『マジ文章書けないんだけど――朝日新聞ベテラン校閲記者が教える一生モノの文章術』(前田安正著、大和書房)

写真》直しが入る

 新聞社に長く勤めていたので、社内部署間の軋轢は退職後の今も皮膚感覚として残る。僕のように出稿部門にいた者にとって、原稿をチェックする部門はうるさい存在だった。

 

 取材記者が書いた原稿は、まず所属部の出稿責任者(デスク)が目を通す。「わかりにくい」「焦点がぼやけている」などと手が入り、ときには全面書き直しを命ぜられる。出稿後も、紙面制作を担う整理部門や編集幹部から注文がつくことが多い。そしてもう一つ待ち受けているのが、校閲部門の点検だ。固有名詞や数字の誤りなど致命的な欠陥を見つけてもらって救われることは少なくないが、反論したくなる指摘が届くこともある。

 

 校閲部門は、新聞社が定めた用語規則の守り手だ。往々にして、そのことが出稿部門との間で摩擦を引き起こす。僕自身にも、こんなことがあった。ある原稿で哲学者モーリス・メルロ=ポンティに言及したとき、外国人名の「=」は省く、という原則から「メルロポンティ」とされてしまった。これには承服しがたかったが、結局は従った。もちろん、僕の不満は規則そのものに向けられていたわけで、校閲担当者個人にはなんのうらみもない。

 

 原語はMerleau-Pontyなので、「=」が絶対ではない。ただの約束事だ。それでも「=」にこだわったのは、メルロ=ポンティの邦訳書がほとんどすべて「=」表記だからだ。キーワード検索が日常の時代、わざわざ世間の慣習に逆らい、混乱を招く必要はあるまい、と思われた。実際、社外筆者の記事では「=」を認めているのだ。社内筆者が社の用語法を重んじるのは当然としても、ときには柔らかな運用があってよいのではないか――。

 

 とはいえ退職した今、校閲部門のみなさんには感謝の気持ちしかない。他人が書いた原稿をなんども読み返し、危うい箇所があれば目ざとく見つけだすのだから、それだけでもありがたい。規則を盾に文言の手直しを求めてくるのは職務の行使であって、実際は筆者の思いがわかっていることもあったのだろう――。そんな反省を強めてくれる本に最近出あった。校閲人の柔軟思考が見てとれる1冊。ベストセラーと呼べるほどの売れ行きだ。

 

 『マジ文章書けないんだけど――朝日新聞ベテラン校閲記者が教える一生モノの文章術』(前田安正著、大和書房)。広告で副題が目にとまり、著者名を見てピンときた。同じ会社にいたあの人ではないか。先方は当方のことなどご存じないだろうが、当方は存じあげている。書名から察するに、さばけた筆致の本らしい。文章に厳格なはずの人がさばけて語る文章論とはどんなものか? そんな好奇心から、今週はこの本をとりあげる。

 

 著者は朝日新聞社で校閲部門の要職を次々にこなし、その一方で自身も連載を執筆してきた。おもに言葉や文章について語るコラムである。校閲業務に、ただ用語の守護者として臨むだけでなく、攻めの姿勢で向きあってきた人ということになろう。あとがきによると、本業のかたわら事業構想大学院大学でも学んでいたらしい。そのときに出会った仲間たちと「何か面白いことをやりたい」と盛りあがって生まれたのが、この本だという。

 

 本の主人公は、商社員の「浅嶋すず」。大学生のころ、アルバイト先の喫茶店の常連「謎のおじさん」に文章のいろはを教わったことを振り返るという筋立てだ。まったり系キャラ二人のイラストを配するデザインは、仲間の一人、浅川浩樹さんが担当したという。

 

 書名の「マジ文章書けないんだけど」は、すずが就職活動に入ったころの思いだ。喫茶店で就活本を開いたとき、「わあ、就活ってまずエントリーシート(ES)を書かないと始まらないんだ」と気づく。その様子をみて「ふーん、就活なんだ。どこ受けるの?」と声をかけてきたのが、謎のおじさんだった。元サラリーマンだが、今はベンチャー企業相手の投資家だという。「あの、よかったら私に投資してくれませんか?」と、すずは頼み込む。 

 

 こうしておじさんは師匠となり、すずに文章術を指南する。第1段階は、文の主語と述語に焦点を当てた基礎講座だ。ここで、すぐにも役立ちそうな話は「が」と「は」の違い。例文として、「綾瀬はるか、月9の主役に選ばれた」と「綾瀬はるか、月9の主役に選ばれた」が比べられる。前者は「次の月9の主役は誰だっけ」という問いに、後者は「綾瀬はるかは何のドラマの主役に選ばれたのか」という問いにそれぞれ対応するという。

 

 この対比をめぐっては、問う側の視点で見たときに今まで知らなかった情報がどこに置かれるか、という分析もある。前者では「未知情報+が」となるのに対して、後者では「は+未知情報」の順になる。僕たちは無意識に、こんな高等な判別をして助詞を選んでいることになる。日本語は英語ほどに論理的でないと言われがちだが、どうしてどうして理屈はしっかり組み込まれている。おじさん即ち著者は、その一点をきちんと押さえている。

 

 第2段階には、僕が当欄の執筆でいつも苦心していることが満載だ。「しつこいと嫌われる――同じ表現を繰り返さない」と題された章をみてみよう。例文は「彼女の瞳は……愛くるしい」の後に「私も彼女のような瞳の持ち主だったら、と少しうらやましく思う」と続くが、改善例では「私もそんな魅力的な瞳の持ち主だったら……」に直される。「そんな」のような「こそあど言葉」を巧みに用いることで「彼女」の乱発を防いでいるわけだ。

 

 「生きた化石は生きている――過去形と現在形の関係」という章では、ショッピング小旅行の例文が「……軽井沢に出かけた。……お買い得の洋服がないか探した。……歩いているだけでも楽しかった」から「……出かけた。……探す。……楽しい」に直される。

 

 おじさんによれば、元の文は「過去形だけを使って書くとどうなるかっていう文章の例」だ。文法を逸脱してはいないが、「文章の幼さ」感は拭えないという。だから、「た」「た」「た」は避けたい。「だ」「だ」「だ」も「る」「る」「る」も同様だ。これは著述に携わる者にとって、日本文の美学にかかわるたしなみと言ってよい。ただ、ここでおじさんがすごいのは、「た」の連発回避について美学以外の効能も認め、理路整然と説いていることだ。

 

 それによれば、過去形は「映画をスクリーンに映してそれを見ている感じ」だが、現在形に改めると「主人公に乗り移って一緒に動いている」感覚がもたらされる。すずも、現在形の「ライブ感」や「いきいき感」に納得だ。これは、日本語の時制が緩いからこそできる修辞法だろう。そういえば、「た」も過去形専用ではない。古代魚シーラカンスは厳密には「生きている化石」(living fossil)だが、「生きた化石」と呼ぶではないかというのだ。

 

 「視点をずらすと世界が変わる――能動態と受動態を使いこなす」という章からは、著者の新聞人としての視点が見てとれる。例文「自然災害が続いたのを機に、災害予知の必要性が求められている」を能動態にしたらどうなるかという問いに、すずは「……国民は災害予知の必要性を求めている」と答える。おじさんは、受動態で隠れた主体は「国民」あるいは「私」と読みとれるとして、その答えを正解とする。だが、話はそこで終わらない。

 

 おじさん即ち著者は、受動態の「主体が明確に示されていない」表現に「客観的」という長所をみてとる。これは、世間の反応とはやや異なる。新聞が「……とみられる」を多用すると、「私」が求めているならはっきりそう書け、と批判されることがあるからだ。

 

 この箇所で、著者は取材記者の心をわかってくれているな、と僕は感じる。記者の多くは、記事に「私」の意見を書こうなどとは思っていない。そもそも、そんな資格はないのだ。報道の使命は、人々の考えや思い、望みを測りながら、それを文字化することにある(ときに測りそこねることもあるが)。だから、かんたんに「私」とは書けない。ついでに言えば人々は少数派のこともあるから、すずのように「国民」とも言い切れまい。

 

 この本は、エントリーシートの書き方教室という側面があるから、後段では自分をどう巧妙に売り込むかの実践論に力点が移る。だが前段には、新聞社という職場で日々文章に向きあってきた人が見つけた日本語の極意がちりばめられている。そこも読みどころだ。

(執筆撮影・尾関章、通算444回、2018年11月2日公開)

 

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『言葉尻とらえ隊』(能町みね子著、文春文庫)

写真》辞書のあかさたな……

 気になる言葉というものがある。お役人の「……してございます」については、去年すでに書いた。謙譲表現ならば「……しております」で済むところを「……してございます」と言う。霞が関流の慇懃無礼。政策立案能力に長けたエリート官僚が、権力を握る政治家を懐柔するために身につけた低姿勢か。この語法から、日本の政治構造が透けて見えるように僕は感じた(当欄2017年4月7日付「役人コトバを嫌って、佐高本に酔う」)。

 

 この「ございます」用法については、朝日新聞「天声人語」も「ムズムズした感覚が背中を走る」と書いていた(2017年6月21日朝刊)。拙稿が天声人語に先行したことにドヤ顔になっていたら、今回、もっと早いものを見つけた。同紙同年3月23日朝刊「朝日川柳」欄に載った「やましさもともに廃棄してございます」(東京都・大和田淳雄)だ。官僚の国会答弁を聞いてムズ痒くなり、皮肉の一つも言いたくなる人は多かったわけだ。

 

 ほかに気になるフレーズは、「重く受けとめる」「真摯に受けとめる」。こちらは、危機管理用語としてすっかり定着した。企業の不祥事が発覚したとしよう。どうみても責めを負わなければならない、というときにはトップが記者会見して頭を下げ、謝罪する。ただ、ものごとには灰色領域がある。その会社に法的な責任はないと思われるが、無関係と突っ張れば世間から不誠実となじられかねない――そんな局面の定石となっている。

 

 考えてみれば、世間は灰色に満ちている。だから、渦中の人はメディアに対してとりあえず「受けとめる」と言っておくのが無難なのだが、一方で、そのコメントに本気度をにじませなくてはならない。そこで苦しまぎれにひねり出されたのが「重く」「真摯に」だ。ただ、これらの副詞を補っても「では、受けとめたあと、どんな手を打つの?」と問い返されるおそれはある。相手が納得しそうな答えの用意なしに安易に口にすべきではない。

 

 「してございます」には過剰なへりくだり感がある。「重く、真摯に受けとめる」だけでは誠意の半端さが却って目立つ。高級官僚や企業幹部はそのことに気づいているだろうに、なぜか一つ覚えのように乱用する。そんな言葉の定番化も僕には気になる。

 

 で今週は、気になる表現を俎上にあげ、世相の断面を切りだした一冊。『言葉尻とらえ隊』(能町みね子著、文春文庫)。『週刊文春』誌に2011〜14年に連載された同名のコラムをもとに14年に文庫本として出版された。著者は1979年生まれ。ブログの自己紹介欄やこの本の記述には「自称漫画家」とある。ただそれだけではなく、エッセイを書いてラジオ・テレビにも出ているというからマルチタレントと呼んでよいだろう。

 

 「はじめに」のページに「私の情報源はほとんどインターネット」「新聞も取っていなけりゃ本もロクに読まない」とある。驚くのは「テレビも見ない」のひとこと。出演者になっても視聴者にはならない、ということだろうか。この結果、「取りあげるものが若干ネット発の情報に偏っていることは否めません」。そうか、言葉のしっぽを追いまわす習癖がある点で著者と僕は同志だが、標的の生息領域はほとんど重ならないということだ。

 

 それを思い知らされるのは最初の一編。「『仲良し』とは、セックスのことです」の一文で始まる。用例として挙げられているのは「昨日ダーリンと仲良ししたよ」。著者は「婉曲表現は日本語の美学」「遠回しに表現したいのは理解できる」としつつ、「しかし、よりによって『仲良し』とは何ですか」と叱る。性行為は子どもの砂場遊びではないとして「セックスをタブー視して隠蔽するのはもうたくさん」と憤るのだ。まったく、同感である。

 

 私見を書き添えれば、この用法は言葉狩りの一種ではないか。「仲良し」は、ほどほどの友愛、すなわち無関心ではないが干渉もしない適度なつきあいにこそふさわしい言葉だ。それがセックスを連想させるということで使えなくなるのなら、大変に困る。

 

 「オシャンティー」も馴染みがなかった。「おしゃれ」とほとんど同じ意味で、2011年に「爆発的に広まった」。この新語を紹介した一編では言葉の移ろいが論じられ、新旧交代の例に挙がるのは「顔の良い男」の呼ばれ方。「色男」「二枚目」「ハンサム」は影を潜め、「イケメン」に行き着いた。これに比べて「おしゃれ」は息長いが、それに挑んだのが、この言い換えだという。「数年後には廃れてそうだけどね!」。ホントにそうなった。

 

 言葉尻のとらえ方として秀逸なのは「ハイ。」。これには、辞書形式の読み解きがある。「【ハイ。】終助詞。インタビューされたスポーツ選手が、話した内容について一度ふりかえって納得したうえで、『ここで一区切りなので、次はインタビュアーさんが話してください』という意思を示す」。しゃべりが本業でない選手にとっては「ちょうど良い答えが返せなかったり、始めた話の切り上げ方が分からなかったりする」ときの安全網というわけだ。

 

 同様に切り抜け策として発せられる言葉に「と、いうワケで」がある。この本によると、ネットに投稿される「一人しゃべり動画」によく出てくるらしい。「それは××だろ! とか言ってね……。と、いうワケでですね、バカなことしゃべってますけども……」のように使われる。「オチを言ったつもり」なのに「着地点がふわふわ」。そんな瞬間に差し挟まれる「無意味な言葉」だという。昔の深夜ラジオにあった口調が広まったのだろうか。

 

 これは若い世代の沈黙恐怖の表れかな、とも僕は思う。居酒屋の歓談が途切れそうになると、だれかがツッコミを入れて盛りあげる(当欄2016年3月25日付「綿矢『蹴りたい』の自律的な孤独」)。あれと同じように、「ハイ。」「と、いうワケで」でつないでいく。

 

 この本は、へんな新語にも目を向ける。2012年ごろ、よく耳にした「美しすぎる市議」という言葉。「美人○○」の形容は昔からあり、「美人議員」でもよいはずだが、なぜ最近は「美しすぎる」なのか。著者によれば、メディアは受け手の関心を引くため、「美人」の基準を「やや低め」にとるので、それが量産され「陳腐化」してしまったのだという。紙誌やテレビは言葉のインフレーションを起こしてその価値を低めているということだろう。

 

 アイドルの「すっぴん披露」は、語義矛盾が批判される。「すっぴん」は特別なものではない。就寝時の寝室にも真夜中のコンビニにも、化粧を落とした女性はいる。「これを『披露』とするからには、それに価値があり、披露する側に自主性がなければいけない」。すなわち、当事者は「いちばん美しくみせよう」と思うはずなので「飾らない素の姿」とは言い難い。「だから、すっぴんは『流出』がいいんじゃないかな」。ごもっとも。

 

 僕が感心したのは、ある芸能人が記者会見で自分の母を語るのに「母親」を連発していたことにこだわった一編。本人も「母」が正しいと知っていただろうと推察しつつ、「あえて『母親』と言いたくなる気持ちは分かる」と擁護する。「母」は「優等生的」、「お母さん」は「幼稚」、そして「お袋」は「硬派すぎて恥ずかしい」。バランスがよくて「適度なぶっきらぼうさ」があるのが「母親」というわけだ。いまどきの心模様に迫る読み解きだ。

 

 役所の広報文も心理分析される。広島県の人造湖が2012年に「栗(マロン)湖」と名づけられたとき、命名にあたった県の検討委員会は「これからの若い世代にも受け入れられやすい」を理由の一つに挙げた。決めた人は「50代以上」というのが著者の見立て。同年代シニア層から不評を買うことを恐れて「若い子のセンスに合わせなきゃ」と開き直った、と勘ぐる。結果は、若者が多いはずのツイッターでも冷淡な反応が多かったらしいが。

 

 STAP細胞を話題にした一編も痛烈だ。執筆時、研究に対する懐疑論はまだ強まっていなかったが、著者はメディアの報道姿勢を批判する。大手紙が「割烹着」や「理系女子」「リケジョ」で盛りあげたのは、科学の話は「ぶっちゃければみんなあまり興味がない」とにらんで「偉業に対する読者の畏れを打ち消して柔らかくしてやろうとした結果」とみる。著者曰く、「そういうのは週刊文春とかの役目でしょ。新聞は硬くていい」。

 

 しっぽを捕まえた言葉は裏側まで読み尽そう。きっと時代の深層心理が見えてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算405回)

 

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『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著、岩波新書)

写真》aの思考、theの心理

 20年あまり前、英国ロンドンに駐在していたころのことだ。新聞記者という仕事柄、欧州の大陸側へ渡る機会は多かった。そんな出張をしていて僕がいつも感じたのは、ある種の解放感だ。何から解き放たれたのか。それは、英語という言語の重圧である。

 

 もちろん僕が、フランス語ならペラペラ、ドイツ語もなんとかなる、ということではまったくない。手持ちの欧州語は英語だけ。幸いにも僕は科学担当であり、取材先は英語を国際語として用いる人が多かったので、職務はそれで事足りた。それ以外も、ホテルやレストランやタクシーなら、たいていは英会話が通用する。ということで、大陸欧州にいても英語は命綱であり、離れられなかった。ではなぜ、解放されたと感じたのか。

 

 こういうことだ。英国や隣国アイルランドに住む人の多くは、英語を母語や日常語として使っている。だが大陸側の国々では、それは外国語にほかならない。だから、僕が出張中に英語で会話するときは、下手でも構わないという安心感があって肩の力が抜けたのだ。さらに自分や相手が言い間違えや聞き違えをするたびに、お互い外国語には苦労するね、という同情が芽生えてくることもあった。それは、連帯感に似た気持ちだったと言ってよい。

 

 大陸欧州の英語事情を僕の印象をもとに素描してみると、こうなる。オランダの人々は、ほとんど母語のようにしゃべる。北欧諸国の人々も、日常のやりとりに不自由しないほど堪能だ。ドイツでも、まあまあ通じる。フランスは自国語の壁が高くて、一部の人しか使ってくれない。イタリアでは陽気にヤアヤア言いあっているうちに思いが通じてしまう……。ただ、それぞれ濃淡はあるにしても、英語が外国語であることには相違ない。

 

 北欧の科学者と雑談していたとき、その人が漏らしたひと言は忘れられない。「僕らも学会では苦労する。言いたいことを言えないうちに英語圏の人に言い負かされてしまう」。科学界という英語が共通語の世界にも、英語を母語としないことの不利はある。

 

 ただ、それでも僕が思うのは、大陸欧州の人々は日本人ほどには英語で苦労していないだろう、ということだ。なによりも、彼らの母語は英語との共通点が少なくない。大半の欧州語には冠詞があり、定冠詞と不定冠詞に分かれているものが多い。さらに名詞に単複の区別があるのもふつう。ところが、日本語にはどちらもない。僕たちが英語を書くときの悩みは、この感覚の欠如に起因する。aとするかtheとするか、単数か複数か、それが難題だ。

 

 で、今週の1冊は『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著、岩波新書)。初版が1988年に出たロングセラー。僕は、2014年の第76刷を中古本ショップで手に入れた。内容は、『科学』誌(岩波書店)の連載をもとにしている。著者は、米国ウィスコンシン州出身。現代日本文学を学んで来日、日本の大学の教授となった人だ。東京工業大学にいたことがあり、日本人科学者が英語で論文を書く苦労を間近に見ていたらしい。

 

 科学者はどんな論文を書いたかで評価が定まる。このとき研究の中身ではなく、言語の拙さで損をするのだとしたら不条理なことだ。日本人研究者の場合、その思いはa、the、単複などの悩みがある分、欧州人よりも強い。だから、科学誌から声が掛かったのだろう。

 

 とりわけ迷うのが、theをつけるかどうかの判断だ。この本ではカバーの袖に「『冷凍庫に入れる』はput it in the freezerなのに、『電子レンジに入れる』だとput it in my microwave ovenとなる。どういう論理や感覚がこの英語表現を支えているのか」とある。ええ? この使い分けにまず驚く。と同時に、知りたいのはこれなんだよ、と内心で喝采する。正解を、丸暗記ではなく「論理や感覚」を通じて習得したいのである。

 

 さっそく本文に入って、その答えを探してみよう。冷凍庫にtheがふさわしいのは「どの家庭にでもあるというふうに意識される」からであり、電子レンジにtheが合わないのは、そういう意識が「近い将来にできるかもしれないが、今はまだない」からだ、という。2017年の今ならば電子レンジは予想通りに普及しているから、もうtheでよいかもしれない。これで、冠詞には人の心のありようが映されているということがよくわかった。

 

 言及が遅れたが、この本は著者自身が日本語で執筆している。「私の書く日本語は、日本語らしくないところも多く、日本人が書いた文章と間違えられることはないであろう」と謙遜するが、まどろっこしさをやや感じるくらいで、正確さは完璧だ。一つ言えるのは、これは著者自身が母語でない言語で書いているという事実が、書かれている中身の説得力を高めていることだ。aかtheかで悩むのと同じ難しさは、日本語にもあるはずだ。

 

 冠詞を扱った章には、こんな例文がある。“Once upon a time, there were an old man and an old woman. The old man……” 和訳はもちろん、「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんいました。おじいさん……」。ここでは、a(an)は「が」に、theは「は」にきれいに対応している。僕たちは、ほとんど気づかぬままに「が」と「は」を使い分けているのだ。英語圏の人々がaかtheかを適切に選ぶのは神業ではない。

 

 僕たちは、aをつけるか、なにもつけないか、という迷い方をすることもある。この本では、日本人が書いたとされる“Last night, I ate a chicken in the backyard.”という一文が俎上に載せられる。バーベキューでもしたのだろうが、「昨夜、鶏を1羽[捕まえて、そのまま]裏庭で食べ[てしまっ]た」ととられる、という。aには「共通単位性をもつもののグループから、一つの」といった積極的な意味があることを見落とした失敗だ。

 

 この本は、そういう失敗をしないための心得を伝授する。それは「a chickenは、chickenとは異なる独自の意味をもっている」とわきまえることだという。“a chicken”をchickenに「aという『飾り』がついている」とみてはならない。aは脇役ではないのである。

 

 著者は、このことを思考過程に沿って説明する。英語圏の人が食べもののことを言うとき、まずそれがaという不定冠詞にふさわしいものかどうか、すなわち「単位性をもつ」かどうかを決定して、そのあとに具体物の単語を探しだし、“a sandwich”といった言葉を発する、という。英語では語順の通り、「aの有無」が名詞に先立って「意味的カテゴリーを決める」。僕たちは、この過程なしに思考するから冠詞問題を苦手とするのだろう。

 

 単複のことで言えば、僕たちがもっとも困惑するのは純粋不可算名詞の存在だ。よく戸惑うのはequipment。僕たちは「装置」という訳語から、1台2台と数えられそうに思ってしまうが、それは違う。一方、machine(機械)は可算だが、その不可算形machineryは「全部で何台かがはっきりと意識されないくらい複雑な装置」を指すときに使う、とある。equipmentやmachineryの陰には、台数を意識しない状態把握が隠れているらしい。

 

 この本は、前置詞や時制、関係代名詞といった難物にどう対処すべきかについても教えてくれる。一貫しているのは、丸暗記はやめよう、という姿勢だ。“in the evening”“on the evening of July 15”の用法も、前者では「時間」、後者では「時点」の意識がそれぞれ強く出ていて、inとonの「使い分け」の「論理だけはきちんと守られている」とみる。このことを「すばらしいと思う」と書いているから、英語圏人としての誇りなのだろう。

 

 ただ、僕には反論もある。たとえば、英語は時制の一致に厳格だが、この本の例文にもあるように未来形や未来完了の文に“after〜”(〜の後)や“by the time〜”(〜まで)の従属節がつくとき、その動詞は現在形のことが多い。これは論理の綻びではないか。

 

 むしろ、この本で痛感したのは、人間には多様な思考様式があるということだ。aのあるなしから入るという言葉の組み立て方は、その一つなのだろう。僕たちが英語圏の人々の心理にもう少し思いを致せば、aかtheかの惑いもいくらか軽減されるだろう。

 

 そう思うと、僕たちも「は」と「が」を使い分ける思考回路をもっと自負してよい。

(執筆撮影・尾関章、通算380回)

 

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『清須会議』(三谷幸喜著、幻冬舎文庫)

 電柱でござる。そんな言葉をテレビの時代劇に向かって投げつけてみたいと思うのだが、まだその経験はない。つくり手たちは、電柱の立ち姿が画面の片隅にすら紛れ込まないように細心の注意を払っている。もし1本でもあれば、江戸町民が長屋に家電一式をそろえ、大名は江戸と国もとの間に電話回線を開設しているのではないか、という妄想のタネになる。そんな興ざめはご法度というわけだ。
 
 映画であれ、テレビであれ、あるいは小説であれ、歴史ものに時代考証は欠かせない。ただ、それをとことん追い求めれば必ず行き詰まってしまうだろう。画像や映像の類が残らない時代は、人々の暮らしの細部を文献で推し量るしかないからだ。だから、時代を象徴する記号的存在の有無だけはしっかり押さえることが必須になっている。そして電柱は、近代の記号の一つだ。近代以前にあるわけはない。
 
 ほかには、どんな記号があるのか。すぐ思いあたるのはカタカナ語だ。外来語は、明治以前にも「てんぷら」や「びいどろ」など、ごく少数の例外があったが、大量に流れ込んだのは文明開化の後である。だから、時代ものに出てきたらアウト、もとい駄目だ。
 
 最近、そんな記号を完全に無視する歴史小説に出会った。「本能寺の変」後の織田家内部の権力闘争を描いた『清須会議』(三谷幸喜著、幻冬舎文庫)。去年秋に公開された映画の原作だ。映画の台詞がどうだったかは観ていないのでわからないが、原作では「現代語訳」と銘打ったうえで外来語が乱発される。「どうやら間違いなく、清須会議のキャスティング・ボートは俺が握っているようだな」。織田家幹部が、こう思ったりもするのだ。
 
 このタブー破りは昔からあった。『てなもんや三度笠』のようなコメディには、ときどき外来語が出てきたような記憶がある。江戸の世に昭和をちらつかせて、僕たちの心をくすぐったのだ。だが『清須会議』は違う。外来語が人物の思考回路に組み込まれている。
 
 戦国大名に仕える武将にも、メガバンクに勤める半沢直樹と同じような思考様式があると言いたいのか。あるいは、半沢直樹流の思考様式を省みる手だてとして戦国武将をもちだしたのか。それは、読み手のとりよう一つだろう。間違いないのは、作者三谷幸喜が時代の違いを超えて成立する人間ドラマをおいしく調理する料理人だということだ。彼にとって歴史は、厨房に蓄えられた極上の食材にほかならない。
 
 僕は、三谷幸喜が好きであり、嫌いでもある。嫌いなほうから言えば、テレビに出てきたときのわざとらしいサービス精神が気になる。ただ、これは僕たちの世代の限界かな、とも思う。作家であれ、ミュージシャンであれ、芸術にかかわる人は気難しいもの、という先入観があるからだ。眼鏡に蝶ネクタイ、コメディアンのようないでたちで現れる姿に違和感を覚えてしまうのは、そう感じるこっちのほうが悪い。
 
 そのひっくり返しが、好きな理由だ。三谷幸喜は、持ち前のサービス精神で作品の登場人物をおもしろおかしく彫りあげる。それは人間の内実を突いて、読み手や観客に「さもありなん」と膝をたたかせる。理念やイデオロギーが優先された時代の作家とは趣を異にするのだ。『清須会議』でも、羽柴秀吉や柴田勝家、丹羽長秀らの武将とその周辺の人々の思惑、打算、本音を、モノローグなどを通じてえぐり出していく。
 
 プロローグでは、知性派長秀が同僚の人となりを冷めた目で吟味する。本能寺の焼け跡で号泣する勝家を見て「いかにお館様を慕っていたか、その死に衝撃を受けているかを、私にアピールしているのであろう」「半ば無意識である以上、パフォーマンスと言ってしまっては、彼が気の毒だ」。秀吉については「苦境にあっても決して悲観せず、天性のひらめきで、それをチャンスに変えてしまう」「彼のバイタリティの原動力はすべて欲がらみだ」。
 
 こうして読むと、歴史上の人物を素描するには「アピール」「パフォーマンス」「チャンス」「バイタリティ」といったカタカナ語を用いるほうが自然のような気がしてくる。大河ドラマなどでは「訴えようとしているのであろう」「演技と言ってしまっては」のように僕たちが慣れ親しんだ日本語に置き換えるのだろうが、そういう言い回しが戦国時代に通用したかどうかの保証はないのだ。
 
 長秀の内心を言葉にした「信長死すの報せは、既に全国に広まっている。今月のうちに織田家の新体制を決めて、再スタートしたいところだ」のような表現は、政党のドタバタを伝える新聞記事にそっくりだ。この言い回しのほうが読者にビンビンと響いてくる。
 
 現代をうまく取り込んでいるのは、言葉だけではない。尾張清須城に向かう勝家は、信長の妹お市に領地越前の名物らっきょうを持ってくる。恋い焦がれる相手への手土産だ。「本当は、もう少し値の張る、例えば茶器のようなものが良かったのかもしれないが、あまり高価なものだと、逆に下心があるように思われても困るので、らっきょうにした」。この男心、僕にはよくわかる。地元の農産品をさりげなく手渡す、というのは悪い趣味じゃない。
 
 だが、それを受け取ったお市の思いは別だ。「いくらなんでも、あれはないわよ。なんで、らっきょうなの。私の気を引きたいんだったら、もう少しまともなお土産持って来なさいっていうのよ」「だいたい私、お新香が好きだなんて一言も言ってないし。私が言ったのは、香りの物。普通はお香とか香炉のことでしょう」。いかにもセレブという感じの上から目線で見下されて、真心のギフトは裏目に出てしまう。
 
 ここで気になるのは、らっきょうだ。僕は初任地が福井県だったので、三里浜と呼ばれる海沿いの産地になじみがある。今回、三里浜特産農業協同組合のサイトを開くと、「明治初期頃」に「各農家の自給用としてらっきょう栽培が普及」とある。戦国の世に出回っていたかどうかは疑問符だ。だが、それはどうでもよい。作者は勝家とお市の関係を表す格好の笑わせネタを今日の名産品事情から掘りだしたのである。
 
 この作品で僕が心惹かれたのは、事務方の責任者前田玄以の描き方だ。その役回りは、今ならばG8サミットのロジスティクス担当、略称ロジ担ということになる。清須城に諸将が着く朝、家来衆を集めて訓示する。「この乱世、とかく武将ばかりが目立っておりますが、いつの世も、本当に時代を動かしているのは、そう、我々、文官なのであります。誇りを持っていこうではありませんか」
 
 翌朝の訓示では「オフィシャルな予定とは別に、プライベートな形での個々の会合は随時行なわれると予測されます。お茶の準備、もしくは酒宴の準備は常に怠らないようにお願いします」と、事細かに指図する。三日目には、諸将参加の「第一回丹羽長秀杯夏のイノシシ狩り」も企画、イノシシが出てこないとまずいので前夜に1頭捕まえておいてそれを放つ、といったヤラセ行為までする。その頑張りは涙ぐましくもあり、微笑ましくもある。
 
 思えば、三谷作品のおもしろさは、どの人間にも宿る「普通の人」をあぶり出すことだ。『清須会議』は、ヒーロー、ヒロインの普通の人ぶりをえぐり出す一方で、ロジ担のような普通の人の普通ぶりもきちんと切りとっている。
 
写真》三谷幸喜『清須会議』に出てくる外来語のいくつか。僕たちの思考の一部に取り込まれた言葉が目立つ=尾関章撮影
(通算213回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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