『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』

(トリスタン・ツァラ著、塚原史訳、光文社古典新訳文庫)

写真》記事の言葉をばらばらにして……

 抹消したい思い出というものが、人には一つや二つある。赤面の至りというやつだ。生意気盛りだった高校時代のことである。なんの科目だったかは忘れたが、授業が討論形式の進行となり、級友の一人が立ちあがって「ダダイズムは……」と語りだした。それを僕は「ダザイズム」と聞きとって「いや、太宰は……」と見当はずれの反論をしてしまった。ダダイズムという言葉を知らなかったのだ。知ったかぶりの化けの皮が剥がされた瞬間だった。

 

 そのいやな記憶が甦ったのは最近、「今こそトリスタン・ツァラ」という記事を目にしたからだ(朝日新聞2016年7月25日朝刊文化面、小川雪記者)。ツァラ(1896〜1963)はルーマニア生まれの詩人。見出しには「無意味の芸術思想『ダダ』を提唱」とある。それによれば、今年はダダイズムがスイスのチューリヒで興って100年の節目にあたる。日本国内でも記念の催事が目白押しらしい。ダダが戻って来た、ダダダダダ!

 

 この記事は、ダダイズムをうまく要約してくれている。それは「意味の通らぬ言葉を並べた詩や過激でナンセンスなパフォーマンスなど、常識を覆す『無意味の祝祭』」であり、「意味を否定し、言語を解体し偶然を重視する表現」なのだという。前衛芸術ではシュールレアリスム(超現実主義)が有名だが、時系列でみればダダイズムのほうが先だ。ダダからシュールへの流れもあった。意味の解体が現実を超えるバネになった一面もあるのだろう。

 

 記事の後段で僕の心をとらえたのは、「説明責任やマニュアルの徹底を重視し、何かと意味を要求する現代にこそ、己を意味から解き放てとツァラは叫ぶだろう」という一文だ。いまどきの新聞記事としては、思い切った問題提起だ。人々が諸規則、諸手引きの字面にがんじがらめになり、自由な発想を奪われていることは間違いない。ただ、そこに「意味」の追求までみるのは、コンプライアンス社会に対する買い被りかもしれない。

 

 ここで僕の見方を言えば、昨今の世相は「意味」を尊重しているようでいて、実はそれを空洞化している面がある。たとえば、不祥事系の記者会見でしばしば聞かれる「重く受けとめる」。あまりの乱発に「重く」は軽くなり、言葉の中身が空っぽに感じられるようになった。そのひとことをコメントに盛り込むことが、危機管理の定石になっているだけだ。そもそも言葉なんてそんなもの。ダダイストなら、そう笑い飛ばすかもしれない。

 

 で、今週は『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』(トリスタン・ツァラ著、塚原史訳、光文社古典新訳文庫)。この新訳は2010年に出た。「ダダ宣言集」「ダダ評論集」「ダダ詩集」が200頁弱、訳者の解説が80頁ほど。本を選んでから、しまったと後悔したのは、ダダの本はダダだということだ。著者の筆になる部分はダダ一色で、意味の読みとりを拒んでいる。解説に焦点を絞って逃げるか? いや、やっぱり本体に切り込もう。

 

 冒頭の一編「ムッシュー・アンチピリンの宣言」(チューリヒ、1916)の書きだしを見てみよう。「DADAはおれたちの強烈さだ。理由(わけ)もなく持ち上げるのは、銃剣それにドイツの赤ん坊のスマトラ頭というわけ。ダダはお上品なスリッパもはかず、交わらない平行線もいらない人生だ」。訳注に「アンチピリン」は「頭痛薬(アスピリン)」とあるので表題はわかったが、本文に入ってからは疑問符の連続だ。

 

 なによりも、これではいつもの手が通じない。当欄は、手にとった本から鍵となりそうな叙述を拾いあげて、それを引きながら読み解く手法をとっている。こうして得られた新知見を僕の手もとにある既存知見と絡ませて思考を深め、新しい地平を見いだす――カッコよく言ってしまえば、そんなつくりになっている。ところが、この本では鍵の拾いようがない。「銃剣」と「スマトラ」と「スリッパ」からいったい何を語れ、というのか。

 

 ただ、それでも見えてくるものはある。前述の引用部分のすぐ後には、こんなメッセージがある。「統一ってやつには反対でもあり、賛成でもあり。でも、未来には断固として反対する」。どうやら、ダダは「未来」が大嫌いなようだ。先に読み進むと「おれたちは宣言する。自動車がおれたちをひどく甘やかしてきた感情であることを。自動車の抽象作用ときたら、大西洋横断汽船、騒音、観念なみの遅さだ」とも。「自動車」嫌いでもあるらしい。

 

 ここでも、訳注が助けとなる。「未来」はイタリアの詩人が旗揚げした前衛芸術の「未来派」を暗に指しており、「自動車」はその一派が称揚する「速度の美」とみてよい、というのである。なるほど、そういうことか。だが、「速度」に批判的なのに「遅さ」を貶すあたりは一筋縄ではない。下手な引用をして、いい加減な解釈でお茶を濁し、見当はずれの風景を新地平と見誤ってはまずい。そこで、一歩退いた視点から読むことにした。

 

 僕が目を惹きつけられるのは、「アンチピリン(アスピリン)」「自動車」「大西洋横断汽船」だ。意味解体のためにかき集められた語群にモダニズムの破片がちりばめられている。未来派のみならずダダイズムも、20世紀科学技術文明の萌芽を感じていたということか。

 

 そして興味をそそられるのは、ダダを「交わらない平行線もいらない人生」としている一文。この宣言が出た1916年は、奇しくも物理学者アルバート・アインシュタインが一般相対論を完成させた年だ。その世界像ではユークリッド幾何学と違って空間が歪み、平行線が交わることもある。著者には物理学革命の胎動も伝わっていたのか。ちなみにアインシュタインは、その数年前までスイス連邦工科大学チューリヒ校の教授だった。

 

 一連の宣言で「もっとも重要」(訳者解説)とされるのが「ダダ宣言1918」(チューリヒ)だ。導入部に「ひとつの単語―DADA―は、新聞記者たちを予期せぬ世界の扉の前に立たせたが、おれたちにとってそれは何の重要性ももたない」とある。本文には「おれは宣言を書くが、何も望んではいない」「おれは原則として宣言には反対だ」「原則というやつにも反対している」といった文が並び、ダメ押しは「DADAは何も意味しない」。

 

 煙に巻く、とはこのことか。ダダと言いながら、それは意味がないという。宣言を発しながら、そのことに原則反対する。それどころか、原則という概念にも八つ当たりする。「宣言を否定する宣言」と言い切ってしまうのもためらわれる底なし沼が、ここにはある。

 

 「新聞記者たちを……」という表現からは、著者が新聞媒体を意味社会の象徴とみていたことが推察される。別の宣言「かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する」(パリ、1920)を読むと、それはいっそうはっきりする。そこには、ダダ流の詩のつくり方が出てくる。「新聞を持ってこい」「ハサミを手に取れ」。紙面を単語ごとに切りとって袋に入れ、その袋を振って混ぜ、籤のようにとりだしたものを並べよ、という。

 

 これは、拙稿前段で紹介した文化面記事にある「言語を解体し偶然を重視する表現」の見本とも言える。新聞が、解体と再構成の実験材料にされたのである。ここで必須なのは、紙片を袋のなかでごちゃ混ぜにする工程だ。無意味生産の原動力に偶然がある。訳者解説によれば、著者は晩年にも、詩句を可動式の同心円に書き込み、円をぐるぐる回すことで並びを変えられる作詩装置をつくったという。終生、偶然に魅せられていたのだろう。

 

 20世紀前半、技術文明は進行中の科学革命をまだ取り込めず、19世紀科学の枠にとどまっていた。「自動車」も「大西洋横断汽船」も量子力学の確率論を必要としない。古典物理学の知識で動いてくれる。なにごとも方程式が決めるニュートン以来の決定論が支配域を広げていた。日々の暮らしの利便性は高まったが、半面、時計仕掛けの息苦しさが強まっていたことだろう。その閉塞感を払うように、偶然を演出する芸術が現れたのである。

 

 今はどうか。量子力学をもちださないまでも、世界は偶然に満ちている。ネット社会で思いもよらぬ人のつながりが生まれ、内向きの古くさい言語は破壊可能だ。ところが目につくのは、手垢のついた空疎な常套句ばかり。この現実は、ほんとに重く受けとめたい。

(執筆撮影・尾関章、通算332回)

 

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