『津軽』(太宰治著、岩波文庫)

写真》スプーン、ひらり

 6月の声を聞くと、太宰治が読みたくなる。桜桃忌のせいだ。太宰は終戦からまもない1948年初夏、愛人を伴って東京西郊の玉川上水に入水する。遺体発見の6月19日が忌日となり、晩年の作品名からこう呼ばれる。その日、東京・三鷹の禅林寺にはファンの少年少女が墓参に集まる。少なくとも昔はそうだった――その情景をニュースで見て「来年こそ、僕も行こう」と思ったものだ。とうとう、それを果たさず今に至るのだが。

 

 ぐずついた梅雨空の下、文学好きの若者が墓所に群がる。決して快活な話ではない。だが不思議なことに、桜桃忌のテレビ映像には透明感があった。それは、太宰の作風にも起因するだろう。三鷹近辺に多い落葉樹の葉を雨滴が震わすような軽やかさだ。

 

 たとえば、代表作の『斜陽』をちらりとのぞいてみよう。この中編は、華族が戦後、没落の憂き目に遭う話だ。主人公の「私」は、その令嬢。冒頭では、彼女の母が朝食のスープを口に入れて「あ」と声をあげる。「髪の毛?」と尋ねると、「いいえ」と答える。

 

 ここから先の描写をそっくり引用してみよう。「お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた」。文章が句点で切れず、読点でつながることで「お母さま」の身のこなしが流れるように優美であることを読み手に感じとらせる。

 

 とくに、「ひらりと一さじ」が繰り返されるところが秀逸だ。一瞬「あ」と感じたことすらどこ吹く風の「ひらり」。家族の気づかいなど意に介さないかのような「ひらり」。スプーンが皿から口もとへ運ばれるまでの数十センチの動線に、上流社会を生きてきた女性の感性が映されている。その軽快感は、敗戦という重圧を受けても失われていない。この作品の筋書きは苦難に満ちているが、冒頭の人物描写は透明感があって軽やかだ。

 

 太宰治は、青森県津軽地方の出身。東北人というと重厚なイメージがある。ところが、太宰は「お母さまは…」の一文のように流麗な言葉づかいにも長けている。地元の平均像と異なる一面があるのは、県内指折りの大地主、津島家のお坊ちゃまだったからかもしれない。実家は戦後の農地解放まで地方の支配層だったのだ。それが『斜陽』を生んだと言ってもよい。作家太宰のなかで、東北人の重さとお坊ちゃまの軽さはどう配合されていたのか。

 

 で、今週は『津軽』(太宰治著、岩波文庫)。著者(1909〜1948)が30代半ばに故郷の津軽地方をぐるりと回った体験を描いたものだ。巻末にある同郷の作家長部日出雄の解説によると、「新風土記叢書」(小山書店)の1冊として書かれたという。その経緯からみても「紀行文」として読むのが自然だが、長部はこう釘を刺す。「ぼくはどの場面もすみずみまで、高度の構想力と想像力を働かせて細心に描かれた創作と考える」

 

 この作品のどこが実話で、どこが虚構か、それを見分けるのは難しい。ただ脚色があるにしても、そこから二つの現実が見えてくる。一つは、著者と郷里とのつかず離れずの関係だ。もう一つは、それがもたらす客観視によって活写された津軽の風土である。

 

 しかも、ここで心にとめおくべきは、約3週間の旅に向けて東京を発ったのが1944年の5月中旬であることだ。米軍機による本土空襲が本格化する前ではあったが、その心配が募りはじめていたころと思われる。そんなご時世になにをのんきな、という気もするが、作中の「私」は――ということは、たぶん著者は――ふつうに旅をしてふつうに旧交を温めた。交流する人々の言動からもそれほどの緊迫感は漂ってこない。これには驚かされた。

 

 序編を読んでまず、おやっと思う。「私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽において育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村については少しも知るところがなかった」(ルビは省く、以下も)とあるからだ。人は近隣には目が向かないものだが、それにしてもずいぶん突き放した書きぶりではないか。それゆえ、この旅は「私」にとって「かなり重要な事件の一つ」になったという。

 

 「私」は金木に生まれ、青森の旧制中学をめざす。そのころのしゃれっ気を、著者は「私」自身の小説『おしゃれ童子』(太宰著、1939年)を引いて素描する。「マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽織って、そうしてそれを小粋な業だと信じていました」。あくまで小説の話なので「お道化の虚構」に彩られているが、著者本人も大差なかったのだろう。そうなら、気障を絵に描いたような少年だ。

 

 その中学では「入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった」。これも、「私」の小説(太宰著『思い出』、1933年)からの引用だ。気障がたたったのだろう。「私」即ち著者が郷里にあっては浮いた存在だった様子がうかがわれる。

 

 だが、それでも「私」には郷里への思い入れがある。それを感じさせるのが、津軽半島東岸の蟹田という町の旧友宅で宴席が催されたときのことだ。「私はその夜、文学の事は一言も語らなかった。東京の言葉さえ使わなかった」。ここで出てくるのが「オズカス」という地元言葉。三男坊、四男坊を指して言う。「こんどの旅によって、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようという企画も、私にないわけではなかった」と吐露する。

 

 蟹田では、友人らと町はずれの小山に登って花見も楽しむ。旅館で昼食をごちそうになり、さらに病院事務長宅に招かれる。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ」「リンゴ酒を持って来い」「その縁側にかけてある干鱈をむしって、待て、それは金槌でたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ」「僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合いに、こんな工合いに、あ、痛え」。事務長のはしゃぎぶりは半端ではない。

 

 著者は、それを「疾風怒濤の如き接待」と形容する。「津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない」「この愛情の過度の露出のゆえに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か」

 

 僕が感嘆するのは、この気風が戦中にも生き延びていたことだ。これは、「創作」ではなさそうだ。作品そのものには戦時色がにじんでいる。たとえば、青森駅で出迎えた知人は戦地帰り。南方へ出征したが、病気を患って戻ってきた。「こんどは銃後の奉公です」と言う。あるいは、「私」が来ると聞いて「配給のお酒を近所から少しずつ集めて置く」という手配をした人も出てくる。辛苦の時代でも、客人に対するもてなしを優先させている。

 

 国防への配慮は、やたらに強調される。津軽半島東岸の外ケ浜街道をバスで北上するくだり。友人は車窓の風景を解説してくれるのだが、「もうそろそろ要塞地帯に近づいているのだから」「ここにいちいち書き記すのは慎しむべきであろう」と記述を控える。半島突端の竜飛に着いても「国防上、ずいぶん重要な土地」を理由に詳しい描写を避ける。半島西岸の最北部でも同様だ。文壇にまで、特別秘密保護の気づかいが浸透していたことになる。

 

 この作品からは、津軽人が国の一大事に処しながらも、別次元で固有の生活を淡々と営む姿が見えてくる。それは、著者にとっても自己再発見となったらしい。作中、実家の場面で「私」と兄たちとの距離感が匂わされているが、それを受けて後段で「きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがある」と書く。そこに、実家に仕えたり出入りしたりした津軽人の影響を見てとり、「私は、これらの人と友である」と宣言する。

 

 最後にひとつ。僕がいかにも太宰らしいと感じたのは、津軽平野の小さな駅に大荷物を両手にもった少女が駆け込み、口に咥えた切符を若い駅員に切ってもらうくだり。少女は「眼を軽くつぶって」「顔をそっと差し出し」、美少年は「まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた」――この軽やかさは、『斜陽』のスプーンの「ひらり」そっくりだ。太宰治はどこにいても、お坊ちゃまの軽快感を忘れない。

(執筆撮影・尾関章、通算426回、2018年6月22日)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『原発ホワイトアウト』(若杉冽著、講談社文庫)

写真》官界激震

 正直に打ち明けると、僕は官僚が嫌いだ。官僚の人が嫌いなのではない。良い人はたくさんいる。ただ、官僚が官僚として官僚らしく振る舞うさまが好きになれないということだ。新聞記者時代、幸いなことに官公庁担当をほとんど経験しなかった。だから、食わず嫌いで言っているのかもしれない。ただ、それでもたまには官公庁を取材したことがあるので、その記憶を呼び返すと、ああ、ああいうところがイヤだったのだな、と改めて気づく。

 

 唐突かもしれないが、まず思いあたるのが庁舎内の売店だ。30年ほど前、僕がときどき訪れる中央官庁は古いビルにあり、薄暗い一角――地階だったと思う――では職員向けに雑貨品が売られていた。それが、なんともみすぼらしかったのだ。中学生時代、校内にあった購買部そっくり。質素なのは悪いことではない。贅沢よりはよっぽどマシだ。だが、役所全体が放つエリート臭と引き比べると、どこか嘘っぽく感じられたのである。

 

 霞が関の官庁街も建て替えが進んだので、こんな一角はもうないだろう。それに代わってコンビニが出店しているかもしれない。ただ官界には、あの地階の売店と同じ違和感が今もある。官僚たちの見かけだけの低姿勢にも、同様の嘘っぽさが拭えない。

 

 公的な場で見せる腰の低さ。口を開けば、へりくだって「……してございます」を連発する。働きぶりを見ても、正規の勤務時間をとうに過ぎて深夜まで職場の蛍光灯が消えないのだから、文字通り、公の僕だ。それなのに世間はエリートと呼ぶ。本人たちも、それを強くは否定していないように見える。ただ、エリートには「選ばれし者」の意がある。官僚は選挙で地位を得たわけではないのだから、そもそもこの呼ばれ方が嘘っぽい。

 

 ではなぜ、エリート視されるのか。それはなによりも、官僚集団の上層部が国家公務員擬錙文宗α躪膺Α忙邯海旅膤兵圓任△蝓△修梁燭が最高学府を卒業しているからだろう。狭き門をくぐり抜けてきたという意味では、たしかに「選ばれし者」に違いない。

 

 かつては、そういう学業競争の勝ち残りがその力を存分に発揮した。自負心をもって、国のかたちをデザインしていたのだ。戦前の革新官僚がそう。高度成長期の日本列島改造論も、官僚が絵を描いた。その誇りが今や風前の灯火だ。最近、霞が関を揺るがす不祥事の多くは、政官の力関係で官の立場が著しく弱められたことを物語っている。エリートがエリートの面目を潰された。それ自体は悪いことではないが、歪みばかりが際だって見える。

 

 で、今週の1冊は『原発ホワイトアウト』(若杉冽著、講談社文庫)。2013年に講談社から単行本が出て、15年に文庫化された。刊行年からみて、東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故を受けたものだとわかる。ただ、この本はあくまでも小説だ。

 

 文庫カバーに「総括原価方式が生み続ける超過利潤(レント)で、多くの政治家を抱き込み、財界を手懐(てなず)け、マスコミを操作し、意にそわない知事を陥(おとしい)れるほどの強権を持つ関東電力」とある。電力会社の社名はもちろん、微妙なところに立ち入る記述では県名や原発名、政党名などの固有名詞を架空のものにして虚実をだぶらせた作品。国内原発の再稼働に向けてうごめく政界、官界、電力業界の動きを描いている。

 

 近所の書店でこの本を見つけたとき、僕は原発を取り巻く状況をもっと知りたい、という思いから手にとった。元同僚の原子力記者は、原発問題の根っこには電力事業のからくりがある、といつも言っていた。その中心にあるのが「総括原価方式」。経費を積みあげて、報酬も上乗せして料金を決める。地域独占体制だからこそ、それが通用する。利潤が「超過」するのも自然の流れだ。では、その儲けの行き場はどこか。これが関心事ではあった。

 

 だが読みはじめて気づいたのは、この本が官僚を知る一助にもなるということだった。それも当然。著者が高級官僚だからだ。略歴欄には「東京大学法学部卒業。国家公務員擬鏤邯街膤福8什漾霞が関の省庁に勤務」とある。霞が関のど真ん中にいること以外は伏せた覆面作家。あっけにとられるのは、省庁名は隠しても東大法学部卒だけは明示していることだ。官界は、それほどまでに学歴、というよりも東大歴がものを言う世界なのだろう。

 

 中にいる人でなければわからないなあ、という描写はそこここに出てくる。たとえば「中央官庁の勤務は激務」「課長補佐以下の若手は、繁忙期は、徹夜で職場に泊まり込むのも恒例行事」と書いて、こう続ける。「このとき、審議官の部屋も活用される。審議官が退庁したあと、若手が打ち合わせで利用したり、泊まり込みのときはソファで寝たり、そんな使われ方が当たり前のようになっている」。こんな実態は、ニュースには出てこない。

 

 だから当欄では小説の筋は追わず、官僚の生態に焦点をあてて読んでいこう。

 

 東大については本文でこんな記述に出あう。「最高学府とは東京大学のことをいうのではない。東京大学法学部のことをいうのだ」。東大法学部卒の経済産業省官僚が、電力業界にいる東大経済学部出身の知人を内心どう見下しているかを述べたくだりだ。その男が反原発議員の学歴を云々するのを聞いて「わかっていない」と感じる。「東大法学部と経済学部との偏差値の差も、経産省のキャリア官僚と電力会社社員との社会的立場の差も」

 

 これは、苦笑と微笑を禁じ得ないくだりだ。最高学府に対する高ビーな定義は、あくまで作中人物の思念として書かれている。これをもって、著者の認識とみてはいけない。実際、この作品はフクシマ――架空性をもたせるためか片仮名表記となっている――事故後の原発再稼働をめざす政官産体制を批判的にとらえているので、ここでは官界の学歴依存体質を皮肉ったのだろう。ただ著者の経歴に照らすと、自虐ネタなのかなとも思えてくる。

 

 一つ言えるのは、我こそは正真正銘の最高学府出身者と自任しかねない官僚の危うさを著者が自覚していることだろう。官僚たちは頭がよい。だから、こうして自分を突き放して見つめられる。官界再生のカギがあるとすれば、この自己客体化をおいてほかにない。

 

 この作品を官僚批判の視点でみると、ルールとの向きあい方に目がいく。官僚は、やたらにルールを整えたがる。法令の条文を練り、指針や内規の類いを文章化することに長けている。だが、その一方で「ルールというのは、いくらでも穴がある」と見抜いてもいる。

 

 たとえば、原子力規制委員会の委員や原子力規制庁の職員には「『被規制者等との面談』は公開される」という決まりがある。ところがこの作品では、資源エネルギー庁高官が経済産業省同期の規制庁幹部に電話をかけて、再稼働の見通しについて探りを入れる。「被規制者でもないし、電話は面談でもない」という理屈だ。たしかにエネ庁は原子力の事業者ではない。だが、「推進官庁」だ。非公式情報が被規制者に暗に伝わらないとも限らない。

 

 穴頼みはルールに対してだけではない。政策づくりでも同様だ。このエネ庁高官は、政府が電力事業の「改革」を進めたように見せながら、「細かい穴がいくつもあって、実際には競争は進展しない状態」をめざそうと思案する。官僚が競争の枠組みを「さじ加減」して電気料金の下げ幅を1割ほどに抑えられれば、外国との価格差が残っても「『日本は島国だから』とか何とか言って理由は付けられる」。賢さが、ずる賢さと同義に見える。

 

 この小説では、原子力規制庁の中堅官僚が官産癒着の証拠を再生可能エネルギー関連の財団研究員にリークするという筋書きがある。これが新聞記事になった。だが、この官僚も高邁な志から内部告発したとは言えない。彼は経産省から原子力規制庁への出向組で、省内の出世競争で「大臣官房、内局や外局に続く、第三集団に位置づけられた」と感じていた。一発逆転には「大人しくしているだけ」ではダメ。そんな思惑が引きがねを引いたのだ。

 

 読み終えると、僕の官僚嫌いはますます強まった。同時に、今の日本社会では官僚でない人まで官僚らしくなっていることに気づく。なにごとも思惑ばかりが先行する。やたらに決まりをつくっては穴を探す。僕たちも、そんな落とし穴に陥っていないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算425回、2018年6月15日公開)

 

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『自然とギリシャ人・科学と人間性』

(エルヴィン・シュレーディンガー著、水谷淳訳、ちくま学芸文庫)

写真》点と線

 この春の当欄で、テツガクという言葉に出会ったのは小学校高学年ではなかったか、と書いた(2018年4月6日付「ニーチェに20世紀経由で迫る」)。身近にいる大学生から「人はなぜ生きるのか、どう生きるべきか」を知る学問があると聞いた記憶だ。

 

 小学生の理解としては、こんなところが精一杯だったろう。だが長ずるにつれて、哲学がもっと幅広い人知の営みであることがわかってくる。それは、僕たちが今生きている世界がどんなものか、という問いにも向きあっている。世界像の探究という側面だ。ところが、その一方で、宇宙を探るのはもっぱら自然科学という常識も根強い。では、哲学と自然科学はどのようにつながっているのか。そのあたりは、はっきりしなかった。

 

 今振り返れば、いろいろなつまずきがあった。まずは物心二元論。モノの世界は理系の探究で、人の世界は文系の議論で、という線引きだ。そこに唯物論の優勢がかかわってくる。人はヒトであり、モノがかたちづくる自然界の一部なのだから、すべての世界は最終的には理系知で解き明かされる、と信じてしまったのである。ただそこでは、大事な一点が忘れられている。理系知もまた、人間の知覚や思念の産物にほかならないという認識だ。

 

 理系知と哲学がつながる例を一つ挙げよう。小学校の算数に出てきた追いつき算。歩く人を駈け足で追いかけるとき、いつどこで追いつくかという問題だ。図を描くと、答えが見えてくる。2人の隔たりを線分で表し、それが1分間にどれほど縮められるかを記入していく。すると何分後に追いつくかがわかって、その地点がどこかも計算できる。こういう状況は、大人になってからも日常よく経験する。設問としてなかなかよくできている。

 

 ただ、これも異なる考え方をすると、頭が混乱してくる。走る人が歩く人の出発点にたどり着いたとき、歩く人はそれよりも先に進んでいる。で、走る人がその地点まで来ると、今度も歩く人が先行している……こうして、走る人はいつまでたっても歩く人に追いつけない。「アキレスと亀」の逆説だ。古代ギリシャの自然哲学者ゼノンが提起したとされる。現実は追いつき算の通りだが、ゼノンの逆説が問いかけたことの意味は大きい。

 

 この逆説に潜む思考の罠について論じる準備が、今の僕にはない。ただなんとなく、連続性がかかわっているらしいとは思える。自然界は線のようにつながっているのか、点の集まりのようにばらばらなのか。具体論に立ち入れば、原子と原子の間は虚空なのか、介在物があるのか。時間は川のように途切れなく流れるのか、飛び石のようにぴょんぴょん進むのか。理系知は、これらの世界像と密接不可分だ。科学の根底に哲学があると言ってもよい。

 

 で、今週は、科学を人間の産物ととらえ直すのに一助となる本を選ぶ。『自然とギリシャ人・科学と人間性』(エルヴィン・シュレーディンガー著、水谷淳訳、ちくま学芸文庫)。著者(1887〜1961)は、オーストリア生まれの物理学者。1920年代に量子力学を完成させた中心人物の一人だ。本書は、2シリーズの連続講義をもとにしているので書名にも二つの表題が並ぶ。既訳もあるが、この文庫版は2014年に新訳で出た。

 

 ここでは、後段の「科学と人間性」に焦点を当てる。1950年にアイルランド・ダブリン高等研究所であった4回の公開講義「人間性の構成要素としての科学」をまとめたものだ。そこには、科学を「人間の置かれた状況を理解するため」の営みとみる視点がある。

 

 物理学の核心に入って真っ先にとりあげられる問いは、物質とは何か。著者は「わたしたちの抱く物質の概念は、19世紀後半に考えられていたよりも『はるかに唯物的でない』ことが明らかになっている」として、物質像が20世紀の量子論によって変わったことを示唆する。原子などの粒子が「永遠に『同一性』を持ちつづける」という常識は「放棄しなければならなくなった」というのだ。原子1個ずつに名前を与えて追跡するのは無理らしい。

 

 たとえば、粒子がある瞬間、ある地点にあったとする。このとき、「その直後に同種の粒子が、最初の粒子のすぐ近くに観測され、第一の観測結果と第二の観測結果とのあいだに『因果関係』があると断定できるどんな理由があったとしても、二つのケースで観測されたのは同じ粒子であるという言葉に、明確で正しい意味などない」(「同じ」に傍点)という。常識破りの話だ。だが著者が語る身近な体験談で、そんな見方もあるなと思えてくる。

 

 例に挙がるのは、著者の机に置かれた大型犬グレートデーンをかたどった文鎮。父の形見だ。故国がナチスドイツに併合され、国外へ移り住んだときに手放したが、友人が保管してくれていて、戦後再び手もとに戻った。「父の机の上で見た犬であると、私は完全に信じている」が、根拠は「明らかにその特別な『形』であって、材料の中身ではない」。その「鉄」が別ものに鋳直されていたら「思い出の品は壊されてしまった」と感じることになる。

 

 もっと端的なたとえ話も出てくる。ある男が子どものころに過ごした田園を訪れる。小川も草原も変わらない。かつて見たヤグルマソウやポピーやヤナギがあり、ウシやアヒルやイヌもいる。「材料」は入れかわっているが、「場所全体の形や構成は同じまま」だ。

 

 これらを踏まえて、著者は原子世界に対する「『新しい』考え方」を、こう言い切る。「これらの素粒子やその小さな集合体において不変なのは、その形や構成である」。ここで言い添えられているのが、「形」は「物質的な実体」の形状ではないということだ。粒子は「形だけの存在」であり、「度重なる観測によって繰り返し姿を現すのはその形」というのだ。電光ニュースで流れる文字を思い描けばよいのか。モノばなれの世界像だ。

 

 原子などの粒子が同一性を保たないという見方は、人間の観測という行為に見直しを迫る。同種の粒子が、ごくわずかな時間差でごく近い場所に存在するのを観測したとしよう。粒子の同一性維持を前提とする常識では、粒子は必ず一つの経路をたどって別の場所へ移るので、「連続的観測」で追跡していれば、その動線をたどることができる。ところが、同一性が維持されないとなると「連続的観測」の「連続」はどうなるのか。

 

 著者は、ここで観測に対する新しい見方を打ちだす。「連続的観測が可能であると認めてはならない」(傍点付き)と戒めた後、「観測は、不連続で途切れ途切れの事象とみなすべきだ」「観測と観測のあいだには、埋めることのできない空白が存在する」と明言する。このあとには「粒子は永続的な存在でなく瞬間的な事象」「ときにはそれらの事象が鎖のようにつながって、まるで永続的な存在であるかのような錯覚を与える」といった記述もある。

 

 この世界像は、量子力学に由来するとみて間違いない。この本にも書かれているように、量子力学に先立つ前期量子論でニールス・ボーアは「原子はある状態から別の状態へ突然に遷移すると仮定しなければならなかった」(「突然に」に傍点)。原子の周りにある電子のエネルギー状態がパッと変わるというイメージ。太陽の周りの惑星や小惑星が軌道を描きながら時間をかけて動くのとは様相が異なる。連続の遮断は避けて通れないのだ。

 

 20世紀に入って人間はこれまで馴染んだ常識を絶対視できなくなった。それは日常生活では健在だが、世界の根底にあるしくみを理解するには不十分だったのだ。

 

 興味深いのは、著者が量子世界を波という連続の描像でとらえた人として知られていることだ。1920年代半ば、シュレーディンガー方程式と呼ばれる波動方程式で原子世界の様子を表すことに成功した。だがこの本では、波は「『何ものか』の記述」であっても、その「何ものか」は「観測可能な事実」や「自然(物質や放射など)の真の姿」ではないと強調する。波は世界理解の道具に過ぎないということか。著者の本意がわかる一節だ。

 

 最後に一つ提案。量子力学の授業では、いきなり数式を教えるのをやめて、この本のような論考をみんなで読むことから始めてはどうか。シュレーディンガーの方程式だって、そこにどんな自然観があるのか見当もつかずに操られたら、かえって迷惑だろう。

(執筆撮影・尾関章、通算424回、2018年6月8日)

 

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『アメリカン・フットボール』(武田建著、新潮文庫)

写真》ボールのかたち

 幼いころ、スポーツを知らなくて恥をかいた経験が僕にはある。小学校に入ってまもなくのことだ。体育の時間に「キックボール」をやるという。ホームベースに置いたボールを蹴って、野球と同じように進塁をめざす競技。悲しいことに、そのとき僕は野球をほとんど知らなかった。途方にくれている僕に先生が声をかけた。「蹴って走るのよ」。で、言われた通りにしたのだが、走った方向は三塁だった。今振り返っても恥ずかしい。

 

 そもそも、スポーツにあまり縁のない家庭だった。祖父だけが野球に関心があり、ラジオ中継をよく聴いていた。彼がナイターのことを「ヤカン試合」と呼ぶので、薬缶のような照明がいくつもぶら下がっている野球場を思い浮かべたものだ。アナウンサーの実況だけで試合をイメージするのは難しい。テレビが普及していない時代、級友たちはどのようにして打者は右方向へ走るものだと知ったのか。そっちのほうが不思議ではある。

 

 学年があがるにつれ、僕も校庭や原っぱでゴロベースや草野球に興じるようになった。僕たちの少年時代、メジャーなプロスポーツといえば野球と相撲くらいしかなかった。だから、野球の決まりごとは今に至るまで、ルールブックがなくても体でしっかり覚えている。

 

 それと正反対なのが、アメリカン・フットボール(アメフト)だ。選手たちは、どのようにして点をとるのか、そのために何をしようとしているのか。それが皆目わからない、という人も多いだろう。サッカーなら観ていればすぐわかる。ラグビーも観ているうちにおおよそ見当がつく。だが、アメフトは違う。ゲームがちょっと動いてすぐ止まるのは、きっとルールが複雑だからだろう。覚えるのが大変だな――僕もそう感じていた一人だ。

 

 だが、そう言ってはいられない出来事が最近起こった。アメフトの大学定期戦で、「悪質」なタックルがあったのだ。その不幸な事象そのものについては、ここでは論じない。ただ、このニュースを見聞きして、深い失望と一筋の希望が見えたことは書きとどめたい。

 

 失望は、大学などの体育会の旧態依然たる姿だ。希望は、それが変わりそうな予感である。この状況は今年、世界中に広まった性暴力告発・反セクハラのミートゥー運動に重なって見える。共通するのは、数十年前には見て見ぬふりをされていた唾棄すべき風土が今ようやく断ち切られようとしていることだ。それを可能にしたのは、女性たちや選手たちの覚悟を決めた発言だ。スポーツ界ではアメフトにこの動きが見られたことに僕は興味を覚える。

 

 で、今週は『アメリカン・フットボール』(武田建著、新潮文庫)。カラー写真をふんだんに盛り込んだアメフト案内。奥付には、企画編集協力にarc出版企画の名が記されている。1985年に出た。著者は1932年生まれの心理学者で、刊行時は関西学院大学の学長。アメフト歴を言えば、関学の中・高・大学でプレー、母校の教壇に立ってからは大学の監督を務め、全国優勝7回を果たした。この本を書いたころも高等部の監督だった。

 

 編集協力者の一人には、日本大学アメフト部の名将と言われた篠竹幹夫さんもいる。その手腕については本文でも素描されている。今回の一件で不幸にも逆の立場に置かれた名門2校の伝説の指導者がかかわる本として、アメフトの真髄を知るには格好の1冊だ。

 

 とはいえ、「はじめに」のページを開いて僕は怯んだ。「『フットボールはわかりにくい。ルールが複雑だし反則の種類もたくさんある』という声を耳にする」まではいい。前述の通り、同感だ。ただ、「ルールなど忘れて試合そのものを楽しんでほしい」とあるあたりからちょっと心配になる。指導者の立場で「相手チームの反則は見えても、自分のチームの反則なんか目にはいらない」と書いているのを見て、大丈夫かなとも思ってしまった。

 

 だが、読み進むと「反則」の事例として出てくるのは、パスがルールに則って成立しているかどうか、といった類いの話だとわかる。著者の念頭には、悪質タックルのことなどまったくなかったのだろう。それを知って僕は、先を読みつづける気になった。

 

 全編を通して感じとれるのは、著者が重んじているのはルールではなく、スポーツ人の美学らしいということだ。このことは、今回の報道で僕が気になっていることと響きあう。テレビのニュースや情報番組では、「反則行為」「ルール違反」という言葉が耳障りなほど聞こえてくる。これは、諸々の事件報道が「法令違反」の有無にばかり気をとられている状況と重なる。そこでは、良心や美学が法令やルールよりも軽く扱われている気がする。

 

 そろそろ、本の中身に入ろう。まずは、ルールのおさらい。これは、本文に差し挟まれたコラムページに要約されている。僕もほんの少しだけ齧って知っているが、ここで復習しておこう。1)ゲームは攻守に分かれて進められる2)「攻撃の1単位」はボールデッドでプレーが止まるまでの一区切りで、これをダウンと呼ぶ3)4ダウンするまでに10ヤード進むことができれば、攻撃を第1ダウンから繰り返すことができる、というものだ。

 

 ボールデッドとは、ボールがフィールドの外に出た、ボールを持って走る選手が倒された、前方へ投げたパスが地面に落ちた……などのことを指し、いずれの場合も審判はプレー停止の笛を鳴らす。アメフトの試合進行が細切れに見えるのは、この決まりがあるからだ。攻撃側の前進がはかどり、敵陣のエンドゾーンと呼ばれる領域にボールを持って走り込むなど、幾通りかの方法で成果をあげれば、それぞれしかるべき得点が与えられる。

 

 以下は、攻撃(オフェンス)に絞って話を進めよう。攻撃法は「普通、ボールを持って走るランニング・プレーとボールを前に投げるパス・プレーに分けられる」。走るか、投げるかの違いだ。ただ著者自身はこの二分法をとらず、「オプション・プレー」という第三の区分を設ける。「クォーターバックがラグビーの選手のように、自分でボールを持って走るか、斜め横にいる味方にラトラル・パスを送るプレー」だ。ラトラルは「横」を意味する。

 

 この本が強調するのは、クォーターバック(QB)という役割の大きさだ。それは「野球でいえばピッチャー」「ラグビーでいえばスクラムハーフとスタンドオフを一緒にしたようなポジション」に相当するという。著者によると、オプション型の攻撃法をとるならばQBの条件は「まず走ること」であり、さらに「相手の動きを見て自ら走るか味方にボールをピッチするかの判断を的確にし、それを実行する能力」ということになる。

 

 QBの「判断力」は、前方を走るレシーバー(受け手)にボールを送るパスにも求められる。「レシーバーの行くところ、必ず守備のバックがいる。その相手をまず見て、その動きの反対、つまり逆の位置にいる味方にパスをすることができなくてはならない」。敵の裏をかくように受け手を選ぶ、ということだ。走るならいつまでボールを持ちつづけるか。投げるならどこへ投げるか。QBの仕事は、瞬時の選択の絶え間ない繰り返しと言えよう。

 

 この本で、僕が心を動かされたのは「私は攻撃の選手がベンチに帰ってきて、サイド・ラインで試合を見物しているのが嫌い」というひと言だ。アメフトは選手交代を自在にできるので、攻撃の選手は攻撃が終わるとすべてを守備の選手に任せて体を休めることができる。ふつうのスポーツ作法では、仲間がプレーしているときはベンチから声援を送るものなので、フィールドに向かって声を枯らすのが常道のように思う。だが、著者の考えは違う。

 

 著者がこのときに求めるのは作戦会議だ。「選手とコーチは、ベンチで相手の動きを分析し、相手の弱点を話し合おう。そうした雰囲気から次の攻撃のための集中力が湧(わ)いてくる」。著者の試合での指揮ぶりは、こうだ。自分はスタンドの最上部から試合を眺め、ベンチのコーチと有線でやりとりする。選手たちは自身の実感をコーチに報告する。「スタンドの上と下のコミュニケーション」で鳥瞰虫瞰の情報が混ざりあう。

 

 1980年代ですら、これだけのことをやっていた。ITが進んだ今はデータの収集や蓄積がたやすくなり、情報戦の様相をいっそう強めているに違いない。アメフト、かくも知的なスポーツ――その真髄こそが、体育会の旧弊を打ち破る一撃となるだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算423回、2018年6月1日)

 

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『南方熊楠――地球志向の比較学』(鶴見和子著、講談社学術文庫)

写真》森の人

 つい先日、熊野のことを書いた。『熊野からケルトの島へ』(桐村英一郎著、三弥井書店)という本を紹介しつつ、ユーラシアの東端にある懐深い半島に思いを馳せたのだ(2018年5月4日付「熊野とケルト、島の果ての奥深い懐」)。あの本は、熊野ゆかりの知の巨人にも言及していた。南方熊楠(1867〜1941)。南紀田辺に居を構えた文理両道の人だ。そのことを3週前の拙稿に盛り込めなかったのが心残りなので、今回は熊楠の話。

                                                               

 熊楠の活動で特筆すべきは、神社合祀に対する抵抗だ。上記桐村本も、それをとりあげている。神社合祀令は1906(明治39)年に政府が発した。国の宗教管理を強めるねらいで、小さな神社を整理して大きな神社に統合しようとしたのである。これに対して熊楠は、鎮守の森の生態系を守る立場から反対の声をあげる。このとき、民俗学者の柳田国男が共感して助言を書簡に認めるのだが、そこで二人の思考様式の相違が表面化する。

 

 桐村本には、柳田が1911年6月21日付で「東京の雑誌へも追い追い御書き下されたく」と中央の媒体への投稿を促したのに対し、「熊楠は耳を貸さず、地元の牟婁新報やロンドンの雑誌に書き続けた」とある。官僚兼務の知識人が在野の自由人を口説いたのだから、通じないのも無理はない。それにしても、熊楠が東京という帝都をすっ飛ばして地元と海外に目を向けたのはスゴイ。文字通りの“Think globally, act locally”だ。

 

 熊楠と柳田の違いについては、僕もずっと関心を抱いてきた。きっかけは、『南方熊楠――地球志向の比較学』(鶴見和子著、講談社学術文庫)という名著を読んだことだ。著者は、ここで熊楠の合祀反対にみられる斬新な発想を柳田の頑迷さと対比させることで際立たせている。「自然破壊という地球上共通の問題に対して、この国の世論に訴えて阻止できないならば、世界の世論をおこしてこれを押しとどめようとした」というのである。

 

 熊楠が1909年に牟婁新報紙上で合祀反対の口火を切ってから100年後、僕は新聞のコラムに「熊楠のエコ100年」という小文を出稿した。鶴見本から上記箇所を引用したうえで「国際NGOが、地球環境を守るたたかいの最前線に立つ。そんな時代の原点が100年前の紀州にあった」と結んだ(朝日新聞2009年9月25日夕刊「窓・論説委員室から」欄)。エコロジー運動の先駆者を、日本列島の南紀熊野が輩出していたのである。

 

 で今週は、鶴見本『南方熊楠…』を再読する。著者(1918〜2006)は東京生まれの社会学者。米国で学位を得た。この論考は1978年、『日本民俗文化大系』(講談社)第4巻として世に出た。文庫版刊行は81年、国際環境NGO台頭の前夜と言ってよい。

 

 この本は、熊楠の探究と思想を本人の著作など膨大な資料によって読み解きながら、「南方熊楠の生涯」と題する章を設けて伝記の要素も盛り込んでいる。今回は、主に合祀反対にかかわる部分を切りだして、そこから熊楠の先駆性を浮かびあがらせてみよう。

 

 上記「…生涯」の章には、熊楠の反対運動が1909年の意見表明を起点に全展開されたことが記されている。翌10年には県の役人に談判しようとして警察沙汰となり、2週間余も留置される。11年と12年には著名な植物学者2人に反対意見書を送っている。このうち松村任三宛ての2通は、柳田が「南方二書」と名づけて印刷物にして配った、という。この一点をもってしても、熊楠と柳田が合祀反対では一致していたことがわかる。

 

 この本によれば、二人のつきあいは1911年、熊楠が学会誌に寄せた随筆に柳田が心を動かされ、手紙を送ったことに始まる。半年後には「南方二書」で意気投合するまでになるが、相まみえるのは13年の大晦日。柳田が田辺に宿をとると、熊楠はそこに酔っ払って現れた。翌日、今度は柳田が南方邸を訪れると、熊楠は床で布団を被り、掻巻(かいまき)の袖を通して会話を交わしたという。これが最初で最後の面会となった。

 

 なんとも、奇怪な交流だ。「掻巻」の一件は著者が『定本柳田国男集』別巻から引いているので、熊楠には彼なりの事情があったのかもしれない。ただ推察できるのは、二人の波長は合わなかったらしいということだ。著者は、両者のズレを五つに要約している。

 

 まずは、「地域」と向きあう視点。柳田は「農政学者として、農政役人として、そして旅人として地域を見た」が、熊楠は「定住者の立場から、地域を見た」。後者のほうが了見が狭いようにも思われるが、そうではない。問題となるのが視野の大小だ。著者によれば、柳田が「日本国の一部としての地域(政治的単位)」にこだわったのに対して、熊楠は「世界の、そして地球の一部としての地域(エコロジーの単位)を考えた」というのである。

 

 人間のとらえ方も対照的だ。著者は柳田民俗学に出てくる「常民」という言葉を見逃さない。上から目線というべきか、「農政学者」「農政役人」らしい呼び方だと僕も思う。これに対して、熊楠は「集合名詞として人々をとらえなかった」。地元田辺で交遊した人々は、「漁師」「生花の師匠」「石工」「仕立屋」「質屋」「瀬戸物屋」「酒屋」「画家」「眼科医」……と多彩。そこに泳ぎの達人や俳人、歌人もいる。一人ひとりの顔が見えてくるようだ。

 

 合祀反対では、その運動論をめぐって両者の違いが鮮明になる。熊楠は「地方官憲に対して、対決をおそれぬ精神でぶつかっていった」が、柳田はそれを快く思わず、「正面衝突をなるべく回避して隠微にことをはこぶように忠告した」。さらに、国という区分けをどう見るかでも両極に分かれた。熊楠が「外国の学者へも檄をとばして、国外の世論を結集しようとした」のに対して、柳田は「国辱を外にさらすものだと激しく反対した」のである。

 

 その違いは、僕がこの本を初めて読んだときにもっとも驚いたことだった。というのも1990年代、欧州駐在の科学記者として環境問題を取材していたときに国際NGOの実力を肌身で感じたからだ。国際会議でも、参加国とは別枠のオブザーバー資格で議場に入り、国の垣根を越えて「檄をとばして」いた。人の行き来の多い欧米の文化圏が生んだ発想だなと思ったものだが、同じことを考える日本人が20世紀初めにもいたことになる。

 

 僕は、柳田が国際運動を嫌った理由を知りたくなった。そこで前述のコラムを書くときに『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』(飯倉照平編、平凡社)を調べてみると、柳田のこんな一文に出会った。「全体外国の学者など、他国の領土に生存する生物につきて何の要求権ありや」。生物の世界にまで国境線を引こうという思考だ。このときは結局、熊楠が譲歩する。鎮守の森を守る運動を世界に広げられなかったのは残念でならない。

 

 この本――鶴見著『南方熊楠』――は、熊楠の合祀反対を「エコロジーの立場に立つ公害反対」ととらえている。本人も、和歌山県知事宛ての書簡(『南方熊楠全集』〈平凡社〉所収)で「千百年来斧斤(ふきん)を入れざりし神林」では「諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑」しているとして、この「相互の関係」を探る「エコロギー」という学問が生まれたことに触れている。この記述は、生態学(エコロジー)が19世紀後半に興った史実と符合する。

 

 著者は社会学者らしく、エコロジーを人間社会にも拡張する。熊楠が「地域の植物生態系と関連しながら、そこに生活する住民をふくめた、社会生態系という考えを、すでに持っていた」とみるのだ。本文に出てくるのは、地元田辺町と近隣の湊村の合併話。これに反対した熊楠には「田辺町の金持ちやボスや湊村の不在地主が結托して、湊村の住民を圧迫する」との懸念があったようだ。その主張は帝国主義批判にも結びつけられた、という。

 

 熊楠のなかでは、神社合祀と市町村合併が同列に置かれていたらしい。二つは、政府や出先官庁が「地域の自然とその上にきずかれた共同体とを崩壊させ、中央集権化を急速に実現しようとした」施策として括れる。熊楠は、この動きに「植物、社会生態系をよりどころとして」抗った、というのが著者の見方だ。「今日の『地域主義』の日本における先駆的思想家の一人を、わたしたちは南方熊楠において発見することができる」と結論づけている。

 

 3・11後の今、僕たちがもっとも必要とする思想を、熊楠は一足早くあたためていた。

(執筆撮影・尾関章、通算422回、2018年5月25日)

 

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『二子玉川物語――バー・リバーサイド2』(吉村喜彦著、ハルキ文庫)

写真》シードル――世田谷産ではないが

 二子玉川がニコタマと呼ばれだしたのはいつごろか。東京では1970〜80年代、住宅地からひとつづきの街々が集客力を高めて賑わうようになった。その一つが二子玉川(ふたこたまがわ)だ。「ふたこ」が「ニコ」になったのは、この進化とほぼ同期している。

 

 先週、当欄で話題にした映画「ペンタゴン・ペーパーズ――最高機密文書」も、実はニコタマで観た。ショッピングモールの近くにシネコン(複合映画館)ができたからだ。映画街なら日比谷、新宿、渋谷……という常識は、もはやセピア色にかすんでしまった。

 

 二子玉川は、世田谷区南部の多摩川沿いにある。ブラタモリ風に地形からひも解けば、河岸段丘の傾斜である国分寺崖線の真下にあたる。そこは昔、東京急行電鉄の路面電車玉川線の終点であり、遊園地のある場所だった。東急運営の「二子玉川園」だ。1950年代後半には園内をジェットコースターが昇り降りするようになり、僕もこわごわ乗った記憶がある。言ってみれば、東京が川によって行き止まる地点にある異次元の空間だった。

 

 1969年、百貨店の高島屋がショッピングセンター「玉川高島屋S・C」を出店。玉川線はその後、地下の新玉川線となり、さらに神奈川県の新興住宅地を貫く田園都市線に組み込まれた。最近は東急グループ主導の再開発が進み、その一角にIT大手の本社もある。

 

 何が、人をニコタマに惹きつけるのか。その魔力はたぶん、多摩川にある。それは崖の坂道を下ったあたりを、ゆったりと流れている。都心の川のようにコンクリート三面張りではない。岸辺に自然が残っている。南の太陽を浴びた川面からは湿気が漂ってくる。米国南部を流れるミシシッピ川のよう。今にもブルーズが聞こえてきそうだ。僕は若いころ心のなかで、その一帯を「世田谷のディープサウス(深南部)」と呼んでいた。

 

 この見立ては、必ずしも的外れではなかった。米国では深南部の急成長が著しい。節目は、ジョージア州アトランタにニューステレビ局CNNが本拠を置いた1980年ごろだろうか。合衆国の中枢は東海岸や西海岸だけではない、と主張するかのように南部の存在感が高まったのである。もちろん、ニコタマはそれとは次元が違う。だがいま確実に、新しい消費文化の発信基地となった。銀座とも新宿とも六本木とも異なる郊外型の拠点だ。

 

 で、今週の1冊はズバリ、『二子玉川物語――バー・リバーサイド2』(吉村喜彦著、ハルキ文庫)。文庫版書き下ろしで、ニコタマのショットバーを舞台にした短編小説5編が収められている。副題からもわかるように同じ文庫には同著者の『バー・リバーサイド』があり、そのシリーズ第2弾ということのようだ。本来なら先行の作品から読むべきところだが、たまたま書店で出会ったのが本書だった。偶然を大事にしよう。2017年刊。

 

 意外なことに、著者はもともとの東京人ではない。大阪に生まれ、京都の大学で学び、サントリー宣伝部に勤めた後、小説家となり、かたわら酒や酒場をとりあげたノンフィクションを執筆している。サントリー(旧寿屋)の宣伝部といえば、作家の開高健らダンディズムを感じさせる文化人を輩出した職場だ。著者からも、その気風が感じとれる。そういう人が出身地を遠く離れ、東京・世田谷の深南部に自分の美学を託したのである。

 

 冒頭の1編「海からの風(シー・ウインド)」には、ニコタマの夏の描写がある。ちょうど、梅雨明けのころの早朝だ。「低く垂れこめた雲が川の向こうから次々と押し寄せ、葦原が大きく波うっていた」「風景が透明な紫に染まったかと思うと、稲妻が空を切り裂き、雨が叩きつけるように降り出し、あっという間に対岸が見えなくなった」。1時間ほどの驟雨、そして黒雲は去り、「抜けるような青空がやってきた」。(読みのルビは省略、以下も)

 

 バー・リバーサイドはビルの階上にあり、横長の大窓から川が見える。この1編には、窓を少しだけ開けたとき、「ふわっと生温かい夏の風が吹き込んで」「ふっと潮の香りがした」との記述がある。僕がミシシッピを感じたのも、そんな海とのつながりからだ。

 

 店のスタッフは、マスターの川原草太とアシスタントの新垣琉平。川原は、もともとこの界隈で育ったらしいが、関西に移り、京都の大学の工学部で助手(現・助教)として研究生活を送っていた人。一方、琉平は名前からも察せられるように沖縄出身で、祖母は霊媒師だという。この短編集では、二人と常連客たちの会話がちょっといい話5編に結晶していく。そしてそれらを彩るのが、次から次に繰り出される酒や食べものだ。

 

 最初の酒はモヒート。木製の重たい扉のきしむ音とともに現れた客が、椅子に腰かけながら言う。「キンキンに冷えたモヒートもらえます? ミント多めの、甘さ控えめで」。ここから、マスターの所作が詳述される。ライムとブラウンシュガーをつぶしてなじませ、スペアミントの葉を入れて、またつぶす。「クラッシュド・アイスをザザッと入れ、バカルディ・ホワイトを注ぎ、最後に炭酸水でグラスを満たして、軽くステア」で出来あがり。

 

 ここで、バカルディ・ホワイトはラム酒の銘柄。ラム酒は、西インド諸島が発祥地とされるサトウキビが原料の蒸留酒だ。夏の夕暮れ、大河を眺めながら口に運ぶにはぴったりではないか。僕は最近、夏季限定のモヒート党員なので、このとり合わせにはビビッときた。

 

 各編の主人公となる客は――。大阪生まれだが江戸前の店を継いだ寿司屋の主人。北海道出身の美容師。二人はともに脱サラ組だ。会社勤めの現役組もいる。沖縄出身の洋酒メーカー宣伝部員、鉄道会社で運転士の訓練を受けている地元っ子……ほかに脇役には、台湾から日本に来ているらしい整体師などがいる。店は世田谷深南部にあっても、そこには東西南北、さまざまな土地の人々が集う。ここでは、その一人に焦点を当てよう。

 

 「星あかりのりんご」という一編の主人公、藤沢あかね。秋風が吹くころ、扉を開けて入ってきたときのいでたちは、髪は短め、「赤のギンガムチェックのネルシャツに穿き古したジーンズ姿」。30代だが、20代と言っても通じるほど若々しい。「喜多見の浄水場の近くで父のはじめた果樹園の後継ぎとして、毎日、土にまみれて畑仕事をこなしている」。喜多見は世田谷区の南西端。都市農家の娘を常連の一人にしたところに作者の創意がある。

 

 この短編では、藤沢家のファミリーヒストリーが素描される。あかねの母方は地元の元名主で、昔ながらの農家だった。父は農業大学を出て母と結ばれ、その跡取りとなる。そこで手がけたのがリンゴやナシの栽培。「『もぎとり体験』でそれなりの客を集め、そこそこ商売を成功させた」。深南部の連想で僕は一瞬、米国サウスカロライナ州で見たプランテーションを思いだした(当欄2015年9月25日付「フォークナーに南部の匂いを嗅ぐ」)。

 

 あかねは農業を嫌って大学でフランス語を学び、パリへ留学。日本の出版社や広告会社の仕事を手伝って収入を得ていたが、取材で訪れたバスク地方で衝撃を受ける。心を震わせたのは、素朴な若者たちが奏でるチャラパルタの調べ。木の板を木の棒で叩くだけだが、「単なるパーカッションではなく、微妙に音階があって、ちゃんとメロディーになっている」。リンゴ酒(シードル)をつくる作業のなかから生まれた打楽器だという。

 

 「澄みきった青空、香り高いリンゴ林、心地よい小川のせせらぎ、やわらかく胸に染みこむチャラパルタの音」。それらは「皮肉や冷笑、口先だけの会話とはまるで無縁だった」。その反動で、あかねはパリの生活にも、同居人のパリジャンにも、幻滅する。土と水の匂いをリンゴ林から届く風に感じたとき、「あかねの胸に、多摩川沿いの果樹園の姿がふっと浮かんできた」。そして父の死。帰国後、彼女は農業女子となることを決断する。

 

 父の没後を振り返る言葉に「しばらくすると、不動産屋が果樹園の土地を売ってマンションを建てないかって、毎日のように言ってきてさぁ」とある。あかねは、それに抗して果樹園を守り、地場のリンゴでシードルをつくろうとする。深南部大地の蘇生物語だ。

 

 むしむしとする初夏、ニコタマの風に吹かれたい。さあ、バスに乗って出かけるか。

(執筆撮影・尾関章、通算421回、2018年5月18日)

 

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『ペンタゴン・ペーパーズ――「キャサリン・グラハム わが人生」より』

(キャサリン・グラハム著、小野善邦訳、CCCメディアハウス)

写真》プレス

 メディアの世界にいると、ほかの人なら聞き流してしまう言葉も気になることがある。その一つが「一部報道」だ。「一部報道によると……」とか、「一部報道では……」とか、そんな言い回しで口にされることが多い。「一部の報道」ときちんと言えばよいものを、なぜか「の」を抜く。「の抜き」ひとつで、どことなく冷たい空気が漂うから不思議だ。当方は報道の中身を真に受けていないぞ、という懐疑の匂いが嗅ぎとれる。

 

 「一部報道」は近年、メディアのすっぱ抜きで世間の非難を一身に浴びる人々のコメントによく見かけるようになった。だが、もともとは記者の業界用語だったような気がする。競争相手が報じたことについて記者会見で尋ねるとき、この言葉がよく用いられたものだ。

 

 記者は、抜いた抜かれたの競争に日々明け暮れている。他社に抜かれれば、その報道の真偽を情報源にあたって確かめ、本当らしいとなれば一から聞き直して後追い記事を書く。ただ、情報源がわからなかったり、わかっても接触を拒まれたりして自前の取材ができないことがある。そうなれば出稿を見送るのが原則だが、他社報道を無視してばかりはいられない。そんなときも「一部報道」の出番だ。だから、この言葉には妬みと悔しさがにじむ。

 

 僕は現役時代から、この表現を記事から追放できないか、と思ってきた。「○○新聞によれば……」と、はっきり書けばよいではないか。現に海外駐在の記者は「米紙ニューヨーク・タイムズによれば……」「英紙ガーディアンによると……」というように転電記事を書く。国内メディアについてそれをしないのは、面子が先に立つということなのか。自社の取材が難しいとき、他社の報道内容を引くことはあってよい。僕は、そう思う。

 

 こんな話題をとりあげたのも、このところ国内の疑惑報道に「○○新聞によれば……」形式が散見されるようになったからだ。もしかして、そこには「これは、どうせ○○新聞の言うことだから」という色眼鏡の心理が働いているのかもしれない。だが、それだけではあるまい。メディアが役所などの発表に出てこない事実を独自取材で掘り起こす調査報道が広まったため、競争相手がすぐに自力で追いかけられないニュースがふえたのだろう。

 

 僕が理想として思い描くメディア状況では、「○○新聞によれば……」が日常的にある。そのことによって、各紙各局は競争相手の報道を批判的に吟味しつつ、補いあって事象の全体像をあぶり出せる。巨大な権力に対抗するには、こうした連帯が欠かせない。

 

 で、今週の1冊は『ペンタゴン・ペーパーズ――「キャサリン・グラハム わが人生」より』(キャサリン・グラハム著、小野善邦訳、CCCメディアハウス)。日本で今春、『ペンタゴン・ペーパーズ――最高機密文書』(原題は“The Post”、監督スティーヴン・スピルバーグ)が公開されたが、その原作ではない。『キャサリン・グラハム わが人生』という本が別にあって、それを映画に合わせて再構成したものだ。今年4月に刊行された。

 

 『…わが人生』は、米紙ワシントン・ポスト(以下、ポスト)の社主兼経営者キャサリン(ケイ)・グラハムの自伝だ。1997年刊。大著であり、翌98年にピュリツァー賞を受けた名著でもある。本来ならこの原著をこそとりあげるべきなのだが、今回は近道を許してほしい。というのも映画『ペンタゴン・ペーパーズ』を観て、それを急いでとりあげたいと思ったからだ。映画を自伝の一部に重ねあわせながら、拙稿を書き進めようと思う。

 

 映画が焦点をあてるのは、1970年代初頭のワシントン・ポスト紙。メリル・ストリープ演じるケイ・グラハム社主の下、トム・ハンクス演じるベン・ブラッドレー編集主幹が指揮をとっている。編集局の大部屋には、まだパソコンの類いはない。机上に置かれたダイヤル式の黒電話。原稿やゲラを運ぶ気送管。僕が若いころにいた職場とそっくりではないか。彼我の違いは、米国ではタイプライターの打鍵音が鳴り響いていたことくらいだ。

 

 筋書きも記者OBの心に響く。ベトナム戦争をめぐる国防総省(ペンタゴン)の機密文書をニューヨーク・タイムズ(以下、タイムズ)が入手、特報する。ポストは抜かれた側だ。文書を手に入れるべく画策するが、追いつけるかと思ったとたん、また先行される。ようやく情報源にたどり着いて記事を大展開しようとすると、政府が文書公表の差し止めを求めて法廷で争おうとする……。ポスト幹部の深い内省と勇気ある決断が見どころだ。

 

 一方、今回の本は原著『…わが人生』の全28章から七つを切りだしている。「ベン・ブラッドレーの起用」「ベトナム戦争とポストの立場」「ペンタゴン機密文書事件」などの章題が並ぶ。この機密文書事件が起こるのは、ニクソン政権下の1971年6月のことだ。

 

 そのいきさつは、映画と本で微妙に異なる。たとえば、ケイが機密文書報道でタイムズに抜かれそうだと気づくくだり。映画の筋では、会食の席で前政権の国防長官ロバート・マクナマラから耳打ちされたことになっている。だが本によると、驚くべきことにタイムズ幹部ジェームズ・レストンの息子の結婚式で、レストン本人から直接聞いたという。たぶん、後者が本当なのだろう。タイムズには、すぐに追いつかれまいという自信があったのか。

 

 実際、ケイは文書がベトナム政策の「意志決定の過程」を記したものとは知らされるが、「一体どのような代物であるのか、見当もつかなかった」。編集陣に伝えると「彼らはすぐ、さまざまな所に連絡を取り始めた」。記者たちの胃が痛むような思いが身につまされる。

 

 本では、ベンが「スクープされたことに激怒した」とある。その様子は、映画でもトム・ハンクスが見事に再現していた。トムのベンはメリルのケイの情報を受けて、編集局にいるインターンの若者を呼びつけ、ニューヨークに行ってタイムズ社内を偵察してくるよう命じる。若者は敵陣に巧妙に紛れ込んで、紙面の割付用紙に空欄があり、特ダネ記者の名前だけが書き込まれていたことを現認してくる。この話は、さすがに本には出てこない。

 

 映画では、その業務命令に若者が「これは、合法的か」と聞きかえす。これに対するトム・ハンクスの台詞を僕は正確に聴きとれなかったが、「おれたちの仕事が何か、わかっているだろう」という趣旨のことを言い放つ。コンプライアンス(法令順守)第一の昨今の日本社会では、絶対に聞かれない言葉だ。だが、あのころのジャーナリズムには、情報をとるためなら腹をくくってなんでもやる、という向こう見ずな精神があったように思う。

 

 本は、ベンの怒った後の英断にさらっと触れている。文書の自力入手をめざす一方、「プライドを捨て、タイムズのクレジットをつけて記事を書き替えてポストに掲載し、タイムズに対抗する道も確保した」というのだ。「クレジットをつけて」とは、前述の「○○新聞によれば……」方式だろう。後段に「タイムズから再録された」記事云々のくだりもあるので、これは実行に移されたらしい。そうなら、競争紙を通信社のように使ったことになる。

 

 映画も本も、ヤマ場はポストが自前で文書を手にしてからだ。文書の束はベンの自宅へ運び込まれ、集まった記者たちが早業で原稿にする。そこにケイからのゴーサイン。情報源がタイムズと同一なので弁護士は共謀を理由に訴追されないか心配するが、それでも紙面化に踏み切る。政府がタイムズ、ポスト両紙を相手に法廷闘争に臨んだのに対し、連邦最高裁が下した判断は「報道の自由」の優先。1社でなく2社で闘った意義は大きい。

 

 小さな連帯もある。ホワイトハウスが、ニクソン大統領の娘の結婚式報道でポストに干渉したという話。辛口記者の取材を断ってきたのだ。だが、映画ではベンが、それなら他紙の力を借りればよい、と動じない。この本にも「他社の記者たちがホワイトハウスに抗議する意味を込めて」「彼らの取材ノートを渡してくれた」とある。その結果、「ワシントン中で最も豊富な情報」を集めた記事が「ポストの第一面に、署名なしで掲載された」という。

 

 メディアに競争と相互批判は欠かせない。だが大きな圧力の影が見えたら、互いに腕を組んで抵抗しないと押し潰される。今の日本のメディアは、そのことを忘れてはいないか。

(執筆撮影・尾関章、通算420回、2018年5月12日更新)

 

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『熊野からケルトの島へ』(桐村英一郎著、三弥井書店)

写真》ケルトは渦が好き

 今からもう、25年も前のことだ。真冬のスコットランドに数日間滞在したことがある。北方のシェットランド諸島でタンカーが座礁して原油が流出する事故があり、駐在先のロンドンから現地取材に赴いたのだ。そのときに泊った宿で奇妙な体験をした。

 

 部屋のテレビで地元局にチャンネルを合わせたときのことだ。現代劇のドラマでわけのわからない台詞が飛び交っている。当時は英国に着任して間もないころで、一瞬、自分の英語力が乏しいせいかと思ったが、そうではないことにすぐ気づいた。画面に英語の字幕が出ていたからだ。スコットランドの現地語に違いない、おそらくはケルト人が使っていた言葉なのだな、と察した。それが今も、日常会話に用いられているらしい。

 

 この一点でもわかるように、英国には今もケルト文化が根強く残っている。言語についていえば、スコットランドや北アイルランドではケルト語の系譜にあるゲール語が英語とともに公用語となっている。ウェールズでもケルト語の別の流れがウェールズ語となり、英語と併用されている。隣の独立国アイルランドも、ケルト色は強い。英語がふつうに話されてはいるものの、政府内にゲール語を守り、その使用を促す役所がある。

 

 翻って日本列島はどうか。そこにいるのは大和民族だけではない。琉球民族がいる。アイヌ民族がいる。ここまでは、僕たちの共通認識だ。だが残念なことに、縄文、弥生にまで遡って内なる多様性を自覚するだけの文化遺産に恵まれているとは言い難い。

 

 で、今週は『熊野からケルトの島へ』(桐村英一郎著、三弥井書店)。著者は、朝日新聞で経済記者だった人。定年後、奈良県明日香村に住み、さらに三重県熊野市へ転居した。古代史に関心が深く、著作も多い。僕にとっては、同じ新聞社の空気を吸った大先輩。専門分野は違うが、ロンドン駐在を経験し、論説委員室に在籍するなど社内歴にも似たところがある。だから、尊敬の念とともに共感めいた思いを抱いている。この本は、2016年刊。

 

 執筆の端緒を、著者はこう明かす。「熊野灘を眺めて暮らすうちに、ユーラシア大陸の西と東の両端のさらに端っこに位置し、黒潮とメキシコ湾流という二大暖流が沖を洗う地域には、同じような観念や思想・風土が育まれるのではないか、と思うようになった」。それで2013年と翌14年、アイルランドとスコットランドをドライブで巡った。スコットランドには昔からなじみがあったが、アイルランドの旅は初めてだったという。

 

 著者は、この作業仮説を民族学者梅棹忠夫の知見に重ねあわせる。同名の著書で展開された「文明の生態史観」だ。ユーラシア大陸の真ん中には乾燥地帯があり、遊牧民がいて両側の農耕地帯を荒らしまわることがあった。だが、その被害を免れたところがある。西欧と日本だ。その結果、どちらも似たような歴史をたどることになった――要約すれば、こんな歴史観だ。その極致が片やアイルランドやスコットランドであり、もう一方に熊野がある。

 

 この本は、ユーラシアの西と東の果てを見比べていく。まずは自然。スコットランド西岸の島巡りで、スタッファ島という無人島に近づいたときのことだ。「まるで楯ケ崎そっくりだ」。著者は、そう感じたという。柱状節理が、熊野市の海岸にある大岩壁に酷似していた。両者は「ともに太古の火山活動が生んだ奇観」である。言い添えれば、このスタッファ島は作曲家メンデルスゾーンが「フィンガルの洞窟」の曲想を得た場所として知られる。

 

 岩石の話を続けよう。「ケルトと熊野には『石塊(せきかい)へのこだわり』という共通点がある」というのが、著者の見方だ。アイルランドやスコットランドには石の遺跡が多い。塚あり、立石あり、列石あり。ケルト人にとっては自分たちが移り住むよりも前に築かれたものらしいが、それでも「その場所で豊作を祈り、収穫を感謝し、また太陽を仰ぐ儀式などを行った」。先住民族の文化を踏みにじることなく、逆に敬ったのである。

 

 熊野にも「石への崇拝」がある。一例は、熊野市山中の「まないたさま」だ。「谷川の脇にふたつの大岩が重なり、小さな木の鳥居が建つ。大岩の間の薄暗い空間をのぞくと、長方形の石がおさまっている」。形状から言えば、アイルランド中西部の遺跡「巨人のテーブル」に似ている。だが、本文とともに載っている写真は対照的。「巨人の…」が明るい平原にすっくと立っているのに対して、「まないた…」は暗所に隠れて見えない。

 

 この本が目を向けるもう一つのものが、樹木だ。「古代ケルト人にとって一番大事な木はoak(オーク)だった。彼らはオークとそれに絡みついたヤドリギを神聖視した」。ただし、彼の地の「オーク」は狭義のカシではない。コナラ属の総称で、とくにカシワに近い樹種を呼ぶことが多いという。カシワは日本でも「葉守(はもり)の神」の住みかとみなされてきた。清少納言『枕草子』がその伝承に触れていることも、著者は見逃さない。

 

 著者は「オークとカシワが信仰の対象になったのは、ともに人間の生活に欠かせない食と深く結びついていたから」とみる。どんぐりが人や動物の食糧となっただけではない。樹木そのものが虫やカビやキノコ、コケ類の生息の場となる。生態系の柱なのだ。ここで科学担当の元新聞記者としては、熊野が照葉樹林帯であり、落葉広葉樹のカシワと異なる常緑広葉樹が多いことも言い添えたい。ユーラシアの両端には広葉樹林の豊饒がある。

 

 言葉をかえれば、エコロジーの原風景がケルトや熊野にあるとも言える。著者も、ケルトの地母神をめぐる神話に「『絶対神―人間―自然・動物』といった序列」は見いだせず、「人間の傲慢さはない」と断じる。すべての生き物は生態系の一員という「共生」の思想だ。

 

 共通点は心のありようにもある。両地域の人々は同じように海と向きあい、似たようなものを「海の彼方」に思い描いてきたという。「アイルランドに伝えられる神話によると、ケルト人は海の彼方に食物がたわわに実り、不老不死の楽園『常若(とこわか)の国(ティル・ナ・ノーグ)』があると信じた」「熊野の古代人も海の彼方に豊穣(ほうじょう)と再生の理想郷『常世(とこよ)』があると信じていた」。どちらも、永遠が保証された世界である。

 

 もう一つ、宗教面の寛容も相通じる。この本が例に挙げるのは、ケルトのハイクロス。円環を重ねた十字架だ。土着のドルイド教が自然を崇めており、円環は太陽のしるしとみられるので「キリスト教とドルイド教の融合の象徴」といえる。それだけではない。アイルランド古来の神々は、多くが「キリスト教の普及とともに小さな妖精(シィ)となった」。欧州大陸のキリスト教が「布教の邪魔になる神や精霊」を「悪魔や鬼」にしたのと大違いだ。

 

 熊野の寛容は、熊野本宮大社の例大祭にみてとれる。神事の傍らで護摩焚きがある。著者によれば「神道と密教・修験道、祝詞(のりと)と読経が混在する」。そこには「神は本来の仏が仮の姿として現れた」という思想があり、本宮の神は阿弥陀如来の現れという。

 

 「常若」「常世」の思想は寛容の精神と結びついて、人々の目を外に見開かせた。この本は、アイルランドに米大陸などへ渡る人々が多くいた史実を描く一方、熊野も明治以来、大勢の海外移住者を輩出したことに言及している。「アイルランドや熊野の人びとは『海の向こうにより良い生活や幸せが待っている』という観念のDNAを引き継いでいるような気もする」。ユーラシアの東西端は地の果てであっても、決してどん詰まりではなかった。

 

 そして最後の共通項は反骨の気概だ。アイルランド、スコットランドには「独立運動」がある。熊野にそれはないが、「時の権力や権威に『まつろわぬ(言うことをきかない)者』たちの本拠地」ではあった、と著者はいう。その証左は「南朝の血筋を引く後南朝の伝承」や「平家の落ち武者伝説」だけではない。「大逆事件という一大でっち上げ事件の犠牲になった大石誠之助ら『紀州グループ』」も「まつろわぬ者」に位置づけている。

 

 大陸の事物が次々と押し寄せる島の突端に、開放的だが奥深い懐がある。常若常世の暖流に愛撫され、森の生態系に抱かれたアイルランドやスコットランドのケルト文化と紀伊半島の熊野文化だ。記者の実感が学者の史観に血を通わせ、その実相を浮かびあがらせた。

(執筆撮影・尾関章、通算419回、2018年5月9日更新)

 

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『島とクジラと女をめぐる断片』(アントニオ・タブッキ著、須賀敦子訳、河出文庫)

写真》大西洋の島

 今週はクジラの話。科学記者がかかわる国際問題の一つに捕鯨がある。日本の水産関係者が官民あげて捕鯨に前向きなのに対して、欧米やオセアニアの大勢は反捕鯨という構図があって、その確執をとりあげてきたのだ。論争の舞台は国際捕鯨委員会(IWC)。僕も欧州に駐在していた1995年、アイルランド・ダブリンで開かれたIWC総会を取材した。あのときも日本の調査捕鯨が非難の的となっていたことが思いだされる。

 

 捕鯨問題は、環境保護運動と密接にかかわっている。この分野の国際NGOは反原発を掲げ、脱温暖化を唱え、そして捕鯨反対を訴える。日本国内にも最初の二つに共感する人は多いが、最後の一つには引っかかるという向きがあるだろう。僕もその一人だ。

 

 理由としては、南紀・太地などのクジラ漁文化をないがしろにしたくないという思いもある。だがそれより、反捕鯨の論理そのものに矛盾があるように思えるのだ。環境保護思想、すなわちエコロジーの視点に立てば、エコシステム=生態系こそが守られるべきものであり、そこに組み込まれた食物連鎖は避けて通れない。同じ哺乳類のウシ、ブタ、ヒツジは食用に供しながら、なぜクジラだけを特別視するのか――この理屈がすっきりしない。

 

 クジラは野生、だから家畜とは違うと言う人もいる。だが、この論法には無理がある。飼育されたウシやブタやヒツジも、祖先は野生だった。それがヒトによって囲い込まれ、都合よく育種されたのだ。こちらのほうが生態系への介入度は高いようにも思える。

 

 ところが日本の捕鯨存続派は、この論点を素通りして水産資源保護の土俵で争おうとする。獲り過ぎはいけない、生息数を見極めながら獲ればよいという立場だ。だから、議論はすれ違いになる。欧米の反捕鯨論は、もはや乱獲云々の次元にはなく、エコロジーとそこから派生する動物の権利擁護論に立脚している。ヒトもクジラも生態系の一員であり、それぞれ固有の権利があるというわけだ。論破するなら、その思想と向きあう必要がある。

 

 エコロジーは、1960〜70年代に台頭した。まだ成熟していないから、議論の余地が大いにある。なかでも、食文化と動物の権利擁護論の関係は最大の論点だろう。そこに踏み込んで意見をたたかわせようという論客が現れてもよいのだが、あまり見かけない。

 

 エコロジーのなかでも反捕鯨は歴史が浅い。IWCは戦後まもなく「クジラ資源の適切な保護」と「捕鯨産業の秩序ある発展」を目的に設立された。そのころは、世界の趨勢が捕鯨を資源問題ととらえていたことになる。それで思いだすのは、僕が子どものころに見たニュース映画が「捕鯨オリンピック」をとりあげていたことだ。頭数の総枠を決めておいて各国が捕獲を競いあう方式がこう呼ばれた。今の反捕鯨論との落差はあまりに大きい。

 

 捕鯨は、ハーマン・メルヴィルの名作『白鯨』をもちだすまでもなく、欧米の海洋文化の一つだった。それが20世紀半ばに反転して反捕鯨の文化を生む。僕は、ここにエコロジー思想の衝撃の大きさをみる。と同時に、欧米人とクジラの関係をもっと知りたくなる。

 

 で、今週は『島とクジラと女をめぐる断片』(アントニオ・タブッキ著、須賀敦子訳、河出文庫)。著者(1943〜2012)はイタリアの作家。原著は1983年刊で、原題は「ピム港の女」。著者自身がまえがきで、主題は「主としてクジラ」「隠喩(いんゆ)としてのクジラ」と表明しているので邦題にはうなずける。訳者(1929〜1998)も随筆家として名高い人。この邦訳は95年に青土社から出た。河出文庫版は2018年刊。

 

 まえがきによれば、作品の中身は虚実交々だ。著者は、そこに幻想が含まれるとしながらも「まったくの虚構と称してしまうのも、なにやらうさんくさい」として「基本的には僕自身がアソーレス諸島で過した日々に存在を負っている」と打ち明けている。

 

 アソーレス(アゾレス)諸島は、大西洋の中ほどにあるポルトガル領の九つの火山島。巻末の補注によれば、群がるトビをハイタカ(アソーレス)と見間違えたのが島名の由来。噴火と地震にたびたび襲われてきたが、暖かで雨が多く、植物や鳥や蝶の顔ぶれは多彩という。そして、最高峰ピコ山(2345m)が聳えるピコ島など二つの島で「原始的な捕鯨」が営まれている、と記されている。執筆時点では、捕鯨が続いていたことになる。

 

 作品の構成は変化に富む。冒頭、アソーレス諸島が夢見心地の紀行文風に素描される。次いで、島を舞台とする諸々の話が断章風に綴られる。このあと差し挟まれるのが、島出身の詩人アンテール・デ・ケンタル(1842〜1891)の伝記風小編。そして、クジラの話が前面に出てくる。捕鯨をめぐるポルトガルの法規条文がある。船の同乗記のようにも読めるルポ風の「捕鯨行」もある。最後が「ピム港の女」。捕鯨手が主人公の短編だ。

 

 訳者はあとがきで、この寄せ集め方式を「まるで海面に散らばった難破船の破片をあつめるよう」と形容している。人生には「一見無関係にみえるエピソードのつぎはぎ」という側面があるが、それをまねるように「さまざまなジャンルの散文をつぎはぎにして、深いところで響きあうメタフォリックな作品を編みあげている」という。「こんなふうにも、本を作ることができるのだ」と気づいて「うれしかった」。僕も、まったく同感だ。

 

 当欄では、捕鯨に焦点を当てよう。まずは法規の引用から。海事省は「種の保存および、捕獲の効率を増加するため」に禁漁期間や捕獲枠などを定める責任がある、と明記している。作品が世に出たころは、ポルトガル当局もクジラを水産資源とみていたことがわかる。

 

 「捕鯨行」の一編は生々しい。「死の道具は、僕が想像していたように上から投げ下ろされるのではなくて、投げ槍のように下から上に向かってほうりあげる」「たいへんな鉄の重量に落下時の速度が加わって、銛を必殺の武器に変えるのだ」。このあと、「僕」の乗る汽艇(ランチ)が手負いのクジラを追いかける。艇は銛綱とつながっているから、クジラが海に潜れば自分たちも引き込まれる。いざとなれば綱を切るしかない緊迫の追跡劇だ。

 

 やがてクジラは止まる。呼吸に伴う「ひゅうひゅう」という音。「空中に立ちのぼる噴水は赤く血に染まり、海面には朱色の水溜りが広がっていくのだが、赤い雫が僕たちのところまで微風に運ばれてきて、顔や着衣を汚す」。とどめに、槍投げ手が「矛槍」のようなものを打ち込む。巨体はいったん沈み、また水面に現れ出る。このとき、「笛のように長くひびく、喘ぐような、胸に突き刺さるような、たまらない音」が聞こえる。「死の咆哮」だ。

 

 帰途、船長でもある捕鯨親方が聞いてくる。「おまえさん、いったいどういうわけで、こんなふうに一日を過ごそうと考えついたのかねえ」。適切な答えが見つからず、親方がうとうとしたころになって「僕」はつぶやく。「あなたもクジラも、まもなく消えてしまう種族だからじゃないでしょうか」――著者は、この作品で反捕鯨の動きを正面切ってとりあげてはいない。だが、意識はしていたのだろう。クジラはすでに「隠喩」となりつつあった。

 

 今、ポルトガル観光局のサイト“visit Portugal”に入り、アソーレス諸島のページを開くと「現在、捕鯨の伝統は、非常に人気のある観光客向けの活動に形を変えました」という記述に出会う。捕鯨からホウェール・ウォッチングへという世界の潮流はここにもある。

 

 末尾「あとがき」は「一頭のクジラが人間を眺めて」の感慨だ。ヒトは「どうしていつも、あんなにせわしないのだろう」とあきれ、「ながいこと黙っているかと思うと、突然、いきりたって叫び合い、ほとんど変化のない、もつれた雑音を出すのだが、それには、われわれの出す、呼びかけ、愛、哀惜の嘆声などのように本質的な音にみられる完成度がない」と断じる。「ピム港の女」でヒトの切ない恋と愚かな罪に触れた後なので妙に説得力がある。

 

 捕鯨とは、悠然として気高い動物との闘争だ。真剣勝負の格闘技だから、相手への尊敬の念が芽生える。それが、生物種はみな同じ生態系の仲間という思想と結びついて反捕鯨論が強まったのだ。捕鯨存続論も、この一点は理解しておかなければならない。

(執筆撮影・尾関章、通算418回、現時点で更新なし)

 

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『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)

写真》茶の世界

 大河ドラマは、どうも好きになれない。昔の人物に今の倫理を押しつけている印象が拭えないからだ。かつて書いたことをもう一度繰り返すと、武力が正当化され、人権がないがしろにされていた世情をそのまま描かず、近代市民社会の常識と折り合いをつけるべく美化しているところがある(当欄2014年12月5日付「師走に思う大江戸ミッドナイト」)。視聴者の反発を買わないための脚色かもしれないが、嘘っぽさは拭えない。

 

 乱世の物語を血なまぐさいまま活写せよ、とは思わない。ただ、美化とは違う描き方もあるはずだ。歴史の転換点では、人間の野心、嫉妬、愛憎があからさまなかたちで表れる。その確執を巧く切りだせば、見ごたえのあるドラマになるだろう。シェイクスピア作品がそうだ。舞台劇ということで流血沙汰は様式化され、登場人物の心模様が台詞を通して見えてくる(当欄2016年11月4日付「名演出家、名優去りし年のマクベス」)。

 

 日本史では室町の世が、そんな心理劇の芽をはらんでいる。幕府はあるが、背後に最高権威の朝廷が控えている。公家もいる。大名もいる。政治権力が一極に集中することなく、いつも揺らいでいる。渦中にいる人物が鋭敏な感受性の持ち主ならば、その思考は深みを帯びたものになるはずだ。しかも、当時は仏教の各宗派が並び立ち、茶に親しむ習慣や庭園を愛でる文化も生まれていたから、それらもものの見方に陰翳を与えたことだろう。

 

 で、浮かびあがってくる人物の一人が、室町幕府第8代将軍足利義政(1436〜1490)だ。少年期に将軍職に就き、世継ぎ問題をこじらせて応仁の乱のきっかけをつくってしまう。将軍の座を退き、歴史の主流からはぐれた人だが、その一方で芸術を愛で、わび、さびの東山文化を生んだ。この人の内面には興味が湧くではないか。きっと、多元的な思いが絡みあっていたに違いない。それをあぶり出せば、一つの作品として成立するだろう。

 

 ただ、こうした視点に立つ歴史劇は大河ドラマには不適なのかもしれない。NHKは1994年、義政の妻日野富子を主人公にした「花の乱」を放映したが、これは視聴率が振るわなかったようだ。天下取りの派手さに乏しく、テレビ向きではなかったのだろう。

 

 義政の心模様をじっくり味わうには、きっと本のほうがよい。で、今週は『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)。著者は1952年生まれ。2012年まで30年間、国連職員としてスイス・ジュネーブなどで勤務した。この本は今年1月刊。

 

 本の話に入る前に打ち明けておくと、僕は著者とは知らぬ仲でない。同じ学び舎の同じ教室にいて、同じ授業を受けた同級生だった。ただ、そうとわかってつきあいが始まったのは、卒業の約20年後だ。そのころ、僕はロンドン駐在の新聞記者。科学担当でジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機関(CERN)をしばしば訪れていたが、そこにいる日本人物理学者が「あなたと縁がありそうな人がこの町にいる」と言って紹介してくれたのだ。

 

 レストランでワインを酌み交わしながら昔話をしていて、僕たちが学生時代、同じ空気を吸っていたらしいことに気づいた。たしかに、見かけたような記憶はある。だが、時空を共有したという実感が僕にはまったくなかった。著者も同様だったらしい。二人とも学内の滞在時間が短すぎたのだ。ただ皮肉なことに、共有すべきものを共有しなかったということで僕たちの心は響きあった。60歳超の今、メールのやりとりをする関係を構築している。

 

 著者は退職後、本の執筆にいそしんでいる。『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)と『知識』(思水舎、2017年)では、それぞれ表題の大テーマをめぐって真正面から持論を展開したが、第3作の本書では突然、変化球を投げてきた。

 

 なによりも、歴史上の人物の対談集という体裁をとったことに工夫がある。著者は「はじめに」で「すべてから自由になった義政は、まだ常御所(つねのごしょ)しかできていない東山山荘に移り住んだ。その義政に九人の客を迎えさせ、話をさせる」と宣言して、「なにもかもがうまくいったのっぺりとした人ではなく、なにもうまくいかなかった深みのある人が描ければいい」(「のっぺり」に傍点)と書く。まさに心模様の再現だ。

 

 ちなみにこの「東山山荘」が、その後、造営を続けて今の銀閣寺となったのである。

 

 「九人の客」のなかには、義政の異母弟で、義政に嫡男がいなければ政権を継いだはずの義視がいる。義政の妻だが、すでに別居状態だった日野富子がいる。猿楽師がいる。禅僧がいる。茶人や立花作者や庭師もいる。応仁の乱後の1483年、これらの面々が次々と山荘を訪ねてくる。義政は数え48歳、とうに政権は手放している。本文にト書きなし。客人と向きあい、ただひたすら語りあう。著者はそれを淡々と現代語で書きとどめている。

 

 著者は「おわりに」で告白する。「書きながら、何度も、不思議な思いに捉われた。会話が勝手に進んでいくのだ。私の思惑を超え、義政が、そして客が、自分の思いを言葉にする」。自動筆記の感覚か。その結果、「室町時代の人々の感じ方や考え方は、今の時代に生きる私たちのものとそうは違わない」と確信したという。現代を歴史に押しつけていると言えなくはないが、そのことで現代人の思考は間違いなく活性化されている。

 

 では、対談の一端をのぞいてみよう。異母弟の義視には謝罪の言葉がある。「今日は、まず私に謝らせてくれ」「なにがです」「還俗させてしまったこと。あれですっかり、貴殿の人生を狂わせてしまった」。これは、仏門に入っていたのを俗世に引き戻して後継者にしようとしたことを指している。そうしておいて政権を譲らなかったのだから謝るのは当然だ。対談のころ、義視は美濃の地に逃亡の身で、僧のいでたちで密かに上京したらしい。

 

 義政は、その弟に「将軍になど、なるものではない」と言う。勝手な言い草にも聞こえるが、将軍を辞めたら「比べることがなくなった」「競う気持ちがなくなった」と言っているのを読むと、妙に納得する。「怒ることがなくなり、悔やむことがなくなり、悩むことがなくなり、人を責めることがなくなり、罪悪感から解放され、自分を責めることがなくなり、恐れがなくなった」。僕のような退職世代には、この感慨がすとんと腑に落ちる。

 

 富子とのやりとりも絶妙だ。富子は新婚時代を「将軍とは名ばかりの、苦労ばかりの毎日。何事も思うようには事が運ばず、周りの人たちに振り回されるばかり」と振り返る。義政が「悪い夢と思うしかないのだろうか」と漏らすと「あの苦労、あの失敗、あの挫折が、二人には良かった」と応じる。それが義政の懐を深くしたというのである。著者が「はじめに」で書いた「のっぺりとした人ではなく」は、このときに富子が口にした表現だ。

 

 この対談では、富子が山荘づくりの資金繰りを心配している。「山荘造営への幕府からの出費をお断りしたのは、この私ですから」。別居中とはいえ妻、しかもそれなりの権力を手にしているからこその気がかりなのだろう。これに対して、義政は「ものの値段など、あってなきがごとし」「いくらかかるのかは、正直、わからない」と雲をつかむようなことを言う。そして「私はここで、雲になることができる」と、自在に生きる境地を披歴する。

 

 富子が「今まで私に縛られてきたのが、ここに来たら雲の心境になれたと、そうおっしゃるのですか」と突っ込むと、義政はすぐさま否定して「こなたなしでは、私は生きてはいけない」と大人の愛を告白。このあとの場面が「(中略)」とされているのも心憎い。

 

 この本にあるのは、私的事情に結びついた会話ばかりではない。義政は猿楽師を相手に「虚構」と「現実」について語り、禅僧や茶人らとのやりとりでは「美」を話題にする。ただ見落とせないのは、対談する二人の言い分に差異をしのび込ませていることだ。このときの義政は当時としては老人のはずだが、それでも他人の主張に耳を傾ける。その姿勢は、著者自身の懐の深さを映しているに違いない。義政は、九島伸一の分身とみてよい。

 

 きっと内なる対話があるからこそ、歴史上の人物の言葉を自動筆記できたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算417回、現時点で更新なし)

 

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