ノーベル平和賞発表資料(ノルウェー・ノーベル委員会)

写真》北東アフリカ(紙面は朝日新聞2019年10月12日朝刊)

 先週に続いて、今回もノーベル賞の発表資料をとりあげる。エチオピア首相のアビー・アハメド・アリ氏に贈られることになった平和賞だ。賞の公式ウェブサイトに載った文書は理系3賞とは違って、短い発表文が1本だけ。だが、行間から読みとれることはある。

 

 発表文の中身に入るまえに、ノーベル平和賞について、ちょっと補足説明をしておこう。理系3賞や文学賞、経済学賞はどれもスウェーデンの学術機関が授与するが、平和賞だけはノルウェーのノーベル委員会から授けられる。だから、発表場所もオスロ、授賞式があるのもオスロだ。委員会は、ノルウェー議会が指名する5人の委員から成る。だから、そこには有権者の思いがいかばかりか反映されているとみてよいだろう。

 

 ここで少しだけ、僕の平和賞取材体験に触れよう。ロンドンに駐在していた1994年のことだ。大江健三郎氏が文学賞を受けた年である。僕はストックホルムでまず理系3賞の発表を見届け、文学賞の日も現地に居残り、最後はオスロへ足を延ばしたのだ。

 

 この年の平和賞は、イスラエルのイツハク・ラビン首相、シモン・ペレス外相とパレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長の共同受賞に決まった(肩書はいずれも当時)。パレスチナの暫定自治に道筋をつけたというのが理由だ。だがここで、ひと悶着があった。ノーベル委員会委員の一人が親イスラエル派の元国会議員で、アラファト議長は「テロリストだった」として選考結果に不満を露わにし、委員辞任を申し出たのである。

 

 僕はこのとき、オスロで平和賞の第1報を送った後、この元議員の記者会見に駆けつけた。彼が自らの政治信条を主張して一歩も譲らない姿を見ながら、ノーベル平和賞は政治だな、と思ったものだ。賞の裏側に権力闘争があるとか、利権がドロドロと渦巻いているとか、そういうことではない。そうではなくて、平和賞にはノルウェーの政治家たちが世界に向けて訴えたいと考えるメッセージが込められている、と思ったのだ。

 

 ではまず、今年の受賞者アビー氏の横顔から。発表文には略歴がないので、英国BBCのウェブサイトの記事(2019年10月11日付)を参考にする。1976年、イスラム教徒の父とキリスト教徒の母の間に生まれ、90年代、当時の社会主義政権に対する武装闘争に参加、ルワンダで国連の平和維持活動にも加わった。平和・安全保障の研究で博士号を取得、英国への留学経験もある。2010年に政界入り、18年4月に首相となった。

 

 発表文によると、今回の授賞は「平和と国際協力の実現に向けた努力、とりわけ隣国エリトリアとの国境紛争の解決に決断力をもって乗りだしたこと」に対してだ。アビー氏はエリトリアのイサイアス・アフェウェルキ大統領と力を合わせ、両国間の「戦争でも平和でもない」膠着状態に終止符を打つ和平合意の原則を取り決めて、両首脳が調印する宣言に盛り込んだ。これに先立って、仲裁役の国際委員会が提示した国境線を受け入れていた。

 

 これらは、首相就任後わずか数カ月間の出来事だ。冷戦後、局地紛争が後を絶たない世界情勢を思うと、隣国との対立関係解消にこれだけ機敏に動いた立役者は平和賞にぴったりということだろう。だが今回の授賞には、もう一つ、意味があるように思えてならない。

 

 それは、あえて現役の政治家を選んだということだ。ノーベル平和賞の受賞者は、ひと通りではない。すぐに思いあたるのは反戦や人権擁護の活動家だが、ときに現職バリバリの政治家も受賞する。ただこの場合、後に落胆が控えていることがある。記憶に新しいのは2009年のバラク・オバマ氏だ。受賞決定に先立ってこの年初めに米国大統領となり、「核なき世界」の追求を訴えていたが、今、国際社会がその目標に近づいているとは言い難い。

 

 前述のラビン、ペレス、アラファト3氏の受賞もそうだ。25年後の今、パレスチナ情勢が安定しているとは言えないだろう。政治家はいつも、現実の壁に直面している。アビー政権にも、同様のリスクがある。発表文は、それを見越してこう言う。「きっと、今年の授賞は早すぎると考える人々もいることだろう」。そのうえで、アビー氏の努力は「今」この時点で「顕彰に値するし、激励を必要としていると信じる」と強調するのだ。

 

 ここには、ノーベル委員会の強いメッセージがある。ひとことで言えば、アビー的なるものを待望しているということだろう。アビー的なるものとは何か。発表文のたたみかけるような記述からうかがえるのは、理想を追い求めながら寛容でもあるという政治家像だ。

 

 「彼は就任100日のうちに非常事態令を解除し、幾千人もの政治犯に恩赦を与え、メディアに対する検閲を廃止し、非合法の野党勢力を合法化して、腐敗が疑われる軍民の指導者たちを追放した。そして、エチオピアの政治や地域社会に対する女性たちの影響力を著しく高めた」。さらに続けて、「自由で公正な選挙によって民主主義を強めることも約束した」とある。リベラルな社会をめざす政治判断の連打と言ってよいだろう。

 

 これは、ノーベル委員会の買いかぶりとは言えないようだ。前述BBCの記事も、アビー氏が矢継ぎ早に手を打つ様子を時系列で記している。政治犯の釈放は去年5月、非常事態令の解除は翌6月、秋になって10月には閣僚ポストの半分に女性を指名したという。

 

 発表文は、アビー氏が東アフリカや北東アフリカ域内の緊張緩和にも力を貸していること、エチオピア国内の民族間対立に和解と連帯と社会正義をもたらそうとしていることも書き添える。後者は必ずしも成功していないが、だからこそ「激励」が必要なのだろう。

 

 僕が思うに、今回の平和賞は一人の政治家が一つの地域の安定に力を尽したことへの称賛とだけとらえてはいけないのではないか。選考には、今や絶滅危惧種になりかけたタイプの政治家のイメージを広めたいという委員たちの心理が働いたように思えてならない。

 

 今、内外の政治家を見てみよう。自国第一主義に突き動かされて国際社会のつきあいを軽んじる人がいる。統治能力ばかりを磨いて、寛容の精神に欠ける人もいる。ネットメディアに溢れる感情論に気をとられて、理想を追うことを忘れてしまった人もいる。だが、そうではない政治家もいるはずだ。いや、いてほしい。そう願っていたら、期待に応えてくれそうな人がそこにいた。そんな現実が、今年の平和賞からは見えてくるのである。

(執筆撮影・尾関章、通算494回、2019年10月18日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

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●「ゴーンショック――素顔のビシャラ」

(朝日新聞連載、2019年6月21日〜同月28日朝刊)

写真》南米中東欧州――朝日新聞2019年6月21日、22日、25日朝刊

 僕の勤め先は、東京下町の築地にあった。地下鉄日比谷線の東銀座駅で降り、新橋演舞場の角を曲がって市場方面へ向かう。これが、朝の通勤経路だった。粋筋の空気が漂う旧木挽町界隈。沿道には、今も老舗の料亭がある。だが、それだけの街ではない。10年ほど前まで、日産自動車の本社機能がここにあったのだ。演舞場が丸ごと入る高層ビルの上層階が、その向かい側にあるビルとともに「世界の日産」の本拠だった。

 

 20年ほど前のことだ。その一角が慌ただしくなった。日産自動車のトップが外国人に代わったのだ。1999年、フランスの自動車会社ルノーのカルロス・ゴーン氏が「最高執行責任者(COO)」となり、翌年「社長」の肩書を得て翌々年には「最高経営責任者(CEO)」に就いた。後に会長も兼務する。日産は、文字通り「世界の……」になった。僕の職場では、あのころから「ゴーンを見かけたよ」が自慢話の一つになったように思う。

 

 世間話にCEOとかCOOとかいう言葉が出てくるようになったのも、ほぼ同時期ではなかったか。日本の企業社会では、会長→社長→副社長→専務→常務→ヒラの取締役が経営陣の序列というのが通念だったが、そこに最高経営責任者や最高執行責任者という聞きなれない役職が紛れ込んできたのだ。勤め人の間では、その肩書をどう性格づけたらよいものか確信がもてぬまま、トップダウン型の上司を「CEO」と渾名したりしたものだ。

 

 いずれにしても、ゴーン氏の登場は日本の企業社会に衝撃だった。すぐに思い浮かぶ難題は、社内の意思疎通だ。社長がフランス人だからといって、フランス語が公用語になることはあるまい。だが、これまで通りに日本語で丁々発止の議論ができるとも思えない。結局は、国際語の英語を使うというのが妥協点だろう。英語力が海外駐在員のみならず、国内勤務の社員にも必修となった。人々にそう痛感させたのが、あのときのゴーンショックだ。

 

 日本の企業は1980年代くらいから、国際化の歩みを速めた。外国がただの輸出入先ではなくなったのだ。投資の舞台になった。生産の拠点にもなった。経済のグローバル化である。バブル経済の絶頂期には海外に進出する動きばかりが目立ったが、それが崩壊すると逆の流れが強まってくる。外国資本が日本列島に上陸するだけでなく、日本産業界のど真ん中にまで入り込んだ。そのことを象徴するのが、ゴーンCEOの出現だったと言ってよい。

 

 で、今週は新聞の連載記事から。朝日新聞が6月21日朝刊から始めた「ゴーンショック――素顔のビシャラ」だ。28日まで飛び石で5回続いた。同じ主タイトルの記事は、ゴーン氏が去年11月に金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕されて以来、断続して紙面に載っているが、今回は、彼の生い立ちにまでさかのぼった内容。副題は、本名「カルロス・ゴーン・ビシャラ」から採られた。当欄は、その連載の前半に的を絞る。

 

 ゴーン氏は1954年、南米ブラジルに生まれ、6歳からは一家のルーツ、中東レバノンで暮らした。フランスに移り住んだのは17歳のとき。エリート養成校で高等教育を受けるためだ。その後、フランスのタイヤ大手ミシュランに就職してもブラジルで仕事をしている。取材班の記者たちは、そんなグローバルな個人史を浮かびあがらせようと各地で関係者の話を聞いた。最初の3回は、ブラジル、レバノン、フランスの順に焦点を当てている。

 

 第1回の読みどころは、ゴーン氏の祖父ビシャラ・ゴーンさんの立志伝。ちなみに、氏の本名にある「ビシャラ」は祖父の名を継いだものだ。ビシャラさんはレバノン生まれだが、13歳でブラジルへ渡った。アマゾン川流域上流部にあるゴム集積地に住み、鉄道でゴム産地のボリビアに入って砂糖や塩を売り、帰路、青果類を買い込んで地元の町でも商いをしたという。裸一貫の起業家である。20世紀初めのことらしい。

 

 このくだりには、ビシャラさんが移住を選択した背景にスエズ運河があったという説明がある。この運河ができたのは1869年。記事によれば、そのことで「中国産品が欧州に流入するようになり、レバノンから欧州への輸出が減少。経済的に追い込まれたレバノン人は世界各地に移住した」という。遠隔地との交流や交易が海運中心だった時代、欧州とアジアを結ぶ近道の開通は世界を変える一大要因だった。なるほどなあ、と思う。

 

 記事によれば、ブラジルでは、レバノンからの移住者の多くがビシャラさんと同様、「商業で身を立てた」。そして今、大勢の子孫がブラジル人として暮らしている。その理由を、レバノンにあるノートルダム大学レバノン移民研究所のギータ・ホウラーニー所長は、こう解説する。「レバノン人は交易国家として栄えた古代フェニキア以来、商人としての伝統を受け継いできた」。レバノン、シリアの一帯は、かつてフェニキアだったのだ。

 

 この記事を読んでいると、ゴーン氏の系譜が乗りもののイメージとともに目に浮かんでくる。遠い祖先はフェニキアから〈船〉で地中海に出て、沿岸の港町で物品を売り買いしていたのではないか。祖父は新しい活路を求めて南米へ渡り、〈鉄道〉を頼りに商いを始めた。そして氏自身は〈自動車〉をつくっては売る仕事に携わって、〈飛行機〉で世界中を飛びまわる。そう言えば逮捕直前に日本に着いたときも、ビジネスジェットに乗っていた。

 

 連載第2回は、主舞台がレバノンだ。ゴーン氏は、ここでイエズス会系の名門一貫校コレージュ・ノートルダムに入り、高校まで勉学に励んだ。驚くのは、学園の国際性だ。記事によれば、在学時の教職員にはレバノン人に交じってフランス人、スウェーデン人、エジプト人もいた。授業では、公用語のアラビア語のほかフランス語と英語も必修で学んだ。ブラジル時代から家族とはポルトガル語で話していたから、この時点でもう十分に国際人だ。

 

 この学園生活は、地球上には異文化が並存するという意識をゴーン少年の心に植えつけたに違いない。記事には「この名門校で多言語を習得したことが、『多様性』を強調する『ゴーン流経営』の原点を形づくったようだ」という記者の分析が書き込まれている。

 

 この回は、学校時代のゴーン少年評も伝えている。「最優秀の生徒の一人だった」と、ある同級生が言う。「高校時代は負けず嫌いで知られていたそうです」と、現校長は語る。ゴーン少年が夢中になった遊びについての記述もある。「リスク」と呼ばれるボードゲーム。「世界地図の上で手駒の軍隊を動かしながら、敵のプレーヤーの領土を奪い、『世界征服』をめざす」のだという。世界市場の席巻をめざす後年の姿とだぶって見えるではないか。

 

 ところが連載第3回では、ゴーン氏の別の一面が見えてくる。パリで理系のエリート養成校2校に学んだころのことだ。当時の心模様を自著でこう打ち明けているという。「どこに行っても、みんなとまったく同化して集団のなかに溶け込めたと思えたことはありません」。知人によれば、フランス国籍の取得を促されても応じなかったらしい。ブラジルとレバノンの二重国籍にフランスの国籍を加えたのは、日本への赴任直前だったようだ。

 

 ゴーン氏の孤独から推察されるのは、フランスのエリート養成校の冷たさだ。自国の高級官僚や大企業トップの人材を育てようとするあまり、内向きの空気が支配的だったのではないか。そこに、レバノン系でブラジル出身の若者が飛び込んだ。たぶん、少年期の学び舎ほどには多様性志向がなかったのだろう。そのせいか、多言語が堪能でも人々と心を通わせられなかった。その疎外感は、上昇志向のバネにはなったかもしれないが……。

 

 今回の事件について、ゴーン氏が問われている刑事責任をどうこう言う資格は僕にはない。経営者の倫理をここで論じるつもりもない。ただひとつ言えるのは、次のような一般論である。大きな仕事をした人が大きな報酬を受けることは、悪いことではない。世間もそれを受け入れるだろう。だが、その度が過ぎて富のありかが極端に偏ると、人の心に歪みが出る――。今回の事件にも、そんな側面があるのではないか。

 

 ゴーン氏は、働き盛りが新自由主義の台頭期にぴったり重なる。富の分配が市場に委ねられ、成果が収入に結びつく時代は野心に歯止めがかかりにくい。そこに罠があったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算478回、2019年6月28日公開)

 

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The Prime Minister’s full statement(ジャシンダ・アーダーン、CNNサイトより)

写真》CNN2019年3月15日付、朝日新聞同月16日朝刊

 またもや凄惨な銃乱射事件である。ニュージーランド(NZ)南部の都市クライストチャーチで3月15日昼、イスラム教礼拝所(モスク)2カ所が襲われ、50人の生命が奪われた。容疑者がソーシャルメディアに投稿していた声明文などから、白人至上主義がもたらしたテロ攻撃とみられている。背筋が凍るのは、容疑者自身が犯行の一部始終をネットでライブ中継していたこと。暴力がネットと結びついて邪悪さを増幅したのである。

 

 クライストチャーチと言えば、2011年の大地震を思いだす。3・11の東日本大震災に先立つ2月22日、クライストチャーチがあるカンタベリー地方がマグニチュード6級の直下型地震に見舞われたのだ。死者数は185人といわれる。この直後、僕は言論サイトWEBRONZAに「地の時間と人の時間」という論考を書いた(2011年2月26日付)。大震災が身近に起こるとはつゆ知らず、対岸の出来事を考察したのだ。

 

 拙稿の副題は「地震の島に地震を知らない人々が築いた町の悲劇」だった。ニュージーランドは「太古の昔から、せめぎ合うプレートの影響下にある地震多発の島国」。同時に「19世紀半ばに地震とはほとんど無縁だった英国人たちが入植して英領とし、20世紀半ばに独立した新しい国家」でもある。この「皮肉な取りあわせ」が、美しいが脆いレンガ建築群を今に至るまで残し、建物倒壊の被害を大きくしたのではないかと書いたのだ。

 

 で、今回の乱射事件でちょっと驚いたのは、その英国人が建設した町に複数のモスクがあることだった。クライストチャーチは人口約40万人。日本で言えば中小都市だ。地名から推察すると、キリスト教一色の町ではないかと思ってしまう。だがそこにはイスラム教徒が0.8%住んでいる(2013年の調査、朝日新聞2019年3月16日朝刊)。その数千人の信仰が不都合なく続けられるための施設も整っているということだ。

 

 この一点をもってしても、ニュージーランド社会は多様性を重んじているのだろうと思われる。それを裏打ちしてくれたのが、この事件を受けてニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が記者会見で読みあげた声明だ。これを僕は、ネットメディアを通じて英語のままで聴いたが、彼女が一語一語噛みしめるように発した言葉は外国人の心にも届いた。そこには、母国の多様性を誇る強いメッセージが込められていた。

 

 ということで今週は本を離れ、ニュージーランド首相が事件当日の夜、記者会見で発表した声明にもう一度触れてみることにしよう。ありがたいことにネットを漁ると、米国CNNがその全文をサイトに載せていた。そこから、これはという箇所を掬いとってみよう。

 

 アーダーン首相はこの声明で、乱射事件で犠牲となった死者数や負傷者数の最新情報を報告、「これがテロ攻撃としか表現できないものであることは明らか」と断じた。事件を受けて政府は治安の水準を高め、警察は市民生活を守るべく機能していることを強調した。

 

 このあと、首相はこう切りだす。

“Our thoughts and our prayers are with those who have been impacted today.”

「私たちの思いや祈りは、きょう攻撃を受けた人々とともにある」

 

 声明で最大の読みどころは、これに続くくだりだ。

“Christchurch was the home of these victims. For many, this may not have been the place they were born. In fact, for many, New Zealand was their choice.”

「クライストチャーチは犠牲者たちの『わが家』だった。多くの人々にとって、そこは生誕の地ではなかったかもしれない。実際、ニュージーランドは彼らの選択だったのだ」

 

 次の段落には、ニュージーランドがどんな国かを示す言葉が並ぶ。

“The place they actively came to, and committed themselves to”

「彼らが自ら進んでやってきて、そこに深くかかわった場所」

“A place where they were free to practice their culture and their religion”

「彼らが自身の文化や宗教を自由に実践できる場所」

 

 もっとも新鮮に聞こえるのは、choiceの一語だ。国という存在を、人々が自由に選択できるものととらえている。日本人も外国籍を取ることができるが、多くの人々は「国ばかりは選べないからなあ」という意識にとらわれている。内心にハードルがあるのだ。

 

 国の選択をさらっと口にできるのは、ニュージーランドの歴史とも無縁ではない。マオリなどの先住民族が暮らす島に欧州人が入植、19世紀に英国の植民地となった。先住民族からすれば、choiceは身勝手な言い分ということになるのかもしれない。

 

 にもかかわらずアーダーン首相がchoiceを強調するのは、おそらくそれが信念の発露だからだ。彼女は、ニュージーランド労働党の党首。この党は西欧型の社会民主主義政党なので、最近は自己決定権を重んじるリベラリストが多いはずだ。choiceは、リベラリズムの精神が込められた言葉とみてよい。彼女自身、すでに首相の座にあった去年夏に産休をとって赤ちゃんを産んだが、これも一つのchoiceだったと言ってよいだろう。

 

 そしてアーダーン首相は、なぜ自国がテロの標的にされたかを論じる。それは人種主義や過激思想に甘いからではない、逆に、そうでないからこそだと強調して、こう言う。

 

“we represent diversity, kindness, compassion, a home for those who share our values, refuge for those who need it”

「私たちは多様性やいたわり、思いやりを体現し、私たちと価値観を分かちあう人々の『わが家』や行き場のない人々の『避難所』を提供している」

 自国が掲げる理想を、毅然として、覚悟をもって表明しているのである。

 

 たたみかけるようにアーダーン首相が明言したのは、次のひとことだ。

“those values, I can assure you, will not, and cannot, be shaken by this attack”

「私は確信をもって言える。これらの価値観が今回の攻撃で揺らぐことはありえないと」

 

 後段では「私たちは、200を超える民族と160もの言語から成る国であることを誇らしく思う」と述べた後に、こうも言っている。

“amongst that diversity we share common values”

「その多様性のなかで、私たちは共通の価値観を分かちあっているのだ」

 多様性を受け入れつつ共有される価値観とは、他者に寛容であろうとすることだろう。

 

 自己決定権を尊ぶならば国は選択されるものだ。その結果、それぞれの国には多様性に富んだ社会が生まれる。そこで求められるのは、いたわりや思いやりを育む寛容な心にほかならない――不幸な事件に直面してアーダーン首相から絞りだされたのは、そんな信念だ。

 

 きれいごとに過ぎるという冷ややかな見方はあるだろう。前述したように、先住民族のことを思えば複雑な気持ちも残る。だがここには、自身が追い求める理想を筋道立てて語る姿がある。そんな政治家が最近はめっきり減ってしまったように思う。

(執筆撮影・尾関章、通算464回、2019年3月22日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『熊野からケルトの島へ』(桐村英一郎著、三弥井書店)

写真》ケルトは渦が好き

 今からもう、25年も前のことだ。真冬のスコットランドに数日間滞在したことがある。北方のシェットランド諸島でタンカーが座礁して原油が流出する事故があり、駐在先のロンドンから現地取材に赴いたのだ。そのときに泊った宿で奇妙な体験をした。

 

 部屋のテレビで地元局にチャンネルを合わせたときのことだ。現代劇のドラマでわけのわからない台詞が飛び交っている。当時は英国に着任して間もないころで、一瞬、自分の英語力が乏しいせいかと思ったが、そうではないことにすぐ気づいた。画面に英語の字幕が出ていたからだ。スコットランドの現地語に違いない、おそらくはケルト人が使っていた言葉なのだな、と察した。それが今も、日常会話に用いられているらしい。

 

 この一点でもわかるように、英国には今もケルト文化が根強く残っている。言語についていえば、スコットランドや北アイルランドではケルト語の系譜にあるゲール語が英語とともに公用語となっている。ウェールズでもケルト語の別の流れがウェールズ語となり、英語と併用されている。隣の独立国アイルランドも、ケルト色は強い。英語がふつうに話されてはいるものの、政府内にゲール語を守り、その使用を促す役所がある。

 

 翻って日本列島はどうか。そこにいるのは大和民族だけではない。琉球民族がいる。アイヌ民族がいる。ここまでは、僕たちの共通認識だ。だが残念なことに、縄文、弥生にまで遡って内なる多様性を自覚するだけの文化遺産に恵まれているとは言い難い。

 

 で、今週は『熊野からケルトの島へ』(桐村英一郎著、三弥井書店)。著者は、朝日新聞で経済記者だった人。定年後、奈良県明日香村に住み、さらに三重県熊野市へ転居した。古代史に関心が深く、著作も多い。僕にとっては、同じ新聞社の空気を吸った大先輩。専門分野は違うが、ロンドン駐在を経験し、論説委員室に在籍するなど社内歴にも似たところがある。だから、尊敬の念とともに共感めいた思いを抱いている。この本は、2016年刊。

 

 執筆の端緒を、著者はこう明かす。「熊野灘を眺めて暮らすうちに、ユーラシア大陸の西と東の両端のさらに端っこに位置し、黒潮とメキシコ湾流という二大暖流が沖を洗う地域には、同じような観念や思想・風土が育まれるのではないか、と思うようになった」。それで2013年と翌14年、アイルランドとスコットランドをドライブで巡った。スコットランドには昔からなじみがあったが、アイルランドの旅は初めてだったという。

 

 著者は、この作業仮説を民族学者梅棹忠夫の知見に重ねあわせる。同名の著書で展開された「文明の生態史観」だ。ユーラシア大陸の真ん中には乾燥地帯があり、遊牧民がいて両側の農耕地帯を荒らしまわることがあった。だが、その被害を免れたところがある。西欧と日本だ。その結果、どちらも似たような歴史をたどることになった――要約すれば、こんな歴史観だ。その極致が片やアイルランドやスコットランドであり、もう一方に熊野がある。

 

 この本は、ユーラシアの西と東の果てを見比べていく。まずは自然。スコットランド西岸の島巡りで、スタッファ島という無人島に近づいたときのことだ。「まるで楯ケ崎そっくりだ」。著者は、そう感じたという。柱状節理が、熊野市の海岸にある大岩壁に酷似していた。両者は「ともに太古の火山活動が生んだ奇観」である。言い添えれば、このスタッファ島は作曲家メンデルスゾーンが「フィンガルの洞窟」の曲想を得た場所として知られる。

 

 岩石の話を続けよう。「ケルトと熊野には『石塊(せきかい)へのこだわり』という共通点がある」というのが、著者の見方だ。アイルランドやスコットランドには石の遺跡が多い。塚あり、立石あり、列石あり。ケルト人にとっては自分たちが移り住むよりも前に築かれたものらしいが、それでも「その場所で豊作を祈り、収穫を感謝し、また太陽を仰ぐ儀式などを行った」。先住民族の文化を踏みにじることなく、逆に敬ったのである。

 

 熊野にも「石への崇拝」がある。一例は、熊野市山中の「まないたさま」だ。「谷川の脇にふたつの大岩が重なり、小さな木の鳥居が建つ。大岩の間の薄暗い空間をのぞくと、長方形の石がおさまっている」。形状から言えば、アイルランド中西部の遺跡「巨人のテーブル」に似ている。だが、本文とともに載っている写真は対照的。「巨人の…」が明るい平原にすっくと立っているのに対して、「まないた…」は暗所に隠れて見えない。

 

 この本が目を向けるもう一つのものが、樹木だ。「古代ケルト人にとって一番大事な木はoak(オーク)だった。彼らはオークとそれに絡みついたヤドリギを神聖視した」。ただし、彼の地の「オーク」は狭義のカシではない。コナラ属の総称で、とくにカシワに近い樹種を呼ぶことが多いという。カシワは日本でも「葉守(はもり)の神」の住みかとみなされてきた。清少納言『枕草子』がその伝承に触れていることも、著者は見逃さない。

 

 著者は「オークとカシワが信仰の対象になったのは、ともに人間の生活に欠かせない食と深く結びついていたから」とみる。どんぐりが人や動物の食糧となっただけではない。樹木そのものが虫やカビやキノコ、コケ類の生息の場となる。生態系の柱なのだ。ここで科学担当の元新聞記者としては、熊野が照葉樹林帯であり、落葉広葉樹のカシワと異なる常緑広葉樹が多いことも言い添えたい。ユーラシアの両端には広葉樹林の豊饒がある。

 

 言葉をかえれば、エコロジーの原風景がケルトや熊野にあるとも言える。著者も、ケルトの地母神をめぐる神話に「『絶対神―人間―自然・動物』といった序列」は見いだせず、「人間の傲慢さはない」と断じる。すべての生き物は生態系の一員という「共生」の思想だ。

 

 共通点は心のありようにもある。両地域の人々は同じように海と向きあい、似たようなものを「海の彼方」に思い描いてきたという。「アイルランドに伝えられる神話によると、ケルト人は海の彼方に食物がたわわに実り、不老不死の楽園『常若(とこわか)の国(ティル・ナ・ノーグ)』があると信じた」「熊野の古代人も海の彼方に豊穣(ほうじょう)と再生の理想郷『常世(とこよ)』があると信じていた」。どちらも、永遠が保証された世界である。

 

 もう一つ、宗教面の寛容も相通じる。この本が例に挙げるのは、ケルトのハイクロス。円環を重ねた十字架だ。土着のドルイド教が自然を崇めており、円環は太陽のしるしとみられるので「キリスト教とドルイド教の融合の象徴」といえる。それだけではない。アイルランド古来の神々は、多くが「キリスト教の普及とともに小さな妖精(シィ)となった」。欧州大陸のキリスト教が「布教の邪魔になる神や精霊」を「悪魔や鬼」にしたのと大違いだ。

 

 熊野の寛容は、熊野本宮大社の例大祭にみてとれる。神事の傍らで護摩焚きがある。著者によれば「神道と密教・修験道、祝詞(のりと)と読経が混在する」。そこには「神は本来の仏が仮の姿として現れた」という思想があり、本宮の神は阿弥陀如来の現れという。

 

 「常若」「常世」の思想は寛容の精神と結びついて、人々の目を外に見開かせた。この本は、アイルランドに米大陸などへ渡る人々が多くいた史実を描く一方、熊野も明治以来、大勢の海外移住者を輩出したことに言及している。「アイルランドや熊野の人びとは『海の向こうにより良い生活や幸せが待っている』という観念のDNAを引き継いでいるような気もする」。ユーラシアの東西端は地の果てであっても、決してどん詰まりではなかった。

 

 そして最後の共通項は反骨の気概だ。アイルランド、スコットランドには「独立運動」がある。熊野にそれはないが、「時の権力や権威に『まつろわぬ(言うことをきかない)者』たちの本拠地」ではあった、と著者はいう。その証左は「南朝の血筋を引く後南朝の伝承」や「平家の落ち武者伝説」だけではない。「大逆事件という一大でっち上げ事件の犠牲になった大石誠之助ら『紀州グループ』」も「まつろわぬ者」に位置づけている。

 

 大陸の事物が次々と押し寄せる島の突端に、開放的だが奥深い懐がある。常若常世の暖流に愛撫され、森の生態系に抱かれたアイルランドやスコットランドのケルト文化と紀伊半島の熊野文化だ。記者の実感が学者の史観に血を通わせ、その実相を浮かびあがらせた。

(執筆撮影・尾関章、通算419回、2018年5月9日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ホセ・ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領』

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ著、大橋美帆訳、角川文庫)

写真》地球の反対側

 この正月の新聞で僕がもっとも心を動かされたのは、元日紙面にあった「柄谷行人さん×横尾忠則さん 書評委員対談」(朝日新聞2018年1月1日朝刊)だった。見出しは「何のため 本を読むのか」。読書面で書評を続ける二人が本読みの醍醐味を語っていた。

 

 さすがだなと感じたのは、対談完結間際。司会の依田彰記者の「現代をどんなふうにとらえていますか」という問いに、横尾さんは「終末時計が音を刻んでいるという感じ」と答え、柄谷さんが「同感です」と受ける。これに対する横尾さんの結語がよかった。「僕は先のことを考えません」「未来は僕が決めるんじゃなくて時代が決める」「時代に対して受動的になることで、逆に時代を読むことができ、現実にも対応できる」と、たたみかけている。

 

 本好きならではの発想だろう。読書をしていると書き手と対話している感覚に陥ることがあるが、それは幻想に過ぎない。読むという行為は、受け身一方だ。時代を読むのも同様。いくら読んでも時代は応えてくれない。ただ、そうではあっても時代への対応力が生まれてくるというのである。新年紙面は祝儀ごころも手伝って、能動を促す言葉の羅列となりがちだ。そんな予定調和に流されず、あえて受動に価値を見いだす言辞に僕はしびれた。

 

 ご両人とは、朝日新聞の社内書評委員だったころ、2週に1度の会議に同席した。今から10年近く前のことである。二人に共通するのは、僕が若かったころにもう、カリスマとして名声を轟かせていたということだ。一人は気鋭の文芸批評家として。もう一人は過激なグラフィックデザイナーとして。だから憧れがあり、緊張もしたのだが、会議では肩透かしを食らう。柄谷さんも横尾さんも、飄々とした語り口で談論を笑いに包んでくれた。

 

 この対談記事にもあるとおり、二人には転身の経験がある。柄谷さんは、文芸から離れて哲学者になった。横尾さんは、デザイナーというより画家として活動するようになった。ともに、不断に新しい世界を切りひらいてきた感がある。さらに失礼を顧みずに言えば、その言葉は年齢相応の円みを帯びている。だがそれでも言えるのは、青春期の志が絶えていないことだ。柄谷青年と横尾青年は、今の二人にきちんと接続されているように見える。

 

 で今週は、お二人同様、若いころの志がどこかで接続されている人の話。

 

 『ホセ・ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領』(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ著、大橋美帆訳、角川文庫)。ムヒカは、南米のウルグアイ東方共和国(ウルグアイ)の政治家。1935年生まれ、2010〜15年に大統領を務めた。本人のつつましやかな暮らしぶりから、書名のように呼ばれた。古くさい日本語に置き換えれば「井戸塀政治家」か。だが彼が注目されたのは、清貧ということばかりではない。

 

 この本では、艸場(くさば)よしみさんという人が序文を寄せている。絵本『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(絵・中川学、汐文社)の編者だ。それによると、ムヒカは2012年、国連「持続可能な開発会議」で「私たちは発展するためにこの世にやってきたわけではありません」と訴えたという。「貧しい」は清潔の代名詞であるだけではない。経済成長よりも持続可能を重んずる社会を構想するときのキーワードとなったのである。

 

 ただムヒカ自身は、持続可能のために貧しくなれ、と呼びかけてはいない。むしろ、「貧乏」を嫌っているらしい。この序文によれば、同じスピーチにこんなひとことがある。「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に多くを必要とし、もっともっとと欲しがること」。物欲を際限なく募らせることが貧しさをつくりだすのだ。限度をわきまえれば「少ししか持っていない」としても豊かでいられる。そんな逆説が込められている。

 

 この本は、そのムヒカの半生記。ウルグアイのジャーナリスト二人が「十九年にわたり氏を密着取材して」(序文)まとめたという。原著は2015年刊。同年、邦訳『悪役 世界でいちばん貧しい大統領の本音』が汐文社から出て、翌年、加筆改訂改題されたのがこの文庫版だ。本文には、ムヒカ本人の肉声がふんだんに盛り込まれている。「どこであろうと、私は好きなように生きているだけだ。自分は貧しくなんかない」という言葉もある。

 

 ムヒカは7歳で父を失い、母の手で育てられた。「政治と読書に対する情熱、人生にささやかな楽しみを見つけること、大地とそれを耕すことに対する愛情」を育まれるが、生活は豊かでなかったらしい。投獄歴4回。最初は一般刑法犯として、2回目からは左派非合法組織の政治犯として。後者では脱獄を2回繰り返し、最後は1972年から85年まで塀の中に閉じ込められた。青壮年期はずっと、筋金入りのゲリラだったことになる。

 

 その百戦錬磨の闘士が言う。「最悪なのは、政党のイデオロギーのせいで、現実を現実として受け止められなくなってしまうこと」「私は随分前にそういう思想は捨てて、白か黒かというよりも、現実の微妙なニュアンスが重要だということに気がついた」。いまや化石となった言葉をもちだせば、ヒヨッたようにも聞こえる。だがムヒカは、それでも若いころの志を忘れてはいない。大統領任期中の立ち居振る舞いからも、それが感じとれる。

 

 たとえば、著者たちが自宅を訪れると「ムヒカは玄関先の井戸の上に腰かけて私たちを待っていた」。服装はカジュアル、ウイスキーのグラスを井戸のへりに置いたまま会話に熱中する。「話を終え再びグラスを手に取ったとき、カタツムリが琥珀色(こはくいろ)の液体と氷の間に浮かんでいるのに気づいたが、殻をつまんでかなり遠くまで放り投げ、まるで何ごともなかったかのようにまた飲み続けた」。これこそが、本当の井戸塀政治家だ。

 

 着ているものがラフなのは、「薄汚い格子柄の上着」を「就任してから三年間ずっと使っている」という記述があることからもわかる。ベルギーの王宮で「大統領はネクタイをお使いになられないと伺っていますが」と、タイを提供する旨の申し出があったときも拒否感を露わにしたという。ただ著者は、ここにも計算があるとみる。「前任者や他国の同僚たちと違えば違うほど都合が良かった。彼はそれを巧みに利用する術を知っていたのだ」

 

 これらのエピソードは政治思想と無縁ではない。ムヒカは言う。「共和制の定義は、誰も人の上に立たないということだ。それなのに、大統領たちは今も、君主制を起源とする封建制を受け入れるよう飼い慣らされてしまっている。だから、彼らの周りにつくられたお飾りを全部受け入れていられたんだ」。質素な生活様式は、貧しさの演出ではない。封建時代の統治者とは違う政治家像を身をもって示そうという決意が、そこにはある。

 

 志を反映させた政策の一つが、200ha以上の大地主に対する増税だ。ムヒカはこの必要を説くとき、自身も地価上昇の恩恵に浴したことを正直に打ち明ける。1980年代に刑務所を出て安い農地を手に入れた。買い足しもして今は25ha、それが値上がりで50万ドルにはなるという。「購入金額と現在の価格が釣り合っていない」「何百万ドルもの不動産を持っているのに一ペソたりとも払いたくないなんて、そんな馬鹿なことがあるかい」

 

 一方で、農作物のトマトを瓶に詰めて売りだした起業家や食用油の製造で名を成した工場主など、仕事に励む実業家には敬意を表する。ブルジョワの美点として「経営能力」「管理能力」「雇用を生み出す力」を挙げ、「左派の連中」にはそれが見えていないと言う。

 

 今のムヒカは左派か中道か、そんな問いをもって読み進むと「本質的に、信念を持った無政府主義者(アナーキスト)」という答えに出会う。「罪悪感のようなものを感じながら権力を生き、そのメカニズムの一部を疑問視しつつ、権力を行使することにも強い関心を持っている大統領」と、著者は分析する。権力者になっても統治を懐疑するのは、非合法活動をしていたころ「法律よりも人間の方が力を持っていると気づいていた」からか。

 

 志を保ちつつも現実的であるための条件は懐の深さだ。ムヒカの懐は、アナーキーな葛藤に満ちている。そんな心のありようこそが「貧しくなんかない」ということだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算404回)

 

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『グーグルマップの社会学――ググられる地図の正体』(松岡慧祐著、光文社新書)

写真》手もとに I am here”(グーグルマップ)

 このあいだ新装小田原城を訪ねて、その城下を歩いたときのことだ。馴染みがないのに妙に懐かしい。そう言えば……。脳裏に蘇ったのは社会科の教科書だ。たしか、この町の地図が載っていたように思う。山頂は三角、港は錨、畑は双葉、工場は歯車。山あり、海あり、農業地帯には軽工業も興っている。そんな多彩な顔を併せもつ土地柄だから、記号を覚えさせるのに最適だったのだろう。あの地図体験が、既住感のような感覚をもたらした。

 

 新聞記者時代、先輩の出張に同行して感心したことがある。着いた先では必ず、大判の地図を開いた。記者は事件が起これば、いきなり見知らぬ町にほうり込まれる。そこでまず求められるのは、町勢を大づかみに知ることだ。地図は、その助けとなったに違いない。

 

 それほどではないが、僕にも地図への愛着がある。たとえば、小説に地図が添えられていると読みたい気持ちが強まる。この夏、当欄で『南の島のティオ』(池澤夏樹著、文春文庫)を紹介したときも、そのことを書いた。巻頭に、所収作品群の舞台となる島のマップがあり、山や川、町や村が手書き風に描き込まれていた。それを見ただけで物語の空気に引き込まれたのだ。(2016年7月1日付「池澤夏樹の『南の島』に渡ろう」)

 

 地図愛には危うい一面もある。地図は天空から見下ろすように世界を描くので、文字通りの「上から目線」だ。それを広げて町や島の全貌をつかむという行為は、天守閣から領地を望む戦国大名の振る舞いに似ていないこともない。ただ言い添えたいのは、上から目線は権力者の占有物ではない、ということだ。人はだれもが公的な存在なのだから、私的な興味だけでなく公的な関心ももっていたほうがよい。そんなときに地図の視点は欠かせない。

 

 だが、このごろは昔ながらの地図が存在感を失いつつある。数週間前の経験を言えば、とある地下鉄駅から地上の通りに出たとき、昔なら必ずと言ってよいほど目の前にあった地図の案内板が立っていなかった。古くて見苦しいということで、取り払われたのかもしれない。不便じゃないかと憤ったが、今の人にはスマートフォンがあるんだ、とすぐに気づいた。僕も結局は、その場でグーグルマップを開き、行き先までの道筋を調べたのである。

 

 で、今週は『グーグルマップの社会学――ググられる地図の正体』(松岡慧祐著、光文社新書)。今年6月に出たばかり。一瞬、いまどきのITビジネス本かと思ったが違う。あくまでも主題は、地図の変容。新世代の代表としてグーグルマップを登場させている。著者は1982年生まれの社会学者で、略歴欄には「現代の都市や地域社会を表象するメディアとしての地図のあり方について社会学的な見地から調査・研究している」とある。

 

 学究の著作らしく、第1章には地図の定義がある。地図学の大家A・H・ロビンソンらは、三つの特徴を挙げたという。それを、ここで要約してみよう。一つめは「縮尺」。これによって距離や方向、面積の秩序が保たれる。二つめは「平面」。2次元表示ということだ。三つめは「選択」。描き込まれるものの取捨選択は欠かせない。はっとさせられるのは「平面」だ。当たり前のことを言っているようだが、ここにこそ地図の本質がある。

 

 平面に表すということは上から目線をもたらすが、その結果、僕たちは「世界を見わたすことができるようになる」。一望感は公的な関心と分かちがたい。たとえば朝食のとき、このパンの小麦はどこで収穫されたのだろうと思い巡らすとしたら、その瞬間、念頭には地図のイメージが広がっているはずだ。この本は、世界を「単一の連続平面」、国を「国境線によって区切られた領域」とみる通念が生まれたのも地図があったからこそ、としている。

 

 ところが最近、一望感が乏しい地図が台頭した。最初は1990年代後半に広まったカーナビだ。クルマの動きに画面が追随する。地図の中心点が「移動する個人の身体を基準にして動くようになった」のである。それを可能にしたのは、地図が人工衛星の全地球測位システム(GPS)と結びついたからだ。システムが「わたし」を追いかけてくれる。「地図のなかに『わたし』を出現させたことは、まちがいなく大きな革命であった」

 

 これを伏線として登場するのが、グーグルマップのスマートフォン版である。パソコン版が2005年に世に出たが、その使い手は止まったままでいた。ところがスマホの普及とともにGPS機能付きスマホ版が広まると「カーナビを手のひらに『携帯』しながら歩くような状況」が現実になった。「歩を進めるのに合わせて、現在地を示すアイコンが地図上をリアルタイムに移動していく」。それが、町の案内地図の退場を促しているとも言える。 

 

 著者の見方によれば、これは「見わたす地図」から「導く地図」への変化と考えてよい。街角でグーグルマップを開くとき、目を凝らすのは、自分が今いる地点から行き先までの道筋だ。「ユーザーは地図を面として『見わたす』のではなく、もっぱら点(現在地)と点(目的地)をむすぶ線(経路)を『追う』だけの存在になっていく」。地図の定義にあった「平面」の平面らしさが薄れ、そのなかの点と線ばかりが意識化されるというのである。

 

 しかも、「点(現在地)」は地図の真ん中にくる。僕が思うに、これはコペ転――コペルニクス的転回だ。天動説が地動説になって、座標の中心は地球から太陽へ移った。それが20世紀に再び見直され、アルバート・アインシュタインの相対性理論では、どの座標系にも同等の地位が与えられる。だから、地球どころか自分の居場所を中心にしても一向に構わない。グーグルマップは、そんな究極の相対論を具現してくれる、と言ってもよいだろう。

 

 それは、英語圏の案内地図の“You are here”を突き詰めたものかもしれない。日本語で言えば「現在地」のことだ。『日本語と英語 その違いを楽しむ』(片岡義男著、NHK出版新書)で片岡さんは、そこにyouという人格が現れることに着目して「youはhereつまり、『ここ』にあるのだ」と書いている(文理悠々「片岡義男に教わる英語っぽい英語」2012年11月19日付)。僕たちは今、地図に自身の人格“I”を埋め込めるようになった。

 

 著者によれば、グーグルマップは世界を「断片化」している。そこに立ち現われるのは「無数の『いま・ここ』」である。それは当座の経路案内だけでなく、遠くの町の地理探索でも同様だ。世界は、使い手の求めによって狭い範囲に「切り取られる」。地図の使われ方が「データベースから、個人の好みに応じて断片的なデータが引きだされ、その組み合わせが消費される」という「データベース消費」に変わってきたのだという。

 

 言葉を換えれば、地図はデータベースの一部に組み込まれた、と言えるのかもしれない。現にグーグルマップも地理情報システム(GIS)に支えられているという。この技術は「地形・地質の状態から観光・交通情報まで、さまざまな地理情報をデータベース化」するもので、それを「地図上に表示する」機能もある。飲み会会場の候補をたちどころにリストアップできるのも、そのおかげだ。地図が情報の保存庫と一体になったのである。

 

 この本は、「導く地図」のマイナス面も指摘している。著者の見立てでは、グーグルマップの使い手には「その時々での情報収集と空間行動の『便利さ』や『快適さ』を求める」傾向が強いが、「全体を見わたして個々の要素をまとめあげ、その全体の地理について物語るイメージを共有しよう」という動機が希薄だという。僕が「公的な関心」と言ってきたものは、この「物語るイメージ」に重なる。物語は新世代の地図から消えてしまったのか。

 

 この本を読むと、決してそうではないことがわかる。グーグルマップは地図に「継ぎ目」がないので、画面をずらしていけば遠隔地との「つながり」を地球の裏側まで感じとれる。視点の高度を変えてズームインやズームアウトができるので、自分が世界の一角にいることも実感できる。過去の風景を呼びだす機能が広まれば、タイムマシンの疑似体験も日常のことになってくる。そこには、時空を超えた物語を生みだす力が宿っているのである。

 

 眺めるよりも動かす地図が手もとの機械に潜んでいる。食わず嫌いになる前に、ササッと指を滑らせて遠くへ出かけてみよう。僕たちは、本を通じて会ったことのない人の話を聴くことができるが、同様に地図を通じて知らない町を歩きまわれるようになったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算335回)

 

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『子どもたちに語るヨーロッパ史』

(ジャック・ル・ゴフ著、前田耕作監訳、川崎万里訳、ちくま学芸文庫)

写真》欧酒さまざま

 欧州連合(EU)に残るべきかどうか。国の姿を決める国民投票が英国であった。BBCサイトが伝える開票結果では、日本時間6月24日午後2時の時点で「離脱」票の過半数到達が確定した。この報道を見ていて頭をよぎったのは、欧州とは何か、という問いだ。

 

 EUが、経済のみならず政治も含む連合体として登場したのは1993年11月。ちょうど僕がロンドン駐在の記者だったときのことだ。その歴史的瞬間の空気をじかに吸って、欧州戦後史の針が時計回りに進むのを実感した。それが逆戻りしたという印象は拭えない。

 

 EU誕生の翌年早々、朝日新聞の在欧記者たちは「おおヨーロッパ! 国のすがた・統合の因数分解」という連載に取り組んだ。僕が受けもった記事は「国境破り」。スイス・ジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機関(CERN)をとりあげた。地下トンネルに横たわるのは、フランスとの国境をまたぐ1周27kmの環状加速器LEP。ヒッグス粒子を見つけたLHCの先代格にあたる。そこには、正真正銘「欧州人」の科学者が集っていた。

 

 自国語が通じなければ英語で、という不文律があった。イタリア出身の物理学者は「ここの研究者は、国籍よりも、どこの実験グループに属しているか、どこの大学から来ているか、という意識の方が強い」と語ってくれた(朝日新聞1994年2月25日朝刊)。それは、この学問領域の性格を反映しているのかもしれない。国境どころか天地の境界すら無視して、普遍の法則を追い求める人々の集団だからだ。

 

 だが世事全般は、そうはいかない。英国社会にEUへの拒否感が根強くあることは、僕がいた頃も感じることができた。議会では、党派の違いを超えて欧州懐疑派(Eurosceptics)が論陣を張っていた。ここで僕が引っかかったのは、字面上の懐疑対象が「欧州統合」ではなく「欧州」そのものということだ。英国は欧州の一員であり、しかもその主要国のはずなのに、どうしてそこまで自分の居場所を突き放すような言い方をするのか。

 

 しだいにわかったのは、英国人は皮膚感覚で欧州イコール大陸と感じているらしいということだ。そこには、辺縁の視点が見え隠れする。城の佇まいであれ、食の風味であれ、英国風は武骨だ。対岸の洗練との対比を自覚しているからこそ、欧州のことをよそ事のように言うのかもしれない。それは、必ずしも悪いことではない。ただ、ひとたび偏狭な思想と結びつくと、今回のEU残留派議員殺害のような悲劇が起こるのではないか。

 

 今週は、『子どもたちに語るヨーロッパ史』(ジャック・ル・ゴフ著、前田耕作監訳、川崎万里訳、ちくま学芸文庫)。著者は1924年生まれ、フランスの歴史学者で欧州中世史が専門。この邦訳文庫版は、『子どもたちに語るヨーロッパ』(2007)、『子どもたちに語る中世』(2006)という原著2冊を訳して一つに合わせたもので、2009年に出た。少年少女に聞かせる語り口は、遠隔の地にいる大人の欧州理解をも助けてくれる。

 

 欧州にだれもが認める特徴は、狭いのに多様ということだろう。この本もまず、その狭さを指摘する。欧州域内ならば一つの国からもう一つの国まで「五時間以内(ロシアをべつにすればたいてい三時間以内)のフライト」でたどり着けるとあるのは、僕の実感にもぴったりくる。ロンドン勤めのころに大陸へしばしば出かけられたのも、旅程に限れば東京から大阪、あるいは東京から札幌や福岡へ出張するのと同じ感覚で行き来できたからだ。

 

 そして著者が多様さを裏打ちするものとして言及しているのは、ヨーロッパ人が「『ヨーロッパ人』とよばれることのほとんどない人びと」という逆説だ。互いに国の名、民族の名で呼びあっても自分たちが欧州圏の仲間という意識は乏しいというわけだが、これは域内にいるからこその見え方で、差っ引いて受けとめたほうがよい。ただ、空路1時間で言語や食文化が一変する醍醐味は、そこが差異にあふれていることの表れと言えよう。

 

 この本は「ヨーロッパ人がこんなに多様であるにもかかわらず、なぜひとつのコミュニティを形づくっているのか」という問いを念頭に書き進められていく。当然のことながら、源流を探し求めてギリシャ・ローマの古代文明や中世のキリスト教について詳しく叙述されているのだが、それを几帳面に跡づけるのはやめよう。むしろここでは「ひとつのコミュニティ」を支える条件を二つだけ、著者が描く欧州史から拾いあげたいと思う。

 

 一つめは「混血」。著者は古代から中世にかけて盛んになった民族移動に目を向け、「混血から生じた民族」は「文明や制度の面から見てより豊かでたくさんのものを生み出します」という。「人間の交錯は発展の源泉」であり、「ガリアでは、二つの主要な民族、ローマ帝国下のガリア人と、五世紀以降に定住したゲルマン系のフランク人が、その後のフランスの発展を進めました」と解説する。「民族的純血」を求めることは「不毛」と断じている。

 

 欧州の混血ぶりは、僕も英国で痛感した。赴任するとき、向こうの人は背が高く体も大きいと吹き込まれて日本人仕様の衣類、履物類を大量にもち込んだが、ロンドンで買い物をすると、さまざまなサイズが用意されていた。小柄なラテン系の人が大勢移り住んでいるということもある。だが、先祖の代からの英国人も大柄な人ばかりではなかった。それは、歴史のなかでケルト系やゲルマン系などが混ざり合った痕跡のように思えた。

 

 なかでも興味深いのは、ゲルマン系のノルマン人だ。この本にも、こんな記述がある。「スカンディナヴィアのノルマン人の一部は北フランスに定住し、ノルマンディの名を残しました。ノルマン人は十一世紀に大ブリテン島を征服し、一部は南イタリアに移住し、ナポリ王国とシチリア王国をつくりました」。北欧の血は、その文化とともにフランス、英国、イタリアに混ざり込んだのである。

 

 英国のノルマン人は「征服」という言葉通り、北フランスから海峡を越えてやって来て支配者となり、貴族層に浸透した。これが今も残る階級社会の根っこにあるのは確かだが、その一方で、人々が王室を神格化しない冷めた市民感覚をも生みだしたように思う。

 

 もう一つ、欧州を支えたものに学問がある。この本によれば、中世のスコラ学はラテン語を用いたので「大学者のほとんどは、出身国以外でも、ヨーロッパのいたるところで教授になることができた」。この国際性は、近代科学に受け継がれる。著者は、コペルニクス以降の科学の流れを追って「発見や発明は、たがいに結びつきつつ発展したヨーロッパの学者たちの共同体による、共働の成果」と位置づける。CERNの原点とも言えよう。

 

 EUに対する著者の立場は、至って前向きだ。すでに達成したものとして筆頭に掲げるのは「ヨーロッパ人同士が戦争をすることはもうない」という状況だ。近過去の旧ユーゴスラビアや北アイルランド、最近のウクライナ情勢などを思い浮かべると楽観が過ぎるような気もするが、EU域内で国家間戦争が起こる可能性は限りなく小さくなったということだろう。さらに民主主義、死刑廃止、国境検査撤廃の面でも進歩を遂げたとしている。

 

 著者は、欧州が闘うべきは「不平等」「失業」「排除」だと言い切り、逆に大切にすべきものとして「人権」「女性の権利」「子どもの権利」といった言葉を並べる。もう一つ、大切にするものとして書き添えたのが「人間と生きものと自然のバランス」だ。それは生態系の尊重であり、環境保護思想すなわちエコロジーがめざす目標にほかならない。欧州は今に至るまでいつも新しい価値観を打ちだし、世界へ発信してきたと言えるだろう。

 

 今回の英国の選択は、経済面で世界規模の混乱を引き起こしそうだが、欧州社会の深層では「ひとつのコミュニティ」という意識が生き延びるに違いない、と僕は思う。

 

 日本列島では縄文人と弥生人が混ざりあったのに、それを僕たちはほとんど忘れている。近隣の民族と漢字文化を分かちあってきたという連帯感も希薄だ。アジアに「コミュニティ」の意識を育むのなら、そんな歴史の記憶を蘇らせることから始めなければなるまい。

(執筆撮影・尾関章、通算322回)

 

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『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』
(カレル・チャペック著、飯島周編訳、平凡社ライブラリー)
写真》新春紙面には「夢」(朝日新聞2016年1月1日朝刊、拡大コピー)

 「初」のつく言葉は新年につきものだ。新春のテレビニュースでは「初詣」の光景が定番だし、バラエティー番組は「初笑い」ばかり。ただ僕たちが子どものころは、もっとあちこちに「初」があった。なぜか思い出されるのは「初荷」。商店街には、この2文字の旗をなびかせたトラックがものを運んできた。コンビニ時代は商いも12月31日24時と1月1日零時が滑らかにつながり、「初」の区切りがない。
 
 昔ほどには耳にしなくなった言葉に「初夢」もある。それが、いつ見る夢を指すのかでは諸説があるようだ。ただ、そこに富士や鷹や茄子が出てくれば良いことがあるという言い伝えは浸透している。先人は年の始め、1年の吉兆を占うつもりで眠りについたのだろう。
 
 メディアも、この縁起担ぎに便乗する。「初夢」の2文字をかぶせれば、遊び心で思考実験ができるからだ。僕自身、宇宙担当の記者だったころに「初夢記者、火星に立つ」という記事を書いたことがある(朝日新聞1988年1月3日付朝刊)。記者が「初夢号」という宇宙船で火星に派遣されたという想定。本文冒頭には、当時の海外記事にならって【火星・タルシス高原7月(地球時間1月)=赤星特派員】というクレジットを添えた。
 
 ちょうど米ソが火星の無人探査に熱心だったころだ。21世紀早々には有人探査が実現する、という見立てもあった。その「赤い惑星」の現実を、最新の観測情報をもとに火星大地にいる感覚でシミュレートしてみよう、という試みだった。
 
 「朝、東の地平線がうっすらと明るくなってきた。バイキングの画像でおなじみの赤い世界は今、乳白色の半透明のベールに覆われている」「この時期、火星は地球の7月にあたり、北半球では真夏。とはいっても、夜明け前は零下80−90度まで冷え込む。気圧は、200分の1気圧程度。白いもやが、かすかな大気の存在を裏付ける」。その朝もやを日本国内の天文台がとらえた写真も添えて、シミュレーションに説得力をもたせた。
 
 こうした思考実験は新聞紙面にもっとあってよい、と僕は思う。日常と異なる視点でものを考えることができるからだ。ただ、この記事はどこか物足りない。火星の風景描写に終始して、そこから地球を省みる発想が欠けている。地球環境問題を先取りして、火星の自然体系がどう平衡を保っているのかくらいまでは踏み込んでおきたかった。これでは、僕が批判する「夢とロマン」の宇宙ニュースと変わらない。
 
 ということで今回は『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(カレル・チャペック著、飯島周編訳、平凡社ライブラリー)の表題作。初夢というわけではないが、未来を大胆に予想していて、しかも現在への批判がある。これぞ辛口のシミュレーション。
 
 著者は1890年にチェコ・ボヘミア地方に生まれ、1938年に没した作家。戯曲『R・U・R』でロボットを描いたことで知られる。新語「ロボット」の発明には、画家で作家の兄ヨゼフがかかわったらしいので、チャペック兄弟の着想なしに現代技術は語れない。この戯曲は『ロボット』の邦題で岩波文庫に収められている(千野栄一訳)。そこに現れるロボットは人間に刃向かう存在だ。鉄腕アトムとは違う味わいの辛口批評がある。
 
 この本の略歴欄には、著者が「1921年に『リドヴェー・ノヴィニ(人民新聞)』社に入社、生涯、ジャーナリストとして活動した」とある。定職は新聞記者だったらしい。巻末の編訳者解説によると、表題作は勤め先の新聞に1930年夏に連載されたものだった。「チャペックの特徴のひとつであるSF的想像力を駆使して、近未来の世界での政治情勢を描いたもの」だという。いわば夏の夜の夢の記事である。
 
 それは、世界一周の旅行記仕立て。著者は「はじめに」で「出かけるにあたり、前もってお断りしておく」として、「旅の目的」をこう宣言する。「各国の政治的条件を間近に注意深く観察し、なんであれその中で追求する価値のあるものを探し求めることである」
 
 これに続くのが、新聞人としての内省だ。「われわれの新聞は、毎日毎日読者に、どういう人の内閣がどこで辞職しているか、といったようなことをいろいろ報道している」。そのことが「情報過剰」を招き、「誰が実際に政権を握っているのか」「どのような形で政治が行なわれているのか」「どのような社会的悪徳が、どこで我が物顔をしているのか」の「要約的な見通し」を読者に提供できずにいるというのである。今に通じる指摘だ。
 
 俎上に載るのは16カ国と1地域だが、ここでは米ソと日本を紹介するにとどめよう。
 
 まずは「アメリカ合衆国」の先行き予想。話の枕は、ニューヨークの交通事情だ。「街路と地下鉄」では捌ききれず、「街全体の上に、巨大なセメントの天井が装備され、さまざまな交通機関はその上に移されている」。その結果、人々の生活は「一種の地下室」状態にあるという。これを読んで思い浮かんだのは、むしろ東京の1960年代だ。五輪対応を急ぎ、空中に首都高を張り巡らせて、暗い町をつくってしまった。
 
 米国編の本題は、ギャングの跋扈だ。「政党(アメリカには二つしかないのだが)はみずからの強力なギャング組織への依存を、ますます強めていった」「一方はニューヨークの金庫破りレッド・ボブが頭目」「他方はシカゴの密輸業者ビッグ・ビルが親分」。両陣営が備えた武器は「大砲と機関銃、戦車、装甲列車、毒ガス、火焔放射器、爆撃機、その他現代的な兵器」。あまりにも荒唐無稽だ。ただ、米国が2016年の今もなお銃規制を徹底できずにいることを思うと、著者は押さえるべきところを押さえていたとも言えよう。
 
 この抗争に勝って権力を握ったのはビッグ・ビルだ。産業界や金融界が相次いで重職就任を求めたが、「それはわたしには向かない。そんな泥棒じゃないよ、わたしは」と辞退したという。彼が議会に示した「政治的原則」の第1項を見て、僕は言葉を失った。「移民の禁止」。そこには「『わたしはアメリカに外国のならず者がいるのを望まない』とビッグ・ビルは言っている」との注釈がある。これも、2016年の風景と重なる。
 
 一方、「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の空想未来はどうか。モスクワに着くと役人に呼ばれ、「政治的情勢を研究したい」という希望を伝えると、警護付き、車付きの視察場所が用意される。「模範的病院」「模範的酪農場」「模範的労働者住宅」「模範的小学校」「模範的ソーダ水キオスク」……。メディアが社会主義独裁体制を取材するときに待ち受ける罠を皮肉たっぷりに書いている。
 
 「高位のお役人」による説明がおもしろい。要点はこうだ。「ソヴィエト大帝国」は「経済的発展のほんのはじまり」にあり、「これまで採用されてきた三百年間にわたる将来計画(いわゆる三百年計画)は、これからの七千年間にわたるはるかに合理的な、精密で必然的な計画に取って代わられつつある」「その時代がやってくるまで、ソヴィエトの市民たちは、少なめの食糧の割当てと一定の自由の制限に耐えて満足していなければならない」

 ソ連は1930年当時、5カ年計画の途上にあった。その「合理的」に見えて不合理な本質を、思考実験で時間幅を延ばしてあぶり出したのである。当時、計画経済は輝いており、岸信介も30年代後半に「満州国」官僚としてソ連流の5カ年計画をつくっている(当欄2014年10月3日付岸信介で右寄りの『右』を知る)。そんななか、著者は「ソヴィエト体制はみずからが崩壊直前にあるということを予期する必要がある」と言い切った。
 
 「日本」の章では「国民はミカドその人の中に、自分自身と、自分の持つ神のような力を見る」「ミカドはあまりにも高貴なので、みずからは統治せず、宮廷人、大臣、そしてなんやかやの議会を仲介としている」。まもなく訪れる戦時の集団心理を見抜いている。
 
 チャペックが予見したのはロボットだけではない。人の世の流れもつかみとっていた。
(執筆撮影・尾関章、通算298回)
 
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『テロリズム――歴史・類型・対策法』
(J=F・ゲイロー、D・セナ著、私市正年訳、白水社・文庫クセジュ)
写真》パリのテロ第1報(朝日新聞2015年11月14日夕刊)
 
 またもや、見たくもない映像を見させられてしまった。パリで起こった同時多発テロである。狙われたのは、金曜夜のコンサートホール、サッカー場、レストランだった。そこにいたのは、平日の緊張から解き放たれ、気分を弛緩させている人々である。
 
 テロという言葉で浅沼稲次郎の刺殺事件が真っ先に思い浮かんだのは、もはや遠い昔だ。オフィスビルで働く人が航空機の直撃を受ける。通勤電車ですし詰めの人が有毒ガスに逃げ惑う。そんな事件が相次いで、僕たちのテロ観は変わった。テロリストの主張と直接には結びつかない人々が攻撃されるようになったのだ。その極限にあるのが、今回の惨劇だろう。覚悟という心境からもっとも外れた場所で血が流れた。
 
 こうしたテロの実行者には、自爆や反撃によって命を落とすことをいとわない人がいる。他人のみならず自分も含めて個人の生命を超えたところに価値を見いだす人々だ。だから報復や厳罰をもってしても、なかなか抑えることができない。そういう行いに武器をもたない僕たちはどう向きあえばよいのだろうか。たぶん、個を重んずることがそれぞれの文化を尊重することの原点にあると訴えていくよりほかないだろう。
 
 思い出すのは2年前、当時の自民党幹事長石破茂さんが、いったんはブログに載せた失言だ。後で取り消したが「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」と書いたのである。特定秘密保護法案に対する抗議行動が盛んだったころだ。「デモはテロ」という思い込みが日本の保守政治家の間にあることが仄見えた瞬間だった(WEBRONZA2013年12月5日付拙稿「石破発言の陰に『コンプラ』ばかりをみる風潮」)。
 
 この数年、日本社会では組織動員型とは異なるデモが定着した。3・11原発事故後に強まった国策への不信や、一強多弱で突っ走る国会への警戒が背景にある。だから、脱原発であれ、機密や安保にかかわる法案への異議申し立てであれ、その風景からは国家に対峙して個の大切さを訴えるという構図が見えてくる。その限りでは、デモはテロと「あまり変わらない」どころか、その対極にあると言えるだろう。
 
 いま、このように世界がテロの脅威に曝されているときに、なによりも備えるべきは、そうした個を尊重する精神だ。デモの力はテロの力に対抗しうる。それなのに逆の発想しか出てこないのは嘆かわしい。
 
 で、今週は『テロリズム――歴史・類型・対策法』(J=F・ゲイロー、D・セナ著、私市正年訳、白水社・文庫クセジュ)。パリのテロの数日後、ふらりと立ち寄った学生街の古書店で、この背表紙を見つけた。クセジュと言えばフランス本。キーワード検索にならえば「テロ×フランス」だ。このめぐり合せに、すぐさま手にとった。訳者あとがきによれば、著者二人は法学や犯罪学の学位があり、警察や司法の実務にも通じているらしい。
 
 この本は2000年代、米国の9・11同時多発テロの衝撃が冷めやらぬなかで執筆された。したがって、今日的な切実感を踏まえている。だが、学究らしく一歩退いた視点に立って、歴史軸を見通した考察も忘れていない。
 
 テロの源流探しは、「フランス革命」に遡る。「テロリズム」は革命後の「恐怖政治(ラ・テルール)」に由来する言葉で、そのころ「『テロリスト』は『共和主義者』の同義語」だったという。では今日、それはどう変わったのか。著者は「テロリズムを定義する試みは、大抵はわれわれを当惑させる」と打ち明ける。目的、手段、影響のどれを強調するかでいかようにもなるからだという。
 
 実際、今とはずいぶん違うイメージもかつてはあった。例に挙がるのは、ロシア革命の活動家ボリス・サヴィンコフが綴った『あるテロリストの回想録』の表題だ。「人びとはテロリズムということばにそれほど、うしろめたさを感じていなかった」。だが、テロが非難の的になると、反権力の活動家は「パルチザン」と呼ばれたがるようになったという。そのほうが「ある種の合法性」や「政治的正当性」を感じさせるからだという。
 
 このくだりでは「占領者や植民者によって『テロリスト』として名指しされた者が、国家指導者や政府指導者の『地位』に変わったり、ノーベル平和賞の『地位』を得たりした政治家たちは数えきれないほどいる」という指摘に、はっと驚かされる。ノーベル賞受賞者とはだれか。注には「ネルソン・マンデラやヤセル・アラファトなど」とある。なるほど。テロリズムという言葉の曖昧さに便乗するレッテル貼りが横行していたのだとも言えよう。
 
 この本は、近代テロリズムの変遷を欧州史に沿って語っている。たとえば19世紀末から20世紀中盤にかけて「無政府主義者」の時代があり、次いで「バルカン半島」の時代があったという。このあたりは僕たちの皮膚感覚にはピンとこない。だが、そのあと「脱植民地化と冷戦」の時代が1990年代半ばまで続き、今は新しい時代区分に入っている、という分析は同時代人としてストンと腑に落ちる。
 
 では、テロリズムは冷戦終結の前後でどう変わったのか。著者によれば、冷戦期のテロには三つの特徴がある。一つには「間接的」だった。それは「不利な力関係を覆すための巧妙な策略」として仕組まれ、「神経戦」の様相を呈した。二つめには「政治」が中心にあった。通常の犯罪とは違って「抽象的観念や主義主張に基づいて実行されていた」のである。そして「国家」の関与。「特務機関による指揮や援助」の影がちらつくこともあった。
 
 ところが冷戦後、「世界的カオスのテロリズム」が到来する。「新しい世界は、分裂し、騒然としている。その結果、テロリズムは大規模になり、脱地域化し、非合理的になり、突発的で流動的であり、犯罪性も増し、国家の統制から離れている」。現在のテロは、相手を「交渉の場に引き出すため」の間接戦術ではなく、「彼らの世界観をおしつけ、古いモデルを彼ら自身のモデルに置き換える」ことを主眼とする直接攻撃になったという。
 
 この本で、今回のパリ同時多発テロを予言しているようにも思われるのは、現代テロリズムの「演劇化」を論じた一節だ。まずは、一つの都市が「舞台」になること。「都市には、政治的、経済的権力、また情報やその他の権力が集中するようになったが、かえってそれが権力を不安定にさせることになる」「人口集中は、テロリストの活動にきわめて適した環境を準備する」。だからそれは「テロリズムにとって、願ってもない舞台」なのだという。
 
 もう一つは、「観衆」を求めることだ。「テロリズムは、情報の海からはっきりと姿を現わすために、強い劇的性格を持たなければならない」「テロ行為は、みずからを他の行為と区別させるために『メディアが伝える大衆の批判』なるものを獲得しなければならない」。批判もまた存在感の誇示を助けるという逆説。その結果、「観衆をひきつけるために、ますます多くの死者を必要とする」という論理に結びつく。背筋が凍る話だ。
 
 現代のテロは「時と場所における予測不可能性」に効果を見いだす。そのこともあって、一般市民が「戦略的手段」になりやすいという。「政府に圧力を加えるために、通行人を殺害し、観光客を誘拐する」――それとほぼ同じことが、パリで起こった。
 
 この本には、後段でフランス国内や欧州レベル、世界レベルのテロ対策も紹介されている。だが、読み進むほどに決め手はないことを痛感させられる。ひとつ心にとまるのは「テロ対策は、国家の独占ではありえない」「世論、メディア、議員、知識人、企業など社会全体に関係する」という記述だ。たしかに、当局が取り締まりを強めてもイタチごっこが続くばかりかもしれない。では、僕たちは何をすればよいのか。
 
 たぶん、密告社会をつくれということではあるまい。テロ報道の「観衆」から抜けだして、それぞれのやり方で個の尊厳を守り抜くこと。それしかないように僕は思う。
(執筆撮影・尾関章、通算291回)
 
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