『千のナイフ、千の目』(蜷川幸雄著、ちくま文庫)
写真》ニナガワとシェイクスピア
 
 演出家の蜷川幸雄さんが亡くなった。その訃報はもちろん、葬儀で俳優たちが語りかけた弔辞までもメディアは破格の扱いでとりあげた。仕事の大きさがある。人柄の痛快さもある。同時代人の心に響く生の終幕だったということだろう。
 
 僕も、ぜひここで彼のことを書きたいと思う。と言っても芝居の話はできない。人物としての魅力の源泉をたどってみたいのだ。蜷川の顔は世界のニナガワになるまえから知っていた。若いころは俳優で、テレビドラマによく出ていたからである。
 
 たいがいは脇役だったが、どこか気になる役者ではあった。出演番組をすっかり忘れているので、ウィキペディア「蜷川幸雄」の項を開くと、テレビの仕事が集中するのは1960年代半ばから70年代半ばまで。「特別機動捜査隊」(NET=現テレビ朝日)、「キイハンター」、「ザ・ガードマン」(ともにTBS)といった人気シリーズにもそれぞれ数回登場していたらしい。今ならば、2時間ミステリー(2H)の常連か。
 
 個別の記憶は皆無だ。役柄のイメージをおぼろげな印象から再現すれば、背広にネクタイ姿の係長クラスというところ。エリートでもなく、ナイスガイでもない。軽薄そうではあるが、額が広く、頭は切れそう。心の片隅に硬いものを隠しもっている。実際にどんな役だったかは別にして、 そんな感じだ。 役者自身が視聴者の心に引っかかるなにかをもっていたのは間違いない。だからこそ、顔と名前を覚えたのだ。
 
 俳優蜷川が演出家ニナガワとなってから、その生身の姿を見かけたことが一度ある。東京・銀座、数寄屋橋交差点のそばにあった旭屋書店でのことだ。あの店は売り場のかたちが変則的で、文庫類の棚が並ぶ一角の奥が硬めの人文書コーナーにつながっていた。そちらへ向かう中年男の姿を見て、僕はすぐに彼だとわかった。ニナガワにぴったりの場所だったからだ。演技の内側から透けて見えたものは知的な芯だったのだと思う。
 
 で、今週の一冊は『千のナイフ、千の目』(蜷川幸雄著、ちくま文庫)。書名の「目」は「まなざし」と読む。1993年に紀伊國屋書店から出た単行本が2013年、文庫化された。演劇は観客の刃物のような視線に曝されているという覚悟を表題に込めたらしい。表紙カバーの写真は、著者がコートを着てショルダーバッグを提げたショット。それは、僕が書店内の人いきれとともに記憶している姿とそっくりだ。
 
 この本は、自問自答のインタビューなどが交ざる融通無碍のエッセイ集で、著者の本音の合間に中身の濃い演劇論が詰め込まれているが、ここでは、犠蓮岷薹爐鬚瓩阿觴伝」を中心に見ていこう。
 
 書きだしは、テレビで昔の映画を観ている蜷川家の家族団欒。「画面の右後方、主役の江原真二郎が働くビスケット工場の作業場の場面で、江原真二郎の後ろにいるのは俺だ。長い髪。ふっくらとした頬。そういえばあのとき、元非行少年の役なんだからと丹頂チックでリーゼントにしたんだったっけ」。女優真山知子でもある妻が声をあげる。「あっ、あれはパパじゃない?」。12歳だった下の娘は「きゃっ、気持悪い、髪の毛があんなにある」。
 
 今井正監督の「純愛物語」。本文では、映っているのが「十九歳の俺」とあるが、著者は1935年生まれで映画は57年公開なので、撮影時でも二十歳の大台に乗っていたかもしれない。ここで目を引くのは「この映画は、弱い者のなかにいつでも正義はあるとでもいいたげな描き方で、出演しているときから俺は好きになれなかった」と述懐していることだ。二十歳そこそこで、まだ画面の片隅にいたころから、作品を突き放してみていた。
 
 著者が高校を出て入ったのが、劇団青俳だ。「若者たちに圧倒的な人気があった木村功や岡田英次が、それまでの新劇のありかたにあきたらずに各劇団の若手俳優たちと一緒につくった」という異色の集団。映画やテレビの仕事にも前向きだった。著者は、そのなかでも尖っていて、研究生は裏方を手伝うという習わしを拒んだ。「ぼくは俳優ですからスタッフの仕事はやりません」と言い張って「ついにトンカチを持たなかった」。
 
 青俳時代のくだりで出色なのは、劇団の創始者木村、岡田の比較論だ。どちらもテレビドラマの主演格でそれぞれにダンディーだったということは、僕も子ども心に覚えている。その二人を、著者は草野球の思い出のなかに置く。岡田は試合が済むと「みんなでなにか食えよ」と「金を置いてひとりどこかへいなくなる」。一方、木村は「家へ来てビールでも飲めよ」と自宅に誘う。上司のふるまいとしてはどちらもありだろう。
 
 「ぼくは人間としては木村さんが好きだったけれど、レパートリーの選定に関しては岡田さんが提案するもののほうが好きだった」「人間としての好き嫌いと、演劇的選択は別だ。だから木村さんとも話し、岡田さんとも語った」。絶妙のバランス感覚だ。
 
 30代になって著者は演出家を志す。1968年、青俳を抜けて仲間とつくったのが劇団現代人劇場だ。岡田が加わって資金を貸してくれたが、中心にいるのは蟹江敬三や石橋蓮司、それに結婚まもない妻の真山ら若手だった。69年上演の清水邦夫作「真情あふるる軽薄さ」は、蟹江と真山が主演。二人が、なにかを待って並ぶ人々を「挑発する」。すると「機動隊が躍りでて行列を蹴散らし、若い男女を撲殺する」。そんな過激な芝居だった。
 
 劇が終わっても「機動隊員」が客席を取り囲んでいる。客席を立って「隊員」にぶつかっていく人が現れた。場内でデモが起こった夜もある。「観客は現実の街の状況と、劇を混同していた」。その劇場は、独立プロ作品の上映館でもあった新宿伊勢丹前のアートシアター新宿文化。僕にもなじみの場所だったので既視感があるが、観てはいない。「植草甚一さんが絶讃してくれた」とある。植草本を読んで観たような気分になっていたらしい。
 
 「劇場の外では、新左翼のデモが機動隊と衝突を繰返していた」頃で、「ぼくらはデモに参加し、芝居をやった」。国際反戦デーに備えて公演の日程を調整したこともあるという。だが、「闘争が敗北を重ねるたびに、ぼくらの疲労は積み重なっていった」。1971年、劇団を解散。翌年、清水、蟹江、石橋と旗揚げした「櫻社」も74年に看板を下ろす。この流れは、新左翼運動の盛衰と歩調を合わせている。
 
 櫻社の末期、著者に東宝演劇部から「ロミオとジュリエット」演出の依頼が届く。劇団内には、幹部の商業演劇進出に猛反発が起こる。30人ほどが参宮橋のスナックに集まり、夜明かしで議論した。帰り道、「これからどうするの?」と蟹江。「しようがねえから商業演劇をやるよ」と著者。東宝の稽古場に通いだして久しぶりに伊勢丹角に立った夜、「ああこの街を俺はすっかり嫌いになったな」と思ったという。新宿との別れだった。
 
 読了して痛感するのは、著者の感受性が一つの枠に収まらなかったということだ。たとえば、市川染五郎(現・松本幸四郎)の稽古風景の第一印象。「染五郎さんのロミオはもの凄い速さであちこち歩きまわった。そして友人の肩に手をまわしたかと思うと、あっという間に舞台奥へ入っていった。それはまるでジャンプしながら舞台奥へ消えた、という感じだった」。歌舞伎の技に魅せられ、自分はこのまま商業演劇を続けるだろうと予感する。
 
 新劇も、ただ嫌うだけではなかった。俳優座の大御所でテレビの初代黄門として有名な東野英治郎とは「真情あふるる…」に一人の観客として観にきてくれて以来のつきあいで、「水戸黄門」にも共演者としてたびたび呼ばれた。その大先輩の真価をこう見抜く。「東野さんの演技は、旧い新劇俳優たちにありがちな西欧に対するコンプレックスから解放されていた」。発声の仕方も「外人風」ではなく「日本人の声そのもので演技した」。
 
 ニナガワはシェイクスピア劇に和風の仏壇やひな壇をもち込んだ。原作からの乖離をものともせず、自由自在に新しい世界を出現させたのである。それができたのは、どの領域の人とも分け隔てなくつきあい、ほしいものをどこからも吸収したからなのだろう。
(執筆撮影・尾関章、通算319回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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