『マッちゃん84歳 人生店じまいはムズカシイ』(沼野正子著、岩波ブックレット)

写真》アラ8を準備する

 僕にも介護に縛られる日々があった。おととし、母が老いて在宅で寝たきり生活の末、逝ったのである。家族や知人と交代で、病床を見守りつづけた。ヘルパーさんや訪問看護師さんが代わる代わるやって来る。訪問診療のお医者さんも、週1回の往診のみならず、容体の変化に応じて夜中でもかけつけてくれた。僕や家族はそうした支援ネットワークの中心にいて、問題が起こるたびに医療や介護の方針選択を迫られたのである。

 

 あの1年間は、それまでとはまったく異なるものだった。まずは、電車に乗って出かけることが激減した。キホンは地元町内にいて、ヘルパーさんや看護師さん、お医者さんをひたすら待っている。そこにあるのは、地域の医療看護介護圏という小宇宙だった。

 

 その渦中にあって、忘れていたことが一つある。それは、自分自身も遠からず看取られる側になるという世の定めだ。介護していると、自分は若いという錯覚にとらわれる。ヘルパーさんや看護師さんを手伝って、ベッドに横たわる母の体を動かしていると、自分は力仕事ができるのだから年寄りじゃない、と勘違いする。母に対して「今度は、息子さんのほうを向きましょうね」という声がかかるのを耳にすると、少年に戻ったような気にもなる。

 

 だが、これはとんでもない誤りだ。母の享年は89。その時点の僕の年齢は67。ザクッと言えば、20年たてば自分も同じ立場になる。ここで問題は、20年をどうみるかだ。誕生の瞬間からはたちになるまでととらえれば、長かったようにも思える。だが、2000年から今年まで、というなら短い。アル・ゴア対ジョージ・W・ブッシュの米国大統領選を顧みるように今年の大統領選を振り返るころ、自分は介護される側になっている。

 

 これにはもちろん、大きな前提がある。病気や事故なしに天寿を全うする、ということだ。そう考えると、僕たちの前途には二つの未来のいずれかがある。介護されるよりも前に世を去るか、あるいは、生き延びて介護されることになるか。どちらに転ぶかは自分で決められないので、後者になったときのことは今から考えておいたほうがよい。他人にかける迷惑を最小化して、それなりに心地よい生を送りつづける道を探らなければなるまい。

 

 で今週は、そんな未来を真正面から受けとめる本。『マッちゃん84歳 人生店じまいはムズカシイ』(沼野正子著、岩波ブックレット)。著者は1935年生まれ。東京芸術大学卒の絵本作家で、イラストレーターでもある。この本も漫画仕立て。実体験を綴ったエッセイのようにも読めるが、主人公の名は「マツノマツコ」となっている。話を普遍化するために虚構も交え、苦笑微笑を誘うスパイスも利かせたのだろう。2019年12月刊。

 

 最初の章は、主人公の自己紹介。「わたし、絵描(イラスト)屋マッちゃんことマツノマツコ、ただいま『アラ8』。絵本作家デビューは35歳」(改行なしに引用、以下も)。もともと夫婦と子ども二人の核家族。在宅で家事をしながら仕事をこなしていたが、実母が80歳になるころ、彼女を自宅に引きとった。そして今、「みんな、それぞれのところへ行ってしまい、気がつけば、我が身も『アラ8』!」。立場が逆転したわけだ。

 

 第2章は「この歳にならなきゃワカラナイヨ!」。書きだしで「この先の老化について考えはじめると、97歳まで長らえた、母親キイちゃんの晩年の人生は、あれでよかったのだろうか?」と自問する。「母親と娘だからといって、30年ぶりにともに暮らすのがどういうことか、まったく考えのなかったわたし」。親が老いれば、そばに寄り添うのが親孝行だとふつうは思う。だがそれが、ありがた迷惑に感じられることもあるらしい。

 

 キイちゃんは、それまで一人で家事を切りまわしていたが、ある夜、電話で「アタシこの頃なんだかヘンなのヨ〜」と言う。どうヘンなのかは、家を訪ねるとすぐわかった。食料品は1日1回、近所のスーパーに通って調達しているのだが、「気がついたら、冷蔵庫の中は、食べもしない同じ食べ物でいっぱい!」。認知能力に問題あり、の黄信号か。マッちゃんは「このままでは、まずい」「実行あるのみ」と母を連れ帰る決断をしたのだった。

 

 このあと、マッちゃんが頭を抱えている場面がある。「あの頃ワタシはキイちゃんを孤独地獄からつれ出したと思っていたけれど――」。ここで、キイちゃんの生前の姿が想起される。仏壇に向かって、「アタシはマツコにだまされてこちらにお邪魔しております」と話しかけていたというのだ。キイちゃんは結局、食事も家族と別にとるようになる。部屋で一人、テレビを観ながらだ。家庭内独居と呼ぶべきか。ここにも別種の「孤独地獄」がある。

 

 もちろん、マッちゃんの母思いが功を奏したこともある。近くの特養ホームのデイケアに週に2度、通うようになったときのことだ。当初はいやがっていたが、しばらくすると「なにを着て行こうかしら……」と、お出かけ気分で服を選ぶようになった。それを家族の前で着て見せて「派手かしら?」と聞くこともあったという。このとき、マッちゃんの夫ノブさんが「いやいやなかなかステキだよ」と答える場面には、ほっとさせられる。

 

 それもつかの間、ノブさんが急病で亡くなる。そして息子たちが結婚や転勤で独立すると、母娘の二人暮らしが始まった。切ないのは、娘がいないときの母の様子。玄関先の椅子で「ずーっと、マッちゃんの帰りを待っているのでした」。娘は、母の猜疑心の強まりにも手を焼き、困り果てる。そこで、ケアマネさん推奨の「お泊りステイ」を試みたのだが、母が数日後に帰宅したとき、「マッちゃんとの暮しを、まったく覚えていませんでした」という。

 

 キイちゃんは結局、病院の認知症専門病棟に入院した。きれいで広めの4人部屋だったが、入院している人は「それぞれの世界に生きているよう」だった。だが、なぜか歌を唄うときは、一斉に声を出した。たとえば、唱歌「ふるさと」のような歌を。

 

 と、ここまで書いてくると、身につまされることが多い。僕の母も一時期、デイケアに通っていた。そこでの最大の楽しみは、歌を唄う時間だったらしい。夕方、家に戻ってからも口ずさむことがあった。たとえば、「上を向いて歩こう」のような歌を。

 

 キイちゃんの話はさらに続く。マッちゃんが病院を訪れると、「ウメコちゃん」と声を掛けてきた。自分の妹の名だ。「あんたイイひとができたかエー」と切りだし、マッちゃんが適当な受け答えをしていると、今度は「わたしお嫁にイクのよォー」と衝撃の告白をする。そうかと思うと、「オカカなんしておるかのォー」と言いだすことも。オカカは、お国言葉で「おかあさん」のこと。「何やら時空を超えた会話」が飛び交ったのだ。

 

 僕自身の母も、最末期には息子を息子ととらえる認識がおぼろになった。「この人好き」「この人はいい人」と語りかけ、他人と区別することで自分の子との関係性を保ったのだ。あるいは、生まれ故郷の地名を口走ってみたり、子どものころの家族が今も近くにいるかのような言葉を発したりすることもあった。認知能力が下がるということは、なにものかを失うばかりではない。そこに僕たちの想像を超えた新しい世界が立ち現れるのだろう。

 

 この本の後段は、ほとんどが健康話だ。吐露されるのは、ある種の達観。医学がすべての病気の原因を突きとめ、治療法を見いだすことは困難、とマッちゃんはみる。「はるか昔の祖先から、つなぎにつないできた遺伝子とやらが、今の我が身にどんな仕業をしているのか、わかる縁(よすが)はありません」。わからないなら、わからないままでよい――老境の知は、なにごともわかろうとするばかりの現代科学が見落としている急所を衝いてくる。

 

 それにしてもマッちゃんがうらやましいのは、近所に行きつけの「カフェ・ハギノ」があることだ。顔見知りの店主やスタッフがいて常連客もいる。その店で病や死について語りあうことが、彼女の不安を和らげているように見える。ここで僕が思いついたのは、今の時代に社会が具えるべき3条件だ。町に喫茶店が存在すること、高齢者が1日1杯のコーヒー代を支払えること、そして、そこにしがらみのない緩い人間関係が生まれていること――。

 

 マッちゃんを見習って、僕もそろそろ、わからない未来の受け入れ態勢に入ろう。

(執筆撮影・尾関章、通算507回、2020年1月17日公開、同月18日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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●『ひとは生きてきたようにしか死なない』(草柳大蔵著、解説・下重暁子、祥伝社新書)

写真》週刊誌ジャーナリズム

 死とは何か。僕はずっと、生命が緩やかに先細りして最後にたどり着く終着点と思ってきた。病に冒され、余命をほのめかされれば、悶々と悩むに違いない。ならば苦悩を先取りして、生の危うさについてあらかじめ考えておこう。若いころ、喫茶店に入り、コップを見つめて「実存とは何か」と哲学青年を気どる――そんな習性が僕にはあったが、それもこの死生観に由来する(当欄2016年3月4日「フランクフルト学派で社会派になる」)。

 

 だが、実際は違う。死は遮断にほかならない。そのことを去年、僕は痛いほど思い知らされた。循環器系の発作で間一髪、落命を免れたのだ。緊急入院後の治療で血流を取り戻したのだが、そこに至るまでにいくつもの分岐点があった。一瞬一瞬の偶然がよい方向に振れた結果、救命された。分岐のどこかが逆に振れていれば、そこに死があったのだと思う(当欄2018年10月5日「遮断今週は「まくら」のみにて失礼」)。

 

 これは、突発の病に限った話ではない。おそらく、闘病の見通しが芳しくなく自らの最期に思いをめぐらせている人にも、死は予想の通りには訪れないだろう。大海に突然、疾風が吹く。そのとたん、小舟が転覆して没する。人が死ぬとは、そういうことではないのか。ならば、若いころにコップをにらんで実存を考えていたことが、ばかばかしく思われる。そんなことで死は避けられないし、人生の美しい幕引きを実現できるわけでもない。

 

 それで興味を覚えるのは、僕らの先行世代はどうだったのかということだ。親の世代は戦時中に思春期や青春期を過ごした。男子なら、いつ兵隊にとられてもおかしくない日々を送った。その先には「英霊になる」道筋が現実味をもって待ち構えていた。女子は「銃後の守り」に回ったが、それでも空襲に遭い、生命を落とす危険があった。若くしてすでに「遮断」の可能性が目の前にあったのだ。コップを見つめている場合ではなかっただろう。

 

 で、今週は『ひとは生きてきたようにしか死なない』(草柳大蔵著、解説・下重暁子、祥伝社新書)。著者(1924〜2002)は昭和戦後に一世を風靡した評論家、ジャーナリスト。著者略歴欄には「1948年、東京大学法学部政治学科卒業」とある。学徒出陣に引っかかった世代だ。自分の未来に「英霊」の影が重なっていたに違いない。この本は1999年に保健同人社から出た単行本を甦らせたもの。昨秋、刊行された。

 

 いま「一世を風靡」と書いたが、これには補いが要る。著者略歴欄にある通り、新聞記者出身だが、それを辞めてからの活動が注目に値する。『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年刊)によると、1958年にルポライターとなり、「一時、集団執筆によって週刊誌のトップ記事を作る“草柳グループ”を主宰した」。フリーの書き手によるノンフィクションは1970年代に全盛期を迎えるが、その草分けだったと言ってよい。

 

 この本の刊行を僕が知ったのは、著者のご子息と久しぶりに会ったことがきっかけだ。彼は高校時代の級友。「マスコミは虚業」と言い放って別の道に進んだ。今回再会して、その発言が話題になり、「あれは実は親父の考えでもあった」と打ち明けられた。戦後日本のメディアを切りひらいた人が業界の虚業性を見抜いていた。これは、本人が内省の人だからこそだ。「最近、親父の本が復刻された」と聞いて、それをぜひ読もうと思った。

 

 本の帯に「いかに老い、いかに逝くか」とある。この惹句の通り、著者が70代半ばになってまとめた高齢者向けの生き方指南だ。だが、そこにはジャーナリストの視点がある。

 

 第一章の冒頭は、親友だった陶芸家の死をとりあげた一編。がんで亡くなった後、本人が生前に書き残した書面が著者に届く。余命が短いこと、密葬を望むこと、香料供花の類いを遠慮することを告げ、自作の焼きものの「御愛用」に対する感謝の念が簡潔に綴られている。これを読んで著者は思う。「人生のあらゆる断面で、いつそこで人生が終わってもかまわないほど自己完結度が高い、そういう人生を送りえた人間がいるのではないか」

 

 この親友は、著者と同年の生まれ。尋常高等小学校を出て「南満洲鉄道(満鉄)」に勤めた。終戦時は陸軍飛行師団で兵役に就いていた。戦後、ほとんど独学で陶芸を覚える。「自己決定の連続」のような生活を送った人で、「『陶芸家』といわれるのを嫌って『オレは茶碗屋だ』と言ったが、そこに卑下する響きは少しもなかった」(引用部のルビは省略、以下も)。だからこそ、作品を愛でてくれた友人への謝辞にも「御愛用」とあるのだろう。

 

 自分の美学を貫いた人らしい。だが、肩肘を張った感じがしない、淡々と生き、淡々と死んでいった。昔はそんな人がたくさんいた。この一節で、僕は昭和戦後に引き込まれる。

 

 この交遊からもわかるように、著者は市井の人々を敬愛した。自分史の自費出版ブームを前向きにとらえたくだりにも、その片鱗がある。歴史小説は戦国武将や維新の志士を扱うことが多いが、「戦さをされるたびに迷惑した百姓町人のことはどうなのか。それを書いたのが、山本周五郎氏」という。「一所懸命生きてきた人は、その生きてきた時間そのものが歴史だから、公的な立場の歴史が曲がってしまうと、アレレということになる」は至言だ。

 

 本題に入ろう。まずは老い方の2分類。著者は「年なりに生きよう」型を高僧明恵上人、「まだ若いもんにも負けんぞ」型を旗本大久保彦左衛門になぞらえるが、どちらが良いとは決めつけない。年寄りの内面には明恵と彦左が「同居している」とみる。

 

 この本には、彦左型のがんばりを「老いの入り舞い」「穏座の初物」という言葉で形容するくだりもある。それは、歌舞伎役者が舞台からの退場間際にもうひと舞い踊ることのようであり、青果物と同様、時季遅れであっても捨てがたい、というのだ。

 

 だが著者本人は、どちらかと言えば明恵型寄りらしい。「私は年齢をとって、ただ単に『バカ』をやらなくなったばかりではなく、言葉も動作も“小ぶり”(関西でいう“かさを低く”)にまとめるようになったと思う」と告白している。対談で自分が話す分量を半減すれば相手から聞きだせることが倍増する。著述でも文章を短くすれば「伝えたいこと」がよく伝わる。なるほどと思うことばかりだ。自身の健康法も、ジョギングではなく速歩だという。

 

 この本は、死に方も2分類する。引きあいに出されるのは俳句だ。一方は「働きて忽と死にたや銭葵」(古賀まり子)、他方は「死に死にてここに涼しき男かな」(村上鬼城)。前者は忽然と訪れる死を素直に受け入れる思いの表れだが、後者は難解。著者は道元の思想に照らして「人間は死に向かって毎日を生きているのだから、根本のところは『死を生きている』」という解釈を導く。だが、そんなふうに死を意識した生き方はなかなかできない。

 

 ここでも著者は、どちらが良いとは断じない。「二つの句の間に、人々はその人なりの『死』を置くことになりはしまいか」。かんたんには答えの出ない問いをあえて示して、ああでもある、こうでもあると考察する。この思考様式に、僕は昭和戦後にはあった文人のバランス感覚をみる。ネット時代の今は、こうはいかない。文章の「小ぶり」化も極限にまで達して「伝えたいこと」は伝わるが、そこに熟慮の跡が刻まれることはめったにない。

 

 そして、話は特攻隊に及ぶ。著者は、隊員の遺書に「生きんとして生きがたく、死せんとして死しがたし」という言葉を見つけて、彼らは「『決死』の覚悟で飛び立ったのではない」と書く。「『生還』の可能性」があるから「死しがたし」なのだ。「生還」があるとすれば搭乗機の不具合で基地に戻るような「偶然」しかないが、それでも生き延びる未来が少しはあった。末期患者にも通じる心理だろう。死はいつも偶然と絡みあっている。

 

 僕がもっとも感銘を受けたのは、「墓場に持ってゆく話」と題する一節。世の中には、関係者が死ぬまで語らなかった秘話がやまほどある。だから書物を脱稿したとき、「あんたは、大事なことを知らないで仕事をしてしまったね」という声が床下から聞こえてくる――書斎にいて、そんな空想によく耽るというのだ。ここには、ジャーナリストとしての謙虚さがある。著者草柳大蔵にとって、「虚業」の「虚」は「謙虚」の「虚」ではなかったか。

(執筆撮影・尾関章、通算479回、2019年7月5日公開)

 

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『漱石日記』(平岡敏夫編、岩波文庫)

写真》英国を想う

 新しい年が幕を開けた。私的には喪中にあるので賀詞は控えるが、それでも新年を迎えたことに変わりはない。いや今年の新春は、例年よりもいっそう心が改まる気がする。それというのも、いよいよ自分は老境に入ったのかな、と思う場面がふえたからだ。

 

 実際、去年は老いの加速を痛感した。自分自身、突然病に襲われ、生涯初の入院を経験した。もう、若くはないのだ。周りの人々も急に老け込んだように感じる。テレビに現れる同世代の著名人がいつのまにか年寄り顔に変わっているのに驚くこともしばしばだった。

 

 もしかしたら、若者はこう言うかもしれない。「時間が速まるなんて、いいじゃないですか」「未来がすぐにやってくるわけだから」。なるほど、そんな理屈もあるだろう。だが、現実は違う。あっという間に80歳、気がついたら90歳――そんな光陰の速さをどうみるかということだ。傘寿、卒寿は喜ばしいが、それがすぐ来てほしいとはだれもが思うまい。年をとればとるほど、今の年齢のままでいる時間がもっとほしいのだ。時よ、止まれ!

 

 目を世間に転じれば、未来はすでにスケジュール表に書き込まれつつある。今年5月には改元がある。来年は東京オリンピック・パラリンピックの開催年だ。2025年には万博が大阪である。その先にはリニア中央新幹線の開業も控えている。お祭り騒ぎばかりではない。最大の気がかりは地球温暖化だ。人間の営みが大量の二酸化炭素を吐き出しつづければ地球の生態系は破綻する。今世紀半ば、今世紀末に人類は生存しているだろうか。

 

 それなのに老境世代は、目白押しの案件を皮膚感覚でとらえきれない。理由は、未来の不確かさにある。時間加速が今のまま進めば2020年や2025年はすぐにも到来するだろう。だが一方で、自分が生き永らえている確率は年がたつにつれて下がっていく。だから、未来のスケジュール表は実感を伴わない。この世から去りゆく者は世界の未来にどう向きあえばよいのか。年頭に僕の頭を占めたのは、そんな難題だった。

 

 これは結局、個人と社会、あるいは自我と他者の問題に帰着する。人類未来のスケジュール表は個人・自我にとってはどうでもよい。そのとき、自分はそこに居合わせないからだ。だが個人・自我は存在しなくても、個人・自我と社会・他者との関係は続く。ならば未来に対して、ものを言ってよいのかもしれない。いや、ものを言う責任があるというべきだろう。老境にあって僕たちは世界をどう語るべきか、そんなことを考える。

 

 で、今週は年頭恒例の漱石本。『漱石日記』(平岡敏夫編、岩波文庫)から「ロンドン留学日記」を切りだしてみる。夏目漱石(1867〜1916)は松山中学(愛媛県)や第五高等学校(熊本県)で教師生活を送った後、1900(明治33)年に渡英、03(明治36)年に帰国した。この日記は00年9月8日の横浜港出発から留学途中の01(明治34)年11月13日まで。のちの文豪は30代半ば、世紀の変わり目を英国で過ごした。

 

 この日記を選んだ理由は、近代の自我を作品ににじませた漱石が青年期、人々との間にどんな関係を結んでいたかを知りたいと思ったからだ。たぶん、自我の自覚は孤独から生まれたのではないか。それはロンドン時代に顕著だったに違いないという予見があった。

 

 これは、同時代の博物学者、南方熊楠との対比による。熊楠は、漱石よりもやや早くロンドンで暮らしている(日記は『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』〈南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫〉所収、2017年6月2日付「熊楠の「動」、ロンドンの青春」)。その大らかな暮らしぶりに比べて、漱石の在英生活は短編小説「倫敦塔」などから推察すると暗そうだ(文理悠々2013年1月7日付「年の初めはシャイな漱石」)。

 

 ただ今回「ロンドン留学日記」を開いてみると、漱石は引きこもってばかりいたのではないことがわかる。たとえば、1901年2月2日にはヴィクトリア女王の大葬を見にゆく。地下鉄を乗り継いでハイドパークへ。「さすがの大公園も人間にて波を打ちつつあり」。同行した下宿屋の主人が「余を肩車に乗せてくれたり」。おかげで、なんとか女王の柩と葬列の人々の上半身を目にとどめることができたという。ミーハーと言えばミーハーだ。

 

 同じ年の8月11日には「Battersea P. 門前にて無神論者の演説を聞く」とある。“Battersea P.”はテームズ南岸にあるバタシー公園。この夏はハイドパークでも幾度か演説を聴いている。ただ、これらはいずれも通りすがりに足を止めただけだろう。熊楠もハイドパークでしばしば無神論者の演説に耳を傾けているが、こちらは演説者の一人が彼を訪ねて来るくらいの交流があった。漱石は、どこまでも英国社会の傍観者だった。

 

 キュー植物園の見学も熊楠日記と重なる。漱石は「美事なる暖室夥多(あまた)あり。かつ頗る広くして立派なるgardenなり」と書く。博物学徒のキュー詣では当然だが、英文学徒も訪れた。世界から集められた植物の展示は大英帝国繁栄の象徴だったのだろう。

 

 その帝国の現実をとらえる漱石の目は冷静だ。「倫敦の町を散歩して試みに痰(たん)を吐きて見よ。真黒なる塊(かたま)りの出るに驚くべし」。繁栄の陰に「煤烟」と「塵埃」まみれの町がある。これに対して、英国人には日本人にない長所を見てとる。「人に席を譲る」習慣からわかるように「我儘」ではないが、一方で「己(おのれ)の権利を主張す」と。外見の美醜にも言及して「この煤烟中に住む人間が何故美くしきや解し難し」と言う。

 

 ここで気になるのは、容姿からくる劣等感だ。英国人を「美くしきや」と讃えたあとに「往来にて向うから脊の低き妙なきたなき奴が来たと思えば我姿の鏡にうつりしなり。我々の黄なるは当地に来て始めてなるほどと合点するなり」という記述がある。自分の服装が冴えないことを嘆いた箇所でも「顔は黄色い。脊は低い。数え来ると余り得意になれない」と続けている。これについても、そんなことを気に病む気配のない熊楠と対照的だ。

 

 漱石の英語力はどうか。日記の文面から語彙の豊富さはわかるが、「会話は自国の言語故(ゆえ)無論我々鯱立(しゃっちょこだち)しても及ばぬなり」と率直に認めている。上流英語は「大抵分る」が庶民言葉コクニーは「分らぬ」という状態だったらしい。そう言えば僕も当初、地下鉄駅員が言う「バイカーストリート」が「ベイカーストリート」だとは気づかなかった。言葉の壁で孤独感を深めることもあったのだろうと同情する。

 

 英国人の英文学に対する造詣については「必ずしも我より上なりと思うなかれ」と書いている。その証左として例示するのは、下宿屋夫妻の知識が中途半端なことだ。英国人の大半は「家業に忙がしくて文学などを繙(ひもと)く余裕はなきなり」――考えてみれば当たり前のことだ。当然なことを肌身にしみて感じとれるのが留学の効用なのだろう。ただ、例に挙がるのがすぐそばにいる下宿屋というところに、漱石の孤独が見えてくる。

 

 ロンドンの漱石は、孤独であるがゆえに物事を相対視する賢明さを身につけたように思う。たとえば、日記にあるアジア観。英国で日本人は中国人に間違われやすいが、それを嫌がる風潮を批判する。中国人は「名誉ある国民」であり、「目下不振の有様に沈淪(ちんりん)せる」だけだという。欧州には中国人との対比で「日本人は好(すき)」と言う人もいるが、それを喜ぶのは恩ある隣人に対する悪口を面白がる「軽薄な根性」だと叱る。

 

 この日記には「妄(みだ)りに洋行生の話を信ずべからず」という一文もある。「彼らは己の聞きたること見たることをuniversal caseとして人に話す。豈計(あにはか)らん、その多くは皆particular caseなり」。個別の体験を普遍化するな、という自戒だろうか。こんな言葉を発するだけでも、漱石は相対化に長けた留学生だった。そこにシャイな人となりが重なって、彼我の違いを傍観者として見極める文化論が醸されていったように思う。

 

 ふと気づくのは、老境の僕たちはロンドンの漱石に近づいているのではないか、ということだ。老いた身は「余り得意になれない」し、若者言葉は「分らぬ」。だが孤独ではあっても傍観者として世間を見渡せば、社会・他者と分かちあう知的発見があるかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算453回、2019年1月4日公開、同日更新)

 

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『マルセル』(高樹のぶ子著、文春文庫)
写真》大学ノートの手触り
 
 2H、すなわちテレビの2時間ドラマが好きだということは当欄でも繰り返し書いてきた。鉄道もの、温泉ものなどのあのまったり感が60歳超の心的リズムにぴったりくるからだが、それ以外にもわけがある。きっと、僕が新聞記者だったからだろう。
 
 日本の全国紙記者は、入社するとたいていは地方勤務となる。最初に割り当てられるのは、警察や裁判所の取材だ。そこで目の当たりにするのは、日常性の破れである。凶悪な事件ばかりではない。善良な市民が、ある日突然に過失事故の加害者になることもある。新聞社に入る前はぬるま湯に浸かっていたような若者が、そんな安穏の裂け目を日々見せつけられるのだから、生涯忘れがたい記憶が刻印されるのは無理からぬことだ。
 
 新聞記者や記者経験者が、なにかというと駆けだし時代を語りたがる理由の一つは、そこにある。2Hの劇中で事件現場に立ち入り禁止の規制線が張られているのを見ると、僕の血が騒ぐのもそのためだろう。だが、現実はドラマと違って重い。人の生と死、遺恨と後悔が絡む。あの殺人事件の被害者家族や被疑者は数十年後のいまどうしているだろうかという思いが浮かんだとたん、この昔話は口にできないな、と踏みとどまるのである。
 
 記者にとって駆けだしの数年間は忘れがたく、同時に苦くもある個人史のひとこまである。このアンビバレンスな思いは当欄にぜひ書きとどめたいが、実話にはなかなか立ち入れない。そんなことを思っていたら、恰好のフィクションに出会った。
 
 『マルセル』(高樹のぶ子著、文春文庫)。毎日新聞が2011年にまるまる1年間をかけて連載した長編小説。翌12年に単行本となっていたものが、今年5月に文庫化された。主人公の女性、瀬川千晶は新聞記者、その亡き父謙吉もかつて同業だった。記者の目で記者の軌跡を追う構造になっている。余談だが、連載途中に東日本大震災が起こった。新聞小説らしく、そのときの人心の揺らぎまでリアルタイムに作品へ取り込んでいる。
 
 作品の主題は、マルセル盗難事件。「本書はフィクション」とのことわりがきがあるので、筋立てはあくまで虚構だが、事件そのものは実際にあった。1968(昭和43)年暮れ、京都国立近代美術館で開かれていたロートレック展で、人気の名画「マルセル」が何者かに盗まれたのである。そのころ、僕は高校生。この本を読んで、そう言えばそんなこともあったなあと記憶を呼びおこされた。
 
 マルセルはフランスの女性名。娼婦のようでもある。だが、貴婦人かもしれない。そんな人物を描いた絵だ。それを新聞記事の切り抜きでみて、千晶はこんな印象を受ける。「どちらかと言えば大人しい女性の横向きの肖像画で、全体的にたっぷりと豊かで、目鼻立ちもくっきりしている。胸元がはだけ気味なのと後れ毛が首を這う風情が、女の疲れというか気だるさを感じさせはするけれど、夜の賑(にぎ)わいはどこからも伝わってこない」
 
 千晶は、当時の報道に「『怪傑ゾロ』に舌を巻いている空気感」もみてとる。「同じ一二月に三億円事件が、東京の府中市で起きている」「時代の風が、何か途方もないことをしでかす人間に、圧倒されつつもひきこまれている気配がある」とも感じる。東の三億円、西のマルセル。人の殺傷を伴わない二大事件が相次いだ。ただ、それも悲劇と無縁ではない。マルセルでは、美術館の警備員が責任を感じて自殺したのである。
 
 マルセルは、7年が過ぎて時効となった直後に戻ってくる。だが、事件の真相はベールに覆われたままだ。そんな史実に、著者はまろやかなミステリーをしのび込ませた。主人公の恋がある。母親探しもある。そして、その向こうに絵画盗難の大きな構図が控えている。
 
 ミステリーの鍵は、謙吉が最期の病室まで手もとに置いていた取材用の大学ノート。「ページの真ん中に縦の折り跡がついている」というから、現役のころ、ポケットに突っ込んで使っていたのだろう。表紙には「М」の文字。マルセルのМらしい。ページを開いて驚くのは、そこにあるのが「自分で書いた新聞記事に対する、徹底的な反論であり、否定や疑問だった」ということだ。
 
 右ページに発表事実があり、そこから矢印が延びて左ページに、おそらく記事にはしていない「自分の見解や意見」が書き込まれている。一例を挙げれば、右に「マルセルは縦四六・五センチ、横二九・五センチの油彩八号、時価三五〇〇万」とあり、左に「犯行時には額縁ごとの盗難であり、この寸法は目撃者の記憶を惑乱する可能性あり。なぜ額縁を含む大きさを公表しないのか」という具合だ。
 
 千晶は文化部記者だが、自らの社会部時代の体験をもとに「これは通常の記者の習性とは少し違っている」と思う。記者は「発表される内容に関して足りない質問はする」。だが、ノートなどに「記者自身の意見を書き留めることはまずない」。ここにあるのは、発表を鵜呑みにしない見事な批判精神だ。僕がいる科学ジャーナリズムの世界には、科学者が言うことをかみ砕いて伝えるだけで事足れりとする傾向もあるので、謙吉の姿勢に脱帽する。
 
 ところが先へ進むと、ノートの書きぶりが変わってくる。「女の足音、カックカック、ビリジャン・ヒューの匂い」「イメージこそ事件、深い緑のまさかのまさかだ」。千晶の恋人であるオリオは、これを読んで「オンナの匂いと違いますか」「動揺してますよね、お父さんの文章」と言う。千晶も「短く、刹那(せつな)的になってます」と同意して「新聞記者としてはダメになってる」と断ずる。
 
 ここで、ビリジャン・ヒューは絵の具の深緑色だった。そこにあるのは、絵心がある女の影。やがて千晶とオリオは、山田花子という絵描きの存在に行き当たる。ノートが書かれていたころ、謙吉とつきあいがあった元捜査員松井から、こんなひと言を得る。「私が申し上げられるのは、瀬川謙吉は、ハナと呼ばれる女性を、とても愛していたということです。瀬川さんみたいな堅物が恋をすると、ああなる」
 
 千晶は、母を知らずに育った。「わたしのお母さんはだれ?」と聞くと、父は「死んだんだ」と答えるばかりで、その問いそのものに怒った。きっと、この花子が母に違いない。千晶の母親探し、謙吉の青春、そしてマルセルが重なって、ぼんやりと像を結びはじめる。
 
 謙吉は、松井にこんなエピソードも打ち明けていた。花子は「瀬川さんがルノアールの少女の絵が好きだと言うと、一週間後にその絵そっくりの少女を描いてプレゼントした」というのだ。どうということもないようなのろけ話だが、ここにこそ事件の核心があった。
 
 そして松井は、千晶とオリオに重大な証言をする。「瀬川さんは、マルセルを盗んだ犯人がはっきりしたと言われました。けれど自分は、この事件から手を引くつもりだと」――これを聞いたときの千晶の胸中をめぐる思いは、いかにも新聞記者らしい。「けれどもし犯人を突きとめたのなら、新聞記者としては公器に書くべきで、たとえ時効が成立したあとで刑法上は罪に問えないとしても、社会的な責任はあるはずだ」
 
 建前は、その通りだ。だが、記者もまた人間であり、男か女であり、父であることも母であることもある。だから、事実を知ってもそれを語らず、墓場までもっていきたいということもあるのだろう。謙吉にとって、マルセル事件の真相がそれだったのか。ただ、もしそうならばなぜ、取材ノートを死の床まで手ばなさずにもちつづけたのか。ここにこそ、この小説最大の謎がある。読了すると、その答えが見えてくる。
 
 僕もいま、謙吉晩年の心理がわかる年ごろとなった。墓場に道づれにしようにも特ダネ級の情報はもち合わせていない。ただ、見聞きしたのに書ききれていないことは少なからずある。これをどうしたらよいものか。当欄を続ける理由の一つは、そこにもある。
(執筆撮影・尾関章、通算269回)
 
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『凍りついた香り』(小川洋子著、幻冬舎文庫)

 サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会で、日本チームは決勝トーナメント進出を逃した。オリンピックがあってもほとんどテレビ観戦しないほどスポーツと距離を置く僕だが、こんどは試合中継をボーッと眺めていることが多かった。
 
 深い意味はない。たまたま、W杯が開かれる場所が日本との時差12〜13時間のブラジルだったこと、たまたま、僕が60代の域に達して早起きになったこと。その二つのめぐり合せで早朝、テレビをつけるとスタジアムの光景が目に飛び込んできた。
 
 サッカーは、球を蹴る足の向きがちょっとずれるだけで状況が大きく変わる。ずれがもとでパスがインターセプトされることもあれば、シュートがほんの数センチ外れることもある。初期条件、すなわち蹴りだしの角度のわずかな差で、その後の展開がガラッと違ってくる。これは物理学で言えばカオス現象だ。「サッカーはカオス」という指摘はすでにあるようだが、その醍醐味はカオスが切れ目なく立ち現われるところにあるのだなと痛感した。
 
 カオスとは、気象などにみられる予測困難な現象を言う。大気の動きに相対論も量子論もほとんど関係ないから、それは、ニュートン物理の方程式が支配する決定論の世界だ。一つの初期条件に対して、一つの未来が決まっている。だが現実には、初期条件の違いを子細に見分けることは無理難題なので、未来がどうなるかを読みとれない。だから、僕たちの目には偶然の仕業のように映る。
 
 今回、W杯日本戦を俄か観戦していると、日本チームは攻めあぐねているな、と素人目にもわかった。力量差があったのは間違いない。とはいえやはり、カオスが味方してくれなかったという部分もあるのだろう。
 
 ところが、長谷部誠主将は第3戦の敗北後、「自分たちの力不足で、それ以上でもそれ以下でもない」と語った。本田圭佑選手は「もう敗者なんで何を言っても意味がない。受け入れる、それしかない」と言っている。カオスの運不運を飲み込み、勝敗を「力」の反映とみてそっくり「受け入れる」。ここに、サッカーというスポーツの爽快さとサッカー選手の潔さがある。(コメント引用は朝日新聞報道から)
 
 考えてみれば、人の世は多かれ少なかれカオスだ。なにかのさじ加減で、物事があらぬ方向に動いて、ついているなと喜んだり、ついていないなと嘆いたりする。サッカーは、そんな人生模様を前後半それぞれ45分に圧縮して見せてくれるものなのだと言えよう。
 
 で、今回は、それと真反対の世界を。『凍りついた香り』(小川洋子著、幻冬舎文庫)。著者は文学部出身なのに、数学を扱うのが好きな作家だ。それは、代表作の一つが、映画にもなった『博士の愛した数式』であることからもわかる。『凍りついた……』は、これに先立って1998年に単行本として出た作品で、80年代から90年代にかけて一部の少年少女たちの間で盛んになった数学競技の話をいち早く取り込んでいる。
 
 主人公は、フリーライターの涼子。調香師の修業をしていた連れあいの弘之――愛称ルーキー――が仕事場で薬物中毒死する。自殺らしい。涼子はルーキーの実家を訪ね、彼が少年時代に数学のヒーローだったことを知る。16歳のとき、プラハで開かれた数学競技の国際大会に出た後、競技活動から離れ、高校も中退し、やがて家を出た。著者は、真のルーキー探しをする涼子の旅を「日本編」と「プラハ編」を織り交ぜながら描く。
 
 ヒーローの証しは実家の一室。「本箱、食器棚、サイドボード、チェスト、洋服ダンス、ドレッサー、電話台、バタフライテーブル。そこにはあらゆる種類の家具が集められていた」「そして本来収納していた品々はどこかに置き去りにされ、その代わり、すべてにトロフィーが飾られていた」。ルーキーの家出後、それは母に慰めをもたらした。「戦利品を整理し、分類し、展示し、眺める」「撫で回し、頬ずりし、抱き締める」というように。
 
 勝者がいて敗者がいる競技に俗物性はつきものだ。母は、その象徴のような役回りを演じている。ところが、数学競技の選手当人の心には、それとは異質の価値観がある。ルーキーのふるまいからは俗が感じられない。
 
 たとえば、涼子とルーキーが交わしたローズマリー栽培の話。涼子が「あそこの園芸店はよくないわ。半分が枯れちゃったの。おととい植え替えたんだけど、また半分は根付いていないみたい。この調子だと、全部根付くまでに何回植え替えたらいいのかしら」と問うと、ルーキーは「n本根付かせるとして、k日後にうまくゆく確率は括弧1引く2のk乗分の1、括弧のn乗であり……」と答えていく。1日1回の植え替えを想定しての試算だろうか。
 
 僕たちは理詰めでものを考えるとき、AならばB、BならばCとざっくり言うにとどまる。ふつうはA、B、Cをきちんと定義できないから抜け穴だらけになりやすい。ところが数式の達人は、定義のあいまいさをネグって一滴の水も漏れない鉄壁の論理を築いてしまう。
 
 それが極まると、パニックに陥ることがある。二人が一緒に暮らし始めたころ、涼子が夜遅く帰宅すると、ルーキーは台所の片隅で泣いていた。ガスレンジの下の戸棚が開け放たれ、床には調味料類が散らばっている。「うまくいかないんだ」
 
 ルーキーは、戸棚の調味料類の並べ方が今のままでは、ビネガーの匂いがソースに移りやすいことが気になって、そっくり配置替えしようとした。ところが「途中で、使用頻度の面から配列のバランスがどうしようもなく崩れることに気づいて、最初から公式を作り直す必要に迫られた」。それに没頭しているうちにガスの火がつけっぱなしであることを忘れ、あわててレンジのフライパンを下ろそうとして足もとの調味料を蹴ってしまい……。
 
 匂いが移りにくくなる最適解は使い勝手がよくなる最適解と必ずしも一致しないという難しさ。そこにガスの火を消し忘れたり、ものを蹴散らかしたりという人間系の攪乱要因が入り込んでくる。台所の難問を公式一本で解決しようとしたところに無理がある。
 
 涼子がプラハの修道院裏の洞窟で幻想体験のようにして出会った孔雀の番人の一言は、ルーキー流の世界観を暗示する。「すべてはあらかじめ、決められているんです。あなたが何かを為(な)したとしても、為さなかったとしても、その決定を覆すことはできません」
 
 ここまで切りだした話は、どれもルーキーの理系部分だ。ところが彼には、人間としての温かみもあった。少年時代、弟が父の仕事道具の聴診器を誤って壊したときは身代わりとなって名乗り出たという。「うな垂れて、元気なく、でも冷静な声できっぱりとね。どんなふうに聴診器が壊れたのか、その瞬間を再現さえしてみせた」と弟。「踏んだ角度」や「潰れた時の音」には、その場にいたかのようなリアリティーがあったらしい。
 
 愛までも緻密な論理で紡ぎだされるということか。この挿話は、ルーキーがプラハで何を体験したのかという謎の伏線ともなっている。律儀であり、優しくもある。これが矛盾となって現われたきに悲劇が起こる。
 
 数学がもともと苦手な僕には取り越し苦労かもしれないが、現実世界では数学的になることをほどほどにして、サッカー的に生きたほうがよいようだ。ただ、書き忘れてはいけないのは、天体運動にカオス現象がありうることを19世紀に見いだしたのは、フランスの数学者アンリ・ポアンカレだったということだ。やっぱり、数学者は僕たちの一枚上をいっている。数学はスゴイ。
 
写真》数式の記号や文字は、僕たちを水も漏らさぬ思考世界に誘う=尾関章撮影
(通算219回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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