『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)

写真》梅の空気

 2月末に熱海へ出かけた。丘陵部の梅園に足を運ぶと、盛りはとうに過ぎていたが、それでも小ぶりの白や赤やピンクの花があちこちの枝に点在していた。空気はまだ冷たいのに、日差しはもう暖かい。早春の移ろいを巧く演出してくれる湯の町だとつくづく思う。

 

 箱根と熱海。これは、東京育ちの人間にとって定番温泉郷の双璧である。足を延ばせば、北関東にも甲信越にも名湯、秘湯の地は多い。だが、この2カ所には、それよりもずっと近いという地の利がある。新幹線に乗らなくても2時間ほどでたどり着ける。これは、週休二日になる前の勤め人には大いに意味があった。半ドンの土曜日、仕事を済ませてから列車にとび乗れば、宿に着いて夕食前にひと風呂浴びることもできたのである。

 

 もちろん最近は、都内にも深掘り井戸で汲みあげたスパ施設がある。町の銭湯で全身を伸ばしても、家風呂に入浴剤を入れることでも、「いい湯だな」の気分は味わえる。だが、これらは箱根や熱海の代役を果たせない。なぜなら、温泉の楽しみは湯に浸かることだけで完結しないからだ。海の幸山の幸の食もある。町のぶらぶら歩きもある。そしてなにより行き帰りの行程が重要な要素だ。あの2カ所は、それが片道で「2時間ほど」の適量だった。

 

 今回の熱海行きは新幹線を使わなかったので、昔と同じ2時間コースだ。東海道在来線は今、昔と違って通勤電車風の長椅子シートがふえている。往路、そこに座った時点では日常を脱していない。だが、車窓に海が広がりだすと旅情モードのスイッチが入った。

 

 箱根と熱海。ここまでは並べて書いてきたが、両者は実は好対照だ。まず、箱根は山に囲まれているが、熱海は海に面しているという自然の違いがある。そして、箱根は軽井沢に似て洋風の趣があるが、熱海は梅園にしても貫一お宮にしてもどこまでも和風の佇まいだ。箱根は子どもが林間学校で訪れたりして教育の場ともなっているが、熱海は大人の遊興地という印象が強い。ニュアンスを比べれば聖対俗、理対情という感じだろうか。

 

 いま熱海市観光協会の公式サイトを開くと、その魅力として「温泉」「グルメ」「お土産・特産品」「花と自然」「イベント」「歴史」の六つが挙げられている。これらは、いかにも今風の観光資源だ。ただ、モデルコースの一つには「熱海の美めぐり 芸妓さんに会おう!」もある。「全国2800人の芸者のうち1割を占める」「全国でも屈指の芸者街」なのだという。この統計の精度は吟味できないが、熱海は間違いなく大人の町と言えよう。

 

 で、今週の1冊は『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)。著者(1948〜2010)は1970年代前半に劇作家として本格デビュー、初期の代表作が「熱海殺人事件」だった。それを小説化したのが、この本だ。76年に文庫書き下ろしで世に出た。

 

 この作品は、熱海の海岸で若い女性が殺されたという事件の取り調べを戯画化している。被害者も容疑者も工場労働者。作中では「女工」「工員」「職工」などの言葉が用いられる。二人は地方出身、隣の村で育ったらしい。2次産業が農村から若者を吸い寄せていたころである。コンビニや外食チェーン、宅配といった3次産業はまだ市場を席巻していない。著者が意図したことではないだろうが、今になってみれば高度成長の総括としても読める。

 

 熱海はあの時代、人々の目にどう映っていたのか。それは、刑事たちの言葉の端々から察することができる。「落ちぶれ果ててゆく温泉場」「もはや海としてのサムシングエルスがありません」。たしかに当時は、そんな印象があったように思う。「中小企業の社長がバーのホステスを連れて一泊旅行に行くところ」「農協が団体旅行に来るとこだぞ」といった決めつけも出てくる。ひとことで言えば、オジサン臭さが充満した印象があったのだろう。

 

 そのオジサン臭さは捜査側の中心人物、木村伝兵衛部長刑事も発散する。そばをすする場面はこうだ。「割りバシをパチンと割り、おもむろに薬味とワサビをつゆに入れ」「ズルズルいわせては口いっぱいにほおばり、クックッといってはつゆをガブリと飲み」「空になった椀(わん)にお茶をついで、ガラガラとうがいをしたり、クチュクチュと口の中を洗ったり」と騒がしい。そして職場で「スイングのまね」もする。今風に言えばエアゴルフだ。

 

 人物も舞台も、1970年代前半の日本社会をあぶり出すのにもってこいのスウィートスポットに設定されている。では、そこにどんな作品世界をつくりあげたのか。ここで、著者の劇作家としての本領が発揮される。奇想天外な筋立てとドタバタの味付けだ。

 

 ハチャメチャという形容動詞がある。あまり好きな言葉ではないが、メチャメチャより激しい語感がある。この作品はハチャメチャのオンパレードだ。たとえば、伝兵衛が警視庁の刑事であること。そもそも、殺人は熱海で起こったのだから静岡県警が扱う事案のはずだが、警視庁捜査一課が容疑者を調べる。他府県警のヤマを奪わないという鉄則はテレビの2時間ドラマ(2H)ですら意識しているのに、著者はそれをいともあっさり破ってしまう。

 

 若手刑事が富山県警から警視庁に転任してきたというのも、あまりあることではない。警察官は、ふつうは警視庁や道府県警本部ごとの人事で異動する。もちろん、いわゆるエリート警察官は若くして全国を渡り歩いて出世していくのだが、この若手はそのようには見えない――。だが、著者にとって官僚の常識はどうでもよいのだろう。これは、日本の世相を某国に載せた話。そこに警視庁や静岡県警や富山県警という名の組織があるだけだ。

 

 ハチャメチャぶりは、取調室がミュージカルの舞台に一変する演出にも見てとれる。若手刑事の熊田留吉が先述のように「サムシングエルスが……」と言うと、伝兵衛は靴で床を叩いて「サムシン、サムシン、ボンボンボン」と歌いだす。女性警官の安田ハナ子も「サムシン、サムシン、シャバダバダバ」とスキャットとタップに乗ってくる。「そのときハナ子の帽子が落ち、豊かな黒髪が肩にかかり、かぐわしい匂(にお)いをまき散らした」

 

 照明効果もある。伝兵衛が「スポット!」と言えば「電球が消え、捜査室は一瞬にして闇(やみ)になった。そしてスポットライトが容疑者の胸から上を照らしだした」。音響効果もある。「留吉の耳に『カシャッ』というカセットレコーダーのスイッチの音が聞こえ、と同時に波の音と海水浴に戯れる人々の声が聞こえた」。本来なら小説になじまないはずのつくりものを敢えてはめ込むことで、強烈な映像を読み手の脳裏に構築するのだ。

 

 この作品は、市井の人々が夢想する世界を笑いのめしていると言ってもよい。夢想を代弁するのが伝兵衛だ。万一、警察が容疑者の自供を歪めることがあるとしても被疑事実が本当らしく見えるようにするだろうと思われるが、ここでは違う。伝兵衛には自らの審美眼に適う出来事のイメージがあって、熱海の事件をそれに合わせようとする。その情熱に留吉もハナ子も引き込まれ、容疑者本人までほだされてしまう。そこに、おもしろさがある。

 

 その美学を象徴するキーワードが「海が見たい」だ。伝兵衛は海辺に行くのに水着を持参しなかった理由を容疑者に問うて、「海が……」のひと言を被害者が口にしたという供述を得る。このときの伝兵衛の喜びようは半端ではない。「ハナちゃん、お車呼んでさしあげて。あとは言わなくてもいい」「そう、『海が見たい』と言ったの? いやあ、まいったまいった」。こうして、容疑者の芝居がかった独白を挟みながら歌謡曲風の妄想が膨らんでいく。

 

 だが、妄想はうわ滑りすることもある。男が「お酒飲もうか」と言うと、女は「肩をすぼめる」。そこで男は「原宿の小ぎれいなスナックに彼女を誘う」――そんな筋でまとめようとすると、容疑者は新宿の喫茶店で紅茶を飲んだだけだと言い張る。留吉は「おまえ『海が見たいな』、そんな言葉を喫茶店で吐けるわけねえだろうが」とブチ切れる。スナックがおしゃれに見えた時代の痕跡がそこにはある。それにしてもチープな美学ではないか。

 

 いま熱海の町を歩くと、文豪たちが愛した宿が観光名所となって開放され、香り高い文化を発信している。一方で路地裏をのぞくと、スナックの古びた看板がそこここにあった。時代と半周ずれた位相。それを残していることが、この町の魅力なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算358回)

 

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