『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)

写真》シベリア

 お役所仕事のずさんさが次々に露呈しているが、あまりに多岐にわたるので目立たないものもある。第2次大戦後、抑留先のシベリアで亡くなった人の遺骨情報の「放置」が、その一つだ。だがこれは、死者の尊厳にかかわる話なので見過ごせない。

 

 この一件は昨夏、NHKの特報で発覚した。その後の朝日新聞の報道によると、厚生労働省の事業で1999年〜2014年にシベリアから引きとられた遺骨のうち、約600人分が日本人のものでないらしいとわかった。これを厚労省は公表しなかったという。

 

 ここで、遺骨が日本人のものかどうかを見極めたのはDNA型鑑定だ。厚労省の派遣団は、埋葬地の調査で日本人の遺骨とされたものを持ち帰った。昔なら、それでひとまず事業は完了したはずだ。もちろん、判定に対して懐疑的な見方は出たかもしれないが、決め手がないので、うやむやに終わっただろう。ところが今は、物証が手に入る。専門家が人骨に残るDNAを調べて、疑義を唱えたのだ。この結果を無視してよいわけはない。

 

 DNA型鑑定は1980年代に登場した。この技術は、血液型だけでは父親がわからない、犯人を絞れない、という近代小説の決まり事を吹っ飛ばした。それが今回は、埋葬記録のいい加減さをあばいたのだ。だが、そのことでシベリア抑留の霧はますます深まった。

 

 シベリア抑留とは何か。厚労省ウェブサイトにある公式データを見ておこう。シベリア抑留とは、戦争直後、旧満州(中国東北部)や樺太(ロシア・サハリン)、千島地域にいた旧日本軍人など57万5000人を、旧ソ連がシベリア地方やモンゴル国内に「強制抑留」したことを指す。うち約5万5000人が抑留中に亡くなったという。被抑留者の総数は鳥取県1県の人口に匹敵する。しかも、その1割ほどが生命を落としたことになる。

 

 戦後しばらく日本社会では、家族が、親類が、友人が海を隔てた極寒の異郷にいて、その生死すらわからないという状態がふつうにあったのだ。しかも厚労省サイトによれば、70余年後の今も、彼の地で死去したのは誰かという情報が確定されていない。

 

 そうでなくとも、僕たち戦後世代はシベリア抑留についてほとんど知らない。私事を言えば身内にも体験者がいたのだが、抑留期の思い出を聞いた記憶がまったくない。さぞ辛かったのだろう、尊厳を傷つけられることもあったに違いないと推察して、こちらもあえて聞きだそうとはしなかった。おそらく同様の家庭は津々浦々に多いはずで、その分の個人史が封印されている。こうして、民衆の戦後史に大きな穴がぽっかり開いてしまったのだ。

 

 で、今週は推理小説『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)。終戦直後のシベリア抑留地と今日の日本社会が、それぞれで起こった殺人事件の謎解きでつながってくる、という筋立てだ。著者は1961年生まれ。塾講師、出版社勤務、コピーライターなどの職歴を経て、2000年代にミステリー作家となる。06年、この作品によって江戸川乱歩賞を受けた。それが同年、講談社から単行本として刊行され、09年に文庫化された。

 

 題名の「ダモイ」は、「帰郷」「帰国」を意味するロシア語。シベリアの被抑留者たちはきっと望郷の念を募らせて、この外国語を真っ先に覚えたのだろう。彼らの帰還後、日本国内でも一時期、流行ったらしいが、1951(昭和26)年生まれの僕には記憶がない。

 

 作品のプロローグは、1947年11月、イルクーツク州タイシェトの第53俘虜収容所の話。ちなみに巻末のことわり書きによれば、この収容所は架空のものだという。本文は、鴻山隼人中尉のつぶやきで始まる。「寒波(マロース)だ、マロースが来る。明日はマイナス四十度を下回るかもしれん」。零下40度より寒ければ、作業は中止との決まりがある。だが、中尉は「帝国軍人の誇りを忘れるな」「ノルマに負けるな」と発破をかける。

 

 ここで浮かびあがってくるのは、被抑留者集団の複雑さだ。指示系統の頂点にソ連当局が君臨していることは間違いない。だが日本軍の階級はそのまま残っていて、それが指示系統の補完装置のように働いている。とはいえ、そこにも牽制が入る。「ソ連側は、抑留者たちに共産主義を植えつけるため、軍国主義をやめさせようと民主化教育を激化させていった」。集団内には、民主運動の活動家となった元日本兵がいて「アクティブ」と呼ばれていた。

 

 こうしたなかで、鴻山中尉の殺害事件が起こる。零下47度の朝、高津耕介二等兵が凍土の氷――融かして水にするのだ――を調達するために外へ出ていたとき、首を切り落とされた死体が見つかったのだ。高津は斧をもっていたので疑われたが、血がついていないので容疑はすぐに晴れた。「鋭利な刃物だ。日本(ヤポン)のカタナのような」と、収容所の医師ニコライが言う。そこには、マリア・アリョーヒナという看護婦の姿もあった。

 

 つづく第一章では、時代が一転、2005年に飛ぶ。ここで登場するのは、東京の出版社員、槙野英治。新幹線経由で山陰本線に乗り、京都府北部の綾部に向かっているところだ。勤め先は、自費出版本の刊行が専門。その依頼人が綾部に住んでいるのだった。氏名年齢は、高津耕介76歳。そう、あの高津二等兵だ。槙野が綾部駅で降り、たどり着いた家は川沿いの雑木林の中。丸太づくりで土間があるだけ、という質素な住まいだった。

 

 出版したいのは、シベリア抑留をテーマとする句集だという。奇妙なのは、高津が本の体裁などにはまったく無関心で、「宣伝に力を注いで欲しい」とだけ条件をつけてきたこと。新聞広告は写真入りの大きな扱いで、と強く求めた。そうしてくれれば出版代金と合わせて500万円支払うが、ダメなら依頼そのものを撤回する、という。「売れなくてもいいんだ」「私が句集を出したことを知らせたい」――そこはかとなく、訳あり感が漂う。

 

 この小説では、同じ京都府北部の舞鶴で事件が起こる。かつて収容所の看護婦だったマリアが扼殺されたのだ。83歳。埠頭で海から引きあげられたのだが、下着のなかに旧日本軍人の軍用時計を隠していた。旅の付き添いをしていたのは、東京の医師鴻山秀樹。鴻山中尉の孫だ。高津も事件が報道された後、舞鶴署を訪れ、遺体を見て慟哭している。そして秀樹も高津も行方不明となった。マリア殺害は58年前の中尉殺害につながっているらしい。

 

 これより先は筋を追わない。作品のところどころに織り込まれた高津原稿から、被抑留者の思いをすくいあげてみよう。そこには、句集と言っても散文がたっぷり綴られている。

 

 まずは、抑留の始まり。「戦地で終戦を迎えた我々は二ヵ月後、何も知らずに満州から貨車に詰め込まれていた」。日本の兵士たちの間には、これはダモイなのか、という期待もあったらしい。一人の兵士が停車中、小用を足しているふりをして夜空を見あげる。星の位置からみて、行く手は北らしいと知り、こう叫ぶ。「ダモイではない、シベリアに向かっている」。このときの一句。「椋鳥やいづこへ帰る夜半の月」(ルビは省く、以下の引用も)

 

 高津にとって、収容所では医務室だけがやすらぎの場だった。看護婦が優しかったのだ。関東軍時代の誤爆事故で体内に陶器片が残っていたので、土木作業で穴を掘っていて、首のあたりに痛みを覚えたことがある。医師の処方は湿布薬くらい。それも不足していて交換できないことがあったが、マリアは「追い返そうともせず」「一撮みの砂糖をくれることさえあった」。その甘さに故郷のつるし柿を思いだす。「手のひらの甘き白砂柿の色」

 

 1947年暮れ、高津たちもついにダモイを果たす。「無事乗船してからも多くの人間が姿を消したり、亡くなったりしていた」。船内には「兵士たちが将校に報復した」とか「アクティブが制裁の機会を狙っている」とか、噂話が飛び交った。一方に、軍国主義の残滓。もう一方に、歪んだ「民主主義」の工作。二つの抑圧を経験した人々の心には、舞鶴港への引き揚げを前にして、疑心暗鬼が渦巻いていた。「甲板で心に秘する舞鶴草」

 

 俳句は、17文字に幾つもの思いを重ねられる。だから、そこに真情を潜ませることもできる。それが抑留の闇を照らす灯となり、ミステリーの謎を解く鍵にもなっている。

(執筆撮影・尾関章、通算509回、2020年1月31日公開)

 

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『日本国憲法――9条に込められた魂』(鉄筆篇、鉄筆文庫)

写真》戦後の原点、憲法(左は三省堂刊『新六法』)

 秋寒し能あるハトは絶滅す(寛太無)

 先日の句会に出した拙句だ。「能」の一文字を入れ込んだものを一つ、というのが宿題だったので、ひねり出した句である。俳味には欠けるが、時事句として受けとめてほしい。

 

 内閣改造が済んで、いよいよ改憲の足音が聞こえてきた。焦点は平和憲法の核心、第9条の改定だ。最近は世論調査でも賛成派の割合が反対派に比肩しているので、国民投票では改憲に振れるかもしれない。この流れを押しとどめる有能なハト派の影は見えない。

 

 最近言われだしたのは、戦力と交戦権の否認をうたった9条2項を残したまま自衛隊が合憲であることを明記するという奇案だ。これには、あぜんとする。そもそも9条改憲派の言い分には、国民の多くが自衛隊の存在を受け入れているのに憲法が「戦力」を否認しているのは現実的でない、という見方があったはずだ。たしかに人々の認識と9条の文面にはズレがある。9条2項の残置は、そのズレを条文に内在化させることにほかならない。

 

 9条2項について言えば、もともとある種の無力感が僕にはある。改定してもしなくても、世論の大勢は自衛隊を認めている。僕自身も、今ではその一人になった。考えてみれば、初めから「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と書かなければよかったのだ。連合国の顔色を見ながらではあれ、「専守の防衛力を超える戦力は、これを保持しない」という落とし所もあっただろう。なぜ、そこまで非武装にこだわったのか――。

 

 で、今週は『日本国憲法――9条に込められた魂』(鉄筆篇、鉄筆文庫)。憲法本文をそのまま載せて関連資料を収めた本だ。「鉄筆文庫」は、渡辺浩章という人が「魂に背く出版はしない」を社是に2014年に創刊した。この本は16年に自社編集で出た。

 

 当欄前身のコラムも『新装版 日本国憲法』(講談社学術文庫)をとりあげたことがある(文理悠々2013年9月17日付「日本国憲法を読むという読書」)。改めて別の憲法本を手にとったのは、「付録」資料の一つ「幣原(しではら)先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」に惹かれたからだ。「幣原先生」とは、終戦直後の1945年10月に首相となり、新憲法づくりにかかわった幣原喜重郎(1872〜1951)である。

 

 これは1964年、元衆議院議員の平野三郎(1912〜1994)が作成して、当時内閣に設けられていた憲法調査会に提出した文書。今も、国立国会図書館憲政資料室に保管されている。平野は、幣原が首相退任後に衆議院議長を務めたときの秘書官。1951年、幣原が亡くなる10日ほど前に東京・世田谷の幣原邸を訪ね、新憲法に託した思いなどについて聴いて、後にメモにまとめていた。幣原の遺言とも呼べる文書だ(敬称略、以下も)。

 

 圧巻なのは、問答形式の部分だ。平野が「私には第九条の意味がよく分りません」「暫定的な規定ですか」と問うと、「いや、そうではない」という答えが返ってくる。次いで「丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか」「それは死中に活だよ」というやりとりがある。ここで幣原は「常識ではこれはおかしい」としつつ、こう言う。「しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変って終(しま)った」

 

 幣原は、東大法科出身の元外交官。別段、理系ではない。だが、この原子核エネルギーの解放という新次元の兵器が、既存の兵器とどれほど違うかを弁えていた。核兵器の開発がさらに進めば「恐(おそ)らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉(ことごと)く灰燼(かいじん)に帰して終(しま)うことになるだろう」とみている。その結果、「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証」という結論に至ったという。

 

 これに対して、平野は「しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか」と食い下がる。ここで幣原がもちだすのが、「何らかの形に於(お)ける世界の連合方式」だ。そこには「各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれない」「戦争をなくするための基本的条件は武力の統一」という認識がある。国連中心の平和構築論が東西冷戦後ににわかに期待を集めたが、それを先取りする思想だった。

 

 このあと、幣原は世界の国々が自国の軍備縮小を進めることの難しさを語る。「軍縮交渉とは形を変えた戦争である」「軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である」。これは元外交官、元外相の経験に裏打ちされた言葉で説得力がある。

 

 そのうえで幣原は、軍縮を達成するのに「一つだけ」方法がある、とする。「一、二、三の掛声もろとも凡(すべ)ての国が兵器を海に投ずるならば、忽(たちま)ち軍縮は完成するだろう」。これは、できないことのように思える。だが、できなければ軍縮もできない。そう思いめぐらせていたときに「第九条」がひらめいたのだという。「そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら――」。軍縮の困難を知り尽くした人の着想である。

 

 ここで幣原は、「非武装宣言」を「従来の観念からすれば全(まった)く狂気の沙汰」と認める。そのうえで「世界は今一人の狂人を必要としている」と言って憚らない。平野が、侵略を受けたときはどうするのかと疑問をぶつけると、「その場合でもこの精神を貫くべきだ」と一歩も譲らない。理念先行のようには見える。だが、理詰めでものを考える人が広島、長崎の惨禍を見せつけられれば、こういう結論になるのだろう。

 

 平野は、非武装は「マッカーサー元帥(げんすい)の命令」だったのではないか、と切り込んでいる。これに対して幣原は、連合国の間には日本が天皇制を保ちつつ再軍備することへの警戒感があったことを認め、「天皇制を存続すると共に第九条を実現する」ことが「一石二鳥の名案」だったとまで言う。非武装が当時のマッカーサーの意に沿うものだったのは間違いなさそうだ。だがそれでも、幣原の思考が後付けのものだったとまでは言えまい。

 

 この文書にある幣原の発言には、人類の未来に対する卓見が見てとれる。彼は、数十年後を的確に見通していた。「世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない」「共産主義のイデオロギーも何(いず)れ全(まった)く変貌して終(しま)うだろう」。冷戦の終焉や旧ソ連・東欧の体制崩壊、現中国共産党政権下の市場経済を見れば、その眼力に脱帽せざるを得ない。

 

 だが、大きな誤算もあった。幣原は、資本主義対共産主義の対立構図が消えれば――即ち、東西冷戦が終われば――「世界の共通の敵は戦争それ自体」という状況が生まれると楽観視していたが、これは完全に外れた。民族主義が高まって局地戦争があちこちで頻発、難民があふれ、大国にも自国第一主義のうねりが強まっている。「何らかの形に於ける世界の連合方式」は、今やはかない夢。世界のベクトルは、その逆を向きはじめている。

 

 こうみてくると、日本国憲法9条2項はたしかに現実的ではない。だが今、核兵器は局地戦争でも使われかねないほどに拡散しており、「短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終う」という危惧のほうも現実感を増している。いつ核攻撃があってもおかしくない現実がある一方、いったんそれが始まれば応酬の連鎖で人類が破滅しかねない現実もある。僕たちは二つの現実の狭間にいるのだ。9条2項は安易に否定できない。

 

 日本国民は今、9条2項は先行世代が戦後に思い描いた究極の理想にほかならないことを世界に向けて明言すべきだ、と僕は思う。その目標があるから、自前の実力部隊を「軍隊」と呼ばなかったのだ。我々は理想を追いながら現実を生きているのである――と。

 

 この「付録」には、平野が幣原を一人称の主語にして執筆した一文も載っている。一問一答を補い、「先生の世界観で記憶に残るもの」も織り込んでまとめたという。そこには、ダーウィン進化論や唯物論、観念論をめぐる論述もあって、幣原の学識の深さがよくわかる。こうした知的な蓄積があるから、最終兵器としての核の脅威に気づき、軍拡の流れを根絶しようとしたのだろう。今の政界では、そんな思慮深いハト派がなかなか見つからない。

(執筆撮影・尾関章、通算492回、2019年10月4日公開、同月6日更新)

 

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『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』

(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)

写真》廃炉(朝日新聞2016年12月21日夕刊、翌22日朝刊)

 もんじゅの廃炉を政府が決めた。福井県敦賀市の半島部にある高速増殖原型炉。原発使用済み燃料から得られるプルトニウムを核分裂させ、消費分よりも多いプルトニウムを生みだそうという原子炉だ。資源小国の夢を叶えると言われた核燃料サイクル路線の象徴。1994年、連鎖反応が安定して続く臨界に達したが、翌95年に冷却材のナトリウムが漏れる事故を起こした。運転日数は20年余でわずか250日にしかならない。

 

 この実績をみれば、だれもが廃炉に納得するように思われる。まして3・11の原発事故で原子力の災厄が人々の暮らしを台無しにする現実をまざまざと見せつけられているのだから、なおさらだ。原子力エネルギーに執着する政権もそんな空気を察知したのだろう。

 

 ところが、この決定を不快に思う人がいた。福井県知事だ。廃炉に向かう動きが進むと「現状では受け入れがたい」と牽制し、結論が出た日にも「地元は国策に協力してきた」「唐突な方針決定に地元は大きな不信感がある」と反発した(朝日新聞2016年12月21日夕刊)。たしかに、突然梯子を外されたという構図はある。だが、事故があったときにもっとも深刻な打撃を受けるのは地元だ。報道を聞いて耳を疑った人も少なくないだろう。

 

 ただ、僕には違和感があまりなかった。それは、福井県の同時代史をふつうの県外人よりはよく知っているからだ。1977年、新聞社に入って最初の4年間を福井支局の記者として過ごした。事件事故や町の話題、経済分野を主に取材したが、それでも原発と無縁だったわけではない。とくに反原発運動に携わる人々の話を聴く機会は多かった。その苦闘を通じて、地元に原発志向のベクトルがどれほど強いかが身に染みてわかったのである。

 

 当時、福井県は県全体としてすでに原発受け入れに動きだしていた。たとえば県庁には原子力安全対策課という部署があり、高学歴の理系人材を集めて原発のトラブルに目を光らせていた(当欄の前身コラム、文理悠々2010年11月19日付「アトムとの向き合い方」)。これは、原発立地県が県民を守るために整えた体制としては全国に誇るものだったが、別の言い方をすれば県の未来は原子力とともにある、と腹を決めたことを意味する。

 

 僕は、原発が集中する県南部の嶺南地域に時折出かけた。そこで受けた印象も、人々の暮らしが原発を織り込み済みにしている、ということだった。原発のおかげで集落に舗装道路がつながった、身近な人が施設内の食堂や売店で働かせてもらっている……住人がそんなふうに感じる現実が進行していた。県内の原子炉は僕が福井にいる間で6基から9基にふえた。その後も増設が続き、最盛期には10基を超える密集地になったのである。

 

 で、今週の一冊は『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)。中日新聞の福井県版と中日新聞社が発行元となっている日刊県民福井が、2000年に紙面化した連載記事をもとにしている。

 

 福井県の対原発意識を知るという意味では、ほんとうは古巣新聞社の後輩支局員が書いたものをとりあげたかった。だが、それをやめてこれを選んだのには理由がある。2000年のタイミングに惹かれたのだ。3・11後の執筆では、あの大事故を見てから身につけた後知恵が影響してしまう。そうかと言って昔過ぎては、もんじゅナトリウム漏れ事故などの体験が反映されない。この本は、最適の断面を切りだしていることになる。

 

 業界人としての興味もあった。中日新聞社発行の東京新聞は今や、原発に筆鋒鋭いメディアの筆頭格だ。一方の日刊県民福井は、前身の日刊福井が1977年、地元ゆかりのゼネコン、熊谷組を後ろ盾に発刊されたという前史がある。そのころ、熊谷組元社長の熊谷太三郎さんは自民党の参議院議員で、発刊直後には科学技術庁長官に就いた。逆方向のベクトルが潜在していそうなメディアが2000年当時、どんな位置取りをしたかを知りたかった。

 

 原発立地で地域社会がどう変わったかがわかるのは「半島のくらし」という章だ。日本原子力発電の敦賀発電所がある敦賀市浦底からの報告を見てみよう。敦賀半島の集落で、戸数は記事連載時で16戸。国が敦賀1号機の設置を許可した1966年、半島の先までの県道が整った。「原発が来るまで、敦賀市中心部から浦底に通じていたのは軽自動車がやっと通れるくらいの未舗装道路だけ」で舟運が頼りだったから、生活は大きく様変わりした。

 

 集落はもともと半農半漁だったが、連載時点では全戸数の約半分が民宿を営んでいた。発電所で2号機が建設された前後にふえたという。滞在型の宿泊需要として「原発関連業者の利用」が見込めたのだ。住人は原発立地で土地や漁業権を失い、代わりに補償金を手にした。民宿女将の一人が前の世代から聞いた話を打ち明ける。「うちも部屋とか屋根の改修なんかにそうしたお金を使ったようやね」。設備投資の資本力を補ったのも原発立地だった。

 

 仕出し業に進出した民宿もある。発電所では定期検査の繁忙期、ふだんの倍を超える2000人余が働く。社員食堂はあるが、弁当需要も高まる。そこにいくつかの業者が参入していた。この本に出てくる1軒では、定検時に「アルバイトを増員」したり、夕食夜食の対応で「睡眠時間が2、3時間」になったりする。ちなみに、経営者の息子さんは「日本原子力発電の社員」。浦底の住人にも「原発関連の会社に勤めるサラリーマン」がふえていた。

 

 原発が、辺地を都会に結びつけて起業の種を撒き、雇用を生んで就業構造をすっかり変えてしまった。これがこの半世紀、原発を受け入れた地域社会で起こったことだ。福井県の嶺南地域には、そんな集落が海岸伝いに数珠のように連なっているのである。

 

 この本は、原発が地元の都市部にもたらした変化も照らしだす。敦賀市には、クラシック音楽に適した大ホールのある市民文化センターや福祉総合センター、総合運動公園などが揃っている。それを支えるのは、原子力施設の固定資産税などで潤う市の財源だ。ハコモノだけではない。電力会社が文化センターで著名音楽家の演奏会を無料で開いてきたという。その結果、皮肉なことに市民団体主催の演奏会の客が減った。本末転倒の感がある。

 

 読んでいて切なくなるのは、福井県にはすでに半生を原発に捧げてきた人が大勢いることだ。ある県内人は68年、工業高校を出て日本原子力発電に入った。没頭したのは、発電用タービンの振動を抑えること。「そのうち、タービンの覆いに触れたときの振動やタービンの回る音で、調子を見分けることができるようになった」。取材を受けた時点では東京勤務だが、「現場で感じ取るタービンの響き」を後継世代に伝えたいという気持ちでいる。

 

 県外から福井の原発にやってきた人も多く登場する。その一人は兵庫県の工業高校出身者で、関西電力に入社後しばらくして建設中の美浜原発にやって来た。最初に手がけたのは、運転手順の文書づくりだ。米国メーカーの炉。英文を訳し、火力発電所用の手順書を参考にしながら「後輩が『迷わんように』と考えて作った」。まさに原発草創期の大仕事。その背中を見て育ったからだろうか、「長男はいま原子力業界で技術者として働いている」。

 

 もう一つ、特記したいのは広報部門の第一線にいる人々の言葉だ。「正確にありのままの情報を提供しないと福井県での原子力はない」(関西電力)、「すべて公開すべきだった」(旧動力炉・核燃料開発事業団)。後者は、もんじゅナトリウム漏れ事故時に組織内でビデオ隠しがあったのを振り返っての述懐だ。真摯な思いは伝わってくる。だが、透明性を高めさえすれば原子力を是とすべきなのか。この問いを封印した社会がここにはある。

 

 この本は、原子力史をとことん地元の目で綴っている。率直に言って原子力そのものに対する批判は乏しいと感じるが、そこには別次元の教訓がある。大都市には3・11後に原発を嫌いになった人が大勢いるが、地元の人はそう簡単に心変わりできないということだ。

 

 原発をなくしたい。だがそれは、大都市に住む僕たちが勝手に決める話ではない。心苦しいが、既設地帯の人々に自らの意思で社会の再設計に踏みだしてほしいと頼むほかない。

(執筆撮影・尾関章、通算351回)

 

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『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』
(矢部宏治著、集英社インターナショナル)
写真》初臨界と再稼働(朝日新聞1957年8月27日付朝刊と今年8月11日付夕刊)
 
 原発が動きだした。九州電力川内原発1号機の再稼働だ。全国に50ほどある発電用商用炉が一つも動いていない、という状態が1年11カ月も続き、そして終わったのである。原子力発電を認めよう、進めよう、という立場からみれば異様な事態が解消されたということになるのだろう。だがそれは、工場の生産機械を無駄に寝かせていたのとはまったく違う。止めていることに意味があった、と僕は思う。
 
 原発の停止は、言うまでもなく2011年3月11日の東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故に起因する。政府がそれまでの原子力行政を改め、新設の原子力規制委員会が新しい基準に沿って、申請の出された炉を審査することにしたからだ。だから、1年11カ月の空白は、本来は審査期間に過ぎない。だが皮肉なことに、その足踏みのおかげで僕たちは実に多くのことを学んだ。
 
 たとえば、不穏な火山活動。日本列島あちこちの山が去年、今年と次々に噴いている。マグマの挙動は海底地底をうごめくプレート(岩板)に関係するとみられているから、根っこのところで東日本大震災につながっているのかもしれない。いずれにしても、震災の記憶が生々しいときに噴火が頻発しているので、自分が地震火山列島に住んでいると改めて痛感している人は多いだろう。それが、この1年11カ月とぴったり重なった。
 
 もう一つは、福島第一原発事故の被災地が背負った重みの大きさが日を追うごとにはっきりしてきたことだ。これも、この1年11カ月と重なる。朝日新聞は、福島県から全国に避難している10万人余について、こう報告している。「人のつながりは断たれ、将来を見通せない」「放射性物質の除染は進むが、森林は対象外だ。帰還できても、もとの『里山生活』は戻らない」(2015年8月12日付朝刊、上田俊英・福島駐在編集委員)
 
 再稼働のニュースで気になるのは、避難計画が不十分だからゴーサインは拙速だ、とする論調があることだ。もちろん、事故を想定して地元住人の生命、健康を守る態勢を整えるのは最優先課題だが、それで終わる話ではない。一斉避難が必要なほどの大事故であるならば、そのあとに受難の日々が延々と続くのはほぼ間違いない。これは、福島の今をみればわかることだ。上田編集委員が書くように「避難は『一時』ですまない」のである。
 
 ではどうして、こうも切実な教訓を得たのに、原発再稼働にブレーキがかからないのだろう。今週は文字通り、そのことを考えさせる一冊。『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(矢部宏治著、集英社インターナショナル)。
 
 著者は1960年生まれ。大手広告会社に勤めた後、書籍づくりに携わってきた。沖縄の米軍基地問題などで自身の著作もある。この本も、沖縄の話から説き起こし、日本の戦後史を考察するつくりになっている。奇しくも、沖縄の現地取材を終えて米軍基地をめぐる裁判資料に当たっていたころ、3・11の原発事故が勃発する。そこで「『沖縄イコール福島』という構造」が見えてきて、「基地」と「原発」を串刺しする論考になった。
 
 この本が探ろうとするのは、「基地」と「原発」の背後にある「日本の本当の権力」だ。それは「オモテの政権とはまったく関係のない『どこか別の場所』にある」。ウラに隠れた権力が表面に現われたのが、2009年から3年間の民主党政権時代だったという。
 
 著者の推察によれば、鳩山政権がめざす米軍普天間飛行場の県外移設構想が潰れたのは、官僚が首相に「反旗をひるがえした」からだ。官僚との非公開会合で移設先の案を固めたとたん、メディアに漏れたのである。野田政権が「2030年代に原発稼働ゼロ」政策を閣議決定できなかったのも、米政府の「懸念」が伝えられたからだという。「どこか別の場所」とは太平洋の対岸であり、その重力が霞が関を引きつけて惑星系をつくっているらしい。
 
 こう読んでくると、陰謀論のようにも見える。だが、極秘史料を掘りだし、それらをつなぎ合わせて物語を仕立てているわけではない。むしろ、だれでも手にとれる報道や資料を丹念に読み込んで、基地と原発を貫く構造を見抜いているという感じだ。
 
 やり玉に挙がるのが、1959年の砂川事件最高裁判決だ。現政権が安全保障法制の正当化でもちだしているものだが、ここでは、日米安保条約について憲法判断を避けた論理が問題視されている。この条約を「主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するもの」と位置づけ、違憲かどうかの判断は「司法裁判所の審査に原則としてなじまない」(最高裁サイトの裁判要旨から引用)というものだ。統治行為論という。
 
 裁判長は田中耕太郎長官。ミスター最高裁と言ってよい人だった。僕は中学生時代、社会科で三権分立を習うとき、この判決のことも聞いた。「高度の政治性」という理屈の立て方に、大人はそんなふうに世の中を動かしているんだな、と妙に納得した覚えがある。
 
 統治行為論と同様の論理が原子力にもある、と著者はみる。一つは、1978年に松山地裁で出された伊方原発訴訟の一審判決。原子炉設置許可の取り消しを求める行政訴訟だった。判決では、原子炉を造るかどうかは「高度の政策的判断と密接に関連する」として、設置許可は「国の裁量行為に属する」との見解を示した。日米安保条約を特例とする論理の原子炉版と言ってもよいだろう。
 
 原子力に対する特別扱いは環境政策にも見てとれる。放射性物質の汚染防止策は、環境基本法第13条で「原子力基本法その他の関係法律で定める」とされ、大気汚染防止法や水質汚濁防止法でも適用除外の扱いを受けていた。福島の事故後しばらくして基本法の13条が削られ、両防止法にある除外規定も消えた。ただ土壌汚染対策法では今も、「特定有害物質」を列挙した後に「放射性物質を除く」とある。
 
 オモテの法制度は整っている。だが「大切なのはウラ側からあたえられた『結論』だけで、『事実』や『論理』は、どんなこじつけでもかまわない」。そんなご都合主義が日本社会にはある。例外を設けては「結論」を守るという方法で、基地も原発も生き残ってきた。
 
 著者は米国の友人から、日本の政治家や官僚には「インテグリティがない」と言われたという。「首尾一貫性」の欠如だ。米国では「倫理的な原理原則がしっかりしていて、強いものから言われたからといって自分の立場を変えない」ことが「人格的に最高の評価」の対象となる。その国を相手とする沖縄基地問題の交渉で、日本側に「強い国の言うことはなんでも聞く」「原理原則なく受け入れる」という姿勢が見える現実を、この本は突く。
 
 著者の見方は「現在の日本の混迷の大きな原因のひとつは、国家全体が過去の記憶を隠蔽・廃棄し、その当然の結果としてインテグリティを喪失した状態になっているというところにある」というものだ。3・11で原発事故の深刻さがあれほど露呈されたのに、1957年の「原子の火ともる」(写真を参照)以来続く道が何事もなかったかのように舞い戻ってくるのは、惰性であってインテグリティとは言えまい。
                                    
 思わず苦笑したのは、「『左翼大物弁護士』との会話」と題する一節。著者が米軍施設の写真を載せた本をつくったとき、「このまま出したらぼくらはつかまるんでしょうか」と相談した。その弁護士は「売れますよ」とほめるばかりで、著者の不安をまともに受けとめない。真意を尋ねると、披歴されたのは「公安がつかまえる必要があると思ったら、なにもしていなくてもつかまえるし、必要がないと思ったら、つかまえない」という権力観だった。
 
 ピンとくる話だ。僕たちの時代は、「こじつけ」で動く権力に反権力のほうも飼いならされていた。インテグリティをもって世の中を切りまわす人々が、そろそろ日本社会に現われてもよいだろう。
おことわり 引用では、太字表記を外しました。
(執筆撮影・尾関章、通算278回)
 
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