『考証要集――秘伝! NHK時代考証資料』(大森洋平著、文春文庫)

写真》電柱という時代のしるし

 今週は、デンチュウでござる。殿中はよいが電柱はダメ――時代考証の話である。

 

 時代考証とは、ある時代の物語をテレビドラマや映画、芝居にするとき、その時代にあってはならないモノやコトを排して適切な事物に置き換える作業を指す。たとえば、江戸時代には電力網がなかったのだから、電柱などあるはずもない。僕は子どものころからへそ曲がりで、時代劇の侍たちが田舎道でチャンバラを繰り広げていても視線の向く先は殺陣ではなく、背後の風景だった。電柱があったら見逃すまいと目を凝らしていたのだ。

 

 もう一つ気になったのは、メガネだ。小学生時代、大村崑の「とんま天狗」(日本テレビ系列)が鼻メガネをかけて画面に現れると違和感を覚えたものだ。子ども心に、メガネなどのガラス製品は江戸時代まで欧州伝来の秘蔵品でしかありえない、と思い込んでいた。

 

 ところが今回、「東京メガネ」という眼鏡店のウェブサイトで意外な史実を知った。江戸時代でも17世紀末になると京、大坂や江戸にメガネを売る店があったという。とんま天狗のメガネも理屈のうえでは「あってはならないモノ」ではないらしい。

 

 これらはみな、江戸が東京になる前の話だ。明治の近代化は、理系風に言えば「相転移」とも呼べる不連続変化を日本社会にもたらした。だから、明治よりも前の時代考証はさぞかし難しいことだろう。そこには海外事情から切り離され、科学技術がほとんどない世界がある。にもかかわらず、人々はそれなりに洗練されていたから、生活の細部には文化が宿っている。そのありようを再構築するには、残存資料を調べ尽くさなくてはならない。

 

 と、ここまで書いてきてふと思うのは、20世紀半ばに生まれた僕たちの世代も江戸期の人々と同様、後世になって考証に手を焼く時代を生きてきたのではないか、ということだ。幼いころにテレビはなかった。電話も一家に1台あるかないかで、市外通話は大贅沢だった。それが今は、スマートフォン一つでエンタメ映像も見られるし、海外の相手とも顔を見ながら談笑できる。この激変は、江戸末期と明治初期を分かつ不連続に似ている。

 

 きっと僕たちにも、22世紀を生きる人々のために現代の資料をしっかり残しておくことが求められているのだろう。幸い、今は多くの記録がある。新聞、雑誌、写真、映画……そして最近はデジタルデータも保存されるようになった。たぶん2119年の時代考証は今よりもずっと楽だろう。逆に言えば、現代の考証家はマスメディア、映像技術、IT(情報技術)の助けを借りずに過去を再構築していることになる。

 

 で、今週の1冊は『考証要集――秘伝! NHK時代考証資料』(大森洋平著、文春文庫)。著者は1959年生まれ、大学で西洋史を学んだ後、NHKに入った。局内では長く、時代考証を担当。大河ドラマなどをつぶさにチェックしてきた。この本の巻末には「NHK職員向け資料を底本とした、オリジナル文庫」とある。2013年刊。同じ文春文庫から続編ともいえる『考証要集2――蔵出し NHK時代考証資料』も出ている。

 

 著者は序文で、19世紀フランスの作家アレクサンドル・デュマの言葉を引く。歴史を「一本の釘」にたとえ、「私はそこに、私の小説を引っ掛けるのだ」と言ったという。著者によれば、時代考証とは「その釘をしっかり打ち込む作業」だ。なるほど、と思う。

 

 派手な仕事ではない。映画の宣伝などでは「○○の完全な再現に成功しました!」という惹句が躍りがちだが、「時代考証においてはるかに大事なのは『××を出さずに済みました……』という消極的成功」と、著者は言う。まさに、あってはならない事物の排除だ。

 

 では、さっそく本文に入ろう……と思ったら、本文らしい文章はない。この本では、考証すべきことがらが辞書形式で五十音順に並んでいる。したがって、ページを順にめくるという禁欲的な読書がなかなか難しい。本を手にとって、たまたま開けたページの記述に目をとめ、コレがそういうことならアレはどうなのかと興味を広げて別のページへすっ飛ぶ、というような拾い読みをついしてしまう。今回は、それを許してもらおう。

 

 こうやって、あちこちのページを漁っていてすぐに気づくのは、時代考証の対象はモノばかりではなく、結構、コトが多いということだ。なかでも、言葉の使い方がらみの話がたくさん出てくる。当欄は、そこに焦点を絞ろう。たとえば、「空気」は「幕末明治以降の科学用語」なので、時代劇では使えない。戦国時代ものの大河ドラマの台詞に「部屋の空気を入れ替えなさい」とあったときは「お部屋に風を入れなさい」に正したという。

 

 「青年」も、「明治時代の造語」「和製漢語」とされる。この説明では、著者の蘊蓄がフルに発揮される。この言葉は、東京YMCA初代会長の小崎弘道が1880(明治13)年に「ヤング・メン」の訳語として考案したという。著者は『日本YMCA史』(奈良常五郎著、日本YMCA同盟出版部)を参照して、「青年」は後に中国へ伝わり、中国語にとり込まれたことも書き添えている。ともあれ、「青年藩士」はNGなわけだ。

 

 「問題」も問題。この単語は17世紀初めの『日葡辞書』(日本語のポルトガル語訳を収録)に出てこないから、時代劇に使うのは黄信号だ。著者は、現代調を避けるための言い換えを例示する。「それが問題だ」なら「そこが難題じゃ」とするのも一案。「難題」は『日葡辞書』に載っているというからおもしろい。ちなみに「解決する」にも、時代劇用に「埒(らち)を明ける」などの代案が示されている。「問題解決」は一筋縄ではいかない。

 

 「〜です という語尾」という項目もある。参照文献として『話し言葉の日本史』(野村剛史著、吉川弘文館)を挙げ、「口語としての頻用は明治になってから。時代劇台詞ではあまり用いない方がよい」と助言する。ただ、「です」は近代の産物ではないらしい。狂言に「閻魔大王でっす!」という台詞が出てくるからだ。「ですます」の「です」は今では空気のような日常表現だが、明治期にどんな経緯でそうなったのだろうか。

 

 固有名詞の考証もある。一例は「細川ガラシャ」。著者は戦国ドラマに「私は細川ガラシャでございます」という台詞があるのを直させたという。「ガラシャ」は洗礼名なので、ふつうの自己紹介では本名「たま」のほうがよさそう、とは僕も思う。だが、それだけではない。「細川」もダメなのだ。「当時は女性が嫁ぎ先の姓を名乗ることはまずない」とある。時代考証を究めるには、現代の習わしをいったん忘れることが肝要らしい。

 

 その意味で、現代の価値観が詰め込まれた言葉は要注意だ。たとえば「自由」。この熟語は昔から存在したらしいが、「『フリーダム』の訳として口語で使われるようになるのは明治以降」のこと。時代劇では「勝手」「随意」「自在」などに置き換えたほうが「自然に聞こえる」と、著者は言う。ただ、これらの代替案では、気ままに、支障なく、といった意味合いは出せても、束縛に対置される「自由」の語感をもたせられないように僕は思う。

 

 苦笑したのは「不条理」。著者は「カミュじゃないから、時代劇では『非道』『理不尽』『没義道(もぎどう)』等とする」と指南するが、これだと『異邦人』(アルベール・カミュ著)の主人公ムルソーが、陽光のまぶしさや砂浜の焦熱のなかで囚われた感覚は表現しきれないだろう(当欄2018年8月10日付「異邦人ムルソーのママンとは何か」)。そもそも、近現代人の概念を中近世の人々の口から語らせることに無理があるのだ。

 

 「感動をありがとう・感動をもらった」と「勇気をもらった」も批判の的になる。著者によれば、それぞれ「九〇年代以降に出てきた言い方」「最近はやりだした表現」。無闇に使ってはならない。「感動」や「勇気」は「他人とやり取りするものではない」とも断ずる。

 

 痛快な小言幸兵衛ぶりだ。そんな著者に尋ねたいことがある。テレビドラマで気になるのは、昔の人に今の倫理を押しつけているように感じられることだ。野蛮な時代もあった。緩い時代もあった。その空気感をありのまま伝えることは放送倫理に反するのだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算499回、2019年11月22日公開)

 

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『「平成」論』(鈴木洋仁著、青弓社ライブラリー)

写真》元号と西暦(朝日新聞欄外、拡大コピー)

 メディアで今にわかに高まっているのが平成回顧熱だ。一つの時代がまだ幕を下ろしてもいないのに先回りして振り返る。そんな企画が出てくるのも、閉幕の日取りがあらかじめ決められているからだろう。天皇の退位に伴う改元ならではの現象といえる。

 

 ここでは、朝日新聞のシリーズ企画「平成とは」がとりあげた話題を拾ってみよう。災厄は大震災。「阪神・淡路」の記憶が薄れぬうちに「東日本」が起こった。朗報は、日本人科学者のノーベル賞が相次いだことか。昭和期に理系3賞を贈られた人はわずか5人、これに対して2000年以降は2年に1度の割で受賞のニュースがある。地震は自然現象、賞は過去の業績に対する称賛。平成に集中する必然はないはずだが、なぜかこうなった。

 

 「心のケア」も話題に選ばれている。これについては僕にも感慨がある。1994(平成6)年、バルト海のフェリー沈没事故を取材してストックホルムから原稿を送ったときのことだ。現地では行方不明者の家族の心をどう支えるかに関心が集まっていたので、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のことにも触れた。東京の出稿責任者は「心的外傷って、わかりにくいなあ」。今、その難解な医学用語が日常会話にも出てくるようになっている。

 

 「心のケア」は、平成を象徴しているのではないかと僕は思う。この30年、日本社会には心の危機が波のように押し寄せた。まずは、前述の震災がそうだ。家屋の倒壊や火災、津波や原発事故によって生活の一切を喪失した人は多い。バブル経済の崩壊もあった。大企業でさえ経営が行き詰まり、終身雇用の人生設計が泡と消えた人がいる。非正規労働力の切り売りで食いつなぐ若者もいる。心がケアされるべき立場に追い込まれた人は数限りない。

 

 皮肉にも、医療が患者の心を苛むという逆説も見えてきた。日本の医療現場では1990年代、対話型の診療が広まった。インフォームド・コンセント(説明されたうえでの同意)が必須要件となったのは良いことだが、病名があっさりと告知され、患者は自らの病状や治療後の見通しを知る怖さに向きあうことを余儀なくされている。遺伝子診断の広まりとともに、この様相はますます強まることになろう。だが、心のケアが十分とは言えない。

 

 平成に入ると、安全や安定の神話が崩れて人々は途方に暮れた。なにごとも専門家任せにできない、自分のことは自分で引き受けなくてはならない――そんな圧力も強まってきた。こうしたなかで心のケアの必要に気づいたのが、この時代ではなかったか。

 

 で、今週は『「平成」論』(鈴木洋仁著、青弓社ライブラリー)。著者は、1980年生まれの社会学学究。略歴欄や本文の記述によると、京都大学を出て関西テレビやニコニコ動画で働き、東京大学大学院に入った。この本は、その大半が書き下ろしだが、土台となったのは修士論文「元号の歴史社会学」だという。そんな経緯からか基調は硬い筆致。だが、そこに適度のシャバッ気が混ざるのは、著者自身の軌跡が反映されているからだろう。

 

 著者は生年からみて、10歳になった時点ですでに昭和が幕を閉じていた。社会人としての物心がついてからは、ずっと平成の空気を吸ってきたと言ってよい。いわば、平成人の平成論。それが僕の興味をそそったのだ。そこには、僕らの世代とは異なる視点があるだろう。僕たちは個人史に占める昭和平成比がほぼ半々なので、昭和と見比べて平成を論じがちだ。だが著者は、平成の内側にいて平成を眺めている。見え方が違っていて不思議はない。

 

 その表れのようにも感じるのは、著者が序章でうたいあげる「天皇そのものや、それにまつわる事柄については『論じない』」という宣言だ。この本を著すにあたって自身に課した「ルール」だという。元号と天皇は密接な関係にある。しかも、ここ二代の天皇の行動様式には明らかな相違がある。この対比も平成という時代区分を特徴づける一要素になっているのではないか、などと僕は思ってしまう。著者はなぜ、そこを避けて通るのか。

 

 理由の一つとして挙げられるのは、元号を使う人と西暦にこだわる人を区分けする論法の落とし穴だ。著者によれば、元号派を「偏狭なナショナリスト」、西暦派なら「国際的なポストモダニスト」とみる二分法は「議論の視野の狭さを示している」という。ここでひとこと言いたくなるのは、後者はむしろ「国際的なモダニスト」としたほうが、僕たちの世代にはピンとくるということだ。左翼党派のビラの日付は西暦と決まっていた。

 

 あとがきには、よりあっさりと理由が書かれている。「日本の知識人の多くが天皇を嬉々として論じる姿にも、端的に興味が持てない。天皇を『あえて』避けたというよりも、『平成』をフラットに論じているなかで、言及する必要を感じなかったというのが本音だ」

 

 なるほど。これこそが平成を内側からみるということなのかもしれない。思えば、昭和という時代には天皇制がしみついていた。戦前と戦後を比べて論じるときに、この問題は避けて通れなかった。さらに知識人の思想的な立ち位置を知るにも、天皇制をどうみるかが物差しの一つになっていた。そういう条件がフェイドアウトしたのが平成だ。一時代前の思考に引きずられると「フラット」な考察が邪魔されるのは間違いないだろう。

 

 この本で僕が興味深く読めたのは、「『平成時代のニュース』」と題した第4章。著者のテレビ局時代の取材体験が率直に綴られている。たとえば、水害の被災者からなじられた話。「自分らは、ちょっと来て、すぐ帰るから、今日明日取材ができればええんやろ」(ここで「自分ら」は二人称)と言われたという。片づけの手伝いを申し出ればよかったのかと自問しつつ、「ぶりっ子を演じたところで、何の解決にもならない」と書く。

 

 もう一つ例に挙がるのは、2005年のJR福知山線(宝塚線)列車脱線事故。著者の仕事は、負傷者の話を聞いて回ることだった。上司からは「JRへの怒りの声を引き出せと指示された」が、取材に応じた人々が気に病むのは同乗の100余人が犠牲になったことであり、伝わってくるのは「なぜ自分たちは生き延びてしまったのかという罪悪感ばかりだった」。被害者の様子からは、憤りとは異なる苦悩が感じとれたというのである。

 

 著者はこれらの経験を踏まえて、メディアの報道に「当事者でないからこそ声高に叫ばれる追及」を見いだす。そこには「被害者は絶対的に正しく、加害者は徹底的に間違っている」という「信仰」がある、とみてとる。こうした論調を、この本では「責任と正義」と呼ぶ。正義を振りかざした責任追及ということだろうか。これが「跋扈」するからニュースがツマラナイ――この状況こそが「平成的」というのが著者の分析である。

 

 この章には「『昭和』であれば問題にならなかったばかりか、そもそも発覚さえしなかったことが、『責任と正義』に則ってどんどん透明になり公表されていく」という一文もある。なにかといえば「隠蔽」と決めつける世相こそが平成的ではないか、と僕も思う。本来、「『昭和』であれば……」の検証は僕たちの世代が引き受けなければならないのだ。それを、昭和をほとんど知らない世代に指摘されてしまったことは、ちょっと情ない。

 

 第5章「『平成批評』の諸問題」も示唆に富む。著者が強調するのは、平成の批評が通販サイトのレビュー欄に似ていることだ。発信元がはっきりしないこともあるが、「ツッコミ」は満載。「堅苦しさ」は消えて「そこはかとない浅はかさか」が漂うようになった、という。「専門を極めた人」が「他の分野」を語るのは却って好まれるらしい。美術番組を司会する脳科学者、社会事件にコメントする元陸上選手という例示を突きつけられて納得する。

 

 この本は「平成論」としてはわかりにくい。上記のように平成という時代の様相を浮かびあがらせながら、終章で「本書では『平成的』あるいは『平成らしさ』のようなものが『ない』と、延々と述べてきた」と手のひらを返す。読むほうには梯子を外された感もある。

 

 ただ、僕らにとって平成らしさの有無は大問題ではない。この30年で世の中がどう変わったかが知りたいだけだ。そう思うと「責任と正義」の過剰は気になる。これもまた渦中の人々を追い込み、心のケアが必要な人をふやしているように思えてならないからだ。

(執筆撮影・尾関章、通算407回)

 

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『私の個人主義』(夏目漱石著、講談社学術文庫)
写真》新春に寄り添う本
 
 年が改まれば、漱石を語る。これが、当欄恒例の年中行事となった。あと何回、それができるかはわからないが、認知が果てるまでは続けたいと思う。なぜ漱石か。理由は八割方、年始気分にふさわしいということにあるが、それだけではない。
 
 1年間、さまざまな騒動が次々に起こり、あれやこれやものを考えて当欄を綴っていると、ふと自分はどこに立っているのだろうと途方に暮れることがある。そんな浮遊感を払拭して、視点を定め直す手助けをしてくれる基準点が漱石ではないか。
 
 僕は、漱石という人を上から下まですべてまるごと尊敬しているわけではない。欠点めいて見えるのは、シャイで臆病そうな一面だ。英国での内気な暮らしぶりを作品から推察して、ほぼ同じころロンドンに滞在した南方熊楠と比べると、違いがはっきりする。ただそれは、鎖国を解いて急激に海外との交わりをもった明治という時代にあっては、当然のように思える。熊楠のほうがスゴすぎるのだ。漱石には普通人の感覚がある。
 
 僕が漱石に魅せられるのは、彼の地で孤独感に苛まれながらも、学ぶべきことを学んで帰ってきたことである。だからその後、西欧文化に対する傾倒と反発を率直に内省できたのだろう。そして、このアンビバレンツは日本の近代が宿命として背負ったものでもあった。

 この欄で本読みを重ねてわかってきたことの一つに、日本では江戸時代にすでに近代精神が芽生えていたのではないか、ということがある。無手勝流に歴史のイフを言わせてもらえば、黒船があと50年遅れて来れば、日本には日本なりの近代文明が花開き、日本なりの近代の自我が育っていたのかもしれない。だが、現実はそうはならなかった。中途半端な文明と中途半端な自我に、西欧のそれらが接ぎ木されたとも言えるだろう。

 そして、その後遺症は今に至るまで続いている。政治の領域では、一極化が進んで「右」寄りの路線が勢いを増しているが、その勢力は「左」を嫌うあまり、保守主義こそが誇るはずの個の尊重を置き忘れているようにみえる。理系の領域でも、近代の批判精神が育っていない。反原発の気運は強まったが、科学そのもの、技術そのものへの向きあい方は成熟せず、宇宙の話となれば「夢とロマン」の常套句ばかりが飛び交っている。
 
 で、新年の一冊は『私の個人主義』(夏目漱石著、講談社学術文庫)という講演録集。「道楽と職業」「現代日本の開化」「中身と形式」「文芸と道徳」の4編は1911(明治44)年の真夏、明石、和歌山、堺、大阪と回った関西講演会の記録。大阪の朝日新聞が催したものだった。最後に収められたのが「私の個人主義」と題する講演で、1914(大正3)年晩秋に学習院に招かれて生徒に語りかけた。
 
 思わず膝を打ちたくなったのは、この本が1年前の当欄(2015年1月2日付「新春の漱石、『個』に根ざすリベラル」)でとりあげた長編『行人』とつながっていることだ。そこには、主人公が大阪から和歌山へ赴くくだりがある。朝日新聞に1912年から翌年にかけて連載された小説だから、講演の旅は取材旅行にもなっただろう。和歌山講演(「現代……」)で話題にのぼる名勝和歌の浦のエレベーターは、その作中にも登場する。
 
 講演録なので、漱石像が口語体でわかるのがうれしい。明石講演(「道楽と……」)では、話の枕で地元の人々の心をくすぐる。「明石という所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまでも知りませんでした」「ところが来て見ると非常に大きな建物があって、彼処(あそこ)で講演をやるのだと人から教えられて始めてもっともだと思いました」。今では笑いをとれない明治風の長閑なユーモアだ。
 
 さて、ロンドン生活の孤独は学習院講演(「私の……」)で正直に打ち明けている。「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない」。そんな「嚢(ふくろ)の中」の心境で渡英したと述べた後、こう言う。「この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付(みつか)りそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。詰らないと思いました」。熊楠なら町中を歩き回ったことだろう。
 
 だからこそというべきか、著者には冷静な文明開化観がある。それが披歴される講演は「現代……」だ。「西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違います」「今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応(いやおう)なしにそのいう通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります」
 
 横道にそれると、この開化論では著者の理科好きがみてとれる。「人間活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた波動を描いて弧線を幾個(いくつ)も幾個も繋(つな)ぎ合せて進んで行く」「甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない」として結論を導く。「一言にしていえば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります」
 
 「科学」という言葉が唐突に出てくるのは「文芸……」講演だ。維新前の道徳を論じて「今のように科学的の観察が行届かなかった」「人間はどう教育したって不完全なものであるということに気が付かなかった」と言う。この見方に立って維新前の道徳に「ロマンチック」、維新後のそれに「ナチュラリスチック」という言葉を与えて、「ロマンチックの道徳は大体において過ぎ去った」と断ずる。
 
 興味深いのは、このくだりで著者がナチュラリズム、すなわち自然主義を擁護していることだ。漱石は島崎藤村ら自然主義の流れと一線を画していたというのが僕たちの習った文学史だが、そう単純にはくくれないようだ。「自然主義といえば堕落とか猥褻(わいせつ)とかいうものの代名詞」という決めつけを戒め、「何もそう恐れたり嫌ったりする必要は毫もない」と言い切っている。
 
 この視点は、著者には自家薬籠中のものである個人主義と結びつく。もはや、「ロマンチックな道徳を人に強いても、人は誰も躬行(きゅうこう)するものではない」。躬行は自ら行うの意だ。「天下国家を憂(うれい)としないでも」「差支ない時代」なので、人々は自身の職業と生計に専念する。だから、「吾々の道徳も自然個人を本位として組み立てられ」「自我からして道徳律を割り出そうと試みるようになっている」というのである。

 一人ひとりが自分の仕事をきちんとこなすことで社会が回っていく。そんなイメージは「道楽……」講演で詳らかにされる著者の職業観に呼応する。ここでも理系思考が顔をのぞかせて「己(おのれ)のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つ」という。働くという行為は、報酬を貰うことで自分自身の得になるだけでなく、世の人々の役にも立っているという理屈である。
 
 そこでは、明治の世で職業が専門化したことも俎上に載せられる。その副作用は「自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなる」傾向だ。そんな「個々介立の弊」を避けるべく酒色の宴が用意される世情に触れつつ、著者は「そういう社交機関よりも、諸君が本業に費やす時間以外の余裕を挙げて文学書をお読みにならん事を希望する」と言い添える。本人も認めるように我田引水のきらいはあるが、もっともな話ではないか。
 
 この本には、今の世に通じる至言がある。「中身……」講演では「活きた人間、変化のある人間というものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない」として「規則ずくめ」を批判する。マニュアル一辺倒ではダメなのだ。「私の……」講演では、「上流社会の子弟」向けに権力、金力を振り回すことの愚を指摘して「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」と説く。これこそが個人主義だろう。
 
 近代を尊ぶ人も、近代後を見据える人も、漱石が語る近代の目覚めは無視できない。
(執筆撮影・尾関章、通算297回)
 
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『大正幻影』(川本三郎著、ちくま文庫)

 京都に住んでいたとき、僕が好んで散歩したのが御池から丸太町にかけての寺町通だった。町家が並ぶ京都洛中のふつうの通りでありながら、本屋やパン屋、家具店、洋菓子店、あるいは茶舗といった店々が控えめに個性を主張している。ちょっと東へ足を向ければ、河原町通という大通りがある。寺町通も御池より南に下がれば、アーケード商店街の喧騒が始まる。この1km足らずの区間に、歩くだけで至福の空間がある。
 
 この通りについては1年余り前、当欄で触れたことがある(「文理悠々」2013年12月16日付「梶井『檸檬』が戻ってくるという話」)。梶井基次郎の短編小説『檸檬』の主人公「私」がレモンを買った果物店は寺町通が二条通と交わるところにあった。
 
 「寺町通りはいったいににぎやかな通りで――といって感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾り窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ」。梶井の目がとらえた宵の風景はこうだった。『檸檬』が書かれたのは1920年代半ば、大正末期のことである。光と闇の交錯は、いま同地点に立ってもなお感じとることができる。
 
 この通りで僕がもっとも心惹かれるのは、洋菓子店の「村上開新堂」だ。木造2階建てで、正面は洋風。ショーウィンドウのガラスが緩やかな曲面を描く。ドア越しに透けて見える店内は薄暗い。それらが、えもいわれぬ魅力となっている。
 
 僕はずっと、この建物が大正時代のものとばかり思っていた。なにかの本で、大正建築の好例としてとりあげられていたように記憶しているからだ。ところが今回ネットで調べると、建造は昭和に入ってかららしい。一つだけ言えるのは、あの雰囲気が明治っぽくなく、戦時昭和っぽくもなく、戦後昭和っぽさもない、ということだ。翳りをはらむ軽やかさは、大正とその前後ならではのもののように僕は思う。
 
 明治は、文明開化と富国強兵だ。昭和は、まず戦争へ突っ走り、次いで復興と成長に躍起となり、最後はバブルの夢に浮かれた。この二つの時代は、いけいけどんどんの色合いが濃い。その間に挟まれ、寺町通のように静かな佇まいなのが大正だ。僕たちは平成に入って、バブル崩壊の痛みを感じ、3・11の原発事故で戦後型産業経済の土台が揺らぐのを目の当たりにした。いま参照すべきは、いけいけどんどんか、それとも静かな佇まいか。
 
 で、今週の一冊は『大正幻影』(川本三郎著、ちくま文庫)。著者は1944年生まれ、映画や文学、そして都市論を語る評論家。この本は、「アステイオン」誌に連載したものを中心にまとめたもので、1990年に単行本が新潮社から出て97年に文庫化された。大正文学に光を当て、おもに佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風の作品世界をのぞき見ながら、その時代の空気を読み解いている。
 
 鍵となる作品は、佐藤春夫の『美しい町』(岩波文庫の短編集などでは『美しき町』)だ。日本人と米国人の血を引く謎めいた人物が画学生や老建築家とともに毎夜、東京・築地のホテルに籠り、美しい町の構想を練って、家々の模型をボール紙でこしらえていく。うわものは架空だが、所在地は隅田川の中洲(なかず)。いまは「川を埋め立てられビルと高速道路だけの趣きのない町」だが、当時は「美しい隠れ島」だった。
 
 「川に浮かんだ小さな島の上にいまにも水に流されそうなはかないユートピアが夢みられる」という話だ。佐藤は「原稿用紙を方眼紙に見立て家のデッサンをした」というほど「普請道楽」の趣味があったが、それは家を建てることよりも「家を作る過程を楽しむ、いわば、夢の行為」だった。だから、その家は内実なしの表層でいい。「建つと同時に、消滅が予定されているはかない家。佐藤春夫にとって家とはそうした『書き割りの家』だった」
 
 著者は、佐藤がこの作品に「洋風のオブジェ」をちりばめたことに注目する。ホテルの便箋、金モール金ボタン姿のホテルマン、そして「自動車、ピアノ、葡萄酒、ストーブ、シャンパン」。明治の世で「西洋のモノ」は「富国強兵、殖産興業の時代にふさわしい実用的価値のあるハードウェア」だったが、大正に入ると「より日常的な小さなオブジェのほうが重要なものとして意識されるようになった」とみる。公から私への移行である。
 
 それは「家を、家具や庭に“部品化”して見る視点」と表裏一体だ。著者によれば、佐藤の作風からは「家から独立した個人の強固な、同時に、熟しきった意識の成立」が見てとれるという。そう言えば、自動車も「私的空間」だ。近代技術も「個」を後押ししていた。
 
 「個」を支える技術には映画もある。著者は、谷崎潤一郎が映画を賛美した事実に触れて「『芝居より映画』の志向は、彼が映画のなかに『闇』をこそ発見したために思えてならない」と書く。「映画館が暗闇を持っているために必然的に観客はそこで『ひとり』になる」「観客は『ひとり』に分化・純化され、自分だけの感性と意識でスクリーンのフィクショナルな世界と対峙させられる。その意味で映画とは徹底的に『個』のメディアである」
 
 映画は「個」を自覚させただけでなく、それを分裂させもした。著者は、谷崎の『人面疽』という小説で、映画技師が口にしたという言葉を引用している。「もし、或る俳優が、自分の影の現れるフイルムを、たつた一人で動かして見たら、どんなに変な気持がするだらう。定めし、映画に出て来る自分の方がほんたうに生きて居る自分で、暗闇に彳(たたず)んで見物して居る自分は、反対に影であるやうな気がするに違ひない」
 
 これは、芥川龍之介の作品にもつながってくる。『影』や『歯車』に出てくる「もうひとりの自分」、すなわちドッペルゲンゲルだ。なぜ、分身がリアルに思える時代だったのか。その答えを、著者は世情変化の速さに求める。「昨日までのものが今日はもう古いものとして捨て去られていく。近代人は一人で二世も三世もの時間を生きていかなければならなくなった。当然、そこに、古い自己と新しい自己という自己分裂が起こってきた」
 
 もう一つ、東京が舞台の大正文学に欠かせなかったのが「水」である。隅田川だけではない。そこにつながる掘割や小渠をも含む風景だ。「『水』は町の隅々まで走り、家や通りを地上から浮かしていく」「その浮遊感覚が大正期の作家たちの感覚を『水酔い』とでも呼びたい軽い陶酔状態にひき入れていく」。それは「淡い幻想の物語」が育つ恰好の培地だった。その例が谷崎の『刺青』であり、佐藤の『美しい町』ではなかったかという。
 
 ここには下町志向が見てとれる。明治という「『陸の東京』が『水の東京』を圧倒していく時代」を過ぎたころ、下町の水路は埋め立てられ、空は煤煙に覆われていた。永井荷風は、自らの住まいを山の手にもちながら、明治、大正、昭和を通じて下町を「遊民」として見つめ、小説を書きつづけた。「荷風が『水』を求めて下町に『下山』していったのはそうした『陸の東京』に対するささやかな抵抗だった」
 
 著者は、大正を「小春日和」にたとえる。少なくとも、1923(大正12)年に関東大震災が起こるまでは「比較的のどか」だったというのだ。そうしたなかで作家たちは「夢見心地」に浸り、「淡彩の幻想」ともいえる作品群を生みだしたとみる。
 
 僕は3・11に先立つ2008年、新聞のコラムで佐藤の『美しき町』を話題にした(表題は岩波文庫にならった)。登場人物の町づくり構想に「もし科学が完全に発達した時には、今我々が必要とするような大仕掛けな電灯会社(それは電灯ばかりとは限らないが)などに依らずとも」「自分たちの電灯を自分たちの簡易な機械で灯す時代が来るに相違ない」という記述を見つけたからだ(朝日新聞2008年8月2日付夕刊「窓――文豪のエコ」)。
 
 原発事故を知らず、太陽光発電の「た」の字も思い描けなかったはずの時代にエネルギー分散型社会を重んじる発想があったとは。「淡彩の幻想」は、ただの幻ではなかった。それは、いけいけどんどんとは別方向のベクトルの発見でもあったのだ。
 
写真》手前は、『美しき町・西班牙犬の家 他六篇』と題された佐藤春夫の短編集(池内紀編、岩波文庫)。
(文と写真・尾関章/通算254回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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