『パディントン発4時50分』
(アガサ・クリスティー著、松下祥子訳、早川書房クリスティー文庫)
写真》鉄道並走の相対論
 
 東京がつまらなくなったと思うことの一つに、始発駅の一極化傾向がある。関西へ出張するにも東北を旅するにも東京駅から、という人が最近はふえた。新幹線の運営元はJRの東海と東日本に分かれているのに、旅立ちの風景は似たり寄ったりだ。
 
 考えてみれば、東京駅はヘンな駅である。首都の表玄関なのに起点終点の雰囲気に乏しい。理由の一つは、駅のつくりではないか。遠距離路線と近郊路線の並行感が強いので、山手線や京浜東北線の途中駅に過ぎないという印象が全体を支配しているように思う。
 
 それに比べると、上野駅には終着駅のたたずまいが残っている。地上1階13〜17番線ホームは櫛のかたちをしていて、その切り込み部分に列車が入ってくる。そこは、車止めが立ちはだかっていて文字通りの行き止まり。構内を行き交う人々は列車の顔と正面から向きあうことになる。石川啄木が「ふるさとの訛」を懐かしんだのも、「あゝ上野駅」という歌謡曲が生まれたのも、この舞台があったからだろう。
 
 欧州には、いかにも終着駅という感じの鉄道駅が多い。英国ロンドンでは、おもに地下鉄の環状線(サークルライン)沿いに散在している。ヴィクトリア、リヴァプールストリート、キングスクロス、ユーストン、パディントン……と並べても、まだ尽きない。
 
 終着駅が多ければ、都市の文化は豊かになる。それぞれの線路の先にある地方固有の空気が運ばれてくるからだ。「ふるさとの訛り」も、その一つだったと言える。僕はロンドン駐在の記者時代、ケンブリッジの取材ならキングスクロス、オックスフォードならパディントンというように、行く先に応じて異なる駅を使っていた。列車に乗り込もうと駅に駆け込んだだけで、もう目的地に着いたような気分になったものだ。
 
 で、今週の一冊は『パディントン発4時50分』(アガサ・クリスティー著、松下祥子訳、早川書房クリスティー文庫)。パディントンは、イングランド西部やウェールズ方面へ向かう列車の始発駅になっている。だから、英国人ならば題名を見ただけで、なだらかな起伏の田園地帯が目に浮かぶだろう。そんな長閑さのなかで、おなじみの高齢女性ミス・ジェーン・マープルが素人探偵の才覚を働かせるのが、このミステリー長編だ。
 
 原著の刊行は1957年。小説は第2次大戦後の話で、鉄道事情も執筆当時のものらしい。英国でも、蒸気機関車がディーゼル機関車や気動車、電車に代わりつつあったころだ。「汽車」と訳された言葉は、遠距離列車というほどの意味にとっておくべきだろう。
 
 冒頭部は、ミセス・エルスペス・マギリカディがパディントン駅のプラットホームを、息せき切って歩く場面だ。手にはあふれるほどの買い物包み。赤帽が足早にスーツケースを運ぶのを必死で追いかけている。彼女はスコットランドの住人らしいが、クリスマス前にロンドンに来て、まる一日、ショッピングを楽しんだ。そして今、友人のジェーン・マープルがいるセント・メアリ・ミード村へ向かおうとするところだった。
 
 構内では「人波が同時にいくつもの方向へ流れていた。地下鉄、手荷物預かり所、喫茶店、案内所、出発時刻表示板、〈到着〉と〈出発〉出入口――行く人、来る人、みんなが外の世界へ向かっていた」。乗降客どちらもがすぐに立ち去る空間の特徴を巧く伝えている。
 
 エルスペスが乗ろうとする列車は4時50分発。ブラックハンプトン、ミルチェスターなどに停まる。調べてみると、これらの駅は実在しないようだ。彼女は一等車の切符をもっていたが、赤帽は三等車へ案内する。ちゃんと頼んでいたはずなのに、身なりを見て決めてかかっていたらしい。差しだされたチップにがっかりした表情。「一等というより三等乗客が出す金額だと考えているのは明らかだった」。英国階層社会ならでは心理劇だ。
 
 笛が鳴り響き、列車は出発。エルスペスは3分で眠りに落ち、35分後に目覚める。「窓の外を飛び過ぎていく田舎(いなか)の景色を眺めた。もう暗くて、たいしてなにも見えない」「汽車が町や駅をさっと走り過ぎるたび、光のかたまりが現われては消え、生彩を添えてくれた」。4時50分発は、もちろん16時50分発。ひと寝入りしたら、あたりはすでに宵闇に包まれていた。
 
 どこかの駅を通り過ぎ、逆方向の上り列車とすれ違ってまもなくのことだ。こんどは同方向の下り列車が近づき、「後になり先になり」して並んで走る。このとき、彼女は奇妙な体験をする。「錯覚で二台の汽車が止まっているかのように感じられたそのとき、ある車輌のブラインドがぱちんとはじけ上がった」。数フィート先には、並走列車の一等車。目に飛び込んできたのは、男が窓を背にして女を絞め殺している残酷な光景だった。
 
 その列車は追い越していった。エルスペスは目撃情報を車掌に伝え、停車駅でもホームの赤帽に駅長室宛てのメモを託した。だが、反応はない。ミス・マープルに再会して「たった今、人殺しを見たの!」(「人殺し」に傍点)と告げると、彼女だけは本気で受けとめてくれて――。このあと主舞台は鉄道沿線の豪邸に移り、当主一族の物語になる。その人物描写がとても魅力的なのだが、今回はあえて鉄道だけに焦点を当てよう。
 
 なによりもまず敬意を表すべきは、著者が目撃場面で「二台の汽車が止まっているかのように感じられた」と書いていることだ。これは、特殊相対性理論の核心を突いている。A列車とB列車が同じ方向へ同じ速さでまっすぐ進んでいるならば互いに静止していると理解して、なんの問題もない。それどころか、両列車の乗客たちがいる世界が静止系であって、周りの田園地帯のほうが動いていると考えても不都合がないのである。
 
 特殊相対論は、アルバート・アインシュタインが1905年に発表した。以後半世紀の間に、あるいはもしかしたらアインシュタインの論文よりも早く、このトリックを組み込んだ先行作品があるのかもしれない。これは、ミステリー通に教えていただきたいところだ。ただ、エルスペスという素朴で茶目っ気のある人物が寝起きざまに特殊相対論の時空へ迷い込んでしまうところに、ミス・マープルものならではの味わいがある。
 
 僕が好奇心を覚えるのは、どうしてこんな状況になったのかということだ。エルスペスが乗った列車と殺人現場となった列車はどちらも下りで、互いに「後になり先になり」した。今の日本なら、似たようなことがよく起こる。東京で言えば、山手線と京浜東北線の並走区間、私鉄にもふえてきた複々線区間、相互乗り入れ駅付近などで体験することだ。だが1950年代英国の田園地帯に、それほど稠密な鉄道網や列車ダイヤがあったとは思えない。
 
 遠距離路線の鉄道にも追い越し用の線路がところどころに設けられているのか、それとも複線の片方が逆行専用でなく、同方向の列車を通すこともあるのか。どちらにしても線路の使い方が複雑になるので、信号を巧みに操作しなくてはならない。この作品には架空の駅が出てくるのだから、路線そのものも虚構の産物ではある。とはいえ当時の英国で、どんな列車の運行方式がとられていたかは、ぜひとも知りたいところだ。
 
 もっとも、その一端はミス・マープルの探偵活動からも見えてくる。数日後、彼女がエルスペスとともに同じ列車に乗って実地検証してみると「近づいてきて並んだ汽車はなかった」。日によってダイヤが違うのだ。しかも、彼女が英国鉄道に勤める親類に問い合わせると、当該箇所で追い越したと疑われる列車の候補が2本あるという。そもそも、ダイヤというものがあるのか。これでは、高速道路で追い抜かれた車を探しているようなものだ。
 
 ここまで読んで、僕は去年暮れ、当欄に書いた清張の鉄路、緩すぎるダイヤの妙(2016年12月25日付)を思いだした。ほんの半世紀前、列車は洋の東西を問わず、大らかに走っていた。アガサも清張も、今ならミステリーに旅情を添えるのが難しいだろう。
(執筆撮影・尾関章、通算302回)
 
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