『死へのイデオロギー――日本赤軍派』
(パトリシア・スタインホフ著、木村由美子訳、岩波現代文庫)
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 1年でもっともいやなのは何月か。真っ先に2月を挙げる人は少なくないだろう。年中行事を探しても、節分のようなマイナーなものしか思いつかない。バレンタインデーも縁のない人にはどうでもよいことだ。一方で、入学試験のように鬱陶しいものが集中する。
 
 僕たちの世代には、その暗い季節感とぴったり重なる一連の出来事が脳裏に焼きついている。1972年2月、過激派集団の連合赤軍(連赤)が引き起こしたあさま山荘事件と、それに先立つ山岳ベース事件だ。後者は、組織内の「総括」や「処刑」によってメンバーの男女計12人が生命を奪われたという惨事。前年暮れから進行していたが、発覚したのは3月に入ってからだった。
 
 あさま山荘事件では、連赤メンバーが銃をもって長野県軽井沢の楽器会社保養所に10日間立てこもったというものだ。テレビの生中継が延々と続き、リアルな生死のかかった攻防が映しだされた。特別報道番組として空前の高視聴率を獲得したのだが、なぜか僕にはそれほど鮮烈な印象がない。アルバイト先などで画面をちらちらとのぞいていただけだった。どうせ結末は決まっている、という醒めた思いがあったからだろう。
 
 むしろ強烈な衝撃を受けたのは、群馬県の山中で起こった山岳ベース事件のほうだ。なぜか思いだされるのは、宵の口の電車内。小声の会話が聞こえた。なにか、おぞましいニュースがあったらしい。しゃべらずにはいられないが、大声で口にするのは憚られることのようだ。心がざわついた。駅売りの夕刊をのぞき見たのか、帰宅してテレビに飛びついたのか、いずれにしても驚愕の粛清があったことを知って、2月に逆戻りした気分になった。
 
 人間の解放をめざしているはずの集団が、それとは逆の袋小路に迷い込んだ。これは、同世代の若者にとってまったく想定外のことだった。僕自身は「政治で世界は変わらない」という信念から運動にも党派にもかかわらなかったが、それでも彼らが親世代の引きずる戦前戦中の価値観を克服しようとしていることには共感もあった。ところが、報道が伝える遺体発見現場の光景は、そこに戦後思想に反する人間疎外があった事実を物語っていた。
 
 僕ら同世代人には、「総括」の名のもとで為された愚行を真の意味で総括する、という務めがあるのではないか。今の日本社会に右寄り路線に伍する対抗勢力がないことの遠因は、この事件にもあるような気がするからだ。世の中にあった左向きのシンパシーは、あのころから急速に弱まった。で、今週の一冊は『死へのイデオロギー――日本赤軍派』(パトリシア・スタインホフ著、木村由美子訳、岩波現代文庫)。
 
 著者は、1941年生まれの米国の社会学者。この本は、91年に河出書房新社から出た単行本が2003年に文庫化されたものだが、もともとの書名は『日本赤軍派――その社会学的物語』だった。1969年に旗揚げした「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」の系譜を海外の日本赤軍(旧アラブ赤軍)、国内の連合赤軍まで、取材をもとに跡づけている。外国人学究としての視線が、事象の異様さ凄惨さを濾過して今日に通じる教訓を引きだした。
 
 まずは時代背景。1960年代の日本では、大学キャンパスの学内闘争や反安保、ベトナム反戦などの政治闘争が津々浦々に広まっていた。とりわけ69年は「抗議闘争がきわめて戦闘的にエスカレートした年」だ。警察が押収した木材、石材、鉄パイプ、瓶の類は前年に比べて飛躍的に増えたという。ただ、ここから見えてくるのは、ヘルメット姿の一群がゲバ棒を手にして、石や火焔瓶を投げる街頭闘争である。
 
 著者は、ここに一つの矛盾をみる。「戦時中の軍国主義は、戦後生まれの学生たちには完全に否定されていた」のに、学生運動は「非暴力抵抗運動」を超えて「死に至らない程度の武装行動」の水準に高まっていた。そこにとどまらなかったのが赤軍派だ。ブントの「世界同時革命論」を進めて「世界各地で革命の火ぶたは切られている」ととらえ、自らを「各地の革命軍と連帯して闘う前衛部隊」と位置づけた。
 
 この動きには、皮肉な追い風が吹いた。69年は、1月に東大安田講堂攻防戦があったこともあり、多くの学生が逮捕された。数カ月たって身柄拘束を解かれると、闘争を取り巻く状況は一変している。「彼らを迎えたのは、より厳しくなった警察の弾圧と、すっかり縮小してしまった闘争だった」「闘争を継続したいと思うブントの人びとは赤軍派に移る以外に道はなかった」。こうして「軍」として権力と向きあう流れが強まったのである。
 
 そのころ、銃・爆弾レベルの闘争路線をとる集団には「日本共産党革命左派(革左)」もあった。「毛沢東主義」の色合いが濃く、「反米・愛国」を掲げる一派だ。これら二つの「闘争理論も歴史もまったく異なった」集団が接近して一つになる。連合赤軍の誕生である。
 
 思想の違いを措いて、なぜ合併したのか。この本はその事情もあぶりだす。赤軍派は「一連の銀行襲撃でかなりの資金を手に入れていたが、めざすところの革命的行動のための武器には事欠いていた」。一方、革左は「銃砲店襲撃に成功して銃や弾薬の蓄えがあったが、地下メンバーの生活資金は底をついていた」。双方とも、第1世代の指導者が逮捕勾留されるなどして不在だったため、後を引き継いだ第2世代が手を結んだのだった。
 
 この本によれば、連赤を内向きに狂わせたのは「革命戦士の共産主義化」という言葉だ。革命の「内面的な準備」として日常の所作に目を向けた。一人の女性が会議中に髪の手入れをしていたなどと非難されたのがきっかけ。指導者は「全体による相互批判」を通じて「考え方や行動を修正していく」という自己批判法を思いつく。「総括」である。やがて暴力がもち込まれ、仲間たちは「殴ることが自らの向上にもつながる」と制裁を強いられた。
 
 僕がもっとも辛く感じるのは、メンバーの一人が「総括」犠牲者の顔を殴る場面だ。それは「自身の弱さを克服しようとする欲求からでたもの」だったが、指導者は遺体への「冒とく」行為と断じて、こんどは殴った側に「総括」を求めたという。この本の第三部「連合赤軍――粛清をめぐる閉ざされた集団の考察」には「死に至る自己批判」「メビウスの環」といった章題が並ぶ。まさに「出口なし」の状況がつくりだされたのである。
 
 指導者が「予想もつかないような判断」を見せつけるたびにメンバーは「事実を解釈する力に自信を失っていった」と、著者は分析する。それを後押しした要因に、「自分自身の個人的な感じ方」よりも「外部による確認」を重んじる「日本社会の傾向」をみてとる。
 
 著者ならではの発見は、「総括」という行為に「意識高揚法」を見いだしたことだ。これは、米国で広まった心理療法の一つで、「より強い自己の形成」の邪魔となる「むだな防衛心」を除くため、「集団による批判、追及」の場を設ける。米国の実践現場では、指導者のコントロールやメンバーの異議申し立てというブレーキがあるが、連赤は「行きすぎの傾向に歯止めをかける手段を二つとももっていなかった」という。
 
 これに関連して、著者が日米の「合意方式」を比べたくだりにも注目したい。米国ではなにかが多数決で決まったあとも、「反対」や「批判」の意思表明をすることに抵抗がないという。「もし反対なら喜んで従う必要はなく、不承不承参加してもよい」。これに対して日本では、「いったん組織が賛成の方向に向かったことに関して個人的な反対意見は差し控えるのが普通である」。山岳ベースには、そんな日本社会の縮図があったとも言える。
 
 しかも、この傾向は、連赤の時代より今のほうが強まってはいまいか。多数を占めれば、どんな法律でも決められる。法令遵守ばかりが叫ばれ、悪法であれ「悪い」とは言いにくい。自分の信条と集団の方針は違って当たり前ということが忘れられているようだ。
 
 もし今、世間を覆う閉塞感を除こうというなら、あの山岳ベースを支配したのと同じ力学を一掃するところから始めなくてはならない。それが、同世代人の役割のように僕は思う。
(執筆撮影・尾関章、通算303回)
 
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