『ゲノム編集の光と闇――人類の未来に何をもたらすか』(青野由利著、ちくま新書)

写真》DNAのハサミ

 元新聞記者は、現役を退いてから年数がたつほど日々の報道に不満感が募ってくるらしい。それは、こういうことだ。新しいニュースが飛び込んでくる。たしかに大変なことだ。大々的にとりあげていい。だが、どこか物足りない。昔の話がすっぽり抜け落ちている。

 

 たとえば去年秋、本庶佑さんのノーベル医学生理学賞受賞が発表されたときのことだ。多くの報道では、本庶さんの業績ががん治療薬オプジーボの開発に絞って描きだされていた。原点は本庶グループが1990年代初めに謎の分子PD−1を見いだし、それに免疫を抑えるブレーキ機能があることを突きとめたことにある。基礎の発見が応用の果実を生むのは一朝一夕にはいかない。20年余の歳月がかかった――。そんな論調が感じとれた。

 

 で、元記者は思ったものだ。オプジーボの登場は応用・開発の根っこに基礎研究があることを見せつけた格好の例だ。だから、直近の20年余について詳述することは必須だろう。だが、それでは「どこか物足りない」。もっと昔の話を置き忘れてはいないか。

 

 これは、年寄りの愚痴に類するものかもしれない。だが、それが年寄りにしか言えないことなら、言っておいたほうがよいだろう。そう思って先日、拙稿をウェブに出してみた。「Yahoo!個人」欄の「本庶劇場には第一幕があった」(2019年1月18日付)。オプジーボ開発史は本庶劇場の第二幕にほかならない、第一幕には基礎のまた基礎とも言ってよい研究段階があり、そこでも本庶さんは輝いていた、と書いたのである。

 

 いま読み返すと、愚痴と言えないまでも自慢話のようではある。若い記者諸君は知らないだろうが自分はあの時代を見てきたのだ、という奢りを感じとる人がおられるかもしれない。そんなリスクをのみ込んでも「言っておいたほうがよい」と判断したのは、科学は科学史とともに理解しなければならないと考えるからだ。科学の展開は数年間ではとらえきれない。ときに数十年でも短すぎる。だから、昔話が大切なのだ。

 

 ゲノム編集に対しても同様の思いがある。ゲノムとは生物の全遺伝情報のこと。その一部をワープロソフトのように書き換える技術がゲノム編集だ。去年秋には、中国の科学者が受精卵の遺伝子を操作してエイズウイルス(HIV)に感染しにくい赤ちゃんを誕生させた、と主張した。本当なら大変なことだと大騒ぎになった。だが、遺伝子の組み換え技術は数十年前からあり、それについて人々が議論を重ねてきたことも忘れてはならない。

 

 で、今週の1冊は、今年2月に出た『ゲノム編集の光と闇――人類の未来に何をもたらすか』(青野由利著、ちくま新書)。当欄はすでに、『ゲノム編集とは何か――「DNAのメス」クリスパーの衝撃』(小林雅一著、講談社現代新書)という本を読み込んでいる(2017年5月19日付「ゲノム編集で思う人体という自然」)。同じテーマを改めてとりあげるのは、著者が毎日新聞の科学記者であり、僕と同時代の空気を吸ってきた人だからだ。

 

 最近、ゲノム編集のニュースが爆発的にふえたきっかけは、2010年代に入って「クリスパー・キャス9」というDNAの切断法が開発されたことにある。上記「ゲノム編集で思う…」では、『…とは何か』からその技術の要点を紡ぎだした。そこには、従来の遺伝子組み換えとどこがどう違うのかという疑問に対する答えがあった。今回の『…の光と闇』も従来型との違いを詳述しているが、僕の心に響いたのはそれと別のところにある。

 

 『…の光と闇』の長所は、ゲノム編集という一つの技術から数十年の生命科学史を浮かびあがらせていることだ。著者も巻頭で、ゲノム編集には既視感があるとして「30年近くフォローしてきた生命科学をめぐるさまざまな技術、あらゆる論争がそこにある」という感慨を披歴している。個人的な話だが、僕にとって著者は同じ取材対象を追いかける競争相手だった。今回、科学の変遷をいっしょに見つめてきたのだという連帯感を呼び起こされた。

 

 たとえば、「遺伝子組み換えの夜明け」と題する序章。「時は1974年に遡る」の一文で始まる。著者が科学記者になる前の話だ。分子生物学者松原謙一さんが米国の生化学者から国際電話を受け、カリフォルニア州アシロマで開かれる国際会議に誘われたという。アシロマ会議は、1972〜73年に考案され急進展した遺伝子組み換え技術について科学者たち自身が討議を重ね、「自主規制」に踏みだした場として知られる。

 

 これは1980年代前半、僕が科学記者になったのころの部内談議を思いださせる。アシロマ会議の話は、それを取材した先輩からよく聞かされたものだ。そこで僕の脳裏に刻まれたのは、生命科学界はアクセルだけでなくブレーキも具えているということだった。ブレーキには安全面の心配もある。倫理面からの異議もある。同じことは、当時国内で大議論になっていた脳死・臓器移植や体外受精についても言えたのである。

 

 興味深いのは、「アシロマ」がゲノム編集に対しても再現されたことだ。第4章「ヒト受精卵を編集する」を読むと、2015年には「クリスパー…」の開発者の一人、米国のジェニファー・ダウドナが呼びかけて、カリフォルニア州ナパバレーで「ヒトの受精卵操作の倫理問題」を話しあう会議を開いた。その討論結果は「たとえ法的に禁止されていなくても、人の生殖細胞の改変の臨床応用の自粛を強く訴える」というものだった、という。

 

 アシロマ会議の議論を牽引したのは、遺伝子組み換えの先鞭をつけた生化学者ポール・バーグだった。ナパ会議の中心には、ゲノム編集の応用を加速させたダウドナがいる。その場にはバーグの姿もあったらしい。アクセルがブレーキも併せもつ伝統が、ここにはある。

 

 ちょっと横道にそれるが、アシロマは生命科学を超えても大きな意義があった。英国生まれの米国の物理学者フリーマン・ダイソンは『叛逆としての科学――本を語り、文化を読む22章』(柴田裕之訳、みすず書房)で、生命科学研究の自律性をたたえ、原子核物理の分野でも「アシロマ」がありえたのではないか、と悔いている。逆を言えば、20世紀後半の生命科学は、科学者の「核」をめぐる後悔を背景に歩みはじめたとも言えるのである。

 

 この本は1990年、国際医学団体協議会(CIOMS)が愛知県犬山市で発表した「犬山宣言」にも触れている。これも学界の自律性を示す動きで、体細胞に対する遺伝子治療を認めつつ、生殖細胞に対する遺伝子改変には待ったをかけた。子孫への影響を懸念したのだ。受精卵もノーということだろう。著者は、この宣言も踏まえて「『受精卵を遺伝子改変して人間を生み出すことは禁止』の原則が世界の人々の共通認識となっていった」と書く。

 

 では、この共通認識は不動なのか。そうではないという。2017年には全米科学アカデミーと全米医学アカデミーが、人の受精卵や生殖細胞のゲノム編集も、重い遺伝性の病気や障害の治療や予防に別の選択肢がないとき「認められる場合がある」との見解を打ちだした。18年には英国の独立機関ナフィールド生命倫理評議会の報告書が、生殖細胞のゲノム編集を「一定の条件のもとで」「認めうる」とした。一歩踏みだす気配はあるのだ。

 

 これは、生命倫理には二つの価値観の対立がある、という僕の持論に照らすと納得がいく。一つは、人体という人間の内なる自然に対するエコロジー。もう一つは、弱者支援と自己決定のリベラリズム。後者を重んじれば、遺伝性の病気や障害に苦しむ人々に最新技術が救いの手を差しのべるのは、もっともなことだ。それを裏づけるように、ナフィールド生命倫理評議会は前述の「一定の条件」に「子どもの福祉」や「社会正義と連帯」を挙げている。

 

 だが著者は、受精卵や生殖細胞のゲノム編集に対する慎重な姿勢を崩さない。「生まれてくる子ども、それに続く次世代にとって、安全である保証はない」「人類全体の遺伝子プールに与える影響もわからない」「いったんゲノム編集した子どもが生まれてくれば、しまったと思っても、元に戻すことはできない」――。これらに僕が一つ付けくわえれば、この医療は親の自己決定権は尊重しても、真の当事者である子孫の意思を聞いていないのだ。

 

 答えがなかなか出ない問題を僕たちはずっと追いかけてきたんですね、青野さん。

(執筆撮影・尾関章、通算463回、2019年3月15日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ニムロッド』(上田岳弘著、『文藝春秋』2019年3月号)

写真》小銭入れ、不携帯?

 このところ、身辺で訃報つづきだ。同時代を生きた人が「ひと足お先に」と言わんばかりに世を去っていく。さびしい。残念でもある。ただひとつ気休めのように思うのは、退去のタイミングとしては悪くなかったのかもしれない、ということだ。

 

 去年、パソコンに疎い閣僚がメディアの標的となったとき、当欄は「パソコンが苦手な人は、サイバーテロ対策の指揮には不向きだろう。だが、社会人として失格なわけではない」と書いた(2018年12月21日付「昭和という時代がありました」)。平成が始まる前に生涯を終えた世代は、パソコンなどない世界しか知らなかったのだ。それでも十分に幸福だった人たちがいる。新しく出てきたものだけがよいわけではない。

 

 平成期に入り、1990年代から起こったことは概略こうだ。パソコンという手軽なコンピューターが行き渡って、人々は情報をネット経由で得るようになり、通信手段としての電子メールも手に入れた。その機能は携帯電話にどんどん乗り移り、ついにはスマホという限りなくパソコンに近いポケット型端末が登場した。僕たちは、そのたびに機械を買い換え、技を磨いてきたのだ。これは、紙と鉛筆と黒電話で育った世代には一大事業だった。

 

 そして、これからは――。クルマの自動走行がまず目に浮かぶが、これは生命にかかわることなので紆余曲折がありそうだ。それよりも早く広まりそうなのは、キャッシュレス化か。この流れはすでに世界中で強まっているから、もはや食い止められまい。消費者もすでに、クレジットカード払いには慣れている。そう遠くない日、僕たちは紙幣数枚をお守り代わりに持ち歩き、小銭入れは空にして出かけることになるのだろう。

 

 まあ、ここまではなんとかついていける。問題は、その次だ。「仮想通貨」というヤツ。今のところ、ふつうの消費生活に影響を与えてはいない。だが将来、仮想通貨払いを指定する商取引がふえたらどうか。僕たちは、これまでもいろんなことを覚えてきた。スマホの扱いだけではない。振り込みはATMに打ち込む、切符は券売機にカードを入れて買う……仮想通貨だってなんとかなる。その手順も、きっと習得できるに違いない。

 

 ただ、それでも解決しない問題がある。なにかを売ったとき、自分はほんとうに対価を得ているのか、という不安だ。硬貨には、「日本国」の文字がある。紙幣には、千円札であれ一万円札であれ「日本銀行券」と書かれている。僕たちが慣れ親しんでいる通貨にはお墨付きがあり、それがはっきりと目に見えているのだ。ところが仮想通貨は、貨幣そのものが姿を現さない。お墨付きもあやふやだ。それは、いったい何なのか。

 

 で、今週は、1月に発表された第160回芥川賞受賞作の一つ、「ニムロッド」(上田岳弘著、『群像』2018年12月号掲載)。とりあげる理由は、仮想通貨を題材にしていると報道されたからだ。純文学を味わいつつ、謎の通貨の正体に迫ってみたいと思ったのだ。

 

 朝日新聞によると、作者の上田さんは1979年生まれ、大学を出てから「法人向けソフトウェア販売のITベンチャーに参加し、現在は広報・販売担当の役員」とある(2019年1月17日朝刊)。作家としても新潮新人賞(2013年)や三島由紀夫賞(2015年)などを受けて第一線で活躍してきたが、その一方で、バリバリのIT実業家なのだ。仮想通貨の何たるかを熟知したうえで、それを文学の世界に取り込んだのだろう。

 

 僕は、この作品を『文藝春秋』2019年3月号で読んだ。芥川賞は日本文学振興会の主催だが、受賞作は選考委員の選評などとともに同誌に載る。学生時代は芥川賞・直木賞の発表のたびに、その誌面に接したものだ。今回は、そんな昔の習慣を再体験した。

 

 では、さっそく作品に入ろう。冒頭の一文は「サーバーの音がする」。サーバーが、コンピューターの一種だとは僕も知っている。パソコンの向こう側にある存在。それが数百台も棚に収められた部屋のなかを「僕」は歩いている。そこが主人公の職場であるらしい。音を出しているのは、中央演算処理装置(CPU)の冷却ファン。それが「幾重にも合わさって、虫の音(ね)のように高く低く響く」。なんとも無機的な空間ではある。

 

 このくだりで、作者はサーバーの働きについて解説してくれる。それらは、僕たちがパソコンでウェブサイトを呼びだすときの受付係を担っているという。通販であれ、ポルノであれ、端末からのアクセスに応えてくれるのが、このコンピューター群だ。「僕」が勤める会社は「東京と名古屋にそんなサーバーたちをまとめて運用するデータセンターを持っている」とある。サーバー機能を提供して利益を得ているらしい。

 

 では、それがどう仮想通貨に結びつくのか。ことの発端は社長の思いつきだ。手持ちのサーバーには「契約がつかず遊んでいるもの」もある。その「有効活用」の妙案として、はやりの仮想通貨に目をつけた。その「採掘」で金を稼ごうというのだ。

 

 この作品には、仮想通貨ビットコインとその採掘についての説明もある。まず、ビットコインの価値を担保するものは、硬貨や紙幣とは異なり、中央銀行や国家のお墨付きではないという。それは、あちこちに散在するパソコンだ。たとえ話をすれば、飲食店選びで「有名なグルメレポーターによる採点を信用するか、あるいは匿名の人々の投稿に採点ルールを適用したものを信じるかの違い」に近いという。ネットの力を借りるのである。

 

 その保証は、具体的には「取引台帳」の「分散保有」というかたちをとる。ビットコインがAさんからBさんへ流れた事実はパソコン内の帳簿の「追記」によって記録され、そのデータが社会全体で共有されるということだ。で、「追記」のために計算力を行使したパソコンには、新規発行のビットコインが報酬としてもたらされる。これが「採掘」だ。発行には上限が設けられるので、通貨が無制限に生みだされるわけではないらしいが……。

 

 キツネにつままれるような話だが、ここには科学技術の同時代史がある。第一歩は、モノからコトへの重心移動。昔、世界経済が金本位制のもとにあったときは通貨の担保にモノがあった。紙幣そのものは紙ペラ1枚でしかないけれども、その後ろ盾に金塊があったと言ってよい。だがその後、中央銀行や国家や国際通貨体制の権威が信用の源になった。みんながそれを信じるというコトが肝心なのだ。この移行は、20世紀に完結していた。

 

 今は、もう一歩先へ進もうとしている。通貨の信用を中央銀行や国家、国際通貨体制に求めるとき、そこにあるのは集権的なベクトルだ。これに対して仮想通貨は分権的。ネットワーク社会が育ったからこそ出来した状況と言える。悪いことではない。

 

 だが一方で、無の空間からなにものかを掘りだすというのは不気味な話だ。僕たちは、そんなふわふわした仮想社会の入口にいるのか――。この作品は巧みに、そのふわふわ感を醸しだしている。「僕」は、課員たった一人の「採掘課長」。いわば山師の現代版だが、身体的な実感を伴わない。その職業像を縦糸に、恋人の田久保紀子や会社の先輩荷室仁、自称「ニムロッド」とのやりとりを横糸に織り込みながら不可思議な世界を現出させる。

 

 ここで作者が見落とさないのは、仮想社会に溶け込んだ生活も現実の生と死というシコリを抱え込んでいることだ。一例は、高精度の新型出生前診断が夫婦に厳しい選択を迫るという最近の話、もう一つは、太平洋戦争中に「パイロットが生還できない」特攻機が設計されたという過去の話。これらが田久保紀子の肉声やニムロッドのメールで語られるとき、ふわふわの世界は凝集剤を注ぎこまれたようになり、そこに現実の塊が見えてくる。

 

 この作品のヤマ場は、ある夜、東京の社内にいる「僕」と名古屋在勤のニムロッドが「会議システム」のスクリーンを通じて言葉を交わし、その会話に田久保紀子を誘い込むくだり。彼女はどこかのホテルにいるらしいが、スマホのLINEアプリを開くとビデオ通話の画面に顔を出す。「僕」はそのスマホを会議システムのカメラに向け、恋人を先輩に引きあわせる。このアナログとデジタルとの接続に、今の時代が正しく映されている。

(執筆撮影・尾関章、通算462回、2019年3月8日公開)

 

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『[新訳]明日の田園都市』(エベネザー・ハワード著、山形浩生訳、鹿島出版会)

写真》磁石としての都市

 学生時代、歌詞づくりに熱中したことがある。カントリーミュージック風の心地よい旋律を友人がつけてくれた。1970年代半ば、若者の間では対抗文化が退潮し、ニューファミリーの生活様式が憧れの的になっていたころだ。そんな都市住民の日常がテーマだった。

 

 なかには詞だけでなく曲も自作した歌がある。「転校生」がそうだ。「ニュータウンの丘に咲くコスモスの花/乾いた砂埃舞う造成地/引きだしの中の友だちの手紙/そうよ、わたしは転校生」。僕が思い描いたストーリーでは、父親の転勤で東へ西へと転校を繰り返す女の子が主人公。大都市圏の引っ越し先は丘陵地帯を切りひらいた住宅地だった。あのころは、東京近郊でもあちこちで関東ローム層の大地を削る重機が唸っていたように思う。

 

 たとえば、多摩ニュータウン。東京西郊に集合住宅や戸建て住宅が集まる一大住宅都市が生まれた。東急田園都市線沿いにも新しい住宅地群が連なり、TVドラマ「金曜日の妻たちへ」(TBS系)に象徴される郊外文化を発信した。関西では大阪北摂地域の千里ニュータウンが代表格か。いずれも雑木林や竹林をつぶして造ったので緑の総量は減ったが、ところどころに里山の自然が残る。それが核家族世代の心を惹きつけた。

 

 今、その新しい町の先行きが心細い。朝日新聞社が新住宅市街地開発法(1963年制定)にもとづいて開発されたニュータウン46カ所について地元自治体にアンケート調査したところ、半数を超える27カ所で65歳以上の単身世帯の割合が全国平均を上回った(朝日新聞2017年12月3日朝刊)。目をむくほどの数字ではないが、ニュータウンの高齢化が世間全般よりもやや早いペースで進んでいることがわかる。

 

 それでつくづく思うのは、これらのニュータウンはマイホームの集合体だったのだなあ、ということだ。1960〜70年代は、若者が結婚して核家族をかたちづくる傾向が強まった。住まいは当然、小規模になる。だから若夫婦が年をとり、やがて子ども世代が成人して家庭をもつとき、世代同居するだけの余裕はない。結局は高齢世帯が残され、夫婦どちらかが欠けると独居老人の家となる。これが、ニュータウンの現実だ。

 

 ここで僕が問いたいのは、ニュータウンは果たして真の「町」だったのかということだ。町は生き物にも似た組織体で、新陳代謝しながら生き延びる。世代が新旧入れ代っても同じ町ではありつづけるのだ。では、列島各地のニュータウンはどうか。個々の家について言えば、持ち主が交代して引き継がれることがあるだろう。だが、町そのもののアイデンティティ(自己同一性)の存続は覚束ない。1世代使い捨て型のような感じさえする。

 

 で、今回は20世紀初めに住宅都市づくりの構想を提案した名著に触れてみよう。『[新訳]明日の田園都市』(エベネザー・ハワード著、山形浩生訳、鹿島出版会)である。著者(1850〜1928)はロンドン生まれの英国人。序文(F・J・オズボーン執筆)によれば、商店主の家庭に育ち、21歳で米国に渡って速記者となり、数年後に帰国した。やがて都市計画の論客となるが、象牙の塔の人ではない。実践志向が強かった。

 

 この本は1898年に世に出た後、1902年に改訂改題された。「田園都市」という言葉が掲げられたのは、このときから。翌03年、ロンドン北郊レッチワースで実地に町づくりを手がける。構想通りとはいかなかったようだが、ともかくも実行に移したのだ。

 

 ではどうして、著者は田園都市というアイデアに思い至ったのか。「著者の序文」に説明がある。そのころ、すなわち19世紀末から20世紀初めにかけては宗教や政治の論題が党派的対立を招いていたが、そうならないテーマがあるとして都市論を挙げる。「人々がすでに過密となっている都市に相変わらず流入を続けており、そしてその一方で地方部がますますさびれていく」。この一点については共通の問題意識があったという。

 

 ここで見落としてならないのは、元祖田園都市構想は、都市の過密化と地方の過疎化に対する危機感から生まれたということだ。それは、過度の集中を嫌い、適度の分散をめざすものだった。このベクトルは、日本のニュータウンとは大きく異なるものだ。

 

 前述の新住宅市街地開発法をみてみよう。第1条に「健全な住宅市街地の開発及び住宅に困窮する国民のための居住環境の良好な相当規模の住宅地の供給を図り、もつて国民生活の安定に寄与する」とある。開発のねらいは、人々の居住空間を確保することにあったということだ。急増する都市勤労者向けのベッドタウンの建設と言ってもよいだろう。これはむしろ、大都市圏への人口流入を促したのではないか。集中志向のベクトルである。

 

 「田園都市」には魅力的な語感があるので、その影響は日本の町づくりにも及ぶ。有名なのは田園調布。1920年代、まだ東京府下の郡部だった一帯にレッチワースを参考にする街区がつくられた。60年代には、神奈川県の丘陵部を貫いて東急田園都市線が敷かれ、沿線に新しい住宅地が連なる。ただ、これらがもたらしたものは、あくまでも都市勤労者にとって心地よい居住空間だった。「田園都市」の「都市」らしさは見えてこない。

 

 この本の田園都市像はどうか。そこで出会うのは「町・いなか磁石」という用語だ。「町」には「雇用機会」「明るい街路」などの長所があるが、「群衆の中の孤独」「汚い空気によどんだ空」などの短所もある。「いなか」には「自然の美しさ」があるが、「仕事のない人々」もいる。そこで著者は、両方の長所を併せもつ磁石をつくることを主張する。大都市の外側に新しい磁力圏を新設して人の流れを大都市から逸らせよう、というわけだ。

 

 その「町・いなか磁石」こそが田園都市だ。著者の構想によると、「責任ある社会的地位を持ち、高潔さと名誉では非のうちどころのない紳士4名」が法律上の地主となって資金を借り、土地を買う。住人は、信託管理人に地代を支払う。興味深いのは、その地代の使いみちだ。一部は土地購入の借金返済に回し、残りは自治組織に手渡されて道路、学校、公園などの建設費や運営費に充てる。税ではなく地代を介在させた共同体と言えよう。

 

 ここで注目すべきは、田園都市の「主目的」として、工業労働者に「もっと健康な環境と、もっと安定した雇用を見つけてあげること」を挙げている点だ。大都市圏に寄生してベッドタウンになるのではない。自前の働き場所がある小都市をつくり出そうというのだ。構想を落とし込んだ市街地図を見ると、同心円状と放射状の道路がかたちづくる街区の外縁部に「家具工場」「衣服工場」「ブーツ工場」「車両工場」「ジャム工場」などが並んでいる。

 

 「主目的」のくだりでは、工業だけでなく農家のことも忘れていない。全域の地図に目を転じると、市街の外側には「大農場」「小作用農地」「果樹園」「牛の放牧地」などが広がっている。この配置によって、都市建設前から農業を営んでいた人や建設後に移り住んでくる農業志望者が「自分の家の近くで産物に対する新しい市場が開けるように」なるのだ。市街部分、即ち狭義の田園都市は緑豊かな田園都市圏の中心にある。

 

 こうした農地は、田園都市のエコロジーと深く結びついている。たとえば、「町の廃棄物は敷地の中の農業部分で活用される」。江戸市街の屎尿が近郷近在で有機肥料に役立てられたような循環を、著者も思い描いていたわけだ。そして、市域の店は「農業従事者たちにとって、いちばん自然な市場を提供する」。その結果、市民は「農家の産物を需要する限り、それは鉄道輸送費をまったくかけないですむ」。地産地消の好例がここにはある。

 

 ただ著者は、それらを述べた後に大切なことを言い添える。「でも農民などは、別に町だけが唯一の市場として限定されているわけではない」「自分の好きなところに産物を卸す全権を持っている」。ここで感じとれるのは、田園都市構想のリベラルな精神である。封建の世に戻って農民を縛ることはしない。だからと言って、当時台頭していた社会主義思想を突きつめるわけでもない。「自分の好きなところ」で商いをする権利を認めているのだ。

 

 集中から分散へ。この本は、いま求められる社会設計の一つの見本を見せてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算461回、2019年3月1日公開)

 

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読書面書評欄(朝日新聞2019年2月16日朝刊)

写真》そこには著者と評者がいる(朝日新聞2019年2月16日朝刊)

 新聞記者をしていて結構大変だったのが、新聞を読むという日課だ。自社、他社を問わず、その日に出たものは読まなければならない。社内の会議で「えっ、そんな記事出ていましたっけ?」は禁句。もし口にすれば、同席者から一斉に軽蔑の眼差しを浴びたことだろう。

 

 だから退職後にもっとも解放感を覚えたのは、新聞を読まなくてもよいということだった。数カ月間は意識して紙面を遠ざけたものだ。しばらくすると1日に1、2本、これはと思う記事だけを熟読するようになった。そうこうするうちに、文章を義務感からではなく味読することの愉悦を取り戻すことができた。で、いまもっとも楽しみなのは週末の読書面。新刊近刊の書評を中心に本の話題を満載したページである。

 

 ということで今週は、朝日新聞2019年2月16日朝刊読書面の書評を書評する。その舞台裏については、僕も現役時代に社内書評委員を務めたことがあるので多少は知っている。書評委員は定期的に集まり、とりあげたい本を選ぶ。1冊に対して複数の委員が執筆を希望することもある。最後は話しあいで決着するのだが、この綱引きが見ものだった。園児がおもちゃを取りあうような光景を見て、一同、本好きの連帯感を再確認したものだ。

 

 この日の読書面では、見開き2ページで委員8人が8冊の本を書評している。このラインナップも、きっと委員諸氏の熱い思いを反映しているのだろう。今回は、三つの評に絞ってとりあげる。いずれも、当方の最近の心模様に響いてきたものだ。

 

 まずは、哲学者野矢茂樹さん執筆の『その部屋のなかで最も賢い人――洞察力を鍛えるための社会心理学』(トーマス・ギロビッチ、リー・ロス著、小野木明恵訳、青土社)評。著者は、二人とも米国の心理学者。評者は冒頭、「社会心理学の知見が満載」で「実用書として読むこともできる」と書くが、これはあくまで「こともできる」だ。最後まで読み進むと、哲学者はやはり哲学っぽい知見をくみとっていることがわかる。

 

 「『賢い人』とはどういう人のことか」。最終段落ではそう問いかけて、この本から得られる答えをまとめる。「われわれ人間が、そして自分自身がいかにポンコツであるかを自覚し、そのことを熟知した上で行動できる人、それが最も賢い人なのだ」。これは、僕のような準高齢者の心に共振する。老いてから身につける知とは、自らのポンコツぶりを認識することを前提とする。それを出発点として賢明な生き方を探ろうと僕は思うのだ。

 

 さて、この野矢書評で、読ませどころは結論に至るまでのリズミカルな筆致にある。評者はまず、この本に「満載」の知見から「ピーク・エンド法則」を引っぱりだす。「過去の体験」の記憶は「その体験の最高の瞬間と最後のあり方に支配される」というものだ。

 

 この本が例に挙げているらしいのは、麻酔なしの結腸内視鏡検査。内視鏡を最後に引き抜くときの痛みが強烈で再検査の受診率が低いという。社会心理学者がかかわった研究では、内視鏡をとりだすタイミングをずらして、抜く直前はさほど痛くないように工夫すると、再検査率が高まったという。「エンド」の激痛がなければ痛みの記憶は薄れるということか。体がえぐられるような話をこまごまと書いて、評者は読み手の知的好奇心を刺激する。

 

 評者の巧みさは、ここから先にある。「でも、ピーク・エンド法則でしょう?」「ピークの方はどうなの?」「ピークの痛みはそう簡単には消えないんじゃないの?」「ピークよりエンドの方が記憶に残りやすいってこと?」とたたみかけるのだ。ここに、野矢流書評術の妙がある。本をただもちあげるのではなく、ほどよいツッコミを入れる。そのことで、本の核心部分に対する敬意――この書評では最終段落の記述――の信憑性がいやますのだ。

 

 次は、音楽家・エッセイスト寺尾紗穂さんの『在宅無限大――訪問看護師がみた生と死』(村上靖彦著、医学書院)評。著者は基礎精神病理学者。評者は、人が死に際に言うという「愛してる」のひとことを病院の医師は「実際はありえない」と考えるが、「在宅」では「普通にありえる」という話から説きおこす。なにかの記事に出ていたらしい。在宅で母を看取った僕は、この導入部に引き込まれる。末期には、たしかに内輪の会話があった。

 

 著者は、訪問看護師たちの話を聞いて「医療者も含めて、私たち全員がかつての死の姿を忘れた」との思いを強くしたらしい。これを受けて評者は「死に行く人が、日常の風景の中にいること」の意義をこう綴る。「病院の規則や慣例に縛られることなく、家族が自然体でいてやれることで、死に行く人の願いは叶(かな)えやすくなる」。学校で校則に縛られ、勤め先で従業員規則に束縛されたのだ。最期くらい規則から解放されたいではないか。

 

 評者は、入院患者の匿名性にも着目する。この本には「患者も看護師も医療措置に関わる匿名の『誰か』になってしまう」という傾向を指摘したくだりもあるようだ。なるほど。今の世の中、健康でいても入院患者として扱われているのではないか、と僕は思う。

 

 三つめの書評は、朝日新聞大阪科学医療部長黒沢大陸さんの『アナログの逆襲――「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わる』(デイビッド・サックス著、加藤万里子訳、インターシフト)評。著者は、英米紙で活躍するジャーナリスト。評者も、すでにベテランの域にある科学記者。僕にとっては、古巣の後輩にあたる。いわば身内が書いた記事ということになるが、今回の評は身びいき分を差し引いても秀逸だったと思う。

 

 どこがよかったのか。それは、本との距離の置き方だ。書評の手法には二通りある。一つは、本の中身に分け入って、その要点を拾いあげる方式。もう一つは、本のことなど知らぬ気にいろいろと書き連ね、そのことで本の核心を浮かびあがらせる方式。ジャーナリストは本読みを「取材」ととらえがちなので、生真面目に前者をとることが多いように思う。だが、ときに後者もあってよい。この黒沢書評はその典型。肩の力がすっかり抜けている。

 

 冒頭、「コンビニに足を踏み入れずに、まもなく2年」と書いて、自身のコンビニ断ちを報告する。「いつもの街角に、おにぎり屋、安い自家製サンドイッチをおく店を見つけ、小さな書店や文具店も目に入るようになった」「何か足りなくなっても、あるもので工夫するのが楽しい」。ここまでで、すでに全文の3分の1。で、この本はいったいどうなんだ? そんな読み手の不満を喫水線まで高めておいてから、「さて、本書である」と切りだす。

 

 著者は「レコード」「フィルム」「印刷物」などにかかわる人々を取材して「見逃していたアナログの隠れた力を明らかにしていく」。その論調は過去の賛美ではなく、デジタルの否定でもない。この本が描きだすのは「デジタルを経験したからこそ見える『その先』のアナログ」という。いつでもなんでものコンビニをいざというときのために担保しつつ、ふだんはあえて避ける。それと同様の贅沢が、デジタル後のアナログにはあるのだろう。

 

 書評の醍醐味は、そこに著者、評者、読者の三角関係が生まれることだ。ときに、著者の「これが言いたい」という思いが評者の個性によって読者の目から逸らされることがあるだろう。だがときに、著者の本意が評者の卓見によって肉づけされ、読者に対する説得力を増すこともある。読者は、そのどちらかを見極めなくてはならない。これは難題だが、知的ゲームでもある。二人の声を左右のスピーカーから聴くような体験ができるのだ。

 

 このゲームの最終必勝法は、本を自分自身で読むことだ。だから僕も、いつかは読もうと心に決めることが多い。だが読者は、なんの義務も負わないのでいつのまにか忘れていく。まあ、いいではないか。読みたい本が記憶の地層に潜んでいること。それが大事なのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算460回、2019年2月22日公開、同月26日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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「解説」(筑波常治執筆)

=『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著、青樹簗一訳、新潮文庫)所収

写真》コメはイネの一部

 自分が生きてきた70年近くを振り返って、世界にもっとも強い衝撃を与えた本は何かと問われれば、この1冊を外すわけにはいかない。『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著、青樹簗一訳、新潮文庫)。僕自身に対する衝撃度の大きさで言えば、筆頭に掲げるべき書物は別分野から探すことになろう。ただ、世間に新しい思潮を生みだしたということで言えば、この本が断トツの存在感を示している。これによって世界は変わったのだ。

 

 カーソン(1907〜1964)は、米国の連邦政府魚類野生生物局などに勤めた海洋生物学者。『沈黙の…』は晩年の1962年、『ニューヨーカー』誌に連載され、同じ年に単行本として世に出た。北米大陸のあちこちで農薬がまき散らされ、虫が死に鳥の鳴き声も消えつつある現実を伝え、生態系(ecosystem)の破壊が何をもたらすかをあぶり出した。この警告によって、生態系という概念が世界に広まったと言ってもよいだろう。

 

 1960年代、先進工業国では経済成長の副作用が市民社会を蝕んでいた。日本では、水俣病など公害病の実態が次々に明るみに出たころだ。人々は、健康な生活には健全な自然環境が欠かせないことに気づいた。ただ、話はそこにとどまらない。守るべきは、ただきれいな水や空気ではなく、多種多様な生物が共存する生態系にほかならない――カーソンに促されて、そんな環境保護思想(ecology)が芽生えたのである。

 

 環境保護思想は、やがて緑の政治思想も生みだす。1980年代には、欧州を中心に「緑」の党派が無視できない政治勢力となった。論争の座標に新しい価値観が現れ、右派左派の次元とは異なる軸が見えてきたのだ。そこには、成長本位か環境本位かという選択がある。今日では脱温暖化という地球規模の課題が首脳会議の主要議題となり、国際政治の場でも成長か環境かの議論がある。『沈黙の…』の問題提起が世界を動かしていると言ってよい。

 

 ただ、この本は読みものとしては難がある。カーソンは手もちのデータを駆使しながら、生態系破壊の実例をこれでもかこれでもかと書き連ねていく。精緻な書きぶりは、科学者としての誠実さの表れなのだろう。だから、説得力には富んでいる。だが、あまりのデータ主義に読み手は途中で疲れ、追いつけなくなる――学生時代に読んだときにそう感じたものだが、今回改めてページをめくってみても同様の印象を受けた。

 

 で、引きこまれたのは、巻末の解説だ。筆者は評論家の筑波常治。『沈黙の…』のデータが訴えかけてくるものをすくい取り、簡潔な読みものに仕立てあげている。出色の論考と言ってよいだろう。ということで今週は、この解説だけを熟読してみたい。

 

 『文藝年鑑2017』(日本文藝家協会編、新潮社)によると、筑波さんは1930年の生まれで2012年に死去した。農学、生物学に通じた人で、文明論的な科学評論で知られる。僕は科学記者としてお会いする機会があったはずだが、それを逸してしまった。

 

 『沈黙の春』邦訳は1964年、『生と死の妙薬』の邦題で新潮社から単行本として刊行された。74年、文庫化にあたって原題Silent Springに忠実な書名に改められる。筑波解説の執筆は文庫版のために書かれた。僕が今回手にしているのは、2006年に出た第66刷。それまでに改版があったようだが、この解説は生き残った。これはよいことだ。1970年代に支配的だった自然観、科学観を後続世代が推し量れるからだ。

 

 『沈黙の…』本文が焦点を当てるのは、農薬として散布される化学薬品。カーソンは、それが生態系を台無しにすることを早くから見抜いていた。では日本はどうか。筑波解説は「いわゆる農薬禍がさわがれだしたのは、数年前から」と書く。僕は小学生のころ、近隣の畑には入らないよう学校から言われた。世間は1960年代初めには農薬による健康被害を知っていたわけだが、それが環境破壊でもあると気づいたのはずっと後だった。

 

 ここで、筑波解説は「敗戦直後」を回顧する。東京都内では、焼け跡のバラックに発疹チフスを媒介するシラミが大発生した。占領軍の施策は殺虫剤DDTによるシラミ退治。「主要な駅の改札口のちかくに、保健所の係員がまっていて、通勤者や通学生にDDTの白い粉をあびせかけた」という。僕自身は経験がないが、親の世代からさんざん聞かされた。戦後の日本社会は生き延びるのに精一杯で、化学薬品の効能ばかりに目がいったのだ。

 

 筑波さんは「有害な生物たちの息の根をとめる薬剤は、有益な生物にたいしても被害をおよぼすのが当然」という見方を示し、有害な生物種だけを化学薬品によって駆除しようという発想の「思いあがり」を叱る。だが強調するのは、その一点ではない。

 

 筑波解説が大展開するのは、「生態系」と人類との関係だ。自然界は「多種多様な生物たちが食ったり食われたりしながら、それなりに安定した生態系をつくっている」。ところが、ホモ・サピエンスは「あまたの生物群のなかから、少数の特定のものだけを、たんに人間の利用目的にかなうという理由でえらびだし、家畜となし、作物となした」。選ばれた生物種は「有益」、その邪魔をするものは「有害」のレッテルを貼ったのだ。

 

 問題は、この有害指定が「安定した生態系」のバランスを崩してしまうことだ。生物界から「一種ないし数種を撲滅」したとしよう。それは「複雑な形の自然石がつみかさなってできた石垣(いしがき)から、一個ないし数個の石をひきぬいた」のと同じ、と筑波さんはみる。ある作物の畑で一つの害虫種を取り除いたら、その種によって抑圧されていた別種の虫が大繁殖して新顔の害虫になることも少なくない、というのだ。

 

 ここで注目すべきは、化学薬品に頼って特定の生物種を一掃しようとする発想を農耕文明の原点に遡って反省していることだ。大地の一角を「牧場」や「田畑」として囲い込み、その土地を「家畜」や「作物」にのみ与えて、それ以外の生物種を「害獣」「害鳥」「害虫」「雑草」と決めつけることの愚。「いわゆる公害の起源は、工業とともにおきたのではなく、遠く牧畜ないし農耕のはじまりにさかのぼる」という見方には目を見開かされる。

 

 この批判はさらに、農業にとって不可欠とされてきた品種改良にも向けられる。「イネならば種子」「キャベツならば葉」……というように生物体の一部を「人間の利用に有利なように改造する」。その結果、「身体(からだ)の一部の器官だけが、他の器官とくらべて不釣合(ふつりあい)に肥大化させられ」「生活能力において虚弱化する」。イネの穂が「たわわ」に実った姿も生物体の種子部分だけが重くなった「不健康な状態」というのだ。

 

 筑波解説には、農業の化学薬品依存を1970年代初頭の日本社会がどうとらえていたについて興味深い記述もある。前述のように、当時高まっていた公害批判の文脈で「農薬禍」に対する関心は高まっていた。そこで「非難のまと」になったのは「製薬資本の営利主義」が「不必要な薬品を売りまくって乱用をすすめたこと」だった。なにごとも資本家対労働者の構図に当てはめる思考回路は、たしかにあのころの定番ではあったのだ。

 

 これに対して、筑波さんは「これだけで片づけられるほど、事態の本質は単純でない」「一企業の責任に帰するには、悲劇の根はいささか深すぎる」と述べて、人類史に目を向ける。1970年風の「皮相的」な読み解きから距離を置いた視点に僕は敬意を覚える。

 

 僕たちは環境問題を考えるとき、農業は善玉、工業は悪玉という決めつけをしてしまいがちだ。だが、農業の原点に自然環境を歪める側面があったことを筑波さんは強調する。今はエコロジーの立場から、有機農業の機運が高まった。畜産現場に「動物福祉」を求める動きも出てきた(当欄2018年8月31日付愛護でなく権利を守る動物福祉)。農業そのものが変わらなければならないことを、筑波解説はいち早く予見していたのである。

 

 農業をだれよりも愛していただろう人が、農業の宿痾を見逃さない。筑波解説はたった12ページだが、エコロジーが人類の生き方を問い直す思想であることを教えてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算459回、2019年2月15日公開)

 

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●第198回通常国会の安倍晋三首相「施政方針演説」

写真》朝日新聞2019年1月29日朝刊

 おいおい、ついにそこまで手を広げるのか。そんな声が聞こえてきそうだ。当欄は1週1冊を標榜しているが、例外として雑誌記事やデジタル記事も話題にしてきた。読むことの愉悦を分かちあえるなら、本というかたちにこだわる必要はない、と思ったからだ。この考え方に徹すれば、どんな文書をとりあげてよいことになる。ということで今週は、第198回通常国会の安倍晋三首相「施政方針演説」(2019年1月28日)を熟読吟味する。

 

 こんな選択をするのは、ずっと首相演説「全文」のファンだからだ。テレビのニュースは、演説から当面の政治課題にかかわる部分だけを切りだすことが多いが、首相官邸の公式サイトや新聞紙面で隅から隅まで読めば、さまざまな現実が見えてくる。

 

 とくに僕が目をとめるのは、科学技術に言及した箇所。科学報道畑を歩んできたわけだから、身についた習性と言えるかもしれない。そこから感じとれるのは、永田町や霞が関が科学技術をどうとらえているかだ。科学技術は、とりあえずはもちあげられる。日本人科学者のノーベル賞受賞がたたえられ、先端技術の社会貢献に対する期待が表明される。だが、なにかが足りない。あえて言えば科学技術に伴う悩みごとが見えてこないのである。

 

 今回の演説にも、その傾向はある。科学技術をめぐる記述で目についたものを拾ってみよう。「全世代型社会保障」と題する節には、介護現場の負担軽減のために「ロボットを活用する」とある。「世界の中の日本外交」の節では、温暖化対策として「水素社会の実現など革新的なイノベーション」、プラスチック海洋汚染対策として「海で分解される新素材の開発」が書き込まれている。困ったときの次世代技術頼みという感は拭えない。

 

 科学礼讃は結語の章にある。1970年の大阪万博を振り返り、あのときに「会場で心震わせた8歳の少年」が、後にiPS細胞を開発してノーベル賞を受け、難病の人々に「希望の光」を与えた、と言う。山中伸弥さんの話だとすぐわかる。このあと、憲法に触れて「各党の議論が深められること」に期待を示し、「平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を切り拓く」決意を披歴する。科学を政治に引っぱり込んでいる感は否めない。

 

 「安全保障政策の再構築」という節には、科学技術に対する的確な現状認識もみてとれる。「テクノロジーの進化は、安全保障の在り方を根本的に変えようとしています」として、サイバー空間や宇宙空間の活動に「各国がしのぎを削る時代」の到来を指摘する。ただ、それを批判するのではなく「サイバーや宇宙といった領域で我が国が優位性を保つことができるよう」促す意向を鮮明にする。このくだりで、専守に徹することは強調していない。

 

 そして、科学技術がもっとも前面に押しだされるのは、「成長戦略」の章の「第4次産業革命」と題した節。「人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています」とうたいあげる。

 

 第4次産業革命とは、ざっくり言えば蒸気→電気→デジタルの次にくる産業の大激変。情報技術が実空間にまで広がって、モノとモノをつなぎ、クルマを動かし、社会そのものの運営まで一変させるという展望があるようだ。同じ節にはSociety 5.0という言葉も出てくるが、それは「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステム」(内閣府公式サイト)が活躍する社会を指しているらしい。

 

 この第4次革命の新技術を、首相演説はどう位置づけているのか。なによりも、この項目が「成長戦略」の章の一節であることからわかるように、経済成長の牽引車とみているのは明白だ。だが、それだけではない。「自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします」「体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります」と述べて、市民生活が受ける恩恵を筆頭例に挙げる。

 

 先端技術を、福祉や医療に前向きに取り込んでいくというのは、本来、弱者支援を旗印とするリベラル派が掲げる施策だ。たとえば2004年の米国大統領選挙では、胚性幹(ES)細胞の研究に抑制策をとる共和党現職のジョージ・W・ブッシュ大統領に対して、民主党のジョン・ケリー候補が難病の治療に役立つとの立場から推進を訴えた。日本の現政権は右寄り保守と言われるが、科学技術に対してはリベラル色も打ちだしているのだ。

 

 ただ、そこから先が心もとない。第4次革命の新技術に備えて「時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします」とあっさり言い切っているが、これはそう簡単ではないだろう。法令を整え、その抜け穴を埋めればよいというものではないからだ。

 

 たとえば、自動運転では「交通に関わる規制」の全面見直しをうたう。事故に対する責任の所在を、こういう場合は自動車メーカーに、こういう場合はクルマの持ち主に……というように区分していくのだろうが、先端技術には想定外の事象がつきまとう。この区分になじまない事例も出てくるだろう。最近は過失事故についても加害者に対する厳罰適用を求める機運がある。この社会感情にどう向きあっていくかも考えなくてはならない。

 

 自動運転は、人間社会の営みに機械が能動的にかかわってくる技術だ。状況判断や意思決定に人間以外の存在が主体的にかかわる状況も想定される。同様のことは、ロボットについても人工知能(AI)全般についても言えるだろう。これらの新技術に対して「規制や制度を大胆に改革」するには相当に広くて深い熟慮が必要になる。事と次第によっては、近代人の罪と罰の概念を根底から問い直さなくてはならないかもしれないのである。

 

 「第4次産業革命」の節の後段では、「我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります」との表明もある。AIは「人間のため」のものであり、「結果には人間が責任を負わなければならない」とみる立場を前提とするものだという。だとしたら、この課題は法令を時代に合わせる作業だけでは完結しない。哲学、倫理学、心理学、社会学、経済学など人文社会系の全領域の議論が関与する難題ではないか。

 

 ところが、この節で約束されるのは「人工知能などのイノベーションを使いこなすリテラシー」を高める小学校のプログラミング教育必修化だったり、「新たなイノベーションを次々と生み出すため」の大学支援だったりする。理工系ばかりに目が向いているようだ。

 

 科学技術の進展に乗っかっていこう。首相演説からは、そんな姿勢が見えてくる。それは防衛技術やAIについて、とくに顕著だ。この前のめりは一見、科学者や技術者にとって追い風のようではある。だが、科学研究の成果が無批判に実用技術に結びつけられたとき、どんな禍が起こるかを人類は前世紀に目の当たりにしてきた。いま待望されるのは、科学技術の恩恵を認めつつ、それがもたらす重荷からも目をそらさない政治家ではないか。

*引用箇所のテキストは、朝日新聞2019年1月29日朝刊の全文掲載による。

(執筆撮影・尾関章、通算458回、2019年2月8日公開、同日更新)

 

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『日和下駄  一名 東京散策記』(永井荷風著、講談社文芸文庫)

写真》〓はゲタ

 今週は、本題に入る前のまくらに難ありだ。遠い過去の風景を描こうと思うのだが、記憶がぼやけていて確信がもてない。史料に照らして精度を高めてもよいが、それで失われるものがある。居合わせた者だけが知るその場の空気だ。だから、ぼんやりのまま記そう。

 

 ここで蘇らせたい風景は、太平洋戦争の終結から10年ほどしか過ぎていない東京である。その市街域が幼い僕の目にどう映ったか、それを掘り起こしてみたいと思うのだ。ただ、当欄で幾度か書いてきたように、東京西郊の私鉄沿線で生まれ育ったので、ターミナル駅の新宿、渋谷よりも東は日常の生活空間ではなかった。だが、だからこそ、折にふれて遠足気分で出かけた街の佇まいが、記憶の底に沈殿しているのだとも言える。

 

 懐古気分になったのは時節柄、昔の年始回りを思いだしたからだ。父方の親類は、赤坂や六本木、芝白金で和菓子店を営んでいた。三が日には両親に連れられて、その1軒ずつを訪ね、お年玉を貰う。それが年中行事だった。渋谷あたりからタクシーに乗る。赤坂、六本木は店先の挨拶で済ませ、最後の訪問先の芝白金では奥の茶の間にあがり込んだように思う。脳裏に浮かぶのは、その巡回でタクシーの車窓から眺めた東京の景色だ。

 

 埃っぽかったなあ。そんな印象がある。砂埃が空き地から吹きつけるのか、それとも自動車の排気のせいか。表通りは広々としていて、真ん中を都電が行き交っていた。街路樹を見かけた気がしないのは、冬なので葉を落としていたためかもしれない。沿道には建物が並んでいたが、ビルらしいビルは少なかった。街全体が無味乾燥で、しらっちゃけている――これが、いま東京でもっとも華やかな一角の60余年前の空気感だ。

 

 考えてみれば、そのほんの10年ほど前、一帯は空襲に見舞われ、焼け野原と化したのだ。だから僕が目撃したのは、焼け跡に人々が戻り、生活を再開したばかりの街だった。それは、江戸・東京の歴史軸を見通せば、時折巡ってくる短い空白期の一つだったとも言えよう。それよりも前には戦前の東京があった。それよりも後には高度成長の東京がある。僕たちは、そんな新旧東京の間に遮断があったことを知る最後の世代なのかもしれない。

 

 で今週は、その空白期の彼方にある東京のぶらぶら歩きを文豪に案内してもらおう。

 

 『日和下駄  一名 東京散策記』(永井荷風著、講談社文芸文庫)。この本は表題作を中心に据え、それに6編を添えた随筆集。読み通すと、荷風(1879〜1959)がただの文人ではなく街歩きの達人だったことがわかる。表題作は1914(大正3)年から『三田文学』誌に連載され、翌15(大正15)年に単行本化された。この文庫版は『荷風全集』(岩波書店刊)に収められていたものを底本に、99年に刊行された。

 

 今回は、表題作に絞って話を進めよう。僕がまず注目するのは、執筆が大正初期ということだ。このときの東京は、太平洋戦争末期の空襲のみならず、1923(大正12)年の関東大震災にも遭っていない。さらに言えば、明治期に入って半世紀足らずという時間幅もいい。人々は今ほど長寿ではなかったが、それでも江戸生まれの人は健在で、往時を語りあっていたことだろう。近代東京のあちこちに江戸の残り香が漂っていたのは間違いない。

 

 著者の個人史をみても、タイミングは絶妙だった。巻末に「年譜」(竹盛天雄編)があるので、それを参照してみよう。明治初期に東京・小石川で生まれ、若くして文学に手を染めたが、1903年に米国へ渡り、ニューヨークなどで暮らした。その後、フランスにも滞在、08年に帰国した。表題作は、20代の感性で欧米の街の空気を吸った著者が、30代半ばの成熟した視点で自らの郷里である東京を見つめ直した作品ということになる。

 

 第一章では、まず「日和下駄」について語られる。この履物は、辞典によれば歯が低く、晴天向きだという。ただ、著者の説明は異なる。「日和下駄の効能といわば何ぞ夫不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日と雖山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその」。舗装済みの銀座、日本橋でも「矢鱈に溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい」。荷風版日和下駄は、悪天候にも強かったらしい。(引用部のふりがなは省く、以下も)

 

 ここでわかるのは、著者の街歩きに対する本気度だ。「市中の散歩は子供の時から好きであった」とも打ち明ける。14歳のころ、実家が麹町に引っ越したので、神田の英語学校へ通うのに「半蔵御門を這入って」一ツ橋へ抜けたという。半蔵門は今、一般人が通り抜けられないが、明治半ばは違ったのか。それにしても、豪華な徒歩通学だ。そんな原体験があるから、長じて日和下駄を履き、蝙蝠傘を手にしてひたすら歩いたのだろう。

 

 もう一つ、この下駄がらみの記述で当時、東京のインフラ整備がどのくらい進んでいたかも推し量れる。路面がアスファルトに覆われていたのは、銀座クラスの繁華街くらい。山の手には関東ローム層の赤土がむき出しの道路が多かったということだ。これはたぶん、焼け野原となった戦後期まで続いたように思う。だとすれば、僕が幼少期に年始回りで見た赤坂、六本木界隈の埃っぽさは、江戸・東京を貫く原風景の名残だったのかもしれない。

 

 この第一章で見落とせないのは「今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない」という一文だ。著者は、下駄をぬかるみにとられながら、空間のみならず時間の散策も楽しんでいたのである。

 

 しかも、時間軸の好奇心は「追憶」の先にも延びていく。第四章「地図」には、市中を歩くときは「携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする」とある。随所で木版の古地図を開けば「おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができる」のだ。一例は、牛込弁天町辺り。道路拡幅で江戸の面影はないが、著者はそこが根来組同心屋敷の跡だと突きとめる。その発見に「訳もなく無暗と嬉しくなる」と、無邪気だ。

 

 この散策記の斬新さは、章立てそのものにもある。第二章「淫祠」第三章「樹」、第五〜十一章「寺」「水」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽」。「樹」「寺」などには、現代風に言えばランドマークと呼んでよいものが含まれる。さらに「水」「路地」「崖」「坂」とくれば、まさに「ブラタモリ」(NHK)の世界。著者はタモリ同様、都市の起伏に敏感で街の凹凸を愛した。タモリは現代の荷風なのか、荷風が大正版タモリなのか。

 

 「崖」の章をみてみよう。著者が崖に惹かれるのは、そこに植物と湧き水が織りなす小宇宙の美を見いだしたかららしい。ササやススキ、アザミ、ヤブカラシなどが生い茂る湧水源、さらさら流れる水音、斜めにかぶさる樹木の姿などが魅力だという。このくだりで僕は東京西郊、国分寺崖線のハケを思いだした。多摩川の河岸段丘がつくる崖の連なり。少年時代は崖線の探検に心躍らせたものだ。そこにとめどなく湧く水は斜面の恵みだった。

 

 興味深いのは、旧東京市内の崖は大正初期までに開発の波をかぶったということだ。この章では「東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃」の記憶が語られている。本郷台地を小石川方面から見あげると、ところどころに「樹や草の生茂った崖が現れていた」と思い返すのだ。崖は、急斜面であるがゆえに手つかずのまま緑の帯として残りやすい。それがすでに過去のものとなっていた。明治期の帝都開発のもの凄さがわかる。

 

 「坂」の章の起伏論も読ませる。まず、「坂は即ち平地に生じた波瀾である」と定義。そのうえで「平坦なる大通」は交通安全や物品運送には好都合だが、「無聊に苦しむ閑人の散歩には余りに単調に過る」と続ける。著者は、坂からの眺望をたたえるが、それで終わらない。墓地の木々が暗闇をつくる坂、屋敷街から犬の吠え声が聞こえてくる坂、坂と坂が向きあう地形などにも心を寄せる。さながら、街の陰翳礼讃とはいえないか。

 

 荷風は、タモリとは違って地学好きの理系好奇心にあふれてはいない。さらに言えば、笑福亭鶴瓶が「鶴瓶の家族に乾杯」(NHK)の街歩きで見せる人懐こさもない。ただ、独りで黙々と歩きながら、自分の美学を確認する。そんな散歩だってあるのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算457回、2019年2月1日公開)

 

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『暗黙知の次元』(マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫)

写真》言葉の向こうに

 当欄の前身は「文理悠々」。看板を掲げたときの思いは、こうだ。自分はどちらかと言えば文系アタマなのに、理系教育を受け、科学記者を本業とした。齢を重ねてそろそろ、その理系縛りを解いてもよいのではないか。文理の垣根を取り払って、悠々と思考を巡らせてみたい――。文系の発想で理系の知見を見つめ直し、理系の視点で文系の物事をとらえ直したいという野心もあった。目標を達成したとは到底言えないが、その初心は今もある。

 

 文系理系のことでは去年暮れ、考えさせられることがあった。朝日新聞東京本社版の月曜日付朝刊には、紙面を上下に二分して文化欄と科学欄を収めたページがある。上半分が「文化の扉」、下半分が「科学の扉」。さながら、文理同舟だ。それぞれ独立に企画されているのだろう。2018年12月17日の紙面は、「文化…」の見出しが「『雑種』こそ日本の個性」、「科学…」は「有害生物駆除に死角あり」。その取り合わせに、僕は思わず苦笑した。

 

 「文化の…」は、加藤周一論。記事によると、加藤は国際人ではあっても、西洋至上主義者ではなかった。日本文化はもともと伝統と外来の雑種であり、そうあり続けることに価値があると考えていたらしい。文中に織り込まれた識者コメントも、それを支持する。

 

 「科学の…」は、有害生物対策がテーマ。記事では、有害生物の一つとして外来種が登場する。ため池の水を抜いて一つの外来種を一掃すると、今度は別の外来種が激増するといった話だ。駆除に副作用ありという指摘だが、ここでは外来に良いイメージがない。

 

 これで、苦笑の理由もわかるだろう。「文化の…」の記事は、在来文化と外来文化の交雑を肯定的にとらえている。それは、反ヘイトの共生社会にも通じる視点だろう。一方、「科学の…」の記事には、在来生物と外来生物の交雑は避けるべきものだという前提がある。そこにあるのは、生態系の人為改変を嫌うエコロジー思想だ。文化と科学それぞれの「扉」を開いたら、交雑の評価をめぐって真逆のベクトルが見えてきたのである。

 

 僕たちは、共生とエコという今風のキーワードが同じ方向をめざしていると思いがちだ。どちらも多様性の尊重という価値観は共有している。だが、そこには矛盾もある。異民族の交流は良質な雑種文化を生んできたが、その相似形を野生生物界に求めると生態系のバランスが崩れる。交雑という事象の良し悪しは、文化の視点でみるか科学の座標でとらえるかで反転する。こんなことは、文理両域を見わたさなければ気づかなかっただろう。

 

 で、今週は『暗黙知の次元』(マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫)。訳者解説によると、著者(1891〜1976)はハンガリー・ブダペストのユダヤ人家庭に育った。大学では医学を専攻、その後、物理化学の研究者となった。1933年、ナチスに追われるように英国マンチェスター大学へ。ここで専門を科学哲学に転ずる。当初は理系部門の教授だったが、第2次大戦後、社会学部に移ったという。文字通りの文転だ。

 

 本文には、その理由が自身の言葉で語られている。きっかけは「スターリン時代のソヴィエト・イデオロギーにつまずいたこと」。1935年、ソ連共産党幹部の「自己目的化した純粋科学」を否定する発言を聞いて「愕然とした」という。社会主義は「科学的必然性を言い立てる」のに「自立的な科学的思考の存在自体を認めない」という不思議。著者によれば、そんな科学観が「機械論的(メカニカル)な人間観や歴史観」を生んでいた。

 

 炯眼と言うべきだろう。ここで注目すべきは、純粋科学の否定が科学的思考の否定に結びつき、それが人や歴史の見方にまで悪影響を及ぼすと見抜いていることだ。純粋科学は知的探究本位の科学のことで、実用とは縁遠い。それを支援しようというとき、日本社会では、夢だ、ロマンだ、ともてはやす動きばかりが目につくが、肝心なことを忘れている。純粋科学は、「科学的思考」を内在させていることに最大の存在理由があるのだ。

 

 この本は、著者が1962年に米国のイェール大学であった講義をもとにしている。原著は60年代半ばの出版。最初の邦訳(副題に「言語から非言語へ」、佐藤敬三訳、紀伊國屋書店)は80年に出た。今回手にとった文庫版は、2003年に訳しおろされたものだ。

 

 訳者解説は、初訳刊行からまもない1980年代後半、日本の知識人がポストモダニズム旋風の渦中にあったことを指摘する。既成の価値や権威の「根拠の『恣意性』」があばかれ、「解放的」な気分が高まっていた。こうしたなかで「暗黙知」という言葉は広まる。近代の機械論に批判的な著者の論考が、ポストモダンの空気と共振したのだろう。それは、自然科学でも物質の最小単位に遡る近代の要素還元主義に批判が芽生えたころだった。

 

 第1章では、「暗黙知」とは何かが、こう示唆される。「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」(傍点付き)――人には、暗黙裡に働く知があるということだ。著者が最初にもちだすのは、顔の識別。人は特定の人物を不特定多数の群衆から「見分ける」ことができるが、その過程はほとんど「言葉に置き換えられない」。僕たちは街を歩きながら、パッと見でご名答というパターン認識を楽々とこなしているのである。

 

 著者は、顔識別のカギは「人相」だと主張する。人を見かけて、それが誰かを知ろうとするとき、僕たちは相手の目や鼻や口を一つずつ切りだして点検するのではなく、「人相」に注意を向ける。目や鼻や口は「据えられている場所」と不可分なので「人相」をかたちづくって初めて「意味」を帯びる、ということだ。部品そのものよりも、部品間の関係に目を向けたところは、自然科学の要素還元主義批判を先取りしているようにも思える。

 

 ここで参照されるのは、ゲシュタルト心理学だ。この学説では、人はものの「外形」を認識するとき、「感知している個々の特徴を、それが何とは特定できないままに、統合している」とみる。この認識は「自然な平衡を得て、生起する」と仮定されているが、著者は、そこに人間の「偉大にして不可欠な暗黙の力」をみてとろうとする。表現が大げさなのは、「科学や芸術の天才」や「名医」がこの力を発揮している、と考えているかららしい。

 

 暗黙知のイメージは日常感覚にもしっくりくる。それは、ピアノ演奏について触れた記述からもわかる。「自分の指に注意を集中させたりすると、演奏動作が一時的に麻痺することもある」。その通りだろう。ピアニストが見事なのは、指を何本も使っていちどきに別々の鍵盤を叩くからだ。音符一つずつを追って指1本ずつを気にかけていたら、音楽にならない。これを著者は、個々の要素の吟味による「意味や全体像の破壊」と呼ぶ。

 

 ただ、著者の思慮深さは、ここで話を終わらせないことだ。指1本ずつの動きをたどる練習の効果は認めていて、それをしたときは「個々の要素をもう一度内面化し直す」ことで音楽を取り戻せるという。内面化とは「暗黙知化」と言い換えてもよいのだろう。

 

 著者は、これに続けて近代科学に対する批判を大展開する。「もしも暗黙的思考が知(ナリッジ)全体の中でも不可欠の構成要素であるとするなら、個人的な知識要素をすべて駆除しようという近代科学の理想は、結局のところ、すべての知識の破壊を目指すことになるだろう」。このひと言は、科学がめざしているのは「私的なものを完全に排し、客観的な認識を得ること」と思い込んできた僕たちの常識に、強烈なノーを突きつける。

 

 真の知とは、外なる客観知と内なる暗黙知の総和なのだろうか。

 

 しかも今は、「客観的な認識」そのものが揺らいでいる。20世紀物理学が難問を突きつけたのだ。相対性理論では、どの座標系にいるかによって時間の進み具合などが違ってくる。量子力学では、観測の瞬間に物事の状態が定まる。「客観的な認識」は、あるとしても絶対的なものではなさそうだ。そんな時代にポランニーは暗黙知というカードを切ったのだ。僕たちの世界観を完全に近づけるには、その隠れた知のしくみを探る必要がある。

 

 暗黙知研究の近況については、文化の扉も科学の扉も取り払った紙面でぜひ読みたい。

(執筆撮影・尾関章、通算456回、2019年1月25日公開、同月28日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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●「横山秀夫さんに聞く・物語の始まり」(聞き手・加藤修、朝日新聞デジタル)

写真》デジタルを印字して読んだ

 全盛期を過ぎた感が否めないテレビ番組に2時間ミステリー(2H)がある。かつて民放各局が競い合ったレギュラー枠は大半が消えた。それでも人気シリーズがスペシャル番組のかたちで放映されるのは、高齢層を中心に人々の心をとらえて放さないからだろう。

 

 2H党を自任する僕としてはうれしい限りだが、気になることもある。近年、警察ものが主流になっていることだ。もちろん、老舗のシリーズにも警察は出てくる。十津川警部ものは言うまでもなく、浅見光彦ものも主役のルポライター浅見が津々浦々の警察に出入りする。「温泉若おかみの殺人推理」でも「タクシードライバーの推理日誌」でも(ともにテレビ朝日系)、脇役の刑事がいい味を出してきた。だが、昨今は様子が違う。

 

 あえて言えば、警察という組織がギラギラしている作品がふえた。一例は、科学技術化された捜査体制だ。ドラマで事件解決のカギになるのは、監視カメラ、画像処理、音声分析、DNA型鑑定、プロファイリング……。解析結果が犯人を絞り込む。事件解決の一瞬がコンピューター画面に現れる「一致」のひと言で表現される味気なさ。警察は捜査権限があるので、大概の証拠物件を手に入れられる。監視社会の見本を見ているようだ。

 

 警察組織内の人間関係にも光があてられる。たとえば、本庁と所轄署の軋轢。警視庁・道府県警本部の捜査一課と地元警察署の刑事課との摩擦は定番だ。本庁人事で赴任してきたキャリア組エリートに対するたたきあげ刑事の意地もモチーフになる。同じ署内にあっても、生活安全課など地味な部署の警察官が活躍して花形の刑事課員に一泡吹かせるものもある。警察が体現する縦社会のありようは、ドラマの題材になりやすいのだろう。

 

 こうしてみると、科学技術化であれ人間関係であれ、近年の2Hはリアリズムを追求しているように見えるのだが、どうもピンと来ない。それはきっと、リアルの度合いが低いからだ。科学捜査も現実にはあのようにすんなりと犯人を特定できないだろう。どの解析にも誤差はつきものだし、二つの鑑定が矛盾する結論を導くこともある。人間関係だって複雑だ。雲の上の存在に対する妬みよりも仲間うちの競争意識のほうが強いことは、ままある。

 

 警察ものの2Hがリアルに思えないのは、僕自身が駆けだし記者のころ、ほんの数年ではあれ、警察署を回って取材した経験があるからだ。その後は科学報道畑に進んだのだから、社会部の事件記者のように警察の実相を語る資格はない。ただ、署内に漂う匂いのようなものは記憶の底に染みついている。残念なことに今、2Hドラマからそれは感じとれない。ごく少数の事例を除いては。その例外の筆頭格が横山秀夫原作のドラマだった。

 

 で今週は、「横山秀夫・物語の始まり」(聞き手・加藤修、朝日新聞デジタル)。作家横山秀夫の小説観に文芸記者が迫ったロングインタビューである。朝日新聞群馬県版に2017〜18年、計13回連載された記事が去年暮れに一挙デジタル公開された。群馬は、横山さんがかつて新聞記者生活を送った文筆活動の原点だ。先週に続いて「本」とは違う媒体をとりあげるが、「3万字を超える」とあるから薄い1冊を読むほどの量感がある。

 

 私的な話を付言すると、聞き手の加藤記者は僕の大恩人だ。当欄の前身「文理悠々」がブック・アサヒ・コムに開店していたころ、編集者として面倒をみてくれた。だが今回この記事をとりあげるのは、その恩義に報いるためではない。ただただ面白かったからだ。

 

 まずは、横山さんと加藤記者とのかかわりから。2003年1月に横山さん初の長編『半落ち』が直木賞候補作になるが、落選する。一つの医療手段が作品のカギになっているが、その制度解釈が現実的でないと異論が出たのだ。このとき、加藤記者は関係団体や官庁の見解をもとに、それが非現実的と断定できないことを記事にした。選に漏れた作品に対して丁寧な検証をしたことが、作家と記者の間に信頼関係を生んだのは間違いあるまい。

 

 インタビューは時系列で進む。横山さんが新聞社を辞めたのは、1991年のサントリー・ミステリー大賞で自作が候補作に残った時点。「記者が天職」と思いつつ、「何か違うなという違和感」が募っていたころだ。記事を通じて世にはびこる悪や不正を「断罪」「追及」する仕事を省みて「そんな資格が果たして自分にあるのか」と自問したという。賞の結果は「佳作」。大賞を獲って副賞の賞金で1年暮らすという思惑は潰えた。

 

 横山さんは大賞の当てが外れて、収入減を少年マンガの原作執筆に求める。出版社で原稿を渡すと、年下の編集者5人からてんでんばらばらのダメ出しが返ってくる。「悔しくてね、会議室のテーブルをばーんとひっくり返したい衝動と闘っていました」。このときに打ち砕かれたのは、「記者時代に着込んだ虚飾のプライド」だ。名刺を出せばだれにでも会えるという「万能感に近い自意識」が消え、「等身大の自分」に近づいたという。

 

 作家としての本格デビューは、1998年に松本清張賞を受けた「陰の季節」。警察組織の内情を警務課調査官の視点でとらえた。同名の短編集では、表題作を含む3編で管理部門に光が当たる。「より純度の高い葛藤劇を書くために探し当てた設定」だった。登場人物の心を占めるのは、警察幹部の天下り、県議会の爆弾質問……。裏方で奔走する人々には「事件を追う刑事以上に強烈な負荷がかかる」。横山さんは、それを見逃さなかった。

 

 ではなぜ、組織に焦点を当てたのか。そこには自身の気づきがある。新聞社を離れた直後は「解放感」に浸ったが、すぐに「手かせ足かせのないまったくの自由なんてものは幻想なのだ」と思い至る。会社を飛び出たら、社会という「組織体」の「しきたり」や「しがらみ」が待っていた。それを前提に「どう生きるか」「どう生きたいか」を考えるようになる。「もう組織が個人に及ぼす有形無形の影響を無視しては小説を書けなかった」と言う。

 

 警察組織の人間関係を扱っても、並の2Hドラマは本庁対所轄、キャリア対ノンキャリという図式を撫でるだけだ。これに比べて横山作品には葛藤の深さがあり、心模様は陰翳を帯びている。それもこれも、自身の体験を踏まえた内省があるからだろう。

 

 このインタビューでは、フィクション論も読みどころだ。横山さんは1985年の日航ジャンボ機墜落事故後しばらく、地元紙記者として御巣鷹山に通い詰めた。退社後の生活困窮時、出版社から「現場の惨状をノンフィクションで」と頼まれたが、「書こうとするたび嘔吐(おうと)して」執筆をやめた。自身の「あの事故を踏み台に」という姿に「押しつぶされた」のだ。「金に困っていない時に改めてあの事故と向き合おう」と心に決めた。

 

 それが結実したのが、長編小説『クライマーズ・ハイ』。未曽有の航空機事故を扱いながら「記録でも記憶でもない普遍的な物語」をめざした。思いついたのは「主人公に一度も現場を踏ませない」という筋立て。現場の凄絶さをもっともよく知る作者が、それを「封印」したのだ。描いたのは、新聞社内の「組織と個人のせめぎ合い」。事故の核心と距離を保つことで「メディアという生き物の精神性を炙(あぶ)り出せると考えた」のである。

 

 横山さんはインタビュー後段で、自身はジャーナリズムを離れ、川を渡って「フィクションの岸辺に立った」と宣言。記者と作家の違いを譬え話で語る。無言電話を受けたとき、「誰からの電話か突き止めようとする」のが記者。「誰からの電話か、かけてきた理由は何か、えんえんと考え続ける」のが作家というのだ。記者が手にする「一つの真実」と、作家が思い描く「10も20もの『ありえる理由』」は等価――という見方には思わずうなった。

 

 退社の経緯を語ったくだりに戻ると、こんな言葉もあった。新聞は「分析し、警鐘を鳴らし、提言をすること」に長けているが、「取材したことしか字にできない性質上、人間の気持ちのにじみやグラデーションを伝えるのは苦手」。そこにフィクションの出番がある。

 

 先週、当欄拙稿で書いたように、街を活写するには新聞の文体が力を発揮する(当欄2019年1月11日付「週刊誌を久しぶりに読んでみた」)。だが、人の内面に迫るには想像力が欠かせない。記者出身の横山さんは、それに気づいて対岸に渡ったのだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算455回、2019年1月18日公開、同月23日更新)

 

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「ザ・ルポルタージュ 変わる日雇いの街 大阪・釜ケ崎哀歌(エレジー)」

(樋田毅・執筆、『サンデー毎日』2019年1月6―13日新春合併号)

写真》見出しが並ぶ(朝日新聞2018年12月25日朝刊広告欄)

 週刊誌を手にとる習慣がなくなって、だいぶ時がたつ。遠い昔、学生時代には結構読んでいた。新聞とは違って、世情を斜めから眺める姿勢が好きだったからだ。だが、皮肉にも自分自身が新聞記者になり、斜め目線の記事を味読するどころではなくなった。そうこうするうちに週刊誌のほうも変わってしまったように思う。ゴシップ報道を突き詰めるか、実用路線で突き進むか。最近はその両極端が目立って、読みものらしさが薄らいだ。

 

 そんな折、週刊誌の一つに新しい動きが起こった。『サンデー毎日』新春合併号の目次に「雑誌ジャーナリズムの復権宣言!」の文字を見つけたのだ。その「宣言」を支える記事は7本。社外筆者を起用した論評やインタビュー、ルポなどが並んでいる。

 

 ふと思いだされるのは、45年前の田中金脈報道だ。週刊誌ではないが、月刊の『文藝春秋』1974年11月号に衝撃の記事2本が載った。立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」。データ本位の調査報道と人間像に迫るルポというふうに対照的だった。ノンフィクションの書き手がそれぞれの手法を駆使して原稿を量産したころで、その舞台として「雑誌ジャーナリズム」は活況を呈していた。

 

 「宣言」は、あの時代の空気を蘇らせたいというジャーナリスト精神の発露なのだろう。紙が電子に取って代わられ、読みものがネットのつぶやきに押しやられるようなメディア状況を考えると先行きは厳しいが、報道に身を置いてきた者として健闘を願う。

 

 で、その目次を見ていた僕は「宣言」の一翼を担う執筆者に懐かしい名前を見つけた。樋田毅さん。元朝日新聞記者で、大阪本社社会部に所属していたジャーナリストだ。1987年に朝日新聞阪神支局襲撃事件が起こると、真相解明を主務とする取材班に加わり、記者半生の多くをその仕事に費やした。去年、この事件をとりあげた「NHKスペシャル」のドラマ篇で、主役のモデルになった人と言えば思いだされる方も多いと思う。

 

 樋田さんは、個人的にも元同僚としてよく存じあげている。当欄で『記者襲撃――赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅著、岩波書店)を紹介したいなと思っていたところだったが、そんなときに直近のジャーナリスト活動を知って、まずそちらに飛びついた。

 

 『サンデー毎日』誌に出した記事は「ザ・ルポルタージュ 変わる日雇いの街 大阪・釜ケ崎哀歌(エレジー)」。見出しにある「釜ケ崎」の3文字をみて僕が感じたのは、大阪社会部魂だ。「釜ケ崎」は大阪市南部にあり、職を求める日雇い労働者が宿(やど)をとることから「ドヤ街」とも呼ばれる。高度成長期には暴動が多発、行政は「あいりん地区」と名づけて民生対策に力を入れてきた。在阪の社会部記者にとっては目の離せない街である。

 

 僕自身が大阪在勤の科学部記者だった1980年代、社会部出身の編集局幹部が武勇伝のようにして語る釜ケ崎体験談は畑違いの記者の耳にまで届いていた。ドヤ街に潜入するときは、耳たぶのうしろの垢をあえて洗い落とさずにいた、というような話だ。取材相手の住人たちから別世界の人間と思われたくないため、という。見出しの「ルポルタージュ」と「釜ケ崎」の組みあわせに、僕はちょっとノスタルジックな気分になった。

 

 今回の記事で樋田記者(拙稿では、こう呼ばせていただく)は文字通り、その釜ケ崎取材を今、60代半ばの身で敢行した。本文に「1984年の春から秋にかけ、私は新聞記者として釜ケ崎を担当した」とあるから、30余年ぶりの再体験。ここに、この企画のミソがある。日本社会を生身の肉体で支えてきた街を昭和末期と平成末期で比べることで、平成という時代の位相を切りだす――それこそが雑誌ジャーナリズムの醍醐味というわけだ。

 

 街に入ると、そこには不変と変化が同居していた。樋田記者が「34年前に泊まったドヤ」(ドヤは簡易宿泊所)はまだ残っていた。2畳間に敷いた布団の「汗を煮詰めたような強烈なにおい」、暴動に備えて窓に取り付けられた「鉄格子」と「金網」――それらは今、どうなっているのか。泊ろうと思ったが「生活保護の長期滞在者」で満室。今回入ったドヤは15年前に改築された6階建てのビルで、3畳間にテレビ、冷蔵庫が付いていた。

 

 このルポでは治安状況も今昔で比較されている。樋田記者が1984年春に書いた新聞記事(「路上犯罪急増 襲われる野宿の弱者」)によると、当時は路上強盗が警察の知る限りで「半年間に50件」。それが今回、西成署に取材すると2018年は11月末までで5件のみ、野宿していて強盗に遭う例は皆無だという。副署長の説明によれば、住人が年をとって野宿者が減ったことや生活保護の受給者が増えたことが背景にある。

 

 高齢者の増加と福祉の拡大――これらが釜ケ崎を穏やかにした二大要因らしい。高齢化は、樋田記者が今回見かけた「『特掃』と書かれたヘルメット姿のおっちゃんたち」の姿からもわかる。「特掃」は「高齢者特別清掃事業」の略。街路をほうきとちり取りで掃除する。かつて屈強の筋力で道路を掘り返していた青壮年が今、その路面を黙々と掃き清めているのだ。高度成長を支えた世代の老いが、そのまま街の風景に映しだされている。

 

 福祉の拡大を物語るのは、シェルターという無料宿泊施設が充実したことか。「シャワーも洗濯機も無料で使える。冷暖房もある」というから快適なはずだが、それでも野宿生活を選ぶ人たちがいる。樋田記者はその一人に声を掛け、話を聞く。公共機関が入居する建物の軒下で寝袋に身を包んでいた70歳の男性だ。「俺は集団生活が嫌いだ。一人でいるのが自由でいい」。釜ケ崎は、こういう生き方を受け入れる街でもある。

 

 このルポで僕の心にもっとも響いたのは、樋田記者が認定NPO法人の「こどもの里」を訪れる場面だ。釜ケ崎の子らを預かったり泊めたりする施設で、30余年前も取材でしばしば足を運んでいた。そのころ、近所の踏切で男の子二人が亡くなる事故があった――そんなことを思いだしながら玄関に入った瞬間、「胸を突かれた」とある。二人の遺影が壁に掛かっていたのだ。「その死をずっと忘れない人がいた」ということである。

 

 二人とも父子家庭の子であり、「こどもの里」の常連だった。施設を「切り盛り」する荘保共子さんが樋田記者に言う。「釜ケ崎は貧しい人や障害のある人たちに対して日本で一番優しい街です」。有力者でなく無名の子の写真が施設を見守っているのは、その表れだ。

 

 では、釜ケ崎の下部構造はどうか。このルポによると、西成労働福祉センターの求人紹介は2017年に延べ24万9000人で、1989年の約8分の1。樋田記者が早朝のたまり場を見にいくと、労働者待ちの車は「ワゴン車が20台ほど」。かつては「100台前後のマイクロバスなどが並んでいた」から、がた減りだ。ただ、これだけで雇用が減ったとは言えない。スマホを通じて雇い主から直に仕事を得る人が出てきたからだ。

 

 このルポは最後に、釜ケ崎激変の予兆を報告している。近くに大規模ホテルの建設計画があり、地元に「ジェントリフィケーション」(高級化)という言葉が飛び交っているという。2025年の万博も追い風となるだろう。だが樋田記者は、地元の神父本田哲郎さんや前述の荘保さんの「誰でも生きられる、多様性が尊重され、弱者に優しいこの街を守り通す」という決意を引いて「私も、そうあってほしい」と書く。まったく同感だ。

 

 思いだすのは、都市問題の論客ジェイン・ジェイコブズ(1916〜2006)。当欄「トランプに備えてJ・ジェイコブズ」(2016年12月2日付)に書いたように、米国社会が自動車道路などでズタズタになった現実を批判、「地域社会が存在するためには、人々が本人同士で出会わなければならない」(『壊れゆくアメリカ』〈ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社〉)と主張した人だ。彼女が今の釜ケ崎を見たら何を言うか。

 

 このルポは、樋田記者がとことん新聞記事風の文体で書いている。見たこと、聞いたこと、調べたことを凝縮させるだけで、飾りがない。それがかえって心に訴えかけてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算454回、2019年1月11日公開)

 

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