東電福島第一原発事故・強制起訴裁判判決に対する柳田邦男論考

(朝日新聞2019年9月20日朝刊社会面寄稿)

写真》電力というシステム

 これほど大きな事象の刑事裁判は、かつてなかったように思う。2011年の東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故をめぐり、東電の旧経営陣3人の刑事責任を強制起訴によって問うた裁判だ。その判決が今月19日、東京地裁で出た。

 

 強制起訴では、検察審査会の議決をもとに裁判所指定の弁護士が検察官役を引き受けて裁判が始まる。今回の起訴は、事故によって入院患者が避難を強いられ、栄養失調や脱水症状を起こしたなどとして業務上過失致死傷罪の適用を求めるものだった。ここで「致死」にあたるとされた被害者は44人。それだけでも大事故だが、起訴の対象外にも目をやれば、生活の本拠地を追われた人々が10万人を超える。まさに巨大事故の刑事裁判だ。

 

 だが裁判所は、あっさりと無罪の判決を下した。要約すれば、事故に先立ってあれほどの大津波が襲来すると予見するのは難しかった、だから経営陣には刑事責任を負わせるほどの落ち度がない、というのである。法律論で物事を裁くと、こういう結論も出てくるのかなとは思うが、納得しない人も多いだろう。なによりも、今回の裁判が取り扱ったのは未曽有の大事象だ。無罪の是非は措くとして、あまりに直線思考の判決ではないか。

 

 そんな僕の違和感を解きほぐし、モヤモヤの正体を明らかにしてくれる論考を見つけた。判決翌日の新聞に載ったノンフィクション作家柳田邦男さんの寄稿記事だ(朝日新聞2019年9月20日朝刊社会面)。見出しには「あるべき安全思想 欠く判決」とある。あれほどの巨大事故だ。この記事はぜひ、とりあげたい。ということで、当欄は今週も本を離れ、新聞記事を題材とする。本稿は速報版なのでいつもより短くなる。

 

 本題に入る前に寄稿者の紹介を。柳田邦男(敬称略、以下も)は、僕たち世代の新聞記者や放送記者にとって敬意の的だ。元NHK記者で、後にフリーランスとなった。科学技術社会の弱点をあぶり出してノンフィクションを書いた人。航空機事故の原因に迫った『マッハの恐怖』は、1972年に第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。飛行機という乗りものをシステムとしてとらえる視点が当時の僕たちには新鮮だった。

 

 その視点は、メディアの報道の仕方を変えたのみならず、世の中のものの見方にも影響を与えてきた。柳田は、福島第一原発事故の解明にもかかわり、政府が設けた「事故調査・検証委員会」の委員長代理を務めた。今回の判決は、法廷の傍聴席で聴いたという。

 

 論考を読んでいくと、僕が抱いた違和感に重なる記述が出てくる。「法律論からはかかる判断を仮に是としても、深刻な被害の実態の視点から考察するなら、たとえ刑事裁判であっても、刑事罰の対象にならないと結論を出すだけでよいのか」。この問題提起には、おそらく反論もあろう。刑事裁判は、被告人の刑事責任を法律に沿って見極めることにのみ専念すべきである、その範囲を超えて当該事象を論ずることは公正な判断の妨げとなる――。

 

 だが昨今の司法改革は、裁判所に視野を広げるよう求めている。たとえば、裁判員裁判の導入。これは、凶悪事件の判決に市民感覚を反映させるしくみだ。今回は裁判員裁判ではなかったが、だからと言って、ここまで法律論に閉じこもってよいものなのか。柳田は判決文の書きぶりを評して「これが一般的な凶悪事件であるなら、被害者の心情に寄り添った論述が縷々(るる)記されるのが通例だ」と書く。痛烈な皮肉のようにも感じられる。

 

 僕自身は、「心情」過多の判決は避けるべきだという立場だ。だとしても、今回の判決には難がある。理詰めで考えても論理の飛躍が見てとれるのだ。朝日新聞が掲載した「判決(要旨)」(2019年9月20日朝刊)をもとに、その論理展開をなぞってみよう。

 

 判決によると、検察官役は、旧経営陣が10m超の津波の可能性をめぐる情報を受けた後、「原子炉への注水や冷却のための代替機器を浸水の恐れがない高台に準備する」など四つの対策をとっていれば「事故は避けられた」と主張した。だが、被告人らが、その情報に接してから東日本大地震が起こるまでに4対策を完遂できたかどうかわからないので「結局、事故を回避するには、原発の運転を停止するほかなかった」と断じる。

 

 注目したいのは、この判決が思い描く筋書きには、事故発生か事故回避かのいずれかしかないことだ。だが実際には、事故は起こっても被害がさほど甚大でないという場合がありえた。たとえ検察官役の主張が4対策完了までの原発停止だったとしても、その中間領域に目を配るべきだ。もし対策の一つとして「注水や冷却のための代替機器」である予備電源を「高台に準備」していれば、それだけでも事態は今回ほどには深刻にならなかっただろう。

 

 このあと判決は、原発を停めるか停めないか二者択一の議論に終始する。そして、「事故もなかった福島第一原発の運転を相当期間、停止するのは、3人の一存で容易に実行できるものでは到底ない」と言い切る。これが無罪判決を支える論理である。

 

 二者択一の落とし穴は、津波襲来の予測に対する向きあい方にもあった。判決は、予測を聞いても原発停止を即断しなかった被告人たちの反応に理解を示す。ただ、地震や津波の議論に確率論は不可避だ。1か0かでは語れない。たとえ確度が低くても厳しい数値がはじき出されているなら、それを考慮に入れるべきだろう。その結果として、原発を停めないまでも万一に備えて被害を最小限に抑えるための手を打つ、という選択肢はありえたはずだ。

 

 で、柳田論考に戻ると、まさにその一点を突いた段落がある。読みどころなので、そっくり引かせてもらおう。「経営陣に原発事業者に欠かせない鋭いリスク感覚があれば、完全な対策は緊急には無理にしても、せめて減災のために、全電源喪失を防ぐ策としての予備電源設備の高台への移設、配電センターや重要建屋の水密化など、元々あるべきだった安全対策の工事を命じることはできたはずだ」。リスクとは、1でも0でもない危うさである。

 

 そうだ。東電の旧経営陣からも、今回の判決からも、リスク論が見えてこない。僕たちが「リスク」という言葉を使いはじめたのは、ちょうど柳田ノンフィクションが世に出た1970年前後だ。それから半世紀、この言葉はまだ日本社会に根づいていない。

(執筆撮影・尾関章、通算491回、2019年9月27日公開)

 

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『原発の現場―東電福島第一原発とその周辺』(朝日新聞いわき支局編、朝日新聞出版)

写真》3・11から7年(朝日新聞2018年3月7日朝刊)

 思いだすのも、いやな日である。3月11日。7年前のあの日、東京は春めいた日差しに包まれていた。昼下がり、大揺れが都心の新聞社にも到来する。やがて、テレビの空撮映像が仙台近辺に上陸した津波をとらえる。万単位の生命を脅かす災厄が起こったことを、僕たちは直感した。そして日が傾くころ、追い討ちをかけるように飛び込んできた東京電力福島第一原子力発電所の電源喪失という凶報。暗澹とした夜を迎えたことを覚えている。

 

 3・11は、大自然の怖さと現代技術の脆さがいちどきに露呈した日である。どちらからも強い衝撃を受けたが、科学記者としていっそう身にこたえたのは後者だ。伝えるべきことをきちんと伝えてこなかったのではないかと言われれば、反論のしようがなかった。

 

 実際に3・11以降、日本の科学ジャーナリズムは批判の矢面に立つ。大手紙が戦後しばらく、原子力利用推進の旗振り役を果たしたことは間違いない。それは、高度経済成長が公害をまき散らした1960〜70年代になっても変わらなかった。だが80年代に入ると、この論調に疑念を抱く科学記者がふえてくる。反省の契機は、79年の米国スリーマイル島(TMI)原発事故と86年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故だった。

 

 TMI事故の日、僕は入社満2年を迎える直前で、北陸・福井支局の記者だった。そのころ、県南部では原発の新増設が進んでいて、新顔の関西電力大飯原発1号機が動きだしたのが3月27日。翌28日にTMIの2号機が冷却水喪失という事態に陥ったのだから、それは対岸の火事ではなかった。大飯1号機は安全確認のためにいったん止められる。原発担当の先輩は大忙しで、僕も反原発運動の取材などを手伝ったような気がする。

 

 まだ、科学記者ではなかったせいだろうか。僕があのときに痛感したのは、原発の危うさではなかった。むしろ、危うそうなものを粛々と受け入れる立地県の姿に無力感を抱いたのだ。そこに関与するのは、電源三法交付金だったかもしれない。雇用の創出もあっただろう。それら政治経済の仕掛けが、こぞって自治体や地域社会のありようを変えていた。「これでいいのかな」。駆けだしの新聞記者としてそんな思いは募るばかりだった。

 

 新聞が原発のような巨大システムを取材するとき、理工系の視点だけに立つと過ちを犯しかねない。視線が細部に向かう一方だからだ。難があれば、それをあばいて改善策を求める。技術論議に明け暮れる結果、このシステムがそもそも必要なのか、もしかしたら不要な歪みを社会にもたらしているだけではないか、といった根源の問いが置き去りにされる。1960〜70年代の科学報道が迷い込んだのは、そんな袋小路だったように思う。

 

 1970代末以降、TMIとチェルノブイリの衝撃で安全神話に対する疑念が強まり、素朴な原子力推進論は衰退する。科学ジャーナリズムの内部で原発の負の側面に目を向ける動きが出てきたのは前述の通りだが、「根源の問い」が強まったとまでは言えなかった。

 

 で、今週は『原発の現場――東電福島第一原発とその周辺』(朝日新聞いわき支局編、朝日新聞出版)。1979年5月〜80年3月、朝日新聞福島版と東北総合版で約200回続いた連載記事をもとにしている。単行本は80年に朝日ソノラマ社から出たが、2011年秋に電子書籍として復刻された。未曽有の事故で注目の的となる福島第一に光をあてた本がそこに眠っていたわけだから、緊急復刻は当然の成り行きだっただろう。

 

 取材にあたったのは、いわき支局の3人。僕は社内事情を知る身なので、このなかに科学部の経験者や後の科学部員がいなかったことは明言できる。うち1人――粕谷卓志さん――は後年、社会部長を務めて経営幹部になった人だ。彼も巻頭の「復刻にあたって」という一文で、自分たちは「原発素人」だったと打ち明けている。県都ではない都市の小さな支局が、日常報道の合間によくこれだけの長期連載を仕上げたものだと驚く。

 

 連載の直前に勃発したのが、TMI事故だった。この本も冒頭で、1979年3月29日に福島第一の幹部や福島県の原子力担当者らが米国から刻々と入る情報にあたふたとする様子を描いている。県原子力対策室長が、来庁した東電本社の課長らに「事故はP(加圧水型)だがB(沸騰水型)にも起こり得るのか」と問いただした気持ちはよくわかる。福島第一は沸騰水型炉(BWR)で、TMIのような加圧水型炉(PWR)ではなかった。

 

 この室長はTMI事故の概要がわかった5月にも、こう吐露したという。「それにしても事故がB(沸騰水型)でなくて、まして福島でなくてよかった」。ここにも、BとPの違いにこだわり、ウチはBだからと胸をなでおろす心理が見てとれる。ただ注意すべきは、危険因子はさまざまにあることだ。事故を起こした炉と条件が違っただけでは安心できない。油断していると、まったく別方向から危機が迫ってくることがある。

 

 この本には、地震の記述もある。1978年、宮城県沖地震発生時の中央操作室。運転員は、「スクラム(緊急停止)」を予期して身構えた。「が、計器は発電所が正常に動いていることを示していた」。取材によれば、関東大震災級の揺れに襲われなくては炉のスクラムはないという。この本は「第一原発では地震によるスクラムはまだない。この辺の自然災害で怖いのは雷だ」と書く。ここからは、海溝型地震の津波に対する警戒が見えてこない。

 

 記者は、原子炉メーカーが地元につくったBWR運転訓練センターを訪ね、事故時や故障時の運転操作を仮想体験できる模擬装置を見ている。コンピューター内につくりだされる「異常状態」は、配管の「ギロチン破断」や炉内の「冷却材喪失」など130種。センター幹部が「あらゆるトラブルを考えてある」と言っているのが、今にして思えば空しい。原発が津波で水浸しになり、電源を台無しにするという筋書きはあったのだろうか。

 

 この本の前段は、おもに福島第一やその関連施設、県庁の取材をもとにしている。だから、原発の推進側にいた人々がTMI事故の報に接しても、メディアに対して、あるいは自分自身に対しても、ウチは大丈夫だと言い聞かせている様子がよくわかる。その思いは気休め交じりであれ、痛切なものだったことが後段で見えてくる。地元の人々の生活をつぶさに報告することで、大丈夫と信じるしかない地域社会の実情を浮かびあがらせているからだ。

 

 たとえば、大熊町の農村風景。「足を踏み入れてすぐ気付くのは、どこまでも続く三十アールに区画された水田」だ。原発立地に時機を合わせ、行政主導で圃場整備が進められた結果である。原発が生みだす雇用を見込み、「水田に大型機械を導入するとともに水稲の協業化を進め、その余剰労力を規模拡大と農外収入に振り向けようという構想」だった。現実に原発の建設とともに「農外」を主とする第二種兼業農家の割合は急伸していった。

 

 協業化では、農家が地区ごとに生産組合をつくる。稲刈り、脱穀などは「組合委嘱のオペレーター」が大型機械で代行してくれるので「農家はその分農作業から解放され、原発関連の下請け作業員などとして勤務に専念できる」。そのオペレーターも「普段は下請け作業員などの原発関連に勤め」「稲刈り時期に四十日間ほど集中して休みを取る」。原発は農家の営みを非可逆的に変え、原発なしには成り立たない農村をつくりだしたのである。

 

 この本は、原発作業の過酷さもとりあげている。定期検査時などに下請け作業員が放射線管理区域で被曝線量を気にしながら働く姿は、おもにフリーライターの堀江邦夫さんの体験談を通して描かれている。それは、当欄2017年11月17日付「1ミリシーベルトは100ミリレムで紹介した『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫、原題は『原発ジプシー』)に書かれたものに近いが、彼の取材手法を取材している点は興味深い。

 

 堀江さんは、ライターだと感づかれないよう努めたという。「その日の作業手順や体験、感じたことなど堀江はトイレや喫茶店で克明に記録した」「記録はすべて、書いたらのりをつけ封が出来る郵便書簡に記入し、そのまま投かんして東京の自宅に送った」とある。

 

 3・11の30余年前、原発はすでに社会を歪ませていた。そのことがよくわかる本だ。

(執筆撮影・尾関章、通算411回)

 

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『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫)

写真》線量の単位

 2011年3月11日の東日本大震災で、東京電力福島第一原発が水素爆発を続発させてからしばらく、周辺地域では放射性物質の飛散による低線量被曝が人々を大きな不安に陥れた。このあと、除染の当面の目安として「年間の被曝線量20ミリシーベルト未満」という話が出てきた。それを聞いて僕は一瞬耳を疑い、そして、とんでもないことが起こったんだなあ、と改めて痛感した。昔の常識とあまりにもかけ離れていたからだ。

 

 これには、自分の記者人生が反映している。1977年、新聞社に入ってすぐ、北陸福井の支局員になった。着任時、福井県南部には若狭湾沿いに原発がすでに6基あり、さらに新増設の計画が進行していた。僕は新人記者としておもに警察回りや郡部回り、さらには地場産業や都市問題などを取材していたが、原発関連の取材に駆りだされることも多かった。「線量」をめぐるあれこれは、そんなときにしばしば耳にする論点の一つだった。

 

 僕の記憶に刻みつけられたのは「500ミリレム」。1977年に国際放射線防護委員会(ICRP)が出した勧告では、一般の人が余計に浴びる放射線の量はここまでに抑えるという年間の線量限度として、この数値が定められていた。そして1990年の勧告では、それが5分の1に引き下げられる。これらの基準値は、原子力推進派が好んでもちだしていたように思う。我々は、この一線を守る。だから、原発は「安心安全」というわけだ。

 

 レムは、放射線量を生物体への影響という観点で測る単位。1980年代半ばからはシーベルトのほうがよく用いられるようになった。1シーベルト(Sv)=100レム(rem)。前述の「限度」は1977年勧告が5ミリシーベルト、1990年勧告が1ミリシーベルトである。3・11後に突然現れた「20ミリシーベルト」は、これらの勧告よりもずっと高い。非常時と平時という違いはあるにしても、このズレには愕然としてしまう。

 

 現に起こってしまった災厄のまえで、死守するはずの一線がかすんでしまう。安全神話の崩壊とはこういうことを言うのだろう。これこそが、僕が今回の事故で受けた最大の衝撃だった。原発増設時代の現地を見てきた者として、このことは伝えておきたい。

 

 今の日本社会は、科学技術の「安全安心」を標榜して細密な基準を設け、周到な手引書を用意して事にあたるのを得意としている。官僚制度が整っているせいだろうか、世の中は隅々までマニュアル化してしまった。だがいったん非常事態が起これば、平時の基準はいっぺんに吹っ飛んでしまう。福島では、線量限度をめぐってそういう現実があったということだ。大切なのは、基準とは破られやすいものであると心得ておくことではなかったか。

 

 で今週は、500ミリレムの時代にタイムスリップしてみる。とりあげるのは『原発労働記』(堀江邦夫著、講談社文庫)。もともと1979年に『原発ジプシー』(現代書館)として出版されたものが84年に講談社文庫に収められ、福島第一原発事故直後の2011年5月に書名と本文を改めて復刊された。著者は1948年生まれのフリーライター、記録作家。この本は自ら労働者として原発に入り、その実態を日記形式で伝えた体験記である。

 

 改題の背景にはたぶん、「ジプシー」が今では差別語扱いになっているという事情もあるのだろう。この一点だけでも歳月の流れを感じる。僕にとっては、なんと言っても福井で駆けだしの記者だったときに話題となった本だ。当時も、県内原発の様子が書かれているので一応は目を通した。ただ、同世代の著者が身ひとつで現場に飛び込む突撃精神に嫉妬めいた反発を感じて、きちんと読まなかったことを反省する。今回こそは熟読してみよう。

 

 まず感じ入ったのは、著者の書き手としての力量だ。関西電力美浜原発の定期検査で働くことになり、地元の人の小型トラックで原発へ向かうときの情景描写。「どこからこれだけ集まってきたのかと思うほどの数の車が、山肌にへばりついたような羊腸とした細い道を、騒音と排気ガスを撒きちらしながら原発へ原発へと進む様は、壮観というより、むしろ異様ですらあった」。巨大施設が労働力を吸い込む不気味さを的確に切りだしている。

 

 その一方で、原発が立地された一帯の自然描写も見事だ。作業後、宿への帰途のバスから見た風景。「夕陽が放つ光の矢が赤い一本の線となり、白い波頭を横切り、海面をまっすぐに私たちの方へとむかってくる。陽が沈むほどにその光の矢は細く短くなり、ある瞬間からそれは方向を変えると、水平線の一点へと凝集しはじめる」。敦賀半島西岸の日没が若狭湾の海原を刻々と変えていく様子を、鋭い観察力で繊細な感性をもって記述している。

 

 美浜原発の報告で驚かされるのは、「放射能の心配はない」とされた管理区域外の労働環境だ。機器類にピンホール(小穴)がないかどうかを調べる検査がそうだった。狭い空間に「キラキラと光る金属破片」や「ホコリ」が漂うなかを、口や鼻に「ウエス」と呼ばれる布きれを当てて動きまわる。著者は連日、そんな作業を続けた。宿で床に就いてから息苦しくなってタンを吐くと「ドス黒い」。それを見て「思わず身震いしてしまった」とある。

 

 管理区域に入っても、労働者は科学技術とほど遠いところで働かされる。一例は、美浜原発で「チェッカー」と呼ばれていた仕事。機器類やパイプの間を縫い、急階段を昇ったり降りたりしながら「作業中に出たゴミ類や、使用済みのゴム手袋・くつ下・マスクなどの回収と、新品の補充」をする。廃棄物をドラム缶詰めの作業室へ届け、洗いたての衣類は洗濯室から持ち帰るという往復だ。無機質のプラントにも人間臭い労役はつきまとう。

 

 では、いよいよ線量問題。この本に登場する原発では当時、作業員の被曝はここまでという「計画線量」が1日100ミリレム、週の合計300ミリレムと定められていた。ICRP1990年勧告で一般人の1年間の線量限度とされた値が1日の限度だったわけだ。著者は1日に浴びた線量を丹念に記録している。日本原子力発電敦賀原発の中枢部で働いたときはミリレム単位で10〜70台の日が続くようになり、80に達することもあった。

 

 当然、作業は短時間で交代となる。美浜原発での話。「六、七分後、突然、『ビィーッ』という重い連続音。五〇ミリレムにセットしたアラーム・メーターが“パンク”したのだ」。計器が警告を発して、若者が高線量の部屋から出てくる。次いで別の若者が飛び込み、今度は2〜3分で戻る。そして次が著者の番。パッキング10枚の取り付けだ。「九枚目がようやく入った。あと一枚。しかし、無意識のうちに足は出口にむかって走り出していた」

 

 彼らは、原発事業者傘下の雇用体制で最末端にいる労働者だ。中間に位置する元請け業者、下請け業者もそれなりに苦しい。著者が東京電力福島第一原発にいたとき、喫茶店に入ると業者の愚痴が聞こえてきた。「放射線量の限度がありますから、どうしても頭数(あたまかず)をたくさん確保しなければなりませんしねえ……」「で、確保するったって、地元の者だけでは限界がありますから、県外から引っ張ってこなければなりませんでしょ」

 

 このくだりで知ったことがある。東電の福島第一は沸騰水型だが、関電の原発は加圧水型で冷却水が一次系と二次系に分かれる――この違いが、労働者を送り込む業者には別の意味をもっていたことだ。「関電さんの原発だと、一次系、二次系と分けられてますから、線量をオーバーした労働者は放射能とは関係のない二次系(管理区域外)のタービン建屋などにまわすことができるんですけど……福島じゃあ、どこもかしこも管理区域でしょう」

 

 この本は、原発が労働者を見捨ててきた現実を告発する。著者は敦賀原発で定期検査の電源を用意するため、ケーブルの搬入作業に従事した。「定検のたびにそれ用の電気を管理区域内に付設するのは、私たち労働者だ。当然、被ばくをする。最初から定検用電源が確保してあれば、この被ばく分だけは少なくとも減少させることができるのだ」。原発は、想定外どころか想定内のリスクに対してもまともに向きあってこなかったとは言えないか。

 

 1970年代、原発まずありきの不条理は労働者が受けとめていた。それは今も続き、さらに敷地外の人々まで巻き込んだのである。最後にギクッとする符合を一つ。この本によると、79年3月11日にも福島で地震があった。日本社会の鈍感を叱るような偶然だ。

(執筆撮影・尾関章、通算395回)

 

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