『三枝博音と鎌倉アカデミア――学問と教育の理想を求めて』(前川清治著、中公新書)

写真》大学――ペンの力

 「見上げてごらん夜の星を」という歌がある。希望が胸の底から湧いてくるような旋律だ。1963年、坂本九が唄って広まった。のちに九ちゃんが空の事故で亡くなったことを思うと切ない歌でもある。作曲したのは、いずみたく。その人と一度だけ、僕は言葉を交わしたことがある。89年のことだ。いずみ(本名・今泉隆雄)は二院クラブ所属の参議院議員だった。その今泉議員に、科学記者として臓器移植のことで電話取材したのである。

 

 この年12月1日の参議院本会議では、臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)の設置法案が可決された。脳死移植を進めるかどうかで首相の諮問機関を設けることが決まったのだ。この問題は議員めいめいの死生観にもかかわる。政党が賛否を縛るのをやめようという動きもあったが、結局は、大半の会派が党議をまとめて賛成に回る。採決は起立方式。立たなかったのは一部の党、そして一部の人……その一人が今泉議員だった。

 

 僕は彼の不賛成を確認してその理由を問うため、議員会館に電話した。答えはもらえた。ただ、脳死や臓器移植に対する思いを聞きたいとの期待は外れる。記憶によれば「大勢になびくのは嫌い」というような話だったと思う。記者の力足らずもあって、その取材結果は紙面に生かせなかった。今、参議院公式サイトの記録をみても「可決された」とだけあり、賛否の人数すら残っていない。いずみの抵抗は、歴史の波間に隠されてしまった。

 

 脳死臨調は中身の濃い議論を重ね、答申時にも少数意見を併せて公表するなど画期的な有識者会議だった。だから、その設置法案に賛成しなかったことをもって英断と称えるつもりはない。むしろ僕が今でも感服するのは、付和雷同はいやだという反骨心だ。いずみは1930年生まれ。少年期は軍国主義の重圧下にあり、戦後一転、自由のすばらしさを知った世代だ。大政翼賛の構図がいやだったのだろう。その原点は、きっと青春期にある。

 

 いずみの母校は鎌倉アカデミア。僕はその存在を、いずみや放送作家兼司会者前田武彦(マエタケ)の出身校として知った。終戦直後の一時期、鎌倉の知識人が政府の定める大学の要件など気にもとめず、自律の精神で開いていたという学園だ。反骨心は、その校風によっても育まれたのだろう。文部科学官僚の組織的な私学天下りという報道に触れて真っ先に思い浮かんだのが、この学校だ。私学にあるはずの在野精神は今、どこへ消えたのか。

 

 そう思うと、この「大学」ならざる大学について書いた本を無性に読みたくなった。で、今週は『三枝博音と鎌倉アカデミア――学問と教育の理想を求めて』(前川清治著、中公新書)。著者は1934年生まれのノンフィクション作家。この本は96年に出た。

 

 まずは開学の端緒。この本には、1945年の晩秋に「鎌倉文化会が中心になって『鎌倉山に大学をつくろう』と動き出した」とある。注目すべきは、この文化会の構成メンバーだ。画家、音楽家、演劇人、宗教家など文字通りの文化人に交じって「町内会長」たちがいた。大学づくりの計画でも創立準備委員7人のうち4人が、その会長連だ。地元農家の人がいる。郷土史家もいた。鎌倉アカデミアは地域に根差したところから生まれたと言ってもよい。

 

 こうして翌1946年春、国の大学令に縛られない「鎌倉大学校」が開校した。準備委員の一人が鎌倉山の土地を提供するということだったが、とりあえずは仮校舎を材木座の名刹、浄土宗光明寺に設けた。教室には畳敷きの仏間などが使われ、仕切りはベニヤ板だった。まさに寺子屋だ。その後、運営をめぐるゴタゴタがあり、自前の敷地は夢と消える。2年後に校舎を近隣の横浜市西部へ移したとき、校名を「鎌倉アカデミア」に改めたという。

 

 この本によれば、専門学部にあたるものは開校時、産業科、文学科、演劇科の三つだった(のちに映画科も置き、産業科は経営科に改称した)。それぞれ学生50人を募ったという。違和感を覚えるのは「産業科」の開設だ。文学や演劇はいい。だが、産業は文化都市鎌倉に似合わないのでは……ところが読み進むにつれ、それが浅薄な偏見だとわかる。そこには深遠な文化観があった。その中心にいたのが哲学者、三枝博音(さいぐさ・ひろと)だ。

 

 三枝は産業科の教授兼初代科長。初年度途中から学校長になった。広島県生まれ、実家が寺だったのでいったん仏門に入るが、学問を志して東大で西洋哲学を学んだ。私淑した学者の一人が、医史学の富士川游。このあたりから理系に対する関心が芽生えてくる。大学院を出て学究となり、唯物論哲学に共鳴するが、それに頓挫して技術史の著作活動を始める。日本科学史学会が1941年に誕生したときには発起人に名を連ねている。

 

 産業科長には三枝の後も科学史家が就いた。鎌倉アカデミアは、いずみやマエタケ、作家山口瞳、映画監督鈴木清順ら戦後文化の一線を担う人材を輩出したが、学園首脳陣は狭い意味の文系世界に閉じこもっていなかった。理系世界も包みこむ文化が、そこにはあった。

 

 源流の一つは三枝が敬愛した三浦梅園だ。江戸時代、東洋の思想とともに西洋の理系知に関心を寄せた人である。著者は三枝の論考「三浦梅園の哲学」を引く。文系の書物に天文の話を書き込んだことを「あなたには詩の世界と物理の世界は一つだった」と評している。

 

 三枝は科学のありようにも目を向けた。「明治以前の科学的研究における庶民性について」と題する論考で、日本には科学の「公開性」や「協同性」の流れもあったことを指摘している。ここに登場するのは、平賀源内だ。「彼及び彼の伴侶たちが志を同じくして『物産会』の如きを幾回か開き連絡をとり、しかも政治的に頼ること(頼られ得るものでもなかったが)は少しもせず企て通した」という。公開、協同のみならず自律の科学とも言えよう。

 

 こうした科学観を、三枝は鎌倉アカデミアで具現しようとした。ひとことで言えば「楽しい学園」をつくるという決意だ。この本が長く引用した学生自治会発行Academia Times第1号への寄稿に、その核心を見ることができる。「わたくしが『楽しい』というのは、楽々とした気もちになれるとか、のんびりした心もちに成れるとかいうのではない」とことわった後、理想の学園像を目に浮かぶようなかたちで描いている。

 

 「廊下や教室で目に入るもの、耳にはさむもの、すべてが先生や学生たちの教養が深まるようになっている。絵も貼る、表も出す。楽しい書物や珍しい書物を見せる。金がないなら各自書斎のものを短期に持ち出す。研究会は大小つねにもたれる。本を読むことは飯を食うようにする」。最後の一文は、梅園の「学問は飯と心得べし」という名言を意識したのだろう。学ぶとは自らの糧を得ることであり、ひけらかしのためではないとする警句だ。

 

 この学園像は、決して絵空事ではなかった。そのことをうかがわせるのが、鎌倉文化人の一人、作家高見順の講義だ。この本では、文学科に学んだ作家沼田陽一の文章を紹介している。それによると、高見は授業中に鞄から自分の蔵書を引っぱりだして「闇屋じゃありません」と笑わせた。学生は講義後も去らず、延長戦を求めて「本堂と庫裏をつなぐ渡り廊下の脇にある池のそばの芝生の上に先生を中心にして扇状に腰をおろした」という。

 

 あるいは演劇科では、学生たちがいくつかの演劇集団をつくり、互いに競いあった。その一つ、「かもめ会」の東京公演に触れたくだりに「舞台監督は今泉隆雄(いずみたく・作曲家)が担当した」とある。いずみは、母校にもしっかりと足跡を残していた。

 

 この本には、大学運営をめぐっても驚愕の事実が書かれている。一つは、入試の面接に学生を同席させたこと。背景には、三枝の「仲間は自ら選ぶことが大切」という考えがあった。また、自治会委員長経験者の証言によると、授業料値上げも学生主導で決めた。このとき、学生側の提案額は教授側のそれよりも高かったという。そんなこともあって学生たちは「経営収支に明るくない教授たち」を運営から遠ざけようとしたらしい。苦笑する話だ。

 

 鎌倉アカデミアは資金難で1950年に力尽きた。三枝も63年、鶴見列車事故で亡くなっている。「大学」ならざる大学の足跡を戦後民主主義の徒花と片づけるのは簡単だ。だが大学再生が求められる今、その「楽しい学園」の決意は断じて冷笑されるべきではない。

(執筆撮影・尾関章、通算354回)

 

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『大学教育について』
(J・S・ミル著、竹内一誠訳、岩波文庫)
写真》大学野球(朝日新聞2016年5月2日朝刊から=拡大複写)

 今春までの1年間、僕は大学漬けだった。なによりも、都内の三つの大学で非常勤講師をしたことだ。担当科目はどれも半期のものだったが、それぞれ週1回の講義を受けもった。加えて、遠方の大学へ客員教授として出向く職務もあった。大学という学府に片足を踏み入れて、学生としてではなく、取材記者としてでもなく、内側から観察する。それは僕の一生を通して、これからもめったにないであろう体験だった。
 
 痛感したのは、この半世紀で大学が激変したということだ。1970年代、僕自身が学生だったころと比べれば別物になってしまった感がある。良くも悪しくも、教育の管理が隅々にまで行き届いている。
 
 講師は学期に先だって、シラバスというものを提出させられる。授業の狙いを掲げればよいのではない。第1講から最終講まで1回ずつ、それぞれの要点を記さなくてはならない。逆を言うと、学期が始まればこの日程を淡々とこなせばよいということだ。休講すれば補講するのが原則。学生も毎回、出席登録のためにICカードを装置にかざす。電車の改札さながらで素朴な代返はありえない――これではまるで自動車教習所ではないか。
 
 僕の授業は、科学技術について折々のニュースを話題に取り込みながら語ることが多い。水もので、見通しの立たない一面がある。そんな悩みを大学側に打ち明けると、たいていは「そこは自由にやってください」などと物わかりのよい返事が戻ってくる。では、シラバスの記入欄はどう埋めればよいのか。結局、これはあくまで予定に過ぎないということを文面ににじませて、形式を整えることになる。
 
 こんな管理体制を強いているものは何か。専任教員や事務方の説明で言葉の端々に出てくるのは「文科省」だ。文部科学省が大学教育のありように与えている縛りがどれほどのものかは、両者の言い分を公平に聞かないとわからない。ただ確かなことは、大学側が中央官庁の意向にとても過敏になっているという紛れもない事実だ。役人はいつから、大学人にとってこんなにも怖い存在となったのだろうか。
 
 1970年前後は、大学管理が言われだしたころだ。だが当時は、大学当局が紛争を鎮めるために警官隊を構内に入れたにしても、教授陣の大勢は保守派も含めて自治の看板を下ろしていなかったように思う。休講が続いても、それで失ったものを補って余りあるなにかを自由な空気から得ていたのではないか。大学がほんとうに「解体」されてしまったように見える今、そのなにかが何かを伝える責任が、団塊世代やその後続の僕たちにはある。
 
 で、今週の一冊は『大学教育について』(J・S・ミル著、竹内一誠訳、岩波文庫)。著者(1806〜1873)は英国の哲学者、経済学者で、晩年にスコットランドのセント・アンドルーズ大学名誉学長となった。その就任講演を収めたのが、この本だ。1983年に御茶の水書房から出た『ミルの大学教育論』(竹内一誠訳、副題は省略)という単行本をもとに2011年、文庫化された。
 
 押さえておきたい点は、この大学論が生粋の大学人によるものではないことだ。著者は「ギリシャ語を三歳で学びはじめた」ほどの知識人で、この講演でも古典文献に原語で触れる意義を説いているが、自身は「学校教育というものを一切受けておらず、大学で教えたこともない」(カギ括弧内は、竹内洋の巻末解説)。出版物で論陣を張る「公共知識人(パブリック・インテレクチュアル)」が、外部の目で大学の理想像を描きだしたのである。
 
 一読して、著者の主張の今日性に驚かされる。講演があったのは1867年。日本では大政奉還があった年、まさに近代前夜だった。ところが読み進むと、昨今の学問状況を見通していたかのような指摘が出てくる。これは著者の洞察力の高さに依っているが、それだけではあるまい。21世紀に直面する問題の兆候は、前々世紀からあったのだ。日本の学界は欧州を追いかけることに追われ、そこに潜伏する病を見いだす余裕がなかった。
 
 たとえば学問の細分化。「人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかもいまだかつてなかった速さで現在増加しています」「一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでしょう」
 
 僕たちは、その結果として大学の学科の間口が狭くなっていくことを嘆く。だが著者は、それと逆方向の思考を繰り広げてみせる。一貫しているのは、大学は学問の細分化を乗り越えるためにこそある、とする考え方だ。「大学は職業教育の場ではありません」「大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります」。ただこれは、当時の英国社会の共通認識でもあったらしい。
 
 この大学観を「技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく」「教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植えつけたかによって決定される」という技術観に結びつけているのは、著者ならではの卓見だ。そんな教育によって巣立つ人材の例として、知識だけでなく「ものごとの原理」をつかみとろうとする「哲学的な弁護士」を挙げる。文理の枠を超えた考察である。
 
 ここで必須とされるのが「一般教養」だ。括弧書きされた原語は“general culture”だが、最近よく耳にするリベラル・アーツとほぼ同じものとみてよいだろう。日本の大学では専門志向が強まり、教養部の改廃が進んだが、それと真逆の方向と言える。
 
 このくだりで、目を引くことが一つある。著者が、大学の教育機関としての役割に「上限」を設けていることだ。「大学教育の領域は、教育が一般教養の領域を越え、個人個人の人生の目的に適合する各専門分野に分岐する時点で終了します」。大切なのは専門の一歩手前まで、教養部こそ主従の主ということか。ただ、それが「基礎的な知識」の伝授なのかと言えば、そうではないと断ずる。そこに出てくるのが、下記のような「知識の体系化」だ。
 
 「個々に独立している部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまでいろいろなところで得た知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合わせ、いわば知識の全領域の地図を作りあげること」「すべての知識をいかに関連づけるか、ある分野から他の分野にいかに進めうるか、高度な知識は一般的な知識をいかに修正するか、また逆に、高度な知識を理解する上で、一般的な知識はいかに役立ちうるかを考察すること」
 
 次の言葉も僕たちは脳裏に刻みつけるべきだろう。一般教養の教育では、その最終局面で何が求められているかを述べたくだりだ。「諸科学の『体系化』、すなわち、人間の知性が既知のものから未知のものへと進むその進み方についての哲学的研究が含まれています」。最先端の探究のためには「知識の体系化」が欠かせないということだろう。ここにあるのは教養から専門へという流れ図ではなく、専門の参照先に教養があるという構図である。
 
 僕が圧倒されるのは、19世紀にすでに、知的営みを知のネットワーク化ととらえる発想があったことだ。20世紀後半にハードの固体物理とソフトの情報科学が結びついてIT時代が到来したように、体系化は新しい文化の流れを生みだすとも言えよう。
 
 この講演では、「重要な学問の諸原理が広く一般の人々の間にも浸透すれば」という仮定のもとで「実生活の重大関心事に関して、世論を指導し、向上させる能力をもつ精神」が涵養される可能性も論じられている。今の日本社会では、エリートを何人生みだすかで学問の進歩を測りがちだが、著者の目は、人々がエリートの見いだした「諸原理」を分かちあい、「世論」の質を高めることに向かっている。知の中間層を分厚くしようということだ。
 
 シラバスを消化するばかりでは知識の体系化は封じられる。好奇心のアンテナを神経細胞の軸索のように気ままに伸ばす。そんな自由を大学は取り戻さなくてはなるまい。
(執筆撮影・尾関章、通算315回)
 
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