『事件』(大岡昇平著、新潮文庫)
写真》判決の後、大写しの文字
 
 ニュースを見ていて、本筋から外れたところで感情が動かされることがある。たとえば去年春、関電高浜原発3、4号機の再稼働に差し止めの決定が出たとき、そして暮れにそれが取り消されたとき。僕の目を釘づけにしたのは、背後に見えた裁判所の建物だ。
 
 福井市中心部の角地に聳える福井地方裁判所。正面の一角が塔をなし、そこからくの字形に両翼が延びる。僕は1977年、支局の新人記者として、ここで初めて裁判取材を経験した。今回、そのたたずまいをテレビで見て当時の記憶が甦った。私事だが、祖父の死を知った日のこと。実家から訃報を受けた支局が裁判所に電話を入れ、所員が傍聴席にいる僕を見つけて肩をつついてくれた。法廷は聖域なので、ポケットベルを切っていたのである。

 裁判所は不思議な空間だ。傍聴は不特定の人々に人数を限って許されるが、メディアは中継できない。公開なのに公開感が乏しい。重大判決が出た後、弁護団関係者が所外に躍り出て「勝訴」「不当判決」と大書した紙を掲げるのも、そんな状況を物語る。
 
 2009年、裁判員制度が始まった。だがそれでも、裁判には外から見通せない部分が多く残されている。法廷の背後に何があるのだろうか――。今週の一冊は、裁判の深部に光をあてた長編小説『事件』(大岡昇平著、新潮文庫)。もともとは1961年〜62年に朝日新聞夕刊に連載された作品だ。題名は『若草物語』だった。77年に新潮社から単行本が出るにあたって改題され、80年に文庫本となった。
 
 あとがきによれば、著者は連載を続けるうちに、世の人々が裁判について正しく知らされていないことに気づき、「その実状を伝えたい」という思いが芽生えた。主題を変更して「毎日殆んど手探り」で書き進めたため、本にするときに中身を整理したという。
 
 作中で裁かれるのは、神奈川県高座郡金田町に住む坂井ハツ子(23)が町内の丘陵で刺され、死んだという事件だ。妹ヨシ子(19)の恋人で自動車修理工の上田宏(19)が殺人、死体遺棄の罪で起訴される。ハツ子は、妹が妊娠して宏と家出同棲しようとしているのを知っていた。そのことを親たちに言いつけられ、阻まれるのを恐れたというのが、起訴状に記された動機だった。ヨシ子は被害者も被告人も身内という状況に置かれたのである。
 
 ハツ子は新宿の歓楽街で働いた後、地元に戻り、飲み屋を開いた。ヨシ子は洋品店に勤め、宏という小学校の同級生と交際している。対照的な姉妹だ。1978年にNHKでテレビドラマ化されたとき、姉をいしだあゆみ、妹を大竹しのぶが演じた。
 
 本題に入る前にちょっと寄り道すると、この小説は地形の描写がいい。事件直後と思われる夕方、宏が自転車を押して歩いていた現場近くの山裾。「サラシ沢と呼ばれ、段をなして丘へ食い込んでいる田圃(たんぼ)に沿って、その道はそれから東へ五キロ、ゴルフ場を建設中の丘の起伏を越えて、小田急江ノ島線に出る近道だった」。著者の名作『武蔵野夫人』を連想させる段丘が出てくる。関東ローム層の赤土が匂ってくるようだ。
 
 そんな東京近郊は1960年代初め、どんなだったか。「金田」は相模川流域の架空の町で、住人は5000人ほどだが「電話を持つ家は百軒もない」。ところがこのころ、「工場がやたらにふえて来た」。鋳物、陶器、トランジスタ、計器、ガラス……「付近一帯の農家で飼われる豚をお目当てに、罐詰(かんづめ)工場を建てる計画もあった」。農村が軽工業地帯に変わる過渡期と言える。数キロ先には厚木や座間の米軍基地も控えていた。
 
 こうした地域社会の戦後事情は若者の心に影を落とした。宏の父は農地1.8haの大半を罐詰工場の用地として売り払った。宏は学校の成績が良く、職場でも真面目だったが、「急に金が入った親」に対しては「反抗的態度」を見せていたようだ。一方、ハツ子は17歳のころ、米軍基地で売店の売り子をしていたときに辛い経験をした。「夜おそく、洋服を泥まみれにして、髪を乱して帰って来た」のである。
 
 この作品の裁判小説としての妙は、こうした宏やハツ子の現実とは別次元で裁判官たちが彼ら自身の日常を送る様子に光をあてたことだ。「三人の黒い法服を着た異様な人物」は閉廷すると「法廷全員の起立のうちに」「一段高い裁判官席の背後のドアから消える」。その向こう側でとる昼食は、裁判長の判事が蕎麦なら陪席の判事補も蕎麦。「同じものを、注文しなければならない、と諦(あきら)めている」。部下が上司に気づかう職場風景だ。
 
 あるいは「宅調」制度。この地裁の裁判官は週3日、「自宅で裁判記録を調べたり、判決を書いたりする」のが習わしだった。裁きの場の空気が私的空間に及んで、家族団欒の話題となることもあろう。この小説では判事補が初公判の日、朝食の席につくと妻が裁判の話をもちだす。検察側が、宏のナイフ購入を「殺人の予備」と位置づけているのが納得できないというのだ。「その日ハツ子に会ったのは偶然だったんでしょう」
 
 いまは、どの分野でも家庭での仕事談義が控えられる傾向にある。夫婦が職業人として利害関係に置かれることがままあるからか。ただ家庭が、裁判官にとって市民感情に触れる場であることには変わりないだろう。

 この小説は、単行本が出た翌春に日本推理作家協会賞を受けている。ミステリーとしての質の高さが認められたのである。だから、筋はあまり追わないほうがよいだろう。一つ言えるのは、弁護人菊地大三郎の尋問の巧みさと立論の鮮やかさが際立つということだ。起訴状や冒頭陳述の弱点をあぶり出し、その真実味を薄れさせていく。この老練な弁護士をNHKドラマでは若山富三郎が好演した。
 
 もう一人、捨てがたい持ち味の人物が裁判長の谷本一夫だ。判事補二人を相手に「公正なる判断」や「判決の“こつ”」について語る場面がある。「一瞬の事実」にこだわることを戒め、「現場はあくまでも事案全体の流れにおける現場として捉(とら)えなければならない」と言う。そこで口にする言葉が「事案の“すわり”」だ。判決は“すわり”のよいものでなくてはならないというのである。平衡感覚を重んじていることがわかる。
 
 検察の筋書きを菊地がどう切り崩し、平衡点の落としどころを谷本がどう見いだしていくか。この小説の法廷劇としての醍醐味は、そこにある。
 
 ただ、そんな裁判のありようにも変化の兆しがあった。その象徴が、刑事裁判の「集中審理方式」だ。この小説が新聞に連載されていたころ、すでに「最高裁が裁判のスピードアップのため奨励する」という流れにあった。裁判官、検察官、弁護人が事前に審理の進め方を話し合って公判の間隔を縮める方式。裁判員裁判は、一般市民の出廷の負担を小さくする必要もあって、この手順で進められている。
 
 菊地も谷本も、そんな効率主義に消極的だ。菊地は繁忙を理由に事前準備に応じなかった。谷本も内心、「日程を促進することは、被告側に不利だ」とみている。これを補うように、著者自身も地の文で集中審理方式の短所を解説する。弁護士は捜査権がなく「自ら証拠を収集する力」をもたない。「専ら検察側の提出した証拠を攻撃し、その証明力を失わせるほかに手はないので、そのためには次の公判までの間に時間がいる」というのだ。
 
 これは私見だが、裁判員制度は市井の人に量刑判断まで強いる点に難がある、と僕は考えている。個々の裁判員にとっては自らの信条に背く結論が合議の末に出されることも予想されるからだ。もちろん利点を挙げれば、裁判官の平衡感覚と世間の日常感覚のズレを埋めてくれそうだということがある。ただ、そのために審理を急いで真相を見逃したら元も子もない。司法改革は、もっとよい制度を探す途上にあるというべきだろう。
 
 読み終えると、たとえ法廷が聖域でも裁判は人間の営みにほかならないことがわかる。この小説は、著者が裁判そのものの情と理を見抜いた「大岡裁き」と言えよう。
(執筆撮影・尾関章、通算301回)
 
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