『ゴルフ場殺人事件』

(アガサ・クリスティー著、田村義進訳、ハヤカワ・クリスティー文庫)

写真》人気スポーツ(朝日新聞2017年8月14日朝刊)

 スポーツのどれが好きで、どれが嫌いということはないのだが、ことゴルフに限っては距離を置いて眺めてきた。僕たちが幼かったころ、それは今と違って富裕層の象徴だった。だからこそ羨望の的ともなったが、一方で疎遠感も呼び起こしたのである。

 

 思いだすのは、テレビ草創期の人気ドラマ『ママちょっと来て』だ。日曜夜に日本テレビ系で放映されていた。ママは乙羽信子、パパは千秋実。二女一男の子どもたちがいた。豊かな中流家庭を描いた米国製ホームドラマの和製版と言ってよい。ウィキペディア(日本語版、2017年8月18日時点)には、1959年から63年まで続いたとある。当欄でも2016年8月12日付「TVのあの頃を風化させないために」で触れた。

 

 録画が手もとにはないので記憶によって綴るしかないが、あのドラマで千秋パパがどんな日々を送っていたか、その光景は鮮明に脳裏に残っている。会社では中間管理職の立場にあり、オフィスに腰かけて書類が回ってくるたびにハンコを押している。日曜日の朝も、妻子を残して家を出る。「また今週も?」。非難がましい視線を背後に浴びながら……。このとき、パパの肩にあったのがずっしりと重たそうなゴルフクラブ一式だった。

 

 このドラマは、当時日本の都市近郊でふえつつあった中流上層(アッパーミドル)の生活様式を映していたと言えるだろう。それは、僕自身が見た光景とも合致する。父親が大手企業に勤める友だちの家に遊びにいくと、庭にゴルフ練習用のネットが置かれているということがよくあった。ホワイトカラーの接待アイテム兼贅沢な趣味という感じ。ゴルフは、戦後経済が復興から成長へ向かうとき、その担い手の嗜みとなっていたのである。

 

 それは高度成長が進むにつれて、利権や乱開発と密接に結びつく。ゴルフ場はレジャー開発の目玉商品となり、その会員権が売り買いされて投機欲をそそった。そして、造成のたびに山肌が削られる。そこにあるのは、金権政治と自然破壊のイメージだった。

 

 一方で、ゴルフは大衆化もしていく。前述「TVのあの頃を風化させないために」では、深夜番組「11PM」(日本テレビ系)でレジャー情報の一つにとりあげられていたことを書いた。テレビの試合中継もふえて、スター選手たちが次々に現れた。ひとことで言えば、人気スポーツとして野球や相撲に並んだのだ。だが、後に新聞社に入ってみると、ゴルフ好きの同僚は少なかった。僕ら世代の青臭い記者精神とはそりが合わなかったのだろう。

 

 今は、そんな負のイメージが一掃された、と言ってよい。ただ、一つの時代に一つのスポーツが一つの記号となったことは記憶にとどめておくべきだろう。で、今週は、ゴルフというスポーツがどんな文化を背負ってきたかを英国の長編ミステリーで考察してみる。

 

 とりあげるのは、『ゴルフ場殺人事件』(アガサ・クリスティー著、田村義進訳、ハヤカワ・クリスティー文庫)。原著は1923年に出ているので、著者(1890〜1976)にとっては初期の作品だ。早川書房は詩人として著名な田村隆一の訳も文庫化しているが、今回の本は2010年代に入ってからの新訳である。会話文の「でも、それって、あんまりじゃない」といった言葉遣いは現代風。新旧訳者は同姓だが、特段のつながりはないらしい。

 

 原題は、“Murder on the Links”。辞書で「リンクス」を調べると「海岸・河岸に造られた比較的平坦なゴルフ場」(デジタル大辞泉)とあるから、邦題はほぼ直訳と言ってよいだろう。ただ、英英の辞典には“linksland”という言葉があり、それは海沿いにあってなだらかな地形をなし、砂っぽい土壌が雑草に覆われているようなところを指しているらしい。ゴルフの本場スコットランドの自然を生かしたコースが目に浮かんでくる。

 

 この小説に出てくるゴルフ場は、スコットランドにはない。フランスの「メルランヴィル」という、おそらくは架空の田舎町。探偵エルキュール・ポアロと相棒ヘイスティングズが英国から赴くとき、港からタクシーで乗りつけているからドーバー海峡からそう遠くはない。後段で二人が互いの推理を語りあう場面には「われわれは海が見おろせる草地に腰をおろした」という描写がある。一帯は潮の匂いがして、リンクスランド風なのだろう。

 

 事件の発端は、こうだ。富豪ポール・ルノーがメルランヴィルの自邸から身の危険を訴え、助けを求める手紙をポアロに送る。そこで海を渡って屋敷に駆けつけると「ムシュー・ルノーは亡くなりました。今朝、殺されたのです」と告げられる――その死体発見場所が、隣接するゴルフ場の敷地に掘られた穴だった。コースはまだ造成中で、翌月にオープンの予定。作業員が早朝に見つけたという。以下、例によってミステリーの筋は追わない。

 

 僕が興味をそそられるのは、ここから当時の欧州社会の様相がどう見えてくるか、ということだ。まずは、ルノーの民族的背景のあいまいさ。家政婦は捜査陣に対して「旦那さまはお金持ちのイギリス紳士」と言う。実際、ロンドン市内やその北郊ハートフォードシャーにも邸宅を構えている。ところが秘書は、雇い主は「フランス系カナダ人」であると証言する。要は、彼は英国人らしくも見え、フランス系のようでもあったということだろう。

 

 これは、富裕層に限った話ではない。この作品の見せ場の一つに、ロンドンが拠点のポアロとパリ警視庁刑事ジローとのさや当てがあるが、そこに英仏の対立構図はない。前者が「灰色の脳細胞」を働かせれば、後者はとことん「物証」にこだわる。英国文化は経験論を重んじるから、入れかわったほうが自然のようにも思える。そうならないのは、ポアロが英国に住んでいても母語がフランス語のベルギー人、即ち大陸の人だからではないか。

 

 この作品に登場する謎めいた女性も、同様のあいまいさに満ちている。若かったころ、周りに出生をめぐる噂が立った。「ロシアの大公の非嫡出子であるとか、オーストリアの皇太子の正式の子だが、母が平民であったため、皇位につけなかったとか」。こんな都市伝説が成り立つほど、欧州人は国境を超越して交ざりあっていた。それは今の話ではない。欧州列強が角突き合わせていたころ、欧州連合(EU)などなかった時代のことである。

 

 ひとつ言えるのは、そういう国際性が蓄財につながり、富豪を生みだしたことだ。ルノーも、自らの経済活動の主舞台は南米だった。「これまでの人生の大半をチリとアルゼンチンで過ごしてきた」「南アメリカ関連の株を大量に持ってるんじゃなかったかな」。そんな巷間情報をヘイスティングズがポアロに伝える。チリもアルゼンチンも19世紀にスペインから独立していたが、欧州列強にとっては依然、資源の供給元にほかならなかった。

 

 とりわけ、チリ硝石と呼ばれる鉱物は20世紀初めまで垂涎の的だった。天然の硝酸ナトリウムで、火薬や肥料の原料となる。1910年代にアンモニアの人工合成法が確立するまで、それは工業国が手に入れておきたい品目の一つだった。さらにチリには銅鉱山もあって、こちらの採掘も盛んになってくる。鉱脈に賭ける経済は投機を呼び起こしたに違いない。ルノーが買いあさったという株は、きっとそんな産業構造に関係していたのだろう。

 

 当時の欧州人の一つの典型は、ルノーの秘書に見てとれる。初対面のとき、ヘイスティングズが受けた印象はこうだ。「見あげるような長身、運動選手のようながっしりとした体軀、顔も首も日に焼けていて、威風あたりを払っている」。英国生まれ、アフリカで狩猟する、朝鮮に出かける、米国で農業も営む……まさに「世界を股にかけている」という言葉の通りだ。今とは違って、欧州が支配する側にだけ回るグローバル経済がそこにはあった。

 

 さて、再びゴルフの話。隣地のリンクス造成も「ムシュー・ルノーの寄付金によるところが大」(地元の警察署長)というから、このスポーツはやはり富裕層の地位を代弁するものだったのだろう。皮肉なことに、その一角が当人の墓場となったわけだが……。

 

 アガサ・クリスティーの小説世界は、欧州の権勢で歪んだ地球儀の表面にある。そのことを彼女は表だってどうこう書かないが、僕たちはその歪みに気づいておくべきだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算382回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『126年! なぜ三ツ矢サイダーは勝ち抜けたのか』(立石勝規著、講談社+α文庫)

写真》装いは変わったが……

 飲みものは風景になる。このことに異論はあまりないだろう。人物がいて、その傍らにグラスやカップがある。それらは、その場の空気を感じさせる。季節感が漂ってきたりもする。時代の様相が見えてくることもある。だから脇役であっても決して侮れない。

 

 最近気になるのは、ニュース映像でよく見かける会合風景だ。中央官庁の審議会など、かなり高レベルの会議であっても、メンバーの前にはペットボトルが並んでいる。水のことも、緑茶のこともある。口飲みというわけにはいかないからか、紙コップなどの容器が添えられている場合が多い。飲みものには発言で声を嗄らした後、のどを潤すという効能があるが、蓋を開けないままの人は少なくない。会議儀礼だからそこにある、という感じだ。

 

 これを見て時代は変わったな、と思う。1970〜80年代を思い返してみよう。会議では、淹れたばかりのお茶を出すのがふつうだった。湯呑み茶碗は蓋付きで、茶托に載っている、というのが定番だったように思う。それは、まさに村落社会の残滓だった。実際にはティーバッグと自動湯沸かし器を使っていたとしても、客人のために茶葉を用意し、湯を沸かすという姿勢が感じられる。立ちのぼる湯気はもてなしの記号に違いなかった。

 

 もう一つ忘れてならないのは、あのころのお茶出しが性の歪みの反映でもあったということだ。役所であれ、会社であれ、事務職場には「お茶くみ」の担当がいて、それはほとんど女性だった。この風習は性の役割固定の象徴だったので、しだいに姿を消していく。今では職場の一角にコーヒーメーカーなどを置いて、課長でも部長でも自分が飲む分は自分で入れるのがふつうだ。会議テーブルのボトルも、その流れの必然の帰結と言えよう。

 

 では、会食の飲みものはどうか。今はファミレスや居酒屋のメニューそのままにあらゆるものが揃っている。酒類しかり、非アルコール飲料しかり。それで思いだされるのは、僕が小学生だった1960年前後だ。祝いごとでも、法事でも、大人はビールか熱燗、子どもはサイダーかジュースとほぼ決まっていた。個人的には、三ツ矢サイダーの緑がかった瓶とバャリース(現バヤリース)のオレンジ色が脳裏にしっかり焼きついている。

 

 で、今週は『126年! なぜ三ツ矢サイダーは勝ち抜けたのか』(立石勝規著、講談社+α文庫)。著者は、1943年生まれのノンフィクション作家。毎日新聞記者として政財界の疑惑などを取材、論説副委員長も務めた。この本を読む前に知っておいたほうがよいのは、退社後、三ツ矢サイダーを売るアサヒ飲料と同グループの企業で顧問職にあったことだ。本人もエピローグで「その分を差し引いて、この本を評価してほしい」とことわっている。

 

 この本は、2009年に出た『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか――夏目漱石、宮沢賢治が愛した「命の水」125年』(講談社)を改題、加筆したものだ。文庫本初版は2010年刊。この古株の清涼飲料がソフトドリンク多品種化の荒波にもめげず生き延び、しかも製造元だった朝日麦酒(現アサヒビール)が劣勢の時代に経営を支えて、ヒット商品スーパードライの「生みの親」役を果たした――その秘密を探ろうという動機がみてとれる。

 

 著者は記者出身らしく、このテーマに取材力をもって臨む。ただ、サイダーの起源にまで遡っているから、頼りは文献資料ということになる。巻末の「主要参考文献」一覧は10ページ余、1898〜2010年刊行の百数十点が挙げられている。小説、随筆、ノンフィクションの類いから社史、業界史、経営書まで種々雑多。文庫版まえがきでは、単行本の段階では読み漏らした資料があることを悔いている。記者としての誠実さを感じた。

 

 この本には、サイダーの源流として炭酸水の歴史が書かれている。欧州には「炭酸ガスを発生させる炭酸石灰の地層」が多く、「古くから炭酸水が自噴する鉱泉が無数に存在していた」。ここで、炭酸ガスは二酸化炭素、炭酸石灰は炭酸カルシウムである。天然の湧き水は川の水のように汚水混じりではなかったから、飲み水として重宝された。それが15〜17世紀の大航海時代、船積みされる。乗組員の飲料としてあちこちへ運ばれたのである。

 

 それで思いだすのは、僕が欧州に駐在していたころのこと。レストランで水を頼むと“Still or fizzy?”などと問い返されるのが常だった。気泡のないやつかあるやつか、というわけだ。今でも炭酸水は、ふつうの水と同列視されるほど行き渡っている。

 

 興味深いのは、大航海で「安い砂糖が大量にヨーロッパへもたらされたこと」。18世紀の英国では、それがレモン果汁とともに炭酸水に添加され、炭酸レモネードとなる。炭酸水は欧州の船乗りの渇きを癒して交易を盛んにした結果、自らの商品価値も高めた。

 

 そして日本。著者は、レモネードが黒船で浦賀にもち込まれたという説の真偽を探る。現地取材もするが、答えは出ない。ただ、ペリーには好みの炭酸水があったらしいとの史実から「瓶詰めの炭酸水が積まれていたのは、間違いないようだ」と結論づける。これとは別に、長崎来航の英国船がレモネードを広めたという話も出てくる。どちらにしても炭酸飲料は定番の船積み品目だったらしいから、開国早々、日本人の知るところとなったのだろう。

 

 では、三ツ矢サイダーの原点は何か。ここでは「三ツ矢」と「サイダー」に分けて考えたほうがよい。まず、三ツ矢。1881(明治14)年、兵庫県の多田銀山周辺(現・川西市)に湧く炭酸水を英国人が分析する。湯治用鉱泉の「平野の湯」を飲料として再発見したのだ。1884(明治17)年、瓶詰めの「平野水」が世に出る。この名に「三ツ矢印」が冠されたのは、食品大手の明治屋が販売元になってから。地元に残る弓矢がらみの伝説に因む。

 

 サイダーは日本では、「レモン味」のラムネを追う「リンゴ+パイナップル」風味の炭酸飲料だった。原意のリンゴ酒と違って、無発酵の「日本独特の味」だ。この市場で三ツ矢は後発。明治屋が平野水から手を引いた後、後継の会社がこの風味を取り込んだ。それが、1907(明治40)年発売の「三ツ矢印平野シャンペンサイダー」(後に「印」「平野」「シャンペン」がとれていく)だ。当時は人工でなく天然の炭酸水を用いていたことになる。

 

 三ツ矢サイダーはその後、ビール業界の競争に揉まれていく。製造販売元は1921(大正10)年、根津財閥系の麦酒企業に吸収されて日本麦酒鉱泉となる。ただ「鉱泉」の名が残ったことに、サイダーへのこだわりが感じられる。ビール「三強」のもとで、炭酸飲料市場でも三ツ矢と大日本麦酒のリボンシトロン、麒麟麦酒のキリンレモンが有力商品として並び立ち、戦前の大日本麦酒・日本麦酒鉱泉合併や戦後の再分割を経ても生き抜いた。

 

 圧巻は、戦争とサイダーの関係を描いたくだりだ。『戦艦大和ノ最期』(吉田満著、講談社文芸文庫)から貴重な言葉を紡いでいる。海軍少尉だった吉田は敵の攻撃を受けて35度傾く艦内で、ポケットに入れていたサイダーを飲む。「炭酸、咽喉ヲ弾ケテ快シ 舌ニ残ルソノ甘味」。海に放りだされた後も「『サイダー』ガマダ十センチ程残ッテタ」(立石氏が「サイダー」に傍点)ということに思いが及ぶ。サイダーは戦場の将兵とともにあったのだ。

 

 この本が強調するのは、海軍ではサイダーが市中に比べて破格の安さで売られていたことだ。直納方式で、しかも免税されていたためらしい。サイダーは、兵士の若者にとって「故郷では値段が高くて買えなかった」かもしれず、「初めて味わったであろうことは十分、推測できる」。戦後復員して家庭を築いてから「祭りのときなど特別の日に、サイダーを子供たちへ買ってやった」と著者は想像を膨らます。これも「子どもはサイダー」の原点か。

 

 戦後史では、三ツ矢サイダーの甘みのブレに注目したい。1946(昭和21)年、合成甘味料の添加が始まる。業務用砂糖の流通が統制下に置かれたからだ。その解除とともに砂糖入りの製品をふやし、69(昭和44)年には「全糖」化する。食の安全に世間が敏感になった時代だ。著者の記述はそこで終わっているが、この本が出たころに「糖質ゼロ」をうたう甘味料入りの新品種が出る。今度はダイエット志向を無視できなくなったのだろう。

 

 サイダーの泡は大人にもヒリヒリする。それは甘いが、一瞬苦い記憶も蘇らせる。

(執筆撮影・尾関章、通算381回)

『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著、岩波新書)

写真》aの思考、theの心理

 20年あまり前、英国ロンドンに駐在していたころのことだ。新聞記者という仕事柄、欧州の大陸側へ渡る機会は多かった。そんな出張をしていて僕がいつも感じたのは、ある種の解放感だ。何から解き放たれたのか。それは、英語という言語の重圧である。

 

 もちろん僕が、フランス語ならペラペラ、ドイツ語もなんとかなる、ということではまったくない。手持ちの欧州語は英語だけ。幸いにも僕は科学担当であり、取材先は英語を国際語として用いる人が多かったので、職務はそれで事足りた。それ以外も、ホテルやレストランやタクシーなら、たいていは英会話が通用する。ということで、大陸欧州にいても英語は命綱であり、離れられなかった。ではなぜ、解放されたと感じたのか。

 

 こういうことだ。英国や隣国アイルランドに住む人の多くは、英語を母語や日常語として使っている。だが大陸側の国々では、それは外国語にほかならない。だから、僕が出張中に英語で会話するときは、下手でも構わないという安心感があって肩の力が抜けたのだ。さらに自分や相手が言い間違えや聞き違えをするたびに、お互い外国語には苦労するね、という同情が芽生えてくることもあった。それは、連帯感に似た気持ちだったと言ってよい。

 

 大陸欧州の英語事情を僕の印象をもとに素描してみると、こうなる。オランダの人々は、ほとんど母語のようにしゃべる。北欧諸国の人々も、日常のやりとりに不自由しないほど堪能だ。ドイツでも、まあまあ通じる。フランスは自国語の壁が高くて、一部の人しか使ってくれない。イタリアでは陽気にヤアヤア言いあっているうちに思いが通じてしまう……。ただ、それぞれ濃淡はあるにしても、英語が外国語であることには相違ない。

 

 北欧の科学者と雑談していたとき、その人が漏らしたひと言は忘れられない。「僕らも学会では苦労する。言いたいことを言えないうちに英語圏の人に言い負かされてしまう」。科学界という英語が共通語の世界にも、英語を母語としないことの不利はある。

 

 ただ、それでも僕が思うのは、大陸欧州の人々は日本人ほどには英語で苦労していないだろう、ということだ。なによりも、彼らの母語は英語との共通点が少なくない。大半の欧州語には冠詞があり、定冠詞と不定冠詞に分かれているものが多い。さらに名詞に単複の区別があるのもふつう。ところが、日本語にはどちらもない。僕たちが英語を書くときの悩みは、この感覚の欠如に起因する。aとするかtheとするか、単数か複数か、それが難題だ。

 

 で、今週の1冊は『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著、岩波新書)。初版が1988年に出たロングセラー。僕は、2014年の第76刷を中古本ショップで手に入れた。内容は、『科学』誌(岩波書店)の連載をもとにしている。著者は、米国ウィスコンシン州出身。現代日本文学を学んで来日、日本の大学の教授となった人だ。東京工業大学にいたことがあり、日本人科学者が英語で論文を書く苦労を間近に見ていたらしい。

 

 科学者はどんな論文を書いたかで評価が定まる。このとき研究の中身ではなく、言語の拙さで損をするのだとしたら不条理なことだ。日本人研究者の場合、その思いはa、the、単複などの悩みがある分、欧州人よりも強い。だから、科学誌から声が掛かったのだろう。

 

 とりわけ迷うのが、theをつけるかどうかの判断だ。この本ではカバーの袖に「『冷凍庫に入れる』はput it in the freezerなのに、『電子レンジに入れる』だとput it in my microwave ovenとなる。どういう論理や感覚がこの英語表現を支えているのか」とある。ええ? この使い分けにまず驚く。と同時に、知りたいのはこれなんだよ、と内心で喝采する。正解を、丸暗記ではなく「論理や感覚」を通じて習得したいのである。

 

 さっそく本文に入って、その答えを探してみよう。冷凍庫にtheがふさわしいのは「どの家庭にでもあるというふうに意識される」からであり、電子レンジにtheが合わないのは、そういう意識が「近い将来にできるかもしれないが、今はまだない」からだ、という。2017年の今ならば電子レンジは予想通りに普及しているから、もうtheでよいかもしれない。これで、冠詞には人の心のありようが映されているということがよくわかった。

 

 言及が遅れたが、この本は著者自身が日本語で執筆している。「私の書く日本語は、日本語らしくないところも多く、日本人が書いた文章と間違えられることはないであろう」と謙遜するが、まどろっこしさをやや感じるくらいで、正確さは完璧だ。一つ言えるのは、これは著者自身が母語でない言語で書いているという事実が、書かれている中身の説得力を高めていることだ。aかtheかで悩むのと同じ難しさは、日本語にもあるはずだ。

 

 冠詞を扱った章には、こんな例文がある。“Once upon a time, there were an old man and an old woman. The old man……” 和訳はもちろん、「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんいました。おじいさん……」。ここでは、a(an)は「が」に、theは「は」にきれいに対応している。僕たちは、ほとんど気づかぬままに「が」と「は」を使い分けているのだ。英語圏の人々がaかtheかを適切に選ぶのは神業ではない。

 

 僕たちは、aをつけるか、なにもつけないか、という迷い方をすることもある。この本では、日本人が書いたとされる“Last night, I ate a chicken in the backyard.”という一文が俎上に載せられる。バーベキューでもしたのだろうが、「昨夜、鶏を1羽[捕まえて、そのまま]裏庭で食べ[てしまっ]た」ととられる、という。aには「共通単位性をもつもののグループから、一つの」といった積極的な意味があることを見落とした失敗だ。

 

 この本は、そういう失敗をしないための心得を伝授する。それは「a chickenは、chickenとは異なる独自の意味をもっている」とわきまえることだという。“a chicken”をchickenに「aという『飾り』がついている」とみてはならない。aは脇役ではないのである。

 

 著者は、このことを思考過程に沿って説明する。英語圏の人が食べもののことを言うとき、まずそれがaという不定冠詞にふさわしいものかどうか、すなわち「単位性をもつ」かどうかを決定して、そのあとに具体物の単語を探しだし、“a sandwich”といった言葉を発する、という。英語では語順の通り、「aの有無」が名詞に先立って「意味的カテゴリーを決める」。僕たちは、この過程なしに思考するから冠詞問題を苦手とするのだろう。

 

 単複のことで言えば、僕たちがもっとも困惑するのは純粋不可算名詞の存在だ。よく戸惑うのはequipment。僕たちは「装置」という訳語から、1台2台と数えられそうに思ってしまうが、それは違う。一方、machine(機械)は可算だが、その不可算形machineryは「全部で何台かがはっきりと意識されないくらい複雑な装置」を指すときに使う、とある。equipmentやmachineryの陰には、台数を意識しない状態把握が隠れているらしい。

 

 この本は、前置詞や時制、関係代名詞といった難物にどう対処すべきかについても教えてくれる。一貫しているのは、丸暗記はやめよう、という姿勢だ。“in the evening”“on the evening of July 15”の用法も、前者では「時間」、後者では「時点」の意識がそれぞれ強く出ていて、inとonの「使い分け」の「論理だけはきちんと守られている」とみる。このことを「すばらしいと思う」と書いているから、英語圏人としての誇りなのだろう。

 

 ただ、僕には反論もある。たとえば、英語は時制の一致に厳格だが、この本の例文にもあるように未来形や未来完了の文に“after〜”(〜の後)や“by the time〜”(〜まで)の従属節がつくとき、その動詞は現在形のことが多い。これは論理の綻びではないか。

 

 むしろ、この本で痛感したのは、人間には多様な思考様式があるということだ。aのあるなしから入るという言葉の組み立て方は、その一つなのだろう。僕たちが英語圏の人々の心理にもう少し思いを致せば、aかtheかの惑いもいくらか軽減されるだろう。

 

 そう思うと、僕たちも「は」と「が」を使い分ける思考回路をもっと自負してよい。

(執筆撮影・尾関章、通算380回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『自分ひとりの部屋』(ヴァージニア・ウルフ著、片山亜紀訳、平凡社ライブラリー)

写真》扉の向こう

 とりあえずはよい選択だが、それが根本的な解決になるかはわからない。世の中には、そんな対処法がままある。国内の女子大学に「出生時の性別が男性で、心の性別が女性」の学生を受け入れる動きがある、というニュースもその一つではないだろうか。

 

 朝日新聞が全国の女子大にアンケート調査をした結果だ。64校から寄せられた回答の集計は、こうだった。「心の性別が女性」のトランスジェンダーに入学の門戸を開くことを「検討している」が5校、「検討を始める予定だ」は3校、ほかに41校が「検討するべき課題」とみている、という(朝日新聞2017年6月19日朝刊)。性の多様性を認めあい、性的少数者の権利を尊重する流れに沿った前向きの方策とみてよいと思う。

 

 だが、ここで頭に浮かぶのは、そもそも女子大とは何か、という問いだ。大学は教育と学術の拠点として、すべての性に開かれているのが望ましい姿だろう。ここで「すべて」は、男女両性を意味しない。さまざまな少数者を含んでの話だ。前述の動きも、そうした理想に近づく一歩に違いない。ただそうならば、枠を広げていった先の究極のありようは性の限定を外すことではないか――そんな理屈からどうしても逃げられない。

 

 とはいえ、これをいきなり女子大不要論に結びつけるのは短絡に過ぎるだろう。ここで怠ってならないのは、女子大の来歴に立ちかえる考察だ。かつて日本社会では、大学が女子にとってあまりに狭き門だったからこそ、男子抜きの高等教育機関が別枠で設けられた。これが、今の女子大の源流だ。だからそこには、教育学術の両面にあった性の不公平をはねのけようとした闘いの歴史が染みついている。それを簡単に捨て去るべきではない。

 

 ジェンダー問題は難しい。男女対等をめざしていても、それがときに壁にぶち当たるからだ。たとえば、両性を並べて書くときには、必ずどちらか片方を先にしなくてはならない。今回、当欄のカテゴリーは「女と男」。筆者として、自分の性を後回しにした。だがその謙譲精神も、この段落にある「男女対等」の熟語でわかるように貫徹できない。慣用語に「男女」はあっても「女男」はないからだ。言葉は歴史を背負っているのである。

 

 先日の当欄「高橋和巳で知る体制エリートの綻び」(2017年6月23日付)のときも悩んだことがあった。高橋和巳『悲の器』のTVドラマ版に野際陽子さんが出ていたことに触れた箇所だ。「俳優」と呼ぶか「女優」とするかで迷った。男性俳優だったらこんなときに男優とは書かないと思って、「俳優」を選んだ。だが、「知性派女優」という呼ばれ方で一世を風靡した彼女の履歴を思うと「女優」のほうが素直だったかもしれない。

 

 で、今週は『自分ひとりの部屋』(ヴァージニア・ウルフ著、片山亜紀訳、平凡社ライブラリー)というエッセイ。著者(1882〜1941)は、小説『ダロウェイ夫人』などで知られる英国の作家だ(文理悠々2010年6月10日付「6月なんかこわくない?」)。今回の本は、1928年にケンブリッジ大学の二つの女子学寮(カレッジ)であった講演をもとにしている。学寮名はニューナムとガートン。ともに19世紀後半に開設された。

 

 書きだしでは、講演依頼の趣旨が「〈女性と小説(フィクション)〉について話してください」だったことが明かされる。それに応えて著者がもちだした表題が「自分ひとりの部屋」だった。唐突感がある。なぜ、こんな題にしたのか。自分にできるのは「〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉という意見を述べることだけ」と感じたからだという。文学を、その下部構造からみようという姿勢である。

 

 だが、彼女はさすが小説家だ。そのことを論文形式で論じようとはしない。一人称の「わたし」という主人公を登場させて、架空の大学町「オックスブリッジ」で架空の女子学寮を訪ね、次いでロンドンの大英博物館で書物の世界に浸る、という物語仕立てになっている。書きぶりから感じられるのは、著者が得意とする「意識の流れ」の手法。読み手は、彼女の関心の移ろいや思考の組み立てを追体験するようにページを繰っていくことになる。

 

 女子学寮の場面で強調されるのは、つましい食生活。大食堂の夕食では、メインディッシュに「牛肉と青野菜とジャガイモの付け合わせ」が出る。「その質素な三位一体は、泥でぬかるんだ市場にたたずむ牛の尻とか、縮れて端が黄色くなった芽キャベツとか、値引き交渉とか、月曜の朝に女たちが手提げを片手に歩いている光景」を思い起こさせた。それは同じ日、大学の昼食会で賞味した「舌平目」や「ヤマウズラ」の料理の対極にある。

 

 取りすました名門大学と不釣り合いの粗末さ。そこには、女子学寮が女子高等教育の拠点づくりをめざす女性たちの寄付で生まれた事情がある。英国では19世紀後半に「既婚女性財産法」の法制が整うまで、妻は「お金を稼いだところで、すべては取り上げられて夫の意向で処理される」という境遇に置かれていたという。裕福な家庭でも女性は「貧困」を強いられた。彼女たちの寄付集めはそのころのことで、それが難航したのは想像に難くない。

 

 「部屋」の話も、同じ男性優位の父権主義を映している。未婚女性は「十九世紀の初めまで、両親がきわめて裕福か、貴族階級に属しているのでないのなら、自分ひとりの部屋を持つことじたいが問題外」だった。親からの小遣いは衣服に費やすくらい。旅に出て家族の干渉から距離を置くこともできない。自分ひとりの小宇宙をもつなんて、夢のまた夢だった。男性中心の家庭は、女性の知的活動の培地を奪っていたのである。

 

 ところが19世紀初頭、中流階級の女性たちがこうした苦難を切り抜けて作家活動を大展開するようになる。代表格の一人が『高慢と偏見』のジェイン・オースティンだ。どんな執筆ぶりだったのだろうか。甥の回想録が引用されているので、それを孫引きしよう。ジェインは「こもっていられるような自分だけの書斎を持っていたわけではなく、作品のほとんどをみんなの居室で、あらゆる種類のちょっとした中断を受けながら書いた」という。

 

 目から鱗なのは、こうした家庭事情を小説という文学形式に結びつけていることだ。著者は「女性の感受性は、何世紀ものあいだ、共通の居室の影響下で培われてきた」とみる。「人びとの感情」や「人間関係」を間近に見て「性格観察とか感情分析の訓練」を重ねてきたのである。だからこそ、彼女たちは著述活動を始めたとき、小説という形式を選ぶことになったという。人物の心模様を会話やしぐさで散文風に描きだすことに長けていたのだろう。

 

 とはいえ著者は、「共通の居室」肯定論に立たない。1世紀後の未来に思いを馳せるくだりをみてみよう。「もし各々が年収五百ポンドと自分ひとりの部屋を持ったなら――」「もし共通の居室からしばし逃げ出して、人間をつねに他人との関係においてではなく〈現実〉との関連において眺め、空や木々それじたいをも眺めることができたなら――」と畳みかける。ひとりにならなければ見えない現実を知ることなしに文学はありえないということか。

 

 ただ僕が思うのは、この議論はそのまま日本社会に当てはまらない、ということだ。昭和戦前まで、日本の父権主義は西欧のそれに勝るほど強かった。だが、住まいは手狭なうえに風通しが良くて、「こもっていられるような自分だけの書斎」がある人はそんなに多くなかっただろう。たとえ書斎があっても、生活雑音にいつもさらされていたのではないか。そう考えると、著者が文学の必要条件とする下部構造は地域限定のように思えてくる。

 

 時代限定の側面もある。今ならば、もの書きは男女を問わず、ざわついたなかでの執筆になるだろう。とくに自分が在宅で配偶者が勤めに出ているなら、子の世話や親の介護、近所づきあいなどで仕事は中断される。だれもがジェイン・オースティンのような環境下でキーを叩いているのである。一方、文学はネット社会の騒々しい人間関係を扱うようになった。それを描く場所としては「共通の居室」のほうが似合っているのかもしれない。

 

 ウルフが言う「自分ひとりの部屋」を広義にとらえれば、自身で自由にものを考える機会、といった意味だろう。それは、地域と時代の違いを超えて人の知的活動に欠かせない。忙しくとも騒がしくとも、脳と心の片隅には必ず個室を確保しておこう。

(執筆撮影・尾関章、通算379回)

 

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『蕪村の名句を読む』(藤田真一著、河出文庫)

写真》575

 当欄でときどき話題にするように、僕は2カ月に1度、句会というものに出ている。俳句のコミュニティーには結社と呼ばれるものがあって、ときに党派の匂いが漂っているのだが、僕が加わる会はずっと緩い。その道の達人が宗匠となり、俳諧に一家言ある人が顔を揃えてはいるものの、僕のような素人もいて勝手気ままにやらせてもらっている。ひとことで言えば、言葉のサロン。短詩の極限に込めた思いを互いに語りあう場となっている。

 

 そういうサロン型の句会しか知らないので、俳句のことを真正面から論じる資格は僕にはない。ただ、それを遠目に観察するにはうってつけの立ち位置にいる。講評で俳人流の文学観を聞いていると、作品そのものよりそちらのほうを論評したくなったりもする。

 

 そんな文学観の一つが、写生を尊ぶ精神だ。叙景に最大の価値を見いだす流儀で、近代俳句の開拓者正岡子規が主張したらしい。ここでは、風景が感情の対立概念として位置づけられる。人は5音、7音、5音の言葉を紡げと言われると、そこに万感の思いを注入したくなるものだが、それを生のかたちで出すことを戒めたのである。内心の思いは、あなたの目に映る対象のありようににじんでいる。それを過不足なく描きだせ、ということだろう。

 

 これは、僕自身の若いころの志向にはぴったりくる。20歳前後には生意気にも小説を書こうという野心があったのだが、このとき念頭にあったのはふつうの物語ではなかった。フランスのヌーヴォーロマンを読みかじり、アラン・ロブ=グリエの作風に惹かれたりしていた。そこでは感情の露出がほとんどなく、モノの世界がそのまま詳述されている。禁欲と言ってよいほどに無機的な描写。今思うと、これは写生句に一脈通じるものだろう。

 

 ただ最近は、子規流に異論を呈したいと思うようになった。果たして、この世界は風景対感情、あるいはモノ対ココロだけか、と問いたいのだ。もう一つ、コトという範疇があるではないか。モノは寄り集まって系(システム)をつくり、その系は情報によって動かされてコトを遂行する――20世紀末からの情報技術(IT)によって実現したネットワーク社会では、そんな様相が際立っている。僕たちは、コトの群れに取り囲まれているのだ。

 

 だから、21世紀の俳句にはコトに重きを置く第三の道があってよいというのが、サロン派素人のひとりごとなのだが、今回はそこには踏み込まず、写生句の源流を謙虚にたどってみようと思う。そこにもまた、新しい発見があるかもしれないからだ。

 

 で、今週は『蕪村の名句を読む』(藤田真一著、河出文庫)。与謝蕪村(1716〜1784〈旧暦では1783〉)は江戸中期の俳人。絵描きでもあり、句の絵画性は高い。子規はその著作「俳人蕪村」で、新時代の文学の特長に「結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること」を挙げ、この点で蕪村は芭蕉に勝る、と論じている(引用は青空文庫)。写生派の琴線に触れたのだ。

 

 『蕪村の名句…』は1997年に『風呂で読む蕪村』(世界思想社)として刊行され、去年暮れに文庫化された。著者は1949年生まれ。近世の俳諧文学が専門で、蕪村をめぐる著述が多い。この本の大半は、蕪村自身が晩年に来し方の作品を解説するという「架空講義」の形式をとる。生涯を「関東遊歴」「上洛と遊歴」「夜半亭・前」「夜半亭・後」の4期に分け、載せた句は自句だけで約80。「夜半亭」は蕪村が受け継いだ流派の名である。

 

 なの花や月は東に日は西に

 掲載句のうち、もっとも有名なのはこれだろうか。絵画そのものだが、ただ見たまま、というわけではなさそうだ。日が西に傾くときに東の空に現れるのは満月。そんな太陽、月、地球の三体関係を正確にとらえている。しかも、地表を覆うのは黄一色。「西陽―東月の対句仕立てそのものよりも、その光を菜の花畠のなかにとらえたところがわたしの案じ場」という。菜種栽培が盛んだった世情も窺える。理科と社会科をまたにかけたような大構想。

 

 春の海終日のたりのたりかな

 (「終日」は「ひねもす」、二つめの「のたり」は、くの字形の繰り返し符号)

 これもまた、よく知られた句。ついつい瀬戸内の海だろうか、などと写生地に推理を巡らせてしまうが、「どこか特定の海の景色を詠んだものではありません」とある。「日本の過半を遍歴したわたし」が「もっとも春らしい海の姿を言葉の形にしようとした」。それは、冬とは打って変わった穏やかさ。「静謐(せいひつ)そのもの、有(あり)ていにいえば退屈にすら見える」ものだった。記憶を重ね合わせ、そこから普遍の属性を引きだしている。

 

 二つの有名句から言えるのは、蕪村の写生句は景色の再現ではないらしいということだ。推察するに、作者はまず構図を脳裏に思い描く。それは大自然の要素を素材に、理系知や観察力を駆使して組み立てた一幅の絵画と言ってよい。そのイメージを選りすぐりの単語に結びつけて短詩空間に映しだす。そんな感じだろうか。子規が重んじる「客観の事物」は蕪村の眼前には存在しない。それは彼の想念のなかに広がっているように思われる。

 

 ほととぎす平安城を筋違に

 (「と」の二つめは一ツ点の繰り返し符号、「筋違」は「すじかい」)

 僕がもっとも惹かれた句だ。ほととぎすの声がしてそちらを見ると「平安の都をはすかい方向に引いた声が残るばかりであった」。架空の自句自解によれば、そんな意味だという。「京の街並みはいわゆる碁盤の目状になっていて、その直交する街区を斜めにつっ切っていくのだと、面白がって句作りした」と打ち明けている(「区」は原文では行人偏の難しい漢字、訓読みで「ちまた」とも読む)。なんとも幾何学的な構図ではないか。

 

 この句の工夫は絶妙だ。「京の町を『平安城』と唐土(もろこし)風の言い方で、ひとくくりにすることで、天からの視線が感じられようにした」。その結果、僕たちはx軸とy軸から成る平面をz軸方向から見下ろすよう促される。そして、「『筋違に』という言いさしの先に、消え去りつつある声の余韻を伝えようとした」のも心憎い。「……に」と述語を言い残したことで疾走感を演出したのだ。視点と表現の斬新さには驚くしかない。

 

 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉(「野分」は「のわき」)

 疾走感と言えば、これもそうだ。鳥羽殿とは、京都洛南にある離宮。平安後期の院政時代には政治権力の拠点となっていた。この句では、政局を揺るがす事件が起これば周辺が慌ただしくなるに違いないとみて、史的空想を広げている。嵐のさなか、武者のまたがる馬が数頭走り抜けていった。「都でまた何かただならぬ事態が発生したのか」。架空講義を読むうちに、蕪村はジャーナリスティックな感性も具えていたのだと思えてくる。

 

 中々にひとりあればぞ月を友(原句で「々」は、くの字形の繰り返し符号)

 この句も、写生と言えば写生。ただ、被写体は月一つだ。「独りぼっちの名月の夜となったが、これがかえって幸いして、我ひとり心行くまで月を友として満喫できる」といった句意らしい。着目すべきは「月を友」の「を」だ。「『月の』にすると、彼方の月に主体が移って、ねじれ現象を起こしかねない」「わたしひとりが月を友とするのだと、『我』を前に押し出したほうがよい」。そんな意図の表れという。自我の主張ととってもよいだろう。

 

 こうしてみてくると、18世紀の文人蕪村の句には近代の兆しが詰まっている。理系っぽい宇宙観や普遍を求める自然観、モダンアートのような幾何学性、ジャーナリスティックな臨場感。ときには、菜種のような商品作物が顔をのぞかせて都市市民の影も透けて見える。そして極め付きは、「月を友」とする自我だ。孤であることの楽しみ方を身につけはじめた個と言い換えてもよい。個人主義の感覚がすでに育まれていたことがわかる。

 

 蕪村は大坂(大阪)郊外に生まれ、若いころは東京で暮らし、その後、京都に定住した。三都の多様な文化を吸い尽くした個人史が、次の時代を先取りさせたのかもしれない。

 

 写生句のあるものはモノを通してコトを見る。そこには時代性というコトもある。

(執筆撮影・尾関章、通算378回)

 

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『十津川警部 ロマンの死、銀山温泉』(西村京太郎著、文春文庫)

写真》山形といえば紅花

 テレビ界を席巻していた2時間ミステリー(2H、Hはhourの頭文字)が存亡の危機にあることは、当欄ですでに嘆いた(2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ」)。それを蒸しかえすつもりはないが、このまま座視してもいられない。世の2H党は、それをなぜ求めるのかを、ああでもない、こうでもないと語ってほしい。飲み会の格好の話題にはなる。そこから再興の可能性も見えてくるだろう。今週は、その糸口となる一文。

 

 そのまえに、事情に通じていない方のための予習講座。そもそも2Hとは何か。テレビ番組表には、かつて一世を風靡した火曜サスペンス劇場(日本テレビ系)や今春幕を閉じた土曜ワイド劇場(テレビ朝日系)のような2時間ドラマ枠があって、この枠で放映されるものはすべてその範疇に入る。ただ、そこにも「2Hらしさ」のあるものとないものがある。「らしさ」の真髄は、あのまったり感。僕がここで語りたいのは、そんな2Hらしい2Hだ。

 

 まったり感は、渾身の一作からはなかなか出てこない。定番のシリーズものにこそ、それは宿る。たとえば、西村京太郎原作の十津川警部シリーズ、内田康夫原作の浅見光彦シリーズがそうだ。どちらも複数局が競作してきたのだから、2Hのど真ん中にあると言ってよい。ほかに笹沢左保原作の「タクシードライバーの推理日誌」や原作のない「温泉若おかみの殺人推理」(ともにテレ朝系)も、とくに挙げておきたいシリーズではある。

 

 一つのシリーズは年に2回ほどのペースで放映されてきた。これは1960年代、邦画全盛期に封切られていたシリーズものの頻度に近い。回を重ねても俳優陣やその役柄がほぼ固定されているので、観ていると行きつけの店で和んでいる気になる。2Hでは、事件の謎を解く人々――刑事やルポライター、タクシー運転手やおかみ――が常連。毎回、お約束のギャグを飛ばすキャラも顔を出す。ここが、まったり感の源泉だろう。

 

 マンネリには違いない。だからこそまったり感があるのだが、それも度が過ぎれば娯楽作品として失格だ。そこで、スパイス役を果たすのが旅情。作品の舞台に観光地を選んで、回ごとに場所を代えるという趣向が目立つ。刑事やタクシー運転手が管内や営業域にこだわらず津々浦々へ足を延ばすだけではない。同じおかみが次の回ではまったく違う温泉郷の旅館を仕切っていたり、警察署長や捜査検事が転勤を繰り返したりという形式もある。

 

 ここで、ちょっとディープな2H視聴法を伝授しよう。テレビを観ながら、ネットを駆使して旅行気分を味わうというものだ。地元の観光協会サイトに入って、ロケ地となった名所旧跡をたどる。旅館やホテルは実名で出てくることが多いので、その公式サイトを開いて露天風呂の画像にエア入湯する。これは再放送ものではうまくいくのだが、初放映ではアクセスが殺到して画面がすぐに出てこないことがしばしばだ。世に2H党は多いのである。

 

 で、今週は長編ミステリー『十津川警部 ロマンの死、銀山温泉』(西村京太郎著、文春文庫)。なぜ「十津川警部」なのか、そして「ロマンの死」なのか、とは聞かないでほしい。実は先日、1泊2日の東北旅行に出て山形県銀山温泉に宿をとった。梅雨どきなので名所巡りは難しそうだ、ならば温泉街そのものを楽しもう、と選んだのである。そのご当地ものが、この1冊。カッパ・ノベルスから2002年に出た。文春文庫版は11年刊。

 

 十津川警部ものというと鉄道ダイヤを駆使したアリバイ工作などが思い浮かぶが、この一編にはトリックらしいトリックが出てこない。どちらかと言えば、社会派の風合い。だが、リアリズムで権力権威の深部に切り込むという緊迫感はない。では、どこに読みどころがあるのか。ページを繰るうちに感じとれたのは、2000年前後の世相がそのまま映しだされていることだ。それは、登場人物のなんとなく盛りあがらない様子にみてとれる。

 

 小説は「十月一日の昼ごろ、京成(けいせい)電鉄江戸川(えどがわ)駅前の雑居ビルの五階にあるN金融の支店に、目出し帽をかぶった若い男が押し入った」という描写で始まる。消費者金融を襲った強盗事件だ。支店長は「危険なときは、現金を渡せ」という本店の方針通り、そんなときのために準備していた100万円の束三つを渡そうとした。男は「札束を二つ、ジャンパーのポケットにねじ込んだ」。不思議なことに束一つを残したのである。

 

 それからしばらく東京都内で奇妙な出来事が続く。1単位200万円の犯罪だ。子どもの誘拐事件では身代金が400万円、社長愛人宅での現金強奪事件でも被害額は同じ。ともに男女2人組の犯行だったので1人200万円の分け前になる。さらに大手企業幹部が電車内で罠にかかったように痴漢事件を起こして、ここでも1単位が動く。被害女性が要求して手にした示談金が200万円だったのだ。定額しかとらない企ての続発である。

 

 強盗をしても人命は奪わない。誘拐では子どもを傷つけずに返す。罪を犯して富を再分配する義賊の匂いもするが、それならもっと大金のあるところからもっと高額を手に入れそうなものだ。なぜ200万円なのか。そこにも、なんとなく盛りあがらない世相がある。

 

 この小説では、一連の出来事を起こした実行グループがすぐに明かされる。ロストジェネレーションの若者7人。「自分が勤めると、すぐその会社が倒産してしまう」という元ホームレスの男子がいる。「高校の二年のときだったかな、どうしても、家にいたくなくて、飛び出しちゃったんだ」という元暴走族の女子もいる……みんなで東京を離れ、銀山温泉で旅館を営もうとする。計1400万円は、老舗旅館を買い取る資金だった。

 

 ミステリーとしては、7人がひとりふたりと殺されてゆき、その謎解きが焦点になっていくのだが、例によって筋は追わない。むしろ、若者たちが銀山温泉に求めたものは何だったのか、あの温泉町にはそれが具わっているのかを、旅の記憶が薄れないうちに考えたい。 

 

 本文によれば「銀山温泉は、十軒あまりの旅館そのものが売り物」。渓流銀山川を挟む旅館街は「木造の三階建、四階建の建物」が並び「大正ロマンの世界がそのまま、現在に生きている」。若者たちはそこに惹かれたようで、自ら「ロマンの残党」を名乗る。

 

 ここで僕が引っかかるのは、ロマンは2Hのまったり感と同じだろうかということだ。デジタル大辞泉によれば、「ロマン」は「夢や冒険などへの強いあこがれをもつこと」という意味を含むのに対し、「まったり」には「ゆったりしている」「だらだらしている」の意がある。どちらにも現実から逃げるという側面はあるものの、片方は羽ばたこうとする野心が満々、もう一方は羽を休めよういう方向にある。似て非なるものと言えよう。

 

 僕が銀山温泉に感じた魅力は、ロマンとはちょっと違う。小雨が降るなか、渓流沿いの山道を登ると銀山の跡があり、その坑道に入ってみた。蒸し暑さを一瞬忘れる冷気。ここはその名の通り、江戸前期まで銀採掘の鉱山町だったのだ。元禄期に廃山されると、今度は湯治場に。ところが大正初めに水害で流され、そのあと現れたのが木造中層の建築群だ。そこには切実な地域史がある。その移ろいを愛おしみながら湯に浸かる。これがまったりだ。

 

 この小説でロスジェネの男女は温泉郷にロマンを求めたが、それをつかみとれたとは言い難い。現地では高級旅館に対抗するため、夕食メニューをラーメンやカレーなどB級グルメにして宿代を安くするという奇策をとる。ロマンをうたう湯の町にも東京同様、競争があったのだ。そこで生き抜こうとすればロマンから離れなければならないという皮肉。1人200万円の切符を不正入手してたどり着いたのは結局、しがない現実の世界だった。

 

 最近感じるのは、ロマンという言葉が安易に使われ過ぎてはいないかということだ。たとえば、天体観測の話になると「夢とロマン」が常套句のように言われるが、宇宙探究はこの世界のしくみを知ろうという作業にほかならない。まして地上生活で生き延びる話なら、夢見心地ではいられないはずだ。現実を冷静沈着に分析しなければならない。そんな厳しい日々が続くからこそ、ときに弛緩がほしくなる。ここにこそ、2Hの存在理由がある。

 

 最後にもう一度、念を押したい。2Hの醍醐味はロマンではない。まったりだ。

(執筆撮影・尾関章、通算377回)

 

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『重力波とはなにか――「時空のさざなみ」が拓く新たな宇宙論』

(安東正樹著、講談社ブルーバックス)

写真》歪む座標

 当欄は、ときどき科学ものをとりあげている。筆者は職歴をもとに科学ジャーナリストを名乗っているのだから、本当ならばもっと頻度高く科学を語るべきかと思うが、年を重ねるごとに内心の職歴ばなれが進む。そんなわけで、しばしばではなく「ときどき」になる。

 

 これは決して、科学が嫌いになったということではない。科学を科学としてのみとらえることに限界を感じてきたのである。語弊を恐れずに言えば、科学を科学の視点だけからみたのでは科学のおもしろさが半減する、ということだ。もちろん、科学の中身を非科学で歪めようというつもりは毛頭ない。科学を広い視野に置いてみることで現れる風景を味わいたい。本の渉猟が雑食度を強めているのも、視野を広げる一助にはなっているはずだ。

 

 科学を広い視野に置くとは、それを技術に結びつけて経済成長の特効薬ともてはやすことや、その反対に環境破壊の元凶となじることを指してはいない。経済成長と環境破壊の対立軸でみる発想は、近現代以降のものだろう。それはそれで大いに考えなくてはならないことだが、ほかにも座標軸があることを忘れてはならない。自然科学とは人間にこの世界の見え方を教えてくれるものなのだから、もっと深く掘り下げて考えたほうがいい。

 

 たとえば、素粒子論。論文は数式ばかりなので、僕たち部外者には到底太刀打ちできない。ただそれは、物質世界の土台が今日も昨日と同じように続く、という安定性の根源を知るうえで大きな力になってくれる。クォークという最小の粒がどう結びつき、それによって生まれた陽子や中性子がどのように原子核をかたちづくっているのか――この探究は、家屋の土台がどんなかを知ろうとするようなものだ。それなしには賢い住み方はできない。

 

 振り返れば、日本社会は「土台知らず」の過ちを犯してしまったのではないか。原子力発電所を3・11の福島第一原発事故までひたすら造りつづけたことである。安定世界の礎ともいえる原子核の力が、火力のもととなる電磁力や水力のもととなる重力とはまったく異なることに十分意を払わず、核の蓋を壊して莫大なエネルギーをとり出そうとする。そんな強引な企ての到達点が、増設を重ねた末の原発50基超だったように思える。

 

 この一例からもわかるように、自然科学から世界の見え方を引きだすことは人々が日々適切な判断を下してゆくうえで欠かせない。前述したような経済と環境を座標軸とする議論も、人々が科学の知見を十分に吟味してはじめて深まる、と言えるだろう。

 

 では、去年世界をあっと言わせたあの科学ニュースはどうだろうか。アルバート・アインシュタインが100年前に予言していた重力波を捕まえたとの報だ。宇宙の彼方で起こった巨大な重力現象が時間空間を震わせ、時空伸縮の波となって地球にも届いた、という出来事である。国際チームが米国の2カ所に置いた巨大観測装置LIGOで2015年9月に検出した、と16年2月に発表した。これは、自然の見え方をどう変えるのか?

 

 ということで、今週は久しぶりの物理本『重力波とはなにか――「時空のさざなみ」が拓く新たな宇宙論』(安東正樹著、講談社ブルーバックス)。著者は1971年生まれの実験物理学者。京都大学出身だが東京大学などで研究生活を送り、今は東大准教授として重力波観測の将来計画にもかかわる。この本が出たのは、奥付によれば去年9月14日。奇しくもLIGOによる重力波初観測からちょうど1年の記念すべき日だった。

 

 本題に入る前に、いきなり「あとがき」を引こう。共感を禁じ得ない記述に出会ったからだ。重力波初観測の報道に接したとき、メディアの「ノーベル賞級の成果」という常套句に違和感を覚えたとして「誰の手柄だとか、誰に賞を授けるとかという次元の話ではなく、人類の科学の進歩に関わる歴史的な出来事だろう、と思えた」と書く。その通りだ。見えなかった世界を見せつけてくれたのだから、これはノーベル賞どころの騒ぎではない。

 

 この視点に立つと、この本の圧巻は第1章「重力波の前に」、第2章「これが重力波だ」である。著者の意図では、後続の章で重力波観測の醍醐味や宇宙論の未来を語るための予習という位置づけだったのだろう。だが、僕はあえてここをイチオシする。専門外の人向けなのに、数式をどんどん出してくる。だが、それは演算のためではない。式を眺めていると、物理学のメッセージがなんとなく伝わってくるような工夫が凝らされている。

 

 その記述の要点をなぞっていこう。まずは空間の歪みをどう表すか。2次元空間、即ち平面の2点間の距離dは、碁盤目の直交座標ならx座標の差Δxとy座標の差Δyで表せる。dの2乗=Δxの2乗+Δyの2乗。ピタゴラスの定理である。ところが空間が歪んで斜交座標になると、右辺に2ΔxΔycosθという項が加わる。θは二つの座標軸がなす角度。直交座標ならcosθがゼロで、この項が消えるから辻褄が合う。

 

 ここで著者は、一般相対論が想定する4次元時空の歪みへ話を進める。そこでも2点間の距離は同様に求められる。ただし、上記cosθに相当する係数は16個要る。物理学者は、この1組16個を4行4列の行列(マトリックス)で書く。テンソルという数量だ。

 

 一般相対論は、アインシュタイン方程式に要約される。左辺は時空の歪みを示すテンソル。右辺には物体やエネルギーの様子を表すテンソルがある。こうして時間空間がモノとその動きに結びつけられる。左辺側が波を伝える条件を満たすときに重力波が出る。右辺のモノがただ動けばよいわけではない。動き方が「四重極的」でなければならないという。連星のように「2つの物体がお互いの周りをくるくるまわっているとき」などがこれに当たる。

 

 ここまでで言えるのは、重力波がこの世界の枠組みの柔らかさを感じさせてくれたことだ。一般相対論の予想通りに宇宙空間が歪んでいることは、すでに巨大天体が光を曲げる重力レンズ現象などからわかっていた。その歪みが、動的な実在として立ち現れたのが重力波なのだと言えよう。もちろん、それを検知するのは観測装置であって人間の五感ではない。ただ、初観測は実感に近い衝撃をもたらした。その様子はこの本からもうかがえる。

 

 初観測のときの研究者の反応をみてみよう。最大の驚きは「重力波信号の振幅があまりに大きく、明確だったこと」だという。おもしろいのは「最初に信号の波形を見た人の多くは『これは信号インジェクションに違いない』と思ったそうです」という話。観測チームは検出や解析の能力を試すため、実験機器に「模擬重力波信号」をこっそり入力(注入=インジェクション)することがある。メンバーの一部しか知らないこの試験が疑われたのだ。

 

 もちろん、これは注入ではなかった。つまりは、本物が「人為的」な信号にそっくりだったのである。そもそも重力波とは、人類の能力ではとらえられない現象だった。それが実在するらしいという予想は、アインシュタインが理論から導きだしたものにほかならない。その存在が確かめられただけでもすごいのに、見つかった波のかたちが理論によってはじき出されていたものとそっくりだった。人間の思考の力強さに圧倒されるではないか。

 

 重力波の波形予測は数値相対論という分野が進めてきたもので、2000年代に入って急進展した。これについては、当欄「重力波、宇宙は人が考えた通り!」(2016年2月19日付)で触れている。このときに紹介した『ブラックホール・膨張宇宙・重力波――一般相対性理論の100年と展開』(真貝寿明著、光文社新書)は、初観測を知る前に書かれた。今回の本は知った後の刊行なので、併読すると数値相対論の威力を痛感する。

 

 『重力波とは…』の後段では、重力波観測でわかってきそうなことが列挙されている。銀河中心の巨大ブラックホールは恒星級のブラックホールが合体を重ねて大きくなった、とする仮説の当否もその一つ。時空のさざなみは今後、人々の宇宙観を豊かにするだろう。

 

 理詰めで考えることで、感じとれないものを感じとる。物理学は、こうして宇宙に潜むダイナミズムを発見した。それは、五感ではなく頭脳が切り拓く天文学だとも言えよう。

(執筆撮影・尾関章、通算376回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ミュシャのすべて』

(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)

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 ちょうど25年前になる。1992年の早春、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪れた。旧ユーゴスラビアでは東西冷戦が終結して民族間の対立が露わになり、北部クロアチアで分離独立をめぐる内戦が勃発して間もないころだった。僕は科学記者として「国際貢献」の実相を新聞記事にする取材班に加わっていたので、旧ユーゴで国際医療NGOの活動を追いかけた。このとき、首都ベオグラードからサラエボにも足を延ばしたのである。

 

 サラエボに赴いたとき、そこはまだ平穏だった。街頭活動は激しくなっていたようだが、戦闘はなかった。「われわれは、あんな真似はしない」。病院で取材に応じた医師の一人が口にした言葉は、今も忘れられない。自分たちは民族感情を暴発させたりしないという自負の念を感じた。だがそれからひと月もしないで、ボスニア・ヘルツェゴビナも内戦状態に突入する。3年半に及ぶ戦闘は、旧ユーゴ紛争でもっとも苛烈なものだったと言えよう。

 

 ただ、あのときは嵐の前の静けさで、仕事の合間に街をぶらぶら歩きすることもできた。たぶん、早朝ではなかったか。静まりかえった石畳の旧市街に入って一瞬、頭がクラクラしたことを覚えている。「僕はいま、京都にいるのではないか」。そんな錯覚に陥ったのだ。低層の家並みが続いていて、軒の出し方などは日本の町家にそっくりだった。木造も多かったように思う。欧州の一角なのにアジアの風土が入り込んでいる、と痛感した。

 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、かつてユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属する一つの国だったが、今は完全に独り立ちしている。ただややこしいのは、その国がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の二つから成り立っていることだ。ボスニア・ヘルツェゴビナという名の国の一部にまったく同名の連邦もあり、そのなかにまた構成単位があるという入れ子構造。この複雑さはそのままこの国の民族事情を映している。

 

 この地域の住人は、大きく分ければボシュニャク人、クロアチア人とセルビア人の3民族から成る。ボシュニャク人は、オスマン帝国支配の時代にイスラム教を信ずるようになった人々の流れを汲む。クロアチア人はカトリック教徒が主流。セルビア人にはギリシャ正教を信仰している人が多く、スルプスカ共和国の中心勢力となっている。ここで見落とせないのは、いずれも南スラブ人であることだ。宗教が民族を分かったのだとも言えよう。

 

 この状況は、一朝一夕に生まれたものではない。この地域に外から巨大な教権や政権の大波が押し寄せ、それに呑み込まれた史実が、そこにはある。サラエボの街で感じたアジアの気配も、その名残だろう。民族のモザイク模様は、歴史の投影にほかならない。

 

 で、今週は『ミュシャのすべて』(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)。2013年に『ミュシャの世界』(同館協力、新人物往来社)として出た単行本に加筆して、改めて編集したものだという。

 

 アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)は、チェコ・モラビア地方出身の芸術家。姓は母国語読みではムハという。ポスターから絵画、工芸まで幅広い作品群を生みだした。後半生に打ち込んだのが、テンペラ・油彩画20点の連作「スラヴ叙事詩」。それが今年3月から6月初めまで東京・国立新美術館で開かれた「ミュシャ展」(主催は同館など)で一挙公開され、僕も閉幕直前に駆け込みで観てきた。平日なのに30分待ちの大行列。

 

 展覧会場に入って、まず驚かされたのは「スラヴ…」作品群の大きさだ。大きめのものは約6m×約8m、それ以外のものも縦横それぞれ数メートルはある。一部は「撮影可能」とされていたから、いまどきのことでスマホを掲げて撮る入場客が目立った。

 

 ことわっておきたいのは、「スラヴ…」がこの展覧会のすべてではなかったことだ。鑑賞順路では、この後に「ミュシャとアール・ヌーヴォー」「世紀末の祝祭」といったコーナーが続く。ただ制作順でみれば、前後が逆転する。ミュシャは世紀末のパリへ出てアール・ヌーヴォー風のポスターや装飾パネルなどを手がけた後、20世紀に入って民族愛に根ざす歴史絵画の大作に取り組んだ。優美から重厚へ。この変身はどこに起因するのか。

 

 それが知りたくて、ネット通販でこの本を手にとったという次第。奥付に「協力」とある大阪府堺市の文化施設には、ミュシャや彼と関係が深い芸術家の作品約500点が集められているという。作品の画像提供などで大きな力となったのだろう。執筆陣は、多くの展覧会企画を手がけてきた冨田章氏、19世紀末のフランス文化に通じた白田由樹氏、チェコに留学経験があり、連作「スラヴ…」の制作事情に詳しい小野尚子氏の3人。

 

 冒頭の冨田氏執筆部分では「ミュシャには二つの顔がある」と言い切っている。一つは、前半生の「グラフィック・デザイナー」。もう一つは、後半生の「歴史画家」。後者の志向が強まったのはどうしてか。「きっかけは一九〇〇年のパリ万国博覧会で、オーストリア政府の依頼によりボスニア・ヘルツェゴヴィナのパヴィリオン装飾をおこなったことだった」。この記述を読んで、僕はなるほどと納得する。あのサラエボが思いだされたのだ。

 

 当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の一部だった。オスマンという一つの帝国が去った後、別の帝国が居すわっていたのだ。ミュシャは「スラヴ民族がゲルマン民族に支配されている状況」のもとで、被支配域文化の展示を支配体制の側から頼まれたことになる。スラブ色の強いモラビアの出身者として、さぞ複雑な心境だっただろう。このときに「スラヴ民族の歴史を描く最初の構想を抱いた」らしい。

 

 小野氏執筆部分によると、ミュシャは南スラブを取材して「現地に残る古きよき素朴な生活体系や伝統に大きく感銘を受けた」。それをもとに描いた万博展示館の内装壁画は、従来のようにアール・ヌーヴォー風の植物をあしらいながら「歴史上の出来事を緩やかに関連付けて並べている」。本人が後年、展覧会のカタログで打ち明けているように「南スラヴの壁画の制作中」に「《スラヴ叙事詩》となる大作を制作する決心をした」のである。

 

 ミュシャは1910年、チェコ・ボヘミアで古城の一部を借りて家族とともに移り住み、翌年から「スラヴ…」にとりかかる。城内のホールは「自然光が明るく射しこむ広いアトリエ」となり、そこに大ぶりの画布を張る「伸縮可能な鉄製の枠」が置かれた、という。最初に構図や人物の位置取り、ポーズを決めてゆき、次いでその再現写真を撮るという手順。モデルは自分自身や家族、そして地元の人々が務めたとみられている。

 

 そうやって十数年がかりで完成した連作は、時空の両面でスラブ民族の歴史を広くとらえていた。まず空間について言えば、東欧、中欧を中心に地中海から北海、バルト海まで南北を貫いて、さらにロシアも視野に入れている。時間軸も壮大だ。通し番号1「原故郷のスラヴ民族」では紀元前3〜6世紀ごろの原風景が、19「ロシアの農奴制廃止」では19世紀モスクワの光景が描かれ、20「スラヴ讃歌」では第1次大戦戦勝国の国旗がなびく。

 

 なかでも圧巻は、チェコを舞台に反骨の宗教家を描いた作品群だ。その中心にあるのは、7「クロムニェジーシュのミリーチ」、9「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、10「クジーシュキでの集会」から成る「言葉の魔力」3部作。それぞれ、14世紀に娼婦たちの避難所となる修道院を開いたヤン・ミリーチ、14〜15世紀にキリスト教改革を訴えたヤン・フス、フス処刑後に闘争を呼びかけたヴァーツラフ・コランダが登場する。

 

 13「フス派の王イジー・ス・ポジェブラト」も強烈だ。ボヘミア王が椅子をひっくり返して怒っている。ローマ教皇の使者が、フス派の聖体拝領がカトリック方式と異なるとしてやめるよう求めたのを拒む場面だ。プロテスタント勃興の先取りだったと言えよう。

 

 民族主義は抵抗のなかでこそ輝く。自国第一の排他主義のなかで、ではない。ミュシャが浮かびあがらせたスラブ2000年余のイメージから、そんなことが伝わってくる。

(執筆撮影・尾関章、通算375回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)

写真》

 いまの時代、エリートがいなくなったなあ、とつくづく思う。この兆しは全世界に共通するようにも感じるが、すでに顕著に見えるのが日本社会の中枢部だ。霞が関の高級官僚はまぎれもなくエリートのはずだが、それなのにエリートらしさがなくなってしまった。

 

 なによりも、「総理のご意向」騒動がそうだ。あの文面がどれほど真実を表しているかどうかは問題ではない。たとえ首相がなにも言っておらず、だれかが勝手につけ加えた言葉だったとしても、それが葵の御紋のように使われたことがエリートの実情を物語る。もちろん、官庁は上下関係で成り立つ組織だから「総理」は最強の存在だ。だが、その「意向」さえも冷静に吟味するほど、昔の高級官僚はエリート然としていたように思う。

 

 先日の当欄「役人コトバを嫌って、佐高本に酔う」(2017年4月7日付)では、お役人が「……してございます」という気味の悪い丁寧表現を用いる事情を考察した。この語法は、官僚が自らのエリート度の高さを薄めてみせる小道具だということ、さらに官僚たたきの風潮から身を交わす防具だというのが僕の見方だった。それに加えてもう一つ、首相官邸の官僚支配が強まったことが背景にあるらしい、と今回の騒動からわかった。

 

 この状況をポピュリズムの台頭と重ねてみよう。当欄「仏大統領選挙済んでポピュリズム考」(2017年5月26日付)でとりあげた『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)によれば、エリート批判はポピュリズムの「必要条件」ではあるようだ。だから今、日本でも高級官僚が批判の矢面に立たされているが、ただその標的そのものが弱体化している。本当に闘うべき相手は、たぶん別にあるのだろう。

 

 かつての日本社会は、どうだったか。1960年代を振り返ってみると、日本社会は霞が関の官僚集団によって統治されている、と子ども心にも感じていた。政治家には知的で賢明で公正な人もいたが、いい加減そうな人も多かった。清濁併せ呑むという生き方が指弾されないどころか、かえって大人物の条件のように受けとめられる傾向もあった。そのせいか、政策決定でも国会答弁でも官僚集団がすべてを仕切っていたように思える。

 

 あのころは良かった、というつもりは毛頭ない。ただ、かつて日本社会を支えたエリート体制の本質を見抜いておくべきだ、とは思う。ポピュリズムのように感情を高ぶらせるのではなく、理性によって脱エリート依存の社会を築くためには過去から学ぶ必要がある。

 

 で今週は、昭和日本のエリートについて考えさせてくれる1冊。長編小説『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)である。著者(1931〜1971)は中国文学が専門の人だが、団塊の世代にとってはカリスマ作家だった。自身は戦時に少年期を過ごし、戦後に大学で学んだ。軍国主義から左翼の台頭へ、そして再びの右旋回。そんな世相に揉まれた知識人の嘘や弱さを肌身に感じて、世に問うた。それが、戦後生まれの若者の心をとらえたのである。

 

 この作品は1962年に文藝賞を受け、直後に河出書房新社から単行本が出た。今回の文庫化は去年9月。その直後に僕は拙稿を書いたのだが、きっかけを見いだせずに寝かせていた。それが最近、霞が関エリートたちの情ない姿を見るに至り、書き直して出稿することにしたのだ。もう一つの理由は、俳優野際陽子さんの死去。ネット情報によると、彼女は1963年、本作のドラマ化作品(TBS系)に出演したという。その追悼の思いもある。

 

 作品は「一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である」という一文で始まる。記事によれば、某大学法学部教授正木典膳(55)は妻に先立たれた身なので、名誉教授の令嬢(27)との再婚を決めたが、これに対して同居の家政婦(45)が民事訴訟に打って出た、という話だ。「肉体をふみにじり、女ひとりの運命をもてあそんだ」として「婚約不履行」と「共同生活不当破棄」を理由に損害賠償を求めたのである。

 

 この話題はしばらく新聞を賑わす。「漫談家と婦人評論家の対談」「農家の主婦の投書」「いわゆる進歩的文化人の寸評」……。週刊誌も令嬢のひと言を引きだし、総合雑誌は典膳の弟である神父の「弾劾文」を載せた。ネット社会の先取りのようなメディアの集中砲火だ。

 

 小説の舞台となる某大学は、東大とみてよいだろう。まだ旧憲法下の話だが、「わが国の官僚組織の人材供給源である最高学府」と形容されているからだ。正木はその帝国大学助教授から検事となり、戦後、最高検察庁から古巣に戻った。学究ではあるが、権力の側について官僚社会の空気も吸っている。彼の醜聞を糸口に一つの小説世界を構築することで、著者は日本の政治体制の中心にいたエリートの危うさをえぐり出したと言えよう。

 

 この作品の読みどころは法学をめぐる記述。主人公の学説は「すべての犯罪は」「確信犯とみなす」とする「確信犯理論」だ。「すべての行為の行為責任は、その行為をなした行為者に帰せられねばならない」との立場なので「正木厳法主義」と呼ばれている。

 

 この確信犯論議をめぐっては、旧憲法下の検事局の描写に圧倒される。局内には「確信犯問題研究調査班」があって、検事たちが「禁入室」の一室で大議論を始める。そこで繰り広げられる理詰めのやりとりに、この作品は約10ページも割いている。ルソーやカントなど先哲の思想をもちだしての論理展開。考えてみれば、この青臭さこそがエリートらしさではないか。官庁は象牙の塔の延長だった。それが今、ただの組織に変質したように思う。

 

 この小説では、主人公を1958年に岸信介政権が提出して結局は未成立に終わった警察官職務執行法(警職法)改正案に向きあわせる。正木は国会の公聴会に与党側から呼ばれるが、不賛成を表明する。犯罪の予防力を強める法制に異を唱え、「現に犯された行為に対してのみ厳罰をもってのぞめば充分」と言い切ったのだ。行為によってのみ責任を問う、というのが「確信犯理論」の帰結だった。法学者としての筋を通したのである。

 

 ここで正木は「意識的な犯罪を、その可能性の予測によって検束しうるとすれば、すべての人間を検束しうる」と過剰予防を戒めている。彼の「確信犯理論」は「厳法主義」だが、その一方で「人が自由であることを認める」。昨今の共謀罪拡張論にはない平衡感覚だ。

 

 公聴会に臨む前、正木は学生運動家から法案撤回の立場をとるよう迫られて、こう言っていた。「川に一つの橋をかけるのに、これだけの材料と、こうした構造が必要だと工学者が設計図を示せば、人は信用するだろう」「わたしは法律家だ。君たちが心配してくれなくとも、公聴会では学問的にたしかなことのみを述べるであろう」。専門案件は専門家に任せろ、というわけか。興味深いのは、正木がここで科学技術を引きあいに出していることだ。

 

 理系の物事に素人は口を出せないという思い込みが、統治制度にまで及んでいたのである。日本社会のエリート体制は専門家任せの風土の表出だったのだとも言える。3・11の原発事故で理系専門家の信頼度が低下した今、正木の論理はもはや通用しない。

 

 正木の発想の問題点は、作品に出てくる無名な筆者の雑誌論考も指摘している。「正木法学の、統治機能よりは公共役務、個人権よりは社会的職分を重視し、一切を法的地位に還元しようとする主張は、かつてある進歩性をもっていた」。それは「天皇機関説の崩壊後」に「統帥権の体系に代置」すべく出された機関説の一つとみてよいという。だが「官僚合理主義」にのみ期待して「法の王国から、人間の自然的価値を追放した」と痛烈に批判する。

 

 私生活の話題に戻って苦笑を禁じ得ないのは、家政婦と令嬢二人への愛を断ちきれない正木の自省だ。「私はまったく無関係に二つの像を思い浮べ、しかも、なんの罪の意識もなく、その重複する像を同時に眺めていた」「排中律が、そのとき私の精神のなかで根拠をうしない、倫理的にではなく、論理的に自分が破滅しそうな危険を感じた」。人間の情愛に「排中律」を当てはめようとする愚かさ。それもまたエリートの弱点かもしれない。

 

 エリートは頼れない。だから、僕たちがもう少し論理的にならねばならないのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算374回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『スノーデン 日本への警告』

(エドワード・スノーデン、青木理、井桁大介、金昌浩、ベン・ワイズナー、マリコ・ヒロセ、宮下紘著、集英社新書)

写真》「内心」に鍵

 まずは、表題の話から。「監られる」とキーボードを叩いたら、文字列に下線が引かれてしまった。赤の波線。「入力ミス」を心配するワープロソフトの忠告だ。たしかに「みる」の「み」を漢字にするとき、ふつうは「見」「観」「診」「看」で「監」は稀だ。だが、今回はどうしてもそうしたい。僕たちは世間でいつも見られ、観られている。診られたり看られたりする機会もあるだろう。ところが今の時代は、それだけではない。

 

 町を歩いているとき、どこかで防犯カメラが回っているのを無意識に感じている自分がいる。だれかがスマートフォンのアプリで会話の声を拾っているのではないか、と気になったりもする。視覚に限った話ではないので、やはりここは「監られる」だろう。

 

 これは、家にいても同様だ。パソコンに向かってメールを認めるとき、なんども読み返す。なにげないひと言が礼を失しているのではないか、という気づかいからだけではない。文面が公の目に曝されるかもしれないから慎重になるのだ。故意でなくとも、そういう事態は起こる。受信人が別件のメッセージを不特定の人に同送するとき、そのうちの一人である僕宛ての返信メールを不用意に転用すれば、過去のやりとりが他人にも伝わってしまう。

 

 当欄は先日、英国の哲学者ジェレミー・ベンサムが提示した「パノプティコン」について触れた(2017年4月21日付「バウマンで、やっぱり社会科が好き」)。少数が多数を一望できる監視施設だ。これに対して『社会学の考え方〔第2版〕』(ジグムント・バウマン、ティム・メイ著、奥井智之訳、ちくま学芸文庫)は、現代の情報社会には多数が少数を監視する構図があるという。有名人に世間の視線が集中する現象が、これに当たる。

 

 ここであえて付け加えたいのは、昨今は僕のような無名人でも監られている気がすることだ。だれが防犯カメラで覗いているか、録音アプリをオンにしているかはわからない。メールが偶発ミスで流れるとき、どこへ届くかもわからない。パノプティコンでは監られる人が監る人の存在を確かめられないが、その怖さがそっくり現実化している。僕たちは、不特定多数から監視されているらしいと薄々感じるパノプティコンの変種に暮らしている。

 

 これは「共謀罪」法(改正組織的犯罪処罰法)が成立した今、いっそうリアルなことだ。戦前戦中は特高警察がにらみを利かせていたが、これからは世の中がこぞって同じような任務に加担させられそうな気がする。監られると同時に監る社会の到来である。

 

 で、今週の1冊は『スノーデン 日本への警告』(エドワード・スノーデン、青木理、井桁大介、金昌浩、ベン・ワイズナー、マリコ・ヒロセ、宮下紘著、集英社新書)。筆頭著者スノーデン氏は1983年生まれの米国人。米政府の中央情報局(CIA)や国家安全保障局(NSA)で情報収集活動に携わった後、2013年、政府内の機密資料を米英の有力紙に渡した。「スノーデン・リーク」である。今は難を逃れてロシアに長期滞在している。

 

 ほかの著者は、青木氏がジャーナリスト、井桁、金、ワイズナー、ヒロセ各氏が弁護士、宮下氏が憲法学者。この本は今年4月に刊行された。去年6月、東京で開かれたシンポジウム「監視の“今”を考える」(自由人権協会など主催)をもとにしている。前半ではスノーデン氏がロシアからインターネット回線のテレビ電話を通じて参加、金氏が聞き手を務めるインタビューに応じた。後半は、残る5人が登壇したパネル討論を収めている。

 

 今回は書名を尊重して、インタビューを中心にその「警告」の核心を紡ぐことにする。

 

 スノーデン氏はインタビューの冒頭で自らの職歴に触れ、CIAでは「イラクに対するスパイ活動」をして、NSAでは「インターネットの電子通信や電話を盗聴する活動など」に携わった、と打ち明けている。監る側の事情に通じた人である。その視点から力説するのは、情報技術(IT)がもたらした監視手法の変質だ。それは、特定の人物に的を絞って情報を得ようとする旧来型の「ターゲット・サーベイランス」とは様相を異にしている。

 

 ここで出てくる言葉が「マス・サーベイランス」だ。別のところでは日本語で「大量監視」という表現も出てくるが、これも同義らしい。「無差別・網羅的な監視」のことである。スノーデン氏によれば、2001年の9・11同時多発テロ後、米国では「監視政策の大転換」があり、「疑いがある人だけではなく、あらゆる場所であらゆる人を監視対象とするようになった」。それが「安く、簡単にできる」のは「テクノロジーの進化」によるという。

 

 スノーデン氏は、米政府は法律を盾に通信事業者の設備を通る「すべての通信情報」にアクセスできるようになった、と解説する。世の中の大部分(バルク)に網をかけて、そこから必要な情報を選りだす「バルク傍受」が可能というわけだ。この方式だと、当局はたとえ情報の中身に立ち入らなくとも、「メタデータ」を「安く、簡単に」手に入れられる。メタデータとは、誰がいつどこで誰とどのくらい長く交信したか、といった情報である。

 

 メタデータ収集の例として、携帯電話の位置情報がどう監られるかが詳述されている。それによると、携帯端末は「私はここにいます」という信号を発していて、その「叫び」を町のあちこちの基地局が聞いている。直近の局がどこかは「叫び」の強さでわかる。所持する人が「別の場所に動く都度、電話会社は最も近い基地局を更新し続けます」。この情報が、当局の手に渡るかもしれないのだという。その結果、当人の足どりがわかってしまう。

 

 パネル討論でもヒロセ氏が、携帯電話のメタデータ収集をさらにたやすくする新技術が現れたことを報告している。基地局に見せかける電波を放って携帯電話を惑わせ、情報をそっくりいただくという方法だ。ただ、これは大っぴらには使われていないらしい。

 

 ここで注意しなくてはならないのは、米国社会の監視度はスノーデン氏が母国を離れた後に変わり、彼が語る9・11後ほど酷くはないらしいということだ。討論の採録によると、電話のメタデータ収集は今では制限されるようになった。それを定めたのは、2015年に成立した「アメリカ自由法」。スノーデン・リークが、当局の監視活動そのものを監視する必要を人々に感じさせて、9・11で振れた針を揺り戻したのだ、ともいえる。

 

 メタデータは電話には限らない。スノーデン氏は在日経験があるので日本の生活事情にも通じていて、「Suica」や「PASMO」も例に挙げている。詳しい説明はされていないが、カードに内蔵されたメモリーが利用者の移動記録となることは僕たちにもわかる。これは、ふつうなら監られることがない。ただ、なにかの理由で当局に押収されれば、どこへ行ったかが把握されて、どんな会合に出たかの推測にもつながってしまう。

 

 もっと気がかりなのは、ネットに打ち込む語句やURL。スノーデン氏によれば「アドレスバーに入力したすべての事項はメタデータ」だ。それらは、一部の通信事業者のもとには集積されているという。「あなたがどういうニュースを読んだのかということも記録が残ります」と書かれているのを読むと、心の位置情報まで監られている気がしてくる。「共謀罪」をめぐってよく耳にする内心の自由は、このようにして危機に瀕しているのである。

 

 マイナンバー制度が動きだそうとしていたころ、それが人々の逃げ場を奪いはしないか、と僕は心配した(当欄2015年7月17日付「モディアノで憂うマイナンバー時代」)。小説『失われた時のカフェで』(パトリック・モディアノ著、平中悠一訳、作品社)の主人公が実名ではなくあだ名で生きる姿から、そう感じたのだ。識別番号と監視が結びつけば、僕たちは本当にがんじがらめになる。人はそんなには「監られる」ことに耐えられない。

 

 今の監視社会は、過去の悪夢の再来とみるべきではない。IT社会ならではの怖さがあるからだ。だが、それと闘うときに味方となるのも、またITとは言えないか。スノーデン氏がひそかに身を寄せた異国からインターネット回線で発信する姿が、そのことを物語る。

(執筆撮影・尾関章、通算373回)

 

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