『龍雄先生の冒険――回想の内山龍雄:一般ゲージ場理論の創始者』(内山会編、窮理舎)

写真》暮れは柚子湯で

 かつての職業柄、この時季には過ぎ去りつつある1年のニュースを振り返る。それでつくづく思うのは、よくぞあれほど多くの人々が頭を下げたなあ、ということだ。世に「不祥事」のタネは尽きず、その結末に定番の謝罪会見がある。これが、今の日本社会の現実だ。

 

 「不祥事」の一つは、ハラスメント。訳せば「嫌がらせ」だが、最近は人の尊厳を貶める行為一般を言う。日本では、セクシュアル・ハラスメント即ちセクハラという言葉から広まったように思うが、今では性的要素を伴わないものも多い。パワハラ、アカハラ、マタハラ……世の中のさまざまな局面で人間の尊厳は傷つけられてきたのだ。僕たちはそれに気づいて、ものを言うときも物事を判断するときも、めっきり慎重になった。

 

 ところが、そんな変化に対して感度の鈍い人がいる。強い立場をいいことに平気で暴言を吐いたり、弱い者いじめをしたり、というハラスメントをしでかすのだ。謝罪会見は、こういう行為が跡を絶たないから開かれる。それを見て、僕たちはますます慎重になる。

 

 もう一つ、「不祥事」で多いのはルール違反だ。ルールは法令に限らない。世の中に張りめぐらされた決まりごとの一切を含む。報道によれば、それらにはたいてい動かしがたい証拠がある。コンピューターや記憶媒体の電子記録、街の防犯カメラや車のドライブレコーダーの映像……IT(情報技術)社会にあっては、人はいつも監視されている。それでも決まりを破る人がいて頭を下げるから、僕たちはいっそう慎重になるのだ。

 

 ここで見逃せないのは、僕たちが身につけた破格の慎重さだ。一言一句、一挙手一投足に気をつかうのは悪いことではない。それによって、傷つく人は減るし、社会の安定も保たれる。だが、慎重が過ぎると失うものがある。たとえば、率直さ。相手の気持ちを害すまいとして、言うべきことをのみ込んでしまいかねない。あるいは、思慮深さ。ルール遵守ばかりに気をとられ、自らの良心で事の是非を見極めることを忘れてしまう。

 

 僕たちが若かったころは世間全般が大らかだった。証拠がほしければ、1960年代のサラリーマン映画を観ればよい。森繁久彌や植木等が登場する企業社会には、なんでもありの緩さがあった。そんなコメディーを受け入れるくらいに世の中も緩かったのだ。さて、今週は2019年の最終週。「年忘れ」の大義のもと、日本社会に大らかさが満ちあふれていた時分のことを思い返してみたい。そこには間違いなく、今とは違う人々がいた。

 

 『龍雄先生の冒険――回想の内山龍雄:一般ゲージ場理論の創始者』(内山会編、窮理舎)。「龍雄先生」とあるのは、大阪大学教授、帝塚山大学学長などを務めた理論物理学者内山龍雄(うちやま・りょうゆう、1916〜1990)。その薫陶を受けた物理学者を中心に、ゆかりのある人々が集うのが「内山会」だ。この本は内山の永眠から4年後、同門の人々による私家版の文集として編まれたが、それが今年、加筆改版されて一般書籍になった。

 

 内山は1978年に岩波新書で『相対性理論入門』を出しており、一般相対論の専門家として知られていた。僕が83年、新聞社の大阪本社で科学記者の道に入ったとき、彼は会っておきたい科学者の一人だったが、先輩記者に相談すると忠告を受けた。「怖い人だぞ」。やめたほうがよい、という含意があった。先輩は取材時に不用意な質問をしたかなにかで叱られたのだろう。それでビビッて、話を聴きにいかなかった自分が今思えば恨めしい。

 

 怖い人だったことは、この本の随所からもうかがえる。どうやら、「無礼者」のひと言をしばしば発していたらしいのだ。一つめは戦時の話。電車で英文の論文誌『フィジカル・レヴュー』を読んでいると、それを見た乗客の一人が「非国民め」と声をあげた。「先生は、『無礼者!』とどなりつけざまに、手にしていたフィジカル・レヴューの背でその男の頭を叩きました」(筆者・細谷暁夫)。雑誌の綴じ目がほどけるほどの勢いだったという。

 

 「無礼者」には、戦後の逸話もある。非常勤の教員だった女子大で理事長と面談していたとき、なにかのきっかけで「いつものように『無礼者』とおっしゃって」「チョークを理事長に投げ付けました」(筆者・同上)。それは後方のガラス窓を突き破ったという。

 

 このときなぜ、内山の怒りが爆発したのか。それにはわけがある。当時は大学の設置基準が設けられたころで、図書施設も文部省の調査対象になった。女子大の理事長は学内の書物が十分にそろっているように見せるため、内山の蔵書を一時借りたのだ。貸す側にしてみれば、被雇用者ゆえの「不承不承」の協力だった。理事長は大喜びだったが、内山のほうはごまかし行為の一端にかかわってしまったことで「むしゃくしゃ」していたのだ。

 

 これらの話は、今ならば武勇伝とは言えない。「非国民」という中傷に対して「無礼者!」と言い放ったまでは小気味よいが、雑誌を振りまわしたのはまずい。学校図書の見せかけ増量に腹を立てたのはもっともだが、チョークを飛ばしてガラスを割ってはいけない。ただ断っておくべきは、いずれも筆者の目撃談ではないことだ。おそらくは内山自身が語ったのだろう。語った時点の物差しが許す範囲で尾ひれがついていてもおかしくはない。

 

 実際、内山には人に一杯食わせるところがあったようだ。宇宙論学者の僚友と北回りの空路で欧州へ向かっていたときの話。友人は高所が苦手で、内側の席でおとなしくしている。飛行機が北極圏に接近すると「窓側に座っていた先生が突然『N極が見えるぞ! 下を見てみろ』と叫びました」。と、友人は思わず窓のほうへ乗りだしてきたという(筆者・同上)。一瞬のことではあれ、科学者が地球の磁極に印が付いていると思ってしまうとは。

 

 世間が一杯食わされていたかもしれない話もある。「龍雄」を音読みすることだ。自分では「禅坊主の息子だったので」と言っていた。だが、それと矛盾する伝聞も紹介されている。ある人が自宅に赴くと「奥様が玄関に出ていらっしゃって、奥に向かって、『タッチャン!』と呼ばれた」というのだ(筆者・同上)。筆者は「りょうゆう」を「単にペンネームということのよう」と結論づけているが、「タッチャン!」話にも食わせものの感はある。

 

 懐の深さを感じさせるのは、「超能力者ユリ・ゲラー」ブームのころの逸話。そのスプーン曲げを研究室の大勢は「いかがわしい」と感じていたが、内山は違った。「スプーンを片手にもち、その首根っこを親指と人差し指で挟んで猛烈な勢いで擦り始めました」。やがてスプーンは切れて、一同あっけにとられる。とりあえず「先生の指の力が人一倍強い」説に落ちついたという(筆者・同上)。あやしげなものでも最初から切り捨てない人だった。

 

 ここまでの内山像からは、ほんとかなと思わせるような豪放さしか見えてこない。だが実際には、繊細な感性を秘めた人だったらしい。1950年代、大学の研究室が「遠足」を計画したときのことだ。あいにく、当日は大雨になった。事前に雨天中止を決めていたから、ふつうならだれも行かない。ところが「先生」だけは目的地に足を運んだ。「もし間違って誰か来て電車に跳ねられでもしたら」。翌日、そう漏らしたという(筆者・山本邦夫)。

 

 この本には、内山本人のエッセイ、論考も載っている。心打たれるのは「痛恨の記」(『帝塚山論集』第37号〈1983年〉から抜粋)。素粒子物理の力を説明する「ゲージ場」の研究をめぐる話だ。彼は1954年、その理論をまとめていたが、論文発表は在米のC・N・ヤン(楊振寧)、ロバート・ミルズに先を越されてしまう。内山理論は、重力をも含む「一般ゲージ場」を扱っているという強みがあるから、負けたとばかりは言えないのだが。

 

 このいきさつを内山自身は「残念千万」としつつ、「すべては私の大きな過ちにもとづく」と認めている。論文原稿をすぐ英文誌に投稿すべきだったのに「ふところの中に温めていた」。そこに「慢心」があったというのだ。「龍雄先生」は率直な人でもあった。

 

 研究仲間の議論で「先生」を怒らせないためには、「論文の動機付け」から説き起こして「これからやろうとしている事の本質だけ」を切りだす必要があったという(筆者・重本和泰)。世間が緩かった分、論理だけは揺るがせにしない人々が大学にはいたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算504回、2019年12月27日公開、2020年1月31日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『晩年の思想』(アンリ・ポアンカレ著、河野伊三郎訳、岩波文庫)

写真》一つ、二つ、三つ

 学校には、人生を決める科目がある。小学生のころ、図工が得意だったから画家になったという人がいるだろう。中学校に入って数学は苦手とわかったから作家になったという人も。その伝で言えば、僕は理系学生として量子力学につまずいて、将来、科学者にはなれないと思い知った。科学者になっても、その核心部を理解できないのではないか。だとしたら、それは針のむしろに座らされるようなものだ。そんなことに耐えられるわけがない!

 

 同様の学友は多かったように思う。ただ大半は、科学者にならずとも理系分野に踏みとどまった。就職しても量子力学と縁を切れなかった人がいるわけだ。意地悪く言えば、この人たちは、量子力学の数式が教えてくれる答えだけを実用技術に生かしてきたと言えるだろう。わけのわからなさを棚に上げたのだ。ネット社会を支えるIT(情報技術)は半導体物理を礎としているが、そこにはこうした棚上げ方式の技術開発があった。

 

 量子力学とは何か? それは、20世紀に台頭した新しい物理学の流れだ。1900年、ドイツのマックス・プランクが物理量を一つ、二つと数える量子仮説を提起して前期量子論が興る。これは、原子の構造などをうまく説明できた。20年代半ばにはドイツのウェルナー・ハイゼンベルク、オーストリアのエルウィン・シュレーディンガーがそれぞれの方法で量子論を定式化する。両者は同じことの別表現だった。この理論体系を量子力学という。

 

 では、量子力学のわけのわからなさとは何か。一つは、まさに量子だ。「とびとび」と言い換えてもよい。僕たちは子どものころから、アイザック・ニュートン流の古典物理学になじんできた。そこでは量が連続して変化する。小中学校でも、まっすぐな線に目盛りをつける数直線を書かされたものだ。線上に小数の値を書き込むときは、科学的ってこういうことかと悦に入ったものだ。ところが、自然界にはそうでないこともあるという。

 

 もう一つは、状態の「重ね合わせ」だ。物事が状態Aにあるというのはわかる。状態Bにあるというのもいい。ところが量子力学は、AかBかが定まらず、AとBが重ね合わさった状態にあってもよいという。こんなことが許されるのか。僕たちはミステリーで、地点aで犯罪があったときに地点bにいた人物は犯人ではない、と断定する。アリバイだ。この前提の論理が根底から崩れるようなことを、量子力学は平然と言ってのける。

 

 学生時代、こうしたわけのわからなさを見せつけられて僕は茫然としたものだ。「量子のつまずき」である。これは同世代のみならず、年長世代や後続世代を含む理系学生に共通の体験だった。量子力学の誕生から半世紀余、僕たちはそのつまずきを甘受したのだ。

 

 変化の兆しは1980年前後から見えてきた。レーザーや極微極低温の技術が進んで、量子力学の言うことが本当かどうか、実験室で確かめられるようになったのだ。さあ、大変だ。「とびとび」って何だろう。「重ねあわせ」はどうか?……もう棚上げは許されない。

 

 で、今回は、二つのわからなさのうち「とびとび」が科学界にどんな衝撃を与えたかがわかる本。『晩年の思想』(アンリ・ポアンカレ著、河野伊三郎訳、岩波文庫)だ。著者(1854〜1912)は、フランス近代を代表する科学者の一人。数学、物理の分野で業績を残し、科学そのものを論じた著作も多い。本書は「ポアンカレ思想集」に収められ、「科学と仮説」「科学の価値」「科学と方法」に続く第四巻。この邦訳文庫版は1939年に出た。

 

 この本を僕が買ったのは、町の古書店。それは「第4刷」で、1985年に出たものだったが、改版されていないので漢字や仮名遣いは昔のままだ。ここでは、その記述を引用する際、現代表記に改めることを許していただこう。まず目次を眺めると、「法則の進化」「空間と時間」「何故空間は三次元を有するか」など魅力的な章題が並んでいる。今回は、その第六章「量子の仮説」に的を絞る。文字通り、プランクの量子仮説を話題にしている。

 

 この章がいつ書かれたのか、執筆年はわからない。ただ、1900年に量子仮説が出されたときよりも後であり、12年に著者が亡くなるよりも前であることは確実だ。ザクッと言えば、20世紀初頭の科学界の空気を伝えているとみてよいだろう。

 

 章の冒頭で示されるのは「『力学』が新たな混乱に際している」という状況認識だ。著者は、ブリュッセルで開かれた物理学者20人ほどの会議の模様を報告する。そこでは参加者が「『旧力学』に対する『新力学』について」語りあっていたという。では、「旧力学」とは何か? ニュートン力学ではないという。それは、「相対性の原理の力学、五年も経つか経たない前にはこの上なく思い切ったものと見えたその力学」だった。

 

 ここで「相対性の原理の力学」とされるのは「ローレンツの力学」だ。アルバート・アインシュタインの特殊相対論(1905年)に先だって、それに採り入れられた座標変換法を考案したオランダのヘンドリック・ローレンツの名を挙げているのである。

 

 ともあれ、このエピソードからわかるのは、19世紀から20世紀へ移るころに物理学者が大波をかぶっていたということだ。一つは相対論だったわけだが、それすらも「旧力学」に分類されてしまうようなもう一つの大波があった。それは何か。著者が「もっとずっと度胆を抜く事柄」として提起するのは「運動の法則がやはりなお微分方程式で表わすことが出来るかどうか」(「なお」は原文では「尚ほ」と表記されている)という問題だった。

 

 これがどれほどの大事件かを著者は歴史から説き起こす。「古代人及び中世スコラ派の学者」は「自然は飛躍をなさず」(傍点付き)と考えた。ニュートン以来の科学は、それを踏襲して「宇宙の状態は、そのすぐ前の状態にしか依存し得ない」「自然に於けるあらゆる変動は連続的に行われる筈だ」とみてきた。ここで微分方程式が活躍する。ところが今、自然法則に「本質的に不連続なもの」を取り込めるかどうかが問われている、という。

 

 その問いを投げかけたのが、プランクの量子仮説だ。これは、黒体輻射(放射)という電磁波の振動数ごとの強度分布(スペクトル)を説明するために考え出された。黒体輻射とは、どんな色の光でも、どんな波長の電磁波でも、分け隔てなくすべて吸い込む真っ黒な物体の熱放射のこと。それは、温度によって決まったスペクトルになる。プランクは、その様子を数式でうまく表そうとして「本質的に不連続なもの」を導入した。

 

 特記すべきは、そのころは原子の実在すら確認されていなかったことだ。物体が何からできているのかもはっきりしなかった。では、いったい何が、電磁波を放射するのか。ここでプランクは一つの見立てをする。物体は「甚だ多数の小さい共鳴器を含んでいる」と。

 

 すると、「物体が熱せられるとき、これらの共鳴器はエネルギーを獲得して振動を、従って輻射を始める」(「獲得して」は原文では「獲て」)。ここで、プランクは「これらの共鳴器の一つ一つがエネルギーを得たり又は失ったりするのは急激な飛躍によるより他には出来ないと仮定した」(「急激な飛躍」には傍点)。この仮説に立てば、共鳴器に貯まるエネルギーは「量子と呼ばれる恒常的な同一の量」の整数倍でしかありえなくなる。

 

 共鳴器には、それぞれ固有の振動数がある。量子は、その振動数に比例する。高振動数の共鳴器は大きなエネルギーが注入されないと量子一つに足らず、振動しないのだ。「だからこれらの共鳴器が静止している確率は大きい」――。この理屈は、黒体輻射につきまとう問題を解決した。黒体輻射の実験結果をみると、振動数の高い電磁波の強度が古典物理学の理論値に比べて少なかった。それは、その共鳴器がなかなか動かないことで説明がつく。

 

 著者は後段で、プランクの思想を深めていく。物理システムは「状態の一つから別の一状態に飛躍する」「連続的に移って行くのではない」(いずれも傍点付き)という一般論を提示して、その可能性を探る。明快な答えがあるわけではない。量子論のその後も、量子力学の波動方程式は微分方程式なので「連続」と無縁ではない。だがデジタル時代の今、「とびとび」の世界像はさまざまな現象を読み解くヒントにはなるだろう。量子、恐るべし!

(執筆撮影・尾関章、通算501回、2019年12月6日公開)

 

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『原子核の世界(第二版)』(菊池正士著、岩波新書)

写真》土台(本の背表紙は薄紙越し)

 「核」という言葉は、いつから嫌われ者になったのだろうか。

 

 「核廃絶」「核なき世界」は世の大勢が望んでいると言ってよい。「反核」を掲げる運動に共感する人も多い。このときの「核」とは何か。狭義には「核兵器」の省略形だが、広義では原子力利用全般を指す。最近では後者が強まっているように思う。

 

 僕たちは子どものころ、「放射能の雨」にさらされた。1954年、米国の水爆実験がまき散らした核分裂生成物を日本の漁船乗組員が浴びて、一人が亡くなる。第五福竜丸事件である。日本人は広島、長崎の被「爆」で原子爆弾の凶悪さをまざまざと見せつけられていたが、今度は核分裂生成物が放つ放射線に被「曝」して核の怖さを実感したのだ。小学校では、雨の日には必ず傘をさし、濡れたときは髪をよく洗うように先生から言われた。

 

 たぶん、こうして「核」が核兵器を意味するようになったのだろう。では、「核」=原子力平和利用の使われ方はどうか。これは、決して反原発運動に特有の用法ではない。推進側も「核燃料サイクル」などと言ってきたからだ。ところが1979年に米国スリーマイル島原発事故、86年に旧ソ連チェルノブイリ原発事故が起こる。そのころから、環境保護派のNo Nukes(「核は要らない」)というスローガンが目立ってきたように思う。

 

 「核」にはもともと、ものごとの中心や軸といった語義がある。だから、「事件の核心」「核家族」のように幅広く使われる。その一つとして、原子の真ん中にある塊を「原子核」と呼ぶようになった。だから、物理学者が「核」と言うとき、それが原子核を指すのはよくわかる。ところが今では、遍く世間の人々が「核」と耳にしただけで人類が原子核からとり出す莫大なエネルギー現象を思い浮かべるようになってしまった。

 

 どちらにしても今、「核」のイメージには怖さがつきまとう。ただ強調しておきたいのは、原爆投下も原発災害もすべて人間の営為の結果としてあった、ということだ。人間が手を出さなくとも原子核はそこにある。このことは心にとめておいたほうがよい。

 

 ここからは理科の話になる。20世紀に入って、物質が原子から成り立っていることが確実視されるようになっても、それがどんなつくりになっているかははっきりしなかった。1911年、原子が実は原子核とその周りにある電子からできていることがわかる。当初、原子核の主成分は陽子と呼ばれる電荷プラスの粒子と思われたが、32年、電荷ゼロの中性子も混ざっていることが突きとめられる。原子核は、陽子と中性子の塊だった。

 

 ここで押さえておくべきは、僕たちの物質世界が、その原子核を土台としていることだ。自然界には原子核の崩壊という現象があるが、それを起こす放射性物質は僕たちの身の回りにそんなに多くはない。この本も、テーブルも、パソコンも、コーヒーマグも、小分けにしていけばすべて原子核に行き着く。しかし、それらはほとんど崩壊しない。ここに安定があるのだ。僕たちの世界の安定は、土台をなす原子核の安定に拠っている。

 

 だとしたら、その核の安定について僕たちはもっとよく知っておく必要がある。で、今週は『原子核の世界(第二版)』(菊池正士著、岩波新書)。著者(1902〜1974)は、日本を代表する実験物理学者。電子線回折という結晶解析法の研究で知られるが、原子核物理の実験にも打ち込んだ。大阪帝国大学教授時代の1934年、講師だった理論物理学者湯川秀樹がノーベル賞に結実する中間子論の着想を得たとき、それを見守った指導者だ。

 

 この本は、1973年刊。初版は57年に出たが、原子核研究をめぐる状況の変化――素粒子物理学の進展、他分野への影響――を反映させるべく改版された。著者が亡くなる前年のことである。僕には若いころに読んだ記憶があるのだが、それが57年版だったか73年版だったか思いだせない。今回は古書店の書棚で見つけて思わず引っぱりだした。当時の岩波新書を覆っていた薄紙までそのままだ。懐かしさが込みあげてきた。

 

 この本では、物質の最小単位探しが陽子や中性子、電子などを扱う素粒子物理学の領域に及んでいることを概説した後、本題である原子核の話に入る。そこでとりあげられるのが、原子核をかたちづくる陽子や中性子がどんなしくみで結びついているかという難題だ。

 

 「真空中に離れて浮んでいる二物体間にはたらく力で、われわれが今まで知っているのは重力による力か、電気あるいは磁気的な力である」。厳密に言えば、「今まで」は「1930年ごろまで」だろう。当時、物理の力はどれも重力か電磁力に帰せられると考えられていた。ところが、重力は陽子や中性子の間では「非常に小さく、原子核の結合力にはなりえない」。電磁力は「中性子のような電気をもたぬ粒子に作用することはできない」。

 

 そこで著者は、原子核内の陽子や中性子――これを核子という――の間に働いて、それらを束ねる力が「従来知られていたものとは全く別種のものであることは疑う余地がない」と結論づける。これが核力だ。「核力は核子と核子の距離が非常に接近したときだけ作用する」。その近さは10兆分の1センチほどだという。既知の重力や電磁力も距離の逆二乗で弱まるが、遠方への作用を無視はできない。ここが大きく違うところだ。

 

 この人類未知の力を提案したのが、湯川中間子論だ。著者も序章で、湯川が「陽子や中性子の間の力の作用の問題を研究するのには、それだけを考えていては不十分で、まだまだよく知られていない他の粒子があるはず」とみて「今日中間子と呼ばれているもの」の存在を予言したことに触れている。原子核という物質世界の土台は、重力や電磁力ではなく、未知の粒子を媒介とする未知の力によって固められていることに気づいたのである。

 

 この本を読んでいくと、僕たち人類が生きる環境で、その物質の土台がとてつもなく安定している理由がわかってくる。読みどころは、第江蓮峺胸匈砲髪宙」だ。この地球で見つかる天然の放射性物質は、幾種類かの放射性核種が核崩壊を繰り返す過程で生まれている。大もとの核種は、たとえばウラン238、ウラン235、トリウム232。寿命の目安となる半減期は、それぞれ45億年、7.1億年、140億年だ(本書第25図から)。

 

 このことから著者は、さまざまなことを読みとる。まず、地球の年齢は「大ざっぱにいって数十億年を越えない」と推理する。もし数十億歳よりも年寄りならば、半減期7億年余のウラン235など消えてしまっているだろう。ここには、地球の「地殻」は「新しく元素の転換などは起りえないような状態」にあるとの前提がある。地球上の「核崩壊」は、大昔に撒かれたタネを起点として今も細々と続いているということだ。

 

 次に続く文章が見落とせない。「数十億年まえには、どういう状態であったかはわからないが、いま地球を形づくっている物質も原子核反応が盛んに起って、新しく放射性原子がどんどんつくり出されるような場所におかれていたことも明らかである」。そのころは、やがて地球という塊になる物質がまだ「太陽系全体」か「宇宙全体」のどこかにあり、原子核反応を頻発させていたということらしい。そこにあるのは不安定な宇宙像である。

 

 裏を返せば、地球は例外ということだろう。天然の核反応は、太陽を例に挙げるまでもなく宇宙の星々でふつうに起こっているが、地球では大昔の名残があるだけだ。ただ、このことでは今年のノーベル物理学賞で注目を浴びている太陽系外惑星のことが気になる。地球のように生命が持続可能な天体があるとしたら、そこにもまた地球と同様の安定があるのではないか。(当欄2019年10月11日付「ノーベル賞がETを視野に入れた日」)

 

 この本では、原子力の「平和利用」も語られる。著者は放射能について「人体に及ぼす影響は遺伝的影響を含めてその限度が十分にわかっているから、管理が正しく行なわれれば少しも問題はない」と書く。そこにあるのは、戦後しばらく科学界で優勢だった推進論だ。だが著者の没後、人類は米国、旧ソ連、日本で原発の大事故を体験して「核」の技術が地球の安定に背くものであることを痛感した。たとえ、それが「平和利用」であったとしても。

(執筆撮影・尾関章、通算496回、2019年11月1日公開)

 

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2019年ノーベル物理学賞発表資料(スウェーデン王立科学アカデミー)

写真》われらの惑星系

 ノーベル賞発表には含蓄がある。日本人が獲るか獲らないかだけで騒ぐ時代は終わった。受賞者の顔ぶれから見えてくるものは何か。それをすくいとるところに醍醐味がある。

 

 日本人といえば、今年は吉野彰氏が「リチウムイオン電池の開発」で化学賞受賞者の一人に選ばれた。そこには、一つの技術がIT(情報技術)社会を開花させ、今、脱炭素社会を支えようとしているという物語がある。それはいずれ、機会をみて話題にしたい。

 

 へそ曲がりかもしれないが、今回は、あえて物理学賞に目を向ける。今年は、宇宙天文系の研究者3人に贈られることになった。僕が印象深かったのは、うち二人が太陽系外惑星の発見者だったことだ。ノーベル賞が人間に近づいてきたな、と感じたのである。

 

 これまで物理学賞が宇宙天文系の分野に目を向けるとき、受賞研究は宇宙の始まりや時空のありようにかかわるものが多かった。ときに超新星や連星パルサーなど天体そのものの研究もあったが、それも宇宙のしくみやそれを支配する物理につながるものだった。だが、太陽系外惑星の発見はちょっと違う。僕たちが生きているこの太陽系と同じような惑星系が宇宙には一つならずある、ということを立証したのだ。

 

 それは、世界中の子どもたちの関心事、「宇宙人はいるか」という問いにも通じる。「宇宙人」が荒唐無稽というなら、「地球外生命(ET)」と言い換えよう。もし、この太陽系とは別の惑星系にも地球のように生命が持続可能な天体があるのなら、そこに地球外生命がいるかもしれない。もし、地球外生命があちらにもこちらにも散在するならば、その一部は知性をもっていてもよい――この発見は人間を相対視する世界観を呼び起こすだろう。

 

 そう思うと、この授賞決定は意義深い。ということで、今週は2019年ノーベル物理学賞の発表資料を。これは、ネットでノーベル賞の公式サイト(https://www.nobelprize.org/)に入れば、だれでも見られる。ここでは英文で読むが、引用では拙訳で邦文にした。

 

 物理学賞の発表資料は3種類ある。いずれもスウェーデン王立科学アカデミーが編集した。まずはプレスリリース、いわゆる報道資料だ。受賞者の名前、肩書、略歴や授賞理由などが要約されている。ほかに一般向けの解説(サイト内英語版ではPopular InformationともPopular Science Backgroundとも呼ばれている)と上級者向けの解説(同Advanced Information”“Scientific Background)があって、これらがなかなか読ませる。

 

 分量はそこそこある。今年は、一般向けの解説がpdfにしてA4判9枚、上級者向けは同26枚。どちらにも、図やグラフがふんだんに盛り込まれている。数式は上級者向けには散見されるが、一般向けにはほとんどない。物理学者の頭脳が組み立てた難解極まりない話を、ふだん着の言葉で叙述している。科学記者にとっては手本のような文章である。今回は一般向け解説に的を絞って、読みどころを拾いだしてみることにする。

 

 そのまえに、報道資料にある発表の要点を記しておこう。今年受賞するのは、米プリンストン大学のジェームズ・ピーブルズ名誉教授、スイス・ジュネーブ大学のミシェル・マイヨール名誉教授、同大学のディディエ・ケロー教授。授賞理由は、ピーブルズ氏が「物理的宇宙論における理論上の諸発見に対して」、マイヨール、ケロー両氏が「太陽型恒星の周りを回る太陽系外惑星の発見に対して」。賞金は、前者一人と後者二人で二分される。

 

 では、一般向け解説に入ろう。前半はほとんどがピーブルズ氏についての記述だ。

 

 それは、ピーブルズ氏が「宇宙史の現代的理解の礎」となる理論を築いたことから切りだされる。目を引くのは「この50年間は宇宙論にとって黄金期だった」という指摘だ。宇宙論はかつて推測の産物だったが、1960年代にそれが科学へ進化する土台ができたという。出発点は64年、宇宙初期の大爆発ビッグバンの名残の電波(宇宙背景放射)が見つかったことだろう。氏は、こうした観測家の成果を取り込みながら理論研究を重ねた。

 

 さて、1980年代半ばのことだ。そのころ、宇宙論は大問題に直面していた。宇宙空間は背景放射の観測結果に見てとれるように曲がりの少ない平坦さを具えているのに、全宇宙の質量とエネルギーの総量が、それを実現するにはまったく足りなかったのだ。必要量に対して、ふつうの物質は5%、暗黒物質は26%しか見積もれない(異なる数値も見かけるが、ここでは発表資料に拠る)。では、残りの69%は何なのか?

 

 ピーブルズ氏は、その69%が宇宙空間に潜む暗黒エネルギーであるとすれば、問題が解決することを示した。その理論計算は、背景放射の精密測定にもぴったり合った。宇宙論が推測の時代を抜けて科学の時代に入ったというのは、こういうことを言うのだろう。

 

 ピーブルズ氏は科学の王道を歩んでいる。研究の主題が宇宙史というのも知的探究心が向かう先として申し分ない。これは、ノーベル賞らしいノーベル賞である。

 

 では、いっしょに受賞することになったマイヨール、ケロー両氏の研究はどうか。彼らは1995年、地球から50光年離れたペガスス座51番星の周りを惑星が回っていることを突きとめた、というものだ。これが、人類が見つけた太陽系外惑星の第1号だった。その観測は、星の微細な動きをとらえるもので精緻を極める。痛快な発見だ。だがそのころ、「太陽系外惑星の探索は天文学の主流から外れていた」と、この解説にはある。

 

 これは、僕自身の科学記者体験からも腑に落ちる。1990年前後、太陽系外惑星はすでに関心の的だったので、それらしい天体が見つかったという外電情報が飛び込んできたことがある。だが、天文学者に値踏みしてもらうと眉唾もの扱いされた。太陽系外惑星→地球外生命という興味本位の連想が嫌われていたのかもしれない。それは、日本国内に限ったことではなかっただろう。そんななかで、二人は腹を固めて発見を発表したのである。

 

 その後、太陽系外惑星は続々と見つかる。宇宙望遠鏡の観測もあって、今では4000を超える(発表資料)。僕たちの世代にとっては、子どものころから信じ込まされてきた常識が大人になってひっくり返ったのである。ノーベル賞も、それを無視できなかった。

 

 ただ今回、奇異に感じるのは、宇宙論と太陽系外惑星の同時受賞である。なによりもスケール感が違う。片方は138億光年先の火の球の残照をにらんでいる。もう一方は50光年先の恒星に目を凝らしている。それをつなぐのは、ちょっと無理がある。

 

 実際、この一般向け解説でも、ピーブルズ氏の研究について述べた前半と、マイヨール、ケロー両氏の研究を紹介した後半のつなぎ部分に苦心の跡が見える。ところが、その箇所こそが、この解説でもっとも心揺さぶるくだりなのだ。書きぶりを見てみよう。

 

 宇宙論によれば、ふつうの物質が宇宙の総量の5%しか占めていないことに触れた後、こう続ける。「この物質のちっぽけなかけらがやがては塊になって、われわれの身の回りのありとあらゆるものをかたちづくる――恒星も、惑星も、木々も、花々も、そして人間も。宇宙を見渡して、われわれは孤独なのか、それとも宇宙のどこかに別の太陽とそれを回る惑星があって生命が存在しているのか、だれにもわからない」。詩的な問いかけだ。

 

 そして、大胆な宣言をする。「しかし今や、われわれは知っているのだ。太陽が惑星を伴う唯一の恒星ではないことを。そして、銀河系内にある数千億個の恒星の多くにも惑星があるだろうことを」――。惑星系を特別な存在とみないほうがよい、ということだ。

 

 恐ろしいのは、人類はつい二十数年前まで惑星系は太陽系一つと信じ切っていたことだ。傲慢と言えば傲慢な世界観。マイヨール、ケロー両氏は、その幻想を打ち破った。だとすれば、これは人類史に刻むべき大発見だ。ノーベル賞を受けるのは当然だろう。

(執筆撮影・尾関章、通算493回、2019年10月11日公開、同日更新後に再公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ザ・パーフェクト―日本初の恐竜全身骨格発掘記 ハドロサウルス発見から進化の謎まで』

(土屋健著、誠文堂新光社)

写真》むかわ竜は恐竜博の売店にもいた

 夏休みなので、家族ともども太古の恐竜を見に出かけた。東京・上野の科学博物館で開催中の「恐竜博2019」(主催・国立科学博物館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社)である。館内に入る前から大行列で、暑かった。もちろん入ってからも大混雑で、展示物をつぶさに鑑賞できたわけではない。だが、居並ぶ復元骨格には圧倒された。こんな生きものが闊歩する時代に居合わせなくて、ほんとによかったと思う。

 

 この博覧会では、恐竜の研究がどのように進められていくかがよくわかる。好例は、デイノケイルス。1965年、モンゴルのゴビ砂漠で前あし部分の化石が見つかった。その長さは2.4m。入場者は、まずその複製を見せられる。これだけでも十分に迫力はある。だが圧巻は、衝立を回り込んだ次のコーナーだ。全身の骨格(全長11m)が復元され、今まさに立ちあがろうとしているではないか。どうしてこんな姿だとわかったのか。

 

 答えは、会場で配布されていた朝日新聞の「記念号外」にあった。デイノケイルスは発見後まもなく新種と判定されたが、「前あし以外の部分が見つからず、長い間『謎の恐竜』とされてきた」。ところが、2000年代に入って「ほぼ全身の骨が発見される」。さらに消化器の内容物の痕跡も出てきて、当初思われていたように肉食ではなく、魚や植物も食べる雑食性とみられるようになった。こうして体型から生態まで全容が見えてきたのだ。

 

 ここでわかるのは、古生物学では一個体の一部分が見つかっても不十分ということだ。逆に言えば、全身化石が一式掘りだされれば学術標本としての価値が格段に高まる――そんな理想に近い恐竜化石が日本国内にもある。2003年、一部が北海道穂別町(現・むかわ町穂別)で見つかり、11年に恐竜と確認されたものだ。通称「むかわ竜」。今では全身の8割余が揃った。今回は、その実物化石と複製の全身復元骨格を見ることができる。

 

 で、今週の1冊は『ザ・パーフェクト――日本初の恐竜全身骨格発掘記 ハドロサウルス発見から進化の謎まで』(土屋健著、誠文堂新光社)。副題にある「ハドロサウルス」は、恐竜の分類で「むかわ竜」が属するとみられる「科」の名前だ。著者は、略歴欄によれば埼玉県出身のサイエンスライター。大学院で地質学と古生物学を修め、科学誌『Newton』で記者や編集者を経験した後、独立したという。この本は2016年に刊行された。

 

 なお、この本には監修者もいる。北海道大学教授(刊行時は准教授)の小林快次さん、むかわ町穂別博物館館長(刊行時は学芸員)の櫻井和彦さん、同学芸員の西村智弘さんだ。

 

 では、さっそく本を開こう。「はじめに」には、2013年7月17日に穂別博物館と北大が恐竜化石の発見について報道発表した話が出てくる。「むかわ竜」のお披露目だった。このニュースが「衝撃的」だったのは尾椎骨13個が「すばらしい保存状態」で見つかり、しかも「個々の骨がつながっていた」(本文では傍点)ことだ。このときまで日本国内で見つかった恐竜化石は、たいてい「部分化石」であり、「バラバラの状態」だったという。

 

 念のために、その報道資料をネットで探しだした、見出しには「むかわ町穂別から恐竜化石を発見――ハドロサウルス科恐竜か」とある。末尾の問い合わせ先欄には、本書監修者3人の名が。発見の背景には、穂別博物館と北大の連携プレーがあったらしい。

 

 私事だが、このくだりで「あっ」と思ったのは報道発表の日付だ。同年同月の12日、僕は36年間の新聞記者生活に終止符を打った。自分の退職と入れかわりで飛び込んできた科学ニュースということになる。在職時の大半は科学記者だったので、感慨深いものがある。それだけではない。この本に綴られている日本の恐竜研究史は、僕の記者歴を意地悪くかすめているように思える。駆けだしのころにもすれ違いがあったのだ。

 

 この本によれば、日本の恐竜研究には長い空白期があった。戦前は1936年、当時日本領だったサハリン南部でニッポノサウルス・サハリネンシスが見つかったとの報告があった。「日本の恐竜化石第1号」とされる。「保存率は全身の6割」だったので、北大に全身復元骨格がある。ところが戦後は化石の発見が停滞気味で、「産出しても部分化石ばかり」という状況だった。「一つの転機となったのは、1980年代」と著者はいう。

 

 「1985年、福井県鯖江市在住の女子高校生から福井県立博物館に一つの化石が届けられた」。それは、彼女が7年前に石川県内で「手取層群」と呼ばれる地層から採取したものだった。鑑定によって、化石は「肉食恐竜の歯」とわかる。こうして北陸の手取層群が「日本最大の恐竜化石産地」となる。ちなみに僕が新人記者として福井支局に在籍したのは77〜81年。このときも僕と入れかわりに恐竜化石の発掘ラッシュが始まったのだ。

 

 では、北海道はどうか。学界では「北海道といえば、アンモナイト」が通念だという。著者は大学生や大学院生のころに道内で古生物学の調査を重ねたが、自身が探すのは貝類や花粉の化石。宿でほかの大学の仲間と語りあうときも「『恐竜化石』の話題が出たことは一度もなかった」。著者の生年は略歴欄にないが、映画「ジュラシック・パーク」第1作の公開が中学校時代だというから、この現地体験は2000年前後のことだろう。

 

 この本には、むかわ町穂別の太古の情景が描かれている。そのころ、一帯は海だった。「海底には巨大な二枚貝が生息し、アンモナイトが浮かび、クビナガリュウ類とモササウルス類、カメが泳ぐ」とある。ここに出てきたクビナガリュウ類やモササウルス類は海棲爬虫類で、恐竜ではない。恐竜は「直立歩行をしている爬虫類」で、脚のかたちも犬や猫に似ているのがふつうという。そんな陸棲爬虫類の化石が海の地層で見つかるとは考えにくかった。

 

 こんな事情もあって、「むかわ竜」の化石はそれが恐竜のものと報告されるまでに10年を要した。2003年、アマチュアの化石収集家堀田良幸さんが穂別博物館に寄贈した化石標本は、「おそらくクビナガリュウ類」とみられてお蔵入りになっていたのだ。恐竜は想定外だった。それを覆したのが、クビナガリュウ類の専門家だったというのはおもしろい。東京学芸大学准教授の佐藤たまきさんが2011年に館を訪れたときのことだ。

 

 佐藤さんがその標本を調べていて気になったのは、尾椎の下にある血導弓という骨の形状だ。クビナガリュウ類なら「ハの字」形のはずだが、この化石は違った。「たいへん残念ですが、これはクビナガリュウではありません。たぶん恐竜の骨です」。佐藤さんの「残念」は、標本が自身の研究対象外だったのだから本音だろう。だが、博物館側は違う反応をする。これを聞いた櫻井さんは「小さなガッツポーズをつくった」という。

 

 こうして北大が調査に乗りだすことになる。小林さんはハドロサウルス科の恐竜とにらんだが、すぐには決めつけない。海外の研究者から、この科に属する恐竜の尾椎の画像を取り寄せた。「それらの写真から、尾椎の幅と高さ、そして尾椎の上下にある突起の長さの比率を採り、グラフ化していく」。こうして、この科に特徴的な「一定の傾向」があることを突きとめたのだ。堀田さんの化石標本は、その傾向の枠内に収まっていた。

 

 その後の調査で、発見現場には全身の化石が埋まっている可能性が高まる。こうして最初の報道発表後の2013年9月、大がかりな発掘作業が始まった。

 

 なるほどと思ったのは、体の骨のそばで歯の化石が見つかったとき、小林さんが頭骨の存在を直感したことだ。頭は、種の判別のカギとなる重要部位だ。化石の恐竜は、現場が太古に海だったことを考えると遺骸となって流れてきたのだろう。ならば「“ひとりぼっち”のはずだ」。歯は同一個体のもので、近くには頭骨もきっとある――小林さんはそう考えた。そして実際、2014年に発見されるのである。ここには、科学者らしい推理がある。

 

 7000万年前にどんな生きものがいて、どのように生き、どう死んでいったのか。それを計測と思考によってありありと浮かびあがらせる。これぞ、科学の醍醐味ではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算483回、2019年8月2日公開)

 

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『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)

写真》何キロか何日か

 科学記者を数十年間つづけてきて、いつのまにか身につけたのは「科学は万人のもの」という信念だ。ただ、それはそうあるべきだと考えているだけで、実際にそうであるとは言えない。科学をちょっとでもかじった人ならば、万人が科学に手を出すことがどれほどの難事業かはすぐわかる。数式をみても意味がわからない。実験を始めようにもどこから手をつけたらよいか見当がつかない。結局は「科学は専門家のもの」ということになってしまう。

 

 それでも「科学は万人のもの」を持論とするのは、そうでなければ基礎科学は持続できないと考えるからだ。応用科学は目先の利益に直結するから、投資を呼び込みやすい。これに対して基礎科学はすぐには役立たないから、公費で賄うしかない。ところが僕が科学記者になった1980年代くらいから、基礎科学は巨大化の傾向を強めてきた。今では数百億円、数千億円規模の実験装置が少なくない。だから、納税者の納得なしには先へ進めない。

 

 いわば基礎科学の必要条件として出てきたのが、「科学は万人のもの」という発想だ。もし、科学という知的営みに大勢の人が参加できるのであれば、それを税金で支えようという機運も起こってくる。こうしてみると「科学は万人のもの」は基礎科学の生命線なのだ。

 

 では、「科学は万人のもの」のイメージはどんなものか。真っ先に思い浮かぶ見本は、スポーツだ。それは、科学が専門家に囲い込まれるほどには選手だけのものとなっていない。これは、スポーツには取り巻きのファン層があり、選手たちを応援しているからでもある。さらに草サッカーや草野球に興じたり、市民マラソンに出場したりして、自分自身でスポーツを体感する人もいる。科学にも、こうした回路をつくれないものだろうか。

 

 実は、それが難しいのだ。科学界を見渡すと、アマチュアに活躍の余地がある分野がないわけではない。昆虫の新種を見つけたり、古生物の化石を掘りだしたり、新しい天体を発見したり。博物学的な収集活動で貢献しているのだ。ところが、研究の本筋――たとえば法則を探りあてることや理論を組みあげること――に目を向けると、科学者の独擅場となる。このことが、科学のアマチュアに疎外感を生みだしているように思われる。

 

 おもしろいのは、文系の学問のほうが「万人のもの」に近いことだ。一例は、古代史の邪馬台国論争である。国の在り処をめぐる畿内説と九州説の対立だが、ここにアマチュアも加わっている。もちろん、論陣を張るのは学者たちだ。アマチュアは解説書を読み、どちらか一方への支持を表明するくらい。だが、その肩入れは半端ではない。当事者意識をもって自己主張している風がある。そこには学問そのものへの参加意識が見てとれる。

 

 で、今週の1冊は、先週に続いて松本清張著『駅路――傑作短編集(六)』(新潮文庫)。と言っても、同じ所収作品について改めて、あれこれ書くつもりはない。このあいだは触れなかった一編、「陸行水行」に焦点を絞る。邪馬台国論争を主題とする短編小説である。

 

 今回、この小説を切りだすことにしたのは、それがアマチュアと学問の関係を考える一助になるからだけではない。巻末に収められた文芸評論家平野謙の一文に誘われたこともある。短編集全体の「解説」なのに、紙幅の大半を「陸行…」礼讃に費やしている。その解説によると、この作品は1962〜63年のものらしいが、それに先立つ55年ごろ、著者のノートに「『邪馬台国考』事件」「これはまだ捨てぬ」という書きつけがあるという。

 

 1955年と言えば、著者はすでに芥川賞作家ではあったが、勤め先の朝日新聞社をまだ辞めていない。「著者は職業作家として世に立つ決意にまで踏みきる以前から、ひとりのアマチュアとして邪馬台国論争を自分なりにコツコツ調べあげ、独自の意見を抱いていたかもしれない」と、平野は推察する。「陸行…」にはアマチュアの史家が登場するが、著者も似たような立場にあったのだ。アマチュア視点の学問論が、ここには埋め込まれている。

 

 本文に入ろう。作品冒頭の舞台は、大分県の安心院(あじむ)という田舎町。宇佐神宮に近い宇佐駅から鉄道とバスを乗り継いでたどり着く盆地にある。山裾に向かってとぼとぼ歩くのは「私」、川田修一。「東京の某大学の歴史科の万年講師」だ。「宇佐という一つの古代国家が曾つてこの地域に存在していたであろう」とみて実地調査をしている。宇佐は「日本古代史の中で一つのアナ」らしい。だから、研究者の野心をそそるのである。

 

 「私」が坂を登って神社に向かうと、「粗末な木で囲った垣の中に古い石が一個ぽつんと置かれてあった」。それがご神体。自然物を崇める古代信仰だ。一服しながら宇佐勢力圏のことなどを考えていると、坂の下に足音がする。30代半ばの長身の男。くたびれた装いに履きふるした靴。手帳と鉛筆をとりだして石のスケッチに余念がない。「もしかすると、九州のどこかの高校教師か郷土史家かもしれないと私はひそかに踏んだ」

 

 ここで二人は会話を交わす。「私」が名刺も差しだすと、男は「俄(にわ)かに敬意を表したように軽く頭を下げた」。肩書の「東京」や「大学」の威力か。一方、男の名刺には「愛媛県温泉郡吉野(よしの)村役場書記 浜中浩三」とある。「私」の読みはそんなに的外れではなかったが、四国在住とは。八幡浜から別府まで船で渡って来たのだという。これが、学界非主流の古代史学者と地方のアマチュア史家との出会いだった。

 

 「私」が「この辺の史蹟調査にでも」と尋ねると、浜中は「いや、私のような素人(しろうと)は、とても史蹟調査などといったような大それたことはできません」「歴史の基礎知識はございませんから」と答える。アマチュアのへりくだりの一典型である。

 

 話題はやがて、邪馬台国論争になる。浜中がもちだすのは、中国の史書「魏志倭人伝」に記された朝鮮半島から邪馬台国に至る旅程だ。これこそが論争の焦点でもある。「不弥(ふみ)国」と呼ばれる地点までは「…里」という里程で表されているのに、そこから先は「水行二十日」「陸行一月」のように日数月数の表記であることに浜中は注目する。「つまり中国の使者は里程をしるした所だけ歩いたのです。日数のほうは想像だと思うんですよ」

 

 これに「私」は「新説ですね」と応じる。ただの外交辞令ではない。着眼の新しさに心底「感心した」のである。「人が実際に自分で歩く場合は距離感を実感として受けとる」のに対し、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」。その違いに気づいたことを多とするのだ。

 

 浜中のほうは「先生」が興味を示してくれたことがうれしい様子で、学界批判を始める。「魏志…」の「解釈の混乱」についてこう言う。「各人各説で面白いのですが、どの学者も自分に都合の悪い点は『魏志』の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています」。ありそうな話だ。学者はいったん学説を立てると、それを守ろうとしてご都合主義の理屈づけに走りがちだ。これは自らの地位を保全する行為でもある。

 

 苦笑するのは、アマチュアにも同様の嫌いがあることを著者が皮肉っている点だ。浜中は、「不弥国」の「不弥」はアヅミであり、それがアジム(安心院)に訛ったとにらむ。中国人はアヅミをハヅミと聞きとり、ハには同じハ行の「不」の字を当て、ミは「弥」としたというのだ。「中のヅはどうなりますか?」と「私」が問うと、「写すときにうっかりとヅの漢字を脱かしたのだと思います」。誤写をもちだすことへの批判がブーメランで戻ってくる。

 

 考えてみれば、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」というのも、ちょっと強引だ。浜中の理屈では、日数表現は具体性がないから他人から聞いた話だろうというのだが、自分自身で旅したからこそ何日かかったかを言いたくなるということもあるはずだ。

 

 小説を先へ読み進むと、浜中が胡散臭い人物だとわかる。だが、隔たりの表し方に意味を見ようとした着眼は大したものだ。それを謙虚に受けとめた「私」の度量も認めたい。この一件では、アマチュアと学者が対等な関係にあるように僕には思える。

 

 アマチュアの着眼が科学者を唸らせる。理系でも、そんなことがあってよい。

(執筆撮影・尾関章、通算481回、2019年7月19日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『探検博物学者 フンボルト』(ピエール・ガスカール著、沖田吉穂訳、白水社)

写真》南米

 新聞記者暮らしが終わりに近づいたころ、僕はうれしい仕事にありついた。読書のページの書評委員。社外の人が委員となって新刊書を評するのだが、そこに社内記者が交じる。好きな本を選んで自分なりの視点でものを書けるのだから、望外の幸せだった。

 

 書評した本のなかで忘れがたいものの一つが、『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)。18〜19世紀のドイツ人科学者、博物学のアレクサンダー・フォン・フンボルトと数学、物理学のカール・フリードリヒ・ガウスを対比した本だ。著者は小説家であり、この作品も二人の人間像の彫りだし方が絶妙なのだが、それだけではない。その思考様式の違いを見事に際立たせている。

 

 書評欄に載った拙稿の冒頭部を引用してみよう。「なんでもかんでも集めて回る。物事の多様さが好きな科学者がいる」「なんでもかんでもひたすら考える。多様の裏に普遍をみようとする科学者もいる」「その違いは、理系と文系の区分けより大きいのかもしれない」

 

 あのとき、この本を読んですぐ僕は書評を書こうと思い立った。本の中身が、自分の科学記者体験と響きあったからだ。ひとくちに自然科学といっても、それはひと色ではない。自然界から新種生物を見つけだすことに血道をあげる博物学。自然界から普遍法則を探りだすことに熱中する物理学。この二つが対極だ。中間領域もある。たとえば、化学者は物質の多様さに興味を抱きつつ、そこに普遍のしくみをみようとしているように思える。

 

 生物系の研究者は、生物界に新種が登場しても、それを苦にする気配はない。物理系の研究者は、物質界に新しい粒子が次々に見つかると、世界にはもっと根源の粒子があり、それが生みだす仮の多様性を見ているだけではないかと考える。これが思考様式の違いだ。

 

 それなのに世間では、博物学も物理学もひとくくりに理系と呼び、文系と対立させる。これが、さまざまな副作用を及ぼしてはいないか。教育面で言えば、数学は苦手だが野外観察が好きな子が、前者を理由に「君は文系だね」と言われてしまう不幸。学術文化面では、人文社会科学にも「多様さが好き」派と「普遍をみよう」派がいて、それぞれ自然科学界の同志と共感しあえるのに、そのことが忘れ去られていることのもったいなさ。

 

 で、今週の1冊は『探検博物学者 フンボルト』(ピエール・ガスカール著、沖田吉穂訳、白水社)。前述『世界の測量…』とは異なり、フンボルト(1769〜1859)に的を絞った伝記である。訳者あとがきによると、著者は、1953年にフランス文学界で最高の誉れとされるゴンクール賞を受け、小説やエッセイを量産してきたが、70年代からは伝記文学に傾倒するようになった。本書の原著は85年に刊行、この邦訳は89年に出ている。

 

 フランス人の伝記作家がフンボルトをとりあげたのは、彼がドイツ人の枠に収まらない人物だったからだ。この本にも書かれているように、フンボルトの母方の曽祖父は16世紀末にナントの勅令で母国を追われたフランス人新教徒であり、曾祖母はスコットランド人だった。この系譜が「コスモポリタンの精神」に富む家風を生みだした。それが「曾孫アレクサンダーにおいて最高度に発揮されることになる」と、著者は書く。

 

 フンボルト家はドイツ・プロイセン王国の貴族だったので、アレクサンダーは兄のヴィルヘルムとともに高水準の教育を受ける。ただ、この兄弟は対照的だ。兄は言語学者であると同時に外交官であり、自国の官僚として王道を歩む。一方、弟は自然界に関心を抱き、探検博物学者となる。コスモポリタン度が高かったのは弟のほうだ。自由人としてフランス革命の精神に共感し、なにかというとパリを偏愛する様子を、著者は巧みに切りだしている。

 

 この本の冒頭に登場するのは、18世紀の後半、ベルリン植物園で威容を誇っていた竜血樹だ。南国の樹種であり、そもそもプロイセンの気候にはなじまない。寒気を避けるために塔状の建物のなかに収められていた。樹皮を切り刻むと赤い樹液がにじみ出てくる、という。その不気味さは「この木をただ単に遠く離れているだけでなく、やや超自然的でもある一つの世界に結びつけていた」。それに魅せられた一人が、若き日のフンボルトだった。

 

 そんな異世界の発見場所が、フンボルトにとっては南米だったと言えよう。この本は中盤で多くのページを割いて、その一部始終を活写している。巻頭の行程図によれば、1799年から1804年にかけて、彼は相棒の医学生エメ・ボンプランとともに大西洋を渡り、アメリカ大陸を旅した。ヤマ場は二つある。一つは、南米北部のオリノコ川流域の探検。もう一つは、アンデス山脈に聳えるチンボラソ(6310m)の登山である。

 

 チンボラソ登山については、もう少し触れておこう。フンボルトたちは残念ながら登頂には成功しなかった。標高5881mで行く手をクレバスと霧に阻まれ、退却を余儀なくされる。ただそれは、当時知られている限りでは人類が到達したもっとも高い地点だった。ここで見落とせないのは、高度が1の位まで記録に残されていることだ。一行は稜線をたどりながらも気圧計を携え、その測定値から高さを割りだしていたのである。

 

 このことがフンボルトを一躍有名人にした。この本によれば、一行が下山後、「ヨーロッパと北アメリカの諸新聞の社外通信員たちが、『アレクサンダー・フォン・フンボルト男爵、世界で一番高くまで登った男となる』、というニュースを先を争って伝えた」という。

 

 さてここでは、南米がそのころの欧州人にとってどんな存在だったかをみることで、フンボルト流の科学に迫ってみよう。探検に赴く直前の記述に彼の南米観が出てくる。そこは、農耕文化の手が入っていないので「この緯度に生育し得るあらゆる植物種が、その最も旺盛な姿で集まっている」。自然が「全貌をほぼ現し尽くす」、すなわち「その力を最大限に発揮する」ので、「自然を支配する法則が最もよく見えてくる」というのだ。

 

 その一端をフンボルトは南米に上陸後まもなく、クマナ(現ベネズエラの都市)の郊外で見てとる。「常軌を逸した植物」の横溢だ。銀色の花を咲かせるもの、樹皮がかぐわしいものがある。イネ科の草が高さ5mほどに伸びていたりもする。彼は「自分が今や身を浸し、どっぷりと漬っている自然の過剰さ、異常さ、巨大さに文字通り魅了されていた」が、一方で探究心も奮い立たせたという。それは、ロマン主義と近代科学精神の併存だったのか。

 

 自然の「全貌」が立ち現れたのは、オリノコ川流域の上流部だったようだ。水系は、アマゾン川流域の上流部にカシキアーレという川でつながり、錯綜している。一帯の密林でフンボルトは疎外感に襲われる。「自然は、地を這ったりその上を滑って行ったりする生物、障害物を跳び越えたり、飛翔したり、巨大な木々の間を枝から枝へと飛び移ったりできる生きものにしか開かれていない」。地上に、枝々が織りなす「もう一つの平面」があるとは。

 

 この本は、フンボルトの科学者としての目論見をこう書く。「『文明化された』人間がまだ一人も入り込んでいない土地へ行けば、人間とある種の動物の間に原始の親密な関係が残っているのを発見できるのではないか」。ここには、「人間の起源」に対する強い関心がある。著者によれば、フンボルトは「万物の調和」を重んじており、それを「原始の楽園」に見ようとしていたらしい。裏を返せば、近代に至る人類史が調和を壊したことになる。

 

 この本は、フンボルトの高所志向も説明している。高山は動植物が乏しく「地球が宇宙の他の部分と結びついていることが直接感じられ、星の支配する空間の息吹きを受けて、創造の本質を露わに見せてくれる」。これをもって著者は、その探検を「どこか形而上学的」と形容するのだが、僕には逆の感想がある。彼は植物も動物も星も人間もすべてを調べ尽くして世界の核心に迫ろうとしたのだ。フンボルトこそは形而下の哲人ではないか。

 

 『世界の測量…』の書評で、アレクサンダー・フォン・フンボルトを「物事の多様さが好きな科学者」と僕は書いた。ただ、それは「好き」で終わらなかったことが『探検博物学者…』からわかる。「多様さがもたらす調和」を見たくて、なにもかも知ろうとしたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算476回、2019年6月14日公開)

 

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『ゲノム編集の光と闇――人類の未来に何をもたらすか』(青野由利著、ちくま新書)

写真》DNAのハサミ

 元新聞記者は、現役を退いてから年数がたつほど日々の報道に不満感が募ってくるらしい。それは、こういうことだ。新しいニュースが飛び込んでくる。たしかに大変なことだ。大々的にとりあげていい。だが、どこか物足りない。昔の話がすっぽり抜け落ちている。

 

 たとえば去年秋、本庶佑さんのノーベル医学生理学賞受賞が発表されたときのことだ。多くの報道では、本庶さんの業績ががん治療薬オプジーボの開発に絞って描きだされていた。原点は本庶グループが1990年代初めに謎の分子PD−1を見いだし、それに免疫を抑えるブレーキ機能があることを突きとめたことにある。基礎の発見が応用の果実を生むのは一朝一夕にはいかない。20年余の歳月がかかった――。そんな論調が感じとれた。

 

 で、元記者は思ったものだ。オプジーボの登場は応用・開発の根っこに基礎研究があることを見せつけた格好の例だ。だから、直近の20年余について詳述することは必須だろう。だが、それでは「どこか物足りない」。もっと昔の話を置き忘れてはいないか。

 

 これは、年寄りの愚痴に類するものかもしれない。だが、それが年寄りにしか言えないことなら、言っておいたほうがよいだろう。そう思って先日、拙稿をウェブに出してみた。「Yahoo!個人」欄の「本庶劇場には第一幕があった」(2019年1月18日付)。オプジーボ開発史は本庶劇場の第二幕にほかならない、第一幕には基礎のまた基礎とも言ってよい研究段階があり、そこでも本庶さんは輝いていた、と書いたのである。

 

 いま読み返すと、愚痴と言えないまでも自慢話のようではある。若い記者諸君は知らないだろうが自分はあの時代を見てきたのだ、という奢りを感じとる人がおられるかもしれない。そんなリスクをのみ込んでも「言っておいたほうがよい」と判断したのは、科学は科学史とともに理解しなければならないと考えるからだ。科学の展開は数年間ではとらえきれない。ときに数十年でも短すぎる。だから、昔話が大切なのだ。

 

 ゲノム編集に対しても同様の思いがある。ゲノムとは生物の全遺伝情報のこと。その一部をワープロソフトのように書き換える技術がゲノム編集だ。去年秋には、中国の科学者が受精卵の遺伝子を操作してエイズウイルス(HIV)に感染しにくい赤ちゃんを誕生させた、と主張した。本当なら大変なことだと大騒ぎになった。だが、遺伝子の組み換え技術は数十年前からあり、それについて人々が議論を重ねてきたことも忘れてはならない。

 

 で、今週の1冊は、今年2月に出た『ゲノム編集の光と闇――人類の未来に何をもたらすか』(青野由利著、ちくま新書)。当欄はすでに、『ゲノム編集とは何か――「DNAのメス」クリスパーの衝撃』(小林雅一著、講談社現代新書)という本を読み込んでいる(2017年5月19日付「ゲノム編集で思う人体という自然」)。同じテーマを改めてとりあげるのは、著者が毎日新聞の科学記者であり、僕と同時代の空気を吸ってきた人だからだ。

 

 最近、ゲノム編集のニュースが爆発的にふえたきっかけは、2010年代に入って「クリスパー・キャス9」というDNAの切断法が開発されたことにある。上記「ゲノム編集で思う…」では、『…とは何か』からその技術の要点を紡ぎだした。そこには、従来の遺伝子組み換えとどこがどう違うのかという疑問に対する答えがあった。今回の『…の光と闇』も従来型との違いを詳述しているが、僕の心に響いたのはそれと別のところにある。

 

 『…の光と闇』の長所は、ゲノム編集という一つの技術から数十年の生命科学史を浮かびあがらせていることだ。著者も巻頭で、ゲノム編集には既視感があるとして「30年近くフォローしてきた生命科学をめぐるさまざまな技術、あらゆる論争がそこにある」という感慨を披歴している。個人的な話だが、僕にとって著者は同じ取材対象を追いかける競争相手だった。今回、科学の変遷をいっしょに見つめてきたのだという連帯感を呼び起こされた。

 

 たとえば、「遺伝子組み換えの夜明け」と題する序章。「時は1974年に遡る」の一文で始まる。著者が科学記者になる前の話だ。分子生物学者松原謙一さんが米国の生化学者から国際電話を受け、カリフォルニア州アシロマで開かれる国際会議に誘われたという。アシロマ会議は、1972〜73年に考案され急進展した遺伝子組み換え技術について科学者たち自身が討議を重ね、「自主規制」に踏みだした場として知られる。

 

 これは1980年代前半、僕が科学記者になったのころの部内談議を思いださせる。アシロマ会議の話は、それを取材した先輩からよく聞かされたものだ。そこで僕の脳裏に刻まれたのは、生命科学界はアクセルだけでなくブレーキも具えているということだった。ブレーキには安全面の心配もある。倫理面からの異議もある。同じことは、当時国内で大議論になっていた脳死・臓器移植や体外受精についても言えたのである。

 

 興味深いのは、「アシロマ」がゲノム編集に対しても再現されたことだ。第4章「ヒト受精卵を編集する」を読むと、2015年には「クリスパー…」の開発者の一人、米国のジェニファー・ダウドナが呼びかけて、カリフォルニア州ナパバレーで「ヒトの受精卵操作の倫理問題」を話しあう会議を開いた。その討論結果は「たとえ法的に禁止されていなくても、人の生殖細胞の改変の臨床応用の自粛を強く訴える」というものだった、という。

 

 アシロマ会議の議論を牽引したのは、遺伝子組み換えの先鞭をつけた生化学者ポール・バーグだった。ナパ会議の中心には、ゲノム編集の応用を加速させたダウドナがいる。その場にはバーグの姿もあったらしい。アクセルがブレーキも併せもつ伝統が、ここにはある。

 

 ちょっと横道にそれるが、アシロマは生命科学を超えても大きな意義があった。英国生まれの米国の物理学者フリーマン・ダイソンは『叛逆としての科学――本を語り、文化を読む22章』(柴田裕之訳、みすず書房)で、生命科学研究の自律性をたたえ、原子核物理の分野でも「アシロマ」がありえたのではないか、と悔いている。逆を言えば、20世紀後半の生命科学は、科学者の「核」をめぐる後悔を背景に歩みはじめたとも言えるのである。

 

 この本は1990年、国際医学団体協議会(CIOMS)が愛知県犬山市で発表した「犬山宣言」にも触れている。これも学界の自律性を示す動きで、体細胞に対する遺伝子治療を認めつつ、生殖細胞に対する遺伝子改変には待ったをかけた。子孫への影響を懸念したのだ。受精卵もノーということだろう。著者は、この宣言も踏まえて「『受精卵を遺伝子改変して人間を生み出すことは禁止』の原則が世界の人々の共通認識となっていった」と書く。

 

 では、この共通認識は不動なのか。そうではないという。2017年には全米科学アカデミーと全米医学アカデミーが、人の受精卵や生殖細胞のゲノム編集も、重い遺伝性の病気や障害の治療や予防に別の選択肢がないとき「認められる場合がある」との見解を打ちだした。18年には英国の独立機関ナフィールド生命倫理評議会の報告書が、生殖細胞のゲノム編集を「一定の条件のもとで」「認めうる」とした。一歩踏みだす気配はあるのだ。

 

 これは、生命倫理には二つの価値観の対立がある、という僕の持論に照らすと納得がいく。一つは、人体という人間の内なる自然に対するエコロジー。もう一つは、弱者支援と自己決定のリベラリズム。後者を重んじれば、遺伝性の病気や障害に苦しむ人々に最新技術が救いの手を差しのべるのは、もっともなことだ。それを裏づけるように、ナフィールド生命倫理評議会は前述の「一定の条件」に「子どもの福祉」や「社会正義と連帯」を挙げている。

 

 だが著者は、受精卵や生殖細胞のゲノム編集に対する慎重な姿勢を崩さない。「生まれてくる子ども、それに続く次世代にとって、安全である保証はない」「人類全体の遺伝子プールに与える影響もわからない」「いったんゲノム編集した子どもが生まれてくれば、しまったと思っても、元に戻すことはできない」――。これらに僕が一つ付けくわえれば、この医療は親の自己決定権は尊重しても、真の当事者である子孫の意思を聞いていないのだ。

 

 答えがなかなか出ない問題を僕たちはずっと追いかけてきたんですね、青野さん。

(執筆撮影・尾関章、通算463回、2019年3月15日公開)

 

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●第198回通常国会の安倍晋三首相「施政方針演説」

写真》朝日新聞2019年1月29日朝刊

 おいおい、ついにそこまで手を広げるのか。そんな声が聞こえてきそうだ。当欄は1週1冊を標榜しているが、例外として雑誌記事やデジタル記事も話題にしてきた。読むことの愉悦を分かちあえるなら、本というかたちにこだわる必要はない、と思ったからだ。この考え方に徹すれば、どんな文書をとりあげてよいことになる。ということで今週は、第198回通常国会の安倍晋三首相「施政方針演説」(2019年1月28日)を熟読吟味する。

 

 こんな選択をするのは、ずっと首相演説「全文」のファンだからだ。テレビのニュースは、演説から当面の政治課題にかかわる部分だけを切りだすことが多いが、首相官邸の公式サイトや新聞紙面で隅から隅まで読めば、さまざまな現実が見えてくる。

 

 とくに僕が目をとめるのは、科学技術に言及した箇所。科学報道畑を歩んできたわけだから、身についた習性と言えるかもしれない。そこから感じとれるのは、永田町や霞が関が科学技術をどうとらえているかだ。科学技術は、とりあえずはもちあげられる。日本人科学者のノーベル賞受賞がたたえられ、先端技術の社会貢献に対する期待が表明される。だが、なにかが足りない。あえて言えば科学技術に伴う悩みごとが見えてこないのである。

 

 今回の演説にも、その傾向はある。科学技術をめぐる記述で目についたものを拾ってみよう。「全世代型社会保障」と題する節には、介護現場の負担軽減のために「ロボットを活用する」とある。「世界の中の日本外交」の節では、温暖化対策として「水素社会の実現など革新的なイノベーション」、プラスチック海洋汚染対策として「海で分解される新素材の開発」が書き込まれている。困ったときの次世代技術頼みという感は拭えない。

 

 科学礼讃は結語の章にある。1970年の大阪万博を振り返り、あのときに「会場で心震わせた8歳の少年」が、後にiPS細胞を開発してノーベル賞を受け、難病の人々に「希望の光」を与えた、と言う。山中伸弥さんの話だとすぐわかる。このあと、憲法に触れて「各党の議論が深められること」に期待を示し、「平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を切り拓く」決意を披歴する。科学を政治に引っぱり込んでいる感は否めない。

 

 「安全保障政策の再構築」という節には、科学技術に対する的確な現状認識もみてとれる。「テクノロジーの進化は、安全保障の在り方を根本的に変えようとしています」として、サイバー空間や宇宙空間の活動に「各国がしのぎを削る時代」の到来を指摘する。ただ、それを批判するのではなく「サイバーや宇宙といった領域で我が国が優位性を保つことができるよう」促す意向を鮮明にする。このくだりで、専守に徹することは強調していない。

 

 そして、科学技術がもっとも前面に押しだされるのは、「成長戦略」の章の「第4次産業革命」と題した節。「人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています」とうたいあげる。

 

 第4次産業革命とは、ざっくり言えば蒸気→電気→デジタルの次にくる産業の大激変。情報技術が実空間にまで広がって、モノとモノをつなぎ、クルマを動かし、社会そのものの運営まで一変させるという展望があるようだ。同じ節にはSociety 5.0という言葉も出てくるが、それは「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステム」(内閣府公式サイト)が活躍する社会を指しているらしい。

 

 この第4次革命の新技術を、首相演説はどう位置づけているのか。なによりも、この項目が「成長戦略」の章の一節であることからわかるように、経済成長の牽引車とみているのは明白だ。だが、それだけではない。「自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします」「体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります」と述べて、市民生活が受ける恩恵を筆頭例に挙げる。

 

 先端技術を、福祉や医療に前向きに取り込んでいくというのは、本来、弱者支援を旗印とするリベラル派が掲げる施策だ。たとえば2004年の米国大統領選挙では、胚性幹(ES)細胞の研究に抑制策をとる共和党現職のジョージ・W・ブッシュ大統領に対して、民主党のジョン・ケリー候補が難病の治療に役立つとの立場から推進を訴えた。日本の現政権は右寄り保守と言われるが、科学技術に対してはリベラル色も打ちだしているのだ。

 

 ただ、そこから先が心もとない。第4次革命の新技術に備えて「時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします」とあっさり言い切っているが、これはそう簡単ではないだろう。法令を整え、その抜け穴を埋めればよいというものではないからだ。

 

 たとえば、自動運転では「交通に関わる規制」の全面見直しをうたう。事故に対する責任の所在を、こういう場合は自動車メーカーに、こういう場合はクルマの持ち主に……というように区分していくのだろうが、先端技術には想定外の事象がつきまとう。この区分になじまない事例も出てくるだろう。最近は過失事故についても加害者に対する厳罰適用を求める機運がある。この社会感情にどう向きあっていくかも考えなくてはならない。

 

 自動運転は、人間社会の営みに機械が能動的にかかわってくる技術だ。状況判断や意思決定に人間以外の存在が主体的にかかわる状況も想定される。同様のことは、ロボットについても人工知能(AI)全般についても言えるだろう。これらの新技術に対して「規制や制度を大胆に改革」するには相当に広くて深い熟慮が必要になる。事と次第によっては、近代人の罪と罰の概念を根底から問い直さなくてはならないかもしれないのである。

 

 「第4次産業革命」の節の後段では、「我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります」との表明もある。AIは「人間のため」のものであり、「結果には人間が責任を負わなければならない」とみる立場を前提とするものだという。だとしたら、この課題は法令を時代に合わせる作業だけでは完結しない。哲学、倫理学、心理学、社会学、経済学など人文社会系の全領域の議論が関与する難題ではないか。

 

 ところが、この節で約束されるのは「人工知能などのイノベーションを使いこなすリテラシー」を高める小学校のプログラミング教育必修化だったり、「新たなイノベーションを次々と生み出すため」の大学支援だったりする。理工系ばかりに目が向いているようだ。

 

 科学技術の進展に乗っかっていこう。首相演説からは、そんな姿勢が見えてくる。それは防衛技術やAIについて、とくに顕著だ。この前のめりは一見、科学者や技術者にとって追い風のようではある。だが、科学研究の成果が無批判に実用技術に結びつけられたとき、どんな禍が起こるかを人類は前世紀に目の当たりにしてきた。いま待望されるのは、科学技術の恩恵を認めつつ、それがもたらす重荷からも目をそらさない政治家ではないか。

*引用箇所のテキストは、朝日新聞2019年1月29日朝刊の全文掲載による。

(執筆撮影・尾関章、通算458回、2019年2月8日公開、同日更新)

 

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「人間を知る:霊長類学からワイルドライフサイエンスへ」

(松沢哲郎著、岩波書店『科学』2018年11月号掲載)

写真》ヒトはサルの仲間

 今さらこんなことを言ってもどうにもならないのだが、僕の就職第一希望は出版社だった。四十余年前のことだ。中央公論社(現・中央公論新社)が『自然』という月刊科学誌を出していて、その編集に携わりたいと切に望んだのである。当時、中公の社屋は東京・京橋にあった。名匠、芦原義信が1950年代半ばに設計したモダニズム建築。就活の会社訪問で一度ならず足を運んだが、応接ロビーの内装もすっきりしていて心地よかった。

 

 このとき相手をしてくれたのは、岡部昭彦編集長。穏やかな紳士で、僕の青臭い訴えにも耳を傾けてくれた。だが結果は、筆記試験で敗退。編集長の眼鏡にかなうかどうかという以前の関門ではじかれてしまったのである。こうして『自然』編集部員の夢は露と消えた。

 

 岡部さんと再会したのは、それから10年後、1980年代半ばのことだ。僕は度胸試しで挑んだ新聞社の入社試験にたまたま受かり、新聞記者となっていた。二つの支局で警察回りや町回りを担当し、大阪で科学部に配属されて東京に戻ったころ、ある席で名刺を交わすめぐり合せになったのである。岡部さんはちょっと悲しげな顔をして、「(『自然』編集部に)来なくてよかったですね」と言った。このときすでに『自然』は休刊していた。

 

 そのころ、科学誌は今ほど苦境にあったわけではない。それどころか1980年代前半には、グラビアを生かしてビジュアル力を高めた新雑誌が次々に登場していた。『自然』はこうした流れに惑わされず、地味だが堅実な誌面構成を貫いて消え去ったように思う。

 

 『自然』を象徴する看板記事を一つ挙げるなら、やはり物理学者集団ロゲルギストの連載ということになろう。日々の出来事を数理の視点から見直すことで、読む側に目から鱗の発見をもたらした。難しい話をかみ砕いて易しく、という「啓蒙」とは、ひと味もふた味も異なる刺激がそこにはあった。そしてもう一つの特徴は、誌面から歴史観がにじみ出ていたことだ。科学雑誌でありながら科学史雑誌の色彩も帯びていたように思う。

 

 再会後の岡部さんに、僕はいくつもの教えを受けた。直接お会いするだけではない。ペン書きの封書やはがきをしばしばいただいた。そこに脈々と流れていたのも、歴史観をもって科学を見つめるジャーナリスト精神だ。『自然』は寄稿中心の雑誌だから、岡部さん自身が論陣を張るわけではない。テーマや執筆者の選び方を通じて科学研究の変遷を浮かびあがらせようとしていたのだろう。そのことが僕への助言でもよくわかった。

 

 で今週は、そんな往時の『自然』誌を彷彿とさせる雑誌記事について書く。「人間を知る:霊長類学からワイルドライフサイエンスへ」(松沢哲郎著、岩波書店『科学』2018年11月号掲載)。『科学』は、かつて『自然』の良きライバルだった老舗出版社系科学誌。今も健在だ。最近号のページをパラパラとめくっていたときに、この一編に出会った。当欄は1週1冊を原則としているが、ときにはわずか6ページの論考を選んでもよいだろう。

 

 著者は1950年生まれ、霊長類学が専門の京都大学高等研究院特別教授。チンパンジーのアイちゃんを育てあげた人と言えば、思いあたる科学ファンも多いだろう。僕が新聞社で大阪の科学部長だった2000年代初め、アイちゃんとその息子アユムくんは著者たちの実験研究の主役として大活躍していた。彼女や彼は、コンピューターや自動販売機を人間さながらに操る。部員の取材を通じて、その研究成果に目を見張ったものだ。

 

 著者の略歴を、ご本人の公式ページからたどろう。1974年に京大文学部哲学科を卒業、大学院の文学研究科へ進むが、76年に博士課程進学後まもなく中途退学、そのまま京大霊長類研究所に移り、助手の職を得たという。著者が推定1歳のアイちゃんと出会ったのは、その翌年だ。なんという華麗な文理またぎ。これぞ京都学派、と言える身の振り方ではないか。その学びの風土が感じとれるのも、この『科学』論考の魅力だ。

 

 今回、誌面でまず目に飛び込んだのは、著者の自撮りツーショット。隣にいるのは、河合雅雄さんだ。1924年生まれの京大名誉教授。「日本の霊長類学の黎明期を知る唯一の存在」である。写真説明に「2018年9月16日」と記され、本文には「丹波篠山のご自宅で直接お話を聞くことができた」とある。著者は、この論考を執筆するために大先輩を訪ね、自身の研究の源流を再確認しようとしたのだろう。その熱意に、僕は心打たれる。

 

 自然科学を時間軸で見通す視点は、かつて『自然』に見てとれた誌風と響きあう。さらに、執筆者が丹波の里で大先輩と肩寄せあう写真も、まったりしていて懐古気分にさせる。

 

 この一編は、「日本における霊長類学の成立は1948年12月3日といえる」という一文で始まる。ちょうど70年前のことだ。この日、京大無給講師の今西錦司が二人の学生を伴って宮崎県の幸島を訪れた。目的は、野生ニホンザルの観察だ。学生の一人が、50年代末からアフリカで霊長類の実地調査を展開した伊谷純一郎だった。京大グループが国際的な名声を得た霊長類学の原点は、戦後日本の九州の小島にあったのだ。

 

 ここで著者は、河合が動物学を志望したころの心境を書きとめる。少年期の友の多くが戦地で帰らぬ人となるなかで「どうして戦争が起こるのか」「人間の暴力はどこから来るのか」という問いが湧き起こったという。それが、霊長類学に結びついたのである。

 

 著者自身も、霊長研ではニホンザルの観察から始めた。関心事の一つは「視野の異方性」。人間は大地を歩き回っているので、「地上の水平方向」と「重力の鉛直方向」に敏感な「知覚の枠組み」を具えている。ならば「樹上を自由に動き回り、ときに上下も逆さまになるサルだと、この空間の見え方が人間と違ってもよい」とにらんだという。研究結果がここに書かれていないのは残念だが、ヒトとサルを同列にとらえる視点は新鮮に思える。

 

 実際、そのあとに始まったアイちゃんの研究は「比較認知科学」の道を切りひらいた。著者によれば、これは「人文・社会科学である心理学・認知科学」と「自然科学である生物学とりわけ霊長類学」の結婚によって生まれた。ヒトとチンパンジーの「心」のありようを比べて「同じものがあればそれは共通祖先に由来」「違うものはそれぞれの進化の過程で生まれたか失った」と見分ける。異種の比較で「心の進化」をあぶり出す研究である。

 

 著者たちにとって、20世紀終盤に生物種のDNA塩基配列を読みとるゲノム研究が開花したのも幸運だった。この論考にあるように、ヒトとチンパンジーの配列差は1%程度とされている。こうした知見に支えられて比較認知科学の自然科学度は増したように思う。

 

 著者たちによるアイちゃん、アユムくんの実験で、チンパンジーも「数字を使って物の個数を表現できる」とわかった。さらに驚くべきは「1から9までの9つの数字を、一瞬見ただけでどこにどの数字があるか記憶できた」のである。「チンパンジーは人間のような言語の習得はむずかしいが、一瞬で記憶することにはたけているようだ」。ヒト以外の動物にヒトとは別方向の賢さを見いだしたことも、比較認知科学の成果と言ってよい。

 

 著者は、ヒト科に分類されるヒト属、チンパンジー属、ゴリラ属、オランウータン属を概観して、ヒト属のヒトらしさをこう結論づける。「人間には、男女の結びつきを核とした家族があり、そうした家族が複数集まって作る共同体がある」。チンパンジーは「共同体はあるが家族はない」。ゴリラは「家族だけで、それを束ねた共同体はない」。オランウータンは「母子の結びつきしかない」。ヒト社会のみが、重層の構造をもっているというのだ。

 

 人間は、公私を両立できる生きものということか。保育や介護の負担は、家族と公助共助が分かちあう。利潤を追求してもよいが、富は再配分する――。僕たちは社会を設計するとき、ヒト属がたどった「心の進化」にもっと目を向けるべきなのかもしれない。

 

 科学は人間とともにある。それを痛感させてくれるのが科学誌だとつくづく思う。

(執筆撮影・尾関章、通算445回、2018年11月9日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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