『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)

写真》新聞――紙とデジタル

 思えば、青臭い日々だった。新聞社在籍時代のことだ。若いころは仲間同士、とんがった議論に明け暮れた。年長になってからは、社内で会議漬けに。日本社会では会議が上意下達の場になっていることが多いが、そこはやせても枯れても言論機関である。ブレインストーミング風に思いつきをぶつけ合い、あたかも学園祭を前にした学生たちのように盛りあがる機会も少なくなかった。紙面企画を練る会議などが、これに当たる。

 

 考えてみれば、新聞づくりという仕事はぜいたくの極みだ。来る日も来る日も、真っ白な紙が幾枚も与えられる。それを好きなように埋めていけ、という。ここでものを言うのは、新聞づくりの動力学。一方には、列島の隅々、世界のあちこちに散って情報を集めてくるボトムアップの流れがある。もう一方には、集まった情報を取捨選択してこれはというものを強調するトップダウンの制御がある。アップとダウンがぶつかり合うのが会議である。

 

 僕の記憶をもとに、新聞社内で日課となっている紙面設計の会議を並べてみよう。朝一番には、夕刊づくりのために各部の出稿責任者(デスク)が集まる。昔は、フロアに立ったまま手短に済ませたので「立ちあい」と呼んだものだ。朝刊に向けては、夕方から夜半にかけて複数回、デスク会を開く。こちらは時間をかけて議論する。デスクは自分の部が出そうとする原稿を、説得力をもって売り込まなくてはならない。口八丁がものを言うのだ。

 

 で今週は、『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)というイタリア小説。イタリア語の「ヌメロ」は英語の「ナンバー」、したがって書名は「ゼロ号」と訳せる。出版業界では雑誌を創刊するときに見本版の「準備号」を用意することがあり、それを「ゼロ号」と呼ぶ。この小説は、新聞の「ゼロ号」をつくるためにかき集められた記者たちが織りなす物語。とめどなく続く議論が元新聞記者の僕には懐かしい。

 

 著者は、イタリアの小説家。作品群には、『薔薇の名前』『フーコーの振り子』など話題作が多い。哲学、記号論などの学究でもあった。本書カバーの著者略歴欄には、「現代を代表する碩学」とある。1932年生まれ、2016年没。本作『ヌメロ…』は、原著が15年に出た。著者にとっては、80歳を超えて世に問うた最後の長編小説だ。邦訳は16年、単行本として河出書房新社から刊行され、加筆修正されて18年に文庫本となった。

 

 この作品で、記者たちが新聞のゼロ号づくりに奔走するのは1992年4月から6月まで。新聞を新たに創刊しようという話を小説の題材にするには、ギリギリ最後の時代だったように思う。インターネットが広まったのは95年ごろ。その直前だから、紙のメディアは先行き不透明になっていた。当時すでに新聞のデジタル化は予想されていた。だが、その先にソーシャルメディア全盛の世が控えていることを予感していた人はほとんどいない。

 

 1990年前後は、別の面でも新聞が転換点にあった。新聞批判が世論になるという現象は以前からあったが、その議論が成熟してくる。事実の捻じ曲げ、プライバシーの侵害、取材倫理からの逸脱……いくつもの難点が指摘され、批判する側から批判される側に回るという逆転が起こる。記者にとっては厳しい時代の始まりだった。この作品は、新聞づくりの曲がり角に照準を合わせ、その時点に立ち返って想像をめぐらせているのだ。

 

 作品の主人公コロンナは50歳。大学を中退して町から町へ移り住み、「ものを書き散らしてなんとかやってきた」。書いていたのは、地方紙に載る劇評など。出版社の仕事で百科事典の校正や持ち込み原稿の下読みをしていたこともある。結婚経験はあるが、妻から「二年ほどで愛想をつかされた」。要するに、ぱっとしないジャーナリスト。そして「いつの日か本を書いて、富と栄光を手に入れること」を夢に思い描くようになっていた。

 

 冒頭の章の日付は6月6日。「今朝は蛇口から水が出なかった」と書きだされる。断水ではない。アパートの自室で、流し台の下の止水栓が閉まっていたのだ。コロンナは、夜中に不審な出入りがあったと疑う。この猜疑こそが、全編の伏線となっている。

 

 そして、第2章は2カ月前にさかのぼって、以後、最終第18章まで時系列に物語が展開される。それは、コロンナがミラノで、シメイという人物――雑誌編集長の経験があるらしい――から仕事の打診を受けるところから始まる。シメイは「出ることのない日刊紙の準備にかけた一年間を語る本」を執筆してほしい、と頼んでくる。よく聞くと、あくまでもゴーストライターとして、という条件付きだ。表向きの著者はシメイ自身だという。

 

 おもしろいのは、その日刊紙『ドマーニ(明日)』には出資元があり、創刊話がまったくの絵空事ではないことだ。ただシメイは、結局は発刊できまい、と踏んでいる。「新聞が頓挫(とんざ)したら、本を出版する」。そのためにも、ゼロ号をつくろうというわけだ。

 

 翌日、記者6人が集められる。芸能界の「熱々の仲」を記事にしてきたマイア・フレジア、「スキャンダル暴露」専門のロマーノ・ブラッガドーチョ。ほかに、事件事故の取材に駆けまわってきた記者、クイズ・パズル誌の経験者、新聞社の元組版主任、そして出版関係の仕事をしていたというが、どことなく胡散臭い人物。多彩と言えば多彩、ただ、チームプレーは難しそうな陣容だ。コロンナには、出稿管理をする「デスク」の役割があてがわれた。

 

 この筋立てが絶妙だ。コロンナたちは紙面をどうするかで議論を重ねるのだが、それは現実の報道ではない。出るか出ないかもわからない新聞のゼロ号。試作だから、実際の記者活動に比べて制約が少ない。「いつの日付にしてもいい」ので、日々の事件に追い立てられることもない。過去の大事件を振り返って、あのとき自分ならこんなふうに報じただろうと大見えを切ることもできる。こうして編集部は、言いたい放題の活況を呈する。

 

 実際、部内の議論には新聞を出す側の思惑が表出している。シメイは「ニュースが新聞をつくるのではなく、新聞がニュースをつくる」と言って、持論を展開する。いくつかの記事に共通点を見いだして、それらを1カ所に集め、大見出しを打ったとしよう。読者は、個々の出来事に関心が薄くても「ひとつにまとめると、どうしても目を止めてしまう」。これこそが編集の妙味というわけか。それは同時に、危うさでもあるのだが……。

 

 用語をめぐる議論もある。ブラッガドーチョが、ある記事の「モスクワの怒り」という表現にかみついて「陳腐に響かないか?」と切りだした。これに対して、コロンナは「読者はまさにそういう表現を待ち望んでいるんだよ」と反論する。例示される常套句は「真っ向から対立」「冬の時代」「これからが正念場」「もはや待ったなし」「土俵際に立たされる」……イタリア語でどう言うのだろう? いずこの新聞も同じだと、僕は苦笑する。

 

 自由な立場にいることを満喫しているように見えるのは、ブラッガドーチョだ。コロンナを酒場に連れだし、「新聞は嘘(うそ)をつく。歴史家も嘘をつく。そして今、テレビも嘘をつく」とまくし立てる。「アメリカ人はほんとうに月に行ったのか」「湾岸戦争はほんとうに起こったのか」。真実は「疑うこと」で得られると説いて、科学を例に挙げる。それにコロンナが同意すると、今度は「科学だって嘘をつく」と卓袱台をひっくり返す。

 

 物語はしだいに、ブラッガドーチョの取材報告に焦点が当てられていく。彼が記事にしようとしているのは、イタリア戦後史の裏読みと言ってよい。ファシスト残党、カトリック教会、極左勢力の動向に冷戦期の東西対立が絡まって、さまざまな出来事が陰謀論に結びつけられていく。読んでいると、もっともらしく聞こえてくるから不思議だ。これは真実なのか、それとも懐疑を旨とするジャーナリストが懐疑の末に行き着いた妄想なのか。

 

 どんな結末が待ち受けているかについては触れない。ただ、そこにフレジアが見てとるジャーナリズムの落とし穴のことは言っておこう。謀を暴露しようとすると、その暴露そのものが謀と疑われてしまう、という皮肉な現実だ。ネット時代なら、なおさらだろう。

 

 碩学エーコは、新聞「冬の時代」の「土俵際」を見事に予言して逝ったのだった。

(執筆撮影・尾関章、通算508回、2020年1月24日公開、同月29日更新)

 

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朝日、毎日、読売各紙(2020年1月1日付紙面、いずれも東京本社発行最終版)

写真》元日付1面(上から、読売、毎日、朝日の各紙)

 ガーンでなく、ゴーンである。もう10日もたつが、去年大みそか早朝のことだ。布団のなかでスマートフォンをタップしていたら、一瞬、目を疑うニュースが飛び込んできた。日本にいるはずのカルロス・ゴーン氏がレバノン入りしたらしい、という。

 

 記憶をたぐれば、最初に目にしたのは日本の通信社電だったと思う。新聞の業界用語で言えば、転電。海外メディアの報道内容を伝えるものだった。ゴーン氏は保釈中の身で、出国が禁じられているのに外国にいる。なんらかの策を弄したのだろう。

 

 日本は今、監視社会だ。しかも、ゴーン氏は拘束から解放されていたとはいうものの、決められた住まいに暮らすよう強いられていた。今どきのことなので、周辺には監視カメラがあっただろう。当局の目はいつも届いていたように思う。仮に住まいを出て、行方をくらましたとしても、最後の関門である空港の出入国管理が待ち受けている。本人名のパスポートを係官に見せて、すんなり通過できるとは考えにくい。それなのになぜ?

 

 この一件は、日本社会に対する痛烈な皮肉のように思われる。今、われわれの街のいたるところに防カメ、すなわち防犯カメラがある。今、われわれの街を通り抜ける相当数の車がドラレコ、すなわちドライブレコーダーを備えつけている。列島の隅々にまで逃げ場のほとんどない監視網が張りめぐらされているのに、抜け穴はやっぱりあった。しかもそれは、司直とメディアの中枢が集まる首都のど真ん中にぽっかり開いていたのだ。

 

 ゴーン氏のレバノン入りは、年末の休暇気分を吹っ飛ばす衝撃のニュースだった。驚くと同時に、バカにされたような気持ちにもなった。さらに元新聞記者の視点で言うと、それを海外メディアの転電で知ったという経緯によって、この思いは倍加されたのである。

 

 ということで今週は、このニュースを大きく伝えた2020年1月1日付の新聞紙面を読み返してみよう。元日の第1面は、新聞記者には特別な意味がある。社内では、この日の掲載をめざして特ダネ探しの号令がかかる。最近は特ダネ路線から企画路線に切り換え、大型連載の初回を据える例もふえてきたように思うが、リキを入れた記事の舞台であることには変わりがない。そこに、海外メディアを追いかける記事が載るとは……。

 

 最初にひと言ことわっておくと、本稿は、本来なら先週1月3日付でアップすべきだった。ただ正月に暮れの「逃亡」譚を扱うのは、ちょっと気がひけた。そこで前回は、年初恒例の漱石本をとりあげ、周回遅れで元日紙面を再読することになった。悪しからず。

 

 まず、朝日、毎日、読売各紙を見比べよう。この順に並べたのは、本稿が筆者にとって古巣の朝日を中心にとりあげるつもりだからだ。そこで部数順にかかわりなく、日本の新聞業界で長く言われ続けた「ちょう・まい・よみ」という呼び方にならった。他意はない。

 

 さて、元日付紙面でゴーン氏のニュースをもっとも大きく扱ったのは、読売。1面トップに横見出しで「ゴーン被告無断出国」とうたった。次いで毎日。同様に1面トップだが、縦見出し。「ゴーン被告レバノン逃亡」とある。この3紙では朝日だけが1面でもトップに置かず、左側に寄せて「ゴーン被告、レバノンに逃亡」の見出しを立てた。ちなみに朝日のトップは「IR汚職」の続報。記事の書きぶりからみて特ダネらしい。

 

 さて、この3紙1面比較で僕が注目したのは、読売だけが主見出しに「逃亡」という言葉を用いなかったことだ。3番目の見出しに「保釈中『逃亡』」とあるが、カギ括弧付き。その下に「現地当局『合法的』」と書き添えて、レバノン当局の言い分も伝えている。

 

 今回の一件は、ふつうにみれば「逃亡」だ。海外渡航禁止の制限下にある刑事被告人が突然、約9000kmも離れた中東レバノンに現れた。これが、逃げたのでなくてなんなのか――。だがこの時点で、本人の意に反した拉致でないとは言い切れない。万々一の話だが、背景に本人があずかり知らない工作があったのかもしれない……。まだ、あらゆる可能性を視野に入れなくてはならなかった。読売の慎重さは見あげたものだと思う。

 

 僕が元新聞記者としてもっとも興味を惹かれたのは、この「逃亡」ないしは「無断出国」がどこで察知され、ニュースになったのか、ということだ。朝日新聞元日付第3面の記事には、そのいきさつがこう書かれている。「30日午後7時(日本時間31日午前2時)前、ゴーン前会長のレバノン到着をいち早く報じたのはレバノンの大手紙アル・ジョムリアだった」。このあと、「欧米主要メディア」が続々と速報を流したという。

 

 なるほど、そうか。31日朝にスマホ画面で接したニュースの出どころは、ここらあたりにあったのだ。上記の朝日記事は、現地紙や欧米メディアの報道の中身にも言及している。アル・ジョムリアは、ゴーン氏が乗った飛行機は「トルコからベイルートの空港に到着した」と報じ、米紙ウォールストリート・ジャーナルは、事情通が「(前会長は)日本では公平な裁判を受けられないと考えて逃亡した」と説明していることを伝えたという。

 

 ここから見えてくることがある。ゴーン氏はだれにも知られることなく、ある日突然、ベイルートの地に姿を現したのではないらしいということだ。第1報の段階から、経由国名が明らかにされている。メディアに対して、当事者の意図を代弁するようなことを言う人物もいる。これは、逃亡計画の情報を分かちあう人々が一定の範囲にいたことをうかがわせる。でなければ、こんなにすぐ、疑問符なしの速報が広まることはなかっただろう。

 

 もちろん、当初の報道には大きなブレもあった。朝日新聞元日付の第2面は、自宅からの脱出劇に触れている。レバノンメディアMTVが、「音楽バンドに扮したグループが東京のゴーン前会長の自宅を訪ね、演奏を終えて引きあげるふりをして楽器を入れるための木箱に隠して連れ出した」と伝えたという。これが本当なら、スパイ映画さながらだ。だがその後、楽器箱は自宅ではなく、空港で使われたらしいことがわかってくる。

 

 それにしても、である。報道の初期に、日本メディアの影が薄すぎたのではないか。

 

 この事件は、映画の筋書きにたとえれば、その8割方が日本国内を舞台にしている。読み手は、トルコやレバノンで何があったかについても無関心ではないが、もっとも知りたいのは、ゴーン氏がどのようにして「法治国家」を自負する国が課した制約をかわし、出入国管理の関門をすり抜けたのか、ということだ。ところが、その細部を推察するにも、レバノンメディアが見てきたように伝えた不確かな報道に頼ったのである。

 

 誤解のないように言っておけば、僕は、今の日本メディアがだらしないと嘆いているのではない。転電は国際報道に欠かせない。海外メディアでも、在外の駐在記者は人数が限られるので、なにごとかが起こったとき、その第一報を現地メディアから得て「……によると」形式で伝えることがふつうにある。そして今回、日本メディアの海外取材網は、その役割を果たしただけではない。転電内容の真偽を確かめるために現地でも駆けまわっている。

 

 国内の取材陣も頑張った。第一報が届いた大みそか朝、おそらくはメディアの多くの記者がたたき起こされて、ゴーン邸に走り、弁護士を追いかけ、当局にあたってウラをとったことだろう。だからこそ、元日付1面に「?」なしの主見出しを打てたのだ。

 

 ただ昔なら、ゴーン氏のように横紙破りをする記者が報道機関の側にも一人や二人いて、側近を嗅ぎまわって不審な動きを察知できたのではないか、とも思う。その情報は事前にすっぱ抜くほど確度が高くなくても、事後の報道に厚みを加えられたのではないか……。

 

 今回思い知らされたのは、日本の管理社会の歪みだ。僕たちはスマホのGPS情報や街の防犯カメラに見張られて息苦しいほどだが、大富豪は国家権力による監視ですら突破できる。ここにも、格差があったのだ。メディアも、そのことは心得ておくべきだった。

(執筆撮影・尾関章、通算506回、2020年1月10日公開)

 

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『64(ロクヨン)』(横山秀夫著、文春文庫、上下巻)

写真》記者の筆記用具

 最近は、毎夜のごとく2時間ミステリー(2H)を観る。今や民放キー局は新作2Hのレギュラー枠を店じまいしたから、BS、CS局が再放映する年代ものを録画保存しておいて再生するのだ。騒々しいバラエティー番組よりは、よっぽどおもしろい。

 

 事件の110番通報があり、刑事たちが食べかけのラーメンをほったらかして外へ飛びだす。パトカーが赤灯を回して走り、規制線の張られた現場に駆けつける。そんな場面を見せつけられると、血が騒ぐ。たぶん、新聞記者として警察署に出入りしていた経験が僕自身にあるからだ。それは記者生活36年のうち、最初の数年に限られる。なのに今、その警察回りの日々ばかりがしきりに思いだされる。どうしてだろうか。

 

 ふと気づくのは、僕が記者としての行動様式を警察回りの取材で刷り込まれたということだ。その最たるものは、「抜いた」「抜かれた」の感覚。「抜く」とは他社に先んじて報じること、「抜かれる」とは他社に先を越されること。新聞やテレビの記者は「抜かれる」ことの恐怖に脅え、「抜く」ことのために寝食を忘れて働く。これは、メーカーの社員が新製品の発売や特許の取得を競いあうのと似ているようで非なるものだ。

 

 どこが違うかと言えば、「抜いた」「抜かれた」にはカネが絡まないことだろう。記者が特ダネを書いても、新聞社はもうからない。大特ダネが載った日に駅売りの新聞がよく売れる、というくらいのことはあるだろう。ただ、それは宅配の部数増に直結しない。特ダネに対する昇給は査定次第だが、あったとしても微々たるものだ。新聞報道が暴走したとき、その無定見を「売らんかな」の精神に帰する批判も耳にするが、これは見当外れのように思う。

 

 ではなぜ、記者は「抜かれる」ことを恐れ、「抜く」ことに血まなこになるのか。正直言って、僕にも理由はわからない。ただ、「抜いた」ときは競争相手があわてふためくさまを見て胸がすく。「抜かれた」ときには、その逆の立場に追い込まれる。この世にはカネに絡まない競争に熱中する人々もいる、僕たちはそういう職業集団の一員になったのだ――そんな意識を徹底的にたたき込まれたのが、かけだしの警察回り時代ではなかったか。

 

 僕たち新聞記者は20代半ば、同級生たちが企業社会に入って市場原理で叱咤されるのを横目で見ながら、それとはまったく別の行動原理で動く世界のど真ん中にほうり込まれたことになる。2Hに惹かれる理由の一つは、それに対する懐旧だろう。

 

 で、今週は『64(ロクヨン)』(横山秀夫著、文春文庫、上下巻)。文藝春秋社が2012年に単行本を刊行、15年に文庫化した。著者は、新聞記者出身の推理作家。『陰の季節』や『クライマーズ・ハイ』などで、警察や新聞社という組織内部の人間群像を活写した。小説家としての姿勢は、朝日新聞群馬県版のインタビュー記事(朝日新聞デジタルにも掲載)に詳しい(当欄2019年1月18日付「横山秀夫が小説の岸辺に立った理由」)。

 

 本題に入る前に、思わせぶりな題名に触れておこう。上巻カバーの作品紹介にも種明かしがあるから、ネタばらしにはなるまい。そこには「〈昭和64年〉に起きたD県警史上最悪の翔子ちゃん誘拐殺人事件」という記述がある。誘拐当日は、西暦1989年が改元によって平成元年となる直前の昭和64年初め。それで、この事件を県警内では「ロクヨン」の符丁で呼ぶようになった。この小説の主舞台は、それから14年が過ぎたD県警だ。

 

 主人公は県警本部広報官の三上義信。捜査一課、二課での刑事生活が長かったが、今の役職は警務部秘書課に属する。日々、記者クラブとの軋轢、警察部局間の反目などに直面して悪戦苦闘している。しかも、家庭でも娘の失踪という心配事を抱えていて、心痛に押しつぶされそうな妻をいたわりながら職務をこなしている。この作品の筋書きは、三上の職業人としての思惑が家庭人としての心情と絡みあって、思わぬ展開を見せていく。

 

 小説の読みどころは、県警内で角突き合わす刑事部、警務部の心理戦にある。そこに、警察庁が中央官庁として地方の警察行政支配を強めようとする動きと、それに対する県警側の反発という組織戦が重なる。さらに厄介なのは、県警には伏せておきたい過去の不祥事という重荷があることだ。三上は刑事魂をもちつづけながらも警務部の一員として振る舞い、やがては「広報」の職責にも惹かれていく――だが、この顛末を当欄は追いかけない。

 

 ここでは話を記者の生態に絞ろう。冒頭からまもなく、記者クラブ員の一群が広報室に押しかけてくる。幹事社東洋新聞記者の手には、交通人身事故の発表文がある。県警は加害者の実名を明かさず、匿名表記になっていた。妊娠中だから、というのが理由だ。記者たちは「三十二歳の主婦A子さん。これじゃあ実在する人物かどうかもわからない」と突きあげるが、三上も「実在する生身の人間だから母胎への影響を考慮したんだ」と譲らない。

 

 実名匿名問題は、昔から警察と記者の間の火種だった。この小説の作品世界は個人情報保護法が成立した2003年ごろなので警察発表にも匿名化の機運があったように思うが、それでも記者は実名公表を求める。報道で名を伏せるかどうかは、メディアが当事者の人権や事件の公共性を勘案して自主判断する。発表内容が事実であることの保証はメディアが検証可能な状態に置かれることにあるので、そのためには実名が必要――という論理だ。

 

 もっともな理屈だ。これなら、記者クラブは一枚岩で固まりそうな気がする。だがそれは、所詮「抜いた」「抜かれた」でうごめく集団なのだ。三上は、この弱点を見逃さない。クラブが本部長に抗議文を突きつけようとすると、その動きを封じる工作に乗りだす。

 

 東洋新聞の支局デスク(次長)を昼食に誘いだして、それとなく談合事件の内密情報を明かしたのだ。これを聞いたときのデスクの表情はこうだった。「顔の幾つかの筋肉が張り、幾つかのそれが緩んだ。新人もベテランもない。特ダネを手にした瞬間の記者の顔は皆同じだ」。この細密描写は、同様のシメシメ感を体験したことがある新聞記者出身の作家ならではのものだろう。だが工作は、与えるだけで得るものがないまま終わった。

 

 別の箇所では、特ダネをものにした記者が三上の目にどう映るかも描いている。「抜いた翌朝は誰もが『事後の顔』だ。気怠(けだる)さと満足感の入り交じったその表情を見るにつけ、記者にとっての特ダネは、他のどの欲よりも性欲に近いのではないかと思ったりもする」。記者経験者として、あまり受け入れたくない記述だ。だが、君たちは本能で競いあっていたではないかと聞かれたら、うなずかざるを得ない一面もある。

 

 ただ、記者の生態も変化しているらしい。それは、三上の部下で広報業務に専心する中堅室員の仕事ぶりからもうかがえる。彼は「将棋、囲碁、麻雀、遊びは何でもとことん付き合って」「頻繁に記者と飲み歩き」……という昔ながらの記者懐柔法をとりながら、「都内の大学を出ているから東京の話もゼミの話もできる」「年齢的にも若い記者たちの兄貴分として振る舞える」という強みを生かそうとしている。戦略を「更新」しているのだ。

 

 それでも追いつくのは難しい。最近の若手記者は「奇妙なぐらい生真面目で潔癖」「酒の付き合いを好まず、飲んでも乱れない」「現に自分が在籍し、様々な恩恵を享受していながら、記者クラブ制度が警察と記者の癒着の温床なのだと真顔で論じる者もいる」……。

 

 そもそも理詰めで考えれば、同業者集団として排他的にまとまりながら、閉鎖的に競いあう記者クラブの正当性は破綻しているのだ。今は新聞記者のありようを問い直す好機なのかもしれない。(当欄2014年5月2日「ジャジャジャジャーンの事件記者」参照)

 

 さらに言えば、記者は「抜いた」「抜かれた」の呪縛から脱すればよいと僕は思う。速報ではソーシャルメディアに負けたりもするのだ。それよりは、強者に対峙して連帯することのほうが大切だ。『ペンタゴン・ペーパーズ』(キャサリン・グラハム著、小野善邦訳、CCCメディアハウス、副題は省く)で、ホワイトハウスに取材拒否された記者を他社の仲間たちが助けたように(当欄2018年5月11日「ケイとベンに教わるメディアの連帯」)。

(執筆撮影・尾関章、通算495回、2019年10月25日公開)

 

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『三河地震――60年目の真実』(木股文昭、林能成、木村玲欧著、中日新聞社)

写真》1人は1人、生命の重さ

 2011年の東日本大震災当時、僕はまだ現役の科学記者だったから昔の地震記録を復習した。一覧できるのは、なんと言っても『理科年表』(国立天文台編纂、丸善)。ここには、かつて日本列島とその周辺で起こった主な地震が列挙されている。そこで改めて驚かされたのは、第2次大戦末期に死者・行方不明者1000人超の大地震が東海地方で相次いだことだ。1944年12月7日の東南海地震と45年1月13日の三河地震である。

 

 『理科年表』の記載をざっくりとなぞっておこう。東南海地震はマグニチュード(M)7.9で、震央は紀伊半島沖。静岡、愛知、三重県などで死者・不明者1223人。住家の全半壊は5万戸を超える。熊野灘、遠州灘の沿岸は1〜8mの津波に襲われた。もう一つの三河地震はM6.8で、三河湾を震央とする。愛知県三河地方が主な被災地。死者2306人。住家の全半壊2万戸超、ほかに「非住家」1万戸近くが全壊したという。

 

 今の知識で言えば、東南海地震は、地球を覆うプレート(岩板)の境目で起こった巨大地震だ。海溝型と呼ばれる。一方、三河地震は足もとの活断層が動いたことによるもので、内陸直下型に分類される(三河地震は三河湾の直下で起こったが、沿岸海域なので「内陸」扱いしてもよいのだろう)。二つの地震は、わずか1カ月余の間に続発した。当然、関連が疑われる。被害の大きさのみならず、防災科学の観点からも注目すべき災厄だった。

 

 ところが、どちらの地震も知名度は高くない。大昔なら、そういうこともあろう。だが、戦争末期はそれほど昔ではない。僕にとっては自分が生まれるより6〜7年前の近過去だ。それなのに子どものころ、あの震災から10年が過ぎた、20年が過ぎた、という報道に接した記憶はほとんどない。どうしてそうなったのか。先の大戦の戦没者は日本人に限っても数百万人といわれる。犠牲者が1万人に満たない災害には意識が及ばなかったのか。

 

 どうも、それは違うらしい。それを知ったのは『一九四四年の大震災――東海道本線、生死の境』(西村京太郎著、小学館)を読んだからだ。2014〜15年に小学館発行の『本の窓』誌に連載された小説だ。15年刊。巻末で「フィクション」と念を押している。東南海地震後、静岡県の浜松に住む町の地震研究家が、まもなくもう一度大地震があると言い張って特高警察からにらまれるという筋書きだ。そこに地震の報道管制の話が出てくる。

 

 本当に報道管制があったのかを知りたくて、ネット情報を漁ってみた。それでわかったのは、規制の実態はともかく当時の新聞が二つの地震をほとんど正しく伝えていなかったことだ。これはぜひ、小説ではなくリアルな記録を読んでみたい――。

 

 で、今週は『三河地震――60年目の真実』(木股文昭、林能成、木村玲欧著、中日新聞社)。2005年刊。刊行時、著者3人はいずれも、名古屋大学大学院環境学研究科地震火山・防災研究センターの研究者。専門は、順に測地学、防災地震学、防災心理学。

 

 さっそく、本文に入ろう。地震報道がどれほど軽んじられたかについては、第一章の冒頭でとりあげられる。東南海地震発生の1944年12月7日は、偶然にも日米開戦3周年の前日。「翌日の新聞では、一面のトップは地震の記事ではなく、軍服姿の昭和天皇の写真が飾っていた」。この節目に、朝日新聞は「一億特攻」を謳いあげる記事を掲げたとある。地元紙中部日本新聞(現・中日新聞)も、地震の記事は「三面の隅」だった。

 

 では、約1カ月後の三河地震はどうだったか。これについては第三章で、一つの節を割いて定量分析もしている。対象としたのは、朝日新聞(東京本社版)、読売報知新聞(東京本社版)、中部日本新聞の3紙。地震翌日の1945年1月14日から3月末までの紙面を調べている。ここで僕のほうでことわっておくと、これらはみな1日1回の刊行だ。東南海、三河両地震のころ、国内の新聞社は用紙の統制で夕刊を出していなかった。

 

 この分析でまず驚くのは、出稿数の少なさだ。三河地震を扱った記事は2カ月半の期間中に朝日が11件、読売報知が3件。地元紙の中部日本(以下、中日と略す)ですら56件に過ぎない。中日の件数推移を見ていくと、地震翌日(2日目)が5件、3日目も5件、4日目が8件。これが1日当たりの最多本数だ。翌日ではなく、なぜ4日目がもっとも多いのか。推察するに、通信事情や交通事情が悪くて、情報収集に手間取ったのだろう。

 

 著者は、中日が6〜10日目の5日間にも合計20件の出稿を続けていることに目をとめ、「地元紙にとって三河地震は報道すべき重大な出来事であり、報道管制下という制約の中でも多くの報道を行っていた」と評価する。当時の新聞はページ数が限られていた。この間、朝日も読売報知も続報を出していない。そう考えると、中日はたしかに頑張った。ただそれでも、あの地震で2カ月半に56件は、今の感覚からすると少ない。

 

 ここで気になるのは、引用部にある「報道管制」という言葉だ。この本の随所に出てくるが、誰が何を規制したのか、地震のことを書くなと言ったのか、書いてもよいがこう書けと指図したのか――そのあたりがはっきりしない。それを知るには、著者の一人が出した『戦争に隠された「震度7」――1944東南海地震 1945三河地震』(木村玲欧著、吉川弘文館、2014年刊)など、別の文献をもっと読まなければなるまい。

 

 ということで今回は「報道管制」の実相に迫れないが、新聞がどんな圧力を受けていたかは紙面から感じとれる。中日1月14日付の三河地震第1報を見てみよう。記事の核心は、中央気象台(現・気象庁)の発表そのものだ。ところが、それにかぶせて「再度の震災も何ぞ/試練に固む特攻魂/敵機頭上、逞しき復旧」(常用漢字に改め、旧字体は新字体に換えた。以下も)の見出しが並ぶ。本文のニュースから浮きあがってみえるではないか。

 

 記事は、記者たちが取材した被災状況も伝えている。「十三日早暁一部電灯線が切断する程度の可成の地震が東海地方を襲ったが」「愛知県下三河部方面で若干全半壊の家屋があり死傷者を出しただけ」(記事にはルビがあるが省く、以下も)というのだ。著者は、これを「明らかに事実とは違う」と断ずるが、書いた側には嘘ではないと言う屁理屈があるのかもしれない。数字を出せば驚天動地のニュースを「可成」「若干」で覆い隠しているのだ。

 

 新聞編集陣の心理を深読みすれば、本当は地震のニュースをそのまま伝えたいのだが、戦意喪失を招きそうな記事を出すと当局から難癖がつく。ここは、地震のことを当たり障りなく報じつつ、見出しだけは威勢のよいものにしておこうという感じか。

 

 僕がことのほか興味をそそられたのは、当時も災害報道では、記者が科学者を現場に引っぱり出して見解を聞くという取材をしていたことだ。この本には「特筆すべきは、中部日本新聞本社が、人心の安定に寄与するために震害地学術調査団を被災地に派遣したこと」とある。調査団は、名古屋帝国大学の教授が率いていた。これは、「絶対に大地震なし」(1月20日付)など、余震に対する過度の不安をやわらげる報道につながったようだ。

 

 著者は、これらをとらえて「地震や震災そのものを隠すのではなく、地震や震災についての正しい理解を促進するための啓蒙的報道が行われていた」と評する。「報道管制下にあっても」一定の役割は果たした、という見方だ。だが僕には、その「啓蒙的報道」が曲者に思える。東日本大震災の原発事故報道でも当初、専門家が「人心の安定に寄与する」解説を繰り返し、事態の深刻さを見抜けなかったことがある。一つの見方を過信するのは危険だ。

 

 この本は、被災地の人々の証言が読みどころだ。そこには、名古屋に奉公に出ていた人が家族の死を伝えられるまで震災の深刻さを知らなかったという話も出てくる。数万戸が「若干」とされたのだから当然だ。事実の報道より「人心の安定」が先行するという奇怪さ。

 

 今はソーシャルメディアがあるから、こんなことはないだろう。被災者自身が現場の実態を映像にして発信できるからだ。だがそれだけでは、何が起こったかの全体像は思い描けない。事象の全容をつかみ、それを輪郭づけるという大役が、マスメディアにはある。

(執筆撮影・尾関章、通算490回、2019年9月20日公開、同月22日最終更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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「災害報道の日米比較(1)〜危険地への記者派遣と経験の受け継ぎ〜」

(五十嵐浩司著、『コミュニケーション文化論集』第16号抜刷、大妻女子大学コミュニケーション文化学会2018年3月発行)

写真》新聞という「判断」の束

 ロンドン駐在時代、BBCテレビのニュースを見ていてギクッとしたことがあった。画面では、自局記者の殉死が伝えられていた。四半世紀も前のことなので、すでに記憶はあやしいが、旧ユーゴスラビアの紛争地帯で一命を落としたのではなかったか。大ニュースの扱いではなかった。印象に残るのは、キャスターが記者の経歴を淡々と振り返り、敬意と弔意を表していたことだ。それを見て、こんなことは日本ではまずないな、と僕は思った。

 

 理由は二つある。一つには、日本の大手メディアは自社の記者を戦闘地帯にめったに送り込まない。もう一つ、もしも自社の記者が危険な場所に足を踏み入れて不慮の死を遂げたなら、これほど素直に敬意を表すことはないだろうということだった。

 

 この違いはどこからくるのか。あえて言えば、そこには戦後の日本社会に根を張った死生観があるように思う。僕たちの世代は小中学校で、どんな死であれ、死は避けるべきもの、とたたき込まれた。特定の死を美しい死、気高い死ととらえる思想は徹底的に排除されたのだ。これを、戦後民主主義がもたらした偏向教育だとは思わない。人命がとことん軽んじられた時代をくぐり抜けてきた人々の痛切な思いの発露とみるべきだろう。

 

 こう考えるのも、1990年前後に脳死・臓器移植論争を取材したからだ。そのころ、欧米では脳死体からの臓器移植が広まっていたが、それは脳死を人の死とみる認識が定着していたからではないようだった。むしろ脳死移植を、死にゆく人が目前に迫る自己の死と引き換えに他者の生命を救う尊い行為ととらえているように思えた。だが日本社会では、脳死が人の死でない限りは脳死体からの臓器移植を容認しないとの見方が強かった。

 

 変化の兆しは、1992年に政府の臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)が出した答申だ。臨調委員の少数派は、脳死は人の死でないとの立場だったが、脳死の人が「脳死になれば臓器を譲る」と望んでいたのなら臓器提供者になれるという一線まで譲歩した。死の確定よりも他者への善意を優先する選択肢を受け入れたのだ。少数派の一人、哲学者の梅原猛さんは、これを仏教の「菩薩行」にたとえた。この答申が脳死移植再開に道を開いた。

 

 最近では、死生観が末期患者の延命をめぐっても問われている。死をどこまでも避けようという姿勢は正しい。ただ、死は必ず訪れる。なによりも「末期」の2文字が、そのリアリズムを映している。死を先延ばしにできる技術は次々に現れているが、なかには本人が望まぬもの、苦痛を強いるものもある。そういう患者に延命技術をどこまでどのように用いるのか。そこでは、日本社会の戦後死生観だけでは割り切れない倫理も求められている。

 

 で、話をジャーナリズムに戻そう。記者の危険地報道を扱った論考が僕の手もとにある。「災害報道の日米比較(1)〜危険地への記者派遣と経験の受け継ぎ〜」(五十嵐浩司著、『コミュニケーション文化論集』第16号抜刷、大妻女子大学コミュニケーション文化学会編、2018年3月発行)。著者は、朝日新聞の元国際記者。テレビ朝日系「報道ステーション」にも出ていた人だ。この論考は、元同僚の僕に送ってくれた著作の一つである。

 

 表題に「(1)」とあるのは、災害報道(Disaster Reporting)をめぐる日米比較論の「序論」という位置づけかららしい。著者は、米国の特派員歴が長い。この論考でも現地に赴いて、ニューヨーク・タイムズやAP通信の幹部ら5人に聴き取り調査をしている。

 

 論考はまず、2011年の東京電力福島第一原発事故で日本の大手メディアが取材陣の安全確保を最優先させた結果、批判を浴びたことに触れる。近隣自治体の首長の一人も、日本外国特派員協会の記者会見で「日本のメディアは人々に寄り添っていない」と発言したという。この経緯を踏まえて「『ジャーナリストの安全確保』と『メディアとしての使命』の相克に、米国のマス・メディアはどのように対処しているのだろうか」と問いかける。

 

 聴き取りによると、ニューヨーク・タイムズもAP通信も事故、テロを含む災害報道で取材マニュアルを用意していないという。ニューヨーク・タイムズでは報道倫理をめぐる綱領やマニュアルが充実しているが、それでも原子力災害時に放射線量のような数値を示して取材の可否判断に役立てるといったことはないらしい。日本メディアが「取材のテーマごとに細分化されたマニュアルや『手引き』」をつくる傾向にあるのとは正反対だ。

 

 では、現場取材は記者任せなのか。ここで興味深いのは、米メディア内にも考え方の違いがあることだ。日本のメディアに近いのはAP通信だ。国際報道担当副社長のジョン・ダニスゼウスキ氏は「記者個人には決して判断させない」と断言する。氏の説明によれば、記者を送るかどうかは通信社幹部の会議で決める。9・11同時多発テロ級の大事件なら、副社長2人に編集局長、写真局長、テレビ局長を加えた5人が呼びだされるという。

 

 その会議の中身も押さえておこう。記者を送ることが決まると、「派遣の規模や期間」「何をどこまで取材するか」といったことだけでなく、派遣される要員の「精神状態」や「家族のケア」まで話し合われるという。管理職としてのリスク管理にも怠りないわけだ。

 

 これとは対照的に、ニューヨーク・タイムズは記者の自主性を重んじる。現場に赴くかどうかは記者が部長や局次長ら上司と話しあって決めるが、このとき「一方的」なトップダウン方式はとらないという。国際報道担当編集局長のマイケル・スラックマン氏は「記者が自分自身で担当したいと手を挙げるのが大原則」と強調、災害は個々に性格も衝撃度も違うので「ジャーナリストたちがその都度対応を考えるのが妥当」と結論づけている。

 

 これは、記者教育のあり方にもつながる。この論考によると、AP通信の記者は戦地取材を想定する研修に定期的に参加しなくてはならない。一方、ニューヨーク・タイムズの場合は、戦地に赴く記者が出発前に専門機関で訓練を受けるくらいの対応らしい。

 

 両社に違いがあるのはなぜか。この問いに対する著者の分析は鋭い。「社風の違い」で片づけるのではなく、メディアの構造に踏み込む。AP通信は、世界中に記者や映像記者、通信員を4000人ほど擁し、熟練度のばらつきが避けられないので、現場判断に委ねるには心配がある。これに対して、ニューヨーク・タイムズは取材記者の人数が少なく、しかも経験豊かな腕っこきぞろいなので、めいめいの判断を尊重できるというのだ。

 

 この論考で喚起されるのは、僕たちは事実に即して物事を決める能力を鈍らせてしまったのではないか、という反省だ。著者は、聴き取りの相手から「『日本メディアのマニュアル依拠』ぶり」を「しばしば指摘された」。その目には、判断放棄にも映るのだろう。

 

 著者は、AP通信のトップダウン方式が「マニュアル依拠」とはほど遠いことに注目する。「危険地への記者の派遣や撤退などはマニュアルに記載された数値によって決めるのではなく、組織のトップを占める管理職ジャーナリストたちがその都度、合議で判断する」。合議では、頼るべき基準がないのだから自ら情報を集めて専門家に助言を求め、熟慮の末に決断することになろう。ジャーナリスト精神とは、そういうことではないか。

 

 この熟慮の段階で、本稿のまくらで書いた戦後日本社会の死生観が考慮されてもよいはずだ。その結果として欧米メディアと異なる判断に至るのなら、それはそれで納得がいく。そこには、責任を基準の数値に押しつけるのとは一線を画する自律的な姿勢がある。

 

 なんでもかんでもマニュアルをつくり、それを金科玉条にして思考停止に陥る。そんな行動様式が今の日本社会に蔓延している。ジャーナリズムこそがしなやかな思考の力を見せつけなくてはならないのに、世間に調子を合わせるばかりだとしたらなさけない。

*登場する米国メディア幹部の肩書きは、いずれも著者の五十嵐氏がインタビューした2016年2月時点のものです。

(執筆撮影・尾関章、通算469回、2019年4月26日公開)

 

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「ザ・ルポルタージュ 変わる日雇いの街 大阪・釜ケ崎哀歌(エレジー)」

(樋田毅・執筆、『サンデー毎日』2019年1月6―13日新春合併号)

写真》見出しが並ぶ(朝日新聞2018年12月25日朝刊広告欄)

 週刊誌を手にとる習慣がなくなって、だいぶ時がたつ。遠い昔、学生時代には結構読んでいた。新聞とは違って、世情を斜めから眺める姿勢が好きだったからだ。だが、皮肉にも自分自身が新聞記者になり、斜め目線の記事を味読するどころではなくなった。そうこうするうちに週刊誌のほうも変わってしまったように思う。ゴシップ報道を突き詰めるか、実用路線で突き進むか。最近はその両極端が目立って、読みものらしさが薄らいだ。

 

 そんな折、週刊誌の一つに新しい動きが起こった。『サンデー毎日』新春合併号の目次に「雑誌ジャーナリズムの復権宣言!」の文字を見つけたのだ。その「宣言」を支える記事は7本。社外筆者を起用した論評やインタビュー、ルポなどが並んでいる。

 

 ふと思いだされるのは、45年前の田中金脈報道だ。週刊誌ではないが、月刊の『文藝春秋』1974年11月号に衝撃の記事2本が載った。立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」。データ本位の調査報道と人間像に迫るルポというふうに対照的だった。ノンフィクションの書き手がそれぞれの手法を駆使して原稿を量産したころで、その舞台として「雑誌ジャーナリズム」は活況を呈していた。

 

 「宣言」は、あの時代の空気を蘇らせたいというジャーナリスト精神の発露なのだろう。紙が電子に取って代わられ、読みものがネットのつぶやきに押しやられるようなメディア状況を考えると先行きは厳しいが、報道に身を置いてきた者として健闘を願う。

 

 で、その目次を見ていた僕は「宣言」の一翼を担う執筆者に懐かしい名前を見つけた。樋田毅さん。元朝日新聞記者で、大阪本社社会部に所属していたジャーナリストだ。1987年に朝日新聞阪神支局襲撃事件が起こると、真相解明を主務とする取材班に加わり、記者半生の多くをその仕事に費やした。去年、この事件をとりあげた「NHKスペシャル」のドラマ篇で、主役のモデルになった人と言えば思いだされる方も多いと思う。

 

 樋田さんは、個人的にも元同僚としてよく存じあげている。当欄で『記者襲撃――赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅著、岩波書店)を紹介したいなと思っていたところだったが、そんなときに直近のジャーナリスト活動を知って、まずそちらに飛びついた。

 

 『サンデー毎日』誌に出した記事は「ザ・ルポルタージュ 変わる日雇いの街 大阪・釜ケ崎哀歌(エレジー)」。見出しにある「釜ケ崎」の3文字をみて僕が感じたのは、大阪社会部魂だ。「釜ケ崎」は大阪市南部にあり、職を求める日雇い労働者が宿(やど)をとることから「ドヤ街」とも呼ばれる。高度成長期には暴動が多発、行政は「あいりん地区」と名づけて民生対策に力を入れてきた。在阪の社会部記者にとっては目の離せない街である。

 

 僕自身が大阪在勤の科学部記者だった1980年代、社会部出身の編集局幹部が武勇伝のようにして語る釜ケ崎体験談は畑違いの記者の耳にまで届いていた。ドヤ街に潜入するときは、耳たぶのうしろの垢をあえて洗い落とさずにいた、というような話だ。取材相手の住人たちから別世界の人間と思われたくないため、という。見出しの「ルポルタージュ」と「釜ケ崎」の組みあわせに、僕はちょっとノスタルジックな気分になった。

 

 今回の記事で樋田記者(拙稿では、こう呼ばせていただく)は文字通り、その釜ケ崎取材を今、60代半ばの身で敢行した。本文に「1984年の春から秋にかけ、私は新聞記者として釜ケ崎を担当した」とあるから、30余年ぶりの再体験。ここに、この企画のミソがある。日本社会を生身の肉体で支えてきた街を昭和末期と平成末期で比べることで、平成という時代の位相を切りだす――それこそが雑誌ジャーナリズムの醍醐味というわけだ。

 

 街に入ると、そこには不変と変化が同居していた。樋田記者が「34年前に泊まったドヤ」(ドヤは簡易宿泊所)はまだ残っていた。2畳間に敷いた布団の「汗を煮詰めたような強烈なにおい」、暴動に備えて窓に取り付けられた「鉄格子」と「金網」――それらは今、どうなっているのか。泊ろうと思ったが「生活保護の長期滞在者」で満室。今回入ったドヤは15年前に改築された6階建てのビルで、3畳間にテレビ、冷蔵庫が付いていた。

 

 このルポでは治安状況も今昔で比較されている。樋田記者が1984年春に書いた新聞記事(「路上犯罪急増 襲われる野宿の弱者」)によると、当時は路上強盗が警察の知る限りで「半年間に50件」。それが今回、西成署に取材すると2018年は11月末までで5件のみ、野宿していて強盗に遭う例は皆無だという。副署長の説明によれば、住人が年をとって野宿者が減ったことや生活保護の受給者が増えたことが背景にある。

 

 高齢者の増加と福祉の拡大――これらが釜ケ崎を穏やかにした二大要因らしい。高齢化は、樋田記者が今回見かけた「『特掃』と書かれたヘルメット姿のおっちゃんたち」の姿からもわかる。「特掃」は「高齢者特別清掃事業」の略。街路をほうきとちり取りで掃除する。かつて屈強の筋力で道路を掘り返していた青壮年が今、その路面を黙々と掃き清めているのだ。高度成長を支えた世代の老いが、そのまま街の風景に映しだされている。

 

 福祉の拡大を物語るのは、シェルターという無料宿泊施設が充実したことか。「シャワーも洗濯機も無料で使える。冷暖房もある」というから快適なはずだが、それでも野宿生活を選ぶ人たちがいる。樋田記者はその一人に声を掛け、話を聞く。公共機関が入居する建物の軒下で寝袋に身を包んでいた70歳の男性だ。「俺は集団生活が嫌いだ。一人でいるのが自由でいい」。釜ケ崎は、こういう生き方を受け入れる街でもある。

 

 このルポで僕の心にもっとも響いたのは、樋田記者が認定NPO法人の「こどもの里」を訪れる場面だ。釜ケ崎の子らを預かったり泊めたりする施設で、30余年前も取材でしばしば足を運んでいた。そのころ、近所の踏切で男の子二人が亡くなる事故があった――そんなことを思いだしながら玄関に入った瞬間、「胸を突かれた」とある。二人の遺影が壁に掛かっていたのだ。「その死をずっと忘れない人がいた」ということである。

 

 二人とも父子家庭の子であり、「こどもの里」の常連だった。施設を「切り盛り」する荘保共子さんが樋田記者に言う。「釜ケ崎は貧しい人や障害のある人たちに対して日本で一番優しい街です」。有力者でなく無名の子の写真が施設を見守っているのは、その表れだ。

 

 では、釜ケ崎の下部構造はどうか。このルポによると、西成労働福祉センターの求人紹介は2017年に延べ24万9000人で、1989年の約8分の1。樋田記者が早朝のたまり場を見にいくと、労働者待ちの車は「ワゴン車が20台ほど」。かつては「100台前後のマイクロバスなどが並んでいた」から、がた減りだ。ただ、これだけで雇用が減ったとは言えない。スマホを通じて雇い主から直に仕事を得る人が出てきたからだ。

 

 このルポは最後に、釜ケ崎激変の予兆を報告している。近くに大規模ホテルの建設計画があり、地元に「ジェントリフィケーション」(高級化)という言葉が飛び交っているという。2025年の万博も追い風となるだろう。だが樋田記者は、地元の神父本田哲郎さんや前述の荘保さんの「誰でも生きられる、多様性が尊重され、弱者に優しいこの街を守り通す」という決意を引いて「私も、そうあってほしい」と書く。まったく同感だ。

 

 思いだすのは、都市問題の論客ジェイン・ジェイコブズ(1916〜2006)。当欄「トランプに備えてJ・ジェイコブズ」(2016年12月2日付)に書いたように、米国社会が自動車道路などでズタズタになった現実を批判、「地域社会が存在するためには、人々が本人同士で出会わなければならない」(『壊れゆくアメリカ』〈ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社〉)と主張した人だ。彼女が今の釜ケ崎を見たら何を言うか。

 

 このルポは、樋田記者がとことん新聞記事風の文体で書いている。見たこと、聞いたこと、調べたことを凝縮させるだけで、飾りがない。それがかえって心に訴えかけてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算454回、2019年1月11日公開)

 

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『朝日ぎらい――よりよい世界のためのリベラル進化論』(橘玲著、朝日新書)

写真》郵便受け

 この秋、中東シリアで過激派組織に身柄を拘束されていたフリージャーナリストが解放された。朗報のはずだが、世間の受けとめ方は微妙だった。当初、ネットメディアには厳しい声があふれた。もし身代金が支払われているのなら、出どころはどこか。それが先方に渡れば、結果としてその活動に手を貸したことにならないか――そんな批判が目立った。今日的な感覚で言えば、そういう思考回路に入るのはわからないではない。

 

 では、ベトナム戦争のころはどうだったか。あのころも報道写真家が戦場の実態を伝えるために危険地帯に入り込み、安否不明になることがあった。だが、それを軽率な行動と責める声は、ほとんど聞かれなかったように思う。世間はジャーナリズムに優しかった。

 

 なぜ、様相が変わったのか。これについては当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」で考察した。ひとことで言えば、権力対ジャーナリズムの構図が干からびてしまったのだ。かつて報道メディアは政権の監視役として人々の期待を集めていたが、それも今は昔。往時の新聞の政権に対する影響力(当欄2018年5月11日付「ケイとベンに教わるメディアの連帯」)は、このところすっかり衰えたように思う。

 

 今回も、ジャーナリズムの側に立つ人々は戦場報道の大切さを訴えている。戦争の当事者は不都合な事実を覆い隠しがちだ。真相を知るには、自立したメディアがもたらす一次情報が欠かせない。ジャーナリストは覚悟を決めて現地に入るのだから、一定の自己責任はあるが、その成果は社会に還元されている――そう主張する。ところが、この言い分が今はなかなか通らない。全体状況よりも、取材者個人の行動にばかり目が向いてしまう。

 

 これは、報道を生業としてきた身にはつらいことだ。「ジャーナリスト失速を思い知った夏」にも書いた通り、僕は最近「科学ジャーナリスト」を名乗る名刺を差しだすのがためらわれるようになった。ジャーナリズムという職域が存在理由を失ったような無力感。

 

 余談だが、テレビの娯楽番組を観ていても落胆がある。2時間ミステリーでは、第1の殺人の被害者はそこそこの人物だ。ところが第2の事件では、自称「ジャーナリスト」が殺されることが多い(「ルポライター」のことも)。第1の事件の犯人をゆすり、金を脅し取ろうとして逆襲される――そんな筋立てが定番だ。ジャーナリストに、昭和の記者ものドラマにあった輝きはない(当欄2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」)。

 

 この変転にただでさえ凹んでいるところに、さらに追い討ちをかけてくるものが僕にはある。古巣に対する世評の下落だ。ネットを開くと、朝日新聞が悪者になっている状況がひと目でわかる。一つひとつの批判には耳を傾けるべきものが少なくないが、気になるのは背後に漂う嫌悪だ。どうして、ここまで嫌われるようになったのか。僕たちOBには、過去にさかのぼって、反朝日感情の根っこを探りあてる責任があるように思える。

 

 最初に書いておきたいのは、権力対ジャーナリズムの構図が健在だった1970〜80年代にも、朝日新聞は嫌いという人が少なくなかったことだ。その嫌悪感は、必ずしも政治の座標軸に根ざしていたわけではない。どこに難があったのか。端的に言えば「肌が合わない」と敬遠する向きがあったように思う。ひとつ告白すれば、僕自身がかつて社内にいて時折襲われた疎外感も、その「肌が合わない」感覚に通じるものだったかもしれない。

 

 このことを物語る朝日新聞自身の記事がある。バブル崩壊期に連載された「VS朝日新聞」というインタビュー企画だ。朝日に対して辛口批評する人々の声を集めた。ここに登場した当時『週刊SPA!』編集長、渡辺直樹さんの直言が僕の心に響いた。

 

 「嗅(きゅう)覚でいうと、政治家や官僚になった人と朝日新聞に行った人とは、どことなく旧制高校的価値観が共通していると感じます。地方から出てきて寮に入って、勉強ができて、そのまま社会人になり、自分たちは大所高所からものを考えているんだ、という意識。それは悪いことではないけれど、自分たちはもしかすると権力がとても好きなのではないかということを意識された方がいいと思います」(朝日新聞1992年7月11日朝刊)

 

 「旧制高校的価値観」とは言い得て妙だ。これが戦後、象牙の塔の教養主義をかたちづくったように思う。そこに巣食う欺瞞にノーを突きつけたのが、1970年前後の学園紛争であり、対抗文化だった。このころから朝日は、新しい世代の敵役になっていたのである。

 

 で、今週は『朝日ぎらい――よりよい世界のためのリベラル進化論』(橘玲著、朝日新書)。刊行元は朝日新聞出版だ。子会社が世間に親会社を嫌う風潮があることを公然と認めたわけだから衝撃的だ。だが、この寛容さは前述の連載記事同様、朝日の長所だろう。

 

 著者は、1959年生まれ。略歴欄によれば、2002年に小説『マネーロンダリング』を刊行した。「作家」の枠を超えた著作も多いようだ。この本でわかるのは、その読書領域の幅広さだ。東西の書物を読みあさり、理系研究者の原著論文にもあたっている。だから、「本書は朝日新聞を批判したり擁護したりするものではない」(まえがき)。むしろ、「朝日ぎらい」という社会現象の深層にある思考や感性を切りだしていると言ってよい。

 

 本文に入ろう。なるほどと思ったのは、朝日ぎらいの一因に1980年代の「ポストモダン哲学」を見ていることだ。著者によれば、この哲学は「真理などというものはなく、ただ無限の差異があるだけ」と考えるので、歴史の「再編集」、即ち歴史修正主義に結びつきやすい。「一般には左翼の思想とされるが、じつは右翼・保守派とも相性がいい」。そのポストモダンが「旧制高校的価値観」のモダニズムにとって代わった、とも言えそうだ。

 

 この本は、昨今の政治地図を描く。いくつかの図示があるが、ドナルド・トランプ大統領を押しあげた米国の状況を分析したグラフがわかりやすいので、それを引こう。そこで圧倒的な優位に立っているのが「コミュニタリアン右派」。国家主義色の強い共同体主義者のことで、「ドメスティックス」という呼び名も与えている。これを訳せば、自国第一主義者か。「米国を再び偉大に」のスローガンに共鳴する一群の人々と言ってよい。

 

 このグラフでは、残る少数派はひとくくりに「リバタニア」と呼ばれる。これは、平等志向のリベラル派、自由主義経済を重んじるリバタリアン、多元主義を掲げるコミュニタリアン左派から成る。著者によれば、3派は互いに敵対していても「自由(Liberty)という“普遍”の原理を共有している」。同様の分類法を米国以外にも適用すると、欧米と日本のリバタニア総人口は約2億3000万に達し、米国のドメスティックスを上回るという。

 

 興味深いのは、著者がこの勢力分布をもって世界の「右傾化」を否定していることだ。ドメスティックスは米国だけでなく欧州や日本にも存在するが、自国第一の主張は互いに対立するので手をつなげられない。一方、リバタニアは「国家よりも個人の自己決定権や共同体の自律性を優先する」ので連帯可能というのだ。その結果、「『リバタニア』と『ドメスティックス』の力関係はグローバルレベルでかんぜんに逆転する」。ほんとかな?

 

 この本は最後に、国内既存のリベラル派が敬遠してきた問題をとりあげる。安楽死の容認や薬物、売春の合法化……。著者はリバタニアの立場から、これらについて自己決定権に着眼する議論に踏み込まない日本社会の現実を浮かびあがらせる。朝日新聞も、従来の論調を変えようとはしてこなかった。「旧制高校的価値観」が根強かったからか。「自己決定権」に目をつぶってきたことのつけが、「朝日ぎらい」を増幅しているのかもしれない。

 

 著者が見せてくれた政治地図は、斬新と言えば斬新だ。経済格差をなくそうとする平等志向のリベラル派も、市場経済重視のリバタリアンも、「自己決定権」でしっかりつながっているという見方。資本主義対社会主義、保守対革新を超える構図がここにはある。

 

 100%の同意はしかねるが、目を見開かされることの多い本ではある。

(執筆撮影・尾関章、通算447回、2018年11月23日公開、同月24日更新)

 

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『ペンタゴン・ペーパーズ――「キャサリン・グラハム わが人生」より』

(キャサリン・グラハム著、小野善邦訳、CCCメディアハウス)

写真》プレス

 メディアの世界にいると、ほかの人なら聞き流してしまう言葉も気になることがある。その一つが「一部報道」だ。「一部報道によると……」とか、「一部報道では……」とか、そんな言い回しで口にされることが多い。「一部の報道」ときちんと言えばよいものを、なぜか「の」を抜く。「の抜き」ひとつで、どことなく冷たい空気が漂うから不思議だ。当方は報道の中身を真に受けていないぞ、という懐疑の匂いが嗅ぎとれる。

 

 「一部報道」は近年、メディアのすっぱ抜きで世間の非難を一身に浴びる人々のコメントによく見かけるようになった。だが、もともとは記者の業界用語だったような気がする。競争相手が報じたことについて記者会見で尋ねるとき、この言葉がよく用いられたものだ。

 

 記者は、抜いた抜かれたの競争に日々明け暮れている。他社に抜かれれば、その報道の真偽を情報源にあたって確かめ、本当らしいとなれば一から聞き直して後追い記事を書く。ただ、情報源がわからなかったり、わかっても接触を拒まれたりして自前の取材ができないことがある。そうなれば出稿を見送るのが原則だが、他社報道を無視してばかりはいられない。そんなときも「一部報道」の出番だ。だから、この言葉には妬みと悔しさがにじむ。

 

 僕は現役時代から、この表現を記事から追放できないか、と思ってきた。「○○新聞によれば……」と、はっきり書けばよいではないか。現に海外駐在の記者は「米紙ニューヨーク・タイムズによれば……」「英紙ガーディアンによると……」というように転電記事を書く。国内メディアについてそれをしないのは、面子が先に立つということなのか。自社の取材が難しいとき、他社の報道内容を引くことはあってよい。僕は、そう思う。

 

 こんな話題をとりあげたのも、このところ国内の疑惑報道に「○○新聞によれば……」形式が散見されるようになったからだ。もしかして、そこには「これは、どうせ○○新聞の言うことだから」という色眼鏡の心理が働いているのかもしれない。だが、それだけではあるまい。メディアが役所などの発表に出てこない事実を独自取材で掘り起こす調査報道が広まったため、競争相手がすぐに自力で追いかけられないニュースがふえたのだろう。

 

 僕が理想として思い描くメディア状況では、「○○新聞によれば……」が日常的にある。そのことによって、各紙各局は競争相手の報道を批判的に吟味しつつ、補いあって事象の全体像をあぶり出せる。巨大な権力に対抗するには、こうした連帯が欠かせない。

 

 で、今週の1冊は『ペンタゴン・ペーパーズ――「キャサリン・グラハム わが人生」より』(キャサリン・グラハム著、小野善邦訳、CCCメディアハウス)。日本で今春、『ペンタゴン・ペーパーズ――最高機密文書』(原題は“The Post”、監督スティーヴン・スピルバーグ)が公開されたが、その原作ではない。『キャサリン・グラハム わが人生』という本が別にあって、それを映画に合わせて再構成したものだ。今年4月に刊行された。

 

 『…わが人生』は、米紙ワシントン・ポスト(以下、ポスト)の社主兼経営者キャサリン(ケイ)・グラハムの自伝だ。1997年刊。大著であり、翌98年にピュリツァー賞を受けた名著でもある。本来ならこの原著をこそとりあげるべきなのだが、今回は近道を許してほしい。というのも映画『ペンタゴン・ペーパーズ』を観て、それを急いでとりあげたいと思ったからだ。映画を自伝の一部に重ねあわせながら、拙稿を書き進めようと思う。

 

 映画が焦点をあてるのは、1970年代初頭のワシントン・ポスト紙。メリル・ストリープ演じるケイ・グラハム社主の下、トム・ハンクス演じるベン・ブラッドレー編集主幹が指揮をとっている。編集局の大部屋には、まだパソコンの類いはない。机上に置かれたダイヤル式の黒電話。原稿やゲラを運ぶ気送管。僕が若いころにいた職場とそっくりではないか。彼我の違いは、米国ではタイプライターの打鍵音が鳴り響いていたことくらいだ。

 

 筋書きも記者OBの心に響く。ベトナム戦争をめぐる国防総省(ペンタゴン)の機密文書をニューヨーク・タイムズ(以下、タイムズ)が入手、特報する。ポストは抜かれた側だ。文書を手に入れるべく画策するが、追いつけるかと思ったとたん、また先行される。ようやく情報源にたどり着いて記事を大展開しようとすると、政府が文書公表の差し止めを求めて法廷で争おうとする……。ポスト幹部の深い内省と勇気ある決断が見どころだ。

 

 一方、今回の本は原著『…わが人生』の全28章から七つを切りだしている。「ベン・ブラッドレーの起用」「ベトナム戦争とポストの立場」「ペンタゴン機密文書事件」などの章題が並ぶ。この機密文書事件が起こるのは、ニクソン政権下の1971年6月のことだ。

 

 そのいきさつは、映画と本で微妙に異なる。たとえば、ケイが機密文書報道でタイムズに抜かれそうだと気づくくだり。映画の筋では、会食の席で前政権の国防長官ロバート・マクナマラから耳打ちされたことになっている。だが本によると、驚くべきことにタイムズ幹部ジェームズ・レストンの息子の結婚式で、レストン本人から直接聞いたという。たぶん、後者が本当なのだろう。タイムズには、すぐに追いつかれまいという自信があったのか。

 

 実際、ケイは文書がベトナム政策の「意志決定の過程」を記したものとは知らされるが、「一体どのような代物であるのか、見当もつかなかった」。編集陣に伝えると「彼らはすぐ、さまざまな所に連絡を取り始めた」。記者たちの胃が痛むような思いが身につまされる。

 

 本では、ベンが「スクープされたことに激怒した」とある。その様子は、映画でもトム・ハンクスが見事に再現していた。トムのベンはメリルのケイの情報を受けて、編集局にいるインターンの若者を呼びつけ、ニューヨークに行ってタイムズ社内を偵察してくるよう命じる。若者は敵陣に巧妙に紛れ込んで、紙面の割付用紙に空欄があり、特ダネ記者の名前だけが書き込まれていたことを現認してくる。この話は、さすがに本には出てこない。

 

 映画では、その業務命令に若者が「これは、合法的か」と聞きかえす。これに対するトム・ハンクスの台詞を僕は正確に聴きとれなかったが、「おれたちの仕事が何か、わかっているだろう」という趣旨のことを言い放つ。コンプライアンス(法令順守)第一の昨今の日本社会では、絶対に聞かれない言葉だ。だが、あのころのジャーナリズムには、情報をとるためなら腹をくくってなんでもやる、という向こう見ずな精神があったように思う。

 

 本は、ベンの怒った後の英断にさらっと触れている。文書の自力入手をめざす一方、「プライドを捨て、タイムズのクレジットをつけて記事を書き替えてポストに掲載し、タイムズに対抗する道も確保した」というのだ。「クレジットをつけて」とは、前述の「○○新聞によれば……」方式だろう。後段に「タイムズから再録された」記事云々のくだりもあるので、これは実行に移されたらしい。そうなら、競争紙を通信社のように使ったことになる。

 

 映画も本も、ヤマ場はポストが自前で文書を手にしてからだ。文書の束はベンの自宅へ運び込まれ、集まった記者たちが早業で原稿にする。そこにケイからのゴーサイン。情報源がタイムズと同一なので弁護士は共謀を理由に訴追されないか心配するが、それでも紙面化に踏み切る。政府がタイムズ、ポスト両紙を相手に法廷闘争に臨んだのに対し、連邦最高裁が下した判断は「報道の自由」の優先。1社でなく2社で闘った意義は大きい。

 

 小さな連帯もある。ホワイトハウスが、ニクソン大統領の娘の結婚式報道でポストに干渉したという話。辛口記者の取材を断ってきたのだ。だが、映画ではベンが、それなら他紙の力を借りればよい、と動じない。この本にも「他社の記者たちがホワイトハウスに抗議する意味を込めて」「彼らの取材ノートを渡してくれた」とある。その結果、「ワシントン中で最も豊富な情報」を集めた記事が「ポストの第一面に、署名なしで掲載された」という。

 

 メディアに競争と相互批判は欠かせない。だが大きな圧力の影が見えたら、互いに腕を組んで抵抗しないと押し潰される。今の日本のメディアは、そのことを忘れてはいないか。

(執筆撮影・尾関章、通算420回、2018年5月12日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)

写真》ネガという言葉

 今年の4月は格別の思いで過ごした。ちょうど40年前、新聞記者になった春のことが記憶に蘇ったのだ。「そう言えば……」と、あのころの仕事ぶりを思い返すと40年の時間幅に改めて気づかされる。いろんなことがすっかり変わった。その一つが写真である。

 

 日本の全国紙記者は入社後、地方支局に送り込まれることが多い。僕も、北陸地方の県庁所在地で最初の4年間を過ごした。そこで先輩から真っ先に教わったのが、写真現像の手順だ。当時の支局には必ず、暗室があった。そこには、現像液を湛えた丈の高い角型タンクが置かれている。光がほとんど絶えた闇のなかでフィルムをパトローネから引きだし、陶製のおもりをつけて沈める。それが、新人記者が身につけるスキルの第1号だった。

 

 この原体験は、記者の取材行為の原点が「目撃」にあることを物語っている。世間には、ジャーナリズムというと記事を思い、写真は記事に添えられるものととらえる向きもあるが、業界内の受けとめ方は異なる。証拠を一つ挙げれば、僕たちはいつでもカメラ必携であったことだ。取材だけではない。私事で遠出するときもそれが当然のたしなみだった。たまたま事件や事故に出くわしたなら、必ずシャッターを押せ、と教えられていた。

 

 だから僕たちは、鞄のどこかにカメラを潜ませておく、というのが習いになった。年を経るごとに小型カメラの性能が高まったのは大助かりだったが、それでも、フィルムを入れ忘れていないか、電池は足りているか、といったことをいつも気にかけていたものだ。

 

 やがて、それが大きく様変わりする。まずは1980年代、「使い捨てカメラ」とも呼ばれたレンズ付きフィルムが登場する。自分のカメラを持ってくるのを忘れても、売店でこれを買えばとりあえずジャッターを押せる。そんな安全弁を手にしたのである。

 

 2000年代に入ると、デジタル化が一気に進む。新聞社では写真部員でさえもデジタルカメラを使うのがふつうになった。書くことを主務とする記者もデジカメを持つようになったが、それだけではない。携帯電話端末の撮影機能も、とっさの出来事には対応できるようになった。さらに続いたのが、スマートフォンの出現だ。くっきりしていて紙面にも耐える写真を撮れる装置をポケットに入れて持ち歩ける時代が到来したのである。

 

 で、今週は『ちょっとピンぼけ』(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一訳、文春文庫)。著者は戦場カメラマンの草分けとして、あまりにも有名だ。1913年、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のハンガリー・ブダペストで、ユダヤ人家庭に生まれた。スペイン内乱の報道写真で名をあげ、第2次世界大戦でも戦地に赴く。54年にインドシナ戦争の休戦協定が結ばれる直前、ベトナムで地雷によって一命を落とした。

 

 原著は、大戦後まもない1947年に米国の出版社から出た。邦訳は56年、ダヴィッド社から刊行される。79年に文春文庫の1冊となった。この本の魅力は、なんと言ってもその題名だろう。邦題は、原題の“SLIGHTLY OUT OF FOCUS”をそのまま訳している。

 

 ということで、まずは書名の由来と思われる記述に触れておこう。第2次大戦中のことだ。イタリア・シチリア島攻略の米落下傘部隊輸送機に同乗取材後、飛行場のテントに設けられた暗室で現像して米軍情報班の将校とともにジープに乗り込む。その車内で焼いたばかりの写真を見返したときの感想。「それらは、ちょっとピンぼけで、ちょっと露出不足で、構図は何といっても芸術作品とは言えない代物であった」(「ちょっとピンぼけ」に傍点)

 

 そうなのだ、報道写真は腕の確かな写真記者が撮ってもぶれることがある。いや、腕は確かであってもぶれるということが、ニュースの一部なのだろう。輸送機内はこうだった。「降下用意」の緑灯が灯る。「兵隊達はみんな立ち上って、彼らのパラシュートの留紐を真直にのばした。私は自分のカメラを用意した。次に赤い灯……降下の合図である」。こんなドタバタのなかで、これはという一瞬を切りとるのだ。ぶれていてこそ戦争の真実が伝わる。

 

 当たり前かもしれないが、戦場では腹ばいでいることが多いんだな、とも痛感した。たとえば、シチリア島攻略後のイタリア本土戦線。「私はぴったりと地面に腹をつけ、頭を大きな石の蔭によせ、両よこばらは私の両側の二人の兵隊に掩護される。砲弾の炸裂のたびに私は頭をもたげて、私の前方のぺちゃんこにされた兵隊と、爆発の淡く、立上る煙を写真にうつす」。手ぶれどころの騒ぎではない。ピントを合わせるのは至難だっただろう。

 

 この本最大の読みどころは、1944年6月6日(Dデイ)にフランス北部で展開された連合国軍のノルマンディー上陸作戦だ。このときも著者は、海岸に這いつくばっていた。砲弾の破片が降り注ぐなか、ひたすらシャッターを押しまくる。撮りきっても「濡れて、ふるえている手」ではフィルムを交換できない。「予期しない、新たな恐怖が頭のてっぺんから、足のつま先まで私をゆすぶって、顔がゆがんでゆくのが自分にも感じられた」

 

 著者は、このあと味方の装甲艇が近づいてくるのを見て海へ引き返す。「私は戦場から自分が逃げ去ろうとしてることに気がついた」「“俺は船へ手を乾かしにゆこうと思ってるだけなんだ”と自分にいいきかせた」。危険は見届けなくてはならない。だが、見届ければ自らが危険になる。記者の葛藤だ。さてここで気になるのは、彼にとって生命の次に大切なもののこと。「濡れないようにと、頭上高くカメラをさし上げていた」とある。さすがだ。

 

 この章には、「そのときキャパの手はふるえていた」というキャプションが付いた写真が載っている。波のまにまに兵士らしき人影が見え、後方に上陸用舟艇と思しき船が写っている。たしかにぼんやりとしていて、きっと震えのせいだろうと感じさせる。だが後段に、フィルムがロンドン事務所に届けられてからの暗室作業で助手が「昂奮のあまり」温度管理を誤ったためとある。その「昂奮」も含めてDデイの真実だったのだ、と僕は思う。

 

 書名には、たぶんもう一つの妙がある。戦場記者には強面の印象がつきまとうが、この本で綴られているのはユーモアたっぷりの自画像だ。取材の合間に恋を成就しようとする。クビを通告されても仕事を続ける。どこでもすぐに友だちをつくる。「ちょっとピンぼけ」の語感はそんな人間性と響きあう。もっとも人間らしい人間が非人間的な現実を生け捕る。彼の写真から戦争の愚を感じとれるのは、そんな構図があるからかもしれない。

 

 人間らしい人間は彼の周りにもいた。著者が1942年、ニューヨークで失業生活を送っていると、週刊誌の編集部から特派員として英国へ渡ってほしい、と注文がくる。ただ旅券がないし、ハンガリー出身で「敵国人扱い」されているので米国政府の出入国許可も要る。ここで、在米英国大使館に元地質学者の一風変わった情報官がいたことが幸いする。ワインを酌み交わすうちに意気投合して、英総領事や米国務省を動かしてくれた。

 

 英国内の米軍基地で離陸直前の中尉を撮ったときは、写真に写った爆撃機の「鼻先にある小さい黒い点」が問題となった。それが、「最大の機密」とも言える爆撃照準器だったのである。著者は軍法会議の予備訊問に呼ばれるが、その中尉は動じることなく、撮影者には照準器と軍用食の空き缶の違いもわからなかっただろう、という趣旨の証言をした。「不可抗力」だったと弁護してくれたわけだ。寛容な機知が通用する時代だった。

 

 その基地から24機が出撃して、17機しか戻らなかった日のこと。損傷機から負傷した乗組員が運びだされる。息絶えているような人もいる。操縦士には額に傷があった。近づいてレンズを向けたとたん、「どんな気で写真がとれるんだ!」となじられる。このあと「自分を嫌悪し、この職業を憎んだ」とある。と同時に「死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴える」とも書く。きわめて今日的なジャーナリストの苦悩である。

 

 報道写真家が今も戦場に出向くのは、同じ信念からだろう。ただ、ふと思うのは核戦争の脅威だ。そこでは「死んだり、傷ついたりした場面」を撮る時間すら与えられないまま、世界が廃墟となる。ジャーナリズムは、それが起こる前に真実を伝えなければならない。

(執筆撮影・尾関章、通算368回)

 

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『ジャーナリズムに生きて――ジグザグの自分史85年』(原寿雄著、岩波現代文庫)

写真》肩書どうする?(名刺を拡大コピー)

 この夏、僕の胸中にしばしば去来した言葉は「ジャーナリスト」だった。ひとり風呂に浸かって、あれこれ思いをめぐらせていたときがそうだ。友人知人と歓談していたときもそうだ。考えごとのタネとして、あるいは世間話の話題として、真っ先に思い浮かぶのはこの職種のことだった。自身も看板に掲げてきたのだから、もちろん他人事ではない。だが今、このカタカナ語7文字と向きあうとき、愛着や郷愁よりも、どこか突き放した感じがある。

 

 一つには、東京都知事選に大物ジャーナリストが出馬したときの違和感だ。いくつもの政党がそこに結集したのだから、政界の常識では勝算があったのだろう。だが、どうかな、と僕は思った。結果は報道の通りだ。ジャーナリストに、もはや吸引力はない。

 

 思いだすのは、TBSの元キャスター田英夫が1971年、参議院選全国区に出馬したときのことだ。謳い文句は「ジャーナリストとして政治に参加します」「We Want Den」だった。そして、堂々のトップ当選。有権者はジャーナリストを欲した、ということだろう。田さんはキャスター時代、ベトナム戦争を北側から取材して政権与党から嫌われた気骨の人。今と違うのは、その権力批判の姿勢を人々が応援したということである。

 

 もう一つ、今夏にNHKが放映した「NHKスペシャル〈未解決事件〉ロッキード事件」(7月23日から2夜連続)も印象に残る。圧巻は、ドラマ部分で松重豊演じる検事が記者の一人を部屋に引き込んで襟首をつかむ場面。元首相の強制捜査に踏み切る前、「世の中はどう思っている?」と問いただしたのである。ジャーナリストの背後に世論をみていた。ドラマだから脚色もあろう。だがあのころなら、そんなことがあっても不思議でなかった。

 

 今、ジャーナリストが一目置かれなくなったことは実感している。いや、それどころではない。当欄定番の話題である2時間ミステリーをもちだせば、このところ、胡散臭い役柄の代表格は「元新聞記者のフリージャーナリスト」だ。たいていは、ゆすり行為がたたって殺されてしまう。敏腕記者が悪をあばくというのは今は昔。僕は名刺に「科学ジャーナリスト」と書いているが、最近はそれを初対面の人に差しだすのがためらわれるようになった。

 

 ジャーナリストが世論を代弁して、権力と対峙するという模式図が通用しなくなったのだ。そもそも、世論が一つにまとまりにくい。それなのに大手メディアは、ばらばらの主張の当たり障りのない平均値を求めて、そこに世論の幻影を見ようとしている。こんなことをしていては、この職種の存続はありえない。ジャーナリスト全盛期を振り返って今の目で再吟味することが、ジャーナリズムを組み立て直す第一歩となるのではないか。

 

 で、今週は『ジャーナリズムに生きて――ジグザグの自分史85年』(原寿雄著、岩波現代文庫)。著者は1925年生まれ。戦後、共同通信社に入り、社会部記者、編集局長、編集主幹などを務めた。つい先日101歳で逝ったジャーナリスト、むのたけじさんのように戦前の記者体験はないが、終戦まもない日本社会のジャーナリズムを体感した証言者ではある。この本は、奇しくも東日本大震災直前の2011年2月に書き下ろされている。

 

 副題に自分史とあるように、少年期を起点に話を始めている。実家は、神奈川県平塚郊外の小作農。小学生のころは「教科書以外の本や雑誌類を買ってもらった記憶はない」。手本は同郷の先達二宮尊徳で、農学校に進むと「登下校時に歩きながら本を読む習慣もついた」。太平洋戦争の開戦後、「総動員体制の労働力補充」で卒業が早まり、国鉄に就職して品川駅の改札掛となった。これだけならば、戦前世代の成功者からよく聞く苦学談である。

 

 だが、この本が秀でたところは、嫌な話も包み隠さず打ち明けていることだ。たとえば、戦争末期に入った海軍経理学校の体罰について。鉄拳を上級生らから受けた回数は、在籍11カ月で「同期最多のおよそ二千発」とある。それだけではない。自分自身も、同期の一人が夕食のご飯の量をめぐってずるい行為に及んだのに気づいて「呼び出し殴りつけた」。場所は校舎屋上。相手が飛び降り自殺を口にしたので、あわてて思いとどまらせたという。

 

 自身の行為も、それに対する過剰な反応も「食べ物のこと」に起因していた。著者は、その顛末を思い返して「みじめさ、恐ろしさを考えさせられた」と告白する。暴力が日常茶飯のことであり、生死の境も間近にあった。そういう思いだしたくもないはずの体験談を織り込むことで、当時の世間標準がどんなだったかが示される。そのことで読み手は、今昔のものさしの違いを認識して過去に向きあえる。これは大事なことだと思う。

 

 ジャーナリストとなってからの章でも、メディアの裏面史が赤裸々に明かされている。自ら目撃したこともあるが、伝え聞いた旧悪もある。後者は裏がとれない面があるので、本来は軽々に語るべきではない。だがそれを開示することで、昔のものさしが浮かびあがる。

 

 一例は、著者が「入社後先輩から聞いた話」。1951年、サンフランシスコ講和条約が調印されたときのことだ。現地入りした先輩記者の一人は「本社から現地の歓迎ムードを書けと言われて何の動きもないのに困り、大きな日の丸の旗を注文して休日のオペラハウスの前に飾った」という。やらせの極致、今なら完全にアウトだ。ことの真偽はもう確かめようがない。ただ、この話がさほどの屈託なく語られていたらしいことには注目したい。

 

 そう言えば、ということで思いだすのだが、僕くらいの世代の記者経験者は、若いころに先輩から、今ならアウトの話を聞く機会が少なからずあった。それらは、多かれ少なかれ武勇伝の色を帯びていたように思う。確証がないので記して事実化することはためらわれる。だが、なかったことにしてよいわけではない。ジャーナリズムに対する行動基準のものさしが緩い時代があったことは記憶にとどめるべきだ。この本はその助けとなる。

 

 この本には、正真正銘の武勇伝が出てくる。1952年に大分県菅生村(当時)であった駐在所爆破の真相に迫る調査報道だ。菅生事件という。一審で共産党員5人が有罪となるが、二審が始まってから警察官の関与が疑われる。その人物は事件後、雲隠れしていた。共同通信社会部は「特捜班」をつくって警官の行方を追い、57年に東京で隠れ家を突きとめて独占会見を成功させる。著者は班立ちあげの提案者であり、自身もその一員となった。

 

 ただこの快挙は、会見記事の中身で価値が半減する。警官が自ら名乗りでて爆破を否認したという内容。逃避行には当局の影が見えたが、「警察組織に匿われていたことにも触れていない」。上層部が手を入れたという。上司の一人が、「不法監禁」などを理由とする記者逮捕を恐れて警察幹部に相談、「落とし所」を見いだしたらしい。「記事の書き方で、そこまで事実から離れることを承諾したのは、どう考えても弱腰すぎる」と、著者は批判する。

 

 ともあれ、この報道で裁判の流れは変わり、二審で5被告に無罪判決が出た。自作自演の疑いが濃い事件だったのだ。当時は権力対民衆の構図がはっきりしていて、双方はあからさまに角突きあわせていた。こうしたなかでジャーナリストは、あくまで民衆側に立とうとした。そのために警察を向こうに回して、警官の身柄を自力で確保するという危ない橋も渡った。その大胆さは、記者活動に対するものさしの緩さに支えられた面もあっただろう。

 

 この本は、事件当時、世の中に暴力革命に対する警戒感があったことにも触れている。世論の視点は当初、それを取り締まる警察の側にあったが、その行き過ぎを記者たちがあばいたことで逆に振れたようだ。ここに、ジャーナリズムと世論の共鳴がある。著者は「世論を無視してジャーナリズムは成り立たない。世論に埋没してはジャーナリズムにならない」と総括する。ただ、この含蓄に満ちた教訓も、世論の担い手である民衆の存在が前提となる。

 

 今、民衆という概念は消え去ったかのように見える。生命倫理、プライバシーといった今日的な問題は個人個人の利害を錯綜させ、単一の世論ではなく多様な個論を生みだしている。その一方で、世論もどきの風評や袋叩きだけはある。ジャーナリストは、そんな言論の混迷を交通整理して、実りある論争を引きだすことが仕事なのかもしれない。民衆の先頭に立とうなどとは、ゆめゆめ考えないほうがよい。雑踏のなかにいれば、それでいい。

(執筆撮影・尾関章、通算331回)

 

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