『Q&A』(恩田陸著、幻冬舎文庫)

写真》問いと答え

 気の早い話だが、「オルタナティブ・ファクツ(alternative facts)」が今年の流行語大賞を獲るかもしれない。「代替(もう一つ)の事実」だ。米国大統領にドナルド・トランプ氏が就いたとたんに広まった。就任式の盛りあがりを示す人の集まりをめぐって、メディアは前任大統領のときなどと比べて少ないと報じた。写真を見れば明らかなように思える。ところがトランプ側は、それに噛みついて自陣営の主張を「代替の事実」だとした。

 

 これで僕たちの世代が思いだすのは、ひと昔前のデモや集会の参加者数だ。発表される数字が主催者と警察で大幅に食い違っていた。主催者が2万人と言っているときに警察が1万8000人ならいいほうだ。主催者が1万人なのに警察は6000人というような大差もあったと思う。僕自身、40年ほど前に駆けだしの新聞記者としてこの種の催しを取材していて、いつも当惑した。人数にはどちらの発表かを明記することが原則必須だった。

 

 あのころは、主催者が多めに言う、警察は少なめに抑える、という性向を世の中も受けいれていた。運動を企てる側は、民衆が大勢集まったことをもってよしとする。ところが、治安を担う側は民衆があまり集まらないことに秩序の安定をみる。だから、主催者が頭数を知らず知らずに二度数えしていても不思議はないし、警察は人影が重なって見えない人までは数えていないかもしれない。世間もそんなふうに受けとめていたのである。

 

 そう言えば、似たようなことはスポーツでもあった。少年時代に野球が好きになったころ、僕は捕手という守備位置にあこがれ、キャッチボールのときもよくしゃがんで球を受けたものだ。そんなとき、たまたま相手をしてくれた青年から教わったことがある。球を捕ったらミットを体の真ん前へずらせ、という鉄則だ。それからは、言われた通りにミット――と言っても実際はグローブだったが――をストライクゾーンに動かすようになった。

 

 昔はなにごとにも曖昧さがつきまとったのである。だから、人数推計の「多めに」「少なめに」が通用した。スポーツでも審判の目を惑わすことが技量のうちだった。ところが今は、画像や映像、電磁記録が物事を厳密に判定する。今回の就任式報道では、地下鉄駅の乗車データまでが引きあいに出されたようだ(朝日新聞朝刊2017年2月11日「Media Times」)。だから、事実は一つであるとして「代替の事実」論に猛反発が起こった。

 

 ただ――と、へそ曲がりの僕は思う。事実はほんとうに一つなのか。事実は確定したときに一つになる。それは間違いない。だが厄介なことに、一つに定まるまでは複数の候補が並び立って雲のようにもやもやしている。それらを代替事実群と呼んでよいのかもしれない。世の中のニュースを頭に浮かべてみると、雲状態にあるもののほうが多いように思う。代替事実群を前にしてどう生きるか。そんな問いが今、突きつけられているのでないか。

 

 で、今週は長編小説『Q&A』(恩田陸著、幻冬舎文庫)。著者は1964年生まれ、ついこのあいだ2016年下半期の直木賞受賞が決まったばかりだ。この作品は、04年に単行本が出て07年に文庫化された。全編から21世紀初頭の空気が強く感じとれる。

 

 本を手にしてまず気になるのは、その題名だ。これはふつうに“question”と“answer”のことらしい。最初から最後まで一問一答の形式で書かれた作品である。ただ、問う人と答える人は固定されていない。「章」と呼んでもよい小部分ごとに交代していく。問答をする二人の名前や横顔が地の文で明かされることはなく、ト書きも事物描写もない。言葉のやりとりだけでこれだけの作品世界をつくりあげたということに、僕はまず圧倒される。

 

 この作品の読み物としての主題は、大惨事の顛末だ。それは巧妙に描きだされる。一問一答のやりとりは、はじめのほうでは文字通りのQ&Aだ。一方がもう一方を問いただしている印象がある。ところが章が進むうちにQ&A色が薄れてふつうの会話のようになり、どことなくなごんだ雰囲気さえ出てくる。この変化が一つの効果をもたらしている。前段は直接の関係者の証言、後段は間接の関係者の解釈として読めるのである。

 

 では、それはどんな惨事か。冒頭の章でAの役回りにある「東都日報」社会部記者が明かした取材結果によれば、あらましはこうだ。連休最終日の昼下がり、東京郊外のショッピングセンターで非常ベルが鳴り、避難を促す館内放送も流れた。地上6階地下1階、大きなスーパーが入った建物だ。買い物客は階段やエスカレーターや出入り口に殺到、「あちこちで人波に強い圧力が加わる」事態となって69人が死亡、116人がけがをした。

 

 これには、型通りの解釈も用意されている。後段の章のQ&Aで、Qが巷間流布される読み解きをもちだして「集団パニックだって。何かの引き金が偶然重なって、それがみんなに伝染したんだって」と言えば、Aが「僕は、最初、サイバーテロかなと思った」と応じる。大型店はコンピューターに管理されている。エスカレーターが急加速急停止しても、空調が働かなくなっても一大事だ。「どこか一箇所システムが壊れれば、惨事は起き得る」

 

 上記2章で、すべてが言い尽されているようにも見える。だがそれは、一線記者が通りいっぺんの報道をして識者が利いた風の解説をするというメディアの予定調和に等しい。だが、事件や事故の実相はそんなにすっきりしていない。その場に居合わせた人の話を紡いでいくと、その人にしか見えない事実の証言がたくさんある。そこには思いもよらない物事の展開も隠されている。それを想像力で汲みあげたところが、著者のすごいところだ。

 

 4階婦人服売り場にいた41歳女性客。「おかしな夫婦がいたんですよ」。この店に場違いなほど上品な高齢男女だ。その女が不意に万引きを始める。店員が声をかけると、男が口を開く。「悔い改めなさい。我々は、あなたがたに許す機会を与えてあげているのです」。困惑する店員、興味津々の客たち。「その瞬間ですよ、ベルが鳴ったのは」。男はポケットのなにかに手をやった。「銀色の金属に見えました」。そして、みんなが一目散に逃げたという。

 

 71歳男性客は階段から1階の売り場を見下ろしたとき、あやしげな男に気づいた。その周りだけ人がいない。「で、いきなりその男が手に持っていた紙袋を床に投げたんだ」「ペしゃっ、という音がして」「液体が入っているという印象を受けたね」。男が足で袋を潰すと、客たちが顔を覆って階段に押し寄せたという。男性客は自分も刺激臭と目の痛みを感じたと主張するが、液体は犬の尿だったらしいとQ&AのQが明かす。

 

 これらの証言からわかるのは、別の階では別のパニックがあったということだ。万引き発覚後の逆切れと紙袋の「ぺしゃっ」。ともに異様な光景であり、通り魔事件や化学テロを連想させる。人々が恐怖に陥れられても不思議はない。それらの相乗効果が大惨事を招いたらしいが、では逆切れと「ぺしゃ」はたまたま同時に起こったのか、それともどこかにつながりがあるのか。人々の話を聞けば聞くほど、聞きたいことはさらにふえていく。

 

 Q&AのAには、今の世相を反映して監視カメラの録画を見た人の証言も出てくる。「無人になった店の中で、小さな子がちょろちょろ歩き回っていました」「何かをひきずっていたんです」「なんだろう。赤っぽくて、だらりとした」。後段では、この子の母親もAで登場する。彼女によれば、ひきずっていたのは娘のぬいぐるみで、そこに誰のものかわからない血がついていたという。女の子はけが一つなく生還して、メディアにもとりあげられる。

 

 作品の筋は、この子を狂言回しに繰り広げられる。そこには、犠牲者の家族たちが心の拠りどころとなる「隠れ家」をつくる、という話が出てくる。ところが、この活動の裏には主宰者が企てる利殖商法があり、隠れ家に集まる家族たちが次々に勧誘されているらしい、という疑惑も暴露されていく。悲しみにうちひしがれた人々が互いに支えあうという美談の陰にも欲得が渦巻いている――作者は、そんな事実の二面性も切りだしていく。

 

 最近は、事件事故の情報が大手メディアの報道だけでなく、つぶやきや映像の投稿としても拡散される。断片を見て判断すれば見誤る。片面を知って納得すればだまされる。僕たちは、本当か嘘かわからない代替事実群に囲まれている。そう覚悟しておいたほうがいい。

(執筆撮影・尾関章、通算357回、2020年8月17日更新)

 

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