『寛容論』(ヴォルテール著、中川信訳、中公文庫)
写真》白アジサイは「寛容」
 
 こうしてネットに向けて毎週発信する試みも、今週で7年目に突入した。「本読み by chance」の看板を掲げてから数えると3年目になる。当初、紙なしの作業は紙に刷って配ることの代償行動くらいに思っていたが、続けていくうちにそれは偏見に過ぎないとわかってきた。自分の考えを他人に伝えるのが本来のゴールだとすれば、脳→パソコン→ネットの流れは、紙を扱うという無駄な工程を省いただけのことなのかもしれない。
 
 ネットの良さをもう一つ挙げれば、「開かれている」ということだ。ブログには双方向機能があるので、読み手は異論反論をコメント欄に表明できる。これは書き手にも緊張感をもたらして、一言ひとことの表現を慎重に選ばせる。僕が毎週毎週、体験していることだ。こう考えると、ネットはコミュニケーションの技を成熟させる装置となりうる。ところが、現実はそうなっていない。
 
 「炎上」という現象がある。だれかの発言がやり玉にあがると、それを核にして同調の言葉が凝集していく。最近はツイッターのような短行コメントの書き込みが優勢だから、ワンフレーズの指弾が燃えさかることになる。
 
 こうした状況が日々繰り返されるのは、ネット技術がはらむ宿命なのか。それとも、悪いのはネットではなくて、世間のほうが病んでいるのか。そんな問いが今、突きつけられている。僕自身は後者をとりたい。もし僕たちにもうちょっと「寛容」の思考様式が備わっていれば、仮にときに炎上はあるにしても、その一方で実りあるコミュニケーションが成立するように思われるのである。
 
 で、新年度最初の一冊は『寛容論』(ヴォルテール著、中川信訳、中公文庫)。著者(1694〜1778)は、18世紀フランスの哲学者、劇作家、詩人であり、啓蒙主義の思想家と言われている。この著作は1763年に世に出た。
 
 今回、手にとった本は、1970年に現代思潮社が刊行した同名の単行本を2011年に文庫化したものだ。それが最近、話題の書に躍りでた。背景にあるのは、ヘイトスピーチが散見される世相を憂うる人々の思いのようだ。作家高橋源一郎がテレビ番組でとりあげたことも寄与したらしい。売れている本からは距離を置くというのが当欄のポリシーだが、今回ばかりは手が伸びた。それほどまでに僕は寛容を渇望している
 
 この本は、1760年代フランスの「冤罪」事件にかかわった著者が発したメッセージである。トゥルーズの商人ジャン・カラス家で長男が変死した後、残された家族らに殺人の嫌疑がかかる。新教徒の一家が、長男がカトリックへ改宗しようとするのを阻んだという筋書きだ。ジャンは地元の裁判所で死刑判決を受け、処刑される。著者は、それを不当とみて一家の支援に乗りだし、国の終審裁判所で無罪を勝ち取り、名誉を回復させる。

 この一件にも現代への教訓がある。事件直後、カラス家の周りではこんな光景が見られたという。「群衆のなかの狂信的な誰かが、ジャン・カラスは自分の実の息子マルク=アントワーヌの首を締めたのだと叫んだ。この叫びが繰り返されているうちにあっという間にあらゆる人の口から聞かれるようになってしまった」。サイバー空間は、同様のことを容易にした。それが炎上なのだろう。
 
 この本の主題は、おもに宗教宗派間の寛容と不寛容だ。カラス事件が執筆のきっかけなのだから当然だろう。印象深いのは、著者が歴史を紐解いて人間本来の寛容を見いだそうとしていることだ。たとえば、キリスト教草創期に福音書の書き手たちは「お互いに黒白を決しなければならぬ問題」に直面したが、「初期教会の一部の教父」の機知で「さまざまの明白な不一致をめぐる論争がもとでなんのいざこざも生じてはいない」という。
 
 ローマ帝国で、キリスト教が4世紀に公認され国教となるまで迫害を受けたことについては「初期皇帝たちの時代には、宗教的理由だけで処刑されたものはだれひとりいなかった」と断言。「殉教者」と呼ばれる人にもローマの神々をまつる神殿を荒らすなどの「暴挙」があったとして「熱狂的信仰心が、おそらくいっさいの迫害の源泉」と結論づける。これには、訳者も巻末解説で「いかにも強引」と注釈をつけるように異論があろう。
 
 著者が古代ローマ人は寛容だったと言い張るのには、ほかの理由もある。皇帝のもとでは、インドの太陽神ミトラなどの教理も「許されていた」ので「キリスト教徒だけがとくに告発されたりするものであろうか」というのだ。別の章では宗教について「宗派はその数が多ければ多いほど、それぞれの宗派は恐ろしくなくなる」という一般論も披歴している。そこには、文化の多様性が世情の平衡を保つという社会観があるように僕には思える。
 
 古代まで遡り、キリスト教の枠を超えた寛容論を訴える。背景に感じとれるのは脱中世の気運だ。この本は、読み方を変えると18世紀の欧州で近代科学の台頭が知識人の思考にどんな影響を与えていたかをうかがい知る手がかりとなる。
 
 たとえば、地球をめぐるこんな記述。「一つの点にすぎない、この小天体はほかの多くの天体と同じく天空を運行しているのです。われわれはこの広大無辺な空間にあって目に見えぬ存在です。身の丈ほぼ五尺の人間は、たしかに創造物のなかではきわめて取るに足らぬものなのです」。ただ、地動説を受け入れただけではない。自らを「広大無辺」の空間の一点に位置づけて、ここは特別の場所ではないとする宇宙原理がここにはある。
 
 これに先立つ段落で、トルコ人や中国人(この本では「シナ人」と表記)などの具体名を出して「わたしはあなたに、すべての人をわれわれの兄弟と思わねばならないと言おう」とも書いている。これを読むと、著者はホモ・サピエンスのアフリカ単一起源説を知っていたのかと一瞬錯覚してしまう。このあとに「同じ神の被造物」と言い添えられているのだが、だとすれば視野を生物界全体に広げたダーウィン進化論の先取りのようにも思える。
 
 この創造主としての「神」は中世の神とは違う。著者が、終盤の章で寛容の必要を説く一節に目を転じよう。「自然」を一人称にしてこう書く。「私がお前たちをすべて虚弱で無知なものとして生んだのは、お前たちがこの地上でしばしの生を営み、その亡骸が大地を肥やさんとしてのことである。お前たちは力弱きものなのだから、お互いに助け合わねばならぬ。お前たちは無知なのだから、お互いの知識を持ち寄り、お互いに許し合わねばならぬ」
 
 ここでは創造主を「神」と呼ばず「自然」という言葉に置き換えている。著者は、宇宙は神によって創られ、法則に沿って振る舞うという理神論者の一人とされるが、その思想を突き詰めれば神イコール自然という発想が出てくるのだろう。
 
 訳者解説によると、著者は「科学愛好者である夫人とともに実験に打ち込んだ」ほどの理科好きだった。自国社会の偏狭さを嘆くくだりでは「ニュートンが証明した事実を受け入れるのに、フランスは六〇年を要した」と、八つ当たり気味に愚痴っている。1738年には『ニュートン哲学入門』も著した。ニュートンの『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』は1687年刊なので、未周知の物理学をいち早く紹介したことになる。
 
 この本には「自分にしてほしくないことは自分もしてはならない」という至言が収められている。これこそは寛容の極意だろう。そこにあるのは、自己と他者の相対視だ。その根っこには人間の存在そのものを相対化した近代科学の精神がある、と僕は思う。
 
 昨今の科学は、生態学(エコロジー)やネットワーク理論をみればわかるように物事の関係性に注目する。相対性理論では異なる座標の視点を尊重され、量子力学では観測者同士の主観にどう折り合いをつけるかが宿題となっている。自己と他者との共存をめぐる問いが科学そのものに内包される時代が到来したと言ってよいだろう。そこからもまた新しい寛容論を紡ぎだせる、と僕は信じたい。
(執筆撮影・尾関章、通算310回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
《自分と他者は違うかもしれないという保留があり、そして「対話と確認」を前提とした至言の実行があれば、そこにはじめて「寛容」な社会が生まれるのではないか》(虫さん)
なるほど、と納得しました。
科学的世界観に引き寄せて言えば、ヴォルテールの時代は自己と他者を同じ小さな存在として相対化しても、その差異にまでは目が向かなかったのかもしれません。
ところが現代では、相対論であれ量子論であれ、「視点」の違いが無視できなくなっている。僕たちは、僕たちの時代の「寛容論」を築かなければいけないようにも思います。
  • by 尾関章
  • 2016/04/03 5:17 PM
尾関さん

<<自分にしてほしくないことは自分もしてはならない>>(『寛容論(ヴォルテール著)』より)

この至言が至言になるためには、「対話と確認」という行為が必要になると思います。この言葉には自分の感性と他者の感性は同じという前提があり、他者を自分の延長と捉えているふしがあります。殺されたくないから殺さないという具合にほぼ普遍的に共有されるであろうこともありますが、自分にしてほしくないことを相手が実は欲しているという状況は幾らでもありえますよね。
この至言に「対話と確認」が伴なっていないために、多くの「炎上」があるように思えます。他者を自分の延長としてしまい、そこに自省がないために、自分の価値観に合わない行為をする他者に耐えられない。不寛容になる。
自分と他者は違うかもしれないという保留があり、そして「対話と確認」を前提とした至言の実行があれば、そこにはじめて「寛容」な社会が生まれるのではないかと思います。この至言、もろ刃の剣ですね。
  • by 虫
  • 2016/04/02 10:13 PM
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