the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』

(スコット・ギャロウェイ著、渡会圭子訳、東洋経済新報社)

写真》古書店で見つけた本、通販で買った本

 商店街で、店先の張り紙に「閉店」の2文字を見つける。その頻度が昔よりも高まったように思う。それがフランチャイズの飲食店やコンビニなら、早めの撤退だな、と納得する。だが、その店が数十年も前から見慣れた老舗だとずしんと身にこたえる。

 

 今春は、そんな衝撃が相次いだ。一つめは、最寄りの商店街にある和菓子店。男子スイーツ部員をもって任じる僕にとっては近隣の最重要店の一つだったが、3月半ばに店を閉じた。家人が告知の張り紙に気づいたのが閉店日の直前。当日、僕も様子を見に出かけてみると、店の周りに行列ができていた。和菓子の賞味期限はそんなに長くない。それでも大量に買い求める人がいる。地元の「味」にこだわる人がこれほど多いとは。

 

 そうこうするうち、次の衝撃に見舞われた。4月末、隣駅の商店街にある古書店が店じまいしたのだ。僕が育った家のすぐそばにあり、学生時代はよく店をのぞいた。最近も、ときどき本を漁りに自転車を走らせていた。昨今の中古本ショップと違うのは、品ぞろえに店主の思いが感じとれたことだ。閉店の知らせに僕は幾度か店に赴き、新刊書店では手に入らない本をいくつも買い込んだ。先々週とりあげた乱歩本はその1冊である。

 

 和菓子店と古書店。どちらも生活必需品を供給する店ではない。だが、その存在によって、街にはゆったりとした空気が漂う。僕たちは、それに誘われてぶらぶら歩きしようという気持ちになる。そういう店が一つ、また一つと消えていくことが残念でならない。

 

 日本列島を見渡せば、今、商店街はズタズタだ。地方都市では、駅を降りたとたんシャッター通りに出くわすことが少なくない。大都市はさすがに人口が集中しているので、店じまいしたままの店舗がそんなに多くない。その代わり、そこに飲食店やコンビニ、スマホショップ、整体院などが割り込んでくるところが目立つ。これらは、店構えが全国一律のものが多い。個人商店ならではの佇まいは雲散霧消してしまったようにも思う。

 

 で、今週は『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』(スコット・ギャロウェイ著、渡会圭子訳、東洋経済新報社)。GAFAGoogle(グーグル)、Apple(アップル)、Facebook(フェイスブック)、Amazon(アマゾン)の4大IT企業を指す。2018年8月刊。僕が苦手なビジネス書の趣もあるが、あえて選んだのは、商店街衰亡の背後にはIT(情報技術)による産業の変容があり、それが世界そのものも変えつつあると思うからだ。

 

 著者は、巻末の横顔紹介によるとニューヨーク大学スターン経営大学院教授。MBAコースの教壇に立っており、YouTubeでは毎週、Winners & Losersという動画を公開している。経営学の語り部としてカリスマの域にあるらしい。だが、この人にはもう一つ、実業家の顔がある。これまでに企業9社を興した「連続起業家(シリアル・アントレプレナー)」。さらに新聞界の最高峰ニューヨーク・タイムズの役員を務めたこともあるという。

 

 著者は学究肌ではない。本文に綴られた自分史によれば「生まれたのは中流の下の上といった世帯」で「一家で高校を卒業したのすら私が初めてだった」が、大学へ進学(ニューヨーク大学の公式サイトには、カリフォルニア大学ロサンゼルス校を卒業、同バークレー校で経営学修士号を取得したとある)。そのことが「この上なく平凡な私に、世界でも一流の教育を授けて出世できる道筋を開いてくれた」。アメリカンドリーム風の回顧だ。

 

 自分史には、大学の学部を出て大学院の修士課程に入るまでの間、いったん就職したことも書かれている。「大学卒業後、成功して女性にモテたいという不純な目的のために、モルガン・スタンレーで2年間働いた」。この一文は、心にとめておいたほうがよい。「女性にモテたい」は、ただの軽口ではない。この本は一貫して、ビジネス戦略を人間の欲求とのつながりでとらえている。その大らかさには、ちょっと退いてしまうほどだ。

 

 この本の流れに沿って、四騎士めいめいについての記述を追っていこう。まずは、アマゾン。これこそが、世界中の商店街を窮地に追い込んだ「コマース」の巨人だ。その成功のカギは、最初の標的を本に絞ったことにあるらしい。「見つけやすく、すぐ捕まえられて、洞穴に持ち帰っても価値が下がらず、またうっかり毒を群れに持ち込むリスクのないもの」。消費者を狩猟で暮らす原始人に見立てれば、書物はそんな獲物に相当するという。

 

 アマゾンは、その特長を増幅する仕掛けを配備した。一つは「なか見!検索」の試し読み。本屋の立ち読みと同じことが画面上でできる。もう一つはブックレビューの書き込み。ネット世界とつながることで、玉石混交の書評をいちどきに読める。「見つけやすく、すぐ捕まえられて」を一歩進めて「どの本が食べる(読む)価値があるかを認定する」ことの手助けまでしてくれるのだ。これでは、僕が郷愁を感じるあの古書店はかなわない。

 

 アマゾンは、あらゆる物品販売に手を広げた。ただそれは、店舗販売を否定するものではない。通販は商品の保管や配送が欠かせないので、モノばなれができない。ただ、ヒトばなれはある。倉庫では無人化が進む。レジなしのコンビニ「アマゾン・ゴー」も生まれた。著者は、創業者ジェフ・ベゾスが最低限所得保障制度の必要を口にしたことをとりあげ、この商法が「破壊される雇用に代わるだけの仕事を新たに生み出すことはない」とにらむ。

 

 ここで注目すべきは、著者が、こうした起業がもたらす雇用破壊によって「おそらく私たちの社会は、中産階級を維持する方法を見つけなければならないという重荷を背負うことをやめてしまった」とみていることだ。ここで言う中産階級は、ロボットやAI(人工知能)に代替されうる部門の労働者を含む中間層のことだろう。大多数が所得保障に助けられ、ごく少数が富裕層をかたちづくる。そんな究極の格差社会の影がちらついて見える。

 

 アップルは、この話の延長線上にある。著者は、アップル製品には1970年代から「ぜいたくなムード」が漂っていたと書く。アップルは、使い手に「自分たちは社会の画一的な歯車の1つではない(“ではない”に傍点)」「他人とは発想が違う(シンク・ディファレント)」という自尊心をもたらした。その製品はやがて、より小さく、より美しく、より多機能になってセクシーさを帯び、「異性へのアピール度」を高めることにもなったという。

 

 著者は、アップルを「高級ブランド」の一つに分類する。それは、自分はただの中間層ではないと思う人の心をくすぐって、今までにない価値を生みだしたのである。「感情」まで売りものにするのだから「現在の事業はテクノロジーではない」。その結果、テクノロジー企業が直面する後続企業の追撃にそれほど脅えないで済むのは強みだ。アップルが「ぜいたく品ブランドとしての地位によって生きながらえる可能性は高い」という。

 

 残る2社はどうか。フェイスブックには「何十億」の人々の「個人情報」が登録される。グーグルには人々の「人目につかない」検索行為を通じて「世界中のすべての情報」が集まってくる。どちらも、それらを広告につなげて莫大な収入を得ることができるのだ。

 

 著者の「気がかり」は、両社が自らを「プラットフォーム」(情報交流の舞台)の提供者と位置づけていることだ。その裏返しで「メディア」としての「社会的責任」が置き忘れられているという。たとえば「真実と嘘を判別する義務」からは逃げ腰だ。あるいは、既存メディアのデジタル戦略に影響を与え、クリック数本位のコンテンツづくりに向かわせることもある。ネット情報はただで行き渡る強みがあるが、歪みかねない弱みもある。

 

 結語の章で著者は、四騎士がめざすのは「つまるところ金儲け」と言い切る。そしてもう一度、雇用破壊の側面を強調して「この調子だとアメリカは300万人の領主と3億人の農奴の国となる」と見通す。自分が「領主」になれる確率はきわめて小さい。

 

 翻ってみれば、商店街はそれと正反対だ。買う側と売る側が対等目線で言葉を交わす。噂話も交じるが無闇には拡散しない。そんな理想郷が失われるのを座視していてよいのか。

(執筆撮影・尾関章、通算472回、2019年5月17日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『宙ぶらりんの男』(ソール・ベロー著、太田稔訳、新潮文庫)

写真》振れて揺れて

 あれは、いつのことだったのか。いろいろ思い返してみても、それが何年だったかさえ朦朧としていることがある。そんな思い出の一つ。まだ学生のころだ。その日、僕は自分の学び舎ではなく東京大学本郷の階段教室にいた。米国人作家の講演を聴くために。

 

 その人は、ソール・ベロー。1976年にノーベル文学賞を受けた作家だ。70年代初めには小説邦訳の文庫版刊行が相次ぎ、日本でも知名度が高かった。講演会があったのは、そのころ。おそらくはノーベル賞の受賞より前だった。僕も米国文学を気どって読んでいたので、友人に誘われると二つ返事で応じた。英語は聴きとれまいと観念していたが……。席は教室の後方。教壇を見下ろすかたちだ。窓からは柔らかな陽ざしが射し込んでいた。

 

 その講演について今回、さまざまなネット検索をかけてみたが徒労に終わった。半世紀も前の催事情報がデジタル化されていることはめったにない。ベローの来日歴くらいは出てきそうなものだが、それも見つからなかった。いま頼れるのは僕の記憶だけだ。

 

 とはいえ、表題すら覚えていない。話の中身は案の定、ついていけなかった。すべてがおぼろだが、脳裏に鮮烈に焼きついていることが一つある。ベローがカッコよく見えたということだ。登壇すると、まずは上着を脱ぎ、シャツの袖をおもむろにまくってから話を始めた。シャツの色はブルー系で、襟元はボタンダウンだったように思う。当時は文学者といえば鬱屈した人という先入観が強かったから、その颯爽とした姿は意外だった。

 

 で、今週は『宙ぶらりんの男』(ソール・ベロー著、太田稔訳、新潮文庫)。この文庫本が刊行されたのは1971年。今回は、その初版を古書店で見つけた。本を開くと、紙は日に焼けている。正真正銘の70年代本に惹かれて、これを買うことにした。

 

 カバーには原題のDangling Manの表記がある。それを見たとき、この本は70年代にすでに読んだのではないか、と一瞬思った。僕が学生時代、どんな仕事に就くかの当てがなかったころ、この小説でdangling=ぶらぶらという言葉を知って「オレは今、danglingなんだな」と自嘲した記憶があるからだ。ところがページを繰っていても「読んだな」と感じる箇所に出会わない。本を買ってはみたものの中身は読まなかったのか。

 

 間違いなく聴いたが、何が語られたのかが皆目わからない講演。題名は原題までも脳に刻まれているのだが、読んだかどうか確定できない小説。1970年代は、すっかり遠くに追いやられてしまった。だがそう思うと、この古書文庫本はいっそう愛おしい。とにもかくにも、「宙ぶらりん」のひとことが一青年のモラトリアム状態に共振したのだ。だったら、小説主人公のdanglingがどんなものかを跡づけてみようではないか。

 

 作品に踏み込む前に、著者の略歴に触れておこう。巻末の訳者解説によると1915年、カナダに移民したユダヤ系ロシア人の家庭に生まれた。父は事業家だったが、失敗を重ねたようだ。一家は24年、米国シカゴへ移住する。家庭は裕福ではなかったが、本人は大学や大学院に進み、社会学や文化人類学を学んだ。大学で教職にも就いている。『宙ぶらりん…』は出世作。44年に発表された。第2次世界大戦末期のことである。

 

 この作品は、主人公の「ぼく」、ジョウゼフ27歳の暮らしぶりを日記形式で描く。最初の日付は大戦中の1942年12月15日。冒頭で、日記をつけること、即ち「自分自身への語りかけをくりかえし、内心の動きを記録に残す所業」が、昨今では「遊び、弱さ、悪趣味」と蔑まれるようになったことを嘆く。ハードボイルド派は「内面生活」を「胸にしまっておけ」と言うが、世界が「非モラル化」しているときにそれは当たらないと主張する。

 

 こんな対比もある。ハードボイルド派は「飛行機を乗りまわし、猛牛と闘い、大魚(ターポン)を釣りあげる」。これに対して「ぼく」は「日に十時間は、一室だけの部屋に一人でいる」。ヘミングウェイ流行動派台頭の時代に、それと逆張りの自己主張をしている。

 

 いわば、内省派宣言だ。当欄の書き手として、僕はこれに深く共感する。当欄は日記と違って公開こそしているが、拡散志向は強くない。たまたま目に触れた人に読んでいただければよい、くらいの気持ちでいる。それでも毎週書きつづけるのは、内省の舞台を確保したいからだ。1冊の本をテーブルに置いて、周りを自分や自分の分身たちが取り囲む。その雑談で視界が広がったりするのだ。これだって大魚を釣るほどの醍醐味がある。

 

 表題にある「宙ぶらりん」は、「ぼく」の境遇そのものだ。シカゴ在住で、徴兵に応じて勤め先を退職したのに、書類の不備やら審査の必要やら条項の改定やらを理由になかなか入隊できない。いわば「官僚主義」の犠牲ともいえる失業状態。友人が臨時雇いで選挙の世論調査員をやらないかと声をかけてくるが、それにも気乗り薄な返事をする。妻のアイヴァが働きに出て、その収入で生活する。住まいは、トイレも共用の下宿屋だ。

 

 「ぼく」は啓蒙時代の哲学者をめぐる論文を執筆中とあるから、文系知識人なのだろう。だが、今は読書が手につかない。代わりに朝食後、新聞を「一語も余さず」に読む。「窓をひらいて、天候を眺(なが)め、新聞紙をひろげて、世界を受入れる」「かくてぼくは、世界にみたされ、はっきりと目をさます」。主人公は自室滞在が長くても引きこもりではない。新聞の精読を通して世界とかかわっている。これも、社会派の一つのありようだ。

 

 この作品には戦時色が漂う。クリスマスの日、「ぼく」が兄の家に招かれたとき、夕食は「物資配給量の不足」の話題でもちきりだった。米国にも物不足があったのだ。兄は、軍隊では幹部候補生をめざせと忠告するが、「ぼく」は同意しない。「大多数の男が、市民生活における野心を、軍隊にまで持ちこんで、いわば、戦死者の背中を踏み台に、おのれの昇進を志す。ぼくはちがいますよ」。戦争がもたらす心理の歪みを冷静に見抜いている。

 

 日記に書き込まれた米国観は読ませる。米国民は「殺戮行為に関与しすぎている」が、その一方で、ペットの救命に飛行機が使われることもあるし、高齢者の延命看護に隣人たちが手を差しのべることもあるというのだ。博愛の理想を追い求めながら、それとは正反対の泥沼にはまり込む。これは、僕たちの世代がベトナム戦争のころに見せつけられた米国の矛盾そのものだ。その意味で、この作品は1960〜70年代の先取りとなっている。

 

 そう言えば、この作品にはベトナム戦争のころに流行ったアメリカン・ニューシネマを連想させる場面がいくつもある。たとえば、兄の家で繰り広げられる15歳の姪エッタとのいさかい。「ぼく」が好きなレコードをかけていたら、エッタが「あたしも、プレーヤーを使いたいのよ」と近づいてくる。それは口喧嘩で終わらず……。まるで幼稚園児のおもちゃ争いのような光景。そんな騒動をありのままに描くところは、ニューシネマそっくりだ。

 

 夫婦喧嘩もある。妻のアイヴァが本を捜していたときのことだ。見つからないのは、よりにもよって「ぼく」がこっそり女友だちのキティに貸していた小説だった。「ぼく」は別の本を読むように仕向けるが、それが怒りを買って外へ飛びだす。めざすはキティの家。雨のなか、「濡れた服、濡れた石炭、濡れた紙、濡れた大地のにおいを吸い、霧の流れに押しやられる格好で、ぼくは街角へ向った」。主人公のずぶ濡れも、ニューシネマ風だ。

 

 内省の記述では、戦争と死が縦横に語られる。ある箇所では、「戦争を支持」と断言する一方で「戦争の恩恵を受けるよりは、その犠牲者となるのを選ぶ」と書く。別の箇所では、「自己保存」を称えるスピノザの思想を引いて「われわれは自分自身を支配すべきだ」「ぼく自身がリスクを背負いこむ必要がある」と自らに言い聞かせる。ところが最終盤では、その自己決定権を放棄するような言葉にも出会う。これが戦時知識人の苦悩なのだろう。

 

 米国社会の価値はgreatばかりではない。自らの弱さを隠さず、理想と現実の乖離に悩む。これは、米国知識人が20世紀後半に見いだしたカッコよさだ。ソール・ベローはその先達だった。最近の米国社会は、この価値観を置き忘れてしまったようにも思う。

(執筆撮影・尾関章、通算471回、2019年5月10日公開、同日更新)

 

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「地獄の道化師」(江戸川乱歩文庫『地獄の道化師・一寸法師』=春陽堂書店=所収)

写真》道化の仮面

 いい季節になった。窓から拙庭――というより敷地の余白か――のただ1本の高木ムクノキを見て、そう思う。ひと月ほど前までは枝々が裸のまま黒々としていたのに、今はみずみずしい葉で覆われている。透き通る緑に誘われて、ついつい散歩に出たくなる。

 

 60歳超の散歩は、6歳未満のそれとは大きく違う。6歳未満の散歩は発見の連続だった。初めて見るものだらけだったのだ。ところが、60歳超のそれに発見はない。いや、もしあっても大発見ではない。街の老舗が消えてフランチャイズの店が開業したのを見ても、うすうす予感していた通り。風景そのものに驚きはない。その代わり、別次元の精神作用がある。60歳超の目には、風景の裏側に遠い過去が透けて見えるのだ。

 

 それは、僕のように生まれ育った場所と現在の生活圏が重なる場合は日常のことだ。散歩とは、空間次元のさまよいを指すだけではない。時間次元に迷い込むこともある。

 

 で、このごろ自宅からの徒歩圏をぶらぶら歩いていて脳裏に蘇ってくるのは、街が電車の線路によって分断されていた時代の風景だ。このあたりでは2000年代に入って私鉄電車が高架化され、それによって界隈の雰囲気がガラッと変わってしまった。考えてみれば、電車の線路とは大河に相当するものだ。いや、川は橋があるところでいつでも渡れるが、線路には踏切という関門があって電車が通らないときにしか行き交えない。

 

 今、散歩で高架をくぐるとき、僕の心に思い浮かぶのは、そこが踏切だったころのことだ。母の腕に抱かれ、勤め帰りの父を駅まで迎えにいったときの様子が原風景のように記憶されている。そのころは駅の出口が線路の南側にしかなくて、北側の住人は電車を降りると踏切を渡る必要があった。その踏切には、本線のほかに車庫につながる引き込み線のレールも通っている。だから、遮断機の向こうで手を振る父の姿がとても小さく見えた。

 

 もう一つ、印象に強く残っているのは、踏切がやたらと騒々しかったことだ。開かずの踏切に近かったから、警報機が鳴っている時間が長かったこともある。遮断機の上げ下げがどこまで自動化されていたかはわからないが、踏切番といわれる人が傍らの小屋にいて人や車を見守っていた。旗を振り、笛を吹き、ときに声をあげていたようにも思う。いずれにしても、横断する人や車の流れが急かされていたことは間違いない。

 

 で今週は、江戸川乱歩の探偵小説「地獄の道化師」(江戸川乱歩文庫『地獄の道化師・一寸法師』=春陽堂書店=所収)。本書は1988年に文庫新装版として刊行されたものだが、「地獄の…」は『富士』という雑誌の1939(昭和14)年1月〜12月号に連載された。僕はこの本を、隣駅の商店街にある古書店で手に入れた。思わず手が伸びたのは「春陽堂」の3文字に目がとまったから。往時の探偵小説にはふさわしい版元だ。

 

 この作品は「東京市を一周する環状国鉄には、今もなお昔ながらのいなかめいた踏切が数カ所ある」の一文で始まる。昭和10年代には、山手線にも道路と平面交差する箇所があちこちにあった、ということか。さもありなんと思える。今の踏切との違いは「踏切番の小屋があって」「番人が旗を振る」ことだ。その数カ所の一つ、豊島区にある「I駅の大踏切」で、おぞましい事件の火ぶたが切られる。「I」とあるのは、おそらく池袋だろう。

 

 その踏切を列車が通り過ぎた後の情景描写は、こうだ。「踏切番の笛が鳴って、遮断棒が宙天にはね上がっていく。たちまち自動車の警笛がさまざまの音色をもって、お互いに威嚇し合うように鳴り響き、種々雑多の車どもは、洪水(こうずい)の堤を切ったように、線路の上へとあふれはじめた」。どうやら、歩行者そっちのけで車が行き来していたようだ。これは、僕が幼いころに近所の踏切でみた昭和30年前後の光景とぴったり符合する。

 

 まずは、その「洪水」のなかで交通事故が起こる。トラックの荷台から荷箱がいくつか転げ落ち、オープンカーが踏切から脱輪、積んでいた「白布に包まれた大荷物」が飛ばされ、線路上に横たわる。このとき、白布が外れて中から姿を現したのは「石膏(せっこう)で造った裸女の立像」だった。そこに電車が突っ込んできて急停車するが、間に合わず裸女像を轢いてしまう。人間でなくてよかった、と読者は胸をなでおろすことだろう。

 

 ところが、乱歩流はそんなに甘くはない。群集の間から声が聞こえてくる。「変ですぜ。あの石膏の割れめから、なんだかにじみ出してきたじゃありませんか」「そうですね。赤いものですね」――石膏の中には女性の死体があらかじめ塗り込められていたのである。

 

 さて、この作品はミステリーなので、いつものように当欄は筋を追わない。ただ、大きな構図だけは書きとめておこう。主だった役どころの若い女性が3人いる。野上みや子、あい子の姉妹、そして新進ソプラノ歌手の相沢麗子。ここに二人の男性が絡む。ピアニストの白井清一は、みや子の「いいなずけ」だが、あい子とも互いに惹かれあっている。麗子とは仕事の相棒だ。もう一人、綿貫創人というあやしげな彫刻家も出てくる。

 

 踏切の事件後、あい子が警察署に出向いて、石膏像の死体は数日前から行方不明のみや子ではないか、と申し出る。顔は傷めつけられていて見分けがつかないが、右腕の傷跡から姉に違いない、と言う。ここから謎解きが始まり、明智小五郎探偵の登場となるのである。

 

 この小説では、踏切番のほかにも、今は街頭からほとんど姿を消した職種が出てくる。「チンドン屋」だ。あい子が警察署からの帰途、うら寂しい通りを歩いていると「ひょいと町かどを曲がってくる人影、なんだかパッと花が咲いたようにはでやかな色彩が目にうつった。それは胸に太鼓をつり、背中にのぼりを立てたひとりのチンドン屋であった」。ただし、この人物は仲間がおらず太鼓も叩いていないことから、どうやら偽物らしい。

 

 だが、この箇所を読んで、僕は幼いころに商店街の大売り出しなどでよく見かけた本物のチンドン屋を思いだした。「胸に太鼓」「背中にのぼり」。たしかに、その通りだ。太鼓は胸から突きだすように抱え、鼓面を横から打ち鳴らす。上部には小さな鉦もついていた。たいていは数人で練り歩き、楽器を奏でる。クラリネットなどの洋楽器も含まれていたが、あの旋律は和洋どちらとも区別のつかぬ代物だった。にぎやかだが哀愁が漂っている。

 

 強烈だったのは、その人々のいでたちだ。極彩色の服を着ていることが多かったから、この作品に「なんだかパッと花が咲いたよう」とあるのはうなずける。顔におしろいを塗りたくり、ちょんまげ、着物姿の大衆演劇風の人もいた。この作品の「チンドン屋」は「赤地に水玉模様の衣装」に「とんがり帽子」という道化師の装いだが、やはり顔面は厚化粧。そのことが探偵小説のミステリー性を強める格好の仕掛けともなっている。

 

 もう一つ、この作品で見逃せないのは都市に潜む空白だ。東京市麻布区(現・東京都港区の一部)の描写を見よう。当時、一帯は邸宅街だったが「どの町もひどく古めかしくて、なんだか大東京の進歩にとり残されているような感じ」であり、「思いもよらぬところに、もったいないような草ぼうぼうの広いあき地があったりする」状態だった。明智探偵の助手役、小林少年がチンドン屋風の道化師を見つけて尾行した先も、そんな空白地帯だった。

 

 あき地の周りは「あき家になった小工場や、もうとりこわすばかりの、人の住めない貸家などが、軒もいびつに立っていて、あかりのもれる窓もなく、まるで郊外へ行ったようなものさびしい感じ」だ。道化師は「そのあき地を横切って」あき家の中へ姿を消す。

 

 ここには今昔の違いがある。昔の東京には、こんな逃げ場があちこちにあった。あき地は人がたやすく通り抜けられ、あき家にこっそり身を隠すこともできた。それらは、戦後も僕の幼年期には残っていたように思う。だが今は、空白であっても立ち入り難い。

 

 乱歩がこれを書いたころ、日本社会は国家の締めつけが強まる時代だった。それでも、こんな開放感があったのだ。そう思うと、平和な今の閉塞感がかえって不気味に思える。

(執筆撮影・尾関章、通算470回、2019年5月3日公開、同月6日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

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「災害報道の日米比較(1)〜危険地への記者派遣と経験の受け継ぎ〜」

(五十嵐浩司著、『コミュニケーション文化論集』第16号抜刷、大妻女子大学コミュニケーション文化学会2018年3月発行)

写真》新聞という「判断」の束

 ロンドン駐在時代、BBCテレビのニュースを見ていてギクッとしたことがあった。画面では、自局記者の殉死が伝えられていた。四半世紀も前のことなので、すでに記憶はあやしいが、旧ユーゴスラビアの紛争地帯で一命を落としたのではなかったか。大ニュースの扱いではなかった。印象に残るのは、キャスターが記者の経歴を淡々と振り返り、敬意と弔意を表していたことだ。それを見て、こんなことは日本ではまずないな、と僕は思った。

 

 理由は二つある。一つには、日本の大手メディアは自社の記者を戦闘地帯にめったに送り込まない。もう一つ、もしも自社の記者が危険な場所に足を踏み入れて不慮の死を遂げたなら、これほど素直に敬意を表すことはないだろうということだった。

 

 この違いはどこからくるのか。あえて言えば、そこには戦後の日本社会に根を張った死生観があるように思う。僕たちの世代は小中学校で、どんな死であれ、死は避けるべきもの、とたたき込まれた。特定の死を美しい死、気高い死ととらえる思想は徹底的に排除されたのだ。これを、戦後民主主義がもたらした偏向教育だとは思わない。人命がとことん軽んじられた時代をくぐり抜けてきた人々の痛切な思いの発露とみるべきだろう。

 

 こう考えるのも、1990年前後に脳死・臓器移植論争を取材したからだ。そのころ、欧米では脳死体からの臓器移植が広まっていたが、それは脳死を人の死とみる認識が定着していたからではないようだった。むしろ脳死移植を、死にゆく人が目前に迫る自己の死と引き換えに他者の生命を救う尊い行為ととらえているように思えた。だが日本社会では、脳死が人の死でない限りは脳死体からの臓器移植を容認しないとの見方が強かった。

 

 変化の兆しは、1992年に政府の臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)が出した答申だ。臨調委員の少数派は、脳死は人の死でないとの立場だったが、脳死の人が「脳死になれば臓器を譲る」と望んでいたのなら臓器提供者になれるという一線まで譲歩した。死の確定よりも他者への善意を優先する選択肢を受け入れたのだ。少数派の一人、哲学者の梅原猛さんは、これを仏教の「菩薩行」にたとえた。この答申が脳死移植再開に道を開いた。

 

 最近では、死生観が末期患者の延命をめぐっても問われている。死をどこまでも避けようという姿勢は正しい。ただ、死は必ず訪れる。なによりも「末期」の2文字が、そのリアリズムを映している。死を先延ばしにできる技術は次々に現れているが、なかには本人が望まぬもの、苦痛を強いるものもある。そういう患者に延命技術をどこまでどのように用いるのか。そこでは、日本社会の戦後死生観だけでは割り切れない倫理も求められている。

 

 で、話をジャーナリズムに戻そう。記者の危険地報道を扱った論考が僕の手もとにある。「災害報道の日米比較(1)〜危険地への記者派遣と経験の受け継ぎ〜」(五十嵐浩司著、『コミュニケーション文化論集』第16号抜刷、大妻女子大学コミュニケーション文化学会編、2018年3月発行)。著者は、朝日新聞の元国際記者。テレビ朝日系「報道ステーション」にも出ていた人だ。この論考は、元同僚の僕に送ってくれた著作の一つである。

 

 表題に「(1)」とあるのは、災害報道(Disaster Reporting)をめぐる日米比較論の「序論」という位置づけかららしい。著者は、米国の特派員歴が長い。この論考でも現地に赴いて、ニューヨーク・タイムズやAP通信の幹部ら5人に聴き取り調査をしている。

 

 論考はまず、2011年の東京電力福島第一原発事故で日本の大手メディアが取材陣の安全確保を最優先させた結果、批判を浴びたことに触れる。近隣自治体の首長の一人も、日本外国特派員協会の記者会見で「日本のメディアは人々に寄り添っていない」と発言したという。この経緯を踏まえて「『ジャーナリストの安全確保』と『メディアとしての使命』の相克に、米国のマス・メディアはどのように対処しているのだろうか」と問いかける。

 

 聴き取りによると、ニューヨーク・タイムズもAP通信も事故、テロを含む災害報道で取材マニュアルを用意していないという。ニューヨーク・タイムズでは報道倫理をめぐる綱領やマニュアルが充実しているが、それでも原子力災害時に放射線量のような数値を示して取材の可否判断に役立てるといったことはないらしい。日本メディアが「取材のテーマごとに細分化されたマニュアルや『手引き』」をつくる傾向にあるのとは正反対だ。

 

 では、現場取材は記者任せなのか。ここで興味深いのは、米メディア内にも考え方の違いがあることだ。日本のメディアに近いのはAP通信だ。国際報道担当副社長のジョン・ダニスゼウスキ氏は「記者個人には決して判断させない」と断言する。氏の説明によれば、記者を送るかどうかは通信社幹部の会議で決める。9・11同時多発テロ級の大事件なら、副社長2人に編集局長、写真局長、テレビ局長を加えた5人が呼びだされるという。

 

 その会議の中身も押さえておこう。記者を送ることが決まると、「派遣の規模や期間」「何をどこまで取材するか」といったことだけでなく、派遣される要員の「精神状態」や「家族のケア」まで話し合われるという。管理職としてのリスク管理にも怠りないわけだ。

 

 これとは対照的に、ニューヨーク・タイムズは記者の自主性を重んじる。現場に赴くかどうかは記者が部長や局次長ら上司と話しあって決めるが、このとき「一方的」なトップダウン方式はとらないという。国際報道担当編集局長のマイケル・スラックマン氏は「記者が自分自身で担当したいと手を挙げるのが大原則」と強調、災害は個々に性格も衝撃度も違うので「ジャーナリストたちがその都度対応を考えるのが妥当」と結論づけている。

 

 これは、記者教育のあり方にもつながる。この論考によると、AP通信の記者は戦地取材を想定する研修に定期的に参加しなくてはならない。一方、ニューヨーク・タイムズの場合は、戦地に赴く記者が出発前に専門機関で訓練を受けるくらいの対応らしい。

 

 両社に違いがあるのはなぜか。この問いに対する著者の分析は鋭い。「社風の違い」で片づけるのではなく、メディアの構造に踏み込む。AP通信は、世界中に記者や映像記者、通信員を4000人ほど擁し、熟練度のばらつきが避けられないので、現場判断に委ねるには心配がある。これに対して、ニューヨーク・タイムズは取材記者の人数が少なく、しかも経験豊かな腕っこきぞろいなので、めいめいの判断を尊重できるというのだ。

 

 この論考で喚起されるのは、僕たちは事実に即して物事を決める能力を鈍らせてしまったのではないか、という反省だ。著者は、聴き取りの相手から「『日本メディアのマニュアル依拠』ぶり」を「しばしば指摘された」。その目には、判断放棄にも映るのだろう。

 

 著者は、AP通信のトップダウン方式が「マニュアル依拠」とはほど遠いことに注目する。「危険地への記者の派遣や撤退などはマニュアルに記載された数値によって決めるのではなく、組織のトップを占める管理職ジャーナリストたちがその都度、合議で判断する」。合議では、頼るべき基準がないのだから自ら情報を集めて専門家に助言を求め、熟慮の末に決断することになろう。ジャーナリスト精神とは、そういうことではないか。

 

 この熟慮の段階で、本稿のまくらで書いた戦後日本社会の死生観が考慮されてもよいはずだ。その結果として欧米メディアと異なる判断に至るのなら、それはそれで納得がいく。そこには、責任を基準の数値に押しつけるのとは一線を画する自律的な姿勢がある。

 

 なんでもかんでもマニュアルをつくり、それを金科玉条にして思考停止に陥る。そんな行動様式が今の日本社会に蔓延している。ジャーナリズムこそがしなやかな思考の力を見せつけなくてはならないのに、世間に調子を合わせるばかりだとしたらなさけない。

*登場する米国メディア幹部の肩書きは、いずれも著者の五十嵐氏がインタビューした2016年2月時点のものです。

(執筆撮影・尾関章、通算469回、2019年4月26日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『珈琲が呼ぶ』(片岡義男著、光文社)

写真》コーヒー

 勤めをやめると、ついつい外出が億劫になる。とくに冬は寒いから、家の中に引きこもったままの日々がつづく。毎年、そろそろ散歩でもしてみようかと思うのは、ちょうど確定申告のころ。今年も税務署に書類を届けた帰り、近くの公園をぶらぶらと歩いた。

 

 そのあと、ふらりと立ち寄ったのは税務署の最寄り駅に近い洋菓子店。ここ数年は、この寄り道が恒例になっている。源泉徴収票や領収証相手の気の重い作業から解放された昼下がり、コーヒーを味わい、ケーキをぱくつきながら本を読む。まさに至福の小休止。だが今年は長居をせずに退散した。客が次から次にやってきて騒がしくなったのだ。中高年の女子集団が出ていくと、今度は同年代の男子集団が入ってくるという盛況ぶりだった。

 

 それで痛感したのは、街の喫茶店が激減したことだ。ケーキ屋の大繁盛には、喫茶店を探したが見当たらないという中高年世代ならではの事情がある。この店に押し寄せる集団にも、どこか難民の風情があった。隣のテーブルを囲んだ高齢の男子たちはその典型だ。ケーキには、なんのこだわりもなさそう。ダンボ耳を傾けると「おまえ、いい店、知っているな」「ああ、いつもここに来るんだ」。そんなやりとりが聞こえてきた。

 

 僕たち60歳超の年齢層にとって、喫茶店は一つの街に一つはあるコミュニケーションの場だった。1980年代ごろまで、人々は取引先と商談をまとめるにも、同僚とひと息入れるにも、男女がデートの待ちあわせをするにも、喫茶店の扉を開いた。eメールもない、ラインアプリもない、という時代、肉声で意思疎通を図る場所が不可欠だったのだ。その意味では、私営の店でありながら公共性の高い空間だったと言えるかもしれない。

 

 とりわけ懐かしいのは、「純喫茶」の看板を掲げた店。コーヒーのほかには紅茶やジュース類が定番メニュー。いまどきのコーヒー専門店ほどには味にこだわっていない。だからと言って、歓楽街の酒場のような接客サービスはない。客が享受するのは日常のまったり感。その空気に引きずられてコーヒー1杯で2時間も3時間も粘り、本を読んだり、友だちと長話したりしたものだ。そんな店が今世紀になって、次々と姿を消している。

 

 もちろん今は、それにとって代わるようにコーヒーショップのチェーン店がいたるところに現れた。さらにハンバーガー店などもあるから外出時にコーヒーに親しむ場には不自由しないが、なにかもの足りない。街にぽっかり穴が開いたような気がする。

 

 で、今週は『珈琲が呼ぶ』(片岡義男著、光文社)。エッセイ45編から成る。著者は、僕が敬愛する年長作家。5年前に当欄が「本読み by chance」の看板を掲げたとき、最初に選んだ1冊も、彼のエッセイ集『洋食屋から歩いて5分』(東京書籍)だった。そこにも喫茶店の話が出てきたので、拙稿にはコーヒー1杯の写真を添えた(2014年4月11日付「片岡義男的な空気が吸いたい」)。著者とコーヒーの相性はよいように見える。

 

 『珈琲が…』のあとがきによると、この本を書くことになったのも、著者の自伝的な音楽小説『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』ができあがったとき、編集者が次の企画はコーヒーで、もちかけたのがきっかけらしい。著者にコーヒーは似合うのだ。

 

 だが、著者自身はコーヒーに深い思い入れがないようだ。この本によれば、フリーランスのライター時代に喫茶店は「原稿を書くための仕事場」だったという。あのころのコーヒーは「飲みたくなるようなものではなかった」が「テーブルにつけば、そのテーブル料として飲み物を注文する必要があり、僕が注文したのはいつもコーヒーだった」。著者にとって「喫茶店は最初から日常の場所だった」のだ。これは前述の僕の記憶とぴったり重なる。

 

 冒頭の1編は「小田急線・経堂駅のすぐ近くに喫茶店がある」と切りだされる。この一文で一気に引き込まれた。僕の実家が、まさに「経堂駅のすぐ近く」にあったからだ。その喫茶店は1960年代半ばからあり、2017年の時点でも営業を続けているという。さあ、どこだろうか。思いあたらない。今も経堂駅周辺には食事や買い物に出かけるので商店街の隅々まで熟知しているつもりだが、僕も知らない路地裏がまだあるのか……。

 

 東京・世田谷の経堂は迷子になりやすい町だ。その住人だったサブカルの先達植草甚一(愛称JJ)は『ぼくの東京案内(植草甚一スクラップ・ブック)』(晶文社)でわが町をこう描いている。「なんの気なしに歩いていると、まっすぐになっているような気がするが、どの通りも斜めになっている」(当欄2015年5月22日付「植草甚一のハレにもケをみる散歩術」)。著者も、JJと波長が近そうだからこの町にこだわりがあるのだろう。

 

 さて僕は、その迷路に抛り込まれたような気分になって、ついつい読み進む。「敷地の端の、三角に尖ったところに、その店はあった」。それは今も変わらないという。つまり、店はY字形の三叉路に面しているのか――。そんな当方の謎解きなどお構いなしに、著者の想念は広がる。「窓辺の席にすわることが多かった、と思い出す自分は、まさに窓辺の席にすわっているではないか」。著者は、こうして50年の時間幅を一気に跳び越える。

 

 著者にとっては、何が変わり、何が変わらないかが関心事らしい。東京は、消えてゆくもの、かたちを変えるものが多い。著者が1960年代半ばに通い詰めた東京・神田の神保町界隈もそうだ。ところが、その一角にある路地に一歩足を踏み入れると、そこには昔のままの店々がある。それは、あのころ洋食店でひとり昼食をとりながら窓外に見た風景そのものだった。「ほとんど変わることなく残っている場所」こそが「僕の東京」だという。

 

 京都の喫茶店の話も捨てがたい。千本今出川近くにある創業1938(昭和13)年の店には、ヴェルヴェット張りで背もたれが垂直な椅子がいくつも並んでいる。傷んだところは繕うことになるが、店主は一脚ずつしか修理に出さないという。店の様子がガラッと変わるのを避けるためらしい。客は「この店は今日もいつもおなじだ」と感じとることで「いつもの自分が今日も肯定される」。これは著者の分析だ。喫茶店の日常性とはこのことか。

 

 この本には歌の話も満載だ。たとえば、藤浦洸作詞、服部良一作曲の「一杯のコーヒーから」。僕は1970年代に雪村いづみのLPで聴いたが、もともとは霧島昇とミス・コロムビアが歌った曲で、39年に発売された。国民精神総動員が叫ばれた年である。詞では、それと逆方向の「街のテラスの夕暮れ」が描かれる。あの時世に「ちょうど手頃な大きさにまとまった夢の、まろやかな手ざわりの良さ」が歌われたことに、著者は驚いている。

 

 “I’ll Have Another Cup of Coffee(作詞ビル・ブロック)というカントリーソングもとりあげている。コーヒーは「あと一杯だけ」、その一杯を飲み切ったなら「そこを去るしかない」というような歌詞らしい。夫婦離別の歌。主人公は、家を出る理由を延々と話したりはしない。「きみにこれ以上の悲しみをあたえないために」――。昨今の説明責任論とは相容れない昔風パターナリズムの優しさ。コーヒー1杯が時間の単位になっている。

 

 ペギー・リーのLPで有名な“Black Coffee(作詞ポール・フランシス・ウェブスター)も出てくる。主人公の女性がカレシを待ちわびる歌。淋しくて一睡もできず、部屋を歩き回り、ドアのほうをじっと見つめている。「その合間に彼女がすることと言えば、ブラック・コーヒーを飲むことだけ」。歌詞にはブラック・コーヒーが3回出てくるが、3度目でも彼女は立ち直れなかった、と著者はみる。ここでコーヒーは時間を埋めるものでしかない。

 

 コーヒーは人生を彩る。だが、脇役に過ぎない。著者が1990年代に学生街の古びた名曲喫茶に入ったときのことだ。「普段はもう営業していないんだよ」と店主。コーヒーを出してくれたが、カップにはスプーンが突っ込んであり、「よくかき混ぜて」と言う。「ひと口飲めばインスタントだとわかったが、こういうこともあるのだと僕はそれを全面的に受けとめ、それ以上はなにも思わなかった」。苦くはあるが、ちょっといい話でもある。

 

 たかがコーヒー……をこれだけ語れる人。それはやはり片岡義男しかいない。

(執筆撮影・尾関章、通算468回、2019年4月19日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

 

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『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)

写真》七色の上海

 今週も、上海小旅行の話をつづける。先週は、上海外灘のホテルのバーで聴いたジャズらしからぬジャズの話を書いた。そこには上海が遠い昔から国際都市であったことの記憶があり、近い昔には僕たちがいる世界と隔絶されていたことを示す証しもあった。

 

 で、いよいよ『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)の中身に踏み込もう。著者は1968年生まれ、大学院で比較文学・比較文化を専攻した大学教授。著書『楽人の都・上海――近代中国における西洋音楽の受容』(研文出版、1998年刊)で翌年、サントリー学芸賞を受けた。文化領域のなかでも、とりわけ音楽に対する造詣が深い人のようだ。この本は2009年に初版が出て、18年に再版されている。

 

 この本の特徴は、上海の近現代史を6方向の視点から浮かびあがらせていることだ。章題を並べれば「イギリス人の野望」「アメリカ人の情熱」「ロシア人の悲哀」「日本人の挑戦」「ユダヤ人の苦難」「中国人の意志」。本来なら「中国人の意志」のみで発展すべき都市が、外からやって来た多彩な民族の思惑に左右されたことが目次からもうかがわれる。この街は内外の人々が交ざりあい、異文化が溶けあう坩堝となったのである。

 

 その中心が「租界」だ。「居留地」「区切られた借地」といった語義がある。英国はアヘン戦争勝利の余勢をかって1845年、租界を外灘のある黄浦江西岸に開く。まもなく米国もフランスも租界を置く。英米は63年にそれぞれの持ち分を合わせ、国際色豊かな「共同租界」(International Settlement)をつくりあげた。両租界には中国人も大勢暮らすようになる。上海の租界が名目上消滅したのは、日本軍占領下の1943年だった。

 

 租界は、いわゆる植民地ではない。英国の租界は「依然として清朝の領土であり、イギリスは行政権(警察権を含む)を持っているに過ぎない」と、著者は書く。これは裏を返せば、租界の英国人にとって「本国の意向を伝達・実行する役割」の行政官がいなかったことを意味する。そこは「中国でもなく、イギリスでもなかった」。いわば真空地帯。その結果、「既存の国家に帰属しない、いわば『自由都市』」が出現したのである。

 

 英国の租界、あるいは後の共同租界について、その自治のしくみをみてみよう。そこには1854年、参事会による行政体制ができあがる。当初の参事は7人、高額納税者の選挙によって選ばれた人々だ。英米人ばかりではない。ドイツ人が常連だった時代もある。第1次世界大戦のころからは、それに代わって日本人が一角を占めた。フランス人やロシア人、デンマーク人が選出されることも。この自治組織は国籍を超越していた。

 

 この本でちょっと意外だったのは、米国の影響力の大きさだ。第1次大戦で英仏が「中国を顧みる余裕を失ってゆく」流れのなかで顕著になったらしい。中国人にとって「アメリカ人の陽気さや、フレンドリーな物腰は、支配者然としたイギリス人に比べて親しみを感じさせた」という。米国風は、ニューヨークの摩天楼に似た建築ばかりではない。ハリウッド映画を観る、ジャズを聴いて踊る、といった都市文化が広まった。

 

 ここで、いよいよジャズの話になる。著者は音楽史の知識が豊富なので、このくだりは読みどころと言ってよい。そこにもまた「多国籍都市」らしい歴史が見てとれる。

 

 この本によると、上海に洋楽を広めるのに一役買ったのは、19世紀末に米国の植民地となったフィリピンの楽士たちだという。ジャズなど米国発祥の軽音楽がお手のものだったので、1910年代からは無声映画の伴奏要員として、どっと渡来した。「彼らはその巧みな腕前で、映画館の仕事だけでなく、西洋人の舞踏会やホテルでの演奏に進出するようになる」。僕が外灘で聴いた「伝説のジャズ」の源流はここにあったのだ。

 

 ところが、やがて異変が起こる。きっかけは、ロシアで1917年に起こった社会主義革命だ。貴族や資本家、官僚らが国外に出て、その一部が上海にも押し寄せた。このなかにはペテルブルグやモスクワで音楽の高等教育を受けた人もいたという。ロシア出身の音楽家はクラシックの基礎があるうえに「生活のためにジャズやダンスミュージックのレパートリーも積極的に身に付けていた」。これが、上海音楽界の勢力図を変えたのだ。

 

 そうか。あの「伝説のジャズ」には、米国の民衆が生みだし、その植民地の人々が育んだ大衆文化の小粋さに、帝政ロシアの名残とも言える貴族文化のたおやかさが入り混ざっていたのだ。先週書いたようにアフタービートが強くないのはそのせいかもしれない。

 

 この本でもう一つ印象に残るのは、租界がそこに住まう人々の本国を映す鏡となっていたということだ。英国の貴族や富豪が幅を利かせる共同租界では第1次大戦後、警察官を英国で募ったが、採用されたのは失職中の復員軍人や労働者が多かった。その結果、英本国の階級社会が再現される。警察官は「同じ国の人間に軽んじられる一方、中国人の前では大英帝国の威光を示す存在でなければならないという、複雑な立場」に追い込まれたという。

 

 階層の色分けは日本人社会にもあった。この本によれば、上海の日本人は「土着派」と「会社派」に大別された。前者は、この地に活路を求めて住みついた人々。後者は、大企業の駐在員を中心とする一群だ。さらに後者は「中間層」と「エリート層」に二分されたという。土着派と会社派中間層は共同租界北部の虹口(ホンキュー)に、会社派エリート層は共同租界中心部やフランス租界に、というような住み分けが定着したらしい。

 

 そのころ、虹口は悪臭の漂う町だったようだ。この本がとりあげているのは、住人たちのトイレ事情。「馬桶(モードン)」と呼ばれる壺が使われていた。それぞれの家庭は夜が明けると馬桶を道路に出し、中身が作業員によって回収されると「竹ひごを束ねた専用の道具」で洗った。この地区は、ナチスドイツの圧政を逃れたユダヤ人の避難地ともなったが、難民が衝撃を受けたものの一つが「『壺』だけのトイレ」だったという。

 

 僕は今回、その虹口にも足を延ばしてみた。虹口公園にある魯迅紀念館を訪れたときだ。作家魯迅はこの町に暮らし、書店主の内山完造とつきあいを深めた。「内山は魯迅の書籍代のみならず、アパートの家賃・光熱費まで立て替え払いをしていた」。上海では、華やかな一角の外側にも文化活動を下支えする国際交流があったのだ。紀念館から内山書店まで歩くと、そこにはもはや悪臭はなく、小ぎれいなたたずまいの普段着の町が広がっていた。

 

 翌日は、旧フランス租界を散策した。こちらは、かつて日本人の会社派エリート層のうちもっとも豊かな人々が居を構えたという高級邸宅街。今、地下鉄駅から地上にあがると、東京・代官山と見紛うおしゃれな町が見えてくる。コーヒーショップでカフェラテを飲んでいると、中国にいることを一瞬忘れるほどだ。ここでは革命家孫文の旧居と彼に先立たれた妻宋慶齢が後年暮らした家を見学したが、どちらも芝生の庭が美しい欧風の邸宅だった。

 

 再認識させられたのは、この国の革命の原点には欧米文化を熟知する孫文がいたということだ。その三民主義と地続きで、社会主義政権が生まれた。だから、彼は今も敬われている。上海が国際都市の空気を保っていられるのは、そんな経緯があるからだろう。

 

 今の上海を象徴するのは、ビジネス街の高層ビルの林立だ。印象としては、東京のそれをはるかにしのぐ。だが、そこだけに目を奪われてはいけない。外灘の郷愁、虹口の日常、旧フランス租界の洗練……それらが交じりあって独特の街模様を織りあげている。

 

 長江河口部にあって起伏に乏しい町が、歩いていて退屈しないのはそのためだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算467回、2019年4月12日公開)

 

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『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)

写真》灯ともし頃の外灘

 中国は、僕のように戦後まもなく生まれた世代にとって、大人になるまで現実感を伴う場所ではなかった。世界は東西に分断され、中華人民共和国とは国交が開かれていなかったのだ。人々がどのような日々を送っているのか、情報はほとんど入ってこない。ラジオで北京放送に耳を傾けると、耳に残るのは民心を鼓舞する音楽や、毛沢東思想をたたえ米帝国主義を痛罵する言葉ばかりだった。日本社会からみれば別世界だったと言ってよい。

 

 世代によっては、これが違ってくる。僕たちよりも年長の世代は、中国に対してずっと近い距離感を抱いているように思える。戦前戦中、大陸に暮らしていた人々は大勢いる。よい思い出ばかりがあるわけではなく、軍国主義に手を貸したことに悔いを感じている人も多いはずだが、それでも大陸風土への素朴な愛着や郷愁は捨てがたいのだろう。現地で生まれ育ち、少年少女期まで過ごした年齢層には、その思いがいっそう強いかもしれない。

 

 一方、僕たちよりも年少の世代には、中国に対してもっとストレートな親近感がある。なんと言っても、物心がついたのは国交正常化の後だ。やがて中国経済は改革開放に突き進んだ。今では中国市場が世界経済のど真ん中にある。大きな違いがあるとすれば政治体制だが、これだって昨今の若者にはさほど抵抗感がないのかもしれない。企業経営などでトップダウンのガバナンスが称揚され、それに順応する傾向があるからだ。

 

 さて、そんな中国とはもっとも遠いところにいる僕が生まれて初めて中国大陸の大地を踏んだ。3月から4月にかけての6日間を上海市内とその近郊で過したのだ。で、当欄は今週と来週の2回に分けて、上海小旅行を話題にする。選んだ1冊は『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)。今回の出発前に読みはじめたので、旅の手引きとなった。本の中身には来週、踏み込むつもり。今週は、そのイントロにとどめよう。

 

 今回の上海滞在で僕が最優先で訪れたいと思っていたのは、外灘だった。ワイタンと読む。黄浦江という川が曲がりくねる西岸にあり、英米の租界が合併してできた旧共同租界(International Settlement)の商業地域だ。英語では、岸壁通りを意味するbundの名で呼ばれる。戦前戦中の上海を舞台とする小説や映画には欠かせない一角と言ってよい。19世紀半ばから20世紀半ばまで、ここは国際都市の様相を呈していた。

 

 外灘の見どころは、なんと言ってもその建築群だ。河岸通りに沿って様式建築が並んでいるかと思えば、そこに古びた高層ビルも交じる。欧州の都市にいるようでもあり、米国ニューヨークに紛れ込んだようでもある。僕は高層建築の一つ、フェアモント・ピース・ホテルに1泊の宿をとった。屋根が四角錐に尖ったアールデコ風の建物だ。ここはもともと、ユダヤ系の英国商人サッスーン家の財閥が1929年に建てたサッスーン・ハウスである。

 

 宿を決めるにあたって僕の心を動かしたのは、ホテルのジャズバーだった。「伝説のジャズ」の演奏があるという。上海で上海らしいジャズが聴きたかったのだ。その夢は叶った。ただ、それは思わぬ発見を伴うものだった。ここでは、そのことを書いておこうと思う。

 

 ひとことで言えば、それはジャズらしいジャズではなかった。もちろん僕は、モダンジャズを期待していたわけではない。思い描いていたのは、グレン・ミラー風のスイングジャズか。ところが聞こえてくるのは、雰囲気がまったく違う。年配のドラム奏者が背広に蝶ネクタイ姿で打ち奏でるリズムは、強弱、強弱という感じ。ジャズらしいアフタービートの強調、すなわち弱強、弱強の軽快感がないように思えた。軍楽隊の太鼓のようなのだ。

 

 5〜6人のコンボ編成でサックスやトランペットも入っていたのだが、アドリブ感のあるソロ演奏を順番に回したりはしない。大体はユニゾンで演奏していた。女性歌手がフィーチャーされていたが、彼女は大半を中国語で歌い、ときに日本語の歌も交えた。どちらも哀愁を感じさせる。「歌謡曲っぽいね」。僕は思わず、そんな感想を連れあいに漏らした。それが悪いというのではない。むしろ、心地よくさえあったのだ。

 

 この心地よさは何だろう。それで気づいたのは、演奏仲間がみな楽しくてたまらない、という様子だったことだ。リーダーらしきサックス奏者はMCで延々となにかをしゃべりまくっていた。そのあと、同僚のサックス奏者2人が加わって輪になって競演した。ホテルの公式サイトによれば80歳超の奏者が多くいるらしいが、日本で言う団塊の世代ほどの「若手」もいた。いずれにしても文化大革命をくぐり抜けてきた年齢層ということになる。

 

 ここから先は、まったくもって僕個人の妄想だ――。おそらく、上海の戦後っ子たちは旧租界に残る欧米文化の空気を吸って育ったのだろう。だから、楽器を奏でる技には長けていたに違いない。だが1960年代、ジャズが世界の若者の心をつかみ、対抗文化を生みだしたとき、彼らはそれとは別の世界にいた。だから、ここには僕たちの知らない「伝説のジャズ」が熟成されたのだ。そう思うと、彼らの演奏が愛おしく感じられてくるのだった。

 

 ちょっとだけ、『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)に触れておくと、この本には、作家堀田善衛(*)が1957年にサッスーン・ハウスを訪れたときの光景が堀田著『上海にて』の引用のかたちで紹介されている。「豪華なシャンデリアの下を、詰襟の中山服や菜ッ葉服を着た何かの機関の幹部たちが往来している」とあるのだ。いまジャズバーにいる年配の奏者たちは、みんなそういう風景を見てきたのだろう。

 

 ジャズバーは壁がハーフティンバーになっていて、いかにも英国風だ。そこに現代中国ならではの「伝説のジャズ」が流れる。そしてホテルを一歩外へ出れば、外灘の対岸に超高層のビル街が光り輝いている。僕は、この街の近現代史を感じて目くるめく気分になった。

*堀田善衛の「衛」は、この本では「口」の下が「一」の下に「巾」。

(執筆撮影・尾関章、通算466回、2019年4月5日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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「美しい女」(椎名麟三著、講談社文芸文庫『深夜の酒宴・美しい女』所収)

写真》電車

 幼いころ、家のすぐそばに電鉄会社の車庫があった。まだ舗装もされていない裏通り。その道沿いに杭が等間隔で立てられ、鉄条網が張ってある。今思うと、あの杭は線路の枕木だったと思う。廃品を生かして、敷地を囲う塀代わりにしていたのだ。

 

 なによりも僕が圧倒されたのは、そこに立てかけられてあった黒っぽい物体だ。環状で重たそう。自分の背丈よりも高く見える。はじめは「なんだろう」と見当がつかなかったが、やがて「これは車輪じゃないか」と気づいた。建屋には整備中の電車が止まっている。地面のそこここに雑草が生えていた。機械油のにおいが漂っていたようにも思う。鉄道が近代のインフラとして武骨なたたずまいを見せていたころの原風景である。

 

 1950年代半ばの電車はのどかだった。僕が最寄り駅から乗る各駅停車は、たいてい3両か4両編成。車体は当時定番のあずき色で、鋲打ちの出っ張りが露わになっていた。先頭部に行き先の表示板。車内では最後部に車掌が仁王立ちしていた。そこは、乗務員室として仕切られていなかったように思う。車掌は乗客一人ひとりに切符を売って歩くことはしないが、肉声で次の停車駅を告げる。どこか路面電車のような雰囲気を残していた。

 

 小学生時代、自分ひとりで習い事に通っていたころのことだ。その日は急いでいて、電車がホームに停まっているのを見つけるとまっしぐらに走り、飛び乗ろうとして足もとの隙間に落ちてしまった。見事なほどきれいな落下。けがもないので、声一つあげなかった。それでも制服制帽の男性がすぐに駆けつけ、引きあげてくれた。車掌だったか駅員だったかは思いだせない。危ないことだらけだが、それは人間の機転で補われていたように思う。

 

 で、今週は昔の私鉄労働者の物語。「美しい女」(椎名麟三著、講談社文芸文庫『深夜の酒宴・美しい女』所収)。著者(1911〜1973)は兵庫県出身の作家。略歴欄によると、旧制中学を中退後、私鉄会社に勤めるなど職を転々とした。労働運動にかかわるが身柄拘束中に転向、戦後、「深夜の酒宴」で文壇に躍り出た。「ニヒリズムを基調とした実存主義的作風で第一次戦後派作家として注目される」とある。その後、キリスト者となる。

 

 その「ニヒリズムを基調とした実存主義的作風」は若者の心をとらえ、著者はカリスマ作家の一人となった。それは、僕が青春期に入った1970年前後も続いていた。ただ、僕自身は実存主義には心惹かれていたものの、椎名作品は敬遠した。あまりに暗いように感じて退いてしまったのだ。だが年を重ねると、怖かったものも怖くなくなってくる。ということで、今回は彼の代表作を選んだ。手にとった文庫版は2010年に刊行されたものだ。

 

 「美しい女」は1955年に『中央公論』誌に連載で発表された。だが、そこに描かれているのは主に戦前から戦中にかけての日本社会だ。舞台は、おそらく兵庫県播磨地方。地名は「H市のお城」「A市の浜」などと書かれているが、関西に通じている人ならば、ああ、あの都市のことかと察しがつくだろう。そして、登場するのは富裕層や知識層ではない。鉄道職場に働く人々を中心に、市井に暮らすという表現がぴったりくる人ばかりである。

 

 第一章冒頭の一文に、それは凝縮されている。「私は、関西の一私鉄に働いている名もない労働者である」。この「私」、すなわち主人公の木村末男は19歳で会社に入り、「今年はもう四十七になる」。小説は、その「今年」から過去を振りかえるつくりになっている。

 

 この一節にある「レッテル」の話は見落とせない。主人公はそのときどき、左寄りの人からは「無自覚な労働者」とも言われ、右寄りの人からは「無責任」などとなじられてきた。そして今、「人々から与えられたこれらのレッテルへ、人なみの熱い血を通わせ、生命の光を与えてやりたい」という。ここに左翼運動、実存主義、そして最後はキリスト教と拠りどころをずらしながら思索を深めてきた著者の思いが凝縮されているように思う。

 

 主人公は当初、「バッテラ」という木製車輌に車掌として乗務した。「運転台や車掌台が風に吹きさらしになる」つくりなので「振り落されないように」しながら瀬戸内海を眺めていると、職場で募る鬱憤も「何でもないこと」に思われた。「車内で声高らかに次の駅名を叫んでいるとき、自分が鶏でいまときをつくっているのだ、というような気がするのだった」との記述もある。戦前の鉄道員は開放感や高揚感を享受していたということか。

 

 この電鉄線では、車掌が車内を回って検札していたらしい。あるとき、同僚の恋人が切符なしで乗っていたので運賃を徴収した。すると翌日、その同僚から「お前、どうしておれの彼女に恥をかかせたんや」とたしなめられる。そんな几帳面な勤務ぶりが会社からは買われ、賞を受けることになると、仲間の一人から「恥しいことあらへんか」とののしられる。規則遵守(コンプライアンス)至上の昨今の職場からは想像もつかない緩さだ。

 

 親しい同僚からも「木村、お前、あんまり真面目すぎるんや」の声。この場面は、小説前半部の一つのヤマ場だ。主人公は仲間たちに「おれ、普通にやってるだけやぜ」「おれはほんまに無邪気なもんなんやで」「おれはただ電車が好きなだけなんや」と反論する。

 

 主人公の電車愛は半端ではない。それは運転部門に異動になったころの描写から推察できる。ちょうど、バッテラが新型車両に入れ代わる過渡期。その新型を運転する快感がこう詳述されている。「まるで一つの刺戟が微妙で精巧な神経をつたってやがて中枢に達するのを目撃しているかのように、ノッチを入れるわずかな手の動きが、コードをつたわって巨大な八つのモーターに達してそれを動かしはじめるのを感ずるのは、気持がよかった」

 

 ここにあるのは近代文明だ。人間が自分の体を動かすように機械を操っている。ノッチを入れる、コードをつたわる、モーターを回すという過程を実感できるところがモダニズムなのだ。不思議なことに、そこには疎外感が見てとれない。これに対して、当世のIT(情報技術)では機械操作を身体感覚に直結できない。タッチパネルを叩いたりこすったりしながら進める作業にあるのは、浮遊感か。それをポストモダンと呼んでもよいだろう。

 

 表題にある「美しい女」とは、実は想念の産物だ。焼酎を飲んでいるときなどに「私の心に痛切にうかんで来る」「まるで眩しい光と力そのもののような」存在だという。小説では、幾人かの女たちと主人公との関係が描かれるが、それはさほど劇的ではない。筋立てに織り込まれた職場の風景にこそドラマがある。そこに立ちはだかるのは、軍国主義下の人間疎外。主人公は、その時流に呑まれながらも抗う。「美しい女」を追い求めるかのように。

 

 ギクッとしたのは、主人公が事故の記憶を思い返して「学校から鉄橋づたいに帰って来る少年を轢殺した」と打ち明ける箇所だ。電車はハンドルを切れないので、運転する側からみれば避けようとして避けきれない事故だったのだろう。「子供の死は、たえがたいものがある」とも言い添える。だがそれなのに、死なせてしまったではなく「轢殺した」と書く。著者は当時の世相をにおわそうとして、あえてこの表現を選んだのではないか。

 

 電車の追突事故が「全く信じられないくらい続発した」との記述もある。「中堅の乗務員たちの殆んどが軍需産業へ転じたため」だ。新人たちが「十分な訓練を経ないで、いきなり車掌や運転手になった」という。そんななかで悪戦苦闘する主人公の姿も描かれている。

 

 小説の締めくくりで主人公は、戦後の視線で電鉄会社勤めの半生を顧みる。ここで繰り返されるのも電車愛だ。「私は、平凡な人間なのである」「電車にノッチを入れれば動き出すあの平凡な確実さの好きな人間なのである」。そして主人公は、この「平凡」を「悪魔めいたもの」に対峙させる。悪魔めいたとされているのは、戦時中に許せないと感じた「人を轢いてもいいが車はこわすな」という人間否定の風潮だ。美しい女は平凡の化身だったのか。

 

 椎名麟三はこの作品で、電車という近代文明の象徴と向きあう人間の平凡を描いた。それこそが、主人公にとってこの世界の確かな手触りだったのだ。翻って今、IT時代を生きる僕たちは、どのようにしてその触感を手に入れたらよいのか。考えてみたいと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算465回、2018年3月29日公開)

 

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The Prime Minister’s full statement(ジャシンダ・アーダーン、CNNサイトより)

写真》CNN2019年3月15日付、朝日新聞同月16日朝刊

 またもや凄惨な銃乱射事件である。ニュージーランド(NZ)南部の都市クライストチャーチで3月15日昼、イスラム教礼拝所(モスク)2カ所が襲われ、50人の生命が奪われた。容疑者がソーシャルメディアに投稿していた声明文などから、白人至上主義がもたらしたテロ攻撃とみられている。背筋が凍るのは、容疑者自身が犯行の一部始終をネットでライブ中継していたこと。暴力がネットと結びついて邪悪さを増幅したのである。

 

 クライストチャーチと言えば、2011年の大地震を思いだす。3・11の東日本大震災に先立つ2月22日、クライストチャーチがあるカンタベリー地方がマグニチュード6級の直下型地震に見舞われたのだ。死者数は185人といわれる。この直後、僕は言論サイトWEBRONZAに「地の時間と人の時間」という論考を書いた(2011年2月26日付)。大震災が身近に起こるとはつゆ知らず、対岸の出来事を考察したのだ。

 

 拙稿の副題は「地震の島に地震を知らない人々が築いた町の悲劇」だった。ニュージーランドは「太古の昔から、せめぎ合うプレートの影響下にある地震多発の島国」。同時に「19世紀半ばに地震とはほとんど無縁だった英国人たちが入植して英領とし、20世紀半ばに独立した新しい国家」でもある。この「皮肉な取りあわせ」が、美しいが脆いレンガ建築群を今に至るまで残し、建物倒壊の被害を大きくしたのではないかと書いたのだ。

 

 で、今回の乱射事件でちょっと驚いたのは、その英国人が建設した町に複数のモスクがあることだった。クライストチャーチは人口約40万人。日本で言えば中小都市だ。地名から推察すると、キリスト教一色の町ではないかと思ってしまう。だがそこにはイスラム教徒が0.8%住んでいる(2013年の調査、朝日新聞2019年3月16日朝刊)。その数千人の信仰が不都合なく続けられるための施設も整っているということだ。

 

 この一点をもってしても、ニュージーランド社会は多様性を重んじているのだろうと思われる。それを裏打ちしてくれたのが、この事件を受けてニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が記者会見で読みあげた声明だ。これを僕は、ネットメディアを通じて英語のままで聴いたが、彼女が一語一語噛みしめるように発した言葉は外国人の心にも届いた。そこには、母国の多様性を誇る強いメッセージが込められていた。

 

 ということで今週は本を離れ、ニュージーランド首相が事件当日の夜、記者会見で発表した声明にもう一度触れてみることにしよう。ありがたいことにネットを漁ると、米国CNNがその全文をサイトに載せていた。そこから、これはという箇所を掬いとってみよう。

 

 アーダーン首相はこの声明で、乱射事件で犠牲となった死者数や負傷者数の最新情報を報告、「これがテロ攻撃としか表現できないものであることは明らか」と断じた。事件を受けて政府は治安の水準を高め、警察は市民生活を守るべく機能していることを強調した。

 

 このあと、首相はこう切りだす。

“Our thoughts and our prayers are with those who have been impacted today.”

「私たちの思いや祈りは、きょう攻撃を受けた人々とともにある」

 

 声明で最大の読みどころは、これに続くくだりだ。

“Christchurch was the home of these victims. For many, this may not have been the place they were born. In fact, for many, New Zealand was their choice.”

「クライストチャーチは犠牲者たちの『わが家』だった。多くの人々にとって、そこは生誕の地ではなかったかもしれない。実際、ニュージーランドは彼らの選択だったのだ」

 

 次の段落には、ニュージーランドがどんな国かを示す言葉が並ぶ。

“The place they actively came to, and committed themselves to”

「彼らが自ら進んでやってきて、そこに深くかかわった場所」

“A place where they were free to practice their culture and their religion”

「彼らが自身の文化や宗教を自由に実践できる場所」

 

 もっとも新鮮に聞こえるのは、choiceの一語だ。国という存在を、人々が自由に選択できるものととらえている。日本人も外国籍を取ることができるが、多くの人々は「国ばかりは選べないからなあ」という意識にとらわれている。内心にハードルがあるのだ。

 

 国の選択をさらっと口にできるのは、ニュージーランドの歴史とも無縁ではない。マオリなどの先住民族が暮らす島に欧州人が入植、19世紀に英国の植民地となった。先住民族からすれば、choiceは身勝手な言い分ということになるのかもしれない。

 

 にもかかわらずアーダーン首相がchoiceを強調するのは、おそらくそれが信念の発露だからだ。彼女は、ニュージーランド労働党の党首。この党は西欧型の社会民主主義政党なので、最近は自己決定権を重んじるリベラリストが多いはずだ。choiceは、リベラリズムの精神が込められた言葉とみてよい。彼女自身、すでに首相の座にあった去年夏に産休をとって赤ちゃんを産んだが、これも一つのchoiceだったと言ってよいだろう。

 

 そしてアーダーン首相は、なぜ自国がテロの標的にされたかを論じる。それは人種主義や過激思想に甘いからではない、逆に、そうでないからこそだと強調して、こう言う。

 

“we represent diversity, kindness, compassion, a home for those who share our values, refuge for those who need it”

「私たちは多様性やいたわり、思いやりを体現し、私たちと価値観を分かちあう人々の『わが家』や行き場のない人々の『避難所』を提供している」

 自国が掲げる理想を、毅然として、覚悟をもって表明しているのである。

 

 たたみかけるようにアーダーン首相が明言したのは、次のひとことだ。

“those values, I can assure you, will not, and cannot, be shaken by this attack”

「私は確信をもって言える。これらの価値観が今回の攻撃で揺らぐことはありえないと」

 

 後段では「私たちは、200を超える民族と160もの言語から成る国であることを誇らしく思う」と述べた後に、こうも言っている。

“amongst that diversity we share common values”

「その多様性のなかで、私たちは共通の価値観を分かちあっているのだ」

 多様性を受け入れつつ共有される価値観とは、他者に寛容であろうとすることだろう。

 

 自己決定権を尊ぶならば国は選択されるものだ。その結果、それぞれの国には多様性に富んだ社会が生まれる。そこで求められるのは、いたわりや思いやりを育む寛容な心にほかならない――不幸な事件に直面してアーダーン首相から絞りだされたのは、そんな信念だ。

 

 きれいごとに過ぎるという冷ややかな見方はあるだろう。前述したように、先住民族のことを思えば複雑な気持ちも残る。だがここには、自身が追い求める理想を筋道立てて語る姿がある。そんな政治家が最近はめっきり減ってしまったように思う。

(執筆撮影・尾関章、通算464回、2019年3月22日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

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『ゲノム編集の光と闇――人類の未来に何をもたらすか』(青野由利著、ちくま新書)

写真》DNAのハサミ

 元新聞記者は、現役を退いてから年数がたつほど日々の報道に不満感が募ってくるらしい。それは、こういうことだ。新しいニュースが飛び込んでくる。たしかに大変なことだ。大々的にとりあげていい。だが、どこか物足りない。昔の話がすっぽり抜け落ちている。

 

 たとえば去年秋、本庶佑さんのノーベル医学生理学賞受賞が発表されたときのことだ。多くの報道では、本庶さんの業績ががん治療薬オプジーボの開発に絞って描きだされていた。原点は本庶グループが1990年代初めに謎の分子PD−1を見いだし、それに免疫を抑えるブレーキ機能があることを突きとめたことにある。基礎の発見が応用の果実を生むのは一朝一夕にはいかない。20年余の歳月がかかった――。そんな論調が感じとれた。

 

 で、元記者は思ったものだ。オプジーボの登場は応用・開発の根っこに基礎研究があることを見せつけた格好の例だ。だから、直近の20年余について詳述することは必須だろう。だが、それでは「どこか物足りない」。もっと昔の話を置き忘れてはいないか。

 

 これは、年寄りの愚痴に類するものかもしれない。だが、それが年寄りにしか言えないことなら、言っておいたほうがよいだろう。そう思って先日、拙稿をウェブに出してみた。「Yahoo!個人」欄の「本庶劇場には第一幕があった」(2019年1月18日付)。オプジーボ開発史は本庶劇場の第二幕にほかならない、第一幕には基礎のまた基礎とも言ってよい研究段階があり、そこでも本庶さんは輝いていた、と書いたのである。

 

 いま読み返すと、愚痴と言えないまでも自慢話のようではある。若い記者諸君は知らないだろうが自分はあの時代を見てきたのだ、という奢りを感じとる人がおられるかもしれない。そんなリスクをのみ込んでも「言っておいたほうがよい」と判断したのは、科学は科学史とともに理解しなければならないと考えるからだ。科学の展開は数年間ではとらえきれない。ときに数十年でも短すぎる。だから、昔話が大切なのだ。

 

 ゲノム編集に対しても同様の思いがある。ゲノムとは生物の全遺伝情報のこと。その一部をワープロソフトのように書き換える技術がゲノム編集だ。去年秋には、中国の科学者が受精卵の遺伝子を操作してエイズウイルス(HIV)に感染しにくい赤ちゃんを誕生させた、と主張した。本当なら大変なことだと大騒ぎになった。だが、遺伝子の組み換え技術は数十年前からあり、それについて人々が議論を重ねてきたことも忘れてはならない。

 

 で、今週の1冊は、今年2月に出た『ゲノム編集の光と闇――人類の未来に何をもたらすか』(青野由利著、ちくま新書)。当欄はすでに、『ゲノム編集とは何か――「DNAのメス」クリスパーの衝撃』(小林雅一著、講談社現代新書)という本を読み込んでいる(2017年5月19日付「ゲノム編集で思う人体という自然」)。同じテーマを改めてとりあげるのは、著者が毎日新聞の科学記者であり、僕と同時代の空気を吸ってきた人だからだ。

 

 最近、ゲノム編集のニュースが爆発的にふえたきっかけは、2010年代に入って「クリスパー・キャス9」というDNAの切断法が開発されたことにある。上記「ゲノム編集で思う…」では、『…とは何か』からその技術の要点を紡ぎだした。そこには、従来の遺伝子組み換えとどこがどう違うのかという疑問に対する答えがあった。今回の『…の光と闇』も従来型との違いを詳述しているが、僕の心に響いたのはそれと別のところにある。

 

 『…の光と闇』の長所は、ゲノム編集という一つの技術から数十年の生命科学史を浮かびあがらせていることだ。著者も巻頭で、ゲノム編集には既視感があるとして「30年近くフォローしてきた生命科学をめぐるさまざまな技術、あらゆる論争がそこにある」という感慨を披歴している。個人的な話だが、僕にとって著者は同じ取材対象を追いかける競争相手だった。今回、科学の変遷をいっしょに見つめてきたのだという連帯感を呼び起こされた。

 

 たとえば、「遺伝子組み換えの夜明け」と題する序章。「時は1974年に遡る」の一文で始まる。著者が科学記者になる前の話だ。分子生物学者松原謙一さんが米国の生化学者から国際電話を受け、カリフォルニア州アシロマで開かれる国際会議に誘われたという。アシロマ会議は、1972〜73年に考案され急進展した遺伝子組み換え技術について科学者たち自身が討議を重ね、「自主規制」に踏みだした場として知られる。

 

 これは1980年代前半、僕が科学記者になったのころの部内談議を思いださせる。アシロマ会議の話は、それを取材した先輩からよく聞かされたものだ。そこで僕の脳裏に刻まれたのは、生命科学界はアクセルだけでなくブレーキも具えているということだった。ブレーキには安全面の心配もある。倫理面からの異議もある。同じことは、当時国内で大議論になっていた脳死・臓器移植や体外受精についても言えたのである。

 

 興味深いのは、「アシロマ」がゲノム編集に対しても再現されたことだ。第4章「ヒト受精卵を編集する」を読むと、2015年には「クリスパー…」の開発者の一人、米国のジェニファー・ダウドナが呼びかけて、カリフォルニア州ナパバレーで「ヒトの受精卵操作の倫理問題」を話しあう会議を開いた。その討論結果は「たとえ法的に禁止されていなくても、人の生殖細胞の改変の臨床応用の自粛を強く訴える」というものだった、という。

 

 アシロマ会議の議論を牽引したのは、遺伝子組み換えの先鞭をつけた生化学者ポール・バーグだった。ナパ会議の中心には、ゲノム編集の応用を加速させたダウドナがいる。その場にはバーグの姿もあったらしい。アクセルがブレーキも併せもつ伝統が、ここにはある。

 

 ちょっと横道にそれるが、アシロマは生命科学を超えても大きな意義があった。英国生まれの米国の物理学者フリーマン・ダイソンは『叛逆としての科学――本を語り、文化を読む22章』(柴田裕之訳、みすず書房)で、生命科学研究の自律性をたたえ、原子核物理の分野でも「アシロマ」がありえたのではないか、と悔いている。逆を言えば、20世紀後半の生命科学は、科学者の「核」をめぐる後悔を背景に歩みはじめたとも言えるのである。

 

 この本は1990年、国際医学団体協議会(CIOMS)が愛知県犬山市で発表した「犬山宣言」にも触れている。これも学界の自律性を示す動きで、体細胞に対する遺伝子治療を認めつつ、生殖細胞に対する遺伝子改変には待ったをかけた。子孫への影響を懸念したのだ。受精卵もノーということだろう。著者は、この宣言も踏まえて「『受精卵を遺伝子改変して人間を生み出すことは禁止』の原則が世界の人々の共通認識となっていった」と書く。

 

 では、この共通認識は不動なのか。そうではないという。2017年には全米科学アカデミーと全米医学アカデミーが、人の受精卵や生殖細胞のゲノム編集も、重い遺伝性の病気や障害の治療や予防に別の選択肢がないとき「認められる場合がある」との見解を打ちだした。18年には英国の独立機関ナフィールド生命倫理評議会の報告書が、生殖細胞のゲノム編集を「一定の条件のもとで」「認めうる」とした。一歩踏みだす気配はあるのだ。

 

 これは、生命倫理には二つの価値観の対立がある、という僕の持論に照らすと納得がいく。一つは、人体という人間の内なる自然に対するエコロジー。もう一つは、弱者支援と自己決定のリベラリズム。後者を重んじれば、遺伝性の病気や障害に苦しむ人々に最新技術が救いの手を差しのべるのは、もっともなことだ。それを裏づけるように、ナフィールド生命倫理評議会は前述の「一定の条件」に「子どもの福祉」や「社会正義と連帯」を挙げている。

 

 だが著者は、受精卵や生殖細胞のゲノム編集に対する慎重な姿勢を崩さない。「生まれてくる子ども、それに続く次世代にとって、安全である保証はない」「人類全体の遺伝子プールに与える影響もわからない」「いったんゲノム編集した子どもが生まれてくれば、しまったと思っても、元に戻すことはできない」――。これらに僕が一つ付けくわえれば、この医療は親の自己決定権は尊重しても、真の当事者である子孫の意思を聞いていないのだ。

 

 答えがなかなか出ない問題を僕たちはずっと追いかけてきたんですね、青野さん。

(執筆撮影・尾関章、通算463回、2019年3月15日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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