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『日本の川 たまがわ』(村松昭著、偕成社)

写真》車窓から二ヶ領宿河原堰

 夏休みの一日、東京・二子玉川の玉川高島屋S・Cで「世界の生きものワンダーツアー」という催事を見学した。心がなごんだのは「多摩川の生きものたち」。遠くの密林にいる珍しい動物よりも近くの川に棲む平凡な魚が、僕には愛おしかった。その会場の売店で見つけたのが、『日本の川 たまがわ』(村松昭著、偕成社)という絵本。買わずに帰ったものの、気になってしようがない。結局、ネット通販でそれを手に入れた。

 

 この絵本に心惹かれたのには理由がある。幼いころに好きだった川の絵本を思いだしたからだ。その本はもはや手もとにないが、見開きのページを横切るように一筋の川が流れていた。上流域は山林で、伐りだされた材木が川から運びだされている。中流域は農地が広がり、農家の人々が働いている。下流域には街のにぎわいがあり、工場が林立している。そして河口近くの港には大型船の姿が……おおよそそんな絵柄だったように思う。

 

 これぞ、鳥瞰図。鳥になったような気分になれるので、子どものころはそれだけでうれしかった。だが今思うと、そこから学びとれることもある。川には人々を引きつける力があるということだ。水という天然の恵みを水運や用水のかたちでもたらしてくれるので、山村も農村も都市も工場街も、みな川べりに集まった。山あいから海辺までが帯状につながり、人々が一つの水系を共有している。かつての日本社会では、そんな有機体が健在だった。

 

 絵本『…たまがわ』に心が動いたもう一つの理由は、多摩川に対する個人的な思い入れに由来する。僕がこの川を好きになったのは青春期だ。そこには「東京人には故郷がない」という俗説への反発があった。僕たちにも自然豊かな川がある。堤防は土手で、河原にも植生がある。右岸には多摩丘陵、左岸には国分寺崖線。大地の起伏も感じられる。これは十分に「小鮒りし彼の川」(「故郷」高野辰之作詞)と言えるではないか。

 

 あのころ、僕は電車で6駅先の多摩川へよく出かけたものだ。貸しヨット屋があったので、それに乗ったこともある。夜の堤防に腰を下ろして川面を見つめていたこともある。さらにはバスに乗って二子玉川にも足を延ばし、東京・世田谷最南部を米国のディープサウスに見立てたりもした。陽光を照り返す緩やかな流れがミシシッピ川のようにも感じられたからだ(当欄2018年5月18日付「ニコタマという僕のディープサウス)。

 

 では、いよいよ『…たまがわ』のページを開くことにしよう。著者は、略歴欄によると1940年生まれの「鳥瞰絵図作家」。作品には、四万十川や屋久島を描いたものもある。ただ、東京都立立川高校のOBで今も府中市に住んでいるとあるから、多摩川は格別な存在なのだろう。この本に盛り込まれた情報は、関連の公共機関や企業などを取材したり、それらの公式ウェブサイトを参考にしたりして得られたものだという。2008年刊。

 

 この本の記述は、多摩川の最上流から始まり、河口部で締めくくられる。本文は、「山のかみさま」と「そのおつかいの 男の子」(引用部のルビは省く、以下も)の会話形式。山のかみさまを表すアイコンは、オオカミと思しき動物の顔になっている。

 

 会話の冒頭で、山のかみさまは「にんげんは たまがわの はじまりは みずひという ところだと いっておる」と言う。ひらがなの分かち書きに大人は戸惑うが、ありがたいことに巻末には漢字併記の「さくいん」がある。この引用部にある「みずひ」は「水干」。それは、埼玉、山梨県境の笠取山(標高1953m)の頂に近い山梨側山中にある場所の呼び名で、ここに現れる水滴が多摩川の源流とされているらしい。

 

 山のかみさまは、水干を源流とする通説に言い添える。「しかし ほんとうの 川の はじまりは 山じゃ」「山の木に ふった 雨が 川に なるんじゃ」。こうして、地球規模の水循環を考え、山と森、川と海をひとつながりにとらえるエコロジー思想をほのめかす。

 

 ページを繰って見開きの鳥瞰図をみると、水干のそばに三川分水の碑が立っている。荒川、富士川と多摩川の3河川の流れを分かつ分水嶺らしい。川の流域支配をまざまざと見せつけられた感じがするではないか(固有名詞は「さくいん」をもとに漢字表記、以下も)。

 

 この見開きでは、男の子が「どれが たまがわ?」と問いかけ、山のかみさまが「まだ たまがわとは よばれておらん」と答えている。小さな川が集まって一ノ瀬川となり、そこに柳沢川が流れ込んで丹波川となる。これは「たばがわ」と読む。ページをめくって次の見開きをみると、その丹波川が奥多摩湖に行き着く。「たばがわが、たまがわの 名のもとになった という はなしも あるが、じつは よく わからんのじゃ」とある。 

 

 さらに次の見開きは、奥多摩湖を中央に据えている。山梨県と東京都にまたがる湖。「人が 川を せきとめて つくったんじゃ」。川の流れをせきとめる小河内ダムは1938年に建設が始まり、戦後の57年に完工した。「山の上にも いえが あるよ」「ダムに しずんだ 村の 人が うつりすんだんじゃ」。下流域の人々のために上流域の人々が生活の本拠を手放し、水源と電力源を提供する。そんな構図がダム造りにはある。

 

 丹波川は、小河内ダムを過ぎると多摩川と呼ばれるようになる。不勉強がばれるが、今回初めて知ったのは、奥多摩湖の下流にもう一つ、人造湖があること。白丸ダムによってできた白丸湖だ。これは、もっぱら発電のためのものらしい。東京都のウェブサイトを参照して驚いたのは、奥多摩湖や白丸湖の水力による発電を都の交通局が担っていることだ。日本では明治以来、電力と電車という二大事業が手を携えて発展してきたことを物語る。

 

 考えてみれば、多摩川には近代を待つまでもなく人間の手が入り、その水資源は下流域の生活を支えてきた。筆頭は、玉川上水の開削だろう。東京都水道局のウェブサイトによると、江戸前期の1653年に工事が始まり、8カ月間で羽村・四谷間の約43kmを掘り切ったという。この絵本には、羽村の取水堰を一望する鳥瞰図が載っている。川の本流を堰で受けとめ、その手前の水門から横方向へ水を吐きだす仕掛けだ。この水が上水になる。

 

 本流に立ちはだかっているのは、古来の投げ渡し堰。列をなした木杭の間に丸太などを水平に積みあげて水流を阻む。「大雨で せきが こわれそうなときは、あのまるたを そのまま 川に ながして たまった水を ながすんじゃ」。堰の脇には、筏の通り道も設けられている。「むかしは おくたまで きった 木は いかだにして 川にながし、うみの ちかくまで はこんだんじゃ」。奥多摩の木材搬出は、筏方式の水運だった。

 

 多摩川の堰は、ほかにもある。僕にとって身近なのは、二ヶ領宿河原堰。小田急線の下り電車で多摩川を渡るとき、左手の下流方向に目をやると見える。川面が尽きるあたりに堰の構造物がぽつんぽつんと並んでいる。この眺めが、多摩川の原風景となった。

 

 この堰の手前から、右岸の神奈川県川崎市側に延びているのが二ヶ領用水。「田んぼや はたけに 水が ゆくようにするため、えどじだいに つくられたんじゃよ」。堰も江戸時代からあったのか、と思うと大違い。国土交通省京浜河川事務所のウェブサイトで調べると、大正のころ、石を詰めた籠で堰を築いたのが始まりだという。流域の水利用がふえ、川底の砂利採取も盛んになって、水流を抑えなくては水を引けなくなったためらしい。

 

 この対岸は、東京都狛江市。1974年9月、台風の大水で19戸の家々が流された現場だ。山田太一原作・脚本の名作ドラマ『岸辺のアルバム』(TBS系列、1977年放映)の着想につながったとされる災害だ。京浜河川事務所のウェブサイトによれば、「激流」が「堰に妨げられ」「堤防を破壊」したことが原因だった。この反省に立って造りかえられた現在の堰は、「洪水時に流れる水を阻害しない」ための工夫が施されているという。

 

 水害後、僕はまだ学生だったが、現場に赴いた。都市住人の慎ましやかな幸せを宿していただろう戸建ての家が、川のただ中にある。僕たちはこの川に甘えるばかりで、畏怖することを忘れていたのではないか。多摩川は自らの癇癪を悔いているようにも見えた。

(執筆撮影・尾関章、通算486回、2019年8月23日公開、同日更新)

 

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『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)

写真》破格の訃報(朝日新聞2018年2月10日夕刊)

 石牟礼道子さんが逝った。享年90。作家であり歌人でもあり、なによりも水俣病の語り部として知られる。新聞は破格の扱いでその死を伝え、悼む声を数多く載せた。

 

 当事者にとっては頼りがいのある人だった。この病を患う92歳の坂本フジエさんは「味方じゃち思っとった」「水俣病のことを世に知らせてくれた方」と振り返っている(朝日新聞2018年2月10日夕刊、同11日朝刊)。ミカタジャチの響きに万感が籠る。

 

 知識人の敬愛を集めた人でもある。作家池澤夏樹さんのコメントは、石牟礼文学の存在理由をぴたりと言い当てている。「近代化というものに対して、あらゆる文学的な手法を駆使して異議を申し立てた作家だった」「本当はもっと早くから、世界的に評価されるべき作家だった」(朝日新聞2018年2月10日夕刊)。「異議を申し立てた」とあるのを見て、僕は彼女が『苦海浄土――わが水俣病』を著したころのことを思いだした。

 

 この作品は1969年に講談社から単行本で出て、翌70年春、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。石牟礼さんは患者の病苦に対する思いを理由に受賞を辞退したが、僕の記憶ではこのときに抄録が月刊『文藝春秋』に載ったように思う。ちょうど日本経済の高度成長が極まり、大阪で万博が開かれていたころ。『苦海…』には、そうした世間の空気感とは相反する闇の深さがあったように思う。正直、僕にはついていけなかった。

 

 当欄は2年前、『いのちの旅――「水俣学」への軌跡』(原田正純著、岩波現代文庫)をとりあげた。そこでもっとも印象に残ったのは、結婚してよそから移り住んだ女性の思い出話だ。再引用しよう。「魚はどこで買うんですかと聞いたら、魚は買うもんじゃなか、貰(もら)うもんたいと言われて驚いた。漁船が帰ってくる頃、浜に籠(かご)もって立っとけばよかと言われた」(2016年5月20日付「原田水俣学で知る科学者本来の姿」)

 

 水俣湾の一帯には、貨幣経済にどっぷり浸かる前の地域社会があった。眼前の海で獲れる魚介類はまず、みんなで分け合う。あり余る漁獲があれば都会の市場へ出そう――そんな発想だろうか。はやりの言葉で言えば、地産地消だ。前近代の風景がそこにはある。

 

 不幸だったのは、そのど真ん中に近代の権化とも言える大工場が現れたことだ。工場が垂れ流す有害物質は湾内の生きもので濃縮され、海産物に蓄えられた。それは、都市圏に出回るよりも早く地元で消費された。大都市の店には生鮮品が全国あちこちから集まるので、人々が有害な食品に出会う確率は低い。ところが生産地では、地元産品が食卓に集中するので、もしそれが有害ならば影響をもろに受けてしまう。ここに怖さがあった。

 

 近代化の波が、前近代の様相をとどめる地域を襲ったのだ。その不条理に対する抵抗が文学によってなされるのは自然なことだった。前述の池澤さんは朝日新聞の文化・文芸面に寄せた追悼文で、石牟礼さんを「半分まで異界に属していた」と位置づけ、だからこそ「『近代』によって異域に押し出された」患者たちとの間に「回路が生まれた」とみる(2018年2月12日朝刊)。異界の交流が石牟礼文学の核心にあったというのである。

 

 で、今週の1冊は石牟礼作品とすべきところだが、あえて避ける。異界には軽々に踏み込めないと思うからだ。今回は、水俣病という近代の病を現実世界の側から考察することにしよう。選んだのは『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)である。

 

 2016年刊。1956年5月、熊本県水俣保健所に「原因不明の疾患」の報告――水俣病の公式確認――があってから満60年の直前に出された。著者は52年生まれ、刊行時点の略歴に熊本日日新聞論説主幹とある。「熊日」と言えば、この公害病蔓延の兆しにいち早く気づき、その実相に迫った地方紙だ。この本は新聞人の著作らしく、人々の息づかいを感じさせるエピソードを織り込みながらデータブックとしても読める構成となっている。

 

 その兆しを伝えた熊日記事の引用が、この本にはある。見出しは「猫てんかんで全滅 水俣市茂道 ねずみの激増に悲鳴」(1954年8月1日朝刊)。茂道(もどう)という漁村で猫100匹余の大半が発作の末に絶命、その結果、ネズミが激増したという。「この地区には水田がなく農薬の関係なども見られず、不思議がるやら気味悪がるやら」。のどかな集落の動物の異変に戸惑うという筆致だ。事の重大さはまだ気づかれていなかったらしい。

 

 これが人間社会の問題でもあるとわかって世の中が動きだすのは、公式確認後だ。この本によると、厚生省研究班は1957年3月に報告書をまとめていた。「確認」から1年とたっていない。あのころの中央官庁としては素早い対応だったように思う。しかもその報告書は、水俣湾で獲れる魚介類が化学物質もしくは金属類によって汚染されている疑いに言及して、チッソ(当時は新日本窒素肥料)水俣工場の実態を調べたいとしていた。

 

 研究班には国立公衆衛生院、熊本大学医学部、水俣保健所などの専門家が加わっていたという。当時の医学に照らしても、発生源として真っ先に思い浮かぶのはチッソの廃水だったのだろう。それなのに、被害の拡大防止策や患者の救済支援策は遅々として進まない。

 

 たとえば、厚生省食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会が受けた仕打ち。著者によれば、1959年に部会の代表者が答申で、水俣病の主因は「ある種の有機水銀」と打ちだすと「通産大臣・池田勇人が、有機水銀が工場から流出したとの結論は早計だと反論、このため答申は閣議了解とはならなかった」。そして、部会そのものが解散の憂き目に遭う。ちなみに池田は翌年、総理大臣となって所得倍増政策を推し進めた人である。

 

 この一点をもってしても「高度成長の陰画とでも呼ぶべき水俣病」という著者の認識は間違っていない。明治期に生まれた日本窒素肥料が戦後、社名を新日本窒素肥料に改めて、力を入れたのがプラスチック可塑剤の原料となるアセトアルデヒドの増産だった。生産量は1955年に1万トンだったが、60年には4万5千余トンまで伸びたと、この本は記す。その製造過程で水俣病を引き起こすメチル水銀が生みだされたのである。

 

 ここで産出されるアセトアルデヒドは「国内の生産量の三分の一から四分の一」との記述もある。1960年代と言えば、身の回りの多くのものが木材や金属からプラスチックに代わった時代だ。大都市の消費者も水俣工場の生産活動と無縁ではなかった。

 

 高度成長の呪縛は実は、地元にもあった。著者は、熊日が1959年11月8日に載せた記事を紹介する。「水俣市長、市議会議長、商工会議所会頭、地区労議会長」ら有力者50人が熊本県知事に「水俣工場の廃水停止は困る」と陳情した、というのである。「市税総額一億八千余万円の半分以上を工場に依存し、また工場が一時的にしろ操業を中止すれば、五万市民は何らかの形でその影響を受ける」(同記事)と、陳情団は主張した。

 

 それにしても……とあきれるのは、政府による水俣病の「公害」認定が1968年だったことだ。公害対策基本法の施行がその前年だったという事情はあるにしても遅すぎる。57年に厚生省研究班報告書が工場に目を向けていたのだから、「公害病」と言わずとも高度成長が吐き出した有害物質の直撃を受けた人々に救いの手を差し伸べる施策を展開することはできたのではないか。著者も「公式確認から実に一二年が経過していた」と書く。

 

 さて、再び石牟礼さん。この本では、彼女が1960年代、「患者多発地区に足を運び、ひたすら患者たちの声をじっと聞いていた」と記されている。そこに現れるのが、前述の原田正純さん。「検診会場でよく見かける石牟礼を保健婦とばかり思い込んでいた」とある。著者は、この二人に環境学者の宇井純、写真家の桑原史成を加えて「四銃士」と呼ぶ。水俣病の「真相を追求する試み」を支えるものの一つに四人の仕事があった、という。

 

 水俣の人々は、近代が求める高度経済成長によって「異界」に押しだされた。だが、苦難が存在したのは異界ではなく現実世界だ。石牟礼さんは、それを現認していたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算410回)

 

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『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)

写真》「緑」

 「環境」という言葉が今のような意味合いで使われるようになったのは、そんなに遠い昔ではない。半世紀ほどにしかならないのではないか。ふと思いだすのが、小学生のころの床屋体験だ。椅子に座ると目の前に大きな鏡がある。その周りに目を転じると、壁の掲示に「環境衛生」の文字があった――そう、理髪業は東京都環境衛生協会会員の主要業種だ。「環境」の2文字は、理髪店の店内から子どもの意識に入り込んできたのである。

 

 ちなみに東京都環境衛生協会の公式サイトを開くと、協会は1954年に生まれた。「加入会員の業種」に挙げられているのは、理容のほか美容、クリーニング、公衆浴場、ホテルなど。ここで読みとれるのは、どれも衛生管理が求められるが、飲食店ではないということだ。食べもの、飲みものは特別扱いなのだろう。現に東京には食品衛生で同様の団体がある。裏を返せば、「環境」は特別なものを除く身の回りの一切を指していたことになる。

 

 語感が変わったのは、1960年代後半だ。日本列島のあちこちで、高度経済成長の副作用として公害が多発する。「環境保護」が反公害の訴えの一つとして口にされるようになった。1971年には、のちに環境省となる環境庁が設けられる。このころから、「環境」と言えば「自然環境」、すなわち山や川、海や空のことという受けとめ方が強まったように思う。そして今は、それを地球全体に広げてとらえるようになっている。

 

 環境保護の気運が反公害とともに高まった背後には、生態学すなわちエコロジーの思想があった。四大公害病の一つである水俣病では、工場から出る有害なメチル水銀がまず小さな海洋生物に摂取され、それがより大きな生物に次々食べられるうちに濃縮されていくという現象が起こっていた。食物連鎖による生体濃縮だ。その鎖の終着点が人間だった。人間もまた生態系(エコシステム)の一員であることがはっきりしたのである。

 

 「環境」はドイツ語で“umwelt”という。“welt”は「世界」であり、“um”には「周り」の意味があるので「環世界」とも訳される。当欄の前身でとりあげた『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート著、日高敏隆、羽田節子訳、岩波文庫)は、後者の訳語を採っている。この本には「動物はそれぞれの種ごとにそれぞれの『環世界』をもっている」という見方があった(文理悠々2010年6月3日付「日高敏隆『敬称は要らぬ』」)。

 

 これは、人間とほかの生物を対等に置くという点で今日のエコロジー思想に通じる。環世界は生物種ごとに違う。ただ、それらをかたちづくるものはたった一つの自然界の生態系だ。だから、人間の環世界を守ることは生物それぞれの環世界を守ることであり、即ち生態系を持続させることにほかならない。身の回りにあって種の存続を保障する最重要なものが自然ということだ。「環境」で「自然環境」を思うようになった流れもうなずける。

 

 で、今週の1冊は『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)。著者は、1962年に名著『沈黙の春』を著したことで知られる。『沈黙…』は、農薬などの化学物質が生態系を壊していくさまを事例やデータによってあぶり出した。ちょうど、第2次大戦後に戦勝国も敗戦国も工業化に突っ走っていたころのことだ。人類には経済成長とは次元の異なる価値があることを教えてくれる警告の書となった。

 

 著者は米国で1907年に生まれ、64年に没した。大学院で生物学を修めたが、そのまま大学に残って研究生活に入った人ではない。連邦政府の魚類野生生物局に専門官として勤め、かたわら海や海辺の生き物をめぐる著述活動を続けた。連想されるのは、都市問題の論客ジェイン・ジェイコブズだ(当欄2016年12月2日付「トランプに備えてJ・ジェイコブズ」)。ともに象牙の塔から離れ、自力で強いメッセージを発信した女性である。

 

 『センス…』は『沈黙…』とは異なり、社会派書籍の色彩が薄い。むしろ、人間の環世界を繊細な感覚で描きだした詩的作品と言うべきだろう。訳者あとがきによれば、1956年に雑誌へ寄稿した文章をもとにしており、題名は「あなたの子どもに驚異の目をみはらせよう」だった。著者は『沈黙…』刊行後、自らの死期が迫っていることを知って加筆をはじめ、それを仕遂げる前に生命が尽きたという。邦訳で本文40ページ足らずの小品だ。

 

 書きだしは「ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました」。舞台は、米東海岸メイン州にある著者の別荘周辺。それにしても、闇夜に雨風のなか幼子を抱いて海を見にいくのは危ない。だが、彼女は毅然として書く。「幼いロジャーにとっては、それが大洋の神(オケアノス)の感情のほとばしりにふれる最初の機会でした」。ここに、彼女の自然観がある。

 

 この本の中心にいるのは、幼年時代のロジャーだ。別荘に来ると、著者は森へ連れだした。なにかを教えようとしたのではない。「わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげる」。そうこうしている間に「彼の頭のなかに、これまでに見た動物や植物の名前がしっかりときざみこまれているのを知って驚いた」。たとえば「あっ、あれはレイチェルおばちゃんの好きなゴゼンタチバナだよ」というように。

 

 メインでは、とりわけ雨の日の森が美しいという。その描写は秀逸だ。「針葉樹の葉は銀色のさやをまとい、シダ類はまるで熱帯ジャングルのように青々と茂り、そのとがった一枚一枚の葉先からは水晶のようなしずくをしたたらせます」「カラシ色やアンズ色、深紅色などの不思議ないろどりをしたキノコのなかまが腐葉土の下から顔をだし、地衣類や苔類は、水を含んで生きかえり、鮮やかな緑色や銀色を取りもどします」

 

 別荘の窓には雨が打ちつけ、湾も霧に覆われている。「海に沈めてあるロブスターとりの籠(かご)を見まわる漁師やカモメの姿も見えず、リスさえも顔を見せてはくれません」。ここで気づくのは、漁師とカモメとリスが横並びにあることだ。著者は、人類も鳥類も齧歯類も一つに溶けあう世界を生きている。雨天も気にせず、「森へいってみましょう。キツネかシカが見られるかもしれないよ」。ロジャーとともに防水着をまとって出かけるのだ。

 

 著者によれば、子どもを連れての自然探検は「しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらく」という。それは視覚にとどまらない。嗅覚を例にとろう。早朝に家を出れば「別荘の煙突から流れてくる薪を燃やす煙の、目にしみるようなツンとくる透明なにおい」に出あう。引き潮の海岸に近づけば「いろいろなにおいが混じりあった海辺の空気」を吸うことができる。ここでも感じとれるのは、人の営みを自然界のそれと並べる世界観である。

 

 聴覚をめぐっては「風のないおだやかな十月の夜」のくだりが印象的だ。耳をそばだてれば、上方から「鋭いチッチッという音」「シュッシュッというすれ合うような音」が鳥の鳴き声に交ざって聞こえてくる。渡り鳥が仲間同士で交信しているのだという。著者は「彼らの長い旅路の孤独」に思いをめぐらせる。そして「自分の意志ではどうにもならない大きな力に支配され導かれている鳥たちに、たまらないいとおしさを感じます」と書く。

 

 この本は、大自然の讃歌に終わってはいない。都会人の生き方にもヒントを授けてくれる。「子どもといっしょに風の音をきく」のなら「森を吹き渡るごうごうという声」であっても「家のひさしや、アパートの角でヒューヒューという風のコーラス」であっても同じだ、と説く。町なかの公園で鳥の渡りを眺めても「季節の移ろい」を感じとれるし、窓辺の植木鉢を観察することでも「芽をだし成長していく植物の神秘」を見てとれる、という。

 

 あとがきによれば、ロジャーは「甥」ではなく実は「姪の息子」のようだ。著者を慕い、のちに母を亡くしてからは彼女のもとで育ったらしい。訳者が1980年に会ったときは音楽関係の仕事をしていたというが、この邦訳が出た96年時点の消息は「コンピュータ関連のビジネスマン」とある。今は60歳代なのだろう。自然と触れあう原体験が米国のIT社会を生きる人にどんな影響を与えたのか。本人にちょっと聞いてみたくなる。

 

 感覚を澄ませば、自分も生態系の一部とわかる。レイチェルはそう言い遺したのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算356回、2017年2月17日公開、2019年8月11日更新)

 

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『水の旅――日本再発見』(富山和子著、中公文庫)

 面の惨劇である。広島市北部を襲った土砂災害の被災地をヘリコプター映像で見て、そう思った。目に飛び込んでくるのは、山腹を引っ掻いたように延びる幾筋もの土石流の跡だ。朝日新聞8月28日付朝刊によると、広島市では20日未明、土石流が少なくとも75カ所で起こったという。広島県の調査結果だ。土石流75本の同時多発は、まさに面の災害と呼んでよいだろう。
 
 面ということで脳裏によみがえるのは、3年前の3月11日、僕たちの背筋を凍らせた津波の空撮映像だ。押し寄せる海水が毒蛇のように人々の暮らしをのみ込んでいった。あのときはリアルタイムのことで、見ている者の心は恐れと祈りが入り交じって、ざわついた。今回は被災の夜が明けた後、その爪痕を見せつけられたのだが、それでも心が痛んだ。土砂の下に救出を待つ人々が大勢いるであろうと想像されたからだ。
 
 ここで言えるのは、僕たちが水の列島に住んでいるということである。1000年の時間幅で見れば、海沿いは幾度となく津波に洗われ、集落がまるごと失われるということを繰り返してきた。山沿いは山沿いで、土砂が人々の暮らしを台無しにする災厄が後を絶たなかった。ここで見落とせないのは、土砂も水によって流れるということだ。土石流を「山津波」と呼ぶのはあたっている。恐れるべきは「水」の存在である。
 
 広島土砂災害で、むき出しになった白っぽい山肌がテレビに映しだされた瞬間、僕は「マサ土だな」とつぶやいた。30年ほど前、科学記者になりたてのころ、その地質用語を教わったからだ。山陰地方で起こった土砂災害について、発生のしくみを取材していたときだったと思う。専門家に聞くと、西日本に多い花崗岩地帯では、その岩石がぼろぼろになった「マサ土」が災害のリスクを高めているということだった。
 
 広島の山並みも、マサ土に覆われている。この表土が水をたっぷり含んで、とうとう耐え切れずに流れ落ちたということだろう。そう言えば、駆け出し時代に知った専門用語に「タンクモデル」という言葉もあった。土壌を、水を貯えるタンクに見立てる考え方だ。土に水がしみていくにも時間がかかるのだから、それは雨を無尽蔵に受け入れてはくれない。いつかはあふれるタンクとみるべきなのだ。

 今年、中国地方の雨はすさまじかった。それは、8月6日に広島市で開かれた平和記念式典が、雨の降りしきるなかで催されたことでもわかる。8・6の式典といえば、灼熱の日差しを受けて、扇子で暑さをしのぐ参加者たちの姿が目に浮かぶ。僕の印象では、いつも炎天下の開催だった。雨に見舞われたのは43年ぶりと聞いて、異様な夏を思う。列島のタンクは、広島であふれ返ってしまった。
 
 そんな災害を目のあたりにして、今週の一冊は『水の旅――日本再発見』(富山和子著、中公文庫)。著者は、文学部出身で編集者生活を経験した異色の「水」探究者。この本は、単行本が1987年に出た。1980年代に『旅』『文藝春秋』などの雑誌に掲載された14編に書き下ろしの3編を加えて、まとめあげている。論考というには軽妙で、エッセイというよりは取材記事風だ。中公文庫版の表紙カバーには「ルポルタージュ」とある。
 
 中公文庫版の初版は2013年の刊行だ。著者は「中公文庫版に寄せて」と題するあとがきで、東日本大震災の原発事故やTPPのような今日の問題をこの本に引き寄せている。四半世紀を経ての文庫化は意義あるものと言えよう。
 
 本文には、水がらみの日本語表現を「水あげ、水入らず、水かけ論、水ぎわ立つ、水臭い、水商売、水の泡、水増し、水をあける、水をさす、水に流す、水もの、湯水の如く、水を向ける――」と並べたくだりがある。著者は、日本に水がらみの言葉が多いのは「水の豊かな国だから」でも「稲作文化だから」でもない、と言い切る。「日本人と水とのかかわりの緊密さは、じつは水をめぐっての緊張関係のゆえ」というのだ。
 
 理由はこうだ。「日本は地形急峻で川は短く、雨は梅雨と秋の台風時にまとまって降る。つまり降れば洪水、照れば渇水という、水の条件のきわめて不安定な国である」「暴れ川とつねに対峙してきた日本人は、水をめぐっての緊張関係の上に土地を作り、社会を築いてきたのだった」。列島の水は不安定の一語に尽きる。今年の雨は梅雨と秋の台風の間に切れ目がなかったのだから、不安定の針が振り切れたと言えるだろう。
 
 この本で驚かされるのは、「海抜け」「水抜き」をめぐる話だ。鬼怒川の支流、男鹿川の五十里(いかり)湖は人造湖で、1956年に五十里ダムが造られて生まれた。湖底には街道筋の宿場町が眠っている。「その五十里湖が、三〇〇年も昔、まったく同じ場所に、存在したというのである」。1683(天和3)年の大地震で、近くの葛老山が崩れ、男鹿川をせき止めたのだ、という。
 
 初代五十里湖は、40年間居座った。この間、村人は山腹に移って暮らす。大名行列も山の背を通る。湖では舟運が始まる。だが、「山を開墾して得た猫の額ほどの畑」しかない村人たちは、会津藩に水抜き工事を繰り返し陳情した。藩は1707(宝永4)年、ようやく工事に手をつけるが、凝灰岩の分厚い岩盤が立ちはだかり、突破できない。10年ほどして続行を断念、工事の責任者だった高木六左衛門は切腹した。
 
 ところが、それから数年後、1723(享保8)年8月、長雨で水位の上がった湖水が土砂の壁を破って下流に流れ落ちた。「四〇年間耐えに耐えぬいてきたダムが、一夜にして抜けたのである」。これが「海抜け」だ。著者が古文書の記録を調べると、「ダムは昼過ぎに決壊し、翌日の朝までに、きれいに干上がった」ことがわかる。重機のない時代とはいえ、人力の10年は自然の20時間にも及ばなかったことになる。
 
 「日本列島の歴史は水抜きの歴史だったと、私はよく思う」と著者は書く。全国の盆地には「湖水だったところが一夜にして抜けた」という言い伝えがいくつも残っているらしい。水が一気に抜ければ当然、災害が起こる。そこにも水との緊張関係がある。
 
 手ごわい自然を相手にするには、やみくもに抗うだけではいけない。そのことを教えてくれるのは、橋の造り方だ。福井市を流れる足羽川の九十九(つくも)橋は、越前の戦国大名柴田勝家が架けたときは「半石半木」の造りだった。「河川敷の部分を石橋とし、川の流路に当たる部分を木橋としているところから見ても、水に対応した橋づくりを考えたのであろう」。大洪水が起こって木が流れても石を残す、という発想だ。
 
 余談だが、僕は新聞記者としての初任地が福井で、この橋をしばしば渡っていた。それなのに「半石半木」の話を聞いた記憶がない。この本には、葛飾北斎『諸国名橋奇覧』に収められた九十九橋の絵が載っており、石と木がつながっている。自らの不勉強に赤面した。
 
 水かさが増したとき、わざと流す「流れ橋」や、なすがままに潜らせる「沈下橋」は、自然に逆らわないという点で九十九橋に通じる。それだけではない。「大井の渡し」にも同様の発想があったとみる著者の考察はおもしろい。橋がないのは「戦略上の理由から」という通説に異を唱え、「つねに流路を変え動きまわっていたこの川に、橋をかけるのは容易ではなかったろう」と推察する。
 
 著者が随所で強調するのは、「自然とは人間が利用してこそ守られる」という考え方だ。「木を伐ってはまた植える」という営みの大切さを訴え、「伐っては植えるという行為は、木が成長してまた土になりさらにつぎの生命を育むという自然の輪廻(りんね)に、人間もすすんで参加するということ」と説く。そこで批判するのは、「自然を守るとは自然に手を触れぬこと」とみる立場。80年代ごろの自然保護論には、そんな傾向もあった。
 
 自然を謙虚に畏れ、無闇に闘わず、賢明に使う。そんな著者の思想で、都市の「住」のありようを考えたとき、どんな解があるのだろうか。緑豊かな山に町を押し広げていく現代都市の生理を都市住人の一人として省みて、そう問うてみる。
 
写真》水の列島。飲み水のペットボトルにも地名がある=尾関章撮影
(通算228回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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