『土偶のリアル――発見・発掘から蒐集・国宝誕生まで』

(譽田亜紀子著、挿画・スソアキコ、監修・武藤康弘、山川出版社)

写真》ジョーモン

 教科書だけじゃ、なにもわからない。そう痛感する機会がこの夏にあった。東京・上野で開かれていた特別展「縄文――1万年の美の鼓動」(東京国立博物館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社主催)をのぞいたときのことだ。あの模様付きの土器なら学校の教科書でなんども見てるよなあ、まあ、現物を見るに越したことはないが……内心、そんな奢りがあったことは正直に打ち明けよう。それは、会場に入ってすぐに吹っ飛んだ。

 

 最初に圧倒されたのは、土器をこれでもかこれでもかと並べたスペース。深鉢から火炎模様が一斉に立ちのぼるさまには、一種異様な迫力があった。縄文人が個々に向きあっていた土器を2018年夏、列島の1地点に集めたことで縄文の力がまざまざと見えたのだ。

 

 これにかかわる展示で気が利いているなと感心したのは、日本の縄文期とほぼ同時代に世界各地の土器事情がどうなっていたかをきちんと見せていたことだ。文明の進み具合という尺度でみれば、日本列島は後発だった。そのころ、中国や中近東などでは農耕が始まっているが、縄文人はまだ食糧を狩猟や採集、漁労から得ていた。展示品を眺めても、先進地の土器は繊細だ。ただ、そのことが縄文のたくましさを逆に引きたてたようにも思う。

 

 次に衝撃を受けたのは、国宝の土偶を集めたコーナー。土偶そのものも魅力的だったが、僕が興味をそそられたのは、むしろそこに添えられたデータだ。発見年を見ていて、ある一つのことに気づいた。1970年代から90年代にかけて次々に掘り出されているではないか。高度成長期以降、列島のあちこちが掘り返され、それを追いかけるように埋蔵物の発掘保存が進んだ。そんな時代の風景が、出土歴に映しだされているように思えた。

 

 そう考えると、僕たちは稀有な時代を生きていることになる。国内線の飛行機から下界を見下ろしたとき、開発による自然破壊が至るところに及んでいるのを目のあたりにして愕然とするが、その副産物として、一つの古代文化の全体像に近づいたのだとも言える。

 

 土偶で僕が感じ入ったのは、リアルとはとても言えない人間の造形だ。その特徴は、頭部がのっぺりした仮面状のものや、アイマスクのような目をしたもの(遮光器土偶)で際立っている。会場には、イノシシを現物そっくりに模した土製品などが展示されていたので、人間をもっと人間らしくつくる技量は十分にあったと思われる。それなのに、あれほどまで現実ばなれさせるとは。これこそが、縄文人の高い精神性の表れなのかもしれない。

 

 で、今回の1冊は、会場の売店で買った『土偶のリアル――発見・発掘から蒐集・国宝誕生まで』(譽田亜紀子著、挿画・スソアキコ、監修・武藤康弘、山川出版社)。著者は、岐阜県に生まれ、京都で学生生活を送った人。本文の記述から、全国に散らばる土偶発見地に目を向け、当該機関の報告書や新聞記事を集めて丹念に読み込んでいることがわかる。略歴欄によると、テレビ、ラジオにも出演しているらしい。この本は2017年に出た。

 

 さっそくだが、土偶発見と列島開発を結びつけた拙論があながち的外れでないことは、この本からも見えてくる。1995年に土偶の国宝第1号となった「縄文のビーナス」が長野県茅野市の棚畑遺跡で見つかったのは86年。遺跡の存在は古くから知られていたが、この年に市が工業団地の誘致を決め、遺跡保護のための測量作業が進められていたときのことだったという。地域経済の振興が地中のビーナスを外界にはじき出したのである。

 

 背丈45cm、すらりとした日本最大の土偶、国宝「縄文の女神」も開発の副産物と言える。こちらは1992年、山形県舟形町の山あいで自動車専用道路の建設計画に伴う発掘調査中に発見された。こちらは、クルマ文明が女神のベールを剥いだ例と言えよう。

 

 現代人にも、もっとのどかな土偶との遭遇がないわけではない。1975年、北海道南茅部町(現・函館市)で国宝の中空土偶「茅空」が見つかったときがそうだ。著者は、読売新聞の記事を踏まえて情景を再現する。家庭菜園でジャガイモ掘りをしていた女性が「鍬を振り下ろした瞬間」のことだ。「カン!」と音がする。不審に思って土を除くと「地中から頭の形をした焼き物がひょっこりと現われた」。だれにも、チャンスはあるということだ。

 

 「茅空」の章には、へぇー、そうなのかということも書かれている。埋蔵文化財は「落とし物」として扱われるというのだ。落とし物は持ち主がわからないとき、やがては拾った人のものになる。土偶は本来の持ち主が名乗り出るわけがないから、この扱いに相当するが、「茅空」の発見者は所有権を南茅部町に譲ったという。彼女は、読売新聞の取材に「発見したんじゃない。『当たった』んだ」と応じたとある。ちょっといい話ではないか。

 

 さて、土偶の形状の話に入ろう。まずは、国宝「仮面の女神」から。これは2000年、茅野市の八ヶ岳山麓にある中ッ原遺跡で発掘された。この本には、全体像を斜め正面からとらえた写真が載っているので、造形の妙はひと目でわかる。量感のある腹と下肢。とりわけ両下肢はずんぐり丸みを帯びて安定感がある。上肢は短く左右に突き出したかたち。そしてなによりも顔がすごい。逆三角形の平面。幾何学図形のお面としか見えない。

 

 著者によれば、そのお面には一応、目、鼻、口や眉が見てとれる。頭の後ろに紐のように見える部分があり、お面を被っているという解釈で間違いないようだ。同様の仮面土偶はほかの場所でも出土されているが、縄文後期の東日本に特徴的なものだという。

 

 では、なぜお面を被らせたのか。著者の見方はこうだ。仮面土偶は、集落で呪術を担う人、即ちシャーマンの「道具」であり、「依り代」(憑依物)の役目を果たしたのではないか。だから、人であってはならない。仮面は「人ならざるものの象徴」なのだろう――。茅野の仮面土偶は縄文人の墓から出ており、被葬者が集落のシャーマンだった可能性もあるという。ただ、それでも不思議なのは、お面のデザインがあれほどまで幾何学的であることだ。

 

 茅野の仮面は正三角形に近い。高度の対称性を帯びた図形が数千年前、ユーラシアの辺境に現れたのだ。大陸文化の影響か。それとも独自の発想か。欧州には、縄文人をピカソになぞらえ、キュビスムの先駆者ととらえる向きもあるが、もっともなことだと思う。

 

 「人ならざるもの」という形容は、縄文晩期にあちこちで見つかった遮光器土偶にも当てはまる。「その姿はずんぐりむっくりの宇宙人と言われ、アニメや特撮物の映画にも登場する、誠に稀有(けう)な土偶」と、著者は書く。これは、突然出現したのではないらしい。まずは目がアーモンド形をした土偶が現れ、その目がどんどん拡大して完全な「遮光器」になった、という。縄文人の造形には、すでに強調という表現手法があったのか。

 

 この本には、典型的な遮光器土偶で「鼻は眉間」へ、「口は目と目の間」へとずらされ、「乳房はその位置を留めているに過ぎないほど遠慮気味に作られ、文様の一部と化す」とある。頭部は「宝冠(ほうかん)状」に飾られ、体表は「雲形」や「点」の模様で覆われている、ともいう。興味深いのは、このきめ細かな装飾性が時の経過とともに崩れてゆき、前衛風の色彩を帯びることだ。写実から離れる方向へ進化しているとは言えるだろう。

 

 つくづく不思議に思うのは、縄文人の感性が近現代人のそれにつながっていることだ。仮面の幾何学からはキュビスムだけでなくアール・デコを感じる。「遮光器」の力強さは表現主義の先取りか。そして、全身を覆う装飾はアール・ヌーボーを彷彿とさせる。

 

 この本では、縄文人が土偶に託した役割についてもいくつかの推理が紹介されている。土偶が割れた状態で出土することが多いのは、そもそも「壊される存在」としてつくられたから、という解釈は目から鱗。人の「痛み」を「肩代わり」してくれるというのだ。

 

 ただ、僕が畏怖を覚えるのは土偶をつくった動機ではない。縄文人が人のかたちをベースに「人ならざるもの」を具現しようとした行為に、人類の表現欲求の強さをみるのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算438回、2018年9月14日公開)

 

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『ミュシャのすべて』

(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)

写真》展覧会の記憶

 ちょうど25年前になる。1992年の早春、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪れた。旧ユーゴスラビアでは東西冷戦が終結して民族間の対立が露わになり、北部クロアチアで分離独立をめぐる内戦が勃発して間もないころだった。僕は科学記者として「国際貢献」の実相を新聞記事にする取材班に加わっていたので、旧ユーゴで国際医療NGOの活動を追いかけた。このとき、首都ベオグラードからサラエボにも足を延ばしたのである。

 

 サラエボに赴いたとき、そこはまだ平穏だった。街頭活動は激しくなっていたようだが、戦闘はなかった。「われわれは、あんな真似はしない」。病院で取材に応じた医師の一人が口にした言葉は、今も忘れられない。自分たちは民族感情を暴発させたりしないという自負の念を感じた。だがそれからひと月もしないで、ボスニア・ヘルツェゴビナも内戦状態に突入する。3年半に及ぶ戦闘は、旧ユーゴ紛争でもっとも苛烈なものだったと言えよう。

 

 ただ、あのときは嵐の前の静けさで、仕事の合間に街をぶらぶら歩きすることもできた。たぶん、早朝ではなかったか。静まりかえった石畳の旧市街に入って一瞬、頭がクラクラしたことを覚えている。「僕はいま、京都にいるのではないか」。そんな錯覚に陥ったのだ。低層の家並みが続いていて、軒の出し方などは日本の町家にそっくりだった。木造も多かったように思う。欧州の一角なのにアジアの風土が入り込んでいる、と痛感した。

 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、かつてユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属する一つの国だったが、今は完全に独り立ちしている。ただややこしいのは、その国がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の二つから成り立っていることだ。ボスニア・ヘルツェゴビナという名の国の一部にまったく同名の連邦もあり、そのなかにまた構成単位があるという入れ子構造。この複雑さはそのままこの国の民族事情を映している。

 

 この地域の住人は、大きく分ければボシュニャク人、クロアチア人とセルビア人の3民族から成る。ボシュニャク人は、オスマン帝国支配の時代にイスラム教を信ずるようになった人々の流れを汲む。クロアチア人はカトリック教徒が主流。セルビア人にはギリシャ正教を信仰している人が多く、スルプスカ共和国の中心勢力となっている。ここで見落とせないのは、いずれも南スラブ人であることだ。宗教が民族を分かったのだとも言えよう。

 

 この状況は、一朝一夕に生まれたものではない。この地域に外から巨大な教権や政権の大波が押し寄せ、それに呑み込まれた史実が、そこにはある。サラエボの街で感じたアジアの気配も、その名残だろう。民族のモザイク模様は、歴史の投影にほかならない。

 

 で、今週は『ミュシャのすべて』(堺 アルフォンス・ミュシャ館〈堺市立文化館〉協力、KADOKAWA編、角川新書)。2013年に『ミュシャの世界』(同館協力、新人物往来社)として出た単行本に加筆して、改めて編集したものだという。

 

 アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)は、チェコ・モラビア地方出身の芸術家。姓は母国語読みではムハという。ポスターから絵画、工芸まで幅広い作品群を生みだした。後半生に打ち込んだのが、テンペラ・油彩画20点の連作「スラヴ叙事詩」。それが今年3月から6月初めまで東京・国立新美術館で開かれた「ミュシャ展」(主催は同館など)で一挙公開され、僕も閉幕直前に駆け込みで観てきた。平日なのに30分待ちの大行列。

 

 展覧会場に入って、まず驚かされたのは「スラヴ…」作品群の大きさだ。大きめのものは約6m×約8m、それ以外のものも縦横それぞれ数メートルはある。一部は「撮影可能」とされていたから、いまどきのことでスマホを掲げて撮る入場客が目立った。

 

 ことわっておきたいのは、「スラヴ…」がこの展覧会のすべてではなかったことだ。鑑賞順路では、この後に「ミュシャとアール・ヌーヴォー」「世紀末の祝祭」といったコーナーが続く。ただ制作順でみれば、前後が逆転する。ミュシャは世紀末のパリへ出てアール・ヌーヴォー風のポスターや装飾パネルなどを手がけた後、20世紀に入って民族愛に根ざす歴史絵画の大作に取り組んだ。優美から重厚へ。この変身はどこに起因するのか。

 

 それが知りたくて、ネット通販でこの本を手にとったという次第。奥付に「協力」とある大阪府堺市の文化施設には、ミュシャや彼と関係が深い芸術家の作品約500点が集められているという。作品の画像提供などで大きな力となったのだろう。執筆陣は、多くの展覧会企画を手がけてきた冨田章氏、19世紀末のフランス文化に通じた白田由樹氏、チェコに留学経験があり、連作「スラヴ…」の制作事情に詳しい小野尚子氏の3人。

 

 冒頭の冨田氏執筆部分では「ミュシャには二つの顔がある」と言い切っている。一つは、前半生の「グラフィック・デザイナー」。もう一つは、後半生の「歴史画家」。後者の志向が強まったのはどうしてか。「きっかけは一九〇〇年のパリ万国博覧会で、オーストリア政府の依頼によりボスニア・ヘルツェゴヴィナのパヴィリオン装飾をおこなったことだった」。この記述を読んで、僕はなるほどと納得する。あのサラエボが思いだされたのだ。

 

 当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の一部だった。オスマンという一つの帝国が去った後、別の帝国が居すわっていたのだ。ミュシャは「スラヴ民族がゲルマン民族に支配されている状況」のもとで、被支配域文化の展示を支配体制の側から頼まれたことになる。スラブ色の強いモラビアの出身者として、さぞ複雑な心境だっただろう。このときに「スラヴ民族の歴史を描く最初の構想を抱いた」らしい。

 

 小野氏執筆部分によると、ミュシャは南スラブを取材して「現地に残る古きよき素朴な生活体系や伝統に大きく感銘を受けた」。それをもとに描いた万博展示館の内装壁画は、従来のようにアール・ヌーヴォー風の植物をあしらいながら「歴史上の出来事を緩やかに関連付けて並べている」。本人が後年、展覧会のカタログで打ち明けているように「南スラヴの壁画の制作中」に「《スラヴ叙事詩》となる大作を制作する決心をした」のである。

 

 ミュシャは1910年、チェコ・ボヘミアで古城の一部を借りて家族とともに移り住み、翌年から「スラヴ…」にとりかかる。城内のホールは「自然光が明るく射しこむ広いアトリエ」となり、そこに大ぶりの画布を張る「伸縮可能な鉄製の枠」が置かれた、という。最初に構図や人物の位置取り、ポーズを決めてゆき、次いでその再現写真を撮るという手順。モデルは自分自身や家族、そして地元の人々が務めたとみられている。

 

 そうやって十数年がかりで完成した連作は、時空の両面でスラブ民族の歴史を広くとらえていた。まず空間について言えば、東欧、中欧を中心に地中海から北海、バルト海まで南北を貫いて、さらにロシアも視野に入れている。時間軸も壮大だ。通し番号1「原故郷のスラヴ民族」では紀元前3〜6世紀ごろの原風景が、19「ロシアの農奴制廃止」では19世紀モスクワの光景が描かれ、20「スラヴ讃歌」では第1次大戦戦勝国の国旗がなびく。

 

 なかでも圧巻は、チェコを舞台に反骨の宗教家を描いた作品群だ。その中心にあるのは、7「クロムニェジーシュのミリーチ」、9「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」、10「クジーシュキでの集会」から成る「言葉の魔力」3部作。それぞれ、14世紀に娼婦たちの避難所となる修道院を開いたヤン・ミリーチ、14〜15世紀にキリスト教改革を訴えたヤン・フス、フス処刑後に闘争を呼びかけたヴァーツラフ・コランダが登場する。

 

 13「フス派の王イジー・ス・ポジェブラト」も強烈だ。ボヘミア王が椅子をひっくり返して怒っている。ローマ教皇の使者が、フス派の聖体拝領がカトリック方式と異なるとしてやめるよう求めたのを拒む場面だ。プロテスタント勃興の先取りだったと言えよう。

 

 民族主義は抵抗のなかでこそ輝く。自国第一の排他主義のなかで、ではない。ミュシャが浮かびあがらせたスラブ2000年余のイメージから、そんなことが伝わってくる。

(執筆撮影・尾関章、通算375回)

 

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『カラヴァッジョ伝記集』(石鍋真澄編訳、平凡社ライブラリー)

写真》果物の質感

 1年の半ばだが、暮れの回顧もののネタを一つ予約しておこう。2016年は週刊誌ジャーナリズム復活の年だった、ということだ。政治家が第一線から退場に追い込まれた。芸能人もカメラの前で頭を下げた。それをあばいたのは、出版業界の苦況をものともせずに気を吐く週刊誌。コンプライアンス社会でもこんなことをしている人がいるんだ、と驚かされたこともある。だが、どうでもいいことじゃないか、と呆れる話題もあった。

 

 不倫報道の多くは、読者にとって「どうでもいいこと」だった。道ならぬ恋がばれると、当事者が慌てるだけではない。周辺の人々も巻き込まれる。心がもっとも深く傷つくのは、家族かもしれない。だから、当事者を囲む小社会では「どうでもいい」とは到底言えない。だが、その情報は圧倒的多数の大社会にとっては「どうでもいい」。なのになぜメディアは騒ぎたて、当事者もそれに几帳面に応じて世間に向かって謝罪するのか。

 

 そう思って、昔を思い返してみる。僕の印象で言えば、1960〜70年代は「どうでもいいこと」が今よりも頻繁に週刊誌を賑わせていた。あのころは婚前の深いつきあいがなかなか大っぴらにできなかったこともあって、既婚者のみならず未婚者も含めて恋の発覚や愛のもつれが大見出しになった。ただ、それらは読者に「どうでもいいこと」と正しく受けとめられていたように思う。今のような不祥事扱いは、それほどなかった。

 

 芸能人は、僕たちとは違う世界に住んでいる。そこには、華やかで大胆な恋バナシがあって当然だ。僕たちは素朴な憧れと一抹の羨ましさ、適度の共感と小さな反発をもって、それを眺めている――そんな感じだっただろうか。今で言えば、テレビの情報番組がとりあげるハリウッド・セレブのゴシップに近い。読者の心のなかでは、生身の人間の私生活を映画の筋書きのような虚構空間に移しかえるという作業が暗黙理になされていたのである。

 

 今は、そんな心理状態が許されない。テレビメディアとネットメディアの相乗効果で世の中の隅々までも透明化されているので、芸能界は僕たちの世界と同レベルに降りてきてしまったのだ。だから、芸能人は一私人としての影響しか及ぼさない不始末についても、世間を騒がせ迷惑をかけた張本人という立場に追い込まれ、陳謝する羽目になった。こういう風景を、僕たちはこれからもずっと見つづけなければならないのだろうか。

 

 で、今週は『カラヴァッジョ伝記集』(石鍋真澄編訳、平凡社ライブラリー)。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571〜1610)は、ルネサンスが一段落した16世紀末から17世紀初頭にかけてイタリアで活躍した画家。この本は、本人の存命期から100年ほどの間に書かれた小伝6編を並べ、さらに関連資料や解説論考を収めている。編訳者はイタリア美術史の専門家。今年3月に刊行された。

 

 この本をとりあげるのは先月、東京・上野で開かれていたカラヴァッジョ展「ルネサンスを超えた男」を観てきたからだ。展覧会場は、まもなく「世界文化遺産」に登録される国立西洋美術館本館。それも人を呼び込んだ一因だろうが、平日にもかかわらず大混雑だった。おもしろかったのは、展示物が絵だけではなかったことだ。刑事事件がらみの記録などがあり、思わず惹き込まれた。それで、売店の『…伝記集』に目がとまったのである。

 

 カラヴァッジョは、品行方正という言葉からもっとも縁遠い人物だった。この本にも、編訳者がまとめた「カラヴァッジョ犯科帳」という一編が載っている。「武器不法携帯」、いわば銃刀法違反で身柄を拘束されるのは、しばしばだ。すれ違いざま、顔見知りに剣を抜いたこともある。居酒屋の料理をめぐって給仕といさかいになり、大暴れしたこともある。かと思えば、卑猥な詩で名誉を傷つけられたとライバル画家から訴えられたこともある。

 

 これらは、出身地ミラノからローマへ移り住んでからのことだ。画家としての名声は高まりつつあった。もめごとの相手は同業者という例が少なくない。今ならば、画壇を揺るがすスキャンダルを連発していたと言えようか。謝罪会見を何回も開かなければならなかったことだろう。身柄を解かれ、警察署を出てきたところで、カメラの放列に囲まれ、頭を地につけんばかりに下げている光景が思い浮かぶ。だがもちろん、そんなことはなかった。

 

 そして、極め付けは殺人だ。1606年、きっかけは不明だが、球技場で4対4の乱闘となり、自ら剣をふるって一人を殺したという。被害者は、日ごろから悪感情を募らせていた男。決闘もどきの流血事件だった。これがもとで、カラヴァッジョの逃避行が始まる。ナポリ、マルタ島、シチリア島……。ただ、逃げているばかりではない。行く先々で作品を描いた。マルタ騎士団の団長に取り入って、騎士の称号を授かったりもしている。

 

 こんなことがあっても世間は「ありふれた抗争事件」とみなした、と編訳者は「…犯科帳」に書き添える。「カラヴァッジョ自身も、殺人を犯したという、今日われわれが考えるような罪の意識はもっていなかった」と推察するのだ。欧州ではルネサンスを過ぎてもこんな蛮行が日常の事だったのか、とは驚くまい。日本でも、血を血で洗う戦国の世が落ち着いてまもなくのころだった。500年で倫理の物差しはこれだけ大きく変わったのである。

 

 では、その問題児の画風はどんなものか。まずは、ジョヴァンニ・バリオーネが綴る小伝。この人は前述の名誉棄損を訴えた当人で、カルヴァッジョとは険悪な間柄だった。だが、ほめるところはほめている。一例は「リュートを弾く若者」という絵。「まるで生きているよう」と絶賛する。「花瓶には窓が、部屋の他の品々とともに映っているのが、はっきりと見て取れる」「花の上には、すばらしく丹念に描かれた、本物さながらの露があった」

 

 ふと思うのは、このほめ言葉に毒がまぶされていないか、ということだ。ただただ現物にそっくりなだけ、という揶揄ととれなくもない。だが、そうではないらしい。「バリオーネはカラヴァッジョ風を実践した一人で、そのためにカラヴァッジョから強い反発を受けたのだと想像される」と編訳者が解説しているからだ(所収の論考「カラヴァッジョの真実」)。人柄は別にして、その技は自身が追求する理想を究めているとみたのだろう。

 

 小伝6編のなかで編訳者が一目置いているのは、17世紀の美術批評家兼美術史家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリのものだ。それこそが「カラヴァッジョ神話」をつくりあげ、偏見と呼ぶべきものまで定着させてしまったということらしい。

 

 ベッローリは、カラヴァッジョの写実主義についてこう書く。「彼はモデルなしには絵を描くことができなかった」「自分はモデルに忠実に描いているので、一筆たりとも自分のものは作れない、それは自分のものではなく、自然のものである、と公言していた」「彼には構想力も品位も素描も、また絵画に必要ないかなる科学もなく、ひとたびモデルが彼の視界から取り去られてしまえば、彼の手や才能はなすすべを失ってしまうのである」

 

 その手法が「無頼」な実人生の影響を受けて、作品の色彩がしだいに暗さを帯びていった、と結論づけている。このベッローリ流の解釈が、カラヴァッジョは「教養のないヴィラン(悪党)画家」という「誇張されたイメージ」を生んだ、と編訳者はみる(「…の真実」)。

 

 今回作品群をじかに観て僕が感じたのは、その写実は映像に溢れた現代の感性にぴったりくるということだ。人物の手指の節くれだった質感やふくらはぎの波打つ量感は写真のようだ。ベッローリも、それを正当に評価している。「人体も教則や手法(マニエーラ)によって描かれ、また真実よりも優美さに満足していた時代」に「色彩からあらゆる化粧や虚飾を取り去って、色彩を回復させ、それに血や肉を再び戻してやった」という。

 

 話を最近のメディア状況に戻そう。そこでは人々が私的生活まで公共空間に引っぱりだされるので、だれもがのっぺりとした公序良俗を取り繕うことを余儀なくされている。そのことが、カラヴァッジョ作品の陰翳に僕たちが吸い寄せられる理由なのかもしれない。

 

 この時代、どのようにして人間に「血や肉」を戻せるのか。そんなことを思ってみる。

(執筆撮影・尾関章、通算324回)

 

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『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(多木浩二著、岩波現代文庫)

 コピペという言葉は、すでに市民権を得たようだ。ITが僕たちの生活に浸透して、文書の一部を複写して別の文書に貼りつける行為が「コピーしてペイストする」というパソコン用語でピンとくるようになったのだ。だが、この言葉には危ういイメージがつきまとう。
 
 なぜか。コピペしたものをあたかも自分の著作物であるかのように世に出せば、法律にも道義にも反する行為となるからだ。しかもそれが、自ら一字一字ペンを動かすこともなくマウス操作とキータッチで手軽にできてしまう。危うさは、そこにある。
 
 ただこれは、コピペ部分を「自分の著作物であるかのように」見せたときのことだ。もとより、人間の知的活動に引用は欠かせない。出典を明らかにして既存文献の一部を引き、それを踏まえて新しいものを創ることは認められている。この作業がなければ、幾多の論文の積み重ねのうえにある理系の探究は成り立たない。文系世界も同様だ。先達の言葉をニュアンスも含めて論評することはふつうなので、カギ括弧で囲む引用が必須になってくる。
 
 引用は、作品をまるごと複製することではない。ただ、作品の一部を引き写したり、作品の核心部を要約して採りだしたりする。部分コピー、要点コピーという複製の要素を伴っているとは言えるだろう。
 
 いま、人間の知的活動は迷路にさしかかっている。目の前で二つのベクトルが綱引きをしているからだ。一方は、知的財産権をもっと守れと主張している。もう一方は、複製技術の手間のかからなさをこれ見よがしに見せつけている。市場経済の論理がモノの呪縛から解き放たれて情報世界に広まることと、情報世界を扱う科学技術が驚くほど身近になることが同時進行しているのである。
 
 複製技術が、僕たちのものの見方に影響を与えているのは間違いない。そのことは、先週の当欄「白石一文にみるIT時代の死生観」でも書いた。『翼』(白石一文著、鉄筆文庫)の主人公は、人の死は記憶の消滅であるとして「共有されたデータっていうか送信済みのデータっていうか、そういう記憶は当然他のメモリーにも残るので、その意味では、人の死は関係者全員の死をもって完全な無になるのかもしれないですね」と語っている。
 
 ここで見落とせないのは、複製物の存在感だ。ITは、データをネット空間に雲のように浮かばせたり大勢の人に同時送信したりして、あちこちに分身をつくりだしてしまった。複製が原本と見分けがつかない実在を見せつけているのである。
 
 で、今週は『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(多木浩二著、岩波現代文庫)。この本のつくりは重層的だ。前段では著者がヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代……』を読み解き、後段にはその邦訳(野村修訳)がそっくり収められている。僕たちは読書をするとき、ときに巻末解説に目を通してから本文に入るという変則技を使うことがあるが、この本では、その裏ルートが表ルートになっているのである。
 
 入れ子構造の本なので、それを語るには工夫が要る。不用意に「著者」という言葉を使うと混乱を生じそうだ。ここでは「多木」「ベンヤミン」と固有名詞で表現する。さらにベンヤミンの『複製技術時代……』は「原著」と呼ぶ。原著引用は、すべて野村訳である。
 
 ベンヤミンは19世紀末、ドイツのユダヤ人家庭に生まれた思想家。ナチス政権下、パリに亡命した。原著は1930年代半ばの論考。「ベンヤミンは教条的なマルクス主義は受け付けなかったが、紛れもなく史的唯物論の影響を受けていた」(多木)ので、その視点に立っている。書きだしも「マルクスが資本主義生産様式の分析を企てたとき……」だ。だが、そんなイデオロギーのバイアスを除き去っても、腑に落ちる考察に満ちている。
 
 原著でもっとも強調されているのは、複製技術が芸術の「一回限り」という特質を脅かすということだ。「芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けている」。絵画は写真によって、音楽はレコードによって、自宅でも鑑賞できる。「オリジナルを受け手に近づけること」によって「作品が、いま、ここに在るということの価値だけは、低下させてしまう」。
 
 原著が執筆されたころは写真やレコードに続いて映画が広まり、それも無声からトーキー付きがふつうになりはじめた時代だった。ベンヤミンは、この論考で技術論に根ざした映画論を目いっぱいに繰り広げている。
 
 そこでのキーワードは「遊戯性」であり、「実験的営為」だ。まず、技術を二つに分けて考える。第一のものは太古以来の「やたらと人間を投入する」もので、「一回性が肝要である」。第二は現代技術で、「できるだけ人間を投入することを少なくする」ものであり、「実験のしかたを倦まずたゆまず多様化させてゆく」という意味で遊戯性がある。映画は、第二の技術の落とし子だというのである。
 
 ちょっと難解だ。原著では具体例として、チャップリンが作品の約40倍もの長さのフィルムを消費することがあったという話が出てくる。「完成した映画は、さいころの〈一振り〉による創造物などではけっしてない」「じつに多くの映像や場面からモンタージュされるものであって、モンタージュするひとは、その映像や場面の選択権を握っている」「思いどおりの映像ができるまで、好きなだけ撮影をやり直すことができる」というのだ。
 
 おもしろいのは、これが人々の芸術への向きあい方の移ろいに対応していることだ。ここでのキーワードは「くつろぎ」。多木読解によれば、いまでもふつうには「芸術は美的崇拝の対象であり、精神を集中させて見るものだと思われている」が、映画鑑賞の原型には「覗き眼鏡」のからくりを観るような楽しみ方がある。「そこではいかなる意味でも観客の精神は緊張しない」というのである。
 
 芸術が、美術館で名画の前にたたずみ、しばし見入るというだけのものではなくなったということだろう。あるいは音楽ホールで、名曲をしわぶきひとつ漏らさず聴くだけではないと言ってもよい。原著に出てくるのは「触覚的」という言葉だ。
 
 これは、実際に「触る」ことではない。ベンヤミンの言葉では、芸術を「注目という方途よりも、むしろ慣れという方途」で受け入れることだ。「集中」ではなく「くつろぎ」に近い。例に引かれるのは建築。そこでは「慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる」。たとえ視覚で受けとめるにしても、それは「緊張して注目する」ことよりも「ふと目を向ける」ことから始まるというのである。
 
 これは僕の実感にも、しっくりくる洞察だ。展覧会は大好きだが、どんなに好きな画家の絵を見ていても一瞬、違和感に襲われることがある。それは、意識が絵に没入する時間が分断されることによるものらしい。Aという絵の世界とBという絵の世界を断続して体験するので、その切れ目のところで気持ちが白けてしまう。これに対して、建築は外観の意匠であれ、内装の質感であれ、それを見ている僕たちを無理なく浸してくれる。
 
 ベンヤミンは先見性に富む人だった。新聞の投書欄を話題にしたくだりには「読み手はいつでも書き手に転ずることができる」とある。これは、ソーシャルメディア出現の予感のようにも読める。さらに原著の注では複製技術の政治に対する影響を考察して、演説を「無際限に多くのひとびとに聴かせたり見せたりすることができるようになると、この機械装置の前に政治家を展示することのほうが、主になってくる」と、テレビ政治を予見していた。
 
 なによりも痛感するのは、ベンヤミンの没後、「複製」の重みが増したことだ。生命の本質がDNAの複写であることがわかり、同様のことは人の情報伝播にもあるだろうと、文化の遺伝子ミームの概念が生まれてくる。「複製」抜きに僕たちは世界を語れない。
 
写真》複製技術の担い手は僕たちの日常にもどんどん入り込んでいる。
(文と写真・尾関章/通算250回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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