『モラルの罠』(夏樹静子著、文春文庫)

 いったいどれだけの数字と文字を頭にたたき込み、そらで言えるようになればいいのか。そんな憤りにも似た気持ちに襲われることがしばしばある。暗証番号やパスワードの類を設定するように求められる機会がおびただしくふえているからだ。
 
 30年ほど前を思い浮かべてみよう。頭にしっかりと焼きつけていたのは、銀行のキャッシュカードの数字4桁くらいではなかったか。役所の手続きであれ、勤め先の事務であれ、私が私であることの証明は署名やハンコで事足りた。それに本人確認の運転免許証や健康保険証を添えれば、ほぼ万全だった。クレジットカードが広まりはじめてはいたが、それだってサインすることで支払いは完了した。
 
 ところが最近は、なんでも番号と文字列だ。これは、なんと言っても日常生活がIT漬けになったからだろう。マンションなどの建物に入るときも番号を聞いてくる。クレジットカードもJR券売機で切符を買うときなどは番号が要る。
 
 なによりも、パソコンと向きあっているときの認証ラッシュにはうんざりしてしまう。さまざまなことを自宅にいながらできるようになったことと引き換えに、そのさまざまな分のIDパスワードが必要になった。パソコンでネット通販のサイトに入り込み、買い物をするときがそうだ。あるいは、このブログのようにネットを介してなにかを発信しようというときも同様だ。
 
 こうした状況を踏まえてのことだろう。暗証番号やパスワードの使い回しはやめましょうという注意書きを見たり聞いたりすることが、最近は多くなった。もっともな話だ。一つが見破られれば、それをもとにその人になりすまして別のサイトに入り込み、好き勝手をする輩が出てきてもおかしくはない。だから、それぞれに対してそれぞれ異なる数字文字列をあてがわなければならない、というわけだ。
 
 だが、言うは易くおこなうは難しいとは、このことだろう。それは、歳を重ねるほどに実感されてくる。たとえば少年時代、「イイクニつくる鎌倉幕府」的に覚え込んだ数字の並びが今、脳内にいくつ残っているだろう。しかも、そういうものは大勢の人が思い浮かべるだろうから認証用に不適だ。だからと言って、この歳になって新たに覚えやすい数を探しだし、それを用途と結びつけて記憶するのは至難の業なのである。
 
 思えば、こうした暗証番号IDパスワード体制はもっぱらシステムを管理する側の視点に立っている。管理者側は、8桁の数なら1億通りもの選択肢があるのだからまぐれ当たりもめったにない、などといった論理を盾に「見抜かれにくい番号を、今まで使っていたものを避けて定めてください」と言っていれば済むことだ。ところがシステムを使うほうは、個々の要請ごとに「覚える」という工程が必要になるので能力の水準を超えてしまう。
 
 で、今週は、そんなシステム社会の脆さが見えてくる短編小説集『モラルの罠』(夏樹静子著、文春文庫)。『オール讀物』の2000〜2003年の号に発表された5編を収めている。20世紀終盤に日本社会に浸透した新顔のアイテムやサービスを題材とする作品ばかりだ。たとえば携帯電話、留守電、宅配便。あるいは心療内科、救急延命といったものもある。それらの怖さや危うさを切りだして、小説の筋書きに組み込んでいる。
 
 ところで、当欄が夏樹作品をとりあげるのは、これが初めてだ。それは、僕が熱心なファンだからにほかならない。夏樹静子は、大きな山のような推理作家である。謎解きの醍醐味満載の本格ミステリーを書く。社会派の側面もある。男女の心理の機微も忘れない。そして日常の死角に目を向ける。いったい、どの作品のどこから語ったらよいものか迷っていたのだ。この短編集は、これらの諸要素がバランスよく混ざり合っているように思う。
 
 ここでは所収作品のうち、ずばり『システムの穴』に焦点を絞る。なぜならば、この小説は、家庭生活にもシステム社会の波がひたひたと押し寄せる様子を描いているからだ。別段にコンピューターウイルスが悪さをするわけではない。ハッカーもどきのデジタルおたくが出てくるわけでもない。ITとふつうの距離を置いている人がシステムに振り回される現実を浮かびあがらせる。暗証番号やパスワードの攻勢も、その一つだ。
 
 著者の巧妙さは、登場人物の舞台設定からも見てとれる。主人公は、西日本の大都市圏で開業する耳鼻科医の妻、安川実子、64歳。その暮らしぶりが豊かな部類に入りそうなことは容易に推察される。だから、家にはさまざまな新鋭システムが備え付けられている。
 
 たとえば、警備会社と結んだ防犯システム。「出入口のドアやガラス戸、大きな窓など、人の通れるところにセンサーを取り付け、それが開くと家の中でアラームが鳴り、同時に会社のコントロールセンターへも自動的に通報される」という仕掛けだ。出かけるときや夜眠るときにオンの状態にする。もしセンターが通報を受けると、当該の家へ電話をかけて様子を探り、異変を嗅ぎつければガードマンが駆けつける。
 
 もう一つは、「電話リモコン」だ。帰宅の途中、どこからでも自宅のエアコンを動かせる、というシステムだ。携帯電話で自宅を呼びだして、暗証番号と操作番号を押す。「すると、家の電話機に接続されている電話リモコンに信号が届いて、リビングのエアコンがONになる仕組み」である。「同じやり方でOFFにもできるし、〈換気〉にすることもできる」というから、外にいても空調は自在だ。
 
 さて、そんなインテリジェントな家で事件が起こる。実子が孫の世話をするため、娘の家にいた夜のことだ。携帯電話に警備会社から連絡が入る。「お宅のシステムの警報(アラーム)が鳴ったのです」「侵入の形跡が認められました」。帰宅すると、夫はすでに病院に運ばれていた。花瓶の一撃で「気を失って倒れていた」という。大金庫に被害はない。暗証番号と鍵で開ける方式。犯人は鍵を探しだせなかった。だが、番号はぴったり合っている。
 
 刑事は「金庫のナンバーまで知っていたとすれば、相当身近な人間と考えられますが……それとも、ナンバーはどこかに書いてあるんですか」と問う。夫も自分も手帳に控えていることを打ち明けると、「頭の中だけではなくて、ですね」と追い討ちのひと言。「実子は一瞬、年寄りの記憶力を馬鹿にされたような気がした」。わかる、わかる、その気持ち。「だって、とても暗記しきれませんもの。世の中、暗証番号だらけなんですから」
 
 ここで、番号地獄に対する実子の憤懣が爆発する。「あの金庫だけでも二桁の数字が三つもある上、盗まれた手提げ金庫を開けるのにもナンバーが決まってるでしょ。銀行のキャッシュカード、貸金庫、電話送金なんかもみんな暗証番号が要るんですよ。海外旅行用のスーツケースでも、暗証番号を忘れたらどうしようもない」。防犯システムの誤警報を止めるにも本人確認の番号が必要、電話リモコンに番号が欠かせないのは先述の通りだ。
 
 いったい、どこから番号は漏れ、犯人の知るところとなったのか。これはミステリーのネタそのものなので明かさない。ただ、暗証番号とパスワードでデジタルの城壁を堅固にしても、どこかにアナログの穴が開くというのが人の世の宿命なのだろう。
 
 どんなシステムにも穴はつきものだ。実子の家の防犯システムも窓や戸を動かすことなくガラスだけを破って家に入り込むと、センサー網をすり抜けることがあるらしい。業者が、その穴を塞ぐために取り付けたのが「空間センサー」と呼ぶ装置。「人が横切ると、空気の流動や温度変化などを感知してアラームを鳴らす」という。ところが、その空間センサーにもまた穴があった。そんな話がこの作品には出てくる。
 
 現代のシステムは、一つのしくみの穴を補うために別のしくみでパッチワークを施すという道をたどっているように見える。こうしてシステムは複雑さの度合いを増す。暗証番号やパスワードがふえていくのも、そんな流れの一つと言えなくはない。
 
写真》ITは入り口を開けるにも数字の鍵が要る。
(文と写真・尾関章/通算252回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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