「地獄の道化師」(江戸川乱歩文庫『地獄の道化師・一寸法師』=春陽堂書店=所収)

写真》道化の仮面

 いい季節になった。窓から拙庭――というより敷地の余白か――のただ1本の高木ムクノキを見て、そう思う。ひと月ほど前までは枝々が裸のまま黒々としていたのに、今はみずみずしい葉で覆われている。透き通る緑に誘われて、ついつい散歩に出たくなる。

 

 60歳超の散歩は、6歳未満のそれとは大きく違う。6歳未満の散歩は発見の連続だった。初めて見るものだらけだったのだ。ところが、60歳超のそれに発見はない。いや、もしあっても大発見ではない。街の老舗が消えてフランチャイズの店が開業したのを見ても、うすうす予感していた通り。風景そのものに驚きはない。その代わり、別次元の精神作用がある。60歳超の目には、風景の裏側に遠い過去が透けて見えるのだ。

 

 それは、僕のように生まれ育った場所と現在の生活圏が重なる場合は日常のことだ。散歩とは、空間次元のさまよいを指すだけではない。時間次元に迷い込むこともある。

 

 で、このごろ自宅からの徒歩圏をぶらぶら歩いていて脳裏に蘇ってくるのは、街が電車の線路によって分断されていた時代の風景だ。このあたりでは2000年代に入って私鉄電車が高架化され、それによって界隈の雰囲気がガラッと変わってしまった。考えてみれば、電車の線路とは大河に相当するものだ。いや、川は橋があるところでいつでも渡れるが、線路には踏切という関門があって電車が通らないときにしか行き交えない。

 

 今、散歩で高架をくぐるとき、僕の心に思い浮かぶのは、そこが踏切だったころのことだ。母の腕に抱かれ、勤め帰りの父を駅まで迎えにいったときの様子が原風景のように記憶されている。そのころは駅の出口が線路の南側にしかなくて、北側の住人は電車を降りると踏切を渡る必要があった。その踏切には、本線のほかに車庫につながる引き込み線のレールも通っている。だから、遮断機の向こうで手を振る父の姿がとても小さく見えた。

 

 もう一つ、印象に強く残っているのは、踏切がやたらと騒々しかったことだ。開かずの踏切に近かったから、警報機が鳴っている時間が長かったこともある。遮断機の上げ下げがどこまで自動化されていたかはわからないが、踏切番といわれる人が傍らの小屋にいて人や車を見守っていた。旗を振り、笛を吹き、ときに声をあげていたようにも思う。いずれにしても、横断する人や車の流れが急かされていたことは間違いない。

 

 で今週は、江戸川乱歩の探偵小説「地獄の道化師」(江戸川乱歩文庫『地獄の道化師・一寸法師』=春陽堂書店=所収)。本書は1988年に文庫新装版として刊行されたものだが、「地獄の…」は『富士』という雑誌の1939(昭和14)年1月〜12月号に連載された。僕はこの本を、隣駅の商店街にある古書店で手に入れた。思わず手が伸びたのは「春陽堂」の3文字に目がとまったから。往時の探偵小説にはふさわしい版元だ。

 

 この作品は「東京市を一周する環状国鉄には、今もなお昔ながらのいなかめいた踏切が数カ所ある」の一文で始まる。昭和10年代には、山手線にも道路と平面交差する箇所があちこちにあった、ということか。さもありなんと思える。今の踏切との違いは「踏切番の小屋があって」「番人が旗を振る」ことだ。その数カ所の一つ、豊島区にある「I駅の大踏切」で、おぞましい事件の火ぶたが切られる。「I」とあるのは、おそらく池袋だろう。

 

 その踏切を列車が通り過ぎた後の情景描写は、こうだ。「踏切番の笛が鳴って、遮断棒が宙天にはね上がっていく。たちまち自動車の警笛がさまざまの音色をもって、お互いに威嚇し合うように鳴り響き、種々雑多の車どもは、洪水(こうずい)の堤を切ったように、線路の上へとあふれはじめた」。どうやら、歩行者そっちのけで車が行き来していたようだ。これは、僕が幼いころに近所の踏切でみた昭和30年前後の光景とぴったり符合する。

 

 まずは、その「洪水」のなかで交通事故が起こる。トラックの荷台から荷箱がいくつか転げ落ち、オープンカーが踏切から脱輪、積んでいた「白布に包まれた大荷物」が飛ばされ、線路上に横たわる。このとき、白布が外れて中から姿を現したのは「石膏(せっこう)で造った裸女の立像」だった。そこに電車が突っ込んできて急停車するが、間に合わず裸女像を轢いてしまう。人間でなくてよかった、と読者は胸をなでおろすことだろう。

 

 ところが、乱歩流はそんなに甘くはない。群集の間から声が聞こえてくる。「変ですぜ。あの石膏の割れめから、なんだかにじみ出してきたじゃありませんか」「そうですね。赤いものですね」――石膏の中には女性の死体があらかじめ塗り込められていたのである。

 

 さて、この作品はミステリーなので、いつものように当欄は筋を追わない。ただ、大きな構図だけは書きとめておこう。主だった役どころの若い女性が3人いる。野上みや子、あい子の姉妹、そして新進ソプラノ歌手の相沢麗子。ここに二人の男性が絡む。ピアニストの白井清一は、みや子の「いいなずけ」だが、あい子とも互いに惹かれあっている。麗子とは仕事の相棒だ。もう一人、綿貫創人というあやしげな彫刻家も出てくる。

 

 踏切の事件後、あい子が警察署に出向いて、石膏像の死体は数日前から行方不明のみや子ではないか、と申し出る。顔は傷めつけられていて見分けがつかないが、右腕の傷跡から姉に違いない、と言う。ここから謎解きが始まり、明智小五郎探偵の登場となるのである。

 

 この小説では、踏切番のほかにも、今は街頭からほとんど姿を消した職種が出てくる。「チンドン屋」だ。あい子が警察署からの帰途、うら寂しい通りを歩いていると「ひょいと町かどを曲がってくる人影、なんだかパッと花が咲いたようにはでやかな色彩が目にうつった。それは胸に太鼓をつり、背中にのぼりを立てたひとりのチンドン屋であった」。ただし、この人物は仲間がおらず太鼓も叩いていないことから、どうやら偽物らしい。

 

 だが、この箇所を読んで、僕は幼いころに商店街の大売り出しなどでよく見かけた本物のチンドン屋を思いだした。「胸に太鼓」「背中にのぼり」。たしかに、その通りだ。太鼓は胸から突きだすように抱え、鼓面を横から打ち鳴らす。上部には小さな鉦もついていた。たいていは数人で練り歩き、楽器を奏でる。クラリネットなどの洋楽器も含まれていたが、あの旋律は和洋どちらとも区別のつかぬ代物だった。にぎやかだが哀愁が漂っている。

 

 強烈だったのは、その人々のいでたちだ。極彩色の服を着ていることが多かったから、この作品に「なんだかパッと花が咲いたよう」とあるのはうなずける。顔におしろいを塗りたくり、ちょんまげ、着物姿の大衆演劇風の人もいた。この作品の「チンドン屋」は「赤地に水玉模様の衣装」に「とんがり帽子」という道化師の装いだが、やはり顔面は厚化粧。そのことが探偵小説のミステリー性を強める格好の仕掛けともなっている。

 

 もう一つ、この作品で見逃せないのは都市に潜む空白だ。東京市麻布区(現・東京都港区の一部)の描写を見よう。当時、一帯は邸宅街だったが「どの町もひどく古めかしくて、なんだか大東京の進歩にとり残されているような感じ」であり、「思いもよらぬところに、もったいないような草ぼうぼうの広いあき地があったりする」状態だった。明智探偵の助手役、小林少年がチンドン屋風の道化師を見つけて尾行した先も、そんな空白地帯だった。

 

 あき地の周りは「あき家になった小工場や、もうとりこわすばかりの、人の住めない貸家などが、軒もいびつに立っていて、あかりのもれる窓もなく、まるで郊外へ行ったようなものさびしい感じ」だ。道化師は「そのあき地を横切って」あき家の中へ姿を消す。

 

 ここには今昔の違いがある。昔の東京には、こんな逃げ場があちこちにあった。あき地は人がたやすく通り抜けられ、あき家にこっそり身を隠すこともできた。それらは、戦後も僕の幼年期には残っていたように思う。だが今は、空白であっても立ち入り難い。

 

 乱歩がこれを書いたころ、日本社会は国家の締めつけが強まる時代だった。それでも、こんな開放感があったのだ。そう思うと、平和な今の閉塞感がかえって不気味に思える。

(執筆撮影・尾関章、通算470回、2019年5月3日公開、同月6日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『珈琲が呼ぶ』(片岡義男著、光文社)

写真》コーヒー

 勤めをやめると、ついつい外出が億劫になる。とくに冬は寒いから、家の中に引きこもったままの日々がつづく。毎年、そろそろ散歩でもしてみようかと思うのは、ちょうど確定申告のころ。今年も税務署に書類を届けた帰り、近くの公園をぶらぶらと歩いた。

 

 そのあと、ふらりと立ち寄ったのは税務署の最寄り駅に近い洋菓子店。ここ数年は、この寄り道が恒例になっている。源泉徴収票や領収証相手の気の重い作業から解放された昼下がり、コーヒーを味わい、ケーキをぱくつきながら本を読む。まさに至福の小休止。だが今年は長居をせずに退散した。客が次から次にやってきて騒がしくなったのだ。中高年の女子集団が出ていくと、今度は同年代の男子集団が入ってくるという盛況ぶりだった。

 

 それで痛感したのは、街の喫茶店が激減したことだ。ケーキ屋の大繁盛には、喫茶店を探したが見当たらないという中高年世代ならではの事情がある。この店に押し寄せる集団にも、どこか難民の風情があった。隣のテーブルを囲んだ高齢の男子たちはその典型だ。ケーキには、なんのこだわりもなさそう。ダンボ耳を傾けると「おまえ、いい店、知っているな」「ああ、いつもここに来るんだ」。そんなやりとりが聞こえてきた。

 

 僕たち60歳超の年齢層にとって、喫茶店は一つの街に一つはあるコミュニケーションの場だった。1980年代ごろまで、人々は取引先と商談をまとめるにも、同僚とひと息入れるにも、男女がデートの待ちあわせをするにも、喫茶店の扉を開いた。eメールもない、ラインアプリもない、という時代、肉声で意思疎通を図る場所が不可欠だったのだ。その意味では、私営の店でありながら公共性の高い空間だったと言えるかもしれない。

 

 とりわけ懐かしいのは、「純喫茶」の看板を掲げた店。コーヒーのほかには紅茶やジュース類が定番メニュー。いまどきのコーヒー専門店ほどには味にこだわっていない。だからと言って、歓楽街の酒場のような接客サービスはない。客が享受するのは日常のまったり感。その空気に引きずられてコーヒー1杯で2時間も3時間も粘り、本を読んだり、友だちと長話したりしたものだ。そんな店が今世紀になって、次々と姿を消している。

 

 もちろん今は、それにとって代わるようにコーヒーショップのチェーン店がいたるところに現れた。さらにハンバーガー店などもあるから外出時にコーヒーに親しむ場には不自由しないが、なにかもの足りない。街にぽっかり穴が開いたような気がする。

 

 で、今週は『珈琲が呼ぶ』(片岡義男著、光文社)。エッセイ45編から成る。著者は、僕が敬愛する年長作家。5年前に当欄が「本読み by chance」の看板を掲げたとき、最初に選んだ1冊も、彼のエッセイ集『洋食屋から歩いて5分』(東京書籍)だった。そこにも喫茶店の話が出てきたので、拙稿にはコーヒー1杯の写真を添えた(2014年4月11日付「片岡義男的な空気が吸いたい」)。著者とコーヒーの相性はよいように見える。

 

 『珈琲が…』のあとがきによると、この本を書くことになったのも、著者の自伝的な音楽小説『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』ができあがったとき、編集者が次の企画はコーヒーで、もちかけたのがきっかけらしい。著者にコーヒーは似合うのだ。

 

 だが、著者自身はコーヒーに深い思い入れがないようだ。この本によれば、フリーランスのライター時代に喫茶店は「原稿を書くための仕事場」だったという。あのころのコーヒーは「飲みたくなるようなものではなかった」が「テーブルにつけば、そのテーブル料として飲み物を注文する必要があり、僕が注文したのはいつもコーヒーだった」。著者にとって「喫茶店は最初から日常の場所だった」のだ。これは前述の僕の記憶とぴったり重なる。

 

 冒頭の1編は「小田急線・経堂駅のすぐ近くに喫茶店がある」と切りだされる。この一文で一気に引き込まれた。僕の実家が、まさに「経堂駅のすぐ近く」にあったからだ。その喫茶店は1960年代半ばからあり、2017年の時点でも営業を続けているという。さあ、どこだろうか。思いあたらない。今も経堂駅周辺には食事や買い物に出かけるので商店街の隅々まで熟知しているつもりだが、僕も知らない路地裏がまだあるのか……。

 

 東京・世田谷の経堂は迷子になりやすい町だ。その住人だったサブカルの先達植草甚一(愛称JJ)は『ぼくの東京案内(植草甚一スクラップ・ブック)』(晶文社)でわが町をこう描いている。「なんの気なしに歩いていると、まっすぐになっているような気がするが、どの通りも斜めになっている」(当欄2015年5月22日付「植草甚一のハレにもケをみる散歩術」)。著者も、JJと波長が近そうだからこの町にこだわりがあるのだろう。

 

 さて僕は、その迷路に抛り込まれたような気分になって、ついつい読み進む。「敷地の端の、三角に尖ったところに、その店はあった」。それは今も変わらないという。つまり、店はY字形の三叉路に面しているのか――。そんな当方の謎解きなどお構いなしに、著者の想念は広がる。「窓辺の席にすわることが多かった、と思い出す自分は、まさに窓辺の席にすわっているではないか」。著者は、こうして50年の時間幅を一気に跳び越える。

 

 著者にとっては、何が変わり、何が変わらないかが関心事らしい。東京は、消えてゆくもの、かたちを変えるものが多い。著者が1960年代半ばに通い詰めた東京・神田の神保町界隈もそうだ。ところが、その一角にある路地に一歩足を踏み入れると、そこには昔のままの店々がある。それは、あのころ洋食店でひとり昼食をとりながら窓外に見た風景そのものだった。「ほとんど変わることなく残っている場所」こそが「僕の東京」だという。

 

 京都の喫茶店の話も捨てがたい。千本今出川近くにある創業1938(昭和13)年の店には、ヴェルヴェット張りで背もたれが垂直な椅子がいくつも並んでいる。傷んだところは繕うことになるが、店主は一脚ずつしか修理に出さないという。店の様子がガラッと変わるのを避けるためらしい。客は「この店は今日もいつもおなじだ」と感じとることで「いつもの自分が今日も肯定される」。これは著者の分析だ。喫茶店の日常性とはこのことか。

 

 この本には歌の話も満載だ。たとえば、藤浦洸作詞、服部良一作曲の「一杯のコーヒーから」。僕は1970年代に雪村いづみのLPで聴いたが、もともとは霧島昇とミス・コロムビアが歌った曲で、39年に発売された。国民精神総動員が叫ばれた年である。詞では、それと逆方向の「街のテラスの夕暮れ」が描かれる。あの時世に「ちょうど手頃な大きさにまとまった夢の、まろやかな手ざわりの良さ」が歌われたことに、著者は驚いている。

 

 “I’ll Have Another Cup of Coffee(作詞ビル・ブロック)というカントリーソングもとりあげている。コーヒーは「あと一杯だけ」、その一杯を飲み切ったなら「そこを去るしかない」というような歌詞らしい。夫婦離別の歌。主人公は、家を出る理由を延々と話したりはしない。「きみにこれ以上の悲しみをあたえないために」――。昨今の説明責任論とは相容れない昔風パターナリズムの優しさ。コーヒー1杯が時間の単位になっている。

 

 ペギー・リーのLPで有名な“Black Coffee(作詞ポール・フランシス・ウェブスター)も出てくる。主人公の女性がカレシを待ちわびる歌。淋しくて一睡もできず、部屋を歩き回り、ドアのほうをじっと見つめている。「その合間に彼女がすることと言えば、ブラック・コーヒーを飲むことだけ」。歌詞にはブラック・コーヒーが3回出てくるが、3度目でも彼女は立ち直れなかった、と著者はみる。ここでコーヒーは時間を埋めるものでしかない。

 

 コーヒーは人生を彩る。だが、脇役に過ぎない。著者が1990年代に学生街の古びた名曲喫茶に入ったときのことだ。「普段はもう営業していないんだよ」と店主。コーヒーを出してくれたが、カップにはスプーンが突っ込んであり、「よくかき混ぜて」と言う。「ひと口飲めばインスタントだとわかったが、こういうこともあるのだと僕はそれを全面的に受けとめ、それ以上はなにも思わなかった」。苦くはあるが、ちょっといい話でもある。

 

 たかがコーヒー……をこれだけ語れる人。それはやはり片岡義男しかいない。

(執筆撮影・尾関章、通算468回、2019年4月19日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

 

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)

写真》七色の上海

 今週も、上海小旅行の話をつづける。先週は、上海外灘のホテルのバーで聴いたジャズらしからぬジャズの話を書いた。そこには上海が遠い昔から国際都市であったことの記憶があり、近い昔には僕たちがいる世界と隔絶されていたことを示す証しもあった。

 

 で、いよいよ『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)の中身に踏み込もう。著者は1968年生まれ、大学院で比較文学・比較文化を専攻した大学教授。著書『楽人の都・上海――近代中国における西洋音楽の受容』(研文出版、1998年刊)で翌年、サントリー学芸賞を受けた。文化領域のなかでも、とりわけ音楽に対する造詣が深い人のようだ。この本は2009年に初版が出て、18年に再版されている。

 

 この本の特徴は、上海の近現代史を6方向の視点から浮かびあがらせていることだ。章題を並べれば「イギリス人の野望」「アメリカ人の情熱」「ロシア人の悲哀」「日本人の挑戦」「ユダヤ人の苦難」「中国人の意志」。本来なら「中国人の意志」のみで発展すべき都市が、外からやって来た多彩な民族の思惑に左右されたことが目次からもうかがわれる。この街は内外の人々が交ざりあい、異文化が溶けあう坩堝となったのである。

 

 その中心が「租界」だ。「居留地」「区切られた借地」といった語義がある。英国はアヘン戦争勝利の余勢をかって1845年、租界を外灘のある黄浦江西岸に開く。まもなく米国もフランスも租界を置く。英米は63年にそれぞれの持ち分を合わせ、国際色豊かな「共同租界」(International Settlement)をつくりあげた。両租界には中国人も大勢暮らすようになる。上海の租界が名目上消滅したのは、日本軍占領下の1943年だった。

 

 租界は、いわゆる植民地ではない。英国の租界は「依然として清朝の領土であり、イギリスは行政権(警察権を含む)を持っているに過ぎない」と、著者は書く。これは裏を返せば、租界の英国人にとって「本国の意向を伝達・実行する役割」の行政官がいなかったことを意味する。そこは「中国でもなく、イギリスでもなかった」。いわば真空地帯。その結果、「既存の国家に帰属しない、いわば『自由都市』」が出現したのである。

 

 英国の租界、あるいは後の共同租界について、その自治のしくみをみてみよう。そこには1854年、参事会による行政体制ができあがる。当初の参事は7人、高額納税者の選挙によって選ばれた人々だ。英米人ばかりではない。ドイツ人が常連だった時代もある。第1次世界大戦のころからは、それに代わって日本人が一角を占めた。フランス人やロシア人、デンマーク人が選出されることも。この自治組織は国籍を超越していた。

 

 この本でちょっと意外だったのは、米国の影響力の大きさだ。第1次大戦で英仏が「中国を顧みる余裕を失ってゆく」流れのなかで顕著になったらしい。中国人にとって「アメリカ人の陽気さや、フレンドリーな物腰は、支配者然としたイギリス人に比べて親しみを感じさせた」という。米国風は、ニューヨークの摩天楼に似た建築ばかりではない。ハリウッド映画を観る、ジャズを聴いて踊る、といった都市文化が広まった。

 

 ここで、いよいよジャズの話になる。著者は音楽史の知識が豊富なので、このくだりは読みどころと言ってよい。そこにもまた「多国籍都市」らしい歴史が見てとれる。

 

 この本によると、上海に洋楽を広めるのに一役買ったのは、19世紀末に米国の植民地となったフィリピンの楽士たちだという。ジャズなど米国発祥の軽音楽がお手のものだったので、1910年代からは無声映画の伴奏要員として、どっと渡来した。「彼らはその巧みな腕前で、映画館の仕事だけでなく、西洋人の舞踏会やホテルでの演奏に進出するようになる」。僕が外灘で聴いた「伝説のジャズ」の源流はここにあったのだ。

 

 ところが、やがて異変が起こる。きっかけは、ロシアで1917年に起こった社会主義革命だ。貴族や資本家、官僚らが国外に出て、その一部が上海にも押し寄せた。このなかにはペテルブルグやモスクワで音楽の高等教育を受けた人もいたという。ロシア出身の音楽家はクラシックの基礎があるうえに「生活のためにジャズやダンスミュージックのレパートリーも積極的に身に付けていた」。これが、上海音楽界の勢力図を変えたのだ。

 

 そうか。あの「伝説のジャズ」には、米国の民衆が生みだし、その植民地の人々が育んだ大衆文化の小粋さに、帝政ロシアの名残とも言える貴族文化のたおやかさが入り混ざっていたのだ。先週書いたようにアフタービートが強くないのはそのせいかもしれない。

 

 この本でもう一つ印象に残るのは、租界がそこに住まう人々の本国を映す鏡となっていたということだ。英国の貴族や富豪が幅を利かせる共同租界では第1次大戦後、警察官を英国で募ったが、採用されたのは失職中の復員軍人や労働者が多かった。その結果、英本国の階級社会が再現される。警察官は「同じ国の人間に軽んじられる一方、中国人の前では大英帝国の威光を示す存在でなければならないという、複雑な立場」に追い込まれたという。

 

 階層の色分けは日本人社会にもあった。この本によれば、上海の日本人は「土着派」と「会社派」に大別された。前者は、この地に活路を求めて住みついた人々。後者は、大企業の駐在員を中心とする一群だ。さらに後者は「中間層」と「エリート層」に二分されたという。土着派と会社派中間層は共同租界北部の虹口(ホンキュー)に、会社派エリート層は共同租界中心部やフランス租界に、というような住み分けが定着したらしい。

 

 そのころ、虹口は悪臭の漂う町だったようだ。この本がとりあげているのは、住人たちのトイレ事情。「馬桶(モードン)」と呼ばれる壺が使われていた。それぞれの家庭は夜が明けると馬桶を道路に出し、中身が作業員によって回収されると「竹ひごを束ねた専用の道具」で洗った。この地区は、ナチスドイツの圧政を逃れたユダヤ人の避難地ともなったが、難民が衝撃を受けたものの一つが「『壺』だけのトイレ」だったという。

 

 僕は今回、その虹口にも足を延ばしてみた。虹口公園にある魯迅紀念館を訪れたときだ。作家魯迅はこの町に暮らし、書店主の内山完造とつきあいを深めた。「内山は魯迅の書籍代のみならず、アパートの家賃・光熱費まで立て替え払いをしていた」。上海では、華やかな一角の外側にも文化活動を下支えする国際交流があったのだ。紀念館から内山書店まで歩くと、そこにはもはや悪臭はなく、小ぎれいなたたずまいの普段着の町が広がっていた。

 

 翌日は、旧フランス租界を散策した。こちらは、かつて日本人の会社派エリート層のうちもっとも豊かな人々が居を構えたという高級邸宅街。今、地下鉄駅から地上にあがると、東京・代官山と見紛うおしゃれな町が見えてくる。コーヒーショップでカフェラテを飲んでいると、中国にいることを一瞬忘れるほどだ。ここでは革命家孫文の旧居と彼に先立たれた妻宋慶齢が後年暮らした家を見学したが、どちらも芝生の庭が美しい欧風の邸宅だった。

 

 再認識させられたのは、この国の革命の原点には欧米文化を熟知する孫文がいたということだ。その三民主義と地続きで、社会主義政権が生まれた。だから、彼は今も敬われている。上海が国際都市の空気を保っていられるのは、そんな経緯があるからだろう。

 

 今の上海を象徴するのは、ビジネス街の高層ビルの林立だ。印象としては、東京のそれをはるかにしのぐ。だが、そこだけに目を奪われてはいけない。外灘の郷愁、虹口の日常、旧フランス租界の洗練……それらが交じりあって独特の街模様を織りあげている。

 

 長江河口部にあって起伏に乏しい町が、歩いていて退屈しないのはそのためだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算467回、2019年4月12日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)

写真》灯ともし頃の外灘

 中国は、僕のように戦後まもなく生まれた世代にとって、大人になるまで現実感を伴う場所ではなかった。世界は東西に分断され、中華人民共和国とは国交が開かれていなかったのだ。人々がどのような日々を送っているのか、情報はほとんど入ってこない。ラジオで北京放送に耳を傾けると、耳に残るのは民心を鼓舞する音楽や、毛沢東思想をたたえ米帝国主義を痛罵する言葉ばかりだった。日本社会からみれば別世界だったと言ってよい。

 

 世代によっては、これが違ってくる。僕たちよりも年長の世代は、中国に対してずっと近い距離感を抱いているように思える。戦前戦中、大陸に暮らしていた人々は大勢いる。よい思い出ばかりがあるわけではなく、軍国主義に手を貸したことに悔いを感じている人も多いはずだが、それでも大陸風土への素朴な愛着や郷愁は捨てがたいのだろう。現地で生まれ育ち、少年少女期まで過ごした年齢層には、その思いがいっそう強いかもしれない。

 

 一方、僕たちよりも年少の世代には、中国に対してもっとストレートな親近感がある。なんと言っても、物心がついたのは国交正常化の後だ。やがて中国経済は改革開放に突き進んだ。今では中国市場が世界経済のど真ん中にある。大きな違いがあるとすれば政治体制だが、これだって昨今の若者にはさほど抵抗感がないのかもしれない。企業経営などでトップダウンのガバナンスが称揚され、それに順応する傾向があるからだ。

 

 さて、そんな中国とはもっとも遠いところにいる僕が生まれて初めて中国大陸の大地を踏んだ。3月から4月にかけての6日間を上海市内とその近郊で過したのだ。で、当欄は今週と来週の2回に分けて、上海小旅行を話題にする。選んだ1冊は『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)。今回の出発前に読みはじめたので、旅の手引きとなった。本の中身には来週、踏み込むつもり。今週は、そのイントロにとどめよう。

 

 今回の上海滞在で僕が最優先で訪れたいと思っていたのは、外灘だった。ワイタンと読む。黄浦江という川が曲がりくねる西岸にあり、英米の租界が合併してできた旧共同租界(International Settlement)の商業地域だ。英語では、岸壁通りを意味するbundの名で呼ばれる。戦前戦中の上海を舞台とする小説や映画には欠かせない一角と言ってよい。19世紀半ばから20世紀半ばまで、ここは国際都市の様相を呈していた。

 

 外灘の見どころは、なんと言ってもその建築群だ。河岸通りに沿って様式建築が並んでいるかと思えば、そこに古びた高層ビルも交じる。欧州の都市にいるようでもあり、米国ニューヨークに紛れ込んだようでもある。僕は高層建築の一つ、フェアモント・ピース・ホテルに1泊の宿をとった。屋根が四角錐に尖ったアールデコ風の建物だ。ここはもともと、ユダヤ系の英国商人サッスーン家の財閥が1929年に建てたサッスーン・ハウスである。

 

 宿を決めるにあたって僕の心を動かしたのは、ホテルのジャズバーだった。「伝説のジャズ」の演奏があるという。上海で上海らしいジャズが聴きたかったのだ。その夢は叶った。ただ、それは思わぬ発見を伴うものだった。ここでは、そのことを書いておこうと思う。

 

 ひとことで言えば、それはジャズらしいジャズではなかった。もちろん僕は、モダンジャズを期待していたわけではない。思い描いていたのは、グレン・ミラー風のスイングジャズか。ところが聞こえてくるのは、雰囲気がまったく違う。年配のドラム奏者が背広に蝶ネクタイ姿で打ち奏でるリズムは、強弱、強弱という感じ。ジャズらしいアフタービートの強調、すなわち弱強、弱強の軽快感がないように思えた。軍楽隊の太鼓のようなのだ。

 

 5〜6人のコンボ編成でサックスやトランペットも入っていたのだが、アドリブ感のあるソロ演奏を順番に回したりはしない。大体はユニゾンで演奏していた。女性歌手がフィーチャーされていたが、彼女は大半を中国語で歌い、ときに日本語の歌も交えた。どちらも哀愁を感じさせる。「歌謡曲っぽいね」。僕は思わず、そんな感想を連れあいに漏らした。それが悪いというのではない。むしろ、心地よくさえあったのだ。

 

 この心地よさは何だろう。それで気づいたのは、演奏仲間がみな楽しくてたまらない、という様子だったことだ。リーダーらしきサックス奏者はMCで延々となにかをしゃべりまくっていた。そのあと、同僚のサックス奏者2人が加わって輪になって競演した。ホテルの公式サイトによれば80歳超の奏者が多くいるらしいが、日本で言う団塊の世代ほどの「若手」もいた。いずれにしても文化大革命をくぐり抜けてきた年齢層ということになる。

 

 ここから先は、まったくもって僕個人の妄想だ――。おそらく、上海の戦後っ子たちは旧租界に残る欧米文化の空気を吸って育ったのだろう。だから、楽器を奏でる技には長けていたに違いない。だが1960年代、ジャズが世界の若者の心をつかみ、対抗文化を生みだしたとき、彼らはそれとは別の世界にいた。だから、ここには僕たちの知らない「伝説のジャズ」が熟成されたのだ。そう思うと、彼らの演奏が愛おしく感じられてくるのだった。

 

 ちょっとだけ、『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)に触れておくと、この本には、作家堀田善衛(*)が1957年にサッスーン・ハウスを訪れたときの光景が堀田著『上海にて』の引用のかたちで紹介されている。「豪華なシャンデリアの下を、詰襟の中山服や菜ッ葉服を着た何かの機関の幹部たちが往来している」とあるのだ。いまジャズバーにいる年配の奏者たちは、みんなそういう風景を見てきたのだろう。

 

 ジャズバーは壁がハーフティンバーになっていて、いかにも英国風だ。そこに現代中国ならではの「伝説のジャズ」が流れる。そしてホテルを一歩外へ出れば、外灘の対岸に超高層のビル街が光り輝いている。僕は、この街の近現代史を感じて目くるめく気分になった。

*堀田善衛の「衛」は、この本では「口」の下が「一」の下に「巾」。

(執筆撮影・尾関章、通算466回、2019年4月5日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『[新訳]明日の田園都市』(エベネザー・ハワード著、山形浩生訳、鹿島出版会)

写真》磁石としての都市

 学生時代、歌詞づくりに熱中したことがある。カントリーミュージック風の心地よい旋律を友人がつけてくれた。1970年代半ば、若者の間では対抗文化が退潮し、ニューファミリーの生活様式が憧れの的になっていたころだ。そんな都市住民の日常がテーマだった。

 

 なかには詞だけでなく曲も自作した歌がある。「転校生」がそうだ。「ニュータウンの丘に咲くコスモスの花/乾いた砂埃舞う造成地/引きだしの中の友だちの手紙/そうよ、わたしは転校生」。僕が思い描いたストーリーでは、父親の転勤で東へ西へと転校を繰り返す女の子が主人公。大都市圏の引っ越し先は丘陵地帯を切りひらいた住宅地だった。あのころは、東京近郊でもあちこちで関東ローム層の大地を削る重機が唸っていたように思う。

 

 たとえば、多摩ニュータウン。東京西郊に集合住宅や戸建て住宅が集まる一大住宅都市が生まれた。東急田園都市線沿いにも新しい住宅地群が連なり、TVドラマ「金曜日の妻たちへ」(TBS系)に象徴される郊外文化を発信した。関西では大阪北摂地域の千里ニュータウンが代表格か。いずれも雑木林や竹林をつぶして造ったので緑の総量は減ったが、ところどころに里山の自然が残る。それが核家族世代の心を惹きつけた。

 

 今、その新しい町の先行きが心細い。朝日新聞社が新住宅市街地開発法(1963年制定)にもとづいて開発されたニュータウン46カ所について地元自治体にアンケート調査したところ、半数を超える27カ所で65歳以上の単身世帯の割合が全国平均を上回った(朝日新聞2017年12月3日朝刊)。目をむくほどの数字ではないが、ニュータウンの高齢化が世間全般よりもやや早いペースで進んでいることがわかる。

 

 それでつくづく思うのは、これらのニュータウンはマイホームの集合体だったのだなあ、ということだ。1960〜70年代は、若者が結婚して核家族をかたちづくる傾向が強まった。住まいは当然、小規模になる。だから若夫婦が年をとり、やがて子ども世代が成人して家庭をもつとき、世代同居するだけの余裕はない。結局は高齢世帯が残され、夫婦どちらかが欠けると独居老人の家となる。これが、ニュータウンの現実だ。

 

 ここで僕が問いたいのは、ニュータウンは果たして真の「町」だったのかということだ。町は生き物にも似た組織体で、新陳代謝しながら生き延びる。世代が新旧入れ代っても同じ町ではありつづけるのだ。では、列島各地のニュータウンはどうか。個々の家について言えば、持ち主が交代して引き継がれることがあるだろう。だが、町そのもののアイデンティティ(自己同一性)の存続は覚束ない。1世代使い捨て型のような感じさえする。

 

 で、今回は20世紀初めに住宅都市づくりの構想を提案した名著に触れてみよう。『[新訳]明日の田園都市』(エベネザー・ハワード著、山形浩生訳、鹿島出版会)である。著者(1850〜1928)はロンドン生まれの英国人。序文(F・J・オズボーン執筆)によれば、商店主の家庭に育ち、21歳で米国に渡って速記者となり、数年後に帰国した。やがて都市計画の論客となるが、象牙の塔の人ではない。実践志向が強かった。

 

 この本は1898年に世に出た後、1902年に改訂改題された。「田園都市」という言葉が掲げられたのは、このときから。翌03年、ロンドン北郊レッチワースで実地に町づくりを手がける。構想通りとはいかなかったようだが、ともかくも実行に移したのだ。

 

 ではどうして、著者は田園都市というアイデアに思い至ったのか。「著者の序文」に説明がある。そのころ、すなわち19世紀末から20世紀初めにかけては宗教や政治の論題が党派的対立を招いていたが、そうならないテーマがあるとして都市論を挙げる。「人々がすでに過密となっている都市に相変わらず流入を続けており、そしてその一方で地方部がますますさびれていく」。この一点については共通の問題意識があったという。

 

 ここで見落としてならないのは、元祖田園都市構想は、都市の過密化と地方の過疎化に対する危機感から生まれたということだ。それは、過度の集中を嫌い、適度の分散をめざすものだった。このベクトルは、日本のニュータウンとは大きく異なるものだ。

 

 前述の新住宅市街地開発法をみてみよう。第1条に「健全な住宅市街地の開発及び住宅に困窮する国民のための居住環境の良好な相当規模の住宅地の供給を図り、もつて国民生活の安定に寄与する」とある。開発のねらいは、人々の居住空間を確保することにあったということだ。急増する都市勤労者向けのベッドタウンの建設と言ってもよいだろう。これはむしろ、大都市圏への人口流入を促したのではないか。集中志向のベクトルである。

 

 「田園都市」には魅力的な語感があるので、その影響は日本の町づくりにも及ぶ。有名なのは田園調布。1920年代、まだ東京府下の郡部だった一帯にレッチワースを参考にする街区がつくられた。60年代には、神奈川県の丘陵部を貫いて東急田園都市線が敷かれ、沿線に新しい住宅地が連なる。ただ、これらがもたらしたものは、あくまでも都市勤労者にとって心地よい居住空間だった。「田園都市」の「都市」らしさは見えてこない。

 

 この本の田園都市像はどうか。そこで出会うのは「町・いなか磁石」という用語だ。「町」には「雇用機会」「明るい街路」などの長所があるが、「群衆の中の孤独」「汚い空気によどんだ空」などの短所もある。「いなか」には「自然の美しさ」があるが、「仕事のない人々」もいる。そこで著者は、両方の長所を併せもつ磁石をつくることを主張する。大都市の外側に新しい磁力圏を新設して人の流れを大都市から逸らせよう、というわけだ。

 

 その「町・いなか磁石」こそが田園都市だ。著者の構想によると、「責任ある社会的地位を持ち、高潔さと名誉では非のうちどころのない紳士4名」が法律上の地主となって資金を借り、土地を買う。住人は、信託管理人に地代を支払う。興味深いのは、その地代の使いみちだ。一部は土地購入の借金返済に回し、残りは自治組織に手渡されて道路、学校、公園などの建設費や運営費に充てる。税ではなく地代を介在させた共同体と言えよう。

 

 ここで注目すべきは、田園都市の「主目的」として、工業労働者に「もっと健康な環境と、もっと安定した雇用を見つけてあげること」を挙げている点だ。大都市圏に寄生してベッドタウンになるのではない。自前の働き場所がある小都市をつくり出そうというのだ。構想を落とし込んだ市街地図を見ると、同心円状と放射状の道路がかたちづくる街区の外縁部に「家具工場」「衣服工場」「ブーツ工場」「車両工場」「ジャム工場」などが並んでいる。

 

 「主目的」のくだりでは、工業だけでなく農家のことも忘れていない。全域の地図に目を転じると、市街の外側には「大農場」「小作用農地」「果樹園」「牛の放牧地」などが広がっている。この配置によって、都市建設前から農業を営んでいた人や建設後に移り住んでくる農業志望者が「自分の家の近くで産物に対する新しい市場が開けるように」なるのだ。市街部分、即ち狭義の田園都市は緑豊かな田園都市圏の中心にある。

 

 こうした農地は、田園都市のエコロジーと深く結びついている。たとえば、「町の廃棄物は敷地の中の農業部分で活用される」。江戸市街の屎尿が近郷近在で有機肥料に役立てられたような循環を、著者も思い描いていたわけだ。そして、市域の店は「農業従事者たちにとって、いちばん自然な市場を提供する」。その結果、市民は「農家の産物を需要する限り、それは鉄道輸送費をまったくかけないですむ」。地産地消の好例がここにはある。

 

 ただ著者は、それらを述べた後に大切なことを言い添える。「でも農民などは、別に町だけが唯一の市場として限定されているわけではない」「自分の好きなところに産物を卸す全権を持っている」。ここで感じとれるのは、田園都市構想のリベラルな精神である。封建の世に戻って農民を縛ることはしない。だからと言って、当時台頭していた社会主義思想を突きつめるわけでもない。「自分の好きなところ」で商いをする権利を認めているのだ。

 

 集中から分散へ。この本は、いま求められる社会設計の一つの見本を見せてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算461回、2019年3月1日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『日和下駄  一名 東京散策記』(永井荷風著、講談社文芸文庫)

写真》〓はゲタ

 今週は、本題に入る前のまくらに難ありだ。遠い過去の風景を描こうと思うのだが、記憶がぼやけていて確信がもてない。史料に照らして精度を高めてもよいが、それで失われるものがある。居合わせた者だけが知るその場の空気だ。だから、ぼんやりのまま記そう。

 

 ここで蘇らせたい風景は、太平洋戦争の終結から10年ほどしか過ぎていない東京である。その市街域が幼い僕の目にどう映ったか、それを掘り起こしてみたいと思うのだ。ただ、当欄で幾度か書いてきたように、東京西郊の私鉄沿線で生まれ育ったので、ターミナル駅の新宿、渋谷よりも東は日常の生活空間ではなかった。だが、だからこそ、折にふれて遠足気分で出かけた街の佇まいが、記憶の底に沈殿しているのだとも言える。

 

 懐古気分になったのは時節柄、昔の年始回りを思いだしたからだ。父方の親類は、赤坂や六本木、芝白金で和菓子店を営んでいた。三が日には両親に連れられて、その1軒ずつを訪ね、お年玉を貰う。それが年中行事だった。渋谷あたりからタクシーに乗る。赤坂、六本木は店先の挨拶で済ませ、最後の訪問先の芝白金では奥の茶の間にあがり込んだように思う。脳裏に浮かぶのは、その巡回でタクシーの車窓から眺めた東京の景色だ。

 

 埃っぽかったなあ。そんな印象がある。砂埃が空き地から吹きつけるのか、それとも自動車の排気のせいか。表通りは広々としていて、真ん中を都電が行き交っていた。街路樹を見かけた気がしないのは、冬なので葉を落としていたためかもしれない。沿道には建物が並んでいたが、ビルらしいビルは少なかった。街全体が無味乾燥で、しらっちゃけている――これが、いま東京でもっとも華やかな一角の60余年前の空気感だ。

 

 考えてみれば、そのほんの10年ほど前、一帯は空襲に見舞われ、焼け野原と化したのだ。だから僕が目撃したのは、焼け跡に人々が戻り、生活を再開したばかりの街だった。それは、江戸・東京の歴史軸を見通せば、時折巡ってくる短い空白期の一つだったとも言えよう。それよりも前には戦前の東京があった。それよりも後には高度成長の東京がある。僕たちは、そんな新旧東京の間に遮断があったことを知る最後の世代なのかもしれない。

 

 で今週は、その空白期の彼方にある東京のぶらぶら歩きを文豪に案内してもらおう。

 

 『日和下駄  一名 東京散策記』(永井荷風著、講談社文芸文庫)。この本は表題作を中心に据え、それに6編を添えた随筆集。読み通すと、荷風(1879〜1959)がただの文人ではなく街歩きの達人だったことがわかる。表題作は1914(大正3)年から『三田文学』誌に連載され、翌15(大正15)年に単行本化された。この文庫版は『荷風全集』(岩波書店刊)に収められていたものを底本に、99年に刊行された。

 

 今回は、表題作に絞って話を進めよう。僕がまず注目するのは、執筆が大正初期ということだ。このときの東京は、太平洋戦争末期の空襲のみならず、1923(大正12)年の関東大震災にも遭っていない。さらに言えば、明治期に入って半世紀足らずという時間幅もいい。人々は今ほど長寿ではなかったが、それでも江戸生まれの人は健在で、往時を語りあっていたことだろう。近代東京のあちこちに江戸の残り香が漂っていたのは間違いない。

 

 著者の個人史をみても、タイミングは絶妙だった。巻末に「年譜」(竹盛天雄編)があるので、それを参照してみよう。明治初期に東京・小石川で生まれ、若くして文学に手を染めたが、1903年に米国へ渡り、ニューヨークなどで暮らした。その後、フランスにも滞在、08年に帰国した。表題作は、20代の感性で欧米の街の空気を吸った著者が、30代半ばの成熟した視点で自らの郷里である東京を見つめ直した作品ということになる。

 

 第一章では、まず「日和下駄」について語られる。この履物は、辞典によれば歯が低く、晴天向きだという。ただ、著者の説明は異なる。「日和下駄の効能といわば何ぞ夫不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日と雖山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその」。舗装済みの銀座、日本橋でも「矢鱈に溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい」。荷風版日和下駄は、悪天候にも強かったらしい。(引用部のふりがなは省く、以下も)

 

 ここでわかるのは、著者の街歩きに対する本気度だ。「市中の散歩は子供の時から好きであった」とも打ち明ける。14歳のころ、実家が麹町に引っ越したので、神田の英語学校へ通うのに「半蔵御門を這入って」一ツ橋へ抜けたという。半蔵門は今、一般人が通り抜けられないが、明治半ばは違ったのか。それにしても、豪華な徒歩通学だ。そんな原体験があるから、長じて日和下駄を履き、蝙蝠傘を手にしてひたすら歩いたのだろう。

 

 もう一つ、この下駄がらみの記述で当時、東京のインフラ整備がどのくらい進んでいたかも推し量れる。路面がアスファルトに覆われていたのは、銀座クラスの繁華街くらい。山の手には関東ローム層の赤土がむき出しの道路が多かったということだ。これはたぶん、焼け野原となった戦後期まで続いたように思う。だとすれば、僕が幼少期に年始回りで見た赤坂、六本木界隈の埃っぽさは、江戸・東京を貫く原風景の名残だったのかもしれない。

 

 この第一章で見落とせないのは「今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない」という一文だ。著者は、下駄をぬかるみにとられながら、空間のみならず時間の散策も楽しんでいたのである。

 

 しかも、時間軸の好奇心は「追憶」の先にも延びていく。第四章「地図」には、市中を歩くときは「携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする」とある。随所で木版の古地図を開けば「おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができる」のだ。一例は、牛込弁天町辺り。道路拡幅で江戸の面影はないが、著者はそこが根来組同心屋敷の跡だと突きとめる。その発見に「訳もなく無暗と嬉しくなる」と、無邪気だ。

 

 この散策記の斬新さは、章立てそのものにもある。第二章「淫祠」第三章「樹」、第五〜十一章「寺」「水」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽」。「樹」「寺」などには、現代風に言えばランドマークと呼んでよいものが含まれる。さらに「水」「路地」「崖」「坂」とくれば、まさに「ブラタモリ」(NHK)の世界。著者はタモリ同様、都市の起伏に敏感で街の凹凸を愛した。タモリは現代の荷風なのか、荷風が大正版タモリなのか。

 

 「崖」の章をみてみよう。著者が崖に惹かれるのは、そこに植物と湧き水が織りなす小宇宙の美を見いだしたかららしい。ササやススキ、アザミ、ヤブカラシなどが生い茂る湧水源、さらさら流れる水音、斜めにかぶさる樹木の姿などが魅力だという。このくだりで僕は東京西郊、国分寺崖線のハケを思いだした。多摩川の河岸段丘がつくる崖の連なり。少年時代は崖線の探検に心躍らせたものだ。そこにとめどなく湧く水は斜面の恵みだった。

 

 興味深いのは、旧東京市内の崖は大正初期までに開発の波をかぶったということだ。この章では「東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃」の記憶が語られている。本郷台地を小石川方面から見あげると、ところどころに「樹や草の生茂った崖が現れていた」と思い返すのだ。崖は、急斜面であるがゆえに手つかずのまま緑の帯として残りやすい。それがすでに過去のものとなっていた。明治期の帝都開発のもの凄さがわかる。

 

 「坂」の章の起伏論も読ませる。まず、「坂は即ち平地に生じた波瀾である」と定義。そのうえで「平坦なる大通」は交通安全や物品運送には好都合だが、「無聊に苦しむ閑人の散歩には余りに単調に過る」と続ける。著者は、坂からの眺望をたたえるが、それで終わらない。墓地の木々が暗闇をつくる坂、屋敷街から犬の吠え声が聞こえてくる坂、坂と坂が向きあう地形などにも心を寄せる。さながら、街の陰翳礼讃とはいえないか。

 

 荷風は、タモリとは違って地学好きの理系好奇心にあふれてはいない。さらに言えば、笑福亭鶴瓶が「鶴瓶の家族に乾杯」(NHK)の街歩きで見せる人懐こさもない。ただ、独りで黙々と歩きながら、自分の美学を確認する。そんな散歩だってあるのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算457回、2019年2月1日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『銀座 千と一の物語』(藤田宜永著、文春文庫)

写真》GINZA100点

 父方の父方をたどれば、三代つづいた東京生まれ。正真正銘の江戸っ子でぃ、とふつうなら胸を張って言える。だが僕は、生まれも育ちも東京西郊の私鉄沿線。そんな啖呵を切るのはためらわれる。山手線の向こう側は、もはや自分の縄張りとは思えないのである。

 

 たとえば、行きつけの繁華街。僕らの世代の西郊族にとって、それは私鉄各線のターミナル駅がある渋谷、新宿、池袋だった。銀座はブランド力があってもピンと来ない。学生時代、日比谷の映画街に出かけたときも、足を延ばして銀ブラする気にはならなかった。

 

 勤め人となってからは、僕にも銀座との接点が生まれた。1980年代に東京勤務になると、会社の所在地が築地なので地下鉄の東銀座で降りて職場まで歩く日々が始まった。駅の階段をあがりきると、歌舞伎座の破風がにらみを利かせている。そこから南へ向かい、新橋演舞場の正面をかすめて、料亭の塀沿いを歩く。古地図と照らし合わせないとはっきりと言えないが、旧木挽町界隈の情緒ある一角を通り抜けていたように思う。

 

 ただ、それでも銀座に精通していたと言えないのは、中心街の銀座通り(中央通り)一帯に疎いからだろう。新聞記者という仕事柄、夜のとばりが下りたころ、街に繰りだして夕食をとり、職場にまた戻るということを繰り返してはいた。だから、そのあたりにもよく足を運んだものだ。にもかかわらず、店選びでは価格帯が目安となるので、名店、老舗の類いにはめったに入らない。そんなこともあって銀座は遠い存在でありつづけた。

 

 銀座らしさを象徴するものの一つは、高級クラブだ。松本清張の作品世界に欠かせない華やいだ酒場。止まり木形式のバーとは違う。嬌声が絶えないキャバレーでもない。ママを筆頭にホステスたちが接客にあたり、懐具合のよさそうな客が酒と会話を楽しむ店――と見てきたようなことを書いているが、僕は入ったことがない。これは、敷居が高いというほかにも理由がある。一介の記者が馴染むべき場所ではない、と意識して避けていたのだ。

 

 そうこうするうちに、銀座のほうが変わってしまった。2010年代、僕が会社を去るころには銀座通り周辺にも居酒屋の部類に入りそうな店がふえてきた。あえて言えば、高級居酒屋。外食産業が系列店を銀座の波長に合わせて微調整したといった感じか。僕らにとっては高根の花が手ごろになったと歓迎すべきところだが、それによって銀座が育んだ文化が損なわれてしまったような気もする。今週は、その本来の匂いをかいでみたくなった。

 

 で、手にとった1冊は、『銀座 千と一の物語』(藤田宜永著、文春文庫)。著者は1950年、福井県生まれ。略歴欄によると、大学を中退して在仏の航空会社に勤め、80年代に日本へ戻ると、まずエッセイ、次いで小説を執筆するようになったという。都会派の作家として知られる。妻は同業の小池真理子。軽井沢に暮らし、東京との間を行ったり来たりしているという記事を、週刊誌かなにかで読んだ記憶がある。カッコイイ同時代人だ。

 

 この本は、短編よりも掌編と呼ぶのがふさわしい一話完結の33編から成る。初出は、伝統あるタウン誌『銀座百点』。2011年4月号から13年12月号まで連載された。文藝春秋社が14年に単行本として出し、17年に文庫化した。楽しませてくれるのが、ところどころに差し挟まれた写真。本文にかかわる実在の風景、店舗、人物をとらえたものだ。各編は小説仕立てのフィクションだが、そこには実在性がふんだんにまぶされている。

 

 作中に固有名詞が出てきたとき、そこなら僕も知っているぞ、と思うことは意外に多かった。ここまで本稿で銀座は縁遠い街と縷々述べてきたが、界隈の空気はそれなりに吸っていたということだ。それでも、その店がどこにあるのか、その通りはどのあたりなのかは曖昧だった。すべてわかったのは、読み終わって巻末に「物語の舞台」と題するマップを見つけたとき。先に見ずに読んだからこそ、想像力を膨らませられたのかもしれない。

 

 主人公は多彩だ。男がいる。女がいる。シニアがいる。アラサーもいる。老若男女勢ぞろいだ。変わり種には猫もいる。石碑もいる! 「銀座発祥の地」の碑が内心で独り言をつぶやくこともあるのだ。彼ら彼女らが、銀座にまつわる小さな物語を一人称で語る、という趣向。ただ、全編を通しての主役と言えば、やはり高齢世代。一人称が若年層でも、そこに高齢層がいて陰の主役として存在感を漂わせたりする。まさに銀座の「老い」の物語だ。

 

 第一話の書きだしからしてシニア風味。「定年退職してからにぎやかな街中に出るのが億劫になった。銀座に来るのは何年ぶりのことだろうか」。僕も今春、地下鉄駅から地上に出て銀座は1年ぶりと気づき、退職の身を再実感したばかりだ。この作品の「私」は四丁目交差点で偶然、初恋の女性と40余年ぶりに再会する。本文に「移りゆく銀座をじっと見つめてきたのが、昔ふうに言えば服部時計店の時計」とある。服部時計店は今、和光本店。

 

 老いがもっと進んだ人が登場するのは第四話。「ゴールデンウイークの最中、私は父を連れて銀座に出た」の一文で始まる。父は80歳間近で「認知症を患い、現在は川崎にある施設に入っている」が、ロカビリー全盛期は「バックバンドのリーダーとして舞台に立っていた」。最近、「伝説のジャズ喫茶」として知られる銀座ACB(アシベ)の往時の映像を観て、どうしても行きたいと言いだした。「私」に付き添われ、店の跡地を訪れると――。

 

 第三十二話は、妻と死別した60歳男性の不審な行動に娘の「私」が気を揉む話。父は会社役員だが、このところ朝早く家を出る日があり、そんな日は野菜を手に帰宅することが多い。後をつけると、歌舞伎座近くで行商の女性から野菜を買っていた。この人は巻末の協力者欄に名前があるから、実在するらしい。年齢は、この時点で84歳。肩透かしを食う展開かと思いきや、常連客に50代と思しき「上品そうな顔をした、素敵な女」がいて……。

 

 この掌編群の魅力は、銀座の脇役にも焦点をあて、そこから街を眺めかえしていることだ。第七話では、花屋で働く人の目を通して高級クラブ街を描きだす。50代後半の女性。夫は数年前に飛行機事故で死んだ。彼が生前、親しんでいたらしい「銀座のクラブ」を間近で見つめるめぐり合わせになったのだ。通りに並ぶハイヤーの列、客を送る女たちの声、店の前に立つポーターの姿。「私は、映画のセットを見ているような思いがした」

 

 この第七話からは「銀座の恋の物語」が聞こえてくるようだ。花屋には週に1回の頻度で来店する石原裕次郎似の客がいる。60代半ば。「妻だろうが愛人だろうが、買って帰る花の向こうに女がいるに違いない」。その彼がある日、赤い薔薇を33本買い求め、「麻美、お誕生日、おめでとう」とカードに書いて、近くの飲食店へ配達を頼む。「私の躰から力が抜けた」「たった三十三本しかないのに、花束が重かった」。さて、麻美とは誰なのか。

 

 銀座が大人の恋にふさわしいのは、その街に歴史があるからだ。第二十一話では、リタイア世代の「私」が銀座一丁目の奥野ビルに引き込まれる。「くすんだ焦げ茶色の外壁」「大きな丸い窓」。そして、エレベーターには、針式の階数表示板と蛇腹式の扉。「私」はそれに乗って階上のギャラリーをのぞく。そこは「奥の円窓から淡い光がかすかに差し込んでいる」空間で、パリ市街の廃墟ビルを占拠して創作する芸術家らの作品が展示されていた。

 

 その「私」も若いころ、パリに暮らした。そこで画家の卵の邦人男性と知りあい、恋人を奪われた苦い記憶もある。ギャラリー経営者に男の名を告げると、「私の父を知ってるんですか?」。彼女は、男と元恋人の間にできた娘だったのだ。母は父と離婚して、いま東京に来ているという……。奥野ビルは1932年建造の元高級アパート。「私」の先行世代にとっては生活の場でもあった。建物に絡みつく個人史が見えてくるような一編だ。

 

 第二十八話は、書店の児童書売り場が舞台。バツイチの母親33歳が遭遇するのは同年代の娘をもつ父親。1冊の絵本がきっかけで娘同士の親自慢が始まる。このあと子連れ男女は喫茶店で育児談議。男も妻と死別してシングルだが、そこにあるのはナンパではない。

 

 出会いと別れを重ねた人々が心を通わせる。そんなつきあいが銀座にはよく似合う。

(執筆撮影・尾関章、通算428回、2018年7月23日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『二子玉川物語――バー・リバーサイド2』(吉村喜彦著、ハルキ文庫)

写真》シードル――世田谷産ではないが

 二子玉川がニコタマと呼ばれだしたのはいつごろか。東京では1970〜80年代、住宅地からひとつづきの街々が集客力を高めて賑わうようになった。その一つが二子玉川(ふたこたまがわ)だ。「ふたこ」が「ニコ」になったのは、この進化とほぼ同期している。

 

 先週、当欄で話題にした映画「ペンタゴン・ペーパーズ――最高機密文書」も、実はニコタマで観た。ショッピングモールの近くにシネコン(複合映画館)ができたからだ。映画街なら日比谷、新宿、渋谷……という常識は、もはやセピア色にかすんでしまった。

 

 二子玉川は、世田谷区南部の多摩川沿いにある。ブラタモリ風に地形からひも解けば、河岸段丘の傾斜である国分寺崖線の真下にあたる。そこは昔、東京急行電鉄の路面電車玉川線の終点であり、遊園地のある場所だった。東急運営の「二子玉川園」だ。1950年代後半には園内をジェットコースターが昇り降りするようになり、僕もこわごわ乗った記憶がある。言ってみれば、東京が川によって行き止まる地点にある異次元の空間だった。

 

 1969年、百貨店の高島屋がショッピングセンター「玉川高島屋S・C」を出店。玉川線はその後、地下の新玉川線となり、さらに神奈川県の新興住宅地を貫く田園都市線に組み込まれた。最近は東急グループ主導の再開発が進み、その一角にIT大手の本社もある。

 

 何が、人をニコタマに惹きつけるのか。その魔力はたぶん、多摩川にある。それは崖の坂道を下ったあたりを、ゆったりと流れている。都心の川のようにコンクリート三面張りではない。岸辺に自然が残っている。南の太陽を浴びた川面からは湿気が漂ってくる。米国南部を流れるミシシッピ川のよう。今にもブルーズが聞こえてきそうだ。僕は若いころ心のなかで、その一帯を「世田谷のディープサウス(深南部)」と呼んでいた。

 

 この見立ては、必ずしも的外れではなかった。米国では深南部の急成長が著しい。節目は、ジョージア州アトランタにニューステレビ局CNNが本拠を置いた1980年ごろだろうか。合衆国の中枢は東海岸や西海岸だけではない、と主張するかのように南部の存在感が高まったのである。もちろん、ニコタマはそれとは次元が違う。だがいま確実に、新しい消費文化の発信基地となった。銀座とも新宿とも六本木とも異なる郊外型の拠点だ。

 

 で、今週の1冊はズバリ、『二子玉川物語――バー・リバーサイド2』(吉村喜彦著、ハルキ文庫)。文庫版書き下ろしで、ニコタマのショットバーを舞台にした短編小説5編が収められている。副題からもわかるように同じ文庫には同著者の『バー・リバーサイド』があり、そのシリーズ第2弾ということのようだ。本来なら先行の作品から読むべきところだが、たまたま書店で出会ったのが本書だった。偶然を大事にしよう。2017年刊。

 

 意外なことに、著者はもともとの東京人ではない。大阪に生まれ、京都の大学で学び、サントリー宣伝部に勤めた後、小説家となり、かたわら酒や酒場をとりあげたノンフィクションを執筆している。サントリー(旧寿屋)の宣伝部といえば、作家の開高健らダンディズムを感じさせる文化人を輩出した職場だ。著者からも、その気風が感じとれる。そういう人が出身地を遠く離れ、東京・世田谷の深南部に自分の美学を託したのである。

 

 冒頭の1編「海からの風(シー・ウインド)」には、ニコタマの夏の描写がある。ちょうど、梅雨明けのころの早朝だ。「低く垂れこめた雲が川の向こうから次々と押し寄せ、葦原が大きく波うっていた」「風景が透明な紫に染まったかと思うと、稲妻が空を切り裂き、雨が叩きつけるように降り出し、あっという間に対岸が見えなくなった」。1時間ほどの驟雨、そして黒雲は去り、「抜けるような青空がやってきた」。(読みのルビは省略、以下も)

 

 バー・リバーサイドはビルの階上にあり、横長の大窓から川が見える。この1編には、窓を少しだけ開けたとき、「ふわっと生温かい夏の風が吹き込んで」「ふっと潮の香りがした」との記述がある。僕がミシシッピを感じたのも、そんな海とのつながりからだ。

 

 店のスタッフは、マスターの川原草太とアシスタントの新垣琉平。川原は、もともとこの界隈で育ったらしいが、関西に移り、京都の大学の工学部で助手(現・助教)として研究生活を送っていた人。一方、琉平は名前からも察せられるように沖縄出身で、祖母は霊媒師だという。この短編集では、二人と常連客たちの会話がちょっといい話5編に結晶していく。そしてそれらを彩るのが、次から次に繰り出される酒や食べものだ。

 

 最初の酒はモヒート。木製の重たい扉のきしむ音とともに現れた客が、椅子に腰かけながら言う。「キンキンに冷えたモヒートもらえます? ミント多めの、甘さ控えめで」。ここから、マスターの所作が詳述される。ライムとブラウンシュガーをつぶしてなじませ、スペアミントの葉を入れて、またつぶす。「クラッシュド・アイスをザザッと入れ、バカルディ・ホワイトを注ぎ、最後に炭酸水でグラスを満たして、軽くステア」で出来あがり。

 

 ここで、バカルディ・ホワイトはラム酒の銘柄。ラム酒は、西インド諸島が発祥地とされるサトウキビが原料の蒸留酒だ。夏の夕暮れ、大河を眺めながら口に運ぶにはぴったりではないか。僕は最近、夏季限定のモヒート党員なので、このとり合わせにはビビッときた。

 

 各編の主人公となる客は――。大阪生まれだが江戸前の店を継いだ寿司屋の主人。北海道出身の美容師。二人はともに脱サラ組だ。会社勤めの現役組もいる。沖縄出身の洋酒メーカー宣伝部員、鉄道会社で運転士の訓練を受けている地元っ子……ほかに脇役には、台湾から日本に来ているらしい整体師などがいる。店は世田谷深南部にあっても、そこには東西南北、さまざまな土地の人々が集う。ここでは、その一人に焦点を当てよう。

 

 「星あかりのりんご」という一編の主人公、藤沢あかね。秋風が吹くころ、扉を開けて入ってきたときのいでたちは、髪は短め、「赤のギンガムチェックのネルシャツに穿き古したジーンズ姿」。30代だが、20代と言っても通じるほど若々しい。「喜多見の浄水場の近くで父のはじめた果樹園の後継ぎとして、毎日、土にまみれて畑仕事をこなしている」。喜多見は世田谷区の南西端。都市農家の娘を常連の一人にしたところに作者の創意がある。

 

 この短編では、藤沢家のファミリーヒストリーが素描される。あかねの母方は地元の元名主で、昔ながらの農家だった。父は農業大学を出て母と結ばれ、その跡取りとなる。そこで手がけたのがリンゴやナシの栽培。「『もぎとり体験』でそれなりの客を集め、そこそこ商売を成功させた」。深南部の連想で僕は一瞬、米国サウスカロライナ州で見たプランテーションを思いだした(当欄2015年9月25日付「フォークナーに南部の匂いを嗅ぐ」)。

 

 あかねは農業を嫌って大学でフランス語を学び、パリへ留学。日本の出版社や広告会社の仕事を手伝って収入を得ていたが、取材で訪れたバスク地方で衝撃を受ける。心を震わせたのは、素朴な若者たちが奏でるチャラパルタの調べ。木の板を木の棒で叩くだけだが、「単なるパーカッションではなく、微妙に音階があって、ちゃんとメロディーになっている」。リンゴ酒(シードル)をつくる作業のなかから生まれた打楽器だという。

 

 「澄みきった青空、香り高いリンゴ林、心地よい小川のせせらぎ、やわらかく胸に染みこむチャラパルタの音」。それらは「皮肉や冷笑、口先だけの会話とはまるで無縁だった」。その反動で、あかねはパリの生活にも、同居人のパリジャンにも、幻滅する。土と水の匂いをリンゴ林から届く風に感じたとき、「あかねの胸に、多摩川沿いの果樹園の姿がふっと浮かんできた」。そして父の死。帰国後、彼女は農業女子となることを決断する。

 

 父の没後を振り返る言葉に「しばらくすると、不動産屋が果樹園の土地を売ってマンションを建てないかって、毎日のように言ってきてさぁ」とある。あかねは、それに抗して果樹園を守り、地場のリンゴでシードルをつくろうとする。深南部大地の蘇生物語だ。

 

 むしむしとする初夏、ニコタマの風に吹かれたい。さあ、バスに乗って出かけるか。

(執筆撮影・尾関章、通算421回、2018年5月18日)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『中央線をゆく、大人の町歩き――鉄道、地形、歴史、食』(鈴木伸子著、河出文庫)

写真》沿線色

 昔の電車は、たいていあずき色だった。業界ではぶどう色と呼ぶらしい。首都圏では国電(現JRの通勤路線)がそう。私鉄でも小田急などは同様だった。それが、いつのまにか色とりどりになった。最近は、アルミ合金のメタル感を露わにしたものがふえている。

 

 カラー化で言えば、東京・中央線快速のオレンジ色が忘れがたい。幼いころ、その電車が登場したときは、心底カッコいいと思ったものだ。市ケ谷・飯田橋間の外堀沿いを走る姿や御茶ノ水の神田川崖上にさしかかる様子は、一幅の絵と言える。今回、ネット情報でその運行が始まったのが1950年代のことらしいと知って、ちょっと驚いた。60年安保が済んで、日本経済が高度成長まっしぐらのころに現れたとばかり思っていたからだ。

 

 僕たちの世代にとって、このオレンジ色には特別な意味合いがある。1970年前後、中央線は若者文化の基軸となった。山手線の内側では御茶ノ水駅周辺が大学の密集地域で、学園紛争で騒然としていた。山手線の外側でも高円寺から吉祥寺に至る一帯は大学生の下宿やアパートが多く、フォークソングの空気が漂っていた。そして山手線との交点新宿は、ジャズが流れる対抗文化の拠点だった。オレンジ色がそれらをつないだのである。

 

 僕自身は、私鉄線から山手線に乗り換えるという通学経路をとっていたので、中央線とは交点の新宿でのみ接していた。だから、御茶ノ水駅界隈の動向には疎く、高円寺や吉祥寺の雰囲気もほとんど知らない。それでも、オレンジ色の若者力はビンビンと響いていた。

 

 もっと過去にさかのぼれば、僕にとって中央線の原風景は、あずき色の電車が走っていたころの荻窪にある。小学校にあがる前、母に連れられて、家族づきあいをしている人の家をよく訪れた。もはや朦朧とした記憶しかないのだが、そこに並んでいたのは古色蒼然とした家々だ。量感豊かな生け垣、どっしり構えた門柱、玄関まで続く石段……。子ども心にお屋敷町とはこういうものかと感じたものだ。空襲を免れた昔ながらの邸宅街だった。

 

 東京の高級住宅街と言えば田園調布や成城学園前が真っ先に思い浮かぶが、それらとは異なる趣の町が中央線沿線にはある。派手さでは負けるが、落ち着いた佇まいがある。背景には、路線の東端が首都の心臓部で丸の内や霞が関に近かったこともあるだろう。東京にホワイトカラーと呼ばれる勤労者層が根づいたとき、その人々に生活の場を供給したのが西方に広がる台地だった。骨太の路線が東西を貫き、職住を結んだのである。

 

 こう振り返ってみると、中央線のオレンジ色は、あずき色の沿線色を塗りかえる効果があった。だが、1970年代半ばに対抗文化の嵐が過ぎ去った後、沿線は再び旧来の落ち着きを取り戻した感もある。今の中央線は、どんな顔を見せているのだろうか。

 

 で、今週は『中央線をゆく、大人の町歩き――鉄道、地形、歴史、食』(鈴木伸子著、河出文庫)。著者は、『東京人』誌の副編集長などを務めた町歩きの達人。著書には東京の散歩本も多い。1970年代に子どもであり、80年代には大学生だったとわかる記述が本文にあるので、オレンジ色の若者文化が燃えさかるころを同世代として実感してはいない。この本は2017年に刊行されたので、沿線の現在を知るには格好の1冊だろう。

 

 著者は、本文を新宿から始める。「中央線にとって新宿駅は、始発駅である東京駅よりも、住みたい街ナンバー1である吉祥寺駅よりも、もっとも中央線的」と位置づける。理由は明快だ。1960年代半ばまで「日本に若者文化というものはなかった」。ところが60年代後半、若者たちはジャズやフォーク、前衛劇、反戦運動などに尽き動かされて街へ出る。そこが新宿だったというのだ。オレンジ色を「中央線的」と見る視点である。

 

 ただ著者は、新宿の「中央線的」があずき色時代に由来することも見落とさない。たとえば明治期開店の食の老舗、中村屋。創業者が「インド独立の志士ボースをかくまった縁でカリーライスがメニューとなり、ロシアの詩人エロシェンコを支援したことでボルシチやピロシキも看板商品となった」。昭和期には紀伊國屋書店。モダニズムの建築家前川國男は戦後2度にわたって店舗ビルの設計を引き受けたという。そこは抵抗と進取の街だった。

 

 僕も若いころ、中村屋の2階にあるティールームでよくコーヒーを飲んだ。欧風の内装には暗褐色の堅木材がふんだんに使われていて、落ち着いた雰囲気だった。あのころ、一学生としてのプチ贅沢は紀伊國屋で選りすぐりの本を数冊買い、続いて斜め向かいの中村屋に飛び込んでその本を開く、というものだった。そこに女友達がふらりと現れてくれれば、読みはじめたばかりの本の蘊蓄をえらそうに語る、というおまけもついた。

 

 そんな僕を、友人の一人は「紀伊國屋周辺派」と名づけたことも思いだされる。新宿の若者文化は、反戦歌で沸いた西口の地下だけではない。あるいは、チョイ悪オヤジがたむろするゴールデン街だけでもない。東口の新宿通りにも穏健な流れがあったのである。

 

 この本は、新宿からいったん西進する。高円寺の章で思わず苦笑いしたのは、1970年代、隣の阿佐ケ谷駅で乗り降りする子どもだった友人が著者に語った証言。「高円寺駅からはベルボトムジーンズに長髪の人が電車に乗ってくるのが日常風景だった」という。その伝統は、今もかたちを変えて生きている。南口のルック商店街は90年代半ばから「古着屋が増え、ガーリー系、サブカル系の女子に人気の街になる」のである。

 

 荻窪の章では、著者もあずき色時代を掘り起こす。名が挙がるのは、錚々たる文化人たちだ。『荻窪風土記』の著書がある井伏鱒二だけではない(文理悠々2011年4月28日付「井伏鱒二が見た『震災』下の優しさ」参照)。歌人与謝野鉄幹、晶子夫妻、音楽評論家大田黒元雄、出版人角川源義、児童文学者石井桃子らが、このあたりの住人だった。元首相近衛文麿の別邸荻外荘もあった。その敷地や旧居は今、公園や文化施設になっている。

 

 ここで目を引くのは、井伏の仕事に『ドリトル先生』シリーズの邦訳があることに触れたくだり。「この翻訳を井伏に勧めたのが同じ荻窪に住む石井桃子だったとか」とある。近隣文化人の交流が異色作品を生むという化学反応があずき色時代の中央線にはあった。

 

 吉祥寺まで進んで、著者は目を都心に転じる。そこで話題となるものの一つが学園紛争。1968年6月の「神田カルチエラタン闘争」では「御茶ノ水駅から駿河台下にかけて学生たちがバリケードを築き機動隊と衝突」とか、「火炎瓶や投石に対し、機動隊は催涙ガスで応戦」といった光景が繰り広げられた。著者は「今もこの街には若者が多く、学生街としての活気がある」と書くが、その「活気」が変質したことだけは間違いないだろう。

 

 最後は再び、東京西部。僕らの世代が三多摩と呼んだ一帯だ。だだっ広い台地に乾いた土埃が舞う感じ。勤め人家庭が住む団地が林立して、選挙になると革新が圧倒的な強さを誇ったものだ。著者は、そんな僕たちの懐旧を素通りしてその前後の今昔をあぶり出す。

 

 興味深いのは、そこには革新の平和志向になじまない記憶もあることだ。立川はかつて「軍都」で、「駅の北側には大正時代後期に陸軍航空隊が設立され、立川飛行場となって、その周辺には軍需工場が立ち並んだ」。武蔵野台地は軍用滑走路の適地だったのである。戦前は三鷹駅周辺にも中島飛行機が進出、「軍需工場や関連施設が増えたために工場で働く人や関連会社の住民が増え、農村地帯だった街が発展してきた歴史がある」という。

 

 三多摩には台地があるだけではない。多摩川の河岸段丘としてできた国分寺崖線が走り、湧水に恵まれている。小金井のあたりで崖下の「はけの道」につながる武蔵野公園。そこで秋に催される「はらっぱ祭り」は生演奏ありバザーありで、「元ヒッピーや現役のそれらしい人」も姿を見せるという。「このお祭りに行けば、七〇年代そのものの中央線カルチャーの雰囲気を今も感じられるのだろうか」と、著者はオレンジ色の過去に思いを馳せる。

 

 あずき、オレンジ、メタリック。中央線快速の鉄路は幾重もの年代のうえにある。

(執筆撮影・尾関章、通算412回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。

■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』

(津川康雄監修、実業之日本社じっぴコンパクト新書)

写真》都の木

 鬱陶しいと言えば、これほど鬱陶しいものはない。頭上に高速道路。東京には、そういうところがいっぱいある。たとえば、六本木通り。界隈はおしゃれな雰囲気を漂わせているのに表通りに出ると興ざめだ。あるいは、甲州街道。郊外ではケヤキ並木が美しいアーチを描いているが、都心に近づくと高速の高架が合流して上から威圧する。そんな不快な風景の極みが、都心の日本橋だろう。江戸の原点もやはり高速の蓋をかぶせられている。

 

 最近、これをなんとかしようという動きが出てきた。今夏、国土交通省と東京都が日本橋上方を通る首都高速道路の地下化を検討する方針を明らかにしたのだ。地元には「日本橋に青空を!」をうたう運動体もあって、署名活動が進んでいた。こうした声が政治を動かしたと言ってもよい。朗報だ。だが、これは数千億円規模の事業になりそうだともいわれている(朝日新聞2017年9月7日朝刊)。改めて、無駄なものを造ったんだなあと思う。

 

 首都高1号線の日本橋を覆う区間が開通したのは1963年。背景に、翌年の東京五輪に間に合わせようという切迫感があったことは間違いない。復興を遂げた首都が世界から国際都市として認められるには、クルマ時代に応える道路網が欠かせない。だが、市街地に用地を確保するのは難しい。そこで目をつけられたのが、公共の領域。既存の道路や水路である。それらを残したまま高架を載せる、というのは当座しのぎの巧妙な選択肢だった。

 

 思えばあのころ、「高架」は未来のイメージそのものだった。NHKが子ども向けに放映していた「宇宙家族」(原題邦訳は「宇宙家族ジェットソン」)という米製アニメを思いだす。うろ覚えだが、そこに描かれるのは空中の居住空間だ。建物がキノコのように聳え、それらを結ぶ通路が宙に浮かんでいる。これらを縫うように、マイカーならぬマイプレーンが飛び交うといった感じ。未来都市は立体的、という思い込みが強かったのだろう。

 

 僕たちの世代は、幼いころの子どもじみた都市像に生涯つきまとわれているのかもしれない。六本木を歩いていても、甲州街道を通っていても、日本橋に佇んでいても、こんなはずじゃなかったのに、と思ってしまう。考えてみれば、立体都市がカッコいいのは、遠方や上空から眺めたときだ。地面に立って辺りを見回したときに受ける印象は、それとは異なる。ここには、鳥の目をうっとりさせる街に虫の目で暮らすという皮肉な現実がある。

 

 1964年五輪に象徴される高度成長が東京をどう変えたのか。その検証は、僕たちの世代が引き受けなくてはなるまい。都市のデザインを誤れば元に戻すのに長い歳月と膨大な費用がかかる、ということを自身の半生と重ねあわせて実感しているからである。

 

 で、今週の1冊は『江戸から東京へ 大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?』(津川康雄監修、実業之日本社じっぴコンパクト新書)。東京論の本というよりも、街歩きのためのガイドブックといった趣。奥付に表記されたのが監修者名のみであることからも、それはわかる。草稿は無署名のライターが「参考図書」(巻末に列挙)などの資料も漁りながら執筆し、そこに監修者の視点を反映させたのだろう。2011年刊。

 

 監修者は1953年東京生まれの人文地理学者。略歴欄には「景観研究の一環として、人間の空間認識を支えるランドマークに注目し、各種ランドマークの要件整理とフィールド・ワークを行なう」とある。この本も序章で、ランドマーク論から説き起こしている。

 

 ランドマークと聞いて、僕たちがまず思い浮かべるのは搭状の建造物だ。列車が目的地に近づいたとき、車窓に真っ先に現れて、さあ着きましたよ、と告げてくれるような役目を果たす。序章で名が挙がるのは、東京タワー、エッフェル塔(パリ)、ビッグベン(ロンドン)など。塔状でないものでは、天安門(北京)、凱旋門(パリ)、クレムリン宮殿(モスクワ)、ブランデンブルク門(ベルリン)なども言及される。共通点は目立つということか。

 

 だがこの本は、ランドマークの源流を欧州古代の「マイルストーン」に見いだす。里程標のことだ。ローマ帝国は紀元前120年ごろ、幹線街道に「1ローママイル(1000歩)ごと」の「距離標識」を置いたとある。旅人にどこまでやってきたかを教える目印がランドマークだった。本来は、塔でなくとも目印であればよいのだ。それが、近代技術によって建造物の3次元化が進み、「標識」の背丈も伸びていったとみるべきだろう。

 

 ローマ流の道づくりは日本にもみられる。江戸幕府は開幕翌年の1604年、「日本橋を起点として東海道や中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など主要な街道の1里ごとに、『一里塚』を立てることを命じた」。塚には約9m四方に土を盛り、「木陰をつくる樹木」も植えたという。平べったいランドマークだ。そのゼロ里の地点が日本橋だった。この木橋は「すべての道の目的地」として、全国版のランドマークになったと言ってよい。

 

 言葉を換えれば、日本橋は終着駅だったともいえる。現に界隈は、今のターミナル駅のように商業拠点ともなった。橋の近くでは1673年、伊勢出身の商人三井家が呉服店「越後屋」を開店、「店頭で現金決済による販売を始めた」。注文まずありきでなく、店で商品を選べる今流の商法だ。この店が後年、三越百貨店となる。一つの木橋のランドマーク性が明治を待たずに、日本自前の資本主義を芽吹かせたともいえるのである。

 

 こうしてみると、ランドマークに高架の蓋をかぶせたのは歴史の文脈の度外視にほかならない。1960年代は、景観と歴史の関係に無頓着だったらしい。この本にも、首都高建設は東京五輪を前に「都市景観を考慮せず短期間で無理やり進めた事業だった」とある。

 

 あのころの突貫ぶりで驚かされるのは、国立代々木競技場だ。設計者は丹下健三。体育館2棟の貝殻のような吊り屋根が美しい。この本によると、建設地が米軍宿舎のワシントンハイツ(当欄の前身、文理悠々2013年12月9日付「『嵐』の源流、金網の中のアメリカ」参照)だったので用地返還から始まった。「建設工事にこぎつけたのは、オリンピック開催まであと20カ月とせまっていた1963(昭和38)年2月のこと」という。

 

 高度成長を支える先輩世代が見せた五輪のバカヂカラは悪いことばかりではない。首都高高架の威圧感では負の側面が露わになったが、他方で新しい都市美も出現させた。東京はそんなバカヂカラの改造を繰り返して持続してきたのかもしれないと思えてくる。

 

 そのことを痛感させるのが、丸の内にある三菱1号館だ。三菱財閥は1890(明治23)年、一帯の陸軍用地を買収して近代風のビジネス街の建設に着手する。「ロンドンのビジネス街を模したレンガづくりの建築が並ぶさまは、『一丁倫敦(いっちょうロンドン)』と呼ばれた」。4年後に姿を現したのが1号館だ。設計したのは、お雇い外国人だった英国の建築家ジョサイア・コンドル。明治期日本の洋風建築に名を残した人である。

 

 ところが、この元祖オフィスビルが1968(昭和43)年に解体される。驚かされるのは、この68年が明治百年記念式典のあった年だということだ。僕の印象では、明治維新から1世紀の節目を祝おうという思いは保守陣営のほうが強かった。だが、そうした維新礼讃派の間にも日本近代化の記念碑的建造物を残そうという声は高まらず、跡地には今風のオフィスビルが建った。高度成長の効率志向が保守思想に勝ったともいえる。

 

 さらに驚くことがある。この建物がちゃっかりと「2010(平成22)年に三菱1号館美術館として復元された」のだ。僕も入ってみたが、居心地の良い空間ではあった。この本に載っている外観画像を美術館公式サイトにある初代1号館の写真と見比べると、ほぼそっくり。では、42年間の不在はいったい何だったのか。そこには、明治の文明開化→昭和の高度成長→平成の3次産業シフトという時流に忠実なスクラップアンドビルドがある。

 

 東京人はこれからも今まで通り、そのときそのときの改造を重ねていくのか。ここらで理想の都市像を見定め、それに向かって力を集中すべきなのか。考えどころだと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算398回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/コラムを含みます。

■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから