『南の島のティオ』(池澤夏樹著、文春文庫)

写真》南の果実

 梅雨が明ければ夏本番だ。だれもが、海へ行こう、島に渡ろう、という気分になる。その例に僕も漏れないが、ではそれを行動に移しているかと言えば、さほどの体験は積んでいない。正直に言えば、島は島でもリゾート向きの南の島は大いに苦手なのである。

 

 理由は、蛇がいっぱいいることだ。路面には、クルマに轢かれたらしい死骸が残っている。藪に入れば、すぐにも草むらから飛びだしてきそうだ。島全体でいったい何匹が隠れ住んでいるのかと思うと、背筋が凍る。それだけではない。海に潜れば、ウツボやアメフラシのような不気味な生きものがいるだろう。宿に戻れば、特大のゴキブリが床を走り抜けているのではないか。生態系の豊饒は理念として素晴らしいが、感性がそれについていけない。

 

 そんな僕にも島体験はある。1983年の秋が深まるころだった。正月紙面の企画で野生動物がらみの取材をすることになり、沖縄県の西表島に数日間滞在したのである。「ヤマネコに会ってこい」。上司は気軽に送りだしたが、遭遇はそんなに簡単ではない。それは早々と諦めて、人に焦点をあてる作戦に切りかえた。都会の大学生だったころから西表島に通い、ついには近隣の島に就職先を見つけた青年の話をじっくり聞いて、記事にした。

 

 青年はイリオモテヤマネコの観察を続けるうちに、よく見かける一匹に親しみを覚えるようになった。愛称は「ノリ」。自分を見分けてもらうため、「服装は、いつも『青いツナギ』に決めた」。友だちになりたかったのだ。だが、ノリが自分への警戒心を弱めていく様子に疑問を抱きはじめる。「どうしたんだ。まるで飼いネコのようになって……」。そう思って、青いツナギをやめる――そんな話だった。(朝日新聞1984年1月1日新年特集)

 

 西表島で驚いたのは、「この島には警官がいない。信号機も一つだけ」と聞いたことである。今の状況をネット検索すると駐在所も信号も複数あるとの記述を見かけるので、当時は違ったということか。それとも世間話に誇張があったのか。ただ、警察力が希薄だったのは間違いない。もう一つ新鮮な体験は、「医介補」という人に会えたことだ。医療行為を限定付きで許された人である。返還前の沖縄にあった医師不足を補う制度がまだ残っていた。

 

 南の海の彼方に、中央の統治や制度が完全には及ばない島がある。それは、あのころ世の中のすべてがコンピューターによる管理システムに組み込まれていこうとしているのとは対照的だった。蛇もウツボもゴキブリも嫌いだが、南の島には魅力がある。

 

 で今週は、『南の島のティオ』(池澤夏樹著、文春文庫)。10の短編から成るが、それらは同じ一つの島を舞台としており、いずれもティオという少年の目を通して語られる。児童文学誌『飛ぶ教室』などに載ったものが1992年に単行本(楡出版)となり、96年に文庫化された。僕は巻末にある神沢利子の解説を開くまでは、児童文学として世に出たとは思わなかった。大人の小説としても読みごたえのある作品ばかりということだろう。

 

 この一冊に食指が動いた理由は、巻頭に見開きで載った手描き風の地図にある。その島は四弁の花のようなかたちをしており、周りを珊瑚礁に囲まれている。真ん中にムイ山、半島部にクランポク山。四つの川が海に注ぐ。海沿いには一つの町と四つの村が散在している。海の描き方も丁寧で、珊瑚礁の内側は礁湖と呼ばれるように穏やかだが、外界は波立っている。これを見ただけで、島に渡ってみたくなるではないか。

 

 そんな旅心を増幅させてくれるのが、最初の一編「絵はがき屋さん」の書きだしだ。「飛行機は週に三度、月曜と水曜と日曜に島にやってくる」。ティオはホテルを営む父の手伝いをしており、発着便がある日は空港まで客の送り迎えに出向いている。ターミナルの建物は「パンダナスの葉」を葺いた南国風だが、夕空から聞こえてくるのは着陸機の「爆音」。そこが文明から隔絶した孤島ではなく、僕たちと回路を通じさせていることがわかる。

 

 この本の楽しみ方の一つは、島が地球のどこにあるかの詮索だ。常識的には南太平洋かカリブ海かということだろうが、読み進むとカリブ説はしぼんでいく。「道路工事を専門にやる日本の会社の人」が来島したようだし、農業技術センターには「タケモト先生」がいる。医師がマニラの病院で研修したらしいし、看護師がハワイの学校で学んだという話もあるから太平洋か。役所を「政庁」と呼んでいるので、統治領、自治領といった感じもある。

 

 日本とのつながりは過去にさかのぼる。その生き証人は、「昔、天を支えていた木」という一編に登場するヘーハチロという名の島民。日本人ではない。「この島が日本の領土だったころに生まれたから、父親が日本の偉い人の名前を付けた」のだ。さらに「ホセさんの尋ね人」を読むと、戦時中、日本軍の守備隊が駐留していたこともわかる。日本から開拓団も来ていたが、敗戦が迫ると内地へ引き揚げたという。

 

 その一方で、米国がもたらしたと思われるものもある。少年たちは野球が大好きだ。「十字路に埋めた宝物」でティムは13歳。「島で一番強い野球チームであるドルフィンズのファーストを守っていた」。チームは、近くの島から遠征してきたパイレーツを相手に接戦を繰り広げる。このとき、バットやグローブを運ぶのは農業技術センターに勤めるバムさんの「ピックアップ」。中型や小型のトラックをこう呼ぶのもアメリカ流だ。

 

 どこの島かの種明かしは「解説」のなかにある。著者が足繁く訪れた実在の島がモデルになっているらしいのだ。だが、その答えを事前に見ないことをお勧めする。いや、事後もここだけは読み飛ばしたほうがよいかもしれない。この島ではいろんな文化が交ざりあい、無国籍感を醸しだしている。政庁の政治権力も緩めで、人々の心は海と空と山とだけに向きあっている。ティオの島は、ただティオの島として存在する。それでいいではないか。

 

 この島が実在のように感じられ、それでいて虚構とも思えるのは、合理を超えたなにかが宿っているからだ。魔術と言えなくもないが、透明感があるのでおとぎ話に近い。

 

 「絵はがき屋さん」では、セールスマン兼写真家が商品のはがきを売り込んで、その効能を説く。買った人がだれかに郵送したとしよう。「そうすると受け取った人は、どうしてもこの島に来て、その絵はがきに写っている景色を見たくなるんです」。ティオがまず乗り気になり、父も最後には説き伏せられて商談がまとまる。ホテルで売りはじめると、実際に客が増えた。写真の魅力が魔力の域に達していれば、そんなこともあるということか。

 

 これには蛇足のようにして、ちょっといい話がある。セールスマンはティオを被写体にして写真を撮り、それも絵はがきにすると言う。「きみが大人になった時にどうしても好きな人ができて、来てほしいと思ったら、投函(とうかん)すればいい」。12歳の少年に「それはあまりに遠い日のように思われた」が、いやすぐにそんな時機はやってくる。大人の目で見れば十代の頃のほほえましい記憶を呼び起こす楽しさが、この小説にはある。

 

 「星が透けて見える大きな身体」では、文字通りのシャーマンが出てきて、天界と交信する。医師の娘で4歳のアコちゃんが原因不明の高熱にうなされ、ティムは医師宅の家事を手伝うヨランダという少女とともにカムイ婆に会いにゆく。婆は「わしが天の者を呼び出してやる」と頼みを聞き入れつつ、二人にこう問いかける。「その子供を取っていかないでくれと談判してみるか。正しい理屈をならべて、話ができるか」

 

 シャーマンが論理立てた交渉を促すという逆説。天は、透明な体をして二人の前に現れる。幼い子を天に連れていく理由として「地面の上の世界にはいろいろと辛いことがある」「天はかぎりない幸福の場所だ」と言う。ティムは「アコちゃんは人の子として地面の上に生まれた。人の子の幸福と不幸を身に受けるように生まれた」と反論する。この場面からは、地上の生は幸せ一色でないからこそ意味がある、という「理屈」が見えてくる。

 

 生の本質に触れるには、おとぎ話が要る。そのための想像力を膨らますには、海にも空にも山にも開かれ、異文化が交ざりあう小さな島が最適なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算323回)

 

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