『ボブ・ディラン――ロックの精霊』(湯浅学著、岩波新書)

写真》The Freewheelin’のようにジーンズ

 英国ウェールズにディラン・トマスという詩人がいる。1953年に死去しているから、「いた」というべきか。今から20年余り前、ロンドンに住んでいたとき、この人が英国人からどれほど敬愛されているかを知ったのだが、僕にはピンとこなかった。詩の真髄を感じとるのは外国人には難しい。やけっぱち気味に、僕のディランはアメリカにいる、と思ったものだ。そのボブ・ディランが今年のノーベル文学賞受賞者に決まった。

 

 「僕のディラン」とボブのことを言っても、その歌詞はやっぱり難しい。原語で読むと、わからないところだらけだ。訳があれば助けとなるが、それでも原意は完全には伝わってこない。なのにどうして、「僕の」なのか。たぶん言葉の連なりが、あのしゃがれ声で絞りだされてギターやハーモニカの調べに乗ると、意味は切れ切れでも胸に迫ってくるからだろう。この一点で、歌とは詩集の詩と似て非なる表現方式と言えるのかもしれない。

 

 報道をみていると、これが文学賞にふさわしいのか、という声は根強くあるようだ。今年の発表が理系3賞や平和賞よりも1週後ろにずれ込んだのも、この選考がもめていたからだろう。それでも、強行突破したのはなぜか。そこには、超大国米国へのメッセージという一面もあると僕は思う。大統領選を意識したとまでは言わないが、内に人種差別が残り、外へは排他主義が強まる現状に欧州の知識人はひとこと言いたかったことだろう。

 

 ただ、今回の決定を政治的な文脈だけでとらえるのは、おそらく正しくない。ノーベル賞は、これが文学かと言われるものをあえて文学の範疇に引っぱり込んだ、と僕は推察する。そこには、ポップカルチャーに対する謙虚な姿勢がみてとれる。20世紀以降、レコード、ラジオ、テレビ、CD、ネット配信と続くメディアの進化が、民族や文化の違いを超えて親しめる言語芸術を生みだしたことを、文学の側から認知したのだとも言える。

 

 ここで思考実験を一つ。ポップカルチャーにノーベル賞を出すとなれば、真っ先に思い浮かぶのはビートルズだ。音楽賞があれば、それは間違いない。ただ、文学賞を贈るとなれば、話は簡単ではない。歌づくりの中心にいたのはポール・マッカートニーとジョン・レノンだから、二人の作詩活動が吟味されることになるが、ジョンはすでに故人なので選考の圏外にある。さらに詞の詩らしさという文学性を問えば、ディランには及ばないだろう。

 

 こう見ると、文学賞の選考にあたる委員会はいいところを突いたように思えてくる。ディランがいたからこそ、音楽と不可分の言語芸術というジャンルを文学の一つのありようとして再確認することができた。それによって文学の定義を拡張したのである。

 

 で、今週は『ボブ・ディラン――ロックの精霊』(湯浅学著、岩波新書)。著者は1957年生まれの音楽評論家。ディランの自伝(邦訳は『ボブ・ディラン自伝』菅野ヘッケル訳、ソフトバンクパブリッシング)や元恋人の著作(邦訳は『グリニッチヴィレッジの青春』スージー・ロトロ著、菅野ヘッケル訳、河出書房新社)など多くの文献を参照しながら、その半生を跡づけた。この一冊で思い知るのは、彼が決して過去だけの人ではないことだ。

 

 刊行は2013年。ディランはここ数年、文学賞の有力候補に名が挙がることが多かったから、僕はいざというときのために買い込み、大部分を読み終えていた。今回、読み残しの章を開いて近年の様子を知るに至り、人間としての奥深さにさらに感じ入ったのである。

 

 まずは、ディランの生い立ちをこの本に沿って素描してみよう。本名は、ロバート・アレン・ジママン。1941年、ミネソタ州で生まれた。父母ともユダヤ人。父は石油会社に勤めていたが、病気で退職して、田舎町の電気店で働いていた。子どもたちにピアノを習わせようとしたというから暮らし向きは悪くなかったようだ。ところが、ロバートはレッスンを拒み、「弾きたいように弾かせろ」と自己流で学んだという。さすが、ではないか。

 

 「ボブ・ディラン」の誕生は1959年、ミネソタ大学に進んでから。ここで、もう一人のディランが出てくる。「自伝」によれば、歌手活動を始めようとした頃、たまたまディラン・トマスの詩に触れた。芸名の第一候補は「ロバート・アレン(Robert Allyn=本名はAllen)」だったが、ディラン(Dylan)はアレンに似ていて、しかもD音に強さがある。これにロバートの愛称ボブをくっつけたら字面の見栄えも音の響きもよくなった、という。

 

 このいきさつから僕が感じとったのは、ボブ・ディランが早くから詩に馴染んでいたこと、のみならず語尾の韻や子音の効果にも敏感な感性を備えていたことである。当時、ライブの場としては「コーヒー・ハウス」と呼ばれる店々があった。それらは「アーテイスト志向のボヘミアンたちの溜まり場」で、「詩の朗読やライヴなどが夜ごとおこなわれていた」。彼の出発点は、歌の詞が詩集の詩と交ざりあう文化土壌だったと言っても過言ではない。

 

 ディランの代表曲「風に吹かれて」では、“How many”の繰り返しが僕には印象的だ。それが英語圏外の人々の耳にも訴えかけてくる。これも、言語を音としてとらえる感覚があるからこそ埋め込まれた仕掛けと言えよう。著者はディランの曲の構造を「歌が詞と緊密に結束している」「ビートは歌唱の中から練り上げられる」と表現している。まさに詩集の詩ではない詞の開拓者だ。シンガーソングライターの面目躍如である。

 

 ディランのもう一つの側面は社会派ということだ。若いころに傾倒したのはフォーク界の先達ウディ・ガスリー。「世俗的犯罪、梅毒、砂嵐、ダム建設、労働組合運動、悲恋」と、世事をなにからなにまで歌の題材にした人だ。その影響は自作の詩に反映された。

 

 ここで感銘を受けるエピソードが一つ。ディランは、作詞のために「図書館に通い一九世紀中頃の新聞記事を読み込んでいく」という作業までしていたという。この本によれば、当時は世の中の出来事をストーリー仕立てにして、詞を「伝わっているフォーク・ソングの節にあてはめて歌う」という歌のつくり方があった。河内音頭新聞詠み方式だ。彼もそれを試みたが、ネタ探しを同時代にとどめず、過去の世相も掘り起こそうとしたのである。

 

 私事の懐旧談になって恐縮だが、僕自身も社会人になる前、歌詞づくりに没頭していた頃がある。そのときに一人で勝手に掲げた看板はルポルタージュソング。内心には、私小説風のフォークへの反発だけでなく、歌で伝えられるものは恋のあれこれに限らないという確信があった。記者生活を経た今でも、100の名文より1曲の歌詞のほうが人の心に素直に届くと思っている。これこそが、音楽と不可分の言語芸術の強みではないか。

 

 ディランのそんな歌づくりは、反戦反体制と表裏一体だった。1960年代初めには公民権運動が高まる。62年はキューバ危機の年だ(当欄2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」参照)。翌年に出たアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』には、風刺性の強い曲も収められようとしていた。その一曲にテレビの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」が難色を示したとき、ディランは憤然と出演を拒否した。

 

 結局、その曲は『フリーホイーリン……』に収められず、別のものに差し替えられる。ともあれ、このアルバムはジャケットの写真が出色だ。ニューヨークの街で撮られたのだろう。ディランがジャンパーにジーンズ姿で、ポケットに手を突っ込み、女性と腕を組んで歩いている。この相方こそが『グリニッチヴィレッジの青春』の著者スージー・ロトロ、愛称スーズだった。ジーンズによって象徴される解放の時代の匂いが全面から漂ってくる。

 

 最後の2章でわかるのは、ディランの歌に対する誠実な態度が歳を重ねてますます磨かれていることだ。2006年から09年まではラジオ番組のパーソナリティを務め、一つひとつの曲について、その歴史的、地理的、文化的な背景を解説したり、演奏家論を披歴したりしたという。分野もブルース、カントリー、ジャズからヒップポップまでと多彩で、「音楽的度量の広さ」は歴然。まっとうであり、柔軟でもある。頑固おやじではない。

 

 さて授賞式にはどう臨むのか。出席辞退か、歌をうたうのか。彼の選択が楽しみだ。

(執筆撮影・尾関章、通算339回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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