『パリ五月革命 私論――転換点としての68年』(西川長夫著、平凡社新書)
写真》バラの季節
 
 1968年は特異年だった。米国ではマーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・ケネディ上院議員の暗殺が続き、その暗雲に抗するようにベトナム反戦運動が高まった。当時のチェコスロバキアでは「プラハの春」があり、ソ連の軍事介入に立ち向かう人たちがいた。日本でも70年安保を前に学生運動が激しさを増し、街頭は騒然となった。そしてフランス・パリの5月――。地球は若者たちの抵抗一色に染まった。
 
 なかでも、パリは異彩を放つ。日本などでは「五月革命」と呼ばれるからだ。ただ、それでドゴール政権は倒れなかった。6月の選挙では対抗勢力を抑えて圧勝している。いったいどこの何が「革命」なのか。
 
 このことでは1990年代、僕がロンドンにいたとき、パリ駐在の先輩記者から聞いた話が印象に残る。生殖医療を規制する法律を批判する女性論客が五月革命を振り返って、こんなことを言ったという。あのときのデモの盛りあがりはフェミニズムとエコロジーに分かれてしまった――。彼女はフェミニストとして女性の選択権を縛る法制定に反対したが、エコロジストは人体の操作を嫌う立場から規制に前向きだという。
 
 女性の権利尊重と自然環境の保護。この二大思潮が、ともに五月革命で強まり、広まったのだとすれば興味深い。そもそも1968年に同期した世界の若者の抵抗は、旧来からある右派左派の座標軸になじまない。そこには、もっと大きななにかがあったと思う。
 
 僕自身の記憶を手繰れば、中学生のころ学校には組合運動に熱心な先生が多くいたが、その同じ人物が軍隊式の体罰を科すことがままあった。戦後大人社会の虚構に対する異議申し立て。それは洋の東西を問わず、僕たちの世代に共通する心情だった。
 
 で、今週はそんな五月革命の実相を知るのに好適な一冊。『パリ五月革命 私論――転換点としての68年』(西川長夫著、平凡社新書)。著者は1934年生まれ、比較文化論が専門で、1967〜69年にフランス政府の給費留学生としてパリ第四大学(ソルボンヌの一つ)や国立高等研究院(オート・ゼチュード)で学んだ。革命の現場に居合わせたということだ。この本は、それから四十余年後の2011年に刊行された。
 
 この本が、遠い過去の回想録であるにもかかわらず迫真性を備えているのは、著者が当時、その渦中にあって見聞きしたことをリアルタイムで書き綴っていたこと、それだけでなくカメラのレンズをあちこちに向けていたことによる。「私は毎日、カメラとトランジスター・ラジオを持って」「可能な限りあらゆる集会や抗議デモに参加し、好奇心の塊となって人々の発言に耳を傾け、写真を撮り、ビラや新聞や壁に書かれた落書きを集めていた」
 
 フィルムの本数にして100本ほど。著者は、一部を個人アルバムに収めただけで「門外不出の大切な宝のように四〇年間私(死)蔵していた」。被写体の人々に迷惑が及ぶのを恐れてのことだったという。2010年に名古屋大学で「反乱する若者たち」と題するシンポジウムが催された際、公開に踏み切る。このとき、パネルとなった画像を見て自身も驚いた。「長年の色褪せた私の記憶に残されたものとは全く異なる輝きを放っていた」からだ。
 
 この本に載った最初の1枚は、五月革命の本質を突いている。それはデモでもバリケードでもなく、小学校の外壁を写したものだった。フランス語で「ここに疎外始まる」と落書きされている。著者の印象では、パリの小学校はたいてい高い壁に囲まれていて、子どもの声が通行人の耳に届かない。「学校、それは正しく疎外の始まる場所だ」「小学校が疎外の始まりであるとすれば、大学は疎外の極まる場所ということになるだろう」
 
 五月革命も、起点は学生が大学のありようを問うところにあった。郊外にあるパリ大学ナンテール分校(現・パリ第十大学)の「三月二二日運動」だ。著者は、この顛末を現認していないので史料によって跡づける。1967年秋から68年にかけて「勉学条件の改善」を求める動きがきっかけで学内が騒然とし、警官隊の導入もあった。学生たちが仲間の逮捕に抗議する集会を開き、事務所棟の占拠を決めたのが3月22日だった。
 
 心理学科や社会学科の学生たちは、社会学の教育方針にかみついて小試験を拒んだ。「現在の資本主義社会において社会学(とりわけアメリカ社会学)が果たしている役割」が批判の的だった。学問は消費経済の道具ではない、ということだろう。著者によれば、その背景には「大学という制度の役割とその抑圧的な権力構造」に起因する「抑圧的で展望のない日常生活と不快感」があったという。
 
 この郊外の反乱がパリ中心部カルチエ・ラタンの学生たちの心に火をつけた。5月には労働運動を巻き込んで連帯ゼネストが広がる。ここでは、著者が革命の主舞台2カ所を自身の目でとらえた文章を引こう。『フランスの解体?』という本に収められたものだ。
 
 まずは、「自主管理大学」として「解放」されたソルボンヌ。「せまい門を通って大学の内庭(クール)に入ると、ここでもまず人間でいっぱいなことにおどろかされる。それに何という多様性だろう。カストロひげ、長髪、ボヘミアンスタイル、中国帽、ボネ・ルージュ、ジーパン、背広、皮ジャンパー、ミニスカート、真っ赤な長ズボン、とっくりのセーター」。ファッションだけをみても、懐かしい60年代文化の百花繚乱だ。
 
 パリの国立劇場オデオン座はどうか。「舞台正面に『「旧」オデオン座は解放された演壇である』と大きく書いた白布がかかげられ討論がはじまっている」「一人の発言者が立つごとに、平土間の真中に立っている金髪の少年が、両手をひろげて静かにという合図をする。これが議長らしい」「『われわれ』という一人称複数形が少なくなり、『わたし』『おれ』という一人称単数を主語にしたしゃべりかたがふえてゆき、告白調が多くなった」
 
 この本から感じとれるのは、五月革命が政権転覆運動ではなかったということだ。一つの主義に立つ政治勢力があったわけではない。「先導的な役割」を担ったのは、官僚主義を嫌い、てんでんばらばらな主張を掲げる「グルピュスキュール」という左翼の小グループ群だった。闘い方も革命と呼ぶには子どもっぽい。街路の敷石(パヴェ)をはいでバリケードを築いた。「パヴェの下/それは砂浜……」という詩的な落書きもあったという。
 
 著者の心に留まったビラの言葉は「禁止することを禁止する」だ。「考えてみればパリ市中がいかに多くの『……を禁止する』という立札や掲示でみたされ、ぼくらの内面がいかに多くのタブーにしばられていることか」。6月に入るとドゴール政権の老獪な舵とりで革命は萎むが、著者は「一度粉砕された権威はふたたび昔の姿でよみがえることはできない」と書いている。(引用部分はともに『フランスの解体?』からの再録)
 
 最終章にある「六八年は西欧的な世界における最初の『自己批判』的革命であった」という総括は、胸にすとんと落ちる。諸文献を引用しながらの考察を要約すれば、それは西側の「消費社会」や東西両陣営の「生産中心主義」、近代文明に内在する「開発や植民地支配への無限の欲望」と対峙するうねりだったということだ。システムに立ち向かう「反システム運動」という表現もある。禁止の禁止は、そこから出た発想だったのだろう。
 
 あとがきには、3・11の原発災害に触れて「世界の諸国は、六八年革命を鎮圧した四三年後に、彼らが発した根本的な問いや批判に改めて直面している」とある。大都市の消費を地方のエネルギー生産が支える構図の是非は「根本的な問い」の一つではなかったか。
 
 著者は、若者たちのその後をこう描いている。「彼ら彼女らは、革命家や活動家にならなくとも、エコロジストとして、あるいはフェミニストとして、あるいは普通のサラリーマンとして、何らかの形で日常生活における反文明的『長征』を続ける意欲を持ち続けており、それが六八年世代のひとつの特徴となっている」。同じような抵抗運動があった日本社会で「意欲」は今も持続しているだろうか。そんな思いが湧きあがってくる。
(執筆撮影・尾関章、通算316回)
 
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