女関係の一つの到達点としてのセックス。

 

 「バート・バカラックはお好き?」という一編の「僕」は22歳のころ、アルバイトで「相手の心に響く手紙」の書き方を伝授する通信教育の添削をしていた。女性会員には男性が、男性会員には女性が指南する、というからちょっとあやしげなビジネスだ。実際、「僕」が担当していた32歳の女性がハンバーグ・ステーキの話を手紙に書いてきたとき、添削指導の返信で強い興味を示すと、バイトを辞めるときに自宅の昼食へ招かれる。

 

 「僕」は規則違反を承知で、それに応じる。「彼女のマンションは小田急の沿線にあった。子供のいない夫婦にふさわしく、さっぱりとした部屋だった」。二人はハンバーグを食べ、バカラックを聴く。5時を回ったので辞去を申し出ると、意外な言葉が返ってくる。「主人はとてもとても遅いの」「私たちの仲はあまりうまく行ってないの」。答えに窮していると「でもいいの」「長いあいだ手紙をありがとう」と、彼女のほうが踏みとどまった。

 

 後段では、「十年たった今でも小田急に乗って彼女のマンションの近所を通るたびに、彼女とあのかりっとしたハンバーグ・ステーキのことを思い出す」(「かりっ」に傍点)「僕はあの時彼女と寝るべきだったんだろうか?」という回顧がある。ここでも「寝る」のひと言が効いている。なにも起こらなかった。でも、なにかが起こってもよかった。人はいつも、そんな状況をくぐり抜けている。そのことを乾いた言葉でさらっと言ってのけたのだ。

 

 この作品の描写に触れていたとき、僕は片岡義男の短編を読んでいる錯覚に陥った。危うさを感じさせつつも日常感を忘れないというあたりは、ご両人がともに好んで描く男女のありようのように思われる。興味深いのは、二人とも芥川賞や直木賞を受けていないということだ。たぶん、往時の大御所世代にはピンと来なかったのではないか。前述の「世代限定のバルク代表」という括り方は、もしかしたら僕の好きな作家の共通項なのかもしれない。

*今年の文学賞は、この週木曜10月6日に発表されなかった(2016年10月7日記)。

(執筆撮影・尾関章、通算336回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ