『二百十日・野分』(夏目漱石著、岩波文庫)

写真》今年、二百十日は9月1日。

 厳しい年が明けた。身のまわりの世相からニュースで知る国際情勢まで、森羅万象が良くない方向へ、悪い方向へと雪崩を打って動いている感が拭えない。その流れに抗する自分でありたい。そう思っている人は多いだろう。ということで、今年も恒例の漱石から。

 

 リベラルを左と言うな漱石忌(寛太無)――この拙句を句会に出したのは2014年暮れのことだった。漱石作品から匂い立つリベラルの気風が、左翼思想と一緒くたにされる。後者はいまどき流行らないから、前者も併せてぼろくそに言われる。そんな状況に腹が立ったのだ。これは当の文豪自身も共有する憤りではないかと忖度して、忌日句に仕立てたのである。それから3年余、この傾向はますます強まっているように思えてならない。

 

 実際のところ、昨今はリベラリズムの衰退が顕著だ。このことは当欄も、先週の年末最終回でとりあげた。そこでも言いかけたことだが、日本ではリベラリズム=弱者擁護→社会主義という連想が働いて反左翼感情がリベラリズムに及んでいるように見える。

 

 では、リベラリズムはほんとうに社会主義と一脈通じているのか。ここで吟味すべきは、リベラリズム=弱者擁護が何を意味するかだ。この等式は、先週も述べたように米国流の解釈。それを代表するのは、哲学者ジョン・ロールズが1970年代初めに提唱した政治思想と言ってよいだろう。「自由」という恩恵は社会の構成員が等しく分かちあうべきものだという視点に立って、「公正」を旗印に機会均等や格差是正の施策を求めている。

 

 ロールズ流のリベラリズムは、もともとのリベラリズム、すなわち個人主義と表裏一体の自由主義とは距離があるように思われる。漱石に引き寄せて言えば、その作品群に登場する近代の自我は封建社会の残滓に抗いながら個人の自由を追い求めていく。このときに中心にあるのは、あくまで登場人物一人ひとりの生き方だ。のちのプロレタリア文学などとは違って、社会の矛盾をあぶり出し、政治体制を変えていこうとする志向は希薄だった。

 

 だが、漱石にも社会派の一面はある。たとえば、かつて紹介した短編集『倫敦塔・幻影の盾』(夏目漱石著、新潮文庫)所収の「趣味の遺伝」。日露戦争から凱旋した老将軍が新橋駅頭で「万歳」の合唱に包まれると、「余」はそれに同調しかけて思いとどまる。「戦(いくさ)は人を殺すかさなくば人を老いしむ」とみてとったのだ(当欄の前身、文理悠々2013年1月7日付「年の初めはシャイな漱石」)。ここには反戦の静かな意思表明がある。

 

 ということで、年頭の一編は「二百十日」(『二百十日・野分』=夏目漱石著、岩波文庫=所収)。本の帯に「漱石が社会批評の嵐を起こす」とあるから、社会派ぶりを知るには悪い選択ではなかろう。この短編が『中央公論』誌に載ったのは、1906(明治39)年。著者にとっては、「坊っちゃん」や「草枕」を発表して作家としての地歩を固めた年だ。一方、世情は明治の近代化が一段落して、その歪みが目立ちはじめていたころにあたる。

 

 この文庫版が出たのは1941(昭和16)年。これは2016年に改版されたが、そこにも1941年版の解説(小宮豊隆執筆)が収められている。それによると、著者がこの短編の筆を執ったのは「草枕」脱稿直後。「油濃い御馳走(ごちそう)のあとでは、自然茶漬が喰いたくなるように、構成の上でも文体の上でも相当手のかかった『草枕』のあとで、漱石がそういう方面でなるべく手のかからない『二百十日』を書いた」とある。

 

 そのころ著者は、子どもが赤痢にかかって私事に追われていたが、締め切りまでにどうにか原稿を仕上げた。小宮解説は、「二百十日」について著者本人が「まことに杜撰の作にて御恥ずかしきかぎり」と漏らしていたとことわりつつも、「これは、漱石芸術の発展の歴史から言えば、相当重大な意味を持つ作品」と位置づける。「それまでの漱石の作品と違って、まともに社会を批評しようとする、漱石の新しい態度を示すもの」というのである。

 

 では、さっそく中身に入ろう。前述の「茶漬」らしさは、作品が圭さんと碌さんの話し言葉のかけあいでほぼ終始していることだ。舞台は山里の温泉宿。それが、熊本県阿蘇の麓であることがしだいにわかってくる。二人は、話しぶりからみて都会の中流階層らしいが、会話のリズム感は落語の八つぁん熊さんを連想させる。あまりのテンポに、しゃべっているのが圭さんか碌さんかわからなくなる箇所もあるが、気にせずに読み進むほうがよい。

 

 実際、落語そのままに笑える場面もある。碌さんが宿の食事で半熟玉子を注文すると、接客係(本文では「下女」となっている)が玉子を4個もってくる。ところが、圭さんが殻を割ると生玉子。碌さんのほうは、ゆできった玉子が出てきた。「なんだか言葉の通じない国へ来た様だな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」。これに対する接客係の返答は「半分煮て参じました」。立派な落ちになっている。

 

 やりとりは軽妙でも、作品に一貫するのは市井で働く人々への敬意だ。圭さんが散歩から宿へ戻ってきて碌さんに報告する場面。「鍛冶屋(かじや)の前で、馬の沓(くつ)を替える所を見て来たが実に巧みなものだね」「馬の沓がそんなに珍しいかい」「君、あれに使う道具が幾通りあると思う」。圭さんは「爪をはがす鑿(のみ)」「鑿を敲(たた)く槌(つち)」「爪を削る小刀」「爪を刳(えぐ)る妙なもの」……と用具をいちいち挙げていく。

 

 鍛冶屋から届く「かあんかあん」という音を遠くに聞きながら、圭さんは幼少期の思い出に話題を転じる。寺の鉦(かね)が朝の到来を告げるころ、「門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼(うす)で挽(ひ)く音がする。さあさあと豆腐の水を易(か)える音がする」。リアルなのには訳がある。圭さん自身が豆腐屋の息子だったのだ。この作品では以後、「豆腐屋」という言葉が市井の民の象徴のように用いられる。

 

 圭さん碌さんの世相談議では、世の中は大きく二分される。片方には豆腐屋がいて、鍛冶屋がいて、そして「肥後訛(ひごなま)り」丸出しの宿の接客係がいる。二人の会話に出てくる言葉を借りれば「剛健党」ということになる。質実の人々と言ってよいだろう。その対極にいるのが「華族とか金持とか云うもの」だ。碌さんは「馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中の様(よう)な顔をしているから駄目」と言う。

 

 この構図は、明治という時代を的確にとらえている。「華族」とは明治初頭に制度化された貴族の近代版だが、そこには江戸時代までの大名家も含まれていた。言ってみれば、幕藩体制の遺産を引き継ぐ特権階級である。一方、「金持」は政府主導の殖産興業、富国強兵路線で商機を得た富裕層を指すのだろう。封建制から近代資本主義へというトップダウンの変革でその上澄みを得た一群を、質実剛健な人々と対置させたのである。

 

 この時代認識に立って、著者はどんな社会像を求めているのか。それを示唆するのが圭さんの嘆きだ。「世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯豆腐屋さ。気の毒なものだ」。この嘆きは職業蔑視のきらいがあるので、今の僕たちには違和感がある。「豆腐屋」はヘルシーな食材を提供する、という美点にも気づいていない。ただ心中を推察すれば、実家の生業は息子が継ぐという当時の固定観念に対する反発があったのだろう。

 

 で、圭さんは「豆腐屋」から離脱したらしい。「僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」と打ち明けているから、苦学して高等教育を受けて別の道を切りひらいたようだ。碌さんに「君は豆腐屋らしくない」と言われて「また豆腐屋らしくなってしまうかも知れない」と答え、「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向の方が悪いのだろう」と断ずる。

 

 ここにあるのは、社会を公正なものに変えるときに機会均等は欠かせないという主張だ。この一点で、個のリベラリズムは社会のリベラリズムに接続されている。欧州の自由主義が米国流の政治思想に展開される回路を圭さんの社会批評に見てとることができる。

 

 漱石は個人の生き方を飄々と語りながら、そこに社会派のひと刺しを潜ませたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算402回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、ポプラポケット文庫)

写真》りんごの普遍

 いよいよ、暮れもどん詰まり。今回は、2017年を締めくくる意味合いがある。この1年で気になったことを書きとめておきたい。真っ先に思い浮かぶのはリベラリズムだ。

 

 秋の解散総選挙で痛感したのは、日本政界の「リベラル」離れ。少なくとも永田町には、「リベラル」派を名乗る政治家がきわめて少ないことがわかった。新党の立憲民主党がリベラルな政策を掲げても、惹句は「ボトムアップ」であり「リベラル」ではなかった。

 

 どうしてここまで、「リベラル」という言葉が嫌われるのか。リベラリズムは文字通り、自由を尊ぶ思想のことだが、米国ではそれを広くとらえて弱者擁護をめざす立場を指すようになった。日本でも今は、こちらの定義が浸透している。弱者の自由を守るためには富の再配分が必要になる。だから、経済の自由放任は認めない。この点で欧州の社会民主主義と重なる部分が大きい。日本の政治家には、ここに引っかかる人が多いのだろう。

 

 これには、日本特有の事情がありそうだ。1990年代初めまで、政界には保守対革新の構図があり、革新の柱は社会主義勢力だった。だがそれは旧ソ連の崩壊後、急速に色あせて退潮する。その跡地に新興勢力が入り込み、保守対「リベラル」と言われるようになった。ただ後者は、どちらかと言えば「改革派」。出発点がリベラリズムと異なるので、バブル崩壊で切り捨てられた人たちを支持基盤にとり込むことすらできなかった。

 

 政界の現実は、知識人の動向を映している。明治以降、日本の学究は欧米の思想を解読することに熱心だった。翻訳して読み解く、という作業である。おそらくは、それが忙しすぎたためだろう。外来思想を日本社会の状況に合わせてつくりかえる気迫には欠けていたように思う。だから、バブル崩壊という転換点が訪れたとき、それに対応して社会民主主義やリベラリズムを日本仕様に仕立て直そうとする動きが強まらなかったのである。

 

 で今週は、少年少女向けに物語風に書かれた『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、ポプラポケット文庫)。著者(1899〜1981)は、岩波書店が戦後まもなく創刊した月刊総合誌「世界」の初代編集長を20年間ほど務めた。左派知識人にとってはホームグラウンドの守り人。自身も戦前、治安維持法がらみで逮捕された経験がある。この本は、日本のリベラル、とりわけ左派リベラルの思考様式を知るには好適の書だろう。

 

 この本を選んだ動機は、それが今、静かなブームとなっているらしいと知ったからだ。朝日新聞では、コラム「天声人語」(2017年12月2日朝刊)や「ニュースQ3」欄(同月6日朝刊)などがこぞってとりあげている。後者には、8月に『君たちはどう…』のマンガ版がマガジンハウスから出て「100万部に迫る勢い」とある。リベラルを嫌う政治の潮流を尻目に売れに売れているというわけだ。その吸引力を知りたくなった。

 

 『君たちはどう…』は、1937年に「日本少国民文庫」(新潮社)の1冊として刊行された。盧溝橋事件の年だ。著者執筆の解説によれば、この「文庫」は山本有三が編纂にあたり、著者も「編集主任」だった。「偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあること」を次世代に伝えようとの思いがあったという。この志に文庫名の「少国民」はなじまないが、それも時代の制約だったのだろう。(引用箇所のルビは省く、以下も)

 

 戦後も、この作品の出版は続いた。このポプラポケット文庫版は『ジュニア版 吉野源三郎全集1』(ポプラ社)をもとにした新装改訂版で、2011年刊。驚いたのは、途中でセ・リーグの覇者巨人とパ・リーグを制した南海という話が出てくることだ。プロ野球の2リーグ制は戦後になってから。1930年代の話のつもりで読んでいたから当惑した。著者解説によれば、戦後も2回、本文を手直ししたという。思い入れの強い作品だとわかる。

 

 物語の主人公は愛称コペル君。中学2年生で、2年ほど前に銀行役員の父が亡くなった後、郊外の小さな家に母やお手伝いさんたちと住んでいる。勉強はできるが、いたずらっ子だ。愛称の名付け親は、近くに住む母方の叔父さん。法学部卒のインテリで、コペル君の話し相手となり、手紙のやりとりもする。この作品のもう一人の主役と言ってよい。コペルの由来は、もちろんコペルニクス。だから、自然科学の話があちこちに詰め込まれている。

 

 たとえば、万有引力について。叔父さんはコペル君や彼の友だちに、ニュートンが「りんごの落ちるのを見て、万有引力を思いついた」という言い伝えについて語る。理学部の友だちから聞いた解釈だ。ニュートンの思考では、りんごが木の枝からぶら下がっている位置を何十、何百、何千、何万メートル……と高くしていって「とうとう月の高さまでいったと考える」。このときにどんなことが起こるかを考察したのではないか、というのである。

 

 月にも木の枝のりんごと同様、地球の引力が働いている。それでも月が「落ちてこない」のは、地球の周りを回ることで受ける遠心力と「ちょうどつりあっているから」ではないか――。「ニュートンの発見というのはなにかというと、地球上の物体にはたらく重力と、天体のあいだにはたらく引力と、この二つをむすびつけて、それが同じ性質のものだということを実証したところにある」。まさに、普遍のしくみを探る物理学の核心を突く洞察だ。

 

 この作品で僕がもっともおもしろいと感じたのは、コペル君が叔父さんと一緒に銀座へ出かけたときの思い出話だ。デパートの屋上から眼下に目をやると、めまいに似た感覚に陥る。「びっしりと大地をうずめつくしてつづいている小さな屋根、そのかぞえきれない屋根の下に、みんな、何人かの人間が生きている!」。地上に膨大な数の人々がいるという現実を見せつけられて「人間て、まあ水の分子みたいなもの」という感慨を口にする。

 

 人間=分子論か。これだけでもコペル君の賢さは見てとれる。だが、彼の思考はそこにとどまらない。しばらくたって、人間=分子論をさらに発展させるくだりがある。叔父さんに「ぼくは一つの発見をしました」と手紙に書いて、こう宣言する。「ぼくは、こんどの発見に、『人間分子の関係、あみ目の法則』という名をつけました」。分子間の関係を「あみ目」ととらえる発想に僕は驚く。今流なら、ネットワーク論と呼んでもよいからだ。

 

 コペル君は、この「発見」のいきさつを手紙に綴っていく。夜中に目をさましたとき、「どうしたんだか、ぼくは粉ミルクのかんのことを考えていました」(「かん」に傍点)。赤ちゃんのころに愛飲した粉ミルクの容器だ。輸入品で、かんにはオーストラリアの地図が描かれていた。そこから、頭の中にはさまざまな人が思い浮かぶ。「牛の世話をする人、乳をしぼる人、それを工場にはこぶ人、工場で粉ミルクにする人、かんにつめる人」……。

 

 この連なりの終点は、家の台所だ。コペル君は「粉ミルクが、オーストラリアから、赤んぼうのぼくのところまで、とてもとても長いリレーをやってきた」ことや「何千人だか、何万人だかしれない、たくさんの人が、ぼくにつながっている」ことに気づく。これは、粉ミルクに限らない。着るものだって履くものだってそうだ。「人間分子は、みんな、見たことも会ったこともないおおぜいの人と、知らないうちに、あみのようにつながっている」

 

 興味深いのは、これに対する叔父さんの反応だ。「君が気がついた『人間分子の関係』というのは、学者たちが『生産関係』と呼んでいるものなんだよ」。ここから、分業体制や交換経済が発展していく話が始まる。そこはかとなく感じとれるのは、下部構造にこだわる唯物史観だ。せっかくコペル君が、ITで見ず知らずの人とつながるネットワーク社会をぼんやりと見通していたのに、それを当時の知識人の世界観に引きとめている感がある。

 

 いま大切なのは、コペル君のように自分自身の頭でものを考えることだろう。それは、受け売りの思想をなぞるよりもずっと果実が多い。自前の着想は熟していないからこそ柔らかで、時代に適応させやすい。日本のリベラリズムの弱さは、その柔軟さの欠如にある。

 

 叔父さんよりもコペル君に学べ。著者の意図とは違うかもしれないが、僕はそう思う。とにもかくにも、「あみ目の法則」からネット社会のリベラリズムを導きだせないものか。

(執筆撮影・尾関章、通算401回)

 

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『戦争法原理』

(『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』〈ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳、講談社学術文庫〉所収)

写真》いくさは盤上で

 戦争がこんなにもリアルに思えたことが、60年を超える来し方にあっただろうか。今春以降の極東情勢である。とりわけ4月は、その緊迫が頂点に達した。連休が終わっても自分は生き永らえているだろうか。半ば本気で、そんな心配をしたのである。

 

 もちろん、いま中東シリアで進行していることや、かつて旧ユーゴスラビアであったようなことが、ここ東京で起こるという予感はない。街路を兵士たちが駆けまわり、ビル壁が弾痕だらけになる、という地上戦が繰り広げられることはまずないだろう。僕たちにとってリアルな戦争とは、突発瞬時の災厄だ。飛翔体があれよあれよという間に近づいてきて、迎撃されなければどこかへ着弾する。と同時に反撃が始まって恐慌状態に陥る。

 

 もしも、その飛翔体に核弾頭が付いていたらどうなるか。着弾地点の周辺は、なにもかもが吹っ飛んで影もかたちもなくなる。いや、それだけではない。放射性物質がところかまわず飛散して、生き延びた人々も幾年もの間、目に見えないリスクに曝されるのである。

 

 そう言えば、と思いだすのは1962年のキューバ危機だ。ソ連がキューバに攻撃用ミサイルを配備しようとしている、しかもそれは核も搭載できるらしい。そんな情報を米国政府がつかんで米ソ核戦争の懸念が一気に高まった。僕は小学生だったが、給食の時間にラジオから流れる子ども向けのニュース解説を聴いて「一触即発の事態」に心がざわついたのである(当欄2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。

 

 ただ、あのときと今度を比べると、大きな違いがある。あのときは、子ども心に「大人がうまく解決してくれるだろう」と思えた。そして実際、上記拙稿でとりあげた『13日間――キューバ危機回顧録』(ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳、中公文庫)にあるように、米国のジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相が書簡による対話で事態を収めるのである。期待に応えて、大人は賢明だった。

 

 今の大人にそんな賢明さがあるか、というと首をかしげざるを得ない。目につくのは強権政治に根ざす大国志向やポピュリズムに支えられた自国第一主義だから、冷戦時代の超大国首脳のように、自らが世界の守り手という傲慢半分の矜持が感じとれないのである。

 

 で今週は、『戦争法原理』という古典論考。『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』(ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳、講談社学術文庫)に収められている。著者(1712〜1778)はジュネーブ出身、フランス思想界で論陣を張ったあのルソーである。

 

 中身に入るまえに、訳者解説によって予習しておきたいことがある。まず、戦争法とは何か。それは、「複数の政治体の間の関係を調整する」ための「『国際公法』ないし『万民法』の一領域」と位置づけられる。ここで、政治体は「国家」と言い換えてよいという。

 

 この論考が執筆されたとみられる1750年代、欧州列強はオーストリア側とプロイセン側の二方に分かれて七年戦争を始めた。植民地をめぐっても紛争が絶えない。こうしたなかで「戦乱と無秩序をいかに克服するか」が思想界の論題に浮上した。すでに欧州には「法にかなった正当な戦争と正当でない戦争とを区別することで、戦争を可能な限り制限しよう」と考える戦争法の発想があった。著者の立論はこの系譜にある、と訳者はみる。

 

 もう一つ、解説によって知ったのは、この論考が著者の存命中に刊行されたものではないことだ。20世紀後半、遺された草稿の断片をつなぎ合わせることで2部構成のうちの第1部が「復元」されたという。論考全体の前半でしかないから、戦争法について十分に明示的には論述されていない。「万民法」は「制裁をもたないために」「空想の産物になっている」という悲観論が出てくるくらいだ。読みどころは、むしろ著者の戦争観にある。

 

 論考本体を見ていこう。著者によれば、戦争は当事者が「冷静で理性が働く状態」にあって「自らの存在の安全と、脅威となっている存在とが両立できない」と判断したときに起こる。ただの殺人には帰せない、というわけだ。条件として挙げるのは「明白で一貫した意志」や「持続的な決意」の存在、そして「関係が相互的」ということだ。双方とも和平の成立までは、戦闘がなくとも兵器の準備などの「軍事行動」を続けることになるという。

 

 著者は、戦争が人間の自然な本性に起因するという考え方をとことん批判する。17世紀英国の哲学者トマス・ホッブズは「万人の万人に対する闘い」に人の自然状態をみたが、これに対して異を唱える。「人間は自然にかなったあり方では、平和を好み、臆病」というのだ。しかも、個人レベルの問題は「関係性や利害を絶えず変化させる絶え間ない流れ」に曝されているので、戦争を特徴づける「一貫」や「持続」は生まれにくいと論ずる。

 

 「名誉心、利害心、偏見、復讐心、危険や死をものともしなくさせうるような情念はすべて、自然状態における人間とは無縁」としたうえで「ほかの人とともに社会を形成した後になってはじめて、他の人を攻撃しようと考える」と言い切っている点は、性善説がやや過ぎるように思う。ただ戦争様式の攻撃に限って言えば、組織的な武力行使なのだから、当を得ていると言えよう。そこにあるのは、人々が「人為的な協約」を結んだ社会だ。

 

 その「人為的な協約」を具現したものが、政治体としての国家と言えよう。この本は、それが戦争に走りがちな理由を説明する。ひとことで言えば、制約のなさだ。個々の人間は寿命が限られているので、いつまでも生きられない。どんな金持ちでも、胃袋の大きさを超える大食は無理だ。「自然によって定められた力と大きさの限度」があることを本人も承知している。ところが、国家には「その大きさにいかなる定めもない」というのである。

 

 一つの国家は「安全と保全のために、近隣のいかなる国家よりも強大であることが求められる」――人間と違って制約を自覚することなく、強迫観念ばかりが膨らんで戦乱の泥沼にはまる。これこそが近代史ではないか。だから、戦争を町のけんかにたとえるのは愚かなことだ、と僕は思う。集団的自衛権の論争で、不良グループに殴りかかられたときに友だち同士が力を合わせる話がもちだされたが、その比喩は国家の生理を見落としている。

 

 さて、ここで著者の国家観に立ち入らなくてはならない。18世紀中葉と言えば、フランスはまだ絶対王政の統治下にあったが、それでも、国を成り立たせているものを「社会契約」とみた。この本でも「政治体の生命の原理、そういってよければ、国家の心臓となるものは、社会契約」と明言している。著者の思想によれば、その契約は「一般意志」に宿る。これは人々が結びついて生まれる公の「自我」がもつもので、公共の利益を追求する。

 

 で、再び戦争の話に戻ろう。戦時に相手の国家を滅ぼそうとすれば、心臓部の社会契約を断てばよいのだが、そのありかは一般意志という無形の存在なので「簡単には破棄できない」。そこで攻撃の矛先は、生命そのものではなく「生命を維持させているもの」に向けられる、と著者はみる。結果として「政府、法律、習俗、富、所有物、人間たち」といった「国家を保全させているすべてのもの」を消滅させる企てにつながる、というのだ。

 

 ここから、唐突な思考実験が出てくる。回りくどい兵糧攻めをしなくても「社会契約が一撃で断ち切れてしまう」なら「この一撃で国家は滅亡するけれども、人間はただのひとりも殺されはしない」。無血戦争が実現する、という理屈だ。出勤したら、職場はそのままなのに経営者が代わっていたという企業乗っ取りに似た事態だろうか。社会契約が株式のようにやりとり可能なら、そんなこともあるだろう。だが、現実にはありそうもない。

 

 それで思うのは、国家という政治体の古臭さだ。近代を象徴する社会契約は、今日の民主社会でも実体を伴っているように見えない。それなのに戦争の技術は制約をわきまえず、人類にとって致死的となった。だから無血とは逆に、人が滅んで国の名が残ることもある。

(執筆撮影・尾関章、通算372回)

 

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『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、角川文庫)

写真》銀河に沿って

 銀河はいつの季語? そう聞かれたら夏と答える人が多いだろう。夏休み、高原で星空を見あげる。プラネタリウムの涼気で、その疑似体験をする。たしかに現代人には真夏がぴったりくる。だが、正解は秋。たとえば七夕の旧暦7月7日は新暦では後ろにずれ込み、今年なら8月9日。明治以前の人々は6月で夏を終わりにして、7月には初秋を感じていた。芭蕉「荒海や佐渡によこたふ天河」も、すでに秋めいた夜空に渡されていたことになる。

 

 ということで今週の主役は、銀河のイメージから連想される詩人、童話作家の宮沢賢治(1896〜1933)。当欄は去年も、彼に登場してもらった。「フランドン農学校の豚」という短編をとりあげて、動物の権利保護という概念にいち早く目をつけていたことに敬意を表したのである(2015年3月27日付「宮沢賢治のディープなエコばなし」)。今回はもう少し話を広げて、賢治世界と理系思考の関係を考えてみようと思う。

 

 僕の印象では、賢治は理系人の好感度が高い文学者だ。自身、少年期には動植物や鉱物の採集に熱中した。青年期には農学校へ進んでいる。有機無機の境を超え、なべて自然が好きだった。それが人間社会の泥沼から超絶した物語に結実して科学心と響きあうのだろう。

 

 自然科学は、ひと括りにできない。『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)という小説を読むと、それがわかる。博物学のアレクサンダー・フォン・フンボルトと数学・物理学のカール・フリードリヒ・ガウスの対比が見事だ。僕はその書評で、前者を「なんでもかんでも集めて回る」、後者を「なんでもかんでもひたすら考える」と要約した(朝日新聞2008年7月20日朝刊読書面)。

 

 これは、専門ごとの志向の違いと重なりあう。科学記者としての経験から言えば、物理系はガウス流に自然界の基本原理を追求する傾向が強いが、生物系はフンボルト流の収集癖も手伝って、自然界の多様な現実に寛容なように見える。最近は二つを橋渡ししようという試みもある。先日紹介した「形の科学」(当欄2016年8月19日付「かたちから入るというサイエンス」参照)がその一例だが、科学の大勢はまだ二分されているようだ。

 

 では、賢治はどちらに与したのだろうか。物理系の世界に向きあうといっても、夢中になったのは石集めだったからフンボルトに近い。だが、それだけで終わってはいない。自然の構成要素を一つひとつ愛でながら、それらの関係性にも思いを馳せている。ガウスのようには数理の美にこだわらないが、宇宙を一つの枠でとらえたがっていたのではないか。そこには、理系世界の分断を縫合するための提言があると言ってもよいだろう。

 

 今回、手にとった一冊は『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、角川文庫)。表題作など8編を収めた作品集だ。題名を羅列すると、「おきなぐさ」「双子の星」「貝の火」「よだかの星」「四又の百合」「ひかりの素足」「十力の金剛石」「銀河鉄道の夜」。天あり地あり、動物あり植物あり。自然界の全方位外交だ。著者は宇宙の隅々まで見渡して、あちこちに物語のタネを見いだす。主人公はときに、天文学規模の時空をいともたやすく行ったり来たりする。

 

 たとえば「双子の星」。主人公は、天の川西岸に光る一対の天体だ。双子だという。周りは宇宙空間のはずだが、野原が広がり、湧き水もある。「底(そこ)は青い小さなつぶ石でたいらにうずめられ、石の間から奇麗(きれい)な水が、ころころころころ湧(わ)き出して泉の一方のふちから天の川へ小さな流(なが)れになって走って行きます」。童話としてはありうる描写だ。ただそれだけなら、星の並びに事物を見る星座命名の域を出ない。

 

 すごいのはそれからの展開だ。双子星が笛を吹いて天球運動を促す音楽を奏でていると、彗星が「おい」と声をかけてくる。「すこし旅(たび)に出てみないか」。さぼっても地球の船乗りや天文台員や小学生は気づかない、とそそのかすのだ。そこで彗星のしっぽにしがみついて出発するが、あるところで振り落とされてしまう。大気圏に突入して雲を抜け、「暗(くら)い波(なみ)の咆(ほ)えていた海の中に矢のように落ち込(こ)みました」

 

 双子星は海底で、星形の「ひとで」から仲間と勘違いされる。自分たちは星だと主張すると「ひとではもとはみんな星さ」とかわされる。そこには大食漢の鯨がいる。鯨より偉そうな海蛇もいる。海蛇の頭目は海の王様で、空の王様を尊敬していたので、双子が天に戻れるよう取り計らった。今度の乗り物は竜巻だ。「急(きゅう)にバリバリバリッと烈(はげ)しい音がして竜巻は水と一所(いっしょ)に矢のように高く高くはせのぼりました」

 

 ここには天動説の世界を昇り降りする交流がある。感心するのは、交通手段を用意していることだ。彗星の動きは、一見不規則にも感じられるからチャーター便に見立てられる。竜巻は、重力に逆らうところがロケットに似ていなくもない。今日の科学では彗星は太陽系の天体であり、竜巻は大気の現象とわかっているので、この筋書きには無理がある。だが、動力にまで意を払って物語を組み立てたところに、著者の理系心が感じられるではないか。

 

 思いだすのは、反原発の市民科学者高木仁三郎さんのことだ。2000年の死去直後に出た著書『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)では、もし原発を動かすのなら事故時には外から強引にではなく内から自然に止めるしくみを使え、と説いている。ならば最初から原発をやめて自然の動力源を、ということにもなる。高木さんは終生、賢治を敬愛した人だった。(文理悠々2010年11月19日付「アトムとの向き合い方」参照)

 

 著者の世界像を一望できるのは、やはり表題作「銀河鉄道…」だ。文中に「約二字分空白」「以下原稿一枚?なし」などの括弧書きがあるように、未定稿が没後に公表された。そこでは、宇宙が複眼でとらえられている。巻末解説の筆を執った心理学者の河合隼雄も、そのことを書く。著者は銀河について「一般の人々よりはるかに豊富で的確な知識をもっていたに違(ちが)いない」が、それでも「『川』ではないと思わなかった」という。

 

 その川沿いを走る列車で、主人公の少年ジョバンニと友人カムパネルラは同乗の少女と会話する。船の遭難で死出の旅の途上にあるという。彼女の語る動物童話はこうだ。サソリがイタチに追われて井戸に落ちたとき、殺生を重ねてきた過去を反省して独白する。「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう」。生と死。そして弱肉強食。そんな生態系の掟を宇宙に位置づけるのが銀河鉄道のすごさだ。

 

 この物語は、宇宙を物理系ととらえたときの銀河像も描きだしている。冒頭でジョバンニらが理科の授業を受ける場面。先生は模型をとりだして、銀河とは星が凸レンズ形の円盤状に集まったものであり、内側にある地球からはそれが川のように見えることを実感させてくれる。これだけなら教科書風の知識だ。だがこの結論に行き着くより先に「もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら」と話を脇道にそらす。そこにこそ含蓄がある。

 

 天の川が川ならば、水に相当するのは「真空(しんくう)という光をある速(はや)さで伝(つた)えるもの」とみてよいという。ここでは、真空に「光をある速さで伝える」という形容句を与えている点に注目したい。特殊相対論が、光はどんな慣性座標系から見ても真空中を毎秒30万kmで進む、としていることの反映だろう。アルバート・アインシュタインが1905年に発表した理論だ。科学通の著者が聞き及んでいてもおかしくない。

 

 僕が驚くのは、その真空を水という実体のイメージでとらえていることだ。相対論と並んで現代物理学の柱である量子力学によれば、真空は本当の空っぽではなく、エネルギーを内在させている。これは、最近話題のヒッグス粒子が物質に質量を授けるしくみにもかかわってくる話だ。「銀河鉄道…」の執筆が進んでいたらしい1920年代半ば、量子力学は産声をあげたばかりだった。著者の感性は物理学の流れを先取りしていたのかもしれない。

 

 著者は、宇宙規模の自然界と堂々と向きあった文学者だ。その筋立ては融通無碍に科学の枠からはみだすが、理系知からみても的を外さない教訓や予感がちりばめられている。これこそが、理系といわれる人々が宮沢賢治に一目置く理由なのだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算334回)

 

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『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』

(トリスタン・ツァラ著、塚原史訳、光文社古典新訳文庫)

写真》記事の言葉をばらばらにして……

 抹消したい思い出というものが、人には一つや二つある。赤面の至りというやつだ。生意気盛りだった高校時代のことである。なんの科目だったかは忘れたが、授業が討論形式の進行となり、級友の一人が立ちあがって「ダダイズムは……」と語りだした。それを僕は「ダザイズム」と聞きとって「いや、太宰は……」と見当はずれの反論をしてしまった。ダダイズムという言葉を知らなかったのだ。知ったかぶりの化けの皮が剥がされた瞬間だった。

 

 そのいやな記憶が甦ったのは最近、「今こそトリスタン・ツァラ」という記事を目にしたからだ(朝日新聞2016年7月25日朝刊文化面、小川雪記者)。ツァラ(1896〜1963)はルーマニア生まれの詩人。見出しには「無意味の芸術思想『ダダ』を提唱」とある。それによれば、今年はダダイズムがスイスのチューリヒで興って100年の節目にあたる。日本国内でも記念の催事が目白押しらしい。ダダが戻って来た、ダダダダダ!

 

 この記事は、ダダイズムをうまく要約してくれている。それは「意味の通らぬ言葉を並べた詩や過激でナンセンスなパフォーマンスなど、常識を覆す『無意味の祝祭』」であり、「意味を否定し、言語を解体し偶然を重視する表現」なのだという。前衛芸術ではシュールレアリスム(超現実主義)が有名だが、時系列でみればダダイズムのほうが先だ。ダダからシュールへの流れもあった。意味の解体が現実を超えるバネになった一面もあるのだろう。

 

 記事の後段で僕の心をとらえたのは、「説明責任やマニュアルの徹底を重視し、何かと意味を要求する現代にこそ、己を意味から解き放てとツァラは叫ぶだろう」という一文だ。いまどきの新聞記事としては、思い切った問題提起だ。人々が諸規則、諸手引きの字面にがんじがらめになり、自由な発想を奪われていることは間違いない。ただ、そこに「意味」の追求までみるのは、コンプライアンス社会に対する買い被りかもしれない。

 

 ここで僕の見方を言えば、昨今の世相は「意味」を尊重しているようでいて、実はそれを空洞化している面がある。たとえば、不祥事系の記者会見でしばしば聞かれる「重く受けとめる」。あまりの乱発に「重く」は軽くなり、言葉の中身が空っぽに感じられるようになった。そのひとことをコメントに盛り込むことが、危機管理の定石になっているだけだ。そもそも言葉なんてそんなもの。ダダイストなら、そう笑い飛ばすかもしれない。

 

 で、今週は『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』(トリスタン・ツァラ著、塚原史訳、光文社古典新訳文庫)。この新訳は2010年に出た。「ダダ宣言集」「ダダ評論集」「ダダ詩集」が200頁弱、訳者の解説が80頁ほど。本を選んでから、しまったと後悔したのは、ダダの本はダダだということだ。著者の筆になる部分はダダ一色で、意味の読みとりを拒んでいる。解説に焦点を絞って逃げるか? いや、やっぱり本体に切り込もう。

 

 冒頭の一編「ムッシュー・アンチピリンの宣言」(チューリヒ、1916)の書きだしを見てみよう。「DADAはおれたちの強烈さだ。理由(わけ)もなく持ち上げるのは、銃剣それにドイツの赤ん坊のスマトラ頭というわけ。ダダはお上品なスリッパもはかず、交わらない平行線もいらない人生だ」。訳注に「アンチピリン」は「頭痛薬(アスピリン)」とあるので表題はわかったが、本文に入ってからは疑問符の連続だ。

 

 なによりも、これではいつもの手が通じない。当欄は、手にとった本から鍵となりそうな叙述を拾いあげて、それを引きながら読み解く手法をとっている。こうして得られた新知見を僕の手もとにある既存知見と絡ませて思考を深め、新しい地平を見いだす――カッコよく言ってしまえば、そんなつくりになっている。ところが、この本では鍵の拾いようがない。「銃剣」と「スマトラ」と「スリッパ」からいったい何を語れ、というのか。

 

 ただ、それでも見えてくるものはある。前述の引用部分のすぐ後には、こんなメッセージがある。「統一ってやつには反対でもあり、賛成でもあり。でも、未来には断固として反対する」。どうやら、ダダは「未来」が大嫌いなようだ。先に読み進むと「おれたちは宣言する。自動車がおれたちをひどく甘やかしてきた感情であることを。自動車の抽象作用ときたら、大西洋横断汽船、騒音、観念なみの遅さだ」とも。「自動車」嫌いでもあるらしい。

 

 ここでも、訳注が助けとなる。「未来」はイタリアの詩人が旗揚げした前衛芸術の「未来派」を暗に指しており、「自動車」はその一派が称揚する「速度の美」とみてよい、というのである。なるほど、そういうことか。だが、「速度」に批判的なのに「遅さ」を貶すあたりは一筋縄ではない。下手な引用をして、いい加減な解釈でお茶を濁し、見当はずれの風景を新地平と見誤ってはまずい。そこで、一歩退いた視点から読むことにした。

 

 僕が目を惹きつけられるのは、「アンチピリン(アスピリン)」「自動車」「大西洋横断汽船」だ。意味解体のためにかき集められた語群にモダニズムの破片がちりばめられている。未来派のみならずダダイズムも、20世紀科学技術文明の萌芽を感じていたということか。

 

 そして興味をそそられるのは、ダダを「交わらない平行線もいらない人生」としている一文。この宣言が出た1916年は、奇しくも物理学者アルバート・アインシュタインが一般相対論を完成させた年だ。その世界像ではユークリッド幾何学と違って空間が歪み、平行線が交わることもある。著者には物理学革命の胎動も伝わっていたのか。ちなみにアインシュタインは、その数年前までスイス連邦工科大学チューリヒ校の教授だった。

 

 一連の宣言で「もっとも重要」(訳者解説)とされるのが「ダダ宣言1918」(チューリヒ)だ。導入部に「ひとつの単語―DADA―は、新聞記者たちを予期せぬ世界の扉の前に立たせたが、おれたちにとってそれは何の重要性ももたない」とある。本文には「おれは宣言を書くが、何も望んではいない」「おれは原則として宣言には反対だ」「原則というやつにも反対している」といった文が並び、ダメ押しは「DADAは何も意味しない」。

 

 煙に巻く、とはこのことか。ダダと言いながら、それは意味がないという。宣言を発しながら、そのことに原則反対する。それどころか、原則という概念にも八つ当たりする。「宣言を否定する宣言」と言い切ってしまうのもためらわれる底なし沼が、ここにはある。

 

 「新聞記者たちを……」という表現からは、著者が新聞媒体を意味社会の象徴とみていたことが推察される。別の宣言「かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する」(パリ、1920)を読むと、それはいっそうはっきりする。そこには、ダダ流の詩のつくり方が出てくる。「新聞を持ってこい」「ハサミを手に取れ」。紙面を単語ごとに切りとって袋に入れ、その袋を振って混ぜ、籤のようにとりだしたものを並べよ、という。

 

 これは、拙稿前段で紹介した文化面記事にある「言語を解体し偶然を重視する表現」の見本とも言える。新聞が、解体と再構成の実験材料にされたのである。ここで必須なのは、紙片を袋のなかでごちゃ混ぜにする工程だ。無意味生産の原動力に偶然がある。訳者解説によれば、著者は晩年にも、詩句を可動式の同心円に書き込み、円をぐるぐる回すことで並びを変えられる作詩装置をつくったという。終生、偶然に魅せられていたのだろう。

 

 20世紀前半、技術文明は進行中の科学革命をまだ取り込めず、19世紀科学の枠にとどまっていた。「自動車」も「大西洋横断汽船」も量子力学の確率論を必要としない。古典物理学の知識で動いてくれる。なにごとも方程式が決めるニュートン以来の決定論が支配域を広げていた。日々の暮らしの利便性は高まったが、半面、時計仕掛けの息苦しさが強まっていたことだろう。その閉塞感を払うように、偶然を演出する芸術が現れたのである。

 

 今はどうか。量子力学をもちださないまでも、世界は偶然に満ちている。ネット社会で思いもよらぬ人のつながりが生まれ、内向きの古くさい言語は破壊可能だ。ところが目につくのは、手垢のついた空疎な常套句ばかり。この現実は、ほんとに重く受けとめたい。

(執筆撮影・尾関章、通算332回)

 

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『寛容論』(ヴォルテール著、中川信訳、中公文庫)
写真》白アジサイは「寛容」
 
 こうしてネットに向けて毎週発信する試みも、今週で7年目に突入した。「本読み by chance」の看板を掲げてから数えると3年目になる。当初、紙なしの作業は紙に刷って配ることの代償行動くらいに思っていたが、続けていくうちにそれは偏見に過ぎないとわかってきた。自分の考えを他人に伝えるのが本来のゴールだとすれば、脳→パソコン→ネットの流れは、紙を扱うという無駄な工程を省いただけのことなのかもしれない。
 
 ネットの良さをもう一つ挙げれば、「開かれている」ということだ。ブログには双方向機能があるので、読み手は異論反論をコメント欄に表明できる。これは書き手にも緊張感をもたらして、一言ひとことの表現を慎重に選ばせる。僕が毎週毎週、体験していることだ。こう考えると、ネットはコミュニケーションの技を成熟させる装置となりうる。ところが、現実はそうなっていない。
 
 「炎上」という現象がある。だれかの発言がやり玉にあがると、それを核にして同調の言葉が凝集していく。最近はツイッターのような短行コメントの書き込みが優勢だから、ワンフレーズの指弾が燃えさかることになる。
 
 こうした状況が日々繰り返されるのは、ネット技術がはらむ宿命なのか。それとも、悪いのはネットではなくて、世間のほうが病んでいるのか。そんな問いが今、突きつけられている。僕自身は後者をとりたい。もし僕たちにもうちょっと「寛容」の思考様式が備わっていれば、仮にときに炎上はあるにしても、その一方で実りあるコミュニケーションが成立するように思われるのである。
 
 で、新年度最初の一冊は『寛容論』(ヴォルテール著、中川信訳、中公文庫)。著者(1694〜1778)は、18世紀フランスの哲学者、劇作家、詩人であり、啓蒙主義の思想家と言われている。この著作は1763年に世に出た。
 
 今回、手にとった本は、1970年に現代思潮社が刊行した同名の単行本を2011年に文庫化したものだ。それが最近、話題の書に躍りでた。背景にあるのは、ヘイトスピーチが散見される世相を憂うる人々の思いのようだ。作家高橋源一郎がテレビ番組でとりあげたことも寄与したらしい。売れている本からは距離を置くというのが当欄のポリシーだが、今回ばかりは手が伸びた。それほどまでに僕は寛容を渇望している
 
 この本は、1760年代フランスの「冤罪」事件にかかわった著者が発したメッセージである。トゥルーズの商人ジャン・カラス家で長男が変死した後、残された家族らに殺人の嫌疑がかかる。新教徒の一家が、長男がカトリックへ改宗しようとするのを阻んだという筋書きだ。ジャンは地元の裁判所で死刑判決を受け、処刑される。著者は、それを不当とみて一家の支援に乗りだし、国の終審裁判所で無罪を勝ち取り、名誉を回復させる。

 この一件にも現代への教訓がある。事件直後、カラス家の周りではこんな光景が見られたという。「群衆のなかの狂信的な誰かが、ジャン・カラスは自分の実の息子マルク=アントワーヌの首を締めたのだと叫んだ。この叫びが繰り返されているうちにあっという間にあらゆる人の口から聞かれるようになってしまった」。サイバー空間は、同様のことを容易にした。それが炎上なのだろう。
 
 この本の主題は、おもに宗教宗派間の寛容と不寛容だ。カラス事件が執筆のきっかけなのだから当然だろう。印象深いのは、著者が歴史を紐解いて人間本来の寛容を見いだそうとしていることだ。たとえば、キリスト教草創期に福音書の書き手たちは「お互いに黒白を決しなければならぬ問題」に直面したが、「初期教会の一部の教父」の機知で「さまざまの明白な不一致をめぐる論争がもとでなんのいざこざも生じてはいない」という。
 
 ローマ帝国で、キリスト教が4世紀に公認され国教となるまで迫害を受けたことについては「初期皇帝たちの時代には、宗教的理由だけで処刑されたものはだれひとりいなかった」と断言。「殉教者」と呼ばれる人にもローマの神々をまつる神殿を荒らすなどの「暴挙」があったとして「熱狂的信仰心が、おそらくいっさいの迫害の源泉」と結論づける。これには、訳者も巻末解説で「いかにも強引」と注釈をつけるように異論があろう。
 
 著者が古代ローマ人は寛容だったと言い張るのには、ほかの理由もある。皇帝のもとでは、インドの太陽神ミトラなどの教理も「許されていた」ので「キリスト教徒だけがとくに告発されたりするものであろうか」というのだ。別の章では宗教について「宗派はその数が多ければ多いほど、それぞれの宗派は恐ろしくなくなる」という一般論も披歴している。そこには、文化の多様性が世情の平衡を保つという社会観があるように僕には思える。
 
 古代まで遡り、キリスト教の枠を超えた寛容論を訴える。背景に感じとれるのは脱中世の気運だ。この本は、読み方を変えると18世紀の欧州で近代科学の台頭が知識人の思考にどんな影響を与えていたかをうかがい知る手がかりとなる。
 
 たとえば、地球をめぐるこんな記述。「一つの点にすぎない、この小天体はほかの多くの天体と同じく天空を運行しているのです。われわれはこの広大無辺な空間にあって目に見えぬ存在です。身の丈ほぼ五尺の人間は、たしかに創造物のなかではきわめて取るに足らぬものなのです」。ただ、地動説を受け入れただけではない。自らを「広大無辺」の空間の一点に位置づけて、ここは特別の場所ではないとする宇宙原理がここにはある。
 
 これに先立つ段落で、トルコ人や中国人(この本では「シナ人」と表記)などの具体名を出して「わたしはあなたに、すべての人をわれわれの兄弟と思わねばならないと言おう」とも書いている。これを読むと、著者はホモ・サピエンスのアフリカ単一起源説を知っていたのかと一瞬錯覚してしまう。このあとに「同じ神の被造物」と言い添えられているのだが、だとすれば視野を生物界全体に広げたダーウィン進化論の先取りのようにも思える。
 
 この創造主としての「神」は中世の神とは違う。著者が、終盤の章で寛容の必要を説く一節に目を転じよう。「自然」を一人称にしてこう書く。「私がお前たちをすべて虚弱で無知なものとして生んだのは、お前たちがこの地上でしばしの生を営み、その亡骸が大地を肥やさんとしてのことである。お前たちは力弱きものなのだから、お互いに助け合わねばならぬ。お前たちは無知なのだから、お互いの知識を持ち寄り、お互いに許し合わねばならぬ」
 
 ここでは創造主を「神」と呼ばず「自然」という言葉に置き換えている。著者は、宇宙は神によって創られ、法則に沿って振る舞うという理神論者の一人とされるが、その思想を突き詰めれば神イコール自然という発想が出てくるのだろう。
 
 訳者解説によると、著者は「科学愛好者である夫人とともに実験に打ち込んだ」ほどの理科好きだった。自国社会の偏狭さを嘆くくだりでは「ニュートンが証明した事実を受け入れるのに、フランスは六〇年を要した」と、八つ当たり気味に愚痴っている。1738年には『ニュートン哲学入門』も著した。ニュートンの『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』は1687年刊なので、未周知の物理学をいち早く紹介したことになる。
 
 この本には「自分にしてほしくないことは自分もしてはならない」という至言が収められている。これこそは寛容の極意だろう。そこにあるのは、自己と他者の相対視だ。その根っこには人間の存在そのものを相対化した近代科学の精神がある、と僕は思う。
 
 昨今の科学は、生態学(エコロジー)やネットワーク理論をみればわかるように物事の関係性に注目する。相対性理論では異なる座標の視点を尊重され、量子力学では観測者同士の主観にどう折り合いをつけるかが宿題となっている。自己と他者との共存をめぐる問いが科学そのものに内包される時代が到来したと言ってよいだろう。そこからもまた新しい寛容論を紡ぎだせる、と僕は信じたい。
(執筆撮影・尾関章、通算310回)
 
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『宇宙船地球号 操縦マニュアル』
(R・バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、ちくま学芸文庫)
写真》地球はシステム
 
 当欄はついに300回の通過点に突入した。前身時代からの通算アップ回数である。入念に点検してみたら、回数にダブリがあるとか、1回飛ばしているとか、そんなことはあるかもしれない。だが初回が2010年4月、それからまもなく満6年ということを考えれば、誤差幅はプラスマイナス2回ほどに収まるだろう。マイナンバー時代だからこそあえて言うのだが、この欄はそのくらいの曖昧さを抱え込んで続けていこうと思う。
 
 だから、区切りがよいからと言って、とくに肩に力を入れるつもりはない。ただせっかくなので、今週は文系理系種々雑多という当欄のポリシーに沿って、文理の枠をはみ出した本を選ぶことにした。年末に偶然、中古本ショップで見つけた一冊だ。
 
 『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(R・バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、ちくま学芸文庫)。著者は1895年に生まれ、1983年に没した米国の建築家、工学者にして思想家である。僕らの世代の脳裏に焼きついているのは、球体に近い多面体ドーム。モントリオール万国博(1967年)のアメリカ館として設計された。没後、炭素分子にサッカーボール形のものなどが見つかると、化学者はそれに「フラーレン」の名を与えた。
 
 この本は2000年に文庫本として訳されたものだが、原著が出たのは1960年代末だ。地球を運命共同体の系ととらえる視点はアメリカ館のかたちと呼応している。地球環境の時代を先取りしていたとも言えるだろう。
 
 実際、「宇宙船地球号」という言葉は1980年代から90年代にかけて一世を風靡した。80年代半ば以降に限っても、朝日新聞の1面コラム「天声人語」に2回登場している。1回目は人口問題で(85年1月17日)、2回目は環境問題で(91年10月20日)。ただ僕には、この言葉を用いることに忌避感があった。「宇宙船」の語感に1960年代ふうの能天気な未来観を嗅ぎとっていたからである。

 だが今回、この本を読み進んでいくと、それが食べず嫌いだったことに気づかされる。著者の思考には、たしかに60年代ならではの楽観が見てとれるが、そこには鋭い批判精神と鋭敏な警戒感が込められている。
 
 冒頭に出てくるのは、船の難破話だ。救命ボートはない。そこにピアノの上板が漂ってきて、それに浮力が十分にありそうなら、救命具代わりになる。だが著者は、「救命具の最良のデザインがピアノの上板だというわけじゃない」と釘を刺す。「偶然手に入れた昨日の思いつきを、与えられた問題に対する唯一の解決策だと信じこんでいるという点で、私たちはじつに多くのピアノの上板にしがみついているのだと私は思う」
 
 ここで著者が言おうとしているのは、「包括的な思考」で「一般原理」を見いだすことの大切さだ。それは「どんなときでも有利に働く知識」として使える。「特殊ケースの経験」にとどまっていてはいけないということだろう。鳥は「飛ぶ」、魚は「潜る」というように、なべて生物は「専門分化した働きに向くようにデザインされている」が、人間だけは「包括的な理解者、調整者」としての資質を具えているという。
 
 ところが、学校や大学は「専門家(スペシャリスト)」を育てることに熱心だ。その役割はいまや「コンピューターにそっくり取って代わられようとしている」のだから、「人間は生来の『包括的な能力』を復旧し、活用し、楽しむように求められている」とみる。世がコンピューター時代にさしかかるそのとき、一方で生物世界を見渡し、もう一方で科学技術の産物にも目を向けて、人間のありようを考えていることがわかる。
 
 著者によれば、人類存続の条件は「宇宙を律する一般原理」に沿うことだ。その役に立つのが「一般システム理論」だという。そこでは宇宙をこう定義する。「非同時的に生起して、非同質で、部分的に重なるだけ、つねに相補的で、計量可能、あるいは計量不可能な、つねにすべてがかたちを変え続ける出来事からなる連鎖に関して、人類が意識的に感知し、伝達する経験のすべての集合」(原文は太字)。計量できない要素を含むところがミソだ。
 
 物理学者の宇宙が「計量可能なエネルギー的出来事の集合」(原文太字)なのに対して、「私たちの思考とか抽象的な数学とか、重さのはかれないもの」までも取り込もうというのである。著者は、これを「宇宙の超物質的(メタフィジカル)な側面」という。メタフィジカルはふつう形而上学的と訳されるが、これに「超物質的」という言葉をあてた訳者に拍手を送りたい。そのほうが、宇宙に備わるしくみという感じが出る。
 
 一般システム理論では物事の関係を重んじる。このときに助けとなるのが数学だ。「出来事の配置に関する、基本パターンと構造的な関係性」をめぐっては、トポロジーが威力を発揮する。ドーナツも、把手付きのコーヒーマグも、キホンは同じというあの位相幾何学だ。たとえば、出来事を結ぶ関係の数は、出来事の数が二つなら1、三つなら3……というように、出来事数の2乗から出来事数を引いて2で割ることで得られる。
 
 関係が大事なのは、そこから「シナジー」効果が生まれるからだ。「システムのなかの別々の部分、あるいはそうした部分の寄せ集めの振る舞いをバラバラに見ていても、決して予想ができないような、そんなシステム全体の振る舞い」(原文太字)である。
 
 驚くべきは、こうした問題提起をしたのが、大戦後の世界経済がものづくりに邁進していたさなかの1960年代末だということだ。このあと、米国では70年代から80年代にかけて情報科学が花開き、ハードよりもソフトの流れが興る。中心には、西海岸の若者たちがいた。生命科学もDNAを軸に回りだし、90年代に入るとヒトゲノム、すなわち人の全遺伝情報の解読へ突き進む。そんなモノよりコトの時代を見通していたと言えよう。
 
 「地球号」の操縦法も、一般システム理論の思想に拠っている。著者は「太陽系はシナジー的で、その部分だけを見ていても振る舞いを予想できない」として、この惑星の生物圏には太陽のエネルギーや月の潮汐力が欠かせないことを指摘する。
 
 この視点に立って、生命持続の営みは「風や潮汐や水の力、さらには直接太陽からやってくる放射エネルギーを通して、日々膨大に得られるエネルギー収入」でやりくりするというストック温存、フロー消費論を展開する。「化石燃料を燃やして、そのエネルギー貯金だけに頼って生きる」のも「原子を燃やして私たちの資本を食いつぶして生きる」のも、後の世代に対して「完全に無責任」という。今日の脱温暖化、脱原発につながる提言だ。
 
 僕が感銘を受けるのは、「富のほんとうの意味」をこう要約していることだ。「富とは私たちの組織化された能力で、私たちの健全な再生が続けられるように、また、私たちの未来の日々を物質的、超物質的(メタフィジカル)に制限する要因をなるべく減少させるように、環境に対して効果的に対処していくもの」。いまどきの用語で言えば、持続可能性への寄与の度合いに豊かさをみる価値観だ。
 
 もう一つ、ハッとさせられるくだりがある。著者がマイカー保有歴累計50台余のクルマ好きであることを打ち明けたあと、「しかしもう、自動車を持とうとは思わない」と宣言している箇所だ。空港でレンタカーすれば事足りるという。「所有はしだいに負担になり、不経済になり、それゆえ時代遅れになりつつある」。ここにあるのも「超物質」か。車や住まいのシェア方式が広まりだした今、先見の明を示す一文として読める。
 
 書名の「宇宙船」「操縦」「マニュアル」は、いかにもメカっぽい。だが読み終えると、そのメカはギアやシャフトではなく、人間社会を含む地球システムのしくみを指していることがわかる。文理の枠に囚われていたら、こんな大きな構図は生まれなかっただろう。
(執筆撮影・尾関章、通算300回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『現代語訳 方丈記』(佐藤春夫著、岩波現代文庫)

 「本読みby chance」も春夏秋冬を一巡して2年目に入る。もともと当欄は、僕がまだ朝日新聞社にいたころ、読者向け会員制サイトの記者ブログ「本読みナビ」として始まり、やがてブック・アサヒ・コムの「文理悠々」に衣替えした。その後、退職から半年ほどたった去年4月、今の個人ブログとなって再出発したのである。お店ふうに言えばSince2010。その5年間に2回、看板を掛けかえたことになる。
 
 看板を代えながらも、なぜ続けてきたのか。それはたぶん、自分を自分につなぎたいという思いがあったからだ。同じ会社で何十年も働いた人は定年前後に安定が崩れ、いきなり別世界に移ることを強いられる。僕自身、新聞社との関係では正社員記者から再雇用記者となり、最後は一読者に戻った。その移ろいの痕跡が看板の掛けかえだとも言える。そして、そんな状況下でも自分は自分でありつづけたいという志の証しが、当欄の継続だった。
 
 定年で自己同一性にゆらぎを感じたのは、僕たちの世代が日本社会に強かった終身雇用制に守られてきたからだ。今は違う。若い世代では、同じ勤め先に居続けることを疑わない人が少数派だろう。転職しなくとも、会社が同じかたちで半世紀も生き延びるとは考えにくい。だから、若くして移ろいの感覚を身につけ、仕事環境が一変するシナリオも将来図の一つに組み込んでいることだろう。この感覚のほうが日本の精神風土に近い、と僕は思う。
 
 たとえば、建築事情がそうだ。日本の建物は木造がキホンなので、町々は幾度となく大火を経験してきた。東京について言えば、20世紀に限っても、1923年の関東大震災と1945年の大空襲で広大な地域が焼き尽された。ただ、それだけではない。鉄とコンクリートの時代に入っても、短命に終わるビルは多い。建物は更新して当たり前という意識が人々の心に浸透しているのだろう。
 
 空襲を免れた商店街でも、戦前の匂いを残す看板建築が、肩身が狭そうにペンシルビルの間に挟まれている。農村でも、古民家がモデルハウスのような家と隣り合わせでたたずんでいる。建物は、ときどきの思惑とデザインで建てかえていくというのが日本流なのだろう。
 
 高度成長期、僕が通学で電車に乗っていたころ、乗り換えで通るターミナル駅は常時工事中だったという記憶がある。一つの改修が終わっても、知らないうちに次の改修が始まっているという感じで、いつになったら完成形が現われるのだろうかと訝ったものだ。工事の合間にいったん小康が訪れても、次はあの古くなったところにとりかかるんだなと、僕たち乗客のほうが予感していた。
 
 これは、バルセロナのサグラダ・ファミリアが長い歳月をかけて建築工事を続けているのとは似て非なるものだ。あちらには、完工のゴールがある。こちらは、ただただ建てかえていく。まさに僕たちは移ろいの文化の只中に生きているのである。
 
 で、今週は世の無常を綴った鴨長明の『方丈記』。ただし、僕は古文が苦手なので、これを今年3月刊行の『現代語訳 方丈記』(佐藤春夫著、岩波現代文庫)に収められた佐藤訳の現代文で読む。底本は、佐藤が1937年、『浄土』という雑誌に『通俗方丈記』と題して連載したものだという。書きだしは「河の流れは常に絶える事がなく、しかも流れ行く河の水は移り変って絶間がない」。とても平明な文章になっている。
 
 さて、その冒頭段落にいきなり出てくるのが、家屋の話である。「昔の儘(まま)に現在までも続いていると云う住家は殆(ほと)んどなく、極めて稀(まれ)に昔の美しさのある物を発見するのが頗(すこぶ)る難しい」。この記述を最近の新聞コラムで見かけたと偽っても、だれも疑わないだろう。平安から鎌倉にかけての建築のはかなさが現代のそれに通じているのは間違いない。
 
 これは、ハードウェアにとどまらない。人の世も同様だ。次の一節は、里帰りでもしたときの体験だろうか。「昔からの知り合いは居ないものかと見て見るとそうした人は中々に見付ける事が出来なくて、所も昔の儘の所であるのに、又そこに住んでいる人々も昔の様に多数の人々が住んでいるに拘(かかわ)らず、十人の中僅(わずか)に二、三人しか見出す事が出来ない有様」。この点では、日本社会はもともと流動性が高かったのである。
 
 その背景にあるのは、僕たちの祖先が災害列島に生きてきたという史実だろう。『方丈記』を読んで驚くのは、京都一帯を襲った災厄の多さとその激しさだ。列挙すれば、1177(安元3)年の大嵐とそれに伴う大火、1180(治承4)年の大旋風、養和年間(1181〜82年)の異常気象による飢饉……そして1182(養和2)年には、人々が「飢饉で弱っている」ところに「疫病の難」が追い討ちをかけた。
 
 このうち、安元3年の大火はどうだったか。「燃え上った火炎は折からの突風に煽(あ)おられ煽おられて、それこそ扇を広げた様な型になって末ひろがりに広がって行った」「吹き付けて来る煙に巻き込まれた人は呼吸を止められてパッタリと倒れ、人事不省になり、又吹き付ける火災にその身を巻き込まれた人々は直にその場で貴い一命を奪われてしまう事も頻多であった」
 
 こうした惨状を縷々綴った後、「一朝にして灰となる運命も知らぬげに、自分の住家に、大層なお金を掛けて、ああでもない、こうでもないと色々と苦心して、建てる事程間抜けな愚かしい事はないとしみじみと思い当った」と、諦観の境地に達するのである。
 
 震災の記述もある。何年かは記されていないが、『理科年表』(国立天文台編、丸善)に照らすと1185(元暦2)年の大地震らしい。「大きな山は地震の為に崩れて来て、下に流れている河を埋めてしまったり、海の水は逆行して岸辺に上り、更に人の住家のある所まで流れて来たりした程であった」。余震も3カ月ほど続いたという。活断層もプレートも知らず、地震のしくみが不透明な時代、大地が動く怖さは想像を絶するものがあっただろう。
 
 こんな無常観のもとで長明が京都郊外の丘陵に建てたのが「僅かに一丈四方」の庵だった。間口奥行きともに約3m、どこでも組み立てられるプレファブ式。それは「家族の為」「主君や、師匠の為」ではなく、「見栄の為」でも「財産や宝物を入れる為」でもない家だ。自らが独り身であることに触れて「現在の私の建物は純粋に私自身の為」と言い切る。なんと強い「個」の主張か。僕はそこに、近代の自我を先取りした中世知識人の姿をみる。
 
 ただ、長明は決して孤独ではなかった。たとえば、山麓には山番が住んでいて、その家の子どもと一緒に山歩きを楽しんだ。草花を採ったり、芹を摘んだり、峰に登ったり。歳の差はあっても「全くの好い友達同志」だった。時間軸を過去に延ばせば、旧友との友情も大事にした。「月の美しく冴え渡った夜には」「古い友達の事を思い出しながら」「思わずも涙の眼に浮ぶ事さえもある」と綴っている。彼の心には、いつも他者の存在があった。
 
 その他者の重んじ方がとてもリベラルだ。「京からの時々の風の便りに貴い身分の人達の多くが亡くなられたと云う事を聞くことがあるのだが、それと同じ様に身分の賤しい人々も沢山に死んでいる事であろうと思われる」という思いめぐらせは、中世離れしている。
 
 使用人を雇うかどうかを語るくだりも興味深い。求職者は高給を望み、「何でもお金になる所へのみ行きたがっている」と分析して、「使用人を使わずに自分自身を使用人にする」という生き方を奨励する。「牛車」などを仕立ててあれこれ気遣いをするよりも「自分の足で歩く」ほうが楽だというのだ。このあとに書かれる「藤の衣、麻の夜具」などの勧めと併せて、エコロジー思想の先取りまで見てしまうのは買い被り過ぎか。
 
 この本に収められた『兼好と長明と』で、佐藤は『方丈記』と吉田兼好の『徒然草』が「青年受験学生が必読の書」とされたのは間違いだと言っている。大人が読んでこそ有意義ということか。自身、「改めて精読する機会を得てはじめてその真価を知った」という。
 
 日本中世の「河の流れ」が、近代の個とリベラリズムに至る水脈に思えてきた。
 
写真》長明は3m×3mの正方形に座して、移ろいの世界観を深めた。
(執筆撮影・尾関章、通算258回

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『フランドン農学校の豚』(宮沢賢治著、新潮文庫『新編 風の又三郎』所収)

 今からちょうど20年前、ロンドン駐在を終えて帰ってきたときのことだ。当時の新聞社では「特派員」の業務がまだ仰々しく扱われていたから、帰任後には必ず部長会に出て、ただの挨拶ではない中身のある帰朝報告をするのがならいだった。科学記者だから欧州の原子力事情などについて話すのだろうと大方の部長は予想していたと思われるが、僕が選んだテーマは「動物の権利保護」だった。
 
 欧州メディアでよく見かけるのに、日本ではなじみの薄い言葉は何か。そう考えたとき、真っ先に思い浮かんだのがアニマルライツ、すなわち「動物の権利」だったからだ。もちろん、日本社会の動物愛護精神は海外に引けをとらない。ペットを愛する人、飼い主のいない犬猫を守ろうとする人、野生動物保護に情熱を燃やす人は大勢いる。だが、その活動をメディアが伝えるとき、よく見かける用語は「動物愛護」だ。
 
 ところが、欧州は違う。朝の日課で英国の新聞のページを繰っていると、動物の権利をめぐるニュースが出てこないのが珍しいくらいだった。それは、決して世間話にとどまらない。たとえば、キツネ狩り。猟犬を使ってキツネを追いつめるという英国貴族伝統の娯楽だが、2000年代に入って禁じられた。その禁止法案は、僕がいた1990年代でも英国の議会で盛んに議論されていたのである。
 
 なんだ、動物愛護じゃないか、肩肘張って「権利」というほどのことはないという見方もあるだろう。それなら、ということで僕が書いた記事の一部を引用する。「子牛を英国からフランスへ運ぶ間、水や休憩を十分に与えなかったのは動物虐待の違法行為だとして、英国ノースヨークシャー州の家畜輸出業者が六日、地元裁判所から計一万二千ポンド(約百九十万円)の罰金刑を言い渡された」(朝日新聞1995年1月8日付朝刊)。
 
 記事の後段には「英国では今年に入って、南部の港町で、動物の権利保護運動家らが家畜のフェリー輸送に対する大規模な阻止行動を起こすなど、この問題に大きな関心が集まっている」とある。当時、野生動物だけでなく家畜の権利までが論議の的になっていた。
 
 動物の権利保護運動は20世紀後半、エコロジー思想とともに強まった。それは、生物種の共存を生態系(エコシステム)として重んじる。その極北と言えるのがディープ・エコロジー。「人間以外の生命は、人間にとって有用か否かに関係なく、独立した価値を持っている」(『緑の政治ガイドブック――公正で持続可能な社会をつくる』デレク・ウォール著、白井和宏訳、ちくま新書)という立場だ。ここまで突きつめると「権利」の発想が出てくる。
 
 『緑の政治……』という本は、当欄の前身で「緑の政治思想を本気で考える」と題して紹介したことがある(「文理悠々」2012年11月5日付)。日本ではエコロジー思想を主張する政治勢力が育っていないことを論じた小文だった。「動物の権利」論議の不在もそのことと同根のように思う。では日本には、人間と人間以外の動物との共存を真正面から考える人がいなかったのか。決してそうではない。
 
 今週は、宮沢賢治の短編『フランドン農学校の豚』(『新編 風の又三郎』〈宮沢賢治著、新潮文庫〉所収)。賢治の作品らしく動物が人間のように描かれているが、それだけではない。家畜の立場から人間を逆照射する思考実験にもなっている。
 
 フランドンは、巻末の注解によれば「創作地名」。賢治ならではの無国籍世界だ。ただ本文中に「洗礼を受けた、大学生諸君」といった言葉が出てくるので、素直に読めばキリスト教文化圏での出来事らしい。その地にある農学校に飼われたヨークシャー種(この作品では「ヨークシャイヤ」と表記)の豚が主人公である。農学校長や畜産教師、生徒らが入れ代わり立ち代わり畜舎に出入りして、豚の心を揺さぶっていく。
 
 まずあっけにとられるのは書きだしだ。「〔冒頭原稿一枚?なし〕」とある。公表時、すでに著者の没後でその箇所が散逸していたのだろう。その結果、いきなり「以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取(せっしゅ)して、脂肪(しぼう)若(もし)くは蛋白質(たんぱくしつ)となし、その体内に蓄積(ちくせき)す」という科学文献らしきものの引用から入る。これがかえって、家畜が人間にとってどんな存在かを鮮明に印象づける。
 
 ひと言でいえば、栄養製造機のように扱われているということだ。生徒の一人は、豚が水や餌を「いちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる」ことを理由に「豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒(しょくばい)だ。白金と同じことなのだ」と言ってのける。これを聞いた豚は、白金の単価に自らの体重を掛け合わせて自分の値打ちをはじきだし、「第一流の紳士(しんし)」並みだと幸福感に浸る。笑うに笑えない話だ。
 
 もちろん、不安感も募ってくる。教師は「やる前の日には、なんにも飼料(しりょう)をやらんでくれ」と助手に命じ、生徒たちは「早いといいなあ、囲って置いた葱(ねぎ)だって、あんまり永いと凍(こお)っちまう」「馬鈴薯(ばれいしょ)もしまってあるだろう」「三斗(と)しまってある。とても僕たちだけで食べられるもんか」と口々に言う。豚は「やる前の日って何だろう」「一体おれと葱と、何の関係があるだろう」と疑心暗鬼になる。
 
 この短編がすごいのは、ただの家畜残酷物語に終わっていないところにある。フランドン農学校のある国では、そのころ「家畜撲殺(ぼくさつ)同意調印法」ができていた。この法律は、「家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書(しょうだくしょ)を受け取ること」と定め、そこに「家畜の調印」を求める内容だ。動物の権利が文書によって守られていたと言えないこともない。
 
 校長が用意した書面はこうだ。「私儀(ぎ)永々御恩顧(ごおんこ)の次第(しだい)に有之候儘(これありそうろうまま)、御都合(ごつごう)により、何時(いつ)にても死亡仕(つかまつ)るべく候」。見かけはもっともらしいが、これではいいなりではないか。「御都合により、何時にても」は、権利の放棄にほかならない。僕たちも、ネットで長文の約款をざっと見て「同意」欄にチェックを入れがちだが、クリック前の熟読は欠かせないなとつくづく思う。
 
 校長が豚を口説く言葉も、さもありなんだ。「実は今日はお前と、内内相談に来たのだがね」「この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ」と、まずはじわじわと一般論で攻める。そうしておいて「私たちの学校では、お前を今日まで養って来た」「まあ私の処(ところ)ぐらい、待遇(たいぐう)のよい処はない」と恩に着せる。管理職必携のリストラ通告マニュアルを地でいく展開ではないか。
 
 そして、書面を見せて本題に入る。「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔(いさぎよ)く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ」と追いつめ、「死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要(い)らないよ」と宥めすかす。ただ、押印を迫られた豚もなかなかだ。「何時にてもということは、今日でもということですか」と切り返す。校長はいったん引き下がるが、教師はあくまで強硬で……。
 
 賢治には菜食志向があったらしいが、この作品はただの肉食批判ではない。動物の権利保護が避けて通れない難題を教えてくれる。権利とは、人類という同一種の内側で培われた概念だ。法律や契約によって制度化されている。同じしくみを家畜に対して用いようとしても、それはあらかじめ「栄養製造機」として用立てられているのだから、うまくいかない。現実世界では、家畜が人の言葉を解さず人も家畜の心を読めないのだから、なおさらだ。
 
 ディープ・エコロジーに立脚して、人間以外の生命の「価値」を重んずるとしても、その「権利」をどう守るかの答えは見えてこない。エコロジー思想の基本精神には僕も共鳴するが、それが未解決の問いをはらんでいるのは確かだ。だからこそ、この問題では日本からのメッセージがあってよい。異なる食文化、異なる宗教を背景にした動物観や生命観、自然観を持ち寄ることで、僕たちはどうにか人類が共有可能な最適解に近づけるのだろう。
 
 賢治は、その一助となる発信をエコロジーの台頭よりも早く試みていたのである。
 
写真》岩手県花巻で買った宮沢賢治にちなむコースター。賢治の世界に動物たちは欠かせない。
(文と写真・尾関章/通算257回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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