『グーグルマップの社会学――ググられる地図の正体』(松岡慧祐著、光文社新書)

写真》手もとに I am here”(グーグルマップ)

 このあいだ新装小田原城を訪ねて、その城下を歩いたときのことだ。馴染みがないのに妙に懐かしい。そう言えば……。脳裏に蘇ったのは社会科の教科書だ。たしか、この町の地図が載っていたように思う。山頂は三角、港は錨、畑は双葉、工場は歯車。山あり、海あり、農業地帯には軽工業も興っている。そんな多彩な顔を併せもつ土地柄だから、記号を覚えさせるのに最適だったのだろう。あの地図体験が、既住感のような感覚をもたらした。

 

 新聞記者時代、先輩の出張に同行して感心したことがある。着いた先では必ず、大判の地図を開いた。記者は事件が起これば、いきなり見知らぬ町にほうり込まれる。そこでまず求められるのは、町勢を大づかみに知ることだ。地図は、その助けとなったに違いない。

 

 それほどではないが、僕にも地図への愛着がある。たとえば、小説に地図が添えられていると読みたい気持ちが強まる。この夏、当欄で『南の島のティオ』(池澤夏樹著、文春文庫)を紹介したときも、そのことを書いた。巻頭に、所収作品群の舞台となる島のマップがあり、山や川、町や村が手書き風に描き込まれていた。それを見ただけで物語の空気に引き込まれたのだ。(2016年7月1日付「池澤夏樹の『南の島』に渡ろう」)

 

 地図愛には危うい一面もある。地図は天空から見下ろすように世界を描くので、文字通りの「上から目線」だ。それを広げて町や島の全貌をつかむという行為は、天守閣から領地を望む戦国大名の振る舞いに似ていないこともない。ただ言い添えたいのは、上から目線は権力者の占有物ではない、ということだ。人はだれもが公的な存在なのだから、私的な興味だけでなく公的な関心ももっていたほうがよい。そんなときに地図の視点は欠かせない。

 

 だが、このごろは昔ながらの地図が存在感を失いつつある。数週間前の経験を言えば、とある地下鉄駅から地上の通りに出たとき、昔なら必ずと言ってよいほど目の前にあった地図の案内板が立っていなかった。古くて見苦しいということで、取り払われたのかもしれない。不便じゃないかと憤ったが、今の人にはスマートフォンがあるんだ、とすぐに気づいた。僕も結局は、その場でグーグルマップを開き、行き先までの道筋を調べたのである。

 

 で、今週は『グーグルマップの社会学――ググられる地図の正体』(松岡慧祐著、光文社新書)。今年6月に出たばかり。一瞬、いまどきのITビジネス本かと思ったが違う。あくまでも主題は、地図の変容。新世代の代表としてグーグルマップを登場させている。著者は1982年生まれの社会学者で、略歴欄には「現代の都市や地域社会を表象するメディアとしての地図のあり方について社会学的な見地から調査・研究している」とある。

 

 学究の著作らしく、第1章には地図の定義がある。地図学の大家A・H・ロビンソンらは、三つの特徴を挙げたという。それを、ここで要約してみよう。一つめは「縮尺」。これによって距離や方向、面積の秩序が保たれる。二つめは「平面」。2次元表示ということだ。三つめは「選択」。描き込まれるものの取捨選択は欠かせない。はっとさせられるのは「平面」だ。当たり前のことを言っているようだが、ここにこそ地図の本質がある。

 

 平面に表すということは上から目線をもたらすが、その結果、僕たちは「世界を見わたすことができるようになる」。一望感は公的な関心と分かちがたい。たとえば朝食のとき、このパンの小麦はどこで収穫されたのだろうと思い巡らすとしたら、その瞬間、念頭には地図のイメージが広がっているはずだ。この本は、世界を「単一の連続平面」、国を「国境線によって区切られた領域」とみる通念が生まれたのも地図があったからこそ、としている。

 

 ところが最近、一望感が乏しい地図が台頭した。最初は1990年代後半に広まったカーナビだ。クルマの動きに画面が追随する。地図の中心点が「移動する個人の身体を基準にして動くようになった」のである。それを可能にしたのは、地図が人工衛星の全地球測位システム(GPS)と結びついたからだ。システムが「わたし」を追いかけてくれる。「地図のなかに『わたし』を出現させたことは、まちがいなく大きな革命であった」

 

 これを伏線として登場するのが、グーグルマップのスマートフォン版である。パソコン版が2005年に世に出たが、その使い手は止まったままでいた。ところがスマホの普及とともにGPS機能付きスマホ版が広まると「カーナビを手のひらに『携帯』しながら歩くような状況」が現実になった。「歩を進めるのに合わせて、現在地を示すアイコンが地図上をリアルタイムに移動していく」。それが、町の案内地図の退場を促しているとも言える。 

 

 著者の見方によれば、これは「見わたす地図」から「導く地図」への変化と考えてよい。街角でグーグルマップを開くとき、目を凝らすのは、自分が今いる地点から行き先までの道筋だ。「ユーザーは地図を面として『見わたす』のではなく、もっぱら点(現在地)と点(目的地)をむすぶ線(経路)を『追う』だけの存在になっていく」。地図の定義にあった「平面」の平面らしさが薄れ、そのなかの点と線ばかりが意識化されるというのである。

 

 しかも、「点(現在地)」は地図の真ん中にくる。僕が思うに、これはコペ転――コペルニクス的転回だ。天動説が地動説になって、座標の中心は地球から太陽へ移った。それが20世紀に再び見直され、アルバート・アインシュタインの相対性理論では、どの座標系にも同等の地位が与えられる。だから、地球どころか自分の居場所を中心にしても一向に構わない。グーグルマップは、そんな究極の相対論を具現してくれる、と言ってもよいだろう。

 

 それは、英語圏の案内地図の“You are here”を突き詰めたものかもしれない。日本語で言えば「現在地」のことだ。『日本語と英語 その違いを楽しむ』(片岡義男著、NHK出版新書)で片岡さんは、そこにyouという人格が現れることに着目して「youはhereつまり、『ここ』にあるのだ」と書いている(文理悠々「片岡義男に教わる英語っぽい英語」2012年11月19日付)。僕たちは今、地図に自身の人格“I”を埋め込めるようになった。

 

 著者によれば、グーグルマップは世界を「断片化」している。そこに立ち現われるのは「無数の『いま・ここ』」である。それは当座の経路案内だけでなく、遠くの町の地理探索でも同様だ。世界は、使い手の求めによって狭い範囲に「切り取られる」。地図の使われ方が「データベースから、個人の好みに応じて断片的なデータが引きだされ、その組み合わせが消費される」という「データベース消費」に変わってきたのだという。

 

 言葉を換えれば、地図はデータベースの一部に組み込まれた、と言えるのかもしれない。現にグーグルマップも地理情報システム(GIS)に支えられているという。この技術は「地形・地質の状態から観光・交通情報まで、さまざまな地理情報をデータベース化」するもので、それを「地図上に表示する」機能もある。飲み会会場の候補をたちどころにリストアップできるのも、そのおかげだ。地図が情報の保存庫と一体になったのである。

 

 この本は、「導く地図」のマイナス面も指摘している。著者の見立てでは、グーグルマップの使い手には「その時々での情報収集と空間行動の『便利さ』や『快適さ』を求める」傾向が強いが、「全体を見わたして個々の要素をまとめあげ、その全体の地理について物語るイメージを共有しよう」という動機が希薄だという。僕が「公的な関心」と言ってきたものは、この「物語るイメージ」に重なる。物語は新世代の地図から消えてしまったのか。

 

 この本を読むと、決してそうではないことがわかる。グーグルマップは地図に「継ぎ目」がないので、画面をずらしていけば遠隔地との「つながり」を地球の裏側まで感じとれる。視点の高度を変えてズームインやズームアウトができるので、自分が世界の一角にいることも実感できる。過去の風景を呼びだす機能が広まれば、タイムマシンの疑似体験も日常のことになってくる。そこには、時空を超えた物語を生みだす力が宿っているのである。

 

 眺めるよりも動かす地図が手もとの機械に潜んでいる。食わず嫌いになる前に、ササッと指を滑らせて遠くへ出かけてみよう。僕たちは、本を通じて会ったことのない人の話を聴くことができるが、同様に地図を通じて知らない町を歩きまわれるようになったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算335回)

 

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『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、角川文庫)

写真》銀河に沿って

 銀河はいつの季語? そう聞かれたら夏と答える人が多いだろう。夏休み、高原で星空を見あげる。プラネタリウムの涼気で、その疑似体験をする。たしかに現代人には真夏がぴったりくる。だが、正解は秋。たとえば七夕の旧暦7月7日は新暦では後ろにずれ込み、今年なら8月9日。明治以前の人々は6月で夏を終わりにして、7月には初秋を感じていた。芭蕉「荒海や佐渡によこたふ天河」も、すでに秋めいた夜空に渡されていたことになる。

 

 ということで今週の主役は、銀河のイメージから連想される詩人、童話作家の宮沢賢治(1896〜1933)。当欄は去年も、彼に登場してもらった。「フランドン農学校の豚」という短編をとりあげて、動物の権利保護という概念にいち早く目をつけていたことに敬意を表したのである(2015年3月27日付「宮沢賢治のディープなエコばなし」)。今回はもう少し話を広げて、賢治世界と理系思考の関係を考えてみようと思う。

 

 僕の印象では、賢治は理系人の好感度が高い文学者だ。自身、少年期には動植物や鉱物の採集に熱中した。青年期には農学校へ進んでいる。有機無機の境を超え、なべて自然が好きだった。それが人間社会の泥沼から超絶した物語に結実して科学心と響きあうのだろう。

 

 自然科学は、ひと括りにできない。『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)という小説を読むと、それがわかる。博物学のアレクサンダー・フォン・フンボルトと数学・物理学のカール・フリードリヒ・ガウスの対比が見事だ。僕はその書評で、前者を「なんでもかんでも集めて回る」、後者を「なんでもかんでもひたすら考える」と要約した(朝日新聞2008年7月20日朝刊読書面)。

 

 これは、専門ごとの志向の違いと重なりあう。科学記者としての経験から言えば、物理系はガウス流に自然界の基本原理を追求する傾向が強いが、生物系はフンボルト流の収集癖も手伝って、自然界の多様な現実に寛容なように見える。最近は二つを橋渡ししようという試みもある。先日紹介した「形の科学」(当欄2016年8月19日付「かたちから入るというサイエンス」参照)がその一例だが、科学の大勢はまだ二分されているようだ。

 

 では、賢治はどちらに与したのだろうか。物理系の世界に向きあうといっても、夢中になったのは石集めだったからフンボルトに近い。だが、それだけで終わってはいない。自然の構成要素を一つひとつ愛でながら、それらの関係性にも思いを馳せている。ガウスのようには数理の美にこだわらないが、宇宙を一つの枠でとらえたがっていたのではないか。そこには、理系世界の分断を縫合するための提言があると言ってもよいだろう。

 

 今回、手にとった一冊は『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、角川文庫)。表題作など8編を収めた作品集だ。題名を羅列すると、「おきなぐさ」「双子の星」「貝の火」「よだかの星」「四又の百合」「ひかりの素足」「十力の金剛石」「銀河鉄道の夜」。天あり地あり、動物あり植物あり。自然界の全方位外交だ。著者は宇宙の隅々まで見渡して、あちこちに物語のタネを見いだす。主人公はときに、天文学規模の時空をいともたやすく行ったり来たりする。

 

 たとえば「双子の星」。主人公は、天の川西岸に光る一対の天体だ。双子だという。周りは宇宙空間のはずだが、野原が広がり、湧き水もある。「底(そこ)は青い小さなつぶ石でたいらにうずめられ、石の間から奇麗(きれい)な水が、ころころころころ湧(わ)き出して泉の一方のふちから天の川へ小さな流(なが)れになって走って行きます」。童話としてはありうる描写だ。ただそれだけなら、星の並びに事物を見る星座命名の域を出ない。

 

 すごいのはそれからの展開だ。双子星が笛を吹いて天球運動を促す音楽を奏でていると、彗星が「おい」と声をかけてくる。「すこし旅(たび)に出てみないか」。さぼっても地球の船乗りや天文台員や小学生は気づかない、とそそのかすのだ。そこで彗星のしっぽにしがみついて出発するが、あるところで振り落とされてしまう。大気圏に突入して雲を抜け、「暗(くら)い波(なみ)の咆(ほ)えていた海の中に矢のように落ち込(こ)みました」

 

 双子星は海底で、星形の「ひとで」から仲間と勘違いされる。自分たちは星だと主張すると「ひとではもとはみんな星さ」とかわされる。そこには大食漢の鯨がいる。鯨より偉そうな海蛇もいる。海蛇の頭目は海の王様で、空の王様を尊敬していたので、双子が天に戻れるよう取り計らった。今度の乗り物は竜巻だ。「急(きゅう)にバリバリバリッと烈(はげ)しい音がして竜巻は水と一所(いっしょ)に矢のように高く高くはせのぼりました」

 

 ここには天動説の世界を昇り降りする交流がある。感心するのは、交通手段を用意していることだ。彗星の動きは、一見不規則にも感じられるからチャーター便に見立てられる。竜巻は、重力に逆らうところがロケットに似ていなくもない。今日の科学では彗星は太陽系の天体であり、竜巻は大気の現象とわかっているので、この筋書きには無理がある。だが、動力にまで意を払って物語を組み立てたところに、著者の理系心が感じられるではないか。

 

 思いだすのは、反原発の市民科学者高木仁三郎さんのことだ。2000年の死去直後に出た著書『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)では、もし原発を動かすのなら事故時には外から強引にではなく内から自然に止めるしくみを使え、と説いている。ならば最初から原発をやめて自然の動力源を、ということにもなる。高木さんは終生、賢治を敬愛した人だった。(文理悠々2010年11月19日付「アトムとの向き合い方」参照)

 

 著者の世界像を一望できるのは、やはり表題作「銀河鉄道…」だ。文中に「約二字分空白」「以下原稿一枚?なし」などの括弧書きがあるように、未定稿が没後に公表された。そこでは、宇宙が複眼でとらえられている。巻末解説の筆を執った心理学者の河合隼雄も、そのことを書く。著者は銀河について「一般の人々よりはるかに豊富で的確な知識をもっていたに違(ちが)いない」が、それでも「『川』ではないと思わなかった」という。

 

 その川沿いを走る列車で、主人公の少年ジョバンニと友人カムパネルラは同乗の少女と会話する。船の遭難で死出の旅の途上にあるという。彼女の語る動物童話はこうだ。サソリがイタチに追われて井戸に落ちたとき、殺生を重ねてきた過去を反省して独白する。「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう」。生と死。そして弱肉強食。そんな生態系の掟を宇宙に位置づけるのが銀河鉄道のすごさだ。

 

 この物語は、宇宙を物理系ととらえたときの銀河像も描きだしている。冒頭でジョバンニらが理科の授業を受ける場面。先生は模型をとりだして、銀河とは星が凸レンズ形の円盤状に集まったものであり、内側にある地球からはそれが川のように見えることを実感させてくれる。これだけなら教科書風の知識だ。だがこの結論に行き着くより先に「もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら」と話を脇道にそらす。そこにこそ含蓄がある。

 

 天の川が川ならば、水に相当するのは「真空(しんくう)という光をある速(はや)さで伝(つた)えるもの」とみてよいという。ここでは、真空に「光をある速さで伝える」という形容句を与えている点に注目したい。特殊相対論が、光はどんな慣性座標系から見ても真空中を毎秒30万kmで進む、としていることの反映だろう。アルバート・アインシュタインが1905年に発表した理論だ。科学通の著者が聞き及んでいてもおかしくない。

 

 僕が驚くのは、その真空を水という実体のイメージでとらえていることだ。相対論と並んで現代物理学の柱である量子力学によれば、真空は本当の空っぽではなく、エネルギーを内在させている。これは、最近話題のヒッグス粒子が物質に質量を授けるしくみにもかかわってくる話だ。「銀河鉄道…」の執筆が進んでいたらしい1920年代半ば、量子力学は産声をあげたばかりだった。著者の感性は物理学の流れを先取りしていたのかもしれない。

 

 著者は、宇宙規模の自然界と堂々と向きあった文学者だ。その筋立ては融通無碍に科学の枠からはみだすが、理系知からみても的を外さない教訓や予感がちりばめられている。これこそが、理系といわれる人々が宮沢賢治に一目置く理由なのだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算334回)

 

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『コーヒーと恋愛』(獅子文六著、ちくま文庫)

写真》気軽にドリップ

 コーヒーは微妙な飲みものだ。酒のようには法律で大人専用と決まっていない。だが、子どもはあまり飲まないほうがいいね、と言われている。だから、なにかの事情でそれを口にした子どもは、自分も大人になったのかな、とちょっとうれしく感じる。

 

 半世紀余り前、僕が子どものころはどうだったか。コーヒーは少年少女に縁遠い飲みものだっただけではない。大人からみても敷居の高い嗜好品だった。ひとことで言えば、喫茶店で味わうもの、という感じ。もちろん、富裕層や知識人層、洋風志向が強いハイカラな人々の間では日用飲料の一つだっただろう。だが、圧倒的に多くの家庭ではコーヒーの香りが漂うことがほとんどなかった。僕も、そんな多数派の環境下で育った一人だ。

 

 例外と言える思い出はある。ある日突然、コーヒー沸かしの装置がわが家に出現したのである。親がどこかから貰ってきたものではなかったかと思う。「パーコレーター」と呼んでいたが、僕の脳裏に残るイメージは、その典型例から外れている。どちらかと言えば「サイフォン」に近い。複数のガラス容器から成る器具一式で、水を電熱器で沸かすこと、お湯がコーヒーの粉の載った網目を通って落ちてくること……そんな光景だけは覚えている。

 

 ただ、これは厄介ものでもあった。かさばるので、ふだんは戸棚にしまわなくてはならない。来客や祝いごとがあるときだけ、引っぱり出して使っていたような気がする。わが家の朝食はパンとバターだったが、飲みものはいつも、茶漉し一つで事が足りる紅茶と決まっていた。コーヒーが食卓デビューを果たしたのは、瓶入りインスタントが広まってからだ。本格レギュラーの味は、学生時代に喫茶店通いを始めるまで憧れの的でしかなかった。  

 

 いま、僕の日課はコーヒーなしにありえない。午前中パソコンに向かうときはいつも、そばにマグが置かれている。口内に残る苦味が頭の働きを刺激してくれる、というのは気のせいかもしれない。だが、心地よく思考をめぐらす助けになっているようには感じる。いれ方は、ペーパードリップ方式。粉とフィルターの買い置きさえあれば、湯を沸かすだけで済む。昔はなぜ、あんなに重装備の装置をありがたがったのか、と思ってしまう。

 

 で、今週は小説『コーヒーと恋愛』(獅子文六著、ちくま文庫)。著者は1893年生まれの作家。若いころにフランスへ渡って演劇を学んだので、劇作や演出の仕事も多い。1969年没。僕は子ども時代、テレビドラマの原作者にその名があるのをしばしば目にした。

 

 この本は先日、初秋の当欄にはコーヒーの話でも、と思って中古本ショップで買い込んだのだが、ぱらぱらめくっただけで懐かしさがこみあげてきた。既読感に近い。だが、読んだ覚えはない。巻末の書誌に目を通して納得した。ちくま文庫版は2013年に初版が出たが、大もとをたどると「『可否道(かひどう)』という書名で一九六二年十一月から一九六三年五月まで読売新聞に連載され、一九六三年八月に新潮社より刊行されました」とある。

 

 僕の実家は、もともと読売新聞をとっていた。ところが、小学校高学年のころに朝日新聞に切りかえる。私事の余談だが、後年の勤め先とのつきあいは、ここに起点がある。「可否道」連載は、その直前に始まったらしい。僕は新聞小説を読むほどませていなかったが、この題名に引っかかったことははっきり覚えている。おそらくは親を質問攻めにして、「可否」がコーヒーのことであり、同様に「珈琲」などの当て字もあることを知ったのである。

 

 挿し絵のいくつかには、カップから立ちのぼる湯気が描かれていたように思う。読みもしないのに、ゆったりした空気感だけは感じとった。それが、既読感もどきとなったのだ。この文庫版では、シンガーソングライターの曽我部恵一があとがきにこう書いている。

 

 「どのページからも、昭和のある時期の風景からのみ立ちのぼる洗練が顔をのぞかせています。進歩的でどこか柔和な、協調性をもったクールなライフスタイルというようなものです」。当欄で書こうとしていることを先に言われてしまったような的確な洞察だ。ただ曽我部さんは、公式サイトによれば1971年生まれだから、この「昭和のある時期」をリアルタイムでは知らない。僕がその時代を皮膚感覚でなぞるのも無駄ではないだろう。

 

 この小説の主人公、坂井モエ子43歳は新劇出身のテレビ女優で、脇役だが「好人物のオバサン」を演じて一世を風靡している。共同生活者の塔之本勉は8歳年下の舞台装置家で、劇団の報酬は少なく「半扶養家族」状態。一応は夫婦だ。二人の縁は、勉がモエ子のいれるコーヒーに魅せられたことに始まる。「綿ネルのコシ袋一つが、彼女の道具」ともあるから、ネルドリップ派か。ペーパー同様に軽装備だが、湯の注ぎ方などに技があるのだろう。

 

 モエ子の気がかりは、勉と新人女優丹野アンナとの仲。ある朝、夫婦水入らずの食卓でコーヒーが「まずい!」と言われて当惑する。「そんなこといわれるの、初めてよ」。だが、自ら確かめてもその通りだ。どうしてだろうか。と、そのとき勉の声。「君は丹野アンナのことを、考えてたな」。図星だった。コーヒーには「いれ手の気持まで、味を支配する」という法則があるらしい。こうして、男女の確執とコーヒーのあれこれが絡む小説の幕が開く。

 

 この小説には、もう一つの流れがある。コーヒー好きの集まり「日本可否会」の動静だ。総勢5人。主宰の菅(すが)貫一は妻と死別して独身、地代収入で優雅に暮らしている。そこに画伯、教授、噺家とモエ子が加わる。菅がめざすのが可否道の創始。「茶道は、立派なものだが、いかんせん、もう古い」との理由からだ。「緑色の発泡液体を、黒褐色の香り高い液体に変えたら、どんなもんか」「近代洋室に、シックリするじゃありませんか」

 

 曽我部さんの言う「昭和のある時期」は1960年代初め、コーヒーの歴史でみればインスタント台頭期だ。著者は、その動きを巧妙に筋立てに組み込む。即席ラーメンの会社が、コーヒーのインスタント化にも乗りだす。新商品の名は、外国ブランド「メス・カフェ」に対抗して「オス・カフェ」。そのCMにモエ子を登用する話がもちあがるのである。標的は、どこにでもある家庭。そこで、庶民派人気女優に白羽の矢が立ったというわけだ。

 

 インスタントは可否会でも論争のタネになる。画伯は、即席でもコーヒー党がふえれば「ほんとのコーヒー」への欲求も高まる、と前向きだ。教授も同調する。戦後民主主義は「一夜漬け」で「インスタント」だったが、それでは物足りなくて「真の民主主義とは何物であるかという疑問と、要求とが、起りつつある」というのだ。60年安保の世相を想起させる理屈ではある。だが、菅は突っぱねる。「コーヒーも、民主主義も、即製はいかん!」

 

 この場にはモエ子は居合わせない。画伯によって彼女のCM出演の噂が明かされるが、未確認情報の域を出ない。ところがまもなく、新聞の朝刊にモエ子登場の「オス・カフェ」全面広告が載って、菅の怒りは頂点に達する。彼女を喫茶店に呼びだして「ぼくは、どれだけほんとのコーヒーというものを、愛してるか」と思いのたけを語る。「インスタントで間に合うことも、ずいぶんありますよ」という現実論の言い訳はまったく受けつけない。

 

 それもそのはず、可否道構想でモエ子は欠かせない存在だからだ。菅は自分が初代家元に就くと打ち明けた後、彼女に言う。「やがて、可否道家元第二世として、ぼくの跡目を継ぐ人になって……」。この思惑は男女間の機微にも投影されて、小説の歯車を回していく。

 

 この作品にはコーヒーと並んでもう一つ、愛着の向かう先がある。芝居だ。勉は新劇信仰に凝り固まっていて、モエ子のテレビ出演を苦々しく思う。テレビドラマを「チャチ」と決めつけているので、その演技は「芸の切り売りをしてるような醜態」にしか見えない。モエ子自身にも古巣の新劇に対する郷愁があり、それが、演劇青年勉への愛を強めていた。この新劇愛は、インスタントに「ほんと」を対置させるコーヒー愛と通じ合っている。

 

 今は本物志向の時代だが、インスタント志向も共存する。スーパーの棚を埋め尽す即席食品群をみれば、それはわかる。「ほんと」に敬意を払いつつも「ほんと」をしのぐ勢いの文化が「昭和のある時期」に現れた。著者は、その萌芽にいち早く気づいたのだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算333回)

 

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『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』

(トリスタン・ツァラ著、塚原史訳、光文社古典新訳文庫)

写真》記事の言葉をばらばらにして……

 抹消したい思い出というものが、人には一つや二つある。赤面の至りというやつだ。生意気盛りだった高校時代のことである。なんの科目だったかは忘れたが、授業が討論形式の進行となり、級友の一人が立ちあがって「ダダイズムは……」と語りだした。それを僕は「ダザイズム」と聞きとって「いや、太宰は……」と見当はずれの反論をしてしまった。ダダイズムという言葉を知らなかったのだ。知ったかぶりの化けの皮が剥がされた瞬間だった。

 

 そのいやな記憶が甦ったのは最近、「今こそトリスタン・ツァラ」という記事を目にしたからだ(朝日新聞2016年7月25日朝刊文化面、小川雪記者)。ツァラ(1896〜1963)はルーマニア生まれの詩人。見出しには「無意味の芸術思想『ダダ』を提唱」とある。それによれば、今年はダダイズムがスイスのチューリヒで興って100年の節目にあたる。日本国内でも記念の催事が目白押しらしい。ダダが戻って来た、ダダダダダ!

 

 この記事は、ダダイズムをうまく要約してくれている。それは「意味の通らぬ言葉を並べた詩や過激でナンセンスなパフォーマンスなど、常識を覆す『無意味の祝祭』」であり、「意味を否定し、言語を解体し偶然を重視する表現」なのだという。前衛芸術ではシュールレアリスム(超現実主義)が有名だが、時系列でみればダダイズムのほうが先だ。ダダからシュールへの流れもあった。意味の解体が現実を超えるバネになった一面もあるのだろう。

 

 記事の後段で僕の心をとらえたのは、「説明責任やマニュアルの徹底を重視し、何かと意味を要求する現代にこそ、己を意味から解き放てとツァラは叫ぶだろう」という一文だ。いまどきの新聞記事としては、思い切った問題提起だ。人々が諸規則、諸手引きの字面にがんじがらめになり、自由な発想を奪われていることは間違いない。ただ、そこに「意味」の追求までみるのは、コンプライアンス社会に対する買い被りかもしれない。

 

 ここで僕の見方を言えば、昨今の世相は「意味」を尊重しているようでいて、実はそれを空洞化している面がある。たとえば、不祥事系の記者会見でしばしば聞かれる「重く受けとめる」。あまりの乱発に「重く」は軽くなり、言葉の中身が空っぽに感じられるようになった。そのひとことをコメントに盛り込むことが、危機管理の定石になっているだけだ。そもそも言葉なんてそんなもの。ダダイストなら、そう笑い飛ばすかもしれない。

 

 で、今週は『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』(トリスタン・ツァラ著、塚原史訳、光文社古典新訳文庫)。この新訳は2010年に出た。「ダダ宣言集」「ダダ評論集」「ダダ詩集」が200頁弱、訳者の解説が80頁ほど。本を選んでから、しまったと後悔したのは、ダダの本はダダだということだ。著者の筆になる部分はダダ一色で、意味の読みとりを拒んでいる。解説に焦点を絞って逃げるか? いや、やっぱり本体に切り込もう。

 

 冒頭の一編「ムッシュー・アンチピリンの宣言」(チューリヒ、1916)の書きだしを見てみよう。「DADAはおれたちの強烈さだ。理由(わけ)もなく持ち上げるのは、銃剣それにドイツの赤ん坊のスマトラ頭というわけ。ダダはお上品なスリッパもはかず、交わらない平行線もいらない人生だ」。訳注に「アンチピリン」は「頭痛薬(アスピリン)」とあるので表題はわかったが、本文に入ってからは疑問符の連続だ。

 

 なによりも、これではいつもの手が通じない。当欄は、手にとった本から鍵となりそうな叙述を拾いあげて、それを引きながら読み解く手法をとっている。こうして得られた新知見を僕の手もとにある既存知見と絡ませて思考を深め、新しい地平を見いだす――カッコよく言ってしまえば、そんなつくりになっている。ところが、この本では鍵の拾いようがない。「銃剣」と「スマトラ」と「スリッパ」からいったい何を語れ、というのか。

 

 ただ、それでも見えてくるものはある。前述の引用部分のすぐ後には、こんなメッセージがある。「統一ってやつには反対でもあり、賛成でもあり。でも、未来には断固として反対する」。どうやら、ダダは「未来」が大嫌いなようだ。先に読み進むと「おれたちは宣言する。自動車がおれたちをひどく甘やかしてきた感情であることを。自動車の抽象作用ときたら、大西洋横断汽船、騒音、観念なみの遅さだ」とも。「自動車」嫌いでもあるらしい。

 

 ここでも、訳注が助けとなる。「未来」はイタリアの詩人が旗揚げした前衛芸術の「未来派」を暗に指しており、「自動車」はその一派が称揚する「速度の美」とみてよい、というのである。なるほど、そういうことか。だが、「速度」に批判的なのに「遅さ」を貶すあたりは一筋縄ではない。下手な引用をして、いい加減な解釈でお茶を濁し、見当はずれの風景を新地平と見誤ってはまずい。そこで、一歩退いた視点から読むことにした。

 

 僕が目を惹きつけられるのは、「アンチピリン(アスピリン)」「自動車」「大西洋横断汽船」だ。意味解体のためにかき集められた語群にモダニズムの破片がちりばめられている。未来派のみならずダダイズムも、20世紀科学技術文明の萌芽を感じていたということか。

 

 そして興味をそそられるのは、ダダを「交わらない平行線もいらない人生」としている一文。この宣言が出た1916年は、奇しくも物理学者アルバート・アインシュタインが一般相対論を完成させた年だ。その世界像ではユークリッド幾何学と違って空間が歪み、平行線が交わることもある。著者には物理学革命の胎動も伝わっていたのか。ちなみにアインシュタインは、その数年前までスイス連邦工科大学チューリヒ校の教授だった。

 

 一連の宣言で「もっとも重要」(訳者解説)とされるのが「ダダ宣言1918」(チューリヒ)だ。導入部に「ひとつの単語―DADA―は、新聞記者たちを予期せぬ世界の扉の前に立たせたが、おれたちにとってそれは何の重要性ももたない」とある。本文には「おれは宣言を書くが、何も望んではいない」「おれは原則として宣言には反対だ」「原則というやつにも反対している」といった文が並び、ダメ押しは「DADAは何も意味しない」。

 

 煙に巻く、とはこのことか。ダダと言いながら、それは意味がないという。宣言を発しながら、そのことに原則反対する。それどころか、原則という概念にも八つ当たりする。「宣言を否定する宣言」と言い切ってしまうのもためらわれる底なし沼が、ここにはある。

 

 「新聞記者たちを……」という表現からは、著者が新聞媒体を意味社会の象徴とみていたことが推察される。別の宣言「かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する」(パリ、1920)を読むと、それはいっそうはっきりする。そこには、ダダ流の詩のつくり方が出てくる。「新聞を持ってこい」「ハサミを手に取れ」。紙面を単語ごとに切りとって袋に入れ、その袋を振って混ぜ、籤のようにとりだしたものを並べよ、という。

 

 これは、拙稿前段で紹介した文化面記事にある「言語を解体し偶然を重視する表現」の見本とも言える。新聞が、解体と再構成の実験材料にされたのである。ここで必須なのは、紙片を袋のなかでごちゃ混ぜにする工程だ。無意味生産の原動力に偶然がある。訳者解説によれば、著者は晩年にも、詩句を可動式の同心円に書き込み、円をぐるぐる回すことで並びを変えられる作詩装置をつくったという。終生、偶然に魅せられていたのだろう。

 

 20世紀前半、技術文明は進行中の科学革命をまだ取り込めず、19世紀科学の枠にとどまっていた。「自動車」も「大西洋横断汽船」も量子力学の確率論を必要としない。古典物理学の知識で動いてくれる。なにごとも方程式が決めるニュートン以来の決定論が支配域を広げていた。日々の暮らしの利便性は高まったが、半面、時計仕掛けの息苦しさが強まっていたことだろう。その閉塞感を払うように、偶然を演出する芸術が現れたのである。

 

 今はどうか。量子力学をもちださないまでも、世界は偶然に満ちている。ネット社会で思いもよらぬ人のつながりが生まれ、内向きの古くさい言語は破壊可能だ。ところが目につくのは、手垢のついた空疎な常套句ばかり。この現実は、ほんとに重く受けとめたい。

(執筆撮影・尾関章、通算332回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『ジャーナリズムに生きて――ジグザグの自分史85年』(原寿雄著、岩波現代文庫)

写真》肩書どうする?(名刺を拡大コピー)

 この夏、僕の胸中にしばしば去来した言葉は「ジャーナリスト」だった。ひとり風呂に浸かって、あれこれ思いをめぐらせていたときがそうだ。友人知人と歓談していたときもそうだ。考えごとのタネとして、あるいは世間話の話題として、真っ先に思い浮かぶのはこの職種のことだった。自身も看板に掲げてきたのだから、もちろん他人事ではない。だが今、このカタカナ語7文字と向きあうとき、愛着や郷愁よりも、どこか突き放した感じがある。

 

 一つには、東京都知事選に大物ジャーナリストが出馬したときの違和感だ。いくつもの政党がそこに結集したのだから、政界の常識では勝算があったのだろう。だが、どうかな、と僕は思った。結果は報道の通りだ。ジャーナリストに、もはや吸引力はない。

 

 思いだすのは、TBSの元キャスター田英夫が1971年、参議院選全国区に出馬したときのことだ。謳い文句は「ジャーナリストとして政治に参加します」「We Want Den」だった。そして、堂々のトップ当選。有権者はジャーナリストを欲した、ということだろう。田さんはキャスター時代、ベトナム戦争を北側から取材して政権与党から嫌われた気骨の人。今と違うのは、その権力批判の姿勢を人々が応援したということである。

 

 もう一つ、今夏にNHKが放映した「NHKスペシャル〈未解決事件〉ロッキード事件」(7月23日から2夜連続)も印象に残る。圧巻は、ドラマ部分で松重豊演じる検事が記者の一人を部屋に引き込んで襟首をつかむ場面。元首相の強制捜査に踏み切る前、「世の中はどう思っている?」と問いただしたのである。ジャーナリストの背後に世論をみていた。ドラマだから脚色もあろう。だがあのころなら、そんなことがあっても不思議でなかった。

 

 今、ジャーナリストが一目置かれなくなったことは実感している。いや、それどころではない。当欄定番の話題である2時間ミステリーをもちだせば、このところ、胡散臭い役柄の代表格は「元新聞記者のフリージャーナリスト」だ。たいていは、ゆすり行為がたたって殺されてしまう。敏腕記者が悪をあばくというのは今は昔。僕は名刺に「科学ジャーナリスト」と書いているが、最近はそれを初対面の人に差しだすのがためらわれるようになった。

 

 ジャーナリストが世論を代弁して、権力と対峙するという模式図が通用しなくなったのだ。そもそも、世論が一つにまとまりにくい。それなのに大手メディアは、ばらばらの主張の当たり障りのない平均値を求めて、そこに世論の幻影を見ようとしている。こんなことをしていては、この職種の存続はありえない。ジャーナリスト全盛期を振り返って今の目で再吟味することが、ジャーナリズムを組み立て直す第一歩となるのではないか。

 

 で、今週は『ジャーナリズムに生きて――ジグザグの自分史85年』(原寿雄著、岩波現代文庫)。著者は1925年生まれ。戦後、共同通信社に入り、社会部記者、編集局長、編集主幹などを務めた。つい先日101歳で逝ったジャーナリスト、むのたけじさんのように戦前の記者体験はないが、終戦まもない日本社会のジャーナリズムを体感した証言者ではある。この本は、奇しくも東日本大震災直前の2011年2月に書き下ろされている。

 

 副題に自分史とあるように、少年期を起点に話を始めている。実家は、神奈川県平塚郊外の小作農。小学生のころは「教科書以外の本や雑誌類を買ってもらった記憶はない」。手本は同郷の先達二宮尊徳で、農学校に進むと「登下校時に歩きながら本を読む習慣もついた」。太平洋戦争の開戦後、「総動員体制の労働力補充」で卒業が早まり、国鉄に就職して品川駅の改札掛となった。これだけならば、戦前世代の成功者からよく聞く苦学談である。

 

 だが、この本が秀でたところは、嫌な話も包み隠さず打ち明けていることだ。たとえば、戦争末期に入った海軍経理学校の体罰について。鉄拳を上級生らから受けた回数は、在籍11カ月で「同期最多のおよそ二千発」とある。それだけではない。自分自身も、同期の一人が夕食のご飯の量をめぐってずるい行為に及んだのに気づいて「呼び出し殴りつけた」。場所は校舎屋上。相手が飛び降り自殺を口にしたので、あわてて思いとどまらせたという。

 

 自身の行為も、それに対する過剰な反応も「食べ物のこと」に起因していた。著者は、その顛末を思い返して「みじめさ、恐ろしさを考えさせられた」と告白する。暴力が日常茶飯のことであり、生死の境も間近にあった。そういう思いだしたくもないはずの体験談を織り込むことで、当時の世間標準がどんなだったかが示される。そのことで読み手は、今昔のものさしの違いを認識して過去に向きあえる。これは大事なことだと思う。

 

 ジャーナリストとなってからの章でも、メディアの裏面史が赤裸々に明かされている。自ら目撃したこともあるが、伝え聞いた旧悪もある。後者は裏がとれない面があるので、本来は軽々に語るべきではない。だがそれを開示することで、昔のものさしが浮かびあがる。

 

 一例は、著者が「入社後先輩から聞いた話」。1951年、サンフランシスコ講和条約が調印されたときのことだ。現地入りした先輩記者の一人は「本社から現地の歓迎ムードを書けと言われて何の動きもないのに困り、大きな日の丸の旗を注文して休日のオペラハウスの前に飾った」という。やらせの極致、今なら完全にアウトだ。ことの真偽はもう確かめようがない。ただ、この話がさほどの屈託なく語られていたらしいことには注目したい。

 

 そう言えば、ということで思いだすのだが、僕くらいの世代の記者経験者は、若いころに先輩から、今ならアウトの話を聞く機会が少なからずあった。それらは、多かれ少なかれ武勇伝の色を帯びていたように思う。確証がないので記して事実化することはためらわれる。だが、なかったことにしてよいわけではない。ジャーナリズムに対する行動基準のものさしが緩い時代があったことは記憶にとどめるべきだ。この本はその助けとなる。

 

 この本には、正真正銘の武勇伝が出てくる。1952年に大分県菅生村(当時)であった駐在所爆破の真相に迫る調査報道だ。菅生事件という。一審で共産党員5人が有罪となるが、二審が始まってから警察官の関与が疑われる。その人物は事件後、雲隠れしていた。共同通信社会部は「特捜班」をつくって警官の行方を追い、57年に東京で隠れ家を突きとめて独占会見を成功させる。著者は班立ちあげの提案者であり、自身もその一員となった。

 

 ただこの快挙は、会見記事の中身で価値が半減する。警官が自ら名乗りでて爆破を否認したという内容。逃避行には当局の影が見えたが、「警察組織に匿われていたことにも触れていない」。上層部が手を入れたという。上司の一人が、「不法監禁」などを理由とする記者逮捕を恐れて警察幹部に相談、「落とし所」を見いだしたらしい。「記事の書き方で、そこまで事実から離れることを承諾したのは、どう考えても弱腰すぎる」と、著者は批判する。

 

 ともあれ、この報道で裁判の流れは変わり、二審で5被告に無罪判決が出た。自作自演の疑いが濃い事件だったのだ。当時は権力対民衆の構図がはっきりしていて、双方はあからさまに角突きあわせていた。こうしたなかでジャーナリストは、あくまで民衆側に立とうとした。そのために警察を向こうに回して、警官の身柄を自力で確保するという危ない橋も渡った。その大胆さは、記者活動に対するものさしの緩さに支えられた面もあっただろう。

 

 この本は、事件当時、世の中に暴力革命に対する警戒感があったことにも触れている。世論の視点は当初、それを取り締まる警察の側にあったが、その行き過ぎを記者たちがあばいたことで逆に振れたようだ。ここに、ジャーナリズムと世論の共鳴がある。著者は「世論を無視してジャーナリズムは成り立たない。世論に埋没してはジャーナリズムにならない」と総括する。ただ、この含蓄に満ちた教訓も、世論の担い手である民衆の存在が前提となる。

 

 今、民衆という概念は消え去ったかのように見える。生命倫理、プライバシーといった今日的な問題は個人個人の利害を錯綜させ、単一の世論ではなく多様な個論を生みだしている。その一方で、世論もどきの風評や袋叩きだけはある。ジャーナリストは、そんな言論の混迷を交通整理して、実りある論争を引きだすことが仕事なのかもしれない。民衆の先頭に立とうなどとは、ゆめゆめ考えないほうがよい。雑踏のなかにいれば、それでいい。

(執筆撮影・尾関章、通算331回)

 

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『枝分かれ――自然が創り出す美しいパターン3』

(フィリップ・ボール著、桃井緑美子訳、ハヤカワ文庫NF)

写真》木のかたち

 かたちから入る。この言葉には、あまり良いイメージがない。中身よりも先に格好だけを整える、という生活態度を指していうことが多いからだ。ピアノはある、ギターも買った、だけど楽譜は読めない、コード進行も知らない。そんな状況である。

 

 では、世界のとらえ方としてはどうか。そこまで考えを巡らせてみると、イメージは逆転気味になる。ギリシャ哲学の代名詞とも言えるプラトンの「イデア」、アリストテレスの「形相(けいそう=エイドス)」には、日本語にすれば「かたち」の意味合いがある。彼らに先立ってピタゴラスも幾何に入れ込んでいる。先哲たちは、中身にごまかされてはいけない、中身を除いてもなお残るものにこそ目を向けよ、と言っているように思える。

 

 ところが、近現代の科学は中身志向が強かった。モノにこだわり、それを小分けにして最小の単位を突きとめよう、と躍起になっていた。要素還元主義という。物理学には、分子から原子へ、原子核から陽子中性子へ、さらに究極の素粒子クォークへと向かう探索があった。生物学も、個体から細胞へ、染色体へ、そして遺伝子本体のDNAへと突き進んだ。1970年代から80年代にかけては素粒子と遺伝子が科学の主役だった。

 

 僕が科学記者になったのは1980年代半ば。要素還元主義が熟し切り、曲がり角にさしかかったころだ。物理学では、加速器実験による粒子発見ラッシュが一段落して素粒子探しの先行きに翳りが見えていた。そんななかで、小分けではない手法で世界を読み解く試みが散見されるようになった。なかでも僕の心をとらえたのが「形の科学」だ。この看板を掲げる一群の研究者に出会って話を聴くと、そのどれもが新鮮だった。

 

 例をひとつ挙げよう。樹木の枝分かれに目を向けた探究だ。大阪勤務の頃だったので関西の研究者に取材して、新聞の科学面に大きなイラスト付きで紹介した。前書きには、こうある。「勝手気ままに伸びたような樹木の姿にも秘密が隠されている。日差しを浴びやすい、釣り合いもいい、といった枝分かれの妙が鐘紡ガン研究所(大阪市)の本多久夫主任研究員らの研究から、浮かび上がってきた」(朝日新聞1985年11月12日夕刊)。

 

 ヒッグス粒子や重力波の発見のように派手ではない。それは、樹木という存在が素粒子の微小さとも宇宙の巨大さとも縁遠いからか。だが逆に日常生活の尺度に収まり、見慣れたものだからこそ、そこに見いだされる法則は僕たちの世界観に響いてくる。

 

 で、今週は『枝分かれ――自然が創り出す美しいパターン3』(フィリップ・ボール著、桃井緑美子訳、ハヤカワ文庫NF)。著者は、英科学誌ニュー・サイエンティストや米紙ニューヨーク・タイムズなどで活躍するフリーランスの科学ライター。この本は、2012年に早川書房から単行本が出て今年6月に文庫化された。副題にあるようにシリーズの第3部で、1は『かたち』、2は『流れ』。この3で完結するかたちになっている。

 

 1と2が未読なのに3だけをとりあげるのは邪道だと思う。だが今回は、あえてそうする。「かたち」「流れ」よりも狭い概念の「枝分かれ」に1冊をまるまる割りあてた著者の心意気に共感して、書店で思わず3のみを買い入れた。ページを開くと期待通りだったので、一気に読み進んだ。せっかくだから一刻も早く報告したい。そんな気持ちからだ。途中、前述した本多さんの名前も出てきて、活字を通しての再会にうれしくなったこともある。

 

 今回はかたちから入るという話なので、本の中身に踏み込む前にそのつくりから見ておこう。巻末の「参考文献」からもわかるように、著者は古今東西の文献を漁っている。知の森を一歩退いたところから眺める、という感じだ。テーマごとにこれはという研究をいくつか拾いあげ、重ね合わせていく。そこで見えてくるものに出会って、読み手は得をした気分になる。科学ジャーナリズムは、専門家の話を伝達するだけでは終わらないのである。

 

 テーマの選び方も縦横無尽だ。第1章で雪の結晶を語ったあと、第2章からは枝分かれパターンのあれこれを雑食ふうにとりあげていく。たとえば都市域の広がり、あるいは川の流れ。樹木の分岐を真正面から扱っているのは第5章だけだ。第6章では、枝同士がつながる網目模様に話を広げてネットワーク論も展開する。こうした本の組み立て方からは、かたちという共通語で分野横断の法則を探りあてよう、という野心が感じとれる。

 

 ここではもっとも文系色が強いものを選んで、それに焦点を絞ろう。街のかたちだ。著者は、米国の論客二人の先見性に触れるところから、この論題を説き起こす。1930年代、ルイス・マンフォードは大都市が成長する姿を「アメーバ」にたとえ、第二次大戦後にはジェイン・ジェイコブズが「都市はそれ自体の代謝作用と成長の形式をもつ生命体」と見抜いたという。その卓見を支える理論が80年代以降、理系領域に現れたのである。

 

 一つは、空気中の埃がくっついて塊をつくる様子を定式化した「拡散律速凝集(DLA)」というモデル。1980年代初め、トム・ウィッテン、レン・サンダーという二人の物理学者が考えだした。「表面にたまたまできた出っ張りは周囲よりも突出しているので、ランダムに拡散する粒子がぶつかる確率が高い」「出っ張りは大きくなればなるほど新しい粒子がぶつかってくっつく確率が高まる」。そこには「正のフィードバック」がある。

 

 もう一つは、「絶縁破壊モデル」(DBM)。絶縁体に電圧を加えたときの放電パターンを説明する。大気中の稲妻もその一つだ。1980年代、スイス・ブラウンボベリ研究所のグループが見いだした。この枝分かれでは「先端周辺の電場が分岐部分の電場よりも強い」ので、ここでも「正のフィードバック」が働く。DLAとの違いは、枝が外からの「付着」によって伸びるのではなく「中心から外へ押し進んでいって成長する」ところにある。

 

 地理学者のマイケル・バッティとポール・ロングリーは、この二つのモデルで近現代都市の発展を考察できるのではないかとにらんだ。彼らの共同研究で得られた結論は「DLAとDBMをもとにしたごく単純な概念が、工業化時代の初期に雨後(うご)の筍(たけのこ)のように出現した都市の形状をじつにうまく説明してくれる」というものだった。都市はときに埃の塊のように、ときに大空の稲妻のように広がっていくということか。

 

 ただ著者は、DLAやDBMの限界も書き添える。これらは「脱工業化」が進み、「新しい通信技術」も登場した「中央集中化の弱い都市風景」にはそぐわないというのだ。この本は、そんな時代に適した「相関パーコレーション」というモデルも紹介している。その考案者がボストン大学の物理学者たちだったという事実は見落とせない。物理の思考で都市発展の変容を理論化する。「かたちから入る」科学には、こうした学際の醍醐味がある。

 

 バッティらの研究に戻ると、そこにはフラクタルという言葉が出てくる。これは、幹の分岐が大枝の枝ぶりにそっくりで、それはまた小枝の枝ぶりに似ている、というような「スケール不変」の「自己相似」を言う。この模様のごちゃごちゃ具合は、フラクタル次元という尺度で数値化される。バッティらによれば1945年のベルリンは1.69、62年のロンドンが1.77、90年のピッツバーグが1.78、DLAモデルは1.71だという。

 

 フラクタルでは、線が入り組んで面に近づく。だからこそ1次元でもなく2次元でもなく、その間の値をとるのだ。それは、余白を埋めていく過程を表していると言ってもよいだろう。近郊農地が開発によって侵食されていく様子に似るのは、当然と言えば当然のことだ。

 

 著者は樹木の枝分かれについて、生態学者ブライアン・エンキストや物理学者ジェフリー・ウェストらの共同研究を引く。そこでわかったのは、「空間に行きわたりながら、空間を埋めつくすことがない」というフラクタルの賢さだ。そのかたちは植物体の隅々に水分や養分を分配するのに適していて、しかも隙間が成長の伸びしろになる。効率とゆとりのバランスが大事ということか。世の中のありようを考えるときも、この自然知を見習いたい。

(執筆撮影・尾関章、通算330回)              

 

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『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』

(瀬戸川宗太著、平凡社新書)

写真》薄くなった、中身はどうか

 7月は僕にとって回顧の月となった。少年期の記憶を彩る人々の訃報が相次いだからだ。ザ・ピーナッツの伊藤ユミさん、放送作家・作詞家の永六輔さんの死去公表に続いて、テレビの名司会者大橋巨泉さんが世を去った。ザ・ピーナッツの「シャボン玉ホリデー」、永さんの「夢であいましょう」に巨泉さんの「11PM」を並べてみると時代の流れが見えてくる。(当欄2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」参照)

 

 「11PM」はNTV系列が1965年、未開拓の深夜枠に新設したワイドショーだ。巨泉さんは翌66年から主軸の司会者を務めた。「シャボン玉…」(NTV系)と「夢で…」(NHK)はどちらも61年に始まっているから、出発時点の世相が違っている。人々は60年代初め、経済成長の登り坂を見あげて「夢」を「シャボン玉」のように膨らませたが、イレブンオープニングのシャバダバに馴染むころにはもう高台にたどり着いていた。

 

 1965年は巨人V9最初の年である。安定期の始まりだ。イレブンが「野球は巨人、司会は巨泉」と謳って繰りだすゴルフや海釣り、海外旅行などのレジャー一式は、もはや夢見るものではなく、手の届く贅沢になっていた。享楽主義の横溢は、高度成長の負の側面に気づきはじめた僕には抵抗があった。だが時折、沖縄問題のような硬派テーマをとりあげていたのもまた事実だ。遊んでも愚民にはならない。それが巨泉流の反骨精神だった。

 

 巨泉さんは2001〜02年、民主党の参議院議員を務めている。このとき僕が感じたのは、いよいよ巨泉流の時代が到来したということだ。彼は右派ではなかった。その一方で、旧来の左派とも肌が合わなかった。保守に対峙する勢力の看板が社会主義からリベラルに代わったのをみて、世間がようやく自分に追いついたと感じたのではなかったか。だが政界に飛び込んで、そこに買い被りがあったことに気づいたのだろうと思う。

 

 で、今週は『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』(瀬戸川宗太著、平凡社新書)。8・15を前に、戦争のみならず戦後も風化させてはならないと思うからだ。著者は1952年東京生まれの映画評論家。自身の記憶を「週刊お宝TV」(NHK)の情報などで補いながら、55〜70年のテレビ世界を再現する。僕も東京出身で生まれ年が1年早いだけなので、著者とほぼ同じ電波環境下にいたことになる。

 

 今回は副題の「11PM」に目がいって、この本をアマゾンで取り寄せた。ただ残念なことに、それを真正面からとりあげているのは2ページにとどまる。そのせいか、お目当ての話が出てこない。世間からはほとんど忘れられているが、僕の脳にはしっかり刻印されている初期イレブンのことだ。「あれ、こっそり観ていたよね」と体験共有の確認をしたかったのだが……。思春期の中学生男子にとっては忘れがたい、なんともヘンな番組だった。

 

 脳裏に残るイメージをつなぐと、こんなふうになる。広いスタジオの真ん中にぽつんと机と椅子が置かれていて、仏頂面の中年男性が腰かけている。スーツ姿、いやブラックタイのような黒服を着用していたかもしれない。水商売っぽいのか堅気なのか、あいまいな佇まいだ。その人がニュース解説風の話をするのだが、毎回決まって息抜きの時間がある。網タイツのように露出度の高いコスチュームの女性が出てきて、ひとしきりダンスを踊る――。

 

 報道とセクシーショー。シュールな接合だ。もしかして僕の妄想かと思ってウィキペディア「11PM」の項を開くと、謎を氷解させてくれる記述に出会った。当初、この番組は報道局がつくっていたが、その体制は半年ほどしか続かなかったという。硬い頭が軟派を気取ったせいか、ちぐはぐで不評だったのだ。この半年限りの禁断の果実に僕は触れたが、著者はその機会を逸したらしい。ということで、イレブン抜きで話を進めよう。

 

 とっかかりは、NHKドラマ「事件記者」(1958〜)。競争関係にある記者仲間が飲み屋で歓談しながら化かしあう場面が見どころだった。著者は「こんな気楽な仕事ならぜひ新聞記者になりたいと思っていた」と打ち明ける。僕は「なりたい」と思わなかったのになってしまった口だが、大のおとながじゃれ合いながら心理戦を繰り広げる様子は子ども心にも楽しかった。(当欄2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」参照)

 

 この番組は、かなりの部分が生放送だった。著者は、そのスタジオ風景を「週刊お宝TV」で紹介された関係者の証言をもとに蘇らせている。記者クラブや飲み屋、犯人の隠れ家などのセットが並び、ドラマの進行とともに演技の場が移っていく。「三台のTVカメラは、お互いのコードが重なり合わないように、正確に移動していかなければならない。一つでも順番を間違えればコードが絡み合い、TVカメラが移動できなくなってしまう」

 

 脚本が「三分ほどオーバー」の状態で本番に入り、臨機応変に台詞を端折りながら時間枠に収めたという。「結局、この追い立てるような演出方法が『事件記者』の軽快なテンポを生み出していたといえよう」と著者は書く。あのキビキビ感の秘密はそこにあったのだ。

 

 著者は1960年代初めの火曜夜に注目する。NHKは「ジェスチャー」(1953〜)や「お笑い三人組」(1956〜)を置いて、そこに「事件記者」を加え、人気番組を集中させた。相乗効果もあって「視聴率を独占する形となった」という。裏番組のファンもいたはずだから「視聴率を独占」は言い過ぎだろうが、そんな勢いはあった。驚くのは僕の記憶のなかで、これらの番組名と火曜日の「火」の字が分かちがたく結びついていることだ。

 

 一つの局が一つの時間帯で人気番組を串刺しにする。この現象に気づいたのは、さすがテレビ通だ。同様の例として挙げられているのは、1962年ごろの日曜夜6〜7時台。当時のTBS系列は、ここに「てなもんや三度笠」と「隠密剣士」という二強を配置した。どちらも、月曜の学校で子どもたちが話題にするような番組だ。この本には出てこないが、「隠密…」に続いて米国アニメ「ポパイ」が流れていたことも僕は覚えている。

 

 ホームドラマをめぐっては、著者と僕の意見が異なる。著者によれば、和製草分けの「ママちょっと来て」(NTV系、1959〜)は米国ドラマを「日本人向けに焼き直したもの」に過ぎず、むしろ「咲子さんちょっと」(TBS系、1961〜)に「地に足が着いた」感があったという。「舅、姑と嫁の日常生活」の淡々とした描写に惹かれたらしい。だが、僕は「ママ…」をとる。その核家族像が自分の境遇の一歩先をゆくようで羨ましかった。

 

 「ママ…」も「咲子さん…」も独りで楽しむ番組ではない。僕は家族とともに観ていた。著者も同様だっただろう。1960年前後、テレビという箱の中には善き人々の家庭があり、それを見つめる実在の家庭の入れ子になっていた。だが、そんな光景は長く続かない。60年代後半になると若者の反抗ムードが高まり、もはや「のんきに娯楽番組ばかりに夢中になっているわけにはいかなかった」。著者も僕も、茶の間離れしつつあったのだ。

 

 そういう時代に心をとらえた例外として著者が筆頭に挙げるのは、「巨泉×前武ゲバゲバ90分」(NTV系、1969〜)。毒気のあるコントが満載で僕も虜になった。さらに「反体制」を感じさせる番組として「お荷物小荷物」(TBS系、1970〜)という連続ドラマのことが書かれている。「テレビカメラがいきなりセットの裏を見せてしまう」ような常識外の演出で「左翼学生や青年層に支持されていた」というが、僕には思いだせない。

 

 最後に、著者のテレビ愛の深さを感じさせる話。「番頭はんと丁稚どん」(NET系、1959〜)では、芦屋雁之助が「いやらしい流し目」で大村崑を「崑松、チョッと来い」と呼ぶシーンが見せ場だったとして、それがない録画ダイジェスト版を観させられたときの落胆を語っている。テレビ好きにとって思い入れがあるのは、たいてい番組の細部だ。だが「当時のVTRがほとんど残っていない現状」では、それらが無情に忘れ去られていく。

 

 本には図書館があるが、台頭期のテレビにはない。開拓者が去りつつある今、著者も文中で訴えているように、僕たちが記憶を寄せあわせて記録にとどめなければなるまい。

(執筆撮影・尾関章、通算329回)

 

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『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)

写真》ムシゴ・ナクヨ……

 物騒な出来事が頻発している。事件事故の報道で新聞記者泣かせなのは、情報が刻々と塗りかえられていくことだ。たとえば、犠牲者の人数。事象の大きさや深刻さの度合いを測る尺度となるので、なにがなんでも記事に盛り込みたい。ところが、それはなかなか確定しない。だから記者は、第1報を出稿してからもアップデートの手直しを繰り返す。だが最後には、待ったなしの締め切りがくる。紙面に出るのは、その時点で切りとった状況把握だ。

 

 不確定がだらだらと続くのは、事件事故では、時を追って明らかになることが少なくないからだ。搬送先での死亡確認がある。新たな遺体の発見もある。だから犠牲者数は、ふつうはふえる方向で変わる。朝刊で死者10人だったのが夕刊で15人になる、という推移は不自然ではない。ところが、ごくたまに逆の流れをたどることがある。朝刊で死者15人と報じていたのに夕刊では人数が減って10人と伝え直す、というような事例だ。

 

 死者が減るというのは、悪くない話だ。だが、新聞は「誤報」のそしりを受けかねない。たとえ報道機関に落ち度はなかったにしても、救急や捜査にあたる公的機関がどこかで数え方を間違った可能性がある。大事件や大事故の発生直後は人命の救助が最優先となるので、ほかのことで多少の混乱が起こるのは避けられないとも言える。最近の新聞は既報の犠牲者数を減る方向でアップデートするとき、こうした事情を正直に明かす傾向にある。

 

 データの更新をどうするか。この悩みは新聞だけのものではない。物事の拠りどころとして知の王座に君臨している教科書も同様だ。いや教科書のほうが、苦悩はいっそう深いのかもしれない。新聞の情報は半日刻みで打ちだされるので、揺れ動くことは織り込み済みだ。ところが、教科書の知識は固定感がある。改訂はあっても、そんなにしばしばではない。その結果、学界で否定された知見を真に受けたまま生涯を終わる人も出てくる。

 

 ところが、僕たちは教科書信仰からなかなか抜けだせない。たとえば、老若二人がビール片手に化学談義をしていたとする。若者が「塩化物イオン」という言葉を口にしたとたん、年寄りは「何、それ?」と聞く。若者が「シー・エル・マイナス」と答えると、「なんだ、塩素イオンのことか」と年寄り。「いや、学校で塩化物イオンと習いましたよ」「そんなことあるものか。塩素イオンと教わった。なんなら教科書をもってきてもいい」

 

 ここでは、若者も年寄りも教科書がすべてなのだ。「シー・エル・マイナス」をどう呼ぶかは、所詮は決めごとにすぎない。ただそれが教科書に載ったとたん、読み手となった年齢層にとっては絶対の知識となる。大脳皮質にしっかり焼き付けられてしまうのだ。

 

 で、今週は『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)。東京書籍の中学校教科書『新訂 新しい社会【歴史的分野】』(1972年刊)と『新編 新しい社会【歴史】』(2006年刊)を比べている。この本では前者に「昭和」、後者に「平成」の呼び名が与えられる。「昭和」の中身は、僕が1960年代に中学校で習ったこととほぼ一致する。「平成」に照らすと、今から見れば不正確な知識に自分が曝されていたことがよくわかる。

 

 日本史を中心に人類史や世界史も交えながら、古代から近代までの出来事をたどる構成。奥付著者欄に名前のある歴史学者が、一線の若手研究者による草稿をもとにまとめあげたという。2008年に単行本(東京書籍刊)が出て、11年に文庫化された。

 

 まず気づくのは、教科書掲載の肖像類の不確かさ。たとえば「昭和」で「【源頼朝画像】 藤原隆信(たかのぶ)筆と伝えられる」とされていたものが、「平成」では「源頼朝と伝えられる肖像画」に改められた。描き手のみならず、描かれた人も「伝えられる」の扱いを受けたのだ。この絵をめぐっては1990年代半ばに新説が出て論争が盛んになったという。そんなこともままあるだろう。この本には信頼度が薄れた画像の例がほかにも出てくる。

 

 ちょっとあきれる事柄もある。江戸時代の「士農工商」だ。「昭和」では「武士が最上位にあり、ついで百姓、その下に商人・職人がいたと説明していた」。この本が言及しているように、僕たちは授業で、農民を2番目に置いたのは年貢の重圧感をそらす懐柔策だった、という話を聞いた覚えもある。ところが「平成」からは、この用語がそっくり消滅したという。今の解釈では、当時「農工商」は横並びに遇されていたというのである。

 

 それで思いだされるのは、僕の小学校時代。休み時間は校庭で「士農工商」という遊びに夢中になっていた。ズックの爪先を地面に引きずって「田」の字を書く。4個のマスには序列があり、そこに1人ずつ入って、ボールをテニス風に打ちあう。商から始まり、勝てば工→農→士と昇格していく、というものだ。階級社会の是認が見え隠れする戦後民主主義の子らしからぬゲーム。その根っこにある近世観が空論に過ぎなかったとは。

 

 この本によると、江戸時代に「『百姓』と『町人』の区分は曖昧(あいまい)」で「出稼ぎによる村から町への人口流入も日常的におきていた」。それは、鎖国下で内なる近代が芽生えていたことを物語る。これが、日本近世の実態のようだ。「士農工商」の序列付き概念は「江戸時代後期、儒学者のイデオロギー的言説から派生したもの」で、明治時代になって教科書が世に広めたという。近代からの逆照射が近世像を歪めたのだとも言えよう。

 

 ただ教科書の新旧比べでは、旧の「昭和」を応援したくなる違いもある。「鎌倉幕府――『イイクニつくろう』と覚えたが……」の項をみてみよう。「昭和」では「頼朝は、1192年、朝廷から征夷(せいい)大将軍に任じられたので、その政府を鎌倉幕府とよび……」とある。ところが「平成」は、頼朝が征夷大将軍に就いた年については「昭和」の見解を踏襲しているものの、「1192年以前に幕府が成立したと読める記述になっている」。

 

 種明かしは簡単だ。この本によれば、そもそも鎌倉幕府の開府宣言などはなかったのだという。その結果、頼朝が武家政治体制を整えていく道筋のどこを幕府の始まりとみるかで、諸説が並び立つことになった。だとすれば、いつでもいいではないか。将軍就任で区切るのは朝廷からの権利付与に重きを置きすぎているとの批判はわからないでもないが、頼朝がそういうお墨付きを求めたのは事実だ。「イイクニ」には捨てがたい響きがある。

 

 読了して僕が思うのは、歴史は変わってもよいということだ。こんなことを口走ると、史実やその解釈を都合よく書き換える修正主義者と勘違いされるかもしれないが、それとはまったく違う。むしろ、事実に謙虚であれと言いたいのだ。この本の古代の章を読むと、歴史探究が今、自然科学と不可分になったことがわかる。理系知が遠い祖先の営みを明るみに出して、古い教科書を塗りかえていく。そんな動的な歴史学が僕たちの前にある。

 

 一例は、人類の出現がいつかだ。「昭和」は「まだよくはわかっていない」と逃げていたが、「平成」には「最も古い人類である猿人は、今から約400万年ほど前に、アフリカにあらわれました」とある。これは、1970年代に見つかった化石を根拠にしている。草原を二足歩行する猿人だ。ところが90年代から2000年代にかけて、森林暮らしの猿人のもっと古い化石が続々発見された。こちらは「平成」の記述も追いついていない。

 

 日本列島で稲作がいつ始まったか、も揺れ動いている。通説では紀元前400年代ぐらいと言われてきたが、「『AMS』とよばれる新しい炭素14年代測定法」で見直すと「前900〜前750年代とする結果となった」。国立歴史民俗博物館チームが、土器の付着物を調べて2003年に発表した成果だ。稲作は、弥生時代を特徴づける生業である。研究が進めば「弥生時代自体の年代がくりあがることもあり得る」と、この本は見通している。

 

 過去は一つに定まっている、と僕たちは思いがちだ。天の目で見ればその通りかもしれないが、人の限られた能力がそれを見極めているとは到底言えない。60年余を生きてみると、そのことが実感できる。自分自身の過去でさえ、ああだったかもしれないし、こうだったかもしれないということだらけだ。だから、教科書に書き込まれたことがいつも正しいわけではない。そのことを教えるのもまた、歴史教育ではないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算328回)

 

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『ジャックはここで飲んでいる』(片岡義男著、文藝春秋社)

写真》バーボン

 この欄を続けていて楽しいことの一つに、「人気記事ランキング」の上がり下がりがある。スマートフォン版に限られるようだが、トップページを繰っていくと最後のほうで当欄拙稿1位から10位までの表題を見ることができる。それぞれの閲覧数は表示されず、僕にも知らされていない。ただ閲覧総数は筆者に開示されているので、それから察するに「人気」というほど多くはなさそうだ。興味深いのは、順位が日々動くことである。

 

 順位付けは、どんなしくみなのか。勧進元のGMOペパボに尋ねると、「過去3カ月分のアクセス数」をもとにしているとのことだった。トップページを開いただけではダメで、その回のページに入った時点で数えるという。ランキングを見ていて僕がうれしいのは、半年以上も前の拙稿がたまに顔をのぞかせることだ。「過去3カ月」の実績だから、公表直後のアクセスは勘定外。古い回を掘り起こしてくれる人が少なからずいることになる。

 

 最近では「片岡義男的な空気が吸いたい」。2014年4月、当欄が今の看板を掲げて再出発したときの最初の回である。それがこの7月、上位の常連となり、トップの座を占めたこともある。なぜ、こんな珍事が起こったのか。きっとあれだ、と思い浮かんだのが6月、朝日新聞読書面に載った片岡本の書評である。評者は、作家の大竹昭子さん。片岡義男論としてとても秀逸で、読んで「空気が吸いたい」と思った人もいたに違いない。

 

 大竹書評は、近刊の短編集2冊をとりあげている。合わせて15編のうちの1編で登場人物がこう言った、とある。「人生は、じつは自分の外にある」。いい言葉だ。それを大竹さんは「人生とは『関係の作りかたとその維持のしかた』にほかならず、自分を外から観察しようとする意志と行動によってのみ、新たな局面が訪れる」と読み解く(朝日新聞2016年6月26日朝刊)。ここに、「片岡義男的」の核心が要約されている。

 

 僕が片岡義男の小説を初めて読んだのは1970年代半ば、彼が『野性時代』という新感覚の文芸誌で活躍していたころだ。それまで僕の嗜好は、文学であれ音楽であれ、すべて内向きだった。思考と認識のありようだけで自分の世界が変わると本気で考えていたのだ。まさに、人生は自分の内にある派。そこに風穴を開けてくれたのが片岡義男的な空気だ。「僕」の実体は外気に触れることで成り立っているのかもしれない。そう思えるようになった。

 

 で今週の一冊は、至言「人生は、じつは自分の外にある」に出会える『ジャックはここで飲んでいる』(片岡義男著、文藝春秋社)。著者は、大竹書評のもう一冊『と、彼女は言った』(講談社)を今年4月に出し、息つく暇なく5月にこちらも世に問うた。

 

 収められた8編には、ありふれた町で淡々とした日々を過ごしている男や女が登場する。そこに大それたドラマがあるわけではない。ただそれを、平凡な日常を描いていると言い切ったら言い過ぎだ。心のときめきがあり、危ういと思わせる瞬間もある。一線を踏み越えることも排除していない。だが、読ませどころはあくまでもその一歩手前だ。時空間で粒子が二つ、ときには三つ以上、引きあい斥けあうというようなおもしろさ。

 

 ただのリアリズムではない。冒頭の「アイスクリーム・ソーダ」では、小説家の男43歳が駅ナカのカフェにいるとき、同年輩の女に気をとられる。後ろ姿がいい。「考えごとを続けながらも、彼は彼女の動きを見た」。店を出ると、その女が声を掛けてくる。近刊を読んだという。有名作家にはこんなこともあるのか。だが、初対面の男女がこのあとクリームソーダの材料を買い、そのまま女の部屋へ吸い込まれるという展開には嘘っぽさがある。

 

 部屋で二人はそれなりに盛りあがるが、「危うい」にはあと一歩。男が「現実にあるようなストーリー」の執筆を急かされていることを告げると、女は「私たちの、今日のここまでは?」と提案する。カフェから部屋までの出来事のあれこれだ。「妙にドラマを作らないで。ずっとそうだったでしょう。だから私は、書店で買って読むのよ」。現実味はないが「現実にあるような」感じ。片岡義男流の極意をさりげなく登場人物の女に語らせている。

 

 続く「ごく普通の恋愛小説」も ありそうにないがあるかもしれない話。主人公は、東京・世田谷の一戸建てに独りで住む男性翻訳家37歳。かつて地元の美容院で母の髪を切ってくれていた女性美容師34歳と、ある日再会する。十余年ぶりに隣県から近所に戻ってくるという。二階を貸そうかと申し出ると、彼女も乗ってきてとんとん拍子で話がまとまる。男女二人、同じ玄関のシェアだ。互いに好感を抱いているにしても大胆ではないか。

 

 この作品は表題通りにだんだんとラブストーリーっぽくなるのだが、やはり別のところで読み手の心をとらえる。少なくとも、僕はそうだった。それは、町をそっくり時間軸に置いてとらえる感性だ。美容師はこれから借りようという二階の窓辺で言う。「以前、私が住んでいたアパートは、あのあたりでした」「アパートの二階の部屋から、おなじ景色が見えていました」。そこには今も銭湯の煙突が立っている。「懐かしい。毎日いきました」

 

 後段でも、二人は同じ窓の景色を眺める。ミニ開発が進んで、アパートはすでにない。それなのに「その部屋がここへ移動したような錯覚」に襲われる、と彼女は打ち明ける。窓が時間を止め、昔を再現してくれているように思える、というのだ。「過去は現在へと延長されています」「あの過去は最高に良かったの」。この物語には男女二人のつながりがあるだけではない。それぞれの過去と現在も愛おしさをともなって接続されていくのである。

 

 表題作は、「ジャック」の愛称で呼ばれる男が主人公。お気に入りのバーボンの銘柄に由来する。遠い町のバーで二度飲んで三度めに訪ねたとき、そこに店はない。「更地だけが横たわる景色を、彼はしばらく眺めた」。この茫然自失は、前述の美容師の思いと響きあう。作品の筋には、濃密だが希薄、希薄に見えて実は濃密な人のつながりが隠されているのだが、そんな切ない関係も人が時間軸のなかで地層を積み重ねているからこそ生まれてくる。

 

 「人生は自分の外」のひと言が出てくるのは「ゆくゆくは幸せに暮らす」という作品。男優とその共演女優、男優と大学で同期だった写真家の3人が、同じ大学出身の年長の作家と夕食の卓を囲む。その場面に先だって、読者には写真家の不安定な家庭事情が明かされている。別居中の妻子がいて、子どもが大きくなるまで「とにかくいっしょに住もう」ともちかけているという。「夫婦ではなくてもいい、俺は同居人になる」と申し出たのだ。

 

 そもそも会食は3人の側に、作家にドラマを書いてほしいという思惑があって企画されたのだが、逆に先制パンチを食らう。「面白いねえ」。作家はそう言って、同席者を肴に「関係の物語」を紡ぎはじめる。「たとえば」と切りだしたのは、男優女優の二人が写真家の幼い息子の養父母になるという筋書きだ。その結果、写真家夫妻は「ひとりひとりへと解体される」。ところが、いつのまにか「妻は俳優と出来て、写真家は女優と出来る」……。

 

 男優は荒唐無稽な発想にあきれるが、作家は「要するに人生とは、関係の作りかたとその維持のしかた」と断ずる。だから「自分の外」なのだ。人と人の関係は不変ではないので、いくつもの可能世界が展開しうる。その洞察に同席者は霧が晴れるような気分を味わう。

 

 この短編集を読み終えてつくづく思うのは、その作品世界にべったり感がないことだ。登場人物は、たとえ愛を交わす間柄になっても一定の距離感を保っている。そんなつながり方は著者のような70代、僕のような60代の年齢層には、すんなりと受け入れられる。僕たちは年々、周りの人々との別れを繰り返していく。だが肉体が消滅し、離ればなれになったとしても、自分と他者の関係はいつまでも残る。それこそが僕たちの実体なのだ。

 

 それにしてもすごいのは、著者の心はそんな達観に届いているのに、綴られる文章には年寄り臭さが微塵もないことだ。嘘だと思ったら、最後の一編「なんのために生きるの」の前半部を一読してほしい。ガラス張りのコーヒーショップで男が女に自分の友との結婚を勧めるが、女はそれを巧妙にかわしていく。そこにあるのは、一切のべたつきを排した切れ味のよい会話だ。この軽快感だけは老いても身につけていたい。つくづくそう思う。

(執筆撮影・尾関章、通算327回)

 

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『京都ぎらい』(井上章一著、朝日新書)

写真》コンチキチンの夏

 恋というものの半分強は片思いだろう。自らの過去60年を振り返っても、たいていはそうだった。今もくすぶっているのが、京都への恋である。京都という町が好きで、なんどとなく言い寄ったが、先方はいたってすげない態度をとりつづけている。そんな感じだ。

 

 東京育ちなので、最初の出会いは少年期の家族旅行だった。詩仙堂、龍安寺、西芳寺……ワビサビの精神世界を背伸びしてのぞき見た。中学校の修学旅行では定番の名刹を巡り、新京極を歩いている。学生時代、そこには全国銘柄のジャズ喫茶が何軒かあった。忘れがたいのは、河原町荒神口の「しあんくれーる」。市電が通っていたころだ。旅行者の僕も電停前の店に入り、〈思案に暮れる〉風情で4ビートのリズムに体を揺らしたのだった。

 

 新聞記者になって、つきあいはいっそう深まった。二つめの任地が京都だったからだ。事件事故を取材しながら町の話題を拾うのが役目だったので、市街も郊外も回った。出会った人々の顔や街角の光景が、スナップショットのように今も脳裏に残る。記者生活最後の関西勤務では、単身の寓居を京都に選んだ。科学記者なので有力大学に自転車でも駆けつけられる場所に住みたいと考えたからだが、積年の片思いが背中を押したのも確かだ。

 

 これほどまでに僕の半生と濃密にかかわってきたのに、京都はどこかよそよそしい。どこがどう、というわけではない。だれかに言われたひと言で、それを感じとったわけでもない。あえて言えば、あの町に立ったときの空気感だ。その例を一つ挙げよう。

 

 駅のエスカレーターは、乗ったら止まっているのが原則だ。当局も鉄道会社も、その徹底を呼びかけている。だが現実には、歩いてのぼったり駆けておりたりする人が後を絶たない。そこで、止まったままの人は左右どちらかに体を寄せることになる。首都圏では左、関西では右がふつうだ。だが、京都はちょっと違う。大阪と結ばれた私鉄各線では右が多いようだが、京都圏で閉じた系をなす京都市営地下鉄では左が主流、というのが僕の印象だ。

 

 表向きは、どっちに寄れと指示できる話ではないので、左右は自然発生的に選ばれているのだろう。その偏りは、人々の潜在意識を素直に反映しているとみてよい。ただ京都人の左立ちを見て、東京人にすり寄っていると早合点してはダメだ。推察するに、そこには別のメッセージがある。自分たちはふつうの関西人じゃない、と宣言しているように僕には思える。敵の敵は味方という構図になってはいても、そこに東京志向があるわけではない。

 

 意地悪な解釈が過ぎたかもしれない。だが、この見方と響きあう本が京都人の手で書かれた。否、本人が自分は京都人ではないと言い張っているので、京都郊外の人の手で、とすべきだろう。『京都ぎらい』(井上章一著、朝日新書)。著者は1955年、京都市右京区生まれ。京大出身の建築史、意匠論の専門家で、広く文化を論じてきた。まえがきで「人とちがうことを書きたがりすぎる」と自認するように、その言説はひねりが効いている。

 

 京都人じゃない、の意味は洛中の人ではないということだ。洛中の厳密な定義は措くが、それは京都中心部の碁盤目状の市街地とみて大きな誤りはないだろう。著者は、京都西郊の右京区嵯峨で育ち、長じてからは南郊の宇治市に住む。洛外の人というわけだ。

 

 まず披歴されるのは、建築の学生だったころに実地調査で洛中の旧家を訪ねたときの体験。当主は著者の京風の話し言葉に気づいたらしく、「君、どこの子や」と聞いてきた。嵯峨の実家の在り処を言うと「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや」。この回想は、「きてくれた」とあるように感謝の表現を装ってはいる。だが、「揶揄(やゆ)的なふくみのあることは、いやおうなく聞きとれた」という。

 

 実はこのくだりで、僕はちょっと退いた。当主にしてみれば、水洗トイレ以前の長閑な時代を懐かしむひと言だったのかもしれない。そこに「揶揄」を感じとるのは、婉曲話法に慣れた京都人の過敏反応ではないか、と思ったのだ。「ぶぶ漬けでもどうどす?」で退けどきを察するという類の話だ。洛中の感性は洛外にも染みだしているのだろう。著者自身、文中で「洛中の京都人とはりあったために、彼らと似てきたところもある」と認めている。

 

 ここで言い添えておくべきは、著者が洛中人の洛外人に対する揶揄を人権問題としての「差別」と比べて、その違いに論及していることだ。「差別」は絶対に許されない、という認識は広まった。だがそれでも、人間には「自分が優位にたち、劣位の誰かを見下そうとする情熱」があるので、「比較的さしさわりがなさそうだと目された項目に関しては、歯止めがかけられない」。洛中洛外の関係が、そこにすぽっと嵌ったというのである。

 

 僕が京都地下鉄のエスカレーターで目撃した「自分たちはふつうの関西人じゃない」というたたずまいも、そんなさしさわりのない優越感の表れか。京都人は微小な差異を嗅ぎ分け、そこに意味を見いだすことに長けているのだ。科学用語で言えば、社会のエントロピーが小さい。東京では、ありとあらゆる内外の文化がごちゃごちゃにかき混ぜられ、そのごちゃ混ぜが受け入れられているが、ここにはわずかな違いも見落とさない人たちがいる。

 

 では、どうしてこんな小エントロピー社会が実現したのだろう。その答えを導くヒントが、この本にはちりばめられている。ひとつ気づくのは、思考の時間軸が途方もなく長いことだ。なにごとであれ歴史がかかわってくる。洛中洛外ばなしも、その文脈で考察される。

 

 著者は若かったころ、洛外が田舎扱いされることに反発してこう思ったという。「歴史を盾にとるんやったら、嵯峨かて負けてへん。京都人ばっかりに、いばらせたりはせえへんぞ……」。自宅から10分ほどのところに大覚寺があった。その寺は、鎌倉時代に天皇家が二派に分かれたときの片方の拠点だった。この大覚寺統は、もう一方の持明院統と溝を深め、南北朝の南朝を生みだす。著者は、その史実に触れるうちに「南朝びいき」となった。

 

 ここで著者は、洛中を南北に貫く室町通に目を転じる。この通り沿いに、室町幕府3代将軍足利義満が邸を構えた。近くには持明院もある。まさに「足利=北朝体制の中心軸」。そこはやがて商いで栄え、呉服問屋が並ぶようになる。最近はビジネス街の主役を目抜きの烏丸通に譲ったが、それまでは「京都経済をひきいる牽引車」だった。「洛中人士の京都自慢も、この通りあたりを中心とした界隈が、その磁場になっている」というのだ。

 

 この季節、京都を訪れて宵々山、宵山、山鉾巡行とつづく祇園祭の賑わいを体感してみれば、室町の「磁場」がどれほど強かったかを思い知らされるだろう。

 

 南北朝の対立をめぐっては、嵯峨の天龍寺も話題にのぼる。足利尊氏が南朝の後醍醐天皇を弔うために建立したとされる臨済宗の寺だ。著者は、開山の背景に尊氏や禅僧の思惑があった可能性にも触れつつ、政敵鎮魂のためという通説を切り捨てず、それを前向きに受けとめる。視野を身近なところに引き寄せて「自分のしあわせは、不幸な人々を踏み台にしてなりたつと考え、自らをさいなむ」という現代人の心情に通じる、というのである。

 

 興味深いのは、著者が自身の「南朝びいき」を明治政府の南朝正統論と峻別していることだ。招魂社や靖国神社で慰霊しようとしたのはあくまで「味方」であり、そこでは「敵の霊こそが、手あつくまつられるべきだ」という思想が消えている、という。靖国神社に「新しい近代の影」をみて、「靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない」と吐露する。「人とちがうこと」の書き手らしい皮肉である。

 

 あとがきの表題は「七は『ひち』である」。東京の出版人が「七」で始まる用語を索引のサ行欄に入れたことが俎上に載せられる。そう言えば京都の記者時代、年かさの警察官は七条署を「ひっちょうしょ」と呼んでいた。それは、江戸っ子だった僕の祖父が日比谷を「しびや」と言って憚らなかったことの裏返しだ。差異の文化を大事にする。そんな京都人の美点は京都ぎらいの著者にも見てとれる。この本では、花街「上七軒」のルビが必見。

(執筆撮影・尾関章、通算326回)

 

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