『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア著、安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫)

写真》スコットランドのチェック模様

 暮れまでにシェイクスピアを一冊、と思っていた。今年5月に演出家蜷川幸雄さんが逝ったときは、本人の手になるエッセイ集を話題にしている(当欄2016年6月3日「蜷川はあのころ、テレビの中にいた」)。だがそれでも心残りで、沙翁ものについて書くことを宿題にしていたのだ。で、マクベスの新訳本をぱらぱらとめくっていたら、追い討ちに遭った。「NINAGAWAマクベス」を主演した俳優平幹二朗さんの訃報である。

 

 僕は、別に演劇青年だったわけではない。英文学の研究者でもない。それがどうして、この歳になってシェイクスピアに心惹かれるのか。そのことでは、1年前の当欄に言い訳めいたことを記している(2015年9月11日付「ハムレットを2時間ドラマに重ねる」)。テレビの2時間ミステリー、すなわち「2H」ドラマをこよなく愛する立場で言えば、そこで露わとなる人間心理はシェイクスピア劇に原型を見いだせる、という話だった。

 

 補足すれば、2時間ミステリーでは人間社会の愛憎や欲望が素朴に描かれる。僕たちが日々経験している心模様は、ときにモヤモヤ、ときにフツフツとしてとらえどころがないが、2Hの典型例である家元もの、復讐ものなどは、わかりやすさがモットーなので話が単純化されている。家元襲名をもくろむ野心や、受けた仕打ちに対する怨みが、言葉として、あるいは行為として、視聴者の前にあからさまなかたちで呈示されるのである。

 

 シェイクスピア劇も、それに似ている。もちろん登場人物の内面は、そこに正義、勇気、信仰といった徳目も入り込んできて含蓄に富んでいるのだが、ただ野心、嫉妬、情愛、憎悪、裏切りなどの心理要素がスープの具のように伏在する。スープが台詞や筋立てによって濾され、それらが現れ出るところが作品の魅力ではないだろうか。人の振る舞いの動機に心理要素が見えてくるという一点で、2Hに通じているように思うのだ。

 

 最近は、陰惨な凶悪犯罪が後を絶たない。言葉にするのも心が痛むので、個々の事件に触れるのは控えよう。ただ一つ言えるのは、犯行の動機がはっきりしないとされる事例が目立つことだ。本当にそうなのか、それとも容疑者の心理が分析されていないだけなのか。

 

 この問いは奥が深そうだ。16〜17世紀に比べると、僕たちはいま途方もなく複雑な人間関係の網に絡めとられている。社会学風に言えば、血縁地縁の共同体だけでなく、機能本位の組織にも身を置く人が多い。20世紀末からは、それにITのネットワークが加わり、匿名社会の雲に覆われて戸惑うこともある。だから、現代人の凶行に動機があったとしても、その要素を紡ぎだす作業は、シェイクスピアの手にも余るほど難しくなっている。

 

 そんな現代社会に照らしながら、マクベスを読んでみよう。手にとったのは『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア著、安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫)。2008年の刊行だ。訳者は大学人でありながら舞台演出の実践家でもあったが、この本が出る直前に世を去った。巻末で、演劇活動を一緒に続けてきた俳優の橋爪功さんが惜別の文章を書いている。橋爪さんと言えば、2Hにも欠かせない名優だ。2Hはやはり沙翁につながっている。

 

 幕が開いてまもなく、スコットランド王ダンカンに士官の一人がマクベス将軍の武勲を伝える場面がある。逆賊が相手。「大太刀(おおだち)ふるって敵兵どもを薙(な)ぎたおしては血煙を立て、軍神の寵児(ちょうじ)のごとく決然と血路を開いて、ついに目ざす仇敵(きゅうてき)とあいまみえるや、もとより握手も別れの挨拶もなく、やにわに臍(へそ)から顎(あご)まで、真向(まっこう)さかさ幹竹(からたけ)割りに切り裂いた」

 

 血なまぐさいが、登場人物の顔ぶれから11世紀の出来事らしいので、中世の倫理尺度で測らなくてはなるまい。ダンカンも「おお、雄々(おお)しいわが血族、無双の勇士だ」と感嘆する。残忍な行為は、戦場の敵に対するものならば高い評価を受ける時代だった。

 

 これで、マクベスは上昇気流に乗る。そこに魔女を絡ませるところがシェイクスピア劇の妙だ。彼が雷鳴轟く荒野に現れると、彼女たちは次々に声をかける。一人目は「グラーミスのご領主様」、二人目は「コーダーのご領主様」。前者は現在の地位、後者はダンカンから褒美として授かるものだ。そして最後の一人。「やがては王様に、おなりになる方」。悪魔のささやきとはこのことだろう。武将の内心をよぎる野望を魔女に代弁させたのか。

 

 どうも、それは違うらしい。このときマクベスには連れがいて、魔女たちの言葉を傍聴しているからだ。将軍仲間のバンクォー。マクベスにとっては友人であり、競争相手でもある。その台詞が聞きどころだ。「わが畏敬(いけい)する友人」が予言にギクリとするのをみてとった後、「私にはなにも言わぬな」と不満を漏らす。「どの粒は芽を吹きどの粒は芽を吹かぬか言えるものなら、それならおれにも言え!」と彼女たちに迫るのである。

 

 これに応えて、魔女三人はバンクォーの未来も占う。一人目は「もっとずっと、偉くなる方」。二人目は「もっとずっと、幸せになる方」。三人目はもう一歩踏み込んで、先の先まで読む。「自分は王にはならずとも、代々の王様の、その父祖となる方」

 

 ここで僕が思い浮かべたのは、会社人間だった頃のことだ。仕事が終わって、同僚と街へ出たとしよう。場所が居酒屋であれイタリアンであれ、話題の定番は人事だ。ある役職に次に就くのはだれかという話では、ときに自分も抜擢の圏内にいることがある。ところが、同僚の口をついて出るのは別人の名ばかり。そういう体験に覚えがあるサラリーマンは少なくないはずだ。バンクォーの「私にはなにも言わぬな」は現代人の心にも宿る。

 

 登場人物の心のざわつきを魔女の言葉であぶり出すという仕掛けは、アフターファイブの居酒屋状況を再現したことに等しい。ポストを求める野心や競争相手に対する嫉妬は、人の内面だけでつくられるものではない。むしろ、小耳に挟む第三者の言葉によってそそのかされ、膨らんでいくものなのではないか。シェイクスピアは、そのことを見抜いていたような気がする。自我を駆動する要因を他者との関係性に見いだしているのである。

 

 マクベス夫人の存在も、この視点で読むことができる。彼女は、夫の手紙で魔女の予言を知って不在の彼に語りかける。そこで吐露されるのは「気にかかるのは、あなたの気性。人間らしい情愛という、甘い乳がありすぎる」との懸念。出世欲に不可欠の「毒気」が「あなたにはない」と断じる。怖がらずに獲りにゆけ。そんな感じか。自分も力になろうと心に誓う。極めつけの台詞は「あなたの耳に注いであげよう、私の胸の、この毒気を」である。

 

 今、サラリーマンの配偶者がこんなに毒々しい独白をすることはまずあるまい。ただ、勤め人が家庭に帰ったとき、これに似たメッセージを家族の視線に感じとることはあるかもしれない。しかも、その背後には隣近所の地域社会があり、友人知人の輪が幾層にも広がっている。本人は出世に無頓着でも、人々から向けられる目が野心や嫉妬を否応なく刺激してくるのだ。その効果を、マクベス夫人が体現しているとは言えないか。

 

 もう一つ、魔女の予言をめぐって僕が興味を覚えるのは、運命と意志の相克だ。マクベスはダンカンを裏切って王となった後、この下剋上はバンクォーの子孫を王位に就かせるための一里塚にすぎなかったのかと嘆いて、こう言う。「そんなことになるくらいなら、来い、運命よ。決闘の場に出てくるがいい。ぎりぎり最後の決着をつけてやる」。予言を「運命」と受けとめつつ、それは人間の意志によって可変とみているように思われる。

 

 唐突だが、僕がふと思ったのはマルキシズムだ。この思想は共産主義の到来は必然としつつ、しかも革命を促そうとする。運命の筋書きがあっても、そこに人間の意志を介入させたくなるのが欧州流なのか。シェイクスピアにもそれを感じてしまう。

 

 この作品の初演があったらしい1606年、イングランド王はスコットランド王を兼ねるジェイムズ1世で、バンクォーの子孫とされる人だった。王権の正当性が運命に裏打ちされるなら鬼に金棒だ。この筋書きは、シェイクスピアなりの処世術だったのだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算338回)

 

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