『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)

写真》ムシゴ・ナクヨ……

 物騒な出来事が頻発している。事件事故の報道で新聞記者泣かせなのは、情報が刻々と塗りかえられていくことだ。たとえば、犠牲者の人数。事象の大きさや深刻さの度合いを測る尺度となるので、なにがなんでも記事に盛り込みたい。ところが、それはなかなか確定しない。だから記者は、第1報を出稿してからもアップデートの手直しを繰り返す。だが最後には、待ったなしの締め切りがくる。紙面に出るのは、その時点で切りとった状況把握だ。

 

 不確定がだらだらと続くのは、事件事故では、時を追って明らかになることが少なくないからだ。搬送先での死亡確認がある。新たな遺体の発見もある。だから犠牲者数は、ふつうはふえる方向で変わる。朝刊で死者10人だったのが夕刊で15人になる、という推移は不自然ではない。ところが、ごくたまに逆の流れをたどることがある。朝刊で死者15人と報じていたのに夕刊では人数が減って10人と伝え直す、というような事例だ。

 

 死者が減るというのは、悪くない話だ。だが、新聞は「誤報」のそしりを受けかねない。たとえ報道機関に落ち度はなかったにしても、救急や捜査にあたる公的機関がどこかで数え方を間違った可能性がある。大事件や大事故の発生直後は人命の救助が最優先となるので、ほかのことで多少の混乱が起こるのは避けられないとも言える。最近の新聞は既報の犠牲者数を減る方向でアップデートするとき、こうした事情を正直に明かす傾向にある。

 

 データの更新をどうするか。この悩みは新聞だけのものではない。物事の拠りどころとして知の王座に君臨している教科書も同様だ。いや教科書のほうが、苦悩はいっそう深いのかもしれない。新聞の情報は半日刻みで打ちだされるので、揺れ動くことは織り込み済みだ。ところが、教科書の知識は固定感がある。改訂はあっても、そんなにしばしばではない。その結果、学界で否定された知見を真に受けたまま生涯を終わる人も出てくる。

 

 ところが、僕たちは教科書信仰からなかなか抜けだせない。たとえば、老若二人がビール片手に化学談義をしていたとする。若者が「塩化物イオン」という言葉を口にしたとたん、年寄りは「何、それ?」と聞く。若者が「シー・エル・マイナス」と答えると、「なんだ、塩素イオンのことか」と年寄り。「いや、学校で塩化物イオンと習いましたよ」「そんなことあるものか。塩素イオンと教わった。なんなら教科書をもってきてもいい」

 

 ここでは、若者も年寄りも教科書がすべてなのだ。「シー・エル・マイナス」をどう呼ぶかは、所詮は決めごとにすぎない。ただそれが教科書に載ったとたん、読み手となった年齢層にとっては絶対の知識となる。大脳皮質にしっかり焼き付けられてしまうのだ。

 

 で、今週は『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著、新潮文庫)。東京書籍の中学校教科書『新訂 新しい社会【歴史的分野】』(1972年刊)と『新編 新しい社会【歴史】』(2006年刊)を比べている。この本では前者に「昭和」、後者に「平成」の呼び名が与えられる。「昭和」の中身は、僕が1960年代に中学校で習ったこととほぼ一致する。「平成」に照らすと、今から見れば不正確な知識に自分が曝されていたことがよくわかる。

 

 日本史を中心に人類史や世界史も交えながら、古代から近代までの出来事をたどる構成。奥付著者欄に名前のある歴史学者が、一線の若手研究者による草稿をもとにまとめあげたという。2008年に単行本(東京書籍刊)が出て、11年に文庫化された。

 

 まず気づくのは、教科書掲載の肖像類の不確かさ。たとえば「昭和」で「【源頼朝画像】 藤原隆信(たかのぶ)筆と伝えられる」とされていたものが、「平成」では「源頼朝と伝えられる肖像画」に改められた。描き手のみならず、描かれた人も「伝えられる」の扱いを受けたのだ。この絵をめぐっては1990年代半ばに新説が出て論争が盛んになったという。そんなこともままあるだろう。この本には信頼度が薄れた画像の例がほかにも出てくる。

 

 ちょっとあきれる事柄もある。江戸時代の「士農工商」だ。「昭和」では「武士が最上位にあり、ついで百姓、その下に商人・職人がいたと説明していた」。この本が言及しているように、僕たちは授業で、農民を2番目に置いたのは年貢の重圧感をそらす懐柔策だった、という話を聞いた覚えもある。ところが「平成」からは、この用語がそっくり消滅したという。今の解釈では、当時「農工商」は横並びに遇されていたというのである。

 

 それで思いだされるのは、僕の小学校時代。休み時間は校庭で「士農工商」という遊びに夢中になっていた。ズックの爪先を地面に引きずって「田」の字を書く。4個のマスには序列があり、そこに1人ずつ入って、ボールをテニス風に打ちあう。商から始まり、勝てば工→農→士と昇格していく、というものだ。階級社会の是認が見え隠れする戦後民主主義の子らしからぬゲーム。その根っこにある近世観が空論に過ぎなかったとは。

 

 この本によると、江戸時代に「『百姓』と『町人』の区分は曖昧(あいまい)」で「出稼ぎによる村から町への人口流入も日常的におきていた」。それは、鎖国下で内なる近代が芽生えていたことを物語る。これが、日本近世の実態のようだ。「士農工商」の序列付き概念は「江戸時代後期、儒学者のイデオロギー的言説から派生したもの」で、明治時代になって教科書が世に広めたという。近代からの逆照射が近世像を歪めたのだとも言えよう。

 

 ただ教科書の新旧比べでは、旧の「昭和」を応援したくなる違いもある。「鎌倉幕府――『イイクニつくろう』と覚えたが……」の項をみてみよう。「昭和」では「頼朝は、1192年、朝廷から征夷(せいい)大将軍に任じられたので、その政府を鎌倉幕府とよび……」とある。ところが「平成」は、頼朝が征夷大将軍に就いた年については「昭和」の見解を踏襲しているものの、「1192年以前に幕府が成立したと読める記述になっている」。

 

 種明かしは簡単だ。この本によれば、そもそも鎌倉幕府の開府宣言などはなかったのだという。その結果、頼朝が武家政治体制を整えていく道筋のどこを幕府の始まりとみるかで、諸説が並び立つことになった。だとすれば、いつでもいいではないか。将軍就任で区切るのは朝廷からの権利付与に重きを置きすぎているとの批判はわからないでもないが、頼朝がそういうお墨付きを求めたのは事実だ。「イイクニ」には捨てがたい響きがある。

 

 読了して僕が思うのは、歴史は変わってもよいということだ。こんなことを口走ると、史実やその解釈を都合よく書き換える修正主義者と勘違いされるかもしれないが、それとはまったく違う。むしろ、事実に謙虚であれと言いたいのだ。この本の古代の章を読むと、歴史探究が今、自然科学と不可分になったことがわかる。理系知が遠い祖先の営みを明るみに出して、古い教科書を塗りかえていく。そんな動的な歴史学が僕たちの前にある。

 

 一例は、人類の出現がいつかだ。「昭和」は「まだよくはわかっていない」と逃げていたが、「平成」には「最も古い人類である猿人は、今から約400万年ほど前に、アフリカにあらわれました」とある。これは、1970年代に見つかった化石を根拠にしている。草原を二足歩行する猿人だ。ところが90年代から2000年代にかけて、森林暮らしの猿人のもっと古い化石が続々発見された。こちらは「平成」の記述も追いついていない。

 

 日本列島で稲作がいつ始まったか、も揺れ動いている。通説では紀元前400年代ぐらいと言われてきたが、「『AMS』とよばれる新しい炭素14年代測定法」で見直すと「前900〜前750年代とする結果となった」。国立歴史民俗博物館チームが、土器の付着物を調べて2003年に発表した成果だ。稲作は、弥生時代を特徴づける生業である。研究が進めば「弥生時代自体の年代がくりあがることもあり得る」と、この本は見通している。

 

 過去は一つに定まっている、と僕たちは思いがちだ。天の目で見ればその通りかもしれないが、人の限られた能力がそれを見極めているとは到底言えない。60年余を生きてみると、そのことが実感できる。自分自身の過去でさえ、ああだったかもしれないし、こうだったかもしれないということだらけだ。だから、教科書に書き込まれたことがいつも正しいわけではない。そのことを教えるのもまた、歴史教育ではないだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算328回)

 

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コメント
《本来の意味は「百姓=平民」であってその中には職人もいれば廻船問屋もいる》(虫さん)
網野善彦を引きながらのこのご指摘、なるほどと思います。この一例をもってしても、教科書で習う歴史には多様な流れの束を一つの型にはめてとらえる怖さがある、と感じますね。
  • by 尾関章
  • 2016/08/05 4:38 PM
尾関さん

百姓といえば、その本来の意味は「百姓=平民」であってその中には職人もいれば廻船問屋もいる。農民もその一部に過ぎないから「百姓=農民」は大きな誤解・・・・・・と網野善彦さんは力説していましたね。私はこの説を支持しています。理由は「好きだから」。そう、何か意外性のある話を聞くと、つい気に入って支持したくなる。自分の中には何の根拠もないのですが。
この程度の話ならいいのですが、自分の思想傾向や指向に馴染む歴史理解だけを選択的に支持することはせぬよう、少なくとも、自戒しようとはしています。
  • by 虫
  • 2016/08/05 2:21 PM
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