『赤い橋の殺人』(バルバラ著、亀谷乃里訳、光文社古典新訳文庫)

 この欄では、幾度となくテレビの2時間ミステリーの話をしてきた。業界人にならって僕も「2H(ニイエイチ)」と呼ぶドラマ群である。月曜日ならば「月曜ゴールデン(TBS系)」、水曜日ならば「水曜ミステリー9(テレビ東京系)」、金曜日ならば「金曜プレステージ(フジテレビ系)」、そして土曜日には「土曜ワイド劇場(テレビ朝日系)」。僕の夜2時間はほぼ連日、2H漬けだ。
 
 なぜ、そんなにハマってしまったのか。その秘密は、あのまったり感だ。たとえば、締めくくり20分の大団円。岬の突端や川のほとりやビルの屋上などで、追い詰められた真犯人がすべてを告白する。このときにドラマの筋書きをもう一度なぞるので、くどいと言えばくどい。だが、それは視聴者サービスにもなっている。最後に復習タイムがあるとわかっていれば、途中安心してうとうとできるではないか。
 
 もう一つの「まったり」は、殺人が記号になっていることだ。犯行の場面は、驚くほどに模式化され、被害者が刺されても血しぶきは飛ばない。それは虚構世界の絵空事であり、刑事や検事、あるいは温泉若女将など俄か探偵のために用意された謎解きの対象にすぎない。放映の夜、7時のニュースでどんなにむごい凶悪事件が報じられていても、ドラマを観る人が「あれとこれとは別」と思えるようなしくみになっている。
 
 だから、ほとんどの場合、人が人の生死に向きあうときに感じるはずの畏れは捨象されている。連続殺人となれば、チェスの駒のように登場人物が次々に消えていく。たとえば、パック旅行の観光客が一人ふたりと殺害されていくドラマ。そんなことになったら旅情どころではないだろうに残りの客はそのまま名所めぐりを続けたりする。ここに世間の常識はない。それもこれも、記号によって綴られた虚構の物語だからだ。
 
 こう見てくると、2Hドラマは、テレビ視聴者が現実世界の悩みごとをひととき忘れるための仕掛けにほかならない。いわば、究極のストレス緩和剤。したがって、探偵小説、推理小説、ミステリーと呼ばれる文学ジャンルを土台にしていても、それとは違うくくりでとらえるべきだろう。たとえ小説を原作とするものであれ、2H仕立てに調理されたとたん、別ものに生まれ変わる。
 
 で、今週の一冊は、5月に出たばかりの『赤い橋の殺人』(バルバラ著、亀谷乃里訳、光文社古典新訳文庫)。19世紀フランスの中編小説だ。バルバラと聞いてピンとくるのは女性シャンソン歌手だが、この本の著者は名前がシャルル、男性作家である。2Hドラマ風の表題に惹かれ、書店で思わず手にとった。読んでみると2Hに似たところもあり、違うところもある。相似点は後段で犯人の告白が延々と続くこと。相違点はその告白の中身だ。
 
 訳者執筆の解説やあとがきによると、著者は1817年、オルレアンの楽器製造業者の家に生まれた。パリ高等音楽院に学んだが、文学に転じて「放浪芸術家(ボエーム)」と呼ばれる若者たちと交わり、詩人ボードレールとは親友関係に。とはいえ、フランスでも長く顧みられることの少ない作家だった。1980年代、著者の生涯と作品に光をあてた訳者の博士論文がフランスで公開されたことが認知度を高めることに貢献したらしい。
 
 作風に影響を与えたのは、探偵小説の先駆者エドガー・アラン・ポーのようだ。「ボードレールとともにかなり早くからポーを理解し傾倒してその着想を楽しんだことはまず確実」(解説)という。『赤い……』はその果実とも言える。1855年に発表された。
 
 物語は、「探偵」の役回りのバイオリン奏者マックス青年が友人と会話する場面から始まる。友人は、マックスが好意を寄せる寡婦の姓を聞いて驚く。「君が新聞を読んでないのは明白だ」。彼女の夫は、セーヌ川で遺体が見つかった証券仲買人だというのだ。
 
 「帽子と外套を身につけ、ボストンバッグと十万フランの紙幣で膨れた札入れを携えて、旅行者の身なりをしていた。だが、彼は自分があけた穴を埋める金はもっていなかった。そんなわけで、良心の呵責に耐えられずに投身自殺をしたというのが関係者の見方だった」。2Hファンなら、川べりに駆けつけるパトカーが思い浮かぶくだりだ。タイトルに「セーヌに浮かぶ死体、証券マンは美人妻を残してなぜ死んだか」という副題を添えたくなる。
 
 今回はミステリーなので筋は追わない。ただ題名に「殺人」とあるのだから、自殺でないことは明かしてもよいだろう。僕が焦点を当てたいのは、一人の人間を凶行に走らせた理屈だ。犯人はマックスにこう言う。「神が存在せず、良心とは偏見にすぎず、死とは無であると信じるならば、罪と呼ばれるものは相対的でしかなく、苦しみは無意味であり、苦しみから免れるためにした行為が法によって罰せられないなら、それらはすべて許される」
 
 なんとも短絡的だ。だが、これが19世紀欧州の青年の口から語られたことには大きな意味がある。「当時、自然科学の飛躍的進歩とともに唯一絶対の神に対する懐疑思想が知的な若者の世界を風靡(ふうび)していた」(解説)からだ。犯人が行き着いた論理は、キリスト教倫理が抜きがたく組み込まれた欧州社会で、その重しが揺らいだときに人々が一度は通過する思考過程だったのかもしれない。
 
 この論理があると、背中を一押しされるだけで人は一線を越える。「だから必要不可欠な共犯者として偶然が必要だったんだ」と、犯人もマックスに打ち明ける。実際、犯行当夜は、殺人者に都合のよい条件がたまたまそろった。セーヌ河畔界隈は霧が立ち込め、人の気配もなかった。これなら、だれにも気づかれずに死体を川に投げ捨てられる。犯人は思う。「無罪は確実だ」
 
 興味深いのは、このとき犯人の心に懐疑思想とは矛盾する思いもよぎったことである。「ついには僕は神が存在し、この神は僕の共犯者で、一人の犯罪者を罰するために僕の手を利用し、僕は義務、つまり神の使命を果たすのだと考えるまでに至った」。神の存在を疑っていたはずなのに、罰を受けずに済みそうな成り行きをみて、それをただの偶然とは思わず、神の思し召しと感じる。欧州近代人の葛藤をうかがわせる心理描写ではないか。
 
 そして犯行後、犯人はこんな考えにとらわれる。「〈確実に罰を受けない〉とは、ほとんどの場合は虚構に過ぎない。抜群の能力をもった凶悪犯が巧妙であるために徒刑場や死刑台を免れたとしても、その凶悪犯は、自身が愚弄する罰よりも、さらに千倍も恐ろしい罰を自らの中に見出すことになる」。どこまでが現実でどこからが幻想かわからない恐怖体験。周りの人が口にした一言で呼び起こされる疑心暗鬼。これらが犯人を苛みつづける。
 
 懐疑思想がキリスト教倫理を解除しようとしても、それを補うように人間の内なる倫理が湧きだしてくるという逆説。19世紀ミステリーは、近代人の苦悩を哲学的嗅覚で鋭敏に感じとっていた。宗教倫理の影響力が小さい日本社会にとっても無関係な話ではない。
 
 近代と言えば、著者は、理工科大学校を志したこともあるほど科学技術に関心があり、この作品にも当時の未来技術をもち込んでいる。死体遺棄現場の「赤い橋」は、橋床を鉄の鎖で吊ったものということになっているが、当時は存在しなかった。訳注によれば、同種のものがパリに現れたのは12年後、造ったのはギュスターヴ・エッフェルだったという。近代人を鉄の時代の予感のなかに置いてみせた、ということだろう。
 
 翻って、2Hを思い起こしてみよう。ほとんどのドラマで、犯人の告白から倫理をめぐる思考は感じとれない。刑事や検事や俄か探偵も「どんな理由があっても人を殺めてはいけない」と諭すばかりで、なぜいけないかを裏打ちする論理は素通りだ。だが、2Hドラマとはそういうものだ。記号によって無毒化された液晶画面の虚構世界を今夜もまた、ゆったり眺めるとしよう。
 
写真》新聞テレビ欄の2時間ミステリー。民放各局持ちまわりのように曜日違いで午後9時台にある=尾関章
(通算215回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
2Hはミステリーに限るか、というのはグッドクエスチョンですね。理論的には、いろいろありうる。ただ民放夜の2時間ドラマは、やっぱりまったり系ミステリーがもっともふさわしい、と僕は思っています。それは、番組で流れるコマーシャルを見ているとわかる。高齢者マーケットを意識したものが目立つ。膨らみ続ける高齢世代は、そういうやすらぎを求めているんだと思います。2Hは、発信する側だけでなく受信する側も含めて成立する文化だというのが僕の見方です。
  • by 尾関章
  • 2014/06/09 10:53 AM
尾関さん、こんにちは!Can I ask you? 2Hというのは、ミステリーしかやってないんでしたっけ?もしくは2時間もののミステーリードラマを2H、というのですか? 他のミステリードラマには興味がないのでしょうか?例えばテレビ朝日の「相棒」シリーズとか。ま、杉下右京さんが断崖絶壁で謎ときをしている姿は・・・なんだか、別の意味でお笑い風に思えて、おかしいでしょうけれど、そんなシーンはまずはありませんから「相棒」は、いわゆる2Hというのではないとは思われますが。あと2Hの(2Hと言わないのかもしれませんが)ふつうのドラマ、例えば「恋愛もの」「コメディ」「ホームドラマ」「ビジネスマンもの」など、ミステリー以外は(つまりラストの断崖絶壁シーンが出てこないふつうのドラマ)よろしくないのでしょうか?他にもいろいろありますよね。昔に劇場公開した洋画や邦画とか?イイ映画沢山ありますがご覧にならないのですか・・・?いわゆる名画などはお嫌いですか?前からおたずねしようかと思ってたのです。すみません。
  • by コーセイ
  • 2014/06/09 12:31 AM
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