『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)

写真》茶の世界

 大河ドラマは、どうも好きになれない。昔の人物に今の倫理を押しつけている印象が拭えないからだ。かつて書いたことをもう一度繰り返すと、武力が正当化され、人権がないがしろにされていた世情をそのまま描かず、近代市民社会の常識と折り合いをつけるべく美化しているところがある(当欄2014年12月5日付「師走に思う大江戸ミッドナイト」)。視聴者の反発を買わないための脚色かもしれないが、嘘っぽさは拭えない。

 

 乱世の物語を血なまぐさいまま活写せよ、とは思わない。ただ、美化とは違う描き方もあるはずだ。歴史の転換点では、人間の野心、嫉妬、愛憎があからさまなかたちで表れる。その確執を巧く切りだせば、見ごたえのあるドラマになるだろう。シェイクスピア作品がそうだ。舞台劇ということで流血沙汰は様式化され、登場人物の心模様が台詞を通して見えてくる(当欄2016年11月4日付「名演出家、名優去りし年のマクベス」)。

 

 日本史では室町の世が、そんな心理劇の芽をはらんでいる。幕府はあるが、背後に最高権威の朝廷が控えている。公家もいる。大名もいる。政治権力が一極に集中することなく、いつも揺らいでいる。渦中にいる人物が鋭敏な感受性の持ち主ならば、その思考は深みを帯びたものになるはずだ。しかも、当時は仏教の各宗派が並び立ち、茶に親しむ習慣や庭園を愛でる文化も生まれていたから、それらもものの見方に陰翳を与えたことだろう。

 

 で、浮かびあがってくる人物の一人が、室町幕府第8代将軍足利義政(1436〜1490)だ。少年期に将軍職に就き、世継ぎ問題をこじらせて応仁の乱のきっかけをつくってしまう。将軍の座を退き、歴史の主流からはぐれた人だが、その一方で芸術を愛で、わび、さびの東山文化を生んだ。この人の内面には興味が湧くではないか。きっと、多元的な思いが絡みあっていたに違いない。それをあぶり出せば、一つの作品として成立するだろう。

 

 ただ、こうした視点に立つ歴史劇は大河ドラマには不適なのかもしれない。NHKは1994年、義政の妻日野富子を主人公にした「花の乱」を放映したが、これは視聴率が振るわなかったようだ。天下取りの派手さに乏しく、テレビ向きではなかったのだろう。

 

 義政の心模様をじっくり味わうには、きっと本のほうがよい。で、今週は『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)。著者は1952年生まれ。2012年まで30年間、国連職員としてスイス・ジュネーブなどで勤務した。この本は今年1月刊。

 

 本の話に入る前に打ち明けておくと、僕は著者とは知らぬ仲でない。同じ学び舎の同じ教室にいて、同じ授業を受けた同級生だった。ただ、そうとわかってつきあいが始まったのは、卒業の約20年後だ。そのころ、僕はロンドン駐在の新聞記者。科学担当でジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機関(CERN)をしばしば訪れていたが、そこにいる日本人物理学者が「あなたと縁がありそうな人がこの町にいる」と言って紹介してくれたのだ。

 

 レストランでワインを酌み交わしながら昔話をしていて、僕たちが学生時代、同じ空気を吸っていたらしいことに気づいた。たしかに、見かけたような記憶はある。だが、時空を共有したという実感が僕にはまったくなかった。著者も同様だったらしい。二人とも学内の滞在時間が短すぎたのだ。ただ皮肉なことに、共有すべきものを共有しなかったということで僕たちの心は響きあった。60歳超の今、メールのやりとりをする関係を構築している。

 

 著者は退職後、本の執筆にいそしんでいる。『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)と『知識』(思水舎、2017年)では、それぞれ表題の大テーマをめぐって真正面から持論を展開したが、第3作の本書では突然、変化球を投げてきた。

 

 なによりも、歴史上の人物の対談集という体裁をとったことに工夫がある。著者は「はじめに」で「すべてから自由になった義政は、まだ常御所(つねのごしょ)しかできていない東山山荘に移り住んだ。その義政に九人の客を迎えさせ、話をさせる」と宣言して、「なにもかもがうまくいったのっぺりとした人ではなく、なにもうまくいかなかった深みのある人が描ければいい」(「のっぺり」に傍点)と書く。まさに心模様の再現だ。

 

 ちなみにこの「東山山荘」が、その後、造営を続けて今の銀閣寺となったのである。

 

 「九人の客」のなかには、義政の異母弟で、義政に嫡男がいなければ政権を継いだはずの義視がいる。義政の妻だが、すでに別居状態だった日野富子がいる。猿楽師がいる。禅僧がいる。茶人や立花作者や庭師もいる。応仁の乱後の1483年、これらの面々が次々と山荘を訪ねてくる。義政は数え48歳、とうに政権は手放している。本文にト書きなし。客人と向きあい、ただひたすら語りあう。著者はそれを淡々と現代語で書きとどめている。

 

 著者は「おわりに」で告白する。「書きながら、何度も、不思議な思いに捉われた。会話が勝手に進んでいくのだ。私の思惑を超え、義政が、そして客が、自分の思いを言葉にする」。自動筆記の感覚か。その結果、「室町時代の人々の感じ方や考え方は、今の時代に生きる私たちのものとそうは違わない」と確信したという。現代を歴史に押しつけていると言えなくはないが、そのことで現代人の思考は間違いなく活性化されている。

 

 では、対談の一端をのぞいてみよう。異母弟の義視には謝罪の言葉がある。「今日は、まず私に謝らせてくれ」「なにがです」「還俗させてしまったこと。あれですっかり、貴殿の人生を狂わせてしまった」。これは、仏門に入っていたのを俗世に引き戻して後継者にしようとしたことを指している。そうしておいて政権を譲らなかったのだから謝るのは当然だ。対談のころ、義視は美濃の地に逃亡の身で、僧のいでたちで密かに上京したらしい。

 

 義政は、その弟に「将軍になど、なるものではない」と言う。勝手な言い草にも聞こえるが、将軍を辞めたら「比べることがなくなった」「競う気持ちがなくなった」と言っているのを読むと、妙に納得する。「怒ることがなくなり、悔やむことがなくなり、悩むことがなくなり、人を責めることがなくなり、罪悪感から解放され、自分を責めることがなくなり、恐れがなくなった」。僕のような退職世代には、この感慨がすとんと腑に落ちる。

 

 富子とのやりとりも絶妙だ。富子は新婚時代を「将軍とは名ばかりの、苦労ばかりの毎日。何事も思うようには事が運ばず、周りの人たちに振り回されるばかり」と振り返る。義政が「悪い夢と思うしかないのだろうか」と漏らすと「あの苦労、あの失敗、あの挫折が、二人には良かった」と応じる。それが義政の懐を深くしたというのである。著者が「はじめに」で書いた「のっぺりとした人ではなく」は、このときに富子が口にした表現だ。

 

 この対談では、富子が山荘づくりの資金繰りを心配している。「山荘造営への幕府からの出費をお断りしたのは、この私ですから」。別居中とはいえ妻、しかもそれなりの権力を手にしているからこその気がかりなのだろう。これに対して、義政は「ものの値段など、あってなきがごとし」「いくらかかるのかは、正直、わからない」と雲をつかむようなことを言う。そして「私はここで、雲になることができる」と、自在に生きる境地を披歴する。

 

 富子が「今まで私に縛られてきたのが、ここに来たら雲の心境になれたと、そうおっしゃるのですか」と突っ込むと、義政はすぐさま否定して「こなたなしでは、私は生きてはいけない」と大人の愛を告白。このあとの場面が「(中略)」とされているのも心憎い。

 

 この本にあるのは、私的事情に結びついた会話ばかりではない。義政は猿楽師を相手に「虚構」と「現実」について語り、禅僧や茶人らとのやりとりでは「美」を話題にする。ただ見落とせないのは、対談する二人の言い分に差異をしのび込ませていることだ。このときの義政は当時としては老人のはずだが、それでも他人の主張に耳を傾ける。その姿勢は、著者自身の懐の深さを映しているに違いない。義政は、九島伸一の分身とみてよい。

 

 きっと内なる対話があるからこそ、歴史上の人物の言葉を自動筆記できたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算417回、現時点で更新なし)

 

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『砂冥宮』(内田康夫著、実業之日本社文庫)

写真》たぶん、ニセアカシア(拙宅の庭から)

 浅見光彦の知名度はなかなかのものだ。これは、テレビの2時間ミステリー(2H)が世間にそこそこ受け入れられている現実を映している。2Hは、放映枠が減る一方のようだが、まだ捨てたものじゃない。作家内田康夫さんの訃報に接して、そう思った。

 

 たとえば、朝日新聞の死亡記事。第2社会面の右肩に「内田康夫さん死去」とあり、脇には「83歳 作家、浅見光彦シリーズ」と添えられている(2018年3月19日朝刊、東京本社最終版)。本文第3段落で「名探偵・浅見」に触れ、「警察庁刑事局長の兄を持つ、ハンサムなルポライターが事件を解決するシリーズとして人気を集め、辰巳琢郎、中村俊介らが演じて映像化されてきた」と素描している。2Hに焦点を当てた記述である。

 

 ここで言えるのは、「浅見光彦」はなにはともあれ訃報の脇見出しに掲げられるほど知られた人物だということ。そして、その「名探偵」が俳優の辰巳や中村、あるいは沢村一樹らによって血肉化されていることだ。光彦は、テレビと切り離せなくなっている。

 

 たしかに、浅見光彦ものにはテレビ向きの一面がある。なによりも人物設定が2Hシリーズにぴったりくる。光彦は聡明ではあるが風来坊。官僚一家のはみだし者だ。ただ放蕩に走ることはなく、素直でお坊ちゃま然としている。だから、住み込みのお手伝いさんも淡い恋心を抱く。視聴者はホームドラマの延長線上でミステリーを楽しめる、というわけだ(当欄2016年11月18日付「浅見光彦といっしょに温泉へ行こう」参照)。

 

 このホームドラマ性は、あのお決まりのギャグにもつながってくる。光彦は旅先で事件に首を突っ込み、地元警察に疎ましがられる。たたきあげの刑事からは冷たくあしらわれるが、身元照会によって「浅見刑事局長ドノの弟君」であることが発覚すると事態は一変する。「それならそうと、最初からおっしゃっていただければよいものを」と手のひらを返したような厚遇を受ける、というあのやりとりだ。これは、役者が演じるからこそ痛快になる。

 

 だが浅見光彦シリーズは、本で読んでも読みごたえがある。それはきっと、作者の心が光彦とともに旅していて、読み手の旅情をかきたててくれるからだ。どの1編をとっても、内田さんが作品の舞台となる土地の歴史を深く取材していることは想像がつく。だからページを繰るにつれて、その風土の地層が1枚、2枚とはがされて古層が見えてくる。光彦という同時代人を通して旅先の過去までのぞき見ることができるのである。

 

 で、今週の1冊は長編ミステリー『砂冥宮』(内田康夫著、実業之日本社文庫)。探偵役の主人公は、やはり浅見光彦。巻頭に三浦半島と北陸・金沢一帯の地図が載っていて、それだけで僕は心惹かれた。片方には突き抜けるような明るさがある。もう一方にはしっとりとした翳りがある。その対比だけで、読み手は読む前から旅の気分を予感する。単行本は、実業之日本社が2009年に出した。文庫版は2011年刊。わりと最近の作品だ。

 

 表題がまず目を引く。ミステリーの題名と言えば『○○殺人事件』の類いがすぐに思い浮かぶ。松本清張『点と線』『ゼロの焦点』のように鋭角的な言葉が際立つものもある。ところが、『砂冥宮』はひと味違う。命名の理由を知りたくて本を開いたら、プロローグ冒頭に答えがあった。光彦の「頭にこびりついている」という泉鏡花『草迷宮』の引用で始まっていたからだ。三浦半島の旧家をめぐる鏡花の怪奇小説から着想されたのだろう。

 

 実際、巻末に収められた著者の「自作解説」によると、この作品は「当初、三浦半島を主たる舞台に設定するつもりでした」とある。それで鏡花の出身地、石川県へ旅に出たのだが、取材しているうちに「鏡花をテーマに仮想の物語を創り出すというだけでは、ひどく陳腐な作品しか生まれない」という気がしてくる。ここで一つちょっとした偶然の出来事があり、構想が一気に膨らむのだが、それについては当欄末尾で触れることにしよう。

 

 作品の導入部は、まだ鏡花の領域にとどまっている。光彦は「旅と歴史」誌で『草迷宮』をとりあげることになり、鏡花が創作のヒントを得たとされる三浦半島西岸の邸を訪ねる。この作品では「須賀(すか)家」ということになっている。取材相手は当主の智文、77歳。接待するのは孫娘の大学院生、絢香だ。「掛け値なしの美人だが、本人はそれを意識していないのか、化粧っ気がまるでない」。浅見シリーズヒロインの一典型だ。

 

 智文は光彦が気に入ったようで、打ち解けてくると「奥さんは?」と尋ね、独身と知ると「それはいい。いかがかな、この絢香などは?」と水を向けたりする。こんなやりとり、今ならアウトだ。浅見光彦的な世界は、どこまでも昭和の雰囲気を漂わせている。

 

 この面談には伏線もある。智文が昔話で学生時代を「何かにつけ親父に反抗して、家に寄りつかない時期もありました」と振り返り、今は近隣のゴルフ場建設計画に「わずかばかり残っている森や山を潰してしまおうという暴挙ですな」と憤っていることだ。

 

 ミステリーは、その智文の刺殺体が石川県小松市の海岸で見つかったことから始まる。「勧進帳」で知られる安宅の関跡の近く。地元では「お旅まつり」が催される日の朝だった。事件を知った光彦は遺族に会って、自分が解明に乗りだすことを納得してもらう。こうして石川県へ飛ぶという筋書きだ。小松署には轟栄巡査部長という刑事がいて、この人と手を携えていくことになる。ちなみに、今回は「刑事局長ドノの弟君」のギャグはない。

 

 事件の核心がほんのりと見えてくるのは、光彦が金沢駅で探偵活動の方針を思案するくだりにある。「構内の真ん中で腕組みをして、十分ほども動かなかった」が、「最後に視線をグルッと一回転させた時、視野の中を小さな表示板が通過した」。表示されていたのは「三ツ屋・内灘方面」。案内に沿って歩いていくと、北陸鉄道浅野川線の改札口があった。内灘の2文字に、読んでいた僕はピンときた。ああ、あのウチナダではないか!

 

 光彦は、その電車に乗る。空いていてのどかだ。老人の世間話を聞いていると、ハッとする言葉が耳に飛び込んでくる。「安宅の関で殺されたじいさんやけど、おれは見たがや」。会話に割って入って問いただすと、その「じいさん」は事件当日、同じ浅野川線に乗っていて終着駅内灘で降りたという。光彦も終点で下車すると、地元の人が「鉄板道路」と呼ぶ道があった。名前の由来は、かつて米軍が「砂丘に鉄板を敷いて」道にしたからだという。

 

 内灘海岸は朝鮮戦争(1950〜1953)当時、米軍の砲弾試射場が計画され、1952年に反基地闘争が盛りあがった場所だ。五木寛之『内灘夫人』の題材ともなっている。僕は闘争直前に生まれた世代だが、それでもウチナダの響きに活動家の青春を感じる。新聞記者になって隣の福井県に住んでいたころ、休みの日のドライブでわざわざ訪れたことがある。ニセアカシアが生い茂る砂丘の風景が脳裏にしっかり焼きついている。

 

 こうしてミステリーは半世紀の時間を遡って迷宮に入り込む。そこにいるのは、須賀老人だけではない。轟刑事の義父で浅野川線の元運転士大脇忠暉、光彦に内灘の歴史を解説してくれた図書館学芸員中島由利子の母峰子……といった人物が内灘という一点でつながってくる。どうやら由利子の実の父で、闘争のさなかに病死したという水城信昭という人物が事件のカギを握っているらしいが、ここから先に立ち入るのはやめよう。

 

 興味深いのは、光彦が由利子に砂丘の着弾地観測所を案内されたとき、「こんなものがあったのですか」と驚くくだり。「ルポライターをなさっているなら、当然、ご存じかと思ってたけど、浅見さんくらいの年代の人だと、もう、内灘闘争のことなんか、ぜんぜん知らないってことなのねえ」。浅見光彦シリーズ第1作の1982年、彼は僕とほぼ同世代だったが、今は昭和をほとんど知らない世代になった。光彦には万年青年の視点がある。

 

 自作解説によると、作品の主題を鏡花から内灘に切りかえたのは、取材旅行中にタクシー運転手との雑談でその地名が出てきたからだという。ウチナダの響きが戦後の一断面を呼び起こした。内田さんはそこに若い光彦を介在させて、近過去を歴史に変えたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算416回、現時点で更新なし)

 

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『ニーチェ』(ジル・ドゥルーズ著、湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫)

写真》主義の変遷

 哲学という言葉を知ったのは、小学校高学年のころだったと思う。自宅に大学生が下宿していて、学問には国語算数理科社会だけでなくテツガクというものがあると聞いたのだ。テツガクシャは、人はなぜ生きるのか、どう生きるべきかを考えているとのことだった。

 

 それで思うのは、そのころに哲学書を読みあさっていればよかったのに、ということだ。子どもたちの未来は開かれている。人生の設計図は真っ白。親から引き継いだ遺伝要因、家庭の経済状態といった環境要因はあるにしても自由度は大きい。だから、その時点で哲学に触れていれば効果抜群となるはずなのだが、あいにくそうはならない。人は、差し迫った悩みに直面して初めて、なぜ生きるのか、どう生きるべきかという問いを抱く。

 

 僕自身も10代になってから、そういうことを考えるようになった。その問いは当初、なぜどう生きるかということよりも、死の恐怖のほうが強かったように思う。死は身体が無に帰するものと認めたうえで、その不安を抱えながらどうやったら生きていけるのかと悩んだ。だから、中学生時代に読んだ哲学関係の本は哲学書ではなく『仏教』(渡辺照宏著、岩波新書)だった。そこに輪廻思想を見いだして、ちょっと安心したことを覚えている。

 

 高校に入ると、僕の思考も方向転換した。死後の世界は幻であり、それを思い描いても気休めに過ぎない、と割り切ることにしたのだ。そのころ気になりだしたのが、実存主義の「投企」という哲学用語だった。マルティン・ハイデッガーやジャン=ポール・サルトルが何を指してそう言ったのかを正しく理解していたわけではない。ただ、自らのありようを絶え間なく投げかけていくような生のイメージが、心に響いたのである。

 

 考えてみれば、僕が少年期に経験した〈仏教の輪廻→実存主義の投企〉という転回は、近現代の欧州思想に起こった変化をなぞっているのかもしれない。標準的な死生観は、欧州ではキリスト教によってもたらされた。そこでも死後が想定されており、中近世の人々はその存在を素朴に信じたのだろう。ところが19世紀以降、それは揺らぐ。一つには、自然科学の進展で唯物論が強まったことがあるだろう。このときに現れたのが実存主義だった。

 

 実存主義には、人はたまたま世界に抛り込まれた存在という見方がある。そこには、創造主の形跡がない。この潮流の先駆者として、欧州の文化を縛ってきたキリスト教の世界観を断ち切ったのがフリードリヒ=ヴィルヘルム・ニーチェ(1844〜1900)だった。

 

 で、今週は『ニーチェ』(ジル・ドゥルーズ著、湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫)。ニーチェその人の著書ではない。著者(1925〜1995)はフランスの哲学者で、1960〜70年代に脚光を浴びたポスト構造主義の旗手の一人として知られる。

 

 ここで気になるのは、ポスト構造主義とニーチェ思想との折り合いだ。前者は、それに先立つ構造主義を受け継いで、主体や主観に重きを置く欧州思想に批判的と言われる。そこでは「差異」がキーワードとなり、関係性が重んじられる。だから、主体の営みとしての「投企」を促す実存主義とは相性が悪いはずだ。ところが著者は、実存主義はともかく、ニーチェには深い敬愛の念を抱いているらしい。それはなぜか。そこが、ぜひとも知りたい。

 

 目次をみると、本文は4部から成る。ニーチェの足跡を素描した「生涯」、その思想の核心に迫る「哲学」、著作に出てくる顔ぶれを並べた「ニーチェ的世界の主要登場人物辞典」――ただ「鷲」、「蛇」、「驢馬」、「駱駝」や「蜘蛛」などもいるから、正しくは「人物」ではない――、そして、著作の一部を抜き書きした「ニーチェ選集」の四つだ。巻末には訳者執筆の「ドゥルーズとニーチェ」があって、難解な本文の理解を助けてくれる。

 

 今回は、最初の2部に焦点を当てよう。「生涯」は、ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはこう語った』に出てくる「三つの変身」の話から入る。精神→駱駝、駱駝→ライオン、ライオン→小児の移行である。駱駝は「既成の諸価値の重圧」を担い、ライオンは「既成の価値の批判を断行する」。そして小児は「新しい価値および新しい価値評価の原理の創造者」を意味する。これらの変身は、ニーチェ自身の著作や生涯にも見てとれるという。

 

 著者は、こうも言う。「ニーチェは一個の〈自我〉の統一性を信じておらず、またそういう統一性を感受することもない。さまざまな〈自我〉のあいだにある諸関係、つまりお互いに隠されており、ある異なった性質の諸力を、たとえば生の諸力、思考の諸力を表わしている多様な〈自我〉のあいだでの、〈力(ピュイッサンス)〉と価値評価の微妙な諸関係――このようなものがニーチェの抱いた概念であり、彼の生の様式なのである」

 

 これは、ポスト構造主義の人ならではのニーチェ観だろう。欧州思想にしっかりと根づいた自我の概念を信用せず、そこにあるいくつもの側面を別々の自我としてとらえ直す。その間に働きあう相互作用こそが一人の人間の生として立ち現われる、ということだろう。

 

 「哲学」の部は、ニーチェが哲学の表現方法にアフォリズム(警句)と詩をもち込んでいることから説きおこされる。これは、「認識へと至るという理想」や「真なるものを発見するという目的」よりも「解釈」と「価値評価」を重んじるからだと著者は言う。「アフォリズムは解釈する技法であり、かつまた同時に解釈すべきものでもある。詩とは価値評価する技法であり、評価すべきものでもある」――ちょっと難しい理屈だ。

 

 だが、ここから始まるソクラテス批判によって、著者が言いたいことが少しだけわかってくる。「哲学の退化は、ソクラテスとともに明確に現われる」と断じて、この先哲の仕事は「生を裁かれるべきなにものか、節制すべき、限界づけられるべきなにものかとする」ことだったと見てとる。そこには、「神性」「真」「美」「善」を高位に置く物差しがあるという。興味深いのは、この枠組みが欧州思想に脈々と受け継がれているとみていることだ。

 

 著者によれば、近世以降は人間が神に取って代わり、「真なるもの、善、神聖さなどの代わりに、進歩、幸福、有用性などがその場を占める」ようになった。物差しは別物になったが、服従を促される点は変わらないということか。だから「哲学の歴史は、ソクラテス学派からヘーゲル主義者に至るまで、人間の長い服従の歴史であり、その服従を正当化するために人間が自分に与える数々の理由の歴史なのである」と言って憚らない。

 

 ここで著者は、我々は「高位の諸価値」を担わずとも「『あるがままの〈実在〉』を背負うように勧められる」と書く。実存主義にも駱駝を見るわけだ。「実在」も高位の諸価値の産物と言って同列の扱いをするからだが、これでは実存主義者がかわいそうな気もする。

 

 著者がニーチェ思想の象徴とみるのは、ソクラテスの対極にあるディオニュソス。このギリシャ神話の酒神は「生とは裁かれるべきものではないということ、生はそれ自身で充分正しく、充分聖なるものであることを予感していた」。服従することのない全肯定だ。

 

 ニーチェ思想の核心には「力」と「意志」がある。前述「自我」のくだりにも「生の諸力」「思考の諸力」などが出てくる。この本によれば、「力の、力との関係」が「意志」と定義される。「〈力〉への意志」は、「相互の差異」によってもたらされ、そこからまた力が生まれてくるので、「動性」があり、「軽やか」で「多元論的」だ。ここにディオニュソスが宿る。著者は「肯定することはそれ自身複数的で、多元論的」と言い切る。

 

 この読み解きで見逃せないのが「差異」という言葉だ。さすが、ポスト構造主義者である。欧州思想史を振り返ると、ギリシャ哲学もキリスト教も一方向を仰いでいる。その先に戴くのは、理想だったり神だったりする。これに対して、ニーチェは多元の要素を重んじる。その差異が力学作用を及ぼすという動的なイメージ。そこには、ポスト構造主義だけではなく20世紀に台頭したエコロジー思想やネットワーク論との共鳴もあるように僕は思う。

 

 ドゥルーズ経由のニーチェは、20世紀を経て21世紀にもビンビンと響いてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算415回、最終更新2018年4月10日)

 

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『ホーキング、宇宙を語る――ビッグバンからブラックホールまで』

(スティーヴン・W・ホーキング著、林一訳、ハヤカワ文庫NF)

写真》地球では北極だって丸い

 同時代を生きる科学者でカリスマと呼べる人は誰か。そう問われたときに真っ先に思い浮かんだのが、この人だった。スティーブン・ホーキング。宇宙の起源やブラックホールの謎に数理で迫った英国の宇宙物理学者だ。今月、訃報が届いた。76歳だった。

 

 僕は新聞の科学部記者として宇宙論に関心を向けてきたので、ホーキングとの接触点は早くからあった。1985年、京都大学であった講演会では、その肉声を聞いている。彼はすでに筋萎縮性側索硬化症(ALS)で発声が不自由だったが、絞りだされる言葉を付き添い役の若者が伝え直してくれたのである。90年には東京で、上司の科学部長とともにインタビューする機会を得た。このときはすでに音声合成装置の助けを借りていた。

 

 この2回の接触は、ホーキング宇宙論の移り変わりに照らすと貴重な体験だった。そのことについては古巣、朝日新聞の科学面に書いたので、ここでは繰り返さない(2018年3月22日朝刊「共感呼んだ 希代の科学者」)。ただ、拙稿を採用してくれた後輩のひとことには、ちょっとグッときた。「尾関さんは、ホーキングの生の声を聞いた数少ない日本人の一人なんですね」。やはり、あの人はカリスマと呼んでいい。つくづく、そう思った。

 

 だが、ホーキングはカリスマであっても「偉大」とは言いにくい。どうしてか。彼の理論が扱う世界は気が遠くなるほどの極限にあるので観測の目が届かないし、実験によっても再現もできないからだ。これほどの俊才がノーベル賞を贈られないばかりか、下馬評にすらほとんど上がらなかった背景には、そんな事情がある。宇宙相手の理論研究者は辛いね、とも言えるが、むしろ賞狙いの思惑に毒されず、かえって自由なのかもしれない。

 

 そこで対比したくなるのは、もう一人のカリスマ、アルバート・アインシュタイン。こちらはノーベル賞を受けたが、それは「理論物理学への貢献、とりわけ光電効果の法則の発見に対して」だった(1921年物理学賞、22年授与)。光電効果は、実験室で確かめられる現象である。驚くべきことに、最大の業績である相対性理論は授賞理由に明記されなかった。これも、懐疑論を完全に払拭する検証が難しかったからかもしれない。

 

 そのアインシュタインについて言えば、一般相対性理論が予言する重力波は2015年に観測され、翌年発表された。予言の論文から観測の論文までの時間幅は、ちょうど100年。宇宙の理論は簡単には確かめられない。証拠を見つけるには絶妙な装置が必要で、学説を提起した科学者やその同時代人が世を去った後に決着がつくこともあるのだろう。人類はやがてホーキングを「偉大」と呼ぶかもしれないが、それはまだ先のことだ。

 

 僕が強調したいのは、ホーキングには「偉大」よりも「魅力的」という形容がふさわしいということだ。それは、社会活動やメディア露出によるところも大きいのだが、研究手法からも感じとれる。学説をネタに研究者仲間と賭けを楽しむ。一方で、自説と異なる説にも謙虚に耳を傾ける。そこにあるのは、探究を通して友愛を深め、友愛を通して探究を深めるという相互作用だ。これこそが、学問本来の姿ではないかとも思えてくる。

 

 で、今週は『ホーキング、宇宙を語る――ビッグバンからブラックホールまで』(スティーヴン・W・ホーキング著、林一訳、ハヤカワ文庫NF)。原著は1988年刊、原題は“A Brief History of Time”。著者の代表作と言ってよい。邦訳は早川書房が翌年、単行本として出し、95年に文庫化した。宇宙そのものだけでなく、それと密接にかかわる相対性理論や量子力学、素粒子論にまで踏み込み、20世紀物理学の世界像を描きだしている。

 

 ここでは、その一大絵巻でもっとも気になる点をとりあげてみようと思う。虚数の時間、あるいは虚時間と呼ばれる概念だ。虚数とは実数ではない風変わりな数のことで、二乗すると負の実数になる。たとえば、2は実数で2×2=4だが、2iは虚数で2i×2i=−4となる。著者の理論では、宇宙の始まりでは時間が虚数だった、というのである。僕たちがいる〈いま・ここ〉から遡ると、そんな不可思議な世界に行き着くと聞いて驚く。

 

 余談だが、かつて日本の高名な物理学者が講演で「虚時間ばかりはわからない」と打ち明けて笑いをとったことを僕は覚えている。その人は実験家で宇宙観測の第一人者だった。理論の大家に敬意を表しつつ、その観測を超えた知見に匙を投げたのだとも言える。

 

 では著者は、なぜこんな荒唐無稽なことを思いついたのか。そこに出てくるのは、彼が同じ英国の物理学者ロジャー・ペンローズとともに完成させ、1970年に共著論文で発表した特異点定理だ。これによって、一般相対論などを前提にすれば宇宙の始まりに「ビッグバン特異点があったはず」ということが証明されたと第3章「膨張する宇宙」にある。それを踏まえて、虚時間を求める理由が第8章「宇宙の起源と運命」に詳述されている。

 

 その要旨はこうだ。特異点は「無限大の密度と無限大の時空湾曲率をもつ」ので「既知の科学法則はすべて破れているだろう」。未知の法則があっても、それは「定式化することさえきわめてむずかしい」。重力場が強すぎて「古典理論では、もはや宇宙はうまく記述できない」のだ。ということで、古典物理を超える量子力学の出番だ。「量子論では特異点が存在する必要はないので、特異点に対する新しい法則を仮定することも必要でなくなる」

 

 そうか、著者は一般相対論の数理を駆使して宇宙の始まりの特異点を見つけてしまったが、それは大変に厄介なものだった。そこで、古典物理の枠外にある量子力学を取り込んでその厄介者を追い払おうとしたわけだ。このときに想定されたのが虚時間だった。

 

 これは、計算の都合から出てきたらしい。著者の説明によれば、量子力学が重力を扱うときは、米国の物理学者リチャード・ファインマンが考えた「経歴総和法」が使われる。この手法では、粒子が「時空の中であらゆる可能な経路をたどる」とみるので、それが「ある点を通過する確率」を知るには、その点を通る経路に対応する波を足し合わせる必要がある。このときの「技術的困難を避けるには、虚時間を用いなくてはならない」という。

 

 虚時間には妙味がある。この本によれば、もし時間が虚数の値をとるならば時空の数式で時間と空間を対等に扱える。これは僕の解釈だが、4次元〈時空〉を4次元〈空間〉と言えるようになるということかもしれない。ただ、僕たちは3次元空間の住人なので、それを超える高次元空間は思い描けない。この壁を乗り越える常套手段は、低次元で言えることは高次元でも成り立つだろうと見当をつけ、次元数を減らして考察することだ。

 

 ここで著者がもちだすのは、2次元の地球表面だ。大海原を「夕陽に向かって漕ぎだしていっても、縁から落ちたり、特異点にはまりこんだりする心配はない」と書く。同じことが4次元で言えるなら、宇宙の極限では「時間と空間はいっしょになって、大きさは有限だがどんな境界も縁ももたない一つの曲面を形づくっているかもしれない」。地球のように丸ければ、始まりがなく特異点もないので「科学法則が破綻することもない」わけだ。

 

 宇宙は、無境界の時空を組み込むと「完全に自己完結」させることができる。著者は、8章の結びで「だとすると、創造主の出番はどこにあるのだろう?」と問いかけている。ちなみに虚時間の提案は、宇宙が無のゆらぎでポッと現れるというアレクサンダー・ビレンキンの仮説と表裏一体の関係にある。この筋書きでは宇宙がポテンシャルエネルギーの障壁を通り抜けて生まれ出る過程があるのだが、それが虚時間世界に対応するのである。

 

 この本には、見落とせない洞察がある。著者は、虚時間の導入という工夫で追放したはずの特異点を完全には否定していない。「われわれの生きている実時間に戻ってみると、依然、特異点があるように見える」。視点を移せば、世界の見え方が変わるということか。

 

 ホーキングは、実在にこだわらない実証主義者だと言われる。虚実を問わず、数理で体系づけられた世界像を手にできればよいのだろう。虚時間がそのことを如実に物語る。

(執筆撮影・尾関章、通算414回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『あの夏、兵士だった私―96歳、戦争体験者からの警鐘』(金子兜太著、清流出版)

写真》「南方」

 「ダイラケ」と言って、ピンとくる人がどれだけいるだろう。中田ダイマル・ラケットという昭和の漫才コンビである。在阪の芸人だがテレビ草創期からブラウン管に出ていたので、僕のような東京の子にも馴染みがあった。ちょっと太めのおじさんと小柄で眼鏡のおじさん。二人は、職場の雑談さながら「キミ」「ボク」の人称でしゃべくりあう。笑いのとり方が健全で、茶の間で見ていても安心できるテレビ向きの芸風だったように思う。

 

 このコンビで忘れがたいのは、本業の漫才ではなくドラマ出演だ。有名なのは「スチャラカ社員」。ウィキペディアを引くと、この番組は1961〜67年に在阪の朝日放送(ABC)が制作してTBS系で放映された公開収録コメディー(当時、ABCはTBS系列だった)で、ダイラケの二人は「毎回珍騒動を巻き起こし、舞台を盛り上げる」主役の商社員を演じたとある。今思い返しても、これぞドタバタ喜劇というようなつくりだった。

 

 1960年代は、高度経済成長によって視聴者の間にホワイトカラー文化が花開いた時代だ。「スチャラカ…」は、その空気感をそのまま反映していたと言えよう。同じダイラケ主演作品では、それより古いコメディーの印象も強烈だ。題名が思いだせないので、これもウィキペディアに頼ると「ダイラケ二等兵」(1960〜61年放映、ABC制作)。「スチャラカ…」の前身番組と思い込んでいたが、時間枠からみてそうではなかったらしい。

 

 実は「…二等兵」は不思議な喜劇だった。そのころ僕は小学校2〜4年で、すでに先の大戦がもたらした人々の辛苦について親から聞かされていた。軍人は怖いという感覚も子ども心に植えつけられていたように思う。ところが、番組では軍隊生活が笑いのタネになっていた。ここから先はぼやけた記憶を呼び起こすしかないが、演者の背景に密林と穴倉のようなセットが映しだされていたように思う。南方の戦場という想定だったのだろう。

 

 では、ドラマは視聴者をどのように笑わせたのか。うっすらと思いだされるのは、二等兵のダイラケがいたずら心を発揮して上官に一泡ふかせるという筋書きだ。戦後精神が軍国主義のタテ社会に風穴を開け、その不条理を笑い飛ばしていたのかもしれない。

 

 子ども心にも違和感があったが、今になってみると逆に納得できる。1961年は終戦のわずか16年後。中年の人々にとって、来し方の半分以上は戦前戦中だった。戦時中を懐かしんでいたとは思わないが、風刺の舞台としてしっくりくるのが戦場だったのではないか。ただ、そのころから目の前に新しい世界がひらけてくる。企業戦士にとっての戦場、すなわち「スチャラカ…」の活動領域だ。その移行期を、僕は現認していたことになる。

 

 で、今週は『あの夏、兵士だった私――96歳、戦争体験者からの警鐘』(金子兜太著、清流出版)。著者は今年2月に98歳で逝去した俳人。戦後、社会派の前衛俳句を切りひらいた人として知られる。東大経済学部卒。日本銀行に長く勤める一方、句作にいそしみ、俳誌『海程』を創刊した。晩年は反戦に情熱を傾け、2015年には安全保障関連法案に対する抗議行動で掲げられた「アベ政治を許さない」の揮毫を引き受けた。

 

 この本は2016年刊。プロローグには、前年に揮毫を頼まれたとき「こっちからお願いしてでもやらなくちゃ!」と思ったとある。背景にあるのは戦争体験だ。ここでは、戦後まもなく旧トラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)を離れるときの心情を自句自解のかたちで打ち明けている。目に入るのは、島の戦死者8000人余に対する墓碑銘と引き揚げ船の後方に延びる白い航跡。「“非業の死者”に見送られるように感じた」という。

 

 水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

 

 この本が説得力をもつのは、戦時の心理を正直に回顧していることだ。著者は東大在学中に海軍の「特殊士官」に志願する。1943年に日銀入行後すぐ「生きて帰れば復職できる“ひも付き退職”」をして海軍経理学校に入り、翌年、トラック島に主計中尉として赴く。志願は「どうせほっといても戦争にとられるだろう」「それならせめて士官として赴任しよう」と考えた末の選択だったという。そういう思惑はふつうのことだったのだろう。

 

 ところがそういう熟慮の人が、どこに配属されたいかを問われると「南方第一線を希望します」と答えてしまう。「答えた後で、『しまった』と、随分後悔しました」。なぜ、「オッチョコチョイ」な返答をしたのか。著者の自己分析では、まず「『この戦争に勝ってくれ』という郷里の人の顔が浮かんだ」からだ。さらに「華々しく散っていく」ことの「美学」や「祖国のために殉ずる」ことの「満足感」や「陶酔感」も心をよぎったらしい。

 

 ここで書きとどめたいのは、当時のインテリ青年の時局観だ。著者によれば、学生の多くは米国相手の戦争は「長期戦になったら、とうてい勝ち目はない」と知っていた。なのに「日本の窮状を救うには対米開戦しかなく、そのためには奇襲攻撃がベストの策」と考えたという。短期戦で優位に立って停戦にもち込もうという算段だ。一見、目端が利いた見方のようだが、実際はまったく違う展開となった。現実主義の落とし穴を見る思いがする。

 

 著者がトラック島に着いてからの体験は過酷だ。トラック島は環礁に囲まれた島々の総称で、その内海を荷物運搬のポンポン船が行き来しているので、これが敵機の標的となりやすかった。ある日、船の同乗者が機銃掃射で心臓を撃たれ、死ぬ。軍属の工員だった。敵は「動くものを標的する」。だから、「私は『動くな』と叫んだんだけど、声が届くか届かないうちに、あっという間にやられてしまった」。死はいつも、すぐそばにあった。

 

 手榴弾の実験が死をもたらすこともあった。そのころ、手榴弾の使い方は硬いもので衝撃を与えてから投げ、着弾点で爆発させるという方式だったが、手もとの一撃だけで暴発する事故が起こったのだ。試し投げした工員は「あっという間に右腕がすっ飛び、みるみる背中に穴が開いていった」。即死である。近くで実験を指揮していた少尉も爆風に飛ばされ、破片が心臓に刺さって死んだ。戦争の罪深さを著者が痛感したのは、この直後だ。

 

 工員の仲間たちは、生存の見込みがない同僚を担いで病院まで走った。「ああ人間というのはいいものだ」と思わせる光景だった。その一方で、少尉の上官に事故を報告すると「みんな笑っている」。実戦の修羅場をくぐり抜けて死に慣れっこになっていたのだろう、と著者は推察する。二つの目撃談を並べて「置かれた状況が人間を冷酷に変えてしまう」「戦争とは人間のよさを惜しげもなくつぶし、感覚を麻痺させるのだと痛感しました」と言う。

 

 1944年夏のサイパン陥落後はトラック島への補給が絶たれ、餓死が「日常当たり前の光景」になった。頼みの綱は自給だ。工員たちはポンポン船から手榴弾を海に投げ込み、爆発で浮かぶ魚をとる。ここで危ないのはフグ。捨てるように言っても「空腹にたまりかねて拾って食う者が出てくる」状況だった。餓死者がふえるにつれて「もうあと何人か死ねば食糧が全員に行き渡る」といった計算が脳裏をかすめ、自己嫌悪に陥ったという。

 

 もっとも苛烈なのは殺人だ。先住民族の集落で女性を襲おうとして男性に「蕃刃」で切りつけられる工員もいた。同性愛の色恋沙汰が「殺し合い」に至ることもあった。そこにあるのは「倫理観がない世界」だ。「そんな世界に自分が放り出されて、彼らに直面しなければならない状況で、自分はどう生きていけばいいのか」。そう自問するうちに行き着いたのが「俺が生きている間に、彼らの生き方を見届けてやろう」という決意だった。

 

 この本の一つのヤマ場は、著者が中心になって開いた戦場句会のくだりだ。上官だった詩人の西村皎三が、戦況の悪化で暗い気分になりがちな同胞を「慰めてやれ」と開催を促した。海軍と陸軍、将校と工員が交じりあう不思議な会だった。ほっとさせられる挿話だが、それでも僕の心が晴れないのは、その舞台が「倫理観がない世界」だったからだ。人間の生命と尊厳がここまで軽んじられる精神状況と俳諧味との乖離はあまりに大きすぎる。

 

 今、戦争が起こっても僕たちは戦場の現実についていけない。そう信じたいと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算413回)

 

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『中央線をゆく、大人の町歩き――鉄道、地形、歴史、食』(鈴木伸子著、河出文庫)

写真》沿線色

 昔の電車は、たいていあずき色だった。業界ではぶどう色と呼ぶらしい。首都圏では国電(現JRの通勤路線)がそう。私鉄でも小田急などは同様だった。それが、いつのまにか色とりどりになった。最近は、アルミ合金のメタル感を露わにしたものがふえている。

 

 カラー化で言えば、東京・中央線快速のオレンジ色が忘れがたい。幼いころ、その電車が登場したときは、心底カッコいいと思ったものだ。市ケ谷・飯田橋間の外堀沿いを走る姿や御茶ノ水の神田川崖上にさしかかる様子は、一幅の絵と言える。今回、ネット情報でその運行が始まったのが1950年代のことらしいと知って、ちょっと驚いた。60年安保が済んで、日本経済が高度成長まっしぐらのころに現れたとばかり思っていたからだ。

 

 僕たちの世代にとって、このオレンジ色には特別な意味合いがある。1970年前後、中央線は若者文化の基軸となった。山手線の内側では御茶ノ水駅周辺が大学の密集地域で、学園紛争で騒然としていた。山手線の外側でも高円寺から吉祥寺に至る一帯は大学生の下宿やアパートが多く、フォークソングの空気が漂っていた。そして山手線との交点新宿は、ジャズが流れる対抗文化の拠点だった。オレンジ色がそれらをつないだのである。

 

 僕自身は、私鉄線から山手線に乗り換えるという通学経路をとっていたので、中央線とは交点の新宿でのみ接していた。だから、御茶ノ水駅界隈の動向には疎く、高円寺や吉祥寺の雰囲気もほとんど知らない。それでも、オレンジ色の若者力はビンビンと響いていた。

 

 もっと過去にさかのぼれば、僕にとって中央線の原風景は、あずき色の電車が走っていたころの荻窪にある。小学校にあがる前、母に連れられて、家族づきあいをしている人の家をよく訪れた。もはや朦朧とした記憶しかないのだが、そこに並んでいたのは古色蒼然とした家々だ。量感豊かな生け垣、どっしり構えた門柱、玄関まで続く石段……。子ども心にお屋敷町とはこういうものかと感じたものだ。空襲を免れた昔ながらの邸宅街だった。

 

 東京の高級住宅街と言えば田園調布や成城学園前が真っ先に思い浮かぶが、それらとは異なる趣の町が中央線沿線にはある。派手さでは負けるが、落ち着いた佇まいがある。背景には、路線の東端が首都の心臓部で丸の内や霞が関に近かったこともあるだろう。東京にホワイトカラーと呼ばれる勤労者層が根づいたとき、その人々に生活の場を供給したのが西方に広がる台地だった。骨太の路線が東西を貫き、職住を結んだのである。

 

 こう振り返ってみると、中央線のオレンジ色は、あずき色の沿線色を塗りかえる効果があった。だが、1970年代半ばに対抗文化の嵐が過ぎ去った後、沿線は再び旧来の落ち着きを取り戻した感もある。今の中央線は、どんな顔を見せているのだろうか。

 

 で、今週は『中央線をゆく、大人の町歩き――鉄道、地形、歴史、食』(鈴木伸子著、河出文庫)。著者は、『東京人』誌の副編集長などを務めた町歩きの達人。著書には東京の散歩本も多い。1970年代に子どもであり、80年代には大学生だったとわかる記述が本文にあるので、オレンジ色の若者文化が燃えさかるころを同世代として実感してはいない。この本は2017年に刊行されたので、沿線の現在を知るには格好の1冊だろう。

 

 著者は、本文を新宿から始める。「中央線にとって新宿駅は、始発駅である東京駅よりも、住みたい街ナンバー1である吉祥寺駅よりも、もっとも中央線的」と位置づける。理由は明快だ。1960年代半ばまで「日本に若者文化というものはなかった」。ところが60年代後半、若者たちはジャズやフォーク、前衛劇、反戦運動などに尽き動かされて街へ出る。そこが新宿だったというのだ。オレンジ色を「中央線的」と見る視点である。

 

 ただ著者は、新宿の「中央線的」があずき色時代に由来することも見落とさない。たとえば明治期開店の食の老舗、中村屋。創業者が「インド独立の志士ボースをかくまった縁でカリーライスがメニューとなり、ロシアの詩人エロシェンコを支援したことでボルシチやピロシキも看板商品となった」。昭和期には紀伊國屋書店。モダニズムの建築家前川國男は戦後2度にわたって店舗ビルの設計を引き受けたという。そこは抵抗と進取の街だった。

 

 僕も若いころ、中村屋の2階にあるティールームでよくコーヒーを飲んだ。欧風の内装には暗褐色の堅木材がふんだんに使われていて、落ち着いた雰囲気だった。あのころ、一学生としてのプチ贅沢は紀伊國屋で選りすぐりの本を数冊買い、続いて斜め向かいの中村屋に飛び込んでその本を開く、というものだった。そこに女友達がふらりと現れてくれれば、読みはじめたばかりの本の蘊蓄をえらそうに語る、というおまけもついた。

 

 そんな僕を、友人の一人は「紀伊國屋周辺派」と名づけたことも思いだされる。新宿の若者文化は、反戦歌で沸いた西口の地下だけではない。あるいは、チョイ悪オヤジがたむろするゴールデン街だけでもない。東口の新宿通りにも穏健な流れがあったのである。

 

 この本は、新宿からいったん西進する。高円寺の章で思わず苦笑いしたのは、1970年代、隣の阿佐ケ谷駅で乗り降りする子どもだった友人が著者に語った証言。「高円寺駅からはベルボトムジーンズに長髪の人が電車に乗ってくるのが日常風景だった」という。その伝統は、今もかたちを変えて生きている。南口のルック商店街は90年代半ばから「古着屋が増え、ガーリー系、サブカル系の女子に人気の街になる」のである。

 

 荻窪の章では、著者もあずき色時代を掘り起こす。名が挙がるのは、錚々たる文化人たちだ。『荻窪風土記』の著書がある井伏鱒二だけではない(文理悠々2011年4月28日付「井伏鱒二が見た『震災』下の優しさ」参照)。歌人与謝野鉄幹、晶子夫妻、音楽評論家大田黒元雄、出版人角川源義、児童文学者石井桃子らが、このあたりの住人だった。元首相近衛文麿の別邸荻外荘もあった。その敷地や旧居は今、公園や文化施設になっている。

 

 ここで目を引くのは、井伏の仕事に『ドリトル先生』シリーズの邦訳があることに触れたくだり。「この翻訳を井伏に勧めたのが同じ荻窪に住む石井桃子だったとか」とある。近隣文化人の交流が異色作品を生むという化学反応があずき色時代の中央線にはあった。

 

 吉祥寺まで進んで、著者は目を都心に転じる。そこで話題となるものの一つが学園紛争。1968年6月の「神田カルチエラタン闘争」では「御茶ノ水駅から駿河台下にかけて学生たちがバリケードを築き機動隊と衝突」とか、「火炎瓶や投石に対し、機動隊は催涙ガスで応戦」といった光景が繰り広げられた。著者は「今もこの街には若者が多く、学生街としての活気がある」と書くが、その「活気」が変質したことだけは間違いないだろう。

 

 最後は再び、東京西部。僕らの世代が三多摩と呼んだ一帯だ。だだっ広い台地に乾いた土埃が舞う感じ。勤め人家庭が住む団地が林立して、選挙になると革新が圧倒的な強さを誇ったものだ。著者は、そんな僕たちの懐旧を素通りしてその前後の今昔をあぶり出す。

 

 興味深いのは、そこには革新の平和志向になじまない記憶もあることだ。立川はかつて「軍都」で、「駅の北側には大正時代後期に陸軍航空隊が設立され、立川飛行場となって、その周辺には軍需工場が立ち並んだ」。武蔵野台地は軍用滑走路の適地だったのである。戦前は三鷹駅周辺にも中島飛行機が進出、「軍需工場や関連施設が増えたために工場で働く人や関連会社の住民が増え、農村地帯だった街が発展してきた歴史がある」という。

 

 三多摩には台地があるだけではない。多摩川の河岸段丘としてできた国分寺崖線が走り、湧水に恵まれている。小金井のあたりで崖下の「はけの道」につながる武蔵野公園。そこで秋に催される「はらっぱ祭り」は生演奏ありバザーありで、「元ヒッピーや現役のそれらしい人」も姿を見せるという。「このお祭りに行けば、七〇年代そのものの中央線カルチャーの雰囲気を今も感じられるのだろうか」と、著者はオレンジ色の過去に思いを馳せる。

 

 あずき、オレンジ、メタリック。中央線快速の鉄路は幾重もの年代のうえにある。

(執筆撮影・尾関章、通算412回)

 

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『原発の現場―東電福島第一原発とその周辺』(朝日新聞いわき支局編、朝日新聞出版)

写真》3・11から7年(朝日新聞2018年3月7日朝刊)

 思いだすのも、いやな日である。3月11日。7年前のあの日、東京は春めいた日差しに包まれていた。昼下がり、大揺れが都心の新聞社にも到来する。やがて、テレビの空撮映像が仙台近辺に上陸した津波をとらえる。万単位の生命を脅かす災厄が起こったことを、僕たちは直感した。そして日が傾くころ、追い討ちをかけるように飛び込んできた東京電力福島第一原子力発電所の電源喪失という凶報。暗澹とした夜を迎えたことを覚えている。

 

 3・11は、大自然の怖さと現代技術の脆さがいちどきに露呈した日である。どちらからも強い衝撃を受けたが、科学記者としていっそう身にこたえたのは後者だ。伝えるべきことをきちんと伝えてこなかったのではないかと言われれば、反論のしようがなかった。

 

 実際に3・11以降、日本の科学ジャーナリズムは批判の矢面に立つ。大手紙が戦後しばらく、原子力利用推進の旗振り役を果たしたことは間違いない。それは、高度経済成長が公害をまき散らした1960〜70年代になっても変わらなかった。だが80年代に入ると、この論調に疑念を抱く科学記者がふえてくる。反省の契機は、79年の米国スリーマイル島(TMI)原発事故と86年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故だった。

 

 TMI事故の日、僕は入社満2年を迎える直前で、北陸・福井支局の記者だった。そのころ、県南部では原発の新増設が進んでいて、新顔の関西電力大飯原発1号機が動きだしたのが3月27日。翌28日にTMIの2号機が冷却水喪失という事態に陥ったのだから、それは対岸の火事ではなかった。大飯1号機は安全確認のためにいったん止められる。原発担当の先輩は大忙しで、僕も反原発運動の取材などを手伝ったような気がする。

 

 まだ、科学記者ではなかったせいだろうか。僕があのときに痛感したのは、原発の危うさではなかった。むしろ、危うそうなものを粛々と受け入れる立地県の姿に無力感を抱いたのだ。そこに関与するのは、電源三法交付金だったかもしれない。雇用の創出もあっただろう。それら政治経済の仕掛けが、こぞって自治体や地域社会のありようを変えていた。「これでいいのかな」。駆けだしの新聞記者としてそんな思いは募るばかりだった。

 

 新聞が原発のような巨大システムを取材するとき、理工系の視点だけに立つと過ちを犯しかねない。視線が細部に向かう一方だからだ。難があれば、それをあばいて改善策を求める。技術論議に明け暮れる結果、このシステムがそもそも必要なのか、もしかしたら不要な歪みを社会にもたらしているだけではないか、といった根源の問いが置き去りにされる。1960〜70年代の科学報道が迷い込んだのは、そんな袋小路だったように思う。

 

 1970代末以降、TMIとチェルノブイリの衝撃で安全神話に対する疑念が強まり、素朴な原子力推進論は衰退する。科学ジャーナリズムの内部で原発の負の側面に目を向ける動きが出てきたのは前述の通りだが、「根源の問い」が強まったとまでは言えなかった。

 

 で、今週は『原発の現場――東電福島第一原発とその周辺』(朝日新聞いわき支局編、朝日新聞出版)。1979年5月〜80年3月、朝日新聞福島版と東北総合版で約200回続いた連載記事をもとにしている。単行本は80年に朝日ソノラマ社から出たが、2011年秋に電子書籍として復刻された。未曽有の事故で注目の的となる福島第一に光をあてた本がそこに眠っていたわけだから、緊急復刻は当然の成り行きだっただろう。

 

 取材にあたったのは、いわき支局の3人。僕は社内事情を知る身なので、このなかに科学部の経験者や後の科学部員がいなかったことは明言できる。うち1人――粕谷卓志さん――は後年、社会部長を務めて経営幹部になった人だ。彼も巻頭の「復刻にあたって」という一文で、自分たちは「原発素人」だったと打ち明けている。県都ではない都市の小さな支局が、日常報道の合間によくこれだけの長期連載を仕上げたものだと驚く。

 

 連載の直前に勃発したのが、TMI事故だった。この本も冒頭で、1979年3月29日に福島第一の幹部や福島県の原子力担当者らが米国から刻々と入る情報にあたふたとする様子を描いている。県原子力対策室長が、来庁した東電本社の課長らに「事故はP(加圧水型)だがB(沸騰水型)にも起こり得るのか」と問いただした気持ちはよくわかる。福島第一は沸騰水型炉(BWR)で、TMIのような加圧水型炉(PWR)ではなかった。

 

 この室長はTMI事故の概要がわかった5月にも、こう吐露したという。「それにしても事故がB(沸騰水型)でなくて、まして福島でなくてよかった」。ここにも、BとPの違いにこだわり、ウチはBだからと胸をなでおろす心理が見てとれる。ただ注意すべきは、危険因子はさまざまにあることだ。事故を起こした炉と条件が違っただけでは安心できない。油断していると、まったく別方向から危機が迫ってくることがある。

 

 この本には、地震の記述もある。1978年、宮城県沖地震発生時の中央操作室。運転員は、「スクラム(緊急停止)」を予期して身構えた。「が、計器は発電所が正常に動いていることを示していた」。取材によれば、関東大震災級の揺れに襲われなくては炉のスクラムはないという。この本は「第一原発では地震によるスクラムはまだない。この辺の自然災害で怖いのは雷だ」と書く。ここからは、海溝型地震の津波に対する警戒が見えてこない。

 

 記者は、原子炉メーカーが地元につくったBWR運転訓練センターを訪ね、事故時や故障時の運転操作を仮想体験できる模擬装置を見ている。コンピューター内につくりだされる「異常状態」は、配管の「ギロチン破断」や炉内の「冷却材喪失」など130種。センター幹部が「あらゆるトラブルを考えてある」と言っているのが、今にして思えば空しい。原発が津波で水浸しになり、電源を台無しにするという筋書きはあったのだろうか。

 

 この本の前段は、おもに福島第一やその関連施設、県庁の取材をもとにしている。だから、原発の推進側にいた人々がTMI事故の報に接しても、メディアに対して、あるいは自分自身に対しても、ウチは大丈夫だと言い聞かせている様子がよくわかる。その思いは気休め交じりであれ、痛切なものだったことが後段で見えてくる。地元の人々の生活をつぶさに報告することで、大丈夫と信じるしかない地域社会の実情を浮かびあがらせているからだ。

 

 たとえば、大熊町の農村風景。「足を踏み入れてすぐ気付くのは、どこまでも続く三十アールに区画された水田」だ。原発立地に時機を合わせ、行政主導で圃場整備が進められた結果である。原発が生みだす雇用を見込み、「水田に大型機械を導入するとともに水稲の協業化を進め、その余剰労力を規模拡大と農外収入に振り向けようという構想」だった。現実に原発の建設とともに「農外」を主とする第二種兼業農家の割合は急伸していった。

 

 協業化では、農家が地区ごとに生産組合をつくる。稲刈り、脱穀などは「組合委嘱のオペレーター」が大型機械で代行してくれるので「農家はその分農作業から解放され、原発関連の下請け作業員などとして勤務に専念できる」。そのオペレーターも「普段は下請け作業員などの原発関連に勤め」「稲刈り時期に四十日間ほど集中して休みを取る」。原発は農家の営みを非可逆的に変え、原発なしには成り立たない農村をつくりだしたのである。

 

 この本は、原発作業の過酷さもとりあげている。定期検査時などに下請け作業員が放射線管理区域で被曝線量を気にしながら働く姿は、おもにフリーライターの堀江邦夫さんの体験談を通して描かれている。それは、当欄2017年11月17日付「1ミリシーベルトは100ミリレムで紹介した『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫、原題は『原発ジプシー』)に書かれたものに近いが、彼の取材手法を取材している点は興味深い。

 

 堀江さんは、ライターだと感づかれないよう努めたという。「その日の作業手順や体験、感じたことなど堀江はトイレや喫茶店で克明に記録した」「記録はすべて、書いたらのりをつけ封が出来る郵便書簡に記入し、そのまま投かんして東京の自宅に送った」とある。

 

 3・11の30余年前、原発はすでに社会を歪ませていた。そのことがよくわかる本だ。

(執筆撮影・尾関章、通算411回)

 

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『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)

写真》破格の訃報(朝日新聞2018年2月10日夕刊)

 石牟礼道子さんが逝った。享年90。作家であり歌人でもあり、なによりも水俣病の語り部として知られる。新聞は破格の扱いでその死を伝え、悼む声を数多く載せた。

 

 当事者にとっては頼りがいのある人だった。この病を患う92歳の坂本フジエさんは「味方じゃち思っとった」「水俣病のことを世に知らせてくれた方」と振り返っている(朝日新聞2018年2月10日夕刊、同11日朝刊)。ミカタジャチの響きに万感が籠る。

 

 知識人の敬愛を集めた人でもある。作家池澤夏樹さんのコメントは、石牟礼文学の存在理由をぴたりと言い当てている。「近代化というものに対して、あらゆる文学的な手法を駆使して異議を申し立てた作家だった」「本当はもっと早くから、世界的に評価されるべき作家だった」(朝日新聞2018年2月10日夕刊)。「異議を申し立てた」とあるのを見て、僕は彼女が『苦海浄土――わが水俣病』を著したころのことを思いだした。

 

 この作品は1969年に講談社から単行本で出て、翌70年春、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。石牟礼さんは患者の病苦に対する思いを理由に受賞を辞退したが、僕の記憶ではこのときに抄録が月刊『文藝春秋』に載ったように思う。ちょうど日本経済の高度成長が極まり、大阪で万博が開かれていたころ。『苦海…』には、そうした世間の空気感とは相反する闇の深さがあったように思う。正直、僕にはついていけなかった。

 

 当欄は2年前、『いのちの旅――「水俣学」への軌跡』(原田正純著、岩波現代文庫)をとりあげた。そこでもっとも印象に残ったのは、結婚してよそから移り住んだ女性の思い出話だ。再引用しよう。「魚はどこで買うんですかと聞いたら、魚は買うもんじゃなか、貰(もら)うもんたいと言われて驚いた。漁船が帰ってくる頃、浜に籠(かご)もって立っとけばよかと言われた」(2016年5月20日付「原田水俣学で知る科学者本来の姿」)

 

 水俣湾の一帯には、貨幣経済にどっぷり浸かる前の地域社会があった。眼前の海で獲れる魚介類はまず、みんなで分け合う。あり余る漁獲があれば都会の市場へ出そう――そんな発想だろうか。はやりの言葉で言えば、地産地消だ。前近代の風景がそこにはある。

 

 不幸だったのは、そのど真ん中に近代の権化とも言える大工場が現れたことだ。工場が垂れ流す有害物質は湾内の生きもので濃縮され、海産物に蓄えられた。それは、都市圏に出回るよりも早く地元で消費された。大都市の店には生鮮品が全国あちこちから集まるので、人々が有害な食品に出会う確率は低い。ところが生産地では、地元産品が食卓に集中するので、もしそれが有害ならば影響をもろに受けてしまう。ここに怖さがあった。

 

 近代化の波が、前近代の様相をとどめる地域を襲ったのだ。その不条理に対する抵抗が文学によってなされるのは自然なことだった。前述の池澤さんは朝日新聞の文化・文芸面に寄せた追悼文で、石牟礼さんを「半分まで異界に属していた」と位置づけ、だからこそ「『近代』によって異域に押し出された」患者たちとの間に「回路が生まれた」とみる(2018年2月12日朝刊)。異界の交流が石牟礼文学の核心にあったというのである。

 

 で、今週の1冊は石牟礼作品とすべきところだが、あえて避ける。異界には軽々に踏み込めないと思うからだ。今回は、水俣病という近代の病を現実世界の側から考察することにしよう。選んだのは『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)である。

 

 2016年刊。1956年5月、熊本県水俣保健所に「原因不明の疾患」の報告――水俣病の公式確認――があってから満60年の直前に出された。著者は52年生まれ、刊行時点の略歴に熊本日日新聞論説主幹とある。「熊日」と言えば、この公害病蔓延の兆しにいち早く気づき、その実相に迫った地方紙だ。この本は新聞人の著作らしく、人々の息づかいを感じさせるエピソードを織り込みながらデータブックとしても読める構成となっている。

 

 その兆しを伝えた熊日記事の引用が、この本にはある。見出しは「猫てんかんで全滅 水俣市茂道 ねずみの激増に悲鳴」(1954年8月1日朝刊)。茂道(もどう)という漁村で猫100匹余の大半が発作の末に絶命、その結果、ネズミが激増したという。「この地区には水田がなく農薬の関係なども見られず、不思議がるやら気味悪がるやら」。のどかな集落の動物の異変に戸惑うという筆致だ。事の重大さはまだ気づかれていなかったらしい。

 

 これが人間社会の問題でもあるとわかって世の中が動きだすのは、公式確認後だ。この本によると、厚生省研究班は1957年3月に報告書をまとめていた。「確認」から1年とたっていない。あのころの中央官庁としては素早い対応だったように思う。しかもその報告書は、水俣湾で獲れる魚介類が化学物質もしくは金属類によって汚染されている疑いに言及して、チッソ(当時は新日本窒素肥料)水俣工場の実態を調べたいとしていた。

 

 研究班には国立公衆衛生院、熊本大学医学部、水俣保健所などの専門家が加わっていたという。当時の医学に照らしても、発生源として真っ先に思い浮かぶのはチッソの廃水だったのだろう。それなのに、被害の拡大防止策や患者の救済支援策は遅々として進まない。

 

 たとえば、厚生省食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会が受けた仕打ち。著者によれば、1959年に部会の代表者が答申で、水俣病の主因は「ある種の有機水銀」と打ちだすと「通産大臣・池田勇人が、有機水銀が工場から流出したとの結論は早計だと反論、このため答申は閣議了解とはならなかった」。そして、部会そのものが解散の憂き目に遭う。ちなみに池田は翌年、総理大臣となって所得倍増政策を推し進めた人である。

 

 この一点をもってしても「高度成長の陰画とでも呼ぶべき水俣病」という著者の認識は間違っていない。明治期に生まれた日本窒素肥料が戦後、社名を新日本窒素肥料に改めて、力を入れたのがプラスチック可塑剤の原料となるアセトアルデヒドの増産だった。生産量は1955年に1万トンだったが、60年には4万5千余トンまで伸びたと、この本は記す。その製造過程で水俣病を引き起こすメチル水銀が生みだされたのである。

 

 ここで産出されるアセトアルデヒドは「国内の生産量の三分の一から四分の一」との記述もある。1960年代と言えば、身の回りの多くのものが木材や金属からプラスチックに代わった時代だ。大都市の消費者も水俣工場の生産活動と無縁ではなかった。

 

 高度成長の呪縛は実は、地元にもあった。著者は、熊日が1959年11月8日に載せた記事を紹介する。「水俣市長、市議会議長、商工会議所会頭、地区労議会長」ら有力者50人が熊本県知事に「水俣工場の廃水停止は困る」と陳情した、というのである。「市税総額一億八千余万円の半分以上を工場に依存し、また工場が一時的にしろ操業を中止すれば、五万市民は何らかの形でその影響を受ける」(同記事)と、陳情団は主張した。

 

 それにしても……とあきれるのは、政府による水俣病の「公害」認定が1968年だったことだ。公害対策基本法の施行がその前年だったという事情はあるにしても遅すぎる。57年に厚生省研究班報告書が工場に目を向けていたのだから、「公害病」と言わずとも高度成長が吐き出した有害物質の直撃を受けた人々に救いの手を差し伸べる施策を展開することはできたのではないか。著者も「公式確認から実に一二年が経過していた」と書く。

 

 さて、再び石牟礼さん。この本では、彼女が1960年代、「患者多発地区に足を運び、ひたすら患者たちの声をじっと聞いていた」と記されている。そこに現れるのが、前述の原田正純さん。「検診会場でよく見かける石牟礼を保健婦とばかり思い込んでいた」とある。著者は、この二人に環境学者の宇井純、写真家の桑原史成を加えて「四銃士」と呼ぶ。水俣病の「真相を追求する試み」を支えるものの一つに四人の仕事があった、という。

 

 水俣の人々は、近代が求める高度経済成長によって「異界」に押しだされた。だが、苦難が存在したのは異界ではなく現実世界だ。石牟礼さんは、それを現認していたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算410回)

 

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『新訳 まちがいの喜劇』(ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫)

写真》エラーバー

 年が明けてから、間違い騒動が相次いでいる。それも最高学府での話である。

 

 まずは新春早々、大阪大学が昨年の入学試験に出題・採点ミスがあった、と発表した。朝日新聞によれば、「1問は解答が複数存在するが一つのみ正答とし、その関連でもう1問は問題として成立しなくなった」(2018年1月7日朝刊)ということのようだ。点数の配分では100点満点中の7点に相当する。このことで、本来は合格なのに不合格になった人や第一志望が叶わず第二志望の学科に進んだ人は計39人にのぼるという。

 

 2月に入ると、こんどは京都大学が記者会見して、昨年の入試に出題ミスがあったことを明らかにした。「条件設定が不十分だったため、二つの解答から正答が選べなくなっていた」(朝日新聞2018年2月2日朝刊)。こちらも計28人が影響を受けたという。

 

 興味深いのは、どちらも物理の出題で、音波を扱った設問だったということだ。世間の人は、数理系の問いは答えが一つに決まると思いがちだ。だが、実際はどんな条件を想定するかによって解き方が分かれ、正解が並立することがあるらしい。

 

 だとしたら、出題者はいろいろな条件設定をすべて頭に入れて問題文を用意しなければならない、ということだ。だが人は日常、一つの条件をデフォルト(標準設定)にして物事を進めることが多い。デフォルトを当然のことと思い込むと、ほかの条件は目に入らなくなる。「条件設定が不十分」という事態は、たぶんこのようにして生じるのではないか。これは、僕たちのだれもが陥りやすいありふれた落とし穴と言えよう。

 

 とにもかくにもこの入試ミス2件は、最高水準の頭脳が得意分野を扱うときでさえ、ときに間違えることを白日の下に曝した。ヒトは、間違いから逃れられないということだ。ならば、それを気の緩みのせいにして精神論を説いてもほとんど意味がない。

 

 求められるのは、むしろ社会設計に間違いの存在を織り込むことだ。間違いの影響をどう小さくするかを、あらかじめ考えておいたほうがよい。この点で阪大や京大の事例は最悪の道筋をたどった。1年たってから判定を塗りかえたからだ。その結果、当該の受験生は今になって入学や進路変更を認められたが、ではこの1年は一体何だったのかという当惑が残る。損を埋め合わせているように見えて、実は別の損をつくりだすという負の連鎖だ。

 

 奇しくも僕は今年の年頭、言論サイトWEBRONZAに「20秒早発でなぜ謝る? エラーバー社会の勧め」という論考を発表した(2018年1月1日付、後段は有料)。電車の出発がダイヤの定刻と20秒ずれたことで鉄道会社が「謝罪」したことに異議を唱えたのだ。理系論文のグラフでは、実験値の誤差範囲をエラーバーとして棒状に描く。それと同様、世の中のしくみを誤差があることを前提につくり直せないか。そんな思いを込めた。

 

 で今週は、間違いだらけの大芝居。『新訳 まちがいの喜劇』(ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫)。1590年代前半の作品とみられ、沙翁初期の喜劇と言える。この本は、作者の没後400年を記念して2016年に開かれたKawai Project vol.2の公演演目「2016/2017あうるすぽっとタイアップ公演シリーズ『まちがいの喜劇』」(翻訳・演出 河合祥一郎)の脚本を文庫化したものだ。2017年刊。

 

 この作品も、シェイクスピア劇の例にもれず韻文が多い。訳者あとがきは、英国の研究者ケント・カートライトが調べた散文韻文比を引く。それによると、韻文が全体の87・1%、その四分の一に押韻(ライム)がある。そこが訳者の工夫のしどころだったようだ。

 

 たとえば、「おまえは、とんまなロバでしょ、いつもぶつくさ」「それでくさくさして、道草を食うんだ。めんど草」といった具合。あるいは「おいら門番をやるんですか。本気でしっかり?」「そうよ。ひどい目にあわすよ、誰か入れたら、うっかり」といった調子。

 

 この喜劇の間違いは、ひとことで言えば双子の取り違えだ。顔や姿がそっくりな人がいたら同一人物と決めてしまう、という人間社会の常識が破れると、どんなことになるか。作者は、そのドタバタをこれでもかこれでもかと見せつける。ここでふと思うのは、同じことは400年余を経た21世紀の今でも起こるのではないか、ということだ。運転免許証やパスポートさえあれば本人証明が完了するという約束事が厳然と存在している。

 

 この作品の仕掛けは、作中人物の設定にある。商人一家が海難事故に遭い、幼い双子は離ればなれになる。兄はエフェソスで暮らし、弟はシラクサで育った。今は交流がない。話をこんがらがらせるのは、同じ船にもう一組、双子の兄弟が乗っていたことだ。父が、息子たちの「召し使い」にしようと育てていたのである。彼らもエフェソスとシラクサに引き裂かれる。歳月が過ぎると、青年と召し使いのそっくりペアが二組できあがっていた。

 

 やや不自然なのは、商人の子である双子が兄も弟も「アンティフォラス」を名乗っていることだ。父の独白に「名前をちがえたところで見分けがつかない」とはあるが、だからと言って同名にする必要はあるまい。さらに召し使いの兄弟も両方「ドローミオ」。作者はそんな横紙破りをして、話をおもしろくした。別々の町に住んでいるときは不便もなかったろうが、ひょんなことから一つところに居合わせるととんだ喜劇が巻き起こった。

 

 作者が仕掛けた喜劇としての決め技は、片方のアンティフォラスだけを妻帯者にしたことだ。現実には双子がどれほど瓜二つであっても、配偶者の目には識別がつくだろう。だが理論的には、役所の窓口係と同様に眼前の顔をちらりと見て「たしかに、この人はこの人」と信じてしまいかねない。窓口係は写真と見比べるが配偶者は記憶と照らし合わす、というだけの違いだ。このときの間違いが、ドタバタに情感を与えてくれるのである。

 

 こうして、アンティフォラスの弟が兄の妻エイドリアーナから夫として扱われたときの独白。「この俺を口説いてるのか?」「どんなまちがいが自分の目や耳を狂わすのか?」。挙げ句、弟はエイドリアーナの妹ルシアーナのほうに心を奪われる。「あの人のベッドに僕は何の義務もない」「君にまだ夫はなく、僕に妻はいない」と求愛すると、「待って。だめ、待ってくださらなきゃ」「姉を連れてくるわ。何て言うか聞かなきゃ」と突き返される。

 

 一連の間違いは、自己同一性(アイデンティティー)に対する問いを触発する。たとえば、シラクサのドローミオが主人に吐露する戸惑いはこうだ。「おいらがおわかりになりますか? おいらドローミオですか? 旦那(だんな)の召し使いの? おいら、おいらですか?」。似たことは僕たちの現実世界にもある。免許証の写真だけを頼りに「ご本人と確認されました」と言われたとき、心の中で声がする。「おいら、本当においらですか?」

 

 もう一つ書き添えるべきは、この芝居には双子の取り違えのほかにも間違いが潜んでいることだ。訳者あとがきによれば「本作品には時間の混乱がある」。アンティフォラス弟とエイドリアーナが同一の場面にいるのに、それぞれの台詞から推定される時刻が数時間ほどずれているというのだ。これを訳者は「エイドリアーナの家の時計が狂っている」と解釈して、作者の意図で「女心を表すものとして導入された」と説明づける。

 

 訳者は「エリザベス朝戯曲において、『時刻のまちがい』は頻繁に描かれる一つのモチーフだった。当時、現代のような正確な時計はなく、時計は常に調整が必要だった」と書く。なるほど。翻って、現代は一つの時刻が行き渡っている。スマホもパソコンも同じ時を刻んでいる。そのために間違いを寸秒たりとも許さない文化が過剰になったとはいえないか。20世紀物理が時間を相対化したというのに、絶対時間信仰に戻っているという不思議。

 

 この喜劇の大団円は家族の再会だ。間違いが引き起こす大混乱を見せつけながらも、最後はハピーエンドにまとめあげている。シェイクスピアは間違いを否定的にばかりとらえず、そこに僕たちの思考を豊かにする効能があることを見抜いていたのではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算409回)

 

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『三一新書の時代――出版人に聞く16』(井家上隆幸著、論創社)

写真》左は三一新書、これも風俗左翼路線?

 世の中、どうしてこんなにも一色に染まってしまったのだろう。たとえば、2年後の東京五輪パラリンピック。この開催に異論を唱える人はきわめて少数派だ。では、僕が若かった1970年前後はどうだったか。大阪万博がお祭り騒ぎになっても、若者の間には相反感情があった。高度成長の恩恵に浴しながら、産業経済優先の既存体制に反感を募らせていたのだ。バンパクなんて知らないよ。僕は、そう思って見物に行かなかった。

 

 半世紀後の現在から眺めれば、若者たちは左翼にかぶれていた、というひとことで片づけられてしまうかもしれない。だが、それはちょっと違う。僕のように学生運動とは無縁で、革命の必要を感じず、自分はまぎれなく中産階級の子であると開き直っていた者であっても、体制に反発していたのだ。反体制の心情は文化の隅々にまで浸透していた。映画しかり、音楽しかり、文学しかり。それは、政治とは別次元にあったと言ってよい。

 

 反体制の中心には、たしかに左翼の集団があった。だが、それは既成のマルキシズム政党でも、社会民主主義政党でもない。新左翼と呼ばれる一群の党派とそれに属さないノンセクト・ラジカルの若者たちだった。新左翼の特徴をひとくくりにはできないが、一つ言えるのは、そこでは党派的な統制を求めるベクトルと、反体制ゆえに管理を嫌うベクトルが交ざりあっていたことだ。後者が、当時の若者に共感を呼び起こしたのである。

 

 たとえば、本屋に入ったときのことを思い起こしてみよう。若者は豊かではないから、文庫・新書のコーナーに群がったものだ。あのころ、文庫銘柄の老舗格は岩波、新潮、角川の御三家。新書では岩波、中公、現代がまず目についたが、それに挑むように異彩を放つ銘柄もあった。その筆頭が三一新書か。たいていの大手書店では書棚の一角を占めていたように思う。背表紙の書名に過激な言葉が並び、反体制シンパの若者には輝いて見えた。

 

 で、今週は『三一新書の時代――出版人に聞く16』(井家上隆幸著、論創社)。著者は1934年に岡山県で生まれ、今年1月に死去した。略歴欄には、三一書房に58年に入社、73年に退社したとある。三一新書は同社が55年に創刊したので、その草創期から隆盛期までつくり手の側にいたことになる。退社後は日刊ゲンダイの創刊にもかかわったようだが、その後、フリーライターとして活躍し、書評本などを出してきた。

 

 この本を選んだのは、著者の訃報に接したからだ。井家上さんは、僕にとってまったく縁なき人ではない。地元のジャズバーで、ときどき見かける常連客の一人だった。店主から高名な書評家と聞いた。ただ酒場の空気を壊したくなかったので、敬して近づかなかった。その後、店主が逝き、店は閉じられて、お目にかかる機会はなくなった。薫陶を受けておけばよかったなあと今にして思う。その悔いがあって通販で本を取り寄せたのだ。

 

 この本は、全編にわたってインタビューの形式をとっている。聞き手を務め、文章を構成したのは、評論家の小田光雄という人だ。小田さんは、ネットで調べると僕と同年の1951年生まれ。井家上さんを先達として敬いながら、その個人史や出版人としての秘話を引きだしていく。世代の距離感が同じせいか、自分がインタビューしているような錯覚に陥ることもある。ところどころに適切な補足説明を織り込んでくれているのがありがたい。

 

 著者――井家上さん――が三一書房に入ったいきさつは時代を感じさせる。大学時代、左翼運動に没頭していて就職の道が狭められた。浪人後、「新聞社に引っ掛かったと思ったら、健康診断で結核が見つかり、療養所に入るはめになった」。それで、三一に応募。試験は「一番だった」が、新卒でないことを理由に減点される。幸い上位合格者が別の出版社を選んだため、「繰り上げ採用」になったという。左翼が強く、肺病は脅威だった。

 

 さらなる幸運は、その就職先が上昇気流に乗っていたことだ。五味川純平の小説『人間の條件』が三一新書から出され、1956〜58年に全6冊が完結。これが100万部の大台に乗った。著者の入社前のことらしいが「ボーナスが十カ月出たようです」。新人時代の60年代初めには東京・お茶の水に新社屋が建って「『五味川ビル』といわれた」。京都の本社と「飯田橋駅のそばの木造二階家」にある東京出張所が、ここに集まったのである。

 

 ちなみに著者は社員になる前から三一新書に親しんでいたらしい。新書創刊第1号は『経済学教科書の学び方』(宮川実、岡本博之、井上清著、関西勤労者教育協会編)。これは当時、既成左翼の学習運動で用いられていた『経済学教科書』(ソヴィエット同盟科学アカデミー経済研究所著、マルクス・レーニン主義普及協会訳、合同出版)の解説本の役目を果たした。著者も、学習運動で開かれる読書会の「チューター」(講師)に就いていた、という。

 

 1950年代半ば、日本の出版界には左翼運動が深く食い込んでいた。しかも、そのころは既成左翼が若者たちの闘争を引っ張る牽引車だったので、三一新書もそれに応える刊行物から出発したのである。それが、どのようにして軌道を変えていったのか。

 

 ここで出てくるのが「風俗左翼路線」という言葉だ。著者とは同窓の先輩編集者がめざしていたもので、著者自身もそれに同調した。三一新書が創刊後しばらく定番としてきた「ソ連や中国物、あるいは共産党系の左翼出版」とは一線を画して「反アカデミズム、反啓蒙主義をコアとする思想とカウンターカルチャーの回路」を探し求めるものだったという。これこそが社会主義に囚われない反体制の文化であり、「三一」の輝きだったと言えよう。

 

 この新路線は当時、久保書店から出ていたハードボイルド専門誌「マンハント」に強く影響を受けたという。米国小説の翻訳を載せる雑誌で、田中小実昌、都筑道夫、荻昌弘ら多彩な翻訳陣を擁していた。この人脈の一部は、三一新書の執筆陣に加わっていく。たとえば、田中の本は『かぶりつき人生』。書名はストリップに由来する。上司の編集長は「左翼だけれど、風俗はきらいではなかったし、そういうことには鷹揚だった」と著者は振り返る。

 

 著者が「愛着のある一冊」と懐かしむ新書は、1964年に出した『ゴシップ10年史』(内外タイムス文化部編)。今は懐かしい大衆娯楽紙の記者たちが筆を振るったようだ。

 

 『ゴシップ…』のカバー袖には、編集者自身――井家上さん――の手になる一文が刷られた。ゴシップは、書く側も書かれる側も読む側も「おたがいに他を卑しめあうばかりか、自分も卑しめる」が、「そこには、量的にはすさまじく厖大なエネルギーがついやされている」。だから、その一つひとつが「それぞれの時代の様相を反映している」というのである。昨今の醜聞報道とは違って、木だけでなく森も眺めようとする余裕が感じられる。

 

 へえーっと驚いたのは、当欄に幾度も登場してきた作家片岡義男が三一新書の書き手だったということだ。「テディ片岡」の筆名で、『C調英語教室』『味のある英会話』という英語本を出したという。僕は当欄の前身で『日本語と英語 その違いを楽しむ』(片岡義男著、NHK出版新書)をとりあげたことがあるが(文理悠々2012年11月19日付「片岡義男に教わる英語っぽい英語」)、その源流も「三一」にあったらしい。

 

 これを見てもわかるように、三一新書は新分野に乗りだすことをためらわなかった。消費者問題の本がある。映画書もある。小説も『人間の條件』にとどまらず、次々に出していく。著者は、この貪欲さを当時の新書編集者の心理によって説明づける。そこには「岩波新書に対抗し、どのように自社のオリジナリティを確立するか」という一念があったという。こうして旧来の左翼出版の硬さを脱ぎ捨てたことが、時代の空気に適合したのである。

 

 そして三一新書が1960年代末に行き着いたのが、学生運動をとりあげた新左翼本の相次ぐ刊行。新旧が代っただけの左翼回帰とも言える。「その時は売れたけれど、結局は三一新書の読者層を細らせ、限定的にした」と著者は顧みる。きわめて冷静な自己分析だ。

 

 あのころの反体制は左翼の枠に収まらなかった。だから、管理に抗する反骨心こそ持続させるべきではなかったか。井家上さんが遺した言葉からそんなことを思う。

(執筆撮影・尾関章、通算408回)

 

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