『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』

(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)

写真》廃炉(朝日新聞2016年12月21日夕刊、翌22日朝刊)

 もんじゅの廃炉を政府が決めた。福井県敦賀市の半島部にある高速増殖原型炉。原発使用済み燃料から得られるプルトニウムを核分裂させ、消費分よりも多いプルトニウムを生みだそうという原子炉だ。資源小国の夢を叶えると言われた核燃料サイクル路線の象徴。1994年、連鎖反応が安定して続く臨界に達したが、翌95年に冷却材のナトリウムが漏れる事故を起こした。運転日数は20年余でわずか250日にしかならない。

 

 この実績をみれば、だれもが廃炉に納得するように思われる。まして3・11の原発事故で原子力の災厄が人々の暮らしを台無しにする現実をまざまざと見せつけられているのだから、なおさらだ。原子力エネルギーに執着する政権もそんな空気を察知したのだろう。

 

 ところが、この決定を不快に思う人がいた。福井県知事だ。廃炉に向かう動きが進むと「現状では受け入れがたい」と牽制し、結論が出た日にも「地元は国策に協力してきた」「唐突な方針決定に地元は大きな不信感がある」と反発した(朝日新聞2016年12月21日夕刊)。たしかに、突然梯子を外されたという構図はある。だが、事故があったときにもっとも深刻な打撃を受けるのは地元だ。報道を聞いて耳を疑った人も少なくないだろう。

 

 ただ、僕には違和感があまりなかった。それは、福井県の同時代史をふつうの県外人よりはよく知っているからだ。1977年、新聞社に入って最初の4年間を福井支局の記者として過ごした。事件事故や町の話題、経済分野を主に取材したが、それでも原発と無縁だったわけではない。とくに反原発運動に携わる人々の話を聴く機会は多かった。その苦闘を通じて、地元に原発志向のベクトルがどれほど強いかが身に染みてわかったのである。

 

 当時、福井県は県全体としてすでに原発受け入れに動きだしていた。たとえば県庁には原子力安全対策課という部署があり、高学歴の理系人材を集めて原発のトラブルに目を光らせていた(当欄の前身コラム、文理悠々2010年11月19日付「アトムとの向き合い方」)。これは、原発立地県が県民を守るために整えた体制としては全国に誇るものだったが、別の言い方をすれば県の未来は原子力とともにある、と腹を決めたことを意味する。

 

 僕は、原発が集中する県南部の嶺南地域に時折出かけた。そこで受けた印象も、人々の暮らしが原発を織り込み済みにしている、ということだった。原発のおかげで集落に舗装道路がつながった、身近な人が施設内の食堂や売店で働かせてもらっている……住人がそんなふうに感じる現実が進行していた。県内の原子炉は僕が福井にいる間で6基から9基にふえた。その後も増設が続き、最盛期には10基を超える密集地になったのである。

 

 で、今週の一冊は『神の火はいま――原発先進地・福井の30年』(中日新聞福井支社・日刊県民福井編、中日新聞社)。中日新聞の福井県版と中日新聞社が発行元となっている日刊県民福井が、2000年に紙面化した連載記事をもとにしている。

 

 福井県の対原発意識を知るという意味では、ほんとうは古巣新聞社の後輩支局員が書いたものをとりあげたかった。だが、それをやめてこれを選んだのには理由がある。2000年のタイミングに惹かれたのだ。3・11後の執筆では、あの大事故を見てから身につけた後知恵が影響してしまう。そうかと言って昔過ぎては、もんじゅナトリウム漏れ事故などの体験が反映されない。この本は、最適の断面を切りだしていることになる。

 

 業界人としての興味もあった。中日新聞社発行の東京新聞は今や、原発に筆鋒鋭いメディアの筆頭格だ。一方の日刊県民福井は、前身の日刊福井が1977年、地元ゆかりのゼネコン、熊谷組を後ろ盾に発刊されたという前史がある。そのころ、熊谷組元社長の熊谷太三郎さんは自民党の参議院議員で、発刊直後には科学技術庁長官に就いた。逆方向のベクトルが潜在していそうなメディアが2000年当時、どんな位置取りをしたかを知りたかった。

 

 原発立地で地域社会がどう変わったかがわかるのは「半島のくらし」という章だ。日本原子力発電の敦賀発電所がある敦賀市浦底からの報告を見てみよう。敦賀半島の集落で、戸数は記事連載時で16戸。国が敦賀1号機の設置を許可した1966年、半島の先までの県道が整った。「原発が来るまで、敦賀市中心部から浦底に通じていたのは軽自動車がやっと通れるくらいの未舗装道路だけ」で舟運が頼りだったから、生活は大きく様変わりした。

 

 集落はもともと半農半漁だったが、連載時点では全戸数の約半分が民宿を営んでいた。発電所で2号機が建設された前後にふえたという。滞在型の宿泊需要として「原発関連業者の利用」が見込めたのだ。住人は原発立地で土地や漁業権を失い、代わりに補償金を手にした。民宿女将の一人が前の世代から聞いた話を打ち明ける。「うちも部屋とか屋根の改修なんかにそうしたお金を使ったようやね」。設備投資の資本力を補ったのも原発立地だった。

 

 仕出し業に進出した民宿もある。発電所では定期検査の繁忙期、ふだんの倍を超える2000人余が働く。社員食堂はあるが、弁当需要も高まる。そこにいくつかの業者が参入していた。この本に出てくる1軒では、定検時に「アルバイトを増員」したり、夕食夜食の対応で「睡眠時間が2、3時間」になったりする。ちなみに、経営者の息子さんは「日本原子力発電の社員」。浦底の住人にも「原発関連の会社に勤めるサラリーマン」がふえていた。

 

 原発が、辺地を都会に結びつけて起業の種を撒き、雇用を生んで就業構造をすっかり変えてしまった。これがこの半世紀、原発を受け入れた地域社会で起こったことだ。福井県の嶺南地域には、そんな集落が海岸伝いに数珠のように連なっているのである。

 

 この本は、原発が地元の都市部にもたらした変化も照らしだす。敦賀市には、クラシック音楽に適した大ホールのある市民文化センターや福祉総合センター、総合運動公園などが揃っている。それを支えるのは、原子力施設の固定資産税などで潤う市の財源だ。ハコモノだけではない。電力会社が文化センターで著名音楽家の演奏会を無料で開いてきたという。その結果、皮肉なことに市民団体主催の演奏会の客が減った。本末転倒の感がある。

 

 読んでいて切なくなるのは、福井県にはすでに半生を原発に捧げてきた人が大勢いることだ。ある県内人は68年、工業高校を出て日本原子力発電に入った。没頭したのは、発電用タービンの振動を抑えること。「そのうち、タービンの覆いに触れたときの振動やタービンの回る音で、調子を見分けることができるようになった」。取材を受けた時点では東京勤務だが、「現場で感じ取るタービンの響き」を後継世代に伝えたいという気持ちでいる。

 

 県外から福井の原発にやってきた人も多く登場する。その一人は兵庫県の工業高校出身者で、関西電力に入社後しばらくして建設中の美浜原発にやって来た。最初に手がけたのは、運転手順の文書づくりだ。米国メーカーの炉。英文を訳し、火力発電所用の手順書を参考にしながら「後輩が『迷わんように』と考えて作った」。まさに原発草創期の大仕事。その背中を見て育ったからだろうか、「長男はいま原子力業界で技術者として働いている」。

 

 もう一つ、特記したいのは広報部門の第一線にいる人々の言葉だ。「正確にありのままの情報を提供しないと福井県での原子力はない」(関西電力)、「すべて公開すべきだった」(旧動力炉・核燃料開発事業団)。後者は、もんじゅナトリウム漏れ事故時に組織内でビデオ隠しがあったのを振り返っての述懐だ。真摯な思いは伝わってくる。だが、透明性を高めさえすれば原子力を是とすべきなのか。この問いを封印した社会がここにはある。

 

 この本は、原子力史をとことん地元の目で綴っている。率直に言って原子力そのものに対する批判は乏しいと感じるが、そこには別次元の教訓がある。大都市には3・11後に原発を嫌いになった人が大勢いるが、地元の人はそう簡単に心変わりできないということだ。

 

 原発をなくしたい。だがそれは、大都市に住む僕たちが勝手に決める話ではない。心苦しいが、既設地帯の人々に自らの意思で社会の再設計に踏みだしてほしいと頼むほかない。

(執筆撮影・尾関章、通算351回)

 

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