『ドイツ現代戯曲選30 第十三巻/私たちがたがいをなにも知らなかった時』

(ペーター・ハントケ著、鈴木仁子訳、論創社)

写真》広場

 若いころは、筋を追えるような物語を嫌ったものだ。いや、小ばかにしていたと言ったほうが当たっている。なぜだろうかと自問して気づくのは、わかりやすさに値打ちがないと思い込んでいたことだ。若気の至りとは、こういうことを言うのだろう。

 

 筋を追えない文学作品とはどんなものか。すぐ思いだせないのは、きっと筋が乏しくて印象に残らなかったからだ。ただ、そこにはコトよりもモノにこだわる傾向があった。たとえば、ドアの把手をただひたすら描く、という小説があった気がする。そこでは把手を、ドアの開け閉めに使うという用途から切り離している。モノをモノとしてとらえる、という志向がどこか実存的に思えたのだ。そこに立ち現れる世界は、どこまでも無機質に見えた。

 

 今では、そんな性向がすっかり消え失せた。物語の筋を軽蔑しなくなったのだ。たぶん、人と人の影響の及ぼしあいが人生の醍醐味であると悟ったからだ。青少年期は、人と人の関係を図式化してとらえていた。登場人物に男と女がいれば、そこに恋やセックスの力学しか想定しなかった。そんな決めつけが世界を見る目を貧しくしていたのだ。年をとるごとに、人間にはさまざまな関係性がありうることを実感してくる。これこそは年の功だ。

 

 ここで、ふと思う。筋がないと思われる文学作品にも、実は人と人のかかわりが隠れているのかもしれないと。だから当欄は今回、一つ実験を試みる。筋を追えない作品を年寄りの目で読んでみようと思うのだ。きっと、若者には見えないものが見えてくるだろう――。

 

 で、手にとったのは『ドイツ現代戯曲選30 第十三巻/私たちがたがいをなにも知らなかった時』(ペーター・ハントケ著、鈴木仁子訳、論創社)。著者は今年、ノーベル文学賞を贈られた。今回、文学賞は2018年と19年の2年分が同時に選考されたが、彼は19年の受賞者だ。巻末の著者紹介によると、1942年、オーストリアに生まれ、大学在学時代から創作活動に携わった。幅広く、小説や戯曲、映画脚本などを手掛けているという。

 

 この戯曲は1992年の作品。その邦訳を収めた上記戯曲選第十三巻は2006年に出た。今回のノーベル賞報道では、著者の戯曲家としての側面に触れて「66年初演の『観客罵倒』や『カスパー』(68年)など、従来の演劇形式を大胆に解体する前衛的な戯曲を発表」(朝日新聞2019年10月11日朝刊)という記述もあった。『私たちがたがいを…』も、きっと「前衛的」に違いあるまい。そう確信して、さっそく本を開いてみた。

 

 冒頭のページには「S.に」と書かれた献辞があり、「そしてたとえばヴェリジー台地のマユ・ショッピングセンターまえの広場に」と続いている。謎めいているが、この2行から引きだせることはいくつかある。「ショッピングセンター」とあるのだから、時代設定は現代なのだろう。「台地」の一語からはニュータウンのような印象も受けるが、これは日本の感覚を引きずった解釈かもしれない。いずれにせよ、日常性が感じとれる切りだし方だ。

 

 本編に入ると、書きだしはこうだ。「舞台はまばゆい光のさすひろびろした野外の広場。/はじまりにまずひとり、すばやく舞台を走り抜ける。/次に反対方向からまたひとり、おなじく足早に駆け抜ける。/」(/は改行)。これでは終わらない。二人が「両方向」から出てきて「すれ違う」こともある。要は、人は広場をただ走り過ぎるだけということだ。なるほど、「私たちがたがいをなにも知らなかった」状況がここにはある。

 

 このあと、「間」があって次の場面に移る。この第二場面でもやはり、人が次々に出てくる。ただ、今度はさまざまなしぐさを伴う。たとえば「しきりと掌を開いては五本の指をひろげ、同時に伸ばした両腕をゆっくりと持ち上げて、頭上で弧を描くように回してからふたたび下ろす」というように。やがて、広場には人が左右上下いろんな方向から出てきて「めいめいがてんでばらばらに〈ウォーミングアップ〉にいそしんでいる」。

 

 この人々は、ただなにかの準備運動をしているのではない。「たえずだしぬけに」「とっかえひっかえさまざまな姿態をとる」からだ。「いきなり跳躍して、ジグザグに走る」「眼のうえに小手をかざす」「櫛で髪をとく」「シャドウボクシングをする」「唾を吐く」「ハミングする」……。著者はここで、思いつく限りの行為を書き連ねる。しかも、これらは「すべてが入り乱れた様相で、どれもやりとおされることはなく、出だし部分だけ」なのだ。

 

 ここまできて予感するのは、この芝居は先へ進んでも台詞が出てこないのではないか、ということだった。実際にページをパラパラとめくってみると、登場人物名が太字で冠せられた発話部分がまったく見当たらない。これは、ト書きだらけの無言劇なのである。

 

 だが、登場人物の間には、それでもいかばかりかの関係性がある。ここが、おもしろいところだ。第一場面では、舞台を横切る人同士が無関係の関係にあるだけだろう。逆向きの人が「すれ違う」光景は、それを表現したものにほかならない。ところが第二場面では、そこに同調が生まれる。「ウォーミングアップ」だ。ただし、それは「てんでばらばら」のものであり、しかも任意の振る舞いを伴う。弱い関係が芽生えたということか。

 

 巻末には、ドイツ文学者池田信雄執筆の解題が載っている。題して「広場の叙事詩―そしてハントケの軌跡」。そこには「主人公は誰かと問われれば、広場だと答えるしかない」という記述がある。欧州で「広場(アゴラ)は劇場の原型」であったことを踏まえ、この作品を「劇場の起源についての劇」ととらえてもいる。これを僕なりに咀嚼すれば、広場とは人間の関係性が表出する場なので、関係性を可視化した戯曲とも言えよう。

 

 そこに立ち現れるのは、愛憎や怨嗟、嫉妬などが渦巻くドロドロとした人間関係ではない。あるかないかもはっきりしない関係。あえて言えば、他人をそれとなく見たり、他人から見られているように感じたりするときの、あの心理ではないだろうか。

 

 そのことをうかがわせる場面を切り出そう。「かけだしの現代的なビジネスウーマン、中が透けて見え、入っている品物のシルエットがわかる鞄を手に登場」の一文で始まる段落だ。ここで、鞄が透明もしくは半透明であるという点が暗示的だ。広場を歩くとき、人はプライバシーの衣をまとっているが、それはどこかで透けている。足の運び一つで心の内が爽快かそうでないか、すれ違う人にもわかってしまうということはよくある。

 

 この女性は携帯電話をかけようとして、端末を地面に落とす。かがんで取ろうとすると鞄の口が開いて、中に入れた品物が散らばる。それらを拾って歩きだすと、今度はつまずいて転びそうになる。「女はそこで突拍子もなく、なんとも説明のつかない笑みをにやりと浮かべる」。バツが悪いと感じたのか、真意はわからない。ただ、「にやり」は表情だ。だれかに向けたものなのだろう。このとき、広場には彼女一人。それでも他者は存在している。

 

 後段には「広場の人々はしだいにたがいを見つめあうようになる、いや、そうではなく、見守るようになる」というくだりがある。広場では、人々が「半狂乱」で駆けまわったり、「しゃくりあげて」泣きだしたり、「悲しげに」口笛を吹き奏でたりしている。その一人ひとりが「ただ見守られることによって、なだめられていく」。ここに至って、見るという行為は視線を投げるという所作を超える。対象を「守る」という意味を帯びるのだ。

 

 この戯曲を今日のメディア風に読み解くと、広場にはもともと無関係の関係しかなかったが、やがてその関係が実を結び、絆とか連帯とかが生まれてくる、という話になるのかもしれない。だがそれでは、この無言劇の核心を言いあてたことにはならないだろう。

 

 人はみな、他人を意識した存在だ。人生とは、そんな意識の集積にほかならない。著者は言葉という意思疎通の道具を消去することで、その現実を浮かびあがらせている。

 

 この戯曲には筋がない。だが、カフェから広場を眺めているようなおもしろさがある。

(執筆撮影・尾関章、通算503回、2019年12月20日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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「夏の夜の夢」

(『夏の夜の夢・あらし』〈ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫〉所収)

写真》王侯貴族vs.職人たち

 訪れたことはあるが、どんなところだったかはっきりしない。この年になると、そんな町がいくつかある。ウィリアム・シェイクスピア(1564〜1616)の生誕地ストラトフォード・アポン・エイボンも、その一つだ。英国イングランド中部の田舎町である。

 

 四半世紀前のことだ。ロンドン駐在時代の休日、ここも家族旅行で訪れた。車で数時間のところだから、マイカーを駆って出かけた。現地に着いてから、シェイクスピアゆかりの史蹟を巡ったに違いないが、エイボン川沿いの風景くらいしか思いだせない。

 

 川が印象に残っているのには理由がある。僕がストラトフォード・アポン・エイボンという地名に初めて触れたのは、高校の英語の時間だ。教科書に、シェイクスピアゆかりの地として描かれていた。長い名前だなあと思った。やがて、後半のアポン・エイボン(upon Avon)はオン・エイボン(on Avon)であり、エイボン河岸という位置を示しているに過ぎないのだとわかる。だから、その町が実際に川に面しているのを確かめて、納得したのだ。

 

 家族旅行のときに見てまわった史蹟には当然、シェイクスピアの生家が含まれていたはずだ。家族も、そう証言している。だが、そこで何を見たかがはっきりしない。仕方がないので「シェイクスピア生誕地トラスト」のウェブサイトに入って、見学を再体験する。ここでは、建物内外の様子が画像で見られるだけではない。シェイクスピア一家の家庭事情も文章で読める。とりわけ興味深いのは、ウィリアムの父ジョンの波乱万丈の人生だ。

 

 その記述によると、ジョンは、もともと近郷富農の息子だったが、結婚前にストラトフォードの町へ移って不動産を手に入れた。しだいに町の有力者となり、ついには現在の市長職に相当する地位を射止める。商工業でも身を立て、皮製品をつくったり、手袋を売ったり、羊毛の取引に手を出したりした。ただ羊毛商は認可制だったので、無許可の売買が問題化して失脚する。こうして息子のウィリアムは若くしてロンドンに出るのだ。

 

 ここで注目したいのは、ウィリアム・シェイクスピアが王侯貴族を主人公とする戯曲を量産しながらも、自らは上流階級の人ではなかったという事実だ。英国では1600年前後、産業革命による機械生産がまだ始まっていない。だが、工場制手工業(マニュファクチュア)はすでに広まっていた。資本主義社会の芽生えだ。父ジョンは、それを体現する地方都市の商工業者だった。ウィリアムは、父親のなかに封建制の次にくる世を見ていたのだろう。

 

 で、今週は「夏の夜の夢」(『夏の夜の夢・あらし』〈ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫〉所収)。訳者執筆の解題によると、この作品が書かれたのは「早くて一五九二年、遅くとも一五九八年」。作者が30代にさしかかったころだ。沙翁劇の年譜では「初期喜劇」の時代に属するが、当時の「写実的」作風とは趣を異にしている。「夢幻劇的」であり、晩年の「あらし」に代表される「浪漫喜劇」を先取りしたものだという。

 

 この解題では、もう一つ教わることがある。原題A Midsummer Night’s Dreamには「夏至前夜の夢」の意があり、欧州ではその夜、「若い男女が森に出かけ、花環(はなわ)を造って恋人に捧げたり、幸福な結婚を祈ったりする風習があった」。妖精が跋扈して、薬効が高まるという言い伝えもある。題名が、劇そのものの伏線になっているのだ。訳者は、夏至が日本人の「真夏」の実感に沿わないことから、邦題を「夏の…」にしたという。

 

 ページを開くと、冒頭に劇中世界の「場所」の説明と劇に登場する「人物」の一覧が載っている。場所は「アセンズ(アテネ)、およびその近くの森」。人物欄の筆頭に挙がるのは、アセンズを治める大公シーシアスと、その婚約者ヒポリタだ。後者は、アマゾン族の女王でもある。ギリシャを舞台にギリシャ神話ゆかりの人々が出てくるドラマ。さぞや気宇壮大な筋書きなのだろう。一瞬、そう思うのだが、すぐにそれは裏切られる。

 

 「人物」一覧の中ほどは、ピーター・クィンス(大工)、ニック・ボトム(機屋)、フランシス・フルート(オルガン修繕屋)、トム・スナウト(鋳掛屋)、ロビン・スターヴリング(仕立屋)……という一群が占めているからだ。これを見ると、どこがギリシャだ、どこに神話がある、と言いたくなる。名前からして英国風。この芝居が上演された時代、英国のどこの町にもいただろう職人たちだ。作者の脳裏には、故郷の原風景があったのではないか。

 

 さらに驚くべきことに、登場人物には妖精の一群も含まれている。オーベロン(妖精の王)、タイターニア(妖精の女王)……と続いて「豆の花」「蜘蛛の巣」「蛾」「辛子の種」と名づけられたものもいる。なるほど伝説の通り、夏至前夜の森らしい賑わいである。

 

 「人物」一覧の顔ぶれだけで、この戯曲が「写実的」ではなく「浪漫」志向であることがわかる。古代ギリシャの高貴な世界に妖精がかかわり、そこに近世英国風の町人たちも入り込む。現実と夢幻がつながり、時代も国境も超える。そこに作者の大胆さがある。

 

 そこで、この戯曲を3層に分けて見ていこう。仮に高貴層、妖精層、町人層と呼ぶ。

 

 まずは高貴層。ここで繰り広げられるのは、3組の男女の恋バナだ。まずは大公とその婚約者。シーシアスは冒頭、こう口を開く。「さて、美しいヒポリタ、吾らの婚儀も間近に迫った」(引用ではルビを省く、以下も)。もう一組が、ライサンダーとハーミア。相思相愛だ。さらにデメトリアスとヘレナ。ヘレナはデメトリアスに恋しているが、デメトリアスはハーミアに横恋慕している。三角関係が一つ混入して、不安定要因になっているわけだ。

 

 ここで恋愛事の枷になるのが父権主義。ハーミアの父イジアスは、娘とデメトリアスとの縁組を望んでおり、彼女がそれに同意しなければアセンズの法によって裁いてほしい、と大公に申し出る。法が求める罰は、死刑か永久蟄居かの二者択一。イジアスは、こう言う。「娘は私のものでございますゆえ、その処分は私にお任せを」。こんな強権オヤジがいるおかげで、ライサンダーとハーミアの恋は生命や人生をかけたものになっていく……。

 

 妖精層にも男女の揉め事がある。たとえば、妖精の王オーベロンと女王タイターニアの夫婦仲。妻は、夫が「羊飼いのコリンに化けて、一日中、麦笛を吹きならしたり、恋歌をうたったり」しているとなじる。最近、夫がヒポリタをシーシアスと結婚させることに熱心なのも不満の種らしい。一方、夫は、妻が「星明りの夜」にシーシアスを誘い、元妻と離婚させたのではないか、という疑念をぶつける。嫉妬心に根ざした非難の応酬だ。

 

 ただ、興味深いのは、妖精の嫉妬のありようが人間のそれとは異なることだ。オーベロンとタイターニアの発言を注意深く読むと、それがわかる。妻は、夫とヒポリタの情事を疑っていない。夫が妻に対して抱く疑惑も、妻がシーシアスと不倫した、という話ではなさそうだ。これを読み解くのは難しいが、僕なりに解釈すると、妖精は人間の恋愛事に当事者として参加できない、だから後援会の幹部然として余計な介入を画策するのだ!

 

 ここで、介入の道具となるのが「浮気草」という植物だ。その絞り汁を睡眠中にまぶたに塗られると「すっかり恋心にとりつかれ、目が醒めて最初に見た相手に夢中になってしまう」。この魔法が高貴層の男女に混乱を呼び起こす。ここに、喜劇の仕掛けがある。

 

 町人層が婚礼の余興で演じる芝居が、それを増幅する。彼らは近世英国からタイムスリップして来たわけではない。一応、アセンズの職人衆だ。この劇中劇の筋書きは、恋しあう男女が不慮の出来事に見舞われ、最後は男女とも自死する、というもの。悲劇だが、そこに男の早とちりが介在して喜劇性を帯びる。素人芸のドタバタがそれに輪をかける。悪気は感じられないが、高貴層の生命や人生をかけた恋をそれとなく皮肉っているようにも見える。

 

 古代ギリシャ風の世界を近世の田舎町から出てきたような町人たちが引っかき回す。その構図に、シェイクスピアは資本主義萌芽期の英国人の気概を吹き込んだのではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算489回、2019年9月13日公開)

 

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『リア王』(ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫)

写真》キングズ

 政局談議から入るのは当欄の風土にあわないが、今回は例外としよう。9月に政権党の総裁選挙があって、憲法改正に執念を燃やす現首相が勝利した。いよいよ、である。改憲には国民投票という関門があるので、国会が発議してもすんなり決まるわけではない。だから、僕たちは今のうちに全方向にアンテナを張って、とんでもない改憲案が出たらダメ出しする準備をしておいたほうがよい。ここで強調したいのは「全方向」ということだ。

 

 改憲と聞いてすぐ思い浮かぶのは、第9条のことだろう。改憲派であれ、護憲派であれ、自衛権や戦争放棄をめぐって持論を展開することが多い。半面忘れがちなのが、外交防衛とは異なる分野で密やかな改悪がなされるリスクだ。僕は科学取材に携わってきた元新聞記者として、社会の合意点がまだ見出されていない先端技術を前のめりで縛ってしまう拙速改憲を警戒してきた。こっそり改悪が遂行される恐れは、理系領域以外にもある。

 

 先日、そんな僕の取り越し苦労――であればよいのだが――と響きあう寄稿を新聞紙面で見つけた。社会経済学が専門の間宮陽介さんが、朝日新聞の読書面「ひもとく」欄に寄せたものだ(2018年9月8日朝刊)。「家族と憲法24条」と題して数冊を書評している。「家族」の話は、科学技術よりはるかに馴染みやすい論題だ。だが、やはり国の一大事ではないということで、さしたる議論もなく条文が差し替えられてしまうかもしれない。

 

 憲法24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……」で始まり、結婚や離婚、相続など家族関係にかかわる法律は個人の尊厳と男女の平等に立脚すべきことをうたっている。ところが自民党の日本国憲法改正草案では、24条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」「家族は、互いに助け合わなければならない」とある。国の最高法規が国民に向かって家族を大事にしろと説く構図。余計なお世話ではないか。

 

 間宮書評も、ここに目をとめる。24条改憲は9条改憲と同様、「現行憲法に対する革命的意味をもつ」と断ずる。「あるべき家族を作り上げることを目的とし、この目的のために家族に介入しようとする」。たしかに戦後民主主義にとっては、ちゃぶ台返しだ。

 

 僕も、このような24条書き換えには納得がいかない。憲法は権力を縛るものであって私生活に口出しするものではないのに、ことさら「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位」と言う。家庭が社会の一単位なのは間違いないが、それはより根源的な単位である個人のつながりとして存在する。だから確執もあれば和解もあり、喜怒哀楽に富む複雑系だ。それをどうして、一律に型にはめようとするのか。あまりにやせ細った家族観ではないか。

 

 で、今週の1冊は『リア王』(ウィリアム・シェイクスピア作、福田恆存訳、新潮文庫)。作者(1564〜1616)は約40編の戯曲を残したが、この作品は四大悲劇の一つとされる。訳者も巻末の解題で「シェイクスピア悲劇の最高峰」「彼のみが書き得る、紛れも無い彼自身の刻印を持った悲劇」と位置づけている。解題の推理によれば、執筆されたのは1605年前後らしい。この福田訳文庫版は、初版が1967年に刊行されている。

 

 古典であり、名作でもあるので、ネタばらし回避にあまり気を遣わなくて済む。逆に、筋を追うのもほとんど不要だ。ここでは骨格を要約しておこう。ブリテン(英国)の国王リアはすでに老境にあり、3人の娘に領地や大権を分け、隠居しようと思いたつ。ところが心は、おべっかを言う長女、次女ばかりに傾き、未婚の末娘は追われるようにフランス王の妻となる。そして王家の内外では欲得が渦巻き、争いが起こり、血も流される――。

 

 作者が巧妙なのは、この王家の家族関係をグロスター伯爵家のそれに絡ませていることだ。グロスター伯の長男は嫡子、次男は庶子。父はなぜか次男が可愛い。二つの家庭に芽生えた偏愛が禍を招き、追われた者たちが英国の荒野に吹きすさぶ嵐にさらされる。

 

 この作品は、沙翁劇定番の一つである王侯貴族の物語でありながら、ふつうの家庭にも通じる普遍性がある。血を分かち、育み育まれる親子であっても、心のうちでは自分可愛さの思惑が膨らみ、ついには愚かな判断や醜い画策に行き着く。この現実を、作者は登場人物の台詞によって白日の下に曝していく。訳者解題も、この作品の主題は「第一に親子の間の愛情と信頼に関(かかわ)るもの」と言い切っている。だが、別の読みどころもある。

 

 長女ゴネリルはこう言う。「お父様、私がお父様をお慕いする気持は、とても言葉では尽せませぬ」「何に譬(たと)えて『これ程に』と申しましたところで、すべて私にはもどかしゅう覚えます」。歯が浮くとは、このことか。ここで僕は、今どきのコミュニケーション状況を思った。「お客様」を連発するセールストーク。座を白けさせるのがNGの飲み会。内なる本心は匿名の書き込みに化け、うわべは耳に心地よい言葉ばかりが飛び交う。

 

 これに対して、末娘コーディーリアは可愛くない。父から、なにか言うように水を向けられると「申上げる事は何も」と応じる。「確かに父君をお慕い申上げております、それこそ、子としての私の務め、それだけの事にございます」。その真意は、別の箇所の台詞で披歴される。「私は、心に無い事を聞きよく滑(なめら)かに言廻す術(すべ)を知りませぬ、こうしようと思った事は口に出すより先に、まず行いにと考えるからにございます」

 

 不言実行は、日本社会の専売特許ではない。西欧の価値観にもなじむようだ。昭和のCM「男は黙って……」の性差に対する認識も修正が必要だろう。この作品が見せつけるのは、言葉を弄ばないことの美徳。家族間の意志疎通ならば、当然の要件とも言える。

 

 その裏返しで、コーディーリアは家族のなかに硬質な議論ももち込む。既婚者である姉たちが父一人に心を捧げているような口ぶりだったことにかみついて、夫婦愛の行方に疑問を投げかける。「私でしたら恐らく、一旦(いったん)嫁ぎましたからには、誓いをその手に受けて下さる夫に、私の愛情はもとより心遣いや務めの半ばを割(さ)き与えずにはおられませぬ」。論理をもって甘言の弱点をつく。なかなかに高度で巧妙な口喧嘩だ。

 

 この作品では、娘たちに対するリアの接し方も、今風の視点から吟味できる。その心境と心理は、高齢社会を生きる現代人も共有できるからだ。「国事の煩(わずら)いや務めを、この老いの肩から振落し、次の世の若き力に委(ゆだ)ね、身軽になって死への旅路を辿(たど)ろう事にある」。その言や、よし。自らの引き際を見定めるのは潔いし、余生を構想するのも前向きだ。老害を防ぎ、世の中の指導層を若返らせることにもなる。

 

 ところが、領地や権力の分配にあたって「誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい」というあたりから、あやしくなる。各人の取り分を「思うておる」度合いによって決めようというのだ。たとえ、そういう傾斜配分がありだとしても、どのくらい「思うておる」かを見極めるのは難しい。それを、発せられた言葉だけで判定してしまう愚。これも老いがなせる業なのか。高齢者を狙った詐欺が多発する昨今の世情にも通じる話だ。

 

 ただ、その愚かさは老いのせいだけではあるまい。権力者が陥りがちな罠でもある。リアがコーディーリアの取り分ゼロを宣言すると、忠臣ケント伯は意を決して言う。「権力が阿諛(あゆ)に膝(ひざ)を屈するのを目の前にして、義務は恐れて口を開かぬとでも思召(おぼしめ)すのか?」。その決定を撤回するよう諫め、コーディーリアを庇う。「空(うつ)ろなこだまを響かせぬ低い声の持主が、心のみ空ろであろう筈(はず)はありませぬ」

 

 これを聞いたリアは、権力を笠に着て怒る。「ケント、命が惜しくば、もう何も言うな!」「退(さが)れ、目障りだ!」「増長慢にも程がある」。こうしてケント伯も国外追放を言い渡される。直言に耳を貸さなかったリアが、どんな目に遭うかはお察しの通りだ。

 

 この場面で連想されるのは、日本政治の近況だ。政権首脳に対する諫言が側近からもほとんどなく、「空ろなこだま」ばかりが響きあう。こんな政治家たちに、憲法をもちだして家族のありようを説教してもらいたくはない。沙翁劇を読んで、つくづくそう思う。

(執筆撮影・尾関章、通算441回、2018年10月12日公開)

 

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『新訳 まちがいの喜劇』(ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫)

写真》エラーバー

 年が明けてから、間違い騒動が相次いでいる。それも最高学府での話である。

 

 まずは新春早々、大阪大学が昨年の入学試験に出題・採点ミスがあった、と発表した。朝日新聞によれば、「1問は解答が複数存在するが一つのみ正答とし、その関連でもう1問は問題として成立しなくなった」(2018年1月7日朝刊)ということのようだ。点数の配分では100点満点中の7点に相当する。このことで、本来は合格なのに不合格になった人や第一志望が叶わず第二志望の学科に進んだ人は計39人にのぼるという。

 

 2月に入ると、こんどは京都大学が記者会見して、昨年の入試に出題ミスがあったことを明らかにした。「条件設定が不十分だったため、二つの解答から正答が選べなくなっていた」(朝日新聞2018年2月2日朝刊)。こちらも計28人が影響を受けたという。

 

 興味深いのは、どちらも物理の出題で、音波を扱った設問だったということだ。世間の人は、数理系の問いは答えが一つに決まると思いがちだ。だが、実際はどんな条件を想定するかによって解き方が分かれ、正解が並立することがあるらしい。

 

 だとしたら、出題者はいろいろな条件設定をすべて頭に入れて問題文を用意しなければならない、ということだ。だが人は日常、一つの条件をデフォルト(標準設定)にして物事を進めることが多い。デフォルトを当然のことと思い込むと、ほかの条件は目に入らなくなる。「条件設定が不十分」という事態は、たぶんこのようにして生じるのではないか。これは、僕たちのだれもが陥りやすいありふれた落とし穴と言えよう。

 

 とにもかくにもこの入試ミス2件は、最高水準の頭脳が得意分野を扱うときでさえ、ときに間違えることを白日の下に曝した。ヒトは、間違いから逃れられないということだ。ならば、それを気の緩みのせいにして精神論を説いてもほとんど意味がない。

 

 求められるのは、むしろ社会設計に間違いの存在を織り込むことだ。間違いの影響をどう小さくするかを、あらかじめ考えておいたほうがよい。この点で阪大や京大の事例は最悪の道筋をたどった。1年たってから判定を塗りかえたからだ。その結果、当該の受験生は今になって入学や進路変更を認められたが、ではこの1年は一体何だったのかという当惑が残る。損を埋め合わせているように見えて、実は別の損をつくりだすという負の連鎖だ。

 

 奇しくも僕は今年の年頭、言論サイトWEBRONZAに「20秒早発でなぜ謝る? エラーバー社会の勧め」という論考を発表した(2018年1月1日付、後段は有料)。電車の出発がダイヤの定刻と20秒ずれたことで鉄道会社が「謝罪」したことに異議を唱えたのだ。理系論文のグラフでは、実験値の誤差範囲をエラーバーとして棒状に描く。それと同様、世の中のしくみを誤差があることを前提につくり直せないか。そんな思いを込めた。

 

 で今週は、間違いだらけの大芝居。『新訳 まちがいの喜劇』(ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫)。1590年代前半の作品とみられ、沙翁初期の喜劇と言える。この本は、作者の没後400年を記念して2016年に開かれたKawai Project vol.2の公演演目「2016/2017あうるすぽっとタイアップ公演シリーズ『まちがいの喜劇』」(翻訳・演出 河合祥一郎)の脚本を文庫化したものだ。2017年刊。

 

 この作品も、シェイクスピア劇の例にもれず韻文が多い。訳者あとがきは、英国の研究者ケント・カートライトが調べた散文韻文比を引く。それによると、韻文が全体の87・1%、その四分の一に押韻(ライム)がある。そこが訳者の工夫のしどころだったようだ。

 

 たとえば、「おまえは、とんまなロバでしょ、いつもぶつくさ」「それでくさくさして、道草を食うんだ。めんど草」といった具合。あるいは「おいら門番をやるんですか。本気でしっかり?」「そうよ。ひどい目にあわすよ、誰か入れたら、うっかり」といった調子。

 

 この喜劇の間違いは、ひとことで言えば双子の取り違えだ。顔や姿がそっくりな人がいたら同一人物と決めてしまう、という人間社会の常識が破れると、どんなことになるか。作者は、そのドタバタをこれでもかこれでもかと見せつける。ここでふと思うのは、同じことは400年余を経た21世紀の今でも起こるのではないか、ということだ。運転免許証やパスポートさえあれば本人証明が完了するという約束事が厳然と存在している。

 

 この作品の仕掛けは、作中人物の設定にある。商人一家が海難事故に遭い、幼い双子は離ればなれになる。兄はエフェソスで暮らし、弟はシラクサで育った。今は交流がない。話をこんがらがらせるのは、同じ船にもう一組、双子の兄弟が乗っていたことだ。父が、息子たちの「召し使い」にしようと育てていたのである。彼らもエフェソスとシラクサに引き裂かれる。歳月が過ぎると、青年と召し使いのそっくりペアが二組できあがっていた。

 

 やや不自然なのは、商人の子である双子が兄も弟も「アンティフォラス」を名乗っていることだ。父の独白に「名前をちがえたところで見分けがつかない」とはあるが、だからと言って同名にする必要はあるまい。さらに召し使いの兄弟も両方「ドローミオ」。作者はそんな横紙破りをして、話をおもしろくした。別々の町に住んでいるときは不便もなかったろうが、ひょんなことから一つところに居合わせるととんだ喜劇が巻き起こった。

 

 作者が仕掛けた喜劇としての決め技は、片方のアンティフォラスだけを妻帯者にしたことだ。現実には双子がどれほど瓜二つであっても、配偶者の目には識別がつくだろう。だが理論的には、役所の窓口係と同様に眼前の顔をちらりと見て「たしかに、この人はこの人」と信じてしまいかねない。窓口係は写真と見比べるが配偶者は記憶と照らし合わす、というだけの違いだ。このときの間違いが、ドタバタに情感を与えてくれるのである。

 

 こうして、アンティフォラスの弟が兄の妻エイドリアーナから夫として扱われたときの独白。「この俺を口説いてるのか?」「どんなまちがいが自分の目や耳を狂わすのか?」。挙げ句、弟はエイドリアーナの妹ルシアーナのほうに心を奪われる。「あの人のベッドに僕は何の義務もない」「君にまだ夫はなく、僕に妻はいない」と求愛すると、「待って。だめ、待ってくださらなきゃ」「姉を連れてくるわ。何て言うか聞かなきゃ」と突き返される。

 

 一連の間違いは、自己同一性(アイデンティティー)に対する問いを触発する。たとえば、シラクサのドローミオが主人に吐露する戸惑いはこうだ。「おいらがおわかりになりますか? おいらドローミオですか? 旦那(だんな)の召し使いの? おいら、おいらですか?」。似たことは僕たちの現実世界にもある。免許証の写真だけを頼りに「ご本人と確認されました」と言われたとき、心の中で声がする。「おいら、本当においらですか?」

 

 もう一つ書き添えるべきは、この芝居には双子の取り違えのほかにも間違いが潜んでいることだ。訳者あとがきによれば「本作品には時間の混乱がある」。アンティフォラス弟とエイドリアーナが同一の場面にいるのに、それぞれの台詞から推定される時刻が数時間ほどずれているというのだ。これを訳者は「エイドリアーナの家の時計が狂っている」と解釈して、作者の意図で「女心を表すものとして導入された」と説明づける。

 

 訳者は「エリザベス朝戯曲において、『時刻のまちがい』は頻繁に描かれる一つのモチーフだった。当時、現代のような正確な時計はなく、時計は常に調整が必要だった」と書く。なるほど。翻って、現代は一つの時刻が行き渡っている。スマホもパソコンも同じ時を刻んでいる。そのために間違いを寸秒たりとも許さない文化が過剰になったとはいえないか。20世紀物理が時間を相対化したというのに、絶対時間信仰に戻っているという不思議。

 

 この喜劇の大団円は家族の再会だ。間違いが引き起こす大混乱を見せつけながらも、最後はハピーエンドにまとめあげている。シェイクスピアは間違いを否定的にばかりとらえず、そこに僕たちの思考を豊かにする効能があることを見抜いていたのではないか。

(執筆撮影・尾関章、通算409回)

 

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『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア著、安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫)

写真》スコットランドのチェック模様

 暮れまでにシェイクスピアを一冊、と思っていた。今年5月に演出家蜷川幸雄さんが逝ったときは、本人の手になるエッセイ集を話題にしている(当欄2016年6月3日「蜷川はあのころ、テレビの中にいた」)。だがそれでも心残りで、沙翁ものについて書くことを宿題にしていたのだ。で、マクベスの新訳本をぱらぱらとめくっていたら、追い討ちに遭った。「NINAGAWAマクベス」を主演した俳優平幹二朗さんの訃報である。

 

 僕は、別に演劇青年だったわけではない。英文学の研究者でもない。それがどうして、この歳になってシェイクスピアに心惹かれるのか。そのことでは、1年前の当欄に言い訳めいたことを記している(2015年9月11日付「ハムレットを2時間ドラマに重ねる」)。テレビの2時間ミステリー、すなわち「2H」ドラマをこよなく愛する立場で言えば、そこで露わとなる人間心理はシェイクスピア劇に原型を見いだせる、という話だった。

 

 補足すれば、2時間ミステリーでは人間社会の愛憎や欲望が素朴に描かれる。僕たちが日々経験している心模様は、ときにモヤモヤ、ときにフツフツとしてとらえどころがないが、2Hの典型例である家元もの、復讐ものなどは、わかりやすさがモットーなので話が単純化されている。家元襲名をもくろむ野心や、受けた仕打ちに対する怨みが、言葉として、あるいは行為として、視聴者の前にあからさまなかたちで呈示されるのである。

 

 シェイクスピア劇も、それに似ている。もちろん登場人物の内面は、そこに正義、勇気、信仰といった徳目も入り込んできて含蓄に富んでいるのだが、ただ野心、嫉妬、情愛、憎悪、裏切りなどの心理要素がスープの具のように伏在する。スープが台詞や筋立てによって濾され、それらが現れ出るところが作品の魅力ではないだろうか。人の振る舞いの動機に心理要素が見えてくるという一点で、2Hに通じているように思うのだ。

 

 最近は、陰惨な凶悪犯罪が後を絶たない。言葉にするのも心が痛むので、個々の事件に触れるのは控えよう。ただ一つ言えるのは、犯行の動機がはっきりしないとされる事例が目立つことだ。本当にそうなのか、それとも容疑者の心理が分析されていないだけなのか。

 

 この問いは奥が深そうだ。16〜17世紀に比べると、僕たちはいま途方もなく複雑な人間関係の網に絡めとられている。社会学風に言えば、血縁地縁の共同体だけでなく、機能本位の組織にも身を置く人が多い。20世紀末からは、それにITのネットワークが加わり、匿名社会の雲に覆われて戸惑うこともある。だから、現代人の凶行に動機があったとしても、その要素を紡ぎだす作業は、シェイクスピアの手にも余るほど難しくなっている。

 

 そんな現代社会に照らしながら、マクベスを読んでみよう。手にとったのは『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア著、安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫)。2008年の刊行だ。訳者は大学人でありながら舞台演出の実践家でもあったが、この本が出る直前に世を去った。巻末で、演劇活動を一緒に続けてきた俳優の橋爪功さんが惜別の文章を書いている。橋爪さんと言えば、2Hにも欠かせない名優だ。2Hはやはり沙翁につながっている。

 

 幕が開いてまもなく、スコットランド王ダンカンに士官の一人がマクベス将軍の武勲を伝える場面がある。逆賊が相手。「大太刀(おおだち)ふるって敵兵どもを薙(な)ぎたおしては血煙を立て、軍神の寵児(ちょうじ)のごとく決然と血路を開いて、ついに目ざす仇敵(きゅうてき)とあいまみえるや、もとより握手も別れの挨拶もなく、やにわに臍(へそ)から顎(あご)まで、真向(まっこう)さかさ幹竹(からたけ)割りに切り裂いた」

 

 血なまぐさいが、登場人物の顔ぶれから11世紀の出来事らしいので、中世の倫理尺度で測らなくてはなるまい。ダンカンも「おお、雄々(おお)しいわが血族、無双の勇士だ」と感嘆する。残忍な行為は、戦場の敵に対するものならば高い評価を受ける時代だった。

 

 これで、マクベスは上昇気流に乗る。そこに魔女を絡ませるところがシェイクスピア劇の妙だ。彼が雷鳴轟く荒野に現れると、彼女たちは次々に声をかける。一人目は「グラーミスのご領主様」、二人目は「コーダーのご領主様」。前者は現在の地位、後者はダンカンから褒美として授かるものだ。そして最後の一人。「やがては王様に、おなりになる方」。悪魔のささやきとはこのことだろう。武将の内心をよぎる野望を魔女に代弁させたのか。

 

 どうも、それは違うらしい。このときマクベスには連れがいて、魔女たちの言葉を傍聴しているからだ。将軍仲間のバンクォー。マクベスにとっては友人であり、競争相手でもある。その台詞が聞きどころだ。「わが畏敬(いけい)する友人」が予言にギクリとするのをみてとった後、「私にはなにも言わぬな」と不満を漏らす。「どの粒は芽を吹きどの粒は芽を吹かぬか言えるものなら、それならおれにも言え!」と彼女たちに迫るのである。

 

 これに応えて、魔女三人はバンクォーの未来も占う。一人目は「もっとずっと、偉くなる方」。二人目は「もっとずっと、幸せになる方」。三人目はもう一歩踏み込んで、先の先まで読む。「自分は王にはならずとも、代々の王様の、その父祖となる方」

 

 ここで僕が思い浮かべたのは、会社人間だった頃のことだ。仕事が終わって、同僚と街へ出たとしよう。場所が居酒屋であれイタリアンであれ、話題の定番は人事だ。ある役職に次に就くのはだれかという話では、ときに自分も抜擢の圏内にいることがある。ところが、同僚の口をついて出るのは別人の名ばかり。そういう体験に覚えがあるサラリーマンは少なくないはずだ。バンクォーの「私にはなにも言わぬな」は現代人の心にも宿る。

 

 登場人物の心のざわつきを魔女の言葉であぶり出すという仕掛けは、アフターファイブの居酒屋状況を再現したことに等しい。ポストを求める野心や競争相手に対する嫉妬は、人の内面だけでつくられるものではない。むしろ、小耳に挟む第三者の言葉によってそそのかされ、膨らんでいくものなのではないか。シェイクスピアは、そのことを見抜いていたような気がする。自我を駆動する要因を他者との関係性に見いだしているのである。

 

 マクベス夫人の存在も、この視点で読むことができる。彼女は、夫の手紙で魔女の予言を知って不在の彼に語りかける。そこで吐露されるのは「気にかかるのは、あなたの気性。人間らしい情愛という、甘い乳がありすぎる」との懸念。出世欲に不可欠の「毒気」が「あなたにはない」と断じる。怖がらずに獲りにゆけ。そんな感じか。自分も力になろうと心に誓う。極めつけの台詞は「あなたの耳に注いであげよう、私の胸の、この毒気を」である。

 

 今、サラリーマンの配偶者がこんなに毒々しい独白をすることはまずあるまい。ただ、勤め人が家庭に帰ったとき、これに似たメッセージを家族の視線に感じとることはあるかもしれない。しかも、その背後には隣近所の地域社会があり、友人知人の輪が幾層にも広がっている。本人は出世に無頓着でも、人々から向けられる目が野心や嫉妬を否応なく刺激してくるのだ。その効果を、マクベス夫人が体現しているとは言えないか。

 

 もう一つ、魔女の予言をめぐって僕が興味を覚えるのは、運命と意志の相克だ。マクベスはダンカンを裏切って王となった後、この下剋上はバンクォーの子孫を王位に就かせるための一里塚にすぎなかったのかと嘆いて、こう言う。「そんなことになるくらいなら、来い、運命よ。決闘の場に出てくるがいい。ぎりぎり最後の決着をつけてやる」。予言を「運命」と受けとめつつ、それは人間の意志によって可変とみているように思われる。

 

 唐突だが、僕がふと思ったのはマルキシズムだ。この思想は共産主義の到来は必然としつつ、しかも革命を促そうとする。運命の筋書きがあっても、そこに人間の意志を介入させたくなるのが欧州流なのか。シェイクスピアにもそれを感じてしまう。

 

 この作品の初演があったらしい1606年、イングランド王はスコットランド王を兼ねるジェイムズ1世で、バンクォーの子孫とされる人だった。王権の正当性が運命に裏打ちされるなら鬼に金棒だ。この筋書きは、シェイクスピアなりの処世術だったのだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算338回)

 

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