『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、角川文庫)

写真》銀河に沿って

 銀河はいつの季語? そう聞かれたら夏と答える人が多いだろう。夏休み、高原で星空を見あげる。プラネタリウムの涼気で、その疑似体験をする。たしかに現代人には真夏がぴったりくる。だが、正解は秋。たとえば七夕の旧暦7月7日は新暦では後ろにずれ込み、今年なら8月9日。明治以前の人々は6月で夏を終わりにして、7月には初秋を感じていた。芭蕉「荒海や佐渡によこたふ天河」も、すでに秋めいた夜空に渡されていたことになる。

 

 ということで今週の主役は、銀河のイメージから連想される詩人、童話作家の宮沢賢治(1896〜1933)。当欄は去年も、彼に登場してもらった。「フランドン農学校の豚」という短編をとりあげて、動物の権利保護という概念にいち早く目をつけていたことに敬意を表したのである(2015年3月27日付「宮沢賢治のディープなエコばなし」)。今回はもう少し話を広げて、賢治世界と理系思考の関係を考えてみようと思う。

 

 僕の印象では、賢治は理系人の好感度が高い文学者だ。自身、少年期には動植物や鉱物の採集に熱中した。青年期には農学校へ進んでいる。有機無機の境を超え、なべて自然が好きだった。それが人間社会の泥沼から超絶した物語に結実して科学心と響きあうのだろう。

 

 自然科学は、ひと括りにできない。『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)という小説を読むと、それがわかる。博物学のアレクサンダー・フォン・フンボルトと数学・物理学のカール・フリードリヒ・ガウスの対比が見事だ。僕はその書評で、前者を「なんでもかんでも集めて回る」、後者を「なんでもかんでもひたすら考える」と要約した(朝日新聞2008年7月20日朝刊読書面)。

 

 これは、専門ごとの志向の違いと重なりあう。科学記者としての経験から言えば、物理系はガウス流に自然界の基本原理を追求する傾向が強いが、生物系はフンボルト流の収集癖も手伝って、自然界の多様な現実に寛容なように見える。最近は二つを橋渡ししようという試みもある。先日紹介した「形の科学」(当欄2016年8月19日付「かたちから入るというサイエンス」参照)がその一例だが、科学の大勢はまだ二分されているようだ。

 

 では、賢治はどちらに与したのだろうか。物理系の世界に向きあうといっても、夢中になったのは石集めだったからフンボルトに近い。だが、それだけで終わってはいない。自然の構成要素を一つひとつ愛でながら、それらの関係性にも思いを馳せている。ガウスのようには数理の美にこだわらないが、宇宙を一つの枠でとらえたがっていたのではないか。そこには、理系世界の分断を縫合するための提言があると言ってもよいだろう。

 

 今回、手にとった一冊は『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、角川文庫)。表題作など8編を収めた作品集だ。題名を羅列すると、「おきなぐさ」「双子の星」「貝の火」「よだかの星」「四又の百合」「ひかりの素足」「十力の金剛石」「銀河鉄道の夜」。天あり地あり、動物あり植物あり。自然界の全方位外交だ。著者は宇宙の隅々まで見渡して、あちこちに物語のタネを見いだす。主人公はときに、天文学規模の時空をいともたやすく行ったり来たりする。

 

 たとえば「双子の星」。主人公は、天の川西岸に光る一対の天体だ。双子だという。周りは宇宙空間のはずだが、野原が広がり、湧き水もある。「底(そこ)は青い小さなつぶ石でたいらにうずめられ、石の間から奇麗(きれい)な水が、ころころころころ湧(わ)き出して泉の一方のふちから天の川へ小さな流(なが)れになって走って行きます」。童話としてはありうる描写だ。ただそれだけなら、星の並びに事物を見る星座命名の域を出ない。

 

 すごいのはそれからの展開だ。双子星が笛を吹いて天球運動を促す音楽を奏でていると、彗星が「おい」と声をかけてくる。「すこし旅(たび)に出てみないか」。さぼっても地球の船乗りや天文台員や小学生は気づかない、とそそのかすのだ。そこで彗星のしっぽにしがみついて出発するが、あるところで振り落とされてしまう。大気圏に突入して雲を抜け、「暗(くら)い波(なみ)の咆(ほ)えていた海の中に矢のように落ち込(こ)みました」

 

 双子星は海底で、星形の「ひとで」から仲間と勘違いされる。自分たちは星だと主張すると「ひとではもとはみんな星さ」とかわされる。そこには大食漢の鯨がいる。鯨より偉そうな海蛇もいる。海蛇の頭目は海の王様で、空の王様を尊敬していたので、双子が天に戻れるよう取り計らった。今度の乗り物は竜巻だ。「急(きゅう)にバリバリバリッと烈(はげ)しい音がして竜巻は水と一所(いっしょ)に矢のように高く高くはせのぼりました」

 

 ここには天動説の世界を昇り降りする交流がある。感心するのは、交通手段を用意していることだ。彗星の動きは、一見不規則にも感じられるからチャーター便に見立てられる。竜巻は、重力に逆らうところがロケットに似ていなくもない。今日の科学では彗星は太陽系の天体であり、竜巻は大気の現象とわかっているので、この筋書きには無理がある。だが、動力にまで意を払って物語を組み立てたところに、著者の理系心が感じられるではないか。

 

 思いだすのは、反原発の市民科学者高木仁三郎さんのことだ。2000年の死去直後に出た著書『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)では、もし原発を動かすのなら事故時には外から強引にではなく内から自然に止めるしくみを使え、と説いている。ならば最初から原発をやめて自然の動力源を、ということにもなる。高木さんは終生、賢治を敬愛した人だった。(文理悠々2010年11月19日付「アトムとの向き合い方」参照)

 

 著者の世界像を一望できるのは、やはり表題作「銀河鉄道…」だ。文中に「約二字分空白」「以下原稿一枚?なし」などの括弧書きがあるように、未定稿が没後に公表された。そこでは、宇宙が複眼でとらえられている。巻末解説の筆を執った心理学者の河合隼雄も、そのことを書く。著者は銀河について「一般の人々よりはるかに豊富で的確な知識をもっていたに違(ちが)いない」が、それでも「『川』ではないと思わなかった」という。

 

 その川沿いを走る列車で、主人公の少年ジョバンニと友人カムパネルラは同乗の少女と会話する。船の遭難で死出の旅の途上にあるという。彼女の語る動物童話はこうだ。サソリがイタチに追われて井戸に落ちたとき、殺生を重ねてきた過去を反省して独白する。「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう」。生と死。そして弱肉強食。そんな生態系の掟を宇宙に位置づけるのが銀河鉄道のすごさだ。

 

 この物語は、宇宙を物理系ととらえたときの銀河像も描きだしている。冒頭でジョバンニらが理科の授業を受ける場面。先生は模型をとりだして、銀河とは星が凸レンズ形の円盤状に集まったものであり、内側にある地球からはそれが川のように見えることを実感させてくれる。これだけなら教科書風の知識だ。だがこの結論に行き着くより先に「もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら」と話を脇道にそらす。そこにこそ含蓄がある。

 

 天の川が川ならば、水に相当するのは「真空(しんくう)という光をある速(はや)さで伝(つた)えるもの」とみてよいという。ここでは、真空に「光をある速さで伝える」という形容句を与えている点に注目したい。特殊相対論が、光はどんな慣性座標系から見ても真空中を毎秒30万kmで進む、としていることの反映だろう。アルバート・アインシュタインが1905年に発表した理論だ。科学通の著者が聞き及んでいてもおかしくない。

 

 僕が驚くのは、その真空を水という実体のイメージでとらえていることだ。相対論と並んで現代物理学の柱である量子力学によれば、真空は本当の空っぽではなく、エネルギーを内在させている。これは、最近話題のヒッグス粒子が物質に質量を授けるしくみにもかかわってくる話だ。「銀河鉄道…」の執筆が進んでいたらしい1920年代半ば、量子力学は産声をあげたばかりだった。著者の感性は物理学の流れを先取りしていたのかもしれない。

 

 著者は、宇宙規模の自然界と堂々と向きあった文学者だ。その筋立ては融通無碍に科学の枠からはみだすが、理系知からみても的を外さない教訓や予感がちりばめられている。これこそが、理系といわれる人々が宮沢賢治に一目置く理由なのだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算334回)

 

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