『坂本九ものがたり――六・八・九の九』(永六輔著、中公文庫)

写真》MONUMENT THE PEANUTS LAST LIVE(渡辺音楽出版/キングレコード)

 このめぐり合わせを、どう受けとめたらよいのだろうか。7月10日の参議院議員選挙で、改憲勢力が総議席数のほぼ3分の2を占めた。その大報道が一段落したころ、大きな訃報が立てつづけに飛び込んできた。和製ポップスの先駆者ザ・ピーナッツの妹伊藤ユミさんとテレビ界草創期の放送作家永六輔さんの二人だ。逝去したのは伊藤さんが5月、永さんが7月上旬だったが、公表の日が選挙翌日に重なった。

 

 二人の生涯から思いだされるテレビ番組をそれぞれ挙げるなら、永さんはNHKの「夢であいましょう」、伊藤さんは日本テレビ系の「シャボン玉ホリデー」。どちらも、1961年に放映が始まった週末の音楽バラエティーだ。高度成長期を象徴する人気番組であり、戦後日本に芽吹いた自由な空気に満ちていた。僕たちはその原点が揺らぎだしたちょうどその日に「夢」と「シャボン玉」がしぼんでいく感覚に襲われたのである。

 

 前者については、当欄の前身で触れたことがある。先輩記者と飲んでいたとき、「夢で…」論で盛りあがり、「あれがもっとも良質な戦後文化だった」という感想を聞いて、その通りですね、とうなずいた話だ(文理悠々「『上を向いて』で世界人になった」2013年6月24日付)。そんな会話を交わしたのは、今から10年ほど前。すでに「戦後」が総決算される兆しがあった。その決算日がとうとう目前に迫ったということなのか。

 

 「夢で…」の記憶をあの拙稿から引こう。「黒柳徹子の機知に富んだおしゃべりに引き込まれた」「渥美清や谷幹一の軽妙なコントに笑った」「中村八大のピアノや松本英彦のテナーサックスが奏でるジャズが、僕たちの知らない自由な世界を教えてくれた」。機知と軽妙と自由。そこには、番組構成者の永さんが吹き込む焼け跡派世代の解放感があった。それが経済成長の明るさと結びついて、あんな愉快な番組になったのだ。

 

 その永さんと、僕は幾度かニアミスしている。最初は高校生のとき、TBSラジオの深夜番組「パックインミュージック」のリスナーとしてだ。投書のはがきをとりあげてもらったことが一度だけある。詳しくは思いだせないが、嫌いなもの、怖いものを問う企画ではなかったか。「徴兵制はいやだ」と書いて送ると読んでくれた。そう言えば、再軍備をめざす改憲論は、ベトナム戦争がドロ沼化した1960年代後半にもくすぶっていた。

 

 最後に接近したのは数年前。永さんは、住宅街のホールで開かれたジャズコンサートに家族らしい幾人かと来ていた。僕の斜め後方、ほんの数メートル先だ。彼の来場は奏者も気づいていたようで、演奏の合間の語りで聴衆にそのことを伝えた。僕たちはみな、後ろを振り返って拍手を送ったものだ。永さんとはついに直接言葉を交わすことができなかったが、同じ一つのジャズを分かちあう機会に恵まれたのは幸せだったと思う。

 

 で、今週は急遽、『坂本九ものがたり――六・八・九の九』(永六輔著、中公文庫)。「上を向いて歩こう」(作詞永六輔、作曲中村八大)の歌手坂本九が1985年の日航機事故で不慮の死を遂げた後、著者が綴った伝記。「九」の前半生の軌跡を、「六」輔「八」大の足どりと絡ませながら描いている。86年に『婦人公論』に連載されて単行本となったものが、90年に文庫化された。書名は、このときに主題と副題が入れかわっている。

 

 実を言うと、著者は九ちゃんが好きではなかった。それを公言するのを僕はラジオで聞いている。この本の冒頭でも、「九」は「六」にとって「八」を挟んだ「トモダチのトモダチ」と位置づける。ただ、絶交はしていない。後段には涙ぐましい友情話も出てくる。九ちゃんが公演先の京都で母の病死を知った日のことだ。著者はその舞台監督を引き受けていて、大阪空港発の最終便に間に合うようプログラムの進行を速めるのに七転八倒したという。

 

 では、なぜ嫌ったのか。手紙形式の章にこうある。「僕は君が体制べったりの芸能人になることを嫌いましたし、君は、逢えばその点を批判する僕を煙たがっていました」。僕の印象でも、九ちゃんはとことん国民的なタレントで、テレビ界にも強かった反体制の気風にはなじまなかった。僕が懐かしく思うのは、あのころは芸能界にも体制批判が存在したことだ。盾突く美学があったと言ってもよい。今はそれがなさすぎではないか。

 

 この本の醍醐味は、著者が青臭い理由で遠ざけていた人物の実像に取材を通じて迫るところにある。出身地の神奈川県川崎へ足を運ぶと、兄や姉は寛容にも心を開いてくれる。そこで聞いた話――。九ちゃんは東京へ移っても時折実家に来た。その帰途、自動車電話をオンにして実家の受話器が拾う家族の歓談を聞きつづけていたという。食わず嫌いゆえに知らなかった一面に触れて「いとおしく」思う。死別後に二人の関係が変わる瞬間だ。

 

 それではどうして、著者はわだかまりのある九ちゃんのことを書こうと思い立ったのか。その理由も文中に記されている。「坂本九なら、彼の生きた時代が書けるから」というのだ。この本は、その言葉の通りに1940〜60年代の光景をまざまざと浮かびあがらせてくれる。ただしそれは、「彼の生きた」にとどまらず「六」「八」「九」が通り抜けてきた戦中戦後である。ここではとくに戦後に目を向けたい、と思う。

 

 著者は疎開先の長野県で終戦を迎える。そのまま地元の中学校へ進むと、校内では軍国教育に対する反発が沸きおこっていた。「土下座する先生を胴上げして、そのまま床に落して蹴ったりする上級生。下級生も文句なく煽動されて先生をこづきまわし、遂には校舎の放火にまで発展してしまった」。ここには「学徒出陣で出かけた上級生」との記述もあるが、中学生の出征は考えにくい。卒業生が復員後、怒りの矛先を母校へ向けたのか。

 

 この中学には「信越本線を走る汽車の屋根に乗って」通ったとある。西部劇に出てくる鉄道活劇シーンを連想させる。著者はこのころ、映画の魅力を知る。米国の作品だ。「東京に帰ってアメリカ映画をみたい」という思いを募らせたという。

 

 戦後、若者たちは戦時体制の瓦解で生じた真空のなかで解放感に浸った。それはしばらく続く。坂本九が1950年代後半に送った高校生活にも、同様の雰囲気は感じとれる。九の同級生の一人は当時を振り返って、こう語ったという。「校長が俺の目の前でなら煙草も、酒もやれっていう豪傑でした」。暴言には違いない。だがたぶん、「俺の目の前でなら」とあるのがミソだ。隠しごとは絶対に許さない、という戒めをそこに潜ませたのだろう。

 

 この校長は、九の進路も決定づけた。彼はすでに歌手志望で、通学しながらバンドボーイなどの仕事を始めていたが、母は大学進学を強く促した。このとき、「個人の能力を引っぱりだすのが教師の仕事」という信念から「休学の扱いにするから、やるだけやってみろ。出来なきゃ帰って来い」と送りだしたという。規則がすべての今は、ここまで太っ腹な言葉はなかなか聞けない。融通が利く時代で、世間のあちこちに親分肌の人物がいた。

 

 この本でわかるのは、戦後の学園さながらの解放感が1960年代のテレビにもあったということだ。「テレビの世界には、先輩がいない。師匠もいない」。いわば真空地帯。だから「心細くはあっても、自分達の好きなように仕事が出来た」と著者は回顧する。

 

 これは、「上を向いて…」の「六」「八」「九」についても言える。著者はそれまでの歌謡界に、作曲家が師匠、歌手は弟子という「古風な関係」があったことを指摘してこう言う。「八大に弟子などはいないから、自由に歌手を選んだことが画期的なことだったのである」「八大にとって、音楽の世界は最初から枠が無かった」。作詞家と歌手が体制との向きあい方の違いで距離を置いたというのも、このことと無縁ではあるまい。

 

 翻って2010年代の今を見渡せば、テレビ草創期と同じ状況にあるのがネットメディアだ。ITが日進月歩なので年寄りにはついていけない。「先輩がいない。師匠もいない」のだ。ところが、若者が好き勝手に構想を練って新しいものを生みだせるはずなのに、解放感をネットに見いだすことはそんなにはない。むしろ、仲間うちで燃えあがる言葉の群れに出会って閉塞感に襲われたりもする。夢とシャボン玉をもう一度膨らませられないか。

(執筆撮影・尾関章、通算325回)

 

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