『126年! なぜ三ツ矢サイダーは勝ち抜けたのか』(立石勝規著、講談社+α文庫)

写真》装いは変わったが……

 飲みものは風景になる。このことに異論はあまりないだろう。人物がいて、その傍らにグラスやカップがある。それらは、その場の空気を感じさせる。季節感が漂ってきたりもする。時代の様相が見えてくることもある。だから脇役であっても決して侮れない。

 

 最近気になるのは、ニュース映像でよく見かける会合風景だ。中央官庁の審議会など、かなり高レベルの会議であっても、メンバーの前にはペットボトルが並んでいる。水のことも、緑茶のこともある。口飲みというわけにはいかないからか、紙コップなどの容器が添えられている場合が多い。飲みものには発言で声を嗄らした後、のどを潤すという効能があるが、蓋を開けないままの人は少なくない。会議儀礼だからそこにある、という感じだ。

 

 これを見て時代は変わったな、と思う。1970〜80年代を思い返してみよう。会議では、淹れたばかりのお茶を出すのがふつうだった。湯呑み茶碗は蓋付きで、茶托に載っている、というのが定番だったように思う。それは、まさに村落社会の残滓だった。実際にはティーバッグと自動湯沸かし器を使っていたとしても、客人のために茶葉を用意し、湯を沸かすという姿勢が感じられる。立ちのぼる湯気はもてなしの記号に違いなかった。

 

 もう一つ忘れてならないのは、あのころのお茶出しが性の歪みの反映でもあったということだ。役所であれ、会社であれ、事務職場には「お茶くみ」の担当がいて、それはほとんど女性だった。この風習は性の役割固定の象徴だったので、しだいに姿を消していく。今では職場の一角にコーヒーメーカーなどを置いて、課長でも部長でも自分が飲む分は自分で入れるのがふつうだ。会議テーブルのボトルも、その流れの必然の帰結と言えよう。

 

 では、会食の飲みものはどうか。今はファミレスや居酒屋のメニューそのままにあらゆるものが揃っている。酒類しかり、非アルコール飲料しかり。それで思いだされるのは、僕が小学生だった1960年前後だ。祝いごとでも、法事でも、大人はビールか熱燗、子どもはサイダーかジュースとほぼ決まっていた。個人的には、三ツ矢サイダーの緑がかった瓶とバャリース(現バヤリース)のオレンジ色が脳裏にしっかり焼きついている。

 

 で、今週は『126年! なぜ三ツ矢サイダーは勝ち抜けたのか』(立石勝規著、講談社+α文庫)。著者は、1943年生まれのノンフィクション作家。毎日新聞記者として政財界の疑惑などを取材、論説副委員長も務めた。この本を読む前に知っておいたほうがよいのは、退社後、三ツ矢サイダーを売るアサヒ飲料と同グループの企業で顧問職にあったことだ。本人もエピローグで「その分を差し引いて、この本を評価してほしい」とことわっている。

 

 この本は、2009年に出た『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか――夏目漱石、宮沢賢治が愛した「命の水」125年』(講談社)を改題、加筆したものだ。文庫本初版は2010年刊。この古株の清涼飲料がソフトドリンク多品種化の荒波にもめげず生き延び、しかも製造元だった朝日麦酒(現アサヒビール)が劣勢の時代に経営を支えて、ヒット商品スーパードライの「生みの親」役を果たした――その秘密を探ろうという動機がみてとれる。

 

 著者は記者出身らしく、このテーマに取材力をもって臨む。ただ、サイダーの起源にまで遡っているから、頼りは文献資料ということになる。巻末の「主要参考文献」一覧は10ページ余、1898〜2010年刊行の百数十点が挙げられている。小説、随筆、ノンフィクションの類いから社史、業界史、経営書まで種々雑多。文庫版まえがきでは、単行本の段階では読み漏らした資料があることを悔いている。記者としての誠実さを感じた。

 

 この本には、サイダーの源流として炭酸水の歴史が書かれている。欧州には「炭酸ガスを発生させる炭酸石灰の地層」が多く、「古くから炭酸水が自噴する鉱泉が無数に存在していた」。ここで、炭酸ガスは二酸化炭素、炭酸石灰は炭酸カルシウムである。天然の湧き水は川の水のように汚水混じりではなかったから、飲み水として重宝された。それが15〜17世紀の大航海時代、船積みされる。乗組員の飲料としてあちこちへ運ばれたのである。

 

 それで思いだすのは、僕が欧州に駐在していたころのこと。レストランで水を頼むと“Still or fizzy?”などと問い返されるのが常だった。気泡のないやつかあるやつか、というわけだ。今でも炭酸水は、ふつうの水と同列視されるほど行き渡っている。

 

 興味深いのは、大航海で「安い砂糖が大量にヨーロッパへもたらされたこと」。18世紀の英国では、それがレモン果汁とともに炭酸水に添加され、炭酸レモネードとなる。炭酸水は欧州の船乗りの渇きを癒して交易を盛んにした結果、自らの商品価値も高めた。

 

 そして日本。著者は、レモネードが黒船で浦賀にもち込まれたという説の真偽を探る。現地取材もするが、答えは出ない。ただ、ペリーには好みの炭酸水があったらしいとの史実から「瓶詰めの炭酸水が積まれていたのは、間違いないようだ」と結論づける。これとは別に、長崎来航の英国船がレモネードを広めたという話も出てくる。どちらにしても炭酸飲料は定番の船積み品目だったらしいから、開国早々、日本人の知るところとなったのだろう。

 

 では、三ツ矢サイダーの原点は何か。ここでは「三ツ矢」と「サイダー」に分けて考えたほうがよい。まず、三ツ矢。1881(明治14)年、兵庫県の多田銀山周辺(現・川西市)に湧く炭酸水を英国人が分析する。湯治用鉱泉の「平野の湯」を飲料として再発見したのだ。1884(明治17)年、瓶詰めの「平野水」が世に出る。この名に「三ツ矢印」が冠されたのは、食品大手の明治屋が販売元になってから。地元に残る弓矢がらみの伝説に因む。

 

 サイダーは日本では、「レモン味」のラムネを追う「リンゴ+パイナップル」風味の炭酸飲料だった。原意のリンゴ酒と違って、無発酵の「日本独特の味」だ。この市場で三ツ矢は後発。明治屋が平野水から手を引いた後、後継の会社がこの風味を取り込んだ。それが、1907(明治40)年発売の「三ツ矢印平野シャンペンサイダー」(後に「印」「平野」「シャンペン」がとれていく)だ。当時は人工でなく天然の炭酸水を用いていたことになる。

 

 三ツ矢サイダーはその後、ビール業界の競争に揉まれていく。製造販売元は1921(大正10)年、根津財閥系の麦酒企業に吸収されて日本麦酒鉱泉となる。ただ「鉱泉」の名が残ったことに、サイダーへのこだわりが感じられる。ビール「三強」のもとで、炭酸飲料市場でも三ツ矢と大日本麦酒のリボンシトロン、麒麟麦酒のキリンレモンが有力商品として並び立ち、戦前の大日本麦酒・日本麦酒鉱泉合併や戦後の再分割を経ても生き抜いた。

 

 圧巻は、戦争とサイダーの関係を描いたくだりだ。『戦艦大和ノ最期』(吉田満著、講談社文芸文庫)から貴重な言葉を紡いでいる。海軍少尉だった吉田は敵の攻撃を受けて35度傾く艦内で、ポケットに入れていたサイダーを飲む。「炭酸、咽喉ヲ弾ケテ快シ 舌ニ残ルソノ甘味」。海に放りだされた後も「『サイダー』ガマダ十センチ程残ッテタ」(立石氏が「サイダー」に傍点)ということに思いが及ぶ。サイダーは戦場の将兵とともにあったのだ。

 

 この本が強調するのは、海軍ではサイダーが市中に比べて破格の安さで売られていたことだ。直納方式で、しかも免税されていたためらしい。サイダーは、兵士の若者にとって「故郷では値段が高くて買えなかった」かもしれず、「初めて味わったであろうことは十分、推測できる」。戦後復員して家庭を築いてから「祭りのときなど特別の日に、サイダーを子供たちへ買ってやった」と著者は想像を膨らます。これも「子どもはサイダー」の原点か。

 

 戦後史では、三ツ矢サイダーの甘みのブレに注目したい。1946(昭和21)年、合成甘味料の添加が始まる。業務用砂糖の流通が統制下に置かれたからだ。その解除とともに砂糖入りの製品をふやし、69(昭和44)年には「全糖」化する。食の安全に世間が敏感になった時代だ。著者の記述はそこで終わっているが、この本が出たころに「糖質ゼロ」をうたう甘味料入りの新品種が出る。今度はダイエット志向を無視できなくなったのだろう。

 

 サイダーの泡は大人にもヒリヒリする。それは甘いが、一瞬苦い記憶も蘇らせる。

(執筆撮影・尾関章、通算381回)

『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』(黒川光博著、新潮新書)

 僕が愛用してきた言葉に「男子スイーツ部」がある。男女共同参画の職場で女性から性のニュアンスをはぎとった「女子」という呼び方がはやりだして、裏返しの「男子」をぜひ使いたいと思っていたころに出会った。
 
 新聞社では、職場でみんなの注文を集めて、飲みものや食べものを配達してもらうことがままある。僕が大阪本社の論説委員室にいたころ、当時の社屋には社員食堂に喫茶コーナーがあり、内線電話一本であんみつもパフェも届けてくれた。昼下がり、息抜きに甘いものがほしくなると、率先して「スイーツはどう?」と同僚に声をかけた。そんなとき、「部員」を名乗ったのである。
 
 この言葉はいったい、だれが考えたのか。ネットを漁ると、そのものずばり「男子スイーツ部」を掲げるサイトがすぐ見つかるから、そこが本家なのか。あるいは、それに先立ってグルメ雑誌の類が発信源になったのか。新鮮でキャッチーな造語だなと感心する半面、ちょっと引っかかるところもある。「男子」と「スイーツ」がくっつくと、どうしてこうも目を引くのか。標準男子はスイーツと無縁ということなのか。
 
 自ら「男子スイーツ部」を標榜して、浮かれている僕などは、ポリティカル・コレクトネス――すなわち差別と偏見を排する立場から言えば、役割固定の囚われ人なのかもしれない。ここで「役割」と言うのは、料理を「つくる」「食べる」の話ではないのでドンピシャではない。それは、トイレ表示の多くが女子ピンク、男子ブルーに色分けされているようなことだ。そのピンクとブルーの同列に甘党辛党もあるように思える。
 
 幼い子に同型異色のおもちゃを選ばせると、女の子が赤っぽいものをとり、男の子が青っぽいものに手をのばすのはよくあることだ。だがそれは、生を受けて数年の社会体験で身につけた嗜みである可能性を否定できない。甘辛の好き嫌いも同様だろう。
 
 そもそも、甘党と辛党は相対立する党派ではない。野党が与党にすり寄るのは無節操ゆえのことが多いが、甘党が酒好きであっても辛党が甘味通であっても、論理矛盾はない。それを、ことさらに「両刀づかい」と呼ぶほうがおかしい。あえて言えば、ワインにはシュークリームよりもチーズが似合う、熱燗には羊羹よりもシシャモがぴったりくる、というだけのことではないのか。
 
 で今週は、僕の「男子スイーツ部」脱退宣言。これからは「スイーツ部男子班員」を名乗ることにする。とりあげる一冊は、甘いものは男女を問わず、人類共有の文化であることを痛感させてくれる本。『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』(黒川光博著、新潮新書)である。
 
 著者は、和菓子業界の老舗中の老舗、東京・赤坂の「虎屋」十七代当主。「創業四百八十年。室町時代に京都を発祥の地として菓子屋を営み、明治維新とともに東京にも進出、現在に至る会社」の経営者だ。「御陽成天皇以来、虎屋は今日まで御所御用商人として歴代の天皇をはじめ皇室の方々に、また、宮中のいろいろな行事の折などに、菓子をお納めして参りました」。まさにセレブな甘味を究めた御菓子司(おんかしつかさ)のトップである。
 
 先代当主が1973年に創立した「虎屋文庫」は、菓子をめぐる古文献や古器物を収集、そのなかには「虎屋の古文書約八〇〇点」も含まれる。この本は、それらの史料を踏まえているので、一商家が肌身で感じた和菓子史になっている。
 
 ひとつ目を見張るのは、スイーツ業界の進取の精神だ。「虎屋に残る最も古い帳簿」にそれがみてとれる。寛永12(1635)年、御所に納めた菓子の品目明細である。大量の大饅頭、薄皮饅頭、羊羹などに交ざって、「有平糖」「かすていら」「かるめいら」「はるていす」といった西洋系の菓子も顔をのぞかせていた。日本が欧州とつながった時代、そこから流れ込む南蛮菓子の風味をさっそく取り込んでいたことがわかる。
 
 黒船来航後の幕末には、さらに洋風の波を受ける。万延元(1860)年、宮中の儀式に届けた「琥珀(こはく)まんぢう」がそうだ。「『琥珀』は砂糖と寒天で作ったゼリー状の菓子に使われる言葉」なので、涼やかな甘味だろう。おもしろいことに、それは「ぎやま徳り(ギヤマン徳利)」というガラスの器に入れられていたという。会席の甘味にもフレンチのデセールにもなりそうだ。スイーツは、性差どころか国境でもたやすく乗り越える。
 
 この本によると、「和菓子の完成期」は元禄年間(1688〜1704)とみてよいらしい。西鶴、近松、芭蕉、初代團十郎、光琳らが活躍したころだ。「京都では公家や僧侶あるいは武家や上層町人をも含んだ文化サロンが形成され、『源氏物語』や『古今和歌集』を素材にした芸術がもてはやされて」「意匠に工夫を凝らし、『古今和歌集』や王朝文学に想を得た雅な名前の菓子が登場するようになります」。
 
 こうした品名を「菓銘(かめい)」という。菓子を「味覚や触覚、嗅覚ばかりでなく、意匠を視覚で楽しみ、菓銘を聞いて聴覚でも楽しむ」。そんな時代の到来だった。虎屋には、当時のカタログとも言える「菓子絵図帳」が残っている。最古のものは元禄8(1695)年版。絵図帳を開くと、「しら(白)藤」や「さか(嵯峨)野」のような風雅な菓子群に出会うという。スイーツは詩心を結晶させた高度な文化なのである。
 
 この本のもう一つの読みどころは、江戸時代、政治経済の中心ではない京都で生き延びた虎屋の企業史だ。はじめは京の文化サロン効果もあって好調だった。正徳4(1714)年には、ほかの商家と共同出資して江戸にも店を出した。ただ、約半年で手を引く。江戸出店では京都の同業者に先行されていたこと、「幕府御用」はすでに関東商人が押さえていたことなどで苦戦を強いられたらしい。「撤退が早かったため」に損失は小さかったという。
 
 経営が苦しくなるのは、江戸中期以降のようだ。「朝廷の経済の逼迫」が深刻になったのである。それを裏づけるのは6代当主の日記。享保12(1727)年に「昨年一年間は御用代金を頂いていない」旨の記述があるという。官需に頼らぬ企業努力が求められた。
 
 そんななかで9代当主光利の経営手腕が目を引く。軸となるのは、文化2(1805)年から連発した社内文書だ。就業規則の「掟書(おきてがき)」、倹約マニュアルを盛り込んだ「定(さだめ)」、職掌規程に似た「店員役割書(てんいんやくわりがき)」である。
 
 この本には、掟書の要約が現代語で載っている。「良い提案があれば各自文書にして提案する」「製造にあたっては常に清潔を心がけ、口や手などをたびたび洗う」「御用のお客様でも、町方のお客様でも丁寧に接する」「お客様が世間の噂話をしても、こちらからはしない」「仲間を組んで悪いことをした者がいる場合は届け出る」。モラール向上、食品衛生、公平公正、個人情報保護、内部通報。昨今の企業が掲げる理念と見事に響き合うではないか。
 
 和菓子商人は日本の封建時代にいち早く近代の感覚を取り込んで、市民社会萌芽期の文化と経済を担ってきたと言えるだろう。それは、全国津々浦々にあった造り酒屋の立ち位置と重なる。この一点で、甘党と辛党は同じ重みをもっている。
 
 読んでいて思わずグッとくるのは、昭和20(1945)年5月の空襲で、店のある赤坂一帯が火の海になったときの話だ。店舗ビルは残ったが、工場と当主の居宅は失われた。このとき、「焼け落ちた赤坂の工場に別れを告げ、迫り来る熱風の中を近くの弁慶堀まで逃れた女子店員たちが、水につかりながらも工場の重要品袋を守り通した」のである。袋には「虎屋に残る古い史料」が入っていた。あえて水に浸して焼損を防いだものもあるという。
 
 僕たち「スイーツ部員」にとってよだれが出るほど貴重なスイーツ史の物証が、火の手に追われる「女子店員たち」の機転で生き永らえることができたのである。それもこれも、和菓子は文化だという意識が店の人々に浸透していたからだろう。
 
写真》羊羹。敬意を表して虎屋の一品を買ってきた=尾関章撮影
(通算239回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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