『グーグルマップの社会学――ググられる地図の正体』(松岡慧祐著、光文社新書)

写真》手もとに I am here”(グーグルマップ)

 このあいだ新装小田原城を訪ねて、その城下を歩いたときのことだ。馴染みがないのに妙に懐かしい。そう言えば……。脳裏に蘇ったのは社会科の教科書だ。たしか、この町の地図が載っていたように思う。山頂は三角、港は錨、畑は双葉、工場は歯車。山あり、海あり、農業地帯には軽工業も興っている。そんな多彩な顔を併せもつ土地柄だから、記号を覚えさせるのに最適だったのだろう。あの地図体験が、既住感のような感覚をもたらした。

 

 新聞記者時代、先輩の出張に同行して感心したことがある。着いた先では必ず、大判の地図を開いた。記者は事件が起これば、いきなり見知らぬ町にほうり込まれる。そこでまず求められるのは、町勢を大づかみに知ることだ。地図は、その助けとなったに違いない。

 

 それほどではないが、僕にも地図への愛着がある。たとえば、小説に地図が添えられていると読みたい気持ちが強まる。この夏、当欄で『南の島のティオ』(池澤夏樹著、文春文庫)を紹介したときも、そのことを書いた。巻頭に、所収作品群の舞台となる島のマップがあり、山や川、町や村が手書き風に描き込まれていた。それを見ただけで物語の空気に引き込まれたのだ。(2016年7月1日付「池澤夏樹の『南の島』に渡ろう」)

 

 地図愛には危うい一面もある。地図は天空から見下ろすように世界を描くので、文字通りの「上から目線」だ。それを広げて町や島の全貌をつかむという行為は、天守閣から領地を望む戦国大名の振る舞いに似ていないこともない。ただ言い添えたいのは、上から目線は権力者の占有物ではない、ということだ。人はだれもが公的な存在なのだから、私的な興味だけでなく公的な関心ももっていたほうがよい。そんなときに地図の視点は欠かせない。

 

 だが、このごろは昔ながらの地図が存在感を失いつつある。数週間前の経験を言えば、とある地下鉄駅から地上の通りに出たとき、昔なら必ずと言ってよいほど目の前にあった地図の案内板が立っていなかった。古くて見苦しいということで、取り払われたのかもしれない。不便じゃないかと憤ったが、今の人にはスマートフォンがあるんだ、とすぐに気づいた。僕も結局は、その場でグーグルマップを開き、行き先までの道筋を調べたのである。

 

 で、今週は『グーグルマップの社会学――ググられる地図の正体』(松岡慧祐著、光文社新書)。今年6月に出たばかり。一瞬、いまどきのITビジネス本かと思ったが違う。あくまでも主題は、地図の変容。新世代の代表としてグーグルマップを登場させている。著者は1982年生まれの社会学者で、略歴欄には「現代の都市や地域社会を表象するメディアとしての地図のあり方について社会学的な見地から調査・研究している」とある。

 

 学究の著作らしく、第1章には地図の定義がある。地図学の大家A・H・ロビンソンらは、三つの特徴を挙げたという。それを、ここで要約してみよう。一つめは「縮尺」。これによって距離や方向、面積の秩序が保たれる。二つめは「平面」。2次元表示ということだ。三つめは「選択」。描き込まれるものの取捨選択は欠かせない。はっとさせられるのは「平面」だ。当たり前のことを言っているようだが、ここにこそ地図の本質がある。

 

 平面に表すということは上から目線をもたらすが、その結果、僕たちは「世界を見わたすことができるようになる」。一望感は公的な関心と分かちがたい。たとえば朝食のとき、このパンの小麦はどこで収穫されたのだろうと思い巡らすとしたら、その瞬間、念頭には地図のイメージが広がっているはずだ。この本は、世界を「単一の連続平面」、国を「国境線によって区切られた領域」とみる通念が生まれたのも地図があったからこそ、としている。

 

 ところが最近、一望感が乏しい地図が台頭した。最初は1990年代後半に広まったカーナビだ。クルマの動きに画面が追随する。地図の中心点が「移動する個人の身体を基準にして動くようになった」のである。それを可能にしたのは、地図が人工衛星の全地球測位システム(GPS)と結びついたからだ。システムが「わたし」を追いかけてくれる。「地図のなかに『わたし』を出現させたことは、まちがいなく大きな革命であった」

 

 これを伏線として登場するのが、グーグルマップのスマートフォン版である。パソコン版が2005年に世に出たが、その使い手は止まったままでいた。ところがスマホの普及とともにGPS機能付きスマホ版が広まると「カーナビを手のひらに『携帯』しながら歩くような状況」が現実になった。「歩を進めるのに合わせて、現在地を示すアイコンが地図上をリアルタイムに移動していく」。それが、町の案内地図の退場を促しているとも言える。 

 

 著者の見方によれば、これは「見わたす地図」から「導く地図」への変化と考えてよい。街角でグーグルマップを開くとき、目を凝らすのは、自分が今いる地点から行き先までの道筋だ。「ユーザーは地図を面として『見わたす』のではなく、もっぱら点(現在地)と点(目的地)をむすぶ線(経路)を『追う』だけの存在になっていく」。地図の定義にあった「平面」の平面らしさが薄れ、そのなかの点と線ばかりが意識化されるというのである。

 

 しかも、「点(現在地)」は地図の真ん中にくる。僕が思うに、これはコペ転――コペルニクス的転回だ。天動説が地動説になって、座標の中心は地球から太陽へ移った。それが20世紀に再び見直され、アルバート・アインシュタインの相対性理論では、どの座標系にも同等の地位が与えられる。だから、地球どころか自分の居場所を中心にしても一向に構わない。グーグルマップは、そんな究極の相対論を具現してくれる、と言ってもよいだろう。

 

 それは、英語圏の案内地図の“You are here”を突き詰めたものかもしれない。日本語で言えば「現在地」のことだ。『日本語と英語 その違いを楽しむ』(片岡義男著、NHK出版新書)で片岡さんは、そこにyouという人格が現れることに着目して「youはhereつまり、『ここ』にあるのだ」と書いている(文理悠々「片岡義男に教わる英語っぽい英語」2012年11月19日付)。僕たちは今、地図に自身の人格“I”を埋め込めるようになった。

 

 著者によれば、グーグルマップは世界を「断片化」している。そこに立ち現われるのは「無数の『いま・ここ』」である。それは当座の経路案内だけでなく、遠くの町の地理探索でも同様だ。世界は、使い手の求めによって狭い範囲に「切り取られる」。地図の使われ方が「データベースから、個人の好みに応じて断片的なデータが引きだされ、その組み合わせが消費される」という「データベース消費」に変わってきたのだという。

 

 言葉を換えれば、地図はデータベースの一部に組み込まれた、と言えるのかもしれない。現にグーグルマップも地理情報システム(GIS)に支えられているという。この技術は「地形・地質の状態から観光・交通情報まで、さまざまな地理情報をデータベース化」するもので、それを「地図上に表示する」機能もある。飲み会会場の候補をたちどころにリストアップできるのも、そのおかげだ。地図が情報の保存庫と一体になったのである。

 

 この本は、「導く地図」のマイナス面も指摘している。著者の見立てでは、グーグルマップの使い手には「その時々での情報収集と空間行動の『便利さ』や『快適さ』を求める」傾向が強いが、「全体を見わたして個々の要素をまとめあげ、その全体の地理について物語るイメージを共有しよう」という動機が希薄だという。僕が「公的な関心」と言ってきたものは、この「物語るイメージ」に重なる。物語は新世代の地図から消えてしまったのか。

 

 この本を読むと、決してそうではないことがわかる。グーグルマップは地図に「継ぎ目」がないので、画面をずらしていけば遠隔地との「つながり」を地球の裏側まで感じとれる。視点の高度を変えてズームインやズームアウトができるので、自分が世界の一角にいることも実感できる。過去の風景を呼びだす機能が広まれば、タイムマシンの疑似体験も日常のことになってくる。そこには、時空を超えた物語を生みだす力が宿っているのである。

 

 眺めるよりも動かす地図が手もとの機械に潜んでいる。食わず嫌いになる前に、ササッと指を滑らせて遠くへ出かけてみよう。僕たちは、本を通じて会ったことのない人の話を聴くことができるが、同様に地図を通じて知らない町を歩きまわれるようになったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算335回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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