『ジャーナリズムに生きて――ジグザグの自分史85年』(原寿雄著、岩波現代文庫)

写真》肩書どうする?(名刺を拡大コピー)

 この夏、僕の胸中にしばしば去来した言葉は「ジャーナリスト」だった。ひとり風呂に浸かって、あれこれ思いをめぐらせていたときがそうだ。友人知人と歓談していたときもそうだ。考えごとのタネとして、あるいは世間話の話題として、真っ先に思い浮かぶのはこの職種のことだった。自身も看板に掲げてきたのだから、もちろん他人事ではない。だが今、このカタカナ語7文字と向きあうとき、愛着や郷愁よりも、どこか突き放した感じがある。

 

 一つには、東京都知事選に大物ジャーナリストが出馬したときの違和感だ。いくつもの政党がそこに結集したのだから、政界の常識では勝算があったのだろう。だが、どうかな、と僕は思った。結果は報道の通りだ。ジャーナリストに、もはや吸引力はない。

 

 思いだすのは、TBSの元キャスター田英夫が1971年、参議院選全国区に出馬したときのことだ。謳い文句は「ジャーナリストとして政治に参加します」「We Want Den」だった。そして、堂々のトップ当選。有権者はジャーナリストを欲した、ということだろう。田さんはキャスター時代、ベトナム戦争を北側から取材して政権与党から嫌われた気骨の人。今と違うのは、その権力批判の姿勢を人々が応援したということである。

 

 もう一つ、今夏にNHKが放映した「NHKスペシャル〈未解決事件〉ロッキード事件」(7月23日から2夜連続)も印象に残る。圧巻は、ドラマ部分で松重豊演じる検事が記者の一人を部屋に引き込んで襟首をつかむ場面。元首相の強制捜査に踏み切る前、「世の中はどう思っている?」と問いただしたのである。ジャーナリストの背後に世論をみていた。ドラマだから脚色もあろう。だがあのころなら、そんなことがあっても不思議でなかった。

 

 今、ジャーナリストが一目置かれなくなったことは実感している。いや、それどころではない。当欄定番の話題である2時間ミステリーをもちだせば、このところ、胡散臭い役柄の代表格は「元新聞記者のフリージャーナリスト」だ。たいていは、ゆすり行為がたたって殺されてしまう。敏腕記者が悪をあばくというのは今は昔。僕は名刺に「科学ジャーナリスト」と書いているが、最近はそれを初対面の人に差しだすのがためらわれるようになった。

 

 ジャーナリストが世論を代弁して、権力と対峙するという模式図が通用しなくなったのだ。そもそも、世論が一つにまとまりにくい。それなのに大手メディアは、ばらばらの主張の当たり障りのない平均値を求めて、そこに世論の幻影を見ようとしている。こんなことをしていては、この職種の存続はありえない。ジャーナリスト全盛期を振り返って今の目で再吟味することが、ジャーナリズムを組み立て直す第一歩となるのではないか。

 

 で、今週は『ジャーナリズムに生きて――ジグザグの自分史85年』(原寿雄著、岩波現代文庫)。著者は1925年生まれ。戦後、共同通信社に入り、社会部記者、編集局長、編集主幹などを務めた。つい先日101歳で逝ったジャーナリスト、むのたけじさんのように戦前の記者体験はないが、終戦まもない日本社会のジャーナリズムを体感した証言者ではある。この本は、奇しくも東日本大震災直前の2011年2月に書き下ろされている。

 

 副題に自分史とあるように、少年期を起点に話を始めている。実家は、神奈川県平塚郊外の小作農。小学生のころは「教科書以外の本や雑誌類を買ってもらった記憶はない」。手本は同郷の先達二宮尊徳で、農学校に進むと「登下校時に歩きながら本を読む習慣もついた」。太平洋戦争の開戦後、「総動員体制の労働力補充」で卒業が早まり、国鉄に就職して品川駅の改札掛となった。これだけならば、戦前世代の成功者からよく聞く苦学談である。

 

 だが、この本が秀でたところは、嫌な話も包み隠さず打ち明けていることだ。たとえば、戦争末期に入った海軍経理学校の体罰について。鉄拳を上級生らから受けた回数は、在籍11カ月で「同期最多のおよそ二千発」とある。それだけではない。自分自身も、同期の一人が夕食のご飯の量をめぐってずるい行為に及んだのに気づいて「呼び出し殴りつけた」。場所は校舎屋上。相手が飛び降り自殺を口にしたので、あわてて思いとどまらせたという。

 

 自身の行為も、それに対する過剰な反応も「食べ物のこと」に起因していた。著者は、その顛末を思い返して「みじめさ、恐ろしさを考えさせられた」と告白する。暴力が日常茶飯のことであり、生死の境も間近にあった。そういう思いだしたくもないはずの体験談を織り込むことで、当時の世間標準がどんなだったかが示される。そのことで読み手は、今昔のものさしの違いを認識して過去に向きあえる。これは大事なことだと思う。

 

 ジャーナリストとなってからの章でも、メディアの裏面史が赤裸々に明かされている。自ら目撃したこともあるが、伝え聞いた旧悪もある。後者は裏がとれない面があるので、本来は軽々に語るべきではない。だがそれを開示することで、昔のものさしが浮かびあがる。

 

 一例は、著者が「入社後先輩から聞いた話」。1951年、サンフランシスコ講和条約が調印されたときのことだ。現地入りした先輩記者の一人は「本社から現地の歓迎ムードを書けと言われて何の動きもないのに困り、大きな日の丸の旗を注文して休日のオペラハウスの前に飾った」という。やらせの極致、今なら完全にアウトだ。ことの真偽はもう確かめようがない。ただ、この話がさほどの屈託なく語られていたらしいことには注目したい。

 

 そう言えば、ということで思いだすのだが、僕くらいの世代の記者経験者は、若いころに先輩から、今ならアウトの話を聞く機会が少なからずあった。それらは、多かれ少なかれ武勇伝の色を帯びていたように思う。確証がないので記して事実化することはためらわれる。だが、なかったことにしてよいわけではない。ジャーナリズムに対する行動基準のものさしが緩い時代があったことは記憶にとどめるべきだ。この本はその助けとなる。

 

 この本には、正真正銘の武勇伝が出てくる。1952年に大分県菅生村(当時)であった駐在所爆破の真相に迫る調査報道だ。菅生事件という。一審で共産党員5人が有罪となるが、二審が始まってから警察官の関与が疑われる。その人物は事件後、雲隠れしていた。共同通信社会部は「特捜班」をつくって警官の行方を追い、57年に東京で隠れ家を突きとめて独占会見を成功させる。著者は班立ちあげの提案者であり、自身もその一員となった。

 

 ただこの快挙は、会見記事の中身で価値が半減する。警官が自ら名乗りでて爆破を否認したという内容。逃避行には当局の影が見えたが、「警察組織に匿われていたことにも触れていない」。上層部が手を入れたという。上司の一人が、「不法監禁」などを理由とする記者逮捕を恐れて警察幹部に相談、「落とし所」を見いだしたらしい。「記事の書き方で、そこまで事実から離れることを承諾したのは、どう考えても弱腰すぎる」と、著者は批判する。

 

 ともあれ、この報道で裁判の流れは変わり、二審で5被告に無罪判決が出た。自作自演の疑いが濃い事件だったのだ。当時は権力対民衆の構図がはっきりしていて、双方はあからさまに角突きあわせていた。こうしたなかでジャーナリストは、あくまで民衆側に立とうとした。そのために警察を向こうに回して、警官の身柄を自力で確保するという危ない橋も渡った。その大胆さは、記者活動に対するものさしの緩さに支えられた面もあっただろう。

 

 この本は、事件当時、世の中に暴力革命に対する警戒感があったことにも触れている。世論の視点は当初、それを取り締まる警察の側にあったが、その行き過ぎを記者たちがあばいたことで逆に振れたようだ。ここに、ジャーナリズムと世論の共鳴がある。著者は「世論を無視してジャーナリズムは成り立たない。世論に埋没してはジャーナリズムにならない」と総括する。ただ、この含蓄に満ちた教訓も、世論の担い手である民衆の存在が前提となる。

 

 今、民衆という概念は消え去ったかのように見える。生命倫理、プライバシーといった今日的な問題は個人個人の利害を錯綜させ、単一の世論ではなく多様な個論を生みだしている。その一方で、世論もどきの風評や袋叩きだけはある。ジャーナリストは、そんな言論の混迷を交通整理して、実りある論争を引きだすことが仕事なのかもしれない。民衆の先頭に立とうなどとは、ゆめゆめ考えないほうがよい。雑踏のなかにいれば、それでいい。

(執筆撮影・尾関章、通算331回)

 

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『枝分かれ――自然が創り出す美しいパターン3』

(フィリップ・ボール著、桃井緑美子訳、ハヤカワ文庫NF)

写真》木のかたち

 かたちから入る。この言葉には、あまり良いイメージがない。中身よりも先に格好だけを整える、という生活態度を指していうことが多いからだ。ピアノはある、ギターも買った、だけど楽譜は読めない、コード進行も知らない。そんな状況である。

 

 では、世界のとらえ方としてはどうか。そこまで考えを巡らせてみると、イメージは逆転気味になる。ギリシャ哲学の代名詞とも言えるプラトンの「イデア」、アリストテレスの「形相(けいそう=エイドス)」には、日本語にすれば「かたち」の意味合いがある。彼らに先立ってピタゴラスも幾何に入れ込んでいる。先哲たちは、中身にごまかされてはいけない、中身を除いてもなお残るものにこそ目を向けよ、と言っているように思える。

 

 ところが、近現代の科学は中身志向が強かった。モノにこだわり、それを小分けにして最小の単位を突きとめよう、と躍起になっていた。要素還元主義という。物理学には、分子から原子へ、原子核から陽子中性子へ、さらに究極の素粒子クォークへと向かう探索があった。生物学も、個体から細胞へ、染色体へ、そして遺伝子本体のDNAへと突き進んだ。1970年代から80年代にかけては素粒子と遺伝子が科学の主役だった。

 

 僕が科学記者になったのは1980年代半ば。要素還元主義が熟し切り、曲がり角にさしかかったころだ。物理学では、加速器実験による粒子発見ラッシュが一段落して素粒子探しの先行きに翳りが見えていた。そんななかで、小分けではない手法で世界を読み解く試みが散見されるようになった。なかでも僕の心をとらえたのが「形の科学」だ。この看板を掲げる一群の研究者に出会って話を聴くと、そのどれもが新鮮だった。

 

 例をひとつ挙げよう。樹木の枝分かれに目を向けた探究だ。大阪勤務の頃だったので関西の研究者に取材して、新聞の科学面に大きなイラスト付きで紹介した。前書きには、こうある。「勝手気ままに伸びたような樹木の姿にも秘密が隠されている。日差しを浴びやすい、釣り合いもいい、といった枝分かれの妙が鐘紡ガン研究所(大阪市)の本多久夫主任研究員らの研究から、浮かび上がってきた」(朝日新聞1985年11月12日夕刊)。

 

 ヒッグス粒子や重力波の発見のように派手ではない。それは、樹木という存在が素粒子の微小さとも宇宙の巨大さとも縁遠いからか。だが逆に日常生活の尺度に収まり、見慣れたものだからこそ、そこに見いだされる法則は僕たちの世界観に響いてくる。

 

 で、今週は『枝分かれ――自然が創り出す美しいパターン3』(フィリップ・ボール著、桃井緑美子訳、ハヤカワ文庫NF)。著者は、英科学誌ニュー・サイエンティストや米紙ニューヨーク・タイムズなどで活躍するフリーランスの科学ライター。この本は、2012年に早川書房から単行本が出て今年6月に文庫化された。副題にあるようにシリーズの第3部で、1は『かたち』、2は『流れ』。この3で完結するかたちになっている。

 

 1と2が未読なのに3だけをとりあげるのは邪道だと思う。だが今回は、あえてそうする。「かたち」「流れ」よりも狭い概念の「枝分かれ」に1冊をまるまる割りあてた著者の心意気に共感して、書店で思わず3のみを買い入れた。ページを開くと期待通りだったので、一気に読み進んだ。せっかくだから一刻も早く報告したい。そんな気持ちからだ。途中、前述した本多さんの名前も出てきて、活字を通しての再会にうれしくなったこともある。

 

 今回はかたちから入るという話なので、本の中身に踏み込む前にそのつくりから見ておこう。巻末の「参考文献」からもわかるように、著者は古今東西の文献を漁っている。知の森を一歩退いたところから眺める、という感じだ。テーマごとにこれはという研究をいくつか拾いあげ、重ね合わせていく。そこで見えてくるものに出会って、読み手は得をした気分になる。科学ジャーナリズムは、専門家の話を伝達するだけでは終わらないのである。

 

 テーマの選び方も縦横無尽だ。第1章で雪の結晶を語ったあと、第2章からは枝分かれパターンのあれこれを雑食ふうにとりあげていく。たとえば都市域の広がり、あるいは川の流れ。樹木の分岐を真正面から扱っているのは第5章だけだ。第6章では、枝同士がつながる網目模様に話を広げてネットワーク論も展開する。こうした本の組み立て方からは、かたちという共通語で分野横断の法則を探りあてよう、という野心が感じとれる。

 

 ここではもっとも文系色が強いものを選んで、それに焦点を絞ろう。街のかたちだ。著者は、米国の論客二人の先見性に触れるところから、この論題を説き起こす。1930年代、ルイス・マンフォードは大都市が成長する姿を「アメーバ」にたとえ、第二次大戦後にはジェイン・ジェイコブズが「都市はそれ自体の代謝作用と成長の形式をもつ生命体」と見抜いたという。その卓見を支える理論が80年代以降、理系領域に現れたのである。

 

 一つは、空気中の埃がくっついて塊をつくる様子を定式化した「拡散律速凝集(DLA)」というモデル。1980年代初め、トム・ウィッテン、レン・サンダーという二人の物理学者が考えだした。「表面にたまたまできた出っ張りは周囲よりも突出しているので、ランダムに拡散する粒子がぶつかる確率が高い」「出っ張りは大きくなればなるほど新しい粒子がぶつかってくっつく確率が高まる」。そこには「正のフィードバック」がある。

 

 もう一つは、「絶縁破壊モデル」(DBM)。絶縁体に電圧を加えたときの放電パターンを説明する。大気中の稲妻もその一つだ。1980年代、スイス・ブラウンボベリ研究所のグループが見いだした。この枝分かれでは「先端周辺の電場が分岐部分の電場よりも強い」ので、ここでも「正のフィードバック」が働く。DLAとの違いは、枝が外からの「付着」によって伸びるのではなく「中心から外へ押し進んでいって成長する」ところにある。

 

 地理学者のマイケル・バッティとポール・ロングリーは、この二つのモデルで近現代都市の発展を考察できるのではないかとにらんだ。彼らの共同研究で得られた結論は「DLAとDBMをもとにしたごく単純な概念が、工業化時代の初期に雨後(うご)の筍(たけのこ)のように出現した都市の形状をじつにうまく説明してくれる」というものだった。都市はときに埃の塊のように、ときに大空の稲妻のように広がっていくということか。

 

 ただ著者は、DLAやDBMの限界も書き添える。これらは「脱工業化」が進み、「新しい通信技術」も登場した「中央集中化の弱い都市風景」にはそぐわないというのだ。この本は、そんな時代に適した「相関パーコレーション」というモデルも紹介している。その考案者がボストン大学の物理学者たちだったという事実は見落とせない。物理の思考で都市発展の変容を理論化する。「かたちから入る」科学には、こうした学際の醍醐味がある。

 

 バッティらの研究に戻ると、そこにはフラクタルという言葉が出てくる。これは、幹の分岐が大枝の枝ぶりにそっくりで、それはまた小枝の枝ぶりに似ている、というような「スケール不変」の「自己相似」を言う。この模様のごちゃごちゃ具合は、フラクタル次元という尺度で数値化される。バッティらによれば1945年のベルリンは1.69、62年のロンドンが1.77、90年のピッツバーグが1.78、DLAモデルは1.71だという。

 

 フラクタルでは、線が入り組んで面に近づく。だからこそ1次元でもなく2次元でもなく、その間の値をとるのだ。それは、余白を埋めていく過程を表していると言ってもよいだろう。近郊農地が開発によって侵食されていく様子に似るのは、当然と言えば当然のことだ。

 

 著者は樹木の枝分かれについて、生態学者ブライアン・エンキストや物理学者ジェフリー・ウェストらの共同研究を引く。そこでわかったのは、「空間に行きわたりながら、空間を埋めつくすことがない」というフラクタルの賢さだ。そのかたちは植物体の隅々に水分や養分を分配するのに適していて、しかも隙間が成長の伸びしろになる。効率とゆとりのバランスが大事ということか。世の中のありようを考えるときも、この自然知を見習いたい。

(執筆撮影・尾関章、通算330回)              

 

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『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』

(瀬戸川宗太著、平凡社新書)

写真》薄くなった、中身はどうか

 7月は僕にとって回顧の月となった。少年期の記憶を彩る人々の訃報が相次いだからだ。ザ・ピーナッツの伊藤ユミさん、放送作家・作詞家の永六輔さんの死去公表に続いて、テレビの名司会者大橋巨泉さんが世を去った。ザ・ピーナッツの「シャボン玉ホリデー」、永さんの「夢であいましょう」に巨泉さんの「11PM」を並べてみると時代の流れが見えてくる。(当欄2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」参照)

 

 「11PM」はNTV系列が1965年、未開拓の深夜枠に新設したワイドショーだ。巨泉さんは翌66年から主軸の司会者を務めた。「シャボン玉…」(NTV系)と「夢で…」(NHK)はどちらも61年に始まっているから、出発時点の世相が違っている。人々は60年代初め、経済成長の登り坂を見あげて「夢」を「シャボン玉」のように膨らませたが、イレブンオープニングのシャバダバに馴染むころにはもう高台にたどり着いていた。

 

 1965年は巨人V9最初の年である。安定期の始まりだ。イレブンが「野球は巨人、司会は巨泉」と謳って繰りだすゴルフや海釣り、海外旅行などのレジャー一式は、もはや夢見るものではなく、手の届く贅沢になっていた。享楽主義の横溢は、高度成長の負の側面に気づきはじめた僕には抵抗があった。だが時折、沖縄問題のような硬派テーマをとりあげていたのもまた事実だ。遊んでも愚民にはならない。それが巨泉流の反骨精神だった。

 

 巨泉さんは2001〜02年、民主党の参議院議員を務めている。このとき僕が感じたのは、いよいよ巨泉流の時代が到来したということだ。彼は右派ではなかった。その一方で、旧来の左派とも肌が合わなかった。保守に対峙する勢力の看板が社会主義からリベラルに代わったのをみて、世間がようやく自分に追いついたと感じたのではなかったか。だが政界に飛び込んで、そこに買い被りがあったことに気づいたのだろうと思う。

 

 で、今週は『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』(瀬戸川宗太著、平凡社新書)。8・15を前に、戦争のみならず戦後も風化させてはならないと思うからだ。著者は1952年東京生まれの映画評論家。自身の記憶を「週刊お宝TV」(NHK)の情報などで補いながら、55〜70年のテレビ世界を再現する。僕も東京出身で生まれ年が1年早いだけなので、著者とほぼ同じ電波環境下にいたことになる。

 

 今回は副題の「11PM」に目がいって、この本をアマゾンで取り寄せた。ただ残念なことに、それを真正面からとりあげているのは2ページにとどまる。そのせいか、お目当ての話が出てこない。世間からはほとんど忘れられているが、僕の脳にはしっかり刻印されている初期イレブンのことだ。「あれ、こっそり観ていたよね」と体験共有の確認をしたかったのだが……。思春期の中学生男子にとっては忘れがたい、なんともヘンな番組だった。

 

 脳裏に残るイメージをつなぐと、こんなふうになる。広いスタジオの真ん中にぽつんと机と椅子が置かれていて、仏頂面の中年男性が腰かけている。スーツ姿、いやブラックタイのような黒服を着用していたかもしれない。水商売っぽいのか堅気なのか、あいまいな佇まいだ。その人がニュース解説風の話をするのだが、毎回決まって息抜きの時間がある。網タイツのように露出度の高いコスチュームの女性が出てきて、ひとしきりダンスを踊る――。

 

 報道とセクシーショー。シュールな接合だ。もしかして僕の妄想かと思ってウィキペディア「11PM」の項を開くと、謎を氷解させてくれる記述に出会った。当初、この番組は報道局がつくっていたが、その体制は半年ほどしか続かなかったという。硬い頭が軟派を気取ったせいか、ちぐはぐで不評だったのだ。この半年限りの禁断の果実に僕は触れたが、著者はその機会を逸したらしい。ということで、イレブン抜きで話を進めよう。

 

 とっかかりは、NHKドラマ「事件記者」(1958〜)。競争関係にある記者仲間が飲み屋で歓談しながら化かしあう場面が見どころだった。著者は「こんな気楽な仕事ならぜひ新聞記者になりたいと思っていた」と打ち明ける。僕は「なりたい」と思わなかったのになってしまった口だが、大のおとながじゃれ合いながら心理戦を繰り広げる様子は子ども心にも楽しかった。(当欄2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」参照)

 

 この番組は、かなりの部分が生放送だった。著者は、そのスタジオ風景を「週刊お宝TV」で紹介された関係者の証言をもとに蘇らせている。記者クラブや飲み屋、犯人の隠れ家などのセットが並び、ドラマの進行とともに演技の場が移っていく。「三台のTVカメラは、お互いのコードが重なり合わないように、正確に移動していかなければならない。一つでも順番を間違えればコードが絡み合い、TVカメラが移動できなくなってしまう」

 

 脚本が「三分ほどオーバー」の状態で本番に入り、臨機応変に台詞を端折りながら時間枠に収めたという。「結局、この追い立てるような演出方法が『事件記者』の軽快なテンポを生み出していたといえよう」と著者は書く。あのキビキビ感の秘密はそこにあったのだ。

 

 著者は1960年代初めの火曜夜に注目する。NHKは「ジェスチャー」(1953〜)や「お笑い三人組」(1956〜)を置いて、そこに「事件記者」を加え、人気番組を集中させた。相乗効果もあって「視聴率を独占する形となった」という。裏番組のファンもいたはずだから「視聴率を独占」は言い過ぎだろうが、そんな勢いはあった。驚くのは僕の記憶のなかで、これらの番組名と火曜日の「火」の字が分かちがたく結びついていることだ。

 

 一つの局が一つの時間帯で人気番組を串刺しにする。この現象に気づいたのは、さすがテレビ通だ。同様の例として挙げられているのは、1962年ごろの日曜夜6〜7時台。当時のTBS系列は、ここに「てなもんや三度笠」と「隠密剣士」という二強を配置した。どちらも、月曜の学校で子どもたちが話題にするような番組だ。この本には出てこないが、「隠密…」に続いて米国アニメ「ポパイ」が流れていたことも僕は覚えている。

 

 ホームドラマをめぐっては、著者と僕の意見が異なる。著者によれば、和製草分けの「ママちょっと来て」(NTV系、1959〜)は米国ドラマを「日本人向けに焼き直したもの」に過ぎず、むしろ「咲子さんちょっと」(TBS系、1961〜)に「地に足が着いた」感があったという。「舅、姑と嫁の日常生活」の淡々とした描写に惹かれたらしい。だが、僕は「ママ…」をとる。その核家族像が自分の境遇の一歩先をゆくようで羨ましかった。

 

 「ママ…」も「咲子さん…」も独りで楽しむ番組ではない。僕は家族とともに観ていた。著者も同様だっただろう。1960年前後、テレビという箱の中には善き人々の家庭があり、それを見つめる実在の家庭の入れ子になっていた。だが、そんな光景は長く続かない。60年代後半になると若者の反抗ムードが高まり、もはや「のんきに娯楽番組ばかりに夢中になっているわけにはいかなかった」。著者も僕も、茶の間離れしつつあったのだ。

 

 そういう時代に心をとらえた例外として著者が筆頭に挙げるのは、「巨泉×前武ゲバゲバ90分」(NTV系、1969〜)。毒気のあるコントが満載で僕も虜になった。さらに「反体制」を感じさせる番組として「お荷物小荷物」(TBS系、1970〜)という連続ドラマのことが書かれている。「テレビカメラがいきなりセットの裏を見せてしまう」ような常識外の演出で「左翼学生や青年層に支持されていた」というが、僕には思いだせない。

 

 最後に、著者のテレビ愛の深さを感じさせる話。「番頭はんと丁稚どん」(NET系、1959〜)では、芦屋雁之助が「いやらしい流し目」で大村崑を「崑松、チョッと来い」と呼ぶシーンが見せ場だったとして、それがない録画ダイジェスト版を観させられたときの落胆を語っている。テレビ好きにとって思い入れがあるのは、たいてい番組の細部だ。だが「当時のVTRがほとんど残っていない現状」では、それらが無情に忘れ去られていく。

 

 本には図書館があるが、台頭期のテレビにはない。開拓者が去りつつある今、著者も文中で訴えているように、僕たちが記憶を寄せあわせて記録にとどめなければなるまい。

(執筆撮影・尾関章、通算329回)

 

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『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)

写真》ムシゴ・ナクヨ……

 物騒な出来事が頻発している。事件事故の報道で新聞記者泣かせなのは、情報が刻々と塗りかえられていくことだ。たとえば、犠牲者の人数。事象の大きさや深刻さの度合いを測る尺度となるので、なにがなんでも記事に盛り込みたい。ところが、それはなかなか確定しない。だから記者は、第1報を出稿してからもアップデートの手直しを繰り返す。だが最後には、待ったなしの締め切りがくる。紙面に出るのは、その時点で切りとった状況把握だ。

 

 不確定がだらだらと続くのは、事件事故では、時を追って明らかになることが少なくないからだ。搬送先での死亡確認がある。新たな遺体の発見もある。だから犠牲者数は、ふつうはふえる方向で変わる。朝刊で死者10人だったのが夕刊で15人になる、という推移は不自然ではない。ところが、ごくたまに逆の流れをたどることがある。朝刊で死者15人と報じていたのに夕刊では人数が減って10人と伝え直す、というような事例だ。

 

 死者が減るというのは、悪くない話だ。だが、新聞は「誤報」のそしりを受けかねない。たとえ報道機関に落ち度はなかったにしても、救急や捜査にあたる公的機関がどこかで数え方を間違った可能性がある。大事件や大事故の発生直後は人命の救助が最優先となるので、ほかのことで多少の混乱が起こるのは避けられないとも言える。最近の新聞は既報の犠牲者数を減る方向でアップデートするとき、こうした事情を正直に明かす傾向にある。

 

 データの更新をどうするか。この悩みは新聞だけのものではない。物事の拠りどころとして知の王座に君臨している教科書も同様だ。いや教科書のほうが、苦悩はいっそう深いのかもしれない。新聞の情報は半日刻みで打ちだされるので、揺れ動くことは織り込み済みだ。ところが、教科書の知識は固定感がある。改訂はあっても、そんなにしばしばではない。その結果、学界で否定された知見を真に受けたまま生涯を終わる人も出てくる。

 

 ところが、僕たちは教科書信仰からなかなか抜けだせない。たとえば、老若二人がビール片手に化学談義をしていたとする。若者が「塩化物イオン」という言葉を口にしたとたん、年寄りは「何、それ?」と聞く。若者が「シー・エル・マイナス」と答えると、「なんだ、塩素イオンのことか」と年寄り。「いや、学校で塩化物イオンと習いましたよ」「そんなことあるものか。塩素イオンと教わった。なんなら教科書をもってきてもいい」

 

 ここでは、若者も年寄りも教科書がすべてなのだ。「シー・エル・マイナス」をどう呼ぶかは、所詮は決めごとにすぎない。ただそれが教科書に載ったとたん、読み手となった年齢層にとっては絶対の知識となる。大脳皮質にしっかり焼き付けられてしまうのだ。

 

 で、今週は『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)。東京書籍の中学校教科書『新訂 新しい社会【歴史的分野】』(1972年刊)と『新編 新しい社会【歴史】』(2006年刊)を比べている。この本では前者に「昭和」、後者に「平成」の呼び名が与えられる。「昭和」の中身は、僕が1960年代に中学校で習ったこととほぼ一致する。「平成」に照らすと、今から見れば不正確な知識に自分が曝されていたことがよくわかる。

 

 日本史を中心に人類史や世界史も交えながら、古代から近代までの出来事をたどる構成。奥付著者欄に名前のある歴史学者が、一線の若手研究者による草稿をもとにまとめあげたという。2008年に単行本(東京書籍刊)が出て、11年に文庫化された。

 

 まず気づくのは、教科書掲載の肖像類の不確かさ。たとえば「昭和」で「【源頼朝画像】 藤原隆信(たかのぶ)筆と伝えられる」とされていたものが、「平成」では「源頼朝と伝えられる肖像画」に改められた。描き手のみならず、描かれた人も「伝えられる」の扱いを受けたのだ。この絵をめぐっては1990年代半ばに新説が出て論争が盛んになったという。そんなこともままあるだろう。この本には信頼度が薄れた画像の例がほかにも出てくる。

 

 ちょっとあきれる事柄もある。江戸時代の「士農工商」だ。「昭和」では「武士が最上位にあり、ついで百姓、その下に商人・職人がいたと説明していた」。この本が言及しているように、僕たちは授業で、農民を2番目に置いたのは年貢の重圧感をそらす懐柔策だった、という話を聞いた覚えもある。ところが「平成」からは、この用語がそっくり消滅したという。今の解釈では、当時「農工商」は横並びに遇されていたというのである。

 

 それで思いだされるのは、僕の小学校時代。休み時間は校庭で「士農工商」という遊びに夢中になっていた。ズックの爪先を地面に引きずって「田」の字を書く。4個のマスには序列があり、そこに1人ずつ入って、ボールをテニス風に打ちあう。商から始まり、勝てば工→農→士と昇格していく、というものだ。階級社会の是認が見え隠れする戦後民主主義の子らしからぬゲーム。その根っこにある近世観が空論に過ぎなかったとは。

 

 この本によると、江戸時代に「『百姓』と『町人』の区分は曖昧(あいまい)」で「出稼ぎによる村から町への人口流入も日常的におきていた」。それは、鎖国下で内なる近代が芽生えていたことを物語る。これが、日本近世の実態のようだ。「士農工商」の序列付き概念は「江戸時代後期、儒学者のイデオロギー的言説から派生したもの」で、明治時代になって教科書が世に広めたという。近代からの逆照射が近世像を歪めたのだとも言えよう。

 

 ただ教科書の新旧比べでは、旧の「昭和」を応援したくなる違いもある。「鎌倉幕府――『イイクニつくろう』と覚えたが……」の項をみてみよう。「昭和」では「頼朝は、1192年、朝廷から征夷(せいい)大将軍に任じられたので、その政府を鎌倉幕府とよび……」とある。ところが「平成」は、頼朝が征夷大将軍に就いた年については「昭和」の見解を踏襲しているものの、「1192年以前に幕府が成立したと読める記述になっている」。

 

 種明かしは簡単だ。この本によれば、そもそも鎌倉幕府の開府宣言などはなかったのだという。その結果、頼朝が武家政治体制を整えていく道筋のどこを幕府の始まりとみるかで、諸説が並び立つことになった。だとすれば、いつでもいいではないか。将軍就任で区切るのは朝廷からの権利付与に重きを置きすぎているとの批判はわからないでもないが、頼朝がそういうお墨付きを求めたのは事実だ。「イイクニ」には捨てがたい響きがある。

 

 読了して僕が思うのは、歴史は変わってもよいということだ。こんなことを口走ると、史実やその解釈を都合よく書き換える修正主義者と勘違いされるかもしれないが、それとはまったく違う。むしろ、事実に謙虚であれと言いたいのだ。この本の古代の章を読むと、歴史探究が今、自然科学と不可分になったことがわかる。理系知が遠い祖先の営みを明るみに出して、古い教科書を塗りかえていく。そんな動的な歴史学が僕たちの前にある。

 

 一例は、人類の出現がいつかだ。「昭和」は「まだよくはわかっていない」と逃げていたが、「平成」には「最も古い人類である猿人は、今から約400万年ほど前に、アフリカにあらわれました」とある。これは、1970年代に見つかった化石を根拠にしている。草原を二足歩行する猿人だ。ところが90年代から2000年代にかけて、森林暮らしの猿人のもっと古い化石が続々発見された。こちらは「平成」の記述も追いついていない。

 

 日本列島で稲作がいつ始まったか、も揺れ動いている。通説では紀元前400年代ぐらいと言われてきたが、「『AMS』とよばれる新しい炭素14年代測定法」で見直すと「前900〜前750年代とする結果となった」。国立歴史民俗博物館チームが、土器の付着物を調べて2003年に発表した成果だ。稲作は、弥生時代を特徴づける生業である。研究が進めば「弥生時代自体の年代がくりあがることもあり得る」と、この本は見通している。

 

 過去は一つに定まっている、と僕たちは思いがちだ。天の目で見ればその通りかもしれないが、人の限られた能力がそれを見極めているとは到底言えない。60年余を生きてみると、そのことが実感できる。自分自身の過去でさえ、ああだったかもしれないし、こうだったかもしれないということだらけだ。だから、教科書に書き込まれたことがいつも正しいわけではない。そのことを教えるのもまた、歴史教育ではないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算328回)

 

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『ジャックはここで飲んでいる』(片岡義男著、文藝春秋社)

写真》バーボン

 この欄を続けていて楽しいことの一つに、「人気記事ランキング」の上がり下がりがある。スマートフォン版に限られるようだが、トップページを繰っていくと最後のほうで当欄拙稿1位から10位までの表題を見ることができる。それぞれの閲覧数は表示されず、僕にも知らされていない。ただ閲覧総数は筆者に開示されているので、それから察するに「人気」というほど多くはなさそうだ。興味深いのは、順位が日々動くことである。

 

 順位付けは、どんなしくみなのか。勧進元のGMOペパボに尋ねると、「過去3カ月分のアクセス数」をもとにしているとのことだった。トップページを開いただけではダメで、その回のページに入った時点で数えるという。ランキングを見ていて僕がうれしいのは、半年以上も前の拙稿がたまに顔をのぞかせることだ。「過去3カ月」の実績だから、公表直後のアクセスは勘定外。古い回を掘り起こしてくれる人が少なからずいることになる。

 

 最近では「片岡義男的な空気が吸いたい」。2014年4月、当欄が今の看板を掲げて再出発したときの最初の回である。それがこの7月、上位の常連となり、トップの座を占めたこともある。なぜ、こんな珍事が起こったのか。きっとあれだ、と思い浮かんだのが6月、朝日新聞読書面に載った片岡本の書評である。評者は、作家の大竹昭子さん。片岡義男論としてとても秀逸で、読んで「空気が吸いたい」と思った人もいたに違いない。

 

 大竹書評は、近刊の短編集2冊をとりあげている。合わせて15編のうちの1編で登場人物がこう言った、とある。「人生は、じつは自分の外にある」。いい言葉だ。それを大竹さんは「人生とは『関係の作りかたとその維持のしかた』にほかならず、自分を外から観察しようとする意志と行動によってのみ、新たな局面が訪れる」と読み解く(朝日新聞2016年6月26日朝刊)。ここに、「片岡義男的」の核心が要約されている。

 

 僕が片岡義男の小説を初めて読んだのは1970年代半ば、彼が『野性時代』という新感覚の文芸誌で活躍していたころだ。それまで僕の嗜好は、文学であれ音楽であれ、すべて内向きだった。思考と認識のありようだけで自分の世界が変わると本気で考えていたのだ。まさに、人生は自分の内にある派。そこに風穴を開けてくれたのが片岡義男的な空気だ。「僕」の実体は外気に触れることで成り立っているのかもしれない。そう思えるようになった。

 

 で今週の一冊は、至言「人生は、じつは自分の外にある」に出会える『ジャックはここで飲んでいる』(片岡義男著、文藝春秋社)。著者は、大竹書評のもう一冊『と、彼女は言った』(講談社)を今年4月に出し、息つく暇なく5月にこちらも世に問うた。

 

 収められた8編には、ありふれた町で淡々とした日々を過ごしている男や女が登場する。そこに大それたドラマがあるわけではない。ただそれを、平凡な日常を描いていると言い切ったら言い過ぎだ。心のときめきがあり、危ういと思わせる瞬間もある。一線を踏み越えることも排除していない。だが、読ませどころはあくまでもその一歩手前だ。時空間で粒子が二つ、ときには三つ以上、引きあい斥けあうというようなおもしろさ。

 

 ただのリアリズムではない。冒頭の「アイスクリーム・ソーダ」では、小説家の男43歳が駅ナカのカフェにいるとき、同年輩の女に気をとられる。後ろ姿がいい。「考えごとを続けながらも、彼は彼女の動きを見た」。店を出ると、その女が声を掛けてくる。近刊を読んだという。有名作家にはこんなこともあるのか。だが、初対面の男女がこのあとクリームソーダの材料を買い、そのまま女の部屋へ吸い込まれるという展開には嘘っぽさがある。

 

 部屋で二人はそれなりに盛りあがるが、「危うい」にはあと一歩。男が「現実にあるようなストーリー」の執筆を急かされていることを告げると、女は「私たちの、今日のここまでは?」と提案する。カフェから部屋までの出来事のあれこれだ。「妙にドラマを作らないで。ずっとそうだったでしょう。だから私は、書店で買って読むのよ」。現実味はないが「現実にあるような」感じ。片岡義男流の極意をさりげなく登場人物の女に語らせている。

 

 続く「ごく普通の恋愛小説」も ありそうにないがあるかもしれない話。主人公は、東京・世田谷の一戸建てに独りで住む男性翻訳家37歳。かつて地元の美容院で母の髪を切ってくれていた女性美容師34歳と、ある日再会する。十余年ぶりに隣県から近所に戻ってくるという。二階を貸そうかと申し出ると、彼女も乗ってきてとんとん拍子で話がまとまる。男女二人、同じ玄関のシェアだ。互いに好感を抱いているにしても大胆ではないか。

 

 この作品は表題通りにだんだんとラブストーリーっぽくなるのだが、やはり別のところで読み手の心をとらえる。少なくとも、僕はそうだった。それは、町をそっくり時間軸に置いてとらえる感性だ。美容師はこれから借りようという二階の窓辺で言う。「以前、私が住んでいたアパートは、あのあたりでした」「アパートの二階の部屋から、おなじ景色が見えていました」。そこには今も銭湯の煙突が立っている。「懐かしい。毎日いきました」

 

 後段でも、二人は同じ窓の景色を眺める。ミニ開発が進んで、アパートはすでにない。それなのに「その部屋がここへ移動したような錯覚」に襲われる、と彼女は打ち明ける。窓が時間を止め、昔を再現してくれているように思える、というのだ。「過去は現在へと延長されています」「あの過去は最高に良かったの」。この物語には男女二人のつながりがあるだけではない。それぞれの過去と現在も愛おしさをともなって接続されていくのである。

 

 表題作は、「ジャック」の愛称で呼ばれる男が主人公。お気に入りのバーボンの銘柄に由来する。遠い町のバーで二度飲んで三度めに訪ねたとき、そこに店はない。「更地だけが横たわる景色を、彼はしばらく眺めた」。この茫然自失は、前述の美容師の思いと響きあう。作品の筋には、濃密だが希薄、希薄に見えて実は濃密な人のつながりが隠されているのだが、そんな切ない関係も人が時間軸のなかで地層を積み重ねているからこそ生まれてくる。

 

 「人生は自分の外」のひと言が出てくるのは「ゆくゆくは幸せに暮らす」という作品。男優とその共演女優、男優と大学で同期だった写真家の3人が、同じ大学出身の年長の作家と夕食の卓を囲む。その場面に先だって、読者には写真家の不安定な家庭事情が明かされている。別居中の妻子がいて、子どもが大きくなるまで「とにかくいっしょに住もう」ともちかけているという。「夫婦ではなくてもいい、俺は同居人になる」と申し出たのだ。

 

 そもそも会食は3人の側に、作家にドラマを書いてほしいという思惑があって企画されたのだが、逆に先制パンチを食らう。「面白いねえ」。作家はそう言って、同席者を肴に「関係の物語」を紡ぎはじめる。「たとえば」と切りだしたのは、男優女優の二人が写真家の幼い息子の養父母になるという筋書きだ。その結果、写真家夫妻は「ひとりひとりへと解体される」。ところが、いつのまにか「妻は俳優と出来て、写真家は女優と出来る」……。

 

 男優は荒唐無稽な発想にあきれるが、作家は「要するに人生とは、関係の作りかたとその維持のしかた」と断ずる。だから「自分の外」なのだ。人と人の関係は不変ではないので、いくつもの可能世界が展開しうる。その洞察に同席者は霧が晴れるような気分を味わう。

 

 この短編集を読み終えてつくづく思うのは、その作品世界にべったり感がないことだ。登場人物は、たとえ愛を交わす間柄になっても一定の距離感を保っている。そんなつながり方は著者のような70代、僕のような60代の年齢層には、すんなりと受け入れられる。僕たちは年々、周りの人々との別れを繰り返していく。だが肉体が消滅し、離ればなれになったとしても、自分と他者の関係はいつまでも残る。それこそが僕たちの実体なのだ。

 

 それにしてもすごいのは、著者の心はそんな達観に届いているのに、綴られる文章には年寄り臭さが微塵もないことだ。嘘だと思ったら、最後の一編「なんのために生きるの」の前半部を一読してほしい。ガラス張りのコーヒーショップで男が女に自分の友との結婚を勧めるが、女はそれを巧妙にかわしていく。そこにあるのは、一切のべたつきを排した切れ味のよい会話だ。この軽快感だけは老いても身につけていたい。つくづくそう思う。

(執筆撮影・尾関章、通算327回)

 

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『京都ぎらい』(井上章一著、朝日新書)

写真》コンチキチンの夏

 恋というものの半分強は片思いだろう。自らの過去60年を振り返っても、たいていはそうだった。今もくすぶっているのが、京都への恋である。京都という町が好きで、なんどとなく言い寄ったが、先方はいたってすげない態度をとりつづけている。そんな感じだ。

 

 東京育ちなので、最初の出会いは少年期の家族旅行だった。詩仙堂、龍安寺、西芳寺……ワビサビの精神世界を背伸びしてのぞき見た。中学校の修学旅行では定番の名刹を巡り、新京極を歩いている。学生時代、そこには全国銘柄のジャズ喫茶が何軒かあった。忘れがたいのは、河原町荒神口の「しあんくれーる」。市電が通っていたころだ。旅行者の僕も電停前の店に入り、〈思案に暮れる〉風情で4ビートのリズムに体を揺らしたのだった。

 

 新聞記者になって、つきあいはいっそう深まった。二つめの任地が京都だったからだ。事件事故を取材しながら町の話題を拾うのが役目だったので、市街も郊外も回った。出会った人々の顔や街角の光景が、スナップショットのように今も脳裏に残る。記者生活最後の関西勤務では、単身の寓居を京都に選んだ。科学記者なので有力大学に自転車でも駆けつけられる場所に住みたいと考えたからだが、積年の片思いが背中を押したのも確かだ。

 

 これほどまでに僕の半生と濃密にかかわってきたのに、京都はどこかよそよそしい。どこがどう、というわけではない。だれかに言われたひと言で、それを感じとったわけでもない。あえて言えば、あの町に立ったときの空気感だ。その例を一つ挙げよう。

 

 駅のエスカレーターは、乗ったら止まっているのが原則だ。当局も鉄道会社も、その徹底を呼びかけている。だが現実には、歩いてのぼったり駆けておりたりする人が後を絶たない。そこで、止まったままの人は左右どちらかに体を寄せることになる。首都圏では左、関西では右がふつうだ。だが、京都はちょっと違う。大阪と結ばれた私鉄各線では右が多いようだが、京都圏で閉じた系をなす京都市営地下鉄では左が主流、というのが僕の印象だ。

 

 表向きは、どっちに寄れと指示できる話ではないので、左右は自然発生的に選ばれているのだろう。その偏りは、人々の潜在意識を素直に反映しているとみてよい。ただ京都人の左立ちを見て、東京人にすり寄っていると早合点してはダメだ。推察するに、そこには別のメッセージがある。自分たちはふつうの関西人じゃない、と宣言しているように僕には思える。敵の敵は味方という構図になってはいても、そこに東京志向があるわけではない。

 

 意地悪な解釈が過ぎたかもしれない。だが、この見方と響きあう本が京都人の手で書かれた。否、本人が自分は京都人ではないと言い張っているので、京都郊外の人の手で、とすべきだろう。『京都ぎらい』(井上章一著、朝日新書)。著者は1955年、京都市右京区生まれ。京大出身の建築史、意匠論の専門家で、広く文化を論じてきた。まえがきで「人とちがうことを書きたがりすぎる」と自認するように、その言説はひねりが効いている。

 

 京都人じゃない、の意味は洛中の人ではないということだ。洛中の厳密な定義は措くが、それは京都中心部の碁盤目状の市街地とみて大きな誤りはないだろう。著者は、京都西郊の右京区嵯峨で育ち、長じてからは南郊の宇治市に住む。洛外の人というわけだ。

 

 まず披歴されるのは、建築の学生だったころに実地調査で洛中の旧家を訪ねたときの体験。当主は著者の京風の話し言葉に気づいたらしく、「君、どこの子や」と聞いてきた。嵯峨の実家の在り処を言うと「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや」。この回想は、「きてくれた」とあるように感謝の表現を装ってはいる。だが、「揶揄(やゆ)的なふくみのあることは、いやおうなく聞きとれた」という。

 

 実はこのくだりで、僕はちょっと退いた。当主にしてみれば、水洗トイレ以前の長閑な時代を懐かしむひと言だったのかもしれない。そこに「揶揄」を感じとるのは、婉曲話法に慣れた京都人の過敏反応ではないか、と思ったのだ。「ぶぶ漬けでもどうどす?」で退けどきを察するという類の話だ。洛中の感性は洛外にも染みだしているのだろう。著者自身、文中で「洛中の京都人とはりあったために、彼らと似てきたところもある」と認めている。

 

 ここで言い添えておくべきは、著者が洛中人の洛外人に対する揶揄を人権問題としての「差別」と比べて、その違いに論及していることだ。「差別」は絶対に許されない、という認識は広まった。だがそれでも、人間には「自分が優位にたち、劣位の誰かを見下そうとする情熱」があるので、「比較的さしさわりがなさそうだと目された項目に関しては、歯止めがかけられない」。洛中洛外の関係が、そこにすぽっと嵌ったというのである。

 

 僕が京都地下鉄のエスカレーターで目撃した「自分たちはふつうの関西人じゃない」というたたずまいも、そんなさしさわりのない優越感の表れか。京都人は微小な差異を嗅ぎ分け、そこに意味を見いだすことに長けているのだ。科学用語で言えば、社会のエントロピーが小さい。東京では、ありとあらゆる内外の文化がごちゃごちゃにかき混ぜられ、そのごちゃ混ぜが受け入れられているが、ここにはわずかな違いも見落とさない人たちがいる。

 

 では、どうしてこんな小エントロピー社会が実現したのだろう。その答えを導くヒントが、この本にはちりばめられている。ひとつ気づくのは、思考の時間軸が途方もなく長いことだ。なにごとであれ歴史がかかわってくる。洛中洛外ばなしも、その文脈で考察される。

 

 著者は若かったころ、洛外が田舎扱いされることに反発してこう思ったという。「歴史を盾にとるんやったら、嵯峨かて負けてへん。京都人ばっかりに、いばらせたりはせえへんぞ……」。自宅から10分ほどのところに大覚寺があった。その寺は、鎌倉時代に天皇家が二派に分かれたときの片方の拠点だった。この大覚寺統は、もう一方の持明院統と溝を深め、南北朝の南朝を生みだす。著者は、その史実に触れるうちに「南朝びいき」となった。

 

 ここで著者は、洛中を南北に貫く室町通に目を転じる。この通り沿いに、室町幕府3代将軍足利義満が邸を構えた。近くには持明院もある。まさに「足利=北朝体制の中心軸」。そこはやがて商いで栄え、呉服問屋が並ぶようになる。最近はビジネス街の主役を目抜きの烏丸通に譲ったが、それまでは「京都経済をひきいる牽引車」だった。「洛中人士の京都自慢も、この通りあたりを中心とした界隈が、その磁場になっている」というのだ。

 

 この季節、京都を訪れて宵々山、宵山、山鉾巡行とつづく祇園祭の賑わいを体感してみれば、室町の「磁場」がどれほど強かったかを思い知らされるだろう。

 

 南北朝の対立をめぐっては、嵯峨の天龍寺も話題にのぼる。足利尊氏が南朝の後醍醐天皇を弔うために建立したとされる臨済宗の寺だ。著者は、開山の背景に尊氏や禅僧の思惑があった可能性にも触れつつ、政敵鎮魂のためという通説を切り捨てず、それを前向きに受けとめる。視野を身近なところに引き寄せて「自分のしあわせは、不幸な人々を踏み台にしてなりたつと考え、自らをさいなむ」という現代人の心情に通じる、というのである。

 

 興味深いのは、著者が自身の「南朝びいき」を明治政府の南朝正統論と峻別していることだ。招魂社や靖国神社で慰霊しようとしたのはあくまで「味方」であり、そこでは「敵の霊こそが、手あつくまつられるべきだ」という思想が消えている、という。靖国神社に「新しい近代の影」をみて、「靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない」と吐露する。「人とちがうこと」の書き手らしい皮肉である。

 

 あとがきの表題は「七は『ひち』である」。東京の出版人が「七」で始まる用語を索引のサ行欄に入れたことが俎上に載せられる。そう言えば京都の記者時代、年かさの警察官は七条署を「ひっちょうしょ」と呼んでいた。それは、江戸っ子だった僕の祖父が日比谷を「しびや」と言って憚らなかったことの裏返しだ。差異の文化を大事にする。そんな京都人の美点は京都ぎらいの著者にも見てとれる。この本では、花街「上七軒」のルビが必見。

(執筆撮影・尾関章、通算326回)

 

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『坂本九ものがたり――六・八・九の九』(永六輔著、中公文庫)

写真》MONUMENT THE PEANUTS LAST LIVE(渡辺音楽出版/キングレコード)

 このめぐり合わせを、どう受けとめたらよいのだろうか。7月10日の参議院議員選挙で、改憲勢力が総議席数のほぼ3分の2を占めた。その大報道が一段落したころ、大きな訃報が立てつづけに飛び込んできた。和製ポップスの先駆者ザ・ピーナッツの妹伊藤ユミさんとテレビ界草創期の放送作家永六輔さんの二人だ。逝去したのは伊藤さんが5月、永さんが7月上旬だったが、公表の日が選挙翌日に重なった。

 

 二人の生涯から思いだされるテレビ番組をそれぞれ挙げるなら、永さんはNHKの「夢であいましょう」、伊藤さんは日本テレビ系の「シャボン玉ホリデー」。どちらも、1961年に放映が始まった週末の音楽バラエティーだ。高度成長期を象徴する人気番組であり、戦後日本に芽吹いた自由な空気に満ちていた。僕たちはその原点が揺らぎだしたちょうどその日に「夢」と「シャボン玉」がしぼんでいく感覚に襲われたのである。

 

 前者については、当欄の前身で触れたことがある。先輩記者と飲んでいたとき、「夢で…」論で盛りあがり、「あれがもっとも良質な戦後文化だった」という感想を聞いて、その通りですね、とうなずいた話だ(文理悠々「『上を向いて』で世界人になった」2013年6月24日付)。そんな会話を交わしたのは、今から10年ほど前。すでに「戦後」が総決算される兆しがあった。その決算日がとうとう目前に迫ったということなのか。

 

 「夢で…」の記憶をあの拙稿から引こう。「黒柳徹子の機知に富んだおしゃべりに引き込まれた」「渥美清や谷幹一の軽妙なコントに笑った」「中村八大のピアノや松本英彦のテナーサックスが奏でるジャズが、僕たちの知らない自由な世界を教えてくれた」。機知と軽妙と自由。そこには、番組構成者の永さんが吹き込む焼け跡派世代の解放感があった。それが経済成長の明るさと結びついて、あんな愉快な番組になったのだ。

 

 その永さんと、僕は幾度かニアミスしている。最初は高校生のとき、TBSラジオの深夜番組「パックインミュージック」のリスナーとしてだ。投書のはがきをとりあげてもらったことが一度だけある。詳しくは思いだせないが、嫌いなもの、怖いものを問う企画ではなかったか。「徴兵制はいやだ」と書いて送ると読んでくれた。そう言えば、再軍備をめざす改憲論は、ベトナム戦争がドロ沼化した1960年代後半にもくすぶっていた。

 

 最後に接近したのは数年前。永さんは、住宅街のホールで開かれたジャズコンサートに家族らしい幾人かと来ていた。僕の斜め後方、ほんの数メートル先だ。彼の来場は奏者も気づいていたようで、演奏の合間の語りで聴衆にそのことを伝えた。僕たちはみな、後ろを振り返って拍手を送ったものだ。永さんとはついに直接言葉を交わすことができなかったが、同じ一つのジャズを分かちあう機会に恵まれたのは幸せだったと思う。

 

 で、今週は急遽、『坂本九ものがたり――六・八・九の九』(永六輔著、中公文庫)。「上を向いて歩こう」(作詞永六輔、作曲中村八大)の歌手坂本九が1985年の日航機事故で不慮の死を遂げた後、著者が綴った伝記。「九」の前半生の軌跡を、「六」輔「八」大の足どりと絡ませながら描いている。86年に『婦人公論』に連載されて単行本となったものが、90年に文庫化された。書名は、このときに主題と副題が入れかわっている。

 

 実を言うと、著者は九ちゃんが好きではなかった。それを公言するのを僕はラジオで聞いている。この本の冒頭でも、「九」は「六」にとって「八」を挟んだ「トモダチのトモダチ」と位置づける。ただ、絶交はしていない。後段には涙ぐましい友情話も出てくる。九ちゃんが公演先の京都で母の病死を知った日のことだ。著者はその舞台監督を引き受けていて、大阪空港発の最終便に間に合うようプログラムの進行を速めるのに七転八倒したという。

 

 では、なぜ嫌ったのか。手紙形式の章にこうある。「僕は君が体制べったりの芸能人になることを嫌いましたし、君は、逢えばその点を批判する僕を煙たがっていました」。僕の印象でも、九ちゃんはとことん国民的なタレントで、テレビ界にも強かった反体制の気風にはなじまなかった。僕が懐かしく思うのは、あのころは芸能界にも体制批判が存在したことだ。盾突く美学があったと言ってもよい。今はそれがなさすぎではないか。

 

 この本の醍醐味は、著者が青臭い理由で遠ざけていた人物の実像に取材を通じて迫るところにある。出身地の神奈川県川崎へ足を運ぶと、兄や姉は寛容にも心を開いてくれる。そこで聞いた話――。九ちゃんは東京へ移っても時折実家に来た。その帰途、自動車電話をオンにして実家の受話器が拾う家族の歓談を聞きつづけていたという。食わず嫌いゆえに知らなかった一面に触れて「いとおしく」思う。死別後に二人の関係が変わる瞬間だ。

 

 それではどうして、著者はわだかまりのある九ちゃんのことを書こうと思い立ったのか。その理由も文中に記されている。「坂本九なら、彼の生きた時代が書けるから」というのだ。この本は、その言葉の通りに1940〜60年代の光景をまざまざと浮かびあがらせてくれる。ただしそれは、「彼の生きた」にとどまらず「六」「八」「九」が通り抜けてきた戦中戦後である。ここではとくに戦後に目を向けたい、と思う。

 

 著者は疎開先の長野県で終戦を迎える。そのまま地元の中学校へ進むと、校内では軍国教育に対する反発が沸きおこっていた。「土下座する先生を胴上げして、そのまま床に落して蹴ったりする上級生。下級生も文句なく煽動されて先生をこづきまわし、遂には校舎の放火にまで発展してしまった」。ここには「学徒出陣で出かけた上級生」との記述もあるが、中学生の出征は考えにくい。卒業生が復員後、怒りの矛先を母校へ向けたのか。

 

 この中学には「信越本線を走る汽車の屋根に乗って」通ったとある。西部劇に出てくる鉄道活劇シーンを連想させる。著者はこのころ、映画の魅力を知る。米国の作品だ。「東京に帰ってアメリカ映画をみたい」という思いを募らせたという。

 

 戦後、若者たちは戦時体制の瓦解で生じた真空のなかで解放感に浸った。それはしばらく続く。坂本九が1950年代後半に送った高校生活にも、同様の雰囲気は感じとれる。九の同級生の一人は当時を振り返って、こう語ったという。「校長が俺の目の前でなら煙草も、酒もやれっていう豪傑でした」。暴言には違いない。だがたぶん、「俺の目の前でなら」とあるのがミソだ。隠しごとは絶対に許さない、という戒めをそこに潜ませたのだろう。

 

 この校長は、九の進路も決定づけた。彼はすでに歌手志望で、通学しながらバンドボーイなどの仕事を始めていたが、母は大学進学を強く促した。このとき、「個人の能力を引っぱりだすのが教師の仕事」という信念から「休学の扱いにするから、やるだけやってみろ。出来なきゃ帰って来い」と送りだしたという。規則がすべての今は、ここまで太っ腹な言葉はなかなか聞けない。融通が利く時代で、世間のあちこちに親分肌の人物がいた。

 

 この本でわかるのは、戦後の学園さながらの解放感が1960年代のテレビにもあったということだ。「テレビの世界には、先輩がいない。師匠もいない」。いわば真空地帯。だから「心細くはあっても、自分達の好きなように仕事が出来た」と著者は回顧する。

 

 これは、「上を向いて…」の「六」「八」「九」についても言える。著者はそれまでの歌謡界に、作曲家が師匠、歌手は弟子という「古風な関係」があったことを指摘してこう言う。「八大に弟子などはいないから、自由に歌手を選んだことが画期的なことだったのである」「八大にとって、音楽の世界は最初から枠が無かった」。作詞家と歌手が体制との向きあい方の違いで距離を置いたというのも、このことと無縁ではあるまい。

 

 翻って2010年代の今を見渡せば、テレビ草創期と同じ状況にあるのがネットメディアだ。ITが日進月歩なので年寄りにはついていけない。「先輩がいない。師匠もいない」のだ。ところが、若者が好き勝手に構想を練って新しいものを生みだせるはずなのに、解放感をネットに見いだすことはそんなにはない。むしろ、仲間うちで燃えあがる言葉の群れに出会って閉塞感に襲われたりもする。夢とシャボン玉をもう一度膨らませられないか。

(執筆撮影・尾関章、通算325回)

 

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『カラヴァッジョ伝記集』(石鍋真澄編訳、平凡社ライブラリー)

写真》果物の質感

 1年の半ばだが、暮れの回顧もののネタを一つ予約しておこう。2016年は週刊誌ジャーナリズム復活の年だった、ということだ。政治家が第一線から退場に追い込まれた。芸能人もカメラの前で頭を下げた。それをあばいたのは、出版業界の苦況をものともせずに気を吐く週刊誌。コンプライアンス社会でもこんなことをしている人がいるんだ、と驚かされたこともある。だが、どうでもいいことじゃないか、と呆れる話題もあった。

 

 不倫報道の多くは、読者にとって「どうでもいいこと」だった。道ならぬ恋がばれると、当事者が慌てるだけではない。周辺の人々も巻き込まれる。心がもっとも深く傷つくのは、家族かもしれない。だから、当事者を囲む小社会では「どうでもいい」とは到底言えない。だが、その情報は圧倒的多数の大社会にとっては「どうでもいい」。なのになぜメディアは騒ぎたて、当事者もそれに几帳面に応じて世間に向かって謝罪するのか。

 

 そう思って、昔を思い返してみる。僕の印象で言えば、1960〜70年代は「どうでもいいこと」が今よりも頻繁に週刊誌を賑わせていた。あのころは婚前の深いつきあいがなかなか大っぴらにできなかったこともあって、既婚者のみならず未婚者も含めて恋の発覚や愛のもつれが大見出しになった。ただ、それらは読者に「どうでもいいこと」と正しく受けとめられていたように思う。今のような不祥事扱いは、それほどなかった。

 

 芸能人は、僕たちとは違う世界に住んでいる。そこには、華やかで大胆な恋バナシがあって当然だ。僕たちは素朴な憧れと一抹の羨ましさ、適度の共感と小さな反発をもって、それを眺めている――そんな感じだっただろうか。今で言えば、テレビの情報番組がとりあげるハリウッド・セレブのゴシップに近い。読者の心のなかでは、生身の人間の私生活を映画の筋書きのような虚構空間に移しかえるという作業が暗黙理になされていたのである。

 

 今は、そんな心理状態が許されない。テレビメディアとネットメディアの相乗効果で世の中の隅々までも透明化されているので、芸能界は僕たちの世界と同レベルに降りてきてしまったのだ。だから、芸能人は一私人としての影響しか及ぼさない不始末についても、世間を騒がせ迷惑をかけた張本人という立場に追い込まれ、陳謝する羽目になった。こういう風景を、僕たちはこれからもずっと見つづけなければならないのだろうか。

 

 で、今週は『カラヴァッジョ伝記集』(石鍋真澄編訳、平凡社ライブラリー)。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571〜1610)は、ルネサンスが一段落した16世紀末から17世紀初頭にかけてイタリアで活躍した画家。この本は、本人の存命期から100年ほどの間に書かれた小伝6編を並べ、さらに関連資料や解説論考を収めている。編訳者はイタリア美術史の専門家。今年3月に刊行された。

 

 この本をとりあげるのは先月、東京・上野で開かれていたカラヴァッジョ展「ルネサンスを超えた男」を観てきたからだ。展覧会場は、まもなく「世界文化遺産」に登録される国立西洋美術館本館。それも人を呼び込んだ一因だろうが、平日にもかかわらず大混雑だった。おもしろかったのは、展示物が絵だけではなかったことだ。刑事事件がらみの記録などがあり、思わず惹き込まれた。それで、売店の『…伝記集』に目がとまったのである。

 

 カラヴァッジョは、品行方正という言葉からもっとも縁遠い人物だった。この本にも、編訳者がまとめた「カラヴァッジョ犯科帳」という一編が載っている。「武器不法携帯」、いわば銃刀法違反で身柄を拘束されるのは、しばしばだ。すれ違いざま、顔見知りに剣を抜いたこともある。居酒屋の料理をめぐって給仕といさかいになり、大暴れしたこともある。かと思えば、卑猥な詩で名誉を傷つけられたとライバル画家から訴えられたこともある。

 

 これらは、出身地ミラノからローマへ移り住んでからのことだ。画家としての名声は高まりつつあった。もめごとの相手は同業者という例が少なくない。今ならば、画壇を揺るがすスキャンダルを連発していたと言えようか。謝罪会見を何回も開かなければならなかったことだろう。身柄を解かれ、警察署を出てきたところで、カメラの放列に囲まれ、頭を地につけんばかりに下げている光景が思い浮かぶ。だがもちろん、そんなことはなかった。

 

 そして、極め付けは殺人だ。1606年、きっかけは不明だが、球技場で4対4の乱闘となり、自ら剣をふるって一人を殺したという。被害者は、日ごろから悪感情を募らせていた男。決闘もどきの流血事件だった。これがもとで、カラヴァッジョの逃避行が始まる。ナポリ、マルタ島、シチリア島……。ただ、逃げているばかりではない。行く先々で作品を描いた。マルタ騎士団の団長に取り入って、騎士の称号を授かったりもしている。

 

 こんなことがあっても世間は「ありふれた抗争事件」とみなした、と編訳者は「…犯科帳」に書き添える。「カラヴァッジョ自身も、殺人を犯したという、今日われわれが考えるような罪の意識はもっていなかった」と推察するのだ。欧州ではルネサンスを過ぎてもこんな蛮行が日常の事だったのか、とは驚くまい。日本でも、血を血で洗う戦国の世が落ち着いてまもなくのころだった。500年で倫理の物差しはこれだけ大きく変わったのである。

 

 では、その問題児の画風はどんなものか。まずは、ジョヴァンニ・バリオーネが綴る小伝。この人は前述の名誉棄損を訴えた当人で、カルヴァッジョとは険悪な間柄だった。だが、ほめるところはほめている。一例は「リュートを弾く若者」という絵。「まるで生きているよう」と絶賛する。「花瓶には窓が、部屋の他の品々とともに映っているのが、はっきりと見て取れる」「花の上には、すばらしく丹念に描かれた、本物さながらの露があった」

 

 ふと思うのは、このほめ言葉に毒がまぶされていないか、ということだ。ただただ現物にそっくりなだけ、という揶揄ととれなくもない。だが、そうではないらしい。「バリオーネはカラヴァッジョ風を実践した一人で、そのためにカラヴァッジョから強い反発を受けたのだと想像される」と編訳者が解説しているからだ(所収の論考「カラヴァッジョの真実」)。人柄は別にして、その技は自身が追求する理想を究めているとみたのだろう。

 

 小伝6編のなかで編訳者が一目置いているのは、17世紀の美術批評家兼美術史家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリのものだ。それこそが「カラヴァッジョ神話」をつくりあげ、偏見と呼ぶべきものまで定着させてしまったということらしい。

 

 ベッローリは、カラヴァッジョの写実主義についてこう書く。「彼はモデルなしには絵を描くことができなかった」「自分はモデルに忠実に描いているので、一筆たりとも自分のものは作れない、それは自分のものではなく、自然のものである、と公言していた」「彼には構想力も品位も素描も、また絵画に必要ないかなる科学もなく、ひとたびモデルが彼の視界から取り去られてしまえば、彼の手や才能はなすすべを失ってしまうのである」

 

 その手法が「無頼」な実人生の影響を受けて、作品の色彩がしだいに暗さを帯びていった、と結論づけている。このベッローリ流の解釈が、カラヴァッジョは「教養のないヴィラン(悪党)画家」という「誇張されたイメージ」を生んだ、と編訳者はみる(「…の真実」)。

 

 今回作品群をじかに観て僕が感じたのは、その写実は映像に溢れた現代の感性にぴったりくるということだ。人物の手指の節くれだった質感やふくらはぎの波打つ量感は写真のようだ。ベッローリも、それを正当に評価している。「人体も教則や手法(マニエーラ)によって描かれ、また真実よりも優美さに満足していた時代」に「色彩からあらゆる化粧や虚飾を取り去って、色彩を回復させ、それに血や肉を再び戻してやった」という。

 

 話を最近のメディア状況に戻そう。そこでは人々が私的生活まで公共空間に引っぱりだされるので、だれもがのっぺりとした公序良俗を取り繕うことを余儀なくされている。そのことが、カラヴァッジョ作品の陰翳に僕たちが吸い寄せられる理由なのかもしれない。

 

 この時代、どのようにして人間に「血や肉」を戻せるのか。そんなことを思ってみる。

(執筆撮影・尾関章、通算324回)

 

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『南の島のティオ』(池澤夏樹著、文春文庫)

写真》南の果実

 梅雨が明ければ夏本番だ。だれもが、海へ行こう、島に渡ろう、という気分になる。その例に僕も漏れないが、ではそれを行動に移しているかと言えば、さほどの体験は積んでいない。正直に言えば、島は島でもリゾート向きの南の島は大いに苦手なのである。

 

 理由は、蛇がいっぱいいることだ。路面には、クルマに轢かれたらしい死骸が残っている。藪に入れば、すぐにも草むらから飛びだしてきそうだ。島全体でいったい何匹が隠れ住んでいるのかと思うと、背筋が凍る。それだけではない。海に潜れば、ウツボやアメフラシのような不気味な生きものがいるだろう。宿に戻れば、特大のゴキブリが床を走り抜けているのではないか。生態系の豊饒は理念として素晴らしいが、感性がそれについていけない。

 

 そんな僕にも島体験はある。1983年の秋が深まるころだった。正月紙面の企画で野生動物がらみの取材をすることになり、沖縄県の西表島に数日間滞在したのである。「ヤマネコに会ってこい」。上司は気軽に送りだしたが、遭遇はそんなに簡単ではない。それは早々と諦めて、人に焦点をあてる作戦に切りかえた。都会の大学生だったころから西表島に通い、ついには近隣の島に就職先を見つけた青年の話をじっくり聞いて、記事にした。

 

 青年はイリオモテヤマネコの観察を続けるうちに、よく見かける一匹に親しみを覚えるようになった。愛称は「ノリ」。自分を見分けてもらうため、「服装は、いつも『青いツナギ』に決めた」。友だちになりたかったのだ。だが、ノリが自分への警戒心を弱めていく様子に疑問を抱きはじめる。「どうしたんだ。まるで飼いネコのようになって……」。そう思って、青いツナギをやめる――そんな話だった。(朝日新聞1984年1月1日新年特集)

 

 西表島で驚いたのは、「この島には警官がいない。信号機も一つだけ」と聞いたことである。今の状況をネット検索すると駐在所も信号も複数あるとの記述を見かけるので、当時は違ったということか。それとも世間話に誇張があったのか。ただ、警察力が希薄だったのは間違いない。もう一つ新鮮な体験は、「医介補」という人に会えたことだ。医療行為を限定付きで許された人である。返還前の沖縄にあった医師不足を補う制度がまだ残っていた。

 

 南の海の彼方に、中央の統治や制度が完全には及ばない島がある。それは、あのころ世の中のすべてがコンピューターによる管理システムに組み込まれていこうとしているのとは対照的だった。蛇もウツボもゴキブリも嫌いだが、南の島には魅力がある。

 

 で今週は、『南の島のティオ』(池澤夏樹著、文春文庫)。10の短編から成るが、それらは同じ一つの島を舞台としており、いずれもティオという少年の目を通して語られる。児童文学誌『飛ぶ教室』などに載ったものが1992年に単行本(楡出版)となり、96年に文庫化された。僕は巻末にある神沢利子の解説を開くまでは、児童文学として世に出たとは思わなかった。大人の小説としても読みごたえのある作品ばかりということだろう。

 

 この一冊に食指が動いた理由は、巻頭に見開きで載った手描き風の地図にある。その島は四弁の花のようなかたちをしており、周りを珊瑚礁に囲まれている。真ん中にムイ山、半島部にクランポク山。四つの川が海に注ぐ。海沿いには一つの町と四つの村が散在している。海の描き方も丁寧で、珊瑚礁の内側は礁湖と呼ばれるように穏やかだが、外界は波立っている。これを見ただけで、島に渡ってみたくなるではないか。

 

 そんな旅心を増幅させてくれるのが、最初の一編「絵はがき屋さん」の書きだしだ。「飛行機は週に三度、月曜と水曜と日曜に島にやってくる」。ティオはホテルを営む父の手伝いをしており、発着便がある日は空港まで客の送り迎えに出向いている。ターミナルの建物は「パンダナスの葉」を葺いた南国風だが、夕空から聞こえてくるのは着陸機の「爆音」。そこが文明から隔絶した孤島ではなく、僕たちと回路を通じさせていることがわかる。

 

 この本の楽しみ方の一つは、島が地球のどこにあるかの詮索だ。常識的には南太平洋かカリブ海かということだろうが、読み進むとカリブ説はしぼんでいく。「道路工事を専門にやる日本の会社の人」が来島したようだし、農業技術センターには「タケモト先生」がいる。医師がマニラの病院で研修したらしいし、看護師がハワイの学校で学んだという話もあるから太平洋か。役所を「政庁」と呼んでいるので、統治領、自治領といった感じもある。

 

 日本とのつながりは過去にさかのぼる。その生き証人は、「昔、天を支えていた木」という一編に登場するヘーハチロという名の島民。日本人ではない。「この島が日本の領土だったころに生まれたから、父親が日本の偉い人の名前を付けた」のだ。さらに「ホセさんの尋ね人」を読むと、戦時中、日本軍の守備隊が駐留していたこともわかる。日本から開拓団も来ていたが、敗戦が迫ると内地へ引き揚げたという。

 

 その一方で、米国がもたらしたと思われるものもある。少年たちは野球が大好きだ。「十字路に埋めた宝物」でティムは13歳。「島で一番強い野球チームであるドルフィンズのファーストを守っていた」。チームは、近くの島から遠征してきたパイレーツを相手に接戦を繰り広げる。このとき、バットやグローブを運ぶのは農業技術センターに勤めるバムさんの「ピックアップ」。中型や小型のトラックをこう呼ぶのもアメリカ流だ。

 

 どこの島かの種明かしは「解説」のなかにある。著者が足繁く訪れた実在の島がモデルになっているらしいのだ。だが、その答えを事前に見ないことをお勧めする。いや、事後もここだけは読み飛ばしたほうがよいかもしれない。この島ではいろんな文化が交ざりあい、無国籍感を醸しだしている。政庁の政治権力も緩めで、人々の心は海と空と山とだけに向きあっている。ティオの島は、ただティオの島として存在する。それでいいではないか。

 

 この島が実在のように感じられ、それでいて虚構とも思えるのは、合理を超えたなにかが宿っているからだ。魔術と言えなくもないが、透明感があるのでおとぎ話に近い。

 

 「絵はがき屋さん」では、セールスマン兼写真家が商品のはがきを売り込んで、その効能を説く。買った人がだれかに郵送したとしよう。「そうすると受け取った人は、どうしてもこの島に来て、その絵はがきに写っている景色を見たくなるんです」。ティオがまず乗り気になり、父も最後には説き伏せられて商談がまとまる。ホテルで売りはじめると、実際に客が増えた。写真の魅力が魔力の域に達していれば、そんなこともあるということか。

 

 これには蛇足のようにして、ちょっといい話がある。セールスマンはティオを被写体にして写真を撮り、それも絵はがきにすると言う。「きみが大人になった時にどうしても好きな人ができて、来てほしいと思ったら、投函(とうかん)すればいい」。12歳の少年に「それはあまりに遠い日のように思われた」が、いやすぐにそんな時機はやってくる。大人の目で見れば十代の頃のほほえましい記憶を呼び起こす楽しさが、この小説にはある。

 

 「星が透けて見える大きな身体」では、文字通りのシャーマンが出てきて、天界と交信する。医師の娘で4歳のアコちゃんが原因不明の高熱にうなされ、ティムは医師宅の家事を手伝うヨランダという少女とともにカムイ婆に会いにゆく。婆は「わしが天の者を呼び出してやる」と頼みを聞き入れつつ、二人にこう問いかける。「その子供を取っていかないでくれと談判してみるか。正しい理屈をならべて、話ができるか」

 

 シャーマンが論理立てた交渉を促すという逆説。天は、透明な体をして二人の前に現れる。幼い子を天に連れていく理由として「地面の上の世界にはいろいろと辛いことがある」「天はかぎりない幸福の場所だ」と言う。ティムは「アコちゃんは人の子として地面の上に生まれた。人の子の幸福と不幸を身に受けるように生まれた」と反論する。この場面からは、地上の生は幸せ一色でないからこそ意味がある、という「理屈」が見えてくる。

 

 生の本質に触れるには、おとぎ話が要る。そのための想像力を膨らますには、海にも空にも山にも開かれ、異文化が交ざりあう小さな島が最適なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算323回)

 

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『子どもたちに語るヨーロッパ史』

(ジャック・ル・ゴフ著、前田耕作監訳、川崎万里訳、ちくま学芸文庫)

写真》欧酒さまざま

 欧州連合(EU)に残るべきかどうか。国の姿を決める国民投票が英国であった。BBCサイトが伝える開票結果では、日本時間6月24日午後2時の時点で「離脱」票の過半数到達が確定した。この報道を見ていて頭をよぎったのは、欧州とは何か、という問いだ。

 

 EUが、経済のみならず政治も含む連合体として登場したのは1993年11月。ちょうど僕がロンドン駐在の記者だったときのことだ。その歴史的瞬間の空気をじかに吸って、欧州戦後史の針が時計回りに進むのを実感した。それが逆戻りしたという印象は拭えない。

 

 EU誕生の翌年早々、朝日新聞の在欧記者たちは「おおヨーロッパ! 国のすがた・統合の因数分解」という連載に取り組んだ。僕が受けもった記事は「国境破り」。スイス・ジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機関(CERN)をとりあげた。地下トンネルに横たわるのは、フランスとの国境をまたぐ1周27kmの環状加速器LEP。ヒッグス粒子を見つけたLHCの先代格にあたる。そこには、正真正銘「欧州人」の科学者が集っていた。

 

 自国語が通じなければ英語で、という不文律があった。イタリア出身の物理学者は「ここの研究者は、国籍よりも、どこの実験グループに属しているか、どこの大学から来ているか、という意識の方が強い」と語ってくれた(朝日新聞1994年2月25日朝刊)。それは、この学問領域の性格を反映しているのかもしれない。国境どころか天地の境界すら無視して、普遍の法則を追い求める人々の集団だからだ。

 

 だが世事全般は、そうはいかない。英国社会にEUへの拒否感が根強くあることは、僕がいた頃も感じることができた。議会では、党派の違いを超えて欧州懐疑派(Eurosceptics)が論陣を張っていた。ここで僕が引っかかったのは、字面上の懐疑対象が「欧州統合」ではなく「欧州」そのものということだ。英国は欧州の一員であり、しかもその主要国のはずなのに、どうしてそこまで自分の居場所を突き放すような言い方をするのか。

 

 しだいにわかったのは、英国人は皮膚感覚で欧州イコール大陸と感じているらしいということだ。そこには、辺縁の視点が見え隠れする。城の佇まいであれ、食の風味であれ、英国風は武骨だ。対岸の洗練との対比を自覚しているからこそ、欧州のことをよそ事のように言うのかもしれない。それは、必ずしも悪いことではない。ただ、ひとたび偏狭な思想と結びつくと、今回のEU残留派議員殺害のような悲劇が起こるのではないか。

 

 今週は、『子どもたちに語るヨーロッパ史』(ジャック・ル・ゴフ著、前田耕作監訳、川崎万里訳、ちくま学芸文庫)。著者は1924年生まれ、フランスの歴史学者で欧州中世史が専門。この邦訳文庫版は、『子どもたちに語るヨーロッパ』(2007)、『子どもたちに語る中世』(2006)という原著2冊を訳して一つに合わせたもので、2009年に出た。少年少女に聞かせる語り口は、遠隔の地にいる大人の欧州理解をも助けてくれる。

 

 欧州にだれもが認める特徴は、狭いのに多様ということだろう。この本もまず、その狭さを指摘する。欧州域内ならば一つの国からもう一つの国まで「五時間以内(ロシアをべつにすればたいてい三時間以内)のフライト」でたどり着けるとあるのは、僕の実感にもぴったりくる。ロンドン勤めのころに大陸へしばしば出かけられたのも、旅程に限れば東京から大阪、あるいは東京から札幌や福岡へ出張するのと同じ感覚で行き来できたからだ。

 

 そして著者が多様さを裏打ちするものとして言及しているのは、ヨーロッパ人が「『ヨーロッパ人』とよばれることのほとんどない人びと」という逆説だ。互いに国の名、民族の名で呼びあっても自分たちが欧州圏の仲間という意識は乏しいというわけだが、これは域内にいるからこその見え方で、差っ引いて受けとめたほうがよい。ただ、空路1時間で言語や食文化が一変する醍醐味は、そこが差異にあふれていることの表れと言えよう。

 

 この本は「ヨーロッパ人がこんなに多様であるにもかかわらず、なぜひとつのコミュニティを形づくっているのか」という問いを念頭に書き進められていく。当然のことながら、源流を探し求めてギリシャ・ローマの古代文明や中世のキリスト教について詳しく叙述されているのだが、それを几帳面に跡づけるのはやめよう。むしろここでは「ひとつのコミュニティ」を支える条件を二つだけ、著者が描く欧州史から拾いあげたいと思う。

 

 一つめは「混血」。著者は古代から中世にかけて盛んになった民族移動に目を向け、「混血から生じた民族」は「文明や制度の面から見てより豊かでたくさんのものを生み出します」という。「人間の交錯は発展の源泉」であり、「ガリアでは、二つの主要な民族、ローマ帝国下のガリア人と、五世紀以降に定住したゲルマン系のフランク人が、その後のフランスの発展を進めました」と解説する。「民族的純血」を求めることは「不毛」と断じている。

 

 欧州の混血ぶりは、僕も英国で痛感した。赴任するとき、向こうの人は背が高く体も大きいと吹き込まれて日本人仕様の衣類、履物類を大量にもち込んだが、ロンドンで買い物をすると、さまざまなサイズが用意されていた。小柄なラテン系の人が大勢移り住んでいるということもある。だが、先祖の代からの英国人も大柄な人ばかりではなかった。それは、歴史のなかでケルト系やゲルマン系などが混ざり合った痕跡のように思えた。

 

 なかでも興味深いのは、ゲルマン系のノルマン人だ。この本にも、こんな記述がある。「スカンディナヴィアのノルマン人の一部は北フランスに定住し、ノルマンディの名を残しました。ノルマン人は十一世紀に大ブリテン島を征服し、一部は南イタリアに移住し、ナポリ王国とシチリア王国をつくりました」。北欧の血は、その文化とともにフランス、英国、イタリアに混ざり込んだのである。

 

 英国のノルマン人は「征服」という言葉通り、北フランスから海峡を越えてやって来て支配者となり、貴族層に浸透した。これが今も残る階級社会の根っこにあるのは確かだが、その一方で、人々が王室を神格化しない冷めた市民感覚をも生みだしたように思う。

 

 もう一つ、欧州を支えたものに学問がある。この本によれば、中世のスコラ学はラテン語を用いたので「大学者のほとんどは、出身国以外でも、ヨーロッパのいたるところで教授になることができた」。この国際性は、近代科学に受け継がれる。著者は、コペルニクス以降の科学の流れを追って「発見や発明は、たがいに結びつきつつ発展したヨーロッパの学者たちの共同体による、共働の成果」と位置づける。CERNの原点とも言えよう。

 

 EUに対する著者の立場は、至って前向きだ。すでに達成したものとして筆頭に掲げるのは「ヨーロッパ人同士が戦争をすることはもうない」という状況だ。近過去の旧ユーゴスラビアや北アイルランド、最近のウクライナ情勢などを思い浮かべると楽観が過ぎるような気もするが、EU域内で国家間戦争が起こる可能性は限りなく小さくなったということだろう。さらに民主主義、死刑廃止、国境検査撤廃の面でも進歩を遂げたとしている。

 

 著者は、欧州が闘うべきは「不平等」「失業」「排除」だと言い切り、逆に大切にすべきものとして「人権」「女性の権利」「子どもの権利」といった言葉を並べる。もう一つ、大切にするものとして書き添えたのが「人間と生きものと自然のバランス」だ。それは生態系の尊重であり、環境保護思想すなわちエコロジーがめざす目標にほかならない。欧州は今に至るまでいつも新しい価値観を打ちだし、世界へ発信してきたと言えるだろう。

 

 今回の英国の選択は、経済面で世界規模の混乱を引き起こしそうだが、欧州社会の深層では「ひとつのコミュニティ」という意識が生き延びるに違いない、と僕は思う。

 

 日本列島では縄文人と弥生人が混ざりあったのに、それを僕たちはほとんど忘れている。近隣の民族と漢字文化を分かちあってきたという連帯感も希薄だ。アジアに「コミュニティ」の意識を育むのなら、そんな歴史の記憶を蘇らせることから始めなければなるまい。

(執筆撮影・尾関章、通算322回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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