『三一新書の時代――出版人に聞く16』(井家上隆幸著、論創社)

写真》左は三一新書、これも風俗左翼路線?

 世の中、どうしてこんなにも一色に染まってしまったのだろう。たとえば、2年後の東京五輪パラリンピック。この開催に異論を唱える人はきわめて少数派だ。では、僕が若かった1970年前後はどうだったか。大阪万博がお祭り騒ぎになっても、若者の間には相反感情があった。高度成長の恩恵に浴しながら、産業経済優先の既存体制に反感を募らせていたのだ。バンパクなんて知らないよ。僕は、そう思って見物に行かなかった。

 

 半世紀後の現在から眺めれば、若者たちは左翼にかぶれていた、というひとことで片づけられてしまうかもしれない。だが、それはちょっと違う。僕のように学生運動とは無縁で、革命の必要を感じず、自分はまぎれなく中産階級の子であると開き直っていた者であっても、体制に反発していたのだ。反体制の心情は文化の隅々にまで浸透していた。映画しかり、音楽しかり、文学しかり。それは、政治とは別次元にあったと言ってよい。

 

 反体制の中心には、たしかに左翼の集団があった。だが、それは既成のマルキシズム政党でも、社会民主主義政党でもない。新左翼と呼ばれる一群の党派とそれに属さないノンセクト・ラジカルの若者たちだった。新左翼の特徴をひとくくりにはできないが、一つ言えるのは、そこでは党派的な統制を求めるベクトルと、反体制ゆえに管理を嫌うベクトルが交ざりあっていたことだ。後者が、当時の若者に共感を呼び起こしたのである。

 

 たとえば、本屋に入ったときのことを思い起こしてみよう。若者は豊かではないから、文庫・新書のコーナーに群がったものだ。あのころ、文庫銘柄の老舗格は岩波、新潮、角川の御三家。新書では岩波、中公、現代がまず目についたが、それに挑むように異彩を放つ銘柄もあった。その筆頭が三一新書か。たいていの大手書店では書棚の一角を占めていたように思う。背表紙の書名に過激な言葉が並び、反体制シンパの若者には輝いて見えた。

 

 で、今週は『三一新書の時代――出版人に聞く16』(井家上隆幸著、論創社)。著者は1934年に岡山県で生まれ、今年1月に死去した。略歴欄には、三一書房に58年に入社、73年に退社したとある。三一新書は同社が55年に創刊したので、その草創期から隆盛期までつくり手の側にいたことになる。退社後は日刊ゲンダイの創刊にもかかわったようだが、その後、フリーライターとして活躍し、書評本などを出してきた。

 

 この本を選んだのは、著者の訃報に接したからだ。井家上さんは、僕にとってまったく縁なき人ではない。地元のジャズバーで、ときどき見かける常連客の一人だった。店主から高名な書評家と聞いた。ただ酒場の空気を壊したくなかったので、敬して近づかなかった。その後、店主が逝き、店は閉じられて、お目にかかる機会はなくなった。薫陶を受けておけばよかったなあと今にして思う。その悔いがあって通販で本を取り寄せたのだ。

 

 この本は、全編にわたってインタビューの形式をとっている。聞き手を務め、文章を構成したのは、評論家の小田光雄という人だ。小田さんは、ネットで調べると僕と同年の1951年生まれ。井家上さんを先達として敬いながら、その個人史や出版人としての秘話を引きだしていく。世代の距離感が同じせいか、自分がインタビューしているような錯覚に陥ることもある。ところどころに適切な補足説明を織り込んでくれているのがありがたい。

 

 著者――井家上さん――が三一書房に入ったいきさつは時代を感じさせる。大学時代、左翼運動に没頭していて就職の道が狭められた。浪人後、「新聞社に引っ掛かったと思ったら、健康診断で結核が見つかり、療養所に入るはめになった」。それで、三一に応募。試験は「一番だった」が、新卒でないことを理由に減点される。幸い上位合格者が別の出版社を選んだため、「繰り上げ採用」になったという。左翼が強く、肺病は脅威だった。

 

 さらなる幸運は、その就職先が上昇気流に乗っていたことだ。五味川純平の小説『人間の條件』が三一新書から出され、1956〜58年に全6冊が完結。これが100万部の大台に乗った。著者の入社前のことらしいが「ボーナスが十カ月出たようです」。新人時代の60年代初めには東京・お茶の水に新社屋が建って「『五味川ビル』といわれた」。京都の本社と「飯田橋駅のそばの木造二階家」にある東京出張所が、ここに集まったのである。

 

 ちなみに著者は社員になる前から三一新書に親しんでいたらしい。新書創刊第1号は『経済学教科書の学び方』(宮川実、岡本博之、井上清著、関西勤労者教育協会編)。これは当時、既成左翼の学習運動で用いられていた『経済学教科書』(ソヴィエット同盟科学アカデミー経済研究所著、マルクス・レーニン主義普及協会訳、合同出版)の解説本の役目を果たした。著者も、学習運動で開かれる読書会の「チューター」(講師)に就いていた、という。

 

 1950年代半ば、日本の出版界には左翼運動が深く食い込んでいた。しかも、そのころは既成左翼が若者たちの闘争を引っ張る牽引車だったので、三一新書もそれに応える刊行物から出発したのである。それが、どのようにして軌道を変えていったのか。

 

 ここで出てくるのが「風俗左翼路線」という言葉だ。著者とは同窓の先輩編集者がめざしていたもので、著者自身もそれに同調した。三一新書が創刊後しばらく定番としてきた「ソ連や中国物、あるいは共産党系の左翼出版」とは一線を画して「反アカデミズム、反啓蒙主義をコアとする思想とカウンターカルチャーの回路」を探し求めるものだったという。これこそが社会主義に囚われない反体制の文化であり、「三一」の輝きだったと言えよう。

 

 この新路線は当時、久保書店から出ていたハードボイルド専門誌「マンハント」に強く影響を受けたという。米国小説の翻訳を載せる雑誌で、田中小実昌、都筑道夫、荻昌弘ら多彩な翻訳陣を擁していた。この人脈の一部は、三一新書の執筆陣に加わっていく。たとえば、田中の本は『かぶりつき人生』。書名はストリップに由来する。三一の編集長は「左翼だけれど、風俗はきらいではなかったし、そういうことには鷹揚だった」とある。

 

 著者が「愛着のある一冊」と懐かしむ新書は、1964年に出した『ゴシップ10年史』(内外タイムス文化部編)。今は懐かしい大衆娯楽紙の記者たちが筆を振るったようだ。

 

 『ゴシップ…』のカバー袖には、編集者自身――井家上さん――の手になる一文が刷られた。ゴシップは、書く側も書かれる側も読む側も「おたがいに他を卑しめあうばかりか、自分も卑しめる」が、「そこには、量的にはすさまじく厖大なエネルギーがついやされている」。だから、その一つひとつが「それぞれの時代の様相を反映している」というのである。昨今の醜聞報道とは違って、木だけでなく森も眺めようとする余裕が感じられる。

 

 へえーっと驚いたのは、当欄に幾度も登場してきた作家片岡義男が三一新書の書き手だったということだ。「テディ片岡」の筆名で、『C調英語教室』『味のある英会話』という英語本を出したという。僕は当欄の前身で『日本語と英語 その違いを楽しむ』(片岡義男著、NHK出版新書)をとりあげたことがあるが(文理悠々2012年11月19日付「片岡義男に教わる英語っぽい英語」)、その源流も「三一」にあったらしい。

 

 これを見てもわかるように、三一新書は新分野に乗りだすことをためらわなかった。消費者問題の本がある。映画書もある。小説も『人間の條件』にとどまらず、次々に出していく。著者は、この貪欲さを当時の新書編集者の心理によって説明づける。そこには「岩波新書に対抗し、どのように自社のオリジナリティを確立するか」という一念があったという。こうして旧来の左翼出版の硬さを脱ぎ捨てたことが、時代の空気に適合したのである。

 

 そして三一新書が1960年代末に行き着いたのが、学生運動をとりあげた新左翼本の相次ぐ刊行。新旧が代っただけの左翼回帰とも言える。「その時は売れたけれど、結局は三一新書の読者層を細らせ、限定的にした」と著者は顧みる。きわめて冷静な自己分析だ。

 

 あのころの反体制は左翼の枠に収まらなかった。だから、管理に抗する反骨心こそ持続させるべきではなかったか。井家上さんが遺した言葉からそんなことを思う。

(執筆撮影・尾関章、通算408回)

 

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『「平成」論』(鈴木洋仁著、青弓社ライブラリー)

写真》元号と西暦(朝日新聞欄外、拡大コピー)

 メディアで今にわかに高まっているのが平成回顧熱だ。一つの時代がまだ幕を下ろしてもいないのに先回りして振り返る。そんな企画が出てくるのも、閉幕の日取りがあらかじめ決められているからだろう。天皇の退位に伴う改元ならではの現象といえる。

 

 ここでは、朝日新聞のシリーズ企画「平成とは」がとりあげた話題を拾ってみよう。災厄は大震災。「阪神・淡路」の記憶が薄れぬうちに「東日本」が起こった。朗報は、日本人科学者のノーベル賞が相次いだことか。昭和期に理系3賞を贈られた人はわずか5人、これに対して2000年以降は2年に1度の割で受賞のニュースがある。地震は自然現象、賞は過去の業績に対する称賛。平成に集中する必然はないはずだが、なぜかこうなった。

 

 「心のケア」も話題に選ばれている。これについては僕にも感慨がある。1994(平成6)年、バルト海のフェリー沈没事故を取材してストックホルムから原稿を送ったときのことだ。現地では行方不明者の家族の心をどう支えるかに関心が集まっていたので、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のことにも触れた。東京の出稿責任者は「心的外傷って、わかりにくいなあ」。今、その難解な医学用語が日常会話にも出てくるようになっている。

 

 「心のケア」は、平成を象徴しているのではないかと僕は思う。この30年、日本社会には心の危機が波のように押し寄せた。まずは、前述の震災がそうだ。家屋の倒壊や火災、津波や原発事故によって生活の一切を喪失した人は多い。バブル経済の崩壊もあった。大企業でさえ経営が行き詰まり、終身雇用の人生設計が泡と消えた人がいる。非正規労働力の切り売りで食いつなぐ若者もいる。心がケアされるべき立場に追い込まれた人は数限りない。

 

 皮肉にも、医療が患者の心を苛むという逆説も見えてきた。日本の医療現場では1990年代、対話型の診療が広まった。インフォームド・コンセント(説明されたうえでの同意)が必須要件となったのは良いことだが、病名があっさりと告知され、患者は自らの病状や治療後の見通しを知る怖さに向きあうことを余儀なくされている。遺伝子診断の広まりとともに、この様相はますます強まることになろう。だが、心のケアが十分とは言えない。

 

 平成に入ると、安全や安定の神話が崩れて人々は途方に暮れた。なにごとも専門家任せにできない、自分のことは自分で引き受けなくてはならない――そんな圧力も強まってきた。こうしたなかで心のケアの必要に気づいたのが、この時代ではなかったか。

 

 で、今週は『「平成」論』(鈴木洋仁著、青弓社ライブラリー)。著者は、1980年生まれの社会学学究。略歴欄や本文の記述によると、京都大学を出て関西テレビやニコニコ動画で働き、東京大学大学院に入った。この本は、その大半が書き下ろしだが、土台となったのは修士論文「元号の歴史社会学」だという。そんな経緯からか基調は硬い筆致。だが、そこに適度のシャバッ気が混ざるのは、著者自身の軌跡が反映されているからだろう。

 

 著者は生年からみて、10歳になった時点ですでに昭和が幕を閉じていた。社会人としての物心がついてからは、ずっと平成の空気を吸ってきたと言ってよい。いわば、平成人の平成論。それが僕の興味をそそったのだ。そこには、僕らの世代とは異なる視点があるだろう。僕たちは個人史に占める昭和平成比がほぼ半々なので、昭和と見比べて平成を論じがちだ。だが著者は、平成の内側にいて平成を眺めている。見え方が違っていて不思議はない。

 

 その表れのようにも感じるのは、著者が序章でうたいあげる「天皇そのものや、それにまつわる事柄については『論じない』」という宣言だ。この本を著すにあたって自身に課した「ルール」だという。元号と天皇は密接な関係にある。しかも、ここ二代の天皇の行動様式には明らかな相違がある。この対比も平成という時代区分を特徴づける一要素になっているのではないか、などと僕は思ってしまう。著者はなぜ、そこを避けて通るのか。

 

 理由の一つとして挙げられるのは、元号を使う人と西暦にこだわる人を区分けする論法の落とし穴だ。著者によれば、元号派を「偏狭なナショナリスト」、西暦派なら「国際的なポストモダニスト」とみる二分法は「議論の視野の狭さを示している」という。ここでひとこと言いたくなるのは、後者はむしろ「国際的なモダニスト」としたほうが、僕たちの世代にはピンとくるということだ。左翼党派のビラの日付は西暦と決まっていた。

 

 あとがきには、よりあっさりと理由が書かれている。「日本の知識人の多くが天皇を嬉々として論じる姿にも、端的に興味が持てない。天皇を『あえて』避けたというよりも、『平成』をフラットに論じているなかで、言及する必要を感じなかったというのが本音だ」

 

 なるほど。これこそが平成を内側からみるということなのかもしれない。思えば、昭和という時代には天皇制がしみついていた。戦前と戦後を比べて論じるときに、この問題は避けて通れなかった。さらに知識人の思想的な立ち位置を知るにも、天皇制をどうみるかが物差しの一つになっていた。そういう条件がフェイドアウトしたのが平成だ。一時代前の思考に引きずられると「フラット」な考察が邪魔されるのは間違いないだろう。

 

 この本で僕が興味深く読めたのは、「『平成時代のニュース』」と題した第4章。著者のテレビ局時代の取材体験が率直に綴られている。たとえば、水害の被災者からなじられた話。「自分らは、ちょっと来て、すぐ帰るから、今日明日取材ができればええんやろ」(ここで「自分ら」は二人称)と言われたという。片づけの手伝いを申し出ればよかったのかと自問しつつ、「ぶりっ子を演じたところで、何の解決にもならない」と書く。

 

 もう一つ例に挙がるのは、2005年のJR福知山線(宝塚線)列車脱線事故。著者の仕事は、負傷者の話を聞いて回ることだった。上司からは「JRへの怒りの声を引き出せと指示された」が、取材に応じた人々が気に病むのは同乗の100余人が犠牲になったことであり、伝わってくるのは「なぜ自分たちは生き延びてしまったのかという罪悪感ばかりだった」。被害者の様子からは、憤りとは異なる苦悩が感じとれたというのである。

 

 著者はこれらの経験を踏まえて、メディアの報道に「当事者でないからこそ声高に叫ばれる追及」を見いだす。そこには「被害者は絶対的に正しく、加害者は徹底的に間違っている」という「信仰」がある、とみてとる。こうした論調を、この本では「責任と正義」と呼ぶ。正義を振りかざした責任追及ということだろうか。これが「跋扈」するからニュースがツマラナイ――この状況こそが「平成的」というのが著者の分析である。

 

 この章には「『昭和』であれば問題にならなかったばかりか、そもそも発覚さえしなかったことが、『責任と正義』に則ってどんどん透明になり公表されていく」という一文もある。なにかといえば「隠蔽」と決めつける世相こそが平成的ではないか、と僕も思う。本来、「『昭和』であれば……」の検証は僕たちの世代が引き受けなければならないのだ。それを、昭和をほとんど知らない世代に指摘されてしまったことは、ちょっと情ない。

 

 第5章「『平成批評』の諸問題」も示唆に富む。著者が強調するのは、平成の批評が通販サイトのレビュー欄に似ていることだ。発信元がはっきりしないこともあるが、「ツッコミ」は満載。「堅苦しさ」は消えて「そこはかとない浅はかさか」が漂うようになった、という。「専門を極めた人」が「他の分野」を語るのは却って好まれるらしい。美術番組を司会する脳科学者、社会事件にコメントする元陸上選手という例示を突きつけられて納得する。

 

 この本は「平成論」としてはわかりにくい。上記のように平成という時代の様相を浮かびあがらせながら、終章で「本書では『平成的』あるいは『平成らしさ』のようなものが『ない』と、延々と述べてきた」と手のひらを返す。読むほうには梯子を外された感もある。

 

 ただ、僕らにとって平成らしさの有無は大問題ではない。この30年で世の中がどう変わったかが知りたいだけだ。そう思うと「責任と正義」の過剰は気になる。これもまた渦中の人々を追い込み、心のケアが必要な人をふやしているように思えてならないからだ。

(執筆撮影・尾関章、通算407回)

 

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『ロウソクの科学』(マイケル・ファラデー著、竹内敬人訳、岩波文庫)

写真》キャンドル

 もう四半世紀も前になるが、英国ロンドンに赴任する直前、あわてて買い込んだものがある。いわゆるブラックタイ、タキシード一式である。「ヨーロッパにいると、着用を求められることがある。僕はレンタルで済ませたけどね」。先輩からそんな助言をもらって、だったら自前を用意しておこうと思いたったのだ。こういう話は、往々にして取り越し苦労に終わる。だが、ブラックタイに限っては日の目を見る機会が一度ならずあった。

 

 ここで言えるのは、英国社会にはドレスコードと呼ばれる服装の決まりごとがしっかり根を下ろしていることだ。しかも英国人は、それを苦もなく受け入れているように見えた。冬の宵にロンドンの地下鉄に乗ると、男性客のカストロコートの胸元からブラックタイがのぞいていたりする。よそゆきに身を包んだものの、外は冷えるから日用の防寒着を羽織ったという感じだ。どこへ出かけるのかはわからないが、肩の力は抜けている。

 

 僕自身がタキシードを着たのは、王立研究所の行事を取材したときである。この研究所は18世紀末から、英国学界が自然探究の醍醐味を世間に発信する拠点となっている。たとえば、当欄「ドーキンスで気づく近代進化論の妙」(2017年9月15日付)で紹介した『進化とは何か――ドーキンス博士の特別講義』(リチャード・ドーキンス著、吉成真由美編・訳、ハヤカワ文庫NF)の「特別講義」も、ここであった少年少女向けの講演だった。

 

 僕にとっては、外村彰さんが登壇した「金曜講話」が忘れがたい。1994年のことだ。外村さんは日立製作所の研究者。2012年に逝去したが、量子物理実験の第一人者である。講話の最大の目玉は、電子を一つずつ飛ばしたときに何が起こるかを検証した実験映像だった。そこで見えてきたのは、電子が粒子であると同時に波でもある、という量子力学の核心だ。僕のそばでもブラックタイの紳士が思わずとつぶやいた。「ナイスッ」。

 

 驚いたのは、講話が挨拶抜きに始まったことだ。科学者にとっては至上の晴れ舞台。冒頭に「本日は伝統ある研究所でお話しできる機会をいただいて、光栄の極みです」といった決まり文句があるだろうと思っていたが、外村さんはいきなり本題に入った。芝居の幕が開いたとき、役者は挨拶しないでしょう――そんな説明を講話の責任者から聞いた。王立研究所はロンドンの劇場街ウェストエンドに近い。ここでは科学者も役者になり切っている。

 

 科学を見せる行為も芝居やミュージカルと同列にある。文化の一部だから、ドレスコードに縛られることがあってもいい――人々の間にそんな感覚が行き渡っているのだろうか。そういえば、ここのクロークにも普段づかいの防寒着が並んでいた。

 

 で、今週は科学書の古典ともいえる『ロウソクの科学』(マイケル・ファラデー著、竹内敬人訳、岩波文庫)。著者(1791〜1867)は、電磁誘導の発見で知られる英国の科学者。今日の電磁気学の礎を築いた人と言ってよい。この本は、1860〜61年のクリスマス休暇に王立研究所で開かれた連続講演「ロウソクの化学史」をまとめたものだ。少年少女向けだが、大人も聴いていたらしい。この文庫版は2010年に新訳で出た。

 

 まずは著者の横顔から。巻末の訳者執筆「ファラデー 人と生涯」によると、ロンドン近郊サリー州の鍛冶屋の家に生まれ、市内に移って書店や製本工場で働くようになった。仕事柄、理系書にも触れて化学や電気に知的関心を抱く。王立研究所の公開講演を聴いたことで、それは強まった。運よく、その研究所の実験助手となり、ついには所長にまで昇り詰める――英国の階級社会にあって独力で研究者の道を拓き、成功を極めた人と言えよう。

 

 著者の生い立ちは、19世紀の科学史と表裏一体の関係にあるように僕は思う。前述「…人と生涯」によれば、「何と言っても彼は正規の高等教育を受けておらず、また科学者として必要な外国語の素養もなかった」。これは不利に違いないが、一方で、理系の研究が自然哲学と呼ばれた時代の学風に縛られないことを意味する。実験器材をガチャガチャ操る職人技が新発見の原動力になったのだ。この本は、そんな時代の到来を告げている。

 

 『職業としての科学』(佐藤文隆著、岩波新書)という本によると、英国では1830年代に「科学という職業の実現を目標に掲げた運動団体」が動きだす。「科学者」という呼び名が広まるのは「科学の担い手が巨匠から中産階級の職業に変わる、十九世紀末」だった(文理悠々2011年6月23日付「『科学者』を再デザインする」)。『ロウソク…』は、その過渡期にある。本文に出てくる「自然哲学」は原則「科学」と訳した、と訳注にある。

 

 この連続講演で「哲学」離れを感じさせるのは、モノへのこだわりの強さだ。第1講では、鯨油ロウソクや、ミツバチの蜜を原料とする蜜ロウなどが紹介される。「私たちが開国をうながした、はるか遠くの異国、日本からもたらされた物質」も登場する。訳注によれば、この物質は、ハゼノキやウルシなどの実からつくった「和ロウ」を指しているようだ。世はヴィクトリア朝、大英帝国全盛のころだからロンドンには世界中のモノが集まっていた。

 

 実際、19世紀科学は知的好奇心を先ずモノに向けていた。「…人と生涯」には、その分野で王立研究所の功績が大だったことが書かれている。著者の前任の所長ハンフリー・デイヴィーは、1807〜08年だけでカリウム、ナトリウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムなどの元素を単体で分離したという。「化学」の発展がこれを可能にしたのだ。講演原題がロウソクの科学史ではなく「化学史」だったのも頷ける。

 

 著者は講演で、ロウソクの燃える成分が水素と炭素であることを明らかにしていく。まずは、水素について。このときの見せ場は、水の電気分解だ。水に電極を突っ込んだときに発生する水素と酸素を個別に集めると、その重さの比は1:8。きれいな整数比になった。この一例からもわかるのは、19世紀のモノ探究がただの元素収集ではなかったことだ。同時代に飛躍した電磁気学に助けられて、定量分析の域にまで進んでいたのである。

 

 ここで思うのは、原子論との関係だ。今の僕たちは、Hの原子量が1なのでH₂は2(*)、Oの原子量は16とわかるから、1:8はすとんと腑に落ちる。水素や酸素の原子が結びつく様子を思い描いて納得するのだ。だが19世紀は、原子論がまだ仮説でしかなかった。「…人と生涯」には「ファラデーも原子論の信奉者にならなかった」とある。原子のイメージなしに整数比をどう理屈づけたのか。19世紀人の物質像が気にはなる。

 

 この本で目を見開かされるのは、炭素をめぐる考察だ。それは、地球温暖化問題にも示唆を与える。たとえば、次の記述。「炭素は、固体として燃えますが、燃えたあとはもはや固体ではない」。燃焼によって気体に姿を変えてくれるのは、使い勝手が良い。だから、人類は炭素燃料を好んで用いてきた。それで出しつづけた二酸化炭素が地球を過熱する温室効果の元凶だったとは! なにごとも良いことずくめではない、ということか。

 

 ヤマ場は、著者が「私たち一人一人の体の中で、ロウソクの燃焼にきわめてよく似た燃焼の生命過程が起こっている」と語るくだり。これを裏づけるのにも実験が試みられる。ロウソクをガラス管内で燃やしているとき、その管に息を吹き込む。吹き消すのではない。息を吐いて送り込むだけだ。これで火は消える。人の肺が「空気から酸素を取り去った」ので、呼気からモノを燃やす力が失われたのだ。体内では、なにかが燃えているのである。

 

 ここで出てくるのが「私たち自身がロウソクのようなもの」という言葉だ。著者は実験で、砂糖を脱水すると炭素の塊が残ることを示す。体内では、糖分が酸化されているというわけだ。しかも、こうして発生する二酸化炭素は「植物にとっては、正に生命の源」となる。「ヒトはヒト同士依存しあっているだけではなく、共生する他の生物とも依存しあっている」。エコロジー運動の台頭よりも100年早く、その思想を先取りした卓見である。

 

 人は炭素とともにある。自身の動力源であるだけではない。太古から薪や炭に頼り、近代になってからは化石燃料を大量消費してきた。脱温暖化は脱炭素を意味するが、それがたやすくないのも当然だ。ファラデーのロウソクは、僕たちの時代まで照らしだしている。

*スマホ版で「H₂」が正しく見えない場合があります。「H」の次は「2」の添え字です。 

(執筆撮影・尾関章、通算406回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『言葉尻とらえ隊』(能町みね子著、文春文庫)

写真》辞書のあかさたな……

 気になる言葉というものがある。お役人の「……してございます」については、去年すでに書いた。謙譲表現ならば「……しております」で済むところを「……してございます」と言う。霞が関流の慇懃無礼。政策立案能力に長けたエリート官僚が、権力を握る政治家を懐柔するために身につけた低姿勢か。この語法から、日本の政治構造が透けて見えるように僕は感じた(当欄2017年4月7日付「役人コトバを嫌って、佐高本に酔う」)。

 

 この「ございます」用法については、朝日新聞「天声人語」も「ムズムズした感覚が背中を走る」と書いていた(2017年6月21日朝刊)。拙稿が天声人語に先行したことにドヤ顔になっていたら、今回、もっと早いものを見つけた。同紙同年3月23日朝刊「朝日川柳」欄に載った「やましさもともに廃棄してございます」(東京都・大和田淳雄)だ。官僚の国会答弁を聞いてムズ痒くなり、皮肉の一つも言いたくなる人は多かったわけだ。

 

 ほかに気になるフレーズは、「重く受けとめる」「真摯に受けとめる」。こちらは、危機管理用語としてすっかり定着した。企業の不祥事が発覚したとしよう。どうみても責めを負わなければならない、というときにはトップが記者会見して頭を下げ、謝罪する。ただ、ものごとには灰色領域がある。その会社に法的な責任はないと思われるが、無関係と突っ張れば世間から不誠実となじられかねない――そんな局面の定石となっている。

 

 考えてみれば、世間は灰色に満ちている。だから、渦中の人はメディアに対してとりあえず「受けとめる」と言っておくのが無難なのだが、一方で、そのコメントに本気度をにじませなくてはならない。そこで苦しまぎれにひねり出されたのが「重く」「真摯に」だ。ただ、これらの副詞を補っても「では、受けとめたあと、どんな手を打つの?」と問い返されるおそれはある。相手が納得しそうな答えの用意なしに安易に口にすべきではない。

 

 「してございます」には過剰なへりくだり感がある。「重く、真摯に受けとめる」だけでは誠意の半端さが却って目立つ。高級官僚や企業幹部はそのことに気づいているだろうに、なぜか一つ覚えのように乱用する。そんな言葉の定番化も僕には気になる。

 

 で今週は、気になる表現を俎上にあげ、世相の断面を切りだした一冊。『言葉尻とらえ隊』(能町みね子著、文春文庫)。『週刊文春』誌に2011〜14年に連載された同名のコラムをもとに14年に文庫本として出版された。著者は1979年生まれ。ブログの自己紹介欄やこの本の記述には「自称漫画家」とある。ただそれだけではなく、エッセイを書いてラジオ・テレビにも出ているというからマルチタレントと呼んでよいだろう。

 

 「はじめに」のページに「私の情報源はほとんどインターネット」「新聞も取っていなけりゃ本もロクに読まない」とある。驚くのは「テレビも見ない」のひとこと。出演者になっても視聴者にはならない、ということだろうか。この結果、「取りあげるものが若干ネット発の情報に偏っていることは否めません」。そうか、言葉のしっぽを追いまわす習癖がある点で著者と僕は同志だが、標的の生息領域はほとんど重ならないということだ。

 

 それを思い知らされるのは最初の一編。「『仲良し』とは、セックスのことです」の一文で始まる。用例として挙げられているのは「昨日ダーリンと仲良ししたよ」。著者は「婉曲表現は日本語の美学」「遠回しに表現したいのは理解できる」としつつ、「しかし、よりによって『仲良し』とは何ですか」と叱る。性行為は子どもの砂場遊びではないとして「セックスをタブー視して隠蔽するのはもうたくさん」と憤るのだ。まったく、同感である。

 

 私見を書き添えれば、この用法は言葉狩りの一種ではないか。「仲良し」は、ほどほどの友愛、すなわち無関心ではないが干渉もしない適度なつきあいにこそふさわしい言葉だ。それがセックスを連想させるということで使えなくなるのなら、大変に困る。

 

 「オシャンティー」も馴染みがなかった。「おしゃれ」とほとんど同じ意味で、2011年に「爆発的に広まった」。この新語を紹介した一編では言葉の移ろいが論じられ、新旧交代の例に挙がるのは「顔の良い男」の呼ばれ方。「色男」「二枚目」「ハンサム」は影を潜め、「イケメン」に行き着いた。これに比べて「おしゃれ」は息長いが、それに挑んだのが、この言い換えだという。「数年後には廃れてそうだけどね!」。ホントにそうなった。

 

 言葉尻のとらえ方として秀逸なのは「ハイ。」。これには、辞書形式の読み解きがある。「【ハイ。】終助詞。インタビューされたスポーツ選手が、話した内容について一度ふりかえって納得したうえで、『ここで一区切りなので、次はインタビュアーさんが話してください』という意思を示す」。しゃべりが本業でない選手にとっては「ちょうど良い答えが返せなかったり、始めた話の切り上げ方が分からなかったりする」ときの安全網というわけだ。

 

 同様に切り抜け策として発せられる言葉に「と、いうワケで」がある。この本によると、ネットに投稿される「一人しゃべり動画」によく出てくるらしい。「それは××だろ! とか言ってね……。と、いうワケでですね、バカなことしゃべってますけども……」のように使われる。「オチを言ったつもり」なのに「着地点がふわふわ」。そんな瞬間に差し挟まれる「無意味な言葉」だという。昔の深夜ラジオにあった口調が広まったのだろうか。

 

 これは若い世代の沈黙恐怖の表れかな、とも僕は思う。居酒屋の歓談が途切れそうになると、だれかがツッコミを入れて盛りあげる(当欄2016年3月25日付「綿矢『蹴りたい』の自律的な孤独」)。あれと同じように、「ハイ。」「と、いうワケで」でつないでいく。

 

 この本は、へんな新語にも目を向ける。2012年ごろ、よく耳にした「美しすぎる市議」という言葉。「美人○○」の形容は昔からあり、「美人議員」でもよいはずだが、なぜ最近は「美しすぎる」なのか。著者によれば、メディアは受け手の関心を引くため、「美人」の基準を「やや低め」にとるので、それが量産され「陳腐化」してしまったのだという。紙誌やテレビは言葉のインフレーションを起こしてその価値を低めているということだろう。

 

 アイドルの「すっぴん披露」は、語義矛盾が批判される。「すっぴん」は特別なものではない。就寝時の寝室にも真夜中のコンビニにも、化粧を落とした女性はいる。「これを『披露』とするからには、それに価値があり、披露する側に自主性がなければいけない」。すなわち、当事者は「いちばん美しくみせよう」と思うはずなので「飾らない素の姿」とは言い難い。「だから、すっぴんは『流出』がいいんじゃないかな」。ごもっとも。

 

 僕が感心したのは、ある芸能人が記者会見で自分の母を語るのに「母親」を連発していたことにこだわった一編。本人も「母」が正しいと知っていただろうと推察しつつ、「あえて『母親』と言いたくなる気持ちは分かる」と擁護する。「母」は「優等生的」、「お母さん」は「幼稚」、そして「お袋」は「硬派すぎて恥ずかしい」。バランスがよくて「適度なぶっきらぼうさ」があるのが「母親」というわけだ。いまどきの心模様に迫る読み解きだ。

 

 役所の広報文も心理分析される。広島県の人造湖が2012年に「栗(マロン)湖」と名づけられたとき、命名にあたった県の検討委員会は「これからの若い世代にも受け入れられやすい」を理由の一つに挙げた。決めた人は「50代以上」というのが著者の見立て。同年代シニア層から不評を買うことを恐れて「若い子のセンスに合わせなきゃ」と開き直った、と勘ぐる。結果は、若者が多いはずのツイッターでも冷淡な反応が多かったらしいが。

 

 STAP細胞を話題にした一編も痛烈だ。執筆時、研究に対する懐疑論はまだ強まっていなかったが、著者はメディアの報道姿勢を批判する。大手紙が「割烹着」や「理系女子」「リケジョ」で盛りあげたのは、科学の話は「ぶっちゃければみんなあまり興味がない」とにらんで「偉業に対する読者の畏れを打ち消して柔らかくしてやろうとした結果」とみる。著者曰く、「そういうのは週刊文春とかの役目でしょ。新聞は硬くていい」。

 

 しっぽを捕まえた言葉は裏側まで読み尽そう。きっと時代の深層心理が見えてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算405回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ホセ・ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領』

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ著、大橋美帆訳、角川文庫)

写真》地球の反対側

 この正月の新聞で僕がもっとも心を動かされたのは、元日紙面にあった「柄谷行人さん×横尾忠則さん 書評委員対談」(朝日新聞2018年1月1日朝刊)だった。見出しは「何のため 本を読むのか」。読書面で書評を続ける二人が本読みの醍醐味を語っていた。

 

 さすがだなと感じたのは、対談完結間際。司会の依田彰記者の「現代をどんなふうにとらえていますか」という問いに、横尾さんは「終末時計が音を刻んでいるという感じ」と答え、柄谷さんが「同感です」と受ける。これに対する横尾さんの結語がよかった。「僕は先のことを考えません」「未来は僕が決めるんじゃなくて時代が決める」「時代に対して受動的になることで、逆に時代を読むことができ、現実にも対応できる」と、たたみかけている。

 

 本好きならではの発想だろう。読書をしていると書き手と対話している感覚に陥ることがあるが、それは幻想に過ぎない。読むという行為は、受け身一方だ。時代を読むのも同様。いくら読んでも時代は応えてくれない。ただ、そうではあっても時代への対応力が生まれてくるというのである。新年紙面は祝儀ごころも手伝って、能動を促す言葉の羅列となりがちだ。そんな予定調和に流されず、あえて受動に価値を見いだす言辞に僕はしびれた。

 

 ご両人とは、朝日新聞の社内書評委員だったころ、2週に1度の会議に同席した。今から10年近く前のことである。二人に共通するのは、僕が若かったころにもう、カリスマとして名声を轟かせていたということだ。一人は気鋭の文芸批評家として。もう一人は過激なグラフィックデザイナーとして。だから憧れがあり、緊張もしたのだが、会議では肩透かしを食らう。柄谷さんも横尾さんも、飄々とした語り口で談論を笑いに包んでくれた。

 

 この対談記事にもあるとおり、二人には転身の経験がある。柄谷さんは、文芸から離れて哲学者になった。横尾さんは、デザイナーというより画家として活動するようになった。ともに、不断に新しい世界を切りひらいてきた感がある。さらに失礼を顧みずに言えば、その言葉は年齢相応の円みを帯びている。だがそれでも言えるのは、青春期の志が絶えていないことだ。柄谷青年と横尾青年は、今の二人にきちんと接続されているように見える。

 

 で今週は、お二人同様、若いころの志がどこかで接続されている人の話。

 

 『ホセ・ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領』(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ著、大橋美帆訳、角川文庫)。ムヒカは、南米のウルグアイ東方共和国(ウルグアイ)の政治家。1935年生まれ、2010〜15年に大統領を務めた。本人のつつましやかな暮らしぶりから、書名のように呼ばれた。古くさい日本語に置き換えれば「井戸塀政治家」か。だが彼が注目されたのは、清貧ということばかりではない。

 

 この本では、艸場(くさば)よしみさんという人が序文を寄せている。絵本『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(絵・中川学、汐文社)の編者だ。それによると、ムヒカは2012年、国連「持続可能な開発会議」で「私たちは発展するためにこの世にやってきたわけではありません」と訴えたという。「貧しい」は清潔の代名詞であるだけではない。経済成長よりも持続可能を重んずる社会を構想するときのキーワードとなったのである。

 

 ただムヒカ自身は、持続可能のために貧しくなれ、と呼びかけてはいない。むしろ、「貧乏」を嫌っているらしい。この序文によれば、同じスピーチにこんなひとことがある。「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に多くを必要とし、もっともっとと欲しがること」。物欲を際限なく募らせることが貧しさをつくりだすのだ。限度をわきまえれば「少ししか持っていない」としても豊かでいられる。そんな逆説が込められている。

 

 この本は、そのムヒカの半生記。ウルグアイのジャーナリスト二人が「十九年にわたり氏を密着取材して」(序文)まとめたという。原著は2015年刊。同年、邦訳『悪役 世界でいちばん貧しい大統領の本音』が汐文社から出て、翌年、加筆改訂改題されたのがこの文庫版だ。本文には、ムヒカ本人の肉声がふんだんに盛り込まれている。「どこであろうと、私は好きなように生きているだけだ。自分は貧しくなんかない」という言葉もある。

 

 ムヒカは7歳で父を失い、母の手で育てられた。「政治と読書に対する情熱、人生にささやかな楽しみを見つけること、大地とそれを耕すことに対する愛情」を育まれるが、生活は豊かでなかったらしい。投獄歴4回。最初は一般刑法犯として、2回目からは左派非合法組織の政治犯として。後者では脱獄を2回繰り返し、最後は1972年から85年まで塀の中に閉じ込められた。青壮年期はずっと、筋金入りのゲリラだったことになる。

 

 その百戦錬磨の闘士が言う。「最悪なのは、政党のイデオロギーのせいで、現実を現実として受け止められなくなってしまうこと」「私は随分前にそういう思想は捨てて、白か黒かというよりも、現実の微妙なニュアンスが重要だということに気がついた」。いまや化石となった言葉をもちだせば、ヒヨッたようにも聞こえる。だがムヒカは、それでも若いころの志を忘れてはいない。大統領任期中の立ち居振る舞いからも、それが感じとれる。

 

 たとえば、著者たちが自宅を訪れると「ムヒカは玄関先の井戸の上に腰かけて私たちを待っていた」。服装はカジュアル、ウイスキーのグラスを井戸のへりに置いたまま会話に熱中する。「話を終え再びグラスを手に取ったとき、カタツムリが琥珀色(こはくいろ)の液体と氷の間に浮かんでいるのに気づいたが、殻をつまんでかなり遠くまで放り投げ、まるで何ごともなかったかのようにまた飲み続けた」。これこそが、本当の井戸塀政治家だ。

 

 着ているものがラフなのは、「薄汚い格子柄の上着」を「就任してから三年間ずっと使っている」という記述があることからもわかる。ベルギーの王宮で「大統領はネクタイをお使いになられないと伺っていますが」と、タイを提供する旨の申し出があったときも拒否感を露わにしたという。ただ著者は、ここにも計算があるとみる。「前任者や他国の同僚たちと違えば違うほど都合が良かった。彼はそれを巧みに利用する術を知っていたのだ」

 

 これらのエピソードは政治思想と無縁ではない。ムヒカは言う。「共和制の定義は、誰も人の上に立たないということだ。それなのに、大統領たちは今も、君主制を起源とする封建制を受け入れるよう飼い慣らされてしまっている。だから、彼らの周りにつくられたお飾りを全部受け入れていられたんだ」。質素な生活様式は、貧しさの演出ではない。封建時代の統治者とは違う政治家像を身をもって示そうという決意が、そこにはある。

 

 志を反映させた政策の一つが、200ha以上の大地主に対する増税だ。ムヒカはこの必要を説くとき、自身も地価上昇の恩恵に浴したことを正直に打ち明ける。1980年代に刑務所を出て安い農地を手に入れた。買い足しもして今は25ha、それが値上がりで50万ドルにはなるという。「購入金額と現在の価格が釣り合っていない」「何百万ドルもの不動産を持っているのに一ペソたりとも払いたくないなんて、そんな馬鹿なことがあるかい」

 

 一方で、農作物のトマトを瓶に詰めて売りだした起業家や食用油の製造で名を成した工場主など、仕事に励む実業家には敬意を表する。ブルジョワの美点として「経営能力」「管理能力」「雇用を生み出す力」を挙げ、「左派の連中」にはそれが見えていないと言う。

 

 今のムヒカは左派か中道か、そんな問いをもって読み進むと「本質的に、信念を持った無政府主義者(アナーキスト)」という答えに出会う。「罪悪感のようなものを感じながら権力を生き、そのメカニズムの一部を疑問視しつつ、権力を行使することにも強い関心を持っている大統領」と、著者は分析する。権力者になっても統治を懐疑するのは、非合法活動をしていたころ「法律よりも人間の方が力を持っていると気づいていた」からか。

 

 志を保ちつつも現実的であるための条件は懐の深さだ。ムヒカの懐は、アナーキーな葛藤に満ちている。そんな心のありようこそが「貧しくなんかない」ということだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算404回)

 

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『土俵を走る殺意』(小杉健治著、光文社文庫)

写真》天井に垂れ幕

 相撲漬け、とでも言うのだろうか。この2カ月ほど、角界のもめごとがメディアを席巻してきた。世界ではもっと大変なことが起こっているというのに、それをガブッて寄り切る勢いだった。一業界のゴタゴタが、どうしてこんなに世間の耳目を集めたのか。

 

 理由としてピンとくるのは、現代相撲が新旧文化の相克をはらんでいることだ。古来の競技を近代の様式にはめ込もうとした無理がたたって、あちこちにひずみが生じているように思う。それが、いっぺんに露見したのが今回の騒ぎではなかったか。ここで、僕たちは複雑な思いにかられる。一連の報道で明らかになった角界事情の古くささにあきれつつ、もしかしたら僕たち自身も同様に古いのかもしれない、と自省してしまうのである。

 

 たとえば、一門制度。この騒動を増幅させた一因は、日本相撲協会が一枚岩ではなかったことにある。いわば、一門の寄り合い所帯。派閥全盛時代の政党そっくりだ。それは昨今のトップダウン型組織とまったく異なるが、だからこそ人間臭さが妙に懐かしい。

 

 日本社会の古さは、外国人力士の疎外感ももたらしている。大相撲は今や世界ブランドとなり、新弟子も海外から集まってくる。今回の騒動では、一つの国の出身力士が濃密に結びついている様子がはからずも見えてきた。その裏返しとして、相撲を国技ともちあげ、国内出身の横綱復活に沸く日本のファン感情がある。角界は国際化という近代仕様を受け入れたにもかかわらず、深層に民族の垣根を内在させているように見える。

 

 日本古来の民族文化という側面がもっとも強く感じられるのが、「横綱の品格」至上論ではないか。それは、私生活の立ち居振る舞いに対して言われるだけではない。相撲そのものの取り口にまで「らしさ」を求めている。「らしくない」の代表例は、立ちあいで変わる――身を左右にかわす――ことだ。これで勝ってもメディアからは総スカンを食う。横綱は横綱相撲をとらなければならない、というのが絶対の価値観なのである。

 

 ほかの競技と比べてみよう。野球では、4番打者に対してもスクイズのサインが出されることがある。その大打者がサインを拒んで長打を狙ったとすれば、結果オーライになったとしても「チームプレーに徹していない」と批判されるだろう。相撲は個人競技、野球は団体競技という違いもあるが、それだけではない。野球では、勝とうとする精神に最大の敬意が払われる。相撲も同様に勝利をめざすが、その前提として「品格」が求められる。

 

 もちろんどんなスポーツであれ、競技者はただ勝つのではなく、美しく勝ちたいと思っていることだろう。選手たちが美学を尊ぶのはよいことだ。相撲の「品格」も美学の一つだが、僕が違和感を抱くのは、それが力士自身のものではないことだ。「伝統」が個人のアイデンティティーや時代精神をないがしろにして、昔ながらの価値観を押しつけている。せっかく門戸を世界に開いたのだから、美学の幅をもっと広げてもよいのではないか。

 

 で、今週は長編推理小説『土俵を走る殺意 新装版』(小杉健治著、光文社文庫)。中古本ショップで目にとまり、すぐに買うことにした。相撲は旬の話題なのだ。著者は1947年生まれ。時代小説の分野で活躍する一方、現代ものでも法廷ミステリーの書き手で知られる。その人が相撲小説にも手を広げていたとは。この作品は、1989年に新潮社から単行本が刊行されたあと新潮文庫、光文社文庫に収められ、後者の新装版が2016年に出た。

 

 ミステリーの主舞台は、1960年代の大相撲。著者にはきっと、それに胸躍らせた記憶があるのだろう。「太鳳」「柏山」「佐多ノ山」……横綱のしこ名を往年の実在力士の名に似せるという趣向に思わず苦笑する。僕自身、柏鵬時代の映像が脳裏に浮かんでくる。

 

 思えば、あのころは相撲の生中継が生活の一部だった。それは、この作品からもうかがい知れる。1967年、東京・両国の回向院境内で男の絞殺死体が見つかった事件で、新聞記者が被害者の宿泊先に聞き込みにゆく。男は発見前日の夕、宿を引き払ったという。「何時ごろでしょうか」と尋ねると、女将は言う。「四時過ぎかしら。ちょうど、中入り後だったから」(引用部のルビは省略、以下も)。相撲の進行が時計代わりになっていたのである。

 

 ここでどうしても書きとめておきたいのは、あのころの相撲人気が戦後を引きずっていたことだ。夏場所で「赤や青の幟」が「五月の風にたなびいている」のは「蔵前国技館の前」。相撲の殿堂、両国国技館は太平洋戦争末期に東京大空襲に遭い、占領期は進駐軍の接収物件となった。日大講堂だった時期もある。あのころは、ボクシングの試合などに貸し出されていたものだ。急ごしらえのクラマエは敗戦をくぐり抜けたリョウゴクの陰画だった。

 

 この小説では、相撲界の異変と二つの殺人事件が並行して描かれる。異変とは、1967年夏場所で準優勝を果たした大関大龍が、横綱審議委員会から横綱昇進の推挙を受けたのにもかかわらず「辞退」したというものだ。この椿事と前述の回向院殺人事件がどうつながっていくのか、その謎に読み手はまず誘い込まれる。しかもここに、東京・山谷で手広く商いをする酒類業者が誘拐され、死体で見つかったという過去の事件も絡んでくる。

 

 推理小説なので、例によって話の筋は追わない。事件と異変をつなぐ1960年代の世相を見ていこう。1961年、秋田県の農村で催された秋祭りの奉納相撲で中3の篠田大輔が8人抜きの強豪を「呼び戻し」という大技で破り、翌春、相撲界に入る。東京は「アメ横には舶来品の店、魚屋、菓子屋などがぎっしり並んでいる」という戦後を残しながら、「東京オリンピックに備えて」「近代都市に移り変わろう」とする高度成長期にあった。

 

 同じ春、同学年の仲間も集団就職列車で上野に着く。農村の若者は「金の卵」だった。大輔の野球仲間本橋武男の就職先は、都内足立区の機械部品メーカー。大輔に恋心を抱く本荘由子は、埼玉県川口市の鋳物工場。ともに武骨な二次産業なのが時代を象徴している。

 

 その武男の行き着いた先が山谷だ。最初の就職先は、郷里を出るときに聞いていた話と大違いで野球部もなく夜学にも通えなかった。会社をやめて水商売の職場を転々とするが、それにも嫌気がさした。1966年、後楽園競輪で大負けして、帰る家もなく上野駅前の旅館に飛び込んだときのことだ。「あんた、安く泊まりたいなら山谷の簡易宿泊所に行ったほうがいいよ」と促される。金の卵は孵化することもなく、都会の片隅に追いやられた。

 

 山谷のくだりに「せんべい布団に横になり、目を閉じると頭の中にまたしても大輔の顔が浮かんだ」という一文がある。大輔はすでに幕内優勝も経験、「大龍」のしこ名で三役入りしていた。1960年代の大相撲人気は今の比ではない。子どもたちがあこがれるヒーローと言えば、プロ野球選手か人気力士。そこに自分の幼なじみがいる。行き場を失った「負け犬」と飛ぶ鳥を落とす勢いのスター。高度成長期の青春の明暗がここにある。

 

 その大輔は、順調に大関に進む。そして次は綱取りという段になって突然、自ら身を引こうとしたのだ。新聞に載った本人の弁にはこうある。「わたしは大酒飲みで、酔うと正体不明になり、これまでにも何度か暴れて相手に怪我をさせたこともあります」「横綱としての品位を保つ自信がありません」。これが、本心かどうかはわからない。ただ「横綱としての品位」はあのころも綱の必須要件であったらしい。それをもちだしての固辞だった。

 

 ただ、当時は世間が寛容だった。この小説では、暴力事件について運動部記者が「あんなこと問題にならんよ」「あれはからんできた酔っぱらいを大龍が押し退けただけなんだ。そのとき、酔っぱらいがよろけて足の骨を折ったんだ」と言っている。しごきも黙認同然。大輔も関取になる前、由子とデートして戻ってきたときに兄弟子たちから「竹刀」と「拳」でめった打ちにされた。「女といちゃつきやがって」という妬み半分のいじめだった。

 

 この一点でわかるのは、相撲はいつの世も「品位」を求めてきたが、その中身は世に連れて変わってきたことだ。昨今は法令順守や横綱相撲ばかりが声高に言われるが、尊重されるべきはそれだけではあるまい。力士一人ひとりの個性豊かな美学を見てみたい。

(執筆撮影・尾関章、通算403回)

 

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『二百十日・野分』(夏目漱石著、岩波文庫)

写真》今年、二百十日は9月1日。

 厳しい年が明けた。身のまわりの世相からニュースで知る国際情勢まで、森羅万象が良くない方向へ、悪い方向へと雪崩を打って動いている感が拭えない。その流れに抗する自分でありたい。そう思っている人は多いだろう。ということで、今年も恒例の漱石から。

 

 リベラルを左と言うな漱石忌(寛太無)――この拙句を句会に出したのは2014年暮れのことだった。漱石作品から匂い立つリベラルの気風が、左翼思想と一緒くたにされる。後者はいまどき流行らないから、前者も併せてぼろくそに言われる。そんな状況に腹が立ったのだ。これは当の文豪自身も共有する憤りではないかと忖度して、忌日句に仕立てたのである。それから3年余、この傾向はますます強まっているように思えてならない。

 

 実際のところ、昨今はリベラリズムの衰退が顕著だ。このことは当欄も、先週の年末最終回でとりあげた。そこでも言いかけたことだが、日本ではリベラリズム=弱者擁護→社会主義という連想が働いて反左翼感情がリベラリズムに及んでいるように見える。

 

 では、リベラリズムはほんとうに社会主義と一脈通じているのか。ここで吟味すべきは、リベラリズム=弱者擁護が何を意味するかだ。この等式は、先週も述べたように米国流の解釈。それを代表するのは、哲学者ジョン・ロールズが1970年代初めに提唱した政治思想と言ってよいだろう。「自由」という恩恵は社会の構成員が等しく分かちあうべきものだという視点に立って、「公正」を旗印に機会均等や格差是正の施策を求めている。

 

 ロールズ流のリベラリズムは、もともとのリベラリズム、すなわち個人主義と表裏一体の自由主義とは距離があるように思われる。漱石に引き寄せて言えば、その作品群に登場する近代の自我は封建社会の残滓に抗いながら個人の自由を追い求めていく。このときに中心にあるのは、あくまで登場人物一人ひとりの生き方だ。のちのプロレタリア文学などとは違って、社会の矛盾をあぶり出し、政治体制を変えていこうとする志向は希薄だった。

 

 だが、漱石にも社会派の一面はある。たとえば、かつて紹介した短編集『倫敦塔・幻影の盾』(夏目漱石著、新潮文庫)所収の「趣味の遺伝」。日露戦争から凱旋した老将軍が新橋駅頭で「万歳」の合唱に包まれると、「余」はそれに同調しかけて思いとどまる。「戦(いくさ)は人を殺すかさなくば人を老いしむ」とみてとったのだ(当欄の前身、文理悠々2013年1月7日付「年の初めはシャイな漱石」)。ここには反戦の静かな意思表明がある。

 

 ということで、年頭の一編は「二百十日」(『二百十日・野分』=夏目漱石著、岩波文庫=所収)。本の帯に「漱石が社会批評の嵐を起こす」とあるから、社会派ぶりを知るには悪い選択ではなかろう。この短編が『中央公論』誌に載ったのは、1906(明治39)年。著者にとっては、「坊っちゃん」や「草枕」を発表して作家としての地歩を固めた年だ。一方、世情は明治の近代化が一段落して、その歪みが目立ちはじめていたころにあたる。

 

 この文庫版が出たのは1941(昭和16)年。これは2016年に改版されたが、そこにも1941年版の解説(小宮豊隆執筆)が収められている。それによると、著者がこの短編の筆を執ったのは「草枕」脱稿直後。「油濃い御馳走(ごちそう)のあとでは、自然茶漬が喰いたくなるように、構成の上でも文体の上でも相当手のかかった『草枕』のあとで、漱石がそういう方面でなるべく手のかからない『二百十日』を書いた」とある。

 

 そのころ著者は、子どもが赤痢にかかって私事に追われていたが、締め切りまでにどうにか原稿を仕上げた。小宮解説は、「二百十日」について著者本人が「まことに杜撰の作にて御恥ずかしきかぎり」と漏らしていたとことわりつつも、「これは、漱石芸術の発展の歴史から言えば、相当重大な意味を持つ作品」と位置づける。「それまでの漱石の作品と違って、まともに社会を批評しようとする、漱石の新しい態度を示すもの」というのである。

 

 では、さっそく中身に入ろう。前述の「茶漬」らしさは、作品が圭さんと碌さんの話し言葉のかけあいでほぼ終始していることだ。舞台は山里の温泉宿。それが、熊本県阿蘇の麓であることがしだいにわかってくる。二人は、話しぶりからみて都会の中流階層らしいが、会話のリズム感は落語の八つぁん熊さんを連想させる。あまりのテンポに、しゃべっているのが圭さんか碌さんかわからなくなる箇所もあるが、気にせずに読み進むほうがよい。

 

 実際、落語そのままに笑える場面もある。碌さんが宿の食事で半熟玉子を注文すると、接客係(本文では「下女」となっている)が玉子を4個もってくる。ところが、圭さんが殻を割ると生玉子。碌さんのほうは、ゆできった玉子が出てきた。「なんだか言葉の通じない国へ来た様だな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」。これに対する接客係の返答は「半分煮て参じました」。立派な落ちになっている。

 

 やりとりは軽妙でも、作品に一貫するのは市井で働く人々への敬意だ。圭さんが散歩から宿へ戻ってきて碌さんに報告する場面。「鍛冶屋(かじや)の前で、馬の沓(くつ)を替える所を見て来たが実に巧みなものだね」「馬の沓がそんなに珍しいかい」「君、あれに使う道具が幾通りあると思う」。圭さんは「爪をはがす鑿(のみ)」「鑿を敲(たた)く槌(つち)」「爪を削る小刀」「爪を刳(えぐ)る妙なもの」……と用具をいちいち挙げていく。

 

 鍛冶屋から届く「かあんかあん」という音を遠くに聞きながら、圭さんは幼少期の思い出に話題を転じる。寺の鉦(かね)が朝の到来を告げるころ、「門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼(うす)で挽(ひ)く音がする。さあさあと豆腐の水を易(か)える音がする」。リアルなのには訳がある。圭さん自身が豆腐屋の息子だったのだ。この作品では以後、「豆腐屋」という言葉が市井の民の象徴のように用いられる。

 

 圭さん碌さんの世相談議では、世の中は大きく二分される。片方には豆腐屋がいて、鍛冶屋がいて、そして「肥後訛(ひごなま)り」丸出しの宿の接客係がいる。二人の会話に出てくる言葉を借りれば「剛健党」ということになる。質実の人々と言ってよいだろう。その対極にいるのが「華族とか金持とか云うもの」だ。碌さんは「馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中の様(よう)な顔をしているから駄目」と言う。

 

 この構図は、明治という時代を的確にとらえている。「華族」とは明治初頭に制度化された貴族の近代版だが、そこには江戸時代までの大名家も含まれていた。言ってみれば、幕藩体制の遺産を引き継ぐ特権階級である。一方、「金持」は政府主導の殖産興業、富国強兵路線で商機を得た富裕層を指すのだろう。封建制から近代資本主義へというトップダウンの変革でその上澄みを得た一群を、質実剛健な人々と対置させたのである。

 

 この時代認識に立って、著者はどんな社会像を求めているのか。それを示唆するのが圭さんの嘆きだ。「世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯豆腐屋さ。気の毒なものだ」。この嘆きは職業蔑視のきらいがあるので、今の僕たちには違和感がある。「豆腐屋」はヘルシーな食材を提供する、という美点にも気づいていない。ただ心中を推察すれば、実家の生業は息子が継ぐという当時の固定観念に対する反発があったのだろう。

 

 で、圭さんは「豆腐屋」から離脱したらしい。「僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」と打ち明けているから、苦学して高等教育を受けて別の道を切りひらいたようだ。碌さんに「君は豆腐屋らしくない」と言われて「また豆腐屋らしくなってしまうかも知れない」と答え、「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向の方が悪いのだろう」と断ずる。

 

 ここにあるのは、社会を公正なものに変えるときに機会均等は欠かせないという主張だ。この一点で、個のリベラリズムは社会のリベラリズムに接続されている。欧州の自由主義が米国流の政治思想に展開される回路を圭さんの社会批評に見てとることができる。

 

 漱石は個人の生き方を飄々と語りながら、そこに社会派のひと刺しを潜ませたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算402回)

 

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『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、ポプラポケット文庫)

写真》りんごの普遍

 いよいよ、暮れもどん詰まり。今回は、2017年を締めくくる意味合いがある。この1年で気になったことを書きとめておきたい。真っ先に思い浮かぶのはリベラリズムだ。

 

 秋の解散総選挙で痛感したのは、日本政界の「リベラル」離れ。少なくとも永田町には、「リベラル」派を名乗る政治家がきわめて少ないことがわかった。新党の立憲民主党がリベラルな政策を掲げても、惹句は「ボトムアップ」であり「リベラル」ではなかった。

 

 どうしてここまで、「リベラル」という言葉が嫌われるのか。リベラリズムは文字通り、自由を尊ぶ思想のことだが、米国ではそれを広くとらえて弱者擁護をめざす立場を指すようになった。日本でも今は、こちらの定義が浸透している。弱者の自由を守るためには富の再配分が必要になる。だから、経済の自由放任は認めない。この点で欧州の社会民主主義と重なる部分が大きい。日本の政治家には、ここに引っかかる人が多いのだろう。

 

 これには、日本特有の事情がありそうだ。1990年代初めまで、政界には保守対革新の構図があり、革新の柱は社会主義勢力だった。だがそれは旧ソ連の崩壊後、急速に色あせて退潮する。その跡地に新興勢力が入り込み、保守対「リベラル」と言われるようになった。ただ後者は、どちらかと言えば「改革派」。出発点がリベラリズムと異なるので、バブル崩壊で切り捨てられた人たちを支持基盤にとり込むことすらできなかった。

 

 政界の現実は、知識人の動向を映している。明治以降、日本の学究は欧米の思想を解読することに熱心だった。翻訳して読み解く、という作業である。おそらくは、それが忙しすぎたためだろう。外来思想を日本社会の状況に合わせてつくりかえる気迫には欠けていたように思う。だから、バブル崩壊という転換点が訪れたとき、それに対応して社会民主主義やリベラリズムを日本仕様に仕立て直そうとする動きが強まらなかったのである。

 

 で今週は、少年少女向けに物語風に書かれた『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、ポプラポケット文庫)。著者(1899〜1981)は、岩波書店が戦後まもなく創刊した月刊総合誌「世界」の初代編集長を20年間ほど務めた。左派知識人にとってはホームグラウンドの守り人。自身も戦前、治安維持法がらみで逮捕された経験がある。この本は、日本のリベラル、とりわけ左派リベラルの思考様式を知るには好適の書だろう。

 

 この本を選んだ動機は、それが今、静かなブームとなっているらしいと知ったからだ。朝日新聞では、コラム「天声人語」(2017年12月2日朝刊)や「ニュースQ3」欄(同月6日朝刊)などがこぞってとりあげている。後者には、8月に『君たちはどう…』のマンガ版がマガジンハウスから出て「100万部に迫る勢い」とある。リベラルを嫌う政治の潮流を尻目に売れに売れているというわけだ。その吸引力を知りたくなった。

 

 『君たちはどう…』は、1937年に「日本少国民文庫」(新潮社)の1冊として刊行された。盧溝橋事件の年だ。著者執筆の解説によれば、この「文庫」は山本有三が編纂にあたり、著者も「編集主任」だった。「偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあること」を次世代に伝えようとの思いがあったという。この志に文庫名の「少国民」はなじまないが、それも時代の制約だったのだろう。(引用箇所のルビは省く、以下も)

 

 戦後も、この作品の出版は続いた。このポプラポケット文庫版は『ジュニア版 吉野源三郎全集1』(ポプラ社)をもとにした新装改訂版で、2011年刊。驚いたのは、途中でセ・リーグの覇者巨人とパ・リーグを制した南海という話が出てくることだ。プロ野球の2リーグ制は戦後になってから。1930年代の話のつもりで読んでいたから当惑した。著者解説によれば、戦後も2回、本文を手直ししたという。思い入れの強い作品だとわかる。

 

 物語の主人公は愛称コペル君。中学2年生で、2年ほど前に銀行役員の父が亡くなった後、郊外の小さな家に母やお手伝いさんたちと住んでいる。勉強はできるが、いたずらっ子だ。愛称の名付け親は、近くに住む母方の叔父さん。法学部卒のインテリで、コペル君の話し相手となり、手紙のやりとりもする。この作品のもう一人の主役と言ってよい。コペルの由来は、もちろんコペルニクス。だから、自然科学の話があちこちに詰め込まれている。

 

 たとえば、万有引力について。叔父さんはコペル君や彼の友だちに、ニュートンが「りんごの落ちるのを見て、万有引力を思いついた」という言い伝えについて語る。理学部の友だちから聞いた解釈だ。ニュートンの思考では、りんごが木の枝からぶら下がっている位置を何十、何百、何千、何万メートル……と高くしていって「とうとう月の高さまでいったと考える」。このときにどんなことが起こるかを考察したのではないか、というのである。

 

 月にも木の枝のりんごと同様、地球の引力が働いている。それでも月が「落ちてこない」のは、地球の周りを回ることで受ける遠心力と「ちょうどつりあっているから」ではないか――。「ニュートンの発見というのはなにかというと、地球上の物体にはたらく重力と、天体のあいだにはたらく引力と、この二つをむすびつけて、それが同じ性質のものだということを実証したところにある」。まさに、普遍のしくみを探る物理学の核心を突く洞察だ。

 

 この作品で僕がもっともおもしろいと感じたのは、コペル君が叔父さんと一緒に銀座へ出かけたときの思い出話だ。デパートの屋上から眼下に目をやると、めまいに似た感覚に陥る。「びっしりと大地をうずめつくしてつづいている小さな屋根、そのかぞえきれない屋根の下に、みんな、何人かの人間が生きている!」。地上に膨大な数の人々がいるという現実を見せつけられて「人間て、まあ水の分子みたいなもの」という感慨を口にする。

 

 人間=分子論か。これだけでもコペル君の賢さは見てとれる。だが、彼の思考はそこにとどまらない。しばらくたって、人間=分子論をさらに発展させるくだりがある。叔父さんに「ぼくは一つの発見をしました」と手紙に書いて、こう宣言する。「ぼくは、こんどの発見に、『人間分子の関係、あみ目の法則』という名をつけました」。分子間の関係を「あみ目」ととらえる発想に僕は驚く。今流なら、ネットワーク論と呼んでもよいからだ。

 

 コペル君は、この「発見」のいきさつを手紙に綴っていく。夜中に目をさましたとき、「どうしたんだか、ぼくは粉ミルクのかんのことを考えていました」(「かん」に傍点)。赤ちゃんのころに愛飲した粉ミルクの容器だ。輸入品で、かんにはオーストラリアの地図が描かれていた。そこから、頭の中にはさまざまな人が思い浮かぶ。「牛の世話をする人、乳をしぼる人、それを工場にはこぶ人、工場で粉ミルクにする人、かんにつめる人」……。

 

 この連なりの終点は、家の台所だ。コペル君は「粉ミルクが、オーストラリアから、赤んぼうのぼくのところまで、とてもとても長いリレーをやってきた」ことや「何千人だか、何万人だかしれない、たくさんの人が、ぼくにつながっている」ことに気づく。これは、粉ミルクに限らない。着るものだって履くものだってそうだ。「人間分子は、みんな、見たことも会ったこともないおおぜいの人と、知らないうちに、あみのようにつながっている」

 

 興味深いのは、これに対する叔父さんの反応だ。「君が気がついた『人間分子の関係』というのは、学者たちが『生産関係』と呼んでいるものなんだよ」。ここから、分業体制や交換経済が発展していく話が始まる。そこはかとなく感じとれるのは、下部構造にこだわる唯物史観だ。せっかくコペル君が、ITで見ず知らずの人とつながるネットワーク社会をぼんやりと見通していたのに、それを当時の知識人の世界観に引きとめている感がある。

 

 いま大切なのは、コペル君のように自分自身の頭でものを考えることだろう。それは、受け売りの思想をなぞるよりもずっと果実が多い。自前の着想は熟していないからこそ柔らかで、時代に適応させやすい。日本のリベラリズムの弱さは、その柔軟さの欠如にある。

 

 叔父さんよりもコペル君に学べ。著者の意図とは違うかもしれないが、僕はそう思う。とにもかくにも、「あみ目の法則」からネット社会のリベラリズムを導きだせないものか。

(執筆撮影・尾関章、通算401回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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「モンド」=『海を見たことがなかった少年――モンドほか子供たちの物語』所収

(J・M・G・ル・クレジオ著、豊崎光一、佐藤領時訳、集英社文庫)

写真》町を駆ける

 通算400回は、クリスマスの季節になった。昔は心が浮き立ったものだが、ここ数年は静かにこの時季を迎える。キリスト教徒ではないのに、である。宗教心というよりも、心が温まりたいという気持ち。年末の慌ただしさを感じながらも、静寂に浸るときである。

 

 今年は、この季節でさえも暗雲が垂れ込めている。とりわけ日本列島の周辺では、軍事衝突の可能性さえ懸念されるのだ。それは、ただの戦火で済まないかもしれない。最悪の場合は人類の破滅につながる核戦争のリスクすら伴う。気にかかるのは、日本社会が「年内の決着」にこだわるように欧米では「クリスマス休暇前」が一つの目途になることだ。急いた気持ちが良いほうへ向かえばよいが、その逆になることだってありうる。

 

 そんな心のざわつきがあるせいだろうか。この暮れは、いっそう温かな静かさがほしい。それでちょっとうれしいのは、温かさも静かさもある町に僕が暮らしているということだ。私的事情があって、この1年はほとんど遠出をしなかった。泊りがけの旅行が少なかっただけでない。電車に乗ったのも数十日に満たなかったと思う。あとは地元、東京郊外の私鉄沿線にある古びた住宅街にとどまった。その町でひたすら歩き、自転車を漕いだ。

 

 それがどううれしいのかというと、だれかと通りすがりに声を掛けあう機会が日常となったことである。古くからの友人がいる。地元のバーで知りあった人もいる。なじみのレストラン店主もいる……。勤めをやめて4年余、名刺を交わす人は大幅に減ったが、代わりに路上で足をとめて、あるいは自転車をまたいだまま「やあ」と挨拶する人がふえた。バスの運転手が、すれ違う別のバスの同僚に向けて軽く手をあげるような友愛である。

 

 思えば、僕たちはこうした人間関係をあまり楽しんでこなかった。会社員のころは日々、損得勘定のつきあいに追われていたように思う。こちらがこう出ればあちらはあの手を打ってくるだろう、と無意識に計算する。生き抜くことに必死だったのだ。だが、一線を退いた今、目先の損得よりも「やあ」が愛おしい。この関係は、ゲゼルシャフト(利益社会)ではなくゲマインシャフト(共同社会)に近いが、昔の村落社会ほど濃密ではない。

 

 で、今年のクリスマスは、そんなうっすらとした人間関係を小説世界で味わってみようと思う。この秋、たまたま読んだ短編にそれを見つけた。童話風ののどかさのなかに抑制された心の通いあいがある。不快な胸騒ぎを鎮めてくれること請け合いの1編である。

 

 当代フランスの有名作家の手になる「モンド」。これは、『海を見たことがなかった少年――モンドほか子供たちの物語』(J・M・G・ル・クレジオ著、豊崎光一、佐藤領時訳、集英社文庫、原著は1978年刊)という短編集の冒頭に収められている。所収8編の書きぶりは多彩だ。古代の都市国家を舞台とする王侯物語風あり、自然のダイナミズムにあふれた冒険記風あり。そんななかでこの1編は、リアルな、ありえなくはない話として読める。

 

 著者の名は、僕にとって懐かしいものだ。学生だった1970年前後、言語芸術の最先端にあるのはフランス文学だと頑なに信じていたころがあった。そこでは、既成の小説作法を脱したヌーヴォー・ロマンが台頭していた。ル・クレジオは1960年代前半にデビューした作家。ヌーヴォー…とは一線を画していたようだが、実験的な作風で名を馳せていた点は共通する。その作品を熟読した記憶はないが、あこがれは間違いなくあった。

 

 だから、この本を開くときはそれなりに身構えたのだが、「モンド」の物語性はその緊張を和らげてくれた。書きだしは「モンドがどこから来たのか、誰(だれ)にも言えなかったに違いない。ある日たまたま、誰も気がつかないうちにここ、私たちの町にやって来て、やがて人々は彼のいるのに慣れたのだった」。年のころは10歳前後。「少し横目使いのきれいな黒い眼(め)」と「光の具合で色が変る灰色まじりの茶褐色の髪」をした少年だ。

 

 読んでいると、なんとなく先日当欄でとりあげたスペイン・カタルーニャのバルセロナが思い浮かんだ(2017年11月24日付「バルセロナのこと、もっと知りたい」)。「私たちの町」が海辺にあり、後方に「町を見おろす丘のつらなり」が控えているせいだろうか。訳者(豊崎)執筆のあとがきに「南仏ニースと思われる都市とその近郊」とみられるとあるから、僕の直感はあながち的外れではない。地中海に面した港町の空気が漂ってくる。

 

 モンドは町で人とすれ違うとき、笑みを浮かべて「僕を養子にしてくれませんか?」と言うことがある。ただそれだけで、しつこくは頼まない。言われたほうが驚いているうちに、もう立ち去っている。「彼はここに何をしに来たのだろう、この町に?」と著者は書く。貨物船や貨物列車で長旅をしてきたのか。この町の別荘地風のたたずまいに惹かれたのか。「確かなのは、彼がとても遠くから、山の向う、海の向うから来たということだ」

 

 最初の2ページに載ったこれらの情報からだけでも、この作品が描くのが濃密な共同体でないことは察しがつく。主人公は、どこからともなくふらりとやってきた少年。彼は、現代の都会人を象徴しているようにも見える。顔を合わせれば微笑むのだから敵対感情はない。「養子にしてくれ」は厚かましいが、口にするだけなのだから挨拶がわりともとれる。もしかして、「養子」のひとことには血縁の対立概念が暗示されているのか。

 

 実際、モンドは希薄な友愛を育むのが得意だ。たとえば、町の撒水係との関係。その男は広場でホースから水を放ち、水煙を立ちあがらせる。「嵐(あらし)と雷鳴のような音がして、水は車道にはじけ、停(と)めてある車越しに微(かす)かな虹(にじ)が見えた」。興味深いのは「モンドが撒水係と友達なのはそのため」とあることだ。二人は言葉を交わさない。一人が仕事をして、もう一人がそれに見とれるだけの友だちなのだ。

 

 「町のなかを歩くだけで、モンドはたくさんの友達を見つけていた。しかし彼はみんなに話しかけるわけではなかった。それは話したり遊んだりするための友達ではなかった。通りすがりに素早く目配せして挨拶したり、あるいは通りの反対側から遠くへ手で合図を送るための友達だった」。これは、最近の僕が地元で交わす「やあ」に限りなく近い。著者は、モンドの鋭敏な感性を紡ぎだすことで、そんな町のありようを活写している。

 

 とはいえ、モンドにも挨拶や合図で終わらない交流はある。相手の一人は、五十がらみの釣師ジヨルダン。「彼は長いあいだ、太陽が水平線すれすれになるまで防波堤の上で釣りをしていた」「ほとんど口をきかなかったけれども、かかった魚を釣り上げるたびに笑うのだった」。ところが、モンドが海上の船を眺めながらあれこれ質問すると、釣師は急に冗舌になる。アフリカの国、紅海の鮫、雨季の嵐、島の漁師一家。話題は次々に転じていく。

 

 釣師が語るアフリカや紅海は真に迫っているが、それが体験談なのか耳学問なのかははっきりしない。ただ話が一段落して、モンドが「おじさん、いつ向うに行くの?」と問いかけると、「私は行けないな、この防波堤にいなきゃならん」という答えが返ってくる。理由は「私は船を持ってない船乗りだからさ」。だが釣師は、防波堤で釣糸を垂れながら水平線を見つめることができる。この町には、そうやって遠い世界とつながる人がいる。

 

 鞄のなかで鳩を飼う爺さん、丘に邸宅を構えるヴェトナム女性、若い郵便配達人、海水浴場の砂をならす老人……モンド自身も、その人懐っこさで異質な世界に触れていく。

 

 この小説がすごいのは、モンドの暮らしの下部構造にも触れていることだ。彼が稼ぐのは、広場に「市の立つ日」。青果物を運んできたトラックの荷降ろしを手伝い、1台ごとに硬貨数枚を手にするのだが、それだけではない。市が閉じると「りんごやオレンジやなつめ椰子など地面に落っこちているものを拾うのだった」。市場にいて、それが見落としたものを糧とする。ここから市場経済を超えるなにかを感じとるのは深読みに過ぎるだろうか。

 

 ル・クレジオはただの実験作家ではなかった。その作品には、人がいて町がある。

(執筆撮影・尾関章、通算400回)

 

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『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』(石井好子著、河出文庫)

写真》自家製のオムレツ

 「庶民」という言葉には、どこか抵抗がある。たぶん、へりくだった語感があるからだろう。僕が子どものころは、新聞で「庶民には高根の花」という表現をよく見かけた。一流ホテルのスイートルームを紹介する記事などに添えられる文言だった。市井でつつましやかに暮らす人々には、うらやましくはあるがとても手が届かない、という感じだったのだろう。格差社会の今、同じ状況はあちこちにあるはずだが、「庶民」はあまり使われない。

 

 一つは、「庶」という字のイメージにある。手もとの辞書(三省堂『新明解国語辞典』)をみると、最初に「雑多な」という意味が出てくる。そういえば、僕が勤めていた会社でも、かつて「……庶務部」の部署名が「……総務部」に改められたことがあった。雑用係とみられてはたまらない、ということだったのだろう。ドラマ「ショムニ」(フジテレビ系、原作・安田弘之)の人気の秘密は、この思いをすくいとったところにあるのかもしれない。

 

 同じ辞書で「庶民」の項をみると「特別の地位・資格・機能などを持たない、一般の人たち」とある。専門家の対極にある一群ということだ。なるほど、と僕は思った。科学記者だったので「科学者とそうでない人の対話」というような言い回しを常套句のように口にしてきた。このとき「そうでない人」を別の言葉でどう表すかを思案して「一般の人」と言い換えることもあったのだが、代わりに「庶民」としてもよかったわけだ。

 

 「特別の地位・資格・機能などを持たない」ことを否定的にとらえてはいけない。分野の縦割りにこだわって横からの批判を受けつけない専門家偏重は、ときに不幸な結果を招くからだ。「雑多な」は「多様な」ということであり、尊重すべき価値の一つなのである。

 

 「庶」の字義は決して悪くない。それなのに今では疎ましがられるようになった。背景には、経済の高度成長によって世の中に中流意識が行き渡り、「雑多」を嫌って「特別」に目移りする人がふえたこともあるのだろう。では、その変化はいつごろ起こったのか。

 

 これは、日本社会の洋風化と深くかかわっているように僕は思う。日本社会には明治以来、庶民対上流がそのまま和風対洋風に置き換えられる構図があった。上流階層の家には、たいてい洋間があって壁に洋画が掛かっており、朝昼晩と洋食で洋楽を蓄音機で聴く習慣がある。洋式トイレも珍しくない。これは、和室、和食、和式トイレがふつうの「庶民」には「高根の花」だった――そんな図式が少なくとも僕が子どものころまでは続いていた。

 

 ところが1980年ごろに激変が起こる。ニューファミリー世代とも呼ばれた団塊の年齢層が核家族化して、洋風の暮らしが一気に広まった。洋風のダイニングキッチンで洋風の食事をとり、トイレも洋式が当たり前。そのころには円も強くなり、海外に出て本場の欧米文化に触れる人もふえた。収入の多寡と和洋の対立が、もはやぴったりと重ならなくなった。言葉を換えれば、洋風洋式をハイカラと言ってあがめる風潮が消えたのである。

 

 で、今週の1冊は『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』(石井好子著、河出文庫)。著者(1922〜2010)は、僕たちの世代には懐かしいシャンソン歌手。テレビ草創期の歌番組によく出ていた。そして、総理大臣の椅子を争った自民党の政治家、石井光次郎氏の娘さんということでも有名だった。1963年には「暮しの手帖」の連載を本にした『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』が、日本エッセイストクラブ賞を受けている。

 

 この本は、その『巴里の…』の姉妹編。同様に「暮しの…」の連載をもとにして1985年に出版された(暮しの手帖社刊)。今回手にとった文庫版は2011年に出ている。奇しくも、初出されたころは日本社会に庶民ばなれが起こっていた時期にあたる。

 

 では、著者と「庶民」の関係はどうだったのだろうか。父は保守の有力政治家、自身は戦後まもなく米国に留学し、パリ暮らしも経験している――どうみてもセレブで、庶民とは言い難い。ただ、父には新聞社勤めの経歴もある(なんと、僕の古巣で専務だったことがあるという)。自身も、シャンソンという民衆の歌をうたいつづけた。セレブではあるが、庶民が暮らす市井の事情にもそれなりに通じていたと言えるのかもしれない。

 

 これは、冒頭の1編「ロールキャベツは世界の愛唱歌」からも感じとれる。書きだしで「ロールキャベツとはいったいどこの国の料理なのだろうか」と問いかけ、それを著者自身はアメリカでもモスクワ(当時、ソ連)でもドイツでも食べたという話をさらっと書く。これで庶民はちょっと退くが、編の末尾2行でこの料理は「栄養のバランスがとれていて安くて、皆が好きな国際的おそうざい」であり、「世界の愛唱歌」のようだと評して締めくくる。

 

 ロールキャベツは、かつて日本の食文化で洋風献立の定番になるかならないか微妙な位置を占めていた。僕は1970年代初め、街に出て外食をするときにロールキャベツの専門店に入ったものだ。学生でもなんとか身銭を切れる価格帯。だが、カレーやスパゲティナポリタンよりは、高級感がある。近からず遠からずの洋食だった。著者を投手にたとえれば、この本の第1球では庶民のストライクゾーンの高めギリギリを突いてきたことになる。

 

 読み手を惹きつけるのは、著者が自分自身で調理しているとわかる点だ。これに一役買うのがオノマトペ――擬音語や擬態語だ。「ナスのキャビア」と呼ぶキャビアもどきの料理のつくり方を伝授するくだり。ナスの切り方は「ザクザク」、炒め方が不十分なら「ぐじゅぐじゅ」、食材を庖丁でたたくときは「トントントントン」、一緒に食べるトーストの焼き具合は「カリカリ」。著者が台所に立って、手を動かしている光景が目に浮かんでくる。

 

 ほかにも「くたっとなった野菜」「ヒタヒタのミルクに」「メリケン粉はざぶっと」……。「お砂糖少々入れて甘みをつける」など、わざと助詞を抜いた表現もある。著者が音楽家の感覚を生かして、食と調理の語りに音とリズムを付与していたことがわかる。

 

 この本を読んでいると、1980年代の僕たちにとって欧州は遠かったのだなあ、とつくづく思う。イタリア・ナポリのチーズ料理を紹介した箇所では「モッツァレッラはチーズの一種で、この頃はスーパーで売っているところもあるが」と、くどいほどの補足がある。今ならモッツァレッラがチーズのことぐらい、子どもでも知っていそうだ。チーズが種類別に認識され、それらが店頭に並びはじめたころの食の位相が見えてくる。

 

 「スペインのバレンシア風たきこみご飯パエリャ・バレンシアーナは、サフランご飯の最高傑作」と書かれた一節も同様。今の人が読めば「パエリアくらい知っているよ」と一笑されそうなほど懇切丁寧な説明だ。あのころ、スペイン料理はまだ馴染みが薄かった。

 

 食の変遷を痛感させるのが、「スパゲティとローマの思い出」と題された章。スパゲティという呼び方そのものが昔風だ。イタリア料理には、パスタという小麦粉素材料理の大きなくくりがあり、うち細長い麺を使うものがスパゲティという関係にある。最近では、パスタの呼び名のほうが優勢になった。「パスタでも食べようか」と言って店に入り、メニューを見てからスバゲティーを頼んだり別のパスタを選んだり、という感じになっている。

 

 この章では最後のほうにようやくパスタが登場する。リボン状の麺、タリアテッレをそう呼んでいる。著者はこれをジェノヴァ風に味つけたものを、イタリアにいる日本青年のアパートで食べた。つくったのは、彼の妻ら二人の女性。「台所にある机の布をさっと取りのぞいたら、大理石の調理台であった」「それはパスタをこねるための台なのだった」。日本社会でおしゃれに見えるものが、本場では庶民の手づくり料理だったというわけだ。

 

 この本によると、「暮しの手帖」創刊者の花森安治は「デパートなどの食堂に行って、じっと見ていてごらん、男はカレーライス、女はチキンライスを食べるよ」と話したという。バブル経済が膨らむまで、日本人の洋食の選択肢は限られていた。そんなときに著者は、洋風の味の多くがセレブの独占物ではなく、実は「一般の人たち」のものだと教えてくれたのだ。僕たちは1980年代、日本の庶民をやめて世界の庶民になったような気がする。

(執筆撮影・尾関章、通算399回)

 

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