「最初の一日――昭和十六年十二月八日」

『同日同刻――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(山田風太郎著、文春文庫)より

写真》ハワイ

 このあいだ、書店の古書コーナーで『同日同刻――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(山田風太郎著、文春文庫)という本を見つけた。思わず手が伸びたのは、8月に入って6日、9日、15日と先の戦争に思いを致す機会が続いたからだろう。

 

 この本は、作家山田風太郎(1922〜2001)が、第2次世界大戦にかかわる多方面の文献を漁って、太平洋戦争の開戦と終戦の実相に迫ろうとしたものだ。開戦当日はほぼ1時間刻み、終戦までの15日間は1日ずつに時間軸が区切られる。その同日同刻、政治家や軍人、官僚、知識人、市井の人々が何を思い、どう振る舞ったかを史料から掘り起こした――膨大な書物を丹念に読み込み、それらを有機的に編みあげた技には圧倒される。

 

 当初、僕の関心は「最後の十五日」にあった。でも、順番は順番だ。「最初の一日」から読みはじめた。それで思えてきたのは、あの戦争は政権に外交力さえあれば避けられただろうということだ。今さらそれを言っても過去は変わらないが、未来への教訓にはなる。

 

 そんな折、気がかりなニュースが飛び込んできた。韓国が日本との軍事情報協定を破棄したというのだ。日韓関係はこのところ悪化の一途をたどっていたが、それがついに極まった感じだ。きな臭いにおいがしてきた、とまでは言わない。ただ、日本と他国の個別関係がこれほどまでにこじれたことは、戦後今までなかったように思う。僕個人の六十数年の記憶をたどっても、三十数年の記者生活を振り返っても、そのことは言える。

 

 もちろん、日本は冷戦期、西側陣営の一員だったから東側の国々との間には壁があった。その後も国交がなく、難題を抱えた国もある。だが今の日韓関係で起こっていることは、それとは違う。国と国とをつなぎとめる部材が次々に断ち切られている。

 

 当欄は今回、日韓双方がそれぞれ打ちだした一連の政治決断について、どうこうあげつらうつもりはない。そこに踏み込むとかえって大局が見えなくなるのではないか、とすら思う。たとえば、日韓の軍事情報協定、即ち「軍事情報包括保護協定」が失効して損をするのはどちらか、といった論評を見かけるが、そういう分析にとらわれていると極東アジアの安定という本来の目標を見失ってしまうだろう。大切なのは、関係の再構築だ。

 

 で、今週は『同日同刻…』から「最初の一日」だけを切りだす。当欄筆者は、ある本の所収作品を話題にするとき、その本1冊を読み切ることを原則としているが、今回は「最後の十五日」を未読のままブログを公開する。緊急性の高い話だと考えるからだ。

 

 本題に入る前に、まず書誌から。著者は、今風に言えばエンタメ系の小説家。医大卒の変わり種でもあった。「忍法帖」シリーズで人気を博し、娯楽小説誌で活躍。ちょっとエッチな作風だな、と思った記憶が僕にはある。だが、彼には硬派の一面もあった。有名なのが『戦中派不戦日記』。それが自身の皮膚感覚でとらえた終戦前後の記録だとすれば、本書は史料を踏まえた開戦と終戦の俯瞰図だ。単行本は1979年に出た。文庫版は86年刊。

 

 本文は、1941(昭和16)年12月8日午前零時から始まる。駐日米国大使ジョセフ・C・グルーは都心の外相官邸を訪れた。携えていたのは、ルーズベルト大統領が天皇に宛てた「超緊急の親電」。零時15分、東郷茂徳外相に電文を伝える。「太平洋地域」で「両国間の長い平和がもたらした有益な効果を奪い去らんとするがごとき事態」が進行中で、「陛下と私が、世界にこれ以上の死と破壊を持ち来すことを防止する神聖な義務を持つことを確信いたします」(出典・ジョセフ・C・グルー『滞日十年』毎日新聞社)とあった。

 

 東郷外相は、この親電を「これまでの日米交渉の条件に何ら触れるところがなく」「きれいごとを、ただ記録に残そうとするためだけの文書」ととらえる(出典・東郷茂徳『時代の一面』改造社)。そんな決めつけがあったからだろう。グルーは天皇に謁見して、電文を直接手渡したいと申し出るが、東郷は、自分のほうで遅滞なく伝えると言って電文の複写を預かった。グルーが外相官邸を辞去したのは零時半。わずか15分の面談だった。

 

 この決めつけは政権中枢で共有される。午前1〜2時、東郷は親電の邦訳を手に首相官邸へ赴き、東条英機首相に会う。「それでルーズベルトは何か譲歩して来たのですか」「いや、何も新味はありません」「それじゃあ何の役にも立たんじゃないですか」(出典・同書)

 

 ここに当時の日本外交の愚がある、と僕は思う。電文の字面だけを見て「新味」がないと断じ、「何の役にも立たん」と切り捨てる。だが心にとめるべきは、これが大統領から天皇へ送られた急ぎの親書ということだ。実務家同士の書簡ではない。「陛下と私が、世界にこれ以上の死と破壊を持ち来すことを防止する神聖な義務を持つ」という言葉には「お互い、早まってはいけない」との強いメッセージが込められているとみるべきだろう。

 

 1941年の時点で、日本は日独伊三国同盟を背景に軍事力を中国大陸や南方へ展開、これに対抗して米国や英国は日本資産の凍結や石油の全面禁輸に踏み切った。ここでふと思うのは、日本政府には、たとえ軍国主義政策をとる立場にあったとしても米英側の経済制裁を緩めるためのカードが何枚もあっただろうということだ。大統領から天皇へのメッセージをいったん受けとめ、交渉に再度臨むという選択肢は十分ありえたに違いない。

 

 この愚に輪をかけたのが、親電の配達遅れだ。前日、即ち日本時間の7日正午、東京の中央電信局に入電されていたが、グルーの手もとに届いたのは午後10時半だったという。僕が不勉強にも驚いたのは、当時は駐日外国公館が本国とやりとりする電報も日本の電信当局を介在させていたことだ。だから、暗号は必須だったとも言える。グルーも深夜、大使館員に解読作業にあたらせ、日付が変わるころにようやく全文を手にしたのである。

 

 10時間半の遅れは、なぜ生じたのか。この本には、陸軍参謀本部通信課の将校が配達を「故意に」遅らせたとある(出典・『極東国際軍事裁判速記録』雄松堂)。本当なら、とんでもない話だ。読み進むと、東郷外相が天皇に大統領親電を報告したのは8日午前3時前後。ハワイでは日本時間の午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)に日本軍の攻撃が始まっている。これでは親電が天皇の心を動かしても間に合わなかっただろう。

 

 著者没後のことだが、この件については2013年に外務省から、戦後まもなく国際検察局という機関が外務省電信官を尋問したときの記録文書が公開されている。新聞報道によると、検察局側は「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができた」とにらんで配達半日遅れの謎を追及したが、電信官は「当時本件親電にはなんら関係がなかった」と答えたという(朝日新聞2013年3月8日朝刊)。今となっては藪の中か。

 

 ただ、かりにそこに軍部の意図が介在していたとすれば、それは結果として政権の思惑を忖度するのと同じ効果をもたらした。東条首相の東郷外相に対する次の言葉が、そのことを如実に物語っている。「その電報がいまごろ着いてよかったですよ。もう一、二日早く着いていたらまた一騒ぎになったかも知れん」(出典・東郷茂徳『時代の一面』改造社)。開戦は決定済みのこと、今になって余計な横やりが入らなくてよかった、という感じだろうか。

 

 外交は、トランプ遊びのカードの切りあいにたとえられる。相手が切ったカードを見なければ、自分が次に切るべき最適のカードを選べない。ところがそれを見るのが遅れ、吟味する時間がなかったことをかえって喜んでいる。この感覚には、ぞっとする。しかも、相手がどのカードを切ったかだけにこだわって、その1枚を出してきた心理を読もうともしない。これでは勝てるわけがない。外交で勝てなければ次に来るのは……。

 

 この顛末を、今の外交政策に強引に結びつけるつもりは僕にはない。ただ、この本が再現する1941年12月8日の日本は、2019年の風景と重なる。文書をぞんざいに扱うくせに、その字面にとらわれて思考を止める。そんな悪弊が今また広がっている。

(執筆撮影・尾関章、通算487回、2019年8月30日公開、同年9月4日最終更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎著、角川書店)

写真》朝日新聞デジタルの「潜伏キリシタン」遺産報道

 潜伏キリシタンにかかわる長崎、天草地方の遺産群が、世界文化遺産に登録されることになった。国連教育科学文化機関(UNESCO=ユネスコ)の委員会が6月末に決めた。最近は登録競争が過熱しており、世界遺産って何だろう、と思わないでもないのだけれど、今回の決定にはなんとなく納得した。民衆の精神生活を映した地味な文化遺産は、ユネスコにでも乗りだしてもらわなければ、なかなか守りきれないだろうと思われたからだ。

 

 日本で登録済みの世界文化遺産のなかには、日本人のナショナリズムをくすぐるものが少なくない。代表例は2013年の「富士山」や15年の「明治日本の産業革命遺産」。これらは、たとえ国際機関のお墨付きがなくとも保全の情熱がすたれることはないだろう。一方、潜伏キリシタンは日本の近世社会で異端の小集団だった。近代の自由が未成熟な時代に禁断の教えを捨てなかった少数派。その文化を伝承するにはユネスコの支援が必要だ。

 

 視点を変えてみると、これは「内心の自由」ともかかわっていないか。2017年施行の改正組織犯罪処罰法は「共謀罪」法とも名指されるような性格があり、人々が心のうちに抱く思いにまで規制の網をかけることにならないか、という懸念が拭いされていない。立法時に論点の一つとなった「内心の自由」の問題だ。江戸幕府の禁教政策は、この種の自由をあからさまに踏みにじった先行例だろう。その標的となったのが潜伏キリシタンだった。

 

 ところが僕たちは、この内心の自由の近世史に対して、あまり関心を払ってこなかった。「潜伏キリシタン」という言葉に馴染みがなかったことからも、それはわかる。学校時代に「隠れキリシタン」と習い、そこでとどまっていたように思う。今回の報道で、江戸期禁教下のキリシタンを「潜伏……」、明治以降に潜伏信徒そのままの信仰を引き継いだ人々を「かくれ……」「カクレ……」とする呼び分けが専門家の間にあることを知った。

 

 さらにいくつかの報道に触れてわかったのは、日本のキリシタン信仰は潜伏期にすっかり本家本元のそれとは違うものになっていたらしい、ということだ。言われてみれば、これはストンと腑に落ちる。そもそもキリスト教が日本に伝わったころ、宣教師はどんなふうに教えを説いたのか。言葉の壁をどう乗り越えたのか。聖書はどのように扱われたのか。そんな疑問に思いを馳せると、欧州の宗教が日本列島に複製されることの難しさは歴然だ。

 

 別の知的好奇心も湧いてくる。潜伏キリシタンは、信仰のかたちこそ本来の姿から変質していても、なんらかのキリスト教精神を植えつけられたのではないか。それは在来文化と化学反応して、日本社会の風土にいかばかりかの影響をもたらしたのではないか――。

 

 で、今週の1冊は『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎著、角川書店)。著者は1950年生まれの宗教学者。長崎出身。東京の大学、大学院で学んだ後、郷里に戻り、2016年まで地元大学の教授を務めた。研究者としては、カクレキリシタンの在住地域を実地に調べ、日本人とキリスト教との関係をキリシタン時代に遡って探ってきた。この本は今年2月に初版が出た。世界遺産登録を見通しての刊行と言ってよいだろう。

 

 ただ、この本は、潜伏キリシタンの遺産群をめぐる世間の盛りあがりに一定の距離を置く。第一章「夢とロマンのキリシタン史」を読むと、著者には地元に目立つ「ロマン」の安売りに違和感があることがわかる。観光案内に「歴史とロマンの島」、バス乗り場に「ブルーロマン号」、店先には「ロマンの銘菓」……。僕は科学記者の一人として、宇宙の話ならなんでも「夢とロマン」で括る伝え方を批判してきたが、同様の常套表現がここにもある。

 

 これに対して、著者はこう主張する。「したたかで、強靭(きょうじん)でありながら、なおかつしなやかな現実の民衆の信仰世界」には「ロマンとはまたちがった美しさがある」。この本では、そういう「日本のキリスト教のあるがままの姿」に迫りたいというのだ。

 

 この本で好感がもてるのは、キリシタンの実態をデータで描きだしていることだ。安土桃山の世で迫害がまだなかった1590年、単純計算では1人の宣教師が受けもつ信徒の人数は1785人だった。宣教師の数に「同宿」と呼ばれる日本人の補佐役を加えても、布教側1人に対して信徒390人というマスプロ状態だ(出典は、『十六世紀キリシタン史上の洗礼志願期』ロペス・ガイ著、井手勝美訳、キリシタン文化研究会、1973年)。

 

 「外国人の関係者には日本語による十分な意思伝達能力を備えた者は数少なかったし、日本人関係者の中でキリシタンの教えについてしっかり説明できるほど十分な教義理解能力を備えた者も数少なかった」と、著者はみる。さらに江戸期に入ってしばらくすると滞日の宣教師が皆無となる。潜伏キリシタンは「ひとりの指導者も持たない信徒たち」だった。この一事からも、日本のキリシタン信仰を標準版のキリスト教とみるのは難しい。

 

 となると、キリスト教伝来後の16〜17世紀、その教えに改宗したとされる人々は本当にキリスト教徒だったのかという疑問が出てくる。著者の見方はこうだ。改宗者の多くは「仏教や神道を全面的に否定し、新たに一神教としてのキリスト教を受容したのではなく、従来の神仏信仰の上に、さらにキリシタンという信仰要素をひとつ付け加えたにすぎなかった」というのである。言語文化の障壁が宗教のありようを変えたのかもしれない。

 

 ここで見落とせないのが、改宗がどのように広まったかだ。日本のキリシタン数は16世紀半ばに約6000人だったのが、17世紀初頭には約30万人にふえている。だが、それは個々人の精神活動の所産とは言い難い。「日本における急速な信徒数の増加は、みずから率先して受洗した、キリシタン大名の政治権力によってなかば強制的にもたらされたことは明白な事実」と、著者は断じる。どうやら、そこには内心の自由がなさそうだ。

 

 たとえば、16世紀後半の肥前国大村領。領主大村純忠が家臣を伴って洗礼を受けた後、領内のキリシタン化が一気に進んだという。この本では、1574〜76年だけで領民3万5000人がキリシタンになったという統計や、神社仏閣が取り壊され、仏僧約200人が改宗したといった史実が紹介される。「キリシタン時代には、キリシタンの方が逆に仏教や神道を迫害したという事実もまた記憶の一端にとどめておくべきである」というのだ。

 

 ただ、改宗が上意下達の結果であっても、キリシタン文化には魅力があった。著者によれば、武士層は武運長久の新たな信仰対象を見いだし、知識人層は布教に伴って伝来する科学や文物に関心を寄せ、大衆は無病、大漁、豊作、繁盛など現世利益を求めた。仏教が「民衆の精神的救済機能を失い、むしろ彼らの生活を管理統制する」傾向を強めていたので、「民衆が新たな力ある南蛮の神に救いを求めたとしても不思議はない」と著者は分析する。

 

 この本は、キリシタン信仰がキリスト教そのものでないことを史料によって証拠づけていく。一例は、外海(そとめ)・五島地方に残る写本「天地始之事(てんちはじまりのこと)」。表題は旧約聖書「創世記」に由来するのだろうが、新約聖書の内容を含み、イエスや聖母マリアについての記述もある。驚くべきは、ここに「日本の民俗的世界観に基づく物語、伝説、宗教知識」が盛り込まれていることだ。著者は「まことに不思議な世界」という。

 

 天草の信仰事情を江戸後期の古文書で跡づけたくだりも興味深い。そこでは「御利益があるといわれれば簡単に洗礼も授かり、御利益がなければあっさりと捨ててしまう」というように、人の勧めでたやすく改宗棄教する村人の姿が描かれている。当時の日本社会は「だれもはっきりとキリシタンとは何かがわかっていなかった」と著者はみる。取り締まる側が、信徒を「心得違いの異宗徒」と扱って穏便に事を収めたこともあったらしい。

 

 僕には、潜伏キリシタンは近代以前に欧州の世界観に触れていたのだろうという先入観があった。それは見当違いだったようだ。この本で見えてくるのは、信仰の選択肢を一つふやしてしたたかに生きる民衆の姿。ここにこそ、内心の自由があったのだとも言える。

 

 異質のものも軽やかに受け入れる。その寛容こそが誇るべき文化遺産なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算432回、201883日公開)

 

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『カタルーニャの歴史と文化』

(M・ジンマーマン、M=C・ジンマーマン著、田澤耕訳、白水社・文庫クセジュ)

写真》カタルーニャの味、クレマカタラーナ(自家製)

 この秋、にわかに国際ニュースの表舞台に躍り出てきた感があるのがスペイン・カタルーニャ自治州の独立問題だ。今の欧州で1地域が1国家から分離独立するという話ではスコットランドのことがまず頭に浮かぶ(当欄2014年9月26日付「とびきり見事なスコットランド騒動」)。そして、スペイン国内の民族問題としてはバスクのほうがメディアを騒がせてきたように思う。それが突然のカタルーニャ。情報を追いかけるのが大変だった。

 

 思いだすのは、1992年のバルセロナ・オリンピックだ。中継画面のまぶしい青空を見て「ああ、スペインっていいなあ」と思ったことを覚えている。バルセロナといえば、スペインそのものだった。首都の座はマドリードに譲るが、文化の発信源としては引けをとらない。あの五輪は、そういう印象をいっそう強めたのである。だが、この都市はスペインの顔であるまえにカタルーニャの顔だった。今になって、そのことに気づく。

 

 これは、スペインの事情通にとっては当たり前のことだったのかもしれない。今回の出来事に戸惑いながら、現代のカタルーニャ独立運動と密接不可分の関係にあるスペイン内戦(1936〜1939)についてもっと学んでおくべきだった、と後悔する。

 

 この内戦で人民戦線政府を打ち破ったフランシスコ・フランコ将軍(1892〜1975)は権力を手にすると、総統を名乗って独裁体制を敷いた。この政権下で、カタルーニャ語を母語とする人々はそれを使うことを禁じられた。そのフランコの時代を僕たちの世代は知っているのだ。少年期にテレビのニュースで老総統の姿をみて、欧州にもまだ独裁国があるのだと驚いたことがある。その陰でカタルーニャ対する抑圧があったことになる。

 

 僕が好きな作家に、カルロス・ルイス・サフォンがいる。その著『風の影』(木村裕美訳、集英社文庫、上下2巻)と『天使のゲーム』(訳者、文庫名とも同じ、上下2巻)を併せて読むと、内戦前後のバルセロナの空気を知ることができる(後者については、文理悠々2013年7月8日付「バルセロナの風、サフォンの書物」参照)。バルセロナ生まれのサフォンが登場人物に託した書物愛は、カタルーニャの陰翳ある風土が生みだしたのだろう。

 

 ここで、文理悠々の拙稿で引いた『天使のゲーム』の一節を再引用しよう。夏の日の空模様を描いたくだりだ。「この日の午後、空に散る黒い雲が海からぐんぐん押しよせてきて、バルセロナのうえに結集した。水平線にとどろく雷鳴と、土ぼこりや電気のにおいをはこぶ生温かい風が、かなり大きな夏の雷雨の到来を告げていた」。そして「都(まち)の真上で稲妻が砕け、轟音と怒りの痕跡を残すときだけ、闇がさえぎられた」とある。

 

 丘から緩やかに下る地形は地中海が運ぶ湿気にいつもさらされている。南欧の青空が一瞬翳り、人々の心を騒がせる。カタルーニャの人々は、そんな胸騒ぎに慣れっこだったのだろう。世の中が激動しても驟雨をやり過ごすようにそれを躱してきたのではないか。

 

 で、今週の1冊は『カタルーニャの歴史と文化』(ミシェル・ジンマーマン、マリ=クレール・ジンマーマン著、田澤耕訳、白水社・文庫クセジュ)。訳者あとがきによれば、著者ミシェルは、フランス・トゥルーズ学派の系譜にある歴史家でカタルーニャ史に詳しい。マリ=クレールは、カタルーニャの中世文学を専攻するパリ・ソルボンヌ出身の文学者だ。ともに1937年生まれ、同姓なので家族関係が想像されるが私的事情への言及はない。

 

 前半を占める「歴史」の詳説は、正直に言うと大変に読みづらい。日本人にとっては馴染みの薄い固有名詞が次から次に出てきて、話の筋を追えなくなるからだ。たとえば、3〜5世紀の記述でも、フランク族、アラマニ族、バンダル族、スエビ族、西ゴート族といった諸集団がカタルーニャやその周辺地域に出没して抗争を繰り返す。大河ドラマを10年分くらい見なければたどることができないほど戦乱続きだったことがわかる。

 

 カタルーニャ史の要約がまえがきにある。「周辺諸国に対抗して国としての意識を持ちはじめたのちにも、完全な主権を有無を言わさず認めさせる機会にはほとんど恵まれなかった」。自らの歴史が「隣国の歴史に束縛されたり、統合されたり、同化させられたり」ということが多かったのだ。だが、「敗れはしても、消滅することはなかった」「政治的に支配されれば、経済的成功によってその意趣返しをした」。したたかな「不死鳥」である。

 

 著者によると、カタルーニャが「連帯感や集団としてのアイデンティティーを持つようになった」のは1000年ごろだ。当時、一帯はフランク王国のもとで伯爵たちの領地となっていた。10世紀後半にバルセロナはコルドバのイスラム政権の進攻を受けるが、王国は救援に腰をあげようとしない。「カタルーニャ人は、孤立無援の状況を自覚するとともに、フランクとサラセンの中間的位置に自分たちがいることを悟った」という。

 

 こうしてフランク王国の支配が終わると、伯爵たちが権力を手中に収める。「カタルーニャの人びとは、自分たちの運命を自分たちで決められるようになると…(中略)…セプティマニアとトゥルーズに対して連帯感を強く持ちはじめた」。後者二つは南仏の地名。どちらもかつてカタルーニャとともに西ゴート族の支配域だった。「伯爵たちはピレネーの北から奥方を迎えた」ともある。スペインとフランスをまたぐ紐帯は強かったのである。

 

 このことは、後段「文学」の章に描かれた14〜15世紀ごろのカタルーニャ詩壇の様子とも符合する。「詩人たちは、トゥルーズの詩会議(一三二三年)で定められたところに従い、プロバンス語で詩を書いていた」という。バルセロナで1393年に「プロバンス起源の詩の競技会」が始まったとの記述もある。プロバンスも南仏の地域。文化の領域では、時がたつにつれてカタルーニャと南仏の結びつきが強まっていたのだろう。

 

 ただ、政治には別の様相もある。バルセロナは12世紀に領地を広げ、伯爵家は西隣アラゴンの王家と姻戚関係を結ぶ。バルセロナ伯爵イコールアラゴン国王の出現だ。この「カタルーニャ・アラゴン連合王国」では「それぞれの国の独立性は尊重された」らしいが、カタルーニャは連合によって「スペインと政治的かかわりを再び持つようになった」と著者は指摘する。南仏に親近感があっても、やはりイベリア半島の国だったということか。

 

 ここで注目したいのは、この体制のもとでカタルーニャに民主主義の道具立てが仕掛けられたことだ。13世紀、ジャウマ1世(ハイメ1世=征服王)の統治下で、「コルツ」という名の議会が設けられたのである。それは階層別の代表を集め、「財政、政治、立法」で議論を交わす場だった。「伯王は諸都市の代表を集め、三つの階層に協力させることで国の安定と団結の強化を図った」とある。この時点ではトップダウンの民主主義だった。

 

 ちなみに、「三つの階層」とは聖職者、貴族、都市市民を指している。13世紀末には、この「三本の『腕』」でかたちづくられる議会が「王権をチェックし、制限する機能まで持つようになった」。1283年のコルツでは「以後、すべての法律の成立には、コルツの承認が必要だということを決定した」という。立法府の確立だ。権力者から与えられた民主主義の装置を、その権力者に枷をはめるものにつくり変えてしまったのである。

 

 14世紀半ばには「ジャナラリタット」という機関がつくられる。三本の「腕」の代表が加わる「議会の常設代表部」で、「議会で決定されたことの執行」を担っていた。興味深いのは、この機関名が20世紀のカタルーニャ史に再び登場することである。

 

 1931年にカタルーニャが「イベリア連邦内のカタルーニャ共和国」を宣言、マドリード政権から拒まれ、代わりに自治権の強い州政府「ジャナラリタット」の復活が認められた。内戦の36年秋、そこには「反ファシスト勢力すべてが顔をそろえていた」とある。

 

 カタルーニャ独立運動の背景には、荒波にもまれた民族の歴史がある。したたかな民主主義の伝統もある。その帰趨は21世紀に「国」の姿はどうあるべきかのヒントとなろう。

(執筆撮影・尾関章、通算396回)

 

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『ロベスピエールとフランス革命』(J・M・トムソン著、樋口謹一訳、岩波新書)

写真》トリコロール

 海の向こうで、有権者は今どんなことを考えているのだろうか。米国の話である。新大統領が内に外にお騒がせのタネをまき散らしている。それを増幅するように、指が軽々しくつぶやく癖もある。とはいえ、この人はきちんとした手続きを経て選ばれた人だ。今になって「こんなはずじゃなかった」と後悔しても、簡単に辞めさせることはできない。これが最高権力者を直接投票で選ぶ大統領公選制の短所であり、長所でもあるのだろう。

 

 よその国の話だから、軽々しいことは言えない。ただ、切に願っていることはある。なによりも、人の生命を奪う行為だけは絶対に避けてほしいということだ。僕たちの世代にとって忘れがたい出来事に、1963年に米国からの初の衛星中継で伝えられたジョン・F・ケネディ大統領の暗殺がある。銃弾をもって理性に刃向かう愚行を、人生の開幕期に見せつけられてしまった。同じような惨劇を閉幕期にもう一度見るのはゴメンだ。

 

 幸い、いま米国に広がるのは非暴力の抵抗だ。人々がデモに出る、裁判所がもの申す、メディアも批判する――それぞれがそれぞれの立場でできることをやっている。さすが、民主主義の国。ただ、政権を追い詰めるまでには至っていない。1974年にリチャード・ニクソンが自ら大統領職を辞したときはウォーターゲート事件という疑惑があった。これに対して現大統領の難点は、いわば理想主義の棚上げだ。情に訴えてくるので攻めにくい。

 

 こんなはずじゃなかった――。これは、決して米国だけの話ではない。国民投票で欧州連合(EU)離脱を決めた英国の人々にも、同様の思いはあるだろう。フランスでまもなく始まる大統領選挙でも、似たようなことが起こるかもしれない。共通項は「情」。世間の感情を浮揚力とするポピュリズムが席巻して変化をもたらすが、冷静になって理性に立ち戻ると「賢明ではなかったな」と悔いるような選択が、世界に蔓延しかねない様相だ。

 

 で、ふと思うのは、史上最大の「こんなはずじゃ……」は18世紀末のフランスにあったのではないか、ということだ。フランス革命は人類史の視点で見れば、封建主義と絶対王政を打ち破って近代の市民社会に道を開いた転換点として燦然と輝いている。だが、革命が起こって数年の混迷に着目すれば大きな汚点を残した。市民たちが立ちあがり、人権の旗を掲げたところまではよかったが、そのあとにとんでもない恐怖政治に陥ったのである。

 

 昨今のポピュリズム台頭とフランス革命とを比べて、大きな違いを言えば、前者は最初から最後まで情が支配しているように見えるが、後者は情に理が絡まっていることだ。いやむしろ、理が勝っているとさえ言えよう。人は理想主義に走っても後悔することがある。

 

 今週は、その歴史を振り返って『ロベスピエールとフランス革命』(J・M・トムソン著、樋口謹一訳、岩波新書)。著者は1878年生まれの英国の歴史家。訳者は政治思想史の学究で、翻訳当時は京都大学に在籍していたようだ。原著は1952年、邦訳は55年刊。

 

 この本は書名に人物と事象を並べて、人間と歴史の相互作用を浮かびあがらせている。巻頭「はしがき」で桑原武夫が書いているように、そこからは「人間は歴史の流れに規制されつつ、一方、この流れの速度を何ほどか加減し、またこれを何ほどか変向せしめる力をもつ」という歴史観がみてとれる。著者は、1789年に始まる革命で独裁色をしだいに強めたマクシミリアン・ロベスピエールの個人史を89〜94年の政治史と重ねて描いている。

 

 ロベスピエールは、フランス北部アラス出身の弁護士で、言葉には「なまり」があり、見てくれは「みすぼらしい」。カッコいいとは言い難い男だったらしい。実家は中産階級下層の「プティット・ブルジョワジー」。いわゆるプチブルだ。この階層の人々は、ささやかな土地をもつと苗字の前に「ド」をつけることができた。彼自身も「革命がすべてのフランス人を『市民』(シトワイヤン)にかえてしまうまで、署名にドを書きつづけた」という。

 

 1789年7月に革命が起こる直前、「三部会」の選挙に地元から出馬して当選する。三部会とは175年ぶりに開かれた議会で、「僧族、貴族、平民(第三身分)の三院」があった。彼はもちろん「第三身分」だ。こうして5年間に及ぶ政治家としての生活が始まる。

 

 このころのロベスピエールは、今で言えばリベラルな人権派だった。1791年に立憲議会がつくった憲法が、選挙の有権者を「三日分の賃金にひとしい税をはらう人々」に限ったのには反発したという。「主権は人民のうちに存在し、人民の一人一人によって分ちもたれるのであり、この主権は投票する権利を必然的に含む」という論理だ。宗教面では、僧侶も「人民の選挙」で選び、俸給制にして結婚も認めるべきだ、という立場をとった。

 

 特記すべきは、死刑に対する態度だ。アラスの弁護士時代から、この刑罰に「嫌悪の情」を露わにしていたらしい。1792年の共和政移行後は、王政終結を完了させるために前国王ルイ16世の死を求めたが、93年初めの処刑後は「これ以上死刑はあるべきではない」との考えを表明したという。それなのに彼は、自身の良心や理性よりも「国家理性」を優先させた、と著者はみる。その結果、人権派の志とはまったく逆方向に進みはじめた。

 

 ロベスピエールが率いる勢力は1793年秋、穏健路線ジロンド派の処刑に手をつける。翌94年春には急進路線のエベール派、次いで寛容なダントン派の面々を相次いで刑場に送る。ちなみにジョルジュ・ダントンは、彼が「愛情にとんだ献身的な友」とまで呼んだ盟友である。そして皮肉なことにその夏、彼――ロベスピエール自身が政敵の糾弾に遭って断頭台の露と消えた。処刑の連鎖という愚。そこには、どんな心理が働いていたのか。

 

 著者によれば、ロベスピエールには自分は「過渡期」にいるという認識が強かった。彼には「自由と平等とを平和に楽しむ」という目標があったが、それが達成されるまでに求められるのは「政権の継続」だとして、そのことに気をとられ、革命勢力が人々の権利を「管理」することと「独裁」することの違いについて考える余裕がなかった、という。「恐怖政治」は、彼自身にとって「徳の治世への控えの間であった」との分析もある。

 

 その犠牲になったのは皮肉にも理想だ。フランス革命は今でも色褪せない政策を提起していた。中央集権体制を壊して自治体に分権しようとしたのも、その一つだ。ところが、すぐに集権型に戻そうとする。この逆コースの背景にも過渡期の意識があったのだろう。

 

 「ジャコバン」をめぐる記述も印象に残る。ジャコバン派はロベスピエールが率いるようになった党派で、集会場所の修道院名からこう呼ばれる。急進派のイメージが強いが、もともとは議員や市民が「議会に提出されている諸問題」をとりあげて「あまり公式でない討論」ができる会費制のクラブだった。競争相手の「コルドリエ」などよりもずっと穏健だったらしい。それがロベスピエールとともに恐怖政治の牽引車に様変わりしたのである。

 

 この本で教えられるのは、フランス革命で起こったことが一度では終わらなかったという卓見だ。著者のまとめ方とは若干異なるのだが、僕なりに整理してみると、1830年の7月革命以降のブルジョワ主導王政→共和政→帝政の流れは、1789年の革命勃発から1804年のナポレオン1世皇帝即位までの15年間の焼き直しだ。もし革命政権がもうちょっと寛容であったなら、こんな無駄な繰り返しはなかったようにも思う。

 

 フランス革命の混迷は、僕たちが若かったころに目の当たりにした学生運動のそれと重なって見える。活動家はみな、社会変革をめざしていた。ただ、党派がその実現のために闘うには指導力の「継続」が必要だ。そのことが仲間内の制裁を招いたり、他派への暴力を引き起こしたりした。愚かなことだった。そこにもロベスピエール同様、過渡期意識があったのだろう。(当欄2016年2月12日付「2月の青春、日本社会の縮図」参照)

 

 人生に過渡期はない。人類の理想も不変ではない。バラ色の未来を掲げて同時代人の生を台無しにするのは、将来世代にとってもハタ迷惑なはずだ。僕たちがすべきは現在を慈しみながら、いま信じる理想をめざして世の中をちょっと変えてみることではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算362回)

 

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『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)

写真》ムシゴ・ナクヨ……

 物騒な出来事が頻発している。事件事故の報道で新聞記者泣かせなのは、情報が刻々と塗りかえられていくことだ。たとえば、犠牲者の人数。事象の大きさや深刻さの度合いを測る尺度となるので、なにがなんでも記事に盛り込みたい。ところが、それはなかなか確定しない。だから記者は、第1報を出稿してからもアップデートの手直しを繰り返す。だが最後には、待ったなしの締め切りがくる。紙面に出るのは、その時点で切りとった状況把握だ。

 

 不確定がだらだらと続くのは、事件事故では、時を追って明らかになることが少なくないからだ。搬送先での死亡確認がある。新たな遺体の発見もある。だから犠牲者数は、ふつうはふえる方向で変わる。朝刊で死者10人だったのが夕刊で15人になる、という推移は不自然ではない。ところが、ごくたまに逆の流れをたどることがある。朝刊で死者15人と報じていたのに夕刊では人数が減って10人と伝え直す、というような事例だ。

 

 死者が減るというのは、悪くない話だ。だが、新聞は「誤報」のそしりを受けかねない。たとえ報道機関に落ち度はなかったにしても、救急や捜査にあたる公的機関がどこかで数え方を間違った可能性がある。大事件や大事故の発生直後は人命の救助が最優先となるので、ほかのことで多少の混乱が起こるのは避けられないとも言える。最近の新聞は既報の犠牲者数を減る方向でアップデートするとき、こうした事情を正直に明かす傾向にある。

 

 データの更新をどうするか。この悩みは新聞だけのものではない。物事の拠りどころとして知の王座に君臨している教科書も同様だ。いや教科書のほうが、苦悩はいっそう深いのかもしれない。新聞の情報は半日刻みで打ちだされるので、揺れ動くことは織り込み済みだ。ところが、教科書の知識は固定感がある。改訂はあっても、そんなにしばしばではない。その結果、学界で否定された知見を真に受けたまま生涯を終わる人も出てくる。

 

 ところが、僕たちは教科書信仰からなかなか抜けだせない。たとえば、老若二人がビール片手に化学談義をしていたとする。若者が「塩化物イオン」という言葉を口にしたとたん、年寄りは「何、それ?」と聞く。若者が「シー・エル・マイナス」と答えると、「なんだ、塩素イオンのことか」と年寄り。「いや、学校で塩化物イオンと習いましたよ」「そんなことあるものか。塩素イオンと教わった。なんなら教科書をもってきてもいい」

 

 ここでは、若者も年寄りも教科書がすべてなのだ。「シー・エル・マイナス」をどう呼ぶかは、所詮は決めごとにすぎない。ただそれが教科書に載ったとたん、読み手となった年齢層にとっては絶対の知識となる。大脳皮質にしっかり焼き付けられてしまうのだ。

 

 で、今週は『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)。東京書籍の中学校教科書『新訂 新しい社会【歴史的分野】』(1972年刊)と『新編 新しい社会【歴史】』(2006年刊)を比べている。この本では前者に「昭和」、後者に「平成」の呼び名が与えられる。「昭和」の中身は、僕が1960年代に中学校で習ったこととほぼ一致する。「平成」に照らすと、今から見れば不正確な知識に自分が曝されていたことがよくわかる。

 

 日本史を中心に人類史や世界史も交えながら、古代から近代までの出来事をたどる構成。奥付著者欄に名前のある歴史学者が、一線の若手研究者による草稿をもとにまとめあげたという。2008年に単行本(東京書籍刊)が出て、11年に文庫化された。

 

 まず気づくのは、教科書掲載の肖像類の不確かさ。たとえば「昭和」で「【源頼朝画像】 藤原隆信(たかのぶ)筆と伝えられる」とされていたものが、「平成」では「源頼朝と伝えられる肖像画」に改められた。描き手のみならず、描かれた人も「伝えられる」の扱いを受けたのだ。この絵をめぐっては1990年代半ばに新説が出て論争が盛んになったという。そんなこともままあるだろう。この本には信頼度が薄れた画像の例がほかにも出てくる。

 

 ちょっとあきれる事柄もある。江戸時代の「士農工商」だ。「昭和」では「武士が最上位にあり、ついで百姓、その下に商人・職人がいたと説明していた」。この本が言及しているように、僕たちは授業で、農民を2番目に置いたのは年貢の重圧感をそらす懐柔策だった、という話を聞いた覚えもある。ところが「平成」からは、この用語がそっくり消滅したという。今の解釈では、当時「農工商」は横並びに遇されていたというのである。

 

 それで思いだされるのは、僕の小学校時代。休み時間は校庭で「士農工商」という遊びに夢中になっていた。ズックの爪先を地面に引きずって「田」の字を書く。4個のマスには序列があり、そこに1人ずつ入って、ボールをテニス風に打ちあう。商から始まり、勝てば工→農→士と昇格していく、というものだ。階級社会の是認が見え隠れする戦後民主主義の子らしからぬゲーム。その根っこにある近世観が空論に過ぎなかったとは。

 

 この本によると、江戸時代に「『百姓』と『町人』の区分は曖昧(あいまい)」で「出稼ぎによる村から町への人口流入も日常的におきていた」。それは、鎖国下で内なる近代が芽生えていたことを物語る。これが、日本近世の実態のようだ。「士農工商」の序列付き概念は「江戸時代後期、儒学者のイデオロギー的言説から派生したもの」で、明治時代になって教科書が世に広めたという。近代からの逆照射が近世像を歪めたのだとも言えよう。

 

 ただ教科書の新旧比べでは、旧の「昭和」を応援したくなる違いもある。「鎌倉幕府――『イイクニつくろう』と覚えたが……」の項をみてみよう。「昭和」では「頼朝は、1192年、朝廷から征夷(せいい)大将軍に任じられたので、その政府を鎌倉幕府とよび……」とある。ところが「平成」は、頼朝が征夷大将軍に就いた年については「昭和」の見解を踏襲しているものの、「1192年以前に幕府が成立したと読める記述になっている」。

 

 種明かしは簡単だ。この本によれば、そもそも鎌倉幕府の開府宣言などはなかったのだという。その結果、頼朝が武家政治体制を整えていく道筋のどこを幕府の始まりとみるかで、諸説が並び立つことになった。だとすれば、いつでもいいではないか。将軍就任で区切るのは朝廷からの権利付与に重きを置きすぎているとの批判はわからないでもないが、頼朝がそういうお墨付きを求めたのは事実だ。「イイクニ」には捨てがたい響きがある。

 

 読了して僕が思うのは、歴史は変わってもよいということだ。こんなことを口走ると、史実やその解釈を都合よく書き換える修正主義者と勘違いされるかもしれないが、それとはまったく違う。むしろ、事実に謙虚であれと言いたいのだ。この本の古代の章を読むと、歴史探究が今、自然科学と不可分になったことがわかる。理系知が遠い祖先の営みを明るみに出して、古い教科書を塗りかえていく。そんな動的な歴史学が僕たちの前にある。

 

 一例は、人類の出現がいつかだ。「昭和」は「まだよくはわかっていない」と逃げていたが、「平成」には「最も古い人類である猿人は、今から約400万年ほど前に、アフリカにあらわれました」とある。これは、1970年代に見つかった化石を根拠にしている。草原を二足歩行する猿人だ。ところが90年代から2000年代にかけて、森林暮らしの猿人のもっと古い化石が続々発見された。こちらは「平成」の記述も追いついていない。

 

 日本列島で稲作がいつ始まったか、も揺れ動いている。通説では紀元前400年代ぐらいと言われてきたが、「『AMS』とよばれる新しい炭素14年代測定法」で見直すと「前900〜前750年代とする結果となった」。国立歴史民俗博物館チームが、土器の付着物を調べて2003年に発表した成果だ。稲作は、弥生時代を特徴づける生業である。研究が進めば「弥生時代自体の年代がくりあがることもあり得る」と、この本は見通している。

 

 過去は一つに定まっている、と僕たちは思いがちだ。天の目で見ればその通りかもしれないが、人の限られた能力がそれを見極めているとは到底言えない。60年余を生きてみると、そのことが実感できる。自分自身の過去でさえ、ああだったかもしれないし、こうだったかもしれないということだらけだ。だから、教科書に書き込まれたことがいつも正しいわけではない。そのことを教えるのもまた、歴史教育ではないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算328回)

 

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『「満州国」見聞記――リットン調査団』
(ハインリッヒ・シュネー著、金森誠也訳、講談社学術文庫)
写真》括弧がつく国(本の扉から)
 
 初秋にアメリカのことを2回にわたって書いた。米国南部への私的な旅行がきっかけだった。そこで焦点をあてたのは、奴隷主と奴隷の関係という不幸な過去をもつ多人種、多民族社会の歪みだった。だが、このときに忘れてはいけないことが一つある。北米の大地は、奴隷主のものでも奴隷とされた人々のものでもなかったということである。彼らは移り住んだ人であり、連れて来られた人だった。
 
 その大陸には、もともと住む人々がいた。ところが大航海時代が始まると、欧州人が新天地を求めて乗り込んでくる。最後に優位に立ったのは、後発組の英国人だった。先住の人々はインド人でもないのに「インディアン」と呼ばれ、その居住域が狭められていく。英国の植民地支配層が大きな勢力をかたちづくるようになって、やがて宗主国に反旗を翻す。こうして産声をあげたのがアメリカ合衆国だった。
 
 僕たちにとって、米国の美点として羨むものは多い。たとえば、民主主義。日本では付け焼刃の制度でしかないものも社会風土として定着している。あるいは、自由。とりわけ表現や言論をめぐっては束縛を嫌う精神が横溢している。そして公正。これは当初からあったとは言えないが、公民権運動などによってかちとられてきた。そうしたもののすべてが先住民族を除けものにした元植民地のうえに乗っかっているという逆説。
 
 一つ言えるのは、米大陸の植民地は、弱肉強食がふつうだった時代に欧州の強国が切りひらいたということだ。中世は終わっていたにしても前近代の価値は生き残っていた。それを脱する二大事件が、18世紀後半にほぼ同期して起こった米国の独立とフランス革命だ。近代思想にもとづく民主主義体制の一つが植民地から芽生えたというのは、なんと皮肉なことだろうか。だが、それこそが時代の位相だったとは言えるのかもしれない。
 
 翻って、戦前日本の中国大陸進出はどうか。それを植民地支配と言うかどうかは別にして、大日本帝国が大陸に軍隊を送り、「外地」を実質支配していたことは間違いない。その政策が進められたのは、近代思想の一つ、民族自決論が世界に広がろうとしているころだった。だから、現地の人々や国際社会の強い抵抗を受ける。1931(昭和6)年の満州事変勃発から日中戦争(1937〜1945)に至る泥沼の状況は、こうした力学を映している。
 
 で、今週の一冊は『「満州国」見聞記――リットン調査団同行記』(ハインリッヒ・シュネー著、金森誠也訳、講談社学術文庫)。この本を選んだのは、そろそろ「満州」という言葉に真正面から向きあってもよいかな、と思ったからだ。
 
 僕たちの世代の新聞記者は、引用でない限り「満州」を「中国東北部」と言い換えるよう教わってきた。たしかに、前者は旧日本の負の国策と密接不可分だ。だが、年配の人が「私は満州育ちでね」と口にするとき、「中国東北部ですね」と言い返すことにはためらいもあった。一つの国を押し立ててまで「外地」での権益を守ろうとした日本の戦前戦中史をたどるとき、当時の日本人の心に刻みつけられた「満州」の一語は掻き消せない。
 
 この本の副題にあるリットン調査団と言えば、教科書に出ていたあの写真が思い浮かぶ。背広姿の男たちが線路を調べている光景。満州事変の引きがねをひいた柳条湖事件の現場だ。1931年9月、ここで南満州鉄道(満鉄)の鉄路が爆破された。だから、調査団の狙いは事件の検証にあると思いがちだが、実は違う。満州・極東情勢を第三者の立場で調べるため、国際連盟が派遣した「政治、行政、軍事、外交」の専門家チームだった。
 
 邦題副題に「同行」とあるが、著者自身も調査団員。1910年代にドイツ領東アフリカ知事を務めるなど植民地政策通だった。団長のビクター・ブルワー=リットン(英)をはじめ英米仏独伊の委員には植民地経験の豊かな人が多かった。そこには宗主国目線がある。
 
 調査団の旅は、半年をかけた長丁場だった。船旅の時代だから当然とも言える。欧州勢は1932年2月に出港、米本土やハワイを経て日本へ。著者はシベリアを通って9月に帰国した。そんなこともあって、この見聞記には弥次喜多の趣もある。たとえば、米領海内では船内でも表向きは飲酒ができなかったようで「アメリカの禁酒政策はきつかった」と書く。ハワイではオアフ島観光もして、9年後に日米開戦の着火点となる真珠湾を訪ねている。
 
 調査団を受け入れた日本も接待を欠かさない。東京滞在中は芝居見物あり、カモ猟あり。もちろん、団員は宴会にも招かれる。「三階建ての料亭に着くと、玄関で芸者衆がそろってあいさつした」。座敷では熱燗のお酌攻勢に遭うが、「どの芸者も一人のお客の前にたかだか五分坐るだけ、その間になにか話題を見つけようとつとめていた」。芸者さんにしてみれば、たとえ通訳がいたにしても、何を話したらよいか戸惑ったことだろう。
 
 長旅は、物見遊山をもたらしただけではない。団員は、極東の不穏な情勢をリアルタイムで実感した。日本滞在時には、三井財閥を率いた團琢磨男爵が、会って2日後に暗殺された。著者は事件当日、海軍大臣らとの昼食の席で、一報をリットンから耳打ちされる。「つい数日前、われわれ一同を招いてくれたこのすぐれた産業界指導者が殺されたというニュースには、衝撃を受けた」が、日本側の出席者は「事件については一言も触れなかった」。
 
 興味深いのは、調査団が5・15事件を挟んで、その前後に日本内地の土を踏んでいることだ。この事件で凶弾に倒れた犬養毅首相には、2月末の日本到着直後に表敬訪問していた。そして、大陸に渡った後の7月に再び朝鮮半島経由でやって来る。
 
 どちらの来訪時にも会った人のなかに、荒木貞夫陸軍大臣がいる。7月に再会したときの様子を、著者はこう書く。「初対面以来、何ヵ月も経っていないのに、荒木将軍は急に老けこんだように見えた」。前回は「豪放磊落な態度」だったのに、こんどは「どことなく不安そうな面持ちで、時々手にした紙片を見ながらゆっくりと考え深そうに語った」。そこに著者は、陸軍の士官候補生を含む集団が起こした5・15事件の影をみる。
 
 この年、大陸では3月1日に「満州国」の建国宣言があり、まもなく清のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀が「執政」となる。日本政府は「『満州国』は民衆の自発的運動によって成立したもの」と主張した。だが、調査団が「満州国」で受けた印象は違った。「満州人はたえず中国人と結婚していたし、中国文化が圧倒的強みをみせた関係上、自ら満州族だと感じている者はごく少数にすぎなかった」。著者は「自発的運動」を見いださない。
 
 調査団は、建国の実態も目の当たりにした。「政府機関のいたるところに実権を握っている日本人顧問がいた。われわれの滞在中、制度が変り、これら日本人顧問の多くが、『満州国』から委託され、正式に『満州国』の官吏に任命された」。満州国領に組み込まれた関東州でも、石炭や大豆などの活用法を開発する研究施設を訪ねると、所長は日本人。産業博物館も、運営している幹部は日本人。「満州国」の資源力は「民衆」の掌にはなかった。
 
 この本には当時の日本の政情分析も出てくる。「いまのところ日本は国家主義一点ばりで議会の各政党もこれを支持している。もともと政党といっても、その相違点は国家主義的立場をどの程度支持するかという度合のちがいにあるだけである」「新党が結成されたが、これは二大政党以上に国家主義的立場をとっている」。リベラリズムの受け皿が乏しいことでは、今の政治状況とよく似ている。
 
 本の末尾で著者は、日本政府が「満州国」にとどまらず軍を進めれば「全世界を敵にまわす」ことになり、「危険かつ困難な状況に身を置く」と予言している。それが不幸にも的中して、日中戦争から太平洋戦争へと深みにはまっていった。この警告を発したのが、理想主義者というよりは自ら植民地統治にも腕をふるった実務家だったことは注目に値する。それほどまでに、日本の国家主義は時代の位相からずれていたのだと言えよう。
(執筆撮影・尾関章、通算287回)
 
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『歴史とは何か』(E・H・カー著、清水幾太郎訳、岩波新書)
写真》2015年8月のカレンダー
 
 今年の8月は、過去を顧みることの連続だった。一つは、第二次世界大戦の終結からちょうど70年が過ぎたことだ。もう一つ、日本航空ジャンボ機墜落事故から満30年の節目でもあった。10年単位の区切りは、戦禍や事故で生命を奪われた人々にとって意味があるわけではあるまい。だが、生きている者には自らの思いを新たにする機会となる。戦後70年の今夏は、負の記憶を風化に抗してどう受け継ぐかについて深く考えさせられた。
 
 たとえば、安倍晋三首相の戦後70年談話。その良し悪しは、ひとまず措こう。ただ、そこに一つ矛盾があることは気になってしようがない。親安倍、反安倍の立場は別にして、そのことがもっと論じられたらばよいと僕は思う。
 
 談話は「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」と、謝罪の意思を引用のかたちで表しながら、しばらく後で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言い添えている。
 
 安倍さんは1954年生まれ。彼自身もまた「あの戦争には何ら関わりのない」世代なのである。それでも日本政府を代表して謝罪の姿勢を示したのはなぜか。しかも「今後も、揺るぎない」と言ったのだから、子や孫やその先の世代の後継者にも「謝罪を続ける宿命」を負ってもらうことになる。これは、謝罪を子どもには押しつけないが、大人になったら引き受けてほしいという趣旨でもなさそうだ。ならばやはり、そこに矛盾がある。
 
 人は、個人であると同時に社会や組織の一員でもある。自らが属する集団が自らのあずかり知らない過去の重大事象に関与しているとき、僕たちはどういう態度をとればよいのか。これは難題で、すぐには答えが出ない。ただ、他人事としてスルーできないだろうとは思う。このことは、日航ジャンボ機事故の慰霊行事に、事故後に入社したJAL社員たちがかかわっていることでもわかる。彼らは「宿命」を引き受けているのである。
 
 ここで思い出されるのは、先日当欄(2015年6月12日付「デリダ、脱構築の『嘘』論と『赦し』論」)で紹介したジャック・デリダ著『言葉にのって』(林好雄、森本和夫、本間邦雄訳、ちくま学芸文庫)という本の一節だ。著者はユダヤ系のフランス人哲学者で、ナチスの迫害で加害者側と被害者側に分かれた「ドイツ人とフランス人」や「ドイツ人とユダヤ人」の間の代替わり後の「赦し」について、難解な言い回しで次のように語っている。
 
 「まさしく赦しが不可能と見える瞬間にこそ、その純粋な可能性がそのものとして現われてくるのではないか」「ヘーゲルは、赦しと和解を歴史性のまさに原動力としました」「赦しや和解などのない歴史はありません」――デリダは、赦しはありうるとみる。ただ、それは歴史のなかで収束する話で、10年単位の区切りですっきり割り切るには無理がありそうだ。謝罪をいつまで続けるのかという問いも、その赦しと裏表の関係にある。
 
 で今週は、大きく構えて『歴史とは何か』(E・H・カー著、清水幾太郎訳、岩波新書)。帯に「絶対名著」とある通り、この老舗新書のなかでもとりわけ名高い1冊だ。著者(1892〜1982)は英国外務省に勤め、そのあと学界に入ったロシア通の歴史家。原著は1961年、その年初めのケンブリッジ大学での講演をもとに出された。邦訳本は、新書版で翌春刊行。以来、ロングセラーとなり、去年11月、第83刷で改版された。
 
 この本は、「過去に関するすべての事実が歴史的事実であるわけではない」として「歴史上の事実を過去に関する他の事実から区別する規準は何なのでしょうか」と問うところから始まる。それに対する答えは「歴史家は必然的に選択的」というものだ。「歴史家の解釈から独立に客観的に存在する歴史的事実という堅い芯を信じるのは、前後顚倒の誤謬」と、あっさり言ってのけるのである。
 
 だから、歴史家、なかでもふんだんな史料に囲まれた近代史家は忙しい。「少しの重要な事実を発見して、これを歴史上の事実たらしめると同時に、沢山の重要でない事実を非歴史的な事実として棄てるという二重の仕事」を強いられるからだ。
 
 例に挙がるのが、ワイマール時代のドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンが残した膨大な文書だ。秘書が編纂した書物では西方外交の成果が強調され、対ソ外交は「小さく扱われていた」。その英語版は英国の読者向けに「縮訳」されたので、この印象がいっそう強まった。ところが原典にあたると、対ソが「彼の外交政策全体の中で大きな役割を果していた」。意地悪く言えば、これもまたロシア通ならではの「解釈」かもしれないが……。
 
 一方で著者は、薄っぺらな「解釈」至上主義も戒めている。「正しい解釈の規準は現在のある目的にとっての適合性」ということになると、「歴史上の事実は無で、解釈が一切」とみる極論に陥りかねないと案じる。「歴史家は事実の慎ましい奴隷でもなく、その暴虐な主人でもない」「歴史家は現在の一部であり、事実は過去に属している」と述べた後に出てくるのが、この本を特徴づけるあの名言だ。
 
 「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」
 
 さて、それでは歴史家が過去の事実から重要なものを選びとるときの物差しは何か。著者は「未来だけが、過去を解釈する鍵を与えてくれる」と言う。求められるのは「自分の見方を未来に投げ入れてみて」「深さも永続性も優っている洞察を獲得する」という作業だ。だから名言にある「現在と過去との間の対話」も、後段では「過去の諸事件と次第に現われて来る未来の諸目的との間の対話」と言い直している。
 
 ここに見てとれるのは、歴史は進歩するという確信である。「過去に対する歴史家の解釈も、重要なもの、意味あるものの選択も、新しいゴールが次第に現われるに伴なって進化して行きます」。進歩と言えばヘーゲル哲学の歴史観が思い浮かぶが、この本はそこにも「未来を望み見るのを避けようとする」傾向があることを見逃さない。著者は、その意味で筋金入りの進歩主義者なのである。
 
 僕が著者の歴史論で違和感を覚えるのは、偶然に対する過小評価だ。批判の矢面に立つのは、クレオパトラの鼻が歴史を変えたという小話。著者によれば、アントニウスが彼女の美貌に惑わされたのも、偶然というよりは因果関係の帰結であり、そういう日常の因果が「最も本格的な原因結果の連鎖」の攪乱要因になる。こうしたなかで、歴史家の役回りは「歴史的に有意味な因果の連鎖を」「多くの連鎖の中から取り出す」ことだという。
 
 だが今、僕たちは「バタフライ効果」という言葉を知っている。カオスの科学が教えてくれた因果のありようだ。この理論によると、北米大陸の蝶の羽ばたきが日本列島の気象を大きく変え、東京に猛暑や冷夏をもたらすこともあるという。蝶の振る舞いも、それだけを取りだせばどこかに原因がある。だが、蝶の翅がどんなタイミングで動き、そのときに大気の状態がどうだったかは偶然とみなしてよいだろう。
 
 一瞬のわずかな違いが、世界を大きく左右して未来予測を困難にする。そんなカオスの知見が現代科学の関心事として広まったのは1960〜70年代だ。著者の講演が61年ではなく今ならば、科学の進歩を取り込んで「進化」した歴史観を聴けたかもしれない。
 
 話を、負の記憶に戻そう。著者はこの本で、歴史家は「社会の意識的あるいは無意識的なスポークスマン」として「歴史的過去の事実に近づいて行く」と言っている。集団としての赦しや謝罪を考えるとき、歴史家でない僕たちも同様の自覚を求められてはいまいか。
(執筆撮影・尾関章、通算279回)
 
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