『いのちの旅――「水俣学」への軌跡』(原田正純著、岩波現代文庫)
写真》水俣病60年(朝日新聞2016年4月30日朝刊

 水俣病の「公式確認」から60年という話がメディアに載っていて愕然とした。60年前といえば1956(昭和31)年だ。その年の5月1日、原因の定まらない中枢神経障害の発生が熊本県の水俣保健所に届けられたのだという。ではなぜ、「愕然」なのか。
 
 1956年と言えば、僕がちょうど幼稚園に入ったころだ。だから、この出来事は当然のことながら知らない。問題は、その無知がさらに10年近くも続いたことだ。発生地域の範囲が限られた病が不知火海沿岸で多発していると知ったのは中学校に入ってからではなかったか。それは、同じ地域で同じ病魔に侵された猫がわが身の制御を失ってクルクルと回るニュース映像の記憶とともにある。
 
 僕たちの小学生時代は、社会科の授業で白地図をよく使ったものだ。日本列島の輪郭のなかにさまざまな要素を描き入れる。まずは山脈や山地、平野や盆地、河川や湖沼などの地形。そして都市や鉄道のように人がつくったもの。工業拠点もその一つだった。京浜、阪神、中京、北九州は四大工業地帯と呼ばれて別格だったが、ほかの地域にも印をつけた。水俣もそのなかに含まれていたように思う。だが、公害禍の分布はノーマークだった。
 
 水俣病報道で大手メディアが出遅れたことについては、自己批判を含む多くの検証がすでになされている。要約すれば、当初は地方紙しか記事にせず、大手紙が報じるようになっても全国版には載らず、全国ニュースになっても一地域の騒動という扱いを受けた、という流れだ。1960年代に入っても中央には工場廃水の有機水銀原因説に対する懐疑論が根強くあり、政府が公害病と認めたのは68年。報道は、その公式見解を映していた。
 
 僕が水俣病を「公害」という言葉と結びつけて強く意識したのも1960年代後半、高校生のころだ。工業化の大罪にそれまで気づかずにいた背景には報道の乏しさがあった。いま熊本地震の様子が刻々と伝えられ、被災地支援の動きがリアルタイムで高まったことを思うと、その落差に言葉を失う。この違いは通信・放送技術の進展によるところが大きいが、それだけではない。メディアの鈍感があったのは否めないと僕は思う。
 
 で、今週は『いのちの旅――「水俣学」への軌跡』(原田正純著、岩波現代文庫)。著者は1934年生まれの医師・医学者で、専門は神経精神医学。熊本大学に長く在籍して、水俣病と向きあってきた。2012年没。この本は2002年春から夏にかけて中日新聞、東京新聞、西日本新聞に連載された寄稿をもとにしたもので、東京新聞出版局から出ていた単行本が今年4月、文庫化された。
 
 まず目を引くのは、副題にある「水俣学」という言葉だ。著者は既刊の自著を引きながら、それを「発生から今日までの水俣病との付き合いのすべての過程」「水俣病事件に映し出された社会現象のすべて」「水俣病に触発されたすべての学問」……と広く定義する。「専門家と素人の壁を超え、学閥や専門分野を超え、国境を超えたバリアフリーの自由な学問」と扉を外へ開き、「既存のパラダイムを破壊し、再構築する革新的な学問」と宣言する。
 
 この着想は、著者自身の体験をなぞっている。若いころに研究したのは胎児性水俣病。当初は「脳性小児まひ」など周辺環境と結びつかない病名で診断されていたらしいが、それに抗して「胎内でおこったメチル水銀中毒」と主張した。「当時の医学的常識は『胎盤は毒を通さない』」だったのですぐには受け入れられなかったものの、1962年、6歳の患者が亡くなり、その解剖によって認められたという。これが、学究としての出発点だ。
 
 だが著者の関心は、この研究テーマだけでは完結しなかった。「胎盤経由」が疑われるとして提示したものには、患者の症状や疫学統計の分析結果だけでなく、家族の健康状況や妊婦の食生活についての聞きとりデータが含まれていたからだ。そこには「患者の家を一軒一軒回る」という方法論があった。その営みこそが「すべての過程」「社会現象のすべて」に目を向ける必要を著者の心に刻んだのだろう。
 
 これは、たやすい仕事ではない。「わたしの原風景」と題された一編に描かれた漁村の様子はこうだ。「家々はスチール写真のように風景が停止していた」「まさに、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』であった」「朽ちかけた患者の家々は貝のように雨戸を閉めて開けてくれなかった」。拒否感の表れだ。「大学病院の医師」の巡回は風評被害を呼び起こす。これまでも診察を受けたが治らなかったではないか――そんな声も聞いたという。
 
 この方法論は、水俣病の核心を見抜くことになった。それは、高度経済成長へ邁進する大企業の生産至上主義に接するように大昔から続く地産地消型の食生活があったということだ。たとえば、「からいもとイワシ」という一編に出てくる漁村。「イワシが獲れた日はみんなイワシを食べたし、タチウオが獲れればタチウオであった。明日になれば美味(うま)くなくなる、もったいないと言って魚を配ってまわった」
 
 別の一編では、結婚してよその土地から移ってきた女性が新婚時代をこう振り返る。「魚はどこで買うんですかと聞いたら、魚は買うもんじゃなか、貰(もら)うもんたいと言われて驚いた。漁船が帰ってくる頃、浜に籠(かご)もって立っとけばよかと言われた」
 
 著者は「からいもと…」の後段で、「このような共同体であるから、ここから一人でも水俣病患者が出たとすれば、村中のみんなが水俣病になってもおかしくなかったのである」と断じる。「そのような当時の事情や、どのような村かを知らなければ正しい診断もできないのが公害病である」とも書く。これは二次産業の通貨経済が奢りたかぶっていた時代に、そこに残る一次産業の互酬社会を間近に見ていた人だからこそ言える言葉だ。
 
 ここからは、公害は時代の位相とともにあるという教訓が得られる。水俣病は、一つの工場に起因する害悪がその足もとで増幅された。今はグローバル経済のもと、一つの企業の怠慢や過誤、不正が全世界に被害を広げる拡散リスクに取り囲まれている。
 
 もう一つ、この本で教えられたことがある。それは、水俣病を世界の座標でとらえることの大切さだ。第3章「地球を蝕む水銀汚染」によると、あのころ、水俣と同様に生態系の食物連鎖で人々の頭髪水銀値が高まったとみられる地域はあちこちにあった。被害を見極めるためにも有機水銀の「低濃度長期汚染」をどうみるかが関心事となる。「最もミニマムな影響」をつきとめて「安全基準の見直し」を進めようという動きもあったという。
 
 ところが、日本政府はこの見直しには消極的だったという。「最もミニマムな影響」は「水俣病裁判で争われてきたことの一つ」であったので「影響が及ぶことを恐れたのだろうか」と著者は推察する。
 
 たしかに水俣では、垂れ流された害毒が地産地消社会の増幅効果で人々に重篤な健康被害をもたらした。その結果、僕たちも重症患者の姿を見て、それを「水俣病」と思ってしまったきらいがある。著者によれば、それは世界に誤ったメッセージを発信したことになる。「北欧やカナダでは水俣での初期の重症の水俣病を手本にしたために軽症、不全型例などの非典型の水俣病を否定し、軽微な影響を見落としてしまった」という。
 
 このくだりにある次の記述は至言だ。「非典型例とか不全型例とか言うが、本当は多数例が典型例である。むしろ初期の重症例が非典型例であった」。僕はここに、科学者本来の姿を見る。世間の人々は重症患者の不自由な暮らしぶりをみて心を痛めるばかりだが、科学者はその背後に大勢の軽症患者がいることを感じとる。その鋭さ、冷静さは、一人の被害者も見捨てない優しさと響きあうものだ。
 
 著者は、水俣病対策の遅れを「仕出し弁当で食中毒になったというのに、原因が弁当の中の唐揚げか卵焼きか分からないと言って売り続けている」ことにたとえる。僕たちも、「唐揚げか卵焼きか」の判定だけが科学だと勘違いしていないだろうか。
(執筆撮影・尾関章、通算317回)
 
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コメント
虫さんへ
「小さな共同体」と言えば、きのう(2016年5月24日)の朝日新聞朝刊に載った石牟礼道子さんの体験談からも、それがうかがえました。
戦後まもなく、水俣湾でとれたイワシをもって山間部の集落へゆき、コメと物々交換したという。「私が運んだ魚で、水俣病になった人がいるかもしれない。とても複雑で、申し訳ない気持ちです」
水俣公害は多くの人々の病苦を引き起こしただけでなく、心の痛みももたらしたのだということがわかります。
  • by 尾関章
  • 2016/05/25 9:40 AM
尾関さん

原田正純さんの著書を紹介いただき、また、その核心部分を分かりやすく解説いただきありがとうございます。強い感銘を受けました。
ある小さな共同体の「特殊性」から「普遍的現象」を導き出し、さらに事実のみに即してその「普遍的現象」から「真実」を明らかにする。その結果、この「真実」を不都合とする人々が行動の変更を余儀なくされる。
この科学者本来の姿は、科学者をジャーナリストと読み替えてもピッタリと成立する道理ですね。

  • by 虫
  • 2016/05/24 4:19 PM
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