『アメリカ外交50年』

(ジョージ・F・ケナン著、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳、岩波現代文庫)

写真》朝日新聞2017年11月7日朝刊

 トランプ旋風が日本にも吹いた。大統領が昼食にハンバーガーをパクついた、首脳同士がゴルフをしながらグータッチした、娘や妻も次々に来日して高価そうなファッションを見せつけた――なにか、そんなふわふわしたことだけが脳裏に焼きついている。

 

 だが、背後で一つ実を結びそうなことがあった。米製の防衛装備品を日本が買うという話だ。米国トップが外交の舞台でこれほどあからさまに商談に熱中したことに僕は驚く。

 

 ここで言っておきたいのは、僕たちの世代にとって米国がずっと特別な国だったことだ。物心がついたころは、その国が「鬼畜」呼ばわりされていた戦時から約10年しかたっていない。戦争は、ほんの近過去の出来事。2017年の今から第1次安倍内閣のころを振り返るようなものだ。ところが、大人たちが元敵国の「鬼」たちに脅えている様子はほとんど感じられなかった。子どもの目にも、米国人はカッコいい存在に映っていたのである。

 

 街には駐留軍のジープが走り、長身の頭にGIキャップを載せた兵士たちがたむろしていた。ラジオのダイヤルを回すと、NHK第1、第2の次にFENが聞こえてきてポップスが流れていた。まさに『ワシントンハイツ――GHQが東京に刻んだ戦後』(秋尾沙戸子著、新潮文庫)が描いたような世界だ(当欄の前身、文理悠々2013年12月9日付「『嵐』の源流、金網の中のアメリカ」)。実際、僕が電車の窓から眺めたハイツもまぶしかった。

 

 この印象が市井に暮らす人々の心情だとすると、理念では逆のベクトルもあった。僕たちは小学生のころ、60年安保闘争のデモ映像でそのことを知る。そこには反米ナショナリズムの一面が間違いなくあったが、ただそれでも、15年前の敵国に対する怨念という色彩は帯びていなかったように思う。子ども心にも東西冷戦の一方に与して核大国の傘に入るという選択はよくないように思えたが、嫌米感情はまったく起こらなかった。

 

 この相反するベクトルの綱引きは、青春期にいっそうはっきりした。片方には米国で生まれたニューシネマがあり、アメリカ文学があり、そしてジャズやロックやフォークソングの旋律とリズムがあった。もう一方ではベトナム戦争が泥沼の様相を強めていて、それを推し進める政治体制を米帝国主義、略して米帝と呼ぶようになった。きわめて興味深いのは、後者が前者を触発して、その前者の発信に僕たちが共感していたことである。

 

 ここで痛感するのは、アメリカ合衆国の風通しのよさだ。ときの政権が国際社会でとった態度に同調しない人がいる。いやむしろ、反発をバネに魅力あふれる対抗文化を生みだすことすらある。これこそが、米国が「鬼」のレッテルを貼られても米国人自身は「鬼」と見られない最大の理由なのだろう。ではなぜ、そんな健全な社会風土があるにもかかわらず、米国の政治家は繰り返し戦争に手を染めてきたのか。その疑問がどうしても残る。

 

 で、今週の1冊は『アメリカ外交50年』(ジョージ・F・ケナン著、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳、岩波現代文庫)。著者(1904〜2005)は米国の外交官としてモスクワなどに駐在、第2次大戦後には国務省政策企画室長や駐ソ大使などを務めた人だ。

 

 原著は、1950年にシカゴ大学であった講演や当時の雑誌論文をもとに51年に刊行された。52年には邦訳が出ている(岩波現代叢書)。85年には最新の講演録を添えた増補版が米国で出され、この翻訳も岩波書店が86年に出版。今回の本は、その文庫版だ(2000年刊)。書名は最初の邦題を踏襲しているので、「50年」は本来20世紀半ばまでの半世紀。だが、増補されたことでベトナム戦争をも振り返る論考集となっている。

 

 有賀執筆の訳者あとがきによると、著者が国務省在勤時代、「フォーリン・アフェアーズ」誌1947年7月号に寄稿した匿名論文は「封じ込め政策」という言葉を広めたという。その「ソヴェトの行動の源泉」が、この本に再録されている。このなかには確かに「アメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連邦の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込め(コンテインメント)でなければならない」との記述がある。

 

 この一点からも、著者が戦後の米国外交を構想した一人だったことがわかる。冷戦の構図を描いた仕掛け人と言ってよいのかもしれない。ただ、ページを繰っていて思い知らされるのは、この人はただの官僚ではなく、策士でもないということだ。歴史をひもといて自国の外交の短所をあぶり出す。その筆致からは、タカよりもハト、思慮深い知識人としての横顔が見てとれる。この本には、冷戦が過ぎた今でも傾聴に値する教訓が詰まっている。

 

 冒頭の章「スペインとの戦争」に、それはすでに見られる。19世紀末の米西戦争でフィリピンは米領となったが、そこに植民地型の統治が生まれたことに批判の目を注ぐ。社会の構成員は「『市民』と呼ぶ人びと」に限られるべきであり「『被支配者』という異質のものを取り込もうとする」ことは「自らの本質的性格を汚す」とみるならば、「われわれの制度が及ぶ可能な範囲は限定されたもの」にとどめなくてはならない、と論じる。

 

 念頭にあるのは、米国自身の独立史だ。ここでは、米西戦争後に米上院議員の一人が「外国の領土を併合し、これをその住民の同意なくして統治すること」を「独立宣言の神聖な諸原則に全く背馳しており、また憲法の諸目的を推進するものでない」と断じた史実が参照されている。この議員は、建国者たちは子孫が「金ぴかの皇帝や安物の王様の古着を着込んでいばって歩き廻るようなこと」をするとは思ってもいなかったはず、と嘆いたともいう。

 

 ここで、僕はハッとさせられた。前述のように僕たちは若いころ、「米帝国主義」という言葉になじんでいたが、考えてみれば合衆国に昔も今も皇帝はいない。それがどうして帝国まがいの行動をとってきたのか。その謎解きが、この本の読みどころといってよい。

 

 ここで出てくるキーワードが「法律」と「道徳」だ。著者は、米外交史の「最も重大な過誤」は「法律家的(リーガリスティック)・道徳家的(モラリスティック)アプローチと呼ばれるもののうち」にある、と見抜く。これは「アングロ・サクソン流の個人主義的法律観念を国際社会に置き換え」「政府間にも通用させようとする努力」として表れるという。なるほど、米国が「世界の警察官」と言われるのも、むべなるかなである。

 

 感心するのは、この分析に冷戦後を予見するような洞察があることだ。著者は、法律家的な発想では「内戦は国内的のものに止まり、国際戦争にまで発展しない」と考えがちだと指摘する。国を個人のようにみなすからだろう。その結果、「国際社会は各々の国家の領域内において権力を主張する競争者のうちいずれを選択するかというような立場に置かれるようなことはない」と高を括ってしまう。それが破綻したのが局地紛争の多発ではないか。

 

 「アメリカとロシアの将来」と題する論考(「フォーリン・アフェアーズ」1951年4月号)で、早々とソ連崩壊に思考をめぐらせていることにも驚く。「過去のロシアに存在した系譜ほど立派な自由主義の伝統はない」として、ロシア人たちは「将来のロシアにおいて、その伝統を支配的な要素とするようにあらんかぎりの力をつくすであろう」という。執筆時点のロシアを「ソヴェト体制の時代という幕間」に位置づける長い目の歴史観だ。

 

 著者がここで強く戒めるのは「西側世界の民主主義の夢の複製を性急につくらせようとする」お節介であり、促すのは「どうみてもわれわれのものに似ておらず、しかも非難できないような社会構造と政府形態とが存在し得るということをはっきり認める」謙虚さだ。これは、ベトナム介入への反省につながる。ホー・チ・ミン政権は、米国の出方次第では「共産圏とわが国とに対してそのどちらにも偏らない関係」を保とうとしただろうともいう。

 

 この本にも出てくるが、米国の外交政策は戦後、核兵器の危険を抱え込むことになった。保有国同士は「互いに相手の人質となった」のである。だからこそ、冷静にものを考えられる人物が大統領のそばにいなくてはならない。現政権に第二のケナンはいるのだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算394回)

 

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『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)

写真》スイートなアメリカ

 トランプ大統領が現実になる。当欄は昨秋、今年の米国大統領選について「当選するのは、たぶんあの人だと思うが、もしかしたら違うかもしれない」と書いた(2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。歴史の針は、その「もしかしたら」に振れたのである。有力メディアの多くはドナルド・トランプ氏の言動にあきれて批判を重ねたが、それが通じなかった。そして選挙終盤、世論調査の大勢も有権者の動向を見誤った。

 

 またも痛感するのは、既成メディアの凋落だ。人々の心に訴える力も、人々の心を読む力も衰えた。「ジャーナリストが世論を代弁して、権力と対峙するという模式図が通用しなくなった」のである(当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」)。8月の拙稿では、メディアが「世論の幻影」を求めて多様な主張の「当たり障りのない平均値」をはじき出そうとしていることに言及したが、その計算も難しくなってしまった。

 

 そんな現実への戸惑いを率直に打ち明けたのが、米国のリベラル派経済学者ポール・クルーグマンの論考だ。ニューヨーク・タイムズが11月11日に載せたものを抄訳で読んだ。「私は『その日』以降の大半はニュースを避け、個人的なことに時間を費やし、基本的に頭の中をからっぽにして過ごした」(朝日新聞2016年11月17日朝刊)。「その日」とは選挙結果が出た日だろう。この気持ちはわかる。僕も数日間は新聞を読む気分が萎えた。

 

 クルーグマンは「でも」と続けて、虚脱状態は「民主主義国の市民」らしくないと思い直す。「真実と米国の根本的な価値観のため」の抵抗が必要だとしたうえで「だが…(中略)…演説や文章が人の考えを変え、政治的行動主義が最終的に権力者を変えることも…(中略)…もはや期待できなくなっている」「だが、免れようがないと言って、この状況を受け入れるつもりはない」と右往左往する。「でも」と「だが」の連発に苦悩がにじむ。

 

 この当惑は、たぶんリベラル派だけのものではない。そう思うのは文中に「真実と米国の根本的な価値観」とあるからだ。人権、自由、平等。米国の指導者は独立以来、やせても枯れても理念とともにあった。独り善がりが余計なお節介となって国外の紛争をドロ沼化させることもあったが、彼らが建前の旗を降ろすことはなかった。それがただ“Make America Great Again(米国をもう一度、偉大に)”の本音だけに代わってしまうことへの違和感。

 

 で、今週は『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)。著者の卓見には、これまでも彼女の著作ではない本を語るときに触れてきた(当欄2014年10月17日付「今こそ宇沢経済学ではないか」、2016年8月19日付「『かたち』から入るというサイエンス」)。今度は本人の本をぜひ、と機会を狙っていたら、邦題『壊れゆく…』が目にとまった。2016年暮れの心象風景にぴったりくる書名ではある。

 

 著者(1916〜2006)は米国出身で、後年、カナダに移住した都市問題の論客。フリーの著述家として健筆をふるった。代表作は『アメリカ大都市の死と生』。アカデミズムから離れたところで思想を深め、社会に影響を与えた人だ。この一点で、僕は『沈黙の春』のレイチェル・カーソンとの共通項を見る。『壊れゆく…』の原題は“Dark Age Ahead”。2004年に出て、著者の遺作となった。この邦訳の刊行は2008年。

 

 一読してわかるのは、著者が母国と移住先をひと括りにとらえていることだ。邦題の「アメリカ」は北米と読んだほうがよい。米国、カナダの同時代史を考察している。文章は融通無碍にあちこちへ飛ぶが、そこには一貫した論理がある。その主軸は得意の都市論だ。

 

 著者が「倒壊」の兆しをみるものの一つが「家族」だ。だが保守派のように、家族の絆の緩みを嘆いているのではない。むしろ、孤立しがちな核家族が地域社会(コミュニティ)とどう関係するかに関心を寄せる。興味深いのは、地域社会のもっとも大切な機能は「友人や知人、近隣との会話によるかかわり」であり、その回路で知識や情報がもたらされれば核家族の人々が地域の一員として「責任を果たすことができる」と論じていることだ。

 

 「責任」とはどんなものか。著者が挙げるのは「軽い病気や怪我の場合に自宅で治療できるだけの知識と経験」「病気や怪我が自宅療養できないほど重症で命に関わる危険があるかどうかを、即座に正しく判断できる能力」「子どもが薬物に走らないように注意し、また他人を警戒しつつだれでも疑ってはいけないと子どもを訓練する能力と気配り」……。核家族が地域に支えられれば、救急車や警察ばかりに頼らない社会が生まれるということか。

 

 著者が危ういと感じる二つめは「大学」だ。北米では「教育を授けるのではなく、卒業証書を与えることが一義的なビジネスとなっている」と断じて、親がわが子の大学進学を「投資」とみる傾向を嘆く。日米の大学比較論で、日本では入試が難しくて卒業はたやすいが、米国では入学後の学業が厳しいので出るのが難しい、という話をよく聞くが、必ずしもそうではないらしい。1960年代から証書発行の場と化したという。

 

 著者によれば、学歴偏重社会は「一九三〇年代の大恐慌の、いわば間接的な遺産」だ。米国やカナダには働きぐちを得ることを最優先に考える文化が生まれた。その志向は教育を蝕んだだけではない。開発本位の政策も生みだした。一例は、米国が1950年代半ばから進めた「州間高速道路システム」だ。「高速道路建設によるアメリカの地域社会の破壊という意見は、完全雇用の創出という正当性によって簡単に打ち消された」と批判している。

 

 トランプ旋風の背後には、ラストベルト=錆びた工業地帯に根強い雇用喪失への危機感があったといわれる。著者は、大恐慌の記憶をたどって大量失業がもたらす苦難を描く一方、求職一辺倒、雇用一辺倒という妖怪が社会を歪めてきた現代史も見逃していない。

 

 印象深いのは「放棄されたサイエンス」という章だ。著者が1950年代、ニューヨーク・グリニッチビレッジの広場を分断する高速道路案に反対したとき、当局者は「交通は水のようなもの」と言い張ったという。せき止めた水が別の出口に流れるように、マイカー時代に幹線道路がなければ周りの小道が車だらけになる、という理屈だ。だが現実には「彼の不吉な予言はあたらなかった」。一見科学的な「水の仮説」が実は科学的でないという逆説。

 

 この章には、1995年夏に数百人が犠牲となったシカゴ熱波の話も出てくる。批判の的は、水分摂取不足、エアコンなしという引きがねばかりにとらわれた医療チームの調査。自己責任論に陥りかねないことを指摘する。むしろ著者は、社会学の大学院生が進めた研究に着目する。それによれば、高齢者の死亡率が低い地域では彼らの多くが商店主と顔見知りで、「ためらわず涼しい店中に入っていき、一杯の水を求めることもできた」という。

 

 この二つの事例からわかるのは、著者は都市問題に科学のメスを入れるとき、人間を不可欠の要素と位置づけていることだ。人は、道路事情が悪ければマイカーを使わずに出かけようという気になる。見知った顔を見かければ「ちょっと涼ませてくれるかな」と頼むこともできる。それが人間というものだ。流れるものならなんでも水にたとえ、生命体といえば生理作用しか思い浮かばない思考のありようは、本当の科学ではないということだろう。

 

 著者は、この章で科学の惰性を戒めている。そこでもちだすのは、科学史家トマス・クーンの論考で広まったパラダイムという概念だ。考え方の枠組みである。科学界でパラダイムは「非常に大切にされる傾向」にあるので、それを疑う「新しい知識や証拠」を突きつけられると「こじつけの説明」などで「潤色される」という。頭に浮かぶのは、3・11後の今も根強い原発必要論だ。ここでも、人間を織り込んだ新思考が求められてはいないか。

 

 「アメリカの郊外を数キロほどドライブしても、乗用車やトラックから降りた人や歩いている人影は見かけない」「地域社会が存在するためには、人々が本人同士で出会わなければならない」。これこそが、ジェイコブズ思想の核心だろう。米国社会が取り戻すべきは偉大さではなく、人が歩いて人と会い、言葉を交わす町ではないのか。よその国のことではあるが、その開放感のある文化が好きだからこそ、余計なお世話を焼きたくなる。

(執筆撮影・尾関章、通算345回)

 

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『13日間――キューバ危機回顧録』
(ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳、中公文庫)
写真》アトランタにはジミー・カーター大統領の資料館
 
 来年の今ごろは、アメリカ合衆国の新しい大統領が決まっていることだろう。当選するのは、たぶんあの人だと思うが、もしかしたら違うかもしれない。よその国の選挙なのに、そんなふうに気を揉むのはどうしてか。
 
 一つには、最高権力者公選の醍醐味が海を越えて伝わってくるからだ。絶大な権限を委ねはするものの居座りは許さず、4年ごとにみんなで選び直す。我こそはと思う人々が次々に名乗りをあげ、支持のとりつけに東奔西走する。二大政党は、それぞれ党大会で候補を一人に絞り、最後はガチンコ対決だ。有権者は間接的に「選挙人」を選ぶが、勝者総取りの州が大半なので死に票はいっぱい出る。欠点も多い。でも動的興奮に満ちている。
 
 長丁場のレースにはいくつものヤマ場があり、どこの陣営もショーアップに余念がない。それらは、テレビニュースの格好の素材だ。お祭り感覚のカラフルな選挙戦も世界の耳目を引き寄せているのである。
 
 この選挙に、僕は子どものころから熱中した。1960年、民主党のジョン・F・ケネディ(JFK)と共和党のリチャード・ニクソンのテレビ討論は、日本にない政治家像を見せつけた。68年はJFKの弟ロバートが民主党の候補者指名をめざす遊説中に凶弾に倒れた。72年は民主党候補ジョージ・マクガバンが反戦旋風を巻き起こした。どちらも最後はニクソンが勝ったのだが、夢破れた二人こそ若者の希望の星だった。
 
 その熱気は、ロバート・ケネディ暗殺の日を、事件現場のホテルを舞台にオムニバス形式で描いた映画「ボビー」(エミリオ・エステヴェス監督、2006年)を観れば、うかがい知れる。この人によって世界は変わるだろう。そんな思いが人々の間にはあった。
 
 考えようによっては、米大統領選を前にして人々には二つの未来が用意されていたとも言える。冷戦がますます深刻になるのか、それとも雪解けに転じるのか、という真反対の道筋だ。だれが勝者になるかによって、そのどちらかが現実になる。それは世界の運命と密接不可分なので、遠い島国にいる高校生も無関心ではいられなかった。米国の大統領とは、そんな存在なのである。
 
 で、今週の一冊は『13日間――キューバ危機回顧録』(ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳、中公文庫)。JFKが大統領だった1962年10月中旬、米政府はソ連がキューバに攻撃用ミサイルの基地を造りつつあることに気づく。第3次世界大戦のリスクを抱えながら、軍事行動をとるべきか。著者は司法長官として、そして兄の腹心として、政府中枢の議論に加わり、対ソ工作もした。この本は、その生々しい記録である。
 
 このとき、僕は小学5年生だった。給食の時間には、教室のスピーカーからラジオ番組の児童向けニュース解説が流され、たいていは聞き過ごしていたのだが、あのときばかりは緊張して耳を傾けた。一触即発の事態であることは、子ども心にも感じとれた。
 
 キューバ危機の展開はこうだ。米政府内では10月16日、偵察機が基地建設現場を撮った写真の解析結果が大統領にあがる。ミサイルは核弾頭を積める。首都ワシントンも射程に入っている。喉もとに刃物を突きつけられたかたちだった。統合参謀本部には強硬論が強かったが、大統領は軍事行動を避けて海上封鎖で対抗する。そしてソ連のニキータ・フルシチョフ首相と書簡をやりとりして、28日にミサイル撤退の譲歩を引きだした。
 
 著者は、この13日間に焦点をあて、米首脳部の会議の流れをたどる。出席者として居並ぶのは、ディーン・ラスク国務長官、ロバート・マクナマラ国防長官……財務長官もいる、中央情報局(CIA)長官もいる、大統領顧問もいる、もちろん著者も入る。この一団がその後、大統領を委員長とする「国家安全保障会議執行委員会」(エクス・コム)のメンバーに正式に任命されて連日、危機管理に当たったのである。
 
 驚くべきは「みんな対等の立場で発言した」ということだ。国務長官が議長役ということになっていたらしいが、公務で抜けることが多く、仕切り役なしで「自由かつ無制限」の議論が許されたという。それは、マクナマラ長官が「海上封鎖の最も強い主唱者」だったのに、統合参謀本部のメンバーは「即時軍事行動」を訴えたという記述からもうかがえる。この段階では、国防総省(ペンタゴン)でさえも一枚岩を強いられなかった。
 
 著者も、封鎖支持の立場から論陣を張る。大国が小国を奇襲することの是非をとりあげて「われわれが国内において、そして地球上において、道義上の地位を維持すべきであるなら、米国はそのようなことをしてはならない」と主張したのだ。「われわれは最初の五日間、この道義の問題について、他のどの問題よりも多くの時間を費やした」。組織人としてではなく、一個の人間に立ち返って論をたたかわせたのだろう。
 
 これは、キューバ危機への対応だけでなく、政策決定全般にあたってJFKが好む手法だったらしい。大統領は、自分が出る会議の顔ぶれを絞る動きには抵抗したという。地位などと無関係に「質問を発し、批判し」「信頼できる判断を示し、賢明な見解を表明する人々」を強く求めたのである。「一つの特定の行動がもたらすすべての考え得る影響が提示され、それに論争が挑まれること」――それが、JFKが切望したことだった。
 
 この本から見えてくるのは、そんなきれいごとばかりではない。JFKは、フルシチョフの心を読んで巧みな外交戦術をとった。たとえば、海上封鎖が始まっても、ソ連のタンカーは通過させる。「われわれは彼を押しまくって軽率な行動に出させたくない」「彼を逃げ場のないコーナーへ追いつめたくない」。初臨検は、パナマ船主が保有するレバノン船籍の米国製輸送船。ソ連はチャーターしただけだ。「直接の侮辱」を避けたのである。
 
 著者は後段で「キューバ危機の究極的な教訓は、われわれ自身が他国の靴をはいてみる、つまり相手国の立場になってみることの重要さである」と総括する。JFKは「ソ連を、一インチでも必要以上に押しまくるつもりはない」と語り、危機が過ぎ去ってからも「エクス・コムと政府の全員に対し、どんな形でも勝利をうたうようなインタビューや言明を、いっさい行なってはならないと指示した」。
 
 ケネディ兄弟の絆の強さも随所に見てとれる。ソ連がフルシチョフ書簡で、いったん柔軟な申し出をしたあと、新たな交換条件を付け加えたものを送り直してきたときのことだ。米国ミサイルのトルコからの撤去を求めたのだ。会議では、後者の提案を拒否する返書の草案が用意されたが、著者は前者だけに答えるべきだと言い張った。JFKは、その代案に沿って文面を決める。最初の提案を踏まえて合意しようという内容だった。
 
 ここでJFKは、もっとも大切な役回りを著者に割り振る。ソ連の駐米大使を相手に根回しをさせたのである。著者は、兄が送ったばかりの書簡で追加の交換条件に応じていないことを明かしたうえで「大統領はもう長いことトルコとイタリアからミサイルを撤去したがっている」「こんどの危機が過ぎればほどたたぬうちに、これらのミサイルはなくなるであろう」と参考情報を言い添える。水面下の駆け引きの見本をみるようだ。
 
 兄弟には、危機を通じて痛感したことがあった。JFKは、軍部が「限られた軍事面以上にはものを見ることのできない」ことに手を焼く一方、軍人の職業意識には一目置いていた。「彼らが戦いたくないとしたら、誰が進んで戦うのだろうか」と、著者も書く。こうした組織と対峙したことが「文民による指導と支配の重要性」を教えてくれたという。防衛庁が防衛省となり、防衛体制の厚みが増した日本社会に、この認識は備わっているだろうか。
 
 映画「ボビー」を思い出しながら、ロバート・ケネディが暗殺されず、大統領に就いた世界も生きてみたかった、とつくづく思う。
(執筆撮影・尾関章、通算290回)
 
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『フォークナー短編集』(ウィリアム・フォークナー著、龍口直太郎訳、新潮文庫)
写真》チャールストンの白い家
 
 今週も、米国南部旅行の話。チャールストンというダンスがある。その軽快なリズムで森山加代子という歌手が「五ひきの仔ブタが……」(日本語詞・漣健児)と唄っていたのが懐かしい。名前の謂れは発祥地、米サウスカロライナ州の港町だ。9月初めに探訪した。
 
 チャールストンは、米国史を植民地時代まで振り返るとき、明暗が交錯する町である。「明」は、美しい街並みだ。さまざまな宗派の教会が尖塔を聳え立たせ、コロニアル様式の木造邸宅群が白や深緑の彩を添える。「暗」は、かつて港にアフリカからの奴隷船が着き、人身売買の市場があったことだ。郊外にはプランテーションと呼ばれる大農園がいくつも控えていて、そこへ連れていかれ働かされる奴隷も多かった。
 
 その一つで、今は観光名所となっているブーン・ホール・プランテーションを訪ねた。1680年前後に開かれた時点で160haもあった。農園主が住む母屋へは一本の並木道が延びている。樹種はブナ科の常緑広葉樹ライブオーク。スパニッシュモスいう植物が枝々に着生して垂れているのが幻想的だ。現存の母屋は豪邸で、1930年代にコロニアル風に建てられたという。往時をとどめるのは、並木道の傍らに並ぶ奴隷小屋だ。
 
 話は横道にそれるが、僕が「奴隷」という言葉を初めて耳にしたのは昭和30年代、NHKラジオが流していた連続ドラマだった。ハリエット・ビーチャー・ストウ原作の「アンクル・トムの小屋」。番組名が思いだせないのでネットで調べたら、愛聴していた人のブログや投稿が見つかった。邦訳せずに「アンクル・トムス・ケビン」としていたようだ。トムズでなくトムス、キャビンではなくケビンというところが、いかにも当時らしい。
 
 僕は60年の歳月を経て、その「ケビン」の現物を目の当たりにしたことになる。ブーン・ホールでは、木造小屋でなく煉瓦造りだったが、豪邸に比べれば納屋か物置ほどのたたずまいで、あまりにもちっぽけだった。
 
 あのラジオドラマでおぼろげに記憶しているのは、黒人奴隷のトムが綿花を摘む仕事をしていたということだ。ブーン・ホールも当初は綿畑が広がっていたということで、トムと同じ境遇の人々がいたはずだ。ただ、19世紀には農園が煉瓦業者の手に渡り、主な収入源は煉瓦づくりに移る。南北戦争の直前、ここでの生産は年間400万個に及び、それを奴隷85人の労働力が支えた(民間情報サイトSCIWAYによる)。
 
 美しい町と奴隷市場。豪邸と奴隷小屋。この強烈な対比を見せつけられれば、人々の内面は歪むに違いないと思えてくる。白人が良心的で黒人が温厚であれば、心を通わせられると言われても、素直にはうなずけない。アンクル・トムがリベラルの立場からも批判されるのは、トムの従順さが卑屈に見えるからだけではないだろう。米国南部の情念をリアルに感じるには、もっとひねりの利いた物語が必要なのである。
 
 で今週は、米国への行き帰りに機内で読んだ『フォークナー短編集』(ウィリアム・フォークナー著、龍口直太郎訳、新潮文庫、8編所収)。フォークナー(1897〜1962)は、『八月の光』などの長編小説で知られ、20世紀前半の米国文学を代表する作家の一人だ。生まれ故郷であり、終生離れがたい土地であったミシシッピ州に「ヨクナパトーファ郡ジェファソン」という架空の町を置いて、そこを舞台とする小説を次々と世に出した。
 
 この短編集でもっともかぐわしい作品は「バーベナの匂い」(1938年)。ジェファソンの有力者サートリス大佐の死を、息子ベイアードの視点で描いた好編だ。父の妻で、ベイアードにとっては継母にあたるドルーシラの髪を飾っていたのが、バーベナの花である。彼女は、南北戦争が終わってもなお戦場に生きているような女性で「バーベナこそは、千軍万馬のうちにあってもその匂(にお)いを失わない唯一(ゆいいつ)の植物」と信じていた。
 
 ドルーシアが8歳年下のベイアードに求愛のキスを迫る場面がある。「彼女が私にたいして異常な視線を投げかけ、彼女の髪にさしたバーベナの匂(にお)いが百倍もまし、百倍もつよくなって、あたりのうす暗がりのなかに瀰漫(びまん)し、なにか、いままで夢みたこともないようなことが起りかけているのに気づいた」。濃厚な匂いだ。長いキスのあと、「彼女はバーベナの小枝を髪からぬいて、それを私の折り襟(えり)にさしこんでくれた」。
 
 父は、政敵に撃たれて死んだ。その死体の手は、不細工にだらりとなって「人を殺すような大それた行為を、いままでいくたびとなく重ねてきたとはとうてい思われないほどだった」。ベイナードは、復讐せよとの期待を一身に背負って政敵のもとへ向かう。襟もとには、このときもバーベナ。匂いが「もうもうたる葉巻タバコの煙のように立ちこめる」。それを嗅覚で感じながら、彼はどんな選択をするのか――。
 
 「エミリーにバラを」(1931年)も、ジェファソンの話だ。主人公は、74歳で死んだミス・エミリー・グリアソン。有力者の娘だったようで、父の死後、当時の市長――なんと、これがサートリス大佐――から税免除の特別待遇を受けた。市長が代わっても「ジェファソンの町では、わたくしに税金を課さないことになっております」と言って憚らない。その邸宅の描写は、僕にチャールストンを思いださせる。
 
 「かつては白く塗られていた、大きな、四角ばった、木骨造りの屋敷であって、七十年代(訳注 一八七〇年代をさす)特有の、ひどく優雅な様式にのっとって、いくつかの小さな円屋根や、尖塔(せんとう)や、渦巻模様を施したバルコニーなどで飾られていた」
 
 エミリーは生涯独身だったが、30代のころに浮いた話があった。相手は、歩道舗装工事の現場監督として町へやって来た北部男。彼女と四輪馬車でドライブする姿が見かけられたものだが、あるときからぷっつり姿を消した。そして、家から異臭が漂うようになる。今で言うごみ屋敷か。近所から市に苦情が寄せられるが、市長は「きっとあの婦人が使っている黒人が庭で殺したヘビかネズミのせいでしょうよ」と、まともに受けあわない……
 
 この作品で、それなりの役回りを演じる黒人と言えば、長くエミリーに仕えてきた「召使」の老人くらいだ。ただ、彼の固有名詞は文中にない。それでいて主の秘密を知り抜いているらしいという皮肉。彼女が亡くなり、弔問客を迎え入れたあと、「まっすぐ家のなかを通りぬけると、裏口から出ていったきり、二度とふたたび姿を見せなかった」。ここにも、南部社会の歪みがある。
 
 「乾燥の九月」(1931年)で冒頭の場面は、ジェファソンの床屋。「天井の扇風機はただよごれた空気をかきまぜるばかり」で「ムッとするようなポマードとローションのにおいといっしょに、ムッとするようにくさい彼ら自身の吐息と体臭を、送り返してくる」。
 
 店内では、ウィル・メイズという黒人が白人女性を凌辱したという町の噂が白人たちの話題になっている。理髪師ホークショーは「あいつはいい黒人」「そんなことをしたとは、どうしても考えられない」と言い張る。そこに現われるのが、軍隊経験のあるこわもて、マクレンドン。「まず事件の真相をつかむのが第一」と聞いて、怒りを爆発させる。「このろくでなしの黒人びいきめが――」。尻のポケットには自動拳銃。ウィルの征伐に出る。
 
 ホークショーは、それを思いとどまらせようと追いかけていく。マクレンドンはウィルが夜警をしている製氷工場から彼を呼びだして、なぐる。いっしょに来た男たちも同調する。これに対してウィルは「よろめきながら彼らをののしり、手錠をはめられた両手で彼らの顔に襲いかかり、理髪師の口もとをひどくなぐりつけた」。このあと、「理髪師も彼をなぐりかえした」とあるのを見て、僕は南部の深淵をのぞき見たような気がした。
 
 大地に咲く花の濃厚な匂い、渦巻き模様のバルコニーへ漏れでる異臭、拳銃をもった男を突き動かすようなポマード臭。そのどれもが米国南部社会の原風景を感じさせる。フォークナーは、嗅覚なしには読めない。
(執筆撮影・尾関章、通算283回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『キング牧師とマルコムX』(上坂昇著、講談社現代新書)
写真》“I have a dream.”
 
 晩夏、衝撃のニュースが米国から届いた。テレビの生放送中に記者とカメラマンが銃で撃たれ、命を落としたのだ。容疑者の男は同じテレビ局の元社員で、現場から逃走後、こんどは銃口を自らに向けて命を絶った。朝日新聞によると、この人物は黒人として、さらには同性愛者として、差別されていると感じていた、と米メディアが伝えたという。人種間の摩擦と銃の所持。米国社会の負の側面が露わになった事件だった。
 
 この銃撃事件が起こったのはバージニア州。南北戦争でリンカーンと戦った南部州の一つである。南部と言えば、サウスカロライナ州のチャールストンでも今年6月、教会に集った黒人9人が白人に射殺されるという惨劇があり、今回の容疑者はそのことも動機に挙げていたという。奴隷解放宣言から150年余、公民権法から50年余。それでも米国南部では、人種間の亀裂が消えていないのか。
 
 そんな思いを抱きながら9月上旬、僕は私事で米国南部を旅した。滞在したのはジョージア州アトランタ。途中、泊りがけでチャールストンにも足を延ばした。そこで感じたのは、米国社会の空気は一連の事件から受ける印象ほどには悪くないということだった。肌の色の違いを超えて、人々が融け合っているとまでは言えない。だが、その方向へ踏みだしていて、もはや引き戻せないという前向き感はあった。
 
 融け合っていないなと感じた体験を一つ。大リーグの地元球団アトランタ・ブレーブズの試合を球場で観たときのことだ。イニングの合間、バックスクリーン上方の大画面にスタンドの観客が次々に映しだされる。米国人らしく、だれもかれも大きな身振りで陽気に自己主張するのだが、並んで座る応援仲間は黒人同士、白人同士というのが大半で、肌の色が交じりあうグルーブは少数派だった。
 
 では、どこが前向きかと言えば、町では黒人も白人も対等感覚で働いているように見えたことだ。旅行者が垣間見る職場といえば、せいぜいレストランくらいだが、そこではスタッフが肌の色などまったく気にとめない感じで同僚同士の会話を交わしていた。地縁血縁のゲマインシャフトはともかく、社会機能を担うゲゼルシャフトには、もはや人種によって切り分けられない米国人集団が存在している、という感じだろうか。
 
 当初、この稿では「黒人」という言葉を使うまいと心に決めていた。だが帰国後、代わりに用いようとしていた「アフリカ系米国人」という表現は、言われるほどに公正ではないようにも思えてきた。彼らの先祖がアフリカ文化の人であっても、彼ら自身はそれでは収まりきらないアイデンティティをもっている。だから、肌の色の違いを価値中立的にとらえて「黒人」「白人」と呼ぶことのほうがかえって公正かもしれないのである。
 
 で、今週は『キング牧師とマルコムX』(上坂昇著、講談社現代新書)。著者は1942年生まれ、通信社や出版社で働き、駐日米国大使館に勤めた後、大学でアメリカ研究の教授となった。この本は1994年の刊行。オバマ大統領の登場より15年も前に執筆された。黒人運動の二つのベクトルを代表し、ともに暗殺で非業の死を遂げた2大ヒーローの人生と思想を、どちらかに偏ることなくバランスよく活写している。
 
 マーティン・ルーサー・キングが担ったベクトルは、黒人と白人が対等に手をつなぎ合う社会をめざす公民権運動だった。一方、マルコムXは、黒人イスラム教徒(ブラック・モスレム)の立場から黒人の自立にこだわった。相手に近づいて手を差しのべるか、距離を置いて自分たちのことは自分たちでやると言うか。二つの志向は、アフリカから奴隷として連れて来られた人々の子孫が内心に宿す葛藤を表しているようにも思う。
 
 二人はともに牧師の子だが、その軌跡は大きく異なる。キングはアトランタ生まれ、中流家庭で良い子に育ち、教会の指導者となった。一方、マルコムはネブラスカ州オマハ出身、5歳で父を失い、一家は貧困に陥った。少年時代は悪ガキで、成人後も刑務所暮らしをしたが、そこで本を読み耽り、運動に目覚めた。二人の対比はそれだけでも一読の価値があるが、今回はわが心のジョージアが鮮明なときでもあり、キングの話を軸に語ろうと思う。
 
 キングの名を高らしめたのは、1955年、アラバマ州モントゴメリーで始まったバス・ボイコット運動だ。百貨店で働く黒人女性ローザ・パークスがバスの後部席に座っていると、立っている白人に席を譲るよう運転手から求められた。拒むと、それだけで逮捕されたのである。これがきっかけで、黒人がバスに乗るのを一斉に控える運動が興る。このとき、指導者として白羽の矢が立ったのが、当地で牧師となって間もないキングだった。
 
 興味深いのは、キングもパークスと同じ屈辱を受けていたことだ。高校時代、弁論大会で「黒人と憲法」について熱弁をふるい、入賞した日のことだ。帰りのバスで、運転手から白人のために席を空けろと言われたという。居座ろうとも思ったが、引率教師は「法律には従わなくてはいけない」と諭した。「黒人の憲法上の権利についてスピーチをした直後に現実の差別を受け、一五〇キロの道程をずっと立ったままバスに揺られた」のである。
 
 バス・ボイコットは「『行動しないこと』、つまりバスに乗らないという受動的な抵抗運動だった」。その後、キングは「『行動すること』によって、不法な法を破り服従しないという能動的な市民的不服従へと運動を進めていく」。これが「非暴力直接行動」と言われる運動の哲学である。いま日本社会ではコンプライアンス(遵法)が絶対のように言われているが、覚悟を決めて不当な法を破らなければならない局面も世の中にはあるということだろう。
 
 この本は、キングが逮捕時にしたためた獄中書簡を彼の著書『黒人はなぜ待てないか』(中島和子、古川博巳訳、みすず書房)から引いている。そこでは、南部諸州の人種隔離法を「不正な法」と断じていた。「その施行が魂をゆがめ、人格をそこなう」からだという。
 
 キングは人格を尊んだ。だからこそ、白人の過去の過ちを赦す心ももちえたのだろう。寛容な態度を示すことで「キングが完全に白人より上位に立っていることは明らか」と著者は書く。ノブレス・オブリージュ(高貴さに伴う義務)の一つとも言えよう。
 
 アトランタに去年開館したばかりの公民権・人権センターを訪れて驚いたのは、運動に共感した白人たちも展示の主役となっていたことだ。人種隔離政策を否定する流れが強まっていた1961年、南部行きの長距離バスに乗って実態を調べようというフリーダム・ライド運動に白人の若者も多く加わり、現地で暴行や放火の被害に遭ったのである。その映像を見て脳裏にひらめくのは、キングの「わたしには夢がある」という言葉だ。
 
 1963年、首都ワシントンであった公民権運動の大集会については、この本ももちろんページを割いている。参加者は約25万人。4人に1人は白人だった。そこで、キングはあの一世一代の演説をする。「わたしには夢がある。いつの日にか、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができるだろう」。これこそが、彼が指し示した共存のベクトルだった。
 
 これに対して、マルコムの思想には黒人社会を白人社会から切り離すというベクトルがあった。黒人のアフリカ帰還を最終の目標に掲げたり、米国領の一部を黒人に譲れと主張したりしている。だが、晩年には変化もある。著者は、その兆しを暗殺があった前の月、1965年1月のテレビインタビューに見いだす。北米に黒人の国をつくる構想はあるかと問われ、「考えていない」と断言したという。キングに近づきつつあったということか。
 
 二つのベクトルのどちらが理念として正しいかは難題だ。ゲゼルシャフトでは人種を超えて尊敬しあうようになったが、ゲマインシャフトの縁を深めているとまでは見てとれない現実があるからだ。ただ、言えることは二つある。マルコム没後50年、キング没後47年、いま米国の大統領が黒人だということ、そして、ここまできたのだから、米国はもはやどの人種でもなく米国人の国になるしかないだろうということである。
(執筆撮影・尾関章、通算282回)
 
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