『「奥の細道」をよむ』(長谷川櫂著、ちくま新書)

写真》松島は静かに見えて……

 さあて、困った。当欄は今週、前身のコラムを含めて450回の区切りなのだが、公開日の金曜は夕方まで旅先にいる。ブログはもちろん、どこからでもアップできる。米国旅行のときもパソコンを持っていったので、現地で公開ボタンをクリックした。ただ今回は身軽に歩きまわりたいから、持参のIT端末をスマホとタブレットにとどめる。それでも公開ボタンは押せるが、画面をタップするのでは直前の推敲がままならない。

 

 だが、ここで思い直した。幸いにも金曜夜には東京に戻ってくる。当欄は「原則として毎週金曜日に公開します」と宣言しているのだから、公開時刻は夜中でも構わないわけだ。帰宅後にパソコン作業をすれば日付が変わらないうちにアップできるだろう。

 

 どうせ公開が夜になるなら、せっかくだから旅行で見聞きしたことも原稿に盛り込みたい。そんな元新聞記者らしい欲も出てきた。ということで、今週は旅先に因む本をとりあげる。出かける前に草稿を書けるところまで書いておく。目的地で風景をじかに見れば、思い直すことや付け加えたいことがきっと出てくる。それらを反映させるべく草稿に手を加えれば最終稿ができあがる――週初めの日曜、そんな算段をしたのである。

 

 新聞記者の業(ごう)は不可解だ。早めの締め切りを言い渡されると文句を言う。だが、結局は受け入れて仕事にとりかかる。取材を済ませて原稿を書くころには、いつも時計を気にしている。「あと50分、なんとかなりそうだ」「あと10分、そろそろ着地しなくては」。まさに分読み。その心模様は胃がキリキリするようでありながら実はスリリングで、一種の陶酔状態にある。今回は、その速書きを久しぶりに体験してみることにした。

 

 では、旅の計画を明かそう。めざすは日本三景のひとつ、宮城県の松島。木曜朝に東京を発ち、松島海岸の温泉旅館に投宿。翌金曜夜に帰京する、という行程だ。松島といえばやはり松尾芭蕉、ということで俳句にかかわる本をネット通販で取り寄せた。

 

 松島には、芭蕉をめぐる謎がある。代表作『おくのほそ道』の旅で訪ねているにもかかわらず、そこで自句を一つも織り込んでいないことだ。不思議ではないか。今回は、そのわけを教えてくれそうな本を選んでみた。『「奥の細道」をよむ』(長谷川櫂著、ちくま新書)。著者は1954年生まれ、新聞記者出身でメディアでも活躍、句集以外にも俳句の入門書、解説書を多く著している。この本は2007年に刊行された。

 

 この本を開いてすぐに教えられたのは、松島は「おくのほそ道」の牽引力だったということだ。この東北紀行は「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして」で始まるが、しばらくして「松島の月先(まづ)心にかゝりて、住(すめ)る方(かた)は人に譲り」というくだりがある。「住る方」とは江戸・深川の芭蕉庵。住まいを他人に譲ってまで長旅に出ようとしたのは、「松島の月」に心が引き寄せられたから、というわけだ。

 

 かつて、当欄の前身で『芭蕉 おくのほそ道』(松尾芭蕉著、萩原恭男校注、岩波文庫)をとりあげたことがある(文理悠々2612年5月11日付「新緑に芭蕉あり、『奥の細道』考」)。そのときは、この「松島の月先心にかゝりて」をスルーしてしまった。ところが、今回の『…をよむ』によって、このひとことが伏線として欠かせないことがわかる。名著も、然るべき案内人を得れば紙背の意味まで見えてくるということか。

 

 キーワードは「歌枕」だ。歌人が思いを馳せた場所をいう。この本によれば「単なる名所旧跡ではなく、想像力によって造り上げられた名所」。松島は、その代表例と言える。それは「松の小島の散らばる穏やかな内海がはるか北の国にあるという風の便りがあれば十分」であり、その場にいなくてよい。「心にかゝりて」が肝心なのだ。「おくのほそ道」は、歌枕を心に抱きながら旅する俳人の日記にほかならない。

 

 このことは「『おくのほそ道』の構造」と題された章を読むと腑に落ちる。著者は、旅程を四つに分けて、それぞれに名前をつけている。深川から白河の関(福島県)までが「旅の禊」、白河の関から尿前の関(宮城県)までが「歌枕巡礼」、次いで市振の関(新潟県)までが「太陽と月」、その後、終着点の大垣(岐阜県)までが「浮世帰り(かるみの発見)」。このなかで「主菜」、即ちメインディッシュは松島のある「歌枕巡礼」だというのだ。

 

 ここでひとこと補えば「太陽と月」は「宇宙的な空間」のこと。たしかに越後では「荒海や佐渡によこたふ天河」と詠んでいる。前述の「文理悠々」拙稿でも、この句を引いて「空間軸の大きさを感じさせる」と書いたが、それはあながち的外れではなかったようだ。著者の分析によれば、芭蕉は俗世を離れて歌の聖地を巡り、宇宙に心を解き放った後、「かるみ」に価値を見いだす新境地を開いて再び俗世に戻った、ということになる。

 

 この見立てに説得力があるのは、著者が「歌仙」との類似を指摘しているからだ。歌仙とは俳諧味のある連歌(連句)で、36句を連ねて1巻にまとめたものをいう。これも4部構成だ。芭蕉一門は歌仙づくりに熱心だったので、その影響があってもおかしくはない。

 

 それでは、「歌枕巡礼」の頂点、松島の章を見てみよう。芭蕉は月明かりが海に映る夜、二階家の宿で寛ぐ。ここで同行の曾良の一句が差し挟まれるが、「予は口をとぢて、眠らんとしていねられず」。詠もうとしても詠めなかったのか、それともあえて詠まなかったのか。ただ、「口をとぢて」からは、決然とした様子がうかがえる。著者も「松島の一句が入っていれば、話ができすぎてしまう」「松島の句をあえて入れなかった」との見方をとる。

 

 その説明では、絵画がたとえにもちだされる。「絵の名人が富士山の絵を描くのに、頂上を雲で隠し、あるいは、画布の外にはみ出させて描かないのと同じ」。富士は、頂部を絵にしないことで「見る人の心の中で大きくなる」という理屈だ。

 

 「おくのほそ道」には、歌枕について芭蕉自身が語った一節がある。「壺碑(つぼのいしぶみ)」の章。歌枕の多くは自然災害に遭い、石は土に埋もれ、木は生え代わって「其(その)跡たしかならぬ」という。廃墟感が漂う表現だ。皮肉にも、ここで芭蕉が見た「壺碑」も実は本物ではなかったらしい。『…をよむ』は、歌枕は「もともと人間の想像力が生み出した幻」であり、「近づけば逃げ水のように消えてしまう」と言い切る。

 

 歌枕は、いにしえ人が遠くにいて思い描いた幻影ということか。東北地方がその宝庫である理由は、そこが古代のみやこ人にとってめったに足を踏み入れない異世界だったからだろう。そのアイテムを一つずつ点検しようという人が現れたのが、江戸元禄期だったことは納得がいく。戦国の世が終わり、街道も宿場も整って人々が旅に出られるようになったのだ。こうみると、幻影の現状を見てまわる芭蕉の企ては近代の先取りでもあった。

 

 21世紀の今、人々の心にもはや歌枕はない。半世紀前は海外にあったが、外国旅行がふつうのことになり、「夢のハワイ」はとうの昔に死語になった。今はたとえ我が身が海を渡らなくても、地球の裏の出来事をネット経由で同時体験できる。

 

 そんな歌枕不在の時代に、僕はいにしえの歌枕を訪ねる旅に出かけたわけだ。幼いころに家族旅行で塩釜から遊覧船に乗り、松島巡りをしたことがあるから、芭蕉とは違って幻影はすでにない。昭和戦後の船着き場に漂う重油のにおいだけが記憶に焼きついている。

 

 むしろ今回、僕の「心にかゝりて」いたのは、東日本大震災だ。松島は津波の勢いをかわし、本土の被害を小さくしたという。それは本当なのか。60余年ぶりに遊覧船に乗り直し、改めて島々の姿を見てみると、なるほどと思われてくる。洞窟のような穴が開いた島、仁王のようにすっくと立つ島、そして、1960年のチリ地震津波で二つに分かれたという島まである……島々は静かな佇まいを見せながら、実はいつも海とたたかってきたのだ。

 

 芭蕉が見抜いたように歌枕は自然に曝され、変容する。松島にも、その刻印がある。

(執筆撮影・尾関章、通算450回、2018年12月14日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

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『あの夏、兵士だった私―96歳、戦争体験者からの警鐘』(金子兜太著、清流出版)

写真》「南方」

 「ダイラケ」と言って、ピンとくる人がどれだけいるだろう。中田ダイマル・ラケットという昭和の漫才コンビである。在阪の芸人だがテレビ草創期からブラウン管に出ていたので、僕のような東京の子にも馴染みがあった。ちょっと太めのおじさんと小柄で眼鏡のおじさん。二人は、職場の雑談さながら「キミ」「ボク」の人称でしゃべくりあう。笑いのとり方が健全で、茶の間で見ていても安心できるテレビ向きの芸風だったように思う。

 

 このコンビで忘れがたいのは、本業の漫才ではなくドラマ出演だ。有名なのは「スチャラカ社員」。ウィキペディアを引くと、この番組は1961〜67年に在阪の朝日放送(ABC)が制作してTBS系で放映された公開収録コメディー(当時、ABCはTBS系列だった)で、ダイラケの二人は「毎回珍騒動を巻き起こし、舞台を盛り上げる」主役の商社員を演じたとある。今思い返しても、これぞドタバタ喜劇というようなつくりだった。

 

 1960年代は、高度経済成長によって視聴者の間にホワイトカラー文化が花開いた時代だ。「スチャラカ…」は、その空気感をそのまま反映していたと言えよう。同じダイラケ主演作品では、それより古いコメディーの印象も強烈だ。題名が思いだせないので、これもウィキペディアに頼ると「ダイラケ二等兵」(1960〜61年放映、ABC制作)。「スチャラカ…」の前身番組と思い込んでいたが、時間枠からみてそうではなかったらしい。

 

 実は「…二等兵」は不思議な喜劇だった。そのころ僕は小学校2〜4年で、すでに先の大戦がもたらした人々の辛苦について親から聞かされていた。軍人は怖いという感覚も子ども心に植えつけられていたように思う。ところが、番組では軍隊生活が笑いのタネになっていた。ここから先はぼやけた記憶を呼び起こすしかないが、演者の背景に密林と穴倉のようなセットが映しだされていたように思う。南方の戦場という想定だったのだろう。

 

 では、ドラマは視聴者をどのように笑わせたのか。うっすらと思いだされるのは、二等兵のダイラケがいたずら心を発揮して上官に一泡ふかせるという筋書きだ。戦後精神が軍国主義のタテ社会に風穴を開け、その不条理を笑い飛ばしていたのかもしれない。

 

 子ども心にも違和感があったが、今になってみると逆に納得できる。1961年は終戦のわずか16年後。中年の人々にとって、来し方の半分以上は戦前戦中だった。戦時中を懐かしんでいたとは思わないが、風刺の舞台としてしっくりくるのが戦場だったのではないか。ただ、そのころから目の前に新しい世界がひらけてくる。企業戦士にとっての戦場、すなわち「スチャラカ…」の活動領域だ。その移行期を、僕は現認していたことになる。

 

 で、今週は『あの夏、兵士だった私――96歳、戦争体験者からの警鐘』(金子兜太著、清流出版)。著者は今年2月に98歳で逝去した俳人。戦後、社会派の前衛俳句を切りひらいた人として知られる。東大経済学部卒。日本銀行に長く勤める一方、句作にいそしみ、俳誌『海程』を創刊した。晩年は反戦に情熱を傾け、2015年には安全保障関連法案に対する抗議行動で掲げられた「アベ政治を許さない」の揮毫を引き受けた。

 

 この本は2016年刊。プロローグには、前年に揮毫を頼まれたとき「こっちからお願いしてでもやらなくちゃ!」と思ったとある。背景にあるのは戦争体験だ。ここでは、戦後まもなく旧トラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)を離れるときの心情を自句自解のかたちで打ち明けている。目に入るのは、島の戦死者8000人余に対する墓碑銘と引き揚げ船の後方に延びる白い航跡。「“非業の死者”に見送られるように感じた」という。

 

 水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

 

 この本が説得力をもつのは、戦時の心理を正直に回顧していることだ。著者は東大在学中に海軍の「特殊士官」に志願する。1943年に日銀入行後すぐ「生きて帰れば復職できる“ひも付き退職”」をして海軍経理学校に入り、翌年、トラック島に主計中尉として赴く。志願は「どうせほっといても戦争にとられるだろう」「それならせめて士官として赴任しよう」と考えた末の選択だったという。そういう思惑はふつうのことだったのだろう。

 

 ところがそういう熟慮の人が、どこに配属されたいかを問われると「南方第一線を希望します」と答えてしまう。「答えた後で、『しまった』と、随分後悔しました」。なぜ、「オッチョコチョイ」な返答をしたのか。著者の自己分析では、まず「『この戦争に勝ってくれ』という郷里の人の顔が浮かんだ」からだ。さらに「華々しく散っていく」ことの「美学」や「祖国のために殉ずる」ことの「満足感」や「陶酔感」も心をよぎったらしい。

 

 ここで書きとどめたいのは、当時のインテリ青年の時局観だ。著者によれば、学生の多くは米国相手の戦争は「長期戦になったら、とうてい勝ち目はない」と知っていた。なのに「日本の窮状を救うには対米開戦しかなく、そのためには奇襲攻撃がベストの策」と考えたという。短期戦で優位に立って停戦にもち込もうという算段だ。一見、目端が利いた見方のようだが、実際はまったく違う展開となった。現実主義の落とし穴を見る思いがする。

 

 著者がトラック島に着いてからの体験は過酷だ。トラック島は環礁に囲まれた島々の総称で、その内海を荷物運搬のポンポン船が行き来しているので、これが敵機の標的となりやすかった。ある日、船の同乗者が機銃掃射で心臓を撃たれ、死ぬ。軍属の工員だった。敵は「動くものを標的する」。だから、「私は『動くな』と叫んだんだけど、声が届くか届かないうちに、あっという間にやられてしまった」。死はいつも、すぐそばにあった。

 

 手榴弾の実験が死をもたらすこともあった。そのころ、手榴弾の使い方は硬いもので衝撃を与えてから投げ、着弾点で爆発させるという方式だったが、手もとの一撃だけで暴発する事故が起こったのだ。試し投げした工員は「あっという間に右腕がすっ飛び、みるみる背中に穴が開いていった」。即死である。近くで実験を指揮していた少尉も爆風に飛ばされ、破片が心臓に刺さって死んだ。戦争の罪深さを著者が痛感したのは、この直後だ。

 

 工員の仲間たちは、生存の見込みがない同僚を担いで病院まで走った。「ああ人間というのはいいものだ」と思わせる光景だった。その一方で、少尉の上官に事故を報告すると「みんな笑っている」。実戦の修羅場をくぐり抜けて死に慣れっこになっていたのだろう、と著者は推察する。二つの目撃談を並べて「置かれた状況が人間を冷酷に変えてしまう」「戦争とは人間のよさを惜しげもなくつぶし、感覚を麻痺させるのだと痛感しました」と言う。

 

 1944年夏のサイパン陥落後はトラック島への補給が絶たれ、餓死が「日常当たり前の光景」になった。頼みの綱は自給だ。工員たちはポンポン船から手榴弾を海に投げ込み、爆発で浮かぶ魚をとる。ここで危ないのはフグ。捨てるように言っても「空腹にたまりかねて拾って食う者が出てくる」状況だった。餓死者がふえるにつれて「もうあと何人か死ねば食糧が全員に行き渡る」といった計算が脳裏をかすめ、自己嫌悪に陥ったという。

 

 もっとも苛烈なのは殺人だ。先住民族の集落で女性を襲おうとして男性に「蕃刃」で切りつけられる工員もいた。同性愛の色恋沙汰が「殺し合い」に至ることもあった。そこにあるのは「倫理観がない世界」だ。「そんな世界に自分が放り出されて、彼らに直面しなければならない状況で、自分はどう生きていけばいいのか」。そう自問するうちに行き着いたのが「俺が生きている間に、彼らの生き方を見届けてやろう」という決意だった。

 

 この本の一つのヤマ場は、著者が中心になって開いた戦場句会のくだりだ。上官だった詩人の西村皎三が、戦況の悪化で暗い気分になりがちな同胞を「慰めてやれ」と開催を促した。海軍と陸軍、将校と工員が交じりあう不思議な会だった。ほっとさせられる挿話だが、それでも僕の心が晴れないのは、その舞台が「倫理観がない世界」だったからだ。人間の生命と尊厳がここまで軽んじられる精神状況と俳諧味との乖離はあまりに大きすぎる。

 

 今、戦争が起こっても僕たちは戦場の現実についていけない。そう信じたいと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算413回)

 

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『蕪村の名句を読む』(藤田真一著、河出文庫)

写真》575

 当欄でときどき話題にするように、僕は2カ月に1度、句会というものに出ている。俳句のコミュニティーには結社と呼ばれるものがあって、ときに党派の匂いが漂っているのだが、僕が加わる会はずっと緩い。その道の達人が宗匠となり、俳諧に一家言ある人が顔を揃えてはいるものの、僕のような素人もいて勝手気ままにやらせてもらっている。ひとことで言えば、言葉のサロン。短詩の極限に込めた思いを互いに語りあう場となっている。

 

 そういうサロン型の句会しか知らないので、俳句のことを真正面から論じる資格は僕にはない。ただ、それを遠目に観察するにはうってつけの立ち位置にいる。講評で俳人流の文学観を聞いていると、作品そのものよりそちらのほうを論評したくなったりもする。

 

 そんな文学観の一つが、写生を尊ぶ精神だ。叙景に最大の価値を見いだす流儀で、近代俳句の開拓者正岡子規が主張したらしい。ここでは、風景が感情の対立概念として位置づけられる。人は5音、7音、5音の言葉を紡げと言われると、そこに万感の思いを注入したくなるものだが、それを生のかたちで出すことを戒めたのである。内心の思いは、あなたの目に映る対象のありようににじんでいる。それを過不足なく描きだせ、ということだろう。

 

 これは、僕自身の若いころの志向にはぴったりくる。20歳前後には生意気にも小説を書こうという野心があったのだが、このとき念頭にあったのはふつうの物語ではなかった。フランスのヌーヴォーロマンを読みかじり、アラン・ロブ=グリエの作風に惹かれたりしていた。そこでは感情の露出がほとんどなく、モノの世界がそのまま詳述されている。禁欲と言ってよいほどに無機的な描写。今思うと、これは写生句に一脈通じるものだろう。

 

 ただ最近は、子規流に異論を呈したいと思うようになった。果たして、この世界は風景対感情、あるいはモノ対ココロだけか、と問いたいのだ。もう一つ、コトという範疇があるではないか。モノは寄り集まって系(システム)をつくり、その系は情報によって動かされてコトを遂行する――20世紀末からの情報技術(IT)によって実現したネットワーク社会では、そんな様相が際立っている。僕たちは、コトの群れに取り囲まれているのだ。

 

 だから、21世紀の俳句にはコトに重きを置く第三の道があってよいというのが、サロン派素人のひとりごとなのだが、今回はそこには踏み込まず、写生句の源流を謙虚にたどってみようと思う。そこにもまた、新しい発見があるかもしれないからだ。

 

 で、今週は『蕪村の名句を読む』(藤田真一著、河出文庫)。与謝蕪村(1716〜1784〈旧暦では1783〉)は江戸中期の俳人。絵描きでもあり、句の絵画性は高い。子規はその著作「俳人蕪村」で、新時代の文学の特長に「結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること」を挙げ、この点で蕪村は芭蕉に勝る、と論じている(引用は青空文庫)。写生派の琴線に触れたのだ。

 

 『蕪村の名句…』は1997年に『風呂で読む蕪村』(世界思想社)として刊行され、去年暮れに文庫化された。著者は1949年生まれ。近世の俳諧文学が専門で、蕪村をめぐる著述が多い。この本の大半は、蕪村自身が晩年に来し方の作品を解説するという「架空講義」の形式をとる。生涯を「関東遊歴」「上洛と遊歴」「夜半亭・前」「夜半亭・後」の4期に分け、載せた句は自句だけで約80。「夜半亭」は蕪村が受け継いだ流派の名である。

 

 なの花や月は東に日は西に

 掲載句のうち、もっとも有名なのはこれだろうか。絵画そのものだが、ただ見たまま、というわけではなさそうだ。日が西に傾くときに東の空に現れるのは満月。そんな太陽、月、地球の三体関係を正確にとらえている。しかも、地表を覆うのは黄一色。「西陽―東月の対句仕立てそのものよりも、その光を菜の花畠のなかにとらえたところがわたしの案じ場」という。菜種栽培が盛んだった世情も窺える。理科と社会科をまたにかけたような大構想。

 

 春の海終日のたりのたりかな

 (「終日」は「ひねもす」、二つめの「のたり」は、くの字形の繰り返し符号)

 これもまた、よく知られた句。ついつい瀬戸内の海だろうか、などと写生地に推理を巡らせてしまうが、「どこか特定の海の景色を詠んだものではありません」とある。「日本の過半を遍歴したわたし」が「もっとも春らしい海の姿を言葉の形にしようとした」。それは、冬とは打って変わった穏やかさ。「静謐(せいひつ)そのもの、有(あり)ていにいえば退屈にすら見える」ものだった。記憶を重ね合わせ、そこから普遍の属性を引きだしている。

 

 二つの有名句から言えるのは、蕪村の写生句は景色の再現ではないらしいということだ。推察するに、作者はまず構図を脳裏に思い描く。それは大自然の要素を素材に、理系知や観察力を駆使して組み立てた一幅の絵画と言ってよい。そのイメージを選りすぐりの単語に結びつけて短詩空間に映しだす。そんな感じだろうか。子規が重んじる「客観の事物」は蕪村の眼前には存在しない。それは彼の想念のなかに広がっているように思われる。

 

 ほととぎす平安城を筋違に

 (「と」の二つめは一ツ点の繰り返し符号、「筋違」は「すじかい」)

 僕がもっとも惹かれた句だ。ほととぎすの声がしてそちらを見ると「平安の都をはすかい方向に引いた声が残るばかりであった」。架空の自句自解によれば、そんな意味だという。「京の街並みはいわゆる碁盤の目状になっていて、その直交する街区を斜めにつっ切っていくのだと、面白がって句作りした」と打ち明けている(「区」は原文では行人偏の難しい漢字、訓読みで「ちまた」とも読む)。なんとも幾何学的な構図ではないか。

 

 この句の工夫は絶妙だ。「京の町を『平安城』と唐土(もろこし)風の言い方で、ひとくくりにすることで、天からの視線が感じられようにした」。その結果、僕たちはx軸とy軸から成る平面をz軸方向から見下ろすよう促される。そして、「『筋違に』という言いさしの先に、消え去りつつある声の余韻を伝えようとした」のも心憎い。「……に」と述語を言い残したことで疾走感を演出したのだ。視点と表現の斬新さには驚くしかない。

 

 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉(「野分」は「のわき」)

 疾走感と言えば、これもそうだ。鳥羽殿とは、京都洛南にある離宮。平安後期の院政時代には政治権力の拠点となっていた。この句では、政局を揺るがす事件が起これば周辺が慌ただしくなるに違いないとみて、史的空想を広げている。嵐のさなか、武者のまたがる馬が数頭走り抜けていった。「都でまた何かただならぬ事態が発生したのか」。架空講義を読むうちに、蕪村はジャーナリスティックな感性も具えていたのだと思えてくる。

 

 中々にひとりあればぞ月を友(原句で「々」は、くの字形の繰り返し符号)

 この句も、写生と言えば写生。ただ、被写体は月一つだ。「独りぼっちの名月の夜となったが、これがかえって幸いして、我ひとり心行くまで月を友として満喫できる」といった句意らしい。着目すべきは「月を友」の「を」だ。「『月の』にすると、彼方の月に主体が移って、ねじれ現象を起こしかねない」「わたしひとりが月を友とするのだと、『我』を前に押し出したほうがよい」。そんな意図の表れという。自我の主張ととってもよいだろう。

 

 こうしてみてくると、18世紀の文人蕪村の句には近代の兆しが詰まっている。理系っぽい宇宙観や普遍を求める自然観、モダンアートのような幾何学性、ジャーナリスティックな臨場感。ときには、菜種のような商品作物が顔をのぞかせて都市市民の影も透けて見える。そして極め付きは、「月を友」とする自我だ。孤であることの楽しみ方を身につけはじめた個と言い換えてもよい。個人主義の感覚がすでに育まれていたことがわかる。

 

 蕪村は大坂(大阪)郊外に生まれ、若いころは東京で暮らし、その後、京都に定住した。三都の多様な文化を吸い尽くした個人史が、次の時代を先取りさせたのかもしれない。

 

 写生句のあるものはモノを通してコトを見る。そこには時代性というコトもある。

(執筆撮影・尾関章、通算378回)

 

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『八月や六日九日十五日』(小林良作著、「鴻」発行所出版局)

写真》来年の8月

 コスモスよ何処に隠したビッグバン(寛太無)

 10月の句会に出した拙句だ。コスモスは、秋桜とも呼ばれる草花の名であると同時に宇宙も意味する。涼やかな透明感があって可憐なたたずまい。それなのに時空のすべてを内に秘めているのだとしたら、なんと不思議なことだろう。宇宙誕生の大爆発、ビッグバンの灼熱をどこにどのように隠しているのか。そんな思いを込めて詠んだ。

 

 ただ、投句はためらった。似た詩句があるのではないかと心配になってきたからだ。ネットで検索をかけたが、それらしいものは出てこない。コスモスの花で宇宙を思う人はいても、ビッグバンに結びつけるのは科学記者出身の僕ぐらいか。そう思い直して提出した。

 

 著作権などの知的財産権に神経を使わざるを得ない時代だ。僕は去年、東京五輪・パラリンピックのエンブレム騒動があったときに「五輪『盗用』騒ぎで思う『いい歌は似てくる』」という一文を書いた(WEBRONZA2015年8月15日付=後段は有料)。すっきりしたデザイン、口ずさみたくなる歌を求めるなら、著作権にもうちょっと寛容であってもよいのではないか。そう考えての論考だった。そこでは俳句のこともとりあげた。

 

 要旨はこうだ。俳句の17音の並べ方がどれだけあるかと言えば、100を超える数の17乗になる。日本語には、仮名1文字が表す音やその濁音、半濁音のほかに「きゃ」「きゅ」「きぇ」「きょ」「ぎゃ」「ぎゅ」「ぎぇ」「ぎょ」……といった拗音があり、音の選択肢は100通りを上回るからだ。だが日本語として成立していて、味わいがあり、季語も含むとなると「選択の幅はいっぺんに狭まってくる」。無限の自由度があるとは到底言えない。

 

 だから、俳句の世界には似た作品が少なくない。いわゆる類似句である。ただ斯界の内情に疎いからかもしれないが、そのわりに盗作騒ぎとか、著作権紛争のような話をあまり聞かない。理由の一つには、俳句人口のかなりの割合が職業俳人でないことがありそうだ。きっと、句づくりを趣味道楽と割り切って知財に固執しない人も多いのだろう。もしかしたらこの芸術領域には、知財に寛容に向きあう文化の芽が潜んでいるのかもしれない。

 

 で、今週は『八月や六日九日十五日』(小林良作著、「鴻」発行所出版局)。扉には「俳句探偵 小林良作 衝撃レポート」とある。俳句雑誌「鴻」2016年1〜5月号の連載をもとにしているという。僕は、この本の刊行を朝日新聞デジタル版で知った。

 

 戦後の日本で8月は鎮魂の月だ。当欄でも、新聞記者の習性に触れて「8月に入ると、6、9、15という数列がさっと頭に浮かぶ。広島と長崎の被爆、そして終戦。この飛び石にタイミングを合わせ、1945年の夏をなぞるように『戦争もの』の記事を出す」(2014年8月8日付「『戦後』を語って戦争を知るという話」)と書いたことがある。今は、それに12日にあった日航ジャンボ機事故の記憶も重なる。だから、書名に吸い込まれたのだ。

 

 著者は1944年、東京生まれ。略歴欄には俳句活動歴のみが記されている。いわゆる結社のメンバーなので、僕のような半端な俳句好きとは次元が異なる。とはいえ、朝日新聞記事には「元法務省職員」とあった。硬い職業のかたわら、軟らかな世界を膨らませてきたのだろう。この本にはパラパラ動画の仕掛けもあって、頁をめくると探偵姿の人物が帽子を飛ばして驚く様子が見てとれる。別掲写真から推察すると、著者自身が扮装しているらしい。

 

 本文は、著者が「先行句」の謎を追って旅に出るという探偵小説仕立てのノンフィクションである。先行句とは、類似句があったときに先に発表されていたほうを指して言う用語らしい。冒頭は、著者自身が2014年初夏に「八月の六日九日十五日」という一句を「鴻」俳句会の大会に出したときの話。まもなく「選考委員から貴兄の句には先行句があるとの指摘があった」と通告される。「びっくりした。もちろん筆者の投句は取り消しとした」

 

 やがて大会事務局から送られてきた資料などで、永六輔さんが新聞への寄稿で一度ならず「八月は六日九日十五日」という句を紹介していることを知る。「詠み人不詳」と書き添えてあるものもあった。上の句の「の」と「は」が違うだけだ。「日本人として忘れることのできないあの八月の思い」を「どなたが、いつ詠まれたのであろうか」。先行句に気押されるのではなく、逆にこう問い返したところに著者の好奇心のたくましさをみる。

 

 著者の探偵活動は、永さんの記事を載せた新聞社にあたるところから始まる。「不詳」の事情を尋ねたのだ。「メディアの記事には相応のスタッフが動いて検証しているはずであろうから、何らかの情報を把握しているかもしれない」と考えたからだが、有益な答えは得られなかったという。「新聞社は読者側からのこうした個別の照会には対応しないのが普通なのかもしれない」と諦める。この社は僕の古巣ではないが、同業の徒として耳に痛い。

 

 結局、頼りになるのは自分自身だった。「予断を挟まず、インターネット等によりでき得る限り広範に検索し、関係する俳句団体等に問い合わせ、図書館に足を運んだ」。問い合わせと図書館通いは昔ながらの「足で稼げ」流だが、今はここにネットの援護がある。

 

 それでわかったことは、これまでに10人ほどが似た句を詠み、それらを紹介したり、批評したりした人もほぼ同数いるという事実だ。八月」の後は「や」が多く、「の」が続き、「は」や「尽」もある。「尽」は「みそか」を意味するから、この句は月末の感慨を詠み込んだのだろう。日にちの間に「・」を入れた句も散見された。これらのなかで最先行句と判定されたのが、諫見勝則という詠み手の「八月や六日九日十五日」である。

 

 著者は、その句碑が大分県宇佐市にあることをネットで知って現地に赴く。取材を通じて、諫見さんが広島県尾道市の開業医だったことも突きとめる。残念なことに直前に亡くなっていたが、医院を継ぐ子息康弘さんと文通が始まった。句は1992年に製薬会社情報誌の俳句欄で特選となっていた。康弘さんが父から聞いた話では「ある年の八月、診察室の前に掛けていたカレンダーを〈ある想い〉で見つめていた時に、ふっと出てきた言葉」という。

 

 著者の探偵魂は、ここで終わらない。尾道を訪ね、家族に会い、資料を借りて作句の思いに迫ろうとする。わかったのは、諫見さんが終戦当時、広島県江田島の海軍兵学校生だったことだ。6日の原爆投下時は熱力学の授業中。「突如稲光のような閃光と窓ガラスが割れるような振動の後、広島上空にそそり立った原子雲」と後年、県医師会の機関紙に記していた。そして15日には練兵場に並び、校長を通じて終戦を告げられたという。

 

 では9日はどうなのか。諫見さんは実は長崎県諫早市の出身。1945年秋の兵学校閉校で帰郷、翌春に長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入る。「在学中に原爆の凄まじい爪跡――物理的な惨状以上に、人々の心身の苦しみや深刻な苦悩――に直面したに違いなく、それが青年諫見氏の胸に深く刻まれたことは想像に難くない」と、著者は書く。カレンダーの6、9、15の数字の一つずつが強烈なイメージを呼び起こしていたのだろう。

 

 僕が想像するのは、日本中の多くの人がそれぞれの思いで8月のカレンダーを眺めており、そのことが類似句を多発させているらしいということだ。この本は、「Himagine雑記」というブログを紹介する。筆者Himagineさんも「八月や…」を思いついたが、先行句を知って投句を控えたという。そこに書かれた「互いに詩心が共有できたようでうれしくもある」のひと言に、著者は共感する。それこそが先行句探しの「動機の一つ」と打ち明ける。

 

 著者は、「およそ俳句作家をして自然な形で生じる類想句はあるとしても、意識した盗作などはあり得ない」と同好の友に信頼を寄せる。高名な俳人が講演で「八月や…」をとりあげたことに触れたくだりでは、「作者が多いなと感心した」という発言に賛意を表して、そこに「懐の深さ」を見ようとする。他者に広い心で向きあう。これは今の世の中でもっとも欠けているものだ。この寛容を俳句だけにとどめておく手はない。最後に拙句――。

 

 句心でもう一度見る古ごよみ(寛太無)

(執筆撮影・尾関章、通算346回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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