『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(大島堅一著、岩波新書)
写真》あの日から5年(朝日新聞2016年3月11日朝刊)
 
 5年が過ぎた。60年余を振り返って、あの日は生涯でもっとも重い日となった。子どものころ、毎夏8・15が巡りくるたびに大人たちが特別な感傷にとらわれていたように、僕たちは3・11を素通りすることはできない。
 
 昼下がり、社内で会議をしていたときだった。座ってはいられないほど机と椅子が揺れ、自分の席に戻ると書棚の本が飛び散っていた。しばらくしてテレビは、仙台周辺の空撮映像をリアルタイムで流す。大地に化け物の指先が伸びていく。指先に見える黒ずんだものが津波の先端であり、そこが家々の散在する農業地帯だと知った瞬間、背筋が凍った。それだけでも決して忘れられない日となっただろう。
 
 たたみかけるように襲ってきたのは、「福島第一原発で全電源喪失」の一報だ。すでに日が暮れかかっていたと思う。僕は科学記者だが原子力取材の経験があまりなかったので、すぐにはその深刻さに気づかなかった。予備電源があり、いざとなれば緊急炉心冷却装置が働くだろうくらいに思ったのだ。だが、原発に詳しい同僚は「大変だ、チェルノブイリ級のことが起こる」とつぶやいた。事故はその後、本当にそういう流れになった。
 
 冒頭で「もっとも重い日」と書いたことに、被災者でもないのにわかったようなことを言うなという指弾があるかもしれない。その通りだ。重さの度合いは大きく違う。ただ、受難を免れたからこそ感じる心の痛みはある。原発事故について言えば、自らは都会にいて電力を浪費するばかりで放射能の危険を原発立地県に押しつけてきたという負い目がある。そして科学記者として、そのリスクを強く警告できなかったことへの悔いが僕にはある。
 
 以来5年、科学記者としてどんな反省をしてきたのか。折に触れて述べてきたことが一つある。僕がおもに取材してきた知的探究としての科学、たとえば素粒子論や宇宙論などの報道も、原子力の暴走と無関係ではなかったということだ。物質世界の安定、すなわち原子核を束ねるしくみに対する関心が世の中にもうちょっと根づいていれば、原子力が怖いという認識が強まっていただろうと思うのだ。
 
 老記者が過去の全活動を総括せざるを得ないような内省を迫られる。3・11は、そういう大事件だった。だから、かつて原子力推進の国策を掲げていた首相経験者が今、反原発を訴えていることもそれなりに納得できる。ところが5年後の今、日本政府はエネルギーミックスの名のもとに「原発国」への道へ舞い戻ろうとしている。これはまるで、8・15後に芽生えた戦後民主主義が冷戦下で逆コースをたどったのと同じではないか。
 
 で、今週は『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(大島堅一著、岩波新書)。著者は1967年、原発立地先進地の福井県に生まれた経済学者。環境経済学や環境・エネルギー政策論が専門という。この本が出たのは2011年暮れ。福島第一原発事故を受けての素早い出版だが、なかに盛り込まれたデータは充実している。それまで積み重ねた研究の蓄積を一気に吐きだしたという感じの力作。2012年度に大佛次郎論壇賞を贈られた。
 
 第1章「恐るべき原子力災害」は、原子力事故の特質を描きだす。核燃料が核分裂でできた放射性物質を大量に含むことに触れて「放射性物質は、放射線を出しながら別の元素に変わっていく。これを崩壊といい、その過程で熱を発する」「崩壊熱をなくすことは人為的にはできない。原子炉が止まっても核燃料に含まれている放射性物質から崩壊熱が生じるので、核燃料を冷やし続けなければならない」。今に続く汚染水問題の根もここにある。
 
 ただ、著者は経済学者なので、最大の読みどころは第2章「被害補償をどのようにすすめるべきか」、第3章「原発は安くない」だろう。ここでは、この二つの章に焦点を絞って5年後のいま心にとめるべきことがらを紡ぎだしてみよう。
 
 第2章には見落とせない指摘がある。俎上にあがるのは、1961年制定の「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)だ。第1条に「被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発達に資することを目的とする」とある。賠償は損害をあがなう行為なので、そのこと自体は事業に負の効果をもたらすはずだ。それをもって「発達に資する」とはどういうことか。感じとれるのは、原子力開発を国策として進める側の強引さである。
 
 実際に原賠法は事業者に無過失責任を課しながら、「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」(第3条)と言い添えるのを忘れない。今回も「異常に巨大な天災地変」にあたるとの主張があったようだが、それは認められなかった。著者の解説で「東京電力の免責が認められてしまうと」「被害者に対して賠償責任を負う主体がいなくなってしまう」という事情があったことうかがわれる。
 
 とはいえ、この法のもとで原子力事業者には幾重もの安全網が張られている。まず「責任保険」だ。それが適用されなくとも、政府と結ぶ「補償契約」がある。さらにその限度額を超えたときに備えて「国の援助」の道も開かれている。今回の事故では、「援助」の規模が膨大になるので新しい法律がつくられ、「原子力損害賠償支援機構」が設けられた。機構が政府から国債を受け取り、それを換金して支援するしくみである。
 
 著者が警戒するのは、損害賠償の求めが今後ますますふえて、業界側に賠償額の上限を求める動きが強まることだ。それは国民にしわ寄せがくるので「原子力発電は市場経済のもとでは事業として成立しないことを電力会社自らが認めていることと同じ」と著者は言う。そのうえで、賠償費用を支払う企業の範囲を事業者にとどめず、プラントメーカーやゼネコン、融資元の金融機関などにも広げて負担を分かちあってはどうか、と提言している。
 
 第3章「原発は安くない」で、批判の的となるのは経済産業省が事故前のエネルギー白書で掲げていた発電コストのグラフだ。1kw時の電気をつくるのに原子力は「5〜6円」。太陽光よりも1桁安いだけでなく、火力の「7〜8円」をも下回る。著者は、この数字がモデルプラントを想定した机上計算であることに注意を喚起する。運転年数や設備利用率が実態を反映していないというのだ。そして、それよりももっと大きな難点がある。
 
 「発電という行為を社会的にみると、全体としてかかっているコストは電力会社にとってのコストだけではない」のに、ここで示されているのは「発電事業に直接要するコスト」であり、電力会社の「私的コスト」に過ぎないというのである。
 
 追加すべきものを著者はいくつか挙げる。一つは「技術開発コスト」。政府は既存原発のみならず、高速増殖炉や原発使用済み燃料再処理施設の開発などに巨費を投じてきた。二つめは「立地対策コスト」。中心にあるのは、電源三法によって原発立地自治体に出される交付金だ。「立地が進まない時期には予算が余り」「二〇〇三年度からは地場産業振興、コミュニティバス事業、外国人講師の採用による外国語授業まで支援の対象となった」
 
 そこで著者は、「直接」を有価証券報告書から読みとり、それに「技術開発」と「立地対策」を加えたものを独自にはじき出した。それによると、1970〜2010年度の平均で1kw時の原価は原子力が10.25円。さきのエネルギー白書の数字のほぼ倍にはねあがっている。ちなみに同様の見積もりで火力は9.91円。それだけでも原発は安いという売り文句に疑問符がつく。
 
 まだまだ、付け足すべきものはある。一つのくくりは「環境コスト」。事故に伴うもろもろ、現場の収束処理や廃炉、住人への賠償、周辺の除染などの費用が含まれるが、「金銭にあらわせない被害も多い」という。さらに10ページ余を費やして論じられているのが「バックエンドコスト」。原発使用済み燃料の処理や処分に必要な出費だ。それは、再処理による核燃料サイクル政策が続けば「莫大」になると著者は強調する。
 
 原発も自動車と同様、社会的費用を考えるべし。あの事故から5年の日にそう思う。
(執筆撮影・尾関章、通算307回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
《『現実=経済』という思考のベクトルは、さまざまな弊害を生んでいます》(虫さん)
この本の著者が「金銭にあらわせない被害」に言及していることからもわかる通り、今日の経済学者は「現実=狭義の経済」でないことに気づいているようです。
僕が締めの段落で「社会的費用」という言葉をあえてもちだしたのは、当欄「今こそ宇沢経済学ではないか」(2014年10月17日付)で紹介した宇沢弘文の思想が思いだされたから。彼は数理に通じていたからこそ、「現実=狭義の経済」の虚構を説得力をもって語ることができたのでしょう。
  • by 尾関章
  • 2016/03/13 10:39 AM
尾関さん

発電事業は社会的かつ公共性の高い事業ですから、原発に関する議論には発電コストや社会的費用の視点が欠かせない、つまり、経済的視点が欠かせないように見えます。しかし、科学技術は日進月歩です。原発の発電コストが原発以外の発電コストを圧倒的に下回ることを可能にする技術が登場するかもしれません。その場合、原発は存続し続けるでしょう。
私はチェルノブイリで経済的な議論はその意味を失ったと思っています。あの事故で、人間が人間には制御しきれない世界を扱っていたことが明白になったからです。原発についての議論はこの問題を核としてのみ行われるべきだと思います。極端に聞こえるかもしれません。しかし、極端にならなければ事態が変わらないこともあります。
『現実=経済』という思考のベクトルは、さまざまな弊害を生んでいます。原発しかり、実用性の有無を学問の価値にする考え方もしかりです。
  • by 虫
  • 2016/03/13 1:25 AM
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