『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)

写真》スイートなアメリカ

 トランプ大統領が現実になる。当欄は昨秋、今年の米国大統領選について「当選するのは、たぶんあの人だと思うが、もしかしたら違うかもしれない」と書いた(2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。歴史の針は、その「もしかしたら」に振れたのである。有力メディアの多くはドナルド・トランプ氏の言動にあきれて批判を重ねたが、それが通じなかった。そして選挙終盤、世論調査の大勢も有権者の動向を見誤った。

 

 またも痛感するのは、既成メディアの凋落だ。人々の心に訴える力も、人々の心を読む力も衰えた。「ジャーナリストが世論を代弁して、権力と対峙するという模式図が通用しなくなった」のである(当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」)。8月の拙稿では、メディアが「世論の幻影」を求めて多様な主張の「当たり障りのない平均値」をはじき出そうとしていることに言及したが、その計算も難しくなってしまった。

 

 そんな現実への戸惑いを率直に打ち明けたのが、米国のリベラル派経済学者ポール・クルーグマンの論考だ。ニューヨーク・タイムズが11月11日に載せたものを抄訳で読んだ。「私は『その日』以降の大半はニュースを避け、個人的なことに時間を費やし、基本的に頭の中をからっぽにして過ごした」(朝日新聞2016年11月17日朝刊)。「その日」とは選挙結果が出た日だろう。この気持ちはわかる。僕も数日間は新聞を読む気分が萎えた。

 

 クルーグマンは「でも」と続けて、虚脱状態は「民主主義国の市民」らしくないと思い直す。「真実と米国の根本的な価値観のため」の抵抗が必要だとしたうえで「だが…(中略)…演説や文章が人の考えを変え、政治的行動主義が最終的に権力者を変えることも…(中略)…もはや期待できなくなっている」「だが、免れようがないと言って、この状況を受け入れるつもりはない」と右往左往する。「でも」と「だが」の連発に苦悩がにじむ。

 

 この当惑は、たぶんリベラル派だけのものではない。そう思うのは文中に「真実と米国の根本的な価値観」とあるからだ。人権、自由、平等。米国の指導者は独立以来、やせても枯れても理念とともにあった。独り善がりが余計なお節介となって国外の紛争をドロ沼化させることもあったが、彼らが建前の旗を降ろすことはなかった。それがただ“Make America Great Again(米国をもう一度、偉大に)”の本音だけに代わってしまうことへの違和感。

 

 で、今週は『壊れゆくアメリカ』(ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社)。著者の卓見には、これまでも彼女の著作ではない本を語るときに触れてきた(当欄2014年10月17日付「今こそ宇沢経済学ではないか」、2016年8月19日付「『かたち』から入るというサイエンス」)。今度は本人の本をぜひ、と機会を狙っていたら、邦題『壊れゆく…』が目にとまった。2016年暮れの心象風景にぴったりくる書名ではある。

 

 著者(1916〜2006)は米国出身で、後年、カナダに移住した都市問題の論客。フリーの著述家として健筆をふるった。代表作は『アメリカ大都市の死と生』。アカデミズムから離れたところで思想を深め、社会に影響を与えた人だ。この一点で、僕は『沈黙の春』のレイチェル・カーソンとの共通項を見る。『壊れゆく…』の原題は“Dark Age Ahead”。2004年に出て、著者の遺作となった。この邦訳の刊行は2008年。

 

 一読してわかるのは、著者が母国と移住先をひと括りにとらえていることだ。邦題の「アメリカ」は北米と読んだほうがよい。米国、カナダの同時代史を考察している。文章は融通無碍にあちこちへ飛ぶが、そこには一貫した論理がある。その主軸は得意の都市論だ。

 

 著者が「倒壊」の兆しをみるものの一つが「家族」だ。だが保守派のように、家族の絆の緩みを嘆いているのではない。むしろ、孤立しがちな核家族が地域社会(コミュニティ)とどう関係するかに関心を寄せる。興味深いのは、地域社会のもっとも大切な機能は「友人や知人、近隣との会話によるかかわり」であり、その回路で知識や情報がもたらされれば核家族の人々が地域の一員として「責任を果たすことができる」と論じていることだ。

 

 「責任」とはどんなものか。著者が挙げるのは「軽い病気や怪我の場合に自宅で治療できるだけの知識と経験」「病気や怪我が自宅療養できないほど重症で命に関わる危険があるかどうかを、即座に正しく判断できる能力」「子どもが薬物に走らないように注意し、また他人を警戒しつつだれでも疑ってはいけないと子どもを訓練する能力と気配り」……。核家族が地域に支えられれば、救急車や警察ばかりに頼らない社会が生まれるということか。

 

 著者が危ういと感じる二つめは「大学」だ。北米では「教育を授けるのではなく、卒業証書を与えることが一義的なビジネスとなっている」と断じて、親がわが子の大学進学を「投資」とみる傾向を嘆く。日米の大学比較論で、日本では入試が難しくて卒業はたやすいが、米国では入学後の学業が厳しいので出るのが難しい、という話をよく聞くが、必ずしもそうではないらしい。1960年代から証書発行の場と化したという。

 

 著者によれば、学歴偏重社会は「一九三〇年代の大恐慌の、いわば間接的な遺産」だ。米国やカナダには働きぐちを得ることを最優先に考える文化が生まれた。その志向は教育を蝕んだだけではない。開発本位の政策も生みだした。一例は、米国が1950年代半ばから進めた「州間高速道路システム」だ。「高速道路建設によるアメリカの地域社会の破壊という意見は、完全雇用の創出という正当性によって簡単に打ち消された」と批判している。

 

 トランプ旋風の背後には、ラストベルト=錆びた工業地帯に根強い雇用喪失への危機感があったといわれる。著者は、大恐慌の記憶をたどって大量失業がもたらす苦難を描く一方、求職一辺倒、雇用一辺倒という妖怪が社会を歪めてきた現代史も見逃していない。

 

 印象深いのは「放棄されたサイエンス」という章だ。著者が1950年代、ニューヨーク・グリニッチビレッジの広場を分断する高速道路案に反対したとき、当局者は「交通は水のようなもの」と言い張ったという。せき止めた水が別の出口に流れるように、マイカー時代に幹線道路がなければ周りの小道が車だらけになる、という理屈だ。だが現実には「彼の不吉な予言はあたらなかった」。一見科学的な「水の仮説」が実は科学的でないという逆説。

 

 この章には、1995年夏に数百人が犠牲となったシカゴ熱波の話も出てくる。批判の的は、水分摂取不足、エアコンなしという引きがねばかりにとらわれた医療チームの調査。自己責任論に陥りかねないことを指摘する。むしろ著者は、社会学の大学院生が進めた研究に着目する。それによれば、高齢者の死亡率が低い地域では彼らの多くが商店主と顔見知りで、「ためらわず涼しい店中に入っていき、一杯の水を求めることもできた」という。

 

 この二つの事例からわかるのは、著者は都市問題に科学のメスを入れるとき、人間を不可欠の要素と位置づけていることだ。人は、道路事情が悪ければマイカーを使わずに出かけようという気になる。見知った顔を見かければ「ちょっと涼ませてくれるかな」と頼むこともできる。それが人間というものだ。流れるものならなんでも水にたとえ、生命体といえば生理作用しか思い浮かばない思考のありようは、本当の科学ではないということだろう。

 

 著者は、この章で科学の惰性を戒めている。そこでもちだすのは、科学史家トマス・クーンの論考で広まったパラダイムという概念だ。考え方の枠組みである。科学界でパラダイムは「非常に大切にされる傾向」にあるので、それを疑う「新しい知識や証拠」を突きつけられると「こじつけの説明」などで「潤色される」という。頭に浮かぶのは、3・11後の今も根強い原発必要論だ。ここでも、人間を織り込んだ新思考が求められてはいないか。

 

 「アメリカの郊外を数キロほどドライブしても、乗用車やトラックから降りた人や歩いている人影は見かけない」「地域社会が存在するためには、人々が本人同士で出会わなければならない」。これこそが、ジェイコブズ思想の核心だろう。米国社会が取り戻すべきは偉大さではなく、人が歩いて人と会い、言葉を交わす町ではないのか。よその国のことではあるが、その開放感のある文化が好きだからこそ、余計なお世話を焼きたくなる。

(執筆撮影・尾関章、通算345回)

 

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