『蹴りたい背中』(綿矢りさ著、河出文庫)
写真》背中に背表紙
 
 この夏の参院選は、18歳でも19歳でも投票できるようになった。去年、公職選挙法が改められたからだ。10代最後の2年間は、アルバイトも含め労働にかかわっている人が多い。格差社会のひずみをもろに受けている人もいる。性的な活動期に入る年齢も昔と比べれば格段に下がった。だったら参政権も大人扱いすべきではないか。そんな考え方が背景にあるようだ。これには僕も反対しない。
 
 ただ気になるのは、飲酒解禁年齢が20歳のまま据え置かれる方向にあることだ。喫煙は害があることがはっきりしているので、その機会を減らす政策がとられるべきで、解禁を早める必要はない。だが酒は、適量なら悪いことばかりではないだろう。硬い話では大人扱いしながら、軟い話になると子ども扱いというのはちぐはぐではないか。飲酒を許すくらいの大らかさはあってよいと僕は思う。
 
 ともあれ10代後半から20代前半にかけては、大人なのか子どもなのか不分明な時期にあると言えよう。僕自身の過去からそんな位相を切りだせば、しばしば、ひとりで散歩に出た記憶が思い浮かぶ。近所をぶらつくだけではない。用がないのに電車にも乗った。夜、川にほど近い駅で降り、堤防に登って暗い水面を見つめていたこともある。こんな大人はいない。こんな子どももいない。どちらでもないから、そんなことをしたのだ。
 
 最近、そのデジャビュに襲われた。日が暮れてから家を出て、夜風の匂いを嗅いだ一瞬のことだ。ひとり川へ出かけた夜もこんなだったなあ、という思いが頭をかすめた。違うのは、あのころは「用がないのに」だったのに今は用事がある、ということだ。
 
 あのころと今とでは、僕自身の立ち位置が大きく異なっている。今は、後ろを振り向くと数十年のカイシャ生活がどんと居座っているが、前方の未来は量感に乏しく、ただただ現在を愛おしむ気持ちが募るばかりだ。ところがあのころは、自分がこれから何者になるかが皆目わからず、行く手には大きな雲が立ちはだかっていた。不確定な未来という重圧の前で、ひとりさまようよりほかなかったのである。
 
 で、今週は『蹴りたい背中』(綿矢りさ著、河出文庫)。2003年、雑誌に発表され、単行本も出た。著者は当時19歳、この作品で芥川賞の最年少受賞者となった。自分を「余り者」と感じている高1女子の日常を描いた小説。明示的な筋書きとしては、恋もセックスもいじめもない。あえて言えば、自覚的、自律的な孤立の物語。だからこそ、かえって鋭くとがった感触がある。
 
 書きだしの一文は「さびしさは鳴る」。生物の授業で級友は顕微鏡を覗いているのに、主人公のハツ、長谷川初実は白けた気分で教材プリントを千切っている。このあとに「紙を裂(さ)く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる」とあるのをとらえて、斎藤美奈子の巻末解説は「彼女の五感、とりわけ聴覚と視覚が異様に研ぎ澄まされている」と言う。その五感が身の回りの細部を一つひとつ紡ぎだしていく。
 
 文体も新鮮だ。「葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス」「ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス」。日本語っていうのはこんな表現も生みだせるんだ、と思わせてくれる。
 
 著者は、大人でもなく子どもでもない世代の特徴を的確に切りとっている。「夏休みが近づくにつれ、暑い教室で、男子は半袖(はんそで)をまくり上げ靴に靴下まで脱いで裸足(はだし)で、女子は下敷きでスカートの中をあおぎながら、億劫(おっくう)そうに授業を受けるようになった」。夏場の校内風景をさりげなく描いているのだが、そこから性の自覚がまだ中途半端な男女の姿が見てとれる。
 
 5時間目に同学年の生徒が体育館に集められて、遠足写真のスライド上映を観る場面。「もう大人の身体つきをした男子高校生たちも、あの見慣れた小さい形になって縦に並んでいる。陰惨(いんさん)な、高校生になっても三角座りをさせられるなんて。三角座りの形、大小はさまざまで、でもどれも使いさしの消しゴムみたいに不格好」。あの座らされ方は、大人になりかけの世代が子ども扱いされていることを正直に物語っている。
 
 早めにことわっておくと、ハツの「余り者」としての自意識は、引きこもり型の性格からくるものではない。中学校では友だちの輪に入っていたが、高校生になってそれが「不毛」に思えてきたのだ。中学生の自分を振り返ったこんな述懐がある。「話に詰まって目を泳がせて、つまらない話題にしがみついて、そしてなんとか盛り上げようと、けたたましく笑い声をあげている時なんかは、授業の中休みの十分間が永遠にも思えた」
 
 ここで思いあたるのは、いまどきの居酒屋でよく見かける光景だ。若い世代の飲み会を見ていると静寂の隙間がない。一つの笑いが収まりそうになると、次の笑いを生みだすためにだれかがツッコミを入れてブーストする。昔のコンパでは場を白けさせるヤツが一人や二人いて、不穏な空気が歓談を中断させることがしばしばあったが、今の若者にはそれを先回りして抑え込もうという強迫観念があるように見える。よく疲れないものだと思う。
 
 この小説でも、ハツは中学校時代の仲間づきあいを「話のネタのために毎日を生きているみたいだった。とにかく“しーん”が怖くて、ボートに浸水してくる冷たい沈黙の水を、つまらない日常の報告で埋めるのに死に物狂いだった」と思い返している。
 
 この小説の筋は、ハツが自分のほかにも「余り者」を見いだすことから始まる。「にな川」という男子生徒。「『にな』の漢字は、私の知らない、虫偏の難しい漢字で、なんとなくかたつむりを連想させる字だ」という主人公目線に従って、この表記が全編で使われる。
 
 顕微鏡観察の授業で、にな川が何をしていたかといえば「先生に見つからないように膝(ひざ)の上で雑誌を読んで時間を潰(つぶ)していた」。正確には「暗い表情で、どこも見ていない虚(うつ)ろな目で、ひたすら同じページに目を落としている」という感じ。しかも、それはファッション系女性誌だ。表紙を飾るのは「片眉(かたまゆ)を上げてこちらを見据(みす)えている女モデル」の決めポーズだった。
 
 ハツは、開かれたページの写真をのぞき見て驚く。「駅前の無印良品で、この人に会ったことがある」。そう口走ると、すぐさま反応があった。佐々木オリビアという売れっ子モデル。にな川が「オリチャン」と呼んであがめる女性だったのだ。ハツは放課後、彼の家に連れていかれ、「あの店のどこで、つまり何階の何売り場のどこらへんで彼女に会ったのかを、地図に描いて教えてほしいんだ」とせがまれる。こうして二人の交流は始まった。
 
 にな川のオリチャンへの入れ込みぶりは不気味だ。勉強机の下にプラスチックケースを押し込んでいて、そこに彼女の載った雑誌や彼女関連のグッズを蓄えている。別の日に再訪したときは、「あ、オリチャンのラジオが始まる時間だ」と言って、ひとりイヤホンで番組にのめり込む。ハツはふいに「この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴(け)りたい」と思った。それは行動に移され、足裏に背骨の「感触」が残る。
 
 どうして蹴ったのか。巻末解説で斎藤は「一種の性的な衝動」との解釈を示している。そうとも読めるが、そればかりではないと僕は思う。人が人と関係を結ぶときは、それが性的なものであろうとなかろうと、なんらかの「感触」を伴うはずだ。ところが学校の仲間づきあいは「“しーん”が怖くて」の静寂恐怖だけで成り立っている。ハツは、その虚構を見抜いたからこそ自らが「余り者」となり、同じ「余り者」に触れたのではないか。
 
 居酒屋に集う若者たちよ、笑いを波状につなぐのはもうやめよう。ときには“しーん”の気まずさもあっていい。それもまた、人と人が接しあう「感触」にほかならないからだ。
(執筆撮影・尾関章、通算309回)
 
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コメント
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  • by -
  • 2016/03/28 12:07 PM
《B&Bへ確認したところ、OK!》(肝啓さん)
すごい取材攻勢ですね。日本酒のうまさを米国市民と分かちあいたい。そんな熱意を感じました。
ただ、海外でよく体験するのは、ルールの解釈が尋ねる人、調べる文献によって異なること。行動に移される前に入念なご調査を。
  • by 尾関章
  • 2016/03/28 11:51 AM
さきほど、こんな方法ができることがわかりました。ご参考まで:Gekkeikan-Haikuの在庫のあるNY州の酒屋からボストン(MA州)の飛行機到着当日一泊するB&Bにいちど配達してもらって(NY州→MA州はOK)、NY州→NH州では酒配達が禁じられているNH州へぼく自身がレンタカーで運ぶという方法をB&Bへ確認したところ、OK!だそうです。「建前と本音」は日本独特の社会習慣とおもいきや、いずこも同じ「お上と
世間」というところでしょうか?なんか密輸するようでワクワクしてきそうですね。おっと、こんなこと公共のブログに書いちゃぁマズカッタでしょうか。でも日本酒の普及のためだから、日本のお上も眼をつぶるでしょう。
《そのうえ、州ごとの酒規制があって》(肝啓さん)
結構、厳しいですね。禁酒法の名残なのでしょうか。でも「州ごとの」というところはいい。国の大小に違いはあるが、日本社会の一律度はちょっと息苦しい。
  • by 尾関章
  • 2016/03/28 9:55 AM
尾関さん、肝啓です。選挙権をもつ18歳の若者には酒も許すべきとのこと、大賛成です。また、居酒屋に集う若者たちに互いにヤラセを強いるあの妙な大騒ぎをいさめる尾関さんの姿勢にもまったく同感。じつをいうと、きょうはほぼ一日、4月2日からでかけるニューハンプシャー(以下NH)で社員90名で木造建築(Timber Frame)の設計と施工を一貫して請負う会社の社長に手土産に日本酒でも送ろうとおもってネット検索したところ、ナント!米国の酒規制は日本人も真っ青であることが分りました。まず、飲酒は21歳以上。そのうえ、州ごとの酒規制があって、カリフォルニア州からNHへの配達は不可。ニューヨーク州からNHもダメ。マサチューセッツ州からNHもダメ。ようやくみつけたのがコネティカット州の酒屋からだとOK。もし、大統領選で沸騰する米国で大統領候補とすれちがうことでもあったらホント背中でも蹴ってやろうかとおもってしまいましたね。米国で銃の乱射事件が多いことやゲーム札が名前のあの大統領候補の異様なハイテンションぶりをみてると、「酒が足りないじゃない?」かとおもいます。友人と静かに酒をくみかわしていれば、イライラした気持ちは鎮まるし、ものの考え方が異様にハイテンションになることもないし、こーゆう人の一生で大切なことをどうも米国市民は知らないんじゃあないんでしょうか?それともワインやウイスキーが精神に悪いんでしょうかね?だったら、なおさら日本酒を勧めてきます。Gekkeikan - Haiku $13.99なんてのをみつけました。Googleはスゴイ道具です。この話は次次回の句会のあとの飲み会で。
【お知らせ】
今回の拙稿とは関係ありませんが、今年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」に、肝啓さんからコメントが届きました。僕からの返信も載っています。ご関心がある方はこの回に舞い戻っていただければ。
http://ozekibook.jugem.jp/?eid=100
  • by 尾関章
  • 2016/03/25 10:35 AM
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