『十津川警部 ロマンの死、銀山温泉』(西村京太郎著、文春文庫)

写真》山形といえば紅花

 テレビ界を席巻していた2時間ミステリー(2H、Hはhourの頭文字)が存亡の危機にあることは、当欄ですでに嘆いた(2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ」)。それを蒸しかえすつもりはないが、このまま座視してもいられない。世の2H党は、それをなぜ求めるのかを、ああでもない、こうでもないと語ってほしい。飲み会の格好の話題にはなる。そこから再興の可能性も見えてくるだろう。今週は、その糸口となる一文。

 

 そのまえに、事情に通じていない方のための予習講座。そもそも2Hとは何か。テレビ番組表には、かつて一世を風靡した火曜サスペンス劇場(日本テレビ系)や今春幕を閉じた土曜ワイド劇場(テレビ朝日系)のような2時間ドラマ枠があって、この枠で放映されるものはすべてその範疇に入る。ただ、そこにも「2Hらしさ」のあるものとないものがある。「らしさ」の真髄は、あのまったり感。僕がここで語りたいのは、そんな2Hらしい2Hだ。

 

 まったり感は、渾身の一作からはなかなか出てこない。定番のシリーズものにこそ、それは宿る。たとえば、西村京太郎原作の十津川警部シリーズ、内田康夫原作の浅見光彦シリーズがそうだ。どちらも複数局が競作してきたのだから、2Hのど真ん中にあると言ってよい。ほかに笹沢左保原作の「タクシードライバーの推理日誌」や原作のない「温泉若おかみの殺人推理」(ともにテレ朝系)も、とくに挙げておきたいシリーズではある。

 

 一つのシリーズは年に2回ほどのペースで放映されてきた。これは1960年代、邦画全盛期に封切られていたシリーズものの頻度に近い。回を重ねても俳優陣やその役柄がほぼ固定されているので、観ていると行きつけの店で和んでいる気になる。2Hでは、事件の謎を解く人々――刑事やルポライター、タクシー運転手やおかみ――が常連。毎回、お約束のギャグを飛ばすキャラも顔を出す。ここが、まったり感の源泉だろう。

 

 マンネリには違いない。だからこそまったり感があるのだが、それも度が過ぎれば娯楽作品として失格だ。そこで、スパイス役を果たすのが旅情。作品の舞台に観光地を選んで、回ごとに場所を代えるという趣向が目立つ。刑事やタクシー運転手が管内や営業域にこだわらず津々浦々へ足を延ばすだけではない。同じおかみが次の回ではまったく違う温泉郷の旅館を仕切っていたり、警察署長や捜査検事が転勤を繰り返したりという形式もある。

 

 ここで、ちょっとディープな2H視聴法を伝授しよう。テレビを観ながら、ネットを駆使して旅行気分を味わうというものだ。地元の観光協会サイトに入って、ロケ地となった名所旧跡をたどる。旅館やホテルは実名で出てくることが多いので、その公式サイトを開いて露天風呂の画像にエア入湯する。これは再放送ものではうまくいくのだが、初放映ではアクセスが殺到して画面がすぐに出てこないことがしばしばだ。世に2H党は多いのである。

 

 で、今週は長編ミステリー『十津川警部 ロマンの死、銀山温泉』(西村京太郎著、文春文庫)。なぜ「十津川警部」なのか、そして「ロマンの死」なのか、とは聞かないでほしい。実は先日、1泊2日の東北旅行に出て山形県銀山温泉に宿をとった。梅雨どきなので名所巡りは難しそうだ、ならば温泉街そのものを楽しもう、と選んだのである。そのご当地ものが、この1冊。カッパ・ノベルスから2002年に出た。文春文庫版は11年刊。

 

 十津川警部ものというと鉄道ダイヤを駆使したアリバイ工作などが思い浮かぶが、この一編にはトリックらしいトリックが出てこない。どちらかと言えば、社会派の風合い。だが、リアリズムで権力権威の深部に切り込むという緊迫感はない。では、どこに読みどころがあるのか。ページを繰るうちに感じとれたのは、2000年前後の世相がそのまま映しだされていることだ。それは、登場人物のなんとなく盛りあがらない様子にみてとれる。

 

 小説は「十月一日の昼ごろ、京成(けいせい)電鉄江戸川(えどがわ)駅前の雑居ビルの五階にあるN金融の支店に、目出し帽をかぶった若い男が押し入った」という描写で始まる。消費者金融を襲った強盗事件だ。支店長は「危険なときは、現金を渡せ」という本店の方針通り、そんなときのために準備していた100万円の束三つを渡そうとした。男は「札束を二つ、ジャンパーのポケットにねじ込んだ」。不思議なことに束一つを残したのである。

 

 それからしばらく東京都内で奇妙な出来事が続く。1単位200万円の犯罪だ。子どもの誘拐事件では身代金が400万円、社長愛人宅での現金強奪事件でも被害額は同じ。ともに男女2人組の犯行だったので1人200万円の分け前になる。さらに大手企業幹部が電車内で罠にかかったように痴漢事件を起こして、ここでも1単位が動く。被害女性が要求して手にした示談金が200万円だったのだ。定額しかとらない企ての続発である。

 

 強盗をしても人命は奪わない。誘拐では子どもを傷つけずに返す。罪を犯して富を再分配する義賊の匂いもするが、それならもっと大金のあるところからもっと高額を手に入れそうなものだ。なぜ200万円なのか。そこにも、なんとなく盛りあがらない世相がある。

 

 この小説では、一連の出来事を起こした実行グループがすぐに明かされる。ロストジェネレーションの若者7人。「自分が勤めると、すぐその会社が倒産してしまう」という元ホームレスの男子がいる。「高校の二年のときだったかな、どうしても、家にいたくなくて、飛び出しちゃったんだ」という元暴走族の女子もいる……みんなで東京を離れ、銀山温泉で旅館を営もうとする。計1400万円は、老舗旅館を買い取る資金だった。

 

 ミステリーとしては、7人がひとりふたりと殺されてゆき、その謎解きが焦点になっていくのだが、例によって筋は追わない。むしろ、若者たちが銀山温泉に求めたものは何だったのか、あの温泉町にはそれが具わっているのかを、旅の記憶が薄れないうちに考えたい。 

 

 本文によれば「銀山温泉は、十軒あまりの旅館そのものが売り物」。渓流銀山川を挟む旅館街は「木造の三階建、四階建の建物」が並び「大正ロマンの世界がそのまま、現在に生きている」。若者たちはそこに惹かれたようで、自ら「ロマンの残党」を名乗る。

 

 ここで僕が引っかかるのは、ロマンは2Hのまったり感と同じだろうかということだ。デジタル大辞泉によれば、「ロマン」は「夢や冒険などへの強いあこがれをもつこと」という意味を含むのに対し、「まったり」には「ゆったりしている」「だらだらしている」の意がある。どちらにも現実から逃げるという側面はあるものの、片方は羽ばたこうとする野心が満々、もう一方は羽を休めよういう方向にある。似て非なるものと言えよう。

 

 僕が銀山温泉に感じた魅力は、ロマンとはちょっと違う。小雨が降るなか、渓流沿いの山道を登ると銀山の跡があり、その坑道に入ってみた。蒸し暑さを一瞬忘れる冷気。ここはその名の通り、江戸前期まで銀採掘の鉱山町だったのだ。元禄期に廃山されると、今度は湯治場に。ところが大正初めに水害で流され、そのあと現れたのが木造中層の建築群だ。そこには切実な地域史がある。その移ろいを愛おしみながら湯に浸かる。これがまったりだ。

 

 この小説でロスジェネの男女は温泉郷にロマンを求めたが、それをつかみとれたとは言い難い。現地では高級旅館に対抗するため、夕食メニューをラーメンやカレーなどB級グルメにして宿代を安くするという奇策をとる。ロマンをうたう湯の町にも東京同様、競争があったのだ。そこで生き抜こうとすればロマンから離れなければならないという皮肉。1人200万円の切符を不正入手してたどり着いたのは結局、しがない現実の世界だった。

 

 最近感じるのは、ロマンという言葉が安易に使われ過ぎてはいないかということだ。たとえば、天体観測の話になると「夢とロマン」が常套句のように言われるが、宇宙探究はこの世界のしくみを知ろうという作業にほかならない。まして地上生活で生き延びる話なら、夢見心地ではいられないはずだ。現実を冷静沈着に分析しなければならない。そんな厳しい日々が続くからこそ、ときに弛緩がほしくなる。ここにこそ、2Hの存在理由がある。

 

 最後にもう一度、念を押したい。2Hの醍醐味はロマンではない。まったりだ。

(執筆撮影・尾関章、通算377回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『重力波とはなにか――「時空のさざなみ」が拓く新たな宇宙論』

(安東正樹著、講談社ブルーバックス)

写真》歪む座標

 当欄は、ときどき科学ものをとりあげている。筆者は職歴をもとに科学ジャーナリストを名乗っているのだから、本当ならばもっと頻度高く科学を語るべきかと思うが、年を重ねるごとに内心の職歴ばなれが進む。そんなわけで、しばしばではなく「ときどき」になる。

 

 これは決して、科学が嫌いになったということではない。科学を科学としてのみとらえることに限界を感じてきたのである。語弊を恐れずに言えば、科学を科学の視点だけからみたのでは科学のおもしろさが半減する、ということだ。もちろん、科学の中身を非科学で歪めようというつもりは毛頭ない。科学を広い視野に置いてみることで現れる風景を味わいたい。本の渉猟が雑食度を強めているのも、視野を広げる一助にはなっているはずだ。

 

 科学を広い視野に置くとは、それを技術に結びつけて経済成長の特効薬ともてはやすことや、その反対に環境破壊の元凶となじることを指してはいない。経済成長と環境破壊の対立軸でみる発想は、近現代以降のものだろう。それはそれで大いに考えなくてはならないことだが、ほかにも座標軸があることを忘れてはならない。自然科学とは人間にこの世界の見え方を教えてくれるものなのだから、もっと深く掘り下げて考えたほうがいい。

 

 たとえば、素粒子論。論文は数式ばかりなので、僕たち部外者には到底太刀打ちできない。ただそれは、物質世界の土台が今日も昨日と同じように続く、という安定性の根源を知るうえで大きな力になってくれる。クォークという最小の粒がどう結びつき、それによって生まれた陽子や中性子がどのように原子核をかたちづくっているのか――この探究は、家屋の土台がどんなかを知ろうとするようなものだ。それなしには賢い住み方はできない。

 

 振り返れば、日本社会は「土台知らず」の過ちを犯してしまったのではないか。原子力発電所を3・11の福島第一原発事故までひたすら造りつづけたことである。安定世界の礎ともいえる原子核の力が、火力のもととなる電磁力や水力のもととなる重力とはまったく異なることに十分意を払わず、核の蓋を壊して莫大なエネルギーをとり出そうとする。そんな強引な企ての到達点が、増設を重ねた末の原発50基超だったように思える。

 

 この一例からもわかるように、自然科学から世界の見え方を引きだすことは人々が日々適切な判断を下してゆくうえで欠かせない。前述したような経済と環境を座標軸とする議論も、人々が科学の知見を十分に吟味してはじめて深まる、と言えるだろう。

 

 では、去年世界をあっと言わせたあの科学ニュースはどうだろうか。アルバート・アインシュタインが100年前に予言していた重力波を捕まえたとの報だ。宇宙の彼方で起こった巨大な重力現象が時間空間を震わせ、時空伸縮の波となって地球にも届いた、という出来事である。国際チームが米国の2カ所に置いた巨大観測装置LIGOで2015年9月に検出した、と16年2月に発表した。これは、自然の見え方をどう変えるのか?

 

 ということで、今週は久しぶりの物理本『重力波とはなにか――「時空のさざなみ」が拓く新たな宇宙論』(安東正樹著、講談社ブルーバックス)。著者は1971年生まれの実験物理学者。京都大学出身だが東京大学などで研究生活を送り、今は東大准教授として重力波観測の将来計画にもかかわる。この本が出たのは、奥付によれば去年9月14日。奇しくもLIGOによる重力波初観測からちょうど1年の記念すべき日だった。

 

 本題に入る前に、いきなり「あとがき」を引こう。共感を禁じ得ない記述に出会ったからだ。重力波初観測の報道に接したとき、メディアの「ノーベル賞級の成果」という常套句に違和感を覚えたとして「誰の手柄だとか、誰に賞を授けるとかという次元の話ではなく、人類の科学の進歩に関わる歴史的な出来事だろう、と思えた」と書く。その通りだ。見えなかった世界を見せつけてくれたのだから、これはノーベル賞どころの騒ぎではない。

 

 この視点に立つと、この本の圧巻は第1章「重力波の前に」、第2章「これが重力波だ」である。著者の意図では、後続の章で重力波観測の醍醐味や宇宙論の未来を語るための予習という位置づけだったのだろう。だが、僕はあえてここをイチオシする。専門外の人向けなのに、数式をどんどん出してくる。だが、それは演算のためではない。式を眺めていると、物理学のメッセージがなんとなく伝わってくるような工夫が凝らされている。

 

 記述の要点をなぞっていこう。重力波は時空の歪みを伝える波だが、その歪みとは何か。2次元空間、即ち平面の2点間の距離dは、碁盤目の直交座標ならx座標の差Δxとy座標の差Δyで表せる。dの2乗=Δxの2乗+Δyの2乗。ピタゴラスの定理である。ところが空間が歪んで斜交座標になると、右辺に2ΔxΔycosθという項が加わる。θは二つの座標軸がなす角度。直交座標ならcosθがゼロで、この項が消えるから辻褄が合う。

 

 ここで著者は4次元時空へ話を進める。そこでも2点間の距離は同様に求められる。ただし、上記cosθに相当する係数は16個要る。物理学者は、この1組16個を4行4列の行列(マトリックス)で書く。テンソルだ。時空の歪みはこれを用いて表現できる。

 

 重力波を予言する一般相対論は、アインシュタイン方程式に要約される。左辺は時空の歪みを示すテンソル。右辺には物体やエネルギーの様子を表すテンソルがある。こうして時間空間がモノとその動きに結びつけられる。ただ、モノが動けば時空の歪みが必ず波になるわけではない。動き方が「四重極的」と呼ばれるものでなければならないという。連星のように「2つの物体がお互いの周りをくるくるまわっているとき」などがこれに当たる。

 

 ここまでで言えるのは、重力波がこの世界の枠組みの柔らかさを感じさせてくれたことだ。一般相対論の予想通りに宇宙空間が歪んでいることは、すでに巨大天体が光を曲げる重力レンズ現象などからわかっていた。その歪みが、動的な実在として立ち現れたのが重力波なのだと言えよう。もちろん、それを検知するのは観測装置であって人間の五感ではない。ただ、初観測は実感に近い衝撃をもたらした。その様子はこの本からもうかがえる。

 

 初観測のときの研究者の反応をみてみよう。最大の驚きは「重力波信号の振幅があまりに大きく、明確だったこと」だという。おもしろいのは「最初に信号の波形を見た人の多くは『これは信号インジェクションに違いない』と思ったそうです」という話。観測チームは検出や解析の能力を試すため、実験機器に「模擬重力波信号」をこっそり入力(注入=インジェクション)することがある。メンバーの一部しか知らないこの試験が疑われたのだ。

 

 もちろん、これは注入ではなかった。つまりは、本物が「人為的」な信号にそっくりだったのである。そもそも重力波とは、人類の能力ではとらえられない現象だった。それが実在するらしいという予想は、アインシュタインが理論から導きだしたものにほかならない。その存在が確かめられただけでもすごいのに、見つかった波のかたちが理論によってはじき出されていたものとそっくりだった。人間の思考の力強さに圧倒されるではないか。

 

 重力波の波形予測は数値相対論という分野が進めてきたもので、2000年代に入って急進展した。これについては、当欄「重力波、宇宙は人が考えた通り!」(2016年2月19日付)で触れている。このときに紹介した『ブラックホール・膨張宇宙・重力波――一般相対性理論の100年と展開』(真貝寿明著、光文社新書)は、初観測を知る前に書かれた。今回の本は知った後の刊行なので、併読すると数値相対論の威力を痛感する。

 

 『重力波とは…』の後段では、重力波観測でわかってきそうなことが列挙されている。銀河中心の巨大ブラックホールは恒星級のブラックホールが合体を重ねて大きくなった、とする仮説の当否もその一つ。時空のさざなみは今後、人々の宇宙観を豊かにするだろう。

 

 理詰めで考えることで、感じとれないものを感じとる。物理学は、こうして宇宙に潜むダイナミズムを発見した。それは、五感ではなく頭脳が切り拓く天文学だとも言えよう。

(執筆撮影・尾関章、通算376回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ミュシャのすべて』

(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)

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 ちょうど25年前になる。1992年の早春、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪れた。旧ユーゴスラビアでは東西冷戦が終結して民族間の対立が露わになり、北部クロアチアで分離独立をめぐる内戦が勃発して間もないころだった。僕は科学記者として「国際貢献」の実相を新聞記事にする取材班に加わっていたので、旧ユーゴで国際医療NGOの活動を追いかけた。このとき、首都ベオグラードからサラエボにも足を延ばしたのである。

 

 サラエボに赴いたとき、そこはまだ平穏だった。街頭活動は激しくなっていたようだが、戦闘はなかった。「われわれは、あんな真似はしない」。病院で取材に応じた医師の一人が口にした言葉は、今も忘れられない。自分たちは民族感情を暴発させたりしないという自負の念を感じた。だがそれからひと月もしないで、ボスニア・ヘルツェゴビナも内戦状態に突入する。3年半に及ぶ戦闘は、旧ユーゴ紛争でもっとも苛烈なものだったと言えよう。

 

 ただ、あのときは嵐の前の静けさで、仕事の合間に街をぶらぶら歩きすることもできた。たぶん、早朝ではなかったか。静まりかえった石畳の旧市街に入って一瞬、頭がクラクラしたことを覚えている。「僕はいま、京都にいるのではないか」。そんな錯覚に陥ったのだ。低層の家並みが続いていて、軒の出し方などは日本の町家にそっくりだった。木造も多かったように思う。欧州の一角なのにアジアの風土が入り込んでいる、と痛感した。

 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、かつてユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属する一つの国だったが、今は完全に独り立ちしている。ただややこしいのは、その国がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の二つから成り立っていることだ。ボスニア・ヘルツェゴビナという名の国の一部にまったく同名の連邦もあり、そのなかにまた構成単位があるという入れ子構造。この複雑さはそのままこの国の民族事情を映している。

 

 この地域の住人は、大きく分ければボシュニャク人、クロアチア人とセルビア人の3民族から成る。ボシュニャク人は、オスマン帝国支配の時代にイスラム教を信ずるようになった人々の流れを汲む。クロアチア人はカトリック教徒が主流。セルビア人にはギリシャ正教を信仰している人が多く、スルプスカ共和国の中心勢力となっている。ここで見落とせないのは、いずれも南スラブ人であることだ。宗教が民族を分かったのだとも言えよう。

 

 この状況は、一朝一夕に生まれたものではない。この地域に外から巨大な教権や政権の大波が押し寄せ、それに呑み込まれた史実が、そこにはある。サラエボの街で感じたアジアの気配も、その名残だろう。民族のモザイク模様は、歴史の投影にほかならない。

 

 で、今週は『ミュシャのすべて』(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)。2013年に『ミュシャの世界』(同館協力、新人物往来社)として出た単行本に加筆して、改めて編集したものだという。

 

 アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)は、チェコ・モラビア地方出身の芸術家。姓は母国語読みではムハという。ポスターから絵画、工芸まで幅広い作品群を生みだした。後半生に打ち込んだのが、テンペラ・油彩画20点の連作「スラヴ叙事詩」。それが今年3月から6月初めまで東京・国立新美術館で開かれた「ミュシャ展」(主催は同館など)で一挙公開され、僕も閉幕直前に駆け込みで観てきた。平日なのに30分待ちの大行列。

 

 展覧会場に入って、まず驚かされたのは「スラヴ…」作品群の大きさだ。大きめのものは約6m×約8m、それ以外のものも縦横それぞれ数メートルはある。一部は「撮影可能」とされていたから、いまどきのことでスマホを掲げて撮る入場客が目立った。

 

 ことわっておきたいのは、「スラヴ…」がこの展覧会のすべてではなかったことだ。鑑賞順路では、この後に「ミュシャとアール・ヌーヴォー」「世紀末の祝祭」といったコーナーが続く。ただ制作順でみれば、前後が逆転する。ミュシャは世紀末のパリへ出てアール・ヌーヴォー風のポスターや装飾パネルなどを手がけた後、20世紀に入って民族愛に根ざす歴史絵画の大作に取り組んだ。優美から重厚へ。この変身はどこに起因するのか。

 

 それが知りたくて、ネット通販でこの本を手にとったという次第。奥付に「協力」とある大阪府堺市の文化施設には、ミュシャや彼と関係が深い芸術家の作品約500点が集められているという。作品の画像提供などで大きな力となったのだろう。執筆陣は、多くの展覧会企画を手がけてきた冨田章氏、19世紀末のフランス文化に通じた白田由樹氏、チェコに留学経験があり、連作「スラヴ…」の制作事情に詳しい小野尚子氏の3人。

 

 冒頭の冨田氏執筆部分では「ミュシャには二つの顔がある」と言い切っている。一つは、前半生の「グラフィック・デザイナー」。もう一つは、後半生の「歴史画家」。後者の志向が強まったのはどうしてか。「きっかけは一九〇〇年のパリ万国博覧会で、オーストリア政府の依頼によりボスニア・ヘルツェゴヴィナのパヴィリオン装飾をおこなったことだった」。この記述を読んで、僕はなるほどと納得する。あのサラエボが思いだされたのだ。

 

 当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の一部だった。オスマンという一つの帝国が去った後、別の帝国が居すわっていたのだ。ミュシャは「スラヴ民族がゲルマン民族に支配されている状況」のもとで、被支配域文化の展示を支配体制の側から頼まれたことになる。スラブ色の強いモラビアの出身者として、さぞ複雑な心境だっただろう。このときに「スラヴ民族の歴史を描く最初の構想を抱いた」らしい。

 

 小野氏執筆部分によると、ミュシャは南スラブを取材して「現地に残る古きよき素朴な生活体系や伝統に大きく感銘を受けた」。それをもとに描いた万博展示館の内装壁画は、従来のようにアール・ヌーヴォー風の植物をあしらいながら「歴史上の出来事を緩やかに関連付けて並べている」。本人が後年、展覧会のカタログで打ち明けているように「南スラヴの壁画の制作中」に「《スラヴ叙事詩》となる大作を制作する決心をした」のである。

 

 ミュシャは1910年、チェコ・ボヘミアで古城の一部を借りて家族とともに移り住み、翌年から「スラヴ…」にとりかかる。城内のホールは「自然光が明るく射しこむ広いアトリエ」となり、そこに大ぶりの画布を張る「伸縮可能な鉄製の枠」が置かれた、という。最初に構図や人物の位置取り、ポーズを決めてゆき、次いでその再現写真を撮るという手順。モデルは自分自身や家族、そして地元の人々が務めたとみられている。

 

 そうやって十数年がかりで完成した連作は、時空の両面でスラブ民族の歴史を広くとらえていた。まず空間について言えば、東欧、中欧を中心に地中海から北海、バルト海まで南北を貫いて、さらにロシアも視野に入れている。時間軸も壮大だ。通し番号1「原故郷のスラヴ民族」では紀元前3〜6世紀ごろの原風景が、19「ロシアの農奴制廃止」では19世紀モスクワの光景が描かれ、20「スラヴ讃歌」では第1次大戦戦勝国の国旗がなびく。

 

 なかでも圧巻は、チェコを舞台に反骨の宗教家を描いた作品群だ。その中心にあるのは、7「クロムニェジーシュのミリーチ」、9「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、10「クジーシュキでの集会」から成る「言葉の魔力」3部作。それぞれ、14世紀に娼婦たちの避難所となる修道院を開いたヤン・ミリーチ、14〜15世紀にキリスト教改革を訴えたヤン・フス、フス処刑後に闘争を呼びかけたヴァーツラフ・コランダが登場する。

 

 13「フス派の王イジー・ス・ポジェブラト」も強烈だ。ボヘミア王が椅子をひっくり返して怒っている。ローマ教皇の使者が、フス派の聖体拝領がカトリック方式と異なるとしてやめるよう求めたのを拒む場面だ。プロテスタント勃興の先取りだったと言えよう。

 

 民族主義は抵抗のなかでこそ輝く。自国第一の排他主義のなかで、ではない。ミュシャが浮かびあがらせたスラブ2000年余のイメージから、そんなことが伝わってくる。

(執筆撮影・尾関章、通算375回)

 

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『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)

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 いまの時代、エリートがいなくなったなあ、とつくづく思う。この兆しは全世界に共通するようにも感じるが、すでに顕著に見えるのが日本社会の中枢部だ。霞が関の高級官僚はまぎれもなくエリートのはずだが、それなのにエリートらしさがなくなってしまった。

 

 なによりも、「総理のご意向」騒動がそうだ。あの文面がどれほど真実を表しているかどうかは問題ではない。たとえ首相がなにも言っておらず、だれかが勝手につけ加えた言葉だったとしても、それが葵の御紋のように使われたことがエリートの実情を物語る。もちろん、官庁は上下関係で成り立つ組織だから「総理」は最強の存在だ。だが、その「意向」さえも冷静に吟味するほど、昔の高級官僚はエリート然としていたように思う。

 

 先日の当欄「役人コトバを嫌って、佐高本に酔う」(2017年4月7日付)では、お役人が「……してございます」という気味の悪い丁寧表現を用いる事情を考察した。この語法は、官僚が自らのエリート度の高さを薄めてみせる小道具だということ、さらに官僚たたきの風潮から身を交わす防具だというのが僕の見方だった。それに加えてもう一つ、首相官邸の官僚支配が強まったことが背景にあるらしい、と今回の騒動からわかった。

 

 この状況をポピュリズムの台頭と重ねてみよう。当欄「仏大統領選挙済んでポピュリズム考」(2017年5月26日付)でとりあげた『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)によれば、エリート批判はポピュリズムの「必要条件」ではあるようだ。だから今、日本でも高級官僚が批判の矢面に立たされているが、ただその標的そのものが弱体化している。本当に闘うべき相手は、たぶん別にあるのだろう。

 

 かつての日本社会は、どうだったか。1960年代を振り返ってみると、日本社会は霞が関の官僚集団によって統治されている、と子ども心にも感じていた。政治家には知的で賢明で公正な人もいたが、いい加減そうな人も多かった。清濁併せ呑むという生き方が指弾されないどころか、かえって大人物の条件のように受けとめられる傾向もあった。そのせいか、政策決定でも国会答弁でも官僚集団がすべてを仕切っていたように思える。

 

 あのころは良かった、というつもりは毛頭ない。ただ、かつて日本社会を支えたエリート体制の本質を見抜いておくべきだ、とは思う。ポピュリズムのように感情を高ぶらせるのではなく、理性によって脱エリート依存の社会を築くためには過去から学ぶ必要がある。

 

 で今週は、昭和日本のエリートについて考えさせてくれる1冊。長編小説『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)である。著者(1931〜1971)は中国文学が専門の人だが、団塊の世代にとってはカリスマ作家だった。自身は戦時に少年期を過ごし、戦後に大学で学んだ。軍国主義から左翼の台頭へ、そして再びの右旋回。そんな世相に揉まれた知識人の嘘や弱さを肌身に感じて、世に問うた。それが、戦後生まれの若者の心をとらえたのである。

 

 この作品は1962年に文藝賞を受け、直後に河出書房新社から単行本が出た。今回の文庫化は去年9月。その直後に僕は拙稿を書いたのだが、きっかけを見いだせずに寝かせていた。それが最近、霞が関エリートたちの情ない姿を見るに至り、書き直して出稿することにしたのだ。もう一つの理由は、俳優野際陽子さんの死去。ネット情報によると、彼女は1963年、本作のドラマ化作品(TBS系)に出演したという。その追悼の思いもある。

 

 作品は「一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である」という一文で始まる。記事によれば、某大学法学部教授正木典膳(55)は妻に先立たれた身なので、名誉教授の令嬢(27)との再婚を決めたが、これに対して同居の家政婦(45)が民事訴訟に打って出た、という話だ。「肉体をふみにじり、女ひとりの運命をもてあそんだ」として「婚約不履行」と「共同生活不当破棄」を理由に損害賠償を求めたのである。

 

 この話題はしばらく新聞を賑わす。「漫談家と婦人評論家の対談」「農家の主婦の投書」「いわゆる進歩的文化人の寸評」……。週刊誌も令嬢のひと言を引きだし、総合雑誌は典膳の弟である神父の「弾劾文」を載せた。ネット社会の先取りのようなメディアの集中砲火だ。

 

 小説の舞台となる某大学は、東大とみてよいだろう。まだ旧憲法下の話だが、「わが国の官僚組織の人材供給源である最高学府」と形容されているからだ。正木はその帝国大学助教授から検事となり、戦後、最高検察庁から古巣に戻った。学究ではあるが、権力の側について官僚社会の空気も吸っている。彼の醜聞を糸口に一つの小説世界を構築することで、著者は日本の政治体制の中心にいたエリートの危うさをえぐり出したと言えよう。

 

 この作品の読みどころは法学をめぐる記述。主人公の学説は「すべての犯罪は」「確信犯とみなす」とする「確信犯理論」だ。「すべての行為の行為責任は、その行為をなした行為者に帰せられねばならない」との立場なので「正木厳法主義」と呼ばれている。

 

 この確信犯論議をめぐっては、旧憲法下の検事局の描写に圧倒される。局内には「確信犯問題研究調査班」があって、検事たちが「禁入室」の一室で大議論を始める。そこで繰り広げられる理詰めのやりとりに、この作品は約10ページも割いている。ルソーやカントなど先哲の思想をもちだしての論理展開。考えてみれば、この青臭さこそがエリートらしさではないか。官庁は象牙の塔の延長だった。それが今、ただの組織に変質したように思う。

 

 この小説では、主人公を1958年に岸信介政権が提出して結局は未成立に終わった警察官職務執行法(警職法)改正案に向きあわせる。正木は国会の公聴会に与党側から呼ばれるが、不賛成を表明する。犯罪の予防力を強める法制に異を唱え、「現に犯された行為に対してのみ厳罰をもってのぞめば充分」と言い切ったのだ。行為によってのみ責任を問う、というのが「確信犯理論」の帰結だった。法学者としての筋を通したのである。

 

 ここで正木は「意識的な犯罪を、その可能性の予測によって検束しうるとすれば、すべての人間を検束しうる」と過剰予防を戒めている。彼の「確信犯理論」は「厳法主義」だが、その一方で「人が自由であることを認める」。昨今の共謀罪拡張論にはない平衡感覚だ。

 

 公聴会に臨む前、正木は学生運動家から法案撤回の立場をとるよう迫られて、こう言っていた。「川に一つの橋をかけるのに、これだけの材料と、こうした構造が必要だと工学者が設計図を示せば、人は信用するだろう」「わたしは法律家だ。君たちが心配してくれなくとも、公聴会では学問的にたしかなことのみを述べるであろう」。専門案件は専門家に任せろ、というわけか。興味深いのは、正木がここで科学技術を引きあいに出していることだ。

 

 理系の物事に素人は口を出せないという思い込みが、統治制度にまで及んでいたのである。日本社会のエリート体制は専門家任せの風土の表出だったのだとも言える。3・11の原発事故で理系専門家の信頼度が低下した今、正木の論理はもはや通用しない。

 

 正木の発想の問題点は、作品に出てくる無名な筆者の雑誌論考も指摘している。「正木法学の、統治機能よりは公共役務、個人権よりは社会的職分を重視し、一切を法的地位に還元しようとする主張は、かつてある進歩性をもっていた」。それは「天皇機関説の崩壊後」に「統帥権の体系に代置」すべく出された機関説の一つとみてよいという。だが「官僚合理主義」にのみ期待して「法の王国から、人間の自然的価値を追放した」と痛烈に批判する。

 

 私生活の話題に戻って苦笑を禁じ得ないのは、家政婦と令嬢二人への愛を断ちきれない正木の自省だ。「私はまったく無関係に二つの像を思い浮べ、しかも、なんの罪の意識もなく、その重複する像を同時に眺めていた」「排中律が、そのとき私の精神のなかで根拠をうしない、倫理的にではなく、論理的に自分が破滅しそうな危険を感じた」。人間の情愛に「排中律」を当てはめようとする愚かさ。それもまたエリートの弱点かもしれない。

 

 エリートは頼れない。だから、僕たちがもう少し論理的にならねばならないのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算374回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『スノーデン 日本への警告』

(エドワード・スノーデン、青木理、井桁大介、金昌浩、ベン・ワイズナー、マリコ・ヒロセ、宮下紘著、集英社新書)

写真》「内心」に鍵

 まずは、表題の話から。「監られる」とキーボードを叩いたら、文字列に下線が引かれてしまった。赤の波線。「入力ミス」を心配するワープロソフトの忠告だ。たしかに「みる」の「み」を漢字にするとき、ふつうは「見」「観」「診」「看」で「監」は稀だ。だが、今回はどうしてもそうしたい。僕たちは世間でいつも見られ、観られている。診られたり看られたりする機会もあるだろう。ところが今の時代は、それだけではない。

 

 町を歩いているとき、どこかで防犯カメラが回っているのを無意識に感じている自分がいる。だれかがスマートフォンのアプリで会話の声を拾っているのではないか、と気になったりもする。視覚に限った話ではないので、やはりここは「監られる」だろう。

 

 これは、家にいても同様だ。パソコンに向かってメールを認めるとき、なんども読み返す。なにげないひと言が礼を失しているのではないか、という気づかいからだけではない。文面が公の目に曝されるかもしれないから慎重になるのだ。故意でなくとも、そういう事態は起こる。受信人が別件のメッセージを不特定の人に同送するとき、そのうちの一人である僕宛ての返信メールを不用意に転用すれば、過去のやりとりが他人にも伝わってしまう。

 

 当欄は先日、英国の哲学者ジェレミー・ベンサムが提示した「パノプティコン」について触れた(2017年4月21日付「バウマンで、やっぱり社会科が好き」)。少数が多数を一望できる監視施設だ。これに対して『社会学の考え方〔第2版〕』(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)は、現代の情報社会には多数が少数を監視する構図があるという。有名人に世間の視線が集中する現象が、これに当たる。

 

 ここであえて付け加えたいのは、昨今は僕のような無名人でも監られている気がすることだ。だれが防犯カメラで覗いているか、録音アプリをオンにしているかはわからない。メールが偶発ミスで流れるとき、どこへ届くかもわからない。パノプティコンでは監られる人が監る人の存在を確かめられないが、その怖さがそっくり現実化している。僕たちは、不特定多数から監視されているらしいと薄々感じるパノプティコンの変種に暮らしている。

 

 これは「共謀罪」法(改正組織的犯罪処罰法)が成立した今、いっそうリアルなことだ。戦前戦中は特高警察がにらみを利かせていたが、これからは世の中がこぞって同じような任務に加担させられそうな気がする。監られると同時に監る社会の到来である。

 

 で、今週の1冊は『スノーデン 日本への警告』(エドワード・スノーデン、青木理、井桁大介、金昌浩、ベン・ワイズナー、マリコ・ヒロセ、宮下紘著、集英社新書)。筆頭著者スノーデン氏は1983年生まれの米国人。米政府の中央情報局(CIA)や国家安全保障局(NSA)で情報収集活動に携わった後、2013年、政府内の機密資料を米英の有力紙に渡した。「スノーデン・リーク」である。今は難を逃れてロシアに長期滞在している。

 

 ほかの著者は、青木氏がジャーナリスト、井桁、金、ワイズナー、ヒロセ各氏が弁護士、宮下氏が憲法学者。この本は今年4月に刊行された。去年6月、東京で開かれたシンポジウム「監視の“今”を考える」(自由人権協会など主催)をもとにしている。前半ではスノーデン氏がロシアからインターネット回線のテレビ電話を通じて参加、金氏が聞き手を務めるインタビューに応じた。後半は、残る5人が登壇したパネル討論を収めている。

 

 今回は書名を尊重して、インタビューを中心にその「警告」の核心を紡ぐことにする。

 

 スノーデン氏はインタビューの冒頭で自らの職歴に触れ、CIAでは「イラクに対するスパイ活動」をして、NSAでは「インターネットの電子通信や電話を盗聴する活動など」に携わった、と打ち明けている。監る側の事情に通じた人である。その視点から力説するのは、情報技術(IT)がもたらした監視手法の変質だ。それは、特定の人物に的を絞って情報を得ようとする旧来型の「ターゲット・サーベイランス」とは様相を異にしている。

 

 ここで出てくる言葉が「マス・サーベイランス」だ。別のところでは日本語で「大量監視」という表現も出てくるが、これも同義らしい。「無差別・網羅的な監視」のことである。スノーデン氏によれば、2001年の9・11同時多発テロ後、米国では「監視政策の大転換」があり、「疑いがある人だけではなく、あらゆる場所であらゆる人を監視対象とするようになった」。それが「安く、簡単にできる」のは「テクノロジーの進化」によるという。

 

 スノーデン氏は、米政府は法律を盾に通信事業者の設備を通る「すべての通信情報」にアクセスできるようになった、と解説する。世の中の大部分(バルク)に網をかけて、そこから必要な情報を選りだす「バルク傍受」が可能というわけだ。この方式だと、当局はたとえ情報の中身に立ち入らなくとも、「メタデータ」を「安く、簡単に」手に入れられる。メタデータとは、誰がいつどこで誰とどのくらい長く交信したか、といった情報である。

 

 メタデータ収集の例として、携帯電話の位置情報がどう監られるかが詳述されている。それによると、携帯端末は「私はここにいます」という信号を発していて、その「叫び」を町のあちこちの基地局が聞いている。直近の局がどこかは「叫び」の強さでわかる。所持する人が「別の場所に動く都度、電話会社は最も近い基地局を更新し続けます」。この情報が、当局の手に渡るかもしれないのだという。その結果、当人の足どりがわかってしまう。

 

 パネル討論でもヒロセ氏が、携帯電話のメタデータ収集をさらにたやすくする新技術が現れたことを報告している。基地局に見せかける電波を放って携帯電話を惑わせ、情報をそっくりいただくという方法だ。ただ、これは大っぴらには使われていないらしい。

 

 ここで注意しなくてはならないのは、米国社会の監視度はスノーデン氏が母国を離れた後に変わり、彼が語る9・11後ほど酷くはないらしいということだ。討論の採録によると、電話のメタデータ収集は今では制限されるようになった。それを定めたのは、2015年に成立した「アメリカ自由法」。スノーデン・リークが、当局の監視活動そのものを監視する必要を人々に感じさせて、9・11で振れた針を揺り戻したのだ、ともいえる。

 

 メタデータは電話には限らない。スノーデン氏は在日経験があるので日本の生活事情にも通じていて、「Suica」や「PASMO」も例に挙げている。詳しい説明はされていないが、カードに内蔵されたメモリーが利用者の移動記録となることは僕たちにもわかる。これは、ふつうなら監られることがない。ただ、なにかの理由で当局に押収されれば、どこへ行ったかが把握されて、どんな会合に出たかの推測にもつながってしまう。

 

 もっと気がかりなのは、ネットに打ち込む語句やURL。スノーデン氏によれば「アドレスバーに入力したすべての事項はメタデータ」だ。それらは、一部の通信事業者のもとには集積されているという。「あなたがどういうニュースを読んだのかということも記録が残ります」と書かれているのを読むと、心の位置情報まで監られている気がしてくる。「共謀罪」をめぐってよく耳にする内心の自由は、このようにして危機に瀕しているのである。

 

 マイナンバー制度が動きだそうとしていたころ、それが人々の逃げ場を奪いはしないか、と僕は心配した(当欄2015年7月17日付「モディアノで憂うマイナンバー時代」)。小説『失われた時のカフェで』(パトリック・モディアノ著、平中悠一訳、作品社)の主人公が実名ではなくあだ名で生きる姿から、そう感じたのだ。識別番号と監視が結びつけば、僕たちは本当にがんじがらめになる。人はそんなには「監られる」ことに耐えられない。

 

 今の監視社会は、過去の悪夢の再来とみるべきではない。IT社会ならではの怖さがあるからだ。だが、それと闘うときに味方となるのも、またITとは言えないか。スノーデン氏がひそかに身を寄せた異国からインターネット回線で発信する姿が、そのことを物語る。

(執筆撮影・尾関章、通算373回)

 

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『戦争法原理』

(『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』〈ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳、講談社学術文庫〉所収)

写真》いくさは盤上で

 戦争がこんなにもリアルに思えたことが、60年を超える来し方にあっただろうか。今春以降の極東情勢である。とりわけ4月は、その緊迫が頂点に達した。連休が終わっても自分は生き永らえているだろうか。半ば本気で、そんな心配をしたのである。

 

 もちろん、いま中東シリアで進行していることや、かつて旧ユーゴスラビアであったようなことが、ここ東京で起こるという予感はない。街路を兵士たちが駆けまわり、ビル壁が弾痕だらけになる、という地上戦が繰り広げられることはまずないだろう。僕たちにとってリアルな戦争とは、突発瞬時の災厄だ。飛翔体があれよあれよという間に近づいてきて、迎撃されなければどこかへ着弾する。と同時に反撃が始まって恐慌状態に陥る。

 

 もしも、その飛翔体に核弾頭が付いていたらどうなるか。着弾地点の周辺は、なにもかもが吹っ飛んで影もかたちもなくなる。いや、それだけではない。放射性物質がところかまわず飛散して、生き延びた人々も幾年もの間、目に見えないリスクに曝されるのである。

 

 そう言えば、と思いだすのは1962年のキューバ危機だ。ソ連がキューバに攻撃用ミサイルを配備しようとしている、しかもそれは核も搭載できるらしい。そんな情報を米国政府がつかんで米ソ核戦争の懸念が一気に高まった。僕は小学生だったが、給食の時間にラジオから流れる子ども向けのニュース解説を聴いて「一触即発の事態」に心がざわついたのである(当欄2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。

 

 ただ、あのときと今度を比べると、大きな違いがある。あのときは、子ども心に「大人がうまく解決してくれるだろう」と思えた。そして実際、上記拙稿でとりあげた『13日間――キューバ危機回顧録』(ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳、中公文庫)にあるように、米国のジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相が書簡による対話で事態を収めるのである。期待に応えて、大人は賢明だった。

 

 今の大人にそんな賢明さがあるか、というと首をかしげざるを得ない。目につくのは強権政治に根ざす大国志向やポピュリズムに支えられた自国第一主義だから、冷戦時代の超大国首脳のように、自らが世界の守り手という傲慢半分の矜持が感じとれないのである。

 

 で今週は、『戦争法原理』という古典論考。『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』(ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳、講談社学術文庫)に収められている。著者(1712〜1778)はジュネーブ出身、フランス思想界で論陣を張ったあのルソーである。

 

 中身に入るまえに、訳者解説によって予習しておきたいことがある。まず、戦争法とは何か。それは、「複数の政治体の間の関係を調整する」ための「『国際公法』ないし『万民法』の一領域」と位置づけられる。ここで、政治体は「国家」と言い換えてよいという。

 

 この論考が執筆されたとみられる1750年代、欧州列強はオーストリア側とプロイセン側の二方に分かれて七年戦争を始めた。植民地をめぐっても紛争が絶えない。こうしたなかで「戦乱と無秩序をいかに克服するか」が思想界の論題に浮上した。すでに欧州には「法にかなった正当な戦争と正当でない戦争とを区別することで、戦争を可能な限り制限しよう」と考える戦争法の発想があった。著者の立論はこの系譜にある、と訳者はみる。

 

 もう一つ、解説によって知ったのは、この論考が著者の存命中に刊行されたものではないことだ。20世紀後半、遺された草稿の断片をつなぎ合わせることで2部構成のうちの第1部が「復元」されたという。論考全体の前半でしかないから、戦争法について十分に明示的には論述されていない。「万民法」は「制裁をもたないために」「空想の産物になっている」という悲観論が出てくるくらいだ。読みどころは、むしろ著者の戦争観にある。

 

 論考本体を見ていこう。著者によれば、戦争は当事者が「冷静で理性が働く状態」にあって「自らの存在の安全と、脅威となっている存在とが両立できない」と判断したときに起こる。ただの殺人には帰せない、というわけだ。条件として挙げるのは「明白で一貫した意志」や「持続的な決意」の存在、そして「関係が相互的」ということだ。双方とも和平の成立までは、戦闘がなくとも兵器の準備などの「軍事行動」を続けることになるという。

 

 著者は、戦争が人間の自然な本性に起因するという考え方をとことん批判する。17世紀英国の哲学者トマス・ホッブズは「万人の万人に対する闘い」に人の自然状態をみたが、これに対して異を唱える。「人間は自然にかなったあり方では、平和を好み、臆病」というのだ。しかも、個人レベルの問題は「関係性や利害を絶えず変化させる絶え間ない流れ」に曝されているので、戦争を特徴づける「一貫」や「持続」は生まれにくいと論ずる。

 

 「名誉心、利害心、偏見、復讐心、危険や死をものともしなくさせうるような情念はすべて、自然状態における人間とは無縁」としたうえで「ほかの人とともに社会を形成した後になってはじめて、他の人を攻撃しようと考える」と言い切っている点は、性善説がやや過ぎるように思う。ただ戦争様式の攻撃に限って言えば、組織的な武力行使なのだから、当を得ていると言えよう。そこにあるのは、人々が「人為的な協約」を結んだ社会だ。

 

 その「人為的な協約」を具現したものが、政治体としての国家と言えよう。この本は、それが戦争に走りがちな理由を説明する。ひとことで言えば、制約のなさだ。個々の人間は寿命が限られているので、いつまでも生きられない。どんな金持ちでも、胃袋の大きさを超える大食は無理だ。「自然によって定められた力と大きさの限度」があることを本人も承知している。ところが、国家には「その大きさにいかなる定めもない」というのである。

 

 一つの国家は「安全と保全のために、近隣のいかなる国家よりも強大であることが求められる」――人間と違って制約を自覚することなく、強迫観念ばかりが膨らんで戦乱の泥沼にはまる。これこそが近代史ではないか。だから、戦争を町のけんかにたとえるのは愚かなことだ、と僕は思う。集団的自衛権の論争で、不良グループに殴りかかられたときに友だち同士が力を合わせる話がもちだされたが、その比喩は国家の生理を見落としている。

 

 さて、ここで著者の国家観に立ち入らなくてはならない。18世紀中葉と言えば、フランスはまだ絶対王政の統治下にあったが、それでも、国を成り立たせているものを「社会契約」とみた。この本でも「政治体の生命の原理、そういってよければ、国家の心臓となるものは、社会契約」と明言している。著者の思想によれば、その契約は「一般意志」に宿る。これは人々が結びついて生まれる公の「自我」がもつもので、公共の利益を追求する。

 

 で、再び戦争の話に戻ろう。戦時に相手の国家を滅ぼそうとすれば、心臓部の社会契約を断てばよいのだが、そのありかは一般意志という無形の存在なので「簡単には破棄できない」。そこで攻撃の矛先は、生命そのものではなく「生命を維持させているもの」に向けられる、と著者はみる。結果として「政府、法律、習俗、富、所有物、人間たち」といった「国家を保全させているすべてのもの」を消滅させる企てにつながる、というのだ。

 

 ここから、唐突な思考実験が出てくる。回りくどい兵糧攻めをしなくても「社会契約が一撃で断ち切れてしまう」なら「この一撃で国家は滅亡するけれども、人間はただのひとりも殺されはしない」。無血戦争が実現する、という理屈だ。出勤したら、職場はそのままなのに経営者が代わっていたという企業乗っ取りに似た事態だろうか。社会契約が株式のようにやりとり可能なら、そんなこともあるだろう。だが、現実にはありそうもない。

 

 それで思うのは、国家という政治体の古臭さだ。近代を象徴する社会契約は、今日の民主社会でも実体を伴っているように見えない。それなのに戦争の技術は制約をわきまえず、人類にとって致死的となった。だから無血とは逆に、人が滅んで国の名が残ることもある。

(執筆撮影・尾関章、通算372回)

 

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『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』

(南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫)

写真》照り返す常緑広葉樹

 このあいだ当欄で里山のことをとりあげたとき、クヌギやコナラの新緑について書いた(2017年4月28日付「里山のことはもう忘れましたか?」)。明るく、軽やかで、みずみずしい。そんな魅力が落葉広葉樹林にはある。僕が子どものころから馴染んだ東京近郊の雑木林もその一つである。だから樹木の緑と言えば、あの軽快感や透明感がすぐ頭に浮かぶのだが、それは個人史によるところが大きいのかもしれない。そうではない緑もある。

 

 たとえば、照葉樹林。葉っぱが分厚くてテカテカ感のある常緑広葉樹が優勢な林だ。樹種としては、シイ、カシ、クスノキ、タブノキ……といった名が挙がる。こうした森林の連なりはアジアの亜熱帯、暖温帯に広がっており、西南日本はその樹林帯に属する。このことは知識としては知っていたが、それを実感したのは関西に住んでいたころだ。軽やかでなく重い葉、透けるのではなく照り返す緑。そして匂いのきつい樹木もある。

 

 照葉樹林帯の気配をとりわけ強く感じさせるのは和歌山県だ。町にいても、神社の境内などで堂々とした常緑広葉の大木に出会う。山間に入ると、今や植林された杉林が多いが、それでも原生林は残っている。あの多湿な半島を包むものは照葉の空気にほかならない。

 

 その空気が生みだした知の巨人に南方熊楠がいる。理系文系をまたにかけて、博物学にも民俗学にも通じた人。開国まもない明治の世にもかかわらず、米国からキューバ、英国と渡り歩いた国際派。それでいて象牙の塔に籠る大御所とはならず、和歌山県の南紀に腰を据えて自然と書物に向きあった在野精神の持ち主。どの一つをとっても現代人の僕たちが魅せられる人物だ。今年は、その生誕から150年の節目にあたるという。

 

 僕はこの先人に深い敬意を抱いている。当欄の前身では、その著作集『《南方熊楠コレクション》第五巻――森の思想』(責任編集・中沢新一、河出文庫)をとりあげたこともある(文理悠々2011年12月16日付「熊楠が僕らの時代にやってくる」)。このときは表題の通り、彼の思想の今日性に焦点をあてた。いま、生誕150年と聞くと、その先駆性の高さに改めて気づく。ならばもう一度、熊楠本をひもとくことにしよう。

 

 で、今週は同じシリーズの『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』(南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫)。この文庫シリーズは独自に編んだアンソロジー企画で、これは第四巻にあたる。初版は1991年刊。僕が手にしたのは2015年の新装版だ。

 

 著者熊楠は1867(慶応3)年、現・和歌山市で生まれ、1941(昭和16)年末に亡くなった。幕末から明治、大正、昭和戦前を生き抜いた人である。編者は50年生まれの人類学者、思想家。80年代にニューアカデミズムの学究として名を馳せた。この本では冒頭に編者執筆の約60ページの解題があり、続いて著者自身の文章が並ぶ。論考のほか在米期の手紙、在英期の日記と、25(大正14)年に書かれた「履歴書」と題する書簡だ。

 

 書名にある「動」と「不動」とは何か? 編者解題は、そのことを著者の生涯に重ねて解説している。編者によれば「熊楠の人生は、大きく分けると、三つの位相でなりたっている」。最初は「空間を放浪した」、次いで「動きを止め、不動点で沈潜した」、おしまいは「その場で動きつづける」。それぞれ、海外に出ていたころ、熊野の山に隠棲したころ、南紀田辺に落ち着いてから、に相当する。位相を象徴するのは地球、森、町と言える。

 

 この解題で、編者は熊楠に惹かれる理由を披歴する。そこに見てとれるのは「魂の内部に、いつも異質な領域からヘテロな力が流入」する主体であり、「『変化する全体性』をかかえてしまった人間」だ、という。その生は「ポストモダン的テーマ」なのだ、とも。そう考えると、熊楠世界の根源にあるのは「動」「不動」のうち「動」のほうだ。「不動点」にあっても異種(ヘテロ)の力を取り込んで動力源を蓄えていた、とみるべきだろう。

 

 本題に入る前に、著者が自分の名前について語った論考「南紀特有の人名――楠の字をつける風習について」に触れておこう。出生地の近くに楠の古木が立つ神社があり、神職が氏子の子の命名にあたって文字を授ける風習があった。その代表例が「楠」「藤」「熊」の3文字。生きものばかりだ。著者は、このうちとりわけ紀州の深い森を感じさせる2字をもらった。照葉樹林の風土を身にまとって育ち、そして世界へ飛びだしたのである。

 

 今回焦点を当てたいのは、1897(明治30)年のロンドン日記だ。元日から大晦日までほぼ全日の行動がわかる。著者は大英博物館に通う身だったが、空いた時間を見つけてあちこちを動きまわっている。乗り物は「カブ」「バス」「トラム」。自動車や電車が登場したころだが、馬車式だった可能性が高い。とくにカブ、即ちタクシーはそうだ。さらに「汽車」や「地下汽車」。当時の地下鉄は電力の導入期で、まだ蒸気機関車が走っていた。

 

 そんななかで僕がうらやましく思ったのは初夏のキューガーデン。ロンドン西郊にある王立の植物園だ。6月4日には友人たちと連れだって訪れ、昼下がりのひとときを過ごした。「汽車にてキウに至り、ハム及卵をくい、麦酒のむ後、植物園一覧す」。きっと、鮮やかな芝の緑を眺めながら遅めのランチをとったのだろう。キューは博物学の留学学徒にとって、ただの息抜きの場ではなかった。日本からの要人のお供をして来園したりもしている。

 

 著者のロンドンでの交遊を分析してみると、いくつかのことがわかる。英国の東洋学者や民俗学者、生物学者らと臆することなく面談しているが、おもに大英博物館本館や自然史博物館でのことだ。いわばビジネスのつきあいである。これに比して、博物館通いの「途上」や「帰途」に立ち寄る相手は多くが日本人だ。ロンドンには邦人社会がすでに根を張っていたことに驚かされる。著者はその中心にいて、宴会の幹事役も務めている。

 

 そのなかには、見世物団の一員で渡欧したらしい本業彫刻師の美術骨董商がいて、彼の店が溜まり場のようになっている(長谷川興蔵執筆「語注」による)。日本社会に収まりきらなかった青年群像が往時の世界の首都に吹き寄せられていたと言ったら言い過ぎか。

 

 こうした交流の様子から、そのころのロンドンでは日本人が疎外されていたのかもしれないとは思う。東洋人への偏見もあったのだろう。それが露わになったのが大英博物館殴打事件だ。著者は11月8日、図書室で英国人とみられる閲覧者を「ぶちのめす」。相手は「積年予に軽侮を加しやつ也」とある。このときは館に一札入れて収まった。これより早く4月にも、路上で「女の嘲弄」に遭ってあばれ、警察に拘束されたことが記述されている。

 

 だが、著者は狭い在英日本人社会に籠っていたわけではない。一例を挙げれば、三民主義を唱えた中国の革命指導者孫文との出会いだ。3月に限っても16日の初対面から月末までに、その名が日記に記された日は8回。26日から3日間は連日、夕食をともにしている。「夜、孫文氏とオクスフォード街ビアナ食肆に食す」「孫文氏とトテンハムコート街ショラー方に飯す(下等食店)」という具合だ。よほど意気投合したのに違いない。

 

 もう一つ興味深いのは、ハイドパークで無名人の演説をしばしば聴いていたことだ。この公園のスピーカーズコーナーという一角で足をとめたのだろう。たとえば、6月30日は「夕、ハイドパークにて無神論の演舌きく」、翌夕も「無神論演舌きく」、一日おいてまた「無神論演舌」だ。やがて「演舌家」の一人が博物館を訪ねて来たりもする。革命家、無神論……。著者の心は、既成社会主流から疎ましがられた人や思想に敏感に反応している。

 

 編者提案の「三つの位相」で言えば、このロンドン時代は第1期「空間を放浪した」に相当する。だが日記を読むと、町に住みついて「その場で動きつづける」という点で第3期にも似ている。著者は「孤高」と言われるが、その心はいつも他者とともにあった。

 

 排他の風潮が強まる今、熊楠から教えられることは多い。彼は差別に怒ったが、偏狭にはならなかった。むしろ抵抗の人、異端の人に耳を傾けている。寛容とはそういうことだ。

(執筆撮影・尾関章、通算371回)

 

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『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)

写真》朝日新聞2017年5月1日朝刊国際面

 「ほっ」ということだろう。5月の第1日曜日にあったフランス大統領選挙決選投票の結果である。欧州連合(EU)の統合路線を支持するエマニュエル・マクロン氏が、反EUを掲げて強硬な移民規制に乗りだそうとするマリーヌ・ルペン氏を大差で破った。自国第一主義ばかりが目立つ国際情勢にあって、欧州の要となる国の新大統領に近隣との協調を重んじる人が就いたことはなによりの安心材料だ。「ほっ」とする所以である。

 

 ただ、この決戦投票はふつうではなかった。どの国であれ、政権選択選挙では大政党同士がしのぎを削るものだが、その図式が見られなかったのだ。マクロン氏は既成の政党から距離を置く候補。一方、ルペン氏は右翼政党とされる国民戦線を率いてきた人だ。大統領選そのものには与党で左派の社会党も野党で保守の共和党も候補を立てたが、どちらも4月の第1回投票で敗れ、姿を消したのである。こんなことは西側先進国では珍しい。

 

 あえてつけ加えれば、マクロン氏はそれでも既成政党の重力圏にいる人とは言える。とにもかくにも、前任者フランソワ・オランド大統領の社会党政権で経済相を務めていたのである。今回、彼が政党に縛られずに出馬した背景には、右翼政党の勢力拡大に危機感を抱く声が左派のみならず保守層にも広がっていたという事情があるだろう。親EUを合言葉に幅広く票を集めるには1党に与しないほうがいい。そんな計算があっても不思議ではない。

 

 となると、この事態を呼び起こした張本人は、やはりルペン氏だ。というよりも、ルペン人気が半端ではなかったということである。ここで僕のような世代が驚かされるのは、彼女が今浴びる喝采と彼女の父ジャン=マリ・ルペン氏がかつて受けた扱いとの差の大きさだ。父は、1972年に国民戦線を旗揚げした人である。あのころの右翼は、民主主義国では時代錯誤の極みとみなされ、怖くはあったが冷笑の的となる脇役に過ぎなかった。

 

 こんな転変は、いったいどうして起こったのか。メディア流に言えば「ポピュリズムの台頭」の一語で片づけられるだろう。では、そのポピュリズムとは何なのか。当欄もこれまでわかったようなことを書いてきたが、きちんと理解できてはいない。米国大統領選の大番狂わせ、英国国民投票の「まさか」、フランス大統領選の奇異な構図というカードが出そろったところで、この潮流を動かしている社会のメカニズムを探ってみようと思う。

 

 で、今週は文字通り、『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)。著者は1970年西ドイツ生まれの政治学者。英国オックスフォード大学などで学んだ後、米国プリンストン大学の教授となった。この本の原著は去年刊行され、邦訳は今年4月に出た。著者本人による「日本語版への序文」は、1月にあったドナルド・トランプ米大統領の就任演説にも言及している。まさに旬の1冊と言えよう。

 

 この本は冒頭で、「ポピュリズム」という言葉の乱用を戒める。米国の大統領選出レースでは、トランプ旋風を指して言われただけではない。民主党の候補者指名争いで健闘した左派バーニー・サンダース氏も「ポピュリスト」呼ばわりされたという。「この言葉はたいてい『反エスタブリッシュメント』の同義語として用いられ、特定の政治理念とは無関係のように見える」。だが著者は、こうした大雑把な定義には同意しない。

 

この本は、序章で「本書は、われわれがポピュリズムを識別し、それに対処することを手助けしようとするものである」と宣言している。これは、いま僕たちが求めているものだ。著者によれば、既成社会のエリート層――すなわちエスタブリッシュメントを批判するだけではポピュリストの「必要条件」を満たしても「十分条件」にならない。では、どんな特質がそろえば、その名を与え得るのか。読み進んでいくと、その答えが見えてくる。

 

 ここでのキーワードは「人民(the people)」だ。日本語でジンミンと聞くと一党独裁の社会主義体制をイメージしがちなので、ヒトビトくらいに訳したほうがよいのかもしれない。著者は、この集合名詞でポピュリズムの本質を見抜く。「ポピュリストは、自分たちが、それも自分たちだけが、人民を代表していると主張する」。裏を返せば「ポピュリストはつねに〈反多元主義者〉」というのである(〈 〉箇所は原文では傍点付き、以下も)。

 

「ポピュリズムとは、ある特定の〈政治の道徳主義的な想像〉」と、著者は論じる。そこにあるのは「道徳的に純粋で完全に統一された人民」対「腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリート」の構図だという。エリートが堕落しやすいかどうかはさておくとして、人民がそんなに「純粋」であり、しかも「統一」されているとは言い難いように思う。著者も、それを「擬制的(フィクショナル)」と書いている。

 

 ここで引かれるのが、米国の政治家ジョージ・ウォレス氏のアラバマ州知事就任演説(1963年)だ。この人は1968年、米独立党から大統領選に出馬した。公民権運動に反対する右派として僕の脳裏には焼きついている。演説では、「いままでにこの地を歩んだ最も偉大な人民の名において」とことわったうえで人種分離政策を表明したという。強烈な違和感を覚えるのは、人民の分断を「人民」という言葉をもちだして訴える奇矯さである。

 

 著者は「いったい何がこのアラバマ州知事に全てのアメリカ人――ただし『暴政』の支持者たち、すなわちケネディ政権や、人種分離を終わらせるために活動している人びとの支持者を明らかに除いたもの――の名において語る権利を与えたのだろうか」と問う。そこに「偉大なアングロサクソンの南部」を「真のアメリカ」とする歪んだ合衆国観をみて、ポピュリズムの核心には「一部の人民のみが真に人民」ととらえる見方がある、という。

 

 なるほどと思ったのは、ポピュリストに「党」でない党派が目立つことを論じたくだりだ。本文や原注が挙げるのは、フランスの「国民戦線」、イタリアの「北部同盟」。オランダの自由党も、その中心母体は「財団」を名乗っているという。この傾向を、著者は「政党(a party)」という言葉から読み解く。それは「まさに(人民の)一部(a part)」に過ぎない。自分たちは一部ではなく、「真の人民」の「残余なき全体を表している」というわけだ。

 

 著者は、いくつかの学説を踏まえて「民主主義的な政治家」とポピュリストを比べる。その考察によれば、前者は自らの代表権を「仮説」と位置づけて「経験的に反証できるようにしている」。信を失えば、次の選挙で退くということだ。これに対して、後者は「道徳的」な代表を自任するので反証を受けつけない。ピンとくるのは、科学の条件として反証可能性を挙げた哲学者カール・ポパーの見解だ。ポピュリズムは科学と相性が悪いのだろう。

 

 反証可能ということは、間違うことがあるということだ。だから、民主主義は可変の仕掛けを用意する。そこでは「マジョリティの判断は誤りうるし、議論の対象になりうると想定され、マジョリティの交替が前提とされている」。ところが、ポピュリズムでは人民という名の「あらゆる制度の外にある同質的な実体」が想定され、「ひとつの正しい道徳的な決定がある」と考える。民主主義は柔らかいが、ポピュリズムはこわばっている。

 

 「自由委任」と「命令委任」の対比も出てくる。前者は議員に裁量を委ねるが、後者は議員に裁量権がない。民主主義的な憲法下では、政治家は自由委任される代わり、その判断の当否を次の選挙で問う。一方、ポピュリストは自らを「真の人民の忠実なスポークスマン」と規定するので、命令委任に近い立場を標榜する。だが実際は、何を委ねられているかを自分で「解釈」するだけだという。結果としては、こちらのほうが任せきりになる。

 

 貴重な助言は、憲法をめぐる記述だ。著者は、自身がポピュリストとみなす政権を例に挙げて、ポピュリズムの憲法には「多くのきわめて特定的な政策選好を変更不可能にする」という懸念があることを指摘する。見落とせないのは、民主主義の国では「そうした選好をめぐる議論が、日々の政治闘争の対象である」と言い添えていることだ。高等教育の無償化など個別のテーマをもちだして改憲すれば、ポピュリズム憲法同様の硬直が待っている。

 

 僕たちは人民である前に人間だ。人間は誤るのだから政治も柔軟でなくてはならない。

(執筆撮影・尾関章、通算370回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ゲノム編集とは何か――「DNAのメス」クリスパーの衝撃』

(小林雅一著、講談社現代新書)

写真》配列の編集

 木曽川が日本ラインと呼ばれる辺りに愛知県犬山市がある。国宝犬山城では天守閣がいにしえの姿を残している。犬山モンキーセンターや京都大学の霊長類研究所があってサル類に親しむ町でもある。だが、それだけではない。「犬山宣言」をご存じですか?

 

 1990年、この地で国際医学団体協議会(CIOMS)の国際会議が開かれた。テーマは「遺伝子」「倫理」「人間の価値」。そこで採択されたのが犬山宣言だ。ヒトゲノム(人の全遺伝情報)解読の本格始動に先だって、遺伝子を扱う医療の方向性を関連学界が示した。僕は記者として犬山に赴いたものの、百家争鳴の論争を科学面にまとめるくらいの心積もりだった。ところが配られた宣言を見て、これは第1面のニュースだと直感する。

 

 このときのバタバタは、拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)に書いた。「ノートに走り書きした原稿を電話で『吹き込む』という昔ながらの送稿をしたように思う」とある。「吹き込む」とは、字解きしながら読みあげることだ。こうして記事は1面に出た。宣言は「遺伝子治療を容認」したが、当面は「生殖細胞除外」などを条件に挙げている、という内容だった(朝日新聞1990年7月28日朝刊)。

 

 こんな思い出に浸ったのも、最近耳にする「ゲノム編集」の議論に犬山宣言の方向性が見てとれるからだ。この技術は、遺伝子の操作を旧来の組み換えよりも効率的にやってのける。その研究をどう進め、どう規制すべきかを考えるときにも「生殖細胞」が別扱いされている。人の細胞を二分して、臓器や組織に分化した体細胞と精子や卵子などの生殖細胞の間に一線を引く思想である。違いは、改変遺伝子が後続世代に受け継がれるかどうかにある。

 

 政府の総合科学技術・イノベーション会議生命倫理専門調査会が昨春公表した「ヒト受精胚へのゲノム編集技術を用いる研究」をめぐる「中間まとめ」がそうだ。そもそも調査会は、ゲノム編集について「ヒト受精胚への適用に限って、現時点での考え方の整理を行う」としている。その理由らしき記述も見つかる。「ヒト受精胚」に使えば「適用を受けた世代のみならず、次世代以降にも影響を与える可能性がある」と書いているのだ。

 

 受精胚は、生物学の厳密な定義では生殖細胞ではない。だが、精子や卵子も受精胚から分化するので、そのゲノム編集は子孫への影響が心配される。だから、この問題では生殖細胞扱いされることになる。犬山宣言に倣って、安易に容認できないという考え方が出てくる。

 

 で今週は、その新技術について。『ゲノム編集とは何か――「DNAのメス」クリスパーの衝撃』(小林雅一著、講談社現代新書)。去年8月に出た本だ。著者は1963年生まれ、東京大学で物理学を学び、日米のメディアなどで働いた後、通信大手の研究所に移ったという多彩な経歴の持ち主。その強みが、この本では存分に発揮されている。生命技術の最先端を、クラウドなど情報技術(IT)とも結びつけて活写しているのである。

 

 この本が焦点をあてるのは、ゲノム編集のなかでも「クリスパー・キャス9」、略称「クリスパー」という技術だ。「2012年頃、欧米の大学や研究機関を中心に開発された」ので、登場からまだ日が浅い。まず教えられるのは、従来の遺伝子組み換えとの違いだ。従来方式は「ほとんど偶然(運)に頼ったような確率的手法」だが、クリスパーなら「DNA上の狙った遺伝子をピンポイントで切断したり、改変することができる」としている。

 

 従来方式はどうして「確率的」なのか。遺伝子組み換えは1970年代前半に開発されて以来、DNAをハサミ役の制限酵素などで切り貼りする技術と説明されてきたが、それは面倒な手順を省いた話だった。たとえば、DNAから「狙った遺伝子」部分を切りだす作業。制限酵素は「特定の塩基配列」があるところを「どこでも切断してしまう」ので、出てきた数多くの断片から、その遺伝子を含むものだけを選り分けなくてはならない。

 

 切りだした遺伝子を生物のDNAに組み込むのも大仕事だ。ここで頼りにするのは、生殖細胞ができるときの減数分裂などで起こる「相同組み換え」という自然現象。父や母が遺伝子を子に伝えるとき、自分の父母、すなわち子にとっては祖父母のものをランダムに混ぜる過程だ。この生体に備わるしくみを生かして、導入したい遺伝子を含むDNA断片を取り込ませる。これも確率頼み。もともとの遺伝子と巧く入れ替わる頻度は「極めて低い」。

 

 従来方式の遺伝子組み換えの成功率はひとくちに言えないようだが、この本によれば、相同組み換えだけで「100万分の1」ということもある。ところが、クリスパーによる編集が達成される確率は「数十パーセント」という。ゲノム編集がもてはやされるわけだ。

 

 クリスパーは、細菌の免疫機構を生かす。そのしくみはこうだ。細菌のDNAには、先祖伝来の情報遺産として外敵ウイルスの塩基配列を取り込んだ部分がある。これで敵を見分けて相手の当該配列を壊す。このときに活躍するたんぱく質がキャス9。クリスパーでは、切りたい配列を人工合成してキャス9と結びつける。この複合体が標的の配列を切断するのだ。そこに導入する遺伝子の塩基配列を混ぜておくと、それがすっぽり入るという。

 

 この技術は、なによりも医療への応用が期待されている。がん治療では、免疫を担うリンパ球のT細胞にクリスパーを施し、対がん細胞攻撃力を維持する研究が進んでいるという。安全面の不安が除かれれば広がる可能性がある。この場合は、T細胞を体外に取りだして塩基配列を変える。一方、体内で変える例としては網膜の病気をクリスパーで治す計画もある。いずれも体細胞が相手なので1世代限りの遺伝子改変であり、抵抗感は小さい。

 

 踏みとどまるかどうかで悩むのは、やはり受精胚などのゲノム編集だ。犬山宣言に沿えば、後続世代のことを考えて慎重であるべきだ。ただこの本は、重い遺伝病が子孫に伝わる確率の高い人が子をもつときの苦悩にも言及している。着床前診断で病が伝わっていないのを確かめてから産む方法もあるが、それはそれで生命選択の是非論に直面することになろう。こんな現実を突きつけられると、受精胚編集の道も一概に断てないように思えてくる。

 

 ただ、受精胚のゲノム編集が始まると次に起こるかもしれない展開を著者は危惧する。はじめは病気の治療に限られても「ふと気が付いたときには『(生まれてくる赤ちゃんの)知的能力に関する遺伝子を可能な範囲で改良することは、親が果たすべき最低限の義務である』といった時代になっていることもあり得る」。身体能力しかり、姿かたちしかり。新しい技術が、人の倫理のものさしを一変させることは十分にありうるとみるべきだろう。

 

 留意すべき問題は、人以外のゲノム編集でもある。一例は「遺伝子ドライブ」だ。人類の視点に立って「都合の悪い遺伝子」を追い払ったり、「都合のいい遺伝子」を増殖させたりする。アフリカ・サハラ以南の蚊のゲノムをクリスパーで変え、マラリアの媒介蚊を一掃する構想もあるという。「食物連鎖の末端」にいる生物でも、「工学的に駆逐」すれば「長期的に見て地球の生態系に思わぬダメージを与える恐れがある」と、著者は指摘する。

 

 人を含むすべての生物のゲノムは自然界の一部だ。それを改変する技術を病苦からの解放のために用いる企ては、弱者を支援して社会の不平等をなくそうという現代リベラリズムの精神には適っている。だが他方で、歯止めなしに使えば生体や生態系のバランスを乱しかねないから環境保護思想のエコロジーと対立する。ゲノム編集の時代、リベラリズムとエコロジーの間のどこに最適解があるかを探らなくてはならない、と僕は思う。

 

 この本は、学界の知的財産権争いにも触れている。IT企業がゲノム情報のビッグデータ管理に乗りだした状況も描かれている。そして、クリスパー開発の中心にいた「2人の女性科学者」が賞の授賞式で「ほとんどセレブ並みの扱いを受けている」とする記述もある。

 

 ゲノム編集は生々しくも華やかな科学劇を僕たちに見せつけている。だが忘れてならないのは、そこに二つの現代思想がかかわる人類史的な葛藤が内在していることだ。

(執筆撮影・尾関章、通算369回)

 

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『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)

写真》ネガという言葉

 今年の4月は格別の思いで過ごした。ちょうど40年前、新聞記者になった春のことが記憶に蘇ったのだ。「そう言えば……」と、あのころの仕事ぶりを思い返すと40年の時間幅に改めて気づかされる。いろんなことがすっかり変わった。その一つが写真である。

 

 日本の全国紙記者は入社後、地方支局に送り込まれることが多い。僕も、北陸地方の県庁所在地で最初の4年間を過ごした。そこで先輩から真っ先に教わったのが、写真現像の手順だ。当時の支局には必ず、暗室があった。そこには、現像液を湛えた丈の高い角型タンクが置かれている。光がほとんど絶えた闇のなかでフィルムをパトローネから引きだし、陶製のおもりをつけて沈める。それが、新人記者が身につけるスキルの第1号だった。

 

 この原体験は、記者の取材行為の原点が「目撃」にあることを物語っている。世間には、ジャーナリズムというと記事を思い、写真は記事に添えられるものととらえる向きもあるが、業界内の受けとめ方は異なる。証拠を一つ挙げれば、僕たちはいつでもカメラ必携であったことだ。取材だけではない。私事で遠出するときもそれが当然のたしなみだった。たまたま事件や事故に出くわしたなら、必ずシャッターを押せ、と教えられていた。

 

 だから僕たちは、鞄のどこかにカメラを潜ませておく、というのが習いになった。年を経るごとに小型カメラの性能が高まったのは大助かりだったが、それでも、フィルムを入れ忘れていないか、電池は足りているか、といったことをいつも気にかけていたものだ。

 

 やがて、それが大きく様変わりする。まずは1980年代、「使い捨てカメラ」とも呼ばれたレンズ付きフィルムが登場する。自分のカメラを持ってくるのを忘れても、売店でこれを買えばとりあえずジャッターを押せる。そんな安全弁を手にしたのである。

 

 2000年代に入ると、デジタル化が一気に進む。新聞社では写真部員でさえもデジタルカメラを使うのがふつうになった。書くことを主務とする記者もデジカメを持つようになったが、それだけではない。携帯電話端末の撮影機能も、とっさの出来事には対応できるようになった。さらに続いたのが、スマートフォンの出現だ。くっきりしていて紙面にも耐える写真を撮れる装置をポケットに入れて持ち歩ける時代が到来したのである。

 

 で、今週は『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)。著者は戦場カメラマンの草分けとして、あまりにも有名だ。1913年、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のハンガリー・ブダペストで、ユダヤ人家庭に生まれた。スペイン内乱の報道写真で名をあげ、第2次世界大戦でも戦地に赴く。54年にインドシナ戦争の休戦協定が結ばれる直前、ベトナムで地雷によって一命を落とした。

 

 原著は、大戦後まもない1947年に米国の出版社から出た。邦訳は56年、ダヴィッド社から刊行される。79年に文春文庫の1冊となった。この本の魅力は、なんと言ってもその題名だろう。邦題は、原題の“SLIGHTLY OUT OF FOCUS”をそのまま訳している。

 

 ということで、まずは書名の由来と思われる記述に触れておこう。第2次大戦中のことだ。イタリア・シチリア島攻略の米落下傘部隊輸送機に同乗取材後、飛行場のテントに設けられた暗室で現像して米軍情報班の将校とともにジープに乗り込む。その車内で焼いたばかりの写真を見返したときの感想。「それらは、ちょっとピンぼけで、ちょっと露出不足で、構図は何といっても芸術作品とは言えない代物であった」(「ちょっとピンぼけ」に傍点)

 

 そうなのだ、報道写真は腕の確かな写真記者が撮ってもぶれることがある。いや、腕は確かであってもぶれるということが、ニュースの一部なのだろう。輸送機内はこうだった。「降下用意」の緑灯が灯る。「兵隊達はみんな立ち上って、彼らのパラシュートの留紐を真直にのばした。私は自分のカメラを用意した。次に赤い灯……降下の合図である」。こんなドタバタのなかで、これはという一瞬を切りとるのだ。ぶれていてこそ戦争の真実が伝わる。

 

 当たり前かもしれないが、戦場では腹ばいでいることが多いんだな、とも痛感した。たとえば、シチリア島攻略後のイタリア本土戦線。「私はぴったりと地面に腹をつけ、頭を大きな石の蔭によせ、両よこばらは私の両側の二人の兵隊に掩護される。砲弾の炸裂のたびに私は頭をもたげて、私の前方のぺちゃんこにされた兵隊と、爆発の淡く、立上る煙を写真にうつす」。手ぶれどころの騒ぎではない。ピントを合わせるのは至難だっただろう。

 

 この本最大の読みどころは、1944年6月6日(Dデイ)にフランス北部で展開された連合国軍のノルマンディー上陸作戦だ。このときも著者は、海岸に這いつくばっていた。砲弾の破片が降り注ぐなか、ひたすらシャッターを押しまくる。撮りきっても「濡れて、ふるえている手」ではフィルムを交換できない。「予期しない、新たな恐怖が頭のてっぺんから、足のつま先まで私をゆすぶって、顔がゆがんでゆくのが自分にも感じられた」

 

 著者は、このあと味方の装甲艇が近づいてくるのを見て海へ引き返す。「私は戦場から自分が逃げ去ろうとしてることに気がついた」「“俺は船へ手を乾かしにゆこうと思ってるだけなんだ”と自分にいいきかせた」。危険は見届けなくてはならない。だが、見届ければ自らが危険になる。記者の葛藤だ。さてここで気になるのは、彼にとって生命の次に大切なもののこと。「濡れないようにと、頭上高くカメラをさし上げていた」とある。さすがだ。

 

 この章には、「そのときキャパの手はふるえていた」というキャプションが付いた写真が載っている。波のまにまに兵士らしき人影が見え、後方に上陸用舟艇と思しき船が写っている。たしかにぼんやりとしていて、きっと震えのせいだろうと感じさせる。だが後段に、フィルムがロンドン事務所に届けられてからの暗室作業で助手が「昂奮のあまり」温度管理を誤ったためとある。その「昂奮」も含めてDデイの真実だったのだ、と僕は思う。

 

 書名には、たぶんもう一つの妙がある。戦場記者には強面の印象がつきまとうが、この本で綴られているのはユーモアたっぷりの自画像だ。取材の合間に恋を成就しようとする。クビを通告されても仕事を続ける。どこでもすぐに友だちをつくる。「ちょっとピンぼけ」の語感はそんな人間性と響きあう。もっとも人間らしい人間が非人間的な現実を生け捕る。彼の写真から戦争の愚を感じとれるのは、そんな構図があるからかもしれない。

 

 人間らしい人間は彼の周りにもいた。著者が1942年、ニューヨークで失業生活を送っていると、週刊誌の編集部から特派員として英国へ渡ってほしい、と注文がくる。ただ旅券がないし、ハンガリー出身で「敵国人扱い」されているので米国政府の出入国許可も要る。ここで、在米英国大使館に元地質学者の一風変わった情報官がいたことが幸いする。ワインを酌み交わすうちに意気投合して、英総領事や米国務省を動かしてくれた。

 

 英国内の米軍基地で離陸直前の中尉を撮ったときは、写真に写った爆撃機の「鼻先にある小さい黒い点」が問題となった。それが、「最大の機密」とも言える爆撃照準器だったのである。著者は軍法会議の予備訊問に呼ばれるが、その中尉は動じることなく、撮影者には照準器と軍用食の空き缶の違いもわからなかっただろう、という趣旨の証言をした。「不可抗力」だったと弁護してくれたわけだ。寛容な機知が通用する時代だった。

 

 その基地から24機が出撃して、17機しか戻らなかった日のこと。損傷機から負傷した乗組員が運びだされる。息絶えているような人もいる。操縦士には額に傷があった。近づいてレンズを向けたとたん、「どんな気で写真がとれるんだ!」となじられる。このあと「自分を嫌悪し、この職業を憎んだ」とある。と同時に「死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴える」とも書く。きわめて今日的なジャーナリストの苦悩である。

 

 報道写真家が今も戦場に出向くのは、同じ信念からだろう。ただ、ふと思うのは核戦争の脅威だ。そこでは「死んだり、傷ついたりした場面」を撮る時間すら与えられないまま、世界が廃墟となる。ジャーナリズムは、それが起こる前に真実を伝えなければならない。

(執筆撮影・尾関章、通算368回)

 

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