『水木しげるの雨月物語』(水木しげる著、河出文庫)

写真》人の数式

 新聞の読書面で美術家の横尾忠則さんが『化物蝋燭』(木内昇著、朝日新聞出版)という本を片仮名書きで書評していた(朝日新聞2019年8月3日朝刊)。「サトウハルオガ ゼンブン、カタカナデ カイイショーセツヲ カイタ」ことに倣い、「ワタシモ コノホンガ カイダンナノデ、ショヒョーヲ コワクスルタメニ、カタカナデ カク」と宣言している。おもしろい趣向だった。だが、疑問もある。片仮名には「コワクスル」効果があるのか。

 

 僕には、横尾さんと真反対の感性がある。「幽霊が出てくる怪談は怖い」の字面は、見るからにおどろおどろしい。そこで怖くしないために「ユーレイが出てくるカイダンはコワイ」と書きたくなるのだ。とりわけ「霊」の1文字は、見ないで済むなら見たくない。

 

 なぜか。最大の理由は、「霊」が死と不可分のものとみられているからだろう。「霊」は人の心身を「心」と「身」に分けて考えたときの「心」の実体を指す。だから、「身」が死によって失われれば「心」が残る。それを「霊」と呼ぶのだ。数式で表せばこうなる。

 人=身+心、したがって、人−身=心=霊。

 そこで人は、死によって「身」を失うと「霊」として立ち現われる、という理屈だ。

 

 だが、これには唯物論者からの反撃が予想される。モノがすべてという立場で言えば、「心」も「身」が起こす現象にほかならない。死とともに「身」が朽ちれば「心」も消える――。たとえ唯物論に立たなくとも、幽霊の存在を受け入れない人は多い。「心」が「身」と別物ならば、それは「身」の死によっても消滅しない。ただ、このときに「心」は「身」とは別の空間で持続する。未練がましく、この空間にのこのこ現れるとは思えない――。

 

 そうだ、そもそも「心」の実体を言い表すならば「心」の一語で事足りるのだ。「霊」という言葉は要らない。幼いころの無邪気な「心」も、青春時代の恋多き「心」も、実社会に出てからの損得勘定まみれの「心」も、どれもこれも「霊」とは言わない。ならば、没後の「心」だけを「霊」と呼ぶのは一貫性を欠く。不祝儀袋にも「御霊前」ではなく、「御心前」と書けばよいではないか。この世界にユーレイなんているはずもないのだから。

 

 と、威勢よく啖呵を切ってみたものの、やはりなんとなくユーレイが気になる。で、今週は、江戸期半ばの文人上田秋成の筆になる『雨月物語』をとりあげてみよう。ただ僕は、古文を読むのが苦手だ。幸い、恰好の助け舟を見つけた。『水木しげるの雨月物語』(水木しげる著、河出文庫)。『雨月…』原著にある9話のうち3話を現代文の物語にして、それに合わせた挿絵をふんだんに盛り込んだ本だ。初版は1985年に出ている。

 

 著者・水木しげるは、言うまでもなく『ゲゲゲの鬼太郎』の漫画家。1922年に鳥取県境港市で生まれた。「著者あとがき」には、上田秋成を知ったのが少年時代の国語の教科書を通してであったことが書かれている。それから、『雨月…』や『春雨物語』を読むようになる。これらの作品はドロドロ感が希薄で、「美しさみたいなもの」(「美しさ」に傍点)を宿しているので虜になったという。妖怪ものの大家はドロドロが嫌いだったのだ。

 

 著者は秋成の伝記も読んだ。「本居宣長の説に反対してみたり、煎茶道なるものを始めてみたり、大切な春雨物語の原稿を井戸の中に捨ててみたり、はなはだ変り者で、逆に尊敬の念を深くした」(引用部のルビは省く、以下も)。型破りなところは著者自身にも通じる。

 

 当欄では、この本に収められた3話のうち「夢応の鯉魚」に焦点を当てよう。主人公は、近江の名刹三井寺の興義という老僧。絵心があり、「寺務の暇がある日には、琵琶湖に舟を浮かべ、漁師から買いとった魚を湖水に放し、その魚の泳ぎ回るさまを見てはそれを絵に描いた」。魚を静物とは見ず、動的にとらえようとする。眠れば夢で水中の魚とざれあい、覚めればそれを一幅の絵に仕上げる。その魚を「夢応の鯉魚」と呼んだという。

 

 興義があるとき、生死の境をさまよう。息が止まったので、周囲の人々はいったんは死んだものと思ったが、体が温かい。三日ほどして突然、目を覚ます。老僧は「何日くらい経ったのかな」と尋ね、一つ頼みごとをした。檀家である「平の助の殿」に使者を送り、進行中の宴会を打ち切って寺に来るよう伝えてくれ、というのだ。使者が殿の館に着くと、たしかに宴たけなわだった。老僧の意識は混沌としていたのに、なぜそれがわかったのか。

 

 ここで「助」とは、長官を補佐する次官を指す。寺にやって来た次官に老僧は問う。「漁師の文四に魚を注文なさいませんでしたか」。その通りだ。次官が驚くのを尻目に、さらに話を続ける。漁師が大魚を館に運び込んだこと、そのとき次官は碁を打っていたこと……これも、その通り。そして「料理人は、得意そうに魚を籠から取り出し、それをなますにしました」。見てきたような描写だ。ほんとうに見ていたのではないか。

 

 ここで老僧興義は一転、自分の体験を語り始める。発病後のことだ。「あまりの苦痛に耐えかねて、気絶してしまったのも知らず、熱気をさまそうと、杖をたよりに寺の門を出ました」。まもなくたどり着いたのは、琵琶湖畔。裸になって水に入ると「幼少の頃から、特に泳ぎが達者だった訳でもないのに、思うように泳ぎ回れました」。このとき彼は床に臥せっていたのだから、歩いたり泳いだりできるわけがない。これは間違いなく、夢だ。

 

 話はなおも続く。ひとりの老人が大魚に乗って近づいてきて、「水の神」の言葉を伝える。「老僧はかねてから放生の功徳が大きい」、そこで「金色の鯉の服を授けよう」というのだ。そのとたん、興義は自分が「金色の鱗で覆われた鯉」に一変したことに気づく。

 

 ここからがおもしろい。興義の鯉は「長等山の山おろしを受けて逆まく浪に身を浮かべ、志賀の入江の汀あたりを遊泳してみる」。あるいは「比良の高山の山影が映っている湖水の底深く潜ってみた」。でも、隠れてばかりはいられない。「堅田の漁火にしぜんと引き寄せられる」。竹生島の周りでは神社を彩る朱色の玉垣にはっとさせられたりもしたらしい。秋成は、作品のなかに読み手が喜びそうな観光スポットの情報までしのび込ませているのだ。

 

 このあとどうなったかは、ネタばらしになるので明かすのを控える。ただ、興味を覚えるのは、秋成がこの話にユーレイを登場させていないことだ。興義は臨死状態になって幽体離脱したともいえるが、離れたはずの「霊」はどこにも現れない。レイらしきものが鯉の姿で湖水を遊泳したという奇談を彼本人に語らせながらも、その確証はない。漁師が捕まえた魚はただの鯉だったかもしれないのだ。話はすべて、夢という「心」の現象に帰される。

 

 夢はなんでもありだから、人が魚になっても不思議はない。僕はここで、『超現実主義宣言』(アンドレ・ブルトン著、生田耕作訳、中公文庫)が、「夢」を「もう一つの生活」ととらえて重視していたことを思いだした(当欄2019年5月31日付「夢の話から入るブルトンのシュール」)。興義は、夢が目覚めとともに「括弧のなかに閉じ込められる」(ブルトン)という性向に抗い、その括弧を取り払って物語を解放している。

 

 こうしてみると、上田秋成は18世紀に『雨月…』を書いたが、20世紀のシュールレアリスムを先取りしていた。しかも、「夢応の鯉魚」を夢想の枠にとどめることで、唯物論とも折り合いをつけている。そこには、近代精神の芽があるように思う。

 

 ことわっておくと、この本に収められた他の2編「吉備津の釜」「蛇性の婬」はちょっと趣が違う。前者では怨霊が人の言葉を発する場面がある。後者では妖怪が人の姿となって立ち現れ、人間世界を騒がせる。作者は「霊」=「心」に「身」の肉づけをして、僕たちがいるこの実空間に出現させているのだ。考えてみれば、これこそが古来、怪談奇談の主流だったのだろう。秋成は近世の人だから、そういう作品も書いていたことになる。

 

 最後にもう一つ、「夢応の鯉魚」に残された謎を。老僧興義は、檀家の館で繰り広げられる宴の様子をなぜ言いあてられたのか。勘がよい? 偶然? でもこういうことは現実にある。現代人にとってユーレイよりも怖いのは、むしろこうした奇妙な符合ではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算484回、2019年8月9日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)

写真》茶の世界

 大河ドラマは、どうも好きになれない。昔の人物に今の倫理を押しつけている印象が拭えないからだ。かつて書いたことをもう一度繰り返すと、武力が正当化され、人権がないがしろにされていた世情をそのまま描かず、近代市民社会の常識と折り合いをつけるべく美化しているところがある(当欄2014年12月5日付「師走に思う大江戸ミッドナイト」)。視聴者の反発を買わないための脚色かもしれないが、嘘っぽさは拭えない。

 

 乱世の物語を血なまぐさいまま活写せよ、とは思わない。ただ、美化とは違う描き方もあるはずだ。歴史の転換点では、人間の野心、嫉妬、愛憎があからさまなかたちで表れる。その確執を巧く切りだせば、見ごたえのあるドラマになるだろう。シェイクスピア作品がそうだ。舞台劇ということで流血沙汰は様式化され、登場人物の心模様が台詞を通して見えてくる(当欄2016年11月4日付「名演出家、名優去りし年のマクベス」)。

 

 日本史では室町の世が、そんな心理劇の芽をはらんでいる。幕府はあるが、背後に最高権威の朝廷が控えている。公家もいる。大名もいる。政治権力が一極に集中することなく、いつも揺らいでいる。渦中にいる人物が鋭敏な感受性の持ち主ならば、その思考は深みを帯びたものになるはずだ。しかも、当時は仏教の各宗派が並び立ち、茶に親しむ習慣や庭園を愛でる文化も生まれていたから、それらもものの見方に陰翳を与えたことだろう。

 

 で、浮かびあがってくる人物の一人が、室町幕府第8代将軍足利義政(1436〜1490)だ。少年期に将軍職に就き、世継ぎ問題をこじらせて応仁の乱のきっかけをつくってしまう。将軍の座を退き、歴史の主流からはぐれた人だが、その一方で芸術を愛で、わび、さびの東山文化を生んだ。この人の内面には興味が湧くではないか。きっと、多元的な思いが絡みあっていたに違いない。それをあぶり出せば、一つの作品として成立するだろう。

 

 ただ、こうした視点に立つ歴史劇は大河ドラマには不適なのかもしれない。NHKは1994年、義政の妻日野富子を主人公にした「花の乱」を放映したが、これは視聴率が振るわなかったようだ。天下取りの派手さに乏しく、テレビ向きではなかったのだろう。

 

 義政の心模様をじっくり味わうには、きっと本のほうがよい。で、今週は『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)。著者は1952年生まれ。2012年まで30年間、国連職員としてスイス・ジュネーブなどで勤務した。この本は今年1月刊。

 

 本の話に入る前に打ち明けておくと、僕は著者とは知らぬ仲でない。同じ学び舎の同じ教室にいて、同じ授業を受けた同級生だった。ただ、そうとわかってつきあいが始まったのは、卒業の約20年後だ。そのころ、僕はロンドン駐在の新聞記者。科学担当でジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機関(CERN)をしばしば訪れていたが、そこにいる日本人物理学者が「あなたと縁がありそうな人がこの町にいる」と言って紹介してくれたのだ。

 

 レストランでワインを酌み交わしながら昔話をしていて、僕たちが学生時代、同じ空気を吸っていたらしいことに気づいた。たしかに、見かけたような記憶はある。だが、時空を共有したという実感が僕にはまったくなかった。著者も同様だったらしい。二人とも学内の滞在時間が短すぎたのだ。ただ皮肉なことに、共有すべきものを共有しなかったということで僕たちの心は響きあった。60歳超の今、メールのやりとりをする関係を構築している。

 

 著者は退職後、本の執筆にいそしんでいる。『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)と『知識』(思水舎、2017年)では、それぞれ表題の大テーマをめぐって真正面から持論を展開したが、第3作の本書では突然、変化球を投げてきた。

 

 なによりも、歴史上の人物の対談集という体裁をとったことに工夫がある。著者は「はじめに」で「すべてから自由になった義政は、まだ常御所(つねのごしょ)しかできていない東山山荘に移り住んだ。その義政に九人の客を迎えさせ、話をさせる」と宣言して、「なにもかもがうまくいったのっぺりとした人ではなく、なにもうまくいかなかった深みのある人が描ければいい」(「のっぺり」に傍点)と書く。まさに心模様の再現だ。

 

 ちなみにこの「東山山荘」が、その後、造営を続けて今の銀閣寺となったのである。

 

 「九人の客」のなかには、義政の異母弟で、義政に嫡男がいなければ政権を継いだはずの義視がいる。義政の妻だが、すでに別居状態だった日野富子がいる。猿楽師がいる。禅僧がいる。茶人や立花作者や庭師もいる。応仁の乱後の1483年、これらの面々が次々と山荘を訪ねてくる。義政は数え48歳、とうに政権は手放している。本文にト書きなし。客人と向きあい、ただひたすら語りあう。著者はそれを淡々と現代語で書きとどめている。

 

 著者は「おわりに」で告白する。「書きながら、何度も、不思議な思いに捉われた。会話が勝手に進んでいくのだ。私の思惑を超え、義政が、そして客が、自分の思いを言葉にする」。自動筆記の感覚か。その結果、「室町時代の人々の感じ方や考え方は、今の時代に生きる私たちのものとそうは違わない」と確信したという。現代を歴史に押しつけていると言えなくはないが、そのことで現代人の思考は間違いなく活性化されている。

 

 では、対談の一端をのぞいてみよう。異母弟の義視には謝罪の言葉がある。「今日は、まず私に謝らせてくれ」「なにがです」「還俗させてしまったこと。あれですっかり、貴殿の人生を狂わせてしまった」。これは、仏門に入っていたのを俗世に引き戻して後継者にしようとしたことを指している。そうしておいて政権を譲らなかったのだから謝るのは当然だ。対談のころ、義視は美濃の地に逃亡の身で、僧のいでたちで密かに上京したらしい。

 

 義政は、その弟に「将軍になど、なるものではない」と言う。勝手な言い草にも聞こえるが、将軍を辞めたら「比べることがなくなった」「競う気持ちがなくなった」と言っているのを読むと、妙に納得する。「怒ることがなくなり、悔やむことがなくなり、悩むことがなくなり、人を責めることがなくなり、罪悪感から解放され、自分を責めることがなくなり、恐れがなくなった」。僕のような退職世代には、この感慨がすとんと腑に落ちる。

 

 富子とのやりとりも絶妙だ。富子は新婚時代を「将軍とは名ばかりの、苦労ばかりの毎日。何事も思うようには事が運ばず、周りの人たちに振り回されるばかり」と振り返る。義政が「悪い夢と思うしかないのだろうか」と漏らすと「あの苦労、あの失敗、あの挫折が、二人には良かった」と応じる。それが義政の懐を深くしたというのである。著者が「はじめに」で書いた「のっぺりとした人ではなく」は、このときに富子が口にした表現だ。

 

 この対談では、富子が山荘づくりの資金繰りを心配している。「山荘造営への幕府からの出費をお断りしたのは、この私ですから」。別居中とはいえ妻、しかもそれなりの権力を手にしているからこその気がかりなのだろう。これに対して、義政は「ものの値段など、あってなきがごとし」「いくらかかるのかは、正直、わからない」と雲をつかむようなことを言う。そして「私はここで、雲になることができる」と、自在に生きる境地を披歴する。

 

 富子が「今まで私に縛られてきたのが、ここに来たら雲の心境になれたと、そうおっしゃるのですか」と突っ込むと、義政はすぐさま否定して「こなたなしでは、私は生きてはいけない」と大人の愛を告白。このあとの場面が「(中略)」とされているのも心憎い。

 

 この本にあるのは、私的事情に結びついた会話ばかりではない。義政は猿楽師を相手に「虚構」と「現実」について語り、禅僧や茶人らとのやりとりでは「美」を話題にする。ただ見落とせないのは、対談する二人の言い分に差異をしのび込ませていることだ。このときの義政は当時としては老人のはずだが、それでも他人の主張に耳を傾ける。その姿勢は、著者自身の懐の深さを映しているに違いない。義政は、九島伸一の分身とみてよい。

 

 きっと内なる対話があるからこそ、歴史上の人物の言葉を自動筆記できたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算417回、現時点で更新なし)

 

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『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』

(南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫)

写真》照り返す常緑広葉樹

 このあいだ当欄で里山のことをとりあげたとき、クヌギやコナラの新緑について書いた(2017年4月28日付「里山のことはもう忘れましたか?」)。明るく、軽やかで、みずみずしい。そんな魅力が落葉広葉樹林にはある。僕が子どものころから馴染んだ東京近郊の雑木林もその一つである。だから樹木の緑と言えば、あの軽快感や透明感がすぐ頭に浮かぶのだが、それは個人史によるところが大きいのかもしれない。そうではない緑もある。

 

 たとえば、照葉樹林。葉っぱが分厚くてテカテカ感のある常緑広葉樹が優勢な林だ。樹種としては、シイ、カシ、クスノキ、タブノキ……といった名が挙がる。こうした森林の連なりはアジアの亜熱帯、暖温帯に広がっており、西南日本はその樹林帯に属する。このことは知識としては知っていたが、それを実感したのは関西に住んでいたころだ。軽やかでなく重い葉、透けるのではなく照り返す緑。そして匂いのきつい樹木もある。

 

 照葉樹林帯の気配をとりわけ強く感じさせるのは和歌山県だ。町にいても、神社の境内などで堂々とした常緑広葉の大木に出会う。山間に入ると、今や植林された杉林が多いが、それでも原生林は残っている。あの多湿な半島を包むものは照葉の空気にほかならない。

 

 その空気が生みだした知の巨人に南方熊楠がいる。理系文系をまたにかけて、博物学にも民俗学にも通じた人。開国まもない明治の世にもかかわらず、米国からキューバ、英国と渡り歩いた国際派。それでいて象牙の塔に籠る大御所とはならず、和歌山県の南紀に腰を据えて自然と書物に向きあった在野精神の持ち主。どの一つをとっても現代人の僕たちが魅せられる人物だ。今年は、その生誕から150年の節目にあたるという。

 

 僕はこの先人に深い敬意を抱いている。当欄の前身では、その著作集『《南方熊楠コレクション》第五巻――森の思想』(責任編集・中沢新一、河出文庫)をとりあげたこともある(文理悠々2011年12月16日付「熊楠が僕らの時代にやってくる」)。このときは表題の通り、彼の思想の今日性に焦点をあてた。いま、生誕150年と聞くと、その先駆性の高さに改めて気づく。ならばもう一度、熊楠本をひもとくことにしよう。

 

 で、今週は同じシリーズの『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』(南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫)。この文庫シリーズは独自に編んだアンソロジー企画で、これは第四巻にあたる。初版は1991年刊。僕が手にしたのは2015年の新装版だ。

 

 著者熊楠は1867(慶応3)年、現・和歌山市で生まれ、1941(昭和16)年末に亡くなった。幕末から明治、大正、昭和戦前を生き抜いた人である。編者は50年生まれの人類学者、思想家。80年代にニューアカデミズムの学究として名を馳せた。この本では冒頭に編者執筆の約60ページの解題があり、続いて著者自身の文章が並ぶ。論考のほか在米期の手紙、在英期の日記と、25(大正14)年に書かれた「履歴書」と題する書簡だ。

 

 書名にある「動」と「不動」とは何か? 編者解題は、そのことを著者の生涯に重ねて解説している。編者によれば「熊楠の人生は、大きく分けると、三つの位相でなりたっている」。最初は「空間を放浪した」、次いで「動きを止め、不動点で沈潜した」、おしまいは「その場で動きつづける」。それぞれ、海外に出ていたころ、熊野の山に隠棲したころ、南紀田辺に落ち着いてから、に相当する。位相を象徴するのは地球、森、町と言える。

 

 この解題で、編者は熊楠に惹かれる理由を披歴する。そこに見てとれるのは「魂の内部に、いつも異質な領域からヘテロな力が流入」する主体であり、「『変化する全体性』をかかえてしまった人間」だ、という。その生は「ポストモダン的テーマ」なのだ、とも。そう考えると、熊楠世界の根源にあるのは「動」「不動」のうち「動」のほうだ。「不動点」にあっても異種(ヘテロ)の力を取り込んで動力源を蓄えていた、とみるべきだろう。

 

 本題に入る前に、著者が自分の名前について語った論考「南紀特有の人名――楠の字をつける風習について」に触れておこう。出生地の近くに楠の古木が立つ神社があり、神職が氏子の子の命名にあたって文字を授ける風習があった。その代表例が「楠」「藤」「熊」の3文字。生きものばかりだ。著者は、このうちとりわけ紀州の深い森を感じさせる2字をもらった。照葉樹林の風土を身にまとって育ち、そして世界へ飛びだしたのである。

 

 今回焦点を当てたいのは、1897(明治30)年のロンドン日記だ。元日から大晦日までほぼ全日の行動がわかる。著者は大英博物館に通う身だったが、空いた時間を見つけてあちこちを動きまわっている。乗り物は「カブ」「バス」「トラム」。自動車や電車が登場したころだが、馬車式だった可能性が高い。とくにカブ、即ちタクシーはそうだ。さらに「汽車」や「地下汽車」。当時の地下鉄は電力の導入期で、まだ蒸気機関車が走っていた。

 

 そんななかで僕がうらやましく思ったのは初夏のキューガーデン。ロンドン西郊にある王立の植物園だ。6月4日には友人たちと連れだって訪れ、昼下がりのひとときを過ごした。「汽車にてキウに至り、ハム及卵をくい、麦酒のむ後、植物園一覧す」。きっと、鮮やかな芝の緑を眺めながら遅めのランチをとったのだろう。キューは博物学の留学学徒にとって、ただの息抜きの場ではなかった。日本からの要人のお供をして来園したりもしている。

 

 著者のロンドンでの交遊を分析してみると、いくつかのことがわかる。英国の東洋学者や民俗学者、生物学者らと臆することなく面談しているが、おもに大英博物館本館や自然史博物館でのことだ。いわばビジネスのつきあいである。これに比して、博物館通いの「途上」や「帰途」に立ち寄る相手は多くが日本人だ。ロンドンには邦人社会がすでに根を張っていたことに驚かされる。著者はその中心にいて、宴会の幹事役も務めている。

 

 そのなかには、見世物団の一員で渡欧したらしい本業彫刻師の美術骨董商がいて、彼の店が溜まり場のようになっている(長谷川興蔵執筆「語注」による)。日本社会に収まりきらなかった青年群像が往時の世界の首都に吹き寄せられていたと言ったら言い過ぎか。

 

 こうした交流の様子から、そのころのロンドンでは日本人が疎外されていたのかもしれないとは思う。東洋人への偏見もあったのだろう。それが露わになったのが大英博物館殴打事件だ。著者は11月8日、図書室で英国人とみられる閲覧者を「ぶちのめす」。相手は「積年予に軽侮を加しやつ也」とある。このときは館に一札入れて収まった。これより早く4月にも、路上で「女の嘲弄」に遭ってあばれ、警察に拘束されたことが記述されている。

 

 だが、著者は狭い在英日本人社会に籠っていたわけではない。一例を挙げれば、三民主義を唱えた中国の革命指導者孫文との出会いだ。3月に限っても16日の初対面から月末までに、その名が日記に記された日は8回。26日から3日間は連日、夕食をともにしている。「夜、孫文氏とオクスフォード街ビアナ食肆に食す」「孫文氏とトテンハムコート街ショラー方に飯す(下等食店)」という具合だ。よほど意気投合したのに違いない。

 

 もう一つ興味深いのは、ハイドパークで無名人の演説をしばしば聴いていたことだ。この公園のスピーカーズコーナーという一角で足をとめたのだろう。たとえば、6月30日は「夕、ハイドパークにて無神論の演舌きく」、翌夕も「無神論演舌きく」、一日おいてまた「無神論演舌」だ。やがて「演舌家」の一人が博物館を訪ねて来たりもする。革命家、無神論……。著者の心は、既成社会主流から疎ましがられた人や思想に敏感に反応している。

 

 編者提案の「三つの位相」で言えば、このロンドン時代は第1期「空間を放浪した」に相当する。だが日記を読むと、町に住みついて「その場で動きつづける」という点で第3期にも似ている。著者は「孤高」と言われるが、その心はいつも他者とともにあった。

 

 排他の風潮が強まる今、熊楠から教えられることは多い。彼は差別に怒ったが、偏狭にはならなかった。むしろ抵抗の人、異端の人に耳を傾けている。寛容とはそういうことだ。

(執筆撮影・尾関章、通算371回)

 

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『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)

写真》ニット帽だぜ!

 春の訪れとともにムッシュが逝った。ムッシュかまやつ、即ち、かまやつひろしさん。1960年代以降、日本のポップス界を陰に陽に支えたミュージシャンだ。グループサウンズのザ・スパイダースでは兄貴分格のメンバーだった。センターはとらないが、そこにいないといけない人。これは、そのまま後半生につながる。自分自身はヒットを飛ばさなくても、ヒットを飛ばす後輩の後ろ盾となる。業界の精神的支柱だったのだと思う。

 

 かまやつ(以下、敬称略)は自らのアイデンティティーをどこに置いていたのか。そのことを巧く切りだした一文がある。昨夏の新聞記事だ(朝日新聞2016年8月27日朝刊「もういちど流行歌」、藤生京子記者)。「我が良き友よ」(作詞作曲・吉田拓郎)を歌うことになったとき、手ぬぐいや学生服や下駄や下宿が出てくる歌詞を見て「困惑を隠せなかった」という。「これオレが歌うの?」。それは、自分が生きてきた世界とあまりにも違った。

 

 かまやつのイメージは、おととし当欄が「『あなたとは世界が違う』という話」(2015年5月8日付)で描いた1970年前後の「イカシタ」若者と重なる。「戦前の上流階級とは違う。戦後の成金富裕層や高学歴エリートとも違う。いまどきのセレブでもない」。そんな一群が「進駐軍文化の名残のようなバタ臭さ」や「湘南文化に通じるお坊ちゃまお嬢様感」や「スパイスとしての適度の不良っぽさ」が混ざりあう文化を発信していた。

 

 ちなみに、その拙稿がとりあげた『安井かずみがいた時代』(島崎今日子著、集英社文庫)には、吉田拓郎がかまやつに誘われて安井邸で開かれたパーティーをのぞく、という場面がある。拓郎は、夜中に裸の男女がプールで泳ぐ様子に圧倒されて「これのためなんだよ、東京に出てきたのは」と思った、と率直に打ち明けている。あの時代に東京と東京以外の地方がどんな関係にあったかがうかがえる告白だ。その東京側に、かまやつがいた。

 

 ここで思いつくのは、戦後日本のポップス史の弁証法的展開だ。大都市には、進駐軍キャンプのクラブなどを通じて海外の風をじかに浴びているミュージシャンがいた。都会系の担い手だ。ところが高度成長末期になると、洋風文化は全国の若者に行き渡って独自の音楽活動を促す。「上京」後を題材とした四畳半フォークを含む地方系である。やがて、これら2系統が止揚されてニューミュージックが生まれ、Jポップにつながったのではないか。

 

 前者を代表するのが、かまやつや荒井由実(後に松任谷、愛称ユーミン)だ。後者には拓郎や井上陽水たちがいる。両者には、共通の壁として演歌主導の歌謡界があった。こう考えてみると、かまやつと拓郎のコラボは歴史的な意味を帯びてくる。

 

 で、今週の1冊は『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)。2002年に日経BP社から単行本が出て、09年に加筆文庫化された自伝だが、カバーの惹句にある通り「日本の音楽、風俗、芸能クロニクル」でもある。知らなかった話がいっぱい出てくる。

 

 「イントロ」の章の冒頭は、松任谷由実の口ぐせだったという「ムッシュの骨は私が拾ってあげるからね」だ。それを受けて「一九七〇年代以降のぼくの音楽生活には、何かとユーミンが絡んでいる」とある。ユーミンは著者が「仲居頭」と呼ぶほどの仕切り上手で、1999年にムッシュ還暦を祝うパーティーを六本木で開いて150人を集めたという。加藤和彦、井上陽水、泉谷しげる、今井美樹……その顔ぶれからも精神的支柱ぶりがわかる。

 

 著者はパーティー開会前、「飯倉の『キャンティ』でひと休み」した。このイタリア料理店は「イカシタ」一群が屯する六本木文化の拠点だった。自らの軌跡を顧みるひとときとなったことだろう。後段の章では六本木の戦後史に光をあてた『東京アンダーワールド』(ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳)にも言及しており、この街への思いが伝わってくる(文理悠々2011年12月9日付「『ガイジン』がアメリカ人だった頃」参照)。

 

 最初に書いておきたいのは、著者のバタ臭さが筋金入りであるということだ。父ティーブ釜萢(かまやつ)は米国生まれの日系2世。恐慌下に来日してジャズミュージシャンとなり、日本人女性と結婚、「日本語がうまく話せない」のに日本兵として中国大陸に赴いた。著者は、米国文化に触れて育ったのだろう。スパイダースの欧州旅行では「片言の英語を話せるのがぼくだけだった」ので「楽器の手配から何から、すべてひとりでやった」という。

 

 音楽の洋風志向も筋金が入っている。「ぼくの周囲はみな洋楽以外は聴かず、ちょっと日本の歌を歌おうものなら思いきりダサいと決めつけられた」とある。ただ、その環境がすんなりと著者の音楽活動を開花させたわけではない。そこが、この本の読みどころだ。

 

 たとえば、著者は1958年にロカビリーブームが高まったころ、水原弘、井上ひろしとともに「三人ひろし」の名で括られる。ほかの二人は歌謡曲のヒットを飛ばしたのに「ぼくだけが売れずに取り残された」。歌謡曲は「あまりやりたくない」が本音だったが、60年にテイチクの専属となってカバーだけでなくオリジナルの曲も出す。その曲名は「裏町上等兵」「結婚してチョ」……。「どれもまったく売れなかった。よかったね」と自嘲する。

 

 テイチク時代の逸話はすごい。歌謡界の大御所が来社すると社内放送で集合の号令がかかる。「ぼくのような青二才は、レコーディングの途中でも、スタッフと一緒に玄関まで出迎えなくてはならない」。著者がなじんだ洋楽界にはない「タテ社会」ぶりだった。

 

 著者が立派なのは、自らその世界を抜けだしたことだ。1962年、所属プロがもち込んだハワイの仕事を引き受ける。帰国予定の日が過ぎても帰らず、勝手に米本土へ渡ってニューヨークに足を延ばす。「グリニッジ・ヴィレッジには、当時、実存主義者みたいな人たちが集まっていて、ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグとか、公民権運動の高まりから生まれたボブ・ディランのフォークなどが人気を集め、街じゅうが熱気にあふれていた」

 

 帰国後、レコード店でビートルズの米国盤「ミート・ザ・ビートルズ」を見つけ、ジャケット写真に驚く。「彼らのビジュアル、伝わってくる雰囲気、すべてひっくるめて、あのグリニッジ・ヴィレッジの空気と同じだった」。さっそく買い込んで聴くと、そこには米国の音楽の「乾いた響き」とは異なる「全体に紗がかかったような、ファンタジックな音」があった。「近未来が見えた」「次に来るもののフックを捕まえた」と感じたという。

 

 「こういうのやろうぜ」。そう声をかけた相手が田辺昭知だ。メンバーを集め、「100%彼らを真似しよう」と、歌と演奏合体型のグループを旗揚げする。ザ・スパイダースの誕生である。田辺はリーダー兼ドラム奏者。この本で知ったのは、彼が「もともとジャズ系」だったことだ。左のスティックを「てのひらを上に向け」「その上に置くようにして持つ」のはジャズ流だという。これを読んで、僕はスパイダースの秘密を知った気がした。

 

 あのころの日本で、エレキギターと言えばベンチャーズだった。ロックの8ビートでテケテケとやる。僕はその軽快感を心地よく感じながらも、技量を競う職人気質で終わっているような印象を拭えなかった。だが、スパイダースは違った。「ベンチャーズの曲を演奏しても昭ちゃんはつまらないらしく、曲の途中であきてくると、フォービートの強烈なオカズを入れて遊ぶ」。それが情感を生みだして、おしゃれな音をつくりだしていたのだ。

 

 納得するのは「カントリーが自分の本質にいちばん合っているのかもしれない」という著者の自己分析だ。カントリー&ウェスタンは、3コード中心のわかりやすい旋律に朗らかさや伸びやかさ、そして幾分の哀愁が漂う。そこには、脱力系の魅力がある。僕がムッシュらしいと思う「どうにかなるさ」や「喫茶店で聞いた会話」(ともに著者が作曲、作詞は山上路夫)もスパイダース解散後、「カントリー系のサウンドに戻りつつあった」頃の曲だ。

 

 実力は間違いなくA級なのに「つねにB級ミュージシャンでいたいという願望を、ぼくは持っている」。これがムッシュ流の脱力だ。その大らかさで、自分とは異世界の手ぬぐいや下駄履きにだって心を開く。だから友だちがいっぱいできて「どうにかなる」のだろう。

《おことわり》『安井かずみがいた時代』の著者名にある「崎」は、つくりの上部が正しくは「立」です。

(執筆撮影・尾関章、通算359回)

 

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『モハメド・アリの道』(デイヴィス・ミラー著、田栗美奈子訳、青山出版社)
写真》1面だけでなく(朝日新聞2016年6月5日朝刊)

 一面に収まりきらないというのは、こんなことを言うのだろう。米国の元ボクシング選手モハメド・アリの死去。朝日新聞の6月5日付朝刊は、第1面のみならず国際面、スポーツ面、社会面にも訃報にかかわる記事を載せた。彼は、かつてヘビー級の世界王者だったというだけではない。公民権運動とベトナム戦争の時代に人種差別と闘い、徴兵を拒んだ。引退後はパーキンソン病を患うが、折々表舞台に出て人々にメッセージを発信しつづけた。
 
 アリは、いまや「伝説の」という枕詞が似合う偉人となってしまった。だが、戦後生まれ、60歳超の僕らの世代にとっては、まさに同時代の兄貴分だった。それは太平洋を隔てた日本にいても同様だった。
 
 1960〜70年代は海外のスポーツ中継が衛星放送を通じて湯水のように入り込んではこなかった。それでも、ボクシング世界ヘビー級の王座戦となれば映像が流れた。ジョー・フレージャー、ジョージ・フォアマンといった強豪の名も忘れられない。
 
 そんななかで、アリはいつも特別だった。一つには、型破りの人だったということだ。大相撲の力士も高校野球の球児も、インタビューでは聞かれたことにうなずいて「がんばります」と言うだけ、というのがスポーツ選手の定番だったのに、彼は違った。スポーツ界→体育会系→右寄りという通り相場もあったのに、彼は違った。徴兵拒否の有罪判決で王座を追放されている間でも、彼の自我は強烈に光り輝いていた。
 
 もう一つは、ボクシングそのものの美しさにある。リングでの動きは敏捷さにあふれていて、どこまでも軽やかだった。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」(“Float like a butterfly, sting like a bee”)。この名文句は、セコンド役を務めていたドゥルー・バンディーニ・ブラウンという人が言いはじめ、アリ自身が口にするようになって広まったものらしいが的確な形容だ。彼の拳闘は美学とともにあったと言えよう。
 
 で、今週の一冊は『モハメド・アリの道』(デイヴィス・ミラー著、田栗美奈子訳、青山出版社)。著者は1952年、米国南部ノースカロライナ州生まれの著述家。スポーツ系の雑誌などに記事を出してきた。とりわけアリに焦点をあてたノンフィクションの評価が高い。この本は96年に出た長編で、翌年さっそく邦訳が出た。表題をみると、伝記として書かれたもののように感じるが、そうではない。
 
 「僕」という一人称で書き進められる。少年時代を思い返し、青春期の彷徨も結婚後の生計も包み隠さずに淡々と披歴する。だから、一人のスポーツライターの自伝として読んでもよい。ただ、その数十年を貫く1本の軸としてモハメド・アリが存在する。最初は、憧れの的として。次いで、人生の目標として。そして最後は、ものを書くための取材相手として。この間接的ともいえる構成こそが、アリの人物像の現実感を高めている。

 その理由は、著者とぴったり同世代の僕にはよくわかる。もし、この本がアリの軌跡を過去に遡って跡づけるものだったならば、中身の大半は本人や周辺の人々から聞きだした話で占められただろう。ところが、著者自身の個人史を座標にとったおかげで、アリはいつも五感をともなって現れることになった。テレビの向こう側の華やかな世界にいた大スターがどんどん迫ってきて、ついには人物像が間近に見えるという醍醐味。
 
 著者は、父が工場に勤める白人家庭に育った。少年時代は「やせっぽちのチビ、病気がち」。
11歳のときに母を病気で失うと、その死にうちのめされて自らが2週間も入院するほど繊細だった。そのころ、白黒テレビの中で「黒いスーパーマン」が「すさまじい威嚇を見せながらも、優雅そのもの」に吠えるのを初めて見る。「おれは、若くて、ハンサムで、すばしっこく、美しい」。モハメド・アリに改名する前のカシアス・クレイだった。
 
 思春期になると、「寝室の壁は、アリが勝ったときの新聞の切りぬきで埋めつくされていた」。学校時代に「はじめてけんかをして校長室に呼びだされた」のも、理由はアリ。彼のことを「徴兵のがれの生意気なニガー野郎」と揶揄されたのに怒ったからだった。
 
 20代で飛び込んだのはキックボクシングの世界だ。数年間で見込みがないと見切って大学に入り、もの書き志望に転身する。格闘家の卵時代に得た貴重な財産は1975年夏、アリがスパーリングの相手をしてくれたことだ。世界王者は左フックを顎に受けると、目を丸くして「信じられないというふり」を見せた。著者は「至福」の一体感を味わうが、2秒後にはジャブ一発で「ぺちゃんこ」になっていた。
 
 このあと、アリはこう声をかけたという。「あんた、すばしこいな。それにパンチもいいぜ。そーーーんなに小さいくせにな」。体験記はスポーツ・イラストレイテッド誌に載った。それに加筆したものが、この本ではプロローグとして採録されている。
 
 二人が再会するのは1989年、アリの出身地ケンタッキー州ルイヴィルでのことだ。著者はビデオショップチェーンの社員となり、その一帯の店を任されていた。ある日、彼が母親宅に来ているらしいことを察知する。とめられた車のタイプやナンバープレート記載の州名を見ただけで直感したのだ。大胆にも玄関のベルを鳴らして面会に成功する。口をついて出た言葉は「チャンプ、あなたは僕の人生を変えてくれました」だった。
 
 読みどころは、この時点からはじまる二人の交流だ。すでに病に侵された元世界王者の姿が至近距離の視点から描かれる。町のジムでは、アマチュアの青年らと試合もどきの打ちあいに興じるが、リングを降りたとたん「ひいおじいさん歩き」に戻る。指の動きもままならず、ネクタイを5分間かけて結ぶ。だが、そんなときでも「いらつくそぶりを見せたりはしない」。自らが置かれた現実を冷静に受け入れる賢明さが見てとれる一瞬だ。
 
 僕がもっとも心打たれたのは、アリが「イエス・キリストとおなじぐらい有名になる」という偉業を自分が「成し遂げた」と口にした場面だ。著者は違和感を覚えて「成し遂げたんですか?」と聞きかえす。これに対する反応がいい。いけないことをして見つかった子どものような表情を見せ、「おれもまだまだ傲慢になることがあってね。あんた、よくたしなめてくれたよ」と言う。人の言葉に耳を傾けて自分を客観視できる人なのだな、と思う。
 
 著者は文中で、ジャーナリストではなく物語の書き手という自身の立場を鮮明にして、取材相手と「一線を画する」という手法はとらないと明言する。だが上記のやりとりからは、聞き手として質すべきことを質している様子がわかる。アリに電話で頼みごとをしてすげない対応に遭い、「だれと話しているのかアリはわかっていたのだろうか」と落胆するくだりもある。元世界王者にとって自分は一人の取材者に過ぎないという自覚がうかがえる。
 
 余談だが、この電話では興味深い告白があった。アリ伝説で有名なのが、レストランの人種差別に反発してローマ五輪の金メダルを川に捨てたという逸話だ。それに倣って著者が、もの書きになろうと会社を辞めるときに
仕事用のポケベルを川へ放って捨てた話をすると、アリは反論する。「おれ、そんなことしなかったぜ」「失くしちまった、それだけなんだ」。伝説にもウソがある、きちんとウラをとれ、ということか。
 
 引退後のアリを母のミセス・クレイはこう評する。「あんまり静かなもんだから、あの子が家にいるのも忘れてしまうぐらい。いつだって読んだり書いたり、書いたり読んだりしてるのよ」。著者は「哲学的なアリは、発展を遂げた六〇年代と折衷主義の七〇年代において理想のキングだった」と書いているが、僕はこれに微修正を加えたい。世界王者の哲学性は、発展の歪みが露わになった1960〜70年代だからこそ人々の心を揺さぶったのだ。
 
 著者は、アリという人物の大きさを「いつもいかに大勢に流されずにきたか」で測れるという。日本社会はもともと大勢に流されやすかったが、いまその傾向が強まるばかりとは言えないか。蝶のように舞い、蜂のように刺す抵抗精神がまぶしい。
(執筆撮影・尾関章、通算321回)
 
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『千のナイフ、千の目』(蜷川幸雄著、ちくま文庫)
写真》ニナガワとシェイクスピア
 
 演出家の蜷川幸雄さんが亡くなった。その訃報はもちろん、葬儀で俳優たちが語りかけた弔辞までもメディアは破格の扱いでとりあげた。仕事の大きさがある。人柄の痛快さもある。同時代人の心に響く生の終幕だったということだろう。
 
 僕も、ぜひここで彼のことを書きたいと思う。と言っても芝居の話はできない。人物としての魅力の源泉をたどってみたいのだ。蜷川の顔は世界のニナガワになるまえから知っていた。若いころは俳優で、テレビドラマによく出ていたからである。
 
 たいがいは脇役だったが、どこか気になる役者ではあった。出演番組をすっかり忘れているので、ウィキペディア「蜷川幸雄」の項を開くと、テレビの仕事が集中するのは1960年代半ばから70年代半ばまで。「特別機動捜査隊」(NET=現テレビ朝日)、「キイハンター」、「ザ・ガードマン」(ともにTBS)といった人気シリーズにもそれぞれ数回登場していたらしい。今ならば、2時間ミステリー(2H)の常連か。
 
 個別の記憶は皆無だ。役柄のイメージをおぼろげな印象から再現すれば、背広にネクタイ姿の係長クラスというところ。エリートでもなく、ナイスガイでもない。軽薄そうではあるが、額が広く、頭は切れそう。心の片隅に硬いものを隠しもっている。実際にどんな役だったかは別にして、 そんな感じだ。 役者自身が視聴者の心に引っかかるなにかをもっていたのは間違いない。だからこそ、顔と名前を覚えたのだ。
 
 俳優蜷川が演出家ニナガワとなってから、その生身の姿を見かけたことが一度ある。東京・銀座、数寄屋橋交差点のそばにあった旭屋書店でのことだ。あの店は売り場のかたちが変則的で、文庫類の棚が並ぶ一角の奥が硬めの人文書コーナーにつながっていた。そちらへ向かう中年男の姿を見て、僕はすぐに彼だとわかった。ニナガワにぴったりの場所だったからだ。演技の内側から透けて見えたものは知的な芯だったのだと思う。
 
 で、今週の一冊は『千のナイフ、千の目』(蜷川幸雄著、ちくま文庫)。書名の「目」は「まなざし」と読む。1993年に紀伊國屋書店から出た単行本が2013年、文庫化された。演劇は観客の刃物のような視線に曝されているという覚悟を表題に込めたらしい。表紙カバーの写真は、著者がコートを着てショルダーバッグを提げたショット。それは、僕が書店内の人いきれとともに記憶している姿とそっくりだ。
 
 この本は、自問自答のインタビューなどが交ざる融通無碍のエッセイ集で、著者の本音の合間に中身の濃い演劇論が詰め込まれているが、ここでは、犠蓮岷薹爐鬚瓩阿觴伝」を中心に見ていこう。
 
 書きだしは、テレビで昔の映画を観ている蜷川家の家族団欒。「画面の右後方、主役の江原真二郎が働くビスケット工場の作業場の場面で、江原真二郎の後ろにいるのは俺だ。長い髪。ふっくらとした頬。そういえばあのとき、元非行少年の役なんだからと丹頂チックでリーゼントにしたんだったっけ」。女優真山知子でもある妻が声をあげる。「あっ、あれはパパじゃない?」。12歳だった下の娘は「きゃっ、気持悪い、髪の毛があんなにある」。
 
 今井正監督の「純愛物語」。本文では、映っているのが「十九歳の俺」とあるが、著者は1935年生まれで映画は57年公開なので、撮影時でも二十歳の大台に乗っていたかもしれない。ここで目を引くのは「この映画は、弱い者のなかにいつでも正義はあるとでもいいたげな描き方で、出演しているときから俺は好きになれなかった」と述懐していることだ。二十歳そこそこで、まだ画面の片隅にいたころから、作品を突き放してみていた。
 
 著者が高校を出て入ったのが、劇団青俳だ。「若者たちに圧倒的な人気があった木村功や岡田英次が、それまでの新劇のありかたにあきたらずに各劇団の若手俳優たちと一緒につくった」という異色の集団。映画やテレビの仕事にも前向きだった。著者は、そのなかでも尖っていて、研究生は裏方を手伝うという習わしを拒んだ。「ぼくは俳優ですからスタッフの仕事はやりません」と言い張って「ついにトンカチを持たなかった」。
 
 青俳時代のくだりで出色なのは、劇団の創始者木村、岡田の比較論だ。どちらもテレビドラマの主演格でそれぞれにダンディーだったということは、僕も子ども心に覚えている。その二人を、著者は草野球の思い出のなかに置く。岡田は試合が済むと「みんなでなにか食えよ」と「金を置いてひとりどこかへいなくなる」。一方、木村は「家へ来てビールでも飲めよ」と自宅に誘う。上司のふるまいとしてはどちらもありだろう。
 
 「ぼくは人間としては木村さんが好きだったけれど、レパートリーの選定に関しては岡田さんが提案するもののほうが好きだった」「人間としての好き嫌いと、演劇的選択は別だ。だから木村さんとも話し、岡田さんとも語った」。絶妙のバランス感覚だ。
 
 30代になって著者は演出家を志す。1968年、青俳を抜けて仲間とつくったのが劇団現代人劇場だ。岡田が加わって資金を貸してくれたが、中心にいるのは蟹江敬三や石橋蓮司、それに結婚まもない妻の真山ら若手だった。69年上演の清水邦夫作「真情あふるる軽薄さ」は、蟹江と真山が主演。二人が、なにかを待って並ぶ人々を「挑発する」。すると「機動隊が躍りでて行列を蹴散らし、若い男女を撲殺する」。そんな過激な芝居だった。
 
 劇が終わっても「機動隊員」が客席を取り囲んでいる。客席を立って「隊員」にぶつかっていく人が現れた。場内でデモが起こった夜もある。「観客は現実の街の状況と、劇を混同していた」。その劇場は、独立プロ作品の上映館でもあった新宿伊勢丹前のアートシアター新宿文化。僕にもなじみの場所だったので既視感があるが、観てはいない。「植草甚一さんが絶讃してくれた」とある。植草本を読んで観たような気分になっていたらしい。
 
 「劇場の外では、新左翼のデモが機動隊と衝突を繰返していた」頃で、「ぼくらはデモに参加し、芝居をやった」。国際反戦デーに備えて公演の日程を調整したこともあるという。だが、「闘争が敗北を重ねるたびに、ぼくらの疲労は積み重なっていった」。1971年、劇団を解散。翌年、清水、蟹江、石橋と旗揚げした「櫻社」も74年に看板を下ろす。この流れは、新左翼運動の盛衰と歩調を合わせている。
 
 櫻社の末期、著者に東宝演劇部から「ロミオとジュリエット」演出の依頼が届く。劇団内には、幹部の商業演劇進出に猛反発が起こる。30人ほどが参宮橋のスナックに集まり、夜明かしで議論した。帰り道、「これからどうするの?」と蟹江。「しようがねえから商業演劇をやるよ」と著者。東宝の稽古場に通いだして久しぶりに伊勢丹角に立った夜、「ああこの街を俺はすっかり嫌いになったな」と思ったという。新宿との別れだった。
 
 読了して痛感するのは、著者の感受性が一つの枠に収まらなかったということだ。たとえば、市川染五郎(現・松本幸四郎)の稽古風景の第一印象。「染五郎さんのロミオはもの凄い速さであちこち歩きまわった。そして友人の肩に手をまわしたかと思うと、あっという間に舞台奥へ入っていった。それはまるでジャンプしながら舞台奥へ消えた、という感じだった」。歌舞伎の技に魅せられ、自分はこのまま商業演劇を続けるだろうと予感する。
 
 新劇も、ただ嫌うだけではなかった。俳優座の大御所でテレビの初代黄門として有名な東野英治郎とは「真情あふるる…」に一人の観客として観にきてくれて以来のつきあいで、「水戸黄門」にも共演者としてたびたび呼ばれた。その大先輩の真価をこう見抜く。「東野さんの演技は、旧い新劇俳優たちにありがちな西欧に対するコンプレックスから解放されていた」。発声の仕方も「外人風」ではなく「日本人の声そのもので演技した」。
 
 ニナガワはシェイクスピア劇に和風の仏壇やひな壇をもち込んだ。原作からの乖離をものともせず、自由自在に新しい世界を出現させたのである。それができたのは、どの領域の人とも分け隔てなくつきあい、ほしいものをどこからも吸収したからなのだろう。
(執筆撮影・尾関章、通算319回)
 
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●『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』
(コリン・ジョイス著、谷岡健彦訳、NHK出版生活人新書)


 「片岡義男的な空気が吸いたい」と言ってはじめた当ブログ。吸いたい空気はもっとあるな、と思いめぐらせて脳裏に浮かんだのが「英国」だ。その魅力については2年前、ロンドン五輪の直前に「英国のあの『緩さ』がたまらない」という一編を書いた。そんな表題にしたのも、「緩い」が「無責任」の同義語となってしまった日本社会の心のありように異を唱えたかったからだ。「緩い」ことでほめられるのがユルキャラだけ、というのでは困る。
 
 僕自身のロンドン特派員時代を振り返っても、英国の「緩さ」に圧倒されることは幾度もあった。一例は、新聞の「誤報」の始末のつけ方である。新聞記者にとって絶対にあってはならない誤りの一つは、生きた人を「死なせる」ことだ。死んでいない人の死亡記事を出すことは、それこそ致死的な誤りとされている。いまの日本の新聞であれば「おわび」記事の掲載にとどまらず、僕の嫌いな言葉だが「処分」問題にまで発展するだろう。
 
 英国ではどうか。ある日、新聞を読んでいたとき、紙面の片隅にある奇妙な記事に出会った。もはや証拠物件が手もとになく記憶をたどるしかないのだが、「われわれは、その知らせを聞いて、とてもうれしく思っている……」という切りだし方をしていたと思う。いったいなんのことかと読み進むと、死亡記事を載せた人が実は生きていたという話だった。事実上の訂正記事にpleasedだかhappyだか、そんな言葉を見つけて驚いたものだ。
 
 これをもって、英国の新聞がすべてそうだとは言えない。この新聞が、タイムズやガーディアンのようないわゆる高級紙ではなかったことも言い添えておくべきかもしれない。ただひとつ言えるのは、こんな人を食ったような対応にも怒ったり眉をひそめたりせず、むしろニヤッと笑ってすます寛容な人が英国には多いらしいということだ。そんな文化がなかったら、死人にされた当事者はもちろん、読者も黙ってはいないだろう。
 
 で、今週の一冊は、英国の新聞記者が書いた日本社会評。『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(コリン・ジョイス著、谷岡健彦訳、NHK出版生活人新書)だ。著者は1970年生まれ、オックスフォード大学で歴史を学んで来日、高校の先生などをした後、ジャーナリストとなり、英紙デイリー・テレグラフの東京特派員を務めた。ちなみにテレグラフは、保守色が濃いといわれる「高級紙」である。
 
 拙稿冒頭の段落でリンク先に飛んだ人は気づいただろうが、著者は「英国のあの『緩さ』……」でとりあげた『驚きの英国史』(森田浩之訳、NHK出版新書)を書いた人でもある。出版年は『「ニッポン社会」……』が2006年、『驚きの……』が2012年。僕は後者の本で英国の風土は緩くていいなあと改めて感じたのだが、その著者の目に日本社会がどう映っていたのかがわかるのが前者である。
 
 緩さをめぐる彼我の差のことは、「壱」の章「プールに日本社会を見た」にさっそく出てくる。「もちろん、イギリスのプールにも規則はある。ただ誰もそれを守ろうとしないし、守らせようともしないだけだ。一方、日本はたくさんある規則にみんながしたがうことで、うまくやっている国である」。休憩時間の厳守、水泳帽の着用、潜水の禁止、レーンの一方通行。そういえば、いろいろなルールが決められている。
 
 著者は「好きな規則は五分間休憩の規則だ」と皮肉る。「ぼくはぜんぜん疲れてないし、むしろ、ちょうど調子が出てきたところ」と言って監視員を困らせたくなるからだという。ただこれには、休憩はプール点検のためでもあるという反論が出てくるかもしれない。
 
 だが、スキンヘッドの知人が水泳帽なしに泳ぐことを許されなかったという話からは、なんのための規則かを吟味せず、順守だけを強いる日本社会の狭量さが見てとれる。水泳帽を着ける最大の理由は、髪で水を汚さないことだ。ほかにも頭部を守るとか、子どもにかぶせて目印にする、といった効能もある。帽子がない人がいたら、それらを勘案して柔軟に応じればよいのに、思考停止でダメなものはダメということになってしまう。
 
 これで僕が思い出すのは、緑地が広がる公園で禁止事項のアナウンスが延々と続くのにうんざりした経験だ。野球、サッカー、自転車、一輪車、遊戯用円盤……といった具合で、新しい遊びが広まればそのつどふえていく感じだった。唐突だが、それは日本の政治をみていて感じることに通じる。コトが起これば国会はすぐ法律をつくりたがる。今の世情で言えば、ゴーストライター規制法案や論文不正防止法案が出てきそうではないか。
 
 その一方でこの本は、日本社会にも緩さがあるという。著者の行きつけのプールでは、宵の口から常連集団が「ひとつのレーンをすごい速さで往復し始める」。その水しぶきと騒々しさは「ひとりで泳ぎに来ている人には迷惑」なのだが、無頓着だ。「プールの利用客から本物の暴走族やヤクザにいたるまで、大きな集団の悪事に対して寛容すぎるのは、日本人の弱点」と、痛いところを突いてくる。
 
 裏を返せば、英国の緩さは規則を個々人にあてはめるときに生ずる摩擦を和らげるためにあるのかもしれない。それが必要なのは、英国、とりわけロンドンに民族文化の異なる人々が大勢共存しているからだと僕は推察する。一方、著者が言うように「東京は世界の首都の中でも抜きん出て民族的多様性に乏しい」から杓子定規が通用するのではないか。著者は、この多様度の違いも理由に挙げて、日本と英国は似ているという見方に同意しない。
 
 この本でもう一つ興味深いのは、日本の科学技術のイメージだ。日本発の話題で外国人を引きつけるものに「ロボットの魚や踊るロボット」の記事があるという。著者が街で見かけて興味をそそられたのも「バイクの荷台についている出前の岡持ちを吊り下げる装置」だ。
 
 これを読んで僕は、「英国人が見た、もう一つの戦前日本」に書いた『東京に暮す』(キャサリン・サンソム著、大久保美春訳、岩波文庫)の一節のことが頭に浮かんだ。外交官の妻である著者は、そば屋の出前持ちの技に見惚れたという。岡持ち装置はこの流れのなかにある。日本のハイテクはとことん器用で芸が細かいが、そのことと科学技術を賢く使うこととは同一ではない。それを思い知らされたのが、3・11だったように思えてならない。
 
 その意味で「日本の『失われなかった』十年」という章は必読だ。ちょっと奇抜だが、「サッカー」と「ビール」がバブル崩壊後の日本を「黄金時代」にした、と著者は言う。「このふたつの点において、日本はここ十五年の間に、どうしようもなくダメな国から世界でも指折りの国へとめざましい進歩を遂げた」というのだ。Jリーグが津々浦々に根を張り、地ビールがあちこちに生まれて多様なビール文化が育ったことを指している。
 
 これは、英国人ならではのユーモアだろう。だが、3・11後の今になってみると、深い洞察をはらんでいたことがわかる。Jリーグも地ビールも「集中から分散へ」のベクトルをもった現象だ。未曽有の原発事故でエネルギー集中生産の危うさが歴然となり、今こそ求められているのが、分散志向のベクトルである。原子力重視にまたもや舵を切った国策の動向をみるとき、Jリーグと地ビールに学べ、と言いたくなる。
 
写真》英国と言えばフィッシュ・アンド・チップス。東京・世田谷のなじみのレストランで撮らせてもらった。本場英国のものは、もうちょっとワイルド。紙にくるんで歩きながら食べると、たまらなくおいしい=尾関章撮影
(通算208回)

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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