『三河地震――60年目の真実』(木股文昭、林能成、木村玲欧著、中日新聞社)

写真》1人は1人、生命の重さ

 2011年の東日本大震災当時、僕はまだ現役の科学記者だったから昔の地震記録を復習した。一覧できるのは、なんと言っても『理科年表』(国立天文台編纂、丸善)。ここには、かつて日本列島とその周辺で起こった主な地震が列挙されている。そこで改めて驚かされたのは、第2次大戦末期に死者・行方不明者1000人超の大地震が東海地方で相次いだことだ。1944年12月7日の東南海地震と45年1月13日の三河地震である。

 

 『理科年表』の記載をざっくりとなぞっておこう。東南海地震はマグニチュード(M)7.9で、震央は紀伊半島沖。静岡、愛知、三重県などで死者・不明者1223人。住家の全半壊は5万戸を超える。熊野灘、遠州灘の沿岸は1〜8mの津波に襲われた。もう一つの三河地震はM6.8で、三河湾を震央とする。愛知県三河地方が主な被災地。死者2306人。住家の全半壊2万戸超、ほかに「非住家」1万戸近くが全壊したという。

 

 今の知識で言えば、東南海地震は、地球を覆うプレート(岩板)の境目で起こった巨大地震だ。海溝型と呼ばれる。一方、三河地震は足もとの活断層が動いたことによるもので、内陸直下型に分類される(三河地震は三河湾の直下で起こったが、沿岸海域なので「内陸」扱いしてもよいのだろう)。二つの地震は、わずか1カ月余の間に続発した。当然、関連が疑われる。被害の大きさのみならず、防災科学の観点からも注目すべき災厄だった。

 

 ところが、どちらの地震も知名度は高くない。大昔なら、そういうこともあろう。だが、戦争末期はそれほど昔ではない。僕にとっては自分が生まれるより6〜7年前の近過去だ。それなのに子どものころ、あの震災から10年が過ぎた、20年が過ぎた、という報道に接した記憶はほとんどない。どうしてそうなったのか。先の大戦の戦没者は日本人に限っても数百万人といわれる。犠牲者が1万人に満たない災害には意識が及ばなかったのか。

 

 どうも、それは違うらしい。それを知ったのは『一九四四年の大震災――東海道本線、生死の境』(西村京太郎著、小学館)を読んだからだ。2014〜15年に小学館発行の『本の窓』誌に連載された小説だ。15年刊。巻末で「フィクション」と念を押している。東南海地震後、静岡県の浜松に住む町の地震研究家が、まもなくもう一度大地震があると言い張って特高警察からにらまれるという筋書きだ。そこに地震の報道管制の話が出てくる。

 

 本当に報道管制があったのかを知りたくて、ネット情報を漁ってみた。それでわかったのは、規制の実態はともかく当時の新聞が二つの地震をほとんど正しく伝えていなかったことだ。これはぜひ、小説ではなくリアルな記録を読んでみたい――。

 

 で、今週は『三河地震――60年目の真実』(木股文昭、林能成、木村玲欧著、中日新聞社)。2005年刊。刊行時、著者3人はいずれも、名古屋大学大学院環境学研究科地震火山・防災研究センターの研究者。専門は、順に測地学、防災地震学、防災心理学。

 

 さっそく、本文に入ろう。地震報道がどれほど軽んじられたかについては、第一章の冒頭でとりあげられる。東南海地震発生の1944年12月7日は、偶然にも日米開戦3周年の前日。「翌日の新聞では、一面のトップは地震の記事ではなく、軍服姿の昭和天皇の写真が飾っていた」。この節目に、朝日新聞は「一億特攻」を謳いあげる記事を掲げたとある。地元紙中部日本新聞(現・中日新聞)も、地震の記事は「三面の隅」だった。

 

 では、約1カ月後の三河地震はどうだったか。これについては第三章で、一つの節を割いて定量分析もしている。対象としたのは、朝日新聞(東京本社版)、読売報知新聞(東京本社版)、中部日本新聞の3紙。地震翌日の1945年1月14日から3月末までの紙面を調べている。ここで僕のほうでことわっておくと、これらはみな1日1回の刊行だ。東南海、三河両地震のころ、国内の新聞社は用紙の統制で夕刊を出していなかった。

 

 この分析でまず驚くのは、出稿数の少なさだ。三河地震を扱った記事は2カ月半の期間中に朝日が11件、読売報知が3件。地元紙の中部日本(以下、中日と略す)ですら56件に過ぎない。中日の件数推移を見ていくと、地震翌日(2日目)が5件、3日目も5件、4日目が8件。これが1日当たりの最多本数だ。翌日ではなく、なぜ4日目がもっとも多いのか。推察するに、通信事情や交通事情が悪くて、情報収集に手間取ったのだろう。

 

 著者は、中日が6〜10日目の5日間にも合計20件の出稿を続けていることに目をとめ、「地元紙にとって三河地震は報道すべき重大な出来事であり、報道管制下という制約の中でも多くの報道を行っていた」と評価する。当時の新聞はページ数が限られていた。この間、朝日も読売報知も続報を出していない。そう考えると、中日はたしかに頑張った。ただそれでも、あの地震で2カ月半に56件は、今の感覚からすると少ない。

 

 ここで気になるのは、引用部にある「報道管制」という言葉だ。この本の随所に出てくるが、誰が何を規制したのか、地震のことを書くなと言ったのか、書いてもよいがこう書けと指図したのか――そのあたりがはっきりしない。それを知るには、著者の一人が出した『戦争に隠された「震度7」――1944東南海地震 1945三河地震』(木村玲欧著、吉川弘文館、2014年刊)など、別の文献をもっと読まなければなるまい。

 

 ということで今回は「報道管制」の実相に迫れないが、新聞がどんな圧力を受けていたかは紙面から感じとれる。中日1月14日付の三河地震第1報を見てみよう。記事の核心は、中央気象台(現・気象庁)の発表そのものだ。ところが、それにかぶせて「再度の震災も何ぞ/試練に固む特攻魂/敵機頭上、逞しき復旧」(常用漢字に改め、旧字体は新字体に換えた。以下も)の見出しが並ぶ。本文のニュースから浮きあがってみえるではないか。

 

 記事は、記者たちが取材した被災状況も伝えている。「十三日早暁一部電灯線が切断する程度の可成の地震が東海地方を襲ったが」「愛知県下三河部方面で若干全半壊の家屋があり死傷者を出しただけ」(記事にはルビがあるが省く、以下も)というのだ。著者は、これを「明らかに事実とは違う」と断ずるが、書いた側には嘘ではないと言う屁理屈があるのかもしれない。数字を出せば驚天動地のニュースを「可成」「若干」で覆い隠しているのだ。

 

 新聞編集陣の心理を深読みすれば、本当は地震のニュースをそのまま伝えたいのだが、戦意喪失を招きそうな記事を出すと当局から難癖がつく。ここは、地震のことを当たり障りなく報じつつ、見出しだけは威勢のよいものにしておこうという感じか。

 

 僕がことのほか興味をそそられたのは、当時も災害報道では、記者が科学者を現場に引っぱり出して見解を聞くという取材をしていたことだ。この本には「特筆すべきは、中部日本新聞本社が、人心の安定に寄与するために震害地学術調査団を被災地に派遣したこと」とある。調査団は、名古屋帝国大学の教授が率いていた。これは、「絶対に大地震なし」(1月20日付)など、余震に対する過度の不安をやわらげる報道につながったようだ。

 

 著者は、これらをとらえて「地震や震災そのものを隠すのではなく、地震や震災についての正しい理解を促進するための啓蒙的報道が行われていた」と評する。「報道管制下にあっても」一定の役割は果たした、という見方だ。だが僕には、その「啓蒙的報道」が曲者に思える。東日本大震災の原発事故報道でも当初、専門家が「人心の安定に寄与する」解説を繰り返し、事態の深刻さを見抜けなかったことがある。一つの見方を過信するのは危険だ。

 

 この本は、被災地の人々の証言が読みどころだ。そこには、名古屋に奉公に出ていた人が家族の死を伝えられるまで震災の深刻さを知らなかったという話も出てくる。数万戸が「若干」とされたのだから当然だ。事実の報道より「人心の安定」が先行するという奇怪さ。

 

 今はソーシャルメディアがあるから、こんなことはないだろう。被災者自身が現場の実態を映像にして発信できるからだ。だがそれだけでは、何が起こったかの全体像は思い描けない。事象の全容をつかみ、それを輪郭づけるという大役が、マスメディアにはある。

(執筆撮影・尾関章、通算490回、2019年9月20日公開、同月22日最終更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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「夏の夜の夢」

(『夏の夜の夢・あらし』〈ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫〉所収)

写真》王侯貴族vs.職人たち

 訪れたことはあるが、どんなところだったかはっきりしない。この年になると、そんな町がいくつかある。ウィリアム・シェイクスピア(1564〜1616)の生誕地ストラトフォード・アポン・エイボンも、その一つだ。英国イングランド中部の田舎町である。

 

 四半世紀前のことだ。ロンドン駐在時代の休日、ここも家族旅行で訪れた。車で数時間のところだから、マイカーを駆って出かけた。現地に着いてから、シェイクスピアゆかりの史蹟を巡ったに違いないが、エイボン川沿いの風景くらいしか思いだせない。

 

 川が印象に残っているのには理由がある。僕がストラトフォード・アポン・エイボンという地名に初めて触れたのは、高校の英語の時間だ。教科書に、シェイクスピアゆかりの地として描かれていた。長い名前だなあと思った。やがて、後半のアポン・エイボン(upon Avon)はオン・エイボン(on Avon)であり、エイボン河岸という位置を示しているに過ぎないのだとわかる。だから、その町が実際に川に面しているのを確かめて、納得したのだ。

 

 家族旅行のときに見てまわった史蹟には当然、シェイクスピアの生家が含まれていたはずだ。家族も、そう証言している。だが、そこで何を見たかがはっきりしない。仕方がないので「シェイクスピア生誕地トラスト」のウェブサイトに入って、見学を再体験する。ここでは、建物内外の様子が画像で見られるだけではない。シェイクスピア一家の家庭事情も文章で読める。とりわけ興味深いのは、ウィリアムの父ジョンの波乱万丈の人生だ。

 

 その記述によると、ジョンは、もともと近郷富農の息子だったが、結婚前にストラトフォードの町へ移って不動産を手に入れた。しだいに町の有力者となり、ついには現在の市長職に相当する地位を射止める。商工業でも身を立て、皮製品をつくったり、手袋を売ったり、羊毛の取引に手を出したりした。ただ羊毛商は認可制だったので、無許可の売買が問題化して失脚する。こうして息子のウィリアムは若くしてロンドンに出るのだ。

 

 ここで注目したいのは、ウィリアム・シェイクスピアが王侯貴族を主人公とする戯曲を量産しながらも、自らは上流階級の人ではなかったという事実だ。英国では1600年前後、産業革命による機械生産がまだ始まっていない。だが、工場制手工業(マニュファクチュア)はすでに広まっていた。資本主義社会の芽生えだ。父ジョンは、それを体現する地方都市の商工業者だった。ウィリアムは、父親のなかに封建制の次にくる世を見ていたのだろう。

 

 で、今週は「夏の夜の夢」(『夏の夜の夢・あらし』〈ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫〉所収)。訳者執筆の解題によると、この作品が書かれたのは「早くて一五九二年、遅くとも一五九八年」。作者が30代にさしかかったころだ。沙翁劇の年譜では「初期喜劇」の時代に属するが、当時の「写実的」作風とは趣を異にしている。「夢幻劇的」であり、晩年の「あらし」に代表される「浪漫喜劇」を先取りしたものだという。

 

 この解題では、もう一つ教わることがある。原題A Midsummer Night’s Dreamには「夏至前夜の夢」の意があり、欧州ではその夜、「若い男女が森に出かけ、花環(はなわ)を造って恋人に捧げたり、幸福な結婚を祈ったりする風習があった」。妖精が跋扈して、薬効が高まるという言い伝えもある。題名が、劇そのものの伏線になっているのだ。訳者は、夏至が日本人の「真夏」の実感に沿わないことから、邦題を「夏の…」にしたという。

 

 ページを開くと、冒頭に劇中世界の「場所」の説明と劇に登場する「人物」の一覧が載っている。場所は「アセンズ(アテネ)、およびその近くの森」。人物欄の筆頭に挙がるのは、アセンズを治める大公シーシアスと、その婚約者ヒポリタだ。後者は、アマゾン族の女王でもある。ギリシャを舞台にギリシャ神話ゆかりの人々が出てくるドラマ。さぞや気宇壮大な筋書きなのだろう。一瞬、そう思うのだが、すぐにそれは裏切られる。

 

 「人物」一覧の中ほどは、ピーター・クィンス(大工)、ニック・ボトム(機屋)、フランシス・フルート(オルガン修繕屋)、トム・スナウト(鋳掛屋)、ロビン・スターヴリング(仕立屋)……という一群が占めているからだ。これを見ると、どこがギリシャだ、どこに神話がある、と言いたくなる。名前からして英国風。この芝居が上演された時代、英国のどこの町にもいただろう職人たちだ。作者の脳裏には、故郷の原風景があったのではないか。

 

 さらに驚くべきことに、登場人物には妖精の一群も含まれている。オーベロン(妖精の王)、タイターニア(妖精の女王)……と続いて「豆の花」「蜘蛛の巣」「蛾」「辛子の種」と名づけられたものもいる。なるほど伝説の通り、夏至前夜の森らしい賑わいである。

 

 「人物」一覧の顔ぶれだけで、この戯曲が「写実的」ではなく「浪漫」志向であることがわかる。古代ギリシャの高貴な世界に妖精がかかわり、そこに近世英国風の町人たちも入り込む。現実と夢幻がつながり、時代も国境も超える。そこに作者の大胆さがある。

 

 そこで、この戯曲を3層に分けて見ていこう。仮に高貴層、妖精層、町人層と呼ぶ。

 

 まずは高貴層。ここで繰り広げられるのは、3組の男女の恋バナだ。まずは大公とその婚約者。シーシアスは冒頭、こう口を開く。「さて、美しいヒポリタ、吾らの婚儀も間近に迫った」(引用ではルビを省く、以下も)。もう一組が、ライサンダーとハーミア。相思相愛だ。さらにデメトリアスとヘレナ。ヘレナはデメトリアスに恋しているが、デメトリアスはハーミアに横恋慕している。三角関係が一つ混入して、不安定要因になっているわけだ。

 

 ここで恋愛事の枷になるのが父権主義。ハーミアの父イジアスは、娘とデメトリアスとの縁組を望んでおり、彼女がそれに同意しなければアセンズの法によって裁いてほしい、と大公に申し出る。法が求める罰は、死刑か永久蟄居かの二者択一。イジアスは、こう言う。「娘は私のものでございますゆえ、その処分は私にお任せを」。こんな強権オヤジがいるおかげで、ライサンダーとハーミアの恋は生命や人生をかけたものになっていく……。

 

 妖精層にも男女の揉め事がある。たとえば、妖精の王オーベロンと女王タイターニアの夫婦仲。妻は、夫が「羊飼いのコリンに化けて、一日中、麦笛を吹きならしたり、恋歌をうたったり」しているとなじる。最近、夫がヒポリタをシーシアスと結婚させることに熱心なのも不満の種らしい。一方、夫は、妻が「星明りの夜」にシーシアスを誘い、元妻と離婚させたのではないか、という疑念をぶつける。嫉妬心に根ざした非難の応酬だ。

 

 ただ、興味深いのは、妖精の嫉妬のありようが人間のそれとは異なることだ。オーベロンとタイターニアの発言を注意深く読むと、それがわかる。妻は、夫とヒポリタの情事を疑っていない。夫が妻に対して抱く疑惑も、妻がシーシアスと不倫した、という話ではなさそうだ。これを読み解くのは難しいが、僕なりに解釈すると、妖精は人間の恋愛事に当事者として参加できない、だから後援会の幹部然として余計な介入を画策するのだ!

 

 ここで、介入の道具となるのが「浮気草」という植物だ。その絞り汁を睡眠中にまぶたに塗られると「すっかり恋心にとりつかれ、目が醒めて最初に見た相手に夢中になってしまう」。この魔法が高貴層の男女に混乱を呼び起こす。ここに、喜劇の仕掛けがある。

 

 町人層が婚礼の余興で演じる芝居が、それを増幅する。彼らは近世英国からタイムスリップして来たわけではない。一応、アセンズの職人衆だ。この劇中劇の筋書きは、恋しあう男女が不慮の出来事に見舞われ、最後は男女とも自死する、というもの。悲劇だが、そこに男の早とちりが介在して喜劇性を帯びる。素人芸のドタバタがそれに輪をかける。悪気は感じられないが、高貴層の生命や人生をかけた恋をそれとなく皮肉っているようにも見える。

 

 古代ギリシャ風の世界を近世の田舎町から出てきたような町人たちが引っかき回す。その構図に、シェイクスピアは資本主義萌芽期の英国人の気概を吹き込んだのではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算489回、2019年9月13日公開)

 

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「月刊寅さん8月号」(朝日新聞2019年8月27日朝刊)

写真》団子と寅さん(朝日新聞2019年8月27日朝刊)

 当欄の書名欄に「月刊寅さん…」とあるのを見て、えっ、そんな雑誌が出たの? と思う方がいるかもしれない。ええ、たしかにこれは創刊号。でも、雑誌ではない。朝日新聞がかつて一世を風靡した「男はつらいよ」シリーズ(松竹)を題材に月1回の連載を始めたのである(朝日新聞2019年8月27日朝刊)。シリーズ第1作(山田洋次監督)の公開から満50年の機会をとらえて、ということらしい。8月27日はその封切り記念日だった。

 

 この企画、いかにも、なあ、という感じがしないでもない。新聞は今、読者層がどんどん高齢化している。若い世代には、日常は読まない、開かない、手にしない、という人が多いようだ。新聞社がもし、若者の読み手をふやそうとすればデジタルメディアで勝負せざるを得ない。では、紙の新聞を生き延びさせるにはどうするか。ここは、高齢層の心をわしづかみにするしかない。さあ、寅さんの出番である――。というわけだ。

 

 では、僕自身の寅さん体験はどうだったか。子どものころ、NHK「夢であいましょう」で渥美清という人を知った。浅草の匂いのする喜劇人だった(当欄2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」)。高校時代、その渥美が主演する「男はつらいよ」(フジテレビ系列)というドラマの虜になった。主人公の寅さんが亡くなって完結したので残念に思ったが、まもなく映画で復活した。でもすぐ映画館に駆け込んだわけではない。

 

 そもそも、これまで僕は映画館で「男はつらいよ」を観たことがあるだろうか。あるような気もするし、ないような気もする。あったとすれば、学生のころに時間つぶしで入った名画座のシリーズ連続上映ではなかったか。映画広告を見て切符を買い、わざわざ封切り館に出向くということはなかった。それなのに、かなりの本数を観ている。これが不思議だ。テレビで放映されると、なんとなくチャンネルを合わせ、寅さんの世界に浸っていたのだ。

 

 いったい、僕は寅さん、即ち「男はつらいよ」の世界が好きなのか嫌いなのか。この問いには、自分でも答えるのが難しい。観ていて心地よいのだが、退いてしまうところもある。そんな感じか。退いてしまう因子を言えば、それはあのシリーズのインテリ色にある。

 

 寅さんがインテリ? 渥美清はそうでも寅さんは……という反論はあろう。たしかに、あのキャラはインテリとは言えない。だが、「男はつらいよ」の作品世界は、戦後知識人が民主主義の理想を背負ってつくりあげたユートピアのように思われる。そこでは、町の印刷工場の社長や工員が隣の団子屋一家を交え、ときに悪口雑言を投げあいながらも心の底で慈しみあっている。社長も工員も働く仲間なのだ――そんなメッセージがある。

 

 僕自身は、「男はつらいよ」的なユートピアが心地よい。だから、その作品世界に惹かれるのだ。だが残念なことに、日本社会はそれと乖離する方向に進んだ。シリーズ第1作公開の1969年以後もしばらくは高度成長を追い求め、次いでバブル経済を膨ませ、それが潰れると格差という亀裂を引き起こした。日本社会はついに「社長も働く仲間」という意識を身につけられなかった。そう思うと、あのユートピアが机上の夢想に見えてくる。

 

 だから僕は、「男はつらいよ」シリーズに距離を感じるようになっていたのだけれども、最近は別の角度から心を動かされている。その思いをすくいとってくれたのが、「月刊寅さん」だ。その前書きに「不寛容、貧困、格差、孤独死……いま、日本の社会はさまざまな問題に直面しています」「寅さん(車寅次郎)だったら、どんな言葉をかけるだろう――」とあることに、僕も共感する。で、今週は、その創刊号を話題にしよう。

 

 この8月号本文の筆者は、小泉信一編集委員。この人を朝日新聞随一の「寅さん記者」と呼んでも、おそらく叱られまい。去年、全国のスナックをぶらりと訪ね歩く連載を取材執筆していたが、それも、記者自身が寅さんになり切って旅している記事のように読めた。

 

 さて、今回の本文。導入部は、寅さんが全国津々浦々の神社仏閣を回り、境内の一角で露店を開いて「トントントンと畳みかけるような七五調の口上」で客を呼び集めている、というおなじみの場面。「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水……」「白く咲いたはユリの花、四角四面は豆腐屋の娘……」という感じだ。春は桜前線のように北へ、秋は紅葉前線のように南へ足を向け、「トランク片手に旅をしていた」と書く。

 

 次いで登場するのが、実在の露天商。北海道根室市内の神社の夏祭りで屋台を構えていたベテランのあめ細工師、72歳の男性だ。あめを温め、「練り、延ばし、ハサミを入れ」て犬や猫、竜などを仕上げていく。道内各地を巡る日々。屋台も、商品も、生活用具一式も、なにもかも2トン車に詰め込んで町から町へ移動する。「のたれ死ぬのかなと思うこともある」というから、「トランク片手」にさすらう寅さんほど軽快ではない。

 

 だが、そのあめ細工師は言う。「日常から逸脱した世界がテキヤ稼業の魅力。窮屈な管理社会とは対極だよ」。ここで、テキヤとは露天商の俗称だ。えっ、この人は「窮屈な管理社会」のことも知っているのかと一瞬訝るが、経歴の記述を見て納得する。芸大を中途退学して転職を繰り返し、たどり着いたのがこの仕事だという。大学で、職場で、いつも「管理」の息苦しさを感じてきたのだ。僕はほぼ同世代だから、その気持ちがよくわかる。

 

 彼が20歳前後だった1960年代後半、日本には大学紛争があった。米国ではベトナム反戦運動が高まっていた。そして欧州ではパリ五月革命、プラハの春。これら若者の反抗に共通するのは、五月革命のときに叫ばれたという反「管理」の精神だったように思う(当欄2016年5月13日付「五月革命、禁止が禁止された日々」)。ところが、その反抗の頂点1968年を境に、世の中は「管理」のベクトルを強めたのではないか。

 

 そして今、「管理」の波は寅さんの世界にまで押し寄せている。この記事によれば、1992年施行の暴力団対策法が大波だった。露天商も、取り締まり強化の影響を受ける。「出店計画を街商組合を通じて地元警察にかなり前に届けないといけない」と記事にはある。露天ビジネスを暴力団から切り離し、暴力団の資金源を断つ効果はあるのだろう。ただ、もし寅さんが今も仕事を続けているのなら、もはや気の向くままの旅はできないはずだ。

 

 ここで言い添えなくてはならないのは、「管理」は警察権力の上意下達でもたらされるものばかりでないことだ。この記事で例に挙がるのは、東京・新宿の花園神社で催される「酉(とり)の市」。出し物に規制があるが、それを促したのは人権や動物の権利を重んじる「市民団体の批判」だという。見世物小屋にはかつて容認しがたいものがあったから、これは正当な主張である。それによって主催者側が「管理」を迫られているのだ。

 

 この記事は「何かあれば苦情が寄せられ、ネット上でバッシングされる世の中」を反映して、露天ビジネスが無難な領域に限られてきた現状を指摘する。商品の定番は「お好み焼き、クレープ、フランクフルト……」。これでは、買い物街のフードコートと変わらない。根室の神社の氏子総代(73歳)も、昔の祭りをこう懐かしむ。「ちょっと怖いお兄さんがいたりしてね。口八丁手八丁でインチキ臭そうな品物を売りさばく人もいて楽しかった」

 

 僕が今、「男はつらいよ」に見いだすのは、「管理」の呪縛とは無縁な人々だ。だが映画のつくり手は、ことさらその様子を描こうとはしていなかったように思う。なぜなら、あのころは現実社会の「管理」がそんなには強くなかったからだ。つくり手の思いはむしろ、「社長も働く仲間」的なユートピアにあったのではないか。そのために生みだされた風来坊の主人公が半世紀後、僕たちが今どれほど「管理」されているかを痛感させてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算488回、2019年9月6日公開)

 

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「最初の一日――昭和十六年十二月八日」

『同日同刻――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(山田風太郎著、文春文庫)より

写真》ハワイ

 このあいだ、書店の古書コーナーで『同日同刻――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(山田風太郎著、文春文庫)という本を見つけた。思わず手が伸びたのは、8月に入って6日、9日、15日と先の戦争に思いを致す機会が続いたからだろう。

 

 この本は、作家山田風太郎(1922〜2001)が、第2次世界大戦にかかわる多方面の文献を漁って、太平洋戦争の開戦と終戦の実相に迫ろうとしたものだ。開戦当日はほぼ1時間刻み、終戦までの15日間は1日ずつに時間軸が区切られる。その同日同刻、政治家や軍人、官僚、知識人、市井の人々が何を思い、どう振る舞ったかを史料から掘り起こした――膨大な書物を丹念に読み込み、それらを有機的に編みあげた技には圧倒される。

 

 当初、僕の関心は「最後の十五日」にあった。でも、順番は順番だ。「最初の一日」から読みはじめた。それで思えてきたのは、あの戦争は政権に外交力さえあれば避けられただろうということだ。今さらそれを言っても過去は変わらないが、未来への教訓にはなる。

 

 そんな折、気がかりなニュースが飛び込んできた。韓国が日本との軍事情報協定を破棄したというのだ。日韓関係はこのところ悪化の一途をたどっていたが、それがついに極まった感じだ。きな臭いにおいがしてきた、とまでは言わない。ただ、日本と他国の個別関係がこれほどまでにこじれたことは、戦後今までなかったように思う。僕個人の六十数年の記憶をたどっても、三十数年の記者生活を振り返っても、そのことは言える。

 

 もちろん、日本は冷戦期、西側陣営の一員だったから東側の国々との間には壁があった。その後も国交がなく、難題を抱えた国もある。だが今の日韓関係で起こっていることは、それとは違う。国と国とをつなぎとめる部材が次々に断ち切られている。

 

 当欄は今回、日韓双方がそれぞれ打ちだした一連の政治決断について、どうこうあげつらうつもりはない。そこに踏み込むとかえって大局が見えなくなるのではないか、とすら思う。たとえば、日韓の軍事情報協定、即ち「軍事情報包括保護協定」が失効して損をするのはどちらか、といった論評を見かけるが、そういう分析にとらわれていると極東アジアの安定という本来の目標を見失ってしまうだろう。大切なのは、関係の再構築だ。

 

 で、今週は『同日同刻…』から「最初の一日」だけを切りだす。当欄筆者は、ある本の所収作品を話題にするとき、その本1冊を読み切ることを原則としているが、今回は「最後の十五日」を未読のままブログを公開する。緊急性の高い話だと考えるからだ。

 

 本題に入る前に、まず書誌から。著者は、今風に言えばエンタメ系の小説家。医大卒の変わり種でもあった。「忍法帖」シリーズで人気を博し、娯楽小説誌で活躍。ちょっとエッチな作風だな、と思った記憶が僕にはある。だが、彼には硬派の一面もあった。有名なのが『戦中派不戦日記』。それが自身の皮膚感覚でとらえた終戦前後の記録だとすれば、本書は史料を踏まえた開戦と終戦の俯瞰図だ。単行本は1979年に出た。文庫版は86年刊。

 

 本文は、1941(昭和16)年12月8日午前零時から始まる。駐日米国大使ジョセフ・C・グルーは都心の外相官邸を訪れた。携えていたのは、ルーズベルト大統領が天皇に宛てた「超緊急の親電」。零時15分、東郷茂徳外相に電文を伝える。「太平洋地域」で「両国間の長い平和がもたらした有益な効果を奪い去らんとするがごとき事態」が進行中で、「陛下と私が、世界にこれ以上の死と破壊を持ち来すことを防止する神聖な義務を持つことを確信いたします」(出典・ジョセフ・C・グルー『滞日十年』毎日新聞社)とあった。

 

 東郷外相は、この親電を「これまでの日米交渉の条件に何ら触れるところがなく」「きれいごとを、ただ記録に残そうとするためだけの文書」ととらえる(出典・東郷茂徳『時代の一面』改造社)。そんな決めつけがあったからだろう。グルーは天皇に謁見して、電文を直接手渡したいと申し出るが、東郷は、自分のほうで遅滞なく伝えると言って電文の複写を預かった。グルーが外相官邸を辞去したのは零時半。わずか15分の面談だった。

 

 この決めつけは政権中枢で共有される。午前1〜2時、東郷は親電の邦訳を手に首相官邸へ赴き、東条英機首相に会う。「それでルーズベルトは何か譲歩して来たのですか」「いや、何も新味はありません」「それじゃあ何の役にも立たんじゃないですか」(出典・同書)

 

 ここに当時の日本外交の愚がある、と僕は思う。電文の字面だけを見て「新味」がないと断じ、「何の役にも立たん」と切り捨てる。だが心にとめるべきは、これが大統領から天皇へ送られた急ぎの親書ということだ。実務家同士の書簡ではない。「陛下と私が、世界にこれ以上の死と破壊を持ち来すことを防止する神聖な義務を持つ」という言葉には「お互い、早まってはいけない」との強いメッセージが込められているとみるべきだろう。

 

 1941年の時点で、日本は日独伊三国同盟を背景に軍事力を中国大陸や南方へ展開、これに対抗して米国や英国は日本資産の凍結や石油の全面禁輸に踏み切った。ここでふと思うのは、日本政府には、たとえ軍国主義政策をとる立場にあったとしても米英側の経済制裁を緩めるためのカードが何枚もあっただろうということだ。大統領から天皇へのメッセージをいったん受けとめ、交渉に再度臨むという選択肢は十分ありえたに違いない。

 

 この愚に輪をかけたのが、親電の配達遅れだ。前日、即ち日本時間の7日正午、東京の中央電信局に入電されていたが、グルーの手もとに届いたのは午後10時半だったという。僕が不勉強にも驚いたのは、当時は駐日外国公館が本国とやりとりする電報も日本の電信当局を介在させていたことだ。だから、暗号は必須だったとも言える。グルーも深夜、大使館員に解読作業にあたらせ、日付が変わるころにようやく全文を手にしたのである。

 

 10時間半の遅れは、なぜ生じたのか。この本には、陸軍参謀本部通信課の将校が配達を「故意に」遅らせたとある(出典・『極東国際軍事裁判速記録』雄松堂)。本当なら、とんでもない話だ。読み進むと、東郷外相が天皇に大統領親電を報告したのは8日午前3時前後。ハワイでは日本時間の午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)に日本軍の攻撃が始まっている。これでは親電が天皇の心を動かしても間に合わなかっただろう。

 

 著者没後のことだが、この件については2013年に外務省から、戦後まもなく国際検察局という機関が外務省電信官を尋問したときの記録文書が公開されている。新聞報道によると、検察局側は「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができた」とにらんで配達半日遅れの謎を追及したが、電信官は「当時本件親電にはなんら関係がなかった」と答えたという(朝日新聞2013年3月8日朝刊)。今となっては藪の中か。

 

 ただ、かりにそこに軍部の意図が介在していたとすれば、それは結果として政権の思惑を忖度するのと同じ効果をもたらした。東条首相の東郷外相に対する次の言葉が、そのことを如実に物語っている。「その電報がいまごろ着いてよかったですよ。もう一、二日早く着いていたらまた一騒ぎになったかも知れん」(出典・東郷茂徳『時代の一面』改造社)。開戦は決定済みのこと、今になって余計な横やりが入らなくてよかった、という感じだろうか。

 

 外交は、トランプ遊びのカードの切りあいにたとえられる。相手が切ったカードを見なければ、自分が次に切るべき最適のカードを選べない。ところがそれを見るのが遅れ、吟味する時間がなかったことをかえって喜んでいる。この感覚には、ぞっとする。しかも、相手がどのカードを切ったかだけにこだわって、その1枚を出してきた心理を読もうともしない。これでは勝てるわけがない。外交で勝てなければ次に来るのは……。

 

 この顛末を、今の外交政策に強引に結びつけるつもりは僕にはない。ただ、この本が再現する1941年12月8日の日本は、2019年の風景と重なる。文書をぞんざいに扱うくせに、その字面にとらわれて思考を止める。そんな悪弊が今また広がっている。

(執筆撮影・尾関章、通算487回、2019年8月30日公開、同年9月4日最終更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『日本の川 たまがわ』(村松昭著、偕成社)

写真》車窓から二ヶ領宿河原堰

 夏休みの一日、東京・二子玉川の玉川高島屋S・Cで「世界の生きものワンダーツアー」という催事を見学した。心がなごんだのは「多摩川の生きものたち」。遠くの密林にいる珍しい動物よりも近くの川に棲む平凡な魚が、僕には愛おしかった。その会場の売店で見つけたのが、『日本の川 たまがわ』(村松昭著、偕成社)という絵本。買わずに帰ったものの、気になってしようがない。結局、ネット通販でそれを手に入れた。

 

 この絵本に心惹かれたのには理由がある。幼いころに好きだった川の絵本を思いだしたからだ。その本はもはや手もとにないが、見開きのページを横切るように一筋の川が流れていた。上流域は山林で、伐りだされた材木が川から運びだされている。中流域は農地が広がり、農家の人々が働いている。下流域には街のにぎわいがあり、工場が林立している。そして河口近くの港には大型船の姿が……おおよそそんな絵柄だったように思う。

 

 これぞ、鳥瞰図。鳥になったような気分になれるので、子どものころはそれだけでうれしかった。だが今思うと、そこから学びとれることもある。川には人々を引きつける力があるということだ。水という天然の恵みを水運や用水のかたちでもたらしてくれるので、山村も農村も都市も工場街も、みな川べりに集まった。山あいから海辺までが帯状につながり、人々が一つの水系を共有している。かつての日本社会では、そんな有機体が健在だった。

 

 絵本『…たまがわ』に心が動いたもう一つの理由は、多摩川に対する個人的な思い入れに由来する。僕がこの川を好きになったのは青春期だ。そこには「東京人には故郷がない」という俗説への反発があった。僕たちにも自然豊かな川がある。堤防は土手で、河原にも植生がある。右岸には多摩丘陵、左岸には国分寺崖線。大地の起伏も感じられる。これは十分に「小鮒りし彼の川」(「故郷」高野辰之作詞)と言えるではないか。

 

 あのころ、僕は電車で6駅先の多摩川へよく出かけたものだ。貸しヨット屋があったので、それに乗ったこともある。夜の堤防に腰を下ろして川面を見つめていたこともある。さらにはバスに乗って二子玉川にも足を延ばし、東京・世田谷最南部を米国のディープサウスに見立てたりもした。陽光を照り返す緩やかな流れがミシシッピ川のようにも感じられたからだ(当欄2018年5月18日付「ニコタマという僕のディープサウス)。

 

 では、いよいよ『…たまがわ』のページを開くことにしよう。著者は、略歴欄によると1940年生まれの「鳥瞰絵図作家」。作品には、四万十川や屋久島を描いたものもある。ただ、東京都立立川高校のOBで今も府中市に住んでいるとあるから、多摩川は格別な存在なのだろう。この本に盛り込まれた情報は、関連の公共機関や企業などを取材したり、それらの公式ウェブサイトを参考にしたりして得られたものだという。2008年刊。

 

 この本の記述は、多摩川の最上流から始まり、河口部で締めくくられる。本文は、「山のかみさま」と「そのおつかいの 男の子」(引用部のルビは省く、以下も)の会話形式。山のかみさまを表すアイコンは、オオカミと思しき動物の顔になっている。

 

 会話の冒頭で、山のかみさまは「にんげんは たまがわの はじまりは みずひという ところだと いっておる」と言う。ひらがなの分かち書きに大人は戸惑うが、ありがたいことに巻末には漢字併記の「さくいん」がある。この引用部にある「みずひ」は「水干」。それは、埼玉、山梨県境の笠取山(標高1953m)の頂に近い山梨側山中にある場所の呼び名で、ここに現れる水滴が多摩川の源流とされているらしい。

 

 山のかみさまは、水干を源流とする通説に言い添える。「しかし ほんとうの 川の はじまりは 山じゃ」「山の木に ふった 雨が 川に なるんじゃ」。こうして、地球規模の水循環を考え、山と森、川と海をひとつながりにとらえるエコロジー思想をほのめかす。

 

 ページを繰って見開きの鳥瞰図をみると、水干のそばに三川分水の碑が立っている。荒川、富士川と多摩川の3河川の流れを分かつ分水嶺らしい。川の流域支配をまざまざと見せつけられた感じがするではないか(固有名詞は「さくいん」をもとに漢字表記、以下も)。

 

 この見開きでは、男の子が「どれが たまがわ?」と問いかけ、山のかみさまが「まだ たまがわとは よばれておらん」と答えている。小さな川が集まって一ノ瀬川となり、そこに柳沢川が流れ込んで丹波川となる。これは「たばがわ」と読む。ページをめくって次の見開きをみると、その丹波川が奥多摩湖に行き着く。「たばがわが、たまがわの 名のもとになった という はなしも あるが、じつは よく わからんのじゃ」とある。 

 

 さらに次の見開きは、奥多摩湖を中央に据えている。山梨県と東京都にまたがる湖。「人が 川を せきとめて つくったんじゃ」。川の流れをせきとめる小河内ダムは1938年に建設が始まり、戦後の57年に完工した。「山の上にも いえが あるよ」「ダムに しずんだ 村の 人が うつりすんだんじゃ」。下流域の人々のために上流域の人々が生活の本拠を手放し、水源と電力源を提供する。そんな構図がダム造りにはある。

 

 丹波川は、小河内ダムを過ぎると多摩川と呼ばれるようになる。不勉強がばれるが、今回初めて知ったのは、奥多摩湖の下流にもう一つ、人造湖があること。白丸ダムによってできた白丸湖だ。これは、もっぱら発電のためのものらしい。東京都のウェブサイトを参照して驚いたのは、奥多摩湖や白丸湖の水力による発電を都の交通局が担っていることだ。日本では明治以来、電力と電車という二大事業が手を携えて発展してきたことを物語る。

 

 考えてみれば、多摩川には近代を待つまでもなく人間の手が入り、その水資源は下流域の生活を支えてきた。筆頭は、玉川上水の開削だろう。東京都水道局のウェブサイトによると、江戸前期の1653年に工事が始まり、8カ月間で羽村・四谷間の約43kmを掘り切ったという。この絵本には、羽村の取水堰を一望する鳥瞰図が載っている。川の本流を堰で受けとめ、その手前の水門から横方向へ水を吐きだす仕掛けだ。この水が上水になる。

 

 本流に立ちはだかっているのは、古来の投げ渡し堰。列をなした木杭の間に丸太などを水平に積みあげて水流を阻む。「大雨で せきが こわれそうなときは、あのまるたを そのまま 川に ながして たまった水を ながすんじゃ」。堰の脇には、筏の通り道も設けられている。「むかしは おくたまで きった 木は いかだにして 川にながし、うみの ちかくまで はこんだんじゃ」。奥多摩の木材搬出は、筏方式の水運だった。

 

 多摩川の堰は、ほかにもある。僕にとって身近なのは、二ヶ領宿河原堰。小田急線の下り電車で多摩川を渡るとき、左手の下流方向に目をやると見える。川面が尽きるあたりに堰の構造物がぽつんぽつんと並んでいる。この眺めが、多摩川の原風景となった。

 

 この堰の手前から、右岸の神奈川県川崎市側に延びているのが二ヶ領用水。「田んぼや はたけに 水が ゆくようにするため、えどじだいに つくられたんじゃよ」。堰も江戸時代からあったのか、と思うと大違い。国土交通省京浜河川事務所のウェブサイトで調べると、大正のころ、石を詰めた籠で堰を築いたのが始まりだという。流域の水利用がふえ、川底の砂利採取も盛んになって、水流を抑えなくては水を引けなくなったためらしい。

 

 この対岸は、東京都狛江市。1974年9月、台風の大水で19戸の家々が流された現場だ。山田太一原作・脚本の名作ドラマ『岸辺のアルバム』(TBS系列、1977年放映)の着想につながったとされる災害だ。京浜河川事務所のウェブサイトによれば、「激流」が「堰に妨げられ」「堤防を破壊」したことが原因だった。この反省に立って造りかえられた現在の堰は、「洪水時に流れる水を阻害しない」ための工夫が施されているという。

 

 水害後、僕はまだ学生だったが、現場に赴いた。都市住人の慎ましやかな幸せを宿していただろう戸建ての家が、川のただ中にある。僕たちはこの川に甘えるばかりで、畏怖することを忘れていたのではないか。多摩川は自らの癇癪を悔いているようにも見えた。

(執筆撮影・尾関章、通算486回、2019年8月23日公開、同日更新)

 

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NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり――ある新聞と戦争への道」

(NHK、2019年8月12日放映)

写真》戦争へ(番組表は朝日新聞2019年8月12日朝刊)

 あまりに蒸し暑いので、今回は読書を休む。本を離れて、映像作品をとりあげよう。と言っても、先日のように映画ではない(当欄2019年7月26日付「新聞記者にはもう怖くて戻れない」)。終戦記念日を前に放映されたテレビドキュメンタリーだ。

 

 NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり――ある新聞と戦争への道」(NHK、2019年8月12日初回放映)。午後10時から50分、ふだんなら眠気を催す時間帯なのにしっかりと観た。数日前のニュースで、その「ある新聞」のことを知ったからだ。

 

 NHKの公式サイトに入ると、そのニュースを読める。2019年8月9日付の記事「戦前最大の右派新聞/約10年分見つかる」。冒頭の一文を引用しよう。「昭和初期に発行され、戦前、最大の右派メディアとも呼ばれた日刊紙、『日本新聞』の紙面、およそ10年間分がほぼ完全な形で残されていたことが分かりました」。厳密に言えば、その発行期間は1925(大正14)年から35(昭和10)年にかけてだという。

 

 ニュースを聴いて「えっ、そんな新聞があったかな?」と僕は思った。大昔に「日本」を名乗る新聞があったようには思う。だが、昭和ヒトケタのきな臭い時代に「日本」を冠した「戦前最大の右派新聞」があったという知識は、もち合わせていなかった。

 

 そこでウィキペディアを開くと、放映翌日8月13日には「日本(新聞)」と題する項の冒頭に「『日本』(にっぽん)は、1889年(明治22年)2月11日から、1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞」とあった。ところが今は「その後、1925年に小川平吉の手により『日本新聞』として再創刊」と補足されている。NHK報道の影響か。(13日時点でも、後段では小川たちの「日本新聞」存続活動に言及していた)

 

 NHKの記事を読み進むと、再創刊後の「日本新聞」の知名度がいま一つの理由がわかってくる。部数は約1万6000。これは、当時としても多くない。ただ、「政官財に幅広い読者を持ち、戦前最大の右派メディアとして右派思想を広めたとされていました」とある。ちなみに朝日新聞社公式サイトの「沿革」欄には、朝日新聞の部数が1924年、創業地の大阪本社発行分だけで100万を超えたことが記録されている。

 

 実際、このNHKスペシャルを観てみると、日本新聞がマスメディアとして世論を動かしたようには思えない。むしろ少部数で先鋭な新聞の発行元が、大正デモクラシーや日本版リベラリズムの一掃で陰の仕掛け人のような役割を果たしていたことがわかる。

 

 このドキュメンタリーは、日本新聞の論調を跡づけている。そこには、右派論客の声が集約されていた。前述ウィキペディアにある「小川平吉」は、その牽引車となった政治家だ。意外なことに、リベラル派で知られる宮沢喜一元首相の祖父である。小川たちの言説は、1930年のロンドン海軍軍縮条約に対する反発、31年の満州事変や32年の五・一五事件に対する共感、35年に極まった天皇機関説に対する指弾を強める効果があった。

 

 だが、そのことよりも「怖いな」と思うのは、この新聞の周辺部にいた一人の人物の軌跡だ。NHKは今回、彼の名前や写真を開示したが、ここではあえて名を伏せよう。おそらく、彼と似たような体験をした人は全国津々浦々にいただろうと思うからだ。

 

 その青年は、長野県南部で小学校の音楽教師をしていた。大正デモクラシーの盛りあがりは、山あいの学び舎にもリベラリズムの風を届ける。彼は、音楽を通して自由な精神を教え子と分かちあおうとした。自腹を切ってピアノを買い、それを教室に置いて子どもたちにも弾かせていたらしい。このドキュメンタリーでは、芸術教育にかける思いがどれほど熱かったかが本人の肉声によって語られる。戦後になってから録音されたものらしい。

 

 ところが昭和に入ってまもなく、その前途にかげりが見えてくる。1929年に米国を襲った恐慌は日本にも及ぶ。長野県では、養蚕が打撃を受けた。芸術教育などしている場合ではない、という空気が強まる。こうして、彼は32年に小学校教師を辞めるのだ。

 

 皮肉なのは、ピアノの調べと入れ代わりに彼の心に棲みついたのが国粋主義だったことだ。日本新聞の幹部が全国を歩いて地域社会を担う若者たちに声をかけ、世に広まるリベラリズムを追い払っていたらしい。彼も、日本新聞の論調に感化されていく。このドキュメンタリーでは、かつて小学校の記念写真で子どもたちに囲まれていた青年がいつのまにか右派活動家の集合写真に収まっている現実を見せつけられる。その落差が怖い。

 

 昭和ヒトケタの変転は、僕のような戦後生まれ世代にはこの50年の移ろいと重なって見える。50年前は保守本流に宮沢元首相のようなリベラル派がいた。だが今は、ごくふつうに「リベラル=左」と言われる。座標のゼロ点が右に振れたのは戦前と同じだ。

 

 ただ、戦前と今とでは、どこかが違う。戦前の右派思想は、デモクラシーやリベラリズムを排除した後の目標を明確に思い描いていた。天皇制の国家秩序が整った社会が、それだ。そこでは自由が大きく規制される。目標実現のためならば、テロも容認した。自国民や近隣民族の諸権利を軽んじ、議会制民主主義を敵視した。人間観や世界観が一つに凝り固まっていたように見える。とても怖いが、わかりやすい運動体ではあった。

 

 その思想に対して日本新聞が担った役割は、部数1.6万の範囲内に限られていた。NHKの記事から推察すると、影響を与えたのは主に政界、官界、財界の指導層だったのだろう。裏を返せば、この新聞の存在意義は、右派論調を整理して指導層の内部で共有することにあったのではないか。その結果、指導層が右へ傾き、マスメディアがそれに靡いて、政権は軍国主義へ突き進んだのだろう。そこには、トップダウンの構図が見てとれる。

 

 では、今はどうか。右派論壇はとらえどころがない。トップダウンの統制が感じられないのだ。政権与党は右派主導だが、個々の政治家が思想本位で行動しているようには見えない。右寄りとされる新聞や雑誌も左派批判ばかりが目立ち、思想の発信母体としての存在感は乏しい。ネット右翼、即ちネトウヨには勢いがあるが、これも左派を標的とした炎上の連発にとどまっているように思う。右派の大勢は「反左派」の域を出ていないのではないか。

 

 思想の混乱もある。昨今、右派の論調は市場経済重視の新自由主義を後ろ盾に自己責任論を展開することが多い。リベラル派の弱者擁護論に与しないからだろう。ここで見落とされているのは、新自由主義は自己決定権の尊重という一点で左派のリベラリズムにも通じていることだ(当欄2018年11月23日付「朝日を嫌うリベラル新潮流」参照)。右派思想が今も「自由」を嫌うのなら、新自由主義とは手を切らなくてはならない。

 

 今回のNHKスペシャルは、戦前の先行世代が体験した「自由」の死を見せつけた。だが、「自由」の死に方はそれ一つではない。「自由」なネット発信が感情過多の炎上現象を呼び起こし、確かな思想もなしに他者の「自由」を封殺する。そんな怖さが今はある。

(執筆撮影・尾関章、通算485回、2019年8月16日公開、同月19日画像更新)

 

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『水木しげるの雨月物語』(水木しげる著、河出文庫)

写真》人の数式

 新聞の読書面で美術家の横尾忠則さんが『化物蝋燭』(木内昇著、朝日新聞出版)という本を片仮名書きで書評していた(朝日新聞2019年8月3日朝刊)。「サトウハルオガ ゼンブン、カタカナデ カイイショーセツヲ カイタ」ことに倣い、「ワタシモ コノホンガ カイダンナノデ、ショヒョーヲ コワクスルタメニ、カタカナデ カク」と宣言している。おもしろい趣向だった。だが、疑問もある。片仮名には「コワクスル」効果があるのか。

 

 僕には、横尾さんと真反対の感性がある。「幽霊が出てくる怪談は怖い」の字面は、見るからにおどろおどろしい。そこで怖くしないために「ユーレイが出てくるカイダンはコワイ」と書きたくなるのだ。とりわけ「霊」の1文字は、見ないで済むなら見たくない。

 

 なぜか。最大の理由は、「霊」が死と不可分のものとみられているからだろう。「霊」は人の心身を「心」と「身」に分けて考えたときの「心」の実体を指す。だから、「身」が死によって失われれば「心」が残る。それを「霊」と呼ぶのだ。数式で表せばこうなる。

 人=身+心、したがって、人−身=心=霊。

 そこで人は、死によって「身」を失うと「霊」として立ち現われる、という理屈だ。

 

 だが、これには唯物論者からの反撃が予想される。モノがすべてという立場で言えば、「心」も「身」が起こす現象にほかならない。死とともに「身」が朽ちれば「心」も消える――。たとえ唯物論に立たなくとも、幽霊の存在を受け入れない人は多い。「心」が「身」と別物ならば、それは「身」の死によっても消滅しない。ただ、このときに「心」は「身」とは別の空間で持続する。未練がましく、この空間にのこのこ現れるとは思えない――。

 

 そうだ、そもそも「心」の実体を言い表すならば「心」の一語で事足りるのだ。「霊」という言葉は要らない。幼いころの無邪気な「心」も、青春時代の恋多き「心」も、実社会に出てからの損得勘定まみれの「心」も、どれもこれも「霊」とは言わない。ならば、没後の「心」だけを「霊」と呼ぶのは一貫性を欠く。不祝儀袋にも「御霊前」ではなく、「御心前」と書けばよいではないか。この世界にユーレイなんているはずもないのだから。

 

 と、威勢よく啖呵を切ってみたものの、やはりなんとなくユーレイが気になる。で、今週は、江戸期半ばの文人上田秋成の筆になる『雨月物語』をとりあげてみよう。ただ僕は、古文を読むのが苦手だ。幸い、恰好の助け舟を見つけた。『水木しげるの雨月物語』(水木しげる著、河出文庫)。『雨月…』原著にある9話のうち3話を現代文の物語にして、それに合わせた挿絵をふんだんに盛り込んだ本だ。初版は1985年に出ている。

 

 著者・水木しげるは、言うまでもなく『ゲゲゲの鬼太郎』の漫画家。1922年に鳥取県境港市で生まれた。「著者あとがき」には、上田秋成を知ったのが少年時代の国語の教科書を通してであったことが書かれている。それから、『雨月…』や『春雨物語』を読むようになる。これらの作品はドロドロ感が希薄で、「美しさみたいなもの」(「美しさ」に傍点)を宿しているので虜になったという。妖怪ものの大家はドロドロが嫌いだったのだ。

 

 著者は秋成の伝記も読んだ。「本居宣長の説に反対してみたり、煎茶道なるものを始めてみたり、大切な春雨物語の原稿を井戸の中に捨ててみたり、はなはだ変り者で、逆に尊敬の念を深くした」(引用部のルビは省く、以下も)。型破りなところは著者自身にも通じる。

 

 当欄では、この本に収められた3話のうち「夢応の鯉魚」に焦点を当てよう。主人公は、近江の名刹三井寺の興義という老僧。絵心があり、「寺務の暇がある日には、琵琶湖に舟を浮かべ、漁師から買いとった魚を湖水に放し、その魚の泳ぎ回るさまを見てはそれを絵に描いた」。魚を静物とは見ず、動的にとらえようとする。眠れば夢で水中の魚とざれあい、覚めればそれを一幅の絵に仕上げる。その魚を「夢応の鯉魚」と呼んだという。

 

 興義があるとき、生死の境をさまよう。息が止まったので、周囲の人々はいったんは死んだものと思ったが、体が温かい。三日ほどして突然、目を覚ます。老僧は「何日くらい経ったのかな」と尋ね、一つ頼みごとをした。檀家である「平の助の殿」に使者を送り、進行中の宴会を打ち切って寺に来るよう伝えてくれ、というのだ。使者が殿の館に着くと、たしかに宴たけなわだった。老僧の意識は混沌としていたのに、なぜそれがわかったのか。

 

 ここで「助」とは、長官を補佐する次官を指す。寺にやって来た次官に老僧は問う。「漁師の文四に魚を注文なさいませんでしたか」。その通りだ。次官が驚くのを尻目に、さらに話を続ける。漁師が大魚を館に運び込んだこと、そのとき次官は碁を打っていたこと……これも、その通り。そして「料理人は、得意そうに魚を籠から取り出し、それをなますにしました」。見てきたような描写だ。ほんとうに見ていたのではないか。

 

 ここで老僧興義は一転、自分の体験を語り始める。発病後のことだ。「あまりの苦痛に耐えかねて、気絶してしまったのも知らず、熱気をさまそうと、杖をたよりに寺の門を出ました」。まもなくたどり着いたのは、琵琶湖畔。裸になって水に入ると「幼少の頃から、特に泳ぎが達者だった訳でもないのに、思うように泳ぎ回れました」。このとき彼は床に臥せっていたのだから、歩いたり泳いだりできるわけがない。これは間違いなく、夢だ。

 

 話はなおも続く。ひとりの老人が大魚に乗って近づいてきて、「水の神」の言葉を伝える。「老僧はかねてから放生の功徳が大きい」、そこで「金色の鯉の服を授けよう」というのだ。そのとたん、興義は自分が「金色の鱗で覆われた鯉」に一変したことに気づく。

 

 ここからがおもしろい。興義の鯉は「長等山の山おろしを受けて逆まく浪に身を浮かべ、志賀の入江の汀あたりを遊泳してみる」。あるいは「比良の高山の山影が映っている湖水の底深く潜ってみた」。でも、隠れてばかりはいられない。「堅田の漁火にしぜんと引き寄せられる」。竹生島の周りでは神社を彩る朱色の玉垣にはっとさせられたりもしたらしい。秋成は、作品のなかに読み手が喜びそうな観光スポットの情報までしのび込ませているのだ。

 

 このあとどうなったかは、ネタばらしになるので明かすのを控える。ただ、興味を覚えるのは、秋成がこの話にユーレイを登場させていないことだ。興義は臨死状態になって幽体離脱したともいえるが、離れたはずの「霊」はどこにも現れない。レイらしきものが鯉の姿で湖水を遊泳したという奇談を彼本人に語らせながらも、その確証はない。漁師が捕まえた魚はただの鯉だったかもしれないのだ。話はすべて、夢という「心」の現象に帰される。

 

 夢はなんでもありだから、人が魚になっても不思議はない。僕はここで、『超現実主義宣言』(アンドレ・ブルトン著、生田耕作訳、中公文庫)が、「夢」を「もう一つの生活」ととらえて重視していたことを思いだした(当欄2019年5月31日付「夢の話から入るブルトンのシュール」)。興義は、夢が目覚めとともに「括弧のなかに閉じ込められる」(ブルトン)という性向に抗い、その括弧を取り払って物語を解放している。

 

 こうしてみると、上田秋成は18世紀に『雨月…』を書いたが、20世紀のシュールレアリスムを先取りしていた。しかも、「夢応の鯉魚」を夢想の枠にとどめることで、唯物論とも折り合いをつけている。そこには、近代精神の芽があるように思う。

 

 ことわっておくと、この本に収められた他の2編「吉備津の釜」「蛇性の婬」はちょっと趣が違う。前者では怨霊が人の言葉を発する場面がある。後者では妖怪が人の姿となって立ち現れ、人間世界を騒がせる。作者は「霊」=「心」に「身」の肉づけをして、僕たちがいるこの実空間に出現させているのだ。考えてみれば、これこそが古来、怪談奇談の主流だったのだろう。秋成は近世の人だから、そういう作品も書いていたことになる。

 

 最後にもう一つ、「夢応の鯉魚」に残された謎を。老僧興義は、檀家の館で繰り広げられる宴の様子をなぜ言いあてられたのか。勘がよい? 偶然? でもこういうことは現実にある。現代人にとってユーレイよりも怖いのは、むしろこうした奇妙な符合ではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算484回、2019年8月9日公開)

 

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『ザ・パーフェクト―日本初の恐竜全身骨格発掘記 ハドロサウルス発見から進化の謎まで』

(土屋健著、誠文堂新光社)

写真》むかわ竜は恐竜博の売店にもいた

 夏休みなので、家族ともども太古の恐竜を見に出かけた。東京・上野の科学博物館で開催中の「恐竜博2019」(主催・国立科学博物館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社)である。館内に入る前から大行列で、暑かった。もちろん入ってからも大混雑で、展示物をつぶさに鑑賞できたわけではない。だが、居並ぶ復元骨格には圧倒された。こんな生きものが闊歩する時代に居合わせなくて、ほんとによかったと思う。

 

 この博覧会では、恐竜の研究がどのように進められていくかがよくわかる。好例は、デイノケイルス。1965年、モンゴルのゴビ砂漠で前あし部分の化石が見つかった。その長さは2.4m。入場者は、まずその複製を見せられる。これだけでも十分に迫力はある。だが圧巻は、衝立を回り込んだ次のコーナーだ。全身の骨格(全長11m)が復元され、今まさに立ちあがろうとしているではないか。どうしてこんな姿だとわかったのか。

 

 答えは、会場で配布されていた朝日新聞の「記念号外」にあった。デイノケイルスは発見後まもなく新種と判定されたが、「前あし以外の部分が見つからず、長い間『謎の恐竜』とされてきた」。ところが、2000年代に入って「ほぼ全身の骨が発見される」。さらに消化器の内容物の痕跡も出てきて、当初思われていたように肉食ではなく、魚や植物も食べる雑食性とみられるようになった。こうして体型から生態まで全容が見えてきたのだ。

 

 ここでわかるのは、古生物学では一個体の一部分が見つかっても不十分ということだ。逆に言えば、全身化石が一式掘りだされれば学術標本としての価値が格段に高まる――そんな理想に近い恐竜化石が日本国内にもある。2003年、一部が北海道穂別町(現・むかわ町穂別)で見つかり、11年に恐竜と確認されたものだ。通称「むかわ竜」。今では全身の8割余が揃った。今回は、その実物化石と複製の全身復元骨格を見ることができる。

 

 で、今週の1冊は『ザ・パーフェクト――日本初の恐竜全身骨格発掘記 ハドロサウルス発見から進化の謎まで』(土屋健著、誠文堂新光社)。副題にある「ハドロサウルス」は、恐竜の分類で「むかわ竜」が属するとみられる「科」の名前だ。著者は、略歴欄によれば埼玉県出身のサイエンスライター。大学院で地質学と古生物学を修め、科学誌『Newton』で記者や編集者を経験した後、独立したという。この本は2016年に刊行された。

 

 なお、この本には監修者もいる。北海道大学教授(刊行時は准教授)の小林快次さん、むかわ町穂別博物館館長(刊行時は学芸員)の櫻井和彦さん、同学芸員の西村智弘さんだ。

 

 では、さっそく本を開こう。「はじめに」には、2013年7月17日に穂別博物館と北大が恐竜化石の発見について報道発表した話が出てくる。「むかわ竜」のお披露目だった。このニュースが「衝撃的」だったのは尾椎骨13個が「すばらしい保存状態」で見つかり、しかも「個々の骨がつながっていた」(本文では傍点)ことだ。このときまで日本国内で見つかった恐竜化石は、たいてい「部分化石」であり、「バラバラの状態」だったという。

 

 念のために、その報道資料をネットで探しだした、見出しには「むかわ町穂別から恐竜化石を発見――ハドロサウルス科恐竜か」とある。末尾の問い合わせ先欄には、本書監修者3人の名が。発見の背景には、穂別博物館と北大の連携プレーがあったらしい。

 

 私事だが、このくだりで「あっ」と思ったのは報道発表の日付だ。同年同月の12日、僕は36年間の新聞記者生活に終止符を打った。自分の退職と入れかわりで飛び込んできた科学ニュースということになる。在職時の大半は科学記者だったので、感慨深いものがある。それだけではない。この本に綴られている日本の恐竜研究史は、僕の記者歴を意地悪くかすめているように思える。駆けだしのころにもすれ違いがあったのだ。

 

 この本によれば、日本の恐竜研究には長い空白期があった。戦前は1936年、当時日本領だったサハリン南部でニッポノサウルス・サハリネンシスが見つかったとの報告があった。「日本の恐竜化石第1号」とされる。「保存率は全身の6割」だったので、北大に全身復元骨格がある。ところが戦後は化石の発見が停滞気味で、「産出しても部分化石ばかり」という状況だった。「一つの転機となったのは、1980年代」と著者はいう。

 

 「1985年、福井県鯖江市在住の女子高校生から福井県立博物館に一つの化石が届けられた」。それは、彼女が7年前に石川県内で「手取層群」と呼ばれる地層から採取したものだった。鑑定によって、化石は「肉食恐竜の歯」とわかる。こうして北陸の手取層群が「日本最大の恐竜化石産地」となる。ちなみに僕が新人記者として福井支局に在籍したのは77〜81年。このときも僕と入れかわりに恐竜化石の発掘ラッシュが始まったのだ。

 

 では、北海道はどうか。学界では「北海道といえば、アンモナイト」が通念だという。著者は大学生や大学院生のころに道内で古生物学の調査を重ねたが、自身が探すのは貝類や花粉の化石。宿でほかの大学の仲間と語りあうときも「『恐竜化石』の話題が出たことは一度もなかった」。著者の生年は略歴欄にないが、映画「ジュラシック・パーク」第1作の公開が中学校時代だというから、この現地体験は2000年前後のことだろう。

 

 この本には、むかわ町穂別の太古の情景が描かれている。そのころ、一帯は海だった。「海底には巨大な二枚貝が生息し、アンモナイトが浮かび、クビナガリュウ類とモササウルス類、カメが泳ぐ」とある。ここに出てきたクビナガリュウ類やモササウルス類は海棲爬虫類で、恐竜ではない。恐竜は「直立歩行をしている爬虫類」で、脚のかたちも犬や猫に似ているのがふつうという。そんな陸棲爬虫類の化石が海の地層で見つかるとは考えにくかった。

 

 こんな事情もあって、「むかわ竜」の化石はそれが恐竜のものと報告されるまでに10年を要した。2003年、アマチュアの化石収集家堀田良幸さんが穂別博物館に寄贈した化石標本は、「おそらくクビナガリュウ類」とみられてお蔵入りになっていたのだ。恐竜は想定外だった。それを覆したのが、クビナガリュウ類の専門家だったというのはおもしろい。東京学芸大学准教授の佐藤たまきさんが2011年に館を訪れたときのことだ。

 

 佐藤さんがその標本を調べていて気になったのは、尾椎の下にある血導弓という骨の形状だ。クビナガリュウ類なら「ハの字」形のはずだが、この化石は違った。「たいへん残念ですが、これはクビナガリュウではありません。たぶん恐竜の骨です」。佐藤さんの「残念」は、標本が自身の研究対象外だったのだから本音だろう。だが、博物館側は違う反応をする。これを聞いた櫻井さんは「小さなガッツポーズをつくった」という。

 

 こうして北大が調査に乗りだすことになる。小林さんはハドロサウルス科の恐竜とにらんだが、すぐには決めつけない。海外の研究者から、この科に属する恐竜の尾椎の画像を取り寄せた。「それらの写真から、尾椎の幅と高さ、そして尾椎の上下にある突起の長さの比率を採り、グラフ化していく」。こうして、この科に特徴的な「一定の傾向」があることを突きとめたのだ。堀田さんの化石標本は、その傾向の枠内に収まっていた。

 

 その後の調査で、発見現場には全身の化石が埋まっている可能性が高まる。こうして最初の報道発表後の2013年9月、大がかりな発掘作業が始まった。

 

 なるほどと思ったのは、体の骨のそばで歯の化石が見つかったとき、小林さんが頭骨の存在を直感したことだ。頭は、種の判別のカギとなる重要部位だ。化石の恐竜は、現場が太古に海だったことを考えると遺骸となって流れてきたのだろう。ならば「“ひとりぼっち”のはずだ」。歯は同一個体のもので、近くには頭骨もきっとある――小林さんはそう考えた。そして実際、2014年に発見されるのである。ここには、科学者らしい推理がある。

 

 7000万年前にどんな生きものがいて、どのように生き、どう死んでいったのか。それを計測と思考によってありありと浮かびあがらせる。これぞ、科学の醍醐味ではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算483回、2019年8月2日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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映画「新聞記者」(原案・望月衣塑子、河村光庸、監督・藤井道人、制作・スターサンズ)

写真》選挙翌日(朝日新聞2019年7月22日朝刊)

 参院選前日の土曜日、映画館に出かけた。話題作「新聞記者」(原案・望月衣塑子『新聞記者』〈角川新書〉、河村光庸、監督・藤井道人)を観るためだ。今度の選挙でも何も変わらないだろう――そんな予感に風穴を穿ちたかったからである。いい映画だった。励まされもした。今回もまた、涙が込みあげた。だが、展望が開けたわけではない。新聞記者が真実に行き着いてもその真実がぼやけてしまう。そんな現実を、まざまざと見せつけられた。

 

 で、今週は思い切って本を離れ、この映画1本に絞って感想を書く。

 

 この作品が成功した最大の要因は、配役が的確で、それぞれの役づくりが巧かったことにある。なかでも主役の東都新聞社会部記者、吉岡エリカを演じるシム・ウンギョンの実在感は際立っていた。短めの髪型、ほとんど化粧っ気なし、いつも地味な服を着ている。メディア人というとニュースキャスターのような派手なイメージを思い浮かべがちだが、実際は違う。彼女ひとりの装いや振る舞いがメディアの実像を印象づけたと言えよう。

 

 シムは、ソウル生まれの女優。日本語の台詞を覚えるのは、さぞ大変だっただろう。台詞がやや硬い面はある。ただ役の吉岡も米国暮らしが長く、母が韓国人という設定なので、それは不自然ではない。むしろ、若手記者の一途さを表現する効果をもたらしている。

 

 もちろん、元新聞記者として「これは違うな」と苦笑することはあった。たとえば、記者が朝、出社してきて「おはよう」を言いあう場面。僕がいたのは、こんな礼儀正しい集団ではなかった。あるいは記者が特ダネを書いた夜、試し刷りを上司のデスクとともにしみじみと見入る場面。ふつうは、刷りを手にすれば点検作業に入る。新聞社の編集局は最終版の版を降ろすまで喧騒のさなかにある――。だが、そんな違いは些末なことだろう。

 

 ということで新聞記者の描き方としては、おおむねリアルだった。原案者の一人が東京新聞の現役記者であり、映画制作には朝日新聞も協力しているようなので、これは当然だ。

 

 では、映画の筋そのもののリアリティーはどうか。館内で買った小冊子には「『リアル』を撃ち抜く衝撃の『フィクション』」とある。作中には、こんなことがあるのかなと首をかしげる話がある。そんなことはまさかあるまい、という筋立てもある。だから、「フィクション」には違いない。ただ、似たようなことがあっても全然おかしくないとは思われる。現実ではないが真に迫る。これが「『リアル』を撃ち抜く」ということなのだろう。

 

 まさかこんな不気味な部屋はないだろうと思われるのは、内閣情報調査室(内調)のオペレーションルームだ。暗い密室にコンピューター端末が何列も並んでいる。画面に向きあってキーを叩く人々は、ただのオペレーターではなさそうだ。中央官庁からの出向組を含むエリート官僚たちと推察される。ではいったい、彼らは何にいそしんでいるのか。映画のカメラを通して端末画面をちらっとのぞき見たとき、小さな驚きに襲われる。

 

 どうやら、ソーシャルメディアの発信をリアルタイムで追いかけているらしい。一瞬戸惑うが、これは現実にあっても不思議ではない。今、「世論」をあるがままにとらえようとすれば、どうしてもソーシャルメディアに行き着く。新聞を読めば事足りる時代はとうの昔に終わったのだ。もちろん、ネット愛用者には年齢層などで偏りがあるから、その総和を見ても世論とは言えない。それでも適切な補正を施せば、正解に近づくはずだ。

 

 このネット閲覧は不当とは言いにくい。井戸端会議や床屋政談の類いがいきなり官憲の耳に届くことになぞらえれば恐ろしいが、これは盗聴ではないのだ。書き込む側は全世界に向けて発信しているのだから、読み手のなかに政権中枢の人がいても拒めない。

 

 問題は、ここから先の話だ。この映画では、内調の部内で「拡散」という言葉が飛び交う。ここから読みとれるのは、エリート官僚たちはオペレーションルームの画面で「つぶやき」に目を通すだけでなく、自身もそれを広めることに関与しているらしいということだ。世論監視という受動域にとどまらず、世論操作という能動域に踏み込んでいるのではないか。自嘲気味のせりふもあるから、上からの指示でやらされているのだろう。

 

 この情景を見て、日本の現実はまだここまでは来ていないだろうと僕は思った。ただ映画冒頭に、男性の元高級官僚と女性の野党議員の不倫話が各紙一斉に報道され、政権中枢の「リーク」が疑われる場面がある。これと同じではないが、似たような出来事は実際にもあった。ソーシャルメディア、週刊誌、テレビの情報番組……。これらに醜聞の種を撒き、それを炎上させるという組織的な操作はそんなには難しくないだろう。

 

 いや、政権中枢が露骨な「拡散」や「リーク」に手を染めなくとも、ソーシャルメディアの「つぶやき」の流れをつぶさに分析すれば、そのクセもわかってくる。政権が報道発表の日程を、スポーツ界や芸能界の動向、あるいは動物園の話題などを考慮に入れながら決めていけば、好都合な炎上にアクセルを入れ、不都合な炎上にブレーキをかけることも可能だ。この映画は、現代社会が情報操作のリスクに満ちていることに気づかせてくれる。

 

 この映画では、もう一人の主役、外務省出身の内調官僚杉原拓海(松坂桃李)と、上司の内閣参事官多田智也(田中哲司)のやりとりからも目が離せない。多田は、政権にとって好ましくないことを言う人物が裏で野党と通じているように見える人脈図をつくれ、などと無理難題を吹っ掛ける。杉原は内心で抗いながらも、とりあえずは唯々諾々と従う。堪忍袋の緒は切れるのか、切れるとしたらいつどのようにしてか。それが見どころだ。

 

 杉原対多田の対峙でもっとも印象的なのは、多田が杉原に第一子出産祝いの祝儀袋を押しつける場面。汚い仕事をさせておいて現金を渡すのだから、もらう側の気持ちは複雑だろう。外部の人間からならば贈収賄の構図になる。だが、相手は直属の上司だ。受けとらなければ礼を失することにもなろう。妻も、そして生まれたばかりの子どもも、家族の未来はすべて自分の手中にあると言わんばかりの威圧感が、多田の態度には表れている。

 

 さて、この映画でもっとも怖いと感じたのは、冒頭の段落に書いたように「真実がぼやけてしまう」現実だ。映画でも、それを示唆するひとことを多田が杉原に言い放っている。「嘘か本当かを決めるのはお前じゃない、国民だ」。事の真偽は問わない、人々がどう思うかが問題だ、ということか。米国でドナルド・トランプ政権が誕生したときの「代替の事実」を思いだす(当欄2017年2月24日付「恩田陸Q&Aで考える代替の事実」)。

 

 映画の筋を後半までたどるのは、ネタばらしになるのでできない。ただ、これだけは言っておこう。吉岡記者が特ダネにつながる書きものの物証――新聞記者はこれを「紙(かみ)」と呼ぶ――を手にしたときのことだ。ひと昔前の映画なら、この瞬間に観客は内心で拍手を送ったことだろう。だが、今回は違った。ここまできても、どんでん返しの不安が僕の頭から離れなかったのだ。新聞記者は「紙」を絶対視してきたが、今はそれも通じない。

 

 それはそうだろう。今、日本の官僚社会では「紙」はかんたんに書きかえられる。捨てられることもある。無効化されることだってある。真実はどうとでもなるのだ。もはやもう、新聞記者には怖くて戻れないな。心配性の僕は、つくづくそう思うのだった。

(執筆撮影・尾関章、通算482回、2019年7月26日公開)

 

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『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)

写真》何キロか何日か

 科学記者を数十年間つづけてきて、いつのまにか身につけたのは「科学は万人のもの」という信念だ。ただ、それはそうあるべきだと考えているだけで、実際にそうであるとは言えない。科学をちょっとでもかじった人ならば、万人が科学に手を出すことがどれほどの難事業かはすぐわかる。数式をみても意味がわからない。実験を始めようにもどこから手をつけたらよいか見当がつかない。結局は「科学は専門家のもの」ということになってしまう。

 

 それでも「科学は万人のもの」を持論とするのは、そうでなければ基礎科学は持続できないと考えるからだ。応用科学は目先の利益に直結するから、投資を呼び込みやすい。これに対して基礎科学はすぐには役立たないから、公費で賄うしかない。ところが僕が科学記者になった1980年代くらいから、基礎科学は巨大化の傾向を強めてきた。今では数百億円、数千億円規模の実験装置が少なくない。だから、納税者の納得なしには先へ進めない。

 

 いわば基礎科学の必要条件として出てきたのが、「科学は万人のもの」という発想だ。もし、科学という知的営みに大勢の人が参加できるのであれば、それを税金で支えようという機運も起こってくる。こうしてみると「科学は万人のもの」は基礎科学の生命線なのだ。

 

 では、「科学は万人のもの」のイメージはどんなものか。真っ先に思い浮かぶ見本は、スポーツだ。それは、科学が専門家に囲い込まれるほどには選手だけのものとなっていない。これは、スポーツには取り巻きのファン層があり、選手たちを応援しているからでもある。さらに草サッカーや草野球に興じたり、市民マラソンに出場したりして、自分自身でスポーツを体感する人もいる。科学にも、こうした回路をつくれないものだろうか。

 

 実は、それが難しいのだ。科学界を見渡すと、アマチュアに活躍の余地がある分野がないわけではない。昆虫の新種を見つけたり、古生物の化石を掘りだしたり、新しい天体を発見したり。博物学的な収集活動で貢献しているのだ。ところが、研究の本筋――たとえば法則を探りあてることや理論を組みあげること――に目を向けると、科学者の独擅場となる。このことが、科学のアマチュアに疎外感を生みだしているように思われる。

 

 おもしろいのは、文系の学問のほうが「万人のもの」に近いことだ。一例は、古代史の邪馬台国論争である。国の在り処をめぐる畿内説と九州説の対立だが、ここにアマチュアも加わっている。もちろん、論陣を張るのは学者たちだ。アマチュアは解説書を読み、どちらか一方への支持を表明するくらい。だが、その肩入れは半端ではない。当事者意識をもって自己主張している風がある。そこには学問そのものへの参加意識が見てとれる。

 

 で、今週の1冊は、先週に続いて松本清張著『駅路――傑作短編集(六)』(新潮文庫)。と言っても、同じ所収作品について改めて、あれこれ書くつもりはない。このあいだは触れなかった一編、「陸行水行」に焦点を絞る。邪馬台国論争を主題とする短編小説である。

 

 今回、この小説を切りだすことにしたのは、それがアマチュアと学問の関係を考える一助になるからだけではない。巻末に収められた文芸評論家平野謙の一文に誘われたこともある。短編集全体の「解説」なのに、紙幅の大半を「陸行…」礼讃に費やしている。その解説によると、この作品は1962〜63年のものらしいが、それに先立つ55年ごろ、著者のノートに「『邪馬台国考』事件」「これはまだ捨てぬ」という書きつけがあるという。

 

 1955年と言えば、著者はすでに芥川賞作家ではあったが、勤め先の朝日新聞社をまだ辞めていない。「著者は職業作家として世に立つ決意にまで踏みきる以前から、ひとりのアマチュアとして邪馬台国論争を自分なりにコツコツ調べあげ、独自の意見を抱いていたかもしれない」と、平野は推察する。「陸行…」にはアマチュアの史家が登場するが、著者も似たような立場にあったのだ。アマチュア視点の学問論が、ここには埋め込まれている。

 

 本文に入ろう。作品冒頭の舞台は、大分県の安心院(あじむ)という田舎町。宇佐神宮に近い宇佐駅から鉄道とバスを乗り継いでたどり着く盆地にある。山裾に向かってとぼとぼ歩くのは「私」、川田修一。「東京の某大学の歴史科の万年講師」だ。「宇佐という一つの古代国家が曾つてこの地域に存在していたであろう」とみて実地調査をしている。宇佐は「日本古代史の中で一つのアナ」らしい。だから、研究者の野心をそそるのである。

 

 「私」が坂を登って神社に向かうと、「粗末な木で囲った垣の中に古い石が一個ぽつんと置かれてあった」。それがご神体。自然物を崇める古代信仰だ。一服しながら宇佐勢力圏のことなどを考えていると、坂の下に足音がする。30代半ばの長身の男。くたびれた装いに履きふるした靴。手帳と鉛筆をとりだして石のスケッチに余念がない。「もしかすると、九州のどこかの高校教師か郷土史家かもしれないと私はひそかに踏んだ」

 

 ここで二人は会話を交わす。「私」が名刺も差しだすと、男は「俄(にわ)かに敬意を表したように軽く頭を下げた」。肩書の「東京」や「大学」の威力か。一方、男の名刺には「愛媛県温泉郡吉野(よしの)村役場書記 浜中浩三」とある。「私」の読みはそんなに的外れではなかったが、四国在住とは。八幡浜から別府まで船で渡って来たのだという。これが、学界非主流の古代史学者と地方のアマチュア史家との出会いだった。

 

 「私」が「この辺の史蹟調査にでも」と尋ねると、浜中は「いや、私のような素人(しろうと)は、とても史蹟調査などといったような大それたことはできません」「歴史の基礎知識はございませんから」と答える。アマチュアのへりくだりの一典型である。

 

 話題はやがて、邪馬台国論争になる。浜中がもちだすのは、中国の史書「魏志倭人伝」に記された朝鮮半島から邪馬台国に至る旅程だ。これこそが論争の焦点でもある。「不弥(ふみ)国」と呼ばれる地点までは「…里」という里程で表されているのに、そこから先は「水行二十日」「陸行一月」のように日数月数の表記であることに浜中は注目する。「つまり中国の使者は里程をしるした所だけ歩いたのです。日数のほうは想像だと思うんですよ」

 

 これに「私」は「新説ですね」と応じる。ただの外交辞令ではない。着眼の新しさに心底「感心した」のである。「人が実際に自分で歩く場合は距離感を実感として受けとる」のに対し、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」。その違いに気づいたことを多とするのだ。

 

 浜中のほうは「先生」が興味を示してくれたことがうれしい様子で、学界批判を始める。「魏志…」の「解釈の混乱」についてこう言う。「各人各説で面白いのですが、どの学者も自分に都合の悪い点は『魏志』の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています」。ありそうな話だ。学者はいったん学説を立てると、それを守ろうとしてご都合主義の理屈づけに走りがちだ。これは自らの地位を保全する行為でもある。

 

 苦笑するのは、アマチュアにも同様の嫌いがあることを著者が皮肉っている点だ。浜中は、「不弥国」の「不弥」はアヅミであり、それがアジム(安心院)に訛ったとにらむ。中国人はアヅミをハヅミと聞きとり、ハには同じハ行の「不」の字を当て、ミは「弥」としたというのだ。「中のヅはどうなりますか?」と「私」が問うと、「写すときにうっかりとヅの漢字を脱かしたのだと思います」。誤写をもちだすことへの批判がブーメランで戻ってくる。

 

 考えてみれば、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」というのも、ちょっと強引だ。浜中の理屈では、日数表現は具体性がないから他人から聞いた話だろうというのだが、自分自身で旅したからこそ何日かかったかを言いたくなるということもあるはずだ。

 

 小説を先へ読み進むと、浜中が胡散臭い人物だとわかる。だが、隔たりの表し方に意味を見ようとした着眼は大したものだ。それを謙虚に受けとめた「私」の度量も認めたい。この一件では、アマチュアと学者が対等な関係にあるように僕には思える。

 

 アマチュアの着眼が科学者を唸らせる。理系でも、そんなことがあってよい。

(執筆撮影・尾関章、通算481回、2019年7月19日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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