『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)

写真》六つの個性、一つの群れ

 1月20日は米大統領就任式の日である。4年ごとに巡ってくる行事だが、今回ほど胸騒ぎがすることはない。これは、あの人の政策がどうこうという話ではない。これからしばらく、見たこともない不釣り合いを見せつけられそうなことが怖いのだ。

 

 過去の大統領を思いだす。ドワイト・アイゼンハワーの記憶はおぼろだが、幼心にも「えらい人」とわかった。ジョン・F・ケネディは、とにかく若くて格好がよかった。リンドン・ジョンソンはベトナム戦争を、リチャード・ニクソンはウォーターゲート事件を思い起こさせるので印象はあまりよくないが、それでもそれぞれ重みがあった。後続の7人も保守リベラルの違いを問わず、首座の人にふさわしい平衡感覚はもちあわせていたように思う。

 

 では、あの人はどうか。人には隠された一面があり、職位についてからそれらしさが出るということもあるだろう。だが、有権者が今回の大統領選挙で票を投じるときに判断材料とした言動をみる限り、平衡を感じさせる因子が著しく欠如していたのは間違いない。

 

 当欄は、チェコの作家カレル・チャペックが米国に将来とんでもない政治体制が生まれるだろうと予想していたことを1年前に書いた(2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。1930年に世に出た空想記事で、『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(カレル・チャペック著、飯島周編訳、平凡社ライブラリー)に収められている。ギャングの頭目が最高権力を手にして、極端な排他政策を指揮するというのである。

 

 ただ、この話ではギャング自身が大統領に就くわけではない。米国では二大政党制ですら暴力に支配されるだろうとの見立てに沿って、陰の実力者としてホワイトハウスを操るだけだ。だから、チャペックが現在の米国社会のどこを突いているかと言えば、排他主義の強まりや銃規制の緩さだ。彼はロボットの台頭を芝居にしてみせた人だが、世界に冠たる民主主義国で極端な人物が正当な手続きで最高権力者になるとまでは思わなかったのだ。

 

  選挙は民主主義の礎と言われている。有権者に投票してもらえば、それぞれの思いを積分したものを見極められる、という理屈だ。ただ、一つ条件がある。この過程で一人ひとりの考えが歪められないことだ。ところが最近は、有権者が大小メディアの喧騒に影響を受け、自分自身の熟考にもとづく選択をしにくくなっているように感じる。その結果、投票箱を開くと本来の積分値とは別物のなにかが立ち現れてくるのではないだろうか。

 

 で、今週は『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳、講談社学術文庫)。著者(1841〜1931)はフランスの知識人。理系文系の諸学に手を染めたが、社会心理学者と言われることが多い。この本の刊行は1895年。120年余も前に今日的な表題がつけられたことに驚くが、考えてみれば当時のフランスは激動のさなかにあった。1789年の大革命以来繰り返された革命や内乱。群衆が歴史の表舞台に躍り出る時代だった。

 

 19世紀の論考なので弱点もある。社会科学は20世紀に入って科学らしさを高めていったが、この本はそれに乏しい。実験や統計に足場を求めず、社会観察や史実分析をもとに著者の洞察が披歴される。そのせいか、そこに展開される理論には批判もあるようだ。

 

 ただ本を開くと、「群衆の一般的特徴」という章で思わずうなずきたくなる一節に出会う。「人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える」「意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」

 

 だから、群衆はたった6人でも成り立ち得るし、何百人いても条件を満たさない場合があるという。この訳が「群衆」を「群集」としないでいる理由の一つは、そこにあるのかもしれない。ここで見落とせないのは、「離ればなれになっている数千の個人」も「ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある」としていることだ。ネットの炎上を目の当たりにすると、この見解は今日ますます的を射ているように思われる。

 

 この本には、いくつかキーワードが出てくる。たとえば「暗示」と「感染」。著者によれば、群衆は催眠術のように暗示にかけられる。その暗示は、群衆の内部で感染を繰り返して増幅される。そこにあるのは「意識的個性の消滅」と「無意識的個性の優勢」。暗示と感染が感情や観念の向きを一つに揃えて行動を促す。その結果、一人ひとりは「もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる」という。

 

 このことで著者が書き添えている指摘を二つ挙げておこう。一つは、群衆の想像力が事実を「変形」させるとしていることだ。「極めて単純な事件でも、群衆の眼にふれると、たちまち歪められてしまう」。もう一つは、そのようにして「集団的錯覚」が生まれるのは群衆のメンバーがたとえ教養人であっても変わらない、と断じていることだ。これも、近年のメディアの混迷やその怖さを予言するような卓見ではないか。

 

 「心象的思想(イデ・イマージュ)」という言葉にも遭遇する。群衆が暗示にかかる思想は「極めて単純な形式」の心象として現れる。だから「類似または連関のような論理的な関係」がなく、「矛盾した思想が相ついで生ずる」ことがある――。この記述で連想されるのも近年の世相だ。ツイッターのような短文投稿サイトの広まり、そしてワンフレーズ・ポリティクス。その根っこは新聞雑誌くらいしかメディアがない19世紀にもあったのだ。

 

 ここまで読んで感じるのは、昨年来見せつけられている想定外の事象の多くでは群衆心理が駆動力として働いたのではないか、ということだ。その作用は、著者の見解ではたった6人でも表れるというのだから人間社会が太古から経験してきた現象なのだろう。ただ、近現代になるとメディアが拍車をかけた。とりわけ最近はインターネットやソーシャルメディアが日常生活に浸透したことで、驚くべきパワーを手にしたように思う。

 

 なかでももっとも強烈だったのは、EU(欧州連合)離脱を問うた英国の国民投票と本稿冒頭で触れた米国の大統領選だ。両者の結果については「人々が第2次大戦後、これこそが人間社会の進化だと考えてきた方向性をいともあっさり一蹴してしまった」と当欄に書いた(2016年12月16日付「ひどい年」を清張の時代と対比する」)。時代精神を群衆心理が駆逐したのだ。それがどうして起こったのかを示唆する論述も、この本にはある。

 

 それは、群衆が幻想に惑わされないための方策を考察したくだり。著者は「群衆の精神に真実を確立し、あまりにも危険になりすぎた幻想を打破するために、有効な、ほとんど唯一の方法」は「経験」だという。経験知のみが誤りを防げるのか。ただ、そこには但し書きがある。「一世代(ジェネラシオン)によってなされた経験は、次の世代にとっては、おおむね無用」。戦時戦後の体験を語り継ぐのが難しい理由は、ここにもあるのだろう。

 

 この本は裁判の陪審員も群衆ととらえ、その制度を論じている。裁判員裁判が始まってまもない日本社会にとっては、これも参考になる。著者は、この制度が「法律の条文しか知らない裁判官」の「職掌柄の冷酷さ」を緩和するとみて、寛容な評決を期待する。ただ、それが今も通じるかどうかは疑わしいと僕は思う。「個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」という傾向は、メディアの増幅作用で不当な厳罰につながる恐れもあるからだ。

 

 議会についても著者は書く。議員集団は「ある瞬間に群衆となる」という。そんな立法府が陥りやすい「危険」の一つとされるのは財政支出が膨らむこと、もう一つは人々の自由を縛る法律をやたらにつくりたがることだ。後者については「議会は、その単純極まる精神から、それらの法律の結果を見誤り、しかもそれらを採決する義務があると自ら信じている」と見抜く。同感だ。現代社会に閉塞感をもたらしている元凶の一つがそこにある。

 

 僕たちも、ふだんは「意識的個性」として生きているのに「ある瞬間」に「無意識的個性」の大波にのみ込まれてしまう。だが肝心かなめの決断では「意識的個性」を取り戻さなくてはなるまい。恐るべし、ル・ボン。この本は、100年の隔たりを超えてなお新鮮だ。

(執筆撮影・尾関章、通算352回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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