『街道をゆく18 越前の諸道』(司馬遼太郎著、朝日文庫)
写真》三国の町の数ショット
 
 東京にふるさとはない、という常套句にいつも反発してきた。僕は生まれも育ちも東京のトーキョー先住人だが、電車の窓を飛んでいく景色にも、夕暮れどきの商店街のざわめきにも郷愁を覚える。とはいえ、「ふるさと」という言葉が大都会になじまないのも事実だ。それは景色やざわめきのどれをとっても、僕たちだけのもの、私たちだけのもの、と言い切れないからだ。東京はあまりにも多くの人々の共有物となっている。
 
 では、ふるさとと思える場所が僕にはないのか。これには「それは福井」と小声で答えよう。そのことを地元の人は認めてくれまい。1977年から4年間、新人記者として走り回っただけ――だが、東京育ちの青年の心には生涯忘れ得ぬ記憶が焼きついた。
 
 なかでも愛おしいのは、九頭竜川河口にある三国という港町だ。平成の大合併で坂井市となったが、当時は坂井郡内の一つの町だった。その思い出は、60歳定年を迎えるにあたって当欄の前身で触れたことがある(文理悠々「定年記者が記者ものを読む」2011年7月7日付)。記者半生への愛惜を、港湾担当の新聞記者を描いた『シッピング・ニュース』(E・アニー・プルー著、上岡伸雄訳、集英社文庫)という小説に重ねたのである。
 
 町最大の行事は5月の三国祭。初夏の日差しを浴びて、巨大な武者人形を載せた山車が狭い街路を練る。記事にするときは「北陸三大祭りの一つ」という形容句を書き添えたものだ。では、ほかの二つは何か。この問いにきちんと答えられる人はあまりいなかった。
 
 もしかしたら、これこそがふるさとの真髄かもしれない。全国ネットのクイズ番組で「北陸三大祭りは何?」という出題があっても、正しい答えはおそらく一通りに絞れまい。だが越前福井の感覚では、三つのうちの一つに三国祭を含めてさえいれば正解になる。これぞ、ふるさとと言えないか。それに触れたのが、僕の駆けだし記者時代だった。日本社会がコンビニやファミレスで均一化されている今、あの感覚は守っていきたいものだと思う。
 
 僕は先週、その町を久しぶりに訪ねた。北陸新幹線の誘惑に負けて、金沢、加賀温泉郷経由で三国へ足を延ばしたのである。で、今回は『街道をゆく18 越前の諸道』(司馬遼太郎著、朝日文庫)をとっかかりに僕自身の郷愁紀行を書く。「週刊朝日」人気連載のうち、1980年12月〜81年6月に載ったものだ。文庫版は87年に出て2008年に新装版となった。そのなかに「三国の千石船」と題した一編がある。
 
 1980年から81年初めは僕の福井支局在任期だ。そういえば、人気作家が自社企画の仕込みで来県するというので、支局長は気をもんでいた。ただ、「越前」シリーズの途上で五六豪雪と呼ばれる大雪が始まり、その取材に忙殺されて僕はこれを熟読していない。
 
 三国編は「三国港(みくにみなと)に近づくにつれて、野は、いよいよ低くなってゆく」という一文で始まる。九頭竜川流域の広大な沖積平野について、古代、畿内の人々からも「豊饒で、しかも海にむかって、遠く韓国(からくに)や韃靼(だったん)の地とも往来できるひらかれた独立圏」のイメージで見られていたに違いない、と断ずる。この「海にむかって」「ひらかれた」開放感は、僕が記者として受けた第一印象でもあった。
 
 江戸時代、この海が町に活気をもたらす。「日本海航路によって全国が精密な広域経済圏になった」ため、北前船の寄港地として栄えたのである。ここで著者は「港は水の部分」「湊は陸(おか)の部分」という解釈に立って「湊」という表記に切り換える。後背地に越前加賀の米どころがある。福井藩や丸岡藩には絹織物や漆器、紙、鎌など多種の商品もあった。「三国湊は、港市として日本有数の繁華を誇った」と言う。
 
 著者の探訪の主題は、北前船に用いられた「千石船」の5分の1模型を見にいくという一点にあったようだ。その話を関西の学者から聞きつけて以来の「念願」だった。「三国町の教育委員会へゆき文化遺産施設準備室の室長である林三郎先生をたずね、千石船の模型をみせてもらった」。林三郎という名を目にして、懐かしさが胸に込みあげてきた。「先生」は僕にとっても恩人だったのだ。三国について実に多くのことを教えてもらった。
 
 この本でも言及されているのだが、当時の状況を素描しておくと、三国町では町立の郷土資料館づくりが進行しており、その目玉が千石船の模型だった。館はまだできておらず、模型づくりのほうが先行した。著者は、その完成品をいち早く見ることができたのである。能登で発見された板図(設計図)をもとに再現したという話を林先生から聴いて「三国町の快挙というべきものにちがいない」と、この一編を結んでいる。
 
 僕自身が三国町に足繁く通ったのは、郡部担当の記者だった78年ごろで、船の模型はまだできあがっていなかった。そのころ林先生が没頭していたのは、展示収蔵史料の収集だ。三国は河口部から海に沿って細長く延びた町で、丘が迫っていて坂道が多い。そんな坂の一つを重い荷物を背負って登っていく初老の人を見かけたことがあった。それが林先生だった。荷物には資料がいっぱい詰め込まれていた。
 
 当時、僕が興味をそそられていたのは、船の模型よりも館の建物だった。構想では、明治初めに町内にできた小学校の洋風建築を丘の上に復元するという。龍翔小学校。設計者のオランダ人G.A.エッセルはお雇い外国人技師だったが、だまし絵の画家M.C.エッシャーの父親でもあった。ちょうどエッシャー世界の醍醐味が、僕のいた新聞社の大先輩坂根厳夫さんの連載で伝えられていたころだ。そのゆかりに惹かれて僕は飛びついた。
 
 この建物は、八角形の木造5階建て。それを模した鉄筋コンクリート造りが三国の町と日本海、そして九頭竜川流域を一望する場所に聳え立ち、1981年秋に開館した。僕が転勤で福井を去って半年後だ。「みくに龍翔館」の名で、いまやランドマークとなっている。
 
 『街道を…』三国編には、エッセルの名は出てこない。ただ、港湾が水深不足で蒸気船に向かないことから「オランダ人技師によって築港工事をほどこした」とはある。もちろん「明治三十(一八九七)年前後」には鉄道が次々と敷かれ、「江戸期的な湊(みなと)々の廻船問屋が総だおれ」となるのだが、三国湊はその開かれた精神を忘れることなく、明治のひとときに近代の未来図を夢見たのである。
 
 今回の旅で驚かされたのは、この町に湊町の息吹が蘇っているということだ。それは、僕が取材で通っていたころよりも強い。たとえば、旧森田銀行本店という大正時代から残る建築。廻船業を営む豪商森田家が海運の衰退を見越して1894(明治27)年に業種転換で興した銀行だ。地銀支店などのかたちで生き延びてきたが、細部の復元を経て1999年に一般公開された。これも間違いなく、北前船がもたらした繁栄の遺産である。
 
 ちなみに森田家は著名な俳人を生みだした。高浜虚子、伊藤柏翠につながる森田愛子だ。作家高見順が非嫡出子として生を受け、詩人三好達治が慕いつづけた女性を娶って短い結婚生活を送ったのも、この町だ。湊の潮風に文学と恋の匂いが混ざり合う。
 
 三国の町並みを特徴づけるのは、かぐら建ての商家だ。妻入りの造りだが、通りに向かって平入りの屋根が突きだしている。いま歯抜け状態の町家群を活かして往時の面影を浮かびあがらせる試みが盛んになった。今年3月には材木商の倉庫だったところにミニ資料館マチノクラが生まれた。草の根のグループ「三國會所」(大和久米登理事長)が中心となった三國湊町家PROJECTの一環だ。開館直後に訪れることができた偶然に僕は驚く。
 
 大和さんは老舗和菓子店の店主。龍翔館と同じ丘にある三国高校の野球部OBで、在校時の教頭が林先生だったという。僕も支局で高校野球を担当していたころ、グラウンドで林先生と一緒に野球部の練習を見たことがあった。三国では、湊町の空気を蘇らせる試みが先生から教え子に受け継がれている。町はこうして生きつづけるのだ。龍翔館までの坂道を、あの日の林先生と同じように汗を流しながら登る僕には、そんな実感があった。
(執筆撮影・尾関章、通算314回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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