『ポピュリズムとは何か』(ヤン・ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)

写真》朝日新聞2017年5月1日朝刊国際面

 「ほっ」ということだろう。5月の第1日曜日にあったフランス大統領選挙決選投票の結果である。欧州連合(EU)の統合路線を支持するエマニュエル・マクロン氏が、反EUを掲げて強硬な移民規制に乗りだそうとするマリーヌ・ルペン氏を大差で破った。自国第一主義ばかりが目立つ国際情勢にあって、欧州の要となる国の新大統領に近隣との協調を重んじる人が就いたことはなによりの安心材料だ。「ほっ」とする所以である。

 

 ただ、この決戦投票はふつうではなかった。どの国であれ、政権選択選挙では大政党同士がしのぎを削るものだが、その図式が見られなかったのだ。マクロン氏は既成の政党から距離を置く候補。一方、ルペン氏は右翼政党とされる国民戦線を率いてきた人だ。大統領選そのものには与党で左派の社会党も野党で保守の共和党も候補を立てたが、どちらも4月の第1回投票で敗れ、姿を消したのである。こんなことは西側先進国では珍しい。

 

 あえてつけ加えれば、マクロン氏はそれでも既成政党の重力圏にいる人とは言える。とにもかくにも、前任者フランソワ・オランド大統領の社会党政権で経済相を務めていたのである。今回、彼が政党に縛られずに出馬した背景には、右翼政党の勢力拡大に危機感を抱く声が左派のみならず保守層にも広がっていたという事情があるだろう。親EUを合言葉に幅広く票を集めるには1党に与しないほうがいい。そんな計算があっても不思議ではない。

 

 となると、この事態を呼び起こした張本人は、やはりルペン氏だ。というよりも、ルペン人気が半端ではなかったということである。ここで僕のような世代が驚かされるのは、彼女が今浴びる喝采と彼女の父ジャン=マリ・ルペン氏がかつて受けた扱いとの差の大きさだ。父は、1972年に国民戦線を旗揚げした人である。あのころの右翼は、民主主義国では時代錯誤の極みとみなされ、怖くはあったが冷笑の的となる脇役に過ぎなかった。

 

 こんな転変は、いったいどうして起こったのか。メディア流に言えば「ポピュリズムの台頭」の一語で片づけられるだろう。では、そのポピュリズムとは何なのか。当欄もこれまでわかったようなことを書いてきたが、きちんと理解できてはいない。米国大統領選の大番狂わせ、英国国民投票の「まさか」、フランス大統領選の奇異な構図というカードが出そろったところで、この潮流を動かしている社会のメカニズムを探ってみようと思う。

 

 で、今週は文字通り、『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)。著者は1970年西ドイツ生まれの政治学者。英国オックスフォード大学などで学んだ後、米国プリンストン大学の教授となった。この本の原著は去年刊行され、邦訳は今年4月に出た。著者本人による「日本語版への序文」は、1月にあったドナルド・トランプ米大統領の就任演説にも言及している。まさに旬の1冊と言えよう。

 

 この本は冒頭で、「ポピュリズム」という言葉の乱用を戒める。米国の大統領選出レースでは、トランプ旋風を指して言われただけではない。民主党の候補者指名争いで健闘した左派バーニー・サンダース氏も「ポピュリスト」呼ばわりされたという。「この言葉はたいてい『反エスタブリッシュメント』の同義語として用いられ、特定の政治理念とは無関係のように見える」。だが著者は、こうした大雑把な定義には同意しない。

 

この本は、序章で「本書は、われわれがポピュリズムを識別し、それに対処することを手助けしようとするものである」と宣言している。これは、いま僕たちが求めているものだ。著者によれば、既成社会のエリート層――すなわちエスタブリッシュメントを批判するだけではポピュリストの「必要条件」を満たしても「十分条件」にならない。では、どんな特質がそろえば、その名を与え得るのか。読み進んでいくと、その答えが見えてくる。

 

 ここでのキーワードは「人民(the people)」だ。日本語でジンミンと聞くと一党独裁の社会主義体制をイメージしがちなので、ヒトビトくらいに訳したほうがよいのかもしれない。著者は、この集合名詞でポピュリズムの本質を見抜く。「ポピュリストは、自分たちが、それも自分たちだけが、人民を代表していると主張する」。裏を返せば「ポピュリストはつねに〈反多元主義者〉」というのである(〈 〉箇所は原文では傍点付き、以下も)。

 

「ポピュリズムとは、ある特定の〈政治の道徳主義的な想像〉」と、著者は論じる。そこにあるのは「道徳的に純粋で完全に統一された人民」対「腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリート」の構図だという。エリートが堕落しやすいかどうかはさておくとして、人民がそんなに「純粋」であり、しかも「統一」されているとは言い難いように思う。著者も、それを「擬制的(フィクショナル)」と書いている。

 

 ここで引かれるのが、米国の政治家ジョージ・ウォレス氏のアラバマ州知事就任演説(1963年)だ。この人は1968年、米独立党から大統領選に出馬した。公民権運動に反対する右派として僕の脳裏には焼きついている。演説では、「いままでにこの地を歩んだ最も偉大な人民の名において」とことわったうえで人種分離政策を表明したという。強烈な違和感を覚えるのは、人民の分断を「人民」という言葉をもちだして訴える奇矯さである。

 

 著者は「いったい何がこのアラバマ州知事に全てのアメリカ人――ただし『暴政』の支持者たち、すなわちケネディ政権や、人種分離を終わらせるために活動している人びとの支持者を明らかに除いたもの――の名において語る権利を与えたのだろうか」と問う。そこに「偉大なアングロサクソンの南部」を「真のアメリカ」とする歪んだ合衆国観をみて、ポピュリズムの核心には「一部の人民のみが真に人民」ととらえる見方がある、という。

 

 なるほどと思ったのは、ポピュリストに「党」でない党派が目立つことを論じたくだりだ。本文や原注が挙げるのは、フランスの「国民戦線」、イタリアの「北部同盟」。オランダの自由党も、その中心母体は「財団」を名乗っているという。この傾向を、著者は「政党(a party)」という言葉から読み解く。それは「まさに(人民の)一部(a part)」に過ぎない。自分たちは一部ではなく、「真の人民」の「残余なき全体を表している」というわけだ。

 

 著者は、いくつかの学説を踏まえて「民主主義的な政治家」とポピュリストを比べる。その考察によれば、前者は自らの代表権を「仮説」と位置づけて「経験的に反証できるようにしている」。信を失えば、次の選挙で退くということだ。これに対して、後者は「道徳的」な代表を自任するので反証を受けつけない。ピンとくるのは、科学の条件として反証可能性を挙げた哲学者カール・ポパーの見解だ。ポピュリズムは科学と相性が悪いのだろう。

 

 反証可能ということは、間違うことがあるということだ。だから、民主主義は可変の仕掛けを用意する。そこでは「マジョリティの判断は誤りうるし、議論の対象になりうると想定され、マジョリティの交替が前提とされている」。ところが、ポピュリズムでは人民という名の「あらゆる制度の外にある同質的な実体」が想定され、「ひとつの正しい道徳的な決定がある」と考える。民主主義は柔らかいが、ポピュリズムはこわばっている。

 

 「自由委任」と「命令委任」の対比も出てくる。前者は議員に裁量を委ねるが、後者は議員に裁量権がない。民主主義的な憲法下では、政治家は自由委任される代わり、その判断の当否を次の選挙で問う。一方、ポピュリストは自らを「真の人民の忠実なスポークスマン」と規定するので、命令委任に近い立場を標榜する。だが実際は、何を委ねられているかを自分で「解釈」するだけだという。結果としては、こちらのほうが任せきりになる。

 

 貴重な助言は、憲法をめぐる記述だ。著者は、自身がポピュリストとみなす政権を例に挙げて、ポピュリズムの憲法には「多くのきわめて特定的な政策選好を変更不可能にする」という懸念があることを指摘する。見落とせないのは、民主主義の国では「そうした選好をめぐる議論が、日々の政治闘争の対象である」と言い添えていることだ。高等教育の無償化など個別のテーマをもちだして改憲すれば、ポピュリズム憲法同様の硬直が待っている。

 

 僕たちは人民である前に人間だ。人間は誤るのだから政治も柔軟でなくてはならない。

(執筆撮影・尾関章、通算370回)

 

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『ゲノム編集とは何か――「DNAのメス」クリスパーの衝撃』

(小林雅一著、講談社現代新書)

写真》配列の編集

 木曽川が日本ラインと呼ばれる辺りに愛知県犬山市がある。国宝犬山城では天守閣がいにしえの姿を残している。犬山モンキーセンターや京都大学の霊長類研究所があってサル類に親しむ町でもある。だが、それだけではない。「犬山宣言」をご存じですか?

 

 1990年、この地で国際医学団体協議会(CIOMS)の国際会議が開かれた。テーマは「遺伝子」「倫理」「人間の価値」。そこで採択されたのが犬山宣言だ。ヒトゲノム(人の全遺伝情報)解読の本格始動に先だって、遺伝子を扱う医療の方向性を関連学界が示した。僕は記者として犬山に赴いたものの、百家争鳴の論争を科学面にまとめるくらいの心積もりだった。ところが配られた宣言を見て、これは第1面のニュースだと直感する。

 

 このときのバタバタは、拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代全書)に書いた。「ノートに走り書きした原稿を電話で『吹き込む』という昔ながらの送稿をしたように思う」とある。「吹き込む」とは、字解きしながら読みあげることだ。こうして記事は1面に出た。宣言は「遺伝子治療を容認」したが、当面は「生殖細胞除外」などを条件に挙げている、という内容だった(朝日新聞1990年7月28日朝刊)。

 

 こんな思い出に浸ったのも、最近耳にする「ゲノム編集」の議論に犬山宣言の方向性が見てとれるからだ。この技術は、遺伝子の操作を旧来の組み換えよりも効率的にやってのける。その研究をどう進め、どう規制すべきかを考えるときにも「生殖細胞」が別扱いされている。人の細胞を二分して、臓器や組織に分化した体細胞と精子や卵子などの生殖細胞の間に一線を引く思想である。違いは、改変遺伝子が後続世代に受け継がれるかどうかにある。

 

 政府の総合科学技術・イノベーション会議生命倫理専門調査会が昨春公表した「ヒト受精胚へのゲノム編集技術を用いる研究」をめぐる「中間まとめ」がそうだ。そもそも調査会は、ゲノム編集について「ヒト受精胚への適用に限って、現時点での考え方の整理を行う」としている。その理由らしき記述も見つかる。「ヒト受精胚」に使えば「適用を受けた世代のみならず、次世代以降にも影響を与える可能性がある」と書いているのだ。

 

 受精胚は、生物学の厳密な定義では生殖細胞ではない。だが、精子や卵子も受精胚から分化するので、そのゲノム編集は子孫への影響が心配される。だから、この問題では生殖細胞扱いされることになる。犬山宣言に倣って、安易に容認できないという考え方が出てくる。

 

 で今週は、その新技術について。『ゲノム編集とは何か――「DNAのメス」クリスパーの衝撃』(小林雅一著、講談社現代新書)。去年8月に出た本だ。著者は1963年生まれ、東京大学で物理学を学び、日米のメディアなどで働いた後、通信大手の研究所に移ったという多彩な経歴の持ち主。その強みが、この本では存分に発揮されている。生命技術の最先端を、クラウドなど情報技術(IT)とも結びつけて活写しているのである。

 

 この本が焦点をあてるのは、ゲノム編集のなかでも「クリスパー・キャス9」、略称「クリスパー」という技術だ。「2012年頃、欧米の大学や研究機関を中心に開発された」ので、登場からまだ日が浅い。まず教えられるのは、従来の遺伝子組み換えとの違いだ。従来方式は「ほとんど偶然(運)に頼ったような確率的手法」だが、クリスパーなら「DNA上の狙った遺伝子をピンポイントで切断したり、改変することができる」としている。

 

 従来方式はどうして「確率的」なのか。遺伝子組み換えは1970年代前半に開発されて以来、DNAをハサミ役の制限酵素などで切り貼りする技術と説明されてきたが、それは面倒な手順を省いた話だった。たとえば、DNAから「狙った遺伝子」部分を切りだす作業。制限酵素は「特定の塩基配列」があるところを「どこでも切断してしまう」ので、出てきた数多くの断片から、その遺伝子を含むものだけを選り分けなくてはならない。

 

 切りだした遺伝子を生物のDNAに組み込むのも大仕事だ。ここで頼りにするのは、生殖細胞ができるときの減数分裂などで起こる「相同組み換え」という自然現象。父や母が遺伝子を子に伝えるとき、自分の父母、すなわち子にとっては祖父母のものをランダムに混ぜる過程だ。この生体に備わるしくみを生かして、導入したい遺伝子を含むDNA断片を取り込ませる。これも確率頼み。もともとの遺伝子と巧く入れ替わる頻度は「極めて低い」。

 

 従来方式の遺伝子組み換えの成功率はひとくちに言えないようだが、この本によれば、相同組み換えだけで「100万分の1」ということもある。ところが、クリスパーによる編集が達成される確率は「数十パーセント」という。ゲノム編集がもてはやされるわけだ。

 

 クリスパーは、細菌の免疫機構を生かす。そのしくみはこうだ。細菌のDNAには、先祖伝来の情報遺産として外敵ウイルスの塩基配列を取り込んだ部分がある。これで敵を見分けて相手の当該配列を壊す。このときに活躍するたんぱく質がキャス9。クリスパーでは、切りたい配列を人工合成してキャス9と結びつける。この複合体が標的の配列を切断するのだ。そこに導入する遺伝子の塩基配列を混ぜておくと、それがすっぽり入るという。

 

 この技術は、なによりも医療への応用が期待されている。がん治療では、免疫を担うリンパ球のT細胞にクリスパーを施し、対がん細胞攻撃力を維持する研究が進んでいるという。安全面の不安が除かれれば広がる可能性がある。この場合は、T細胞を体外に取りだして塩基配列を変える。一方、体内で変える例としては網膜の病気をクリスパーで治す計画もある。いずれも体細胞が相手なので1世代限りの遺伝子改変であり、抵抗感は小さい。

 

 踏みとどまるかどうかで悩むのは、やはり受精胚などのゲノム編集だ。犬山宣言に沿えば、後続世代のことを考えて慎重であるべきだ。ただこの本は、重い遺伝病が子孫に伝わる確率の高い人が子をもつときの苦悩にも言及している。着床前診断で病が伝わっていないのを確かめてから産む方法もあるが、それはそれで生命選択の是非論に直面することになろう。こんな現実を突きつけられると、受精胚編集の道も一概に断てないように思えてくる。

 

 ただ、受精胚のゲノム編集が始まると次に起こるかもしれない展開を著者は危惧する。はじめは病気の治療に限られても「ふと気が付いたときには『(生まれてくる赤ちゃんの)知的能力に関する遺伝子を可能な範囲で改良することは、親が果たすべき最低限の義務である』といった時代になっていることもあり得る」。身体能力しかり、姿かたちしかり。新しい技術が、人の倫理のものさしを一変させることは十分にありうるとみるべきだろう。

 

 留意すべき問題は、人以外のゲノム編集でもある。一例は「遺伝子ドライブ」だ。人類の視点に立って「都合の悪い遺伝子」を追い払ったり、「都合のいい遺伝子」を増殖させたりする。アフリカ・サハラ以南の蚊のゲノムをクリスパーで変え、マラリアの媒介蚊を一掃する構想もあるという。「食物連鎖の末端」にいる生物でも、「工学的に駆逐」すれば「長期的に見て地球の生態系に思わぬダメージを与える恐れがある」と、著者は指摘する。

 

 人を含むすべての生物のゲノムは自然界の一部だ。それを改変する技術を病苦からの解放のために用いる企ては、弱者を支援して社会の不平等をなくそうという現代リベラリズムの精神には適っている。だが他方で、歯止めなしに使えば生体や生態系のバランスを乱しかねないから環境保護思想のエコロジーと対立する。ゲノム編集の時代、リベラリズムとエコロジーの間のどこに最適解があるかを探らなくてはならない、と僕は思う。

 

 この本は、学界の知的財産権争いにも触れている。IT企業がゲノム情報のビッグデータ管理に乗りだした状況も描かれている。そして、クリスパー開発の中心にいた「2人の女性科学者」が賞の授賞式で「ほとんどセレブ並みの扱いを受けている」とする記述もある。

 

 ゲノム編集は生々しくも華やかな科学劇を僕たちに見せつけている。だが忘れてならないのは、そこに二つの現代思想がかかわる人類史的な葛藤が内在していることだ。

(執筆撮影・尾関章、通算369回)

 

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『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)

写真》ネガという言葉

 今年の4月は格別の思いで過ごした。ちょうど40年前、新聞記者になった春のことが記憶に蘇ったのだ。「そう言えば……」と、あのころの仕事ぶりを思い返すと40年の時間幅に改めて気づかされる。いろんなことがすっかり変わった。その一つが写真である。

 

 日本の全国紙記者は入社後、地方支局に送り込まれることが多い。僕も、北陸地方の県庁所在地で最初の4年間を過ごした。そこで先輩から真っ先に教わったのが、写真現像の手順だ。当時の支局には必ず、暗室があった。そこには、現像液を湛えた丈の高い角型タンクが置かれている。光がほとんど絶えた闇のなかでフィルムをパトローネから引きだし、陶製のおもりをつけて沈める。それが、新人記者が身につけるスキルの第1号だった。

 

 この原体験は、記者の取材行為の原点が「目撃」にあることを物語っている。世間には、ジャーナリズムというと記事を思い、写真は記事に添えられるものととらえる向きもあるが、業界内の受けとめ方は異なる。証拠を一つ挙げれば、僕たちはいつでもカメラ必携であったことだ。取材だけではない。私事で遠出するときもそれが当然のたしなみだった。たまたま事件や事故に出くわしたなら、必ずシャッターを押せ、と教えられていた。

 

 だから僕たちは、鞄のどこかにカメラを潜ませておく、というのが習いになった。年を経るごとに小型カメラの性能が高まったのは大助かりだったが、それでも、フィルムを入れ忘れていないか、電池は足りているか、といったことをいつも気にかけていたものだ。

 

 やがて、それが大きく様変わりする。まずは1980年代、「使い捨てカメラ」とも呼ばれたレンズ付きフィルムが登場する。自分のカメラを持ってくるのを忘れても、売店でこれを買えばとりあえずジャッターを押せる。そんな安全弁を手にしたのである。

 

 2000年代に入ると、デジタル化が一気に進む。新聞社では写真部員でさえもデジタルカメラを使うのがふつうになった。書くことを主務とする記者もデジカメを持つようになったが、それだけではない。携帯電話端末の撮影機能も、とっさの出来事には対応できるようになった。さらに続いたのが、スマートフォンの出現だ。くっきりしていて紙面にも耐える写真を撮れる装置をポケットに入れて持ち歩ける時代が到来したのである。

 

 で、今週は『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)。著者は戦場カメラマンの草分けとして、あまりにも有名だ。1913年、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のハンガリー・ブダペストで、ユダヤ人家庭に生まれた。スペイン内乱の報道写真で名をあげ、第2次世界大戦でも戦地に赴く。54年にインドシナ戦争の休戦協定が結ばれる直前、ベトナムで地雷によって一命を落とした。

 

 原著は、大戦後まもない1947年に米国の出版社から出た。邦訳は56年、ダヴィッド社から刊行される。79年に文春文庫の1冊となった。この本の魅力は、なんと言ってもその題名だろう。邦題は、原題の“SLIGHTLY OUT OF FOCUS”をそのまま訳している。

 

 ということで、まずは書名の由来と思われる記述に触れておこう。第2次大戦中のことだ。イタリア・シチリア島攻略の米落下傘部隊輸送機に同乗取材後、飛行場のテントに設けられた暗室で現像して米軍情報班の将校とともにジープに乗り込む。その車内で焼いたばかりの写真を見返したときの感想。「それらは、ちょっとピンぼけで、ちょっと露出不足で、構図は何といっても芸術作品とは言えない代物であった」(「ちょっとピンぼけ」に傍点)

 

 そうなのだ、報道写真は腕の確かな写真記者が撮ってもぶれることがある。いや、腕は確かであってもぶれるということが、ニュースの一部なのだろう。輸送機内はこうだった。「降下用意」の緑灯が灯る。「兵隊達はみんな立ち上って、彼らのパラシュートの留紐を真直にのばした。私は自分のカメラを用意した。次に赤い灯……降下の合図である」。こんなドタバタのなかで、これはという一瞬を切りとるのだ。ぶれていてこそ戦争の真実が伝わる。

 

 当たり前かもしれないが、戦場では腹ばいでいることが多いんだな、とも痛感した。たとえば、シチリア島攻略後のイタリア本土戦線。「私はぴったりと地面に腹をつけ、頭を大きな石の蔭によせ、両よこばらは私の両側の二人の兵隊に掩護される。砲弾の炸裂のたびに私は頭をもたげて、私の前方のぺちゃんこにされた兵隊と、爆発の淡く、立上る煙を写真にうつす」。手ぶれどころの騒ぎではない。ピントを合わせるのは至難だっただろう。

 

 この本最大の読みどころは、1944年6月6日(Dデイ)にフランス北部で展開された連合国軍のノルマンディー上陸作戦だ。このときも著者は、海岸に這いつくばっていた。砲弾の破片が降り注ぐなか、ひたすらシャッターを押しまくる。撮りきっても「濡れて、ふるえている手」ではフィルムを交換できない。「予期しない、新たな恐怖が頭のてっぺんから、足のつま先まで私をゆすぶって、顔がゆがんでゆくのが自分にも感じられた」

 

 著者は、このあと味方の装甲艇が近づいてくるのを見て海へ引き返す。「私は戦場から自分が逃げ去ろうとしてることに気がついた」「“俺は船へ手を乾かしにゆこうと思ってるだけなんだ”と自分にいいきかせた」。危険は見届けなくてはならない。だが、見届ければ自らが危険になる。記者の葛藤だ。さてここで気になるのは、彼にとって生命の次に大切なもののこと。「濡れないようにと、頭上高くカメラをさし上げていた」とある。さすがだ。

 

 この章には、「そのときキャパの手はふるえていた」というキャプションが付いた写真が載っている。波のまにまに兵士らしき人影が見え、後方に上陸用舟艇と思しき船が写っている。たしかにぼんやりとしていて、きっと震えのせいだろうと感じさせる。だが後段に、フィルムがロンドン事務所に届けられてからの暗室作業で助手が「昂奮のあまり」温度管理を誤ったためとある。その「昂奮」も含めてDデイの真実だったのだ、と僕は思う。

 

 書名には、たぶんもう一つの妙がある。戦場記者には強面の印象がつきまとうが、この本で綴られているのはユーモアたっぷりの自画像だ。取材の合間に恋を成就しようとする。クビを通告されても仕事を続ける。どこでもすぐに友だちをつくる。「ちょっとピンぼけ」の語感はそんな人間性と響きあう。もっとも人間らしい人間が非人間的な現実を生け捕る。彼の写真から戦争の愚を感じとれるのは、そんな構図があるからかもしれない。

 

 人間らしい人間は彼の周りにもいた。著者が1942年、ニューヨークで失業生活を送っていると、週刊誌の編集部から特派員として英国へ渡ってほしい、と注文がくる。ただ旅券がないし、ハンガリー出身で「敵国人扱い」されているので米国政府の出入国許可も要る。ここで、在米英国大使館に元地質学者の一風変わった情報官がいたことが幸いする。ワインを酌み交わすうちに意気投合して、英総領事や米国務省を動かしてくれた。

 

 英国内の米軍基地で離陸直前の中尉を撮ったときは、写真に写った爆撃機の「鼻先にある小さい黒い点」が問題となった。それが、「最大の機密」とも言える爆撃照準器だったのである。著者は軍法会議の予備訊問に呼ばれるが、その中尉は動じることなく、撮影者には照準器と軍用食の空き缶の違いもわからなかっただろう、という趣旨の証言をした。「不可抗力」だったと弁護してくれたわけだ。寛容な機知が通用する時代だった。

 

 その基地から24機が出撃して、17機しか戻らなかった日のこと。損傷機から負傷した乗組員が運びだされる。息絶えているような人もいる。操縦士には額に傷があった。近づいてレンズを向けたとたん、「どんな気で写真がとれるんだ!」となじられる。このあと「自分を嫌悪し、この職業を憎んだ」とある。と同時に「死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴える」とも書く。きわめて今日的なジャーナリストの苦悩である。

 

 報道写真家が今も戦場に出向くのは、同じ信念からだろう。ただ、ふと思うのは核戦争の脅威だ。そこでは「死んだり、傷ついたりした場面」を撮る時間すら与えられないまま、世界が廃墟となる。ジャーナリズムは、それが起こる前に真実を伝えなければならない。

(執筆撮影・尾関章、通算368回)

 

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『歌謡曲が聴こえる』(片岡義男著、新潮新書)

写真》蔦の葉

 「つたのからまるちゃぺる」と聞いて、初めはなんのことやらわからなかった。メロディーの心地よさに惹かれて僕も口ずさんでいたが、「蔦」が「絡」みついた「チャペル」とわかり、情景を思い描けるようになったのはしばらくたってからだ。今や和製ポップスのスタンダードナンバーと言える「学生時代」のことである。平岡精二作詞作曲。1964年に世に出た。この歌を歌ったペギー葉山さんが4月に死去した。享年83。

 

 メディアの訃報では、ペギーさんの代表曲として「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」を挙げている例が多かったように思うが、僕は真っ先に「学生時代」を思い浮かべた。その日は一日じゅう、この歌を口のなかで口ずさんでいた。それは、理由があってのことだ。

 

 これは記憶をもとに書くしかないけれど、ペギーさんが出たテレビ番組で忘れられない場面がある。たぶん1970年代、彼女がフジテレビ系の長寿番組「ミュージックフェア」に出ていて曲の合間に将来の夢などを語っていたときのことだ。司会役の南田洋子・長門裕之夫妻が「そうですか、音楽学校をつくりたいのね?」と相槌を打つと、きっぱりと言い返したのだ。「いや、学校じゃないの、音楽学院。学院のほうがいいでしょ」

 

 唐突な逆襲ではあった。なぜそんな細部にこだわるのか、とも思った。だが、後にペギーさんが青山学院女子高等部卒と知って納得する。彼女の脳裏には、青学のイメージが焼きついていたのだ。これはそのまま「学生時代」の蔦の絡まる礼拝堂につながる。そう言えば、詞を書いた平岡精二さんもまた青学出身だった。この歌から匂ってくるミッションスクールの空気は青学のそれであり、彼女のアイデンティティそのものだったのだろう。

 

 平岡さんは、ヴァイブラフォン奏者として知られるジャズミュージシャン。つくった曲には「爪」「あいつ」などもある。これは歌詞を聴けばすぐわかるように、恋人との別れを歌ったものだ。「爪」は、ペギーさんの持ち歌でもある。平岡・ペギーのコンビは「学生…」のような青春歌謡を発信しただけではなかった。大人の恋をしっとりと歌うジャズも残してくれた。これもまた青学のおしゃれな気風がもたらしたものと言えるかもしれない。

 

 気になるのは、ペギーという名の由来だ。進駐軍のクラブで歌っていたこともあるので、ジャズ歌手のペギー・リーから名づけたのだろうと思っていたが、そうではないらしい。彼女はこの疑問に、自身のブログコメント欄で答えている。学生のころ、電話の混線で知りあったアメリカ人と受話器を通じて英会話の練習をするようになり、名前をつけてと頼んだら「あなたの声のサウンドはPEGGYだ」と言われたのだという。

 

 当欄はこれまでも和製ポップスの先人を思い返してきた。NHK「夢であいましょう」の坂本九や日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」のザ・ピーナッツ(2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」)、グループサウンズの加瀬邦彦(2015年5月8日付あなたとは世界が違うという話」)やムッシュかまやつ(2017年3月10日付「どうにかなるか、ムッシュに聞こう」)という面々だ。だが、それよりさらに源流がある。

 

 見えてくるのは、電話の「混線」がしばしばあり、そこに聞こえてくる声の主が米国人でも不思議ではなかったという時代だ。戦争が終わって一転、洋風であることが憧憬の的となった。そんな世相を背景に生まれたのが、平岡・ペギーのジャズではなかったか。

 

 で、今週は『歌謡曲が聴こえる』(片岡義男著、新潮新書)。2014年刊。2012〜13年の『新潮45』誌連載をもとにしている。著者は当欄常連の作家。日系二世の父をもち、バタ臭い印象がある。これほどの歌謡曲通であることは、この本で初めて知った。

 

 著者が歌謡曲に目覚めた瞬間は強烈だ。1962年、大学4年の夏に房総からの帰途、フェリーを降りた東京・竹芝桟橋。なんの催しか、仮設舞台に派手な着物姿のこまどり姉妹がいた。「強い風を受けて裾はまくれ上がり、袂は水平になびき、はためいた」「マイクロフォンで拾われスピーカーから放たれる彼女たちの歌声は、風にちぎれていろんな方向へと飛んでいった」。それが、同じ双子デュオでもザ・ピーナッツでなかったことに僕は驚く。

 

 それからの歌謡曲遍歴は半端ではない。それは『全音歌謡曲全集』(全音楽譜出版社)という本を読み、その掲載曲のシングルレコード(「七インチ盤」)を買うことから始まった。はじめは新曲中心だったが、やがて過去の歌謡史もたどるようになる。そのために『全音…』とは別の全集も読み込んだ、という。そのおかげだろう。著者は、終戦直後のヒット曲「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)などについても蘊蓄を披露している。

 

 だがここでは、著者の知識よりも体験に目を向けて話を進めることにしよう。中学生だった1953年のことだ。「ある日の夜、ラジオから聴こえていた若い女性が歌うジャズを耳にした父親は、その人はなんという歌手かと僕に訊ねた」。著者が「ナンシー梅木だそうです」と告げると、父は言う。「ナンシーと言っても僕のような二世ではないね。しかし彼女ならいますぐアメリカへいっても、いろんな客の前で歌って、盛んな拍手が来るよ」

 

 著者は父の感想をこう読み解く。「彼が問題にしていたのは英語だったと思う」「発音とは構文であり、そのことは歌であってもなんら変わりはない」「発音そのものも重要だが、それよりもっと切実なのは、構文の正しい理解だ、ということを父親は言いたかったのだと、いま僕は思う」。戦後ほどない日本にも英語をきちんと話せる人々がいた。こうして英名を名乗るジャズ歌手が現れる。ミッションスクールに通うペギーさんもその一人だった。

 

 このナンシー梅木という歌手を僕はリアルタイムでは知らない。この本によると、北海道や東北の進駐軍施設で歌っていたが、その後、東京の民放ラジオなどで活躍するようになった。1955年に米国へ渡り、歌手だけではなく女優の仕事もこなした。特記すべきは、映画「サヨナラ」(ジョシュア・ローガン監督、1957年)でアカデミー助演女優賞を受けたことだ。米国では、本名に戻してミヨシ・ウメキとして活動していたという。

 

 ナンシーは日本時代、歌謡曲を英語だけで歌うことを試みた。「君待てども」(東辰三作詞作曲)の英語版「アイム・ウェイティング・フォ・ユー」(原文のママ)だ。この言葉が、そのまま冒頭の旋律に載った。「英語の歌詞がつき、その歌詞で歌われることなど、誰も想像すらしなかった歌」が英詞と編曲で大化けしたのだ。そして、日本の歌手が「まるでアメリカの歌手のように英語で」「日本で歌って録音する」。そんな画期的な作品となった。

 

 ところが彼女は米国でミヨシになったとたん、今度は日本語を求められる。英語の歌を日本語や日本語交じりの詞にかえて歌うLPもつくられた。さらに興味深いのは、英語で歌うときには「オリエンタルのアクセント」があるという話だ。著者はそれを聴き逃さず、彼女にとって「容姿と演技のチャーミングな様子にさらに加えるなにものか」は「かすかにではあったが確実に存在した、オリエンタルのアクセントだった」と推察している。

 

 この本にはもう一人、芸名に英名を含む歌手が登場する。「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)のフランク永井だ。著者は、彼が雑誌かどこかで語ったらしい「歌詞の日本語の発音のなかに英語の歌詞の発音のしかたを自分は取り込もうとしている」という趣旨の発言を覚えていて、それは「英語ふうに発音してみる」ことではないと断じる。桑田佳祐流のようには表に出さず、内面に込めた「英語ふう」のニュアンスなのだろう。

 

 おもしろかったのは、田端義夫のギター話。彼は1954年に東京・銀座で買った「アメリカ製の電気ギター」に自分なりの改造を加えて、生涯愛用したという。「オッス」で始まるバタヤンの演歌世界も米国のエレキサウンドと表裏の関係を成していたのである。

 

 敗戦国日本と戦勝国アメリカの違いが際立った時代、その狭間に独自の音楽世界が芽生えた。それを花開かせたのが、ペギーやナンシーやフランクだ。グローバル化の今、その懐かしい旋律群は当時の日本社会が米国に対して抱いていた距離感を伝えてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算367回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』

(藻谷浩介、NHK広島取材班著、角川oneテーマ21)

写真》新緑に里山を思う

 年寄りじみていたなあと、年寄りになって思うことがある。若かったころの嗜好についてだ。小さな旅、というのもその一つだろう。あのころ、海外旅行に出ようなどという気はまったくなかった。いや、それどころではない。北アルプスを踏破しようとも、湘南をドライブしようとも思わなかった。東京23区内から郊外電車に乗って30分足らず、川を渡ればそこに丘の連なりがある。その穏やかな自然に心惹かれたりしていた。

 

 1970年代、その丘陵地を貫く電車を降りて山道をほんのちょっと歩いていたとき、目を疑う光景に出会った。それは、まぎれもなく炭焼きの窯だった。煙が立ちのぼっていたかどうか、という記憶はすでにおぼろだが、現に使われているものではあったと思う。

 

 半世紀近くも前なので、もしかしたら幻想ではなかったかという懸念もある。それでネットを調べてみたら、多摩市文化振興財団のサイトに貴重な資料を見つけた。財団発行の「パルテノン多摩 MUSEUM NEWS」(2005年12月1日付)が、同財団の刊行物『写真で綴る多摩100年』を引用して、1970年代の炭焼き作業を写真付きで紹介していたのである。僕が窯を見た場所は多摩市内ではないが、同じ一つながりの丘陵地帯にある。

 

 写真は1971年の撮影。野良着姿の女性が小屋から籠を運び出していて、遠くに宅地向けの配水塔が見える。説明文にあるように「ニュータウン開発による雑木林の消滅」や「ガス・石油へのエネルギーの転換」が進んだころで、都市近郊の炭焼きは風前の灯だった。

 

 僕が川向こうの丘に見た穏やかな自然は、「里山」と呼べるものだ。言葉を換えれば、人里の近くにあって麓の人々に恩恵をもたらしてきた山である。なかでも大きな恵みは、薪や炭だった。その素材となるコナラやクヌギなどの二次林では、切りながら森を保つという循環が繰り返されてきた。里山の新緑がまぶしいのは、そんな事情で落葉広葉樹が多いせいだ。そこには、人も生態系の一員だというエコロジーが根づいている。

 

 で、今週は『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷浩介、NHK広島取材班著、角川oneテーマ21)。筆頭著者は1964年生まれ。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)出身のエコノミストで、シンクタンク研究員。この本は、NHK広島放送局が制作する地域情報番組のシリーズ企画をもとにしている。2011年から1年半、放映されたらしい。「里山資本主義」という言葉は、この企画から生まれたという。

 

 この本は2013年夏に刊行されると、たちまち話題を呼んだ。2014年の「新書大賞」にも選ばれている。なんと言っても、書名がキャッチーだ。「里山」の語感がいい。だが、それだけではないだろう。3・11からまだ2年後で、福島の原発事故は日本の国策が里山の炭焼き小屋を置き去りにしたことのしっぺ返し、という反省が世間に強かったからだと思う。ただあまりに時流に沿っていたので、その時点で僕は本を手にとらなかった。

 

 それが、さらに4年たってどうだろう。あの反省は、ほとんど消えてしまったのではないか。3・11の直後には駅のエスカレーターが止まり、長い階段を喘ぎあえぎ昇ったものだ。原発に頼らずに暮らすのならなんのこれしき、と思ったことを記憶している。今、あの決意を忘れた自分に気づくと恥ずかしくなる。「東京五輪・パラリンピックに間に合わそう」を合言葉に巨大工事を急ぐ都市の風景からは、里山回帰の機運がもはや感じられない。

 

 今こそ里山ではないか。そう考えて、今回はこの本を選んだ。刊行直後の書評に「長所だけを強調しているきらいもあるが、日本の有力な選択肢として熟考したい」(朝日新聞2013年8月4日朝刊)とあるから、過度にのめり込むことなく読もうと思う。

 

 この本は、NHK取材班(井上恭介、夜久恭裕両氏)が取材で見聞きしたことをルポ風の記事にまとめ、筆頭著者がその読み解きをするというつくりになっている。主舞台は、広島局のある中国地方。とりわけ山あいの地域が多い。それは、「里山」を論じるのにふさわしい場所だったと言えよう。「中国山地は、準平原とも呼ばれる浸食の進んだ地形」だ。そこにあるのは「もこもこした山」で険しくないから、人々の生活と結びつきやすい。

 

 岡山県真庭市には、製材作業で出る木くずを無駄にしない建築材メーカーがある。活用法の一つは、そのまま炉に流し入れる木質バイオマス発電。もう一つは、ペレット状に固めてボイラーやストーブの燃料として売ることだ。また広島県庄原市では、「過疎を逆手にとる会」を旗揚げして町おこしをする人が、裏山で集めた木の枝を燃やす「エコストーブ」をつくった。これらの動きは、いずれも里山で炭を焼く営みの現代版と言ってもよいだろう。

 

 読ませどころの一つは、こうした話を地元自慢に終わらせていないことだ。取材班は、欧州オーストリアに出張して木質エネルギー先進国の事情を報告する。そこで見たのは、製材会社が供給するペレットがガソリンのようにタンクローリーで運ばれ、町の一軒一軒に届けられる様子だ。配達された家では、ペレットが全自動で貯蔵庫からボイラーにくべられる。「住人はペレットに全く触れることなく、スイッチ一つで利用できる」というわけだ。

 

 供給側を見れば「森林マイスター」がいる。中小の私有林を管理する人だ。「山の木を切りすぎず、持続可能な林業を実現するために必須の職業」という。そこにあるのは「森が生長した分だけを切る」(森林研修所長の言葉)とする鉄則だ。オーストリアが緑の党元党首を大統領にいただく背景には、需給双方に緑志向のシステムが根づいていることがあるのかもしれない(当欄「欧州揺らぐときのハプスブルク考」2017年3月17日付)。

 

 さて、では里山資本主義とは何か? NHK取材班は「大都市につながれ、吸い取られる対象としての『地域』と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動」であり、「外部への資源依存を断ち切ることで実現する」と説明する。反グローバル経済の主張に共鳴しつつ、排他主義ではないことも強調している。「地域がベースとなった産業」を重んじるので「互いにつぶし合うほど競争しなくてすむ」というのが、その理由だ。

 

 筆頭著者は、里山資本主義を「お金の循環がすべてを決するという前提で構築された『マネー資本主義』の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方」と位置づける。そこには、マネーゲームの末にリーマン・ショックに至った流れへの批判がある。「サブシステム」の一語からは、通貨経済を受け入れながら別の支えも用意するという柔軟な発想が見てとれる。副題に「安心」とある所以だ。

 

 「外部への資源依存を断ち切る」の見本は庄原市にある。社会福祉法人の理事長は、デイサービスに来た高齢女性から「うちの菜園で作っている野菜は、とうてい食べきれない」と聞いて「お年寄りの作る野菜を施設で活かせばいい」と思いついた。そして、施設のワゴン車が高齢者宅を回り、野菜を買い込むようになる。支払いは地域通貨。地元には、その通貨が使えるレストランもできて、そこでも手づくり野菜が食材に生かされているという。

 

 この本には、里山資本主義らしい逆転の発想が満ちている。たとえば、耕作放棄地の草で乳牛を育てる青年が、こうした放牧では乳の均質化が難しいのを逆利用して「日によって違う牛乳の味」を売り込んでいるという話。「ばらついていることの価値」の再発見だ。

 

 読了して、日本社会は実はかなり里山化しているのではないかとも思う。地ビール、地ワイン、ご当地B級グルメ……。どれもみな、脱外部依存をめざしている。ところが、それらはすぐにブームと化して、どこもかしこも似たような試みを始め、そのことで里山らしさが薄れていく。里山資本主義の要諦は、小さな経済圏を大事にすることにある。全国市場や世界市場で注目を浴びようなどという目立ちたがり精神とは、相容れないように思う。

 

 これは、メディアのブーム志向が里山世界になじまないことを物語ってもいる。せめて当欄は、山の恵みならぬ本の恵みをひっそりと集める里山ブログをめざすことにしよう。

(執筆撮影・尾関章、通算366回)

 

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『社会学の考え方〔第2版〕』

(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)

写真》社会科の時間

 土曜の晩、ニュースに続いて「ブラタモリ」(NHK)を観るというのは一つの習慣になった。この番組はもともと、タモリが東京近辺の町をぶらぶら歩きするというものだった。当人が連日出演の民放昼番組から解放されると、首都圏を離れて列島各地を歩きまわるようになったが、それでますます波に乗ってきた感じがする。彼は、名うての起伏フェチ。先日の神戸編でも、坂道に対する偏愛が歴史への知的好奇心と巧くかみ合っていた。

 

 こんな話題で始めたからと言って、街歩き談議をしようというのではない。この番組は8時15分に終わるのだが、問題はそれからだ。次に控えているのが、このあいだまでは「超絶 凄ワザ!」だった。NHK公式サイトに「高い水準を誇る日本のものづくり」「不可能を可能にする技術者の『凄ワザ』が世界を変える!」とある。バリバリの科学技術番組だ。力作も多いようだが、夕食後のまったり気分でいる僕の視聴欲はとたんに失せた。

 

 NHKが今春の番組改編で「凄ワザ」の時間枠を変えたのは、そんな理科敬遠派の心理を読みとったからなのか。社会科の授業が終わって理科の時間になると頭が痛くなるという人は多い。僕もその一人だった。それがどうして、理系に進むことになったのだろう。

 

 ひとつ考えられるのは、高度成長期に蔓延した世界観だ。1960年代には、モノの豊かさこそが幸福をもたらすという確信が広まっていた。世の大勢はマルキストではなくても、唯物論者だったのだ。そういう環境下で、僕も理系に誘導されたように思う。

 

 では、昨今はどうか。日々の暮らしを省みると、モノに囲まれながらもモノを超えたものと格闘していることに気づく。今この瞬間も、パソコンに向かってなにかを書いている。スマホでメールを点検したり、タブレットでニュースをチェックしたりというのも日常だ。それらの機器を動かしているのは半導体というモノの塊だが、僕が働きかけたり働きかけられたりしている相手はモノではない。ネットワークという社会そのものだ。

 

 で、今週は『社会学の考え方〔第2版〕』(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)。バウマンは1925年にポーランドで生まれ、71年からは英国リーズ大学で教授を務めた。今年1月に死去している。メイは英国の現役研究者。本のカバーには「碩学と若手の二人の社会学者」が「日常世界はどのように構成されているのか」「日々変化する現代社会をどう読み解くべきか」という問いに「挑んだ」とある。

 

 書名からわかるように、この本には第1版がある。1990年刊のバウマンの単著だ。その邦訳も、同じ訳者の手で93年にHBJ出版局から出ている。第2版の原著は2001年刊。メイの序文によれば「第1版の最良の部分を維持しつつ、その全体的な魅力をもっと高めるように、新たな内容を付け加えた」。付加した「新たな題材」には「グローバル化」や「ニュー・テクノロジー」が含まれる。その新訳が、この文庫版(2016年刊)だ。

 

 僕は碩学バウマンが執筆した大著を若手メイが当世風に微調整したくらいに考えていたが、どうも違うらしい。後段の章で「ハイテク機器」を話題にしたくだりに「著者二人は、PCで原稿を書いているが、互いに、異なるシステムを使っているので、本書の執筆に際して異なるシステム上の要求に対処しなければならなかった」とある。大御所はすでに70代だったはずだが、新世代とやりとりしながら自ら論考を書き改めていたらしい。

 

 この本に現代を見抜く力があることは、序章を読んだだけでもわかる。社会学が「人間の世界」を読み解くときの「鍵(キー)」は「動機づけられた個人」よりも「多方面にわたる人間の相互依存の網の目」にあると言い切っているのだ。ネットワークの重視である。

 

 ネットワーク社会については、「秩序と混乱」と題した章に的確な指摘がある。現代は「情報が物体と離れて自由に移動できる」ので「コミュニケーションは、事実上、瞬間的なものとなり、距離は意味を失う」ようになった。「空間の価値喪失」だ。かくて、「いまここ」と「遠く離れたそこ」の間に境界線を引けない「脱領域的」なコミュニティが現れた。そんな「グローバル化」が「権力の存在形態や分配構造にも影響を及ぼしつつある」という。

 

 1980年代末に東欧の社会主義独裁体制が崩壊したのも、いまポピュリズムの嵐が吹き荒れているのも、その例だろう。この本がとりあげるのは「多数が少数を監視」という状況だ。英国の哲学者ジェレミー・ベンサムは近代の管理方式として、目に見えぬ少数が多数を一望する「パノプティコン」という監視施設を提案したが、その逆の構図が見えてきたという。透明性が高まったとも言えるが、ネットの炎上や報道の過熱のような怖さがある。

 

 この本によれば、グローバル化が進んだことで権力が支配に使う手段も様変わりした。支配される側は、支配する側の目が届くところに引き寄せられて管理されるのではなく、むしろ突き放される。最近の企業は「特定の場所に縛られることはなく、いったん緩急あれば、どこかに拠点を移す準備がいつもできている」。従業員が経営陣のやり方に反発しようものなら「職場の閉鎖」や「会社の売却」などの仕打ちが待ち受けている、というわけだ。

 

 グローバル化で「わたしたちの行為は、地球上のどこかに住む、だれとも知れない人々に影響を及ぼす」ようになった。では、「道徳観」はそれに追いついているのかという問いも投げかけられる。人々は漠然とした不安に襲われると「身近な、目に見え、触れることのできる標的」に意識を向ける。だから、防犯カメラの取りつけなどには熱心だ。だがこれは不安解消のローカルな「はけ口」に過ぎない。グローバルなリスクは残ったままだ。

 

 地球温暖化は、この文脈の延長線上にあると言えよう。著者は、それを「能率の向上や生産の増進の名の下に大量のエネルギーを使用しようとする無数の努力の予期しない結果」とみる。こうした営みは、各々の分野で「それぞれ飛躍的前進や技術的進歩として称賛され、短期的目標に照らして正当化される」。ところが地球規模で見れば、その「努力」が大気の二酸化炭素濃度を高めて平均気温を押しあげ、気候を変動させるというわけだ。

 

 遺伝子工学も同様に批判される。遺伝子を改変されたウイルスや細菌は「明確に規定された目的と、果たすべき個々の有用な仕事をもっている」が、使ってみて「有害な副作用」が見つかれば、その時点で役立たずになる。これも、短期のことしか見ない正当化だろう。

 

 近代の行動様式は「全体を、多くの小さな当面の仕事に切り分ける」。これで費用対効果は高まるように見えるが、実は「気にも留めない費用」がついて回る。それは、当該の仕事と無関係の人々が引き受けることになる。だから「部分的・個別的な合理的行為が多数あることの最終的な帰結は、非合理性の減少ではなく増加である」。思い浮かぶのは、原発事故だ。被災地の人々が背負う苦難は、事業者が無視した「費用」だったのではないか。

 

 テクノロジーの章では、供給が需要を生む現実が描かれる。その駆動力は「このような技術があるが、それを何に使おうか」という論理だ。日常生活の「問題」があげつらわれ、「解決策」として買い物が促される。そんな消費活動が「私化」をもたらすという。「公共交通機関の衰退に対処するために皆が自動車を購入すると、それによって騒音、大気汚染、交通混雑、ストレスなどの問題が悪化する」。ここにも無関係な人々への無関心がある。

 

 読み終えると、科学技術が人間社会のスケールを混乱に陥れたのではないかと思えてくる。それは一人ひとりの悩みを解消する一方で、世界全体に及ぶ難題を再生産している。巨大技術は地球環境を左右する存在となり、情報技術(IT)は地球全体を網で覆った。ところがそれを考案した人間は、時間軸でも空間軸でも遠くを見通せない。それどころか、問題はグローバル化するのに人間は私化するばかり、という皮肉な現象が起こっている。

 

 この本には、社会科の先生が理科の話をしている感じがある。理科がそれだけ肥大化して、影響力を強めたということか。今や、理科の肥満を癒すためにも社会科は欠かせない。

(執筆撮影・尾関章、通算365回)

 

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『ユリイカ』(復刊第1巻第1号、1969年7月1日発行、青土社)

写真》「折々のうた」再掲(朝日新聞朝刊2017年4月6日)

 心にズシンとくる訃報が多い春である。3月には、ミュージシャンのムッシュかまやつさんが逝った。俳優の渡瀬恒彦さんも旅立った。そのたびに、当欄はゆかりの本をとりあげて故人をめぐる記憶を紡いだ(2017年3月10日付「どうにかなるか、ムッシュに聞こう」、2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ」。そして4月に入り、詩人の大岡信さんである。切ないが、同じ行為をもう一度繰り返すことにする。

 

 訃報に触れてなにかを語るというのは決して後ろ向きのことではない。いやむしろ、死者との間に新しい関係を結ぶ前向きの企てとは言えないか。ただそれは、死の直後に限るべきではないだろう。本という、時の猶予を与えてくれるものがあるからだ。僕たちは読書によって、生物としては去った人を精神世界に呼び戻して語りあうことができる。古典を読むとは、そういうことだ。訃報は新たな古典の誕生を告げる知らせでもある、と僕は思う。

 

 大岡さん逝去を伝える報道では、新聞連載の「折々のうた」に触れたものが多かった。掲載元の朝日新聞のみならず、ほかのメディアも触れていたから、国民的なコラムだったと言えよう。1日1編、古代から現在までさまざまな詩歌を選びだし、その魅力を約200字ですくいとるという宝石箱のような記事。1979年に始まって2007年まで続いた。計6762回。万葉集の収録歌数を超える、と朝日新聞の記事にはあった。

 

 この連載は、僕が朝日新聞社に在籍した36年間にすっぽりと収まる。最初のころ、大岡信という筆者名を見て幾分の違和感があったことを覚えている。現代詩畑の難解な文章が新聞という媒体に耐えるだろうか、と訝しんだのだ。だが読んでみると、その書きぶりは簡潔にして平易で理と情を兼ね備えていた。それは、その後に社内で見かけたご本人の姿と重なる。どちらかと言えば、詩人というよりは折り目正しい知識人という感じだった。

 

 ことわっておくと僕の先入観は、現代詩は難しいから嫌い、というのではなかった。むしろその逆で、難しいからこそ畏れ敬うという類いのものだ。学生時代を振り返ると、二つの雑誌が思い浮かぶ。『現代詩手帖』(思潮社)と『ユリイカ』(青土社)。ともに今も健在だが、1970年前後には言語芸術の枠を超えて若者の心をとらえていた。そこには、言葉の解放が社会の呪縛から解き放たれることにつながる、という確信のようなものがあった。

 

 僕が大岡信の名を初めて目にしたのは、両誌のうちのいずれかだったと思う。天沢退二郎、吉増剛造といった名前といっしょに目に飛び込んできた。彼らの作品を読みまくったという記憶はないのだが、言語空間を自ら構築している様子がうらやましく思えたものだ。

 

 で、今週は『ユリイカ』(復刊第1巻第1号、1969年7月1日発行、青土社)。当欄が雑誌をとりあげるのは、前身のコラム時代を通じて初めてだが、今回はそれが許されるだろう。この号が「復刊」と銘打たれた理由は、1956〜61年の第1期があるからだ。創刊した伊達得夫の早世とともにいったん途絶えた。彼を慕う清水康雄が青土社を起こして蘇らせたのが、この1冊だ。編集後記には「復刊は私の夢であった」とある。

 

 当欄で触れようと思うのは当然、そこに掲載された大岡作品だ。ただ、それに先立って復刊第1号を素描しておきたい。なによりも驚かされるのは、詩の世界にとどまっていないことだ。綺羅星のような書き手の一群がいる。広義の文化の横溢がある。

 

 巻頭は、種村季弘「アナクロニズム」の第1回。人類の宇宙観は球殻宇宙→無限宇宙→膨張宇宙と変遷してきたが、近代になっても球殻にこだわる「地球空洞説」があったという話だ。「球体の内壁に沿って海や大陸がへばりついている」という珍説である。水平線から船が現れる様子も、もっともらしく理屈づけたらしい。「中世にはこれに似た宇宙模型図の構想がいくつもあったのではないか」と問い、「人間のあくなき母胎還帰願望」を顧みる。

 

 次は、植草甚一「コミック・ワールドの異端者と人気者をたずねて」第1回。登場するのは、19世紀末〜20世紀初めに活躍した英国の挿絵画家ヒース・ロビンソンだ。機械仕掛けを笑いのタネにした絵が多い。画集の解説文を「訳してみよう」との記述もあり、どこまでが植草本人の弁かがわかりにくいが、巨大な土木工事などを描いた後期作品群について「人間がコントロールできなくなった世界の一部分のように見えてくる」と評している。

 

 2編からわかるのは、この雑誌が理系の話題を好んで取り込んでいたことだ。地球空洞説は、今日の宇宙物理学から見れば検証に耐えない奇説に過ぎない。だが、人間の想像力がへんてこな宇宙も思い描けると知ることは科学者の思考の柔軟体操にはなるだろう。「へばりついている」の連想で言えば、最近話題のホログラフィック宇宙論――3次元世界は2次元の面に記された情報から立ち現われるという理論――に、そんな柔らかな発想を見る。

 

 ヒース・ロビンソン論も、技術社会史として読める。これが執筆されたころはコンピューターの台頭期で、それから20年ほどして情報技術(IT)全盛期に突入する。この一文が「最近の『パンチ』や『ニューヨーカー』に見られるコンピュターをつかった皮肉なユーモア」(原文のママ)をロビンソンの系譜と位置づけているように、すでに情報社会を斜めから見る批評の先行例もあった。『ユリイカ』は、その匂いを感じとっていたわけだ。

 

 目次を見ると執筆陣には、英文学者にして元宰相の息子吉田健一がいる。哲学者で実存主義の紹介者として知られる松浪信三郎もいる。ドイツの巨匠ギュンター・グラスの詩抄も載っている。ひと色に染まらない、目くるめくような文化世界がそこにはあった。

 

 では、大岡信はこの号に何を書いたのか。それは、全7ページの「断章〔1〕」だ(1は原著ではローマ数字)。書きだしは「動きというものがどういうものであるかを知るためには、超高速の宇宙空間ロケットを思い浮かべる必要はないし、競走馬の疾走を思い浮かべる必要もない」。パリの画廊の一室では、「パネルにとりつけられたボールや針金、あるいは鋼鉄片や木片が、じつにゆっくりした速度で、少しずつ前後左右に動いている」。

 

 モーター仕掛けのオブジェで、「私」は「ありありと、『ものが動く』ということの異様さを思い知らされた」とある。「超高速」ではなく、「停止状態に無限に接近しつつ、なおかつ動きつづけているもの」。その姿がもたらす「深い嘔吐感」は「たぶん、生命というものを対象化して眺めるときに感じるであろう嘔吐感と同質のものなのだ」という。自分はきのうの自分と同じだが、きのうとはかすかに違う。そのことを見事に言いあててはいまいか。

 

 僕は、ここで準静的という熱力学用語を思いだした。物質系の状態が熱平衡からほとんど踏みはずすことなくおそるおそる変化していく過程を言う。可逆的であって、完全には実現できない。人生は非可逆なので準静的ではないが、それに限りなく近いのだろう。

 

 この1編の主役は、「言葉」だ。夢はもともと平板だが、それを語るときに「深さ」や「奥行き」が出てくることを指摘して、その源泉は「語り手の意識の中にあるのか?」「言葉の中にあるのか?」「意識は言葉ではなかったか?」と畳みかける。言葉に魔力を感じているのだろう。一方で、その弱点にも言及する。「類として同一視」することだ。電柱は1本ずつ異なるのに、「電柱」という言葉で括ったとたん「類概念として単一化されてしまう」。

 

 最大の読みどころは、詩人の役目を要約した箇所だろう。それは「異質な諸要素を結び合わせる」ことよりも、「言語宇宙という、かれの内面にあり、同時にかれをその内面に包みこんでいるところの、この豊饒な組織的活性体を、何かしら不思議な力の助けによって、一瞬切り裂き、解体させる」ことにあるという。詩は「ある大きな全体」から突き出た部分の「断面」が集まってできており、「断面からしか、全体は始まらない」とも言い切る。

 

 まとめあげるのではなく切る――。あの温厚な知識人がそんなことを……と一瞬たじろぐ。だが「折々のうた」6762編は、そうした断面を掻き集める作業の果実だったのかもしれないと思って納得する。断面の向こうに、詩人大岡信の全体が見えてくるようだ。

(執筆撮影・尾関章、通算364回)

 

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『電力と国家』(佐高信著、集英社新書)

写真》電力をはかる

 最近の国会中継で気になることが一つある。お役人がよく使う「……してございます」という丁寧表現だ。「そうです」を「そうでございます」と言うのなら、なんの違和感もない。ところが「してございます」となると、とたんに気持悪くなる。「しています」の敬語づかいなら、ふつうは「しております」でよいはずだ。どうして、こんなヘンな丁寧語を用いるのか。そこからは、「とりあえず低姿勢」という霞が関流の慇懃無礼が匂ってくる。

 

 この言葉づかいは、日本政治の二重構造に起因するというのが僕の見方だ。戦後の日本では、政治権力は首相を頂点とする政治家が担っている。だが、現実に政策の立案遂行を仕切っているのは高級官僚のように見える。かつては官僚が政治家を動かして、国の針路を左右するという構図すらあったように思う。官界は政界に比べるとエリート揃いだ。だからこそ、官僚が政治家を操縦するときに求められるのが、不自然なほどの低姿勢なのだろう。

 

 21世紀に入ったころから、官僚の低姿勢には別の意味合いも加わってきた。公務員の倫理規定は強まり、深夜まで働いて電車に揺られて帰る日々。だが、給料はエリートでもそんなに高くない……ようではある。昔なら天下り後の厚遇で過剰労働の元をとるという人生設計もありえたのだろうが、今はそれが通用しない。世間の目は冷ややかになるばかりで、身を守るために低姿勢の度合いがますます強まっていると言ってもよいだろう。

 

 ただ、官僚はしたたかだ。官僚政治の打破は今や政治スローガンの一つになったが、それを言う議員の経歴をみると元官僚だったりする。官僚とは無縁のところから描きだす社会設計を僕たちはもちえないのか。そんな愚痴の一つも言いたくなる。

 

 僕の古巣について言えば、新聞記者には役人とつきあいがある人が多い。朝から役所の一角にある記者クラブに詰めて昼間は庁内を回り、夜は公務員官舎を夜回りする――そんな1日を送っていると、役所の空気に自然となじんでしまうということがあるのだろう。僕は幸いにも、かけだし時代の警察回りや数カ月間の県政担当を除くと、官公庁の記者クラブに常駐する役回りにはならなかった。役所臭さに染まらないという点ではよかったと思う。

 

 で、今週の1冊は『電力と国家』(佐高信著、集英社新書)。もともとは東京電力福島第一原発事故から6年の節目ということで手にとったのだが、読み進むうちに、これは官僚体制批判の書であるとわかった。著者は1945年生まれ。だれもが知る辛口の評論家だ。経済ジャーナリズム出身の人だが、最近はリベラル派の論客としてメディアで活躍している。『週刊金曜日』編集委員の一人でもある。この本は、2011年10月に出た。

 

 前半部で焦点があてられるのは、1938(昭和13)年に成立した電力国家管理法だ。翌年には「日本発送電株式会社(日発)」が発足する。発電、送電、配電のうち前者二つを担う国策企業。「電力会社が築き上げてきた事業をあらかた奪って」の国営化である。著者は、この法律が「『国家総動員法』とともに」「セットにして公布」された点を特記する。当時、日本の国家体制は人々とエネルギーをひとくくりに自らの統制下に置いたのである。

 

 電力国営の絵は、当時の「革新官僚」が描いた。著者は、逓信省出身で内閣調査官だった奥村喜和男の『電力国策の全貌』(1936年)という著書を引用する。奥村は、電力民営の短所として「料金を低廉ならしめ且つ有効適切なる料金政策を実行し難きこと」「国防目的の達成に支障あること」などを挙げる。そして、国営になれば「国家の意思通りに発送電事業を管理し得る」「民間資金の豊富且つ自由なる調達を図り得る」と主張する。

 

 気づくのは社会主義体制との酷似だ。そのころの若手官僚には計画経済への傾倒があった。当欄「岸信介で右寄りのを知る」(2014年10月3日付)で紹介した『絢爛たる醜聞 岸信介伝』(工藤美代子著、幻冬舎文庫)にも、岸が戦前に商工官僚だったころ「ことあるごとに統制経済の重要性と市場経済の行き過ぎを批判していた」という話が出てくる。彼は日本の息がかかる「満州国」の5カ年計画も「ソ連のまね」とみていたようだ。

 

 この潮流を『電力と…』はこう分析する。「世界的な恐慌が吹き荒れた中、資本主義、自由経済の限界、不便さをどの国も痛感しており、一九三〇年〜四〇年代は、私益を否定し公益ならぬ国益を優先する『統制経済』こそが、国の未来を切り開く最良の手段として認知されていた」。米国のニューディール政策も同様だという。これを読むと、日本では「公益ならぬ国益」の様相が際立っていたように思える。それが国家主義を暴走させたのである。

 

 この本が敬意をもってとりあげるのは、その電力国営論と対峙した二人の経済人だ。「電力の鬼」と言われた松永安左エ門と、後に東京電力社長となる木川田一隆。松永は1875(明治8)年、長崎県生まれ。慶應義塾に学び、福沢諭吉翁から直接の薫陶を受けた。翁の「『民』と『野』の伸長」を重んじる教えに従って、官僚嫌いになる。木川田は大正末期、松永と競争関系にある電力会社に入るが、戦後は行動をともにするようになる。

 

 松永の電力人生は明治末期に始まる。九州北部で水力発電や路面電車の事業にかかわった。その後、名古屋以西を営業域とする電力会社を設立、関東にも子会社をつくって既存大手と争う。この首都圏商戦は昭和初期に両社が合流して収まるが、次いで電力国営化との闘いが始まった。民間企業の活動を引きはがすことを「法的に不合理」と訴えていたことが当時の出版物に記されているが、抵抗むなしく敗れ、隠棲生活に入ったという。

 

 第二幕は戦後の反国営論だ。この本によれば、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は「産業支配の分散」をめざして日発解体を求めるが、日本側は「全国一社」「国策としての電力事業」にこだわる勢力が強かった。ここで松永が提唱したのが、全国9分割の私案だ。1949(昭和24)年、東京・銀座に「銀座電力局」とも呼ばれる個人事務所を構えて「民の自由精神を奪った体制へのリベンジ」に乗りだした。木川田も銀座局の常連となる。

 

 翌50(昭和25)年、GHQは松永私案を受け入れて政府にその実施を命じる。銀座局の働きかけが功を奏したのだ。ここで着目したいのは、私案が電力会社の「発送電併業」を前提としていたことだ。GHQの当初案は地域分割のみならず、発電と送電も分ける構想を盛り込んでいたが、そこは松永に譲ったのである。福島第一原発の事故後、電力自由化の声が高まったとき、しきりと言われた発送電分離の芽は、実はここにもあったのである。

 

 この本は、3・11の半年後に刊行された。日本の電力を原発漬けにした愚を追及する姿勢は強く感じられる。だが、その責めは単純には官僚体制に負わせにくい。国策はあったが、現に原発建設に邁進したのは電力会社だ。木川田はもともと原子力を「悪魔のような代物」と嫌っていたようだが、「原子力発電の主導権」を官に渡さないとの一念から東電経営陣の一人として郷里福島県への原発立地を進めたという。その経緯の記述もこの本にはある。

 

 ただ、ここから先は僕の意見だが、日本列島が原発だらけになった背景には、やはり官僚の存在があると思う。その影響力を増幅したのは科学ジャーナリズムではなかったか。自省を込めて、そう言いたい。科学記者は本来、科学全般を見わたして論評力を高めるべきなのに、科学技術庁が力を注ぐ原子力の開発に目を奪われるばかりだった。戦後しばらくは今ほど技術のリスクが問われなかったので、それらを無批判に報道してしまったのだろう。

 

 この本で、著者は松永・木川田の民営論に大いに共感している。週刊金曜日の編集委員と言えば、左派で私企業は大嫌いだろうと思うが、彼はそうではない。そこにあるのは反統制の公共重視だ。たとえば、歴史学者網野善彦の言だという「領海の外に公海がある」を引いて、「公」は国家の外にあるので「国家イコール公ではない」という。そのうえで「電力会社がパブリックを念頭において行動しているとは、とても思えない」と批判している。

 

 佐高信という人の立ち位置を知って思うのは、右に資本主義、左に社会主義を置いて政治を論ずることのばかばかしさだ。いま必要なのは、まず自由であり、私的自由を分かちあいながら公、即ちパブリックの幸福を追求する人々がふえることではないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算363回)

 

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『ロベスピエールとフランス革命』(J・M・トムソン著、樋口謹一訳、岩波新書)

写真》トリコロール

 海の向こうで、有権者は今どんなことを考えているのだろうか。米国の話である。新大統領が内に外にお騒がせのタネをまき散らしている。それを増幅するように、指が軽々しくつぶやく癖もある。とはいえ、この人はきちんとした手続きを経て選ばれた人だ。今になって「こんなはずじゃなかった」と後悔しても、簡単に辞めさせることはできない。これが最高権力者を直接投票で選ぶ大統領公選制の短所であり、長所でもあるのだろう。

 

 よその国の話だから、軽々しいことは言えない。ただ、切に願っていることはある。なによりも、人の生命を奪う行為だけは絶対に避けてほしいということだ。僕たちの世代にとって忘れがたい出来事に、1963年に米国からの初の衛星中継で伝えられたジョン・F・ケネディ大統領の暗殺がある。銃弾をもって理性に刃向かう愚行を、人生の開幕期に見せつけられてしまった。同じような惨劇を閉幕期にもう一度見るのはゴメンだ。

 

 幸い、いま米国に広がるのは非暴力の抵抗だ。人々がデモに出る、裁判所がもの申す、メディアも批判する――それぞれがそれぞれの立場でできることをやっている。さすが、民主主義の国。ただ、政権を追い詰めるまでには至っていない。1974年にリチャード・ニクソンが自ら大統領職を辞したときはウォーターゲート事件という疑惑があった。これに対して現大統領の難点は、いわば理想主義の棚上げだ。情に訴えてくるので攻めにくい。

 

 こんなはずじゃなかった――。これは、決して米国だけの話ではない。国民投票で欧州連合(EU)離脱を決めた英国の人々にも、同様の思いはあるだろう。フランスでまもなく始まる大統領選挙でも、似たようなことが起こるかもしれない。共通項は「情」。世間の感情を浮揚力とするポピュリズムが席巻して変化をもたらすが、冷静になって理性に立ち戻ると「賢明ではなかったな」と悔いるような選択が、世界に蔓延しかねない様相だ。

 

 で、ふと思うのは、史上最大の「こんなはずじゃ……」は18世紀末のフランスにあったのではないか、ということだ。フランス革命は人類史の視点で見れば、封建主義と絶対王政を打ち破って近代の市民社会に道を開いた転換点として燦然と輝いている。だが、革命が起こって数年の混迷に着目すれば大きな汚点を残した。市民たちが立ちあがり、人権の旗を掲げたところまではよかったが、そのあとにとんでもない恐怖政治に陥ったのである。

 

 昨今のポピュリズム台頭とフランス革命とを比べて、大きな違いを言えば、前者は最初から最後まで情が支配しているように見えるが、後者は情に理が絡まっていることだ。いやむしろ、理が勝っているとさえ言えよう。人は理想主義に走っても後悔することがある。

 

 今週は、その歴史を振り返って『ロベスピエールとフランス革命』(J・M・トムソン著、樋口謹一訳、岩波新書)。著者は1878年生まれの英国の歴史家。訳者は政治思想史の学究で、翻訳当時は京都大学に在籍していたようだ。原著は1952年、邦訳は55年刊。

 

 この本は書名に人物と事象を並べて、人間と歴史の相互作用を浮かびあがらせている。巻頭「はしがき」で桑原武夫が書いているように、そこからは「人間は歴史の流れに規制されつつ、一方、この流れの速度を何ほどか加減し、またこれを何ほどか変向せしめる力をもつ」という歴史観がみてとれる。著者は、1789年に始まる革命で独裁色をしだいに強めたマクシミリアン・ロベスピエールの個人史を89〜94年の政治史と重ねて描いている。

 

 ロベスピエールは、フランス北部アラス出身の弁護士で、言葉には「なまり」があり、見てくれは「みすぼらしい」。カッコいいとは言い難い男だったらしい。実家は中産階級下層の「プティット・ブルジョワジー」。いわゆるプチブルだ。この階層の人々は、ささやかな土地をもつと苗字の前に「ド」をつけることができた。彼自身も「革命がすべてのフランス人を『市民』(シトワイヤン)にかえてしまうまで、署名にドを書きつづけた」という。

 

 1789年7月に革命が起こる直前、「三部会」の選挙に地元から出馬して当選する。三部会とは175年ぶりに開かれた議会で、「僧族、貴族、平民(第三身分)の三院」があった。彼はもちろん「第三身分」だ。こうして5年間に及ぶ政治家としての生活が始まる。

 

 このころのロベスピエールは、今で言えばリベラルな人権派だった。1791年に立憲議会がつくった憲法が、選挙の有権者を「三日分の賃金にひとしい税をはらう人々」に限ったのには反発したという。「主権は人民のうちに存在し、人民の一人一人によって分ちもたれるのであり、この主権は投票する権利を必然的に含む」という論理だ。宗教面では、僧侶も「人民の選挙」で選び、俸給制にして結婚も認めるべきだ、という立場をとった。

 

 特記すべきは、死刑に対する態度だ。アラスの弁護士時代から、この刑罰に「嫌悪の情」を露わにしていたらしい。1792年の共和政移行後は、王政終結を完了させるために前国王ルイ16世の死を求めたが、93年初めの処刑後は「これ以上死刑はあるべきではない」との考えを表明したという。それなのに彼は、自身の良心や理性よりも「国家理性」を優先させた、と著者はみる。その結果、人権派の志とはまったく逆方向に進みはじめた。

 

 ロベスピエールが率いる勢力は1793年秋、穏健路線ジロンド派の処刑に手をつける。翌94年春には急進路線のエベール派、次いで寛容なダントン派の面々を相次いで刑場に送る。ちなみにジョルジュ・ダントンは、彼が「愛情にとんだ献身的な友」とまで呼んだ盟友である。そして皮肉なことにその夏、彼――ロベスピエール自身が政敵の糾弾に遭って断頭台の露と消えた。処刑の連鎖という愚。そこには、どんな心理が働いていたのか。

 

 著者によれば、ロベスピエールには自分は「過渡期」にいるという認識が強かった。彼には「自由と平等とを平和に楽しむ」という目標があったが、それが達成されるまでに求められるのは「政権の継続」だとして、そのことに気をとられ、革命勢力が人々の権利を「管理」することと「独裁」することの違いについて考える余裕がなかった、という。「恐怖政治」は、彼自身にとって「徳の治世への控えの間であった」との分析もある。

 

 その犠牲になったのは皮肉にも理想だ。フランス革命は今でも色褪せない政策を提起していた。中央集権体制を壊して自治体に分権しようとしたのも、その一つだ。ところが、すぐに集権型に戻そうとする。この逆コースの背景にも過渡期の意識があったのだろう。

 

 「ジャコバン」をめぐる記述も印象に残る。ジャコバン派はロベスピエールが率いるようになった党派で、集会場所の修道院名からこう呼ばれる。急進派のイメージが強いが、もともとは議員や市民が「議会に提出されている諸問題」をとりあげて「あまり公式でない討論」ができる会費制のクラブだった。競争相手の「コルドリエ」などよりもずっと穏健だったらしい。それがロベスピエールとともに恐怖政治の牽引車に様変わりしたのである。

 

 この本で教えられるのは、フランス革命で起こったことが一度では終わらなかったという卓見だ。著者のまとめ方とは若干異なるのだが、僕なりに整理してみると、1830年の7月革命以降のブルジョワ主導王政→共和政→帝政の流れは、1789年の革命勃発から1804年のナポレオン1世皇帝即位までの15年間の焼き直しだ。もし革命政権がもうちょっと寛容であったなら、こんな無駄な繰り返しはなかったようにも思う。

 

 フランス革命の混迷は、僕たちが若かったころに目の当たりにした学生運動のそれと重なって見える。活動家はみな、社会変革をめざしていた。ただ、党派がその実現のために闘うには指導力の「継続」が必要だ。そのことが仲間内の制裁を招いたり、他派への暴力を引き起こしたりした。愚かなことだった。そこにもロベスピエール同様、過渡期意識があったのだろう。(当欄2016年2月12日付「2月の青春、日本社会の縮図」参照)

 

 人生に過渡期はない。人類の理想も不変ではない。バラ色の未来を掲げて同時代人の生を台無しにするのは、将来世代にとってもハタ迷惑なはずだ。僕たちがすべきは現在を慈しみながら、いま信じる理想をめざして世の中をちょっと変えてみることではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算362回)

 

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『アリバイの唄――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、日文文庫)

写真》TAXI

 どうでもいいことだと冷笑されそうだが、あえて言う。2H、即ち2時間ミステリーが今、存亡の危機にある。報道によれば、老舗のテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」(土ワイ)がまもなく終わる。テレビ東京系「水曜ミステリー9」も消えるようだ。テレ朝は土ワイ枠を日曜午前に移すらしいが、どうもピンとこない。あのまったり感は、夕食後のほろ酔い気分にこそなじむ。こうなれば朝に録画して、その冷凍ものを夜に解凍するしかない。

 

 ただ一つ、ゴールデンタイムで気を吐くのはTBS系「月曜名作劇場」だ。こちらは、開始時刻を午後9時から8時に早めるなど工夫が感じとれる。たしかに9時スタートは、コア視聴者の高齢層には遅すぎた。眠くなって、結末の大団円――海辺の断崖やビルの屋上などの場面――まで完走できないという人もいるからだ。ただ残念なことに、これは毎週ではなく、バラエティなどが放映される週も多い。がんばれ、ドラマのTBS!

 

 月曜はTBS系、水曜はテレ東系、土曜はテレ朝系。さらにかつては日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」(火サス)の大看板があり、フジテレビ系も金曜に枠をもっていた。そんな2H漬けの1週間はもはや夢のまた夢だ。今春、一つの時代が幕を閉じるのである。

 

 それに追い討ちをかけたのが。渡瀬恒彦さんの訃報だ。映画俳優としての実績は数えきれない。だが、同時にテレビの2H文化の支え手でもあった。代表作はTBS系の十津川警部ものだろうが、僕が惹かれるのはテレ朝系の「タクシードライバーの推理日誌」シリーズ。理由は、もっとも彼らしい役柄だったからだろう。そこには、美学がある。しかも、肩に力が入ったものではない。さらっとしていて一陣の風のようなダンディズムだ。

 

 主人公は、タクシー運転手の夜明日出夫(よあけ・ひでお)。警視庁捜査一課の刑事だったが、事件捜査でかかわった女性との間柄を疑われて職を辞したのである。事実無根なのに週刊誌に書きたてられた。妻とはこのあと別れたが、一人娘のあゆみを通じて心を通わせている。夜遅くまでハンドルを握るシフト勤務。帰ってくるのは外階段式のアパート。飄々としていて過去の敏腕ぶりなど微塵も感じさせない男を、渡瀬さんは好演した。

 

 このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある。

 

 シリーズ最近作では、犯人はドラマ冒頭、夜明のタクシーに2番目に乗る女性客というのが一つのパターンになっていたように思う。訳ありらしいが悪い人ではない。ところが、元同僚の刑事が担当する殺人事件で容疑者に浮かびあがる。夜明は、彼らしいやさしさから彼女をかばうが、最後は元刑事の習性のほうが勝って本人に告白を促す――という流れだ。余談だが、最初の客は奇妙ないでたちでわがままを言うオバちゃんというのも定番だった。

 

 ケーブルテレビなどで観ることができるチャンネル銀河では、今年2月から3月にかけてシリーズ前期の作品群が流れた。全39編は1992〜2016年に新作として世に出たが、うち2002年までの16編が再放映されたのだ。その期間中に主演者の生命が尽きたことになる。僕がこのうち数本を観て驚いたのは、初期にはまだパターンが固まっていなかったことだ。シリーズは四半世紀の歴史を重ねて、一つの型を練りあげたのだろう。

 

 このシリーズの見どころは、犯行がどうなされたかというハウダニット(howdunit)だ。そこでは、タクシーが道具立てになる。夜明は、営業所の仲間から「ロングの夜明」とうらやまれるほど、しばしば途方もなく遠い行き先を告げられる。疑わしい乗客は、乗車時間が被害者の死亡推定時刻と重なって鉄壁のアリバイを得るというわけだ。しかも視聴者にはうれしいことに、この仕掛けが旅情ミステリーの味わいも添えてくれるのである。

 

 で、今週は『アリバイの唄――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、日文文庫)という長編小説。副題にある「…事件簿」のシリーズが「…推理日誌」の原作という理解でよいようだ。ネットで調べると『アリバイの…』は1990年に講談社から単行本となった作品で、それが93年に講談社文庫に収められ、さらに99年に日本文芸社の文庫本として再刊行されたようだ。この本を読みながら、ドラマのおもしろさを再吟味してみる。

 

 まず、夜明が原作でどう描かれているかをみてみよう。38歳でバツイチ独身、子どもが一人いるというところまでは同じだ。事件被疑者の妹と不倫関係にあるという事実無根の話が広まって退職した点も変わらない。だが違いがいくつかある。

 

 一つには外見。勤務中の様子を後部席の乗客の視点で素描したくだりには「坊主頭(ぼうずあたま)のように髪を短く刈り込んでいる運転手が、大きな身体(からだ)のいかつい肩を揺すった」とある。すらりとしていて優男の趣もある渡瀬恒彦さんのイメージからは、だいぶずれる。どちらかと言えば、渡辺哲さんだろうか。頑健型の渡辺夜明もコミカルな魅力があって見てみたい気がするが、僕たちはもはや渡瀬夜明にすっかりなじんでいる。

 

 もう一つ、大きく異なるのは住環境だ。小説『アリバイの…』の夜明は、アパートではなく東京・目黒本町の一戸建てに暮らしている。「むかしはよく見かけた、という木造の家」で「構造も建築様式もアカ抜けがしない」。東京の古い住宅街に建て込んだモルタル塗りの家屋という感じだろうか。そこにはなんと、母タカ子という同居人もいる。ドラマで娘のあゆみが訪ねてきて家事を手伝うというのとは大違い。どこか、マザコンの匂いもする。

 

 この小説によれば、夜明は自由が丘で生まれた。今をときめくおしゃれな街である。目黒本町へ転居した後、父が急死したために大学を中退して警察官になったという。あの力みのない生き方は都会っ子の洒脱さがもたらしたものかもしれない、と納得した。

 

 では、この『アリバイの…』もドラマ化されたのだろうか。今回、チャンネル銀河で観た第6編「再会した女 湘南―松本500キロの殺人!?」(1995年)が、それに相当するらしい。ノーブルでセレブなヒロインを、ただの深窓の令嬢から、DJで人気の大学教授に移しかえるなど改変点も多いのだが、トリックの核心はなぞっている。その女性は、偶然にも夜明の幼なじみだった。演じたのは阿木燿子。ぴったりな配役である。

 

 小説では、この二人の関係性を時間軸の上に置く。夜明の生家は、富豪大町家の邸宅近くにあったが、「掘立小屋のようにみすぼらしかった」。それでも大町家の娘千紗は幼いころ、6歳年上の日出夫の家に遊びに来ては狭い庭で遊んだものだ。20代のころ、街でばったり会ってひととき談笑したことはあるが、それっきり。「所詮は、別世界に住む男と女であった」。戦後日本社会に生じた階層の平均化と、その再分岐を映したような思い出だ。

 

 この小説でタクシーがドラマ同様にトリックに使われているかどうかは、ここでは触れない。ただ著者が、この乗りものの特質を知り抜いていて、その運転手をミステリーの主人公にしようと思い立った理由は、書きだしの数ページを読んだだけでよくわかる。

 

 そこで乗り込んできた男女は、けんかの真っ最中。「夫婦か、それに準ずる関係」とみてとるが、聞こえてくる会話を聞いているうちに男は県議、女は女将かママだろうとわかってくる――運転手は客にとって黒衣(くろご)であり、無視される存在だ。だが、その黒衣もまた人間であり、耳とバックミラー経由の視線で後部空間の気配を感じとっている。作家笹沢左保はそこから物語を生みだし、俳優渡瀬恒彦はそれを見事に演じたのである。

 

 夜明が旅先のホテルを退室するときの描写で「もう、戻ってはこない部屋であった」とあるのを見て、はっとする。戻ってこないつもりで、いつも街を流している。それが彼の生き方なのだろう。今も手をあげれば、渡瀬夜明のタクシーがとまってくれそうな気がする。

(執筆撮影・尾関章、通算361回)

 

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