『枝分かれ――自然が創り出す美しいパターン3』

(フィリップ・ボール著、桃井緑美子訳、ハヤカワ文庫NF)

写真》木のかたち

 かたちから入る。この言葉には、あまり良いイメージがない。中身よりも先に格好だけを整える、という生活態度を指していうことが多いからだ。ピアノはある、ギターも買った、だけど楽譜は読めない、コード進行も知らない。そんな状況である。

 

 では、世界のとらえ方としてはどうか。そこまで考えを巡らせてみると、イメージは逆転気味になる。ギリシャ哲学の代名詞とも言えるプラトンの「イデア」、アリストテレスの「形相(けいそう=エイドス)」には、日本語にすれば「かたち」の意味合いがある。彼らに先立ってピタゴラスも幾何に入れ込んでいる。先哲たちは、中身にごまかされてはいけない、中身を除いてもなお残るものにこそ目を向けよ、と言っているように思える。

 

 ところが、近現代の科学は中身志向が強かった。モノにこだわり、それを小分けにして最小の単位を突きとめよう、と躍起になっていた。要素還元主義という。物理学には、分子から原子へ、原子核から陽子中性子へ、さらに究極の素粒子クォークへと向かう探索があった。生物学も、個体から細胞へ、染色体へ、そして遺伝子本体のDNAへと突き進んだ。1970年代から80年代にかけては素粒子と遺伝子が科学の主役だった。

 

 僕が科学記者になったのは1980年代半ば。要素還元主義が熟し切り、曲がり角にさしかかったころだ。物理学では、加速器実験による粒子発見ラッシュが一段落して素粒子探しの先行きに翳りが見えていた。そんななかで、小分けではない手法で世界を読み解く試みが散見されるようになった。なかでも僕の心をとらえたのが「形の科学」だ。この看板を掲げる一群の研究者に出会って話を聴くと、そのどれもが新鮮だった。

 

 例をひとつ挙げよう。樹木の枝分かれに目を向けた探究だ。大阪勤務の頃だったので関西の研究者に取材して、新聞の科学面に大きなイラスト付きで紹介した。前書きには、こうある。「勝手気ままに伸びたような樹木の姿にも秘密が隠されている。日差しを浴びやすい、釣り合いもいい、といった枝分かれの妙が鐘紡ガン研究所(大阪市)の本多久夫主任研究員らの研究から、浮かび上がってきた」(朝日新聞1985年11月12日夕刊)。

 

 ヒッグス粒子や重力波の発見のように派手ではない。それは、樹木という存在が素粒子の微小さとも宇宙の巨大さとも縁遠いからか。だが逆に日常生活の尺度に収まり、見慣れたものだからこそ、そこに見いだされる法則は僕たちの世界観に響いてくる。

 

 で、今週は『枝分かれ――自然が創り出す美しいパターン3』(フィリップ・ボール著、桃井緑美子訳、ハヤカワ文庫NF)。著者は、英科学誌ニュー・サイエンティストや米紙ニューヨーク・タイムズなどで活躍するフリーランスの科学ライター。この本は、2012年に早川書房から単行本が出て今年6月に文庫化された。副題にあるようにシリーズの第3部で、1は『かたち』、2は『流れ』。この3で完結するかたちになっている。

 

 1と2が未読なのに3だけをとりあげるのは邪道だと思う。だが今回は、あえてそうする。「かたち」「流れ」よりも狭い概念の「枝分かれ」に1冊をまるまる割りあてた著者の心意気に共感して、書店で思わず3のみを買い入れた。ページを開くと期待通りだったので、一気に読み進んだ。せっかくだから一刻も早く報告したい。そんな気持ちからだ。途中、前述した本多さんの名前も出てきて、活字を通しての再会にうれしくなったこともある。

 

 今回はかたちから入るという話なので、本の中身に踏み込む前にそのつくりから見ておこう。巻末の「参考文献」からもわかるように、著者は古今東西の文献を漁っている。知の森を一歩退いたところから眺める、という感じだ。テーマごとにこれはという研究をいくつか拾いあげ、重ね合わせていく。そこで見えてくるものに出会って、読み手は得をした気分になる。科学ジャーナリズムは、専門家の話を伝達するだけでは終わらないのである。

 

 テーマの選び方も縦横無尽だ。第1章で雪の結晶を語ったあと、第2章からは枝分かれパターンのあれこれを雑食ふうにとりあげていく。たとえば都市域の広がり、あるいは川の流れ。樹木の分岐を真正面から扱っているのは第5章だけだ。第6章では、枝同士がつながる網目模様に話を広げてネットワーク論も展開する。こうした本の組み立て方からは、かたちという共通語で分野横断の法則を探りあてよう、という野心が感じとれる。

 

 ここではもっとも文系色が強いものを選んで、それに焦点を絞ろう。街のかたちだ。著者は、米国の論客二人の先見性に触れるところから、この論題を説き起こす。1930年代、ルイス・マンフォードは大都市が成長する姿を「アメーバ」にたとえ、第二次大戦後にはジェイン・ジェイコブズが「都市はそれ自体の代謝作用と成長の形式をもつ生命体」と見抜いたという。その卓見を支える理論が80年代以降、理系領域に現れたのである。

 

 一つは、空気中の埃がくっついて塊をつくる様子を定式化した「拡散律速凝集(DLA)」というモデル。1980年代初め、トム・ウィッテン、レン・サンダーという二人の物理学者が考えだした。「表面にたまたまできた出っ張りは周囲よりも突出しているので、ランダムに拡散する粒子がぶつかる確率が高い」「出っ張りは大きくなればなるほど新しい粒子がぶつかってくっつく確率が高まる」。そこには「正のフィードバック」がある。

 

 もう一つは、「絶縁破壊モデル」(DBM)。絶縁体に電圧を加えたときの放電パターンを説明する。大気中の稲妻もその一つだ。1980年代、スイス・ブラウンボベリ研究所のグループが見いだした。この枝分かれでは「先端周辺の電場が分岐部分の電場よりも強い」ので、ここでも「正のフィードバック」が働く。DLAとの違いは、枝が外からの「付着」によって伸びるのではなく「中心から外へ押し進んでいって成長する」ところにある。

 

 地理学者のマイケル・バッティとポール・ロングリーは、この二つのモデルで近現代都市の発展を考察できるのではないかとにらんだ。彼らの共同研究で得られた結論は「DLAとDBMをもとにしたごく単純な概念が、工業化時代の初期に雨後(うご)の筍(たけのこ)のように出現した都市の形状をじつにうまく説明してくれる」というものだった。都市はときに埃の塊のように、ときに大空の稲妻のように広がっていくということか。

 

 ただ著者は、DLAやDBMの限界も書き添える。これらは「脱工業化」が進み、「新しい通信技術」も登場した「中央集中化の弱い都市風景」にはそぐわないというのだ。この本は、そんな時代に適した「相関パーコレーション」というモデルも紹介している。その考案者がボストン大学の物理学者たちだったという事実は見落とせない。物理の思考で都市発展の変容を理論化する。「かたちから入る」科学には、こうした学際の醍醐味がある。

 

 バッティらの研究に戻ると、そこにはフラクタルという言葉が出てくる。これは、幹の分岐が大枝の枝ぶりにそっくりで、それはまた小枝の枝ぶりに似ている、というような「スケール不変」の「自己相似」を言う。この模様のごちゃごちゃ具合は、フラクタル次元という尺度で数値化される。バッティらによれば1945年のベルリンは1.69、62年のロンドンが1.77、90年のピッツバーグが1.78、DLAモデルは1.71だという。

 

 フラクタルでは、線が入り組んで面に近づく。だからこそ1次元でもなく2次元でもなく、その間の値をとるのだ。それは、余白を埋めていく過程を表していると言ってもよいだろう。近郊農地が開発によって侵食されていく様子に似るのは、当然と言えば当然のことだ。

 

 著者は樹木の枝分かれについて、生態学者ブライアン・エンキストや物理学者ジェフリー・ウェストらの共同研究を引く。そこでわかったのは、「空間に行きわたりながら、空間を埋めつくすことがない」というフラクタルの賢さだ。そのかたちは植物体の隅々に水分や養分を分配するのに適していて、しかも隙間が成長の伸びしろになる。効率とゆとりのバランスが大事ということか。世の中のありようを考えるときも、この自然知を見習いたい。

(執筆撮影・尾関章、通算330回)              

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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