『新版 荒れ野の40年――ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』

(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー著、永井清彦訳・解説、岩波ブックレット)

写真》心に刻む

 夏の終わりに麻生太郎副総理が口にした政治家論が批判の的になっている。「動機は問わない。結果が大事だ」「ヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」(朝日新聞2017年8月30日朝刊)。後段については、一般に仮定の話で「〜が正しくても」というとき「〜は正しい」と認めたことにならない。だから、これをもって直ちにナチスの動機を正当化したとはいえない。だが、それでも強い違和感を抱いた人は少なくないだろう。

 

 僕は、むしろ前段の「動機は問わない。結果が大事だ」に驚いた。政治家にとって「結果が大事」なのは論を俟たないが、より重要なのは「動機」だと思う。ここで副総理が「ダメ」な理由に挙げているのは、「何百万人も殺しちゃった」という「結果」だ。ただ、その大虐殺は、自然の成り行きや偶然のいたずらで起こったのではない。ナチス体制が優生思想や民族差別といった邪悪な「動機」に駆りたてられたからこそもたらされたものだ。

 

 たしかに、政治家の動機に過度の期待をかけてはならない。そこには権力欲、上昇欲がつきものだ。売名に駆られたり利権を追い求めたりするということもあろう。それらが許容の範囲内なら、しかたのないことだ。ただ一つ、僕たちが心しておきたいのは、もし動機に人道にもとる企みが紛れ込んでいたならば、それはなんとしても排除しなくてはならないということだ。ナチスドイツの負の歴史から学ぶべき最大の教訓は、その一点にある。

 

 当欄は先々週、ドイツの歴史に触れてみた(2017年9月8日付「ドイツという国の不思議を考える」)。ここで「不思議」と書いたのは、なぜ、あんなに善良な人々の間にあれほど邪悪な政治権力が出現したのかが解せなかったからだ。そこでとりあげた『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書*)にも、あの時代を指して「なぜ、これほど短期間に、ドイツ人は変わってしまったのだろう」と問う言葉があった。

 

 ドイツ人は戦後、厳しい心理状態に置かれた。自らの社会が邪悪な動機を許したことを悔いただけではない。内外の犠牲者、被抑圧者に対して、どう謝罪したらよいのか。それは悪しき当事者が退場した後、残された善き人々に課された難題だったと言ってよい。

 

 で、今週は『新版 荒れ野の40年――ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー著、永井清彦訳・解説、岩波ブックレット)。1985年5月8日、ドイツの第2次大戦敗戦から40年のその日に西ドイツ(当時)の連邦議会であった大統領演説を収録した本だ。ここにある「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という一文はあまりにも有名だ。新版は2009年刊。

 

 この本をとりあげようと思いたったのは、巻末の著者略歴に惹かれたからだ。「1920年生まれ」とあるから、戦時中は青春真っ盛りだった。大学生のときに「ドイツ国防軍に従軍」したという。戦後は大学を出て「実業界に入り」、連邦議会議員、西ベルリン市長を務めた後、84年から10年間、ドイツ連邦共和国大統領の座にあった。90年の東西統一を挟んで前半は西ドイツの、後半は全ドイツの元首だったことになる。2015年没。

 

 著者は、姓の「フォン」から推察されるように貴族の出身。長兄は著名な物理学者だ。そんなこともあって世俗にまみれることのない知識人なのだろう、と僕は思い込んでいた。たしかに、略歴欄に「ベルリン、オックスフォード、ゲッティンゲンの各大学に学ぶ」とあるから知識人には違いない。だが、ナチス体制下で軍隊生活を経験している。戦後は企業活動にも携わった。現実社会の変転を体感してきた人が、あの名言を吐いたのである。

 

 この演説の聴かせどころは、その「過去に目を閉ざす者は……」に至るまでの話の運び方だ。「五月八日は心に刻むための日であります」と切りだし、「あの戦いと暴力支配とのなかで斃(たお)れたすべての人びと」を思い浮かべるとした後、真っ先に挙げるのは「ドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人」だ。その次に言及するのは「戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者」である。

 

 このあとも、ロマなどの少数民族、同性愛者、精神病患者、抵抗運動家らが犠牲となったことを強調する。そして、労苦と忍耐を強いられた女性たちを「この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした」とたたえている。

 

 一つ言えるのは、大統領がまず心を寄せたのは被抑圧民族であり、弱い立場にあった人々だということだ。だが、演説はそこで終わらない。ここからドイツ国民の一人ひとりに対して語りかける。ナチスの時代、大衆の少なからぬ部分は自身が被害者でありながら、加害者に与したとなじられてもしかたのない立場に置かれていた。その人々にかける言葉には痛みが伴う。思いだしたくもない記憶を呼び起こすこともあえてしなくてはならない。

 

 たとえば演説は、ユダヤ人大虐殺について「この犯罪に手を下したのは少数」とことわったうえで、次のように言う。「ユダヤ系の同胞たちは冷淡に知らぬ顔をされ、底意のある非寛容な態度をみせつけられ、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました」。見て見なかったふり、聞いても聞かなかったふりが日常になっていた、ということらしい。

 

 一例は、ユダヤ人を収容所へ送りだす列車。「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら」「移送する列車に気づかないはずはありませんでした」。生々しい証言である。「良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました」。それなのに戦後、非人道政策の全容があばかれたとき、「一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かった」という。

 

 ふだんの生活で黙認とか看過とかいう態度をまったくとらないでいることがどれほど難しいかは、僕たちにもわかる。厄介ごとになりそうなら、首を突っ込まないという選択をすることも少なくない。これらは、世渡りの方便としては致し方のない面があろう。だがもし、そんな人間の習性につけ込む政治権力が現れたらどうなるか。トップダウンの悪がブレーキなしに暴走しかねない。このとき、黙認した人も看過した人も責任を免れまい。

 

 ここで特記したいのは、演説があえて「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません」と述べていることだ。「罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なもの」と断じて、ナチス時代にすでに大人だった人々に「一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたい」と呼びかける。「総ざんげ」で一気に幕を引こうとはしない。あくまで個人としての自省を促しているのである。

 

 この論理は、当時子どもだった人、まだ生まれていなかった人にはそのまま当てはまらない。後続世代について「ドイツ人であるというだけの理由で、粗布(あらぬの)の質素な服を身にまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません」としつつ、こう言う。「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」。こうして「過去に目を閉ざす者……」の警句にたどり着く。

 

 罪のない人も「過去に対する責任」からは逃れられないということだろうか。理屈を言えば、これは当事国の後続世代に限定されまい。おぞましい史実を知ったすべての人々に言えることだ。ただ、自らの社会がかつて罪深い過ちを犯したのであれば、その土壌を引き継ぐ人々はいっそう強く過去を「心に刻む」ことが求められる。悪の再発がないか、「現在」も警戒しなくてはならないからだ。このとき、負の遺産は正の役割を果たすことになる。

 

 巻末の訳者解説(「若い君への手紙」)によれば、「心に刻む」の原語は“erinnern”。-inner-を含むことからわかるように「内面化する」「血肉とする」の意味合いがあるという。

 

 ヴァイツゼッカー演説は、過去をもとに現在の心のありようを語っているのである。

*著者名にある「恵」は正しくは旧字体です。

(執筆撮影・尾関章、通算387回)

 

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『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 二つの世界大戦と原爆投下』
(オリバー・ストーン、ピーター・カズニック著、大田直子、鍛原多恵子、梶山あゆみ、高橋璃子、吉田三知世訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
写真》2015年8月6日朝、広島(NHK)
 
 風止まる8・6の8:15(寛太無)
 先日の句会に出した拙句だ。毎年8月6日の午前8時すぎ、NHKは広島から平和記念式典を生中継する。炎天下のことが多い。今年は大屋根が取りつけられたが、それでも扇子を開いて煽ぐ姿を見かけた。投下の時刻、風までも止んで、地球全体がヒロシマの1945年8月6日午前8時15分を想起しているように感じられる。
 
 第二次世界大戦の終結から70年。うち60年余を生きてきた僕にとって、原子爆弾とは何だったのだろうか。幼いころは、その恐ろしさをあまり実感することがなかった。広島、長崎の被爆から10年ほどしか経っていなかったのに、である。東京育ちで、周りに被爆経験のある人が少なかったせいもある。だが、それだけではあるまい。核兵器という悪の根深さは年を追うごとに輪郭を露わにしたのである。
 
 原爆が広島、長崎の上空で炸裂したとき、人々の多くはDNAの存在をまだ知らなかった。核の禍を、そのしくみにまで立ち入って理解することができなかった。人を含む生きものの根幹には一つひとつの細胞に収められたデオキシリボ核酸、すなわちDNAの鎖があり、それこそが生命体の設計図であるとわかったのは、8年が過ぎた1953年のことだ。核爆発とその残留物がもたらす放射線は、その設計図を乱してしまう。
 
 1954年には、マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が水爆実験の放射性降下物を浴びて、生命を奪われた。歳月を経て、広島、長崎の被爆者にも晩発の症状が現れてくる。そして、1986年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故で原子力平和利用の危うさも露呈された。原子核のエネルギーは善用のつもりでも途方もない災厄を起こす。まして、兵器として悪用すれば……。原爆の怖さは、都市をまるごと木端微塵にする破壊力だけではなかった。
 
 70年前の原爆投下を正当化する議論が、欧米にはある。このあいだ朝日新聞の戦後70年をテーマとする記事(2015年7月27日付朝刊、梅原季哉記者)に、長崎上空で原爆を落とす瞬間を撮る米軍機に同乗した英国軍人、故レナード・チェシャーの話が出ていた。戦後は障害者福祉に力を尽くした人だ。著書には「嫌悪感がこみ上げてきた」「大いなる後悔の源」という記述があるが、一方で原爆の「正当化論」も口にしていた、という。
 
 記事によると、彼は1945年秋、英首相クレメント・アトリーに「原爆には戦争の意味をなくすだけの威力があり、各国が保有すればむしろ平和につながる」と報告した。91年には国際会議で「原爆投下が戦争を早く終結させ、多くの人の命を救った」という趣旨の論陣を張った。前者は、核保有が偶発の危機を招くおそれを過小視しているので僕は同意しないが、そんな理屈もあるのかなとは思う。だが、後者は到底納得できない。
 
 で、今週は、原爆が戦争終結を早めたという論理を米国側の視点から懐疑する本。『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 二つの世界大戦と原爆投下』(オリバー・ストーン、ピーター・カズニック著、大田直子、鍛原多恵子、梶山あゆみ、高橋璃子、吉田三知世訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)。ストーンは映画監督、脚本家、プロデューサーであり、「プラトーン」「JFK」などで知られる。カズニックは歴史学者だ。
 
 原著の刊行は2012年。邦訳は翌13年、早川書房が単行本全3巻を出した。戦後70年に合わせるように3巻が文庫化されたのは、この7月のことだ。僕は、その第1巻を読んだのだが、ここでは「原子爆弾――凡人の悲劇」と題された章に焦点を絞る。
 
 「凡人」とは、原爆投下時の大統領のことだ。前年1944年の大統領選挙で、民主党幹部は「ルーズベルト大統領は健康が優れず、四期めをまっとうできるとも思えない」とみて、後継大統領含みの副大統領の候補から現職を外し、「ミズーリ州選出の凡庸なハリー・トルーマン上院議員を選んだ」。資質をみてのことではない。「毒にも薬にもならぬ彼には敵と言えるほどの敵もおらず、もめごとを起こす心配もない」と判断したからだ。
 
 筆頭著者が映画人だからだろうか、この本はトルーマンの人物像をいくつかの書物をもとに幼少期から再現する。「牛乳瓶の底」のような眼鏡をかけていて仲間とスポーツもできず、「孤独になり、劣等感に苛まれ、それを克服しようと苦闘した」。そんな記憶を背景に「自分が意気地なしではなく、スターリンを相手に自分が優位に立つことを証明した」のが、大統領になってまもなく、1945年夏に手にした原爆だった。
 
 もちろん、孤独や劣等感を悪の源泉とみるのは誤りだ。著者も、そんな短絡思考には陥っていない。ただ、文献を漁って関係者の証言を拾い、それらを重ね合わせる作業によって、僕たち読み手を一つの推論に導く。それは、大統領の子どもじみた「優位」願望さえなければ、米国は一線を踏み越えることはなかったのではないかということだ。政治指導者の心のありようが悪夢の引きがねになるのだとしたら怖い。
 
 ここに書きとめたいのは、大戦末期の米政府中枢に原爆なしでも対日戦争は終わるという認識があったことだ。たとえば、ハンガリー出身の亡命物理学者で、米国の原爆開発を促しながら完成が近づくとそれを使わせまいと奔走したレオ・シラードの証言。
 
 1945年5月末、大統領側近で、ほどなく国務長官になるジェームズ・バーンズに進言しようとしたときのこと。「バーンズ氏の回答は、戦争を終結するためには日本の都市に原爆を使用せざるを得ないというものではなかった」「彼はそのときすでに日本が敗北したも同然であるのを承知していた」。そこにあったのは冷戦の先取りだ。「彼は原子爆弾の保有・示威行為によってヨーロッパにおけるソ連の影響力を抑えられると主張していた」(1)
 
 6月には、海軍次官がヘンリー・スティムソン陸軍長官に宛て、米国が「崇高な人道主義を掲げる国家」ならば、日本に対してソ連の参戦と原爆の開発を警告すべきだ、と訴える。陸軍次官補も、天皇制を認めることなどを約束し、それでも降伏を拒むなら「きわめて強力な破壊力をもつ兵器」を使わざるを得ないと日本に伝えるべきだ、と大統領に具申した(2)。原爆を威圧のカードにとどめたいという空気が伝わってくる。
 
 スティムソン自身も「原爆使用に深い懸念を抱いていた」。原爆は「フランケンシュタインの怪物のようなものかもしれない」と日記に書く。著者によれば、「彼は日本人に天皇制の存続を確約するようトルーマンとバーンズ相手に何度も説得を試みた」が聞き入れられなかった。大統領とともにドイツのポツダムに滞在していた7月中旬には「日本は条件付きの降伏を認められるなら戦争終結を望んでいる」との情報が届いていたのに、である。
 
 これらの事実を並べた後、著者は書く。「原爆が戦争終結につながったという誤った信念を抱いてきたアメリカ国民の八五パーセントは、原爆使用を是認している」「しかしアメリカ国民の大半が知らされていなかったのは、アメリカ軍の最高指導者の多くが原爆使用を軍事的には不必要であるか、道徳的に非難されるべき行為ととらえていたという事実だった」。日本国民の大半も「知らされていなかった」と言ってよいだろう。
 
 話を1944年の大統領選に戻すと、副大統領候補として最有力視されていたのは、現職で植民地主義に批判的なリベラル派、ヘンリー・ウォレスだった。民主党大会で保守派の画策に遭い、その座を奪われる。「トルーマンではなくウォレスだったとしたら、アメリカはどのような国になっていただろう」。原爆は? 冷戦は? 公民権や女性の権利は? 科学と技術の恩恵は? 著者はそう畳みかける。それを読んで僕もまた歴史のイフを思う。
 
(1)Alperovitz,“The Decision to Use the Atomic Bomb”147
(2)Bird and Sherwin,“American Prometheus”300
《おことわり》訳者の一人、鍛原多恵子さんの「恵」は、正しくは旧字体です。
(執筆撮影・尾関章、通算276回)
 
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