『眼』(水上勉著、光文社文庫・水上勉ミステリーセレクション/長編推理小説)

写真》

 先日、当欄のまくらで触れたように、僕の新聞記者としての出発点は北陸福井だった。20代後半の4年間、福井支局員だったのである。(当欄2020年2月21日付「60年代東京の喧騒、地方の豊饒」、同28日付「四季の巡りも農の営みも能舞台」)

 

 2年間の警察回りや郡部回りを終えて、3年目からは一応、経済担当になった。「一応」としたのには理由がある。実態としては「なんでも屋」――業界用語では「遊軍」――だったのだが、経済関係の記者会見があるときは、それを優先させたのである。

 

 当時、福井県の地場産業と言えば、なんと言っても「糸へん」だった。繊維である。県内には有力な産地がいくつかあり、そこに織物工場が集まっていた。関連業種として染色加工などの企業も育ち、地元経済界に一つの生態系が生まれていたと言ってよい。

 

 そんなこともあって、地元の経済記者向けに報道発表する場として、県都に専門の記者クラブが置かれていた。福井市の中心街、大名町交差点に「繊協ビル」という建物があり、その一室がクラブにあてがわれていたのだ。そこには地元企業や業界団体のプレスリリースも届けられていたから、僕は日に一度はのぞくようにしていた。忘れがたいのは、よく居合わせた業界紙の記者だ。たぶん、50歳前後。地味な背広を着た温厚な紳士だった。

 

 記者会見では丁寧な言葉遣いで質問をして、自分を偉そうに見せたりしない。あのころの年長記者にはクセのある人も少なくなかったから、僕は敬意を抱いた。だからクラブで二人だけになると、いつもじっくり話を聴いたものだ。1979年の第2次石油ショックが産地に与える影響は?――そんなことを尋ねると、淀みなく業界の状況を解説してくれる。7月〜9月の四半期を「シチク」と呼ぶ経済用語なども、僕はそのときに覚えたのだ。

 

 いま悔やまれるのは、あの先輩からもっと多くのことを教えてもらっておけばよかったということだ。彼は年齢からみて、繊維産地の戦後をずっと見つづけてきた人なのだと思う。それは、どんな時代だったのか。1940〜50年代を想像してみよう。まだ、白物家電は広まっていなかった。自動車もマイカーとしては普及していなかった。半導体産業も集積回路の時代に入っていない。糸へんこそが、産業界の花だったのではないか。

 

 で、今週は、『眼』(水上勉著、光文社文庫・水上勉ミステリーセレクション/長編推理小説)。1960年前後の繊維業界を舞台にした作品だ。著者(1919〜2004)は1961年に『雁の寺』で直木賞を受けた人気作家で、その作品群は推理小説の枠に収まらないが、初期には「社会派推理作家」と呼ばれていた(巻末解題・細谷正充執筆)。この作品はそのころ、60〜61年に経済誌『評』に連載された『蒼い渦』を土台にしている。

 

 どんな事情で改題されたのか。説明は著者本人の「あとがき」にある。「連載時に考えていたことが変わってきていて、さらにああしてみたい、こうしてみたいという欲が出てきた」。それで『蒼い渦』250枚を「書き直し」、380枚を「追加」して「長編小説として完成させた」のだ。そうさせたのは「自分の文学への愛情」だったと顧みている。完成版は1962年にカッパ・ノベルス(光文社)として刊行され、2007年に文庫化された。

 

 著者は、繊維業界と因縁が深い。巻末解題によれば、1953〜54年に「繊維経済研究所に勤め、『月刊繊維』の編集に携わり」「友人と東京服飾新聞社を興した」。ここで「繊維経済研究所」は、繊研新聞社の前身(正式名称は財団法人日本繊維経済研究所)らしい。著者の出身地は若狭で、同じ福井県内でも繊維産業が盛んな越前ではないが、親近感はあったのだろう。ちなみに、前述の温厚紳士も繊研新聞の記者だったように記憶する。

 

 ではまず、本文の冒頭から。「国電秋葉原駅に近い神田岩本町は繊維業者の多い街で、軒なみに生地問屋や洋服問屋が並んでいる。両国(りょうごく)と岩本町を結ぶ都電通りは、近ごろになっていくつもビルが建てられた」。東京・下町の問屋街には路面電車が走り、沿道にコンクリート建築が並びはじめていた――終戦から10年余の風景だ。岩本町界隈は1945年の大空襲で被災しているから、焼け野原の痕跡が消えたころではなかったか。

 

 こんな描写もある。「灰色の空の光が、向かい側のビルの化粧煉瓦(れんが)をねずみ色にかげらせている。石畳をがたがたと音たてて満員電車が走る。架線でときどき青いスパークが起こる」。東京の空はどんよりと曇っていた、都電の線路は石畳に敷かれていた、電車が通ると架線に青い光が飛ぶこともあった――僕らの世代にとっては記憶の深層に眠っていることばかりだ。そんな街の婦人服問屋「ローヤル商会」で、この小説は始まる。

 

 ローヤル商会のありようはおもしろい。店には「番頭」がいる。だが、番頭が仕えるのは「社長」だ。社長はビル2階の社長室で「専務」と密談したりする。ただ、専務は「名ばかり」で個室すら与えられていない。畳の間の商いが似合う旦那―番頭―手代―丁稚系統と、応接室の商談がふさわしい社長―役員―社員系統が混在している。これが高度成長期の直前、繊維産業の川下(かわしも)部門であるアパレル流通業の偽らざる実態だった。

 

 この作品は、ローヤル商会が標的の取り込み詐欺事件と茨城県牛久町(現・牛久市)で発覚した殺人事件の謎解きを同時並行で描いている。捜査の一線に立つのは、警視庁の知能犯担当刑事と茨城県警の強行犯担当刑事。二人は畑違いで思考様式を異にするので、互いに牽制しながらの協力だ。その推理の展開こそが読みどころだが、ネタばらしになるので言及を控える。取り込み詐欺事件の構図を切りだすことで、当時の業界事情に迫ってみよう。

 

 事件の背景にあるのは、問屋にのしかかる在庫の重荷だ。ローヤル商会でも、専務にとって悩みのタネは「ストックの山」。きょうも大手百貨店から返品がどっと届き、地下倉庫へ。ストックは3000着だったが、それが4000着超に膨らむかもしれない――。

 

 著者は、さすが業界に通じた人だ。ここで、当時のストック対処法を解説してくれる。「既製品のストックはシーズンちゅうにさばいてしまわなければ、二束三文になってしまうことが多い」。そのまま安売りすれば銘柄の信用を傷つけるので、余力があれば倉庫に寝かせる。翌シーズン初め、新しい流行が定まるよりも早く一気に吐き出す手があるからだ。だが、「消費者というものはムラ気」だから、この目論見がうまくいくかはわからない。

 

 そんな窮状にあるローヤル商会に飛び込んできたのが、詐欺グループだ。最初に接触してきたのは、30歳前後の男。応対した社長が専務に明かしたところでは、男は雑品の販売会社に勤めているが、取引先が婦人服類を求めているので調達できないか、という話だった。社長にとっては、願ってもない申し出である。ただ、タイミングが良すぎる。まるで地下倉庫の「ストックの山」を見てきたかのような来訪。会社の内情が漏れていたのか。

 

 その答えは、専務が刑事にしっかり教えてくれている。百貨店では、コーナーごとに「同一会社の製品」が置かれていて、「そこに立っている売り子はデパートの制服を着てはいますけど、じつは問屋からさし向けた女の子なのです」。見る人が見れば、どこの問屋の勢力が強いか、一目瞭然だというのだ。そして「一挙に返品になれば、その女の子の姿は消えてしまいます」。たしかに、これならば店内偵察で問屋の在庫状況を推察できる。

 

 こうして詐欺グループはストックを手に入れ、手形は不渡りとなって、関係者は姿をくらます。商会ブランドの商品は、池袋の露店でたたき売りされていた。被害額900万円なり。いかにも1960年前後の犯罪に見えるが、ドンデン返しもあるから要注意。

 

 この小説で見えてくるのは、モノをモノとして売っていた時代の消費経済だ。今ならば、在庫を管理するにも売れ筋を察知するにもコンピューターが使われるが、それがない。ネット広告、ネット通販など夢のまた夢。モノに情報が紐づけられていなかった。

 

 生存の条件、衣食住の衣――繊維産業はあのころまだ、その供給源にとどまっていた。

(執筆撮影・尾関章、通算515回、2020年3月13日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)

写真》社会面の一角(朝日新聞2020年3月3日夕刊、同月4日朝刊)

 新聞の四コマ漫画は、不思議な存在だ。紙面の一角を占めていても報道ではない。作者の想像の産物だとしても芸術作品とは違う。これは、いったい何者なのか?

 

 一つには、「ほんわか」ということがあっただろう。四コマ漫画が載っているのは、たいてい社会面だ。世相を映すページで、事件事故を扱うことが多い。悲惨な話、げんなりする話がずらりと並ぶ日もある。一つぐらい、ほっとする話題がほしいではないか。

 

 もう一つは、「チクリ」。作者の風刺精神が問われるからだ。ただそれは、別のページに出てくる政治漫画とは趣が異なる。権力者の言動を皮肉って笑い飛ばすわけではない。市井の人々が自身の暮らしぶりを振り返って、自嘲気味に苦笑する雰囲気がある。

 

 「ほんわか」「チクリ」という大人びた役割があるからだろうか、四コマ漫画には、マンガだから子どもに受ける、という通念が成り立たないように思う。それは、幼年期を思い返してもわかる。当時、わが家では読売新聞をとっていたのだが、どんな漫画が載っていたかは思いだせない。小学校高学年のころ、朝日新聞に乗り換え、「サザエさん」(長谷川町子)や「クリちゃん」(根本進)を知ったが、それでも毎日読むことはなかった。

 

 四コマ漫画に馴染んだのは、むしろ、サラリーマンものの「フジ三太郎」(サトウサンペイ)からだ。1965年に朝日新聞夕刊で連載が始まり、79年に朝刊へ移り、91年まで続いた。開始時点で僕は中学生。会社の上下関係とはどんなものか、帰りがけの一杯は何のためにあるか、など知る由もなかったが、だからこそ興味を抱いた。さらに三太郎には、今ならアウトなほどエッチな一面があって、大人たちの本心をのぞき見た気もしたのだ。

 

 こうみてくると、四コマ漫画は新聞の必須品目であることがわかる。それは、記者の報道活動がすくいそこなった事実を「報道」しているのだ。サザエさんのような家庭人が日々体験していること、フジ三太郎のような勤め人が日々痛感していること――それらは、事件事故にはならない世相そのものだ。虚構の小話だからこそ切りだせる日常生活の実相を、読者は紙面の片隅で目の当たりにできるのだ。架空ゆえの真実が、そこにはある。

 

 で、今週は『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)。朝日新聞出版は、今年が著者の生誕100年にあたることから、シリーズ単行本の全68巻(姉妹社刊)を復刊することになった。この巻は、その第1弾として出された3冊のうちの1冊である。

 

 ここではまず、「サザエさん」の歴史を振り返っておこう。起点は1946(昭和21)年4月22日。連載は、朝日新聞ではなく九州・福岡の地方紙「夕刊フクニチ」で始まった。48年、東京の夕刊紙「新夕刊」に移り、49年には朝日新聞へ。最初は夕刊掲載だったが、51年〜74年、朝刊に連載された。第1巻所収の漫画はフクニチ時代のもの。46年4〜8月掲載分から選んでいる。並べ方は概ね時系列だが、必ずしも日付順ではない。

 

 特筆すべきは、これらの作品群の大半が終戦から1年未満のものということだ。とりあげられる話題には、引き揚げ、食糧不足、占領軍……と終戦直後ならではの物事が多く含まれる。当時、人々の心には苦い記憶が淀んでいたはずだが、作風はどこまでも明るい。

 

 あの戦争は、日本人だけでも内外で数百万人の生命を奪った。著者は終戦時に25歳。東京住まいだったが、戦時中、家族とともに福岡に疎開していた。その福岡も空襲に見舞われている。本人は西日本新聞社の編集局に勤めていたというから、戦禍の深刻さも知っていたはずだ。だが、サザエさんたちは大らかで、茶目っ気すらある。これは脚色ばかりではなさそうだ。人々がたくましく生き抜くには、そんな心のもちようが不可欠だったのだろう。

 

 第1回は、磯野家のご挨拶。母フネを真ん中にワカメとカツオがいる。フネが「サザエ!」と呼ぶと、ふすまの向こうから「ハーイ」と声がして、サザエさんが登場。湯気を立てた食べ物を手に、頬っぺたを膨らませて、もぐもぐ。オチは「どうも あんなふうでこまります」というフネのひと言。食べ物は焼き芋か、ふかし芋か。(新聞掲載では、せりふを原則としてカタカナ書きにしていたらしいが、この本ではひらがな主体に改められている)

 

 サザエさんのいでたちは、シンプルな洋装。長袖薄手のセーターに黒のベスト、スカートは黒の膝丈で裾先がチューリップ状に広がっている。ここで「黒」としたのは、絵がモノクロだからで、焦げ茶かもしれないし、濃紺かもしれない。なかなか、モダンではないか。そう、磯野家は驚くほど現代風なのだ。読み進むと、サザエさんが父波平のことを「ウチのパパ」と言ったり、母フネに向かって「ママ」と呼んだりする場面もある。

 

 ワカメとカツオが、俄か洋画ファンになる作品もある。「あたし タイロンパーワーすき」(ワカメ、原文のママ)、「ダービン 二どめのけっこんだってネ」(カツオ)。タイロン・パワーはアクション男優、ディアナ・ダービンは女優兼歌手だ。フネが困り顔でサザエさんの部屋をのぞくと、華やかな映画雑誌が散らばっている。終戦から1年を待たずして、日本の若者にはハリウッドへのあこがれが強まっていた。「鬼畜米英」の影はもはやない。

 

 サザエさんが街の書店で英会話本の看板を見かけ、さっそく買い求めるという作品もある。家に帰るのも待ちきれず歩き読みしていると、馬の頭とゴッツン。まだ、馬が荷車を引いていたのだ。彼女は、その最初の遭遇者に対して、さっそく「アイアムソーリー」。

 

 「戦後」を痛感させる作品も多い。まずは食糧難。サザエさんが「ひとつ めあたらしいだいよう食でもつくろかな」と、台所のラジオをつける。料理講座なのか、スピーカーからは「つぎに おいものきりくずやニボシのくずをいれます……」の声。言われるままに調理して糠を加え、攪拌して、さあ代用食のできあがりかと思うと「ただいまは ニワトリのえさについてもうしあげました」。食生活の水準が飼料並みだった現実がうかがえる。

 

 当時は、外地の人々が続々と帰郷していた。満州(現・中国東北部)からの引き揚げ家族を励ます会だろうか、サザエさんは接待係で、大荷物の夫婦とその子らの相手をしている。女の子が父親らしい人物にしがみついて「カアチャン」。連れの母親らしい人物が「きけんだったので だんそうしてきました」と説明する。引き揚げに身の危険はつきものだった。この話にはオチもある。母親もどきも実は父親の女装。「ボクは ようふくがないので」

 

 作品には、進駐軍も登場する。ワカメが買い物かごを提げて歩いていて「ねーちゃん パン一つおとした」。通りには「パン配給所」の看板を掲げた店。パンも配給制だったのだ。サザエさんは「よーく さがしてごらんよ」。二人がうつむいて地面を見回していると、1台のトラックが疾風のごとく走り抜ける。幌付きで、荷台の側面に「U..A」(原文のママ)。軍用車だ。路面にはパンがピザ生地のように広がり、そのうえにタイヤ痕がくっきり。

 

 米兵が顔を出すことも。どういういきさつかはわからないが、父波平が米兵と思しき男性を連れて帰宅する。客人ということだ。サザエさんは、庭先で二人が並んだ記念写真を撮った。その紙焼きを見て波平は驚く。長身の男性がにっこりほほ笑んでいる。だが、自分の姿は頭のてっぺんだけではないか。なるほど。ただこの作品からも、戦後日本社会がついこの間までの「敵」に対してさほど悪感情を抱いていなかったらしいことが見てとれる。

 

 戦後民主主義が市井にどう立ち現れたのかも、登場人物が教えてくれる。サザエさんが友だちと連れだって外出の途中、道に迷うという作品。友だちが交番の警察官に行き方を尋ねると、「かどをまがって四けんめです」。ここでは、「です」の2文字が重要らしい。「おまわりさんも民主化したわネ なんでもていねいにおしえてくれるワ」。戦前戦中を生き抜いたサザエさん世代には、巡査と言えば「おい、こら」という固定観念があったのだろう。

 

 サザエさんには歴史書からは切りだせない戦後がある。それは、平凡ゆえに力強い。

*引用した台詞には、読みやすいように本文にない半角アキを入れた。

(執筆撮影・尾関章、通算514回、2020年3月6日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》山形の米

 当欄前回のまくらで書いた福井の思い出を、今週ももう一度。先週は、記者2年生のころを振り返って「朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている」と書いた。だが、あとで気になったことがある。あれは、福井本来の風景だったのか――。

 

 1970年代の後半、僕がいた新聞社の福井支局では、新人が1年目の警察回りを終えると郡部担当になるしきたりだった。県内数カ所にはベテランの駐在記者がいるから、県域すべてを回るわけではない。県都・福井市周辺の町村を受けもたされたのだ。主な取材先は福井市北方の坂井郡。港町の三国、城下町の丸岡、温泉町の芦原など個性豊かな6町が肩を寄せあっていた。今は平成の大合併で、坂井市とあわら市に集約されてしまったが……。

 

 郡の真ん中には坂井平野が広がっている。僕が青々とした水田に心躍らせたのは、そこを走り抜けていたときだ。ジープは風通しが良いので、田んぼの水を撫でた風が運転席にも吹き込んでくる。都会育ちの青年は、これこそが農村なのだと思ってしまった。

 

 だがこれが、北陸農村部の原風景だとは到底言えない。僕がよく通った道は通称「嶺北縦貫道」。文字通り、まっすぐ延びていた。道路計画の詳しいいきさつは知らないが、マイカー時代の到来を受けて整備されたものであることは間違いない。今回、ネット検索で福井県文書館のウェブサイトに入ると、「嶺北縦貫道路(工事)」という写真が館に保存されているようだ。日付は「昭和47..16」。1972年。高度成長が極まったころである。

 

 そうだ。あの道は、もともとはなかったのだ。農村には、在所と呼ばれる集落が散らばっていた。それに寄り添うように鎮守の森もあった。人々は街道を行き交うか、畦道をとぼとぼ歩くだけだった。クルマで通り抜けてゆく闖入者などいなかったのだ。ところが、その原風景を縦貫道が貫いた。周りには福井空港。そして、半導体工場。まるで都会派のユーミン(荒井〈松任谷〉由実)が歌う「中央フリーウェイ」のように……。

 

 農村は変わった。高度成長によって変わったのだ。だから僕は、それ以前の農村を知らない。この一点は、忘れてはいけないと思う。今回、『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)を読んで、そう自戒した。この本に描かれた農村は、高度成長のために出稼ぎの人々を大都会に送りだしているが、村のありようは昔のまま。変容寸前だったのだ。だから、貴重な証言となっている。で、今週も、この同じ本を読む。

 

 1964〜65年に見たものが風前の灯火だったことは、著者も心得ている。たとえば、稲刈り後の田んぼを描いたくだり。「稲におが、人の立姿のように、何十本と田に整然と並んでいるさまは、この世で人の営みが作り上げた最も美しい光景の一つではなかろうか」と讃えて、こう続ける。「黒川のこの浄土のような風景は、十年も経たないうちにまったく消えてしまった」。ここで「稲にお」とは、刈った稲を円錐状に積み重ねたものをいう。

 

 代わって見えてきたのは「農地の基盤整備で一枚一反という田が格子状に広がる風景」だ。「スーパー農道が三本も出来、大型の農業機械が入る。ハーヴェスタが音を立てて唸り声を上げると、黄金の稲はたちまち刈り取られ、同時に稲籾の脱穀もされる」。田んぼが規格化され、収穫作業の一切をやってのける農業機械コンバインド・ハーヴェスタ(コンバイン)が広まったのだ。これを読んで僕は、縦貫道沿いののっぺりとした景色を思いだした。

 

 日本では、あのころから農村に中核農家を育て、一戸当たりの耕地面積をふやして農業の生産効率を高めようという方向性が強まっていた。それは「農地の基盤整備」や「大型の農業機械」に象徴される。その裏返しで昔ながらの農村文化が追い払われようとしていた。

 

 では、前週の予告通り、この本が紡ぎだす黒川村の四季を追いかけていこう。「王祇祭が終わった。さあ、日常の暮らしに戻らねばならない」で始まる一節に出てくるのは、雪の話だ。急を要するのは、家屋の雪下ろし。男たちが屋根の雪を「掘るように」搔きだし、投げ落とす。たちまち、家は雪の山に囲まれるから、それを越えられるように階段を刻む。ときには、高くなった山を切り崩して、その雪を用水路へ流すこともあった。

 

 それが済むと、もう農業の営みが始まる。雪に覆われた田んぼに「いくつもの真っ黒な小山」が出現する。「見ると、男たちが二人掛かりで何かを運んでいる」。橇に積まれているのは、村人たちが丹精込めてつくった堆肥だった。材料は、牛小屋や馬小屋に敷かれた藁。そこには牛馬の糞がしみ込んでいる。さらに落ち葉、生ごみ、米糠、そして下肥。その調合に自然界の循環がしっかり組み込まれている。エコロジーの原型である。

 

 そして三月、雪解けを待っていたかのように、村は婚礼の季節を迎える。背景には「春の農作業が始まる前に、この大事(おおごと)をすませたい」という農村ならではの事情があり、新婦を迎える側の家族には「春先からの農事の働き手が一日でも早く来るのがいい」という思惑もあった。結婚は、農の営みに根ざしていたのである。だが、そこにも時代の波は押し寄せる。「この頃、農村ではヨメ不足が問題になり出していた」と著者は記す。

 

 五月には田植え。「一軒の田植が終わると、明日はつぎの一軒に移る。大勢が集まって楽しいのが田植の結である。昼飯も小昼(コビル)もみんなで畦に坐って食べる」。ここで改めて教えられるのは、農作業には共同体が進める事業という一面があったことだ。ところが数年たつと、この光景は見られなくなる。田植えも草取りも機械を使った一人仕事となり、作業をてきぱき済ませると「また東京へ出稼ぎに戻る」人たちが出てきたという。

 

 夏はお盆。その一節では、意外なことに成人式会場の情景が描かれる。黒川村では、1月、即ち旧暦の年の瀬は王祇祭の支度で忙しい。どこの家族も「男たちの紋付や袴の心配はしても娘の晴れ着など思い浮かびもしない」。そこで、東京の工場などに就職した若者たちが盆休みの里帰りで戻ってくる機会に成人式が開かれるようになったのだ。なにごとも、まず王祇祭ありきで物事が決まっていく。風土に根ざした歳時記が、ここにはある。

 

 そして、いよいよ秋祭り。これは、字(あざ)ごとにそれぞれの氏神を祀る神社で次々開かれてゆくという。ここで著者がもちだすのが、「内場(うちば)」だ。近隣に住む10戸足らずの小さな共同体、血縁ではなく地縁の集団を指す言葉らしい。秋祭りでは、この内場が結束を強める。これこそが、新春の王祇祭を支える土台になる。王祇を迎え入れる家、即ち当屋は、内場の仲間たちの支援があるからこそ大役を果たせるのだ。

 

 黒川村では、季節が王祇祭、即ち黒川能を中心に回っている。同じことは、村人の人生についても言えそうだ。前回の当欄では、この本の記述から、子どもたちが能舞台で元気に足踏みする姿や、年長者が夜通し朗々と謡いあげる様子を切りだした。黒川能に、それぞれの年齢層に割り当てられた役回りがあることを伝えたかったからだ。著者が、この村には「年代ごとにつねに場があり、役割がある」と書くとき、それは能にとどまらない。

 

 黒川村では、家庭を営むこと、生計を立てること、地域に貢献すること――それらのすべてで、若者には若者の、壮年には壮年の、年寄りには年寄りの役目が期待されている。その構図が凝縮されているという一点で、黒川能はただの伝統芸能ではないのである。

 

 最後に、この本はIT(情報技術)世代にこそ読んでほしい、と僕は思う。ネットワーク技術は世の中をひと色に染める力があるので、地域の伝承を一掃しそうな気がする。だが、情報の流れを逆転させたらどうか。まず、伝承を蘇らせる。その一部始終をネットで発信する。さながら、著者船曳由美さんのように……。そこに立ち現れるのは、いくつもの文化が並び立つ世界だ。ITがあるのに、ネットがあるのに、今の僕たちは貧しすぎる。

(執筆撮影・尾関章、通算513回、2020年2月28日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》庄内風? 手前は地元産あさつき

 あの夕暮れは生涯忘れられない。1977年4月、新聞社に入って、初任地福井の土を踏む直前のことだ。特急列車が、福井市内を流れる足羽川を渡るころ、西空の陽光が斜めに車内へ射し込んだ。オレンジ色だが、どこか哀愁を帯びている。僕は心細かった。

 

 25歳。生まれてからずっと東京暮らしだった。入社試験の面接では、そこを突いてくる質問もあった。「入って数年は地方勤務だよ。やっていけるかなあ」。とりあえずは「その覚悟です」と答えたものの、そこで問答が打ち切られたので受かるまいと思った。ところが予想に反して、採用通知が届いたのだ。本当は「やっていけるかなあ」と脅えていたのは、だれよりも自分自身だった……。だから、北陸の薄暮がひときわ寂しく感じられたのだ。

 

 だが、それも一晩で吹っ飛んだ。翌朝からは警察回りの取材が始まって、慌ただしさのなかで心細さは雲散霧消した。それどころか、むしろ「地方」に心が躍るようになる。それを強く自覚したのは、2年目に郡部担当になったころだ。朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている。繊維工場からは織機の音が聞こえてくる。港町がある。城下町がある。温泉町も、門前町も。日々、東京にないものの発見つづきだった。

 

 とりわけ心惹かれたのは、九頭竜川河口の三国町(現・坂井市)。江戸時代、北前船の寄港地として栄えた歴史があるが、今はカニ漁や甘エビ漁などの水揚げ基地になっている。砂浜沿いにはラッキョウやスイカを栽培する農家があった。丘陵地では酪農も営まれていた。小さな町なのに多彩な顔がある。僕は20代半ばにして、大都市にはない小都市の魅力を知ったのである。(当欄2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)

 

 で、今週の1冊は『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)。山形県庄内の黒川村(現・鶴岡市)に伝わる黒川能に光を当て、1964〜65年に現地に赴いて、その一部始終を活写したノンフィクション。著者は集英社の編集者として海外小説の大作を発刊してきたことで知られるが、その前は、平凡社の雑誌『太陽』編集部に在籍していた。この本は当時の取材の記憶を核にして、近年の状況も盛り込んでいる。

 

 最初にことわっておくと、著者は僕にとって近隣の人だ。存じあげる限り、少女時代からこの町におられた。どの町かは個人情報にわたるので書かないが、東京のふつうの住宅街。この本からも、東京っ子が目の当たりにした農村文化の迫力が伝わってくる。

 

 著者の横顔を、もう少し紹介しておこう。本書に綴られた個人史によれば、東京大学3年生のとき、1960年の安保闘争に遭遇する。「あれは西洋史の講義であったか、階段教室に先生が現れると、後からひらり、と小鳥のように一人の女子学生が入ってきた」。その人こそが、まもなく国会周辺の反安保抗議行動で犠牲となる樺美智子さんだった。彼女はデモへの参加を呼びかけ、岸信介内閣の打倒を訴えて教室を後にしたという。

 

 記述からは、著者も当時、反安保を掲げる進歩派に共感を覚えていたことがうかがえるが、興味のありかがちょっと違った。ゼミの指導教授とのやりとりで、今読んでいる本の話になったとき、同級生の多くはマルクスやマックス・ウェーバーらの名を挙げたが、著者は『ものいわぬ農民』(大牟羅良著、岩波新書、1958年刊)を挙げた。大牟羅が行商のかたわら、岩手の山あいで農業に勤しむ人々から囲炉裏端で聞いた話を集めた本である。

 

 東京っ子なのに、なぜ農村なのか。理由の一つに「世田谷の多摩川に近い郊外」で生まれたことが挙げられている。同郷の僕にはピンとくる。そのころ、東京・世田谷は畑が広がっていた。都心部から見れば近郷近在。東京には「まち」と「むら」が共存していたのだ。著者は、その「むら」に愛着があったのだろう。そして、「むら」が東京から消えつつあった時代、その原型を列島の津々浦々に求めたのが雑誌『太陽』だった。

 

 世の中が1964年の東京オリンピックを前に沸いていたころ、『太陽』初代編集長の谷川健一は「日本列島に息づいて暮らしている人間の実像に迫ることが、なによりも大事」を口癖にしていたという。著者は、それに応えるように企画を練る。五輪景気で東京には出稼ぎの男たちがあふれている。東北の村は年寄りと妻子だけが残されているはずだ。だが、ときに男たちも帰郷して「村をあげて」盛りあがる行事があるのではないか――。

 

 著者は、山形の詩人、真壁仁の作品を通じて黒川村の王祇祭、即ち黒川能の魅力を知る。これは2月初め、地元春日神社のご神体として「王祇様」を村内の民家に迎え入れ、旧暦新春の到来を祝う催しだ。1964年晩秋から、なんども現地に赴くことになった。

 

 その夜行列車の情景がいい。二等寝台に乗り合わせた上段の客は大荷物。風呂敷からクマのぬいぐるみや金髪のフランス人形がのぞく。おそらく、東京土産なのだろう。ラクダのシャツ姿になり、「東京では一日中、土の中にもぐっていてよー」。地下鉄の工事現場で働いているらしい。清酒の1合瓶を開けて、ちびりちびりとやりだした。秋田県の象潟に帰省するというが、黒川村にも祭りのころ、同じような男たちが集まって来るのだろう。

 

 ではいよいよ、著者の現地体験。ヤマ場の一つは、1965年2月1日夜から2日未明にかけ、神の宿となった民家2軒――当屋という――で演じられる能と狂言にある。ただ、あいにく僕は能楽の知識が乏しい。細部に踏み込まず、空気感だけをお伝えしよう。

 

 なんと言っても、この祭りは黒川村というトポスと切り離せない。5歳前後の稚児が唱える寿詞(よごと)には「東に月山高くさん」「南にてふてふつらなって」「西に青龍寺ががんとして」「北に鳥海まんまんと」とある。ここで、青龍寺の所在地は金峯山。わが村こそは四方の山に守られた「神の嘉(よみ)する地」という郷土礼讃だ。見渡せば山々に囲まれ、冬になれば雪に閉ざされる村だからこそ、これほど濃密な祭事が育ったのだろう。

 

 稚児たちが舞台上で足拍子を「タンタタタン」と踏んだり、腰に差した太刀を扇で打ち鳴らしながら駆けまわったり、という場面もある。ここで著者は、「二軒の当屋の舞台から稚児の足踏みが波紋のように広がって、黒川の大地にその霊力は届いた」「深い雪に埋もれた大地にいま眠っている種子や草木の芽は、その音で目覚め、春を村にもたらすのだ」と書く。子らの健やかさは、新年を雪深い里で迎える人々の春への期待感を体現している。

 

 ただ、そんな子どもたちも間違いなく、高度成長期の少年少女たちだった。当屋を訪れた小学生の男の子に母親が小言をいう。「ダメだぁ、帽子取らねば」。だが、その子は野球帽を脱がない。「いいでねえか、だだちゃの東京からのみやげかぁ、巨人(ジャイアンツ)だのう」と声がかかる。別の箇所では、赤い手袋をはずさない女の子の姿も。だだちゃ(父親)が上野発の夜行で運んでくる「東京」が、子ども心を魅了していたことがわかる。

 

 年寄りの存在感も大きい。壮年期は舞台で主役(シテ)を務めていた世代が今は長老となって地謡座に並び、「肩衣を着け背筋を張って坐し、声朗々と明け方まで謡いあげていく」。中座あり、交代ありではあるらしいが、8人が「十時間近く全曲を謡い通し」というのだから敬服する。その一方で、謡いのかたわら、ワキ座にいる子らの足のしびれを気づかう様子の描写には思わず微笑んだ。孫世代の世話も決して忘れていないのだ。

 

 老若男女が入り交じって盛りあがるのが、王祇祭に先だって当屋で繰り広げられる豆腐炙り。祭り当日にふるまう豆腐料理の下拵えだ。当屋の火炉を村人20〜30人が囲み、串に刺した豆腐を炉の縁に立てて炙る。これは、男女の出会いの場でもあるらしい。「夕暮れ近く、風の如く一人の女性が入ってきた」。ちょっと目礼して炉端へ。「サッと男が一人追いかけてきて隣りに坐ると、しきりに話しかける」……。美しくも切ない場面である。

 

 東京の喧騒の陰で「地方」にはこんな豊かな世界があった。それは、五輪のように突然、誘致されたものではない。来る年も来る年も繰り返され、受け継がれてゆく暮らしとともにある。著者は後段で、その春夏秋冬も描いている。ということで、次回もまたこの本を。

(執筆撮影・尾関章、通算512回、2020年2月21日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ベルリン 分断された都市』

(ズザンネ・ブッデンベルク著、トーマス・ヘンゼラー著・画、エドガー・フランツ、深見麻奈訳、彩流社)

写真》

 うっかりしていた、というべきか。ドイツ・ベルリンの壁が崩壊して11月9日でちょうど30年となるのに先だって、当欄でもなにか書こうと考えていたのだが、いつのまにか忘れていた。それだけ遠い歴史的事象になってしまったということだろうか。

 

 だが、1週遅れでもこのテーマをとりあげよう。あの出来事は僕にとっても、物心ついてからこれまでで超断トツの大事件だった。人々が解放されるとはこういうことかと実感したのだ。僕たちの世代は1960年代末から70年代初めにかけて、解放は間近いかもしれないと思った。日本だけではない、欧米にも同様の空気があった。それは若気の至りの早とちりに過ぎなかったのだが、20年ほどして本当に解放の瞬間を目にしたのである。

 

 皮肉なのは、その出来事が社会主義体制からの解放だったことだ。1960年代末に巻き起こった若者たちの反抗は、日本の学生運動であれ、フランスのパリ五月革命であれ、社会主義を標榜する党派がかかわっていた。チェコスロバキア(当時)の「プラハの春」のように社会主義体制に対する異議申し立てもあるにはあったが、まだ世界の潮流ではなかった。ところが89年、東ドイツや東欧諸国で高まったのは、そのプラハ型のうねりだった。

 

 この構図から見てとれるのは、人々を旧体制から解放するはずの社会主義が、いつのまにか旧体制と見紛うほどの圧政を生みだしていた、という逆説だ。ただ、一つ言えるのは、僕たちは――少なくとも僕は――その捻じれに対してなんの違和感も覚えなかったことだ。それはそうだろう。1970年前後に世界の若者の多くが求めていたのは、社会主義体制ではなかった。むしろ、いかなる体制からも解放されることを渇望していたのだ。

 

 その意味では、1970年前後に解放を望んだ世代はベルリンの壁崩壊で半分しか目的を達成していない。あの出来事は、冷戦で二分された世界の東側体制の瓦解を象徴している。僕たちから見ると、壁の向こう側の解放である。では壁のこちら、西側はどうか。市場万能論で自由を謳歌しているかのように思えるが、それは経済活動の解放に過ぎない。人々はIT(情報技術)によって強化された管理社会体制にがんじがらめになっている。

 

 そう思うと、僕たちはベルリンの壁崩壊を他人事と受けとめてはならない。その壁が立ちはだかっていたころ、東ベルリンの市民はどんな暮らしをしていたのか、どのように自由を求め、そして解放されたのか。そこからは学ぶべきことが多いはずだ。

 

 ということで、今週は『ベルリン 分断された都市』(ズザンネ・ブッデンベルク著、トーマス・ヘンゼラー著・画、エドガー・フランツ、深見麻奈訳、彩流社)。著者二人は、映像  作品やイラスト、漫画の制作者。訳者の一人、フランツ執筆のあとがきによると、この本は、二人が「東ドイツ時代の出来事を当事者に取材し、5人の実話を時代を追って描いたもの」という。原著は2012年にベルリンで出版された。邦訳は翌13年刊。

 

 ベルリンの壁は1961年8月、東ドイツが「ベルリンの東西境界を閉鎖する」と決定したことで築かれた。ドイツは第2次大戦後、戦勝国の米英仏とソ連(当時)が分割して占領したが、49年、米英仏の占領域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)に、ソ連の占領域はドイツ民主共和国(東ドイツ)になった。ベルリンはそれ自体が分割占領されていたので、二つの国に分断されることになる。その都市内国境を顕在化させたのが壁だった。

 

 この本の第1話は、その1961年の出来事。高校の最終学年だったレギーナ・ツィーヴィツの体験談だ。彼女は東ベルリンに住んでいたが、国境を越えて西ベルリンに通学していた。父は教会牧師。「労働者と農民の国」では「階級敵対者」とされたので、娘も東側の高校に進学できなかったのだ。西の授業は東とは違った。東では生徒に「体制側の意見の復唱」を求めたが、西では「個人としての意見」を言うように促されたという。

 

 レギーナは、西ベルリンにある大学への入学も決まり、あとは卒業試験の口頭試問を待つばかり。その夏に東西境界閉鎖の知らせが届く。前途真っ暗とは、こういうことを言うのだろう。このままでは学校にも行けない、大学にも進めない。そこで、高校の教師や友だちが助け舟を出す。彼女と同じように髪が短い級友の身分証明書が自宅に届けられたのだ。級友は西ベルリン在住。その友人になりすませば検問を通過できる――。

 

 スリリングな作戦の詳細はここに書かない。ただ、この話で何が印象深いかは記しておこう。それは、自由を手にしている人々が自由を奪われそうな隣人に対して救いの手を差し延べるときの手法だ。そこには、柔軟な思考がある。こういうときならば他人の身分証明書を用いるという違法行為もいとわない。法よりも良心を優先させた、ということだろう。この行動様式は、僕自身の取材経験でも欧米の国際NGO(非政府組織)に特徴的なものだ。

 

 第2話は、西ベルリン側にあって壁に面する病院で働いていたウルズラ・マルヒョーの見聞記。自身は食事の配膳係、夫は看護師、住まいも病院のすぐそばにある。「通りの向こう側には東ベルリンとの境界線があります。その先は別の国、つまりドイツ民主共和国(東ドイツ)です」。そこでウルズラが目撃した光景が文章と漫画で再現されているが、ここでは漫画の視覚効果が圧倒的な威力を発揮する。この本は、漫画形式で正解だったのだ。

 

 たとえば、境界となった東側の建物で「西側へと通じるすべての出口は段階的に封鎖されていきます」とあるくだり。「封鎖」とはどんなことかと思って漫画に目を凝らすと、二階の窓を煉瓦で封じる作業が進行中だ。別の絵では、未封鎖の窓から荷物が投げ落とされている。この場に居合わせたウルズラは「脱出しようとする人に気づいても、国境守備兵に気づかれないように、なるべく平静を装うようにしています」と独白する。

 

 この一節では、このほかにもいくつかの場面が描かれている。逃げようとして屋根にへばりついている人、窓からシーツを結びあわせたものを垂らして降りようとする人……。驚かされるのは、階上の窓からぶら下がった人の腕を東側の国境守備兵がつかまえて引きあげ、その足を西側の市民がつかんで引きおろそう、としている絵だ。冷戦時代、東側と西側が接する最前線では、人間が綱引きの綱のようになる状況が見られたのである。

 

 この本には、各話の末尾に記事欄があって、ベルリンの壁にかかわるデータが盛り込まれている。それによると、壁の分断があった28年間に「少なくとも136人が国境で命を落とした」。射殺による死ばかりではない。事故死もあった。自殺に追い込まれた人もいる。忘れてならないのは、30人は脱出を企てた人ではないことだ。巻き添えになり、誤射など不測の事態で落命したという。まさに、大都市のど真ん中に戦場があったのだ。

 

 この本でもっとも劇的なのは第3話だ。東ドイツの学者兼官僚だったハインツ・ホルツアプフェルは1965年、妻と息子の3人で東ベルリンから脱け出ようとする。その起点は、なんと「合同本庁舎」。東ドイツの建国宣言がなされた場所だ。彼は夕刻、この建物のトイレに「使用中止」の貼り紙をして中に家族とともに籠り、決行のときをうかがう。そしてサーカスのように自由の地に降り立つのだが、その詳述も控えておこう。

 

 第4話では1980年代、東ドイツの青年が西側のテレビ放送を見たり、東側の高層ビルから西側の写真を撮ったり、西側の広場で開かれたロックコンサートを壁の東側で聴いたりする。そして第5話では、壁の崩壊が18歳の若者の目を通して活写される。その夜、国境の通過地点には東側市民が押しかけていたが、遮断機は下りたまま。だが、守備兵に上層部から届く命令は混乱している。そして現場判断で、ついに門が開かれたのだ。

 

 ベルリンでは、西側地域こそが本国から切り離されて陸の孤島だった。ところが、東側地域のほうが孤立していたように見える。これは、ベルリンの壁が教えるもう一つの逆説だ。体制に縛りつけられ、ひと色に染まる社会が、どれほど罪深いものかがよくわかる。

(執筆撮影・尾関章、通算498回、2019年11月15日公開、同月20日更新) 

 

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『国境の女』(夏樹静子著、徳間文庫)

写真》現場は月見橋

 いい湯だな、というのは歌の題名だ。永六輔作詞、いずみたく作曲。デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズの一つとして1966年に発表された。群馬県、すなわち上州の温泉を愛でた歌。四番まであって草津、伊香保、万座、水上の地名が出てくる。だが、彼の地の温泉郷はそれだけではない。関東平野が尽きて、上越の山々が屏風のように聳えるあたりには、山あいにまだまだ湯煙の里がある。四万温泉も、その一つだ。

 

 四万と書いて「しま」と読む。どことなく謎めいているではないか。たしか、2時間ミステリー(2H)の舞台になったこともあったはずだ。秘湯の趣があって、旅情をそそられた記憶がある。ということで今週は、その四万温泉へ1泊2日の旅に出た。

 

 四万温泉は、妙義山や榛名山などよりもずっと奥、三国山脈の水を集めた四万川沿いにある。今回、僕は東京から新幹線で高崎まで行き、そこで上越線経由吾妻線の在来線列車に乗り換えて中之条で降りた。宿のある谷あいまでは駅前からバスで約40分の道のりだが、途中下車して渓谷沿いを歩いた。沿道に温泉宿が一つ、二つと現れるあたりから、川沿いの山腹は紅葉の度合いを強め、月見橋という朱塗りの橋を渡って温泉中心街に着いた。

 

 四万の名は、いったいどこから来たのか。ネットで四万温泉協会の公式ウェブサイトに入ってみると、「四万の湯が『四万(よんまん)』の病を癒す霊泉』であるとする伝説に由来」とある。なぜ、一万でもなく五万でもなく四万なのか、と突っ込みたくもなるが、それは無粋だ。患者のDNAまで調べあげて、その人に適した治療をしようという分析の医学とは真逆のよろずや流の癒し。ここでは、その大らかさをうらやましく思おうではないか。

 

 とにもかくにも、四万温泉は湯治場だったのだ。一帯には、その湯治を求めて逗留する人々のために湯宿が開かれた。上記サイトによれば、江戸期半ばの宝暦年間には2地区に計17軒あったとする文献がある。今回は、その伝統を受け継ぐ老舗の一つに泊まった。

 

 その宿の当主は、泊り客を集めて四万温泉史を語ってくれた。そこで強調されたのは、病を患う人々向けの療養の場が近代になって観光地に様変わりした湯の町事情だ。団体客がどっと来て湯量が不足する。話を聞いて、源泉の湯を守ることの大変さを知った。

 

 で今週は、四万にも観光の波が押し寄せたころの様子をうかがわせるミステリー長編小説。『国境の女』(夏樹静子著、徳間文庫)だ。著者は1938年生まれの本格推理作家。2016年に死去した。この作品は1982年、『夏樹静子作品集』(講談社)の月報に連載されたものだ。翌年、講談社は作品集の予約購読者に対する贈呈品として単行本化。その後、講談社ノベルス、講談社文庫に収められたが、2001年、徳間文庫の1冊になった。

 

 さて、僕はこの作品を「四万温泉」×「夏樹静子」のネット検索で見つけだした。作品紹介の記述からすると、「国境」とは米国・メキシコの境界線を指しているらしい。いったい、それが上州とどうつながるのか。たぶん、『国境の女』という小説に四万温泉が出てくるとなれば、上州越後の国境(くにざかい)や、それを貫くトンネルのことを思い浮かべる人が多いだろう。だが、この作品世界は川端康成『雪国』のそれとは大きく異なる。

 

 ひとことで言えば、この作品は1980年代前後の世相をくっきりと描きあげている。あのころ、日本社会は妙に明るかった。高度成長で蓄えた力は、石油ショックくらいではへたらなかった。ちょうどバブル経済に入ろうかというころだ。国際化が進み、ニューファミリーの生活様式が広まっていたが、一方で終身雇用も年功序列も盤石だった。若い世代――それは現60超の世代ということになるのだが――は、前途に安定があると信じていた。

 

 冒頭、東京の風景描写にも、それが映しだされている。場所は麹町。「テレビ局の角を廻っていくと」とあるから、日本テレビの本社が移転するよりも前だろう。「昔ながらの酒屋やテーラー、アンティークの店など並び、それなりにまた東京らしい、しっとりとした風情のある通りだった」。ここには、旧世代になじみの商店と新世代が好む専門店が混在している。ただ、コンビニなどフランチャイズ形式の商いはまだ広まっていない。

 

 主人公、明月(あきづき)奈緒子の生活にも当時の世相は表れている。現在、27歳前後。女子大を出て家事手伝いをしていたが、見合いで商社員と結ばれた。すでに二人の子がいる。夫の達夫は米国西海岸のサンディエゴ在勤。達夫の父母を世話するため、自分は日本に残った――。女性が就職せずに家にいて、見合い結婚して舅姑と同居するというのは昔風だが、夫が海外に単身赴任というのは今日的。ここにも新旧の混在がある。

 

 ちなみに麹町には、奈緒子の女子大時代以来の親友、総子が女将をしている小料理屋がある。奈緒子は「外で酒を飲む機会などめったにない主婦なのだが、ふた月か三月に一度くらいここへ寄って、季節の料理とお喋りを楽しむことが、何よりの息抜きだった」。これは、1980年代前後の日本社会に典型的な女性像だ。旧来の道徳観に縛られているが、その枠に収まりきらない。すでに自由の心地よさを知っている世代だからだろう。

 

 そんな生活がある日、暗転する。米国からの電話で達夫の死を知らされたのだ。奈緒子がサンディエゴに着くと、達夫は動物園内で刺殺されたことを告げられる。こうしてミステリーの幕が切って落とされたのだが、例によって筋書きには立ち入らない。

 

 一つだけ明かしておかなければならないのは、奈緒子には結婚前に心を寄せる人がいたことだ。総子の兄、小磯良司。バツイチの商社員で、偶然にも達夫の先輩だった。達夫は見合いの後、結婚を迫っていたが、奈緒子は逆に良司への思いを募らせる。心の内を伝えようと決意したが、不運が重なって機会を逸する。その直後、良司は旅先で不審死を遂げた。川に落ちて心臓麻痺を起こしたのだという――その場所が四万温泉だった。

 

 その旅というのは、社内旅行だった。師走の土曜日、営業部の約30人が1泊2日で同じ宿をとり、忘年会を開いたのだ。宴会場の広間には「酔って芸者とふざけたり」する者がいた。「十時頃にはあちこちで麻雀も始まった」。職場の仲間が大挙して泊りがけで温泉地へ繰りだし、「芸者」をあげる、「麻雀」に興じる。これは、高度成長期のサラリーマン社会ならでは気晴らしだった。その行動様式が1980年前後にもまだ残っていたのである。

 

 今は、こんな慣習もほとんど消えうせた。まず、宴会に「芸者」は考えにくい。男女混合の会席で、接待役の性別が非対称というのが当世風ではない。麻雀も、もし賭けを伴うものならコンプライアンスに反する。そしてなによりも、集団行動に難色を示す若者が多い。

 

 奈緒子はそんな旧世代の行動様式の残滓を知らぬげに、良司の死を聞いて総子とともに四万温泉にかけつける。川沿いはすでに冬景色。「水の流れのほかは、すべてが雪に被われ、ところどころで湯煙がほのかに漂っている」。高台の宿に入って、二階から窓外を眺めると「道路の両側には、旅館が建ち並び」「暗い緑の樹層に被われた山腹に、無数の雪片がしんしんと降りしきる風景は、心の芯までしみわたるように寂しさをたたえていた」。

 

 奈緒子が現地で達夫から聞かされた説明は次の通りだ。良司は月見橋直下の河原で見つかった。「みんなに尋ねたところ、昨夜十時半頃まで、小磯課長は確かに広間におられた。ところが、その後は誰も彼を見てないというわけです」。その夜は雪が降っていた。四万温泉は国民保養温泉地の指定を受けていて、歓楽街もない。それなのになぜ、良司は山あいの暗がりを歩いていたのか。その謎は、5年後の達夫自身の死にもつながっていく……。

 

 この小説を読んでいて、いやでも目につくのは、1980年前後の日本の企業社会では当然視されていた男の身勝手さだ。夏樹静子は、それが海外の進出先にも及んでいることをさらりと描いた。上州温泉郷と米国西海岸の取り合わせが、そこでは絶妙の仕掛けになっている。一つ言い添えたいのは、奈緒子が男社会に振り回されながらも被害者意識に囚われず、冷静であることだろう。あの時代、男女のありようは確かに変わったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算497回、2019年11月8日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)

写真》駅名

 私事だが、スマートフォンの保存フォルダーに、これぞ昭和という画像がある。ひなびた駅のプラットホームで写した集合写真。男女総勢10人ほどが並んでいる。働き盛りの20〜40代とみられる人々だ。背広姿で髪は七三分け、ネクタイを締めた男性たちがいる。スーツ姿でスカートをはいた女性たちがいる。画像に撮影年月日のデータはないが、この装いからみて昭和の高度成長期かその余韻が残るころに撮られたとみてよいだろう。

 

 職場の懇親旅行であることは、ほぼ間違いない。服装がカジュアルでないのは、推察するに週末1泊2日の旅程だったからではないか。あのころはまだ、週休2日制が日本社会に広まっていなかった。勤め人は、土曜日も出勤して昼まで働いた。この人たちもおそらく、土曜の昼過ぎにようやく仕事から解放され、通勤服のまま行楽地に赴いたのだ。だから、職場をそっくり切りだしたような雰囲気を旅先まで引きずっている。

 

 この画像は最近、親類の葬儀で披露された故人のスナップ写真をスマホの内蔵カメラで写し取ったもの。故人は1960年代から硬派の法人で働いていた。その堅実な職業人ぶりが偲ばれる1ショットを僕自身の記憶にもとどめておこう、と思ったのだ。

 

 で、その集合写真を見ているうちに故人の懇親旅行にもう一歩踏み込みたくなった。これはいったい何線の何駅なのか。そんな問いが頭をもたげたのだ。画像には、いくつかのヒントがある。背後の駅名表示板は大半が人々の陰に隠れているが、冒頭の1文字だけは見てとれる。ひらがな表記では「し」、漢字では「下」、ローマ字では「S」。ローマ字の2文字目上部が縦棒2本のこともわかる。「SH」? 「した」か「しも」で始まる駅名らしい。

 

 ヒントは、もう一つ。隣駅の名が、ひらがな表記で2文字見えるのだ。「はだ」である。そのローマ字表記も「HADA」の4文字がはっきりしている。5文字目は微妙で、左側に縦棒が1本あり、そこから右に横方向の枝が出ている。「F」とか「K」とか「P」とか「R」とか、そんな文字が思い浮かぶ。日本の鉄道で「下…」という駅が「はだ…」という駅と隣りあっているところはないか――こうして僕の探索が始まった。

 

 これは、まるでミステリーだな。不謹慎なことだが、2時間ミステリー(2H)ファンの好奇心がうずいた。今の時代はネットという最強の味方がある。なんとかなるかもしれない。そう思っていろいろ検索すると、最後は正解と思われる駅名にたどり着いた。そこは、東京のオフィス街で働く人々が1泊2日で気分を一新するのに手ごろな温泉地だったが、ここで種明かしするのは控えておこう。みなさんご自身の手でぜひ謎解きを。

 

 で、今週は『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)。表題作を含む短編10作品が収められている。奥付によれば、初版は1965年、そのあと改版されてはいるが、おおむね60年代半ばまでに発表されたものを集めているとみてよいだろう。

 

 ページを繰っていくと、むかし読んだことに気づく作品がある。著者の短編集は複数の版元から多様な組み合わせで出ているから、別の本で出会っていたのかもしれない。読んではいないが、ぼんやり筋を思いだせるものもある。テレビでも著者の作品を原作とするドラマが量産されているのだ。ミステリーが既読既視というのは謎解きの醍醐味を激減させるが、それでも読みたい気になるのは作品に筋書きとは別の魅力があるからだろう。

 

 その一つが旅情だ。著者の作品では、代表作『点と線』のように列車のダイヤが事件の謎を解くカギとなっていることがあるが、そうでなくとも鉄道が欠かせない。理由は、作品の主人公が東京の住人であっても事件は都内で完結せず、「地方」での出来事を伴うからだ。両者を結ぶ仕掛けとして鉄道がある。著者は、中央と地方を対比させる作家だった。そのモチーフが、旅情を呼び起こして読み手の心をつかむことにもなったのである。

 

 短編集『駅路』にも、表題作の題名に暗示されているように旅の話が多く出てくる。執筆年代は前述の通りなので、新幹線はまだない。だからこそ、東京からみると地方は途方もなく遠い。そのことで主人公には、東京とは別の座標系が用意されていることになる。

 

 新幹線の不在を痛感させられるのは、「ある小官僚の抹殺」という作品。「昭和二十×年」の話だ。このなかで、中央官庁の課長が岡山県内へ視察に出るときの旅程を見てみよう。東京駅20時45分発の下り急行「安芸」で旅立ち、翌朝10時37分に岡山到着。それから4日間をかけて県内6カ所の食品工場を見て回ることになっていた。今なら日帰りで済む出張がほぼ1週間がかり。この距離感は、僕が幼いころには間違いなくあった。

 

 この小説では、課長が予定を大幅に変える。岡山に着くなり、出迎えた工場関係者に「今日はどうしても東京に帰らねばならぬ」と言いだして、切符を用意させるのだ。その列車は岡山16時37分発の上り急行「さつま」。今日帰るとは、今夜の夜行で帰途に就くことを意味した。ちなみに急な予定変更の理由は、往きの夜行列車が姫路駅に着いたときに買った朝刊の記事にあったらしい。駅売りの新聞が最速の情報源という時代だった。

 

 新幹線は大都市間の瞬間移動装置に近いが、在来線には移動の途中がある。それを感じさせるのが「誤差」と題する一編。「宿は六軒ぐらいだった」の一文で始まり、「東海道線から私線で二時間ばかり山奥に入る湯治場である」と続く。そう言えば、在来線で旅行していると、停車駅に私鉄電車のホームが併設されているのを見かけることがある。地方都市はただの通過点ではない。そこから先にまた別の世界が控えていることに気づかされる光景だ。

 

 その「湯治場」は「H鉱泉」だ。近くは「仏法僧の棲息地(せいそくち)」。秋が深まれば「渓谷が紅葉に彩(いどろ)られる」という。こんな記述に触れると、読者はそれがどこだか知りたくなる。ただ、「H鉱泉」「仏法僧」を手がかりにネット検索をかけてみても、「下…」「はだ…」で駅を特定したようにはぴったりの地名が出てこない。もしかしたら架空の設定なのか。だが怒るまい。小説には虚実の空間をとり交ぜてもよい特権があるからだ。

 

 「捜査圏外の条件」という一編は、昭和20年代半ばに東京で銀行員だった男の話。事情があって山口県のセメント会社に転職する。「東京と本州の果ての海沿いの小さな町。銀行とセメント会社、環境の隔絶はまず申し分がなかった」。これこそが、著者がこだわる中央と地方の対比だ。興味深いのは、男が出発する日、東京駅で同僚たちに見送られることだ。当時、長距離列車のホームは人生の転機にある人に対する激励の場だった。

 

 「万葉翡翠」には昭和の駅の別の顔がある。登山客が夜行列車に群がる新宿駅。「乗客たちはホームから地下道の入口まで一列に坐(すわ)り込んで乗車を待った。ほとんどが若い人ばかりで、リュックの上に腰掛けたり、新聞を下に敷いて本を読んだりしていた」

 

 表題作「駅路」からも、あの時代の中央と地方の関係が浮かびあがる。失踪の物語。冒頭まもなく「この年の春、小塚貞一は、某銀行営業部長を停年で退職した。その骨休みというか、しばらく東京を離れて遊んで来る、と家人に言い遺(のこ)している」とある。

 

 捜索願が出されると、刑事たちが家にやって来る。そこで探りだされるのが、中央の銀行員の地方都市とのかかわり方だ。小塚は本社の部長職に就く前、広島と名古屋で支店長をそれぞれ2年間務めていた。出世の階段となる転勤によって地方を知ったのだ。そして、趣味は旅をして写真を撮ること。妻の説明によれば「独り旅で、勝手に出かけるのを好んでいた」という。果たして「骨休み」「遊んで来る」は漂泊願望の表れだったのか。

 

 アルバムを見せてもらうと、玄人はだしの写真がぎっしりと並んでいる。北陸の東尋坊、永平寺、中部の下呂温泉、犬山、木曽福島、蒲郡、関西の京都、奈良、串本……。この旅先を見て、刑事はあることに思い至る。ここが、このミステリーの読みどころだ。

 

 清張の旅情からは、中央と地方の昭和戦後的な結びつきがよく見えてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算480回、2019年7月12日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

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『眼の壁』(松本清張著、新潮文庫)

写真》眼の先に壁

 平成最後の年越しが近づいた。世は平成回顧一色。これで昭和は、セピア色の彼方へ押しやられた感がある。昭和、とりわけ戦後期は今の世と分かち難く結びついているのに、その接続が忘れられている。ぼーっと懐かしんでいるんじゃないよ、と言ってみたくなる。

 

 そんな思いに駆られる椿事が最近あった。改造まもない内閣でサイバーセキュリティー対策を担当することになった大臣が、国会の野党質問に「自分でパソコンを打つことはない」と答えたという話である(朝日新聞2018年11月15日朝刊)。この報道で僕が気になったのは、メディアがおしなべて、あっけにとられたという取りあげ方をしていたことだ。そこには、昭和人を化石扱いしているようなイヤな感じがあった。

 

 もちろん、この大臣発言には僕も苦笑いした。ただ笑ってから、待てよとも思った。コンピューター犯罪を封じようとする人がパソコンのいろはも心得ていないのは、たしかに心もとない。だがひと昔前、それは当たり前のことではなかったか。デジタル化の旗を振る指導層にはパソコンのパの字も知らない人が多かった。企業では、万年筆を愛用し、ハンコでしか決済したことのない経営陣が社員にキーボード作業を求めたのだ。

 

 逆説めくが、日本のデジタル化はデジタル化についていけない人々が牽引してきたと言ってよいのかもしれない。それでも、これだけの水準に達したのだから見あげたものだが、後続世代がもっと早く世の指導層に躍り出てデジタル社会の設計を主導していたのなら、IT(情報技術)は今よりも上手に使われていたようにも思う。20世紀末からのデジタル化はあまりにも急速だったので、新世代の登場を待つだけの余裕がなかったのだ。

 

 僕自身の体験を語らせてもらおう。勤めていた新聞社では、1980年代半ばからワープロの導入が進み、90年ごろにはワープロ専用機が全記者に行き渡った。それが90年代半ばにはパソコンに取って代わられる。日本社会にインターネットが広まったのが95年ごろだから、これは世間標準の歩みだったとも言える。僕の時間軸で言えば、30代でワープロになじみ、40代でパソコンを覚えた、否、覚えさせられたのである。

 

 先輩世代はもっと大変だった。コンピューター用語を人前で連発するような新しがり屋もいるにはいたが、圧倒的多数はしぶしぶキーを叩き、しばしば誤操作をしていた。原稿を書くのに最後まで鉛筆やペンを手放さなかった人もいる。デジタル弱者の集団だった。

 

 こう考えてみると、サイバーセキュリティーを担当する閣僚の「パソコンを打つことはない」発言に人々があきれた状況は、この20年間の様変わりを如実に映している。デジタル弱者が社会の一線から退き、議会もメディアも大多数がデジタル化したのである。

 

 今回の騒動で心にとめたいのは、この閣僚批判をデジタル弱者に対する嘲笑に結びつけてはならないということだ。パソコンが苦手な人は、サイバーテロ対策の指揮には不向きだろう。だが、社会人として失格なわけではない。パソコンを使わないからこそ見える世界もある。そもそも1990年以前に世を去った人々は、そういう世界しか知らなかったのだ。僕たちは、かつてあった「パソコンを打つことはない」文化にもっと敬意を払ってよい。

 

 で今週は、パソコンとは無縁の清張ミステリーを選ぶ。長編『眼の壁』(松本清張著、新潮文庫)である。1957年、すなわち昭和32年に『週刊読売』誌の連載小説として世に出た。巻末にある中島河太郎執筆の解説によれば、同年は代表作『点と線』も『旅』誌に連載されており、翌58年に両作品が単行本になると「圧倒的な歓迎を受け、推理作家としての著者の地位を不動にした」という。今回手にした文庫版は1971年刊。

 

 例によって筋は追わない。まずは、時代を感じさせる言葉たちを拾おう。冒頭まもなく、主人公の昭和電業製作所会計課次長、萩崎竜雄が上司の課長とともに訪れるのが、東京駅の「一二等待合室」。課長が人と会うというので、お伴をしてきた場所だ。ドアはガラス張り、青いソファが並んでいる。壁には国内観光地のレリーフが飾られ、ローマ字で地名が添えられていた。外国人客が多く、モダンな雰囲気。今で言うVIPルームだ。

 

 「一二等」と聞いても、若い世代にはピンと来ないだろう。このころ、国鉄(現JR)の普通車は「三等」だった。僕たちが旅行で乗るのはたいてい三等で、一等の記憶はない。二等車は背もたれを斜めに倒せたような気がする。駅の待合室にも等級分けがあったとは。

 

 東京駅と言えば、大阪へ転勤となった専務を部下たちが見送る光景も出てくる。列車は「特急下り『はと』」。新幹線どころか在来線特急のこだまも、まだない。送る人がホームで手を振り、送られる人は窓から身を乗り出してそれに応える。あのころの定番儀礼だ。

 

 「日ペリ」には、僕も戸惑った。全日本空輸の前身、日本ヘリコプター輸送のことだ。ANAグループの公式サイトによれば、改名は1957年暮れで、それまでは愛称が「日ペリ航空」だったという。社名はヘリでも飛行機を飛ばしていた。興味深いのは、この小説の重要人物が東京から名古屋へ向かうのに空路を選んだことだ。別のくだりで、東京・名古屋間は列車なら「急行で6時間」とあるから、この選択も不自然ではなかったのだろう。

 

 僕が今回、当欄に記録しようと思うのは新聞社の通信網だ。この作品では、メーカー社員の萩崎が自社を陥れた経済犯罪の真相を暴くべく調査活動に奔走する。相棒は、元学友の新聞記者田村満吉。二人は列島のあちこちに足を運ぶのだが、旅先で力となったのが、新聞社が中小の都市に置く「通信部」だった。記者一人が職住一体で家族とともに駐在しているところが多い。ちなみに僕が勤めた新聞社では、これを「通信局」と呼んでいた。

 

 たとえば、三重県の宇治山田。「通信部といっても普通の家で、八百屋と菓子屋の間にはさまれて、不似合に大きな看板が出ていた」とある。田村が訪ねたとき、応対に出てきたのはエプロン姿の女性だった。記者の妻だ。夫は不在。局舎にあがると「六畳くらいの古びた畳の中央に応接台があり、片隅に仕事机があった。綴込(とじこ)みの新聞やザラ紙が周囲に雑然と散っていた」。畳敷きはいかにも古風だが、概ねこんな感じではある。

 

 「ザラ紙」をイメージできない向きもあろう。パソコン・ワープロ時代以前、新聞記者の机に置かれていたわら半紙の束のことだ。はがきほどの大きさで、原稿用紙だが升目はない。ザラ原とも呼んでいた。記事1行を1枚に収めて書くところがミソ。利点は、デスク(出稿責任者)が下手くそな原稿を受けとったとき、紙の順番を入れ代えて手直しできることだった。その手作業は、ワープロソフトの「切り取り」と「貼り付け」に相当する。

 

 こうした「通信部」「通信局」が新聞社の生命線だったことが、この作品からは浮かびあがってくる。長野県の白馬山麓で田村は言う。「おれは今日、松本の通信部に寄らねばならん。ほかの連中と電話連絡を取る必要があるからな」。取材データを同僚に伝えようとしても、携帯電話はない。市外通話は交換手が介在する方式だったので固定電話が欠かせないが、その普及率もまだ低かった。社の地域拠点は文字通り、通信の中継基地だったのだ。

 

 この交換手方式の電話は僕も経験していない。この作品は、その様子を教えてくれる。萩崎もあとから松本通信部を訪れると、田村は足場を木曾福島通信部に移していた。そこで、松本から木曾福島に電話をかける。受話器の向こうで田村がちょっと黙ると、交換手が「もしもし」と割って入る。話が終わりかかると「間髪をいれず、交換手が『時間です』とじゃけんに言って電話を切った」。密談しても、第三者が黒衣のように存在していたわけだ。

 

 田村や萩崎を助ける通信部の記者は、町を自転車で駆けまわり、夕方に仕事を済ませると酒を飲みに出る。大新聞は上から目線に陥りがちだが、それと無縁な新聞文化が地域ごとに根づいていた。いま新聞社は取材網を細らせ、列島には記者のいない町がふえている。

 

 歳末には清張世界に浸りたい。それは近過去のセピア色をひととき拭い去ってくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算451回、2018年12月21日公開)

 

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『風の歌を聴け』(村上春樹著、講談社文庫)

写真》

 自らの会社員人生を振り返って、気づくことがある。社歴36年のうち、僕にとっては故郷と言える東京を完全に離れたのは、通算12年間。これには、家族を都内に置いて単身赴任した年数を含んでいない。1977〜86年は西日本にいて、92〜95年は海外に駐在中で、東京の空気をほとんど吸わなかった。それで思うのだが、この二つの空白期は戦後日本社会の曲がり角とぴったり重なるのではないか、ということだ。

 

 いずれのときも、東京に戻ってきたら日本が変わっていた、と痛感したのである。

 

 こんなことを言うと、東京イコール日本とみる東京出身者の傲慢だと指弾されるかもしれない。1990年代半ばはともかく、80年前後は列島にとどまっていたのだから日本社会の変化を感じとれたはず、というわけだ。だが転勤者にとっては、転勤先の新鮮な驚きが時代の変化によるものか、土地古来の文化によるものかが判別しにくい。時間変化が地域差に隠れてしまうのだ。だから、定点観測点に立ち戻って初めて見えてくるものがある。

 

 1992〜95年の曲がり角は、わかりやすい。それは、バブル経済の崩壊期に重なる。崩壊そのものは僕が日本を離れる前から起こっていたのだが、不在中に影響が浸透して、戻ったときには世相が一変していた。高度成長期やバブル期の緩さが消えたのだ。それまでは、よく言えば寛容、悪く言うと杜撰な行動様式が世間のあちこちにあったが、それがバッサリ斬り落とされた。責任追及→謝罪の図式が企業社会に広まったのも、このころだ。

 

 では、1977〜86年はどうか。この変わり目は、全体としてはぼやけている。経済の視点で言えば高度成長が石油ショックで頓挫した直後で、バブルが兆していたが、まだ絶頂期には至っていない。そんな曖昧な過渡期でも東京に帰郷して目についた日本社会の変化がある。なによりも、同世代のいで立ちが変わっていた。長髪をばっさり切って会社員然とした人、小ぎれいなジーンズを穿いてニューファミリーを営みはじめた人……。

 

 象徴的なのは、新宿の様変わりだ。前衛を気取った映画館やジャズ喫茶に往時のにぎわいはなく、街の吸引力は家電量販店に移っていた。新宿は対抗文化の拠点(当欄2018年3月16日付「中央線でオレンジ色の時代を旅する」)としての輝きを失い、代わって存在感を高めていたのが渋谷だ。公園通りの界隈は、ニューファミリーの嗜好に合う消費文化の発信基地と化していた。これが9年の不在後、僕が東京で目にした風景だ。

 

 ちょうどそのころ、風のように現れた作家が村上春樹である。1979年に群像新人文学賞を受けた「風の歌を聴け」でデビューした。この賞の当選作一覧を見ていて、ああそうだったんだ、と今さらながら感慨に耽ったのは、3年前の76年受賞者に「限りなく透明に近いブルー」の村上龍がいたことだ(当欄2014年7月12日付「限りなくに近い1970年」)。二人のムラカミ。その作風を比べると70年代後半の不連続が見えてくる。

 

 龍が対抗文化の極まった1970年前後の空気をすくい取って作品化した人であるとするなら、春樹はポスト70年の時代状況をいち早く先取りした人だったと言ってよい。ちなみに龍は52年生まれなのに対し、春樹は49年に生を受けている。順番としては逆だ。49年生まれと言えば、対抗文化の主役を演じた団塊世代。彼自身も、大学を出てからジャズ喫茶を営んでいたという。その人が次の時代を予感していたのである。

 

 で、今週の1冊は、その新人賞受賞作『風の歌を聴け』(村上春樹著、講談社文庫)。この文庫版は2004年に出た。興味深いのは、小説そのものは1970年8月の出来事を綴っているのに、読んでいるとポスト70年の風が吹いているように感じることだ。

 

 この作品を特徴づけているのは、冒頭の章と、結びの「あとがきにかえて」だろう。そこに書かれているのは「僕」の小説家としての思い。影響を受けた作家として「デレク・ハートフィールド」という人物が出てくる。ヘミングウェイやフィツジェラルドと同時代を生きた故人で「1938年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りた」とある。

 

 さて、そんな作家いたのかな、と思う。これほど芝居がかった自殺事件があったかなあ、ともいぶかる。だが、この人が1936年に書いたという著述物の引用を読んで妙に納得する。「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである」。そこで求められているものは「感性」ではない。むしろ、「ものさし」だというのだ。的確と言えば的確。もっともらしく聞こえる文章論ではないか。

 

 「あとがきにかえて」は「ハートフィールド、再び……」と題されている。そこで「僕」は、この作家との因縁を打ち明ける。高校時代、神戸の古書店でまとめ買いしたペーパー・バックスが彼の作品だった。本は劣化の度合いからみて、船乗りとともに太平洋を越えてきたらしい。歳月が流れ、「僕」はハートフィールドの墓を訪れる。ニューヨークからグレイハウンド・バスでオハイオへ。墓のそばで目をつぶり、雲雀の声に耳を傾けたという。

 

 いい話ではないか。その作家がいたのかいなかったのか、そんなことはどうでもよい。港町の匂いがする古本との出会い、風がそよいでいそうな町はずれの墓地、そして警句めいて核心を突いた文章論――現実か非現実かを問わず、それらで僕たちは心地よくなる。

 

 告白すると、このハートフィールドのくだりで僕は既視感を呼び起こされた。1970年前後の若者文化が皮肉られているように感じたからだ。映画監督と言えばジャン=リュック・ゴダール、ミケランジェロ・アントニオーニ……。ヌーヴォーロマンならばアラン・ロブ=グリエ、クロード・シモン……。現代米国文学ではヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラー……。外来の固有名詞を粋がって並べたてていた悪習が自嘲気味に思いだされる。

 

 そう思うとこの小説は、ハートフィールドの登場だけで十分にポスト70年なのだ。

 

 著者が張りめぐらせた仕掛けは、ほかにもある。11章の書きだしは、四角囲みで「ON」の2文字が振られ、「やあ、みんな今晩は、元気かい?」。ラジオのDJらしい。で、放送中に曲が流れる段になると「OFF」の四角囲みが現れる。「ねえ、クーラーもっときかないの?」「野球はどうなってる?」「他の局で中継やってんだろう?」と楽屋話だ。この章は、本来の筋と無関係の間奏部分。それが、読み手の気分を軽快にしてくれる。

 

 主人公「僕」の友人、「鼠」が語る小説の話も間奏だ。彼は、1年前に読んだ本をぼろくそにけなす。「不治の病」を患う女性が「海岸の避暑地にやってきて最初から最後までオナニーする」という作品。「俺ならもっと全然違った小説を書くね」と構想を披歴する。

 

 それは、こんな感じだ。太平洋で船が沈んだ。「俺」は浮輪をつかんで漂い、星空を仰いでいる。すると、女がやはり浮輪を使って近づいてくる。二人は船からこぼれ落ちた缶ビールと缶詰で酒盛りを始めるが、やがて女は泳ぎ去り、「俺」は救援機に助けられる。「それでね、何年か後に二人は山の手の小さなバーで偶然めぐりあうんだな」。これを聞いた主人公は「セックス・シーンの無いこと」と「一人も人が死なないこと」に長所をみる。

 

 「セックス」も「死」も要らない理由として主人公が書き添えているひと言は、見逃せない。「放って置いても人は死ぬし、女と寝る」。公正を期して言えば、ここで「女と」とあるのは「異性と」とすべきだろう。ただ、言いたいことはよくわかる。翻って70年文化は、放って置くべきものをことさら取りあげて、ドロドロとした世界を現出させようとしていたのではなかったか。それをすり抜けたところに著者、村上春樹はいる。

 

 『風の歌を…』の筋そのものは、「鼠」の小説よりも70年っぽいように思う。それについては、ネタばらしになるのでここには書かない。ただ僕が感心するのは、著者はふつうならばドロドロになる物語をサラサラにして聴かせてくれる語り部だということだ。

(執筆撮影・尾関章、通算446回、2018年11月16日公開、同日更新)

 

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『闘うフェミニスト政治家――市川房枝』(進藤久美子著、岩波書店)

写真》女性国会議員1割

 平成の世であまり聞かなくなった言葉の一つに「婦人」がある。たとえば、婦警さん。婦人警官は今、警官の性別を言い表す必要があるときでも女性警察官と呼ばれる。ほかでも世事全般、部署や役職や文書の名前で「婦人→女性」の言い換えが進んだ。

 

 「婦人」は差別語とされたわけではない。ではなぜ、嫌われたのだろう。「夫人」を連想するからか。「○○夫人」は夫たる○○に付随する人のような印象があるので避けたい呼び方だが、「首相夫人」「大統領夫人」は健在。なぜか、同音の「婦人」が割を食っている。

 

 もう一つは、「婦人」よりも「女性」のほうが進歩的であり、おしゃれでもあると感じる人が多いからだろう。そのことは、婦人雑誌と女性誌の語感を比べてみればすぐわかる。婦人雑誌は、専業主婦向けに家事の知恵も載せた古色蒼然の月刊誌という感じだが、女性誌と聞けば、キャリアウーマンの関心事をとりあげ、ファッショングラビアが満載されている出版物を思い描く。この差が、じわじわと「婦人」を追い払っていったのだ。

 

 こうしたバイアスを除くと、「婦人」はそれほど悪い言葉ではない。「女性」という熟語には「性」が組み込まれ、生物学的な性が強調されすぎるきらいがあるが、「婦人」なら男女の問題を社会の文脈で論じることができそうだ。ジェンダーという言葉が広まったのと同様の方向性がある。ただ難点は、「婦人」の相方が男性には見当たらないことだ。女性警官という言葉を使うとき、男の同僚は男性警官になる。だが、婦警に対語はない。

 

 僕たちが子どもだったころ、すなわち1950〜60年代は「婦人」が世の中にしっかり根を張っていた。卑近な例では、落語家が話のまくらで「今どきのご婦人は……」とよく言っていたことを思いだすが、ニュースでしばしば耳にしたのは「婦人運動」だ。

 

 余談だが、私的な思い出にちょっと浸らせてもらおう。僕が生まれ育った町内には、婦人運動の闘士といわれる高齢女性がいた。戦前、婦選運動にかかわっていたらしい。子ども心に選挙権がかつて男性の占有物だったと知ったのは、その話に接したときだったと思う。彼女については、少年にとっても解せないことがあった。いつも地味な着物姿で、政治向きのこととなると、とびきり右寄りの人だったのだ。それが、婦人運動とどう結びつくのか。

 

 で、今週の1冊は『闘うフェミニスト政治家――市川房枝』(進藤久美子著、岩波書店)。市川房枝(1893〜1981)、懐かしい名前だ。僕たちの世代には、参議院の少数会派第二院クラブに属し、院の内外で気骨のある政治活動をしたシニア女性政治家として脳裏に焼きついている。この本のカバー袖にも、彼女は「『政治は生活を守るためにある』を政治理念」に「金権政治を許さず女性の基本的人権と恒久平和を守ろうとした」とある。

 

 著者は1945年生まれ、米国の大学院でも学んだことがある元東洋英和女学院大学教授。専門は、アメリカ史とジェンダー研究で、日米の政治史を社会的性差の視点から読み解く著書を次々に出してきた。この本も、その流れにある。今年8月に出たばかり。

 

 僕がこの本に惹きつけられたのは、目次に「婦選運動」の4文字があったからだ。もしかしたら、わが郷土の着物姿の闘士が登場しないか。そんな井戸端的な好奇心から、どんどんページを繰っていったのだが、残念なことに彼女の名は見つからなかった。ただそれでも、この本は僕が少年時代にぶち当たった疑問に謎解きの鍵を与えてくれた。戦前婦選運動の様相についてだ。今回の拙稿では、そこに焦点を絞って話を展開していこうと思う。

 

 ことわっておくと、僕の関心は著者が力点を置いた主題とは必ずしも合致しない。目次を見ればわかるが、「婦選……」を章題に掲げたのは序章「婦選運動と戦争」のみ。第1〜3章と終章は、いずれも市川の戦後史を描いている。女性が参政権を得てから、彼女がどのように「金権政治」や「保守的女性観」や「再軍備化」とたたかい、生活本位の政治をめざそうとしたか、の詳述だ。だが、その底流に戦前戦中の経験があるのもまた事実だ。

 

 それは、市川がクリーン政治家としての名声を得たころ、メディアがほとんど目をつぶった史実に触れれば、わかってくる。彼女は1947年春から50年秋まで、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のもとで公職追放の身にあった。「大日本言論報国会理事の任にあった」のが理由だ。男女平等の選挙権という民主主義を追い求めていた人が民主化をめざすGHQから排除されるという皮肉。だがそれは、苦渋に満ちた自身の軌跡の帰結だった。

 

 著者は、婦選運動の起点を1924年の「婦人参政権獲得期成同盟会」(後の「婦選獲得同盟」)の発会に置く。関東大震災の翌年で「震災後の極端な物資不足への対策や救援活動のため」に「女性たちの社会的活動」が求められていたという。大正デモクラシーの風を受けて、翌25年には「婦選三案」が帝国議会に上程される。「婦人公民権」「婦人参政権」の建議案と「婦人結社権」の法律案。三つは、採択されずとも政治課題にはなったのだ。

 

 この年は、日本社会の曲がり角にあたる。成人男子の普通選挙を定める法律が治安維持法と「抱き合わせ」で生まれたのである。「普選の次は婦選」の機運が高まる一方、「婦選運動を社会主義運動と同様に『国体の変革』につながる」とみる警戒論も強まっていた。

 

 この本から市川の足跡をたどると、1921年には米国へ渡り、女性が参政権を得て間もない現地の状況を見ている。帰国後は国際労働機関(ILO)の東京支部に勤め、炭鉱や繊維職場で働く女性たちについて調べた。外で自由主義に触れ、内で労働現場にも通じたことは、度量の広い政治感覚をもたらした。彼女は28年、獲得同盟のメンバーとして婦選運動の結集を提案、その結果、「左右両翼女性組織の大同団結」が実現したのである。

 

 婦選運動には二つの方向性があった。一つは「家制度の社会で女性たちが唯一認められた活動の場は、生活の場としての家庭(台所)」と割り切る生活志向。東京市内のガス料金値下げ運動などが、これに当たる。もう一つは、女性は「清廉潔白な性」と自負して進める社会活動。男性の普選を監視するという選挙浄化運動がそうだ。興味深いことに、これらは、市川が戦後、女性議員として生活者の立場から反金権を訴えた姿勢につながっている。

 

 ただ著者は、これを弱点ともみる。生活志向であれ選挙浄化であれ、女性はこうあるべしという役割固定の通念が見え隠れしていて「保守的社会の体制にすり合わせ開発された」と分析、それらは「民主的社会のあるべき姿としての婦選要求とは、本質的に異なる」として、「体制が全体主義化するなかで、かぎりなく体制にからめとられていく契機となり得た」と論じる。実際、日本の婦選運動は、このあとその弱点ゆえに道を誤ることになる。

 

 転機は1931年の満州事変だ。議会内に婦選支持派がふえ、公民権と結社権の実現間近とも思われていたが、それどころでなくなったのである。市川は事変直後、「非戦の立場から、関東軍が自衛を口実に中国大陸で軍事制圧を拡大し続けることを強く批判した」。ところが37年に盧溝橋事件が起こると一転、政府に「ある程度協力する」立場をとるようになる。そこには、「婦人子供」の幸福を「国家社会」のそれと一体視する論理があった。

 

 そのころ、政府は国民精神総動員(精動)運動を始める。市川も婦選の同志とともに「実践すべき事柄」の絞り込みに加わる。選ばれたのは「祝祭日の国旗の掲揚」「毎朝の神仏礼拝」「質素な服装」「早寝早起き」……。僕はふと、郷土の婦選闘士のことを思った。

 

 市川らしい言動もあった。精動を「単に『上意下達』の運動にするのではなく、『下意上通』の自主的側面の強い運動に」と呼びかけたこと、家族制度を守らんがゆえに女子徴用をためらう東條英機首相に「封建時代の思想から一歩も出ていない」と反発したことだ。

 

 この本で痛感するのは、僕が市川房枝の半分しか知らなかったことだ。残りの半分からは戦時、平和主義者が戦意高揚に加担させられるからくりが見えてくる。それは「生活者」「ボトムアップ」「男女共同参画」の美辞ものみ込み、自らの栄養にしてしまうだろう。怖い。

(執筆撮影・尾関章、通算439回、2018年9月22日更新

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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