『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』

(瀬戸川宗太著、平凡社新書)

写真》薄くなった、中身はどうか

 7月は僕にとって回顧の月となった。少年期の記憶を彩る人々の訃報が相次いだからだ。ザ・ピーナッツの伊藤ユミさん、放送作家・作詞家の永六輔さんの死去公表に続いて、テレビの名司会者大橋巨泉さんが世を去った。ザ・ピーナッツの「シャボン玉ホリデー」、永さんの「夢であいましょう」に巨泉さんの「11PM」を並べてみると時代の流れが見えてくる。(当欄2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」参照)

 

 「11PM」はNTV系列が1965年、未開拓の深夜枠に新設したワイドショーだ。巨泉さんは翌66年から主軸の司会者を務めた。「シャボン玉…」(NTV系)と「夢で…」(NHK)はどちらも61年に始まっているから、出発時点の世相が違っている。人々は60年代初め、経済成長の登り坂を見あげて「夢」を「シャボン玉」のように膨らませたが、イレブンオープニングのシャバダバに馴染むころにはもう高台にたどり着いていた。

 

 1965年は巨人V9最初の年である。安定期の始まりだ。イレブンが「野球は巨人、司会は巨泉」と謳って繰りだすゴルフや海釣り、海外旅行などのレジャー一式は、もはや夢見るものではなく、手の届く贅沢になっていた。享楽主義の横溢は、高度成長の負の側面に気づきはじめた僕には抵抗があった。だが時折、沖縄問題のような硬派テーマをとりあげていたのもまた事実だ。遊んでも愚民にはならない。それが巨泉流の反骨精神だった。

 

 巨泉さんは2001〜02年、民主党の参議院議員を務めている。このとき僕が感じたのは、いよいよ巨泉流の時代が到来したということだ。彼は右派ではなかった。その一方で、旧来の左派とも肌が合わなかった。保守に対峙する勢力の看板が社会主義からリベラルに代わったのをみて、世間がようやく自分に追いついたと感じたのではなかったか。だが政界に飛び込んで、そこに買い被りがあったことに気づいたのだろうと思う。

 

 で、今週は『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』(瀬戸川宗太著、平凡社新書)。8・15を前に、戦争のみならず戦後も風化させてはならないと思うからだ。著者は1952年東京生まれの映画評論家。自身の記憶を「週刊お宝TV」(NHK)の情報などで補いながら、55〜70年のテレビ世界を再現する。僕も東京出身で生まれ年が1年早いだけなので、著者とほぼ同じ電波環境下にいたことになる。

 

 今回は副題の「11PM」に目がいって、この本をアマゾンで取り寄せた。ただ残念なことに、それを真正面からとりあげているのは2ページにとどまる。そのせいか、お目当ての話が出てこない。世間からはほとんど忘れられているが、僕の脳にはしっかり刻印されている初期イレブンのことだ。「あれ、こっそり観ていたよね」と体験共有の確認をしたかったのだが……。思春期の中学生男子にとっては忘れがたい、なんともヘンな番組だった。

 

 脳裏に残るイメージをつなぐと、こんなふうになる。広いスタジオの真ん中にぽつんと机と椅子が置かれていて、仏頂面の中年男性が腰かけている。スーツ姿、いやブラックタイのような黒服を着用していたかもしれない。水商売っぽいのか堅気なのか、あいまいな佇まいだ。その人がニュース解説風の話をするのだが、毎回決まって息抜きの時間がある。網タイツのように露出度の高いコスチュームの女性が出てきて、ひとしきりダンスを踊る――。

 

 報道とセクシーショー。シュールな接合だ。もしかして僕の妄想かと思ってウィキペディア「11PM」の項を開くと、謎を氷解させてくれる記述に出会った。当初、この番組は報道局がつくっていたが、その体制は半年ほどしか続かなかったという。硬い頭が軟派を気取ったせいか、ちぐはぐで不評だったのだ。この半年限りの禁断の果実に僕は触れたが、著者はその機会を逸したらしい。ということで、イレブン抜きで話を進めよう。

 

 とっかかりは、NHKドラマ「事件記者」(1958〜)。競争関係にある記者仲間が飲み屋で歓談しながら化かしあう場面が見どころだった。著者は「こんな気楽な仕事ならぜひ新聞記者になりたいと思っていた」と打ち明ける。僕は「なりたい」と思わなかったのになってしまった口だが、大のおとながじゃれ合いながら心理戦を繰り広げる様子は子ども心にも楽しかった。(当欄2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」参照)

 

 この番組は、かなりの部分が生放送だった。著者は、そのスタジオ風景を「週刊お宝TV」で紹介された関係者の証言をもとに蘇らせている。記者クラブや飲み屋、犯人の隠れ家などのセットが並び、ドラマの進行とともに演技の場が移っていく。「三台のTVカメラは、お互いのコードが重なり合わないように、正確に移動していかなければならない。一つでも順番を間違えればコードが絡み合い、TVカメラが移動できなくなってしまう」

 

 脚本が「三分ほどオーバー」の状態で本番に入り、臨機応変に台詞を端折りながら時間枠に収めたという。「結局、この追い立てるような演出方法が『事件記者』の軽快なテンポを生み出していたといえよう」と著者は書く。あのキビキビ感の秘密はそこにあったのだ。

 

 著者は1960年代初めの火曜夜に注目する。NHKは「ジェスチャー」(1953〜)や「お笑い三人組」(1956〜)を置いて、そこに「事件記者」を加え、人気番組を集中させた。相乗効果もあって「視聴率を独占する形となった」という。裏番組のファンもいたはずだから「視聴率を独占」は言い過ぎだろうが、そんな勢いはあった。驚くのは僕の記憶のなかで、これらの番組名と火曜日の「火」の字が分かちがたく結びついていることだ。

 

 一つの局が一つの時間帯で人気番組を串刺しにする。この現象に気づいたのは、さすがテレビ通だ。同様の例として挙げられているのは、1962年ごろの日曜夜6〜7時台。当時のTBS系列は、ここに「てなもんや三度笠」と「隠密剣士」という二強を配置した。どちらも、月曜の学校で子どもたちが話題にするような番組だ。この本には出てこないが、「隠密…」に続いて米国アニメ「ポパイ」が流れていたことも僕は覚えている。

 

 ホームドラマをめぐっては、著者と僕の意見が異なる。著者によれば、和製草分けの「ママちょっと来て」(NTV系、1959〜)は米国ドラマを「日本人向けに焼き直したもの」に過ぎず、むしろ「咲子さんちょっと」(TBS系、1961〜)に「地に足が着いた」感があったという。「舅、姑と嫁の日常生活」の淡々とした描写に惹かれたらしい。だが、僕は「ママ…」をとる。その核家族像が自分の境遇の一歩先をゆくようで羨ましかった。

 

 「ママ…」も「咲子さん…」も独りで楽しむ番組ではない。僕は家族とともに観ていた。著者も同様だっただろう。1960年前後、テレビという箱の中には善き人々の家庭があり、それを見つめる実在の家庭の入れ子になっていた。だが、そんな光景は長く続かない。60年代後半になると若者の反抗ムードが高まり、もはや「のんきに娯楽番組ばかりに夢中になっているわけにはいかなかった」。著者も僕も、茶の間離れしつつあったのだ。

 

 そういう時代に心をとらえた例外として著者が筆頭に挙げるのは、「巨泉×前武ゲバゲバ90分」(NTV系、1969〜)。毒気のあるコントが満載で僕も虜になった。さらに「反体制」を感じさせる番組として「お荷物小荷物」(TBS系、1970〜)という連続ドラマのことが書かれている。「テレビカメラがいきなりセットの裏を見せてしまう」ような常識外の演出で「左翼学生や青年層に支持されていた」というが、僕には思いだせない。

 

 最後に、著者のテレビ愛の深さを感じさせる話。「番頭はんと丁稚どん」(NET系、1959〜)では、芦屋雁之助が「いやらしい流し目」で大村崑を「崑松、チョッと来い」と呼ぶシーンが見せ場だったとして、それがない録画ダイジェスト版を観させられたときの落胆を語っている。テレビ好きにとって思い入れがあるのは、たいてい番組の細部だ。だが「当時のVTRがほとんど残っていない現状」では、それらが無情に忘れ去られていく。

 

 本には図書館があるが、台頭期のテレビにはない。開拓者が去りつつある今、著者も文中で訴えているように、僕たちが記憶を寄せあわせて記録にとどめなければなるまい。

(執筆撮影・尾関章、通算329回)

 

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