『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)

写真》ニット帽だぜ!

 春の訪れとともにムッシュが逝った。ムッシュかまやつ、即ち、かまやつひろしさん。1960年代以降、日本のポップス界を陰に陽に支えたミュージシャンだ。グループサウンズのザ・スパイダースでは兄貴分格のメンバーだった。センターはとらないが、そこにいないといけない人。これは、そのまま後半生につながる。自分自身はヒットを飛ばさなくても、ヒットを飛ばす後輩の後ろ盾となる。業界の精神的支柱だったのだと思う。

 

 かまやつ(以下、敬称略)は自らのアイデンティティーをどこに置いていたのか。そのことを巧く切りだした一文がある。昨夏の新聞記事だ(朝日新聞2016年8月27日朝刊「もういちど流行歌」、藤生京子記者)。「我が良き友よ」(作詞作曲・吉田拓郎)を歌うことになったとき、手ぬぐいや学生服や下駄や下宿が出てくる歌詞を見て「困惑を隠せなかった」という。「これオレが歌うの?」。それは、自分が生きてきた世界とあまりにも違った。

 

 かまやつのイメージは、おととし当欄が「『あなたとは世界が違う』という話」(2015年5月8日付)で描いた1970年前後の「イカシタ」若者と重なる。「戦前の上流階級とは違う。戦後の成金富裕層や高学歴エリートとも違う。いまどきのセレブでもない」。そんな一群が「進駐軍文化の名残のようなバタ臭さ」や「湘南文化に通じるお坊ちゃまお嬢様感」や「スパイスとしての適度の不良っぽさ」が混ざりあう文化を発信していた。

 

 ちなみに、その拙稿がとりあげた『安井かずみがいた時代』(島崎今日子著、集英社文庫)には、吉田拓郎がかまやつに誘われて安井邸で開かれたパーティーをのぞく、という場面がある。拓郎は、夜中に裸の男女がプールで泳ぐ様子に圧倒されて「これのためなんだよ、東京に出てきたのは」と思った、と率直に打ち明けている。あの時代に東京と東京以外の地方がどんな関係にあったかがうかがえる告白だ。その東京側に、かまやつがいた。

 

 ここで思いつくのは、戦後日本のポップス史の弁証法的展開だ。大都市には、進駐軍キャンプのクラブなどを通じて海外の風をじかに浴びているミュージシャンがいた。都会系の担い手だ。ところが高度成長末期になると、洋風文化は全国の若者に行き渡って独自の音楽活動を促す。「上京」後を題材とした四畳半フォークを含む地方系である。やがて、これら2系統が止揚されてニューミュージックが生まれ、Jポップにつながったのではないか。

 

 前者を代表するのが、かまやつや荒井由実(後に松任谷、愛称ユーミン)だ。後者には拓郎や井上陽水たちがいる。両者には、共通の壁として演歌主導の歌謡界があった。こう考えてみると、かまやつと拓郎のコラボは歴史的な意味を帯びてくる。

 

 で、今週の1冊は『ムッシュ!』(ムッシュかまやつ著、文春文庫)。2002年に日経BP社から単行本が出て、09年に加筆文庫化された自伝だが、カバーの惹句にある通り「日本の音楽、風俗、芸能クロニクル」でもある。知らなかった話がいっぱい出てくる。

 

 「イントロ」の章の冒頭は、松任谷由実の口ぐせだったという「ムッシュの骨は私が拾ってあげるからね」だ。それを受けて「一九七〇年代以降のぼくの音楽生活には、何かとユーミンが絡んでいる」とある。ユーミンは著者が「仲居頭」と呼ぶほどの仕切り上手で、1999年にムッシュ還暦を祝うパーティーを六本木で開いて150人を集めたという。加藤和彦、井上陽水、泉谷しげる、今井美樹……その顔ぶれからも精神的支柱ぶりがわかる。

 

 著者はパーティー開会前、「飯倉の『キャンティ』でひと休み」した。このイタリア料理店は「イカシタ」一群が屯する六本木文化の拠点だった。自らの軌跡を顧みるひとときとなったことだろう。後段の章では六本木の戦後史に光をあてた『東京アンダーワールド』(ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳)にも言及しており、この街への思いが伝わってくる(文理悠々2011年12月9日付「『ガイジン』がアメリカ人だった頃」参照)。

 

 最初に書いておきたいのは、著者のバタ臭さが筋金入りであるということだ。父ティーブ釜萢(かまやつ)は米国生まれの日系2世。恐慌下に来日してジャズミュージシャンとなり、日本人女性と結婚、「日本語がうまく話せない」のに日本兵として中国大陸に赴いた。著者は、米国文化に触れて育ったのだろう。スパイダースの欧州旅行では「片言の英語を話せるのがぼくだけだった」ので「楽器の手配から何から、すべてひとりでやった」という。

 

 音楽の洋風志向も筋金が入っている。「ぼくの周囲はみな洋楽以外は聴かず、ちょっと日本の歌を歌おうものなら思いきりダサいと決めつけられた」とある。ただ、その環境がすんなりと著者の音楽活動を開花させたわけではない。そこが、この本の読みどころだ。

 

 たとえば、著者は1958年にロカビリーブームが高まったころ、水原弘、井上ひろしとともに「三人ひろし」の名で括られる。ほかの二人は歌謡曲のヒットを飛ばしたのに「ぼくだけが売れずに取り残された」。歌謡曲は「あまりやりたくない」が本音だったが、60年にテイチクの専属となってカバーだけでなくオリジナルの曲も出す。その曲名は「裏町上等兵」「結婚してチョ」……。「どれもまったく売れなかった。よかったね」と自嘲する。

 

 テイチク時代の逸話はすごい。歌謡界の大御所が来社すると社内放送で集合の号令がかかる。「ぼくのような青二才は、レコーディングの途中でも、スタッフと一緒に玄関まで出迎えなくてはならない」。著者がなじんだ洋楽界にはない「タテ社会」ぶりだった。

 

 著者が立派なのは、自らその世界を抜けだしたことだ。1962年、所属プロがもち込んだハワイの仕事を引き受ける。帰国予定の日が過ぎても帰らず、勝手に米本土へ渡ってニューヨークに足を延ばす。「グリニッジ・ヴィレッジには、当時、実存主義者みたいな人たちが集まっていて、ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグとか、公民権運動の高まりから生まれたボブ・ディランのフォークなどが人気を集め、街じゅうが熱気にあふれていた」

 

 帰国後、レコード店でビートルズの米国盤「ミート・ザ・ビートルズ」を見つけ、ジャケット写真に驚く。「彼らのビジュアル、伝わってくる雰囲気、すべてひっくるめて、あのグリニッジ・ヴィレッジの空気と同じだった」。さっそく買い込んで聴くと、そこには米国の音楽の「乾いた響き」とは異なる「全体に紗がかかったような、ファンタジックな音」があった。「近未来が見えた」「次に来るもののフックを捕まえた」と感じたという。

 

 「こういうのやろうぜ」。そう声をかけた相手が田辺昭知だ。メンバーを集め、「100%彼らを真似しよう」と、歌と演奏合体型のグループを旗揚げする。ザ・スパイダースの誕生である。田辺はリーダー兼ドラム奏者。この本で知ったのは、彼が「もともとジャズ系」だったことだ。左のスティックを「てのひらを上に向け」「その上に置くようにして持つ」のはジャズ流だという。これを読んで、僕はスパイダースの秘密を知った気がした。

 

 あのころの日本で、エレキギターと言えばベンチャーズだった。ロックの8ビートでテケテケとやる。僕はその軽快感を心地よく感じながらも、技量を競う職人気質で終わっているような印象を拭えなかった。だが、スパイダースは違った。「ベンチャーズの曲を演奏しても昭ちゃんはつまらないらしく、曲の途中であきてくると、フォービートの強烈なオカズを入れて遊ぶ」。それが情感を生みだして、おしゃれな音をつくりだしていたのだ。

 

 納得するのは「カントリーが自分の本質にいちばん合っているのかもしれない」という著者の自己分析だ。カントリー&ウェスタンは、3コード中心のわかりやすい旋律に朗らかさや伸びやかさ、そして幾分の哀愁が漂う。そこには、脱力系の魅力がある。僕がムッシュらしいと思う「どうにかなるさ」や「喫茶店で聞いた会話」(ともに著者が作曲、作詞は山上路夫)もスパイダース解散後、「カントリー系のサウンドに戻りつつあった」頃の曲だ。

 

 実力は間違いなくA級なのに「つねにB級ミュージシャンでいたいという願望を、ぼくは持っている」。これがムッシュ流の脱力だ。その大らかさで、自分とは異世界の手ぬぐいや下駄履きにだって心を開く。だから友だちがいっぱいできて「どうにかなる」のだろう。

《おことわり》『安井かずみがいた時代』の著者名にある「崎」は、つくりの上部が正しくは「立」です。

(執筆撮影・尾関章、通算359回)

 

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コメント
《片岡義男さんのお父さんも日系二世》《そして、奇しくもムッシュと片岡義男さんは共に1939年生まれ》(虫さん)
ほんとうだ、大発見。日系2世の家庭環境が戦後、力まないで上昇志向とは無縁な脱力系の文化を生んだ。このことを今、はっきり認識しておくべきでしょうね。
  • by 尾関章
  • 2017/03/11 10:09 AM
尾関さん

ティーブ釜萢さんが日系二世だったとは知りませんでした。そういえば、貴ブログにときどき登場する片岡義男さんのお父さんも日系二世でしたね。
そして、奇しくもムッシュと片岡義男さんは共に1939年生まれ。興味ある符合です。
  • by 虫
  • 2017/03/10 3:54 PM
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